菜園便り276
9月11日

 朝食の準備をしているとちょっと奇妙な気がしてでもなんだかわからずに手を止めると、しんとしたなかにつくつくほうしが鳴いているのが聴こえてきた。半袖のTシャツに短い綿のズボンの、まだまだ夏の気分そのままだったから驚かされた。でも空気はべとつかないし、バタバタしているのに汗ばんでもいない。いつの間にか床の隙間から、秋はひっそりと入り込んでいたのだろう、夜はひんやりとして「風の音にぞ驚ろかれぬる」だ。そういえば降りそそぐようようだった蝉の声も聞こえない。耳のなかでなっているのはいつもの耳鳴りだから、あらためて毎朝の「クラリネット協奏曲」に耳を向ける。
 ぼんやりしているうちに、いつものことだけれど、2曲目の「オーボエ協奏曲」にかわっている。こういうのはちょっと困る。何かやりながら聴くぼくみたいなものには、2つの作品がまちがって、というかまぜこぜになって残ってしまう。正直に言うと「オーボエ協奏曲」はそんなに好きじゃない。「クラリネット協奏曲」を2度続けて聴きたい。そうすればもっとしっかり耳に残ってくれるだろうしつい口をついてでてきてくれたりするかもしれない。中途半端にあれこれ聴きなぐってもしょうがない、そうでなくても集中して聴けないのに。
 季節を選ぶ作品はたしかにあるのだろう。「クラリネット協奏曲」は朝という時は選ぶけれど、季節には関係なくいつも穏やかで甘くてそうしてきちんとしている、もちろんどこか哀しい。だからまだ心身共にぼんやりしている時にも、いろんな世界の困難を受けいれる準備のできていない朝にも静かに聴ける。軽やかで、さあさあと促されるところさえある。
 夏に聴きづらいのはシンフォニーだ。暑っくるしい、頭がますますついていけない、大きな構造がのしかかってきそうでうっとうしい、耳も心も閉じて拒んでしまう、大げさにいえばだけれど。
 今年も「音楽散歩」が10月の14日に開催される。玉乃井も会場提供していて、アイリッシュハープ(だったと思う)の演奏が予定されている。玄関横のホールと呼んでいる応接室(今はリ・ウーハンがかかっているから、「リ・ウーハンの間」とよんでもいいけれど)。今回は新しい試みで有料・限定数になるらしい。昨年は深町さんのリュート演奏だった。午前・午後と2回あって、午後の部は60人を超す人がみえて大慌てだった。無理して20人が限度、できれば10人くらいでゆったり聴けるといちばんいいのだろう。ぼくひとりで深町さんのリュートを聴くという贅沢をさせてもらったこともある。珈琲をのみながらしみじみと高雅な音を体のなかに巡らしていくのは心身の健康にもすごくいい。
 夕方になって枯れた夏野菜を片づけていると、頭と片方の羽1枚だけ残ったくまぜみが落ちていた。周りに蟻の姿はないから、頭は大きすぎると放棄されたのだろうか。そろそろぼくも冬眠の準備にかからなくては。

 

菜園便り277
10月30日 「大いなる幻影

 10月の玉乃井映画鑑賞会はルノアール監督の「大いなる幻影」だった。第1次大戦中、ドイツ軍の捕虜になったフランス人将校(ジャン・ギャバンやピエール・フレネー)の収容所脱出劇。戦争なのにそんなに悲惨でないし、甘いなあとかんじたり、牧歌的な雰囲気だと言われたりすることが多い。でもそれはこの映画が時代や状況、人を丁寧に描いてないからではなくて、ぼくらの生きているこの時代こそがあまりにも過酷で、戦いと享楽に明け暮れているせいかもしれない。
 子供の頃、応仁の乱とかいった時代の歴史を聞かされて、なんて悲惨な時代だろう、そんなにも戦さが続いて、どうやってみんなしのいでいったのだろう、とても生きていけないなあ、と思ったりもした。でも今のこの時代の方がもっと戦争ばかりの、それも大型兵器を使っての徹底した殺戮戦といった、異様な世界なのだろう。後世の人は「歴史」としてきかされてその酷さに震えあがるかもしれない。
 映画の後半、収容された奥深い城砦から脱走するふたりを逃がすために、貴族のフランス人将校が塔のなかを逃げ回って追っ手を引きつける。
 「ボルデュー!ボルデュー!」
 城砦の主である隊長のラウフェンシュタインが追いつめて2度くり返す叫びは哀しい。収容されている敵国人捕虜への威嚇のことばは、でも親しい友へのせっぱ詰まった呼びかけにも似て、胸を打つ。それはまるで家族への呼びかけであり、幼気なものへの声であり、愛のことばである。そうしてあたかも彼こそが助けを求めているように、すがりつくかのように切々と冷たい大気のなかへ吐きだされて消える。
 くっきりとことばが浮きあがるのは、それがかすかな訛りのあるフランス語であり、つまりふたりだけの符丁を使っているという思いのなかにあるからであり、今までの収容所内での会話がそうであったように、おそらく誰にも聞き取れないだろう英語に切り替わっていく。ほとんど無防備なまでにさらけだされた思いは隠しようもなくあふれて、むきだしになり吐きだされる。お願いだから、頼むから戻ってくれ、わたしは君を傷つけたくない、喪いたくない、残された唯一の貴顕の友なのだから。貴族としての矜恃があるから、国の、王のための存在であるから、こうやって騎士として軍務に着いているけれど、それは限られた一部でしかないのだと。
 取り出されるピストル、右腕に構えて、再度の哀願が放たれる、どうか戻ってくれ、まるで跪きひれ伏して乞うように。しかしフランス人将校は自己犠牲を、騎士道をこそ選んで、奇妙な友愛を退けていく。今はただ国のために、そうして脱出した平民の将校たちのためにと、それが自分を疎外することなのかもしれないけれども。 
 放たれる1発、ボルデューは倒れ、死の床で詫びるラウフェンシュタインに応えて、あなたこそたいへんだ、生き甲斐もなく永らえていくしかないと、フランス人らしい皮肉も交えつつでも真摯に哀れみ、そうして果てていく。自分のなかへ滑り込み、沈んでいく。時代の流れのなかであがくことも、白いセーヌの手袋をいつも手入れすることも、常に姿勢を崩さずに超然としていることももう必要ない場へ。
 隊長の叫びがもつ身体性や肉感がさまざまなことを引きだすように、ジャン・ギャバンが冒頭でなじみの女の子との逢瀬に思いをはせながらレコードにあわせて口ずさむフルフルということばも同じように身体としての声を浮きあがらせる。
 唇の丸みの形や頬の厚さ、舌の長さが音をつくるのだと理解させられる。鼻腔や口腔、そういった体の部分が響きをつくり歌を放つのだと知らされる。唾でしめった空気がのどを通過するかすれた乾いた風と混じりあって、フルフル、フルフルという声として発せられる。そこにまるで誰かいるかのようにレコード盤を見つめ微笑みながら、知らず知らずにでている自分の声にも気づかないままに唇は動き、歌が流れる。
 RやL系の音だから極東のぼくらの耳にはいっそう新鮮に響いたのだろうか。

 

菜園便り278
11月27日
音楽に誘われてたどり着く場所
 玉乃井でのはじめての試み、「LP・CDを聴こう会」は楽しかった。会期中の「Y氏の雑誌、展。」とも呼応する静かな力も持っていた。それを可能にしたのはやっぱりゲストの古川氏そのもの。語る人の世界が浮きあがり、その向こうに時代も姿を現す。これからは「LP・CDを聴こう、語ろう、会」とよびたい。
 音楽とのであいが簡潔に語られて、会ははじまった。映画のなかの音楽を中心にまとめられた今回は、モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番 第2楽章」(「短くも美しく燃え」)とブラームスの「交響曲第3番 第3楽章」(「さよならをもう一度」)が一楽章ずつかけられた。「事前の打ちあわせでは、こういう美しい曲を聴きながら死にたい、というような話しもでましたね」という、なんだかおかしいような哀しいような逸話も披露された。
 それからジャズ。これも映画で使われた「マイ・フーリッシュ・ハート」がヴォーカルと少し崩した楽器演奏とで2度かけられ、ジャズとはどういったものかが丁寧に説明された。「ああ、そういうことなんですね」と素直な反応があちこちで起こる。わかったつもりになっていたり、説明することに照れたりでずっと避けてきたことが別の角度からすっと解かれていく。それからビル・エヴァンスなどへと続いていき、最後は誰もがびっくりする曲で締めくくられた。
 実は前日の「Y氏の雑誌、展。」のオープニング・パーティででた「歌謡曲の女性歌手もジャスをよく歌っているけれど誰がいちばんいいか?」への返答でもあった。所有されている青江美奈のジャズアルバムのなかから「ラヴレターズ」(他に「バーボン・ストリート・ブルース」と翻訳された「伊勢佐木町ブルース」等もはいっていた)。
 大学で大阪へ行き、よしジャズを聴いてやろうと意気込んでジャズ喫茶に通った。はじめはなんてうるさいんだと耳をふさぐほどだったけれど、我慢して通っているうちにだんだんここちよくなったし、わかってきた。当時はお金もなく、レコードを買ったりコンサートに行くような余裕がなくて、週に2回ほど珈琲代だけを握って通うのが精一杯だった。
 小さな憧れや挫折、重なる屈折を静かに畳みこんで、その時もそしてその後も生は続いてきたんだということが淡々としたことばで語られる。あっけないくらい単純でそうして目のくらむほどの深さがある、誰もの人生がそうであるように。
 冷静に踏み外すことなく、そつなく仕事もこなしてしのぎつつ暮らしてきた、まっとうな社会人の鏡みたいにも見える人の生の向こうにあるものが、逆立したネガのようにみえてくる。もしかしたらそちらがポジで、こちらがネガなのかもしれない。
 話はマーラーにもおよび、ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」が語られ、予定外だった「交響曲5番 第4楽章」にも耳を傾ける。一区切りした後は集まった人たちからの話や持ち寄られたレコード、CDへ。スモールバレーのおいしい紅玉のタルトを頂きながら話もはずむ。
 端正なものばかりが続いた後に全く異質な、状況劇場(紅テント)、唐十郎の後楽園ボクシングジム・リサイタル「四角いジャングルで唄う」のレコードかけられた。ぼくがずっと前に森さんからもらったレコードだ。唐の戯曲である「ジョン・シルバー」からの、海賊たちが歌う「ジョン・シルバーの合唱」。いかにも当時のアンダーグラウンド芝居の(時代のといってもいいだろうけれど)劇中歌。「七十五人で船出をしたが 帰ってきたのはただ一人」に思わずこみあげるものがある。そういった悲壮な感傷に彩られて、でも「真実」といった大仰なものが一瞬かいま見えたこともあったのだと、幼いヒロイズムだけがたどり着ける場所もあったのだと。

 

菜園便り279
1月3日

 年があらたまり庭の枯れた芝も輝いている。その向こうの海は陽を反射してどこまでも光が続いている。まぶしくて眼を向けられない。まるでなにかの比喩のようだ。
 なんの比喩だろうと思い返そうとして、そのときはもうことばは消えている。生まれる前に事切れたのだろうか。たぶん年の初めに思うようなことでないと、小さな自制が働いたのだ。海を、果てしなく続く輝く波を一言でみごとにいい抜くことも、思いがけない比喩で掬いあげることも、共に虚しいのだと、あいかわらずそんなことを瞬時に思ったのだろう。なにもかもがすっかりのろくなって、動くのも考えるのも、それなのにそんなときだけは素早く反応しているということか。困ったことだ。
 でもまぶしい。横向きにうつむいていているのにそれでも光は眼を射る、思わず手を翳してしまいそうになる。なんだか滑稽だ、部屋のなかで暗い方を向いてまぶしがっているなんて。
 庭には鵯がいる、しばらくじっと海の方をみている。ここ、ガラス戸の内に人がいることは知っている。背後に気を配りながら、でも一瞬、彼も海の輝きに眼を焼かれている、虜になっている。
 だいじょうぶ、正月の特別料理がでたのだろう、隣の飽食した猫はまだうちの庭にはでてこない。どこかなまあたたかい場所で寝転がっている。去年今年に思いをはせつつ、猫は猫の生きがたさをかみしめている。
 そうだろうか、きっとそうだ。

 

菜園便り280
1月30日

 中学時代の同級生から苺が届いた。大きくてりっぱな苺だ。しっかりした果肉、したたる甘い果汁、そうしてなによりもその鮮やかな色、苺色。
 恩師の喜寿を祝うクラス会への伝言と共に送られてきたものだった。残念ながら行けないけれどお祝いを伝えて下さいという手紙に添えて。嫁いで農業を続けているのはたぶん彼女ひとりだろう。地域での活動にも積極的でまわりからも慕われている。大きな房の葡萄を頂いたこともある、どっしりとしてみごとだった。
 同じ学校に通っていたのはもう50年も前のことだ。半世紀か、なんだかくらくらしそうで思わずキーボードにしがみついてしまうっとっとっと。先生は体育担当で、日体大ではラグビーをやり全日本選手権にも出場した人。数年で教師を辞め、スポーツ関係の仕事を続け、今は自宅で菜園をやりながら悠々自適、のはずだったのだけれど、最近急に弱られてしまった。
 クラス会は温泉に食事処も併設されている施設で、それで先生も入りたいということになり、ふたりいれば大丈夫だろうと向かう。熱いのやら深いのやらあれこれ並んだひとつに入り、先生は一時間近く動かない。うまく伝わらないままの話も尽き、ぼんやりと湯船につかっているとあれこれ思いだされる。高校卒業直後に数人が集まって先生の店を訪ね、いっしょにボーリングをやって、ロシータというメキシコ料理店に連れて行ってもらったことなんかも。メキシコ料理なんてもちろん生まれて初めてだった。酢漬けのタマネギがどっさりとテーブルにのっていたことを覚えている。お前は天ぷら学生になるな、と言われたことも。
 それからは誰もがそうだったように、忙しくすることに忙しく、再会したのは41の厄年の同窓会で、先生も変わらずに元気だった。そのときからでも、もう20年がたった。誰れもが老いる、弱る、我慢がきかなくなる、嫌なことは忘れたことにできる、そうしてしみじみと懐かしかったりする。なにが、と問うのは野暮というものだ。もうけしてくり返すことのない、ふれることすらできない、純粋な過去形の物語に浸って、その甘酸っぱいエキスだけを受けとればいいのだ。痛みや苦ささえいつの間にか発酵して芳醇な香りを放っている。静かに噛みしめるしかない、過ぎた時代の歌のように、形を喪ってただ明るい色彩だけを残す子供の頃の夢のように。
 温泉に入った翌々日、先生を挟んであれこれしゃべった同級生が自分で飼っているという鶏の玉子を届けてくれた。畑で採れた南瓜と野菜だけを食べさせているから1個800円にはなるんだぞ、といっていた玉子。はかないほどのレモン色の黄身を抱えた大ぶりの玉子だった。

 


雨が続いて冷たさも極まります。心もなんだかやせ細っていくような日々ですね。日が射したときの喜びも大きく、そういうときは思いがけない訪問があったりします。うれしいですね。
2月の映画の会も終わりました。侯孝賢の「冬冬の夏休み」。卓抜なタイトルだけでも興味をそそられますが、あたたかくすばらしい映画でした。「菜園便り」にも書いたので添えておきます。
3月はヴィム・ヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」です。ヴェンダースの最高傑作ですばらしい映画です(まだ存命ですから新しい映画も期待はしてますが)。
3月9日(日) 14:00 18:00 
スモールバレーのケーキと珈琲付き。カンパ制

菜園便り281
2月13日  「夏休みの子どもたち」

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の名作「冬冬の夏休み」上映も終わった。玉乃井にみに来られた方のほとんどにとってはじめての侯孝賢であり、なじみうすい台湾映画だったのだろうけれど、2階の広間にはあたたかいものがあふれ、そのままずっと座っていたい気持ちになった。
 いろんな世界があり、映画がある。時代は移り、知らないことには果てがなく、みていない映画も数限りない。でも全部をみる必要なんてないこともにも気づかされる。大切なことは結局同じなんだ、今ここにあるもの、それが他の場所で別のことばで語られ、描かれているんだということもわかる。もっといえばことばも形もいらないのかもしれない。柔らかい葉の上で揺れる光に、ふいにぬけていく風に、なにもかもがいいつくされていると頷く人もいるだろう。
 映画のなかの夏は神々しいほどにも輝いてみえた。かつてもそして今も、そういったものが確かに存在していることへの畏怖にも似た喜びが生まれひろがる。足をくすぐる川の水の爽やかさ、うつぶせに倒れ込んでそのまま眠ってしまった昼下がり、起きぬけの額の汗、窓から入ってくる風の強さにも驚かされる。揺れる庭の木の向こうに広がる野原、畑、遠い山。
 <海岸の砂の熱さ、ぴょんぴょん跳ねながら走って飛び込む海、その生温さと不意の冷たさ。水からあがり異様なほど重い手足を引きずって熱い砂に横たわる。紫色の唇に注がれるあたたかい生姜湯、こぼれた甘さを指ですくって笑いあう。>
 映画のなかの樹々を揺らす風が、遠い作物をぬける風が、こわいほどヴィヴィッドに伝わってくる、まるでたった今風がさっと肌をなでていったように。子どもたちは、台北から来た少年も、地元の牛を連れた少年も、みんなが一夏の、永遠に続くように思われた時間のなかにいる。無尽蔵の光が惜しげもなく降りそそがれている。そうして誰れもそんなことには気づかないし思ってもみない。ただそこに自分も世界もそのままにあるだけだ。
 思いがけない体験と小さな躓き、死、そこでいつのまにか成長していく、共同体の掟を学ばされる、人のやさしさと怖さも、そうやって誰れもがいつか幼年期を過ぎ思春期の過酷な激動を経て、粗暴で貧相なお愛想笑いを貼りつけたさみしいでも穏やかで深みのある大人へと移っていく、誰れもが。
 何もかもが単純で滑稽でただ喜びや驚きに満ちていた時は終わる。終わるなんて大仰なことをいう必要もなくそれはひっそりと姿を消す。後に残る郷愁のような匂いだけの残像。だから人はいつでも安心してそれを手にとり懐かしむしぐさをくり返す。もうそこにはなにもないことは了解されていてでも誰れもそんなことはおくびにもださずに静かに微笑みあう。視線を交わすのは相手の目のなかにだけ一瞬浮かびあがるかつてのなにか、例えばぼんやりと川のなかにたちすくんでわけもなく見あげた空がのぞくかもしれないから。どうしてこんなにも果てなく高いんだろう、なんだか奇妙な声が聞こえた気もしたけれど、と。
 枝が揺れて翻った葉裏の銀色が一瞬見えたりするように、不意に死が姿を見せる。永遠に続くことなんてなにもないこともすでにわかっている。でも知らぬふりで通りすぎていく、誰もがそうするように。
 あの高い高い果てのない空、どこまでもどこまでも続いていた海。

 

菜園便り282
3月31日

 この時期には樫が葉を散らす。玄関横でめだつから毎日掃かなくてはならない、ちょっとめんどうだなあとも思うけれど、季節の仕事だからと、なんとなくいそいそしてやる気持ちもある。松はもっと早くて、2月の終わりにさかんに葉を落とす。我が家は道路に散ってかたづけなくてはならない秋の落ち葉は多くはない、銀杏と柿くらいだ。その柿ももう切り倒されて記憶のなかだけになってしまった。
 春や初夏の落ち葉をワクラバというようだけれど、病葉と書くとなんだか病気の樹みたいに思える。やっと冬をのりきって、これからの爆発的な成長に向けて体勢を整えているのだろう。たいせいと打とうとしたら体制という文字が最初にでてきたけれど、ひとつのまとまった組織体、統一体の制度ということでいえばそうなのだろう。
 秋に葉を落とし冬の寒さの間じっと身を閉じて耐え、春のいっせいの芽吹きに備えるのが落葉樹の体制、つまりその樹木の制度なのだろう。野菜や草も光を敏感に感じ取って花を開きおおいそぎで実を結ぶ。人は冬の前になにを捨て、なにを閉じているのだろう。そもそも季節の移ろいを感じ取る力をまだ残しているのだろうか。暑さ寒さは今も日常の挨拶にでてくるからそれくらいは感じとれるのだろうと思うけれど、「日が長うなりましたなあ」というようなことばはもう小津の映画のなかだけに生息しているのかもしれない。
 「春は名のみ」のまだ寒いなかでも、日が長くなる、つまり陽光が増すにつれて心が極端に動きはじめるのはわかる。体はまだうずくまったままなのにそのなかで心は出口もないままに周囲の壁に激突しながら跳びはねる、傷んで病むのはしょうがないのだろう。
 雨も上がった、ジョウビタキがつがいで庭に来ている。

 

菜園便り283
4月1日 

 郵便料金があがる前にみんなに郵便をだそう、切手をはって葉書を、何通かは封書で、せめて一通は手書きでと思っていたけれど、いつものように気がつくともうついたち、4月バカに呆然とするしかない。いったいいつのまに桜が咲いて散り、海の色がかわり、4月になったのだろう。エイプリル フールズ デイが4月バカと訳されたのだろうけれど、だまされる愚者より、めくらますおかしさ、楽しさを思いたい。それにしても変換でゾロッとでてきたダマスの漢字はなんだか怖い。騙す、欺す、瞞す。
 郵便切手はいつも買い置きがある。我が家では珍しいことだ。ぴったりちょうどがいい、ちょっと足りないぐらいが快適と感じているようで、だからなんでもきれてから買いたすことが多いのに、切手だけはついつい買ってしまう、必ず必要になるから、といいわけしつつ。ほとんどは昔ふうにいう記念切手、特別にデザインされて発行される色鮮やかで形もちがっていて大型が多い。
 通常の値段より高い、つまり50円とか80円の使用価値しかないのに、購買には120円かかるとかいった切手もある。例えば地域限定でだされた山本作兵衛切手とかだ。こういうのはまず使えない。コレクションしてるわけではないけれど、やっぱりなんだかもったいない、完全なシートのままでもっていたいと思ってしまう。使えないものは他にもあって、映画監督シリーズの小津安二郎切手もそのひとつ。友人が贈ってくれたこともあるけれど、シートの余白に「東京物語」や「秋刀魚の味」のシーンが入っているせいだろう。もちろん笠智衆原節子笠智衆岩下志麻
 最近のは何組かがつながってひとつの図柄になっていたり、余白もデザインされていたりする。そういうのはつながりのままで、また余白も含めて使いたくなる。そうなると通常より高額の郵便になってしまうから、そうそううまはくいかない。こういう楽しみもなかなかやっかいだ。
 いま手もとにあるのは、使いたくないものを除いて、国際文通週間の90円切手(広重の東海道53次小田原図)、こういった文通週間、趣味週間の切手に子供の頃驚喜した人も少なくないだろう、誰れもの憧れの的だった。他には名山シリーズ、消防団120年、各県シリーズの長崎グラバー邸等など。方形の日本の民芸品切手は白い余白が多くて美しい。昨年夏の文の日切手もよかった。西瓜や子供がパステル色のイラストレーションになっていた。もちろんぞっとするようなものも数限りない、ディズニーやキティのシールものだとかは「かわいい」とすら思えない。
 お年玉の商品、130円の切手シートもできれば丸ごと使いたいと思うと、封筒などの面が大きくて、50グラムまではだいじょうぶだからということになって、なかなかうまくあうものがない。もちろん80円の封書に貼ってもいいのだけれどそういうのはなんとなくおもしろくない。ぴったりだと気持ちまでなんだかすっきりする。
 絵はがきはだすのももらうのもうれしいし、書くことも少なくてすんで助かる。時候の挨拶、いかがですかと書くともうほとんど余白はない。あわててご自愛下さいと締めくくる。それでもなんだかうきうきする。それもあって美術館系の絵はがきはどっさりある。独自につくられ館の名前や展覧会のタイトルも入っているはがき用の袋が楽しいこともあるのだろう。
 以前たくさん頂いた10円、15円、7円といった切手もまだとってある。子供の頃一時期蒐集していたこともあって未使用切手への偏愛は捨てきれない。旧いデザインや色も美しい。趣味週間切手はまだ10円だ。万国博のは1970年で、もう40年以上前になる。だからぼくがだす郵便は小包を除いて(時には小包も切手を持っていってカウンターで貼るけれど)、全部が「記念」切手になっている。
 ギャラリー貘からの案内状の封書もいつも特別切手になっている。小田さんが角の中央郵便局まではしって丁寧に選んで買うのだろうなあとなんだかうれしくなる。

 

菜園便り286
6月1日

 常緑樹は春から夏にかけて落ち葉を散らし続ける。我が家でも松が古い葉を落とした後、山桃や樫などが続いている。小さいけれどびっくりするほど散った松の雄花も終わりに近づいたようでほっとする。
 今はネズミモチの花が降りつもっている。小さな白い花だけれどかなりの量になる。昔、小学校の校舎横にあった生け垣の甘い香りにモンシロチョウがたくさん集まっていたのを覚えている。強い木のようであちこちから芽吹いて瞬く間に大きくなり、ある日突然庭のすみから香りが漂ってきて驚かされることもある。
 一方ではジャーマンアイリスのように群生していたのが一気になくなったりもする。消えていくいちばんの理由は台風などで直接降りかかる潮だろうと思っているけれど、でもほんとのところはやっぱり愛情、だろう。丁寧に見守り時々の手入れを怠らず生長や開花、結実をきちんと愛でてやらないと植物は潰えていく。人もそうだけれど、極端に悪い条件や強い外圧はかえってがんばるきっかけになったりもするから不思議だ。組織は外からの圧力ではつぶれない、内部の混乱や争いで崩壊すると聞いたこともあるけれど、たしかにそういうものだろう。
 だめだと思ったときが終わりなんだ、誰かがそういっている。
 太い花茎を伸ばしたリュウゼツランは節ごとについていたアスパラのようなあま皮が枯れ始めた。これから細い枝が伸びてきて小さな花をつけるのだろう。50年に一度だけ花が咲くと父が何度もいっていたけれど、一株は数年前父の存命中に花をつけて枯れていった。日本では30年くらいで花をつけるらしいけれど、それでも続けて2度も自宅の庭で見るとは思わなかった。棘のある1メートルを超す肉厚の葉は迫力があるし、伸ばされる花茎が木のようで驚かされるから、花の小ささというか地味さにあっけにとられたりもする。もちろん花には花の効率的な事情があるのだろうし、あれこれいうのは大きなお世話だろうけれど、でも前仕掛けの派手さに力を使い果たして尻すぼみ、そんなふうにも思える。ラムの原料にもなるラテン系の植物だから、そういった顛末になるのはわからないでもない。
 プランターのトマトも色づきはじめ最初の収穫もあった、ズッキーニは小さいままでしおれていく、レタスは丸まって根本から腐り始めた。空豆はどっさりの収穫が終わって黒ずんで枯れている。取りはらってレタスでも植えようか。トマトの支柱もきちんとしなければ、バジルの花芽も摘まなくては、群れて芽吹いたルッコラを間引きしなくては・・・・。
 荒れた庭にも傷んだ家にも、すぐにでもやらなくてはいけないことが重なっていく。そういう時期なのだろうか、いろんな変化が迫ってくる。前の家、横の空き地、次々に売られていく。たいせつにしてきた李禹煥も手放さなくてはいけないのだろうか。

 

菜園便り287
7月24日

 東京から戻って両親や姉の夢を頻繁にみる。どうしてだろう。
 長いつきあいの友人がわざわざ「仕事」をつくって新居によんでくれ、2週間も滞在することができた。数年ぶりの東京だったから、いろんな所を訪れ、懐かしい人たちにも会えた。ついあれもこれもと思ってしまうし、映画もふたつもある特集を全部みようとしてしまう。もちろん予定どおりにはいかないけれど、それでもずいぶんといろんなことができた。
 今回は年齢もあって、まさにセンティメンタル・ジャーニーで、懐かしい場所を訪れると、気恥ずかしさよりどっとよみがえる記憶に圧倒される。でもどこか距離があって静かに眺められたりもする。阿佐ヶ谷、神保町、三鷹、新宿、上野・・・・。麻布や恵比寿は行けなかった。有栖川公園と新しくなった十番は見たかったけれど、そうそうあれもこれもできるわけはなく、映画もみれなかったものも少なくない。なにしろとんでもない数の映画が上映されている。後で気づくと、ファスビンダーの特集もやっていたことがわかった。知らなくて幸いだったかもしれない。そこでは次にダニエル・シュミットの特集が組まれているようだった。それもすごい。
 とにかくあれもこれも充実の日々だった。
 東京には十代の終わり、18歳から住んだ。多感なときだったし、時代もずいぶんと慌ただしかったからいろんなことが、意識下も含めてしっかりどこかに残っているのだろう。親や姉にも、直接的な負担もいろいろかけた。そういうことが今度の東京再訪で一気に噴きだし、よみがえったのだろうか。この年になってもうあれこれ構えなくなり、すなおにむきだしのまま、無防備に向きあっていたのかもしれない。
 友人宅には猫やインコ、亀などがいて、ベランダには鉢植えの植木が並んでいたから、そういうものに馴染むことで、旅行者としての緊張や違和がうすれ、生活のなかに落ち着けたのかもしれない。それで普段は閉じられている回路が開いたのだろう。
 もちろん夢はかつてにつながる直接的なものでなく、父が料理コンテストに出ている、といった荒唐無稽なものだ。全員が天ぷらの準備をすませて、「スタート」の合図を待つことになっているのだけれど、父は気持ちも舞い上がっているようで、何故だか白衣でなく紺のスーツにネクタイという格好で、衣をつけた野菜かなにかをもう天ぷら鍋に入れて揚げ始めようとしている。気づいた係の人があわてて止めに近づいてみると、油はまだ火もつけられていなくて、だから衣が冷たい油のなかにどろりと流れこみ沈んでいっている。
 ぼくはどこにいたのだろう。全部を見渡しているようでもあり、半分父の気持ちで動揺してもいて、一方ではひどく辛辣に父を、その失敗を見ているところもある。助けようとか手伝おうとかいう気持ちは全くなくて、でもなんだかつらい思いはあって、全てが、つまり夢の全体がもの悲しいものに感じられる。
 誰もそうだろうけれど、くっきりと覚えている夢というのは少ない。思いだせないまま、その時の感情や苦しさだけは異様なほどはっきりとあって、恐怖に駆られたり胸がつまったりしたことだけが鮮明に残っていく。
 母や姉が出てくるときはいつも大勢の人がいて大半は女性で、だからついあれこれ、子どもの頃のことを思って解釈したりしそうになる。でもそういうことをやることはもうなくて、そこで感じた自分の気持ちが大きすぎたり小さすぎたりして取り扱いかねることだけがその日1日残っていたりする。どんな夢も、つらい気持ちも、でも夕方になれば薄れて、消えていく。今は浜木綿が高く匂うから、そのなかに紛れていくのだろう。
 かつて濃密に関わった、今はもう全く関係が切れている場所は、そこを目にし、入り込んだ時に巻き起こる記憶や当時の感情と、現在が重なりあい混ざりあい一瞬狂気じみた、自分がどの時にいるのかわからなくなる瞬間がある。でもそれはほんとに瞬時のことで、全てはもとの世界に覆われ、おだやかな感傷に包まれ、少しだけ複雑になった思いのなかにしばらくの間放り込まれるだけだ。
 そういうこともあってか、神保町には出かけたけれど駿河台には上っていかなかったし、池袋で降りることもなかった。中野は巨大な再開発が進んでいるようで、中央線から見えるだけでもまるでかわっていた。
 先日の「LP・CDを聴こう、語ろう会」で<我が青春の音楽>なんてことをやったから、いろんなことが徐々にしみ出してきていたのかもしれない。音楽の喚起力はすごい、なんていいながら、自分がそれに巻き込まれている。
 帰宅して「ああ、我が家がいちばん」というのが旅の定番であり、真の目的だという人もいるけれど、帰り着いたら、よほどぼんやりしていたのだろう、家の鍵を後送の荷物に入れてしまったことに気づいて真っ青になった。幸か不幸か閉め忘れていたガラス戸がひとつあり、そこからこっそりはい上って入ることができたけれど、家の中は梅雨の豪雨で2階に並べたタライや箱からあふれた雨で1階までびしょ濡れ、がっくりと泣いてしまった。でもつらいことも滑稽さの隣にあっては力をなくすようで、とにかく雨の始末をと泣き笑いしながらかたづけているうちに、もう住み慣れたもとの生活の内にすっぽりと入っていた。

 戻ってからの友人へのお礼状に「ぼくはなにかを激しく求められることが少なかったから(避けてきたから)・・・慣れていないのでしょう。」と書いたけれどそれは自分でも意外なほど率直なことばだ。18歳の時に情熱や憧れの全てを使い果たしたのかもしれない。その後はその場その場のなりゆきにまかせ、積極的になにかを求めるということもなく、いきあたりばったりだけでやってきた。
 どんなふうに生きても、住む場所や周りにいる人といった小さな状況はちがうだろうけれど、けっきょく同じ所にたどり着いているだろう。ぼくはぼくであり、それ以上でも以下でもないと口にしつつ、ぼくはぼくでさえもないのだろうと思ったりもして。そんなふうに感じ考えながら、こんなふうに生きているだろう。

 

菜園便り288
7月28日 東京映画日記

 東京ではずいぶんたくさんの映画をみた。
 メールに「暗い、きついものばかりだった気がします。これも時代のせいでしょうか」と書いたりしたけれど、そういうことも気になった。リストをつくってみたらなにかが浮きあがってくるかもしれない。今の世相を反映するような大型米国映画を社会学的に分析するようなことでなく。必死で撮られた真摯な映画がどうして暗くつらいものに感じられてしまうのか、それはぼくのありかたのせいでもあるのだろう。
 出発前、インターネットで何でも調べがついてしまう今だけれど、活字が好きでページとして全体が見渡せる方がわかりやすい世代としては、ここはとうぜん「ぴあ」の出番だと、久しぶりに雑誌売り場に出かけても見あたらず、係の若い人に問いあわせるとかなり怪訝な顔をされて、そうか今の人は「ぴあ」を知らないのかとわかったつもりで待っていると、なんと数年前に廃刊になっていると聞かされ、びっくりだった。
 ほんとに世界は動き全てはかわっていく。
 けっきょく、またいつものようにグーグルで検索、先ずはユーロスペースから、そこでもう大当たりが出てしまった。なんと小川紳助特集、正確には「小川プロダクション全作品特集上映」、すごい。まるでぼくにあわせてくれたような企画だ。それに同じユーロスペースカンボジアリティ・パニュ監督特集もやっている。今回もまたユーロスペース通いになりそうな予感、前回はちょうど山形映画祭特集で、すごい数のドキュメンタリー作品を上映していて、そこで初めてアピチャッポン・ウィーラセタクン監督を「真昼の不思議な物体」をとおして知ることができた。
 イメージフォーラムではなんと王兵(ワン・ビン)監督の「収容病棟」や、みそびれた「アクト・オブ・キリング」もやっている。まだ行ったことのない「東中野ポレポレ」も近いようだし、いっそのこと賈 樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の新作「罪の手ざわり」もBunkamuraでみようか、あれこれ思い悩む。
 予定を組みつつ、友人たちにも連絡をとって空いている日時をきく。もちろんお世話になる友人宅の予定が最優先。そうやって始まったけれど、もちろんいろんなことが起こったり、起こらなかったり、例えば久しぶりにのみ過ぎ、はしゃぎすぎて体調を壊すとか、友人の予定が変わるとかで、全部を予定どうりにはみれない。疲れてもう諦めよう、ということもある。
 「小川プロダクション全作品特集上映」では、三里塚は時系列に沿ってみなくてはいけないと思うから、最初はどうしてもずらせなくて、頭とお腹がぐるぐるするなかを這うようにして出かけた。「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968年)。続けてみる予定の「日本解放戦線・三里塚」(70年)はあまりの体調の悪さに諦める。翌日は「三里塚・第二砦の人々」(71年)と「三里塚に鉄塔が出来た」(72年)。
 翌日はパニュ監督特集の「S21 クメールルージュの虐殺者たち」(2002年)。翌日は「牧野物語」(1977年)はパスして「三里塚・五月の空 里のかよい路」(1977年)だけ。翌日はパミュ監督「アンコールの人々」(2003年)と「紙は余燼を包めない」(2006年)。翌日は「どっこい!人間節-寿・自由労働者の街」(1975年)。 その翌日はイメージフォーラム王兵監督の「収容病棟」(2013年)前編、後編。そこまできて、彼の映画がすごく重かったこともあり、友人たちとの関わりももっと親密にしたいから、映画はお終いになった。「収容病棟」のことはもう1回落ち着いてきちんとみてからゆっくり語りたい。そこには尽きないものがあるし映像的にもすごい、でもあまりにも酷くてみつめられない。濡れたコンクリートの床、裸足、尿、雪、布団、鉄格子、暴力・・・。
 蔡明亮の「郊遊 ピクニック」の予告もある。なんと引退すると表明したとのことで、彼の最後の映画になるかもしれない。やめてくれと叫びたくなる。とにもかくにも8月からのこの映画はなんとしてもみなくては、このひとつ前の映画もみることができなかったし。
 パミュ監督の新作、「消えた画 クメールルージュの真実」や「Act of killling」、「狭山事件」石川被告の現在を撮った「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」は諦めることに。福岡にも来てくれることを願うしかない。
 小川プロの他の作品、例えば「三里塚・第3次強制測量阻止闘争」(1970年)はDVDで持ってるし、名作「三里塚・辺田部落」は何度もみたけれど、69年の「パルチザン前史」や「クリーンセンター訪問記」(75年)、「京都鬼市場・千年シアター」(87年)「映画の都・山形国際ドキュメンタリー映画祭89」(91年)はまだみたことがない。参考上映のひとつ「青年の海-四人の通信教育生たち」はみたような気もするけれど、といった状態だからほんとはそういったものも全部をみたかったし、バーバラ・ハマー監督の「Devotion 小川紳助と生きた人々」はいつか必ずみたいもののひとつだ。
 「三里塚・第2砦の人々」は今回初めてみることができた。すごい映画だ。こういう映像が撮れたこと自体信じられない。農民と機動隊が混じりあい動き回っているその間に文字通り挟まれもみくちゃになりながら、それでもカメラは両方をそして場を撮っていく。
 そういうことももちろんすごいのだけれど、でもなんといってもこの映画が映しだすもの、ことがらそのものに圧倒される。農民、学生、機動隊、公団、雇われ暴力団。驚嘆し恐怖し憎悪しそうして哀しみに覆われていく。砦の外の荒れ地でデモンストレーションするあまりにも華奢で弱々しい学生、黙して表情も動かすまいとする若い機動隊員、泣きじゃくる子ども、ただぽかんと見ている幼児、「洞窟」のなかで車座になって待つ老人たち。
 極限的な激しさの後に残る寂寞感、それはもうこの戦いが、ある意味ではすでに終わっていること、もう自分たちの夢見たような結果にはけしてたどり着かないことを誰もが心の底で知り、でも互いのつながりや限りない選択があるはずの未来への希望として、ことばにしないことを黙約し、でも、だからいっそうそれはせつせつと人の胸をうつ。
 こういうふうに人は生きそして死んでいくんだと、遠い声が告げていく。
 三里塚で最後に撮られた「5月の空」が映像としても短く、中途半端に遠くから撮られてしまったのは偶然ではないだろう。もう遠くから眺めることしか、できることはないのだ。まるっきり離れてしまう前に、もう一度、でも現場には近づけないままで。
 本編の上映前に三里塚の今を撮った映画の予告編が何度も流れる。昨日の映画のなかで激しく言いつのっていたおばさんが、老いた静かな口調で諭すように語っている。友人を亡くした青年行動隊の元若者は彼の地で今も農業を営んでいる。だれもが「そういうことだっぺ」と小さく頷く。

 

「菜園便り」追伸
 撮し、撮されることを巡って始まり、家族や世代へと思いをはせたわけですが、この「菜園便り」というのはぼくが二〇〇一年から不定期にだしているメール通信です。いつもは、知人たちへ届けと、インターネットの海に送り出しますが、今回はこの芳名録限定。
 撮影にみえた飯田さんとは不思議なつながりで、最初にお会いしたのは一九九四年の「津屋崎現代美術展 場の夢・地の声」(亡くなられた柴田治さんや原田活男さんが主催)で、参加作家のひとりである山本隆明さんの作品を撮りにみえていました。その美術展のコーディネーターをやっていたので、関わった方やみえた方を片端からコンパクトカメラで撮していて、その時に撮った、撮影中の飯田さんの写真が今もあります。最初はぼくが「撮った」わけです。
 「撮った」時から二〇年ほどたって、また津屋崎に撮影にみえた際に、飯田さんの実家が百年を超す古い家だと聞いて、我が家(玉乃井)のことも話題になり、その流れで親のこと、出自のことなどもあれこれ話し、いろいろに思わせられました。
 撮される、カメラを向けられるというのは、普通の人にとってはとても緊張することであり、シャッター音ひとつにもぎくりとしてしまいます。そういうなかで、こうやって下さい、ああやって下さい、顔はそのタンスの角のあたりに向けて視線はカメラに、もうちょっと上向きに、そうですそうです、といわれてもただおたおたするばかりで、求められていることができないことに恐縮し、もうしわけなさが募ります。
 撮られる時、身ぐるみ剥がされるような、身の置き所のない心持ちで困ってしまうのですが、しばらく続けていると、いつの間にか撮る人をじっと視ていたりします。視線はこちらにといわれるままに、カメラのレンズそのものをじっとのぞき込んでいて、どちらを見ておられましたか、という柔らかい叱責で我に返ります。
 撮られている時、被写体の側も必然的にカメラを、撮る人を視ます。その奇妙な撮影の姿勢を見、対象を「撮る」けれど「みて」はいないという逆説を、みています。どんなにしっかり相手を視つめても視線はけしてあうことがなく、はぐらかされたような気持ちのなかに放りだされて途惑い、ただレンズという物体へ視線を集中させ、そこに焦点をあわせるしかありません。痛いほどの緊張のなか、ぼんやりした夢のような浮遊感も生まれます。
 撮られるということは(それは、撮るということはといっても同じでしょうが)、そんなこんなの不思議な体験です。

 

菜園便り290
8月27日

 玄海黒松、ということばを聞いたとき、あらためてあらゆるものには固有の名前があるんだと感心しつつ、でもこれはなんだかヨーロッパ的な整理・分類の文脈のなかで、ラベル的に貼りつけられた名前だという気もしてしまう。それは全てのものがそうだからといういつもの嫌悪や諦念からくるものでもあるし、またこのことばが盆栽(というよりBonsai)の話の流れででてきたからかもしれない。今や盆栽の愛好家や収集家の中心はヨーロッパや米国にあるようで、頻繁に日本にツアーが組まれ、著名な盆栽職人のお弟子さんは全員外国人だったりするとのことだった。
 黒松というのは、文字どおり表皮が黒くてざっくりと割れたタイプだと聞かされ、ああそうだった、子供の頃から知っていた松はそうだった、蔵屋敷の松もそうだったと思いだした。最近の松は虫が入りにくいように表皮が緻密で割れておらず、色も薄いらしい。たしかに植林された防風林の松などはそうだ。玉乃井の玄関脇の松がその玄海黒松だというのも、その時はじめて知った。おそらく海側の庭の松もきっとそうだろう、ずいぶん前の松だから。
 手のひらくらいの大きさの割れた厚い表皮をどうにかして剥がして宝物にしていた時期があったことも思いだした。蔵屋敷というのは十歳くらいまで住んでいた同じ津屋崎町の一画で、古いわらぶきの屋根にトタンを被せた、大きな家だった。庭も広く松の他にもヒマラヤ杉、樫、梅、銀木犀、南天、何本もの無花果があったし、後から植えた夏みかん、きんこうじ(金柑子)、枇杷、桃、グミ、柿もあった。紅い蔓薔薇と夏には白の朝顔が板塀に絡まっていた。小さな花庭もあってりんどうと百合ははっきり覚えている、芍薬や菊や松葉牡丹も。ガーベラが表の塀沿いに植えられたこともあった。とても珍しくおしゃれな花だと感じたけれど、きっと父がわざわざタキイから取り寄せたのだろう。近所に畑を借りて野菜をつくっていたから、庭には菜園はなかった。
 そういえば松のそばの暗いすみにクチナシがあった。八重の花で、実はできないと父が何度も言っていたのを聞いたとき、なんだかすごく残念に思えた記憶がある。父がそう思っていたからだろうか。クチナシの実は食材を黄色に染めるときに使ったりするものだけれど、漢方薬の材料にもなるのかもしれない。
 英語ではガーディニアといって、それにもいろんな思いでがある。サンフランシスコの安ホテルの受付の男性だとか、麻布十番だとか、キャサリン・ヘプバーンの「旅愁」のシーンだとか。あのクチナシはけっきょく彼女の手には届かなかった。大きな駅、動き始めた列車、窓から精いっぱいさしのべられる手、走って追う男、通俗的で感傷的で美しい。ああいう「定番」のシーンが旧い映画には必ずあった。そうでないと観客が満足しなかったのだろう。誰もが胸の内でほっと安心する、残念に思いつつも。一夏の、旅先の思いでは持ち帰れないし、持ち帰ってはいけないのだ、と。
 少しくたびれて端が黄色くなった花からの強烈な香りはちょっと喩えようがない。


菜園便り291
9月24日

 夏がなかった今年の、夏野菜ももう終わり。トマトはまだ小さな実をつけているけれど、これが赤くなったら摘んでお終い。とうに花も終わりかろうじて地面に張りついていたパセリもお終い。ショウジョウバッタに食べつくされて終わったかにみえたレタスやルッコラは、バッタがいなくなれば息ふきかえして伸びはじめるかもしれない。同じように襲われていた青紫蘇は、よみがえったにしても小さな葉を数枚つけてるだけで、もう伸びる力はないままに白い花をいくつかつけて終わるだろう。
 長雨で弱ってしまったペパーミントがここにきて小さな芽をどっと出してきたから、また元気を取りもどして来年まで続くだろう。雨にも暑さにも負けなかったのはバジルで、これにはちょっと驚かされた。いつもはまっ先に食べられたり潰えたりするのが、今も薫り高い葉を拡げている。水まきの時ちょっとふれただけでぱっと香りがたちあがる。
 空豆の後ほうっておいたプランターに8月になってから瓜科の芽が出た。元気そうだったので水をやっていたら、小さな実をつけた。だんだん大きくなって淡い黄色になった、真桑瓜だ。今年は買ってきて何度か食べたから、その時の種が台所からの撒き水に混じっていたのだろうか。それともどこからか飛んできたのだろうか、鳥に乗って。
 色はみごとだけれどかなり硬くて香りもないから、まだ台所のテーブルの上に置いたまま眺めている。ちょっとでも固さがとれたらおおいそぎでサラダにしなくてはと、げんきんなことを思ったりする。サラダのことを思ってしまうのはこの夏はサラダの野菜がほんとに手に入りづらかったせいもある。だから南瓜や大根、タマネギといったふだんはあまり登場しない材料もよく使った。梨や林檎、桃、メロンなど果実もいろいろ使った、バナナをいれたこともある。バジルをサラダにしたのも初めてだった。あれこれ思いつくまま、目の前にあるものを入れていく、オリーブオイルと酢の力でなんとか形になる。ぼんやり食べているといつの間にか終わっている。強烈な味がなかったかから、バジルは入ってなかったんだろう、自分でつくっておいてそんなことをぼんやり思ったりする。
 なかった夏のつけは今も続いていて、胡瓜やトマト、レタスなどがびっくりするような値段のままだ。そもそもお店に置いてないことが多い。ちょっとした気候の変動で大騒ぎになる、人はそんな不安定ななかに生きている。台風や豪雨、雨が多すぎても少なすぎてもおたおたする。そもそも霊長目ヒト科ヒトは脆弱な、ほんとにフラジャイルな生き物なのだろう。ひとりでは生きていけないし、生きていられない。異様に未熟な状態で誕生する、生まれて十ヶ月も歩けない、数年間は保護者がいないと生き延びれない。こうやって続いているのが不思議なくらいだ。だから文字通り壁が必要なのだろう。雨風や外敵の侵入を防ぎ、そうして「他者」拒絶するために。
 長い強い雨ですっかり傷んだ玉乃井の修理が、ほんの一部だけど始まる。それ以上は大がかりすぎて手のつけようがない。その場しのぎでやっていくしかない、いつものように。そういうことにも慣れてしまった、慣れてはいけないのだろうけれど。

 

菜園便り292
10月2日

 「アジアフォーカス福岡国際映画祭」も終わった。今回は1日に3本なんてことはなくて、1日1本だけの日ばかりになった。
 今年はなんといっても蔡明亮の「郊遊 ピクニック」。前作(「ヴィザージュ」)をみれなかったので、ぼくとしては数年ぶりの作品になる。引退すると宣言したらしく、だからこれが最後の映画になるとのこと、ほんとうだとしたらあんまりだ。うれしい驚きだったのは舞台挨拶に本人と主演のリー・カンションが来ていたことで、終了後の質疑応答も行われた。最後の映画だからか、映画祭ということなのか、ずいぶんと饒舌で自分の映画に対する誤解が多く、なかなかすなおにみてもらえないとくり返していた。
 彼の最初の劇映画「青春神話」の日本公開時に、初日だったのだろうか監督とリー・カンションが舞台挨拶に来ていてうれしかったけれど、あのときは全く初めてみる蔡明亮の作品だったから、監督を実際にみ、声を聞き、その気さくな人柄などを知ることができたのは映画を丁寧に受けとるのに大きかった。
 蔡明亮の「黒い眼のオペラ」(2006年)には、廃墟のビルのなかにできた巨大な水たまりの海をマットレスの舟がゆっくりと流れてくる息をのむほど美しいシーンがあり、大げさにではなく恍惚としてしまった。今回もやっぱり画面は暗めのトーンで美しく、雨と水に覆われている。それぞれのシーンがとても長くて動きもほとんどなくてただじっとみつめるしかない。映画のなかでなにかをじっとみつめている人をこちらからじっとみている、というような。
 静止したままのシーンや見続けるのに忍耐がいるほどの動きの少ない長いシーンでしか語れないことがあるのはたしかだ。でも饒舌に傾きすぎるにせよ、物語ることでしか表現できないこともある、そんなことを思ったりする。受けとる人を、みる人を信じるしかない。真摯なものだけがもつ、どこかでふいに溢れだすもの、ことばや映像では表わせないものが生みだされる瞬間をほとんど祈るようにして待つことだろうか。
 この映画も、今までの作品のように生きることの難しさ、耐え難さに満ちている。でもいつものようにそれでも存る、生きることの悦びがみえてこない。あの蔡明亮の傑作「河」の終盤、混乱と絶望の後、穏やかな陽光のなかにシャオカンがふだんの顔で戻ってきたときのような、最後の最後にいっきにあふれだす、静かで圧倒的なまでの底深さ、単純で限りなく深い生の喜びがみえない、そんなふうにさみしく思えてしまう。「楽日」で、終わってしまった映画の後に、破顔して全てを受けいれ肯定の表情をみせる南天のようなおおらかで奥深い楽天性はみえない(南天の死が蔡明亮に与えた影響ははかりしれないだろう)。
 ものに対してであれ、心に対してであれ、世界をあるがままを受けいれたちまち順応していく子どもたちのなかに、希望をみなくてはいけないのかもしれない。でもそこにただ酷い諦めだけしかみえなかったりもする。
 そうなのだろうか。


追記:以前「文さんの映画をみた日」に書いたものを添えます。蔡明亮はほんとに深いところで人をうち、そうして支える映画をつくる監督です。


「楽日」「西瓜」(2003年 蔡明亮監督)
過剰さと哀しみに浸されて
 蔡明亮映画祭がシネテリエ天神で開催された。力をふりしぼった表現が、みる者に衝撃を与えながら静かに深くなにかを届けてくる。それを性急にことばにすることなく、微かに浮きあがってくるものに目を凝らす。
 「西瓜」(2005年)ではアダルト・ヴィデオの世界が、渇水の大都市を舞台に描かれる。身体や性を軸に、せつせつと求めあう心を掴みだそうという試み。滑稽であざとくて、どこまでも真摯でせつなく。
 そうして「楽日」(03年)。土砂降りの台北の外れ、時代からずり落ちた映画館の最後の日。スクリーンをみつめているのは、かつてのカンフーの大スター、苗天と石□(それぞれが俳優の自分を演じている)、彼らの最初の記念すべき出発となったキン・フー監督の「龍門客棧」。映画に涙し、出口で立ち去りかねている石□が苗天に話しかける。「もうみんな映画をみなくなった、誰も私たちを覚えていない」と。それに応えて苗天が破顔一笑といった笑顔を返す。まるでこの映画の、そして彼自身の映画史を締めくくるように。ファンのひとりとしてその表情がフィルムに残され、いつでも出会えることに安堵し、まるでその現場に立ち会ったかのような喜びに満たされる。でももう彼が亡くなっており、次の映画はないこともまた痛みとともに思い知らされる。こうやって苗天を重要な登場人物として描いてきた、蔡明亮のひとつの時代が閉じられた。
 「楽日」には苗天が苗天という俳優の役を演じるし、少なくない割合で実人物としての彼も重なるといった多重性もある。蔡明亮は全ての映画をあたかも連作であるかのように撮っていて、自身の過去の映画を引用し続ける、同じ俳優として、仕草として、シーンとして、台詞として。そのいくつもが重なり層になり、つながり、みている者のなかで膨れあがり、予測できないひろがりを生み、人を世界や時間に直につなげていく。
 登場する人々が、できごとが、いつも<哀しみ>に浸されている。人々は都市は乾ききって餓えている。そうしてどこも水が溢れ、なにもかもを覆っていく。澄んでいても濁っていても、水は全てを濡らし、湿ったぬくもりや生気を放つ。生をその根底で支えるものとして、光に寄り添うようにして。


黒い眼のオペラ(2006年 蔡明亮監督)
眠りの船は巡り
 なんの躊躇いもなく真っ直ぐに人の深みへと降りていく蔡明亮、その新しい作品がいよいよ公開になる。東南アジアの湿りと熱気のなか、終わりのない仕事、民族間の葛藤、貧富の差に翻弄され疲弊した人々のよるべなさと、でもそこでこそ掴みとられる愛や誠意が描かれていく。流れる汗や澱んだ空気に満ちているにもかかわらず、どこかに夜明け前のうす藍色に染まった透明でひんやりとした一角が残っている。人を孤立させ途方に暮れさせる一方で、静かで微かなつながりを産みだす母胎でもあるような、夜と朝の間、闇と光のあわい。
 心と体、男と女、母と息子、男と男、生と死、そういったことが具体的な身体をとおして語られる。手で洗われ、指でなぞられ、突き放され、重ねあわされる体。交わされることばはほとんどない。眼や唇、指が伝えるわずかなもの、そうしてその限りなさ。
 大型マットレスをまるで寓意的な象徴のように扱いながら、ふたりで眠る、抱きあうといった、とても親密なのにどこかで身体の個別性を意識させられてしまう場のリアリティを掬い上げていく。滑稽なしぐさやおかしみさえも含み込みつつ。
 人は哀しい、生きることはつらいという思いが、いつものように蔡明亮映画の底を流れていくけれど、でも、だから、人は愛おしいし、生は大きな喜びなんだとも伝えてくる。ことばとしてでない思いの重なりが厚い層をなし、その内からにじみ出されてくる漿液がいつのまにか世界を潤していくようにして。
 都市のビルの廃墟に産みだされた海を、ゆったりと滑っていくマットレスの眠りの船。緩やかな温かさに包まれて眠る人を乗せて、まるで桃源郷へとたゆたっていくかのように、終わってしまった生が永遠の向こう側に漂い出すかのように。もしかしたらそれは眠り続ける人の硬い頭蓋の内に無限の一瞬として閃いた輝きかもしれない。
 生活の細部も丁寧に描かれているから、その夢のような恍惚とした終幕が、初まりの苦さや痛みにつながっていくのも了解される。でもそれは疲弊しきっての諦念や放棄でなく、そういうことも含みこんだ、生の力であり、思いの勁さである。そうしてそれはどこにも誰のなかにもあるということも映画のなかで教えられ、深々とした慈しみをさり気なく渡されていることにも気づかされる。7月下旬から福岡市のシネテリエ天神で上映。

 

菜園便り293
10月15日

 竜舌蘭が倒れた。なんだか悲壮感に溢れ、悲しみに包まれてしまうようないい方だけれど、じっさいはもっと散文的であっけらかんとしていた。台風で倒されたのだ。茎はまだまだ太く頑丈だけれど、根本の巨大サボテン部分が変色しもう腐りはじめていて支えきれなかったのだろう。地面から2メートルほどの所からボキリと折れている。海側、つまり道路側に倒れたのを、誰かが外にはみ出た部分を折って庭に放り込んでくれていた。太いしけっこう重いから、折るのも運ぶのもたいへんだっただろうと見知らぬ誰かに感謝している。
 小さな黄色い花はとうに終わって黒く変色していて、その下に実というか種というか、細長い袋状のものががびっしりと並んでいる。ちょっとみると小さなバナナのようだ。
 台風の潮のかかった車を洗っているお隣も気づいていて残念そうだ。父がいたときは大喜びでみんなにふれてまわって、花も配ったらしいから、あれこれ知ってある方も多い。30年に1回なんだそうですね、ええ50年に1回ともいわれてます、私なんかはもう2度と見れないでしょうね、そうですねえでも庭の隅にもう1本大きなのがあるのでまた近いうちに咲くかもしれません、そんなことを立ち話する。
 もしまた咲いたら3度も見ることになる。50年に1回と聞くと、自分にとっては最後、と思うだろうし、一生に一度と当然思うのだろうけれど、竜舌蘭からしたら、群生する場所ではいつでもそこら辺で咲き続けているのだろう。
 そういった、一生に一度といったようなことは人を惹きつける。ましてそれを最後に喪われてしまうと思うととてもロマン的に感じるし感傷的になる。どこかヒロイックな響きも生まれる。映画「会議は踊る」(1931年)の主題歌は「ただ一度だけ(Das gibt's nur einmal)」だった。あの歌は感傷より強さが前面に出ていた。そういう歌詞が喚起するものと、あのちょっとパセティクな映像、メロディがぼくをどこかへ連れて行ったこともあった。ダス ギプス ヌァ アィンマル、ダス コム ニヒト ヴィーダー、ダス イスト ツー シェーン ウム ヴァール ツー ザイン ・・・・
 ウイリアムホールデンジェニファー・ジョーンズの「慕情」の原題は「Love is a Many-splendored thing」。そういう、愛はすばらしい悦びに満ちているといったことばが、慕情という、遙かに偲ぶ、哀しい色あいを帯びたことばに置き換えられるのも、日本的なことなのかもしれない。まっただなかの燃え上がるときでなく、過ぎていった、喪われていったときを主題的に取りだしてしまう心性。
 当時の花形職業、海外特派員とアジア系の美女(という設定)のロマンスはやはり成就することなく戦場での死、が待っている。香港という奇形の植民地、アジア内の戦争、そこに関わる正義の米国人、寄りそうアジア系の娘。以前、米国人からジェニファー・ジョーンズは彼らには異国的な顔に見えると聞かされて少し納得がいった。まだアジア系の女優が主演をするなどということは想像もできない時代、システムだったのだろう。主題歌はどこか甘く感傷的で哀愁を帯びているから、慕情というタイトルがいっそう身にしみるのかもしれない。
 成就しないもの、挫折し倒れるもの、中途で喪われるもの、そういったものへの偏愛はくり返しくり返し描かれ続ける。  

 

菜園便り295
12月7日

 友だちに渡すのに、出がけに庭の花をおおいそぎで摘んだけれど、たちまち7種ほどが手に入った。少し寒くなった後だから、花なんて石蕗ぐらいじゃないかと思っていたのでちょっと驚いた。その時は気づかなかった小菊も表玄関そばにでてきたから、今だともう少し多くなるだろう。荒れた庭にもいろんな喜びが潜んでいる。
 そんなことを書きかけていたらもう12月、いつのまにか真冬になっていて、庭の花を愛でるどころでなくなった。昨日は寒さで体が動かなくなって、応接室のストーブの前で石像化していた。心もこわばって動かなくなる、困ったことだ。
 先日、2階のひさしで見つかった鵯ほどの鳥の死骸のことを書いたら、まるでそれにあわせたようにまた鳥の死。今度は下の台所の排水口近くに横たわった、オレンジと青の小さな鳥だった。たぶんジョウビタキだろう。こんな妙なところにあるのは、頻繁に玉乃井に入ってくる隣の猫の仕業だろう。庭で鳥をねらって潜んでいることもあるし、襲っているところを見てしまったこともある。どこかで捕らえて、自分の家にではなく、秘密の隠れ家に隠したのだろうか。
 乾いていて、重みが感じられないほど軽い。でも羽の色は鮮やかなままだ。そのまま乾燥させて採っておきたいほどだけれど、そうもいかない。木立のなか、前の鳥を埋めた近くに小さな穴を掘ってうずめた。近くにはこの夏花をつけた竜舌蘭がある。根本の本体部分は黒ずんでもう半分枯れている。このまま潰えていくのだろう。50年がんばって伸び続け、力を蓄え、そうして開花し種子をふくらませ散らして終わる。異様なまでに肉厚で鋭い棘を持つごつごつしたサボテンも、次世代へと、種の保存のために生きぬいて、そうして朽ちていく。
 表の玄関前では、まだ松の落ち葉が続いている。落ち葉だけれど、油色とでも言うしかないような薄茶色でつややかな葉だ。形もくっきり、きりりとしている。たった1本の松だけれど、強い風の後など、掃き集めるとふた抱えほどになる日もある。花を存分に散らせた後だから、心おきなく自身の体調を考え整えているのだろうか。
 プランターのレタスはまだ葉を拡げているし、バッタの攻撃を生き延びた春菊も伸びている。空豆も半分土に埋もれて、日照時間が長くなるのを待っている。ルッコラが小さいなりに群れていて、時々サラダに彩りを添えてくれる。アーティチョークはほとんど伸びなかったけれど、そのとげとげの形よい葉を緑色に保っている。刈り払われた交差点から持ってきたペパーミントは本家が全てなくなった後、健気に鉢のなかで増え続けている。元気のあるうちに地植えしておかなくてはと、何度も思ったことをまた思っている。残念ながら、友人が持ってきて植えてくれた夏みかんは夏を乗りれなかったようだ。
 続いた死を気にもせず、鵯や雉鳩がかわらずに庭にやってくる。すぐ向こうの海では鴎が群れをなして低く飛んでいる。さざ波がどこまでも光って海はもうすっかり冬の色。


菜園便り296
12月12日

 今年もそろそろおしまい。来し方行く末とまでいかなくても、少なくとも映画のことは書いておかなければと思いつつ、でも雨ばかりの夏のない年だったといったことだけがすぐに浮かんできてしまう。なにはともあれちかい人の死がなかった、それだけは言祝がなければ。
 「映画・今年の3本」を載せていたYANYA’がでなくなって久しい。いろんな人があれこれ思いがけない視点から語りあうのは楽しかった。知らないことを教えられたりもしたから、読めないのは残念だ。
 みにいった映画の数は少ない年だったけれど、夏にいくつかの特集上映でまとまってみることができたし、すごくヘビーなものも少なくなかったから、受容感はかなり大きい。小川紳介三里塚シリーズ、特に「三里塚 第2砦の人たち」については今も大きな塊が処理できずにどんとどこかに乗っかったままで、なんだか食べられないものを大急ぎで詰めこんだように重苦しい。ついあれこれ思ってしまう。この映画を、例えば「玉乃井映画の会」でやれる日は来るのだろうか、といったようなことまで。それはもちろんぼくのこととしてだけれど。
 王兵ワン・ビン)監督の「収容病棟」はなにをどう語るにしても、もう一度ゆっくりみなくてはと思うけれど、あの5時間近くをもう一度たどるにはかなりの勇気がいる。心身の体調を整え、冷静にかつ柔軟に、姿勢正しく毅然と、でも心開いて感情にも蓋をせずに、恐怖や嫌悪、痛みや憎しみも隠さず、そうして喜びも哀しみも手のひらにすくい取って静かに見つめ、力あればのみほして・・・・そういうふうに対応できるだろうか。
 大げさなことばはおいて、今年の3本。6月にKBCシネマでジャ・ジャンクーもやったし(「罪の手ざわり」)、アジア映画祭では蔡明亮の新しい映画だけでなく本人も登場したし(「郊遊 ピクニック」)、成瀬の「浮雲」をまたみたりもした。でも、小川紳介王兵のものを除いたら、やっぱり「玉乃井映画の会」の作品がすぐに浮かんでくる。
 ジャ・ジャンクー監督「一瞬の夢」はぼくには初めてだった。玉乃井の暗く閉めきった2階で初めての映画をみるというのはとてもうれしい。みんなと同じ期待を抱いてスクリーンに向きあえる。賢しらな「解説」をしようと思ってもできないから、あれこれ予断を押しつけずにすむ。彼の長編第1作、実質的なデビュー作で、出世作でもある。青春の屈折、いらだち、悦び、怒りや欲望がむきだしで語られる。ことばにしてしまうとそういうありきたりのクリシェになってしまうけれど、とにかく率直におそれずに、きちんと語れることだけを自分のことばで語る、しかもそういうことを自分への枷とせずに、結果として等身大になるような、細かな齟齬を踏み抜いていくような、たいせつなことは伝わるんだと信じて、遠くまで届く静かな声を発し続ける、そういう姿勢というか気概に先ずうたれる。
 これまで何度もみてきた小津安二郎監督の「麦秋」は秋にやった。揺るぎないしっかりとした構造があり、どこまでもシンプルで限りなく深いから、野放図に細部にこだわれる、まるで淫するように。家族が解体していくということそのものへの哀悼、消えていった時代への郷愁は、みるぼくにも深い。いつもそうだけれど、今回も、東山千栄子と嫁の三宅邦子が縁側でやる、打ち直した綿を、洗った布団がわに入れていく仕事なんかをじっとみつめてしまう。廊下の隅に、打ち直してきた綿が、四角い包みで重ねて置いてあるのもちらと確認できる。子どもの頃の我が家ではだるま綿がだるまの絵が入った梱包紙に包まれていたけれど、ここのはどんな梱包紙なのだろう。綿全部を包むのでなく、外側だけをぐるっと四角く囲むように包まれている。廊下の隅の壁の前なんて積み上げるのにぴったりだ。そんなことも思う。
 母は手伝いに来てくれたセリノさんと二人で両端からひっぱったり、軽く叩いたりして平らにならしながら、所々に緑色の幅広のかたいとじ糸でしつけていた。針も独特だった。リズミカルに刺しては抜いてくるりと結んでぷつんと切る、そのくり返しを何故だかとてもよく覚えている。なんであれ縁側の作業は楽しげで、ましてやセリノおばちゃんが来ているし、あたたかい綿や布団が広がっている。はしゃいでしまうのはとうぜんだったのかもしれない。
というわけで今年の3本はあれもこれもと悩むことがなくて、「三里塚 第2砦の人々」「収容病棟」「一瞬の夢」「麦秋」ということになった。


菜園便り297
12月15日

死はあまりにも劇的だから誰もが引きつけられてしまう。惹きつけられて、が正しいのかもしれない。


死、そのものより、それにまつわる事々、例えば、自分のなかに巻き起こる決まりきったとしかいえない激しい感情とそれの誇示、自分への?、そうしてくり返される儀式への参加とのめり込み。でもそれでも


ぼくは誰かに「発見」されるのを待っている。誰もがそうだろう。
ほんとに?

菜園便り298
2015年1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。


菜園便り298
1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。最後にお見舞にいったのは虎ノ門病院で、だから昼時に病院を抜け出してオークラに行ってクラブハウスサンドイッチをいっしょに食べた、「病院の飯はほんとにまずいし、かさかさなんだ」と。ガーデンレストランには今もそのメニューは残っている。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。

菜園だより***
 看病で、病院で見せつけられる、死にいたるたいへんさへの恐怖も消えないのだ、きっと。徐々に死にとりこまれていくとき、身体的な痛みや苦痛が、もじどおり息のできない苦しみが、人を襲うことを間近に見てしまうと、もう誰もそれへの怯えから逃れられなくなってしまう。
 死の床の全体を貫く耐え難い不快にびっしりと覆われ、それを拒むことどころかそれを口にすることさえできずに、あちこちをいじられ、こづき回され、喉の焼けるような渇きの一瞬の解消さえなく、何日もうめきながら血を流しながら叫びつづけて無能な医者や傲慢で不器用な看護士たちへの怒りが爆発し、側にいながらなにひとつ解決できずにお追従だけしている家族への怒りが生まれ、でもその全てがけしてことばにも態度にも表せないその二重三重の怒り苦痛悲しみ。結局はただ諦めて、でもそれによる苦痛の減少がわずかにでもついてくるのだろうか。
からからの口のなかを妙な臭いのガーゼで力づくでかき回し、粘膜を引き剥ぎ、病人にいっそうの痛みと不快と渇きをつのらせていることに気づこうともせずに自慢げに<きれいに>してやったと誇られて、それを新たな怒りでなく、ただ黙って受けいれるほどにも衰弱は深くなれるのだろうか。心臓が動いているだけで、痛みも不快も怒りも感じなくてよいほどにもうろうとなれているのだろうか。きっとそうではないだろう。では最後の最後の瞬間、それは劇的に「今」というような瞬間でなく、短い時間内であれ徐々に心臓が脳が働きを停止していき呼吸が止まり、血圧が一気に下がり、どこかで「生命」が消えていくときその時に恐怖や苦悩はないのだろうか。痛みはもうない気がするけれど、それも脳天気な外にいるものの楽観にすぎないのだろうか。
様々な喪の行事を行うために人は集まり、あれこれを片づけていく。段取りを決め、お寺に連絡し、親族に知らせ、お土産やお菓子や果実、それに花も手配し、座布団を干して、仏壇を掃除して、写真をだす。道路側に飛び出している庭木を大きく刈り込み、隣との境界の蔦や灌木を取り除き、家のなかもあれこれ片づける。遺品の整理も続ける。
いろんなことをてきぱきとすませていくと、かえって鬱々としてしまい気力も失われる。なんだかほんとにひとりになってしまったと、そんなふうに思えてしまう。久しぶりに眠れなくて夜が長くなる。人は自分でも気づかないところでいろんなことを思い煩っているのだろうか。自分のことばかりにかまけていると、自分のことさえわからなくなっていく。
お盆も近づいてきた


菜園便り
1月13日

菜園便りは時々番号が飛ぶ。抜け落ちた数はけっこうある。気にして問いあわせてくれる人もいるけれど、だいたい誰にも気づかれないままひっそりとどこかのすみに紛れ込み沈んでいく。
ぼく自身が忘れてしまったのもあるだろう、きっと。書いたのだけど送らなかったとか、書きかけて止めたけれど、抹消するのがなんとなくはばかられたとか。
「撞木鮫のでてきた日」のように個人を宛先にしたものにそういうのが多い。その人だけに当てて書いたのだったからだが、しばらくしてまとめる時に載せたりしたから、まったく消え去ったわけではない。
今回の「菜園便り   」は1部限定で、宛先は写真家の飯田さん。夏の写真展に出すためということで、「作家」のポートレートとして撮りにみえた。いつもは美術作家を中心に撮ってあるし、ぼくごときがと、なんだかおこがましい。でも玉乃井の雰囲気を撮りたいということだろうと引き受ける。そうやって簡単に引き受けたけれど、とにかく気恥ずかしいというのが最初にあって、それは最後まで続いたし、緊張もずっととれなかったけれど、なんだかふっと気が抜ける時があった。
撮られることの不思議や快感も知ることになった。 

 

菜園便り299
1月20日

 海側の庭に面したガラス戸のすぐ下、小さな藪椿に初めてのつぼみがひとつついた。緑のなかの紅、でやっと気づいたけれど、丈も低くひっそりとつけたつぼみだから気づくのもおそかった。
 もう7年ほども前に近所の人が、鉢植えではかわいそうだし、自分のとこは植える場所がないので、ということで持ってみえた苗の1本。潮や風の当たらないところと思いつつ3カ所に植えて、当座は水やりも続けてどうにか2カ所は着くのは着いた。砂地だしあまり手入れもしないままだったのに、健気に少しずつ伸びてとうとう花をつけるまでになった。1メートルにも満たない茎に大ぶりなつぼみがついている。
 少し離れているし特に親しいお宅でもなかったから、植木を持って見えた時は少し奇異な感じもしたけれど、もちろん子どもの頃から知っている人だし、喜んで受けとった。しばらくは様子なども伝えていたけれど、いつの間にかまた遠くなって、会えば黙礼するくらいの関係に戻ってしまって今に至っている。花のことも伝えられないままに終わるのだろうか。
 植木は頂いても着かないものが多い。自分で買ってきた苗もほぼ全滅だけれど、思いがけないものがぐんぐん伸びたりして驚かされる。楠とか月桂樹とか、大きくなる樹が意外にすっと着いたりして、なんだか不思議な気もする。
 そうやってたちまち3メートルにもなった楠のそばで水仙が開いていた。この冬初めての花だ。小さな一群れがかろうじて、といった感じで続いている。たて壊した離れや大浴場があった頃のしおり戸のあたりになるのだろうか。そこはちょうど建物が風よけになっていて、海からの潮もまだひどくない頃だから毎年たくさんの花が開いていた。
 そういえばあの頃は茅はなかったなと、冬枯れしても勢いを失わない茅をついつい恨みがましく見てしまう。


菜園便り300
3月23日(2015)

 「菜園便り」が300回になった。第1回が2001年だから、14年ほどたったことになる。途中で一度、抜粋を『菜園便り』という本の形にまとめたけれど、それからでも5年はたった。その本のはじめには200回目は2003年だとある。100回めはいつだったのだろう。
 いろんなことがある、そういうあたりまえのことを知るために、人は長々と生きているのかもしれない。若さは愚かしさだったけれど、いつまでたっても愚かなままだという内省も今になってあらためて生まれる。
 そこからさらに進んで、「でくのぼう」とよばれることをめざし、指さされることに負けない生き方をしようとする人もいる。でもどういう隘路を伝ったらそういう場へと抜け出られるのだろう。昔だったら、長く困難な旅とヒロイックな行為の後にやっと遠くに見えてくるのだ、なんて思ったかもしれない。ここより他にしか、戦いの荒野も安住の桃源郷もないのだと思いこんでいた。賢しらに「青い鳥はここにいる」なんて口にする者には、そもそも青い鳥なんていう発想そのものが、ここにないものを指しているんだと冷笑して。
 でもそういうことではなくて、こことか、他とかといったことばそのものに意味がないということ、意味をなさなくなるといっても同じだけれど。そういういい方をするなら、全ての場所がここであり他であるということだろう。
 「でくのぼう」になるには、そういう場に立ちたいと真摯に考え、ほんとうに思い願うこと、そういうありふれた、でもとても難しい方法しかないだろう。でもほんとにそういう場にたちたいのか、ほんとにそういうふうに名指されて生きていけるのか、つらくはないのか、屈辱や痛みにたやすく打ち負かされるしかないんじゃないか、そんな躊躇が一瞬でもある間はなにも見えてこないのだろう。
 誰もそういう場は怖い、でもそこしかないんだと、そうしてそこはまったきに開かれて明るく勁い場だ、と、そここそがほんとうなんだ、そこしか生きる場はないんだとしっかり掴む人もいる。感傷的に憧れるのでなく念ずるほどに強く思うこと、信じること。単純でそうして限りなく深く遠い場。
 菜園は緑濃くどこまでも広がる、重なりあったやわらかな葉が辺り一面を埋めている、赤い実がそこかしこにのぞく、黄色いのはなんだろう、陽光は根もとの黒々とした土にも明るく降り注ぎ輝いている、頑丈な竹の支柱に絡まり伸びてきた蔓が空へと触手を伸ばし、その先端のほとんど白いまでの青い色素にも白金色の透明な光がまとわりつく、土のなか地下へと向かう毛根が蓄えるごつごつした塊、さらさらと葉を鳴らす風が季節の流れを攪拌し掻き乱し、ここは今なにもかもが実り溢れる豊穣な沃土。
 現実のプランターのなかでは、くすんだ色のレタスがやせ細った髭根を広げ、小さな苦みのある葉をときおり届けるだけになっているとしても。すべては愛です、野菜も愛です、どこででもなんでも育つのです、どうにかしのいで冬を越してきた春菊やルッコラがひっそりとそう告げる。誰に向かってだろう。愛、慈しみ、それは求めるものではなく、与えることしかできないものなのだろうか。

菜園便り301
4月3日

 モーツァルトの全曲聴破も、2年を超してオペラまで終わった。残るのはアリアとか宗教音楽とか。かのレクイエムが残っているとはいえ、もうあとわずかだ。今月は無理だとしても、この春のうちには終わるだろう。でもその後はどうすればいいのだろうか。今でも時々はリクエストもあってジャズやリュートやバッハをかけているけれど、そうやって気の向いた曲をかけていくというのはかえって難しそうだなあとも思う。いつの間にか同じ曲になってしまいそうだ。CDだけでなくレコードやテープもかけるように気持ちや体をもっていかなければ。
 聴破記念には「ひとりリクエスト大会」でもやろうか。先ず何からはじめよう、つい先だって話題になったピアノ協奏曲23番でもいいし、毎朝聴いているクラリネット協奏曲でもいいし、明るくホルン協奏曲1番で幕開けしてもいい。夜の女王のアリアで騒がしくはじめるのも一興かもしれない、それともやっぱり静かにピアノ曲だろうか。聴くといつもシンとしてしまうピアノ協奏曲21番の第2楽章か、それとも・・・あれこれ空想は尽きないけれど、シンフォニーがぜんぜん挙がってこないのは訝しい。継子いじめだと思う人もいるかもしれない。でも大きなものや堅牢なものが苦手だし、仰々しいものは敬遠してしまうので、どうしようもない。でも42番くらいはかけなくては、といったひとり冗談はさておき、「魔笛」や「レクイエム」はかけるだろうなあと思う。最後をどうするかも問題だ。アンコールになったらどうしよう、小さくて心にしみるものだと、やっぱりピアノソナタになるのだろうか、などどらちもないことを考えてしまう。どうしてこうやってすぐに形に置き換えてしまうのだろう、貧しい心性だ。
 「菜園便り」300回について返信をくれた人もあった。そういうのはうれしい。ああ、誰かがぼくの声を聴いてくれたんだと思うし、なにかがむこうに届いているんだ、そうしてそこからのなにかがぼくにもまた届いたんだと。
 300回はすごく直接的な書き方だったから、頂いたメールには宮澤賢治に触れたものもあった。直接的である間はなにも生まれない、ともいわれたりするけれど、そうだろうか。「でくのぼうになる」の対極には、若い時に誰もが足を取られる<上昇志向>や<野心>や<正義>があるのだろうか、そういうことも、書かれている。そうしてそこからやっと自由になったと思いこもうとしても、そうは問屋が卸してくれない、あたりまえだけれど。
 今もふつふつとたぎるものを抱えている人も少なくないだろう。御しがたい熱、内で荒れ狂う風、凍りつかせる外からの雨、そういったものに振りまわされず、でも切り捨ててしまうことなく抱え続けていくのはとても難しい。
 それはぼくにとっては書くことを止めない、止められないことになるのだろうか。「表現とはついには他者のものでしかない」、そうだともそうでないともいえなくなる。
 成功や名声にあがくように憧れる人もいる、誰にもそういう時期がある。もちろんぼくもそうだった。でもそういうことに付随するめんどうや嫌なことも丸ごと引き受ける力がないと、押しつぶされてしまうだけだろう。
 プラスでもマイナスでも「有名」にもならずにすんでほっとしている人も多いだろう。近隣でのちょっとしたいざこざに巻きこまれたり、友人たちの間でちょっと持ちあげられたり、それでもう十分だと。もう「若く」はないけれど、未だに「貧しく」「無名」であることの安堵と小さなさみしさもある。そういうことを市井に生きるというのだろうけれど、そこにある勁さや深さに気づかされるのには、それはそれでまた時間がかかるものだ。自分を過大評価することから離れようとして過小評価することは、世界を、人々を過小に見てしまうことととつながってしまう、そういうややこしさもある。
 身についてしまった、近代の悪癖のひとつである、批評してしまう因習から逃れ、ただみる、聴く、直に向きあおうとすること。そんなことは誰にもできないんだと突き放さずに、虚心にただむきあって、溢れてきそうになることばを押し返して、ただ黙ってむきあって、そうしてそこに浮きあがってくるものを静かにすくいとって。そういうふうにわたくしは生きていきたい。


菜園便り302
5月6日

 3月の「絞死刑」上映の後、「犯罪」や「罪と罰」ということについて考えた人は少なくないだろう。松井さんが中心になってやっている「9月の会」も、3月は李珍宇のことも含めて「犯罪・内部・記号」というテーマで語られたし、昨年11月はオウム真理教のことがテーマだった。
 他にも、Rについて、李珍宇について、心について、犯罪について、現在起こっている事件について語った人もいる。憎悪するにしろ、同情するにしろ、自分を重ねるにしろ、誰もがいやでもいろいろに考えさせられることがらだろう。
 以前、「チチカット・フォーリーズ」というドキュメンタリー映画についてについて書くなかで「犯罪」についても考えたことがあった。それを再度「YANYA’」に載せるために手を加えてまとめたのだけれど、あらためて「菜園便り」に取り込むことにした。なんだか焼き直しばかりしているようだけれど、今もこういうふうに考えているし、これ以上には考えられないとも思う。

続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。下記に再録した当時書いたものは、ずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もあるけれど。

 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。


菜園便り303
4月5日

 一昨昨日、2階の改修部分、山本さんや壮平君に床張りをやってもらった松の間の障子張りをやった。2枚だけだったから、ついでに下の応接室の一部も張り替えた。なんだか「菜園便り」には障子張りのことばかりを書いているような気もするけれど、ぼくにとっては特別な家事なのだろう、きっと。<家族>や<家>をとても強く感じさせる作業。
 季節を感じさせる労働であり、ふたりで協力しあってやるし、すでに過去のものとなった行事みたいでもあり、終わった後の白い爽やかさは格別だ。光が和紙をとおして柔らかくなり、乱反射して明るさがますようにも思えたりする。
 父が元気をなくした後、札幌の姉が頻繁に来てくれた。父も喜んだし、ぼくもとても助かった。その頃、姉とやった障子張りのことを菜園便りに書いたのを覚えている。母とやった時のことも思いだす。母は1枚張りできる大型の障子紙のことをはじめて知ったようで驚いていた。これだと障子1枚貼るのもあっという間に終わる。友池さんに手伝ってもらって何枚も2階の障子を張り替えたこともあった。10年以上やっていなかった部屋もあって、掃除からはじめてたいへんだったけれど、ずっとつきあってくれた。1階の応接室の障子の助っ人は壮平君だった。「音楽散歩」に会場を提供した時のことだと思う。あの時はたしか深町さんのリュートの演奏会だった。松尾家の手伝いに、障子張りの「出前」に出かけたこともある。
 母が亡くなった後は父とのふたり暮らしだったから、父とふたりで障子張りをやったこともあったはずだけれど、それは覚えていない。父との作業では、菜園の野菜づくりのことをいろいろ覚えている。その父が亡くなってからでももう5年がたつ。来年は7回忌だ。
 ビリーホリデイを聴きながら障子張りしたと書いたこともあるけれど、先日のは2階だったし、なんの音もないまま、ひっそりとひとりでやった。誰かひとり紙を押さえてくれる人がいると貼る時にほんとに楽だしうまく貼れるのだけれど、そうもいかない。メンディングテープで端を止めて静かに引っ張り押さえていく。「ゆっくりゆっくりでもでもすばやく」「ていねいにていねいにでもだいたんに」なんておまじないをいつのまにか唱えている。少しくらいずれてもしらっと続ける、かなりずれた時は、4文字ことばを声には出さずにくり返しながらやり直す。少々汚れたりねじれても平気平気と安心させつつ。霧吹きでぱっと吹けば一晩でピッとなる、だいじょうぶだいじょうぶと。
 たぶん障子の建具そのもの繊細さ軽さ、紙の軽さ、光を透過させるものだということが、張り替えを厭わない理由かもしれない。襖にはなかなか手がでない。すぐにも張り替えをやらなくてはならない襖は山のようにあるのに、試してみようかとも思えない。重い、力がいる、難しい、張り替えた後の衝撃度が低い、つまりあまり見栄えしない・・・。まさに「かわいそうな襖さん」、だ。
 でも障子張りに感じるようなささいなちょっとした楽しみこそが、無限に続く果てのない「家事」をやり抜かせる力なのだろう、かすかな期待、達成の喜び、とりあえずの終わりがある安堵。


菜園便り304
5月8日

 田植えを終えた水田が広がっている。4月の終わりに機械で植えられた時は、思わずだいじょうぶかと声をかけたくなるほど小さく細い苗だったけれど、10日ほどでしっかりとした濃い緑に伸びた。一面の水鏡に映える爽やかな緑は誰をも魅了するだろう、鳶や鼬や小学生をも。かすかな風が水面を揺らすと光も陰も大きく揺れて割れて拡がる。心のなかにじかになにかが入ってくる。
 庭のプランター空豆は今年初めての収穫、柔らかくて青くさくてとにかくおいしい。「一寸空豆」と種袋にあるのを買ったのは、添え木や支柱を厭う怠けごころからで、でもやっぱり一寸を支えきれずに緑の塊全体が傾いている、揃って同じ方向へ倒れかかりもたれあっている。ちょっと見苦しい、1本でいいから縄をぐるっと回して支えてあげればいいのだ。何度も思ったことをまた思う。
 この時期に病葉を落とす木々の落ち葉も盛りは過ぎた。毎朝みごとに散った葉を履き集めるのはちょっと残念な気もする。周りの冷たい視線がなかったら、落ちたままの風情を楽しむだろう。朽ちて踏みしだかれて、そうなったらささっと掃き寄せる、そんなふうにはなかなかできない。共同体が無言で強いるものを拒むのは難しい。昔だったら、闘わなくてはいけないとか因習を合理的な科学で打ち壊さなくては、なんて本気で思っただろう。今は、永い時間をかけて培われた集団の智恵、掟といってもいいだろうけれど、を引き受けていきたい、そういう穏やかな常識こそが今切実に必要とされているのだろうから。
 美術展の前に刈った茅はもうしっかり20センチほども伸びている。青々とした尖った葉が真っ直ぐに立っていてそれはそれで美しいけれど、またびっしりとはびこると思うと憂鬱になる。今年こそは草刈り機を手にいれてまめに刈り続け、徐々に潰えていくのを待つしかない。でもカラスノエンドウを打ち負かしたほど強い茅が弱まるとなると、次は何が我が世の春を謳歌するのだろうか、この庭で。それを思うとちょっとこわくなる。
 春菊もいくつも花をつけている。ガーベラのような淡い2色。ルッコラも白い十字状の花を次々に開く。開いたそばから摘みとられサラダにされてしまうので、また次々に開く。レタスも葉を広げ、山椒は溢れんばかりに木の芽をつきだしている。ミントとアーティチョークも冬を生き延びてそれぞれの葉を伸ばしている。パスルテルミント色なのはアーティチョークで、ペパーミントは少し黒みの混じった濁った厚ぼったい緑だ。
 夏野菜の植えつけをやっと終えることができた。胡瓜もゴーヤもズッキーニも諦めて、トマトだけに絞った。他はバジルと紫蘇だけ。これだと嫌でもうまくいくだろう。もちろんベランダそばのプランターと鉢だけ、元気なレタスのそばだ。
 庭の木々は今がいちばん美しい。すみの小さな茂みも、ぐんぐん伸びている楠も、様々な色の階調でなりたっている。思わず口に入れたくなる柔らかい黄緑色の一群の横には真夏のような濃い緑が黒々とあり、少し薄紫がかった明るい一画と強いコントラストを描いている。オレンジというよりは赤といった方がいいような透きとおったと細長い葉ものぞいている。白い小さな花がびっしりとついていても、葉叢の印象は消えない。白い花という葉。棘の多いむやみやたら枝を伸ばした醜い木もほっそりと端正に見える。花が終わった椿の葉は暗く輝いて厚く、光をぎらりとするほど反射する。
 折々の花もある。週末のカフェの日には小さな花を摘んでテーブルに挿す。月桂樹、ユズリハといった生命力のある樹の枝は花瓶のなかで何ヶ月もじっと命を繋ぎ、みる人に緑の光線でやすらぎを与え続ける。お正月に切りとった枝が、まだそのままの姿でしっかりたっている、すごい。

 

菜園便り305
6月8日

 夏野菜が背丈ほどにも伸びて繁るほどだった菜園も、父がいろいろできなくなり小さくなっていった。亡くなった後もどうにか続けていたけれど、それもプランターや鉢植えにまで小さくなり、もう季節を映せなくなっている。ルッコラもレタスもなんとなくできてそうしていつのまにか終わっていく。冬の蕪、大根、春菊、初夏の空豆、ズッキーニ、真夏のトマト、胡瓜、苦瓜、そんなくっきりとした鮮やかな季節は今はない。ぴたりぴたりと狙ったように時期を定めてはいっせいに花開いてたわわに実って、ということはない。
 そのかわりというのもへんだけれど、落ち葉はしっかりと季節を映す。決められた時期にいっせいに落ちて道路や玄関にはでに散るから隠しようもないし、気づかないふりもできない。せっせと掃き寄せる。
 梅雨入り前後の今は、山桃の小さな青い実が降るように落ちるし、ネズミモチの白い小さな花がどっさりとばらまかれる。山桃は小さな実を振り落として確実に大きな実を結ぼうとしているのだろうけれど、こんなに落としてだいじょうぶかとつい思ってしまうほど、毎日毎日、うす黄緑色の固い実を落とし続けている。つぶつぶがくっきりとした青い実、人や車に踏みつぶされた実から、青臭さと共に熟した時のあの濃厚な甘い匂いの予感が立ちあがってくる。
 以前は熟した実を丁寧にもいで果実酒にしたりしていた。味よりもとにかくその色の美しさにうっとりしていたけれど、甘い果実酒は自分ではのまないし、どうかすると色が抜けたりもするのでいつのまにかつくらなくなった。もちろん面倒くさくなったのだ。それでも熟した後は時たま手のひらに転がしてそのベリー状の形を眺め口に入れてたち上ってくる香りと甘さ酸っぱさを楽しんだりする。紅臙脂色の実が一面に散った道は美しいし、踏みつぶされて路上に残された紅い染みはなかなかなものだ、ちょっと異様でもあってすごい。見た瞬間に口のなかに甘酸っぱさと固い核の感触が拡がるし、もっと想像が飛んでしまうこともある。
 ネズミモチはこの季節、あちこちで見かける。とにかくどっさりの花をつけて匂いを撒き散らして蝶や蜂を呼び寄せている。幼い頃もたくさんあったのだろう、いろんなおもいでと結びついている。冬の金木犀、春の沈丁花、そうしてこの花、香りが辻つじに塊のようにどんと立っていて、通りかかるとごつんとぶつかる、そんなふうだ。
 先週から白百合も前庭と裏庭とで開いている。いくつかは切り花にして飾っている。夕方になると強い香りを家中に放つ。百合は日持ちするからね、といったのを覚えている。誰にだったのだろう。なんだかとてもインティメイトな、親密な気持ちが甦る。


菜園便り306
7月4日

 梅雨だ雨漏りだといっているうちに、もう7月にはいってしまった。
 以前は月初めの日に、ハッピー・ファースト・オブ・ジュライとかいったりしていた。いっぱいの楽しさを期待するというより、言祝ぐこと、祈ることに近かった気もする。お正月のあけましておめでとうございます、というのと同じかもしれない。
 くしゃみをするとグッスンタイトとかブレス・ユーとかいって厄よけしたことも思いだす。そうやってささやかな生活を少しでも護ろうしたのだろう。くしゃみやおならに対して極端なほどの反応を見せる文化もある。体から、なにかがでてしまうとか、よくないものがでてくるとか、そういう考え方があるのかもしれない。
 庭のミニサイズのトマトが次々になる。赤いの、黄色いの、丸いの、細長いの、いろいろだ。レタスは終わる前に次のを植えなくてはと思っていたけれど、ぐずぐずしているうちに消えかかっている。紫蘇やバジルは元気だけれど、そうそう使うものでもないし、ピーマンは教科書どおり最初のひとつを小さい時にとったのに次がなかなかできない、うまくいかないものだ。
 お隣の花田さんの菜園は大きくてりっぱだ。元気にいろんな野菜が伸びている。時々おすそわけもいただく。果肉は粘りがあるのにカリカリしたおいしい胡瓜とか、ぱりっとして苦みもあるレタスの葉などを。
 雨漏りの修理もやったので、漏る箇所も大きく減ったし漏り方も穏やかになった。海側の玄関の上など、あんなにひどく漏っていたのがぴたりと治まって、なんだか奇跡のようにさえ思える。こんなことならもっと早く、とつい思ってしまうけれど、いろんな条件がよい方に集中してやっと今できたということだ。もしかしたらまだまだ機が熟さなくて、いろんな人の手助けが得られなくて、もっとひどいことになっていたかもしれない。
 とにかくうれしいしほっとできた。こうなると他も全部、一気に直してしまおう、といった気持ちが生まれるのは当然かもしれないけれど、今までの長い過程があるし、なにより経済的な事情が許すのはここまでだともわかっている。焦ってはいけない、ゆっくりやっていくしかない。400キロもの布団を一気に処分するようなこともほんとは家にも人にもあまりいいことじゃない。ものごとをひといきに変えたり新しくしたりする急激な変化は刺激的でもあり、一見すばらしく思えるけれど、その裏ではほとんど全てのものが無理な動きや変化、ねじれ、さらには消滅を強いられているのだろう。機械的な力が無限と思えるほど強くなった現在、やろうと思えば、全世界の改変、消滅もありえないことではない。
 今を丁寧にじっとみつめること、動かない変わらないことに耐えること、いろんな不満足を受けいれる勁さを探ること、自他への批評を押さえること、弱さと思えるものを何度もとらえ返してみること。やわらかい虚無がにこやかに世界を包みこんで、静かにつもっていくことに抗うこと。否定や対抗ということでなく、根源的な生や死といったことすらも手にすくいとってあらためてしっかりみようとすること、問い返そうとすることとして。

菜園便り276
9月11日

 朝食の準備をしているとちょっと奇妙な気がしてでもなんだかわからずに手を止めると、しんとしたなかにつくつくほうしが鳴いているのが聴こえてきた。半袖のTシャツに短い綿のズボンの、まだまだ夏の気分そのままだったから驚かされた。でも空気はべとつかないし、バタバタしているのに汗ばんでもいない。いつの間にか床の隙間から、秋はひっそりと入り込んでいたのだろう、夜はひんやりとして「風の音にぞ驚ろかれぬる」だ。そういえば降りそそぐようようだった蝉の声も聞こえない。耳のなかでなっているのはいつもの耳鳴りだから、あらためて毎朝の「クラリネット協奏曲」に耳を向ける。
 ぼんやりしているうちに、いつものことだけれど、2曲目の「オーボエ協奏曲」にかわっている。こういうのはちょっと困る。何かやりながら聴くぼくみたいなものには、2つの作品がまちがって、というかまぜこぜになって残ってしまう。正直に言うと「オーボエ協奏曲」はそんなに好きじゃない。「クラリネット協奏曲」を2度続けて聴きたい。そうすればもっとしっかり耳に残ってくれるだろうしつい口をついてでてきてくれたりするかもしれない。中途半端にあれこれ聴きなぐってもしょうがない、そうでなくても集中して聴けないのに。
 季節を選ぶ作品はたしかにあるのだろう。「クラリネット協奏曲」は朝という時は選ぶけれど、季節には関係なくいつも穏やかで甘くてそうしてきちんとしている、もちろんどこか哀しい。だからまだ心身共にぼんやりしている時にも、いろんな世界の困難を受けいれる準備のできていない朝にも静かに聴ける。軽やかで、さあさあと促されるところさえある。
 夏に聴きづらいのはシンフォニーだ。暑っくるしい、頭がますますついていけない、大きな構造がのしかかってきそうでうっとうしい、耳も心も閉じて拒んでしまう、大げさにいえばだけれど。
 今年も「音楽散歩」が10月の14日に開催される。玉乃井も会場提供していて、アイリッシュハープ(だったと思う)の演奏が予定されている。玄関横のホールと呼んでいる応接室(今はリ・ウーハンがかかっているから、「リ・ウーハンの間」とよんでもいいけれど)。今回は新しい試みで有料・限定数になるらしい。昨年は深町さんのリュート演奏だった。午前・午後と2回あって、午後の部は60人を超す人がみえて大慌てだった。無理して20人が限度、できれば10人くらいでゆったり聴けるといちばんいいのだろう。ぼくひとりで深町さんのリュートを聴くという贅沢をさせてもらったこともある。珈琲をのみながらしみじみと高雅な音を体のなかに巡らしていくのは心身の健康にもすごくいい。
 夕方になって枯れた夏野菜を片づけていると、頭と片方の羽1枚だけ残ったくまぜみが落ちていた。周りに蟻の姿はないから、頭は大きすぎると放棄されたのだろうか。そろそろぼくも冬眠の準備にかからなくては。

 

菜園便り277
10月30日 「大いなる幻影

 10月の玉乃井映画鑑賞会はルノアール監督の「大いなる幻影」だった。第1次大戦中、ドイツ軍の捕虜になったフランス人将校(ジャン・ギャバンやピエール・フレネー)の収容所脱出劇。戦争なのにそんなに悲惨でないし、甘いなあとかんじたり、牧歌的な雰囲気だと言われたりすることが多い。でもそれはこの映画が時代や状況、人を丁寧に描いてないからではなくて、ぼくらの生きているこの時代こそがあまりにも過酷で、戦いと享楽に明け暮れているせいかもしれない。
 子供の頃、応仁の乱とかいった時代の歴史を聞かされて、なんて悲惨な時代だろう、そんなにも戦さが続いて、どうやってみんなしのいでいったのだろう、とても生きていけないなあ、と思ったりもした。でも今のこの時代の方がもっと戦争ばかりの、それも大型兵器を使っての徹底した殺戮戦といった、異様な世界なのだろう。後世の人は「歴史」としてきかされてその酷さに震えあがるかもしれない。
 映画の後半、収容された奥深い城砦から脱走するふたりを逃がすために、貴族のフランス人将校が塔のなかを逃げ回って追っ手を引きつける。
 「ボルデュー!ボルデュー!」
 城砦の主である隊長のラウフェンシュタインが追いつめて2度くり返す叫びは哀しい。収容されている敵国人捕虜への威嚇のことばは、でも親しい友へのせっぱ詰まった呼びかけにも似て、胸を打つ。それはまるで家族への呼びかけであり、幼気なものへの声であり、愛のことばである。そうしてあたかも彼こそが助けを求めているように、すがりつくかのように切々と冷たい大気のなかへ吐きだされて消える。
 くっきりとことばが浮きあがるのは、それがかすかな訛りのあるフランス語であり、つまりふたりだけの符丁を使っているという思いのなかにあるからであり、今までの収容所内での会話がそうであったように、おそらく誰にも聞き取れないだろう英語に切り替わっていく。ほとんど無防備なまでにさらけだされた思いは隠しようもなくあふれて、むきだしになり吐きだされる。お願いだから、頼むから戻ってくれ、わたしは君を傷つけたくない、喪いたくない、残された唯一の貴顕の友なのだから。貴族としての矜恃があるから、国の、王のための存在であるから、こうやって騎士として軍務に着いているけれど、それは限られた一部でしかないのだと。
 取り出されるピストル、右腕に構えて、再度の哀願が放たれる、どうか戻ってくれ、まるで跪きひれ伏して乞うように。しかしフランス人将校は自己犠牲を、騎士道をこそ選んで、奇妙な友愛を退けていく。今はただ国のために、そうして脱出した平民の将校たちのためにと、それが自分を疎外することなのかもしれないけれども。 
 放たれる1発、ボルデューは倒れ、死の床で詫びるラウフェンシュタインに応えて、あなたこそたいへんだ、生き甲斐もなく永らえていくしかないと、フランス人らしい皮肉も交えつつでも真摯に哀れみ、そうして果てていく。自分のなかへ滑り込み、沈んでいく。時代の流れのなかであがくことも、白いセーヌの手袋をいつも手入れすることも、常に姿勢を崩さずに超然としていることももう必要ない場へ。
 隊長の叫びがもつ身体性や肉感がさまざまなことを引きだすように、ジャン・ギャバンが冒頭でなじみの女の子との逢瀬に思いをはせながらレコードにあわせて口ずさむフルフルということばも同じように身体としての声を浮きあがらせる。
 唇の丸みの形や頬の厚さ、舌の長さが音をつくるのだと理解させられる。鼻腔や口腔、そういった体の部分が響きをつくり歌を放つのだと知らされる。唾でしめった空気がのどを通過するかすれた乾いた風と混じりあって、フルフル、フルフルという声として発せられる。そこにまるで誰かいるかのようにレコード盤を見つめ微笑みながら、知らず知らずにでている自分の声にも気づかないままに唇は動き、歌が流れる。
 RやL系の音だから極東のぼくらの耳にはいっそう新鮮に響いたのだろうか。

 

菜園便り278
11月27日
音楽に誘われてたどり着く場所
 玉乃井でのはじめての試み、「LP・CDを聴こう会」は楽しかった。会期中の「Y氏の雑誌、展。」とも呼応する静かな力も持っていた。それを可能にしたのはやっぱりゲストの古川氏そのもの。語る人の世界が浮きあがり、その向こうに時代も姿を現す。これからは「LP・CDを聴こう、語ろう、会」とよびたい。
 音楽とのであいが簡潔に語られて、会ははじまった。映画のなかの音楽を中心にまとめられた今回は、モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番 第2楽章」(「短くも美しく燃え」)とブラームスの「交響曲第3番 第3楽章」(「さよならをもう一度」)が一楽章ずつかけられた。「事前の打ちあわせでは、こういう美しい曲を聴きながら死にたい、というような話しもでましたね」という、なんだかおかしいような哀しいような逸話も披露された。
 それからジャズ。これも映画で使われた「マイ・フーリッシュ・ハート」がヴォーカルと少し崩した楽器演奏とで2度かけられ、ジャズとはどういったものかが丁寧に説明された。「ああ、そういうことなんですね」と素直な反応があちこちで起こる。わかったつもりになっていたり、説明することに照れたりでずっと避けてきたことが別の角度からすっと解かれていく。それからビル・エヴァンスなどへと続いていき、最後は誰もがびっくりする曲で締めくくられた。
 実は前日の「Y氏の雑誌、展。」のオープニング・パーティででた「歌謡曲の女性歌手もジャスをよく歌っているけれど誰がいちばんいいか?」への返答でもあった。所有されている青江美奈のジャズアルバムのなかから「ラヴレターズ」(他に「バーボン・ストリート・ブルース」と翻訳された「伊勢佐木町ブルース」等もはいっていた)。
 大学で大阪へ行き、よしジャズを聴いてやろうと意気込んでジャズ喫茶に通った。はじめはなんてうるさいんだと耳をふさぐほどだったけれど、我慢して通っているうちにだんだんここちよくなったし、わかってきた。当時はお金もなく、レコードを買ったりコンサートに行くような余裕がなくて、週に2回ほど珈琲代だけを握って通うのが精一杯だった。
 小さな憧れや挫折、重なる屈折を静かに畳みこんで、その時もそしてその後も生は続いてきたんだということが淡々としたことばで語られる。あっけないくらい単純でそうして目のくらむほどの深さがある、誰もの人生がそうであるように。
 冷静に踏み外すことなく、そつなく仕事もこなしてしのぎつつ暮らしてきた、まっとうな社会人の鏡みたいにも見える人の生の向こうにあるものが、逆立したネガのようにみえてくる。もしかしたらそちらがポジで、こちらがネガなのかもしれない。
 話はマーラーにもおよび、ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」が語られ、予定外だった「交響曲5番 第4楽章」にも耳を傾ける。一区切りした後は集まった人たちからの話や持ち寄られたレコード、CDへ。スモールバレーのおいしい紅玉のタルトを頂きながら話もはずむ。
 端正なものばかりが続いた後に全く異質な、状況劇場(紅テント)、唐十郎の後楽園ボクシングジム・リサイタル「四角いジャングルで唄う」のレコードかけられた。ぼくがずっと前に森さんからもらったレコードだ。唐の戯曲である「ジョン・シルバー」からの、海賊たちが歌う「ジョン・シルバーの合唱」。いかにも当時のアンダーグラウンド芝居の(時代のといってもいいだろうけれど)劇中歌。「七十五人で船出をしたが 帰ってきたのはただ一人」に思わずこみあげるものがある。そういった悲壮な感傷に彩られて、でも「真実」といった大仰なものが一瞬かいま見えたこともあったのだと、幼いヒロイズムだけがたどり着ける場所もあったのだと。

 

菜園便り279
1月3日

 年があらたまり庭の枯れた芝も輝いている。その向こうの海は陽を反射してどこまでも光が続いている。まぶしくて眼を向けられない。まるでなにかの比喩のようだ。
 なんの比喩だろうと思い返そうとして、そのときはもうことばは消えている。生まれる前に事切れたのだろうか。たぶん年の初めに思うようなことでないと、小さな自制が働いたのだ。海を、果てしなく続く輝く波を一言でみごとにいい抜くことも、思いがけない比喩で掬いあげることも、共に虚しいのだと、あいかわらずそんなことを瞬時に思ったのだろう。なにもかもがすっかりのろくなって、動くのも考えるのも、それなのにそんなときだけは素早く反応しているということか。困ったことだ。
 でもまぶしい。横向きにうつむいていているのにそれでも光は眼を射る、思わず手を翳してしまいそうになる。なんだか滑稽だ、部屋のなかで暗い方を向いてまぶしがっているなんて。
 庭には鵯がいる、しばらくじっと海の方をみている。ここ、ガラス戸の内に人がいることは知っている。背後に気を配りながら、でも一瞬、彼も海の輝きに眼を焼かれている、虜になっている。
 だいじょうぶ、正月の特別料理がでたのだろう、隣の飽食した猫はまだうちの庭にはでてこない。どこかなまあたたかい場所で寝転がっている。去年今年に思いをはせつつ、猫は猫の生きがたさをかみしめている。
 そうだろうか、きっとそうだ。

 

菜園便り280
1月30日

 中学時代の同級生から苺が届いた。大きくてりっぱな苺だ。しっかりした果肉、したたる甘い果汁、そうしてなによりもその鮮やかな色、苺色。
 恩師の喜寿を祝うクラス会への伝言と共に送られてきたものだった。残念ながら行けないけれどお祝いを伝えて下さいという手紙に添えて。嫁いで農業を続けているのはたぶん彼女ひとりだろう。地域での活動にも積極的でまわりからも慕われている。大きな房の葡萄を頂いたこともある、どっしりとしてみごとだった。
 同じ学校に通っていたのはもう50年も前のことだ。半世紀か、なんだかくらくらしそうで思わずキーボードにしがみついてしまうっとっとっと。先生は体育担当で、日体大ではラグビーをやり全日本選手権にも出場した人。数年で教師を辞め、スポーツ関係の仕事を続け、今は自宅で菜園をやりながら悠々自適、のはずだったのだけれど、最近急に弱られてしまった。
 クラス会は温泉に食事処も併設されている施設で、それで先生も入りたいということになり、ふたりいれば大丈夫だろうと向かう。熱いのやら深いのやらあれこれ並んだひとつに入り、先生は一時間近く動かない。うまく伝わらないままの話も尽き、ぼんやりと湯船につかっているとあれこれ思いだされる。高校卒業直後に数人が集まって先生の店を訪ね、いっしょにボーリングをやって、ロシータというメキシコ料理店に連れて行ってもらったことなんかも。メキシコ料理なんてもちろん生まれて初めてだった。酢漬けのタマネギがどっさりとテーブルにのっていたことを覚えている。お前は天ぷら学生になるな、と言われたことも。
 それからは誰もがそうだったように、忙しくすることに忙しく、再会したのは41の厄年の同窓会で、先生も変わらずに元気だった。そのときからでも、もう20年がたった。誰れもが老いる、弱る、我慢がきかなくなる、嫌なことは忘れたことにできる、そうしてしみじみと懐かしかったりする。なにが、と問うのは野暮というものだ。もうけしてくり返すことのない、ふれることすらできない、純粋な過去形の物語に浸って、その甘酸っぱいエキスだけを受けとればいいのだ。痛みや苦ささえいつの間にか発酵して芳醇な香りを放っている。静かに噛みしめるしかない、過ぎた時代の歌のように、形を喪ってただ明るい色彩だけを残す子供の頃の夢のように。
 温泉に入った翌々日、先生を挟んであれこれしゃべった同級生が自分で飼っているという鶏の玉子を届けてくれた。畑で採れた南瓜と野菜だけを食べさせているから1個800円にはなるんだぞ、といっていた玉子。はかないほどのレモン色の黄身を抱えた大ぶりの玉子だった。

 


雨が続いて冷たさも極まります。心もなんだかやせ細っていくような日々ですね。日が射したときの喜びも大きく、そういうときは思いがけない訪問があったりします。うれしいですね。
2月の映画の会も終わりました。侯孝賢の「冬冬の夏休み」。卓抜なタイトルだけでも興味をそそられますが、あたたかくすばらしい映画でした。「菜園便り」にも書いたので添えておきます。
3月はヴィム・ヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」です。ヴェンダースの最高傑作ですばらしい映画です(まだ存命ですから新しい映画も期待はしてますが)。
3月9日(日) 14:00 18:00 
スモールバレーのケーキと珈琲付き。カンパ制

菜園便り281
2月13日  「夏休みの子どもたち」

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の名作「冬冬の夏休み」上映も終わった。玉乃井にみに来られた方のほとんどにとってはじめての侯孝賢であり、なじみうすい台湾映画だったのだろうけれど、2階の広間にはあたたかいものがあふれ、そのままずっと座っていたい気持ちになった。
 いろんな世界があり、映画がある。時代は移り、知らないことには果てがなく、みていない映画も数限りない。でも全部をみる必要なんてないこともにも気づかされる。大切なことは結局同じなんだ、今ここにあるもの、それが他の場所で別のことばで語られ、描かれているんだということもわかる。もっといえばことばも形もいらないのかもしれない。柔らかい葉の上で揺れる光に、ふいにぬけていく風に、なにもかもがいいつくされていると頷く人もいるだろう。
 映画のなかの夏は神々しいほどにも輝いてみえた。かつてもそして今も、そういったものが確かに存在していることへの畏怖にも似た喜びが生まれひろがる。足をくすぐる川の水の爽やかさ、うつぶせに倒れ込んでそのまま眠ってしまった昼下がり、起きぬけの額の汗、窓から入ってくる風の強さにも驚かされる。揺れる庭の木の向こうに広がる野原、畑、遠い山。
 <海岸の砂の熱さ、ぴょんぴょん跳ねながら走って飛び込む海、その生温さと不意の冷たさ。水からあがり異様なほど重い手足を引きずって熱い砂に横たわる。紫色の唇に注がれるあたたかい生姜湯、こぼれた甘さを指ですくって笑いあう。>
 映画のなかの樹々を揺らす風が、遠い作物をぬける風が、こわいほどヴィヴィッドに伝わってくる、まるでたった今風がさっと肌をなでていったように。子どもたちは、台北から来た少年も、地元の牛を連れた少年も、みんなが一夏の、永遠に続くように思われた時間のなかにいる。無尽蔵の光が惜しげもなく降りそそがれている。そうして誰れもそんなことには気づかないし思ってもみない。ただそこに自分も世界もそのままにあるだけだ。
 思いがけない体験と小さな躓き、死、そこでいつのまにか成長していく、共同体の掟を学ばされる、人のやさしさと怖さも、そうやって誰れもがいつか幼年期を過ぎ思春期の過酷な激動を経て、粗暴で貧相なお愛想笑いを貼りつけたさみしいでも穏やかで深みのある大人へと移っていく、誰れもが。
 何もかもが単純で滑稽でただ喜びや驚きに満ちていた時は終わる。終わるなんて大仰なことをいう必要もなくそれはひっそりと姿を消す。後に残る郷愁のような匂いだけの残像。だから人はいつでも安心してそれを手にとり懐かしむしぐさをくり返す。もうそこにはなにもないことは了解されていてでも誰れもそんなことはおくびにもださずに静かに微笑みあう。視線を交わすのは相手の目のなかにだけ一瞬浮かびあがるかつてのなにか、例えばぼんやりと川のなかにたちすくんでわけもなく見あげた空がのぞくかもしれないから。どうしてこんなにも果てなく高いんだろう、なんだか奇妙な声が聞こえた気もしたけれど、と。
 枝が揺れて翻った葉裏の銀色が一瞬見えたりするように、不意に死が姿を見せる。永遠に続くことなんてなにもないこともすでにわかっている。でも知らぬふりで通りすぎていく、誰もがそうするように。
 あの高い高い果てのない空、どこまでもどこまでも続いていた海。

 

菜園便り282
3月31日

 この時期には樫が葉を散らす。玄関横でめだつから毎日掃かなくてはならない、ちょっとめんどうだなあとも思うけれど、季節の仕事だからと、なんとなくいそいそしてやる気持ちもある。松はもっと早くて、2月の終わりにさかんに葉を落とす。我が家は道路に散ってかたづけなくてはならない秋の落ち葉は多くはない、銀杏と柿くらいだ。その柿ももう切り倒されて記憶のなかだけになってしまった。
 春や初夏の落ち葉をワクラバというようだけれど、病葉と書くとなんだか病気の樹みたいに思える。やっと冬をのりきって、これからの爆発的な成長に向けて体勢を整えているのだろう。たいせいと打とうとしたら体制という文字が最初にでてきたけれど、ひとつのまとまった組織体、統一体の制度ということでいえばそうなのだろう。
 秋に葉を落とし冬の寒さの間じっと身を閉じて耐え、春のいっせいの芽吹きに備えるのが落葉樹の体制、つまりその樹木の制度なのだろう。野菜や草も光を敏感に感じ取って花を開きおおいそぎで実を結ぶ。人は冬の前になにを捨て、なにを閉じているのだろう。そもそも季節の移ろいを感じ取る力をまだ残しているのだろうか。暑さ寒さは今も日常の挨拶にでてくるからそれくらいは感じとれるのだろうと思うけれど、「日が長うなりましたなあ」というようなことばはもう小津の映画のなかだけに生息しているのかもしれない。
 「春は名のみ」のまだ寒いなかでも、日が長くなる、つまり陽光が増すにつれて心が極端に動きはじめるのはわかる。体はまだうずくまったままなのにそのなかで心は出口もないままに周囲の壁に激突しながら跳びはねる、傷んで病むのはしょうがないのだろう。
 雨も上がった、ジョウビタキがつがいで庭に来ている。

 

菜園便り283
4月1日 

 郵便料金があがる前にみんなに郵便をだそう、切手をはって葉書を、何通かは封書で、せめて一通は手書きでと思っていたけれど、いつものように気がつくともうついたち、4月バカに呆然とするしかない。いったいいつのまに桜が咲いて散り、海の色がかわり、4月になったのだろう。エイプリル フールズ デイが4月バカと訳されたのだろうけれど、だまされる愚者より、めくらますおかしさ、楽しさを思いたい。それにしても変換でゾロッとでてきたダマスの漢字はなんだか怖い。騙す、欺す、瞞す。
 郵便切手はいつも買い置きがある。我が家では珍しいことだ。ぴったりちょうどがいい、ちょっと足りないぐらいが快適と感じているようで、だからなんでもきれてから買いたすことが多いのに、切手だけはついつい買ってしまう、必ず必要になるから、といいわけしつつ。ほとんどは昔ふうにいう記念切手、特別にデザインされて発行される色鮮やかで形もちがっていて大型が多い。
 通常の値段より高い、つまり50円とか80円の使用価値しかないのに、購買には120円かかるとかいった切手もある。例えば地域限定でだされた山本作兵衛切手とかだ。こういうのはまず使えない。コレクションしてるわけではないけれど、やっぱりなんだかもったいない、完全なシートのままでもっていたいと思ってしまう。使えないものは他にもあって、映画監督シリーズの小津安二郎切手もそのひとつ。友人が贈ってくれたこともあるけれど、シートの余白に「東京物語」や「秋刀魚の味」のシーンが入っているせいだろう。もちろん笠智衆原節子笠智衆岩下志麻
 最近のは何組かがつながってひとつの図柄になっていたり、余白もデザインされていたりする。そういうのはつながりのままで、また余白も含めて使いたくなる。そうなると通常より高額の郵便になってしまうから、そうそううまはくいかない。こういう楽しみもなかなかやっかいだ。
 いま手もとにあるのは、使いたくないものを除いて、国際文通週間の90円切手(広重の東海道53次小田原図)、こういった文通週間、趣味週間の切手に子供の頃驚喜した人も少なくないだろう、誰れもの憧れの的だった。他には名山シリーズ、消防団120年、各県シリーズの長崎グラバー邸等など。方形の日本の民芸品切手は白い余白が多くて美しい。昨年夏の文の日切手もよかった。西瓜や子供がパステル色のイラストレーションになっていた。もちろんぞっとするようなものも数限りない、ディズニーやキティのシールものだとかは「かわいい」とすら思えない。
 お年玉の商品、130円の切手シートもできれば丸ごと使いたいと思うと、封筒などの面が大きくて、50グラムまではだいじょうぶだからということになって、なかなかうまくあうものがない。もちろん80円の封書に貼ってもいいのだけれどそういうのはなんとなくおもしろくない。ぴったりだと気持ちまでなんだかすっきりする。
 絵はがきはだすのももらうのもうれしいし、書くことも少なくてすんで助かる。時候の挨拶、いかがですかと書くともうほとんど余白はない。あわててご自愛下さいと締めくくる。それでもなんだかうきうきする。それもあって美術館系の絵はがきはどっさりある。独自につくられ館の名前や展覧会のタイトルも入っているはがき用の袋が楽しいこともあるのだろう。
 以前たくさん頂いた10円、15円、7円といった切手もまだとってある。子供の頃一時期蒐集していたこともあって未使用切手への偏愛は捨てきれない。旧いデザインや色も美しい。趣味週間切手はまだ10円だ。万国博のは1970年で、もう40年以上前になる。だからぼくがだす郵便は小包を除いて(時には小包も切手を持っていってカウンターで貼るけれど)、全部が「記念」切手になっている。
 ギャラリー貘からの案内状の封書もいつも特別切手になっている。小田さんが角の中央郵便局まではしって丁寧に選んで買うのだろうなあとなんだかうれしくなる。

 

菜園便り286
6月1日

 常緑樹は春から夏にかけて落ち葉を散らし続ける。我が家でも松が古い葉を落とした後、山桃や樫などが続いている。小さいけれどびっくりするほど散った松の雄花も終わりに近づいたようでほっとする。
 今はネズミモチの花が降りつもっている。小さな白い花だけれどかなりの量になる。昔、小学校の校舎横にあった生け垣の甘い香りにモンシロチョウがたくさん集まっていたのを覚えている。強い木のようであちこちから芽吹いて瞬く間に大きくなり、ある日突然庭のすみから香りが漂ってきて驚かされることもある。
 一方ではジャーマンアイリスのように群生していたのが一気になくなったりもする。消えていくいちばんの理由は台風などで直接降りかかる潮だろうと思っているけれど、でもほんとのところはやっぱり愛情、だろう。丁寧に見守り時々の手入れを怠らず生長や開花、結実をきちんと愛でてやらないと植物は潰えていく。人もそうだけれど、極端に悪い条件や強い外圧はかえってがんばるきっかけになったりもするから不思議だ。組織は外からの圧力ではつぶれない、内部の混乱や争いで崩壊すると聞いたこともあるけれど、たしかにそういうものだろう。
 だめだと思ったときが終わりなんだ、誰かがそういっている。
 太い花茎を伸ばしたリュウゼツランは節ごとについていたアスパラのようなあま皮が枯れ始めた。これから細い枝が伸びてきて小さな花をつけるのだろう。50年に一度だけ花が咲くと父が何度もいっていたけれど、一株は数年前父の存命中に花をつけて枯れていった。日本では30年くらいで花をつけるらしいけれど、それでも続けて2度も自宅の庭で見るとは思わなかった。棘のある1メートルを超す肉厚の葉は迫力があるし、伸ばされる花茎が木のようで驚かされるから、花の小ささというか地味さにあっけにとられたりもする。もちろん花には花の効率的な事情があるのだろうし、あれこれいうのは大きなお世話だろうけれど、でも前仕掛けの派手さに力を使い果たして尻すぼみ、そんなふうにも思える。ラムの原料にもなるラテン系の植物だから、そういった顛末になるのはわからないでもない。
 プランターのトマトも色づきはじめ最初の収穫もあった、ズッキーニは小さいままでしおれていく、レタスは丸まって根本から腐り始めた。空豆はどっさりの収穫が終わって黒ずんで枯れている。取りはらってレタスでも植えようか。トマトの支柱もきちんとしなければ、バジルの花芽も摘まなくては、群れて芽吹いたルッコラを間引きしなくては・・・・。
 荒れた庭にも傷んだ家にも、すぐにでもやらなくてはいけないことが重なっていく。そういう時期なのだろうか、いろんな変化が迫ってくる。前の家、横の空き地、次々に売られていく。たいせつにしてきた李禹煥も手放さなくてはいけないのだろうか。

 

菜園便り287
7月24日

 東京から戻って両親や姉の夢を頻繁にみる。どうしてだろう。
 長いつきあいの友人がわざわざ「仕事」をつくって新居によんでくれ、2週間も滞在することができた。数年ぶりの東京だったから、いろんな所を訪れ、懐かしい人たちにも会えた。ついあれもこれもと思ってしまうし、映画もふたつもある特集を全部みようとしてしまう。もちろん予定どおりにはいかないけれど、それでもずいぶんといろんなことができた。
 今回は年齢もあって、まさにセンティメンタル・ジャーニーで、懐かしい場所を訪れると、気恥ずかしさよりどっとよみがえる記憶に圧倒される。でもどこか距離があって静かに眺められたりもする。阿佐ヶ谷、神保町、三鷹、新宿、上野・・・・。麻布や恵比寿は行けなかった。有栖川公園と新しくなった十番は見たかったけれど、そうそうあれもこれもできるわけはなく、映画もみれなかったものも少なくない。なにしろとんでもない数の映画が上映されている。後で気づくと、ファスビンダーの特集もやっていたことがわかった。知らなくて幸いだったかもしれない。そこでは次にダニエル・シュミットの特集が組まれているようだった。それもすごい。
 とにかくあれもこれも充実の日々だった。
 東京には十代の終わり、18歳から住んだ。多感なときだったし、時代もずいぶんと慌ただしかったからいろんなことが、意識下も含めてしっかりどこかに残っているのだろう。親や姉にも、直接的な負担もいろいろかけた。そういうことが今度の東京再訪で一気に噴きだし、よみがえったのだろうか。この年になってもうあれこれ構えなくなり、すなおにむきだしのまま、無防備に向きあっていたのかもしれない。
 友人宅には猫やインコ、亀などがいて、ベランダには鉢植えの植木が並んでいたから、そういうものに馴染むことで、旅行者としての緊張や違和がうすれ、生活のなかに落ち着けたのかもしれない。それで普段は閉じられている回路が開いたのだろう。
 もちろん夢はかつてにつながる直接的なものでなく、父が料理コンテストに出ている、といった荒唐無稽なものだ。全員が天ぷらの準備をすませて、「スタート」の合図を待つことになっているのだけれど、父は気持ちも舞い上がっているようで、何故だか白衣でなく紺のスーツにネクタイという格好で、衣をつけた野菜かなにかをもう天ぷら鍋に入れて揚げ始めようとしている。気づいた係の人があわてて止めに近づいてみると、油はまだ火もつけられていなくて、だから衣が冷たい油のなかにどろりと流れこみ沈んでいっている。
 ぼくはどこにいたのだろう。全部を見渡しているようでもあり、半分父の気持ちで動揺してもいて、一方ではひどく辛辣に父を、その失敗を見ているところもある。助けようとか手伝おうとかいう気持ちは全くなくて、でもなんだかつらい思いはあって、全てが、つまり夢の全体がもの悲しいものに感じられる。
 誰もそうだろうけれど、くっきりと覚えている夢というのは少ない。思いだせないまま、その時の感情や苦しさだけは異様なほどはっきりとあって、恐怖に駆られたり胸がつまったりしたことだけが鮮明に残っていく。
 母や姉が出てくるときはいつも大勢の人がいて大半は女性で、だからついあれこれ、子どもの頃のことを思って解釈したりしそうになる。でもそういうことをやることはもうなくて、そこで感じた自分の気持ちが大きすぎたり小さすぎたりして取り扱いかねることだけがその日1日残っていたりする。どんな夢も、つらい気持ちも、でも夕方になれば薄れて、消えていく。今は浜木綿が高く匂うから、そのなかに紛れていくのだろう。
 かつて濃密に関わった、今はもう全く関係が切れている場所は、そこを目にし、入り込んだ時に巻き起こる記憶や当時の感情と、現在が重なりあい混ざりあい一瞬狂気じみた、自分がどの時にいるのかわからなくなる瞬間がある。でもそれはほんとに瞬時のことで、全てはもとの世界に覆われ、おだやかな感傷に包まれ、少しだけ複雑になった思いのなかにしばらくの間放り込まれるだけだ。
 そういうこともあってか、神保町には出かけたけれど駿河台には上っていかなかったし、池袋で降りることもなかった。中野は巨大な再開発が進んでいるようで、中央線から見えるだけでもまるでかわっていた。
 先日の「LP・CDを聴こう、語ろう会」で<我が青春の音楽>なんてことをやったから、いろんなことが徐々にしみ出してきていたのかもしれない。音楽の喚起力はすごい、なんていいながら、自分がそれに巻き込まれている。
 帰宅して「ああ、我が家がいちばん」というのが旅の定番であり、真の目的だという人もいるけれど、帰り着いたら、よほどぼんやりしていたのだろう、家の鍵を後送の荷物に入れてしまったことに気づいて真っ青になった。幸か不幸か閉め忘れていたガラス戸がひとつあり、そこからこっそりはい上って入ることができたけれど、家の中は梅雨の豪雨で2階に並べたタライや箱からあふれた雨で1階までびしょ濡れ、がっくりと泣いてしまった。でもつらいことも滑稽さの隣にあっては力をなくすようで、とにかく雨の始末をと泣き笑いしながらかたづけているうちに、もう住み慣れたもとの生活の内にすっぽりと入っていた。

 戻ってからの友人へのお礼状に「ぼくはなにかを激しく求められることが少なかったから(避けてきたから)・・・慣れていないのでしょう。」と書いたけれどそれは自分でも意外なほど率直なことばだ。18歳の時に情熱や憧れの全てを使い果たしたのかもしれない。その後はその場その場のなりゆきにまかせ、積極的になにかを求めるということもなく、いきあたりばったりだけでやってきた。
 どんなふうに生きても、住む場所や周りにいる人といった小さな状況はちがうだろうけれど、けっきょく同じ所にたどり着いているだろう。ぼくはぼくであり、それ以上でも以下でもないと口にしつつ、ぼくはぼくでさえもないのだろうと思ったりもして。そんなふうに感じ考えながら、こんなふうに生きているだろう。

 

菜園便り288
7月28日 東京映画日記

 東京ではずいぶんたくさんの映画をみた。
 メールに「暗い、きついものばかりだった気がします。これも時代のせいでしょうか」と書いたりしたけれど、そういうことも気になった。リストをつくってみたらなにかが浮きあがってくるかもしれない。今の世相を反映するような大型米国映画を社会学的に分析するようなことでなく。必死で撮られた真摯な映画がどうして暗くつらいものに感じられてしまうのか、それはぼくのありかたのせいでもあるのだろう。
 出発前、インターネットで何でも調べがついてしまう今だけれど、活字が好きでページとして全体が見渡せる方がわかりやすい世代としては、ここはとうぜん「ぴあ」の出番だと、久しぶりに雑誌売り場に出かけても見あたらず、係の若い人に問いあわせるとかなり怪訝な顔をされて、そうか今の人は「ぴあ」を知らないのかとわかったつもりで待っていると、なんと数年前に廃刊になっていると聞かされ、びっくりだった。
 ほんとに世界は動き全てはかわっていく。
 けっきょく、またいつものようにグーグルで検索、先ずはユーロスペースから、そこでもう大当たりが出てしまった。なんと小川紳助特集、正確には「小川プロダクション全作品特集上映」、すごい。まるでぼくにあわせてくれたような企画だ。それに同じユーロスペースカンボジアリティ・パニュ監督特集もやっている。今回もまたユーロスペース通いになりそうな予感、前回はちょうど山形映画祭特集で、すごい数のドキュメンタリー作品を上映していて、そこで初めてアピチャッポン・ウィーラセタクン監督を「真昼の不思議な物体」をとおして知ることができた。
 イメージフォーラムではなんと王兵(ワン・ビン)監督の「収容病棟」や、みそびれた「アクト・オブ・キリング」もやっている。まだ行ったことのない「東中野ポレポレ」も近いようだし、いっそのこと賈 樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の新作「罪の手ざわり」もBunkamuraでみようか、あれこれ思い悩む。
 予定を組みつつ、友人たちにも連絡をとって空いている日時をきく。もちろんお世話になる友人宅の予定が最優先。そうやって始まったけれど、もちろんいろんなことが起こったり、起こらなかったり、例えば久しぶりにのみ過ぎ、はしゃぎすぎて体調を壊すとか、友人の予定が変わるとかで、全部を予定どうりにはみれない。疲れてもう諦めよう、ということもある。
 「小川プロダクション全作品特集上映」では、三里塚は時系列に沿ってみなくてはいけないと思うから、最初はどうしてもずらせなくて、頭とお腹がぐるぐるするなかを這うようにして出かけた。「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968年)。続けてみる予定の「日本解放戦線・三里塚」(70年)はあまりの体調の悪さに諦める。翌日は「三里塚・第二砦の人々」(71年)と「三里塚に鉄塔が出来た」(72年)。
 翌日はパニュ監督特集の「S21 クメールルージュの虐殺者たち」(2002年)。翌日は「牧野物語」(1977年)はパスして「三里塚・五月の空 里のかよい路」(1977年)だけ。翌日はパミュ監督「アンコールの人々」(2003年)と「紙は余燼を包めない」(2006年)。翌日は「どっこい!人間節-寿・自由労働者の街」(1975年)。 その翌日はイメージフォーラム王兵監督の「収容病棟」(2013年)前編、後編。そこまできて、彼の映画がすごく重かったこともあり、友人たちとの関わりももっと親密にしたいから、映画はお終いになった。「収容病棟」のことはもう1回落ち着いてきちんとみてからゆっくり語りたい。そこには尽きないものがあるし映像的にもすごい、でもあまりにも酷くてみつめられない。濡れたコンクリートの床、裸足、尿、雪、布団、鉄格子、暴力・・・。
 蔡明亮の「郊遊 ピクニック」の予告もある。なんと引退すると表明したとのことで、彼の最後の映画になるかもしれない。やめてくれと叫びたくなる。とにもかくにも8月からのこの映画はなんとしてもみなくては、このひとつ前の映画もみることができなかったし。
 パミュ監督の新作、「消えた画 クメールルージュの真実」や「Act of killling」、「狭山事件」石川被告の現在を撮った「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」は諦めることに。福岡にも来てくれることを願うしかない。
 小川プロの他の作品、例えば「三里塚・第3次強制測量阻止闘争」(1970年)はDVDで持ってるし、名作「三里塚・辺田部落」は何度もみたけれど、69年の「パルチザン前史」や「クリーンセンター訪問記」(75年)、「京都鬼市場・千年シアター」(87年)「映画の都・山形国際ドキュメンタリー映画祭89」(91年)はまだみたことがない。参考上映のひとつ「青年の海-四人の通信教育生たち」はみたような気もするけれど、といった状態だからほんとはそういったものも全部をみたかったし、バーバラ・ハマー監督の「Devotion 小川紳助と生きた人々」はいつか必ずみたいもののひとつだ。
 「三里塚・第2砦の人々」は今回初めてみることができた。すごい映画だ。こういう映像が撮れたこと自体信じられない。農民と機動隊が混じりあい動き回っているその間に文字通り挟まれもみくちゃになりながら、それでもカメラは両方をそして場を撮っていく。
 そういうことももちろんすごいのだけれど、でもなんといってもこの映画が映しだすもの、ことがらそのものに圧倒される。農民、学生、機動隊、公団、雇われ暴力団。驚嘆し恐怖し憎悪しそうして哀しみに覆われていく。砦の外の荒れ地でデモンストレーションするあまりにも華奢で弱々しい学生、黙して表情も動かすまいとする若い機動隊員、泣きじゃくる子ども、ただぽかんと見ている幼児、「洞窟」のなかで車座になって待つ老人たち。
 極限的な激しさの後に残る寂寞感、それはもうこの戦いが、ある意味ではすでに終わっていること、もう自分たちの夢見たような結果にはけしてたどり着かないことを誰もが心の底で知り、でも互いのつながりや限りない選択があるはずの未来への希望として、ことばにしないことを黙約し、でも、だからいっそうそれはせつせつと人の胸をうつ。
 こういうふうに人は生きそして死んでいくんだと、遠い声が告げていく。
 三里塚で最後に撮られた「5月の空」が映像としても短く、中途半端に遠くから撮られてしまったのは偶然ではないだろう。もう遠くから眺めることしか、できることはないのだ。まるっきり離れてしまう前に、もう一度、でも現場には近づけないままで。
 本編の上映前に三里塚の今を撮った映画の予告編が何度も流れる。昨日の映画のなかで激しく言いつのっていたおばさんが、老いた静かな口調で諭すように語っている。友人を亡くした青年行動隊の元若者は彼の地で今も農業を営んでいる。だれもが「そういうことだっぺ」と小さく頷く。

 

「菜園便り」追伸
 撮し、撮されることを巡って始まり、家族や世代へと思いをはせたわけですが、この「菜園便り」というのはぼくが二〇〇一年から不定期にだしているメール通信です。いつもは、知人たちへ届けと、インターネットの海に送り出しますが、今回はこの芳名録限定。
 撮影にみえた飯田さんとは不思議なつながりで、最初にお会いしたのは一九九四年の「津屋崎現代美術展 場の夢・地の声」(亡くなられた柴田治さんや原田活男さんが主催)で、参加作家のひとりである山本隆明さんの作品を撮りにみえていました。その美術展のコーディネーターをやっていたので、関わった方やみえた方を片端からコンパクトカメラで撮していて、その時に撮った、撮影中の飯田さんの写真が今もあります。最初はぼくが「撮った」わけです。
 「撮った」時から二〇年ほどたって、また津屋崎に撮影にみえた際に、飯田さんの実家が百年を超す古い家だと聞いて、我が家(玉乃井)のことも話題になり、その流れで親のこと、出自のことなどもあれこれ話し、いろいろに思わせられました。
 撮される、カメラを向けられるというのは、普通の人にとってはとても緊張することであり、シャッター音ひとつにもぎくりとしてしまいます。そういうなかで、こうやって下さい、ああやって下さい、顔はそのタンスの角のあたりに向けて視線はカメラに、もうちょっと上向きに、そうですそうです、といわれてもただおたおたするばかりで、求められていることができないことに恐縮し、もうしわけなさが募ります。
 撮られる時、身ぐるみ剥がされるような、身の置き所のない心持ちで困ってしまうのですが、しばらく続けていると、いつの間にか撮る人をじっと視ていたりします。視線はこちらにといわれるままに、カメラのレンズそのものをじっとのぞき込んでいて、どちらを見ておられましたか、という柔らかい叱責で我に返ります。
 撮られている時、被写体の側も必然的にカメラを、撮る人を視ます。その奇妙な撮影の姿勢を見、対象を「撮る」けれど「みて」はいないという逆説を、みています。どんなにしっかり相手を視つめても視線はけしてあうことがなく、はぐらかされたような気持ちのなかに放りだされて途惑い、ただレンズという物体へ視線を集中させ、そこに焦点をあわせるしかありません。痛いほどの緊張のなか、ぼんやりした夢のような浮遊感も生まれます。
 撮られるということは(それは、撮るということはといっても同じでしょうが)、そんなこんなの不思議な体験です。

 

菜園便り290
8月27日

 玄海黒松、ということばを聞いたとき、あらためてあらゆるものには固有の名前があるんだと感心しつつ、でもこれはなんだかヨーロッパ的な整理・分類の文脈のなかで、ラベル的に貼りつけられた名前だという気もしてしまう。それは全てのものがそうだからといういつもの嫌悪や諦念からくるものでもあるし、またこのことばが盆栽(というよりBonsai)の話の流れででてきたからかもしれない。今や盆栽の愛好家や収集家の中心はヨーロッパや米国にあるようで、頻繁に日本にツアーが組まれ、著名な盆栽職人のお弟子さんは全員外国人だったりするとのことだった。
 黒松というのは、文字どおり表皮が黒くてざっくりと割れたタイプだと聞かされ、ああそうだった、子供の頃から知っていた松はそうだった、蔵屋敷の松もそうだったと思いだした。最近の松は虫が入りにくいように表皮が緻密で割れておらず、色も薄いらしい。たしかに植林された防風林の松などはそうだ。玉乃井の玄関脇の松がその玄海黒松だというのも、その時はじめて知った。おそらく海側の庭の松もきっとそうだろう、ずいぶん前の松だから。
 手のひらくらいの大きさの割れた厚い表皮をどうにかして剥がして宝物にしていた時期があったことも思いだした。蔵屋敷というのは十歳くらいまで住んでいた同じ津屋崎町の一画で、古いわらぶきの屋根にトタンを被せた、大きな家だった。庭も広く松の他にもヒマラヤ杉、樫、梅、銀木犀、南天、何本もの無花果があったし、後から植えた夏みかん、きんこうじ(金柑子)、枇杷、桃、グミ、柿もあった。紅い蔓薔薇と夏には白の朝顔が板塀に絡まっていた。小さな花庭もあってりんどうと百合ははっきり覚えている、芍薬や菊や松葉牡丹も。ガーベラが表の塀沿いに植えられたこともあった。とても珍しくおしゃれな花だと感じたけれど、きっと父がわざわざタキイから取り寄せたのだろう。近所に畑を借りて野菜をつくっていたから、庭には菜園はなかった。
 そういえば松のそばの暗いすみにクチナシがあった。八重の花で、実はできないと父が何度も言っていたのを聞いたとき、なんだかすごく残念に思えた記憶がある。父がそう思っていたからだろうか。クチナシの実は食材を黄色に染めるときに使ったりするものだけれど、漢方薬の材料にもなるのかもしれない。
 英語ではガーディニアといって、それにもいろんな思いでがある。サンフランシスコの安ホテルの受付の男性だとか、麻布十番だとか、キャサリン・ヘプバーンの「旅愁」のシーンだとか。あのクチナシはけっきょく彼女の手には届かなかった。大きな駅、動き始めた列車、窓から精いっぱいさしのべられる手、走って追う男、通俗的で感傷的で美しい。ああいう「定番」のシーンが旧い映画には必ずあった。そうでないと観客が満足しなかったのだろう。誰もが胸の内でほっと安心する、残念に思いつつも。一夏の、旅先の思いでは持ち帰れないし、持ち帰ってはいけないのだ、と。
 少しくたびれて端が黄色くなった花からの強烈な香りはちょっと喩えようがない。


菜園便り291
9月24日

 夏がなかった今年の、夏野菜ももう終わり。トマトはまだ小さな実をつけているけれど、これが赤くなったら摘んでお終い。とうに花も終わりかろうじて地面に張りついていたパセリもお終い。ショウジョウバッタに食べつくされて終わったかにみえたレタスやルッコラは、バッタがいなくなれば息ふきかえして伸びはじめるかもしれない。同じように襲われていた青紫蘇は、よみがえったにしても小さな葉を数枚つけてるだけで、もう伸びる力はないままに白い花をいくつかつけて終わるだろう。
 長雨で弱ってしまったペパーミントがここにきて小さな芽をどっと出してきたから、また元気を取りもどして来年まで続くだろう。雨にも暑さにも負けなかったのはバジルで、これにはちょっと驚かされた。いつもはまっ先に食べられたり潰えたりするのが、今も薫り高い葉を拡げている。水まきの時ちょっとふれただけでぱっと香りがたちあがる。
 空豆の後ほうっておいたプランターに8月になってから瓜科の芽が出た。元気そうだったので水をやっていたら、小さな実をつけた。だんだん大きくなって淡い黄色になった、真桑瓜だ。今年は買ってきて何度か食べたから、その時の種が台所からの撒き水に混じっていたのだろうか。それともどこからか飛んできたのだろうか、鳥に乗って。
 色はみごとだけれどかなり硬くて香りもないから、まだ台所のテーブルの上に置いたまま眺めている。ちょっとでも固さがとれたらおおいそぎでサラダにしなくてはと、げんきんなことを思ったりする。サラダのことを思ってしまうのはこの夏はサラダの野菜がほんとに手に入りづらかったせいもある。だから南瓜や大根、タマネギといったふだんはあまり登場しない材料もよく使った。梨や林檎、桃、メロンなど果実もいろいろ使った、バナナをいれたこともある。バジルをサラダにしたのも初めてだった。あれこれ思いつくまま、目の前にあるものを入れていく、オリーブオイルと酢の力でなんとか形になる。ぼんやり食べているといつの間にか終わっている。強烈な味がなかったかから、バジルは入ってなかったんだろう、自分でつくっておいてそんなことをぼんやり思ったりする。
 なかった夏のつけは今も続いていて、胡瓜やトマト、レタスなどがびっくりするような値段のままだ。そもそもお店に置いてないことが多い。ちょっとした気候の変動で大騒ぎになる、人はそんな不安定ななかに生きている。台風や豪雨、雨が多すぎても少なすぎてもおたおたする。そもそも霊長目ヒト科ヒトは脆弱な、ほんとにフラジャイルな生き物なのだろう。ひとりでは生きていけないし、生きていられない。異様に未熟な状態で誕生する、生まれて十ヶ月も歩けない、数年間は保護者がいないと生き延びれない。こうやって続いているのが不思議なくらいだ。だから文字通り壁が必要なのだろう。雨風や外敵の侵入を防ぎ、そうして「他者」拒絶するために。
 長い強い雨ですっかり傷んだ玉乃井の修理が、ほんの一部だけど始まる。それ以上は大がかりすぎて手のつけようがない。その場しのぎでやっていくしかない、いつものように。そういうことにも慣れてしまった、慣れてはいけないのだろうけれど。

 

菜園便り292
10月2日

 「アジアフォーカス福岡国際映画祭」も終わった。今回は1日に3本なんてことはなくて、1日1本だけの日ばかりになった。
 今年はなんといっても蔡明亮の「郊遊 ピクニック」。前作(「ヴィザージュ」)をみれなかったので、ぼくとしては数年ぶりの作品になる。引退すると宣言したらしく、だからこれが最後の映画になるとのこと、ほんとうだとしたらあんまりだ。うれしい驚きだったのは舞台挨拶に本人と主演のリー・カンションが来ていたことで、終了後の質疑応答も行われた。最後の映画だからか、映画祭ということなのか、ずいぶんと饒舌で自分の映画に対する誤解が多く、なかなかすなおにみてもらえないとくり返していた。
 彼の最初の劇映画「青春神話」の日本公開時に、初日だったのだろうか監督とリー・カンションが舞台挨拶に来ていてうれしかったけれど、あのときは全く初めてみる蔡明亮の作品だったから、監督を実際にみ、声を聞き、その気さくな人柄などを知ることができたのは映画を丁寧に受けとるのに大きかった。
 蔡明亮の「黒い眼のオペラ」(2006年)には、廃墟のビルのなかにできた巨大な水たまりの海をマットレスの舟がゆっくりと流れてくる息をのむほど美しいシーンがあり、大げさにではなく恍惚としてしまった。今回もやっぱり画面は暗めのトーンで美しく、雨と水に覆われている。それぞれのシーンがとても長くて動きもほとんどなくてただじっとみつめるしかない。映画のなかでなにかをじっとみつめている人をこちらからじっとみている、というような。
 静止したままのシーンや見続けるのに忍耐がいるほどの動きの少ない長いシーンでしか語れないことがあるのはたしかだ。でも饒舌に傾きすぎるにせよ、物語ることでしか表現できないこともある、そんなことを思ったりする。受けとる人を、みる人を信じるしかない。真摯なものだけがもつ、どこかでふいに溢れだすもの、ことばや映像では表わせないものが生みだされる瞬間をほとんど祈るようにして待つことだろうか。
 この映画も、今までの作品のように生きることの難しさ、耐え難さに満ちている。でもいつものようにそれでも存る、生きることの悦びがみえてこない。あの蔡明亮の傑作「河」の終盤、混乱と絶望の後、穏やかな陽光のなかにシャオカンがふだんの顔で戻ってきたときのような、最後の最後にいっきにあふれだす、静かで圧倒的なまでの底深さ、単純で限りなく深い生の喜びがみえない、そんなふうにさみしく思えてしまう。「楽日」で、終わってしまった映画の後に、破顔して全てを受けいれ肯定の表情をみせる南天のようなおおらかで奥深い楽天性はみえない(南天の死が蔡明亮に与えた影響ははかりしれないだろう)。
 ものに対してであれ、心に対してであれ、世界をあるがままを受けいれたちまち順応していく子どもたちのなかに、希望をみなくてはいけないのかもしれない。でもそこにただ酷い諦めだけしかみえなかったりもする。
 そうなのだろうか。


追記:以前「文さんの映画をみた日」に書いたものを添えます。蔡明亮はほんとに深いところで人をうち、そうして支える映画をつくる監督です。


「楽日」「西瓜」(2003年 蔡明亮監督)
過剰さと哀しみに浸されて
 蔡明亮映画祭がシネテリエ天神で開催された。力をふりしぼった表現が、みる者に衝撃を与えながら静かに深くなにかを届けてくる。それを性急にことばにすることなく、微かに浮きあがってくるものに目を凝らす。
 「西瓜」(2005年)ではアダルト・ヴィデオの世界が、渇水の大都市を舞台に描かれる。身体や性を軸に、せつせつと求めあう心を掴みだそうという試み。滑稽であざとくて、どこまでも真摯でせつなく。
 そうして「楽日」(03年)。土砂降りの台北の外れ、時代からずり落ちた映画館の最後の日。スクリーンをみつめているのは、かつてのカンフーの大スター、苗天と石□(それぞれが俳優の自分を演じている)、彼らの最初の記念すべき出発となったキン・フー監督の「龍門客棧」。映画に涙し、出口で立ち去りかねている石□が苗天に話しかける。「もうみんな映画をみなくなった、誰も私たちを覚えていない」と。それに応えて苗天が破顔一笑といった笑顔を返す。まるでこの映画の、そして彼自身の映画史を締めくくるように。ファンのひとりとしてその表情がフィルムに残され、いつでも出会えることに安堵し、まるでその現場に立ち会ったかのような喜びに満たされる。でももう彼が亡くなっており、次の映画はないこともまた痛みとともに思い知らされる。こうやって苗天を重要な登場人物として描いてきた、蔡明亮のひとつの時代が閉じられた。
 「楽日」には苗天が苗天という俳優の役を演じるし、少なくない割合で実人物としての彼も重なるといった多重性もある。蔡明亮は全ての映画をあたかも連作であるかのように撮っていて、自身の過去の映画を引用し続ける、同じ俳優として、仕草として、シーンとして、台詞として。そのいくつもが重なり層になり、つながり、みている者のなかで膨れあがり、予測できないひろがりを生み、人を世界や時間に直につなげていく。
 登場する人々が、できごとが、いつも<哀しみ>に浸されている。人々は都市は乾ききって餓えている。そうしてどこも水が溢れ、なにもかもを覆っていく。澄んでいても濁っていても、水は全てを濡らし、湿ったぬくもりや生気を放つ。生をその根底で支えるものとして、光に寄り添うようにして。


黒い眼のオペラ(2006年 蔡明亮監督)
眠りの船は巡り
 なんの躊躇いもなく真っ直ぐに人の深みへと降りていく蔡明亮、その新しい作品がいよいよ公開になる。東南アジアの湿りと熱気のなか、終わりのない仕事、民族間の葛藤、貧富の差に翻弄され疲弊した人々のよるべなさと、でもそこでこそ掴みとられる愛や誠意が描かれていく。流れる汗や澱んだ空気に満ちているにもかかわらず、どこかに夜明け前のうす藍色に染まった透明でひんやりとした一角が残っている。人を孤立させ途方に暮れさせる一方で、静かで微かなつながりを産みだす母胎でもあるような、夜と朝の間、闇と光のあわい。
 心と体、男と女、母と息子、男と男、生と死、そういったことが具体的な身体をとおして語られる。手で洗われ、指でなぞられ、突き放され、重ねあわされる体。交わされることばはほとんどない。眼や唇、指が伝えるわずかなもの、そうしてその限りなさ。
 大型マットレスをまるで寓意的な象徴のように扱いながら、ふたりで眠る、抱きあうといった、とても親密なのにどこかで身体の個別性を意識させられてしまう場のリアリティを掬い上げていく。滑稽なしぐさやおかしみさえも含み込みつつ。
 人は哀しい、生きることはつらいという思いが、いつものように蔡明亮映画の底を流れていくけれど、でも、だから、人は愛おしいし、生は大きな喜びなんだとも伝えてくる。ことばとしてでない思いの重なりが厚い層をなし、その内からにじみ出されてくる漿液がいつのまにか世界を潤していくようにして。
 都市のビルの廃墟に産みだされた海を、ゆったりと滑っていくマットレスの眠りの船。緩やかな温かさに包まれて眠る人を乗せて、まるで桃源郷へとたゆたっていくかのように、終わってしまった生が永遠の向こう側に漂い出すかのように。もしかしたらそれは眠り続ける人の硬い頭蓋の内に無限の一瞬として閃いた輝きかもしれない。
 生活の細部も丁寧に描かれているから、その夢のような恍惚とした終幕が、初まりの苦さや痛みにつながっていくのも了解される。でもそれは疲弊しきっての諦念や放棄でなく、そういうことも含みこんだ、生の力であり、思いの勁さである。そうしてそれはどこにも誰のなかにもあるということも映画のなかで教えられ、深々とした慈しみをさり気なく渡されていることにも気づかされる。7月下旬から福岡市のシネテリエ天神で上映。

 

菜園便り293
10月15日

 竜舌蘭が倒れた。なんだか悲壮感に溢れ、悲しみに包まれてしまうようないい方だけれど、じっさいはもっと散文的であっけらかんとしていた。台風で倒されたのだ。茎はまだまだ太く頑丈だけれど、根本の巨大サボテン部分が変色しもう腐りはじめていて支えきれなかったのだろう。地面から2メートルほどの所からボキリと折れている。海側、つまり道路側に倒れたのを、誰かが外にはみ出た部分を折って庭に放り込んでくれていた。太いしけっこう重いから、折るのも運ぶのもたいへんだっただろうと見知らぬ誰かに感謝している。
 小さな黄色い花はとうに終わって黒く変色していて、その下に実というか種というか、細長い袋状のものががびっしりと並んでいる。ちょっとみると小さなバナナのようだ。
 台風の潮のかかった車を洗っているお隣も気づいていて残念そうだ。父がいたときは大喜びでみんなにふれてまわって、花も配ったらしいから、あれこれ知ってある方も多い。30年に1回なんだそうですね、ええ50年に1回ともいわれてます、私なんかはもう2度と見れないでしょうね、そうですねえでも庭の隅にもう1本大きなのがあるのでまた近いうちに咲くかもしれません、そんなことを立ち話する。
 もしまた咲いたら3度も見ることになる。50年に1回と聞くと、自分にとっては最後、と思うだろうし、一生に一度と当然思うのだろうけれど、竜舌蘭からしたら、群生する場所ではいつでもそこら辺で咲き続けているのだろう。
 そういった、一生に一度といったようなことは人を惹きつける。ましてそれを最後に喪われてしまうと思うととてもロマン的に感じるし感傷的になる。どこかヒロイックな響きも生まれる。映画「会議は踊る」(1931年)の主題歌は「ただ一度だけ(Das gibt's nur einmal)」だった。あの歌は感傷より強さが前面に出ていた。そういう歌詞が喚起するものと、あのちょっとパセティクな映像、メロディがぼくをどこかへ連れて行ったこともあった。ダス ギプス ヌァ アィンマル、ダス コム ニヒト ヴィーダー、ダス イスト ツー シェーン ウム ヴァール ツー ザイン ・・・・
 ウイリアムホールデンジェニファー・ジョーンズの「慕情」の原題は「Love is a Many-splendored thing」。そういう、愛はすばらしい悦びに満ちているといったことばが、慕情という、遙かに偲ぶ、哀しい色あいを帯びたことばに置き換えられるのも、日本的なことなのかもしれない。まっただなかの燃え上がるときでなく、過ぎていった、喪われていったときを主題的に取りだしてしまう心性。
 当時の花形職業、海外特派員とアジア系の美女(という設定)のロマンスはやはり成就することなく戦場での死、が待っている。香港という奇形の植民地、アジア内の戦争、そこに関わる正義の米国人、寄りそうアジア系の娘。以前、米国人からジェニファー・ジョーンズは彼らには異国的な顔に見えると聞かされて少し納得がいった。まだアジア系の女優が主演をするなどということは想像もできない時代、システムだったのだろう。主題歌はどこか甘く感傷的で哀愁を帯びているから、慕情というタイトルがいっそう身にしみるのかもしれない。
 成就しないもの、挫折し倒れるもの、中途で喪われるもの、そういったものへの偏愛はくり返しくり返し描かれ続ける。  

 

菜園便り295
12月7日

 友だちに渡すのに、出がけに庭の花をおおいそぎで摘んだけれど、たちまち7種ほどが手に入った。少し寒くなった後だから、花なんて石蕗ぐらいじゃないかと思っていたのでちょっと驚いた。その時は気づかなかった小菊も表玄関そばにでてきたから、今だともう少し多くなるだろう。荒れた庭にもいろんな喜びが潜んでいる。
 そんなことを書きかけていたらもう12月、いつのまにか真冬になっていて、庭の花を愛でるどころでなくなった。昨日は寒さで体が動かなくなって、応接室のストーブの前で石像化していた。心もこわばって動かなくなる、困ったことだ。
 先日、2階のひさしで見つかった鵯ほどの鳥の死骸のことを書いたら、まるでそれにあわせたようにまた鳥の死。今度は下の台所の排水口近くに横たわった、オレンジと青の小さな鳥だった。たぶんジョウビタキだろう。こんな妙なところにあるのは、頻繁に玉乃井に入ってくる隣の猫の仕業だろう。庭で鳥をねらって潜んでいることもあるし、襲っているところを見てしまったこともある。どこかで捕らえて、自分の家にではなく、秘密の隠れ家に隠したのだろうか。
 乾いていて、重みが感じられないほど軽い。でも羽の色は鮮やかなままだ。そのまま乾燥させて採っておきたいほどだけれど、そうもいかない。木立のなか、前の鳥を埋めた近くに小さな穴を掘ってうずめた。近くにはこの夏花をつけた竜舌蘭がある。根本の本体部分は黒ずんでもう半分枯れている。このまま潰えていくのだろう。50年がんばって伸び続け、力を蓄え、そうして開花し種子をふくらませ散らして終わる。異様なまでに肉厚で鋭い棘を持つごつごつしたサボテンも、次世代へと、種の保存のために生きぬいて、そうして朽ちていく。
 表の玄関前では、まだ松の落ち葉が続いている。落ち葉だけれど、油色とでも言うしかないような薄茶色でつややかな葉だ。形もくっきり、きりりとしている。たった1本の松だけれど、強い風の後など、掃き集めるとふた抱えほどになる日もある。花を存分に散らせた後だから、心おきなく自身の体調を考え整えているのだろうか。
 プランターのレタスはまだ葉を拡げているし、バッタの攻撃を生き延びた春菊も伸びている。空豆も半分土に埋もれて、日照時間が長くなるのを待っている。ルッコラが小さいなりに群れていて、時々サラダに彩りを添えてくれる。アーティチョークはほとんど伸びなかったけれど、そのとげとげの形よい葉を緑色に保っている。刈り払われた交差点から持ってきたペパーミントは本家が全てなくなった後、健気に鉢のなかで増え続けている。元気のあるうちに地植えしておかなくてはと、何度も思ったことをまた思っている。残念ながら、友人が持ってきて植えてくれた夏みかんは夏を乗りれなかったようだ。
 続いた死を気にもせず、鵯や雉鳩がかわらずに庭にやってくる。すぐ向こうの海では鴎が群れをなして低く飛んでいる。さざ波がどこまでも光って海はもうすっかり冬の色。


菜園便り296
12月12日

 今年もそろそろおしまい。来し方行く末とまでいかなくても、少なくとも映画のことは書いておかなければと思いつつ、でも雨ばかりの夏のない年だったといったことだけがすぐに浮かんできてしまう。なにはともあれちかい人の死がなかった、それだけは言祝がなければ。
 「映画・今年の3本」を載せていたYANYA’がでなくなって久しい。いろんな人があれこれ思いがけない視点から語りあうのは楽しかった。知らないことを教えられたりもしたから、読めないのは残念だ。
 みにいった映画の数は少ない年だったけれど、夏にいくつかの特集上映でまとまってみることができたし、すごくヘビーなものも少なくなかったから、受容感はかなり大きい。小川紳介三里塚シリーズ、特に「三里塚 第2砦の人たち」については今も大きな塊が処理できずにどんとどこかに乗っかったままで、なんだか食べられないものを大急ぎで詰めこんだように重苦しい。ついあれこれ思ってしまう。この映画を、例えば「玉乃井映画の会」でやれる日は来るのだろうか、といったようなことまで。それはもちろんぼくのこととしてだけれど。
 王兵ワン・ビン)監督の「収容病棟」はなにをどう語るにしても、もう一度ゆっくりみなくてはと思うけれど、あの5時間近くをもう一度たどるにはかなりの勇気がいる。心身の体調を整え、冷静にかつ柔軟に、姿勢正しく毅然と、でも心開いて感情にも蓋をせずに、恐怖や嫌悪、痛みや憎しみも隠さず、そうして喜びも哀しみも手のひらにすくい取って静かに見つめ、力あればのみほして・・・・そういうふうに対応できるだろうか。
 大げさなことばはおいて、今年の3本。6月にKBCシネマでジャ・ジャンクーもやったし(「罪の手ざわり」)、アジア映画祭では蔡明亮の新しい映画だけでなく本人も登場したし(「郊遊 ピクニック」)、成瀬の「浮雲」をまたみたりもした。でも、小川紳介王兵のものを除いたら、やっぱり「玉乃井映画の会」の作品がすぐに浮かんでくる。
 ジャ・ジャンクー監督「一瞬の夢」はぼくには初めてだった。玉乃井の暗く閉めきった2階で初めての映画をみるというのはとてもうれしい。みんなと同じ期待を抱いてスクリーンに向きあえる。賢しらな「解説」をしようと思ってもできないから、あれこれ予断を押しつけずにすむ。彼の長編第1作、実質的なデビュー作で、出世作でもある。青春の屈折、いらだち、悦び、怒りや欲望がむきだしで語られる。ことばにしてしまうとそういうありきたりのクリシェになってしまうけれど、とにかく率直におそれずに、きちんと語れることだけを自分のことばで語る、しかもそういうことを自分への枷とせずに、結果として等身大になるような、細かな齟齬を踏み抜いていくような、たいせつなことは伝わるんだと信じて、遠くまで届く静かな声を発し続ける、そういう姿勢というか気概に先ずうたれる。
 これまで何度もみてきた小津安二郎監督の「麦秋」は秋にやった。揺るぎないしっかりとした構造があり、どこまでもシンプルで限りなく深いから、野放図に細部にこだわれる、まるで淫するように。家族が解体していくということそのものへの哀悼、消えていった時代への郷愁は、みるぼくにも深い。いつもそうだけれど、今回も、東山千栄子と嫁の三宅邦子が縁側でやる、打ち直した綿を、洗った布団がわに入れていく仕事なんかをじっとみつめてしまう。廊下の隅に、打ち直してきた綿が、四角い包みで重ねて置いてあるのもちらと確認できる。子どもの頃の我が家ではだるま綿がだるまの絵が入った梱包紙に包まれていたけれど、ここのはどんな梱包紙なのだろう。綿全部を包むのでなく、外側だけをぐるっと四角く囲むように包まれている。廊下の隅の壁の前なんて積み上げるのにぴったりだ。そんなことも思う。
 母は手伝いに来てくれたセリノさんと二人で両端からひっぱったり、軽く叩いたりして平らにならしながら、所々に緑色の幅広のかたいとじ糸でしつけていた。針も独特だった。リズミカルに刺しては抜いてくるりと結んでぷつんと切る、そのくり返しを何故だかとてもよく覚えている。なんであれ縁側の作業は楽しげで、ましてやセリノおばちゃんが来ているし、あたたかい綿や布団が広がっている。はしゃいでしまうのはとうぜんだったのかもしれない。
というわけで今年の3本はあれもこれもと悩むことがなくて、「三里塚 第2砦の人々」「収容病棟」「一瞬の夢」「麦秋」ということになった。


菜園便り297
12月15日

死はあまりにも劇的だから誰もが引きつけられてしまう。惹きつけられて、が正しいのかもしれない。


死、そのものより、それにまつわる事々、例えば、自分のなかに巻き起こる決まりきったとしかいえない激しい感情とそれの誇示、自分への?、そうしてくり返される儀式への参加とのめり込み。でもそれでも


ぼくは誰かに「発見」されるのを待っている。誰もがそうだろう。
ほんとに?

菜園便り298
2015年1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。


菜園便り298
1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。最後にお見舞にいったのは虎ノ門病院で、だから昼時に病院を抜け出してオークラに行ってクラブハウスサンドイッチをいっしょに食べた、「病院の飯はほんとにまずいし、かさかさなんだ」と。ガーデンレストランには今もそのメニューは残っている。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。

菜園だより***
 看病で、病院で見せつけられる、死にいたるたいへんさへの恐怖も消えないのだ、きっと。徐々に死にとりこまれていくとき、身体的な痛みや苦痛が、もじどおり息のできない苦しみが、人を襲うことを間近に見てしまうと、もう誰もそれへの怯えから逃れられなくなってしまう。
 死の床の全体を貫く耐え難い不快にびっしりと覆われ、それを拒むことどころかそれを口にすることさえできずに、あちこちをいじられ、こづき回され、喉の焼けるような渇きの一瞬の解消さえなく、何日もうめきながら血を流しながら叫びつづけて無能な医者や傲慢で不器用な看護士たちへの怒りが爆発し、側にいながらなにひとつ解決できずにお追従だけしている家族への怒りが生まれ、でもその全てがけしてことばにも態度にも表せないその二重三重の怒り苦痛悲しみ。結局はただ諦めて、でもそれによる苦痛の減少がわずかにでもついてくるのだろうか。
からからの口のなかを妙な臭いのガーゼで力づくでかき回し、粘膜を引き剥ぎ、病人にいっそうの痛みと不快と渇きをつのらせていることに気づこうともせずに自慢げに<きれいに>してやったと誇られて、それを新たな怒りでなく、ただ黙って受けいれるほどにも衰弱は深くなれるのだろうか。心臓が動いているだけで、痛みも不快も怒りも感じなくてよいほどにもうろうとなれているのだろうか。きっとそうではないだろう。では最後の最後の瞬間、それは劇的に「今」というような瞬間でなく、短い時間内であれ徐々に心臓が脳が働きを停止していき呼吸が止まり、血圧が一気に下がり、どこかで「生命」が消えていくときその時に恐怖や苦悩はないのだろうか。痛みはもうない気がするけれど、それも脳天気な外にいるものの楽観にすぎないのだろうか。
様々な喪の行事を行うために人は集まり、あれこれを片づけていく。段取りを決め、お寺に連絡し、親族に知らせ、お土産やお菓子や果実、それに花も手配し、座布団を干して、仏壇を掃除して、写真をだす。道路側に飛び出している庭木を大きく刈り込み、隣との境界の蔦や灌木を取り除き、家のなかもあれこれ片づける。遺品の整理も続ける。
いろんなことをてきぱきとすませていくと、かえって鬱々としてしまい気力も失われる。なんだかほんとにひとりになってしまったと、そんなふうに思えてしまう。久しぶりに眠れなくて夜が長くなる。人は自分でも気づかないところでいろんなことを思い煩っているのだろうか。自分のことばかりにかまけていると、自分のことさえわからなくなっていく。
お盆も近づいてきた


菜園便り
1月13日

菜園便りは時々番号が飛ぶ。抜け落ちた数はけっこうある。気にして問いあわせてくれる人もいるけれど、だいたい誰にも気づかれないままひっそりとどこかのすみに紛れ込み沈んでいく。
ぼく自身が忘れてしまったのもあるだろう、きっと。書いたのだけど送らなかったとか、書きかけて止めたけれど、抹消するのがなんとなくはばかられたとか。
「撞木鮫のでてきた日」のように個人を宛先にしたものにそういうのが多い。その人だけに当てて書いたのだったからだが、しばらくしてまとめる時に載せたりしたから、まったく消え去ったわけではない。
今回の「菜園便り   」は1部限定で、宛先は写真家の飯田さん。夏の写真展に出すためということで、「作家」のポートレートとして撮りにみえた。いつもは美術作家を中心に撮ってあるし、ぼくごときがと、なんだかおこがましい。でも玉乃井の雰囲気を撮りたいということだろうと引き受ける。そうやって簡単に引き受けたけれど、とにかく気恥ずかしいというのが最初にあって、それは最後まで続いたし、緊張もずっととれなかったけれど、なんだかふっと気が抜ける時があった。
撮られることの不思議や快感も知ることになった。 

 

菜園便り299
1月20日

 海側の庭に面したガラス戸のすぐ下、小さな藪椿に初めてのつぼみがひとつついた。緑のなかの紅、でやっと気づいたけれど、丈も低くひっそりとつけたつぼみだから気づくのもおそかった。
 もう7年ほども前に近所の人が、鉢植えではかわいそうだし、自分のとこは植える場所がないので、ということで持ってみえた苗の1本。潮や風の当たらないところと思いつつ3カ所に植えて、当座は水やりも続けてどうにか2カ所は着くのは着いた。砂地だしあまり手入れもしないままだったのに、健気に少しずつ伸びてとうとう花をつけるまでになった。1メートルにも満たない茎に大ぶりなつぼみがついている。
 少し離れているし特に親しいお宅でもなかったから、植木を持って見えた時は少し奇異な感じもしたけれど、もちろん子どもの頃から知っている人だし、喜んで受けとった。しばらくは様子なども伝えていたけれど、いつの間にかまた遠くなって、会えば黙礼するくらいの関係に戻ってしまって今に至っている。花のことも伝えられないままに終わるのだろうか。
 植木は頂いても着かないものが多い。自分で買ってきた苗もほぼ全滅だけれど、思いがけないものがぐんぐん伸びたりして驚かされる。楠とか月桂樹とか、大きくなる樹が意外にすっと着いたりして、なんだか不思議な気もする。
 そうやってたちまち3メートルにもなった楠のそばで水仙が開いていた。この冬初めての花だ。小さな一群れがかろうじて、といった感じで続いている。たて壊した離れや大浴場があった頃のしおり戸のあたりになるのだろうか。そこはちょうど建物が風よけになっていて、海からの潮もまだひどくない頃だから毎年たくさんの花が開いていた。
 そういえばあの頃は茅はなかったなと、冬枯れしても勢いを失わない茅をついつい恨みがましく見てしまう。


菜園便り300
3月23日(2015)

 「菜園便り」が300回になった。第1回が2001年だから、14年ほどたったことになる。途中で一度、抜粋を『菜園便り』という本の形にまとめたけれど、それからでも5年はたった。その本のはじめには200回目は2003年だとある。100回めはいつだったのだろう。
 いろんなことがある、そういうあたりまえのことを知るために、人は長々と生きているのかもしれない。若さは愚かしさだったけれど、いつまでたっても愚かなままだという内省も今になってあらためて生まれる。
 そこからさらに進んで、「でくのぼう」とよばれることをめざし、指さされることに負けない生き方をしようとする人もいる。でもどういう隘路を伝ったらそういう場へと抜け出られるのだろう。昔だったら、長く困難な旅とヒロイックな行為の後にやっと遠くに見えてくるのだ、なんて思ったかもしれない。ここより他にしか、戦いの荒野も安住の桃源郷もないのだと思いこんでいた。賢しらに「青い鳥はここにいる」なんて口にする者には、そもそも青い鳥なんていう発想そのものが、ここにないものを指しているんだと冷笑して。
 でもそういうことではなくて、こことか、他とかといったことばそのものに意味がないということ、意味をなさなくなるといっても同じだけれど。そういういい方をするなら、全ての場所がここであり他であるということだろう。
 「でくのぼう」になるには、そういう場に立ちたいと真摯に考え、ほんとうに思い願うこと、そういうありふれた、でもとても難しい方法しかないだろう。でもほんとにそういう場にたちたいのか、ほんとにそういうふうに名指されて生きていけるのか、つらくはないのか、屈辱や痛みにたやすく打ち負かされるしかないんじゃないか、そんな躊躇が一瞬でもある間はなにも見えてこないのだろう。
 誰もそういう場は怖い、でもそこしかないんだと、そうしてそこはまったきに開かれて明るく勁い場だ、と、そここそがほんとうなんだ、そこしか生きる場はないんだとしっかり掴む人もいる。感傷的に憧れるのでなく念ずるほどに強く思うこと、信じること。単純でそうして限りなく深く遠い場。
 菜園は緑濃くどこまでも広がる、重なりあったやわらかな葉が辺り一面を埋めている、赤い実がそこかしこにのぞく、黄色いのはなんだろう、陽光は根もとの黒々とした土にも明るく降り注ぎ輝いている、頑丈な竹の支柱に絡まり伸びてきた蔓が空へと触手を伸ばし、その先端のほとんど白いまでの青い色素にも白金色の透明な光がまとわりつく、土のなか地下へと向かう毛根が蓄えるごつごつした塊、さらさらと葉を鳴らす風が季節の流れを攪拌し掻き乱し、ここは今なにもかもが実り溢れる豊穣な沃土。
 現実のプランターのなかでは、くすんだ色のレタスがやせ細った髭根を広げ、小さな苦みのある葉をときおり届けるだけになっているとしても。すべては愛です、野菜も愛です、どこででもなんでも育つのです、どうにかしのいで冬を越してきた春菊やルッコラがひっそりとそう告げる。誰に向かってだろう。愛、慈しみ、それは求めるものではなく、与えることしかできないものなのだろうか。

菜園便り301
4月3日

 モーツァルトの全曲聴破も、2年を超してオペラまで終わった。残るのはアリアとか宗教音楽とか。かのレクイエムが残っているとはいえ、もうあとわずかだ。今月は無理だとしても、この春のうちには終わるだろう。でもその後はどうすればいいのだろうか。今でも時々はリクエストもあってジャズやリュートやバッハをかけているけれど、そうやって気の向いた曲をかけていくというのはかえって難しそうだなあとも思う。いつの間にか同じ曲になってしまいそうだ。CDだけでなくレコードやテープもかけるように気持ちや体をもっていかなければ。
 聴破記念には「ひとりリクエスト大会」でもやろうか。先ず何からはじめよう、つい先だって話題になったピアノ協奏曲23番でもいいし、毎朝聴いているクラリネット協奏曲でもいいし、明るくホルン協奏曲1番で幕開けしてもいい。夜の女王のアリアで騒がしくはじめるのも一興かもしれない、それともやっぱり静かにピアノ曲だろうか。聴くといつもシンとしてしまうピアノ協奏曲21番の第2楽章か、それとも・・・あれこれ空想は尽きないけれど、シンフォニーがぜんぜん挙がってこないのは訝しい。継子いじめだと思う人もいるかもしれない。でも大きなものや堅牢なものが苦手だし、仰々しいものは敬遠してしまうので、どうしようもない。でも42番くらいはかけなくては、といったひとり冗談はさておき、「魔笛」や「レクイエム」はかけるだろうなあと思う。最後をどうするかも問題だ。アンコールになったらどうしよう、小さくて心にしみるものだと、やっぱりピアノソナタになるのだろうか、などどらちもないことを考えてしまう。どうしてこうやってすぐに形に置き換えてしまうのだろう、貧しい心性だ。
 「菜園便り」300回について返信をくれた人もあった。そういうのはうれしい。ああ、誰かがぼくの声を聴いてくれたんだと思うし、なにかがむこうに届いているんだ、そうしてそこからのなにかがぼくにもまた届いたんだと。
 300回はすごく直接的な書き方だったから、頂いたメールには宮澤賢治に触れたものもあった。直接的である間はなにも生まれない、ともいわれたりするけれど、そうだろうか。「でくのぼうになる」の対極には、若い時に誰もが足を取られる<上昇志向>や<野心>や<正義>があるのだろうか、そういうことも、書かれている。そうしてそこからやっと自由になったと思いこもうとしても、そうは問屋が卸してくれない、あたりまえだけれど。
 今もふつふつとたぎるものを抱えている人も少なくないだろう。御しがたい熱、内で荒れ狂う風、凍りつかせる外からの雨、そういったものに振りまわされず、でも切り捨ててしまうことなく抱え続けていくのはとても難しい。
 それはぼくにとっては書くことを止めない、止められないことになるのだろうか。「表現とはついには他者のものでしかない」、そうだともそうでないともいえなくなる。
 成功や名声にあがくように憧れる人もいる、誰にもそういう時期がある。もちろんぼくもそうだった。でもそういうことに付随するめんどうや嫌なことも丸ごと引き受ける力がないと、押しつぶされてしまうだけだろう。
 プラスでもマイナスでも「有名」にもならずにすんでほっとしている人も多いだろう。近隣でのちょっとしたいざこざに巻きこまれたり、友人たちの間でちょっと持ちあげられたり、それでもう十分だと。もう「若く」はないけれど、未だに「貧しく」「無名」であることの安堵と小さなさみしさもある。そういうことを市井に生きるというのだろうけれど、そこにある勁さや深さに気づかされるのには、それはそれでまた時間がかかるものだ。自分を過大評価することから離れようとして過小評価することは、世界を、人々を過小に見てしまうことととつながってしまう、そういうややこしさもある。
 身についてしまった、近代の悪癖のひとつである、批評してしまう因習から逃れ、ただみる、聴く、直に向きあおうとすること。そんなことは誰にもできないんだと突き放さずに、虚心にただむきあって、溢れてきそうになることばを押し返して、ただ黙ってむきあって、そうしてそこに浮きあがってくるものを静かにすくいとって。そういうふうにわたくしは生きていきたい。


菜園便り302
5月6日

 3月の「絞死刑」上映の後、「犯罪」や「罪と罰」ということについて考えた人は少なくないだろう。松井さんが中心になってやっている「9月の会」も、3月は李珍宇のことも含めて「犯罪・内部・記号」というテーマで語られたし、昨年11月はオウム真理教のことがテーマだった。
 他にも、Rについて、李珍宇について、心について、犯罪について、現在起こっている事件について語った人もいる。憎悪するにしろ、同情するにしろ、自分を重ねるにしろ、誰もがいやでもいろいろに考えさせられることがらだろう。
 以前、「チチカット・フォーリーズ」というドキュメンタリー映画についてについて書くなかで「犯罪」についても考えたことがあった。それを再度「YANYA’」に載せるために手を加えてまとめたのだけれど、あらためて「菜園便り」に取り込むことにした。なんだか焼き直しばかりしているようだけれど、今もこういうふうに考えているし、これ以上には考えられないとも思う。

続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。下記に再録した当時書いたものは、ずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もあるけれど。

 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。


菜園便り303
4月5日

 一昨昨日、2階の改修部分、山本さんや壮平君に床張りをやってもらった松の間の障子張りをやった。2枚だけだったから、ついでに下の応接室の一部も張り替えた。なんだか「菜園便り」には障子張りのことばかりを書いているような気もするけれど、ぼくにとっては特別な家事なのだろう、きっと。<家族>や<家>をとても強く感じさせる作業。
 季節を感じさせる労働であり、ふたりで協力しあってやるし、すでに過去のものとなった行事みたいでもあり、終わった後の白い爽やかさは格別だ。光が和紙をとおして柔らかくなり、乱反射して明るさがますようにも思えたりする。
 父が元気をなくした後、札幌の姉が頻繁に来てくれた。父も喜んだし、ぼくもとても助かった。その頃、姉とやった障子張りのことを菜園便りに書いたのを覚えている。母とやった時のことも思いだす。母は1枚張りできる大型の障子紙のことをはじめて知ったようで驚いていた。これだと障子1枚貼るのもあっという間に終わる。友池さんに手伝ってもらって何枚も2階の障子を張り替えたこともあった。10年以上やっていなかった部屋もあって、掃除からはじめてたいへんだったけれど、ずっとつきあってくれた。1階の応接室の障子の助っ人は壮平君だった。「音楽散歩」に会場を提供した時のことだと思う。あの時はたしか深町さんのリュートの演奏会だった。松尾家の手伝いに、障子張りの「出前」に出かけたこともある。
 母が亡くなった後は父とのふたり暮らしだったから、父とふたりで障子張りをやったこともあったはずだけれど、それは覚えていない。父との作業では、菜園の野菜づくりのことをいろいろ覚えている。その父が亡くなってからでももう5年がたつ。来年は7回忌だ。
 ビリーホリデイを聴きながら障子張りしたと書いたこともあるけれど、先日のは2階だったし、なんの音もないまま、ひっそりとひとりでやった。誰かひとり紙を押さえてくれる人がいると貼る時にほんとに楽だしうまく貼れるのだけれど、そうもいかない。メンディングテープで端を止めて静かに引っ張り押さえていく。「ゆっくりゆっくりでもでもすばやく」「ていねいにていねいにでもだいたんに」なんておまじないをいつのまにか唱えている。少しくらいずれてもしらっと続ける、かなりずれた時は、4文字ことばを声には出さずにくり返しながらやり直す。少々汚れたりねじれても平気平気と安心させつつ。霧吹きでぱっと吹けば一晩でピッとなる、だいじょうぶだいじょうぶと。
 たぶん障子の建具そのもの繊細さ軽さ、紙の軽さ、光を透過させるものだということが、張り替えを厭わない理由かもしれない。襖にはなかなか手がでない。すぐにも張り替えをやらなくてはならない襖は山のようにあるのに、試してみようかとも思えない。重い、力がいる、難しい、張り替えた後の衝撃度が低い、つまりあまり見栄えしない・・・。まさに「かわいそうな襖さん」、だ。
 でも障子張りに感じるようなささいなちょっとした楽しみこそが、無限に続く果てのない「家事」をやり抜かせる力なのだろう、かすかな期待、達成の喜び、とりあえずの終わりがある安堵。


菜園便り304
5月8日

 田植えを終えた水田が広がっている。4月の終わりに機械で植えられた時は、思わずだいじょうぶかと声をかけたくなるほど小さく細い苗だったけれど、10日ほどでしっかりとした濃い緑に伸びた。一面の水鏡に映える爽やかな緑は誰をも魅了するだろう、鳶や鼬や小学生をも。かすかな風が水面を揺らすと光も陰も大きく揺れて割れて拡がる。心のなかにじかになにかが入ってくる。
 庭のプランター空豆は今年初めての収穫、柔らかくて青くさくてとにかくおいしい。「一寸空豆」と種袋にあるのを買ったのは、添え木や支柱を厭う怠けごころからで、でもやっぱり一寸を支えきれずに緑の塊全体が傾いている、揃って同じ方向へ倒れかかりもたれあっている。ちょっと見苦しい、1本でいいから縄をぐるっと回して支えてあげればいいのだ。何度も思ったことをまた思う。
 この時期に病葉を落とす木々の落ち葉も盛りは過ぎた。毎朝みごとに散った葉を履き集めるのはちょっと残念な気もする。周りの冷たい視線がなかったら、落ちたままの風情を楽しむだろう。朽ちて踏みしだかれて、そうなったらささっと掃き寄せる、そんなふうにはなかなかできない。共同体が無言で強いるものを拒むのは難しい。昔だったら、闘わなくてはいけないとか因習を合理的な科学で打ち壊さなくては、なんて本気で思っただろう。今は、永い時間をかけて培われた集団の智恵、掟といってもいいだろうけれど、を引き受けていきたい、そういう穏やかな常識こそが今切実に必要とされているのだろうから。
 美術展の前に刈った茅はもうしっかり20センチほども伸びている。青々とした尖った葉が真っ直ぐに立っていてそれはそれで美しいけれど、またびっしりとはびこると思うと憂鬱になる。今年こそは草刈り機を手にいれてまめに刈り続け、徐々に潰えていくのを待つしかない。でもカラスノエンドウを打ち負かしたほど強い茅が弱まるとなると、次は何が我が世の春を謳歌するのだろうか、この庭で。それを思うとちょっとこわくなる。
 春菊もいくつも花をつけている。ガーベラのような淡い2色。ルッコラも白い十字状の花を次々に開く。開いたそばから摘みとられサラダにされてしまうので、また次々に開く。レタスも葉を広げ、山椒は溢れんばかりに木の芽をつきだしている。ミントとアーティチョークも冬を生き延びてそれぞれの葉を伸ばしている。パスルテルミント色なのはアーティチョークで、ペパーミントは少し黒みの混じった濁った厚ぼったい緑だ。
 夏野菜の植えつけをやっと終えることができた。胡瓜もゴーヤもズッキーニも諦めて、トマトだけに絞った。他はバジルと紫蘇だけ。これだと嫌でもうまくいくだろう。もちろんベランダそばのプランターと鉢だけ、元気なレタスのそばだ。
 庭の木々は今がいちばん美しい。すみの小さな茂みも、ぐんぐん伸びている楠も、様々な色の階調でなりたっている。思わず口に入れたくなる柔らかい黄緑色の一群の横には真夏のような濃い緑が黒々とあり、少し薄紫がかった明るい一画と強いコントラストを描いている。オレンジというよりは赤といった方がいいような透きとおったと細長い葉ものぞいている。白い小さな花がびっしりとついていても、葉叢の印象は消えない。白い花という葉。棘の多いむやみやたら枝を伸ばした醜い木もほっそりと端正に見える。花が終わった椿の葉は暗く輝いて厚く、光をぎらりとするほど反射する。
 折々の花もある。週末のカフェの日には小さな花を摘んでテーブルに挿す。月桂樹、ユズリハといった生命力のある樹の枝は花瓶のなかで何ヶ月もじっと命を繋ぎ、みる人に緑の光線でやすらぎを与え続ける。お正月に切りとった枝が、まだそのままの姿でしっかりたっている、すごい。

 

菜園便り305
6月8日

 夏野菜が背丈ほどにも伸びて繁るほどだった菜園も、父がいろいろできなくなり小さくなっていった。亡くなった後もどうにか続けていたけれど、それもプランターや鉢植えにまで小さくなり、もう季節を映せなくなっている。ルッコラもレタスもなんとなくできてそうしていつのまにか終わっていく。冬の蕪、大根、春菊、初夏の空豆、ズッキーニ、真夏のトマト、胡瓜、苦瓜、そんなくっきりとした鮮やかな季節は今はない。ぴたりぴたりと狙ったように時期を定めてはいっせいに花開いてたわわに実って、ということはない。
 そのかわりというのもへんだけれど、落ち葉はしっかりと季節を映す。決められた時期にいっせいに落ちて道路や玄関にはでに散るから隠しようもないし、気づかないふりもできない。せっせと掃き寄せる。
 梅雨入り前後の今は、山桃の小さな青い実が降るように落ちるし、ネズミモチの白い小さな花がどっさりとばらまかれる。山桃は小さな実を振り落として確実に大きな実を結ぼうとしているのだろうけれど、こんなに落としてだいじょうぶかとつい思ってしまうほど、毎日毎日、うす黄緑色の固い実を落とし続けている。つぶつぶがくっきりとした青い実、人や車に踏みつぶされた実から、青臭さと共に熟した時のあの濃厚な甘い匂いの予感が立ちあがってくる。
 以前は熟した実を丁寧にもいで果実酒にしたりしていた。味よりもとにかくその色の美しさにうっとりしていたけれど、甘い果実酒は自分ではのまないし、どうかすると色が抜けたりもするのでいつのまにかつくらなくなった。もちろん面倒くさくなったのだ。それでも熟した後は時たま手のひらに転がしてそのベリー状の形を眺め口に入れてたち上ってくる香りと甘さ酸っぱさを楽しんだりする。紅臙脂色の実が一面に散った道は美しいし、踏みつぶされて路上に残された紅い染みはなかなかなものだ、ちょっと異様でもあってすごい。見た瞬間に口のなかに甘酸っぱさと固い核の感触が拡がるし、もっと想像が飛んでしまうこともある。
 ネズミモチはこの季節、あちこちで見かける。とにかくどっさりの花をつけて匂いを撒き散らして蝶や蜂を呼び寄せている。幼い頃もたくさんあったのだろう、いろんなおもいでと結びついている。冬の金木犀、春の沈丁花、そうしてこの花、香りが辻つじに塊のようにどんと立っていて、通りかかるとごつんとぶつかる、そんなふうだ。
 先週から白百合も前庭と裏庭とで開いている。いくつかは切り花にして飾っている。夕方になると強い香りを家中に放つ。百合は日持ちするからね、といったのを覚えている。誰にだったのだろう。なんだかとてもインティメイトな、親密な気持ちが甦る。


菜園便り306
7月4日

 梅雨だ雨漏りだといっているうちに、もう7月にはいってしまった。
 以前は月初めの日に、ハッピー・ファースト・オブ・ジュライとかいったりしていた。いっぱいの楽しさを期待するというより、言祝ぐこと、祈ることに近かった気もする。お正月のあけましておめでとうございます、というのと同じかもしれない。
 くしゃみをするとグッスンタイトとかブレス・ユーとかいって厄よけしたことも思いだす。そうやってささやかな生活を少しでも護ろうしたのだろう。くしゃみやおならに対して極端なほどの反応を見せる文化もある。体から、なにかがでてしまうとか、よくないものがでてくるとか、そういう考え方があるのかもしれない。
 庭のミニサイズのトマトが次々になる。赤いの、黄色いの、丸いの、細長いの、いろいろだ。レタスは終わる前に次のを植えなくてはと思っていたけれど、ぐずぐずしているうちに消えかかっている。紫蘇やバジルは元気だけれど、そうそう使うものでもないし、ピーマンは教科書どおり最初のひとつを小さい時にとったのに次がなかなかできない、うまくいかないものだ。
 お隣の花田さんの菜園は大きくてりっぱだ。元気にいろんな野菜が伸びている。時々おすそわけもいただく。果肉は粘りがあるのにカリカリしたおいしい胡瓜とか、ぱりっとして苦みもあるレタスの葉などを。
 雨漏りの修理もやったので、漏る箇所も大きく減ったし漏り方も穏やかになった。海側の玄関の上など、あんなにひどく漏っていたのがぴたりと治まって、なんだか奇跡のようにさえ思える。こんなことならもっと早く、とつい思ってしまうけれど、いろんな条件がよい方に集中してやっと今できたということだ。もしかしたらまだまだ機が熟さなくて、いろんな人の手助けが得られなくて、もっとひどいことになっていたかもしれない。
 とにかくうれしいしほっとできた。こうなると他も全部、一気に直してしまおう、といった気持ちが生まれるのは当然かもしれないけれど、今までの長い過程があるし、なにより経済的な事情が許すのはここまでだともわかっている。焦ってはいけない、ゆっくりやっていくしかない。400キロもの布団を一気に処分するようなこともほんとは家にも人にもあまりいいことじゃない。ものごとをひといきに変えたり新しくしたりする急激な変化は刺激的でもあり、一見すばらしく思えるけれど、その裏ではほとんど全てのものが無理な動きや変化、ねじれ、さらには消滅を強いられているのだろう。機械的な力が無限と思えるほど強くなった現在、やろうと思えば、全世界の改変、消滅もありえないことではない。
 今を丁寧にじっとみつめること、動かない変わらないことに耐えること、いろんな不満足を受けいれる勁さを探ること、自他への批評を押さえること、弱さと思えるものを何度もとらえ返してみること。やわらかい虚無がにこやかに世界を包みこんで、静かにつもっていくことに抗うこと。否定や対抗ということでなく、根源的な生や死といったことすらも手にすくいとってあらためてしっかりみようとすること、問い返そうとすることとして。