菜園便り223
2011年1月10日 雪

 諦めていた空豆が、次々と芽をふいて伸び始めた、すでに5株。発芽しそうにないなあ、だめかなあと思って買ってきた2本の苗も順調だから、初夏にはどっさり実ってくれだろう。菜園の端に植えた2株のレタスも酷寒のもとゆっくりと葉を広げている。植物はほんとにすごい。
 先日は台風以上の暴風雨で、「窓も吹き飛ぶほどの大風」に怯えていたら、ほんとに2階のはめ殺し窓が吹き落とされて割れてしまった。ぽっかりと開いた穴はそのままだから、風が吹きこみ時には雨や雪も降りこんでいる。でもなかなかすぐには修復できない。気持ちが萎えてしまって、体も動かない。
 冬の海は荒れていることが多いから、いつも濁って灰色。晴れていても、どんよりと鈍い光を受けてかすかに暗い緑をのぞかせるくらいで、白い波をたて続けている。打ち寄せる音もどろどろと響く。まるで世界の底が揺すられてでもいるようだ。満潮と重なると防波堤に打ちつけて飛沫を高くあげては道路に降りかかる。
 そんな日には砂浜を歩く人影はもちろんない。走り抜ける車と風をきる鴎だけだ。手前の道をフードをしっかり下ろして駆け抜けていくのは勤勉なジョッガーかダイエットを命じられた糖尿患者か。でもこんな日にも走ろうとする過激さは、過激故にすぐに潰えて、明後日にはもう炬燵のなかだろう。
 命よりだいじなものを守るために、が、いつのまにか数値としての健康を取り戻すために人は果敢に命さえも捨てようとする。奇怪な逆説であり転倒だけれど、それが今のわたくしたちを取りまく現実なのだろう。失って久しい穏やかな冷静さ、つまりあたりまえさ、平凡な常識といったものは、ついに再び人を護ることはないのだろうか、身体といった基礎部さえも。
 新年早々なにやら悲観的な話になってしまったけれど、そうやることで人は、世界は生き延びていっているのかもしれない、計り知れない巧妙な智恵の結晶。人口を半分に減らしても生き延びるといった選択は、映画のように殺しあったり籤で決めたりすることなく、まるでそれが摂理であるかのような形をとってスムーズに行われるのだろう。人は生きることそれ自体が目的化されることに倦んで、幸福とか欲望とかいうことばを使い始め、そうしてまた、類としての存在の維持を最優先させる方へと向かうのだろうか。
 外は雪、奇妙に明るい空から絶え間なく落ちてくる。シンとしたなかに静かに降り積もっていく。そうやってゆっくりと世界も終わり始める、か。


菜園便り224
1月16日

 寒さは続いている。12月は例年の倍以上の降雨量だったけれど、1月もそれは続いていて、雨や雪が多い。冷え込みも厳しくて、買い物に行く道にも氷が張っていた。田んぼの水が凍りつき、刈り取られたまま放置されていた稲株が氷にびっしりと覆われて、ひどく荒んでみえる。こんな光景は初めてみる気もする。とびとびのカリフラワーの植えられた田は、くろぐろした厚くて硬い葉をびっしりと広げている。
 北風も強いそんななかをカラスや鵯、ツグミは勢いよく飛びまわっている。人影はなく、遠くで山の端がかすかに色づいている。重い大根や白菜、シメジ、豆腐を抱えて戻りながら、だれがみたって今夜は鍋だと思うだろうなと呟いてみて、でも一昨日、山本さんが来たときにやったばかりだから今晩はちがいますよと、まるでだれかに返事するように思っている。じゃあ、夕飯はなんだろうと、人ごとのように問いかけてみたりもして。
 家に戻ると玄関脇に置いてある雨水をためる瓶にも厚い氷が張っているのに気づかされた。ゆっくりと引きだすと厚い氷の板で、低くなった光線が差し込んできて輝く。ずっと昔の、ベランダに置いた火鉢型の水槽から引きあげた氷を抱えていた写真を思いだす。もう写真もないし、記憶のなかの映像はきっとつごうよく改変されているのだろうけれど、着ていたフードつきのコートのことはよく覚えている。誕生祝いにもらったそれをどこで買ったか、そのときどんなふうに店員と話したか、そんなことも。
 そんなふうに想いでというか過去は奇妙な部分がくっきりと浮かびあがってくるのだけれど、写真やことばに一度定着されたものがより鮮やかに長く残っていくのはちょっとさみしい気もする。そうやって静止し限定的な映像として整理され単純になったもの、つまりいろんなものが、雑多なもの不必要なものとして削りとられた後の人為的に整合されたものが記憶として定着しやすいのだろう。語られ書かれてことばとして描写され説明されたものも、その単純化や虚構化によって対象の輪郭線がくっきりと記憶に残っていくのかもしれない。
 明快で澄んで聴こえるけれど、CDの音が細かな聞きとれない音も含めた雑多なものがつくり広げる世界をそぎ落とすことで成りたっていることに似ている。まったく改変され創りあげられた手前勝手なものだけが記憶として残るとまでは思わないし思いたくないけれど、でもおおかたはそうなのだろう。
 そうして写真の場合、それを撮った人、そこに、すぐそばにいてじっとみつめカメラを抱え、慈しむように対象を、全体をすくい上げた人のことはきれいに消去されている。だれがだれのためにどんな思いで撮ったのかかすんでしまう。
 円形の厚い氷を得意げにかざし、朝の光を受け笑っている遠い遠いかつてのぼくを、レンズの向こうからにこにこしてみていただろう人のことはもう遙かすぎて思いだせない。


菜園便り225
1月31日

 珍しく雪が降りしきった翌日は晴天。庭のそこかしこに残った雪も消えた。それでも底冷えのする冷たい空気のなかを歩いていくと、風景がくっきりと感じられる。とくに遠い山や丘が異様なほどその輪郭を浮きあがらせている。なんだか特別なレンズをとおしたようで、雨上がりのように鮮やかでみずみずしい。春を思わせる空の青さと、そこからの透明でまっすぐな光の力だろうか。円盤形のふわりとした雲が重なって続いている空。
 冬至を過ぎ、立春も近づいた今、光はもう新しい季節のなかにある。かっきりとした陽光が隅々まで届き、道ばたの小さな草の葉すら際だたせている。けれども夕方にはたちまち厚く暗い雲に遮られ、海の色もあっという間に陰りの下、鈍く冷たい色へとかわる。
 古い食べられなくなった米を庭に蒔いていることもあって鳥がにぎやかだ。でも思ったほどたくさんは来ない。隣の猫が時折やってくるから警戒しているのだろうし、鳥なりの縄張りもあるのかもしれない。雀、鵯、キジバト、それにセキレイくらいでごくたまにジョウビタキが一瞬姿を見せ、目白が木の枝に現れたりする。春の鳥はまだということだろうか。
 雀は鳴き声もかわいいし、小さな体を寒風の下で大きく膨らませころころと太ってみえる姿は愛くるしい。ときおりひどく細いやせこけたのが混じっていて、思わず声をかけたくなる。おい、少しは容姿も考えろ、無理してでももうちょっと食べて羽に艶と力をつけて、時には膨らませ広げて愛嬌を振りまくことも大切だぞ、とかなんとか。まるで自分に言っているようだ。でも弱い痩せた雛が餌をもらい損ねてますます痩せてさらに弱って潰えてしまうのも掟のひとつなのだろう。それを憎んで人は<文化>をつくりあげたのだったか。
 隣家の猫はみごとな白黒の毛なみで顔もかわいく、プイと顔を背ける高慢な仕草も猫好きの眼にはたまらないらしいけれど、やっぱり家猫の性か、食べ過ぎで太りかけていて、危うい。それでもその体で地面を音をたてずに這って鳥を狙ったりしている。幸い野生の鳥は敏捷だし警戒も怠らないからそんな手にかかったりはしない。
 一度暴れる鳩を足で押さえつけ、羽に歯をかけているのをみたときは驚かされた。ぐったりしてもうこときれたかと思わせられた直後に必死の抵抗、片方の羽で猫の顔面を撃ち、一瞬の隙をついて飛びたった。跳ねて手を振り上げてももうおそい。かくべつ悔しそうにでもなく去っていく後ろ姿が、生活のためでも生きるぎりぎりでもなく、ただ手慰みにもてあそんだとでも言うふうでそら恐ろしくなる。そういったことは互いの了解のなかの、<自然>の摂理なのだろうけれど、襲うものと奪われるものとのそのあまりの落差は理不尽にみえる。
 食住満たされ愛される容姿も持つものが、まるでジムでの運動のように、必死で生き抜くためにわずかの餌をつつく貧しく痩せたものを気まぐれに襲う。時には命を奪われ、それすら誰かの食や生を満たすわけでもなく散らばった羽の残骸のなかに放置されてしまう。または家人の恐怖や嫌悪の声に怒られてすごすごと手入れの行き届いた庭にぽいと吐き捨てられて、また悲鳴と怒鳴り声をあげさせるだけでしかない骸になりはてる、ああつらい。

菜園便り226
2月2日

 例年より平均気温がずっと低い、つまりとても寒かった1月が終わったとたん、あたたかさが戻ってきた。玄関脇の水瓶の氷が消え、道ばたの草花がいっせいに頭を上げる。くすんだ空の下の縮こまった眼には見えなかっただけかもしれない。おおいぬのふぐりが仏の座がシロツメクサがしっかり開いている、それもそこかしこに。黄色い花も混じる。タンポポでもおかしくないけれど、そうではなくて茎を伸ばし四方に広がっている。かすかにえんじ色が茎の一部に線状にある、なんだろう。
 収穫が終わったのか、くろぐろとしたカリフラワーが取り払われ鋤が入っている。もちろん小型トラクターでの耕作だ。牛馬や人が力を込めて踏ん張っているようなことはない。でも先日見た山間の段々畑なんかは、やっぱり人の力と技でやるのだろう。その時もずいぶんたいへんだなあと、思わず手を握ってしまったりするほど身体的にも感じたけれど。人が後ろから押していく耕耘機(黒沢の「天国と地獄」で三船敏郎が練習していたようなタイプ)も昔はあったから、ああいったのが改良された形であるのだろうか。いずれにしろ田植えも小型の手押し機械でやったとしても、隅々の変形部分は手で植えていかなければならない。なんであれあの高さまで持っていくのが先ず大仕事だ。たいへんだろうなあとまた思って思わず溜息もつきそうになるけれど、でもどこかに自分がやらなくてすむ今に安堵している。そうしてこんなんじゃ自給自足なんて夢のまた夢、ついにしらじらしいことばだけで終わるんだろうとあらためて思い知らされる。
 昨日誕生日がやってきた。こんなふうにほっと感じるのは40歳になったとき以来だ。きてほしくないような、でもなんか安堵するような、妙なそわそわする気分。先日の出版記念の会は誕生日の祝いも重なって、赤い苺の大きなケーキもあった。それはつまり60の還暦の祝いということで、赤いちゃんちゃんこの代わりの、赤いハートの入ったTシャツももらった。その場でセーターの上から着たけれど、Mサイズのそれがそれなりにおさまってしまい、あいかわらずのやせこけた体だと知れ渡ってしまった。「着やせするタイプです」なんてことばがもうねじれた冗談にもならなくなった。
 最近、率直な人たちが言っていることだけれど、老いることは、老成したり衰頽したりして「老人」になるだけのことでなく、幼児期の自分も少年期、青年期の自分も、そうして壮年、老年の今の自分も全部、無意識の部分も含めて全部が混在して現在ここにあるということらしい。身体にしても一律にガタがくるわけでもなく、さらに高まる機能や部位もあるようだ、その扱いに習熟するということも含めて。30代の頃には漠然とだけれど、年をとることは恍惚化し、痴呆化し、身体的にはよぼよぼになることだと、不安や嫌悪と共に思ったりもしていたわけだけれど、そういうことでもないのだとわかる。あれこれ読んだり聴いたりしてきたけれどやっぱりその時になるまで気づけないまま今にいたり、ああそうかと思いいたる。そういう理解を諦念といえばいえるのだろうか。年齢に追いついていかないというか、そのあまりのギャップに唖然と惚けたようになったりもしていたし、それは今最も大きく開いている気もするけれど、それがふつうであたりまえなのだというようなこともやっとわかる。
 社会も人もいろんな要素や部分からなりたっているから、そういうことはとうぜんなんだけれど、それよりもう少し広がりのある深さももった意味あいとして、幼年から老年までの具体性と深い根を持ったリアルな部分から、ぼくという個もそして人もつくられている、そういうことだろう。
 それぞれの生の現場で人はあれこれ悩み、喜び生きていくわけだけれど、そのひとつひとつが、それぞれの瞬間瞬間が、身体に心にきちんと全部残っているのだろう。自身で気づかなくても、すっかり喪われてしまったように思えても、それはちゃんとある。不意に思いもかけないときに遠くから伝令が着く、自分自身からの時を超えた伝言。そうか50年前のあの時のことはそういうことだったのかと、愕然としつつでもうれしくなる。死んでしまう前に全てが消え失せる前にやっとわかった、そのことは大いなる救いでもあり、そうして再びの懊悩でもある。

菜園便り227
2月6日  笠智衆の林檎<再>

 最近の「続・文さんの映画をみた日」(註:行橋のギャラリーYANYAからだしている小誌「YANYA’」に連載中)は映画のことなんかこれっぽっちもでてこないじゃないか、前回の「笠智衆の林檎」なんていったい何のことだ、という糾弾の声も聞こえる。そうだなあと自分でも思う。でも、いいわけではないけれど、あれくらい「笠智衆の林檎」のことをうまく語れたのは初めてだとも思う。
 いつもは、小津のさあ、あの「晩春」でさあ、笠智衆三宅邦子と再婚するとかなんとかいう嘘までついて原節子を嫁にやろうとして、結局そうなって、そうして結婚式から帰ってきて、もちろん原節子がいないからガランとした暗くさみしい家で、古い日本家屋だから真っ暗な隅々があって、誰もいなくて声もしなくて、だからどうしていいかわからずに笠智衆は礼服の上着を脱いだだけで着がえもしないまま、着がえさせてくれて後かたづけしてくれる人もいないこともあるんだろうけれど、どうしても落ち着かなくてわけもなく林檎を持ってきて、椅子に座って剥こうとするんだけれど、とうぜんにもそんなものはほしくもないことに気づいて、自分が何やってるかもわからなくなって、愕然として、いっそうさみしさはつのってついにがっくりと肩を落としてさめざめと泣き始める、あれだよ、あれ、と言ったりするのだけれど、でもそういう映画内のできごとの説明をしてみても、笠智衆の悲しみや孤絶感は、了解済みのことばでしか語れないし、それは了解済みのある概念を再度ことばにして単純化し納得する、させるだけのものでしかない。
 笠智衆はなにかのインタビューで、「ある映画評で「最後にがくっと眠りこける主人公」と書かれて、激怒しました」と言っていたけれど、そうだろうなあ、そういうふうにとってしまう鈍感な人もきっといると思う、ひどい奴だ、小津に失礼だ、とも思うし、あの映画の文脈ではありえないことだろう。でもそれはそんなに的はずれでひどい侮辱ではなく、原節子との長かった心理戦争の疲れやその日の式そのものの疲れから、また現実を見たくないという逃避から、眠りへと逃げ込んだという解釈もありうるだろうし、それがひどく下世話で滑稽だということはないはずだ。きっとその評自体に悪意があってひどい揚げ足取りだったから、彼は怒ったのだろう。
 つまり、ぼくが言いたいのは、見終わってすぐに誰かと、電話ででもいいから話したくなるような、それはその映画のことでなくてもいいんだけれど、そういう高揚感が生まれ、机に向かってなにか書き始めたくなるような映画を最近みてなかったし、古い映画をしみじみとみる気力はなく、でも生活や何やらはそこそここなして、あれこれ動き回っていても、やっぱり今のこのがらんどうでメランコリックな憂愁は隠しようもなく、だからそういう気持ちが笠智衆の林檎を呼び寄せるのだろうし、それを解説でなく、そこで描かれようとしただろうものこそを語ってみようと試みていたのです。
 と、書いてきて、そうだろうかとまた問い返すのは、「感傷だ、自己憐憫だ」といった外からの悪罵すら省みずに、ぼくはつらいんだ、涙がでるんだと叫んでいることのリアルが、説得力を持って語れていたのか、そもそもそのリアルがほんとうなのかというやっかいな心理の袋小路に、弱った心が半分迷い込んでいるからでもある。ああまた泣きたくなる。


続・文さんの映画をみた日⑧
ハーブ&ドロシー

 ニューヨークで美術作品を収集している夫婦を撮ったドキュメンタリー。とにかくこのふたりが独特で魅力的で好きにならずにはいられない。特別変わっているとか極端な生活をしているとかいうことでないから、つまりふつうの生活人だから、というのがいちばん大きい理由かもしれない。夫、ハーバートは20年以上前にリタイアしたこの映画の時点で86才のもと郵便局員、学校が大嫌いだったようで、自分で決めたことだけやっていくといった頑固さの片鱗を今も残している。彼をハービーと呼ぶ妻ドロシーは彼より一回りほど若くブルックリン図書館の司書を定年退職している。彼女は1950年代にすでに大学院まで行ってきちんと勉強した人で、そんな雰囲気を今も残している。そういうふつうの人が、とっつきにくそうなミニマルアートとかコンセプチュアルアートとかいった当時バリバリの現代美術を積極的に集めてきたことにも驚かされる。時代のなかの自分たちの世代的な感覚に忠実に、そのもっとも鋭い部分に関わり続け収集し続けてきたのだろう。それは自分自身を、世代を、時代を見続けることでもあったはずだ。米国民やニューヨーク市民にとって、そういった抽象的でアバンギャルドな表現が、生活や感受性とどこかで地続きになっていて素直に受け止められ、快感をもたらすものとして身体的にも受け止められるものでもあったからだろう。
 収集した作家としてソル・ルイット、ドナルド・ジャッド、チャック・クロース、クリスト、リチャード・タトルといった名前が次々に出てくる。彼らへのインタビューも挿まれている。まだ彼らが若く無名である頃に、ハーバートとドロシーは関心を持ちアトリエに行き作品を見て(ふたりはいつも全部見せてもらいたがったようで、それくらい興味があって、そういうことにはどう猛なほど積極的だ)、お金のことも細かに直接交渉する。次々にほしくなり買うから、分割や後払いになり、その額も貯まっていく。美術作家たちが次第に有名になると、スポンサーとしてつく画廊が全部をとり仕切ろうとするからとうぜんもめはじめる。それでも特別な関係を築いてつきあい続け、買い続ける。どこかに世間の常識を無視する楽天的な鈍感さも備えてもいるんだろう。一部の米国人特有のアグレッシブネスだけではない、と思う。でもどうしてこうも登場してくる人々がいわゆる「白人」ばかりなのだろう。ファインアートのなかのさらに「ハイエンド」ということだろうか。
 奥さんの給料で暮らし、旦那の金は全部収集にまわす。彼ら自身もかつては描いていたから、見ることにも真剣で、大小にかかわらずいい作品や意味のある作品を集めていく。つまりその作品自体の完成度もあるけれど、その作家の流れのなかで重要なもの、ノートやプロトタイプ、例えばチャック・クロースの、グリッドの描きこまれているマスキングテープが貼られたままの下書写真なども集めている。それは当時制作中の彼のアトリエの床に落ちていたものにサインしてもらって買ったらしい。そうやって手に入れたものをマンハッタンの一間のアパートメントに飾り、しまい込む。信じられない数の、量の作品が壁を覆い、箱詰めにされて積み重ねられ、ベッドの下に、あらゆる隙間に押し込まれている。
 集め、積み重なった4千点を超す厖大な作品をナショナルギャラリーに寄贈してほっとしつつ、寄贈者として自分たちの名前が彫られた美術館の壁を誇らしく眺めながら寄り添うふたりの後ろ姿、クリストの作品を並んで見る姿で映画は終わる。監督はニューヨーク在住の日本人女性。監督が女性だとか日本人だとかほとんど感じなかったのは、撮影が別人で「プロ」だったからだろうか。テレビ的に整理して説明し、対象との距離をとり整然としているから、はみ出したり接近しすぎたりの映像も、切迫感や激しさもない。どこかしら彼らが収集したミニマルアートのようにクールでもあり、安心してみられるような、もの足りないような。でもとにかくあたたかさはしっかり伝わってくる。ふたりがそういう人だからだろう。高齢で、まだまだ好奇心に溢れ情熱的だけれど、対象に対しての冷静さや穏やかさも生まれている。脂ぎった荒々しさみたいなものが小さくなるのだろう。彼らの、作品や作家への愛より、飼っている猫や亀や熱帯魚、それに人やできごとへの尽きない興味がより大きいのが見えてくる。ハーバートの老いて子供じみてみえる体型や言動もそれを倍加する。
 ぼくがみたのは平日の午後だったけれど30人を超す人がみに来ていて驚かされた。ふだんはドキュメンタリーなんかだと、水曜日(レディースデイ)でもないとぱらぱらとさみしいほどしか人影はないのに。美術や収集という内容としてでなく、優しい人たちの物語、夫婦の愛情の映画として見られているようだ。
 映画のなかの美術家や評論家のなかには彼らを美術界の「マスコット」とよぶ人もいて、たしかにそういう面もあるのだろう(そうやって、彼らを美術家、評論家、画廊主、ジャーナリストとはちがう範疇に押し込めて、自分たちをより価値あるもの、高みに置くための底上げの意図もあるかもしれない、無意識にであれ)。一方には、ことばを使わないつまり論理化したり解説したりしないふたりのアートへの無償の愛を、とても大切に思い感嘆する作家もいる。ハーバートたちの美術作品や作家への愛、美術家たちのふたりへの関心の両方が、ペットへの愛(どちらか一方が全面的に心配りしてあげないといけない関係とでもいうか)といったものに似ているのにも気づかされる。たしかに両者とも、とくに美術家たちは独善も無垢も含めてどこか子供じみてもいる。 
 米国では高齢者つまり老人は、シニアシチズンなどとたいそうな呼び方をされつつも実際はみごとなほど排斥され関心の対象から外されるけれど(だからいっそう高齢の政治家や力を持ったものの意固地さがはびこるのだろうけれど)、おそらく他の文化圏ではハーバートとドロシーを尊敬もし、「かわいい」とも感じ、そのあり方や表情やさらにはしぐさをも愛でるのだろう。


菜園便り229
2月16日 晴天

 時には雪も降ったりする日々だけれど、気温が零下になることもほとんどなく、野には春の花がじわじわと広がっていく。いちばんめだつのはやっぱりオオイヌノフグリ。名前からしてずいぶん特異だけれど、こんなふうに大がつくのは、大がつかないのもあるのだろうか。オオムラサキツツジというのがあって、あれにはたしかコムラサキもあったはずだ、どういう関係だったのかは知らないけれど。
 オオイヌノフグリがめだつのは緑や花の少ない季節だからだけど、鮮やかな色とくっきりとした形、なによりあの小さくて群れて咲く姿の愛らしさに誰もがつい目をやってしまう。青い花、といえるけれど、カップ状に開いた花の濃い空色が中心へとグラデーションで薄まっていく、細く濃い筋が先端から内へとすっと伸びている。どことなく頭が大きすぎる幼児の体型を思わせる形だからいっそうかわいいと、好かれるのだろうか。
 春の野の花、といったような本を開いてみると、タチイヌノフグリというのもでてくる。どちらも明治期の外来種で、在来種のイヌノフグリを追いやっていったようだ。ふーーん、そうかと、いろいろのことを思わされる。そうしてその在来種にしても、もっとずっと前にどこかからやってきて、その当時の在来のなにかを駆逐して広がったのだろう。
 鳥たちの移動の季節も始まったようで、あちこちで群れをなしてバタバタしている。鵯も群れて鳴きたてている。彼らも、もともとは山と里の間を渡る漂鳥だ。今では都市部では年中いるようになったけれど、律儀に移動をくり返す群れもある。生き延びていくために、だろうか。津軽海峡の荒波悪天候のなかを本州へと渡っていく鵯はテレビの番組でみたこともある。北海道から長野まで、ずいぶんな距離だ。もしかしたらこのあたりの鵯も、その辺の山でなく一気に関門海峡を越えて、または、もしかしたら、玄界灘を超えて彼の地まで飛ぶのかもしれない。そんなことを思うとぼくもなんだかパセティクな気持ちになって手を握りしめ、立ちあがったりする(まるで唐十郎の紅テント芝居のエンディングだ)。
 途中、鷹に襲われたり、カラスとの群闘があったりもするだろう。おおかたは弱いものから順に死んでいくのだろうけれど、こればかりは運も大きいだろう、きっと。群れをなす意味のひとつもそこにあるのだろうし、いくつかの個体の「犠牲」の上に群れの、種の保存と永続が約束される。誰もが本能として冷静に闘って必死に逃げて、ヒロイックな犠牲なんてことでなく、ただ死んで、生きて、そうしてまた半年後には同じ危険を顧みずに営巣のために出発する(帰っていく、というのがいいのだろうか)。
 子供の頃見た動物映画を思いだしたりもする。鳥だけでなく鯨もカリブーも、信じられない距離をほとんど飲まず食わずで文字どおりボロボロになって移動していく、つまり渡っていく。毎年毎年くり返しくり返し。「何故」「なんてつらいことを」「わざわざ」と率直に感じたことを覚えている。「愚かだ」とか「かわいそう」と思ったことも。レミングなんて、死ぬために集団移動するように描かれていて、ことばさえ失ってただ呆然とするしかなかった。
 蝶も渡っていく。恐竜も渡る、「ジュラシック・パーク」では。あれはなんだか心うたれる挿話だった。もしかしたら作者はあれを書きたいから、あんなに長い小説をせっせと書いたのかもしれない、そんなことも思ったりする。「人は?」と誰もが思う問いへの返答が最後に置かれていた。ことばはもう忘れたけれど、せつない、というか辛辣な答だったことと、それが生んだ情感が小さくはなかったことははっきりと覚えている。


菜園便り230
2月20日 

 昨日は庭に隣の猫が居坐っていて鳥が来なかった。やっぱりちょっとさみしい。
 「60才になってはじめてみた映画は「ハーブ&ドロシー」だった。満願のKBCシネマのカードをよりちゃんにもらっていたから無料だった。だから「シニア」と言って千円しか払わない快感はまだ味わってはいない。」と書いたけれど、それからあまり日をおかずにまた映画に行ってついに「シニア」といったら、「身分証明書を」なんて無粋なことも言われずに千円ですんで、なんだかあっけなかった。それは同じくKBCシネマでの「ようこそアムステルダム美術館へ」というドキュメンタリーで、いろいろ評判になっていたし、予告編もみて楽しみにしていたのだけれど、出てくるほとんどの人間が嫌な奴ばかりでうんざりしてしまった。つくりも羅列的説明的で、もしかしたらそういう嫌な面を見せつけるための巧妙なレトリックを駆使しているのかと思ったりする。政治家、行政人、企業人、学芸員、建築家、活動家・・・、20世紀美術が1点しかないなんて言われるからさすがに「芸術家」は出てこないけれど。
 ちょっと憂鬱になって夜に「たま」という、1日に1回だけやっていたドキュメンタリーをみにいったら、なんと最終日はゲストが来るから特別興行でシニア料金はない、席も全部売り切れているから補助椅子しかないということだった。シニア料金で映画をみるのも前途多難である。
 「たま」というのは覚えている人もいるだろうけれど、90年代初めに活動したバンドで「さよなら人類」という曲はヒットチャートのトップになるくらい流行った。今思うと不思議だけれど、そういう時代だったのだろうか。「イカ天」ででてきたバンドというと思いだす人もいるかもしれない。そう、あの奇妙な「たま」。「らんちゅう」とか「まちあわせ」とか「学校にまにあわない」とか今でもそこそこ歌えたりする。
 映画は現在の「たま」を描くということで、2003年に解散してからでも7年たっているメンバーを追ったものだけれど、最初にぬけた柳原くんはでてこない。ランニングの石川くん、おかっぱの知久くん、低音楽器の滝本くん。この滝本晃司がこの日監督といっしょに舞台挨拶に来て、2曲歌って、それが特別興行だった。映画のなかでもさんざん聴かされていたから違和感はないし、ライブを続けている人のどこでもさっとやれる器用さでまとめられていた。映画のなかの石川浩司は「ホルモン鉄道」というパフォーマンスというかショーというか、身体を駆使したすごい演奏活動をやっていてあっけにとられたし、感動させられもした。でもライブとして目の前で展開されたら、最前列で見るのはこわい、ひとりおいてその後ろから見るだろう。映画のなかでも、ああいうのはやだ、とはっきり言う人もいる。でもすごい迫力だ。ふたりでやっていて、その相方の大谷シロヒトリという演奏家のことも気になる。
 知久寿焼は悠々自適というか独特の勁さでやりたいことだけをやり抜こうとする。音楽も演奏も日常の延長で歌って踊るというようにやりたいと、お酒を飲みつつやっている。それを「プロじゃない」と批判されて、ああ、そうですか、じゃあ素人ですと、さして気負うこともなく応えている。声も曲も昔のまんまに響く。柳原くんが抜けてあの声とのハーモニーができなくなったのはつらかったし、今も残念だと語る。「さよなら人類」にもあった、あの「さるーーー」といった高音のコーラスのことでもあるのだろう。賢しらに、これはビートルズだね、なんて言ったことが思いだされて赤面する。石川、知久は「パスカルズ」という小規模オーケストラのメンバーでもあって、そのライブ演奏もでてくる。
 つい最近、ある映画のパンフで「侯孝賢は懐古でなく回顧だ」というようなことを読んだばかりだけれど(もちろんそうだ)、ぼく自身はおおむね懐古、ということになる、淫するほどではないにしろ。想いでの甘さ深さは今の時代尋常ではないし、それを個人の感傷だ自己憐微だと騒ぎ立ててもしょうがない。そうなのだから、そこから冷静にはじめてみるしかない、そういう自分や時代として。
 今日は庭にツグミも来ていた。


菜園便り231
3月13日

 庭には光が溢れている。雀やジョウビタキが芝生の上でなにか啄んでいる。
 今も向かっている机にクマガイモリカズ(熊谷守一)の絵はがきが貼りつけてある。ずいぶん前の森さんからのはがき。黒いお盆に4個の真っ白な玉子が載っている。これは鶏の玉子。写実として描いてあるのではないのに、というか、だから、古びたあまり上等でないお盆のリアルな質感が複製になってもしっかり伝わってくる。
 そういえばこういうお盆を見たなあ。丁寧に扱ってないから隅にはほこりやらなにやらがもう特別な道具でも使わないととれないようにこびりつき、小さな染みもある。ちょっとにおいさえするように見える。でも汚いとかいうことではなく、古びるということは、日常に使うということはこういうことだと教えてくれるような古び方だ。とにかく長い長い時間使われて初めて生まれるもの、見えてくるもの。
 我が家にはなかったなあとつらつら考えていて思いあたった。父の実家、大きな古い家だ。そうかな。もしかしたら同じようなどこかの農家の畳の上か、黒光りする台所の床の上だったんじゃないか、そうかもしれない。
 ちょっと縁が欠けていたり小さいわりには持ち重りがするのは、上等の木でないし、丁寧に薄く削ったりもしてないからだろうか。ふだん使いだから特に大切には扱かわれない、どこか少し欠けてもそのことが意識されないくらい、そこらへんにいつもあるのがあたりまえになるまでの長い時間。だからなくなる時もいつのまにか使われなくなり、どこかに紛れ込んで他のものに挿まれたまま処分されてしまう、または倉の隅や納戸の上の棚の奥に押し込まれたまま永劫というくらい置き去りにされる。
 もういらないから新聞紙にくるんでしまっておきましょうとか、さあ捨てましょうとかいったことすらない。使うとか使わないとかいるとかいらないとかいう意識すら生まないままいつのまにか消えていく。だからやっぱり大家族の大きな家でのできごとだろう。富裕でもなくかといってお盆もないほどの貧しさでもなく、おおぜいの人が暮らし出入りしいつも動きがある家、空間。
 この熊谷のお盆ももうお客にお茶をだしたりする時に使われることはなかったのだろう。最初の頃だけはそういうこともあったかもしれない。それから気安い近所のおばさんが縁側にけてとか、奥に続く三和土の土間に農作業の姿のままちょっと腰掛けて喋っていく時とかに、お茶請けの漬け物や小さな花林糖を載せてでてたのかもしれない。漆塗りでないから艶はなく、顔料を下地と上塗りだけ一回ずつざっとやって終わり、そんなふうだ。
 その艶のないくすんだ黒い表面はきっと細かな傷で覆われ、形も少し歪んでいて、ここではみえないけれどどこかがわずかに欠けてそうだ。黒というより、とにかく濃い灰色といった炭色、そのお盆に目の覚めるような白い玉子が4個、片方に寄り添うように載っている。小ぶりでほっそりとしているけれど命の塊として、内側からの光でかがやいているかのようにして。


菜園便り232
3月14日

 熊谷守一のはがきのことをあれこれ語ったけれど、この机には他にもずいぶんいろいろあるのに気がついた。でも気がついた、という言い方はへんだろう、だってずっとそこにあって毎日毎日見ていたのだから。だからまああらためて気がついたというべきか。
 ロシアのニキフォルという人の水彩画のはがき(もちろん印刷物)。これは板橋さんがくれたもの。郵便としてきたのでないから何も書いてなくて少し残念だ。その左横にはベトナムのお土産の、なんというのだろう、マグネットがついていて冷蔵庫なんかのドアにつけるやつ。一昨年カンボジアに行った時、トランジットで寄ったハノイ空港で買ったものだ。自分への土産とえも言えばいいのだろうか。格安のパッケージ・ツアーだったからか、ずいぶんと長い乗り換えの待ち時間だった。かつての宗主国ということでか、フランス人が多くて旅行中の婦人と少し話をしたりした。お互いに英語だし、シャイな人だったからフランス人とは思えなかった。つまり傲岸なパリの人でないということだ、きっと。それは最初で最後になってしまった中村さんの唯一の海外旅行でもあって、だから思いだすことは少なくない。
 ジャ・ジャンクー監督の映画「長江哀歌」のはがきもある。これはもちろん大好きですばらしい映画だから飾っているのだけれど、どうやって手に入れたか忘れてしまった。「すごいすごい」と大騒ぎしていたから、誰かがくれたのかもしれない。もしかしたら前売り券を買ったらついていたとかいうことだろうか。奥には蔡明亮の「黒い眼のオペラ」のB5判チラシも下がっている。今のところ最後に見た彼の映画ということになる。冒頭にモーツァルトのオペラがラジオから流れているので、日本ではこういうタイトルにしたのだろうか。原題(「黒眼圏」)とはずいぶんちがう気がするし、国際版のタイトルもまたまるでちがうし、くらくらと眩暈さえする。でもすばらしい映画で、特に最後の、眠りの舟といったシーンは恍惚としてしまうくらい美しかった。
 小津安二郎のお墓のはがきもある、「無」とだけ書いてある。1993年の写真を元にしたはがきで、墓前に日本酒がいくつも並べてある。ビールもある。花もたっぷり供えてある。参拝者が絶えないのだろうか、それもうれしいような不思議なような。ファンとしては墓前で何を言えばいいかとまどってしまう。「麦秋」がいちばん好きですと告白されても、小津も困るだけだろうなあと思ったりする。
 森さんが我が家にあった古い写真を取りこんでつくってくれたクリスマスカードもある。2階の広間に資料として箱にまとめて放り込んでいたもののなかから見つけてくれたもので祖父と子どもたち(つまり母や叔父叔母)が写っている。写真館で撮られたもので、だから描き割りの背景の前に立ったり座ったりしている。この写真にはまったく覚えがなかったからうれしくて、複写して兄姉や従兄弟なんかにもあげて喜ばれた。
 ポール・マッカーシから送ってきたシャガールの絵はがきもある。「現代」とつく美術も音楽も好きでないといっている彼のぎりぎりの現代なのだろう。裏に走り書きで仕事のことが書いてある。その難しかった「現代詩」の仕事もどうにか終わった。
 DVDが手作りのケースに入っているのは、これも森さんがつくってくれた「小原庄助さん」。清水宏監督のモノクロの映画で大河内伝次郎が主演している。清水の映画のなかでも、大河内の映画のなかでもいちばん好きなもので、数年前に「文さんの映画をみた日」に、シネラでの特集上映にかこつけて書くことができてうしかった。同じ監督の映画「ありがとうさん」にもちょっとふれることができた。もちろんこのDVDはちゃんとみれるし、なかの2シーンがカバーに取りこまれた丁寧なつくりでうれしいし、ちょっとせつなくもなる。清水も大河内もとうに亡くなった。
 いちばん後ろには大きめのアクリル板に挿んだ佐藤文玄さんのがある。はがき大に切られた自身の作品で裏に便りがしたためてある。年に何度かそうやって作品を、便りをパリから寄せてくれる。その時々の季節と心象が綴ってある。
 古い日光土産の「煙草挿み」もある。ほんとはなんと呼ぶのだろう、華厳の滝と神橋の写真を焼き付けた金属の薄い板が煙草の箱の形に折り曲げてある。マッチのサイズのとでセットになっている。たぶん客間のテーブルの上に煙草屋マッチをこうやって立てたのか、それとも携帯する時につぶれないためのカバーなのか。頻繁に見た記憶はあるけれど、使われているのは見た覚えがない。お土産とはえてしてそういうものだろうけれど。高野山福智院というところのお札が隠れるように置いてある。ぼくの名が手書きでいれてあって驚かされた。父と母がお参りしてからずっと志を送っていたのを引き継いだかたち。お札類はいつも神棚においているのに、これは自分の名前があったからだろうか、それともほんとに護ってほしいからだろうか。
 アフリカの小鳥の木彫や相島で拾った陶器の網の重りがあり、物入れに使っている古い金杯には山本さんが彫ってくれた印鑑なんかがいれてある。他にもぼくの交友関係全てが入っている住所録や名刺ファイル、辞書や筆立てやなにやかやごたごたとしたなかに、昔勤めていた事務所からもらってきたペーパーウェイトを兼ねた拡大鏡なんかもあったりする。
 様々な時と場所から、大げさに言えば遙かな旅をしてこの小さな岸辺に打ち寄せられたたものや思い。気がつけば全てのものがそういうものなのだともわかる。

菜園便り233
4月19日

 見渡す限りに水が広がっているようで一瞬茫としてしまう。洪水で水が溢れたのかという馬鹿な思いもよぎったけれど、もちろんそんなわけはなく、知らない間に山つきのため池の堤が決壊してなんてことが仮にあったとしても、そばを流れているのは小さな水路のような川だから溢れても田んぼ1枚も覆えないだろう。もう4月も下旬、早稲の田植えの時期でどの田にも水が張られ黒い土を覆っているだけのことだ。でもいつもより水量が多く鋤起こした土が完全に水の下にあって、だからシンとした平らな水の広がりが空を映して続いているのだろう。広がりを矩形に区切っていく細い畦も農道もあるのに、なんだかどこまでも続く、遙かな、といったかんじがしてしまう。
 玉乃井での美術展などでバタバタしていて、裏作の野菜を取り払ったり、放置されていた稲刈り後の田を鋤込んだりする準備に気づかなかったから、いつのまにと驚かされてしまう。少し離れた麦畑はまだまだ柔らかい緑をのばしつつ、結実し始めた穂を揺らしている。だんだんあたたかさと共に濃く色づき硬くなり、でも黒々と猛々しくなる直前に金色にかわっていかにも軽そうでとがった穂や葉を揺らしてかすかな音をたてるのだろうか。そうしてまたいつものように小津安二郎の「麦秋」の麦の穂の手紙を思いだして、そうして「エリカ」の珈琲とテーブルを思いだして、ついでに侯孝賢の映画「珈琲時候」も思いだすのだろうか。
 「麦秋」ではエリカに似た喫茶店原節子(紀子)と彼女の兄の親友だった二本柳寛(謙吉)が送別会の待ちあわせで会って、その時、戦地からの兄の手紙に麦の穂が入っていたという話を謙吉がして、紀子がそのお手紙いただけないかしらと言って、あげようと思ってたんだということになって、それはおそらく戦死したのだろう、帰還しない兄へのせつない思いに対する妹自身のひとつの決着でもあるのであり、母はまだ長兄に非難されつつも「尋ね人の時間」をラジオで聞き続けて息子を待っているのであり、それは戦病死して帰還できなかった山中貞雄が戦地から小津にあてた手紙に麦の穂が入っていたということからきていて、だから誰もが、ぼくもあれこれ感じ考えてしまい、遠くを見やるふうをして溢れてくる涙を隠さなくてはならなくなる。もうひとりの待ちあわせ人の、今や家長たる長兄が遅れてやってくるのはそんな話が全部終わった後であり、それは新しい時代に彼が引き受けなくてはならない役割でもある。
 ほんとに多くの人が喪われたし、これからもそうだろう。理不尽な、耐え難い死、さみしくつらい死に囲まれ、でもわたくしたちは生きている。それが本能や掟であるからではなく、とうに生きる意味なんてないことは自明になっていても、生きている意味は溢れるほどに輝いてあると思うからだろうし、渡された約束として喪われた人を記憶し続けるためでもあるだろう。でも記憶するというのは個々の人や具体的なことがらをということでなく、生そのものの豊かさ不思議さつながりをということであって、だから執着することも縛られることもなく、そうして不断の義務ということでもないのだということだろう。 


菜園便り234
4月27日

 「日が沈み、夕焼けの残照も群青色の空の下に消えた。庭の隅に縮こまっていた暗がりがじわじわとその触手をのばし、黄色く枯れた芝生も闇のなかにとりこまれていく。宵の明星がくっきりと姿を現し、波が思いもかけない場所で白くくだけて光る。
 今日は誰からも便りはなかった。ぼくも誰にも便りを送らなかった。」

 パソコンのなかにそんな書きかけの「菜園便り」が残っていた。やっと寒さに震えることもなくなり、海にも空にもどこかしら穏やかさが感じられ、静かに見つめたりできるようになった時期だろう。まるでなにかを初めてみるような、好奇に満ちた視線があちこちにふり向けられる頃だったろうか。
 今では芝も半分緑が戻った。今年どこでも異常繁茂したカラスノエンドウが我が家にもいつの間にか広がって、可愛くきれいな花だとたかをくくっていたのが、慌てて刈り始めた時にはもう庭の半分をびっしりと覆っていて、1日仕事ではすまなかった。
 せっせと鎌をふるったその勢いで、茅に覆われた去年は手つかずだった海側の菜園の草取りもやる。茅だから根っこからとらないと意味がないのでスコップで起こしては手で抜いていく。一坪にも満たない場所なのに息がきれて足もがくがくになる。それでやっと半分だけ。翌日残りをやって、さらに深く掘りおこし、もらったままだった馬糞をいれていく。動物系の肥料をこういった形でもらったのも、使うのも初めてだけれど、なんとなく効果がありそうに思える。
 たいへんな、もちろんぼくにとってということだけれど、おたおたするほどの仕事の後はなんだか全てがうまくいくようで、夏にはすばらしい収穫があるとつい思いこみそうになる。実際は胡瓜もゴーヤも最近はうまくいかないからせいぜい2本くらいにしようとか、茄子はきっぱりと諦め、ズッキーニも最後の挑戦にして、今年だめならもう止めようとか、でもトマトはいつもより多く、ミニトマトと、ゴルフボール大のとで4種くらい植えよう10本くらいは、とあれこれ思ったりしてはいるのだけれど。
 すっかり気力をなくした去年でも、10月の末にこれだけはといった大決意でのぞんで植えた空豆は途中の追肥も足りず、周りの木の枝を払わなくて陽が当たらなかったせいか、愛の不足を形に示すようにしょんぼりしている。えんじ色の花はそこそこに咲いているけれど、早い時は5月にはいったらふくらみ始める莢のかすかな気配さえみえない。どんな時もそれだけは勢いのあった豆類、キヌザヤや空豆がこんなふうでは今が菜園の最悪の時期と思うしかない。後にはもう、なにもやらない放棄だけしか残っていないのだろうから。こういうのを背水の陣というのだろうか、たしかにすぐ裏には海が迫っている。でも「菜園」と「まなじり決して」なんてのはつながらない、あたりまえだけれど。
 花冷えの後、「若葉冷え」などと呼ばれているらしい肌寒さが続き、やっとツツジにあわせるように例年並みのあたたかさが戻ってきた。八重桜も藤も終わり、庭にはジャーマンアイリスがふくらみ始めた。小さなオレンジ色のポピーもちらほら見える。すみには鈴蘭形の小さな水仙の一群が最後の花をつけている。道路に面したネズミモチや樫の木が盛んに病葉を散らし、毎日掃かないと近所の視線が痛くなる。昨年の不順な気候で彼らも弱っているのだろうか、こんなにも、秋の落ち葉より多く散らすのは初めてだ。病んだ心にもそろそろ落とし前をつけて新たな成長というか新しい葉を広げて日常のなかに入っていこうとしている。光が惜しみなく注がれ、鳥が枝をつたって跳ぶ。なにかが静かに満たされていく。


菜園便り235
4月30日

 強い風が続いている。海はしけ続きで漁は休み。テレビ局から依頼のあった玉乃井での<復活タコ料理>の取材も、港の船が蛸漁に出れず撮影ができなくて中止になった。先日のその会食は2階の広間で23人を一度に、だったので、器や配膳もたいへんだったけれど、料理そのものは兄ひとりしかできないのでもうしわけないほどてんてこ舞いしていた。だから取材でひとり分とはいえほぼ同じことをやらなくてはならないから、中止になってちょっとほっとしてもいる。
 そんな風が吹きつのる日々で、夏野菜の植えつけも伸ばし伸ばしにしていたけれど、そろそろ5月、今夜あたり雨になるということで、例年どおり花田種物店であれこれ見繕ってきた。肝心の中玉のトマトが見あたらないのできいてみると、とっくに売り切れているとのこと、「みなさん早いんですよ、ほんとは今ぐらいの方がいいんですけどね」ということだった。もう入荷はないし、ミニトマトを2種、4本だけにする。止めようと思っていたゴーヤと胡瓜も1本だけ買ってくる。他にはズッキーニ、パセリ、青じそ、レタス、バジルをそれぞれ1本ずつ。
 少ないから、肥料を入れたり水をやったりしても植えつけはすぐに終わるし、風よけの低い覆いをかけるのもバタバタとすんでしまう。なんだかあっけない。茅の除去と整地がたいへんだったから、よけいにそう思うのだろうか。どこかでゴルフボール大の中玉のトマトの苗を探してくるにしても、すでにほぼ全部が終わったことになる。この2、3年の菜園の状況を思うと、収穫に大きすぎる期待をせず、分に応じてひっそりとトマトを摘むことくらいを理想としよう。と殊勝な顔で言ってみたりする。
 そうやってトマトを探しに行った店には植木もずらっと揃えてあって、つい果樹のあたりをのぞきこんでいると隅に小さな桜の苗がまとまって置いてあった。いつかは庭に2本の桜、と思いこんでからでもずいぶんたつ。今が植えるのにいい時期かとか、しっかりしたいい苗かとか丁寧に考える前に、どこから見るのがいちばんかとか、お花見はどこでするか、そんなことばかりが頭のなかを渦巻いて、気がつけばもう勘定も済ませ、荷台に縛りつけている。
 これまでの柿やザボン、柚子や金柑や無花果の悲惨にめげず(少なくとも枯れてはいない)、ひ弱でもとにかく生き延びさせて花1輪でも咲かせよう。とまた殊勝な思いを巡らせたりする。庭を南北に吹き抜ける風の道を避けて、でも将来にできるだろう(と思いたい)ベランダのそばで、仕事机からも見渡せて、大きな木の陰にならないようにでも強風の盾にはなってもらって、とあれこれない知恵を絞って決める。大きめの穴を深く掘り、どっさりの肥料を入れ、水を満たしてしばし。そのくらいの穴でももうさらさらの砂地になる。砂浜だったところだからとうぜんといえばとうぜんで、そんな厳しい条件をおしつけられる植物もかわいそうだ、しかも過剰な成果を期待されて。でも、まあ、こういうあれこれすったもんだが楽しいのだろうし、なんだかんだ彼らと気持ちを交し、宥めたりすかしたり懇願したり、安請けあいされたり突き放されたりでもまあやってみようと慰めあったり、そんなふうな。でも正直なところ、樹齢数十年というような立派な咲き誇ったみごとな桜、というようなことは思わないし、たぶん桜はだめだろうなあ、梅くらいかなあ、という気弱な、というか冷静な気持ちもある。
 ついでに庭のあちこちに勝手に生えてくる常緑樹の若木を道路側の垣根にと移植する。ここも数年前に何本か植えたけれど、枯れはしないが・・・といったようす。そこにまた2本、まさに枯れ木も垣根のにぎわいと新たな2本が心細そうに突っ立つことになった。善き未来を誰かに言祝いでもらいたい。


菜園便り236  あるいは  続・文さんの映画をみた日⑨
6月1日
ブンミおじさんの森を抜けて

 久しぶりの映画、そんなふうに思える映画、「ブンミおじさんの森」。監督はタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン。耳慣れないし長い名前だから2度も綴り間違えた。でも実は昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭特集で、彼の「真昼の不思議な物体」(2000年)をみていた。不思議な作品で、奇妙でやさしく、でもどこかザラッとした不穏な感触を残すモノクロの映画だった。今回のはふつうに追っていける物語があり、会話があり、カラーで、人物も同一性を持たせてある、つまりブンミさんは最後までブンミさんだ、たぶん。
 でも、とあらためて思うけれど、やっぱり奇妙で不思議な、怖いものも残る映画だ。そうしてやっぱり全編に流れるやさしさ、おだやかさ。そういうのを「アジアの」と修飾するのはあまりにも常套的で、正確でないけれど、でも原初的で、奥深い生の根源のような、どろりとした、どこかにいつも湿度と熱がこもった、つまりアジアの森のような、といってしまいたくなる。
 ドキュメンタリーではないけれど、登場する人たちもおおかたはふつうの人だったり、地味な映画の人だったりするから、身体的にも、特に表情なんかに拒否反応がおきたりしない。穏やかな日常的な身振りと途方もない飛躍がある、そういった、ふつうの生活にありふれているものがある。
 神話的、といってしまうとまたアジア的と同じでなにも言ったことにならないけれど、やっぱり始原の、ことば以前のものが語られようとようとする。映画のなかにも、古代の水牛や王女の挿話が挿まれ、森の猿の精霊、河の鯰の精霊、人の霊、そういったものがそっとでも唐突に過激に現れては消えていく。怖くて、でもどこかおかしい。
 ブンミさんはタイ東北部の、ラオスにも近い森で果樹園や養蜂を営んでいる、という設定になっている。自力で腎臓透析を続けていて、死期が近いのを識っている、そういう智をまだ保っている人であり共同体だ。そこはラオス人、中国人といった外国人も行き交う。違法越境者なの?、と遠い街から会いに来た義理の妹が訊ねたりもする。国境ができたのは森の歴史に比べればつい最近のことだ、そもそも森に、大地のどこに線があるのだろう、と誰もが首をかしげている。境界が引かれて、人は急にその向こうをちがうものとしてみるように強制される。
 ずっと前に森に消えて行方不明になった息子、亡くなった妻、その妻の妹、甥らしい若い男、そんな人たちがいつのまにか集まり、ブンミさんを囲み、最後には彼を彼方へと送る旅に出る。色彩に、音に、うごめきに溢れた森を彼を支えて歩く人たちが行き着く深い洞窟。そういったことがあざといものとして浮いてしまわずに、あるリアリティを保ち続けるのは、映画の構成の堅固さ故でなく、ある種の自由さ、混沌としてでもあらゆるものが存ると思わせられる森や海のような、論理化されない、自由な発想と発露があるからだろう。その自由さは60年代に語られた、傲岸な欲望とはずいぶんとちがう。
 再びこの世界に現れて透析の手当をやってくれる妻を、起きあがったブンミさんが腕を回してゆっくりと抱きしめるとき、それは愛といった言語化されたものでない、その向こうにある、慈しみみたいなもの、そうしてさらにその奥にある郷愁のようなものをスクリーンに産みだす。生が抱え込む穏やかな哀しみ、静かな喜び、なにかの震え。愛とか性とかでない、でも単純で勁く深いつながり、互いに完全に食い込みあって没入してしまう、そういう関係のようなもの、個と全体がひとつに重なりあっている、そういったものが黒々とした森のなかに、向こうに、見えてくる。美しい、うれしい、怖い。


* 先日はYANYA’に「続・文さんの映画をみた日⑧ あるいは 菜園便り228」というのを載せました。特集が「菜園便り」だったからです(でも「特集」だなんてすごい!)。それで今回は、「菜園便り236 あるいは 続・文さんの映画をみた日⑨」にしました。おあいこ、です、なにに対してだかよくわからないけれど。


菜園便り237
6月21日 雨

 梅雨のほっそりとしてでもきれめない雨の下、庭は柔らかで鮮やかな黄緑色に覆われそこかしこには黒々と丈高な草もつきだしている。咲き残った琉球月見草がしおれた桃色の花弁を垂らしている他は紫陽花のくすんだ色が見えるばかりで、花らしい花もない。
 菜園は小さなトマトが色づきはじめぽつりぽつりと収穫があり食卓にあがる。色は薄くてもしっかりと甘みがあり皮も固くない。胡瓜とズッキーニは苗の段階で潰えてしまったけれど、1本残ったゴーヤはどうにか生き延びてトマトよりずっと高く蔓を伸ばしている。黄色い花もわずかだが咲いているから、実りを期待できそうだ。久しぶりの菜園のゴーヤ、になってくれるだろうか。
 青紫蘇、パセリはかわらずに元気だし、ルッコラも数株が雨の後ぐんぐん伸びている。種をお土産に頂いた韓国のチシャはプランターのなかでひしめきあうほどに成長した。間引いても間引いてもすぐにまたぎっしりになる、菜園に移した数株はあっという間にだんご虫に食べ尽くされてしまったけれど。同じ時に頂いた胡麻の葉もそこそこには育った。あれこれを巻いて食べるほかにはやり方を知らないけれど、強い香りが口腔を撃つ。
 父の一周忌が終わった。こういう時の儀礼のように、誰もが「はやいですねえ」という。ほんとにそうだ、もう1年なんて。と思いつつもでもなんだかもうずっと前のことのようにも感じている。そうだね「いろんなことがあったからね」というのも常套句だけれど、でもいろんなことなんて何もなかった、という気もする。
 あの頃毎日大わらわだった日常的な雑事、おおかたは家事だったけれど、をやらなくなった。カロリーを計算し、タンパク質をミリ単位で計るような献立や、丁寧につくる食事といったことは光年の彼方へ去った。菜園もほとんど形だけ、みたいになってしまった。
 死より重いものはない、ということだろうか、誰もが言うように。他のことは全部どこかに飛んでしまって、生の側のなにもかもを軽んじてしまっているのだろうか。たしかに死は、心にも身体にものしかかる巨大でずっしりと密度のある大きな塊で、その下で人は息もできない。とてもたいせつなものが瞬時にして丸ごと奪われたことに納得がいかないし、あらためてそう思う度にまたうちのめされる。どうしても慣れることができない。死の前から始まりくり返される喪の儀礼が、身体を前へと押しやるし、日常的なしぐさは滞りなく、明るい表情さえつくれる。でもつらさはいや増しに増していつもそこかしこにじっとうずくまっている、のしかかってくる。そういうことなのだろうか。
 同じ町に住む知人が「菜園便り」を求めにわざわざ来てくれた。その時に持ってきてくれた月桂樹の束は廊下に下げてある。青いままでも煮込み料理などにも使えるけれど、そのまま置いておけば黄色くなっていっそう香りも高くなる。カレーには欠かせない。使うたびにこの日のことを思いだすのだろうか、それとも他のことと同じように瞬く間におし流されて彼方に消え去ってしまうのだろうか。


菜園便り238
7月25日

 たっぷりの雨で伸びすぎて青々としていた庭の芝に黄色い陰りが見え始めた。これから続くだろう暑さと日照りですっかり色を失うのだろう、いつものように。菜園の周りどころか内にさえ居丈高な硬い草がはびこってきている。紫蘇やトマトが背を伸ばして腕を広げてこれ以上は入ってこさせまいと必死に防ぎながら、毎日実をつけて食卓へ喜びを届けてくれる。梅雨が終わって皮が固くなったけれど、そのぶん甘みは増して、奥歯でガリッと噛むと青くさく甘い果汁が溢れる。
 玉乃井の海側の庭で開かれた「津屋崎納涼映画会」も終わった。これは津屋崎ブランチの主催だったけれど映画の選択は任されて、山中貞雄監督、大河内伝次郎主演の「丹下左膳余話 百万両の壺」を16ミリフィルムで上映できた。彼らの知りあいの上映技師の吉田さんが日活と交渉してとてもいい状態のものを借りてくれたので、白黒のコントラストも鮮やかな強い構図がくっきりと浮きあがった。正面からまっすぐ撮る場面が多いから奥行きも深い。山中の別の映画「河内山宗俊」の最後のシーンなんかも思いださせられる。
 お話も、強くて情け深いちょっと滑稽な丹下左膳、情のある艶っぽい射的屋の女将、美人の奥さんに頭の上がらない養子の馬鹿殿、陰険なやくざ、そうして身寄りを亡くした健気な子供と勢揃いしての展開でおもしろくないわけがない。ほのぼのとした家庭喜劇みたいな面もある。生きていたらそういう映画もつくったんじゃなかっただろうかと29歳の若さで戦病死した山中貞雄のことをあらためて残念に思ったりする。
 夏の夜はチャンバラだとこの映画を選んだけれど、戦後の占領軍の検閲でカットされていて、肝心のチャンバラシーンがほとんどなかったから、左膳本人は不満足だったろう、「俺はもっと強くてかっこいいんだぞ」と。でもはらはらしなくてすんだし、殺陣にまといつくゾクリとするような恐怖や嫌悪が生まれなくてそれもうれしい。
 今回初めて気づいたのはこれは音楽劇(ミュージカル)でもあって、ムソルグスキーの作品や童謡の変奏がオーケストラでふんだんに流れ、女将が三味線で歌う端唄や小唄(なのだろう、たぶん)は劇中の話とからんだことばにできない思いだったり、状況の説明だったりする。もちろんその唄を巡ってのドタバタもくり返されておかしい。
 台風の影響でいつもより気温も低く、ここちよい風も吹くなかでゴザに座ってみるモノクロ映画は、映画館の暗闇の集中を強制しないし、そこここに座った人たちの気配はあたかも隣人のそれといったふうにも感じられ、飲み物やピーナツを売る声が夏の夜の行事を盛り上げていく。運営する側にいたから反応は気になるしちょっとフィルムがぶれるとドキリとするけれど、浜木綿も香って、ひいき目のせいか蚊も少ない。途中でブレーカーが落ちてもうしわけなかったけれど、なにやら昔の映画館のフィルムが切れた雰囲気さえ醸しだされて実のところちょっとうれしかった。

 フィルムがずれてガガガという音と共に映像がスピードを失っていくつかのシーンが中途に重なりあい、あああという溜息と共にぷつりと映像は途絶えて、たちまち揶揄の口笛や罵声が飛ぶが、それも大向こうを狙ってのかけ声のようでどっと席が湧き明るくなった館内でよっこらしょと立ちあがって売店やトイレに行く人でしばしざわついた後、そっけないアナウンスと共に暗くなったなかでカタカタと映写機が回り始める。「おおい、はよ帰ってこな始まったぞ」とのんびりした声も飛び交う、「トシちゃん、はよし」、にまた周りがどっとわき、でもたちまち誰もが映画のなかへとさらわれていく、とぎれた分いっそう想像でふくれあがった恍惚のなかへ、一足飛びに。

 そんなふうなことも思いださせる屋外上映のざわついた雰囲気だったけれど、でも意外なほどじっくり映画をみることもでき、今まで気づかなかったシーンや語られようとするせつなさもすっと届いてくる。語りぐさになった大河内伝次郎の台詞「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」というのはカットされた部分なのか出てこなかった。
 すばらしいけれどちょっと救いがなさ過ぎてつらい「人情紙風船」が山中貞雄の遺作になってしまったのは、本人が言ったように「ちとさびしい」。3本しか現存してないのも残念だけれど、でも少なくともそれだけはあるという喜びだと思うしかない。


菜園便り239
9月24日

 夏野菜が終わった。猛暑のなかでも小さな実をせっせと届け続けてくれたトマトが終わた、一度もならなかったゴーヤも捨てられ、異様に繁茂してパセリを駆逐してしまった青紫蘇だけが畝のなかに突っ立っている。
 来年は、まだ菜園が残っていたら、数本のトマトと2本以上のゴーヤとピーマンだけにしよう。紫蘇とパセリ、ルッコラ、バジルは1本ずつプランターででも育てよう。ひとりにはそれで充分な収穫を届けてくれるし、苗で潰える胡瓜やズッキーニ、けして実らない茄子はもう止めにしよう。
 そんなことを9月のはじめに書きかけていたら、きゅうに忙しくなって、台風も来て、いつの間にか菜園も茅の海のなかに没しつつある。救援隊は来るのだろうかと案じる間もないほど、かの雑草は強くて勢いがある。今年は何処もがそうなようで、<雑草>や<害虫>にもあるトレンドのひとつなのだろう。しばらくは、おそらく数年はこの状態が続きある日ふっと消えてしまう、つまり次の何かが世界を覆うということになる。
 猛暑から一気に初冬になったようにさえ感じられた冷え冷えとした数日が台風と共に終わり、また強い日射しが蚊と共に戻ってきてうれしくなり、晴天の下、茅の原に踏み込んでみると小さな赤い粒が3個あった。トマトが健気にも暑さも乾きも乗り越えて次世代への種を育んでいる。ああ、と感動しつつ摘んで食べた。彼らからすれば、「きみは殺人者」だ。いや、そうでなくてほんとうはレスラー、ではなく、レスキューなのかもしれない。この3粒の喜びが、また来年もやろうという勇気を与えてくれたのだろうから。ほんとに?でもそういった大げさなひとり芝居も生まれるほどに、菜園も庭も植物もすばらしい。
 忘れずに来る台風と共に今年もアジアフォーカス映画祭が始まり毎日3本くらいみる慌ただしい日が続いた。腹部に急な痛みがでて、数年前の悪夢を思いだしてぞっとしたけれど、1本諦めて早めに帰って一晩養生したらけろりと直ってしまった、よかったというか、気のせいだったというか。事前の試写や特別上映にもにもまめに出かけたし、もしかしたら今年は全作品をみるという「暴挙」が達成できるかもしれないと思いこんだりして予定を組んでせっせと通ったけれど、やっぱりそれは無理なようで、いくら「どんな映画でもみてると何かしら惹きつけられるものがある」にしても、やっぱり日に3本も4本も見るのは心身共に酷なようで、映画にもよくない。
 だいたいどの映画祭でもそうだけれど複数会場での同時進行になる。ここでも2会場で5本ずつ、つまり日に10本上映している。マニアックな人や遠方からのファンは週末プラス祝日の3日間に集中し、そうしてまた生活に戻っていく、というかまた次の映画へと帰っていくのだろう。それもまたすごい。
 ぼくは結局2日残して、6日間で21本のうち7割ほどみた時点でリタイアになった。あいかわらず最後の詰めが甘いこともあるけれど、あまり酷いものはもうみないでもいいかという気持ちもあるし、期待したものにガッカリさせられて腰砕け、みたいなこともある。さあ気分をなおしてもう一度、にはなれなかったようだ。心や身体の力やマニアックな粘着力がこうやって薄れていくのだろうけれど、同時にこれで充分という、諦めではない納得の仕方もまた身についていく。


菜園便り240
10月吉日  地名がよぶもの

 地名はいつも気になる。だから片づけものをしていて古い地図なんかがでてきたりするとそれっきり仕事は止まってしまう。
 この町も今は福津市と呼ばれているけれど、それは宗像郡の福間町津屋崎町が合併してその頭文字をくっつけただけのものだ。そういったことは日本中で行われ、たくさんの地の名前が喪われた。そのままどちらかの町名を残した方がまだよかったと思うけれど、住民感情を鑑み、ということなのだろう。宮地獄市(ミヤジダケ)という候補もあったようで、それはそれでなかなかいいし、いっそのこと宮地嶽神社市というのがユニークで、話題になったかもしれない。
 ずっと以前の合併で勝浦村が消えたことが住民には深い傷として、怒りとして残ったと聞くこともある。勝浦という名称は地図上にも残っているし、あいかわらず多くの人がかつての村全体を勝浦と呼んでいる。それくらい地名は強い。それはとうぜんのことで長い長い時間をかけて創りあげられた、地形や状況にも即した名前だからぴったりしていて、だれもがすぐになじめるしなんとなく安心もするのだろう。
 津というのは先端といった意味のようであちこちにある地名だし、浦や古賀、天神も全国的に多い。鐘崎(カネザキ)は源氏物語にも出てくる地名だし、印象も美しい。神湊(コウノミナト)はすごい、神の港だ。でもカミサイゴウは神でなく上の上西郷。他に東郷、南郷というのはあるが北郷は聞かない。音のつながりとして使いづらいからだろうか。それともどこか歴史の荒波のなかで潰えたのだろうか。北は禁忌のことことばである、という説もあるかもしれない。京泊、小泊もあれこれ思わせられる。
 近隣でいちばん好きなのは舎利蔵(シャリクラ)だろう。音の響きもどこかエキゾティックだし舎利が意味するものについてもつい考えたりする。自分が生まれた地ということもあるのか、蔵屋敷というのもなかなか風情があると思う。新屋敷もそばにあった。畦町(アゼマチ)とか米多比(ネタビ)というのも漢字と意味とで惹きつけられる。練原(ネリワラ)、須多田(スダタ)、生家(ユクエ)、奴山(ヌヤマ)、梅津(ウメズ)、内殿(ウチドノ)もいい。在自(アラジ)を初見で読める人は少ないだろう。
 坂や峠の名前はどこか強い響きがある。おおかたは境界になっていて重要な場所だったのだろうし、険しく奥深いところが多く、分水嶺があったり気候ががらっと変わったりする。旅立つ人には大げさにではなく生死の分かれ目でもあったのだろう。「行くも帰るも逢坂の関」だ。泣きながら見えなくなるまで手を振って、そうしてそれっきりになるしかなかった。
 川は残念ながらというか、このあたりにはあまり大きなものがなく、なじみも薄い。自分の生活に関わりがないと遠くに感じてしまうのだろうし、海のそばだからついそちらに目がいってしまうのかもしれない。国鉄で多々良川の河口近くを横切る時はいつも感嘆してしまうけれど、ああいった大きさの川はない。渡橋のある入り江を大きな川だと思っていた人がいたけれどたしかにあれが川だったらなんと呼ばれただろう。よほど大きな山がないとそんな川はできない。
 大根川というのも想像をかきたてる名だ。子供の頃遊んだ中川という小さな川があったような気がするけれど、思い違いだろうか。都市部だと蓋がされて暗渠になり、川自体が隠されて消えることも少なくない。ちまちました細長い、公園ふうのものになったりしている。地の神が喪われて久しい。
 新しく名づけられる場所は団地や開発地がほとんどだから、××ヶ丘、△△の里とか、○○タウン、☆☆シティといったおそろしく空疎なものになっている。歴史や地勢にもほとんど関係なく、耳ざわりがいいと思われてだろうか、昨今流行りの底の浅い現状分析が届くだけの、十数年先には賞味期限が切れてしまうような名前ばかりだ。あちこちで問題になっている、世代がかわってゴーストタウンになってしまうような開発の結果だろう。
 岡があり浜がある。海と山と空があり、そこに川と池と大木をいれればそれで全部説明がつくのかもしれない。そういう単純で深い世界に今だれもが憧れを持っている。全てをひとつの皮相な基準で単純化してしまい、その上でほんのわずかなちがいをあげつらうような硬直して干からびた現在に疲れているのだろう。
 地の力は蘇るか。


*市の文化協会がだしている「福津文化」という雑誌に載せたもので、これは「菜園便り240」として書いたので、誌に掲載後に送る予定だったものです。同誌には祖父のことをが書かれた「東郷公園を拓いた男 安部正弘」や、出版した「菜園便り」の紹介も載りました。

 

菜園便り256
6月22日 スティル写真プロジェクト②

             無限循環のなかの少年
 曠野のなか、白塗りの少年が木綿の着物を着てハンチングを被り、唐草模様の大きな風呂敷包みを手にしている。うつむいた目はじっと耐えているようにみえる。なにかを決めてしまったのだ、關を超えてしまったのだ。そうだろうか。
 寺山修司の短歌がたてつづけに浮かんでくる。
「間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
 格子状の扉が舞台装置のように前後に置かれて遠近を強調している。少年のさみしさも、つまり孤独も焦点化される。どこから来てどこへ抜けていこうとしているのか。そうしてその道の途中で彼は全てを放りだしてしまったのだろうか。でももうそういったおとぎ話が終わってしまっていることも彼はよくわかっている。アドレッセンスがとうに過ぎてしまったことはすでに告げられている。残っているのはなんだろう。意外に大きくて強い手の指が、世界をしっかりと掴んでいるかも知れないことを思わせる。性、もかいま見える。
 お決まりのように彼は都会へ、東京へでていくことになるのだろう、まだ上野駅に全ての北の列車が集まって来ていた時代に。そうしてその輝く黄金の夢は一夜にして鉛の重石となり、つらい軛になったのだろう。「故郷の訛りなくせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し」というような内省さえ始まる。「たばこ臭き国語教師が言う時に明日とゆう語は最も悲し」と呟くしかない。もう一度、濁ってしまった哀しい目でなにもない空っぽの地面を見つめるのだろうか。
 遠くまで行くんだと幼い決意を胸に叫んだ少年の一瞬の夢が覚める、そこは果てなく暗い田園、または合わせ鏡のなかの曠野。
         寺山修司監督「田園に死す」1974年 ATG

 

      共同幻想を巡って
 刑が執行され絞首されたのに死ななかった、死刑囚の青年が床に座っている。その向こうに椅子に腰掛けた所長や検事、執行官、医務官、教誨師などがみえる。青年に寄り添ってかき口説いているのは渡辺文雄が熱演していた、看守長だったか。おぞましいほどのドタバタ喜劇が演じられ続ける、心神喪失状態にある青年にもう一度罪を自覚させ、処刑につまり死に臨ませるために。場所は当時小菅刑務所の一角にあった死刑場を再現したセットの内だ。死刑囚が履いている官品のゴム草履まで忠実に再現されている。
 大半の出演者たちがすでに亡くなっている、佐藤慶小松方正戸浦六宏、石堂淑郎。足立正生松田政男、それに監督した大島渚はまだ存命だ。
 ついに刑場から出ていくことができなかったRと呼ばれた青年は、今もそこに閉じこめられたままだ。
          大島渚監督「絞死刑」1968年 ATG

菜園便り258
7月13日

 昔ふうな梅雨時の田植えが終わったばかりだというのに、一方では早稲はもう白い花をつけ受粉を始めている。こま切れになった糸のような白い花が梅雨の終わりの強い風に大きく揺れている。8月の炎天下での収穫に間にあうにはこの40センチくらいの丈での受精と胚胎が必要なのだろう。なんだか強引に早熟な性を迫られ懐胎し形だけは熟成し実を結び、最後は青いまま老いていく、そんなふうにもみえる。それもこれもわたくしたちが食べるためだ。そんなにまでしてなにが望みなんだろう。
 先日学校そばの田なかの細い道をたどっていると、先の方で小学生たちが群れていた。傘を振りまわしなにやら大声でしゃべっている。中心にいるのは声の大きい少し太った子で、背は高くなかった。「背が高くない」をわざわざことばにして思ったのは何故だろう、なんでそのことがひっかかったんだろと妙なことを気にしながら歩いていると、「昨日はミミズと蛙で今日は・・・」と一段と声が高くなった。見ると下校途中の女の子がひとり彼らに近づいているところだった。それで過剰な反応がでているのかと立ち止まって見ていると、どうもみんなで蛇を取り囲んでいるらしいとわかってきた。やれやれ、だ。もう逃げる力も失って、彼らの傘の先でつつかれた時だけ小さく反応するしかないのだろう。子どもたちもとっくに興味を失って、このまま知らん顔して捨てていきたいのだけれど、先に離れると弱虫だといわれるし、傘の先に引っかけたのを後から投げつけられた日にはたまったもんじゃないし、近づいてくるのはどうも3組のかわいい祐香のようだし、だったらみんなもまたヒステリックになるだろうし・・・・・そんなところだろう。
 こういう時、全く無関係の第三者にきゅうに矛先が向くのはよくあることで、そういうのを引き受けてあげるのも大人の役割かと思いつつも、とにもかくにも蛇を、それも傷ついた爬虫類を見たりさわったりなんてとんでもないと、きびすを返して戻ってくると、ガキ大将くんがひときわ大きな声で、「ちぇっ、あのおじさんも怖がって戻っていっちゃったよ」と言うのが聞こえた。彼もどうやってこの場を収集するか困っているのだろう。君たち、まだまだ永遠といっていいほど長く続いていく人生が待っているんだからね、そのくらい自分で考えて自分で引き受けなさい、引き受けないというオプションも含めて、とかなんとか呟きつつわたくしは知らん顔だ。彼にとってほとんどおじいさんといっていい初老の男に向かっておじさんという時に少しの媚びもあって、たぶんなにかひとことくらいは期待したのだろうし、「背が高くない」とわたくしがふいに思ったようなことを彼もどこかで感じて、シンパシーを求めたのかも知れない。人と人の気持ちの伝わり方というのはほんとに不思議で、同時性というかシンクロニシティが支配してもいるようだから。
 別の道に向かってすぐに他のことに気を取られて子どもたちのことは忘れてしまったけれど、さすがに蛇のことはしっかりと焼きついていたようで家に着いてからずいぶん生々しく浮きあがってきた。困ったことだ。こうやって書くことで開かれ解かれて消えていく、ということがないのはわかっている。また新しい形をとってどこかに固着していくのだろうけれど、それを解いていく鍵は、何故「背が高くない」とふいに思ったりしたかを丁寧にたどってみることかも知れない。もちろんそんなことはしないけれど。


菜園便り260
7月23日

 いつの間にかこっそりと梅雨が明けたのだろうか、烈しい陽射しが続いている。洗濯したり、湿気った衣類を干したりとばたばたしていると、ときおり目に入ってくる庭の木々や草の色に圧倒されそうだ。特にあの嫌な憎むべき茅の、黄緑色の美しさ!スッと湾曲してかすかに風に揺れたりしている。こんもりと盛り上がった場所に群れているから微妙に変わる色彩が諧調をなして続き、その向こうの板塀の焦げ茶との対比もなかなかで、おまけに塀の向こうには海と空が広がっている。これでもうちょっとまばらで儚さでもかすかに感じられたら琳派も真っ青だ。
 灌木はもうすっかり繁り、色も真夏の黒々とした硬い緑に変わっていてちょっと近寄りがたい。剪定もままならないから勝手放題に枝を伸ばし下枝も生いしげりびっしりと隙間もなく風も通らず、低い木なのにその周りにはどろりと何かが溜まりまとわりつているような暗さがある。こういう場所があるのが荒れた庭や空き地のよさだろう、と嘯いてみるしかないけれど、でもほんとうのところこういうところが嫌いではないからちょっとやっかいだ。きちんと隅々まで手入れされ草もすっかり抜き取られた庭はなんだか一枚皮を剥いだようで表面がツルンとしてみえる。
 菜園はトマトだけは元気に次々に実をつけている。丸いのと細長いのと2種のミニトマトがオレンジがかった鮮やかな朱。少し大きめのピンポン大のはかすかに色づいてきたくらいで収穫しておかないとぐずぐずになってしまう。色はかすかな赤とうす緑が混じってとても美しいとはいい難いが、果肉は少し柔らかめだけどおいしい。ミニトマトは皮も固めで歯ごたえがある。さっと口のなかに広がる甘さや青くささに瞬時に笑顔も生まれる
 今年の菜園はほとんどそれだけだ。ゴーヤも潰えたし残っているピーマンも小さな実のまま落ちてしまう。ベランダ側のプランターにはイタリアンパセリと青紫蘇が繁茂し、バジルも白い花をつけつつまだ伸びつづけている。今年はジェノベーゼソースをつくろうと大胆にも思いこんだりしないし、モッツァレラチーズを頂くこともないし、ほとんど使うことがないので摘んできてはコップに挿して食卓に飾っている。さわったとたんあの香りが鼻をうつくらいにたつ。その度にこういったハーブ系の植物の勁さを再認識させられる、「空き地」から勝手に摘み取ってくるペパーミントもそうだけれど。
  庭のあちこちで大きな白い花を開いている浜木綿も夕方には特に香る。玄関に1本挿しているだけであたりの色までかわる、大げさに言うとそんなふうだ。

 

菜園便り261
7月28日

 最初に行った映画の試写会は姉が応募して連れていってくれた「シャレード」だった。まだ中学生、遙か昔のことだ。渡辺通りの電気ビル上階にあった電気ホールだったと思う。最近ビルが新しくなったようだけれど、ホールはまだあるのだろうか。キース・ジャレットや武満を聴きにいったこともあるホールだ。
 当時はオードリー・ヘプバーンというのはすごい人気の女優だったから大勢が詰めかけてみたんじゃないだろうか。晩年のケーリー・グラントもでていた。今も好きな映画だけれど、謎の鍵である切手のエピソードがなんとなく腑に落ちなくてちょっとガッカリした記憶がある。未使用の切手を封筒に貼ったら、裏の糊が喪われる、もしかしたらスタンプを押されてしまう、使用済みなら別のスタンプがついてしまう、いずれにしろコンディションは致命的に悪くなり、価値がなくなる・・・そんなんことを思ったりした。当時は切手収集が流行っていたから、誰もがそんなことを気にしたんじゃないだろうか。
 どの街でもそうだけれど、試写会は○○生命ホールとかいった場所で行われることが多い。賃貸料と利便性と設備(35ミリが映写できる)、そこそこの規模・・・もちろん映画館を使ってのもあるけれど、そういうのは観客を含んだ大規模なものでよほど期待度の高い映画の場合だ。「キル・ビル2」のときはシネマコンプレックスの大会場がびっしり埋まっていた。その頃はシネテリエ天神といった極小映画館でみることが多かったからそのスクリーンの大きさだけにもびっくりさせられた。   
 仕事でお知らせがまわってくる試写は、だいたい映画会社関係の小さな試写室で行われる。小さいといっても4、50人くらいは入るだろうから極小の映画館より大きかったりするし、椅子もゆったりしている。スクリーンが小さめなことをのぞけば(それも極小映画館よりは大きい)いいことづくめだったけれど、最近はそういった試写は全部デジタルでくるらしくピクセルのめが気になってしょうがない。
 久しぶりに行った試写会は「The Grey(グレイ)」というのだった。リドリー・スコットが制作に関わっているので行ったのだけれど、試写はほんとはあれこれ選択したりしてはいけないとは思っている。仕事でもあるし、案内がきたらなんでも全部みにいって頭からバリバリとかみ砕かなくてはいけないのだろう。映画評を新聞に書きはじめた当初は大型ハリウッド映画なんかもせっせとみにいっていた。でもそのせいで、あれもこれもみるということが嫌になってしまったのかもしれないから、元気がありすぎるのも考えものだ。
 ともあれこの映画はアラスカの曠野のなかに飛行機が不時着し、生き残った男たちが狼と戦いながら生き延びようとするという、サバイバル系マッチョものだった。墜落で生き残ったのは8人、生還を期し、先ずは遠くにみえる森をめざして歩き始める。狼に襲われ、ひとり、そしてひとりと死んでいく。
 丁寧につくってあって、パンフの解説にもあったけれどカナダの北部、実際の寒冷地で撮影されていてリアルだけれど、ちょうどジャック・ロンドンの「火を熾す(焚き火)」を読んだ直後だったので、うーーーーん、これでは生きられないだろう、低気温と風で指どころか身体が動かなくなるだろう、いくら狼に襲われ必死になったとしても無理だろう、などととつい思ってしまった。
 そういう状況で「濡れる」ということがどれぐらい苛酷なことかというのは素人にも体感的にわかるし、焚き火があるだけで安全ということではないし、その焚き火にしても簡単に熾せるものではないことも少ない経験から推しはかれる。小さい時の七輪を熾こした記憶とかキャンプで食事の準備に泣かされたことだとかから。
 真夏に公開されるのは恐怖で心身共に凍りついて涼しくなることを期待して、だろうか。

 

菜園便り262
7月28日

映画祭で上映する「玄界灘の子どもたち」(16ミリフィルム)は吉田さんが奔走してくれ、制作元の東映で見つかったが、オリジナルはなく、フィルムの状態も悪く、映写機にはかけられないことがわかった
デジタルに変換して、上映権と共に買うことになったようだが、もしかしてどこかにフィルムが残っているのではないかと
まだ映画が大きな力を持っていた時期に撮影や上映が行われたのだから
吉田さんの「玄界灘の子どもたち」を探しての丁寧で時間のかかる問いあわせが続いていて、頭が下がる。彼もまた歩哨的な人だ
撮影場所だった津屋崎、福間、福岡県、福岡市、佐賀県の一部、大分、東京
行政、視聴覚教育、生涯教育、NPO、公民館
行政的対応、親切な人、つっけんどんな人、自分で判断して遠くまで尋ねてくれる人、


菜園便り263
8月17日

 お盆も終わった。民族大移動などと呼ばれて大騒ぎになるけれど、自分が動かなくなるとそういうこともなんだか遠い昔のことのようにしか感じられない。そうかい、うん、そうだったね、おやそうかい・・・。
 我が家のお盆は正月と共に父が采配をふるっていたから、父の実家の宗像、東郷の様式、というかそこの内田家の形を踏襲している。でもまあだいたいどこでも似たようなものだろうとは思う。関東だけが7月のお盆というのが最大のちがいだろう。迎え火を焚くのは迎えに行けないくらい遠いとか、お墓もないというようなことだろうか。今は歩いていける距離に墓地があるということの方が稀だろう。お盆は20日までといっていた父に従ってそれまでは提灯やお供えを残しておく。
 13日にお供えの料理の準備をしてからお迎えに行く。線香を持っていて墓地で火を点け、その煙に乗ってもらっていっしょに帰ってくる。初盆の時以外は仏壇前には下げ提灯と行灯型の置くタイプが1対ずつ。なかの灯りは電球で、コードをあれこれ配線して一箇所で全部を操作できるようにするのも父のやり方だった。
 もちろん前日までにお墓の掃除や草取りもしておかなくてはいけない。我が家のお墓は町により墓地一帯が強制的な区画整理で撤去させられたので、今は近所のお寺の納骨堂に入っている。40センチ幅くらいの同じスペースがずっと続いていて初めてみた時はちょっと度肝を抜かれた。掃除も草取りもない。楽だけれど、なんだかさみしい、あじけないというか。蔡明亮の映画「愛情万歳」では主人公(いつものシャオカンだ)が台北で納骨堂のセールスをやっているという設定だったのには驚かされた。
 とにかくお墓から帰ってきてもらう、というか来てもらう。「迎えは早く、送りは遅く」というのも父のモットーだった。だから夕方早く4時にはお迎えに行くし、帰ってみえたらすぐにお膳をだせるようにしておく。お迎えの日のお団子には白糖をのせてだす。他には素麺と5品のお膳。ご飯、汁物、精進料理3品。父言うところの「ガキンチョさん」への団子と素麺は別に小皿でだす。その他のお供え物は定番の野菜と果実、茹でてない素麺の他はお菓子とお盆用の落雁など。花は行事ごとに姉が花屋をとおして送ってくれるものや兄一家が持ってきてくれたものが両脇に飾ってある。
 家族が亡くなって初めてのお盆は「初盆(ハツボン)」とよんでお葬式に次ぐ大きな行事になる。特別な戒名の入った大型提灯を1対下げ、親族などから送られた行灯や提灯を仏間中に置いたり下げたりする。門や玄関にも提灯を下げる。祖父の時はずいぶんとたくさん寄せられたようだけれど、今はもうそういうことはない。葬儀と同じで、現在の家長の勢力の強さに比例しているのだろう。
 2日目は御膳を上げるだけだし、あまりお参りにみえる人もなく小休止といったふうだ。初盆のお家など、行かなければならない所へのお参りにまわる。
 3日目は送りの日だからまたバタバタする。ゆっくりしていただく、が理念だから早めに最後のお膳をだし、6時過ぎくらいにまた線香に乗せてお墓まで送っていく。送りの日のお団子にはあんこをのせる。砂糖は長い間貴重品だったのだろうから、甘いものというのは特別な贅沢品で、そういうものを感謝を込めて無理してでも供えたのだろう。今のように嫌われると砂糖もちょっとかわいそうな気がする。自分ではほとんど使わないし食べないからあれこれ言えないけれど。
 無事に送った後は、供え物をこもにくるんで盆踊りもある港のそばの会場に持っていく。お坊さんによる読経もあるなか、事前に買った供え物を流してもらうための木のお札と共に渡す。今はどこもそうだろうけれど精霊流しによる川や海の環境悪化が問題になっていて、形だけ流してまとめて処分するということになっている。川なんかでも少し下流で回収しているのだろう。
 初盆の大型提灯もここに運んで盆踊り会場に飾ってもらいそのあと処分してもらう。夜店も少しでていて夏祭りの雰囲気もある。中央の櫓の上にはお囃子と歌の人が座っている。PA(音響)は使うけれど、ライブでの演奏で、そのことは毎年あらためていいなあと思わせられる。港から橋をを渡った半島にはかなり古い形の盆歌が残っているとのことだった。
 そんなふうにして夜も更け、3日間の精進でなんだか軽くなったような身体と心で眠りにつく。久しぶりの静かで穏やかな眠りがある。

 

菜園便り264
8月29日  月の上に月 二重の水平線

 厳しい残暑も、6時を過ぎると陽も遠く傾き、遮る物のない浜辺の熱気も動き流れはじめる。50年ぶりという砂浜での上映会に三々五々みんなが集まってくる。騒ぐ子どもたちを連れて楽しげに、退職後の時間を連れだって、真夏の海岸を裸で闊歩する若者たちも物珍しげに。屋外での上映会は風も吹き抜け砂浜に座り込んだ人たちはのんびりと楽しそうだ。
 青い海と空を前に、波打ち際に立ちはだかるように組まれたイントレ、そこに張られた大型スクリーンが伸びあがる、まるで睥睨しているといったふうだ。
 上映されるのは夏の沖縄が舞台になった「ナビィの恋」。穏やかで滑稽にさえみえた南の島のお話は、いつのまにか佳境へと突っ走り、真摯な愛のことばが飛び交いはじめている。ナビィはもう心を決めている、遠くまで行くんだと、とぎれることなく隠し持ちこたえてきた愛を最後の最後に貫くんだと、そのためには家族も裏切り親族共同体を捨てても、と。
 もちろん映画のなかのナビィはやさしいお祖母さんであり、酸いも甘いも噛み分けた智恵者である。でもそういう人がある日、二度と開くことがないようにと幾重にも閉じてきた扉を瞬時にして開け放ってしまう。世界は黒々と豊で、目の前にはただ白熱する光が、南国の砂浜のように横溢しているだけだ。ニライカナイへ、竜宮へ、桃源郷へ。もう誰も止めることはできない。
 そうしてナビィと長年連れ添い子をなし慕い続けてきた年下の夫もそのことはすでにわかっている。最愛の人ナビィはやっぱり最後の最後には自分の人ではなかったと、いっしょに暮らしてきたけれどやっぱりそうだったとつらい思いで確認する。月の下でそれぞれの人がそれぞれの人生を、喜び哀しみをそうしてこれからを思う。
 「月がこんなに明るいとは思わなかった」という都市からやって来た青年の台詞がスクリーンに流れ、思わず見上げる空にはほんものの月が明るく光っている。海を背にしたスクリーンはときおり風にふくらみ、映画の展開とは違いつつも微妙にシンクロした動きを映像に与えている。群青の海と空に点在する粒々の光がときおり映画の文脈を突き破って目に入ってくる。遠い対岸の町灯り、星々、そしてゆっくりと旋回して着陸しようとする航空機の点滅する機灯・・・。
 スクリーンのこちら側も映画とさほど違わない暑さに包まれ、散らばった人たちが思い思いの姿勢で座り込み見上げている。子どもたちが蛍光色の腕輪や足輪を光らせながらさかんに動きまわっている。スクリーンに暗い海と水平線が映しだされるとそれは実際の海や水平線と完全に二重になって、みる人を惑乱する。時空が跳んで一瞬自分が失われる、ここではないどこかへの儚いあくがれが噴きだす、ナビィが向かった先、ニライカナイが垣間見えたのかもしれない。
 愛、は消えない、生、も続く。そうして夜更けた砂浜をみんなは帰っていく、もう一度自分のあたたかい家庭へ、淋しい部屋へ、ちょっとやさしい心持ちになって。


菜園便り265
9月25日 彼岸、此岸

 陽がずっと低くなって思いがけないところから射し込んでくる。古い炊事場が朝は光に満ちる。今は使ってないからひどい状態だけど、どこもかもが明るい光に輝いていて驚かされる。鮫でもさばけそうなまな板、タイルの洗い場、放棄されたかまども、あちこちの窓からの光を反射してなんだか厳かだ。
 残暑が厳しいとことあるごとに人は口にしているけれど、もうじきお彼岸だ。居丈高な庭の雑草をみているとどこに秋の気配がとも思ってしまうけれど、でも夜も更けるとひんやりとした空気が部屋にも流れ込んできて、あけはなった窓を閉じたりする季節になった。 彼岸の対岸は此岸で、でもそういういいかたは逆転している、ということになるのだろう。此処がわたくしたちの生きている場所であり、そこではない彼方に浄土があるのだろうか、そこが彼岸なのだろうか。生はなにものにも代え難いものであるけれど、死もその後に来るものとこみで怖れることのないもの、求められるものということだろうか。

 そんなことをあれこれ思っていたら台風がきて屋根を壊し、お彼岸も過ぎてしまった。なんだか呆然としてしまう。こんなふうに様々なことが訪れてき、降りかかってき、そうして過ぎていってしまう、そういうことが彼岸へと続く無常ということなのだろうか。絶えず動き続けかわり続けていて、でも全体というか総体としてはいつも同じであるということなのだろう。打ちつけられた潮で茶色く枯れた庭を見ながらあれこれ思ったりする。これも秋の兆しだろう。 

北の町からは初雪の便りも届きました。この津屋崎も徐々に寒気に包まれていきます。海は寒々とした空を映し澄んだ翡翠色です。風のある日は白波をたてて打ち寄せます。どおんどおんという鈍い響きが体にも伝わってきます。でも光はまっすぐで痛いほどです。それが南の地方の冬なのでしょう。
久しぶりの菜園便りです。この夏からいろいろあったし、音楽散歩、手作り市、そうして11月の映画祭と慌ただしい日が続いたからかもしれません。12月からは毎週末の土日に玉乃井を開放しカフェもやるようになりました。モーツァルト全集を2年かけて聴く企画や音楽とつながった谷尾勇滋さんの写真展「soundgraphy」も開催しています。


菜園便り266
12月4日

 表の道を覆い尽くすほどの柿の落ち葉が終わったと思ったら、今度は玄関横の松がどっと散り始めた。掃き集めると二抱えほどもある。常緑樹だしあの細い葉からは想像しにくいけれど、この季節、強い雨や風の後は驚かされるほど散る。
 落葉樹はもちろん、常緑樹と呼ばれる緑濃い樹々もそれぞれ季節ごとに葉を落とす。冬の前、冬の後が落ち葉や病葉の定番だけれど、このあたりのかんじだと晩秋、初春がそれにあたるのだろう。まるで小津の映画みたいでおかしくなる。小津を中心に世界が回っているような気もするけれど、それは彼がこの東アジアの季節の巡りに丁寧に感応していたからだ。食べ物も着るものも総じて生きること全部に季節はぬきさしならぬたいせつなものとして関わっていたのだろうから。
 松を掃くのは、なんというのか細い笹竹の先を束ねた箒で、これは慣れないこともありちょっと掃きづらいけれど松葉にはぴったりだ。以前は松葉箒とよんでいる竹でつくった熊手みたいなのを使っていたけれど、アスファルトの上を掃くには不向きで、おまけに削られてすぐにちびてしまう。この形はやっぱり松林に行ってどっさりの落ち葉をかき集めるのなんかに向いているのだろう。子どもの頃は海岸の防風林に行って松葉をかき集めてきては風呂の焚き物にしていた。
 当時は五右衛門風呂で、子どもが入れるくらいの大きな焚き口だったからなんでも燃せたのだろう。近所の大工さんや建具屋さんから木ぎれや鉋屑をもらってきたりもしていた。鉋からしゅるしゅると薄くつややかでちょっと生々しくもある鉋屑が生みだされてくるのをみるのは楽しかった。大げさに言うとかすかな恍惚感もあった。電動の鉋になったらあじもそっけもない小さな屑状になってしまってなかなか燃えなかったのを覚えている。大きめの鋸屑、みたいだった。鋸屑とか籾殻とか積みあげて火を点けても黒くくすぶり続けるだけで燃え上がらせるのは難しかった。今思うとあんなものでよく風呂が沸いたものだ。燃すものが山積みにされて置いてあった記憶もないから、そのつどあちこちから集めてきていたのだろうか。すぐにぱっと燃えてしまう松葉だけれど油もあってか熱量は高かったのだろう。直接窯をあたためる仕組みだから効率もよかったはずだ。
 熱くてさわれない鉄の釜の風呂で、沈めた丸い踏み板の上で周りにさわらないようにじっとしゃがみ込んではいっていた。小さな子どもでは浮力に負けて板を沈められないだろうし、うっかりバランスを壊すと板が浮きあがってひっくり返ったりしたこともあったかもしれない。そんなできごとをあまり覚えていないのは、いつも家族と一緒に入っていたからだろうか。騒ぎながら母や兄姉と入っていたのを覚えている。タイルの貼られてない剥きだしのコンクリートの洗い場は子供心にもずいぶんと寒々と感じられた。なんだか生活の象徴みたいでもあった。


菜園便り267
1月16日 ジュピターの行方

 カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニーのモーツァルト交響曲35番、39番、41番。CDケースを手にとって開けると空っぽだった。久しぶりにジュピターを聴こうという気になってしまっていたから、最初はなんのことだかよくわからなかった。ああ、CDが入ってないのかとわかった後も、ちょっとぼんやりしていた。
 友人のお父さんの遺品、衣類などを頂いたなかに入っていたCDだった。
 亡くなられる前に聴いておられたのがモーツァルトだったのだろうか。
 最後に聴きたい曲とか、葬儀の時にかけてほしい曲とか、人はあれこれ語ったりするけれど、そういうことは実現されてもされなくてもなんだか寂しい。実際にお焼香のさいにベートーヴェンが朗々と流れてきたりすると気後れする。なんだか気恥ずかしいし、故人よりも生きている者のために葬儀はあるんだなあとあらためて思ったりしてしまう。
 ぼくは、どうなんだろう。音楽をかけてほしいのだろうか、そもそも葬儀をしてほしいのだろうか。わざとらしい形式はほんとに嫌だけれど、悼まれたいというささやかな望みはどこかにあるから、友人たちにはおくってもらいたいのだろう。今も小さな執着がいくつも残ってしまっているように。
 最後に聴きたい曲、というのはよくわかる。死ぬというのはとてもたいへんで、力をふりしぼらなければならないし、心身共にすごくしんどいことだから、特に病院のベッドの上だったりしたら、穏やかな心休まるものを聴いていたいだろう。モーツァルトならぴったりだけれど、でもシンフォニーではなくて、ピアノ協奏曲でもなく、クラリネット協奏曲とかホルン協奏曲がいい、その1番の、澄んで明るいホルンには静かに元気づけられそうだ、ディベルティメントもいい、特にあの1番だったらうれしい、なんだか軽やかに楽しくなれるし、ちょっとせつなくもある。
 プレイヤーに残されたままのCD、というのはミステリアスでもあり、また日常のなごりみたいでもあって、いろいろに思わせられる。そのモーツァルト交響曲のケースにはうっすらと埃が残っていたからプレイヤーの傍にずっと置いてあったのかも知れない。あれこれ勝手な想像が広がってしまいそうだ。目を閉じたいかめしい顔のカラヤンが少し下を向いて腕を上げ、わずかに指を開いている。右手のタクトは何を指し示しているのだろう。口元が少し緩やかだから、表情は厳しくはない。冥想しているというより、眉根にしわよせて真剣になにかを思いだそうとしているみたいだ、なにげないでも人をあたたかくするもの、例えば今朝すれ違った老婦人のうつむき加減の表情とか、食卓の白い厚手のリネンに射していた明るい光だとかを。
 妹が入院した時に、落ちつけるんじゃないかと持っていったCDは静かな曲で、病室に取りつけてあるプレイヤーにセットして流したけれど、「また後で」となんだか疲れたふうにいったからきっとその後も聴かなかったのだろう。返してもらった時にケースにはCDは入っていなかった。お節介が過ぎたようで寂しくなる。葬儀場で聴かされるバッハやビートルズを思いだしてしまった。
 でも置き忘れられたCDといったことへの興味はつのる。ゴミとして捨てられる可能性もあるけれど、でも掃除の人もそんなところまで気を使う余裕はないだろうし、誰も気づかずにいて、次に入院した人が退屈まぎれに何気なく開いてみて、またはなにかかけようとして開けてみて、そこにCDがあるのに気づくかも知れない。聴いてみる人もいるだろう。「ほう、なかなかいい曲だ、うるさくないし、安らかでちょっと華やかな気持ちにもなれる」、と思うかもしれない。「J.S.BACHというのが作曲家かな、曲名はなんだろう、ANDRASSCHIFFはなんのことかなあ・・・。誰が置いていったんだろう、何度も聴かれていたのだろうか。だいじなものだったのかも知れない。でも亡くなられて、誰も気づかずに忘れられたのだろうか。めでたく退院になってその喜びで忘れられたのだろうか・・・」
 バッハを聴きながら人はなにを思うのだろう。耐え難い心身の乾きや痛みを、音楽がわずかでもまぎらわせ忘れさせてくれるだろうか。とうになくなった意識の底にかすかに旋律が届いてなにかが一瞬蘇るかもしれない。それは遠い日に街角の喫茶店で二人して聴いたときの、まっ黒な珈琲の、カップからこぼれる苦いまでの香りかもしれない。そんなことを埒もなく思ったりする。
 忘れられ喪われたものがどこかへ、なにかへつながっていくこともあるかもしれない。あのジュピターはどこで鳴り響き誰になにを喚起させるのだろう。思いもかけない流れのなかで不思議な回路を抜けて、かつての持ち主へもまたつながっていく。生きていくこと、つまり死んでいくこととはそういうことなんじゃないだろうか。

菜園便り268
1月28日 そして 2月15日

 昨日、1月27日はモーツァルトの誕生日だった。玉乃井にスモールバレーのお菓子を食べに来てくれた人が教えてくれた。座られてからしばらくして、ちょっと顔を傾けて、モーツァルトは流れてないんですかと聞かれて、すいません、すいませんとあわててスイッチを入れた。
 表の看板には、モーツァルトをいっぱい流します、全部(全集)聴きます、と書いていたので恥ずかしい。ひとりでぼんやりしている時は何度もかけていたのに、肝心の時には気がまわらなくなっている、困ったもんだ。
 誕生日の前日は第7巻・CD37の舞曲、主にセレナードやディベルティメントだった。
 そうかモーツァルトは1月に生まれたのか、やっぱり水瓶座なんだ、とうれしいようなこわいような。午前中に来てくれた人も2月生まれの水瓶座だと知ったばかりだった。

 そんなことを書きかけていたのに、ぼく自身の誕生日もとうに過ぎてもう2月もなかば、なんだかあれよあれよという間だ。でもそれは時間が速く過ぎていくという感覚ではないようで、なんというか、一昨日と今日がぴったりとくっついてしまっているという感じだ。ほとんどなにもとっかかりになるようなできごとがないから、振り返ってみてもそこにはわずかに動きのあった1週間前のことだけが突っ立っていて、その間の時間がいつの間にか過ぎたことが不思議で、まるごとすっと抜きとられたようで、なんだか狐につままれたような気がして、怪訝な面持ちでじっとあたりを見てしまう、そんなふうだ。
 この冬のはじめにちょっと困ったのが、寒さに震えだした後なにかを思いだそうとして、寒かったからああしたこうしたと記憶を順に引っ張り出しているとなんとそれは春を迎える前の、年の初めの冬のことで、秋を過ぎての今の冬ではなかったりしてびっくりする。でもその記憶が異様なほど生々しいからどうしてもつい最近のことだと思えてしまうからやっかいだ。あの酷暑の夏さえあった8ヶ月はいったいどこへいったのだろう。
 おまけにそういうことは長いスパンでなくても、1日のことでも起こる。アレーと頭をふってもいろんなことがなかなかつながらない。デジャブというかすでに全く同じことをやった気がしたり、やっているはずなのに全く記憶になくてすっぽり抜け落ちていたりする。忘れたとか思いだせないとかでなく、まるっきりない。記憶や時間が歪む感覚というより、電車などでの方向感覚、特に進行方向の感覚が、頭のなかの地図と身体感覚とでずれてしまって反対向きに走っているという思いからなかなか抜けられない、そういった感じだ。
 拘禁時や入院中はあまりにも変化がなく身体の動きさえ少なく、その間のできごと全てが希薄で印象が薄いから後から振り返るとなにもなくて、だからその日その時間は異様に長く感じるのに、ひと月はあっという間に思えてしまうと説明されたりもするけれど、そういうことなのだろうか。じゃあ今の生活は穏やかで閉じられた半分死んだ庭つきの座敷牢なのだろうか。それにしては請求書がきれめなく送られてくるのはいぶかしい。

 

2分50秒というのが指定の時間だった。ヴェンダースだとか   、  、などが参加している。映像それ自体は


とても長く感じたり、えっと思うくらい短かったりする映像をみながら自分だったらどんな映像にするだろう、どんな対象を選ぶだろうとついおもってしまう。おそらくみているほとんどの人がそう思い、それはみている間にだんだんと切迫した問いになってきてしまうんじゃないだろうか。
固定して海をずっと撮ったものや、川の流れを写したもの、空を見上げたままのものなどは誰もが思いつくものかもしれない。実際にそういった映像はよく目にするし嫌な気持ちにはならない。
「ルミエールの仲間たち」では撮ることそのものが描かれるのが多くてちょっとびっくりした。撮影そのものをこちらから撮るとか、映像に関わる機械そのものを撮るとか

撮ること、写すこと、映すことそれ自体を考えようとするものもあるけれど、映像でそれを考える、語ることの難しさは  

 

福間さん、宮田さんが中心になってやっていた福岡フィルムメーカーズフィールド(FMF)が開催していたアンデパンダンと(無審査)の8ミリフィルムコンペ「パーソナルフォーカス」も3分だった。

直接写ってしまうから

 

菜園便り270
5月13日

 玉乃井で毎年やっている「津屋崎現代美術展」も終わった。会期中に映画の会も開催できて、ビクトル・エリセの「エルスール」を上映してもらった。ほんとに久しぶりにみたけれどやっぱり静かで勁い、いい映画だった。昨年の12月にやった「ミツバチのささやき」の流れとしてだったけれど、その後に知りあった人たちも来てくれ、2階の広間で共にスクリーンをみつめた。いっしょみることでいろんなことを共有しつつも、あの家族のだれを中心にみていくかで全体の印象もずいぶんちがってくるのだろう。ぼくはやっぱり悲劇の人に惹きつけられていく。
 5月になって、ひと息に季節が進む。慌ただしく冬物の片づけを進め、夏野菜にもやっと手をつけることができた。今年は全部をプランターと鉢でやることにした。菜園では胡瓜とゴーヤが地中のだんご虫なんかで全部だめになるし、鉢だと風や虫の害にも簡単に移動させて対応できる。支柱などをつけるのが難しそうだけれど、その辺の木に巻きついてもらってもいいか、と思う。とにかく菜園は撤退に継ぐ撤退で、ここまできてしまった。でもひとりだからこれでじゅうぶんといえばいえる。今もプランターでレタスやパセリは採れるし、鉢のなかの山椒の木の芽や芹は、今年もまた芽をふいて元気がいい。
 植えたのはトマト、胡瓜、ゴーヤ、バジル、青紫蘇。苗でいただいたアイスプラント、種でもらったチコリ(ミックス)、花オクラそれにアーティチョーク。これは以前にもいちどだけ苗でもらってみごとな花が咲いたことがある、実はならなかったけれど。
 野菜そのものにも流行りすたりがあるようで、今年はズッキーニやルッコラをほとんど見かけなかった。スイート・バジルというのがでていたけれど、どんなのだろう。米語ではスイート・バジルというのがぼくらがいっているバジルの名称だったけれど、これはちがう種なのだろう。スイートというと甘いものを思ってしまうけれど、スイート・バターと同じで、塩が入ってないとか苦くないという意味も少なくない。
 あたたかさも一気に進み初夏の様相。庭で採れた大きな空豆、夏豆もいただいた。うすい翡翠色の莢から平たく甘い豆がツルンと飛びだしてくる。すべすべしていてそうしてほくほくとおいしい。いっしょに大ぶりの芍薬もいただいた。豪奢でしかも香りたつ花。愛があればそうしてじっくり待つ力があれば、こういったものにも手が届くのだろうか。受けいれる勁さとそこから積みあげる力と、だろう。
 いろんな人の協力で草が刈られ、枝が落とされ、庭は爽やかな広がりをみせている。どこにも茅もカラスノエンドウも見えない。こんなに広かったのかとただただ感嘆しながら、ごろごろと転がりチクチクと芝を感じ、光のあたたかみを吸いこんだ植物の匂いに顔を押しつけたくなる。


菜園便り271
7月2日

 早々と4月に田植えされた早稲はすっかり伸びてもう開花せんばかりの勢いで、ふつうの品種は、といっても今ではこちらの方がずっと少ないのだけれど、6月の梅雨時の田植えがやっと終わり、稲田は緑あふれて静かに広がっている。
 でも、麦秋を経ての麦刈りも早い田植えも、ああ終わったか、といったようにしか覚えていない。そういうことが視覚としてもできごととしても新鮮な驚きにならなくなったのだろうか。それは少しさみしい。毎年毎年同じことに驚き感動しがっかりしたって60回もないのだから、同じことをくり返していてもいいのに。なんだか自分で制御してしまうような、どこかで飽きてしまったかのようなふるまいになってしまった。
 くり返すことで、ありふれた日々のできごとが重い力になっていくように、書き続けられることで深度がうまれ、わずかずつではあれ世界が近づくのかもしれない。楽天的にすぎるだろうか。でもくり返すこと続けることぐらいしか人にはできない。
 毎年記録が更新されるような豪雨にも耐え、プランターの野菜は健気にたっている。3、4種植えたトマトがそれぞれ朱や黄色やオレンジ、丸いのや細長い実をつけるし、キュウリも時々収穫できる。ルッコラも急にのびはじめた。終わり近くなってもレタスや青紫蘇は助かる。後はバジルや芹を時々摘むくらい。それでも十分に食卓をにぎわしてくれる。アーティチョークも3本ほどのび、花オクラも小さい鉢でがんばっている。諦めていたゴーヤも小さいのが見つかった。順調に太ってくれれば少なくとも1本は採れる。ここ数年全くだめだったからうれしい。
 3月の終わりに花瓶に挿した山ツツジがずっと枯れずに続いて小さな葉までだしたので、植木鉢にさして水をやり続けていたけれどそんな挿し木がうまくいくわけもなく、かすかな緑も費えてしまった。でもすごい生命力だ。早春の草木に流れる生の息吹は底知れない。細胞の始まりの力も同じことなのだろう。
 みごとに刈ってもらった茅も、あやうく感嘆してしまうほどまたすっかり繁って優雅に揺れている、なんだか前より勢いもいいみたいだ。柔らかい緑が先端ですっと細くなりかすかに光をとおして輝く。憎っくき敵だが、この季節の草木はどれもが最後の新緑の美しさを放っている。もう2週間もすれば居丈だかな黒々と堅いだけの雑草になるのだろう。
 美術展や映画の会も終わった。あたふたしたひどい雨漏りも、過ぎてしまうと後かたづけがやけにのんびり感じられたりする。誰かがシジフォスの神話に喩えたように、家事はやり続けないとたちまち何もかもが滞ってしまう。河原に石を積み上げ続けるように、黙々と、しかも陰の仕事としてあいまをぬって終わらせなくてはならない。抜けるだけ手を抜いても、最低限の線がある。それよりほんの少しバーをあげるだけで途端にしんどくなるけれど、でもどこかがすがすがしく光るのが目に見える。どこかに小さな喜びがある。


菜園便り272
7月6日 「梅雨のあとさき・・・写真つき」

 絶句するとはこういうことかと、なんだかそんなことに感心してしまった。
 でもショックは大きく、驚愕といってもよく、それをなんとか受けいれるために、心理的な操作を自分であれこれさみしくやっているのだろうと思ったりもする。呆然として自失して、とにもかくにも憂鬱になる。
 2階1号室の天井が崩落した。
 屋根瓦の下の土が風化し粉状になって徐々に天井板の上に降り積もり、なんだか懐妊したような形にふっくらとたわんでいたのだけれど、何とかしなければと思いつつ、意外なほど何も起こらないのでついつい「こんど」と自分にも思いこませていたら、梅雨の豪雨が続いた今朝、ついに崩落となった。それも不思議なほどきっかり半分だけ。
 落ちてたわんだ梁、折れた天井板、雨受けのスティロールの箱はみごとに砕け、泥の下に埋まってしまった。信じられないほどの泥が畳の上にどさりと積まれている。いったいどこからこんなにも、としか思えない。
 明け方にベッドのなかで、西側の駐車場の方でどさりというような音がしたな、なんだか軽い衝撃みたいなものもあったなと感じてはいたけれど、まさか2階の東側の部屋だとは思ってもみなかったし、こんな惨状だとは予想もしてなかったから、驚嘆、驚倒というような大げさな表現でもたりないほどだった。荒唐無稽、みたいなことばも浮かぶ。いったいなんなんだこれは、というような。
 天井は、渡してある梁もほっそりとしたのが軽く止めてあるくらいで、天井板はその上にふわりと乗せてあるだけだからそんなに頑強なものではないけれど、でも上から落ちてくる埃や、時によっては雨を受け止めてくれるたいせつなものだ。なにより屋根裏のあれこれや暗さを隠してくれる。むきだしの梁の太さや美しさを愛でるだけではすまされない。
 これからこの天井や部屋を、さらには玉乃井をどうすればいいかと考えるその前に、先ずどうやって片づけたらいいのだろう、この信じられないほどの土の山。雨をすって泥濘と化し、いかにも重たげだ。乾くと褪せた芥子色でパウダー状にまき散らされる。年月のなかであらゆる要素が風化しているような土。黴も生えようがないように枯れきっている。目に飛びこみ、鼻の粘膜に張りついて、ダストアレルギーを起こさせる微粉末。まったくやれやれだ。
 翌々日の晴れた空の下、少し乾いた空気のなかであらためて見ても、その塊り感、重さ感は揺らがない。いい加減にしろ、と思うし、なんだかバカバカしくもある。いったいぜんたい・・・・。 この2ヶ月ほど妙な痛みが続いているから、「さて」と気軽に上げられるような重い腰もない。困ったことだ。

 

菜園便り273
7月10日   CDの謎、ふたたび

 CDがケースに入っていなかったこと、なくなったりしたことを書いたら、こんどは、見知らぬCDがいつのまにかモーツァルトのCDケースに入っていた。不思議だ・・・
 週末に玉乃井を開放し、モーツァルト全集を連続で聴いていて(今は弦楽四重奏曲の最後あたり)、演奏中のアルバムケースをカウンターに飾るように置いているのだけれど、その3枚組のケースのなかに、見知らぬCDが1枚入っていた。不思議だ・・・
 濃いオレンジ色の地に女の子の半身が黒く印刷してある。ちょっと振り乱した髪が、もしかしたらそういうファッショナブルな髪型なのかもしれないけれど、子どもの顔にそぐわない気がしてなんだか落ち着かない。首からつった小太鼓を叩いているので映画「ブラジルからきた少年」を思いだしたりする。
 6ポイントくらいの小さな文字が周りをぐるりと取り囲んでいて、目をこらすとBOLEROとかmr.childrenとかいう文字が読める(正確にはMRと大文字だ)。そうかこれはミスターチルドレンのアルバムなのか。でもそういうことがわかって、かえって不思議はつのる。
 そういえばずっと以前に、ぼくにとってのそういうもの(「よく聴きますよ」と見栄はっていうようなもの)はショスタコービッチコルトレーンミスターチルドレンかもしれない、どれも胃が痛くなるような気がするけれど、と書いていたけれど、最近ショスタコービッチコルトレーンをたて続けに聴いていたので、その流れに当然のように現れたのだろうか。我が家にはミスターチルドレンのCDは1枚もなかった。
 よく聴かれていたようでいくつか小さな傷もついている。
 ショスタコービッチはチェロ協奏曲の、あのでだしを確認するために聴こうとして、リン・ハレルとロンドン響だったと思うけれど見つからず、弦楽四重奏のなかにも同じ旋律が使われているのでそちらで聴こうと、これはフィッツウイリアム弦楽四重奏団演奏の全曲盤で、このカバーデザインは自分でやったCDデザインのなかでも一番のお気に入りで、それを何枚か聴いたりしていたし、コルトレーンは、近所の図書館にジャズのCDがかなり揃っていてコルトレーンもバラードが中心だけれど「至上の愛」や「ブルー・トレイン」「ソウルトレーン」なんかもあって、時々借りてきては聴いていた(ほんとは彼のLPをどっさりもらっているのだけれど)。
 そういうのを誰かがどこかで聴いていて知ったのだろうか、なんて妄想が広がったりする。でも不思議だ・・・・
 突如稲妻と共に出現したとか、なにかの深く錯綜したつながりのなかから静かに産みだされたとかいうのは、まあありえないから、誰かがおもしろがって置いていったのかもしれない。辛辣なモーツァルト評、この企画への批評だろうか。まさかと思うけれどありえなくはない。丁寧に聴く人にとっては、同じ曲を1日じゅう聴かされるのはたまったものではない。ぼくは台所で珈琲を入れたり、ケーキを切ったりしてバタバタしていて、ときおりリモコンの再生スイッチをあれこれ考えずにピッといれるだけだ。
 ひとりでいてもそんなにゆっくり聴けないし、あんまりよくないのもあるなあなんて時には不謹慎に思ったりもする全集踏破だけれど、ピアノ協奏曲21番にしみじみできたりもするから、また気をとりなおしてリモコンを構える。
 けっきょくまだチルドレン氏のCDは全部を通して聴くには至っていない、それも不思議だ。


菜園便り274
7月19日

 海側の庭はけっこう広い。以前は離れや風呂があったところだからとうぜんといえばとうぜんだけれど、建て壊した後がそのままになっていて、自然にはびこった芝生や雑草がひろがり緑に覆われている。気持ちがすっとほぐれるような空間。
 そこに猫が3匹くる。白と黒の斑はお隣の猫で、彼は野良だったのを飼われるようになって、はす向かいのお宅でも可愛がられてご飯を食べている。そのせいかすっかり太って、動きも鈍くなってきている、年齢もあるのだろうか。
 時々ふらっと家のなかに入ってきて驚かされる。応接室でのんびりテレビを見ていると奥の小さな引き戸の影から不意に出てきて、互いにぎょっとしてすくみあったりする。ここにだれかが住んでいるとは気づかないのだろうか。同じことを何度もやっているのに学習能力に欠けている、なんて思ったりもする。彼なりのエンターテイメント、だろうか。だれを喜ばせるための? 玄関が開いてないときは台所のどこかから、またはカイヅカイブキをよじ登った2階の隙間、時には食器庫のとなりの空き部屋の床下あたりから出入りするようだ。
 今朝は配膳室で珈琲を入れているとふいに廊下側の入り口からゆっくりと入ってきた。互いに顔を見あわせてちょっと驚きあって、いつもだとぱっと走り抜けるのに、そのままゆっくりと歩み去った。なんだか元気がないし、毛並みにつやがあまりない。小さかった頃の「おお」とつい声が出るような真っ白な輝きはない。年齢のせいだろうか、でもそんなに年なのかとも思ってしまう。あの輝きはつい最近のことだった気もする。
 以前、目の前で高く跳び上がって鳩を襲うのをみてひどくびっくりさせられたし、なんだか怖くもあった、見てはいけないものを見たような。餓えや死がかかった猟ではない気まぐれな遊びみたいなもの、でも確実に喪われていくものがある。
 チャコールグレイの長い毛の猫と、あれこれ混じりあった焦げ茶の毛並みのこれも太った猫はたまに姿をみせる。もちろんどれもがいっしょに顔をあわせることはない。それなりに領分があるのだろうから、気を遣うというか侵犯には心しているのだろう。とうぜん争いになるだろうから。
 そういうふうにいうならこの庭は、頻繁に来て散歩したり寝そべったり、木陰にじっと這いつくばって雀を凝視したりしている隣の斑猫の領分なのだろう。小説のなかに、誰それさんちの猫が垣根の下から入ってきて庭を横切ってどこそこの家に入っていく、黒いしっぽの短い猫は松の向こうの奥の方から出てきてそっちの生け垣の隙間からでていく、といった会話が出てきたことがある。なんでもないいつものできごとを話しているんだけれど、どこか変でなにかが決定的にずれてしまったという感じを持たされてしまう。猫はなにかしら不安をかきたてる。全く知らん顔で歩き去るのに、消える直前にうつむき加減の目の端ぎりぎりでちらとこちらを見たような気がしてしまう。
 庭に面した縁側の隅が今の仕事場なので、庭も海もすぐ目の前でついついそちらに目がいく。草木のさまざまな階調の緑と海のとらえどころのない青。庭には錆色の刈られて放置された枝や草の山もあるけれど、姑息な心理操作でそこは見えなくなっているから、視界はどこも涼やかだ。灌木が密集しているあたりは黒々と、夏の植物の居丈だかで暗い塊もある。風が吹くと、軽やかに茅が揺れる、頭を葉先を垂らして風の形そのままに揺れる、そこにはかそけささえある。


菜園便り275
8月1日 『酔っぱらった馬の時間

 前期最後、7月の「玉乃井映画鑑賞会」での「酔っぱらった馬の時間」(2000年)上映も終わった。バフマン・ゴバディ監督の最初の長編であり、初めてクルド語でつくられた映画だったけれど、最初に監督自身の「これがクルド民族の現在であり、現実です」という悲痛にも聞こえるコメントの後は、差別や抑圧の対象にされてしまう当事者がどうしても陥ってしまう、告発とその立場の絶対化に傾くことなく、みごとに生を、世界をすくい上げていく。受けいれる、というもっとも難しい勁さを持つ人たち、の存在を示していく。理不尽さも不公平も受けいれ、とうてい肯えないような強制にも耐えて、そうして先へと歩を進める勁さを持つあり方がさりげないまでにしぜんに示される。諧謔にならない静かなユーモアさえある、奇跡みたいだ。
 絶望を選ぶにしろ希望を選ぶにしろ、自身で引き受けるという率直な姿勢が、威圧的な形でなく貫かれる。整然とした論理、説得力のある文脈のなかでというのでなく、与えられた条件に身ひとつで向きあいそれらを引き受けることとして。それが今の時代の、その地域の正義であるからということでなく、押しつけられたものであっても、それを受けいれ、今の生に、あり方のなかに取り込んでいくしかないと。正しいとかまちがっているとかいうことではなく、生のあり方の根幹がそうなのだと静かに語るように。こういう人たちの存在が、個の欲望が全開にされた今の世界の唯一の希望かもしれないと思う。
 同じことは、彼の2004年の映画、「亀も空を飛ぶ」にもみることができる。けして皮肉や冷笑に陥らずに、滑稽でさえある世界が、厳しい現実が、描かれる。全てが喪われても誰も大声を上げない、愁嘆に溺れず、すでに次へと体は向いている。現象をしっかりと引き受け、身ひとつで対応していく、そうして結果をあれこれ斟酌しない。こういった勁さをどうやったら人は身につけることができるのだろう。個人や家族が単独でつかむことはできない。なんらかの共同体が時間をかけてつくりあげたもののなかで静かに発酵し成熟するものだろう。かつては宗教的とも呼ばれたものに近いのかもしれない。
 常に世界のあり方を見つめ、隣人の顔とも柔軟に対応し続けながら、一方ではけしてかわらない同じ声をどこまでも低くつなげていく。だからいつの時代でもどこででも、最後の最後の世界の崩壊を食い止め、そういうことばでいうなら小さな希望の種子を産みだしていく、自身の身体や死と引き替えに。もちろんそんなことをことばにすることも声にすることもなく。
 一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんむずかしい、とかなり突き放した場からいう人もいる。そういう呪縛の強さ、こわさをどう抜けていけるのかは、わたくしたちがすぐにでも答えなければならないほどの緊急課題だろうし、それはますます重大になっている。
 誰もが、つまり自分自身もなにかの抑圧の対象でしかないという理を丁寧に見つめる力、知る力を持つこともひとつの答えだろう。そこから人は人と「弱さ」の奥で出あいふれあっていく。自分を「底辺」に置くことは人にとってそんなに難しいことではない。
 受けいれる勁さを生活のなかで持ち抱え続けるのはつらく難しい。「成人」することで、年月のなかで、喪わざるをえないものも少なくはない。だからこの映画や「亀も空を飛ぶ」が子どもや思春期を表現の中心に据えるのもとうぜんなのだろう。
 そこを抜けてどこかへ、輝かしい未来へゆくといった通過儀礼ではない受容の形を、改めて紡ぎだしかつての神話に重ねあわせていく、そういう作業を人は、共同体はどこかで始めているのだろうか、いつも<誰か>が連綿とやり継いできたように。たぶん絶望と希望というのは、全く相容れない正反対のものではないのだろう。雪を被った遠い山稜を仰ぎ見るように、未明のでも懐かしいものへ静かに手を振る。

菜園便り223
2011年1月10日 雪

 諦めていた空豆が、次々と芽をふいて伸び始めた、すでに5株。発芽しそうにないなあ、だめかなあと思って買ってきた2本の苗も順調だから、初夏にはどっさり実ってくれだろう。菜園の端に植えた2株のレタスも酷寒のもとゆっくりと葉を広げている。植物はほんとにすごい。
 先日は台風以上の暴風雨で、「窓も吹き飛ぶほどの大風」に怯えていたら、ほんとに2階のはめ殺し窓が吹き落とされて割れてしまった。ぽっかりと開いた穴はそのままだから、風が吹きこみ時には雨や雪も降りこんでいる。でもなかなかすぐには修復できない。気持ちが萎えてしまって、体も動かない。
 冬の海は荒れていることが多いから、いつも濁って灰色。晴れていても、どんよりと鈍い光を受けてかすかに暗い緑をのぞかせるくらいで、白い波をたて続けている。打ち寄せる音もどろどろと響く。まるで世界の底が揺すられてでもいるようだ。満潮と重なると防波堤に打ちつけて飛沫を高くあげては道路に降りかかる。
 そんな日には砂浜を歩く人影はもちろんない。走り抜ける車と風をきる鴎だけだ。手前の道をフードをしっかり下ろして駆け抜けていくのは勤勉なジョッガーかダイエットを命じられた糖尿患者か。でもこんな日にも走ろうとする過激さは、過激故にすぐに潰えて、明後日にはもう炬燵のなかだろう。
 命よりだいじなものを守るために、が、いつのまにか数値としての健康を取り戻すために人は果敢に命さえも捨てようとする。奇怪な逆説であり転倒だけれど、それが今のわたくしたちを取りまく現実なのだろう。失って久しい穏やかな冷静さ、つまりあたりまえさ、平凡な常識といったものは、ついに再び人を護ることはないのだろうか、身体といった基礎部さえも。
 新年早々なにやら悲観的な話になってしまったけれど、そうやることで人は、世界は生き延びていっているのかもしれない、計り知れない巧妙な智恵の結晶。人口を半分に減らしても生き延びるといった選択は、映画のように殺しあったり籤で決めたりすることなく、まるでそれが摂理であるかのような形をとってスムーズに行われるのだろう。人は生きることそれ自体が目的化されることに倦んで、幸福とか欲望とかいうことばを使い始め、そうしてまた、類としての存在の維持を最優先させる方へと向かうのだろうか。
 外は雪、奇妙に明るい空から絶え間なく落ちてくる。シンとしたなかに静かに降り積もっていく。そうやってゆっくりと世界も終わり始める、か。


菜園便り224
1月16日

 寒さは続いている。12月は例年の倍以上の降雨量だったけれど、1月もそれは続いていて、雨や雪が多い。冷え込みも厳しくて、買い物に行く道にも氷が張っていた。田んぼの水が凍りつき、刈り取られたまま放置されていた稲株が氷にびっしりと覆われて、ひどく荒んでみえる。こんな光景は初めてみる気もする。とびとびのカリフラワーの植えられた田は、くろぐろした厚くて硬い葉をびっしりと広げている。
 北風も強いそんななかをカラスや鵯、ツグミは勢いよく飛びまわっている。人影はなく、遠くで山の端がかすかに色づいている。重い大根や白菜、シメジ、豆腐を抱えて戻りながら、だれがみたって今夜は鍋だと思うだろうなと呟いてみて、でも一昨日、山本さんが来たときにやったばかりだから今晩はちがいますよと、まるでだれかに返事するように思っている。じゃあ、夕飯はなんだろうと、人ごとのように問いかけてみたりもして。
 家に戻ると玄関脇に置いてある雨水をためる瓶にも厚い氷が張っているのに気づかされた。ゆっくりと引きだすと厚い氷の板で、低くなった光線が差し込んできて輝く。ずっと昔の、ベランダに置いた火鉢型の水槽から引きあげた氷を抱えていた写真を思いだす。もう写真もないし、記憶のなかの映像はきっとつごうよく改変されているのだろうけれど、着ていたフードつきのコートのことはよく覚えている。誕生祝いにもらったそれをどこで買ったか、そのときどんなふうに店員と話したか、そんなことも。
 そんなふうに想いでというか過去は奇妙な部分がくっきりと浮かびあがってくるのだけれど、写真やことばに一度定着されたものがより鮮やかに長く残っていくのはちょっとさみしい気もする。そうやって静止し限定的な映像として整理され単純になったもの、つまりいろんなものが、雑多なもの不必要なものとして削りとられた後の人為的に整合されたものが記憶として定着しやすいのだろう。語られ書かれてことばとして描写され説明されたものも、その単純化や虚構化によって対象の輪郭線がくっきりと記憶に残っていくのかもしれない。
 明快で澄んで聴こえるけれど、CDの音が細かな聞きとれない音も含めた雑多なものがつくり広げる世界をそぎ落とすことで成りたっていることに似ている。まったく改変され創りあげられた手前勝手なものだけが記憶として残るとまでは思わないし思いたくないけれど、でもおおかたはそうなのだろう。
 そうして写真の場合、それを撮った人、そこに、すぐそばにいてじっとみつめカメラを抱え、慈しむように対象を、全体をすくい上げた人のことはきれいに消去されている。だれがだれのためにどんな思いで撮ったのかかすんでしまう。
 円形の厚い氷を得意げにかざし、朝の光を受け笑っている遠い遠いかつてのぼくを、レンズの向こうからにこにこしてみていただろう人のことはもう遙かすぎて思いだせない。


菜園便り225
1月31日

 珍しく雪が降りしきった翌日は晴天。庭のそこかしこに残った雪も消えた。それでも底冷えのする冷たい空気のなかを歩いていくと、風景がくっきりと感じられる。とくに遠い山や丘が異様なほどその輪郭を浮きあがらせている。なんだか特別なレンズをとおしたようで、雨上がりのように鮮やかでみずみずしい。春を思わせる空の青さと、そこからの透明でまっすぐな光の力だろうか。円盤形のふわりとした雲が重なって続いている空。
 冬至を過ぎ、立春も近づいた今、光はもう新しい季節のなかにある。かっきりとした陽光が隅々まで届き、道ばたの小さな草の葉すら際だたせている。けれども夕方にはたちまち厚く暗い雲に遮られ、海の色もあっという間に陰りの下、鈍く冷たい色へとかわる。
 古い食べられなくなった米を庭に蒔いていることもあって鳥がにぎやかだ。でも思ったほどたくさんは来ない。隣の猫が時折やってくるから警戒しているのだろうし、鳥なりの縄張りもあるのかもしれない。雀、鵯、キジバト、それにセキレイくらいでごくたまにジョウビタキが一瞬姿を見せ、目白が木の枝に現れたりする。春の鳥はまだということだろうか。
 雀は鳴き声もかわいいし、小さな体を寒風の下で大きく膨らませころころと太ってみえる姿は愛くるしい。ときおりひどく細いやせこけたのが混じっていて、思わず声をかけたくなる。おい、少しは容姿も考えろ、無理してでももうちょっと食べて羽に艶と力をつけて、時には膨らませ広げて愛嬌を振りまくことも大切だぞ、とかなんとか。まるで自分に言っているようだ。でも弱い痩せた雛が餌をもらい損ねてますます痩せてさらに弱って潰えてしまうのも掟のひとつなのだろう。それを憎んで人は<文化>をつくりあげたのだったか。
 隣家の猫はみごとな白黒の毛なみで顔もかわいく、プイと顔を背ける高慢な仕草も猫好きの眼にはたまらないらしいけれど、やっぱり家猫の性か、食べ過ぎで太りかけていて、危うい。それでもその体で地面を音をたてずに這って鳥を狙ったりしている。幸い野生の鳥は敏捷だし警戒も怠らないからそんな手にかかったりはしない。
 一度暴れる鳩を足で押さえつけ、羽に歯をかけているのをみたときは驚かされた。ぐったりしてもうこときれたかと思わせられた直後に必死の抵抗、片方の羽で猫の顔面を撃ち、一瞬の隙をついて飛びたった。跳ねて手を振り上げてももうおそい。かくべつ悔しそうにでもなく去っていく後ろ姿が、生活のためでも生きるぎりぎりでもなく、ただ手慰みにもてあそんだとでも言うふうでそら恐ろしくなる。そういったことは互いの了解のなかの、<自然>の摂理なのだろうけれど、襲うものと奪われるものとのそのあまりの落差は理不尽にみえる。
 食住満たされ愛される容姿も持つものが、まるでジムでの運動のように、必死で生き抜くためにわずかの餌をつつく貧しく痩せたものを気まぐれに襲う。時には命を奪われ、それすら誰かの食や生を満たすわけでもなく散らばった羽の残骸のなかに放置されてしまう。または家人の恐怖や嫌悪の声に怒られてすごすごと手入れの行き届いた庭にぽいと吐き捨てられて、また悲鳴と怒鳴り声をあげさせるだけでしかない骸になりはてる、ああつらい。

菜園便り226
2月2日

 例年より平均気温がずっと低い、つまりとても寒かった1月が終わったとたん、あたたかさが戻ってきた。玄関脇の水瓶の氷が消え、道ばたの草花がいっせいに頭を上げる。くすんだ空の下の縮こまった眼には見えなかっただけかもしれない。おおいぬのふぐりが仏の座がシロツメクサがしっかり開いている、それもそこかしこに。黄色い花も混じる。タンポポでもおかしくないけれど、そうではなくて茎を伸ばし四方に広がっている。かすかにえんじ色が茎の一部に線状にある、なんだろう。
 収穫が終わったのか、くろぐろとしたカリフラワーが取り払われ鋤が入っている。もちろん小型トラクターでの耕作だ。牛馬や人が力を込めて踏ん張っているようなことはない。でも先日見た山間の段々畑なんかは、やっぱり人の力と技でやるのだろう。その時もずいぶんたいへんだなあと、思わず手を握ってしまったりするほど身体的にも感じたけれど。人が後ろから押していく耕耘機(黒沢の「天国と地獄」で三船敏郎が練習していたようなタイプ)も昔はあったから、ああいったのが改良された形であるのだろうか。いずれにしろ田植えも小型の手押し機械でやったとしても、隅々の変形部分は手で植えていかなければならない。なんであれあの高さまで持っていくのが先ず大仕事だ。たいへんだろうなあとまた思って思わず溜息もつきそうになるけれど、でもどこかに自分がやらなくてすむ今に安堵している。そうしてこんなんじゃ自給自足なんて夢のまた夢、ついにしらじらしいことばだけで終わるんだろうとあらためて思い知らされる。
 昨日誕生日がやってきた。こんなふうにほっと感じるのは40歳になったとき以来だ。きてほしくないような、でもなんか安堵するような、妙なそわそわする気分。先日の出版記念の会は誕生日の祝いも重なって、赤い苺の大きなケーキもあった。それはつまり60の還暦の祝いということで、赤いちゃんちゃんこの代わりの、赤いハートの入ったTシャツももらった。その場でセーターの上から着たけれど、Mサイズのそれがそれなりにおさまってしまい、あいかわらずのやせこけた体だと知れ渡ってしまった。「着やせするタイプです」なんてことばがもうねじれた冗談にもならなくなった。
 最近、率直な人たちが言っていることだけれど、老いることは、老成したり衰頽したりして「老人」になるだけのことでなく、幼児期の自分も少年期、青年期の自分も、そうして壮年、老年の今の自分も全部、無意識の部分も含めて全部が混在して現在ここにあるということらしい。身体にしても一律にガタがくるわけでもなく、さらに高まる機能や部位もあるようだ、その扱いに習熟するということも含めて。30代の頃には漠然とだけれど、年をとることは恍惚化し、痴呆化し、身体的にはよぼよぼになることだと、不安や嫌悪と共に思ったりもしていたわけだけれど、そういうことでもないのだとわかる。あれこれ読んだり聴いたりしてきたけれどやっぱりその時になるまで気づけないまま今にいたり、ああそうかと思いいたる。そういう理解を諦念といえばいえるのだろうか。年齢に追いついていかないというか、そのあまりのギャップに唖然と惚けたようになったりもしていたし、それは今最も大きく開いている気もするけれど、それがふつうであたりまえなのだというようなこともやっとわかる。
 社会も人もいろんな要素や部分からなりたっているから、そういうことはとうぜんなんだけれど、それよりもう少し広がりのある深さももった意味あいとして、幼年から老年までの具体性と深い根を持ったリアルな部分から、ぼくという個もそして人もつくられている、そういうことだろう。
 それぞれの生の現場で人はあれこれ悩み、喜び生きていくわけだけれど、そのひとつひとつが、それぞれの瞬間瞬間が、身体に心にきちんと全部残っているのだろう。自身で気づかなくても、すっかり喪われてしまったように思えても、それはちゃんとある。不意に思いもかけないときに遠くから伝令が着く、自分自身からの時を超えた伝言。そうか50年前のあの時のことはそういうことだったのかと、愕然としつつでもうれしくなる。死んでしまう前に全てが消え失せる前にやっとわかった、そのことは大いなる救いでもあり、そうして再びの懊悩でもある。

菜園便り227
2月6日  笠智衆の林檎<再>

 最近の「続・文さんの映画をみた日」(註:行橋のギャラリーYANYAからだしている小誌「YANYA’」に連載中)は映画のことなんかこれっぽっちもでてこないじゃないか、前回の「笠智衆の林檎」なんていったい何のことだ、という糾弾の声も聞こえる。そうだなあと自分でも思う。でも、いいわけではないけれど、あれくらい「笠智衆の林檎」のことをうまく語れたのは初めてだとも思う。
 いつもは、小津のさあ、あの「晩春」でさあ、笠智衆三宅邦子と再婚するとかなんとかいう嘘までついて原節子を嫁にやろうとして、結局そうなって、そうして結婚式から帰ってきて、もちろん原節子がいないからガランとした暗くさみしい家で、古い日本家屋だから真っ暗な隅々があって、誰もいなくて声もしなくて、だからどうしていいかわからずに笠智衆は礼服の上着を脱いだだけで着がえもしないまま、着がえさせてくれて後かたづけしてくれる人もいないこともあるんだろうけれど、どうしても落ち着かなくてわけもなく林檎を持ってきて、椅子に座って剥こうとするんだけれど、とうぜんにもそんなものはほしくもないことに気づいて、自分が何やってるかもわからなくなって、愕然として、いっそうさみしさはつのってついにがっくりと肩を落としてさめざめと泣き始める、あれだよ、あれ、と言ったりするのだけれど、でもそういう映画内のできごとの説明をしてみても、笠智衆の悲しみや孤絶感は、了解済みのことばでしか語れないし、それは了解済みのある概念を再度ことばにして単純化し納得する、させるだけのものでしかない。
 笠智衆はなにかのインタビューで、「ある映画評で「最後にがくっと眠りこける主人公」と書かれて、激怒しました」と言っていたけれど、そうだろうなあ、そういうふうにとってしまう鈍感な人もきっといると思う、ひどい奴だ、小津に失礼だ、とも思うし、あの映画の文脈ではありえないことだろう。でもそれはそんなに的はずれでひどい侮辱ではなく、原節子との長かった心理戦争の疲れやその日の式そのものの疲れから、また現実を見たくないという逃避から、眠りへと逃げ込んだという解釈もありうるだろうし、それがひどく下世話で滑稽だということはないはずだ。きっとその評自体に悪意があってひどい揚げ足取りだったから、彼は怒ったのだろう。
 つまり、ぼくが言いたいのは、見終わってすぐに誰かと、電話ででもいいから話したくなるような、それはその映画のことでなくてもいいんだけれど、そういう高揚感が生まれ、机に向かってなにか書き始めたくなるような映画を最近みてなかったし、古い映画をしみじみとみる気力はなく、でも生活や何やらはそこそここなして、あれこれ動き回っていても、やっぱり今のこのがらんどうでメランコリックな憂愁は隠しようもなく、だからそういう気持ちが笠智衆の林檎を呼び寄せるのだろうし、それを解説でなく、そこで描かれようとしただろうものこそを語ってみようと試みていたのです。
 と、書いてきて、そうだろうかとまた問い返すのは、「感傷だ、自己憐憫だ」といった外からの悪罵すら省みずに、ぼくはつらいんだ、涙がでるんだと叫んでいることのリアルが、説得力を持って語れていたのか、そもそもそのリアルがほんとうなのかというやっかいな心理の袋小路に、弱った心が半分迷い込んでいるからでもある。ああまた泣きたくなる。


続・文さんの映画をみた日⑧
ハーブ&ドロシー

 ニューヨークで美術作品を収集している夫婦を撮ったドキュメンタリー。とにかくこのふたりが独特で魅力的で好きにならずにはいられない。特別変わっているとか極端な生活をしているとかいうことでないから、つまりふつうの生活人だから、というのがいちばん大きい理由かもしれない。夫、ハーバートは20年以上前にリタイアしたこの映画の時点で86才のもと郵便局員、学校が大嫌いだったようで、自分で決めたことだけやっていくといった頑固さの片鱗を今も残している。彼をハービーと呼ぶ妻ドロシーは彼より一回りほど若くブルックリン図書館の司書を定年退職している。彼女は1950年代にすでに大学院まで行ってきちんと勉強した人で、そんな雰囲気を今も残している。そういうふつうの人が、とっつきにくそうなミニマルアートとかコンセプチュアルアートとかいった当時バリバリの現代美術を積極的に集めてきたことにも驚かされる。時代のなかの自分たちの世代的な感覚に忠実に、そのもっとも鋭い部分に関わり続け収集し続けてきたのだろう。それは自分自身を、世代を、時代を見続けることでもあったはずだ。米国民やニューヨーク市民にとって、そういった抽象的でアバンギャルドな表現が、生活や感受性とどこかで地続きになっていて素直に受け止められ、快感をもたらすものとして身体的にも受け止められるものでもあったからだろう。
 収集した作家としてソル・ルイット、ドナルド・ジャッド、チャック・クロース、クリスト、リチャード・タトルといった名前が次々に出てくる。彼らへのインタビューも挿まれている。まだ彼らが若く無名である頃に、ハーバートとドロシーは関心を持ちアトリエに行き作品を見て(ふたりはいつも全部見せてもらいたがったようで、それくらい興味があって、そういうことにはどう猛なほど積極的だ)、お金のことも細かに直接交渉する。次々にほしくなり買うから、分割や後払いになり、その額も貯まっていく。美術作家たちが次第に有名になると、スポンサーとしてつく画廊が全部をとり仕切ろうとするからとうぜんもめはじめる。それでも特別な関係を築いてつきあい続け、買い続ける。どこかに世間の常識を無視する楽天的な鈍感さも備えてもいるんだろう。一部の米国人特有のアグレッシブネスだけではない、と思う。でもどうしてこうも登場してくる人々がいわゆる「白人」ばかりなのだろう。ファインアートのなかのさらに「ハイエンド」ということだろうか。
 奥さんの給料で暮らし、旦那の金は全部収集にまわす。彼ら自身もかつては描いていたから、見ることにも真剣で、大小にかかわらずいい作品や意味のある作品を集めていく。つまりその作品自体の完成度もあるけれど、その作家の流れのなかで重要なもの、ノートやプロトタイプ、例えばチャック・クロースの、グリッドの描きこまれているマスキングテープが貼られたままの下書写真なども集めている。それは当時制作中の彼のアトリエの床に落ちていたものにサインしてもらって買ったらしい。そうやって手に入れたものをマンハッタンの一間のアパートメントに飾り、しまい込む。信じられない数の、量の作品が壁を覆い、箱詰めにされて積み重ねられ、ベッドの下に、あらゆる隙間に押し込まれている。
 集め、積み重なった4千点を超す厖大な作品をナショナルギャラリーに寄贈してほっとしつつ、寄贈者として自分たちの名前が彫られた美術館の壁を誇らしく眺めながら寄り添うふたりの後ろ姿、クリストの作品を並んで見る姿で映画は終わる。監督はニューヨーク在住の日本人女性。監督が女性だとか日本人だとかほとんど感じなかったのは、撮影が別人で「プロ」だったからだろうか。テレビ的に整理して説明し、対象との距離をとり整然としているから、はみ出したり接近しすぎたりの映像も、切迫感や激しさもない。どこかしら彼らが収集したミニマルアートのようにクールでもあり、安心してみられるような、もの足りないような。でもとにかくあたたかさはしっかり伝わってくる。ふたりがそういう人だからだろう。高齢で、まだまだ好奇心に溢れ情熱的だけれど、対象に対しての冷静さや穏やかさも生まれている。脂ぎった荒々しさみたいなものが小さくなるのだろう。彼らの、作品や作家への愛より、飼っている猫や亀や熱帯魚、それに人やできごとへの尽きない興味がより大きいのが見えてくる。ハーバートの老いて子供じみてみえる体型や言動もそれを倍加する。
 ぼくがみたのは平日の午後だったけれど30人を超す人がみに来ていて驚かされた。ふだんはドキュメンタリーなんかだと、水曜日(レディースデイ)でもないとぱらぱらとさみしいほどしか人影はないのに。美術や収集という内容としてでなく、優しい人たちの物語、夫婦の愛情の映画として見られているようだ。
 映画のなかの美術家や評論家のなかには彼らを美術界の「マスコット」とよぶ人もいて、たしかにそういう面もあるのだろう(そうやって、彼らを美術家、評論家、画廊主、ジャーナリストとはちがう範疇に押し込めて、自分たちをより価値あるもの、高みに置くための底上げの意図もあるかもしれない、無意識にであれ)。一方には、ことばを使わないつまり論理化したり解説したりしないふたりのアートへの無償の愛を、とても大切に思い感嘆する作家もいる。ハーバートたちの美術作品や作家への愛、美術家たちのふたりへの関心の両方が、ペットへの愛(どちらか一方が全面的に心配りしてあげないといけない関係とでもいうか)といったものに似ているのにも気づかされる。たしかに両者とも、とくに美術家たちは独善も無垢も含めてどこか子供じみてもいる。 
 米国では高齢者つまり老人は、シニアシチズンなどとたいそうな呼び方をされつつも実際はみごとなほど排斥され関心の対象から外されるけれど(だからいっそう高齢の政治家や力を持ったものの意固地さがはびこるのだろうけれど)、おそらく他の文化圏ではハーバートとドロシーを尊敬もし、「かわいい」とも感じ、そのあり方や表情やさらにはしぐさをも愛でるのだろう。


菜園便り229
2月16日 晴天

 時には雪も降ったりする日々だけれど、気温が零下になることもほとんどなく、野には春の花がじわじわと広がっていく。いちばんめだつのはやっぱりオオイヌノフグリ。名前からしてずいぶん特異だけれど、こんなふうに大がつくのは、大がつかないのもあるのだろうか。オオムラサキツツジというのがあって、あれにはたしかコムラサキもあったはずだ、どういう関係だったのかは知らないけれど。
 オオイヌノフグリがめだつのは緑や花の少ない季節だからだけど、鮮やかな色とくっきりとした形、なによりあの小さくて群れて咲く姿の愛らしさに誰もがつい目をやってしまう。青い花、といえるけれど、カップ状に開いた花の濃い空色が中心へとグラデーションで薄まっていく、細く濃い筋が先端から内へとすっと伸びている。どことなく頭が大きすぎる幼児の体型を思わせる形だからいっそうかわいいと、好かれるのだろうか。
 春の野の花、といったような本を開いてみると、タチイヌノフグリというのもでてくる。どちらも明治期の外来種で、在来種のイヌノフグリを追いやっていったようだ。ふーーん、そうかと、いろいろのことを思わされる。そうしてその在来種にしても、もっとずっと前にどこかからやってきて、その当時の在来のなにかを駆逐して広がったのだろう。
 鳥たちの移動の季節も始まったようで、あちこちで群れをなしてバタバタしている。鵯も群れて鳴きたてている。彼らも、もともとは山と里の間を渡る漂鳥だ。今では都市部では年中いるようになったけれど、律儀に移動をくり返す群れもある。生き延びていくために、だろうか。津軽海峡の荒波悪天候のなかを本州へと渡っていく鵯はテレビの番組でみたこともある。北海道から長野まで、ずいぶんな距離だ。もしかしたらこのあたりの鵯も、その辺の山でなく一気に関門海峡を越えて、または、もしかしたら、玄界灘を超えて彼の地まで飛ぶのかもしれない。そんなことを思うとぼくもなんだかパセティクな気持ちになって手を握りしめ、立ちあがったりする(まるで唐十郎の紅テント芝居のエンディングだ)。
 途中、鷹に襲われたり、カラスとの群闘があったりもするだろう。おおかたは弱いものから順に死んでいくのだろうけれど、こればかりは運も大きいだろう、きっと。群れをなす意味のひとつもそこにあるのだろうし、いくつかの個体の「犠牲」の上に群れの、種の保存と永続が約束される。誰もが本能として冷静に闘って必死に逃げて、ヒロイックな犠牲なんてことでなく、ただ死んで、生きて、そうしてまた半年後には同じ危険を顧みずに営巣のために出発する(帰っていく、というのがいいのだろうか)。
 子供の頃見た動物映画を思いだしたりもする。鳥だけでなく鯨もカリブーも、信じられない距離をほとんど飲まず食わずで文字どおりボロボロになって移動していく、つまり渡っていく。毎年毎年くり返しくり返し。「何故」「なんてつらいことを」「わざわざ」と率直に感じたことを覚えている。「愚かだ」とか「かわいそう」と思ったことも。レミングなんて、死ぬために集団移動するように描かれていて、ことばさえ失ってただ呆然とするしかなかった。
 蝶も渡っていく。恐竜も渡る、「ジュラシック・パーク」では。あれはなんだか心うたれる挿話だった。もしかしたら作者はあれを書きたいから、あんなに長い小説をせっせと書いたのかもしれない、そんなことも思ったりする。「人は?」と誰もが思う問いへの返答が最後に置かれていた。ことばはもう忘れたけれど、せつない、というか辛辣な答だったことと、それが生んだ情感が小さくはなかったことははっきりと覚えている。


菜園便り230
2月20日 

 昨日は庭に隣の猫が居坐っていて鳥が来なかった。やっぱりちょっとさみしい。
 「60才になってはじめてみた映画は「ハーブ&ドロシー」だった。満願のKBCシネマのカードをよりちゃんにもらっていたから無料だった。だから「シニア」と言って千円しか払わない快感はまだ味わってはいない。」と書いたけれど、それからあまり日をおかずにまた映画に行ってついに「シニア」といったら、「身分証明書を」なんて無粋なことも言われずに千円ですんで、なんだかあっけなかった。それは同じくKBCシネマでの「ようこそアムステルダム美術館へ」というドキュメンタリーで、いろいろ評判になっていたし、予告編もみて楽しみにしていたのだけれど、出てくるほとんどの人間が嫌な奴ばかりでうんざりしてしまった。つくりも羅列的説明的で、もしかしたらそういう嫌な面を見せつけるための巧妙なレトリックを駆使しているのかと思ったりする。政治家、行政人、企業人、学芸員、建築家、活動家・・・、20世紀美術が1点しかないなんて言われるからさすがに「芸術家」は出てこないけれど。
 ちょっと憂鬱になって夜に「たま」という、1日に1回だけやっていたドキュメンタリーをみにいったら、なんと最終日はゲストが来るから特別興行でシニア料金はない、席も全部売り切れているから補助椅子しかないということだった。シニア料金で映画をみるのも前途多難である。
 「たま」というのは覚えている人もいるだろうけれど、90年代初めに活動したバンドで「さよなら人類」という曲はヒットチャートのトップになるくらい流行った。今思うと不思議だけれど、そういう時代だったのだろうか。「イカ天」ででてきたバンドというと思いだす人もいるかもしれない。そう、あの奇妙な「たま」。「らんちゅう」とか「まちあわせ」とか「学校にまにあわない」とか今でもそこそこ歌えたりする。
 映画は現在の「たま」を描くということで、2003年に解散してからでも7年たっているメンバーを追ったものだけれど、最初にぬけた柳原くんはでてこない。ランニングの石川くん、おかっぱの知久くん、低音楽器の滝本くん。この滝本晃司がこの日監督といっしょに舞台挨拶に来て、2曲歌って、それが特別興行だった。映画のなかでもさんざん聴かされていたから違和感はないし、ライブを続けている人のどこでもさっとやれる器用さでまとめられていた。映画のなかの石川浩司は「ホルモン鉄道」というパフォーマンスというかショーというか、身体を駆使したすごい演奏活動をやっていてあっけにとられたし、感動させられもした。でもライブとして目の前で展開されたら、最前列で見るのはこわい、ひとりおいてその後ろから見るだろう。映画のなかでも、ああいうのはやだ、とはっきり言う人もいる。でもすごい迫力だ。ふたりでやっていて、その相方の大谷シロヒトリという演奏家のことも気になる。
 知久寿焼は悠々自適というか独特の勁さでやりたいことだけをやり抜こうとする。音楽も演奏も日常の延長で歌って踊るというようにやりたいと、お酒を飲みつつやっている。それを「プロじゃない」と批判されて、ああ、そうですか、じゃあ素人ですと、さして気負うこともなく応えている。声も曲も昔のまんまに響く。柳原くんが抜けてあの声とのハーモニーができなくなったのはつらかったし、今も残念だと語る。「さよなら人類」にもあった、あの「さるーーー」といった高音のコーラスのことでもあるのだろう。賢しらに、これはビートルズだね、なんて言ったことが思いだされて赤面する。石川、知久は「パスカルズ」という小規模オーケストラのメンバーでもあって、そのライブ演奏もでてくる。
 つい最近、ある映画のパンフで「侯孝賢は懐古でなく回顧だ」というようなことを読んだばかりだけれど(もちろんそうだ)、ぼく自身はおおむね懐古、ということになる、淫するほどではないにしろ。想いでの甘さ深さは今の時代尋常ではないし、それを個人の感傷だ自己憐微だと騒ぎ立ててもしょうがない。そうなのだから、そこから冷静にはじめてみるしかない、そういう自分や時代として。
 今日は庭にツグミも来ていた。


菜園便り231
3月13日

 庭には光が溢れている。雀やジョウビタキが芝生の上でなにか啄んでいる。
 今も向かっている机にクマガイモリカズ(熊谷守一)の絵はがきが貼りつけてある。ずいぶん前の森さんからのはがき。黒いお盆に4個の真っ白な玉子が載っている。これは鶏の玉子。写実として描いてあるのではないのに、というか、だから、古びたあまり上等でないお盆のリアルな質感が複製になってもしっかり伝わってくる。
 そういえばこういうお盆を見たなあ。丁寧に扱ってないから隅にはほこりやらなにやらがもう特別な道具でも使わないととれないようにこびりつき、小さな染みもある。ちょっとにおいさえするように見える。でも汚いとかいうことではなく、古びるということは、日常に使うということはこういうことだと教えてくれるような古び方だ。とにかく長い長い時間使われて初めて生まれるもの、見えてくるもの。
 我が家にはなかったなあとつらつら考えていて思いあたった。父の実家、大きな古い家だ。そうかな。もしかしたら同じようなどこかの農家の畳の上か、黒光りする台所の床の上だったんじゃないか、そうかもしれない。
 ちょっと縁が欠けていたり小さいわりには持ち重りがするのは、上等の木でないし、丁寧に薄く削ったりもしてないからだろうか。ふだん使いだから特に大切には扱かわれない、どこか少し欠けてもそのことが意識されないくらい、そこらへんにいつもあるのがあたりまえになるまでの長い時間。だからなくなる時もいつのまにか使われなくなり、どこかに紛れ込んで他のものに挿まれたまま処分されてしまう、または倉の隅や納戸の上の棚の奥に押し込まれたまま永劫というくらい置き去りにされる。
 もういらないから新聞紙にくるんでしまっておきましょうとか、さあ捨てましょうとかいったことすらない。使うとか使わないとかいるとかいらないとかいう意識すら生まないままいつのまにか消えていく。だからやっぱり大家族の大きな家でのできごとだろう。富裕でもなくかといってお盆もないほどの貧しさでもなく、おおぜいの人が暮らし出入りしいつも動きがある家、空間。
 この熊谷のお盆ももうお客にお茶をだしたりする時に使われることはなかったのだろう。最初の頃だけはそういうこともあったかもしれない。それから気安い近所のおばさんが縁側にけてとか、奥に続く三和土の土間に農作業の姿のままちょっと腰掛けて喋っていく時とかに、お茶請けの漬け物や小さな花林糖を載せてでてたのかもしれない。漆塗りでないから艶はなく、顔料を下地と上塗りだけ一回ずつざっとやって終わり、そんなふうだ。
 その艶のないくすんだ黒い表面はきっと細かな傷で覆われ、形も少し歪んでいて、ここではみえないけれどどこかがわずかに欠けてそうだ。黒というより、とにかく濃い灰色といった炭色、そのお盆に目の覚めるような白い玉子が4個、片方に寄り添うように載っている。小ぶりでほっそりとしているけれど命の塊として、内側からの光でかがやいているかのようにして。


菜園便り232
3月14日

 熊谷守一のはがきのことをあれこれ語ったけれど、この机には他にもずいぶんいろいろあるのに気がついた。でも気がついた、という言い方はへんだろう、だってずっとそこにあって毎日毎日見ていたのだから。だからまああらためて気がついたというべきか。
 ロシアのニキフォルという人の水彩画のはがき(もちろん印刷物)。これは板橋さんがくれたもの。郵便としてきたのでないから何も書いてなくて少し残念だ。その左横にはベトナムのお土産の、なんというのだろう、マグネットがついていて冷蔵庫なんかのドアにつけるやつ。一昨年カンボジアに行った時、トランジットで寄ったハノイ空港で買ったものだ。自分への土産とえも言えばいいのだろうか。格安のパッケージ・ツアーだったからか、ずいぶんと長い乗り換えの待ち時間だった。かつての宗主国ということでか、フランス人が多くて旅行中の婦人と少し話をしたりした。お互いに英語だし、シャイな人だったからフランス人とは思えなかった。つまり傲岸なパリの人でないということだ、きっと。それは最初で最後になってしまった中村さんの唯一の海外旅行でもあって、だから思いだすことは少なくない。
 ジャ・ジャンクー監督の映画「長江哀歌」のはがきもある。これはもちろん大好きですばらしい映画だから飾っているのだけれど、どうやって手に入れたか忘れてしまった。「すごいすごい」と大騒ぎしていたから、誰かがくれたのかもしれない。もしかしたら前売り券を買ったらついていたとかいうことだろうか。奥には蔡明亮の「黒い眼のオペラ」のB5判チラシも下がっている。今のところ最後に見た彼の映画ということになる。冒頭にモーツァルトのオペラがラジオから流れているので、日本ではこういうタイトルにしたのだろうか。原題(「黒眼圏」)とはずいぶんちがう気がするし、国際版のタイトルもまたまるでちがうし、くらくらと眩暈さえする。でもすばらしい映画で、特に最後の、眠りの舟といったシーンは恍惚としてしまうくらい美しかった。
 小津安二郎のお墓のはがきもある、「無」とだけ書いてある。1993年の写真を元にしたはがきで、墓前に日本酒がいくつも並べてある。ビールもある。花もたっぷり供えてある。参拝者が絶えないのだろうか、それもうれしいような不思議なような。ファンとしては墓前で何を言えばいいかとまどってしまう。「麦秋」がいちばん好きですと告白されても、小津も困るだけだろうなあと思ったりする。
 森さんが我が家にあった古い写真を取りこんでつくってくれたクリスマスカードもある。2階の広間に資料として箱にまとめて放り込んでいたもののなかから見つけてくれたもので祖父と子どもたち(つまり母や叔父叔母)が写っている。写真館で撮られたもので、だから描き割りの背景の前に立ったり座ったりしている。この写真にはまったく覚えがなかったからうれしくて、複写して兄姉や従兄弟なんかにもあげて喜ばれた。
 ポール・マッカーシから送ってきたシャガールの絵はがきもある。「現代」とつく美術も音楽も好きでないといっている彼のぎりぎりの現代なのだろう。裏に走り書きで仕事のことが書いてある。その難しかった「現代詩」の仕事もどうにか終わった。
 DVDが手作りのケースに入っているのは、これも森さんがつくってくれた「小原庄助さん」。清水宏監督のモノクロの映画で大河内伝次郎が主演している。清水の映画のなかでも、大河内の映画のなかでもいちばん好きなもので、数年前に「文さんの映画をみた日」に、シネラでの特集上映にかこつけて書くことができてうしかった。同じ監督の映画「ありがとうさん」にもちょっとふれることができた。もちろんこのDVDはちゃんとみれるし、なかの2シーンがカバーに取りこまれた丁寧なつくりでうれしいし、ちょっとせつなくもなる。清水も大河内もとうに亡くなった。
 いちばん後ろには大きめのアクリル板に挿んだ佐藤文玄さんのがある。はがき大に切られた自身の作品で裏に便りがしたためてある。年に何度かそうやって作品を、便りをパリから寄せてくれる。その時々の季節と心象が綴ってある。
 古い日光土産の「煙草挿み」もある。ほんとはなんと呼ぶのだろう、華厳の滝と神橋の写真を焼き付けた金属の薄い板が煙草の箱の形に折り曲げてある。マッチのサイズのとでセットになっている。たぶん客間のテーブルの上に煙草屋マッチをこうやって立てたのか、それとも携帯する時につぶれないためのカバーなのか。頻繁に見た記憶はあるけれど、使われているのは見た覚えがない。お土産とはえてしてそういうものだろうけれど。高野山福智院というところのお札が隠れるように置いてある。ぼくの名が手書きでいれてあって驚かされた。父と母がお参りしてからずっと志を送っていたのを引き継いだかたち。お札類はいつも神棚においているのに、これは自分の名前があったからだろうか、それともほんとに護ってほしいからだろうか。
 アフリカの小鳥の木彫や相島で拾った陶器の網の重りがあり、物入れに使っている古い金杯には山本さんが彫ってくれた印鑑なんかがいれてある。他にもぼくの交友関係全てが入っている住所録や名刺ファイル、辞書や筆立てやなにやかやごたごたとしたなかに、昔勤めていた事務所からもらってきたペーパーウェイトを兼ねた拡大鏡なんかもあったりする。
 様々な時と場所から、大げさに言えば遙かな旅をしてこの小さな岸辺に打ち寄せられたたものや思い。気がつけば全てのものがそういうものなのだともわかる。

菜園便り233
4月19日

 見渡す限りに水が広がっているようで一瞬茫としてしまう。洪水で水が溢れたのかという馬鹿な思いもよぎったけれど、もちろんそんなわけはなく、知らない間に山つきのため池の堤が決壊してなんてことが仮にあったとしても、そばを流れているのは小さな水路のような川だから溢れても田んぼ1枚も覆えないだろう。もう4月も下旬、早稲の田植えの時期でどの田にも水が張られ黒い土を覆っているだけのことだ。でもいつもより水量が多く鋤起こした土が完全に水の下にあって、だからシンとした平らな水の広がりが空を映して続いているのだろう。広がりを矩形に区切っていく細い畦も農道もあるのに、なんだかどこまでも続く、遙かな、といったかんじがしてしまう。
 玉乃井での美術展などでバタバタしていて、裏作の野菜を取り払ったり、放置されていた稲刈り後の田を鋤込んだりする準備に気づかなかったから、いつのまにと驚かされてしまう。少し離れた麦畑はまだまだ柔らかい緑をのばしつつ、結実し始めた穂を揺らしている。だんだんあたたかさと共に濃く色づき硬くなり、でも黒々と猛々しくなる直前に金色にかわっていかにも軽そうでとがった穂や葉を揺らしてかすかな音をたてるのだろうか。そうしてまたいつものように小津安二郎の「麦秋」の麦の穂の手紙を思いだして、そうして「エリカ」の珈琲とテーブルを思いだして、ついでに侯孝賢の映画「珈琲時候」も思いだすのだろうか。
 「麦秋」ではエリカに似た喫茶店原節子(紀子)と彼女の兄の親友だった二本柳寛(謙吉)が送別会の待ちあわせで会って、その時、戦地からの兄の手紙に麦の穂が入っていたという話を謙吉がして、紀子がそのお手紙いただけないかしらと言って、あげようと思ってたんだということになって、それはおそらく戦死したのだろう、帰還しない兄へのせつない思いに対する妹自身のひとつの決着でもあるのであり、母はまだ長兄に非難されつつも「尋ね人の時間」をラジオで聞き続けて息子を待っているのであり、それは戦病死して帰還できなかった山中貞雄が戦地から小津にあてた手紙に麦の穂が入っていたということからきていて、だから誰もが、ぼくもあれこれ感じ考えてしまい、遠くを見やるふうをして溢れてくる涙を隠さなくてはならなくなる。もうひとりの待ちあわせ人の、今や家長たる長兄が遅れてやってくるのはそんな話が全部終わった後であり、それは新しい時代に彼が引き受けなくてはならない役割でもある。
 ほんとに多くの人が喪われたし、これからもそうだろう。理不尽な、耐え難い死、さみしくつらい死に囲まれ、でもわたくしたちは生きている。それが本能や掟であるからではなく、とうに生きる意味なんてないことは自明になっていても、生きている意味は溢れるほどに輝いてあると思うからだろうし、渡された約束として喪われた人を記憶し続けるためでもあるだろう。でも記憶するというのは個々の人や具体的なことがらをということでなく、生そのものの豊かさ不思議さつながりをということであって、だから執着することも縛られることもなく、そうして不断の義務ということでもないのだということだろう。 


菜園便り234
4月27日

 「日が沈み、夕焼けの残照も群青色の空の下に消えた。庭の隅に縮こまっていた暗がりがじわじわとその触手をのばし、黄色く枯れた芝生も闇のなかにとりこまれていく。宵の明星がくっきりと姿を現し、波が思いもかけない場所で白くくだけて光る。
 今日は誰からも便りはなかった。ぼくも誰にも便りを送らなかった。」

 パソコンのなかにそんな書きかけの「菜園便り」が残っていた。やっと寒さに震えることもなくなり、海にも空にもどこかしら穏やかさが感じられ、静かに見つめたりできるようになった時期だろう。まるでなにかを初めてみるような、好奇に満ちた視線があちこちにふり向けられる頃だったろうか。
 今では芝も半分緑が戻った。今年どこでも異常繁茂したカラスノエンドウが我が家にもいつの間にか広がって、可愛くきれいな花だとたかをくくっていたのが、慌てて刈り始めた時にはもう庭の半分をびっしりと覆っていて、1日仕事ではすまなかった。
 せっせと鎌をふるったその勢いで、茅に覆われた去年は手つかずだった海側の菜園の草取りもやる。茅だから根っこからとらないと意味がないのでスコップで起こしては手で抜いていく。一坪にも満たない場所なのに息がきれて足もがくがくになる。それでやっと半分だけ。翌日残りをやって、さらに深く掘りおこし、もらったままだった馬糞をいれていく。動物系の肥料をこういった形でもらったのも、使うのも初めてだけれど、なんとなく効果がありそうに思える。
 たいへんな、もちろんぼくにとってということだけれど、おたおたするほどの仕事の後はなんだか全てがうまくいくようで、夏にはすばらしい収穫があるとつい思いこみそうになる。実際は胡瓜もゴーヤも最近はうまくいかないからせいぜい2本くらいにしようとか、茄子はきっぱりと諦め、ズッキーニも最後の挑戦にして、今年だめならもう止めようとか、でもトマトはいつもより多く、ミニトマトと、ゴルフボール大のとで4種くらい植えよう10本くらいは、とあれこれ思ったりしてはいるのだけれど。
 すっかり気力をなくした去年でも、10月の末にこれだけはといった大決意でのぞんで植えた空豆は途中の追肥も足りず、周りの木の枝を払わなくて陽が当たらなかったせいか、愛の不足を形に示すようにしょんぼりしている。えんじ色の花はそこそこに咲いているけれど、早い時は5月にはいったらふくらみ始める莢のかすかな気配さえみえない。どんな時もそれだけは勢いのあった豆類、キヌザヤや空豆がこんなふうでは今が菜園の最悪の時期と思うしかない。後にはもう、なにもやらない放棄だけしか残っていないのだろうから。こういうのを背水の陣というのだろうか、たしかにすぐ裏には海が迫っている。でも「菜園」と「まなじり決して」なんてのはつながらない、あたりまえだけれど。
 花冷えの後、「若葉冷え」などと呼ばれているらしい肌寒さが続き、やっとツツジにあわせるように例年並みのあたたかさが戻ってきた。八重桜も藤も終わり、庭にはジャーマンアイリスがふくらみ始めた。小さなオレンジ色のポピーもちらほら見える。すみには鈴蘭形の小さな水仙の一群が最後の花をつけている。道路に面したネズミモチや樫の木が盛んに病葉を散らし、毎日掃かないと近所の視線が痛くなる。昨年の不順な気候で彼らも弱っているのだろうか、こんなにも、秋の落ち葉より多く散らすのは初めてだ。病んだ心にもそろそろ落とし前をつけて新たな成長というか新しい葉を広げて日常のなかに入っていこうとしている。光が惜しみなく注がれ、鳥が枝をつたって跳ぶ。なにかが静かに満たされていく。


菜園便り235
4月30日

 強い風が続いている。海はしけ続きで漁は休み。テレビ局から依頼のあった玉乃井での<復活タコ料理>の取材も、港の船が蛸漁に出れず撮影ができなくて中止になった。先日のその会食は2階の広間で23人を一度に、だったので、器や配膳もたいへんだったけれど、料理そのものは兄ひとりしかできないのでもうしわけないほどてんてこ舞いしていた。だから取材でひとり分とはいえほぼ同じことをやらなくてはならないから、中止になってちょっとほっとしてもいる。
 そんな風が吹きつのる日々で、夏野菜の植えつけも伸ばし伸ばしにしていたけれど、そろそろ5月、今夜あたり雨になるということで、例年どおり花田種物店であれこれ見繕ってきた。肝心の中玉のトマトが見あたらないのできいてみると、とっくに売り切れているとのこと、「みなさん早いんですよ、ほんとは今ぐらいの方がいいんですけどね」ということだった。もう入荷はないし、ミニトマトを2種、4本だけにする。止めようと思っていたゴーヤと胡瓜も1本だけ買ってくる。他にはズッキーニ、パセリ、青じそ、レタス、バジルをそれぞれ1本ずつ。
 少ないから、肥料を入れたり水をやったりしても植えつけはすぐに終わるし、風よけの低い覆いをかけるのもバタバタとすんでしまう。なんだかあっけない。茅の除去と整地がたいへんだったから、よけいにそう思うのだろうか。どこかでゴルフボール大の中玉のトマトの苗を探してくるにしても、すでにほぼ全部が終わったことになる。この2、3年の菜園の状況を思うと、収穫に大きすぎる期待をせず、分に応じてひっそりとトマトを摘むことくらいを理想としよう。と殊勝な顔で言ってみたりする。
 そうやってトマトを探しに行った店には植木もずらっと揃えてあって、つい果樹のあたりをのぞきこんでいると隅に小さな桜の苗がまとまって置いてあった。いつかは庭に2本の桜、と思いこんでからでもずいぶんたつ。今が植えるのにいい時期かとか、しっかりしたいい苗かとか丁寧に考える前に、どこから見るのがいちばんかとか、お花見はどこでするか、そんなことばかりが頭のなかを渦巻いて、気がつけばもう勘定も済ませ、荷台に縛りつけている。
 これまでの柿やザボン、柚子や金柑や無花果の悲惨にめげず(少なくとも枯れてはいない)、ひ弱でもとにかく生き延びさせて花1輪でも咲かせよう。とまた殊勝な思いを巡らせたりする。庭を南北に吹き抜ける風の道を避けて、でも将来にできるだろう(と思いたい)ベランダのそばで、仕事机からも見渡せて、大きな木の陰にならないようにでも強風の盾にはなってもらって、とあれこれない知恵を絞って決める。大きめの穴を深く掘り、どっさりの肥料を入れ、水を満たしてしばし。そのくらいの穴でももうさらさらの砂地になる。砂浜だったところだからとうぜんといえばとうぜんで、そんな厳しい条件をおしつけられる植物もかわいそうだ、しかも過剰な成果を期待されて。でも、まあ、こういうあれこれすったもんだが楽しいのだろうし、なんだかんだ彼らと気持ちを交し、宥めたりすかしたり懇願したり、安請けあいされたり突き放されたりでもまあやってみようと慰めあったり、そんなふうな。でも正直なところ、樹齢数十年というような立派な咲き誇ったみごとな桜、というようなことは思わないし、たぶん桜はだめだろうなあ、梅くらいかなあ、という気弱な、というか冷静な気持ちもある。
 ついでに庭のあちこちに勝手に生えてくる常緑樹の若木を道路側の垣根にと移植する。ここも数年前に何本か植えたけれど、枯れはしないが・・・といったようす。そこにまた2本、まさに枯れ木も垣根のにぎわいと新たな2本が心細そうに突っ立つことになった。善き未来を誰かに言祝いでもらいたい。


菜園便り236  あるいは  続・文さんの映画をみた日⑨
6月1日
ブンミおじさんの森を抜けて

 久しぶりの映画、そんなふうに思える映画、「ブンミおじさんの森」。監督はタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン。耳慣れないし長い名前だから2度も綴り間違えた。でも実は昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭特集で、彼の「真昼の不思議な物体」(2000年)をみていた。不思議な作品で、奇妙でやさしく、でもどこかザラッとした不穏な感触を残すモノクロの映画だった。今回のはふつうに追っていける物語があり、会話があり、カラーで、人物も同一性を持たせてある、つまりブンミさんは最後までブンミさんだ、たぶん。
 でも、とあらためて思うけれど、やっぱり奇妙で不思議な、怖いものも残る映画だ。そうしてやっぱり全編に流れるやさしさ、おだやかさ。そういうのを「アジアの」と修飾するのはあまりにも常套的で、正確でないけれど、でも原初的で、奥深い生の根源のような、どろりとした、どこかにいつも湿度と熱がこもった、つまりアジアの森のような、といってしまいたくなる。
 ドキュメンタリーではないけれど、登場する人たちもおおかたはふつうの人だったり、地味な映画の人だったりするから、身体的にも、特に表情なんかに拒否反応がおきたりしない。穏やかな日常的な身振りと途方もない飛躍がある、そういった、ふつうの生活にありふれているものがある。
 神話的、といってしまうとまたアジア的と同じでなにも言ったことにならないけれど、やっぱり始原の、ことば以前のものが語られようとようとする。映画のなかにも、古代の水牛や王女の挿話が挿まれ、森の猿の精霊、河の鯰の精霊、人の霊、そういったものがそっとでも唐突に過激に現れては消えていく。怖くて、でもどこかおかしい。
 ブンミさんはタイ東北部の、ラオスにも近い森で果樹園や養蜂を営んでいる、という設定になっている。自力で腎臓透析を続けていて、死期が近いのを識っている、そういう智をまだ保っている人であり共同体だ。そこはラオス人、中国人といった外国人も行き交う。違法越境者なの?、と遠い街から会いに来た義理の妹が訊ねたりもする。国境ができたのは森の歴史に比べればつい最近のことだ、そもそも森に、大地のどこに線があるのだろう、と誰もが首をかしげている。境界が引かれて、人は急にその向こうをちがうものとしてみるように強制される。
 ずっと前に森に消えて行方不明になった息子、亡くなった妻、その妻の妹、甥らしい若い男、そんな人たちがいつのまにか集まり、ブンミさんを囲み、最後には彼を彼方へと送る旅に出る。色彩に、音に、うごめきに溢れた森を彼を支えて歩く人たちが行き着く深い洞窟。そういったことがあざといものとして浮いてしまわずに、あるリアリティを保ち続けるのは、映画の構成の堅固さ故でなく、ある種の自由さ、混沌としてでもあらゆるものが存ると思わせられる森や海のような、論理化されない、自由な発想と発露があるからだろう。その自由さは60年代に語られた、傲岸な欲望とはずいぶんとちがう。
 再びこの世界に現れて透析の手当をやってくれる妻を、起きあがったブンミさんが腕を回してゆっくりと抱きしめるとき、それは愛といった言語化されたものでない、その向こうにある、慈しみみたいなもの、そうしてさらにその奥にある郷愁のようなものをスクリーンに産みだす。生が抱え込む穏やかな哀しみ、静かな喜び、なにかの震え。愛とか性とかでない、でも単純で勁く深いつながり、互いに完全に食い込みあって没入してしまう、そういう関係のようなもの、個と全体がひとつに重なりあっている、そういったものが黒々とした森のなかに、向こうに、見えてくる。美しい、うれしい、怖い。


* 先日はYANYA’に「続・文さんの映画をみた日⑧ あるいは 菜園便り228」というのを載せました。特集が「菜園便り」だったからです(でも「特集」だなんてすごい!)。それで今回は、「菜園便り236 あるいは 続・文さんの映画をみた日⑨」にしました。おあいこ、です、なにに対してだかよくわからないけれど。


菜園便り237
6月21日 雨

 梅雨のほっそりとしてでもきれめない雨の下、庭は柔らかで鮮やかな黄緑色に覆われそこかしこには黒々と丈高な草もつきだしている。咲き残った琉球月見草がしおれた桃色の花弁を垂らしている他は紫陽花のくすんだ色が見えるばかりで、花らしい花もない。
 菜園は小さなトマトが色づきはじめぽつりぽつりと収穫があり食卓にあがる。色は薄くてもしっかりと甘みがあり皮も固くない。胡瓜とズッキーニは苗の段階で潰えてしまったけれど、1本残ったゴーヤはどうにか生き延びてトマトよりずっと高く蔓を伸ばしている。黄色い花もわずかだが咲いているから、実りを期待できそうだ。久しぶりの菜園のゴーヤ、になってくれるだろうか。
 青紫蘇、パセリはかわらずに元気だし、ルッコラも数株が雨の後ぐんぐん伸びている。種をお土産に頂いた韓国のチシャはプランターのなかでひしめきあうほどに成長した。間引いても間引いてもすぐにまたぎっしりになる、菜園に移した数株はあっという間にだんご虫に食べ尽くされてしまったけれど。同じ時に頂いた胡麻の葉もそこそこには育った。あれこれを巻いて食べるほかにはやり方を知らないけれど、強い香りが口腔を撃つ。
 父の一周忌が終わった。こういう時の儀礼のように、誰もが「はやいですねえ」という。ほんとにそうだ、もう1年なんて。と思いつつもでもなんだかもうずっと前のことのようにも感じている。そうだね「いろんなことがあったからね」というのも常套句だけれど、でもいろんなことなんて何もなかった、という気もする。
 あの頃毎日大わらわだった日常的な雑事、おおかたは家事だったけれど、をやらなくなった。カロリーを計算し、タンパク質をミリ単位で計るような献立や、丁寧につくる食事といったことは光年の彼方へ去った。菜園もほとんど形だけ、みたいになってしまった。
 死より重いものはない、ということだろうか、誰もが言うように。他のことは全部どこかに飛んでしまって、生の側のなにもかもを軽んじてしまっているのだろうか。たしかに死は、心にも身体にものしかかる巨大でずっしりと密度のある大きな塊で、その下で人は息もできない。とてもたいせつなものが瞬時にして丸ごと奪われたことに納得がいかないし、あらためてそう思う度にまたうちのめされる。どうしても慣れることができない。死の前から始まりくり返される喪の儀礼が、身体を前へと押しやるし、日常的なしぐさは滞りなく、明るい表情さえつくれる。でもつらさはいや増しに増していつもそこかしこにじっとうずくまっている、のしかかってくる。そういうことなのだろうか。
 同じ町に住む知人が「菜園便り」を求めにわざわざ来てくれた。その時に持ってきてくれた月桂樹の束は廊下に下げてある。青いままでも煮込み料理などにも使えるけれど、そのまま置いておけば黄色くなっていっそう香りも高くなる。カレーには欠かせない。使うたびにこの日のことを思いだすのだろうか、それとも他のことと同じように瞬く間におし流されて彼方に消え去ってしまうのだろうか。


菜園便り238
7月25日

 たっぷりの雨で伸びすぎて青々としていた庭の芝に黄色い陰りが見え始めた。これから続くだろう暑さと日照りですっかり色を失うのだろう、いつものように。菜園の周りどころか内にさえ居丈高な硬い草がはびこってきている。紫蘇やトマトが背を伸ばして腕を広げてこれ以上は入ってこさせまいと必死に防ぎながら、毎日実をつけて食卓へ喜びを届けてくれる。梅雨が終わって皮が固くなったけれど、そのぶん甘みは増して、奥歯でガリッと噛むと青くさく甘い果汁が溢れる。
 玉乃井の海側の庭で開かれた「津屋崎納涼映画会」も終わった。これは津屋崎ブランチの主催だったけれど映画の選択は任されて、山中貞雄監督、大河内伝次郎主演の「丹下左膳余話 百万両の壺」を16ミリフィルムで上映できた。彼らの知りあいの上映技師の吉田さんが日活と交渉してとてもいい状態のものを借りてくれたので、白黒のコントラストも鮮やかな強い構図がくっきりと浮きあがった。正面からまっすぐ撮る場面が多いから奥行きも深い。山中の別の映画「河内山宗俊」の最後のシーンなんかも思いださせられる。
 お話も、強くて情け深いちょっと滑稽な丹下左膳、情のある艶っぽい射的屋の女将、美人の奥さんに頭の上がらない養子の馬鹿殿、陰険なやくざ、そうして身寄りを亡くした健気な子供と勢揃いしての展開でおもしろくないわけがない。ほのぼのとした家庭喜劇みたいな面もある。生きていたらそういう映画もつくったんじゃなかっただろうかと29歳の若さで戦病死した山中貞雄のことをあらためて残念に思ったりする。
 夏の夜はチャンバラだとこの映画を選んだけれど、戦後の占領軍の検閲でカットされていて、肝心のチャンバラシーンがほとんどなかったから、左膳本人は不満足だったろう、「俺はもっと強くてかっこいいんだぞ」と。でもはらはらしなくてすんだし、殺陣にまといつくゾクリとするような恐怖や嫌悪が生まれなくてそれもうれしい。
 今回初めて気づいたのはこれは音楽劇(ミュージカル)でもあって、ムソルグスキーの作品や童謡の変奏がオーケストラでふんだんに流れ、女将が三味線で歌う端唄や小唄(なのだろう、たぶん)は劇中の話とからんだことばにできない思いだったり、状況の説明だったりする。もちろんその唄を巡ってのドタバタもくり返されておかしい。
 台風の影響でいつもより気温も低く、ここちよい風も吹くなかでゴザに座ってみるモノクロ映画は、映画館の暗闇の集中を強制しないし、そこここに座った人たちの気配はあたかも隣人のそれといったふうにも感じられ、飲み物やピーナツを売る声が夏の夜の行事を盛り上げていく。運営する側にいたから反応は気になるしちょっとフィルムがぶれるとドキリとするけれど、浜木綿も香って、ひいき目のせいか蚊も少ない。途中でブレーカーが落ちてもうしわけなかったけれど、なにやら昔の映画館のフィルムが切れた雰囲気さえ醸しだされて実のところちょっとうれしかった。

 フィルムがずれてガガガという音と共に映像がスピードを失っていくつかのシーンが中途に重なりあい、あああという溜息と共にぷつりと映像は途絶えて、たちまち揶揄の口笛や罵声が飛ぶが、それも大向こうを狙ってのかけ声のようでどっと席が湧き明るくなった館内でよっこらしょと立ちあがって売店やトイレに行く人でしばしざわついた後、そっけないアナウンスと共に暗くなったなかでカタカタと映写機が回り始める。「おおい、はよ帰ってこな始まったぞ」とのんびりした声も飛び交う、「トシちゃん、はよし」、にまた周りがどっとわき、でもたちまち誰もが映画のなかへとさらわれていく、とぎれた分いっそう想像でふくれあがった恍惚のなかへ、一足飛びに。

 そんなふうなことも思いださせる屋外上映のざわついた雰囲気だったけれど、でも意外なほどじっくり映画をみることもでき、今まで気づかなかったシーンや語られようとするせつなさもすっと届いてくる。語りぐさになった大河内伝次郎の台詞「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」というのはカットされた部分なのか出てこなかった。
 すばらしいけれどちょっと救いがなさ過ぎてつらい「人情紙風船」が山中貞雄の遺作になってしまったのは、本人が言ったように「ちとさびしい」。3本しか現存してないのも残念だけれど、でも少なくともそれだけはあるという喜びだと思うしかない。


菜園便り239
9月24日

 夏野菜が終わった。猛暑のなかでも小さな実をせっせと届け続けてくれたトマトが終わた、一度もならなかったゴーヤも捨てられ、異様に繁茂してパセリを駆逐してしまった青紫蘇だけが畝のなかに突っ立っている。
 来年は、まだ菜園が残っていたら、数本のトマトと2本以上のゴーヤとピーマンだけにしよう。紫蘇とパセリ、ルッコラ、バジルは1本ずつプランターででも育てよう。ひとりにはそれで充分な収穫を届けてくれるし、苗で潰える胡瓜やズッキーニ、けして実らない茄子はもう止めにしよう。
 そんなことを9月のはじめに書きかけていたら、きゅうに忙しくなって、台風も来て、いつの間にか菜園も茅の海のなかに没しつつある。救援隊は来るのだろうかと案じる間もないほど、かの雑草は強くて勢いがある。今年は何処もがそうなようで、<雑草>や<害虫>にもあるトレンドのひとつなのだろう。しばらくは、おそらく数年はこの状態が続きある日ふっと消えてしまう、つまり次の何かが世界を覆うということになる。
 猛暑から一気に初冬になったようにさえ感じられた冷え冷えとした数日が台風と共に終わり、また強い日射しが蚊と共に戻ってきてうれしくなり、晴天の下、茅の原に踏み込んでみると小さな赤い粒が3個あった。トマトが健気にも暑さも乾きも乗り越えて次世代への種を育んでいる。ああ、と感動しつつ摘んで食べた。彼らからすれば、「きみは殺人者」だ。いや、そうでなくてほんとうはレスラー、ではなく、レスキューなのかもしれない。この3粒の喜びが、また来年もやろうという勇気を与えてくれたのだろうから。ほんとに?でもそういった大げさなひとり芝居も生まれるほどに、菜園も庭も植物もすばらしい。
 忘れずに来る台風と共に今年もアジアフォーカス映画祭が始まり毎日3本くらいみる慌ただしい日が続いた。腹部に急な痛みがでて、数年前の悪夢を思いだしてぞっとしたけれど、1本諦めて早めに帰って一晩養生したらけろりと直ってしまった、よかったというか、気のせいだったというか。事前の試写や特別上映にもにもまめに出かけたし、もしかしたら今年は全作品をみるという「暴挙」が達成できるかもしれないと思いこんだりして予定を組んでせっせと通ったけれど、やっぱりそれは無理なようで、いくら「どんな映画でもみてると何かしら惹きつけられるものがある」にしても、やっぱり日に3本も4本も見るのは心身共に酷なようで、映画にもよくない。
 だいたいどの映画祭でもそうだけれど複数会場での同時進行になる。ここでも2会場で5本ずつ、つまり日に10本上映している。マニアックな人や遠方からのファンは週末プラス祝日の3日間に集中し、そうしてまた生活に戻っていく、というかまた次の映画へと帰っていくのだろう。それもまたすごい。
 ぼくは結局2日残して、6日間で21本のうち7割ほどみた時点でリタイアになった。あいかわらず最後の詰めが甘いこともあるけれど、あまり酷いものはもうみないでもいいかという気持ちもあるし、期待したものにガッカリさせられて腰砕け、みたいなこともある。さあ気分をなおしてもう一度、にはなれなかったようだ。心や身体の力やマニアックな粘着力がこうやって薄れていくのだろうけれど、同時にこれで充分という、諦めではない納得の仕方もまた身についていく。


菜園便り240
10月吉日  地名がよぶもの

 地名はいつも気になる。だから片づけものをしていて古い地図なんかがでてきたりするとそれっきり仕事は止まってしまう。
 この町も今は福津市と呼ばれているけれど、それは宗像郡の福間町津屋崎町が合併してその頭文字をくっつけただけのものだ。そういったことは日本中で行われ、たくさんの地の名前が喪われた。そのままどちらかの町名を残した方がまだよかったと思うけれど、住民感情を鑑み、ということなのだろう。宮地獄市(ミヤジダケ)という候補もあったようで、それはそれでなかなかいいし、いっそのこと宮地嶽神社市というのがユニークで、話題になったかもしれない。
 ずっと以前の合併で勝浦村が消えたことが住民には深い傷として、怒りとして残ったと聞くこともある。勝浦という名称は地図上にも残っているし、あいかわらず多くの人がかつての村全体を勝浦と呼んでいる。それくらい地名は強い。それはとうぜんのことで長い長い時間をかけて創りあげられた、地形や状況にも即した名前だからぴったりしていて、だれもがすぐになじめるしなんとなく安心もするのだろう。
 津というのは先端といった意味のようであちこちにある地名だし、浦や古賀、天神も全国的に多い。鐘崎(カネザキ)は源氏物語にも出てくる地名だし、印象も美しい。神湊(コウノミナト)はすごい、神の港だ。でもカミサイゴウは神でなく上の上西郷。他に東郷、南郷というのはあるが北郷は聞かない。音のつながりとして使いづらいからだろうか。それともどこか歴史の荒波のなかで潰えたのだろうか。北は禁忌のことことばである、という説もあるかもしれない。京泊、小泊もあれこれ思わせられる。
 近隣でいちばん好きなのは舎利蔵(シャリクラ)だろう。音の響きもどこかエキゾティックだし舎利が意味するものについてもつい考えたりする。自分が生まれた地ということもあるのか、蔵屋敷というのもなかなか風情があると思う。新屋敷もそばにあった。畦町(アゼマチ)とか米多比(ネタビ)というのも漢字と意味とで惹きつけられる。練原(ネリワラ)、須多田(スダタ)、生家(ユクエ)、奴山(ヌヤマ)、梅津(ウメズ)、内殿(ウチドノ)もいい。在自(アラジ)を初見で読める人は少ないだろう。
 坂や峠の名前はどこか強い響きがある。おおかたは境界になっていて重要な場所だったのだろうし、険しく奥深いところが多く、分水嶺があったり気候ががらっと変わったりする。旅立つ人には大げさにではなく生死の分かれ目でもあったのだろう。「行くも帰るも逢坂の関」だ。泣きながら見えなくなるまで手を振って、そうしてそれっきりになるしかなかった。
 川は残念ながらというか、このあたりにはあまり大きなものがなく、なじみも薄い。自分の生活に関わりがないと遠くに感じてしまうのだろうし、海のそばだからついそちらに目がいってしまうのかもしれない。国鉄で多々良川の河口近くを横切る時はいつも感嘆してしまうけれど、ああいった大きさの川はない。渡橋のある入り江を大きな川だと思っていた人がいたけれどたしかにあれが川だったらなんと呼ばれただろう。よほど大きな山がないとそんな川はできない。
 大根川というのも想像をかきたてる名だ。子供の頃遊んだ中川という小さな川があったような気がするけれど、思い違いだろうか。都市部だと蓋がされて暗渠になり、川自体が隠されて消えることも少なくない。ちまちました細長い、公園ふうのものになったりしている。地の神が喪われて久しい。
 新しく名づけられる場所は団地や開発地がほとんどだから、××ヶ丘、△△の里とか、○○タウン、☆☆シティといったおそろしく空疎なものになっている。歴史や地勢にもほとんど関係なく、耳ざわりがいいと思われてだろうか、昨今流行りの底の浅い現状分析が届くだけの、十数年先には賞味期限が切れてしまうような名前ばかりだ。あちこちで問題になっている、世代がかわってゴーストタウンになってしまうような開発の結果だろう。
 岡があり浜がある。海と山と空があり、そこに川と池と大木をいれればそれで全部説明がつくのかもしれない。そういう単純で深い世界に今だれもが憧れを持っている。全てをひとつの皮相な基準で単純化してしまい、その上でほんのわずかなちがいをあげつらうような硬直して干からびた現在に疲れているのだろう。
 地の力は蘇るか。


*市の文化協会がだしている「福津文化」という雑誌に載せたもので、これは「菜園便り240」として書いたので、誌に掲載後に送る予定だったものです。同誌には祖父のことをが書かれた「東郷公園を拓いた男 安部正弘」や、出版した「菜園便り」の紹介も載りました。

 

菜園便り256
6月22日 スティル写真プロジェクト②

             無限循環のなかの少年
 曠野のなか、白塗りの少年が木綿の着物を着てハンチングを被り、唐草模様の大きな風呂敷包みを手にしている。うつむいた目はじっと耐えているようにみえる。なにかを決めてしまったのだ、關を超えてしまったのだ。そうだろうか。
 寺山修司の短歌がたてつづけに浮かんでくる。
「間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
 格子状の扉が舞台装置のように前後に置かれて遠近を強調している。少年のさみしさも、つまり孤独も焦点化される。どこから来てどこへ抜けていこうとしているのか。そうしてその道の途中で彼は全てを放りだしてしまったのだろうか。でももうそういったおとぎ話が終わってしまっていることも彼はよくわかっている。アドレッセンスがとうに過ぎてしまったことはすでに告げられている。残っているのはなんだろう。意外に大きくて強い手の指が、世界をしっかりと掴んでいるかも知れないことを思わせる。性、もかいま見える。
 お決まりのように彼は都会へ、東京へでていくことになるのだろう、まだ上野駅に全ての北の列車が集まって来ていた時代に。そうしてその輝く黄金の夢は一夜にして鉛の重石となり、つらい軛になったのだろう。「故郷の訛りなくせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し」というような内省さえ始まる。「たばこ臭き国語教師が言う時に明日とゆう語は最も悲し」と呟くしかない。もう一度、濁ってしまった哀しい目でなにもない空っぽの地面を見つめるのだろうか。
 遠くまで行くんだと幼い決意を胸に叫んだ少年の一瞬の夢が覚める、そこは果てなく暗い田園、または合わせ鏡のなかの曠野。
         寺山修司監督「田園に死す」1974年 ATG

 

      共同幻想を巡って
 刑が執行され絞首されたのに死ななかった、死刑囚の青年が床に座っている。その向こうに椅子に腰掛けた所長や検事、執行官、医務官、教誨師などがみえる。青年に寄り添ってかき口説いているのは渡辺文雄が熱演していた、看守長だったか。おぞましいほどのドタバタ喜劇が演じられ続ける、心神喪失状態にある青年にもう一度罪を自覚させ、処刑につまり死に臨ませるために。場所は当時小菅刑務所の一角にあった死刑場を再現したセットの内だ。死刑囚が履いている官品のゴム草履まで忠実に再現されている。
 大半の出演者たちがすでに亡くなっている、佐藤慶小松方正戸浦六宏、石堂淑郎。足立正生松田政男、それに監督した大島渚はまだ存命だ。
 ついに刑場から出ていくことができなかったRと呼ばれた青年は、今もそこに閉じこめられたままだ。
          大島渚監督「絞死刑」1968年 ATG

菜園便り258
7月13日

 昔ふうな梅雨時の田植えが終わったばかりだというのに、一方では早稲はもう白い花をつけ受粉を始めている。こま切れになった糸のような白い花が梅雨の終わりの強い風に大きく揺れている。8月の炎天下での収穫に間にあうにはこの40センチくらいの丈での受精と胚胎が必要なのだろう。なんだか強引に早熟な性を迫られ懐胎し形だけは熟成し実を結び、最後は青いまま老いていく、そんなふうにもみえる。それもこれもわたくしたちが食べるためだ。そんなにまでしてなにが望みなんだろう。
 先日学校そばの田なかの細い道をたどっていると、先の方で小学生たちが群れていた。傘を振りまわしなにやら大声でしゃべっている。中心にいるのは声の大きい少し太った子で、背は高くなかった。「背が高くない」をわざわざことばにして思ったのは何故だろう、なんでそのことがひっかかったんだろと妙なことを気にしながら歩いていると、「昨日はミミズと蛙で今日は・・・」と一段と声が高くなった。見ると下校途中の女の子がひとり彼らに近づいているところだった。それで過剰な反応がでているのかと立ち止まって見ていると、どうもみんなで蛇を取り囲んでいるらしいとわかってきた。やれやれ、だ。もう逃げる力も失って、彼らの傘の先でつつかれた時だけ小さく反応するしかないのだろう。子どもたちもとっくに興味を失って、このまま知らん顔して捨てていきたいのだけれど、先に離れると弱虫だといわれるし、傘の先に引っかけたのを後から投げつけられた日にはたまったもんじゃないし、近づいてくるのはどうも3組のかわいい祐香のようだし、だったらみんなもまたヒステリックになるだろうし・・・・・そんなところだろう。
 こういう時、全く無関係の第三者にきゅうに矛先が向くのはよくあることで、そういうのを引き受けてあげるのも大人の役割かと思いつつも、とにもかくにも蛇を、それも傷ついた爬虫類を見たりさわったりなんてとんでもないと、きびすを返して戻ってくると、ガキ大将くんがひときわ大きな声で、「ちぇっ、あのおじさんも怖がって戻っていっちゃったよ」と言うのが聞こえた。彼もどうやってこの場を収集するか困っているのだろう。君たち、まだまだ永遠といっていいほど長く続いていく人生が待っているんだからね、そのくらい自分で考えて自分で引き受けなさい、引き受けないというオプションも含めて、とかなんとか呟きつつわたくしは知らん顔だ。彼にとってほとんどおじいさんといっていい初老の男に向かっておじさんという時に少しの媚びもあって、たぶんなにかひとことくらいは期待したのだろうし、「背が高くない」とわたくしがふいに思ったようなことを彼もどこかで感じて、シンパシーを求めたのかも知れない。人と人の気持ちの伝わり方というのはほんとに不思議で、同時性というかシンクロニシティが支配してもいるようだから。
 別の道に向かってすぐに他のことに気を取られて子どもたちのことは忘れてしまったけれど、さすがに蛇のことはしっかりと焼きついていたようで家に着いてからずいぶん生々しく浮きあがってきた。困ったことだ。こうやって書くことで開かれ解かれて消えていく、ということがないのはわかっている。また新しい形をとってどこかに固着していくのだろうけれど、それを解いていく鍵は、何故「背が高くない」とふいに思ったりしたかを丁寧にたどってみることかも知れない。もちろんそんなことはしないけれど。


菜園便り260
7月23日

 いつの間にかこっそりと梅雨が明けたのだろうか、烈しい陽射しが続いている。洗濯したり、湿気った衣類を干したりとばたばたしていると、ときおり目に入ってくる庭の木々や草の色に圧倒されそうだ。特にあの嫌な憎むべき茅の、黄緑色の美しさ!スッと湾曲してかすかに風に揺れたりしている。こんもりと盛り上がった場所に群れているから微妙に変わる色彩が諧調をなして続き、その向こうの板塀の焦げ茶との対比もなかなかで、おまけに塀の向こうには海と空が広がっている。これでもうちょっとまばらで儚さでもかすかに感じられたら琳派も真っ青だ。
 灌木はもうすっかり繁り、色も真夏の黒々とした硬い緑に変わっていてちょっと近寄りがたい。剪定もままならないから勝手放題に枝を伸ばし下枝も生いしげりびっしりと隙間もなく風も通らず、低い木なのにその周りにはどろりと何かが溜まりまとわりつているような暗さがある。こういう場所があるのが荒れた庭や空き地のよさだろう、と嘯いてみるしかないけれど、でもほんとうのところこういうところが嫌いではないからちょっとやっかいだ。きちんと隅々まで手入れされ草もすっかり抜き取られた庭はなんだか一枚皮を剥いだようで表面がツルンとしてみえる。
 菜園はトマトだけは元気に次々に実をつけている。丸いのと細長いのと2種のミニトマトがオレンジがかった鮮やかな朱。少し大きめのピンポン大のはかすかに色づいてきたくらいで収穫しておかないとぐずぐずになってしまう。色はかすかな赤とうす緑が混じってとても美しいとはいい難いが、果肉は少し柔らかめだけどおいしい。ミニトマトは皮も固めで歯ごたえがある。さっと口のなかに広がる甘さや青くささに瞬時に笑顔も生まれる
 今年の菜園はほとんどそれだけだ。ゴーヤも潰えたし残っているピーマンも小さな実のまま落ちてしまう。ベランダ側のプランターにはイタリアンパセリと青紫蘇が繁茂し、バジルも白い花をつけつつまだ伸びつづけている。今年はジェノベーゼソースをつくろうと大胆にも思いこんだりしないし、モッツァレラチーズを頂くこともないし、ほとんど使うことがないので摘んできてはコップに挿して食卓に飾っている。さわったとたんあの香りが鼻をうつくらいにたつ。その度にこういったハーブ系の植物の勁さを再認識させられる、「空き地」から勝手に摘み取ってくるペパーミントもそうだけれど。
  庭のあちこちで大きな白い花を開いている浜木綿も夕方には特に香る。玄関に1本挿しているだけであたりの色までかわる、大げさに言うとそんなふうだ。

 

菜園便り261
7月28日

 最初に行った映画の試写会は姉が応募して連れていってくれた「シャレード」だった。まだ中学生、遙か昔のことだ。渡辺通りの電気ビル上階にあった電気ホールだったと思う。最近ビルが新しくなったようだけれど、ホールはまだあるのだろうか。キース・ジャレットや武満を聴きにいったこともあるホールだ。
 当時はオードリー・ヘプバーンというのはすごい人気の女優だったから大勢が詰めかけてみたんじゃないだろうか。晩年のケーリー・グラントもでていた。今も好きな映画だけれど、謎の鍵である切手のエピソードがなんとなく腑に落ちなくてちょっとガッカリした記憶がある。未使用の切手を封筒に貼ったら、裏の糊が喪われる、もしかしたらスタンプを押されてしまう、使用済みなら別のスタンプがついてしまう、いずれにしろコンディションは致命的に悪くなり、価値がなくなる・・・そんなんことを思ったりした。当時は切手収集が流行っていたから、誰もがそんなことを気にしたんじゃないだろうか。
 どの街でもそうだけれど、試写会は○○生命ホールとかいった場所で行われることが多い。賃貸料と利便性と設備(35ミリが映写できる)、そこそこの規模・・・もちろん映画館を使ってのもあるけれど、そういうのは観客を含んだ大規模なものでよほど期待度の高い映画の場合だ。「キル・ビル2」のときはシネマコンプレックスの大会場がびっしり埋まっていた。その頃はシネテリエ天神といった極小映画館でみることが多かったからそのスクリーンの大きさだけにもびっくりさせられた。   
 仕事でお知らせがまわってくる試写は、だいたい映画会社関係の小さな試写室で行われる。小さいといっても4、50人くらいは入るだろうから極小の映画館より大きかったりするし、椅子もゆったりしている。スクリーンが小さめなことをのぞけば(それも極小映画館よりは大きい)いいことづくめだったけれど、最近はそういった試写は全部デジタルでくるらしくピクセルのめが気になってしょうがない。
 久しぶりに行った試写会は「The Grey(グレイ)」というのだった。リドリー・スコットが制作に関わっているので行ったのだけれど、試写はほんとはあれこれ選択したりしてはいけないとは思っている。仕事でもあるし、案内がきたらなんでも全部みにいって頭からバリバリとかみ砕かなくてはいけないのだろう。映画評を新聞に書きはじめた当初は大型ハリウッド映画なんかもせっせとみにいっていた。でもそのせいで、あれもこれもみるということが嫌になってしまったのかもしれないから、元気がありすぎるのも考えものだ。
 ともあれこの映画はアラスカの曠野のなかに飛行機が不時着し、生き残った男たちが狼と戦いながら生き延びようとするという、サバイバル系マッチョものだった。墜落で生き残ったのは8人、生還を期し、先ずは遠くにみえる森をめざして歩き始める。狼に襲われ、ひとり、そしてひとりと死んでいく。
 丁寧につくってあって、パンフの解説にもあったけれどカナダの北部、実際の寒冷地で撮影されていてリアルだけれど、ちょうどジャック・ロンドンの「火を熾す(焚き火)」を読んだ直後だったので、うーーーーん、これでは生きられないだろう、低気温と風で指どころか身体が動かなくなるだろう、いくら狼に襲われ必死になったとしても無理だろう、などととつい思ってしまった。
 そういう状況で「濡れる」ということがどれぐらい苛酷なことかというのは素人にも体感的にわかるし、焚き火があるだけで安全ということではないし、その焚き火にしても簡単に熾せるものではないことも少ない経験から推しはかれる。小さい時の七輪を熾こした記憶とかキャンプで食事の準備に泣かされたことだとかから。
 真夏に公開されるのは恐怖で心身共に凍りついて涼しくなることを期待して、だろうか。

 

菜園便り262
7月28日

映画祭で上映する「玄界灘の子どもたち」(16ミリフィルム)は吉田さんが奔走してくれ、制作元の東映で見つかったが、オリジナルはなく、フィルムの状態も悪く、映写機にはかけられないことがわかった
デジタルに変換して、上映権と共に買うことになったようだが、もしかしてどこかにフィルムが残っているのではないかと
まだ映画が大きな力を持っていた時期に撮影や上映が行われたのだから
吉田さんの「玄界灘の子どもたち」を探しての丁寧で時間のかかる問いあわせが続いていて、頭が下がる。彼もまた歩哨的な人だ
撮影場所だった津屋崎、福間、福岡県、福岡市、佐賀県の一部、大分、東京
行政、視聴覚教育、生涯教育、NPO、公民館
行政的対応、親切な人、つっけんどんな人、自分で判断して遠くまで尋ねてくれる人、


菜園便り263
8月17日

 お盆も終わった。民族大移動などと呼ばれて大騒ぎになるけれど、自分が動かなくなるとそういうこともなんだか遠い昔のことのようにしか感じられない。そうかい、うん、そうだったね、おやそうかい・・・。
 我が家のお盆は正月と共に父が采配をふるっていたから、父の実家の宗像、東郷の様式、というかそこの内田家の形を踏襲している。でもまあだいたいどこでも似たようなものだろうとは思う。関東だけが7月のお盆というのが最大のちがいだろう。迎え火を焚くのは迎えに行けないくらい遠いとか、お墓もないというようなことだろうか。今は歩いていける距離に墓地があるということの方が稀だろう。お盆は20日までといっていた父に従ってそれまでは提灯やお供えを残しておく。
 13日にお供えの料理の準備をしてからお迎えに行く。線香を持っていて墓地で火を点け、その煙に乗ってもらっていっしょに帰ってくる。初盆の時以外は仏壇前には下げ提灯と行灯型の置くタイプが1対ずつ。なかの灯りは電球で、コードをあれこれ配線して一箇所で全部を操作できるようにするのも父のやり方だった。
 もちろん前日までにお墓の掃除や草取りもしておかなくてはいけない。我が家のお墓は町により墓地一帯が強制的な区画整理で撤去させられたので、今は近所のお寺の納骨堂に入っている。40センチ幅くらいの同じスペースがずっと続いていて初めてみた時はちょっと度肝を抜かれた。掃除も草取りもない。楽だけれど、なんだかさみしい、あじけないというか。蔡明亮の映画「愛情万歳」では主人公(いつものシャオカンだ)が台北で納骨堂のセールスをやっているという設定だったのには驚かされた。
 とにかくお墓から帰ってきてもらう、というか来てもらう。「迎えは早く、送りは遅く」というのも父のモットーだった。だから夕方早く4時にはお迎えに行くし、帰ってみえたらすぐにお膳をだせるようにしておく。お迎えの日のお団子には白糖をのせてだす。他には素麺と5品のお膳。ご飯、汁物、精進料理3品。父言うところの「ガキンチョさん」への団子と素麺は別に小皿でだす。その他のお供え物は定番の野菜と果実、茹でてない素麺の他はお菓子とお盆用の落雁など。花は行事ごとに姉が花屋をとおして送ってくれるものや兄一家が持ってきてくれたものが両脇に飾ってある。
 家族が亡くなって初めてのお盆は「初盆(ハツボン)」とよんでお葬式に次ぐ大きな行事になる。特別な戒名の入った大型提灯を1対下げ、親族などから送られた行灯や提灯を仏間中に置いたり下げたりする。門や玄関にも提灯を下げる。祖父の時はずいぶんとたくさん寄せられたようだけれど、今はもうそういうことはない。葬儀と同じで、現在の家長の勢力の強さに比例しているのだろう。
 2日目は御膳を上げるだけだし、あまりお参りにみえる人もなく小休止といったふうだ。初盆のお家など、行かなければならない所へのお参りにまわる。
 3日目は送りの日だからまたバタバタする。ゆっくりしていただく、が理念だから早めに最後のお膳をだし、6時過ぎくらいにまた線香に乗せてお墓まで送っていく。送りの日のお団子にはあんこをのせる。砂糖は長い間貴重品だったのだろうから、甘いものというのは特別な贅沢品で、そういうものを感謝を込めて無理してでも供えたのだろう。今のように嫌われると砂糖もちょっとかわいそうな気がする。自分ではほとんど使わないし食べないからあれこれ言えないけれど。
 無事に送った後は、供え物をこもにくるんで盆踊りもある港のそばの会場に持っていく。お坊さんによる読経もあるなか、事前に買った供え物を流してもらうための木のお札と共に渡す。今はどこもそうだろうけれど精霊流しによる川や海の環境悪化が問題になっていて、形だけ流してまとめて処分するということになっている。川なんかでも少し下流で回収しているのだろう。
 初盆の大型提灯もここに運んで盆踊り会場に飾ってもらいそのあと処分してもらう。夜店も少しでていて夏祭りの雰囲気もある。中央の櫓の上にはお囃子と歌の人が座っている。PA(音響)は使うけれど、ライブでの演奏で、そのことは毎年あらためていいなあと思わせられる。港から橋をを渡った半島にはかなり古い形の盆歌が残っているとのことだった。
 そんなふうにして夜も更け、3日間の精進でなんだか軽くなったような身体と心で眠りにつく。久しぶりの静かで穏やかな眠りがある。

 

菜園便り264
8月29日  月の上に月 二重の水平線

 厳しい残暑も、6時を過ぎると陽も遠く傾き、遮る物のない浜辺の熱気も動き流れはじめる。50年ぶりという砂浜での上映会に三々五々みんなが集まってくる。騒ぐ子どもたちを連れて楽しげに、退職後の時間を連れだって、真夏の海岸を裸で闊歩する若者たちも物珍しげに。屋外での上映会は風も吹き抜け砂浜に座り込んだ人たちはのんびりと楽しそうだ。
 青い海と空を前に、波打ち際に立ちはだかるように組まれたイントレ、そこに張られた大型スクリーンが伸びあがる、まるで睥睨しているといったふうだ。
 上映されるのは夏の沖縄が舞台になった「ナビィの恋」。穏やかで滑稽にさえみえた南の島のお話は、いつのまにか佳境へと突っ走り、真摯な愛のことばが飛び交いはじめている。ナビィはもう心を決めている、遠くまで行くんだと、とぎれることなく隠し持ちこたえてきた愛を最後の最後に貫くんだと、そのためには家族も裏切り親族共同体を捨てても、と。
 もちろん映画のなかのナビィはやさしいお祖母さんであり、酸いも甘いも噛み分けた智恵者である。でもそういう人がある日、二度と開くことがないようにと幾重にも閉じてきた扉を瞬時にして開け放ってしまう。世界は黒々と豊で、目の前にはただ白熱する光が、南国の砂浜のように横溢しているだけだ。ニライカナイへ、竜宮へ、桃源郷へ。もう誰も止めることはできない。
 そうしてナビィと長年連れ添い子をなし慕い続けてきた年下の夫もそのことはすでにわかっている。最愛の人ナビィはやっぱり最後の最後には自分の人ではなかったと、いっしょに暮らしてきたけれどやっぱりそうだったとつらい思いで確認する。月の下でそれぞれの人がそれぞれの人生を、喜び哀しみをそうしてこれからを思う。
 「月がこんなに明るいとは思わなかった」という都市からやって来た青年の台詞がスクリーンに流れ、思わず見上げる空にはほんものの月が明るく光っている。海を背にしたスクリーンはときおり風にふくらみ、映画の展開とは違いつつも微妙にシンクロした動きを映像に与えている。群青の海と空に点在する粒々の光がときおり映画の文脈を突き破って目に入ってくる。遠い対岸の町灯り、星々、そしてゆっくりと旋回して着陸しようとする航空機の点滅する機灯・・・。
 スクリーンのこちら側も映画とさほど違わない暑さに包まれ、散らばった人たちが思い思いの姿勢で座り込み見上げている。子どもたちが蛍光色の腕輪や足輪を光らせながらさかんに動きまわっている。スクリーンに暗い海と水平線が映しだされるとそれは実際の海や水平線と完全に二重になって、みる人を惑乱する。時空が跳んで一瞬自分が失われる、ここではないどこかへの儚いあくがれが噴きだす、ナビィが向かった先、ニライカナイが垣間見えたのかもしれない。
 愛、は消えない、生、も続く。そうして夜更けた砂浜をみんなは帰っていく、もう一度自分のあたたかい家庭へ、淋しい部屋へ、ちょっとやさしい心持ちになって。


菜園便り265
9月25日 彼岸、此岸

 陽がずっと低くなって思いがけないところから射し込んでくる。古い炊事場が朝は光に満ちる。今は使ってないからひどい状態だけど、どこもかもが明るい光に輝いていて驚かされる。鮫でもさばけそうなまな板、タイルの洗い場、放棄されたかまども、あちこちの窓からの光を反射してなんだか厳かだ。
 残暑が厳しいとことあるごとに人は口にしているけれど、もうじきお彼岸だ。居丈高な庭の雑草をみているとどこに秋の気配がとも思ってしまうけれど、でも夜も更けるとひんやりとした空気が部屋にも流れ込んできて、あけはなった窓を閉じたりする季節になった。 彼岸の対岸は此岸で、でもそういういいかたは逆転している、ということになるのだろう。此処がわたくしたちの生きている場所であり、そこではない彼方に浄土があるのだろうか、そこが彼岸なのだろうか。生はなにものにも代え難いものであるけれど、死もその後に来るものとこみで怖れることのないもの、求められるものということだろうか。

 そんなことをあれこれ思っていたら台風がきて屋根を壊し、お彼岸も過ぎてしまった。なんだか呆然としてしまう。こんなふうに様々なことが訪れてき、降りかかってき、そうして過ぎていってしまう、そういうことが彼岸へと続く無常ということなのだろうか。絶えず動き続けかわり続けていて、でも全体というか総体としてはいつも同じであるということなのだろう。打ちつけられた潮で茶色く枯れた庭を見ながらあれこれ思ったりする。これも秋の兆しだろう。 

北の町からは初雪の便りも届きました。この津屋崎も徐々に寒気に包まれていきます。海は寒々とした空を映し澄んだ翡翠色です。風のある日は白波をたてて打ち寄せます。どおんどおんという鈍い響きが体にも伝わってきます。でも光はまっすぐで痛いほどです。それが南の地方の冬なのでしょう。
久しぶりの菜園便りです。この夏からいろいろあったし、音楽散歩、手作り市、そうして11月の映画祭と慌ただしい日が続いたからかもしれません。12月からは毎週末の土日に玉乃井を開放しカフェもやるようになりました。モーツァルト全集を2年かけて聴く企画や音楽とつながった谷尾勇滋さんの写真展「soundgraphy」も開催しています。


菜園便り266
12月4日

 表の道を覆い尽くすほどの柿の落ち葉が終わったと思ったら、今度は玄関横の松がどっと散り始めた。掃き集めると二抱えほどもある。常緑樹だしあの細い葉からは想像しにくいけれど、この季節、強い雨や風の後は驚かされるほど散る。
 落葉樹はもちろん、常緑樹と呼ばれる緑濃い樹々もそれぞれ季節ごとに葉を落とす。冬の前、冬の後が落ち葉や病葉の定番だけれど、このあたりのかんじだと晩秋、初春がそれにあたるのだろう。まるで小津の映画みたいでおかしくなる。小津を中心に世界が回っているような気もするけれど、それは彼がこの東アジアの季節の巡りに丁寧に感応していたからだ。食べ物も着るものも総じて生きること全部に季節はぬきさしならぬたいせつなものとして関わっていたのだろうから。
 松を掃くのは、なんというのか細い笹竹の先を束ねた箒で、これは慣れないこともありちょっと掃きづらいけれど松葉にはぴったりだ。以前は松葉箒とよんでいる竹でつくった熊手みたいなのを使っていたけれど、アスファルトの上を掃くには不向きで、おまけに削られてすぐにちびてしまう。この形はやっぱり松林に行ってどっさりの落ち葉をかき集めるのなんかに向いているのだろう。子どもの頃は海岸の防風林に行って松葉をかき集めてきては風呂の焚き物にしていた。
 当時は五右衛門風呂で、子どもが入れるくらいの大きな焚き口だったからなんでも燃せたのだろう。近所の大工さんや建具屋さんから木ぎれや鉋屑をもらってきたりもしていた。鉋からしゅるしゅると薄くつややかでちょっと生々しくもある鉋屑が生みだされてくるのをみるのは楽しかった。大げさに言うとかすかな恍惚感もあった。電動の鉋になったらあじもそっけもない小さな屑状になってしまってなかなか燃えなかったのを覚えている。大きめの鋸屑、みたいだった。鋸屑とか籾殻とか積みあげて火を点けても黒くくすぶり続けるだけで燃え上がらせるのは難しかった。今思うとあんなものでよく風呂が沸いたものだ。燃すものが山積みにされて置いてあった記憶もないから、そのつどあちこちから集めてきていたのだろうか。すぐにぱっと燃えてしまう松葉だけれど油もあってか熱量は高かったのだろう。直接窯をあたためる仕組みだから効率もよかったはずだ。
 熱くてさわれない鉄の釜の風呂で、沈めた丸い踏み板の上で周りにさわらないようにじっとしゃがみ込んではいっていた。小さな子どもでは浮力に負けて板を沈められないだろうし、うっかりバランスを壊すと板が浮きあがってひっくり返ったりしたこともあったかもしれない。そんなできごとをあまり覚えていないのは、いつも家族と一緒に入っていたからだろうか。騒ぎながら母や兄姉と入っていたのを覚えている。タイルの貼られてない剥きだしのコンクリートの洗い場は子供心にもずいぶんと寒々と感じられた。なんだか生活の象徴みたいでもあった。


菜園便り267
1月16日 ジュピターの行方

 カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニーのモーツァルト交響曲35番、39番、41番。CDケースを手にとって開けると空っぽだった。久しぶりにジュピターを聴こうという気になってしまっていたから、最初はなんのことだかよくわからなかった。ああ、CDが入ってないのかとわかった後も、ちょっとぼんやりしていた。
 友人のお父さんの遺品、衣類などを頂いたなかに入っていたCDだった。
 亡くなられる前に聴いておられたのがモーツァルトだったのだろうか。
 最後に聴きたい曲とか、葬儀の時にかけてほしい曲とか、人はあれこれ語ったりするけれど、そういうことは実現されてもされなくてもなんだか寂しい。実際にお焼香のさいにベートーヴェンが朗々と流れてきたりすると気後れする。なんだか気恥ずかしいし、故人よりも生きている者のために葬儀はあるんだなあとあらためて思ったりしてしまう。
 ぼくは、どうなんだろう。音楽をかけてほしいのだろうか、そもそも葬儀をしてほしいのだろうか。わざとらしい形式はほんとに嫌だけれど、悼まれたいというささやかな望みはどこかにあるから、友人たちにはおくってもらいたいのだろう。今も小さな執着がいくつも残ってしまっているように。
 最後に聴きたい曲、というのはよくわかる。死ぬというのはとてもたいへんで、力をふりしぼらなければならないし、心身共にすごくしんどいことだから、特に病院のベッドの上だったりしたら、穏やかな心休まるものを聴いていたいだろう。モーツァルトならぴったりだけれど、でもシンフォニーではなくて、ピアノ協奏曲でもなく、クラリネット協奏曲とかホルン協奏曲がいい、その1番の、澄んで明るいホルンには静かに元気づけられそうだ、ディベルティメントもいい、特にあの1番だったらうれしい、なんだか軽やかに楽しくなれるし、ちょっとせつなくもある。
 プレイヤーに残されたままのCD、というのはミステリアスでもあり、また日常のなごりみたいでもあって、いろいろに思わせられる。そのモーツァルト交響曲のケースにはうっすらと埃が残っていたからプレイヤーの傍にずっと置いてあったのかも知れない。あれこれ勝手な想像が広がってしまいそうだ。目を閉じたいかめしい顔のカラヤンが少し下を向いて腕を上げ、わずかに指を開いている。右手のタクトは何を指し示しているのだろう。口元が少し緩やかだから、表情は厳しくはない。冥想しているというより、眉根にしわよせて真剣になにかを思いだそうとしているみたいだ、なにげないでも人をあたたかくするもの、例えば今朝すれ違った老婦人のうつむき加減の表情とか、食卓の白い厚手のリネンに射していた明るい光だとかを。
 妹が入院した時に、落ちつけるんじゃないかと持っていったCDは静かな曲で、病室に取りつけてあるプレイヤーにセットして流したけれど、「また後で」となんだか疲れたふうにいったからきっとその後も聴かなかったのだろう。返してもらった時にケースにはCDは入っていなかった。お節介が過ぎたようで寂しくなる。葬儀場で聴かされるバッハやビートルズを思いだしてしまった。
 でも置き忘れられたCDといったことへの興味はつのる。ゴミとして捨てられる可能性もあるけれど、でも掃除の人もそんなところまで気を使う余裕はないだろうし、誰も気づかずにいて、次に入院した人が退屈まぎれに何気なく開いてみて、またはなにかかけようとして開けてみて、そこにCDがあるのに気づくかも知れない。聴いてみる人もいるだろう。「ほう、なかなかいい曲だ、うるさくないし、安らかでちょっと華やかな気持ちにもなれる」、と思うかもしれない。「J.S.BACHというのが作曲家かな、曲名はなんだろう、ANDRASSCHIFFはなんのことかなあ・・・。誰が置いていったんだろう、何度も聴かれていたのだろうか。だいじなものだったのかも知れない。でも亡くなられて、誰も気づかずに忘れられたのだろうか。めでたく退院になってその喜びで忘れられたのだろうか・・・」
 バッハを聴きながら人はなにを思うのだろう。耐え難い心身の乾きや痛みを、音楽がわずかでもまぎらわせ忘れさせてくれるだろうか。とうになくなった意識の底にかすかに旋律が届いてなにかが一瞬蘇るかもしれない。それは遠い日に街角の喫茶店で二人して聴いたときの、まっ黒な珈琲の、カップからこぼれる苦いまでの香りかもしれない。そんなことを埒もなく思ったりする。
 忘れられ喪われたものがどこかへ、なにかへつながっていくこともあるかもしれない。あのジュピターはどこで鳴り響き誰になにを喚起させるのだろう。思いもかけない流れのなかで不思議な回路を抜けて、かつての持ち主へもまたつながっていく。生きていくこと、つまり死んでいくこととはそういうことなんじゃないだろうか。

菜園便り268
1月28日 そして 2月15日

 昨日、1月27日はモーツァルトの誕生日だった。玉乃井にスモールバレーのお菓子を食べに来てくれた人が教えてくれた。座られてからしばらくして、ちょっと顔を傾けて、モーツァルトは流れてないんですかと聞かれて、すいません、すいませんとあわててスイッチを入れた。
 表の看板には、モーツァルトをいっぱい流します、全部(全集)聴きます、と書いていたので恥ずかしい。ひとりでぼんやりしている時は何度もかけていたのに、肝心の時には気がまわらなくなっている、困ったもんだ。
 誕生日の前日は第7巻・CD37の舞曲、主にセレナードやディベルティメントだった。
 そうかモーツァルトは1月に生まれたのか、やっぱり水瓶座なんだ、とうれしいようなこわいような。午前中に来てくれた人も2月生まれの水瓶座だと知ったばかりだった。

 そんなことを書きかけていたのに、ぼく自身の誕生日もとうに過ぎてもう2月もなかば、なんだかあれよあれよという間だ。でもそれは時間が速く過ぎていくという感覚ではないようで、なんというか、一昨日と今日がぴったりとくっついてしまっているという感じだ。ほとんどなにもとっかかりになるようなできごとがないから、振り返ってみてもそこにはわずかに動きのあった1週間前のことだけが突っ立っていて、その間の時間がいつの間にか過ぎたことが不思議で、まるごとすっと抜きとられたようで、なんだか狐につままれたような気がして、怪訝な面持ちでじっとあたりを見てしまう、そんなふうだ。
 この冬のはじめにちょっと困ったのが、寒さに震えだした後なにかを思いだそうとして、寒かったからああしたこうしたと記憶を順に引っ張り出しているとなんとそれは春を迎える前の、年の初めの冬のことで、秋を過ぎての今の冬ではなかったりしてびっくりする。でもその記憶が異様なほど生々しいからどうしてもつい最近のことだと思えてしまうからやっかいだ。あの酷暑の夏さえあった8ヶ月はいったいどこへいったのだろう。
 おまけにそういうことは長いスパンでなくても、1日のことでも起こる。アレーと頭をふってもいろんなことがなかなかつながらない。デジャブというかすでに全く同じことをやった気がしたり、やっているはずなのに全く記憶になくてすっぽり抜け落ちていたりする。忘れたとか思いだせないとかでなく、まるっきりない。記憶や時間が歪む感覚というより、電車などでの方向感覚、特に進行方向の感覚が、頭のなかの地図と身体感覚とでずれてしまって反対向きに走っているという思いからなかなか抜けられない、そういった感じだ。
 拘禁時や入院中はあまりにも変化がなく身体の動きさえ少なく、その間のできごと全てが希薄で印象が薄いから後から振り返るとなにもなくて、だからその日その時間は異様に長く感じるのに、ひと月はあっという間に思えてしまうと説明されたりもするけれど、そういうことなのだろうか。じゃあ今の生活は穏やかで閉じられた半分死んだ庭つきの座敷牢なのだろうか。それにしては請求書がきれめなく送られてくるのはいぶかしい。

 

2分50秒というのが指定の時間だった。ヴェンダースだとか   、  、などが参加している。映像それ自体は


とても長く感じたり、えっと思うくらい短かったりする映像をみながら自分だったらどんな映像にするだろう、どんな対象を選ぶだろうとついおもってしまう。おそらくみているほとんどの人がそう思い、それはみている間にだんだんと切迫した問いになってきてしまうんじゃないだろうか。
固定して海をずっと撮ったものや、川の流れを写したもの、空を見上げたままのものなどは誰もが思いつくものかもしれない。実際にそういった映像はよく目にするし嫌な気持ちにはならない。
「ルミエールの仲間たち」では撮ることそのものが描かれるのが多くてちょっとびっくりした。撮影そのものをこちらから撮るとか、映像に関わる機械そのものを撮るとか

撮ること、写すこと、映すことそれ自体を考えようとするものもあるけれど、映像でそれを考える、語ることの難しさは  

 

福間さん、宮田さんが中心になってやっていた福岡フィルムメーカーズフィールド(FMF)が開催していたアンデパンダンと(無審査)の8ミリフィルムコンペ「パーソナルフォーカス」も3分だった。

直接写ってしまうから

 

菜園便り270
5月13日

 玉乃井で毎年やっている「津屋崎現代美術展」も終わった。会期中に映画の会も開催できて、ビクトル・エリセの「エルスール」を上映してもらった。ほんとに久しぶりにみたけれどやっぱり静かで勁い、いい映画だった。昨年の12月にやった「ミツバチのささやき」の流れとしてだったけれど、その後に知りあった人たちも来てくれ、2階の広間で共にスクリーンをみつめた。いっしょみることでいろんなことを共有しつつも、あの家族のだれを中心にみていくかで全体の印象もずいぶんちがってくるのだろう。ぼくはやっぱり悲劇の人に惹きつけられていく。
 5月になって、ひと息に季節が進む。慌ただしく冬物の片づけを進め、夏野菜にもやっと手をつけることができた。今年は全部をプランターと鉢でやることにした。菜園では胡瓜とゴーヤが地中のだんご虫なんかで全部だめになるし、鉢だと風や虫の害にも簡単に移動させて対応できる。支柱などをつけるのが難しそうだけれど、その辺の木に巻きついてもらってもいいか、と思う。とにかく菜園は撤退に継ぐ撤退で、ここまできてしまった。でもひとりだからこれでじゅうぶんといえばいえる。今もプランターでレタスやパセリは採れるし、鉢のなかの山椒の木の芽や芹は、今年もまた芽をふいて元気がいい。
 植えたのはトマト、胡瓜、ゴーヤ、バジル、青紫蘇。苗でいただいたアイスプラント、種でもらったチコリ(ミックス)、花オクラそれにアーティチョーク。これは以前にもいちどだけ苗でもらってみごとな花が咲いたことがある、実はならなかったけれど。
 野菜そのものにも流行りすたりがあるようで、今年はズッキーニやルッコラをほとんど見かけなかった。スイート・バジルというのがでていたけれど、どんなのだろう。米語ではスイート・バジルというのがぼくらがいっているバジルの名称だったけれど、これはちがう種なのだろう。スイートというと甘いものを思ってしまうけれど、スイート・バターと同じで、塩が入ってないとか苦くないという意味も少なくない。
 あたたかさも一気に進み初夏の様相。庭で採れた大きな空豆、夏豆もいただいた。うすい翡翠色の莢から平たく甘い豆がツルンと飛びだしてくる。すべすべしていてそうしてほくほくとおいしい。いっしょに大ぶりの芍薬もいただいた。豪奢でしかも香りたつ花。愛があればそうしてじっくり待つ力があれば、こういったものにも手が届くのだろうか。受けいれる勁さとそこから積みあげる力と、だろう。
 いろんな人の協力で草が刈られ、枝が落とされ、庭は爽やかな広がりをみせている。どこにも茅もカラスノエンドウも見えない。こんなに広かったのかとただただ感嘆しながら、ごろごろと転がりチクチクと芝を感じ、光のあたたかみを吸いこんだ植物の匂いに顔を押しつけたくなる。


菜園便り271
7月2日

 早々と4月に田植えされた早稲はすっかり伸びてもう開花せんばかりの勢いで、ふつうの品種は、といっても今ではこちらの方がずっと少ないのだけれど、6月の梅雨時の田植えがやっと終わり、稲田は緑あふれて静かに広がっている。
 でも、麦秋を経ての麦刈りも早い田植えも、ああ終わったか、といったようにしか覚えていない。そういうことが視覚としてもできごととしても新鮮な驚きにならなくなったのだろうか。それは少しさみしい。毎年毎年同じことに驚き感動しがっかりしたって60回もないのだから、同じことをくり返していてもいいのに。なんだか自分で制御してしまうような、どこかで飽きてしまったかのようなふるまいになってしまった。
 くり返すことで、ありふれた日々のできごとが重い力になっていくように、書き続けられることで深度がうまれ、わずかずつではあれ世界が近づくのかもしれない。楽天的にすぎるだろうか。でもくり返すこと続けることぐらいしか人にはできない。
 毎年記録が更新されるような豪雨にも耐え、プランターの野菜は健気にたっている。3、4種植えたトマトがそれぞれ朱や黄色やオレンジ、丸いのや細長い実をつけるし、キュウリも時々収穫できる。ルッコラも急にのびはじめた。終わり近くなってもレタスや青紫蘇は助かる。後はバジルや芹を時々摘むくらい。それでも十分に食卓をにぎわしてくれる。アーティチョークも3本ほどのび、花オクラも小さい鉢でがんばっている。諦めていたゴーヤも小さいのが見つかった。順調に太ってくれれば少なくとも1本は採れる。ここ数年全くだめだったからうれしい。
 3月の終わりに花瓶に挿した山ツツジがずっと枯れずに続いて小さな葉までだしたので、植木鉢にさして水をやり続けていたけれどそんな挿し木がうまくいくわけもなく、かすかな緑も費えてしまった。でもすごい生命力だ。早春の草木に流れる生の息吹は底知れない。細胞の始まりの力も同じことなのだろう。
 みごとに刈ってもらった茅も、あやうく感嘆してしまうほどまたすっかり繁って優雅に揺れている、なんだか前より勢いもいいみたいだ。柔らかい緑が先端ですっと細くなりかすかに光をとおして輝く。憎っくき敵だが、この季節の草木はどれもが最後の新緑の美しさを放っている。もう2週間もすれば居丈だかな黒々と堅いだけの雑草になるのだろう。
 美術展や映画の会も終わった。あたふたしたひどい雨漏りも、過ぎてしまうと後かたづけがやけにのんびり感じられたりする。誰かがシジフォスの神話に喩えたように、家事はやり続けないとたちまち何もかもが滞ってしまう。河原に石を積み上げ続けるように、黙々と、しかも陰の仕事としてあいまをぬって終わらせなくてはならない。抜けるだけ手を抜いても、最低限の線がある。それよりほんの少しバーをあげるだけで途端にしんどくなるけれど、でもどこかがすがすがしく光るのが目に見える。どこかに小さな喜びがある。


菜園便り272
7月6日 「梅雨のあとさき・・・写真つき」

 絶句するとはこういうことかと、なんだかそんなことに感心してしまった。
 でもショックは大きく、驚愕といってもよく、それをなんとか受けいれるために、心理的な操作を自分であれこれさみしくやっているのだろうと思ったりもする。呆然として自失して、とにもかくにも憂鬱になる。
 2階1号室の天井が崩落した。
 屋根瓦の下の土が風化し粉状になって徐々に天井板の上に降り積もり、なんだか懐妊したような形にふっくらとたわんでいたのだけれど、何とかしなければと思いつつ、意外なほど何も起こらないのでついつい「こんど」と自分にも思いこませていたら、梅雨の豪雨が続いた今朝、ついに崩落となった。それも不思議なほどきっかり半分だけ。
 落ちてたわんだ梁、折れた天井板、雨受けのスティロールの箱はみごとに砕け、泥の下に埋まってしまった。信じられないほどの泥が畳の上にどさりと積まれている。いったいどこからこんなにも、としか思えない。
 明け方にベッドのなかで、西側の駐車場の方でどさりというような音がしたな、なんだか軽い衝撃みたいなものもあったなと感じてはいたけれど、まさか2階の東側の部屋だとは思ってもみなかったし、こんな惨状だとは予想もしてなかったから、驚嘆、驚倒というような大げさな表現でもたりないほどだった。荒唐無稽、みたいなことばも浮かぶ。いったいなんなんだこれは、というような。
 天井は、渡してある梁もほっそりとしたのが軽く止めてあるくらいで、天井板はその上にふわりと乗せてあるだけだからそんなに頑強なものではないけれど、でも上から落ちてくる埃や、時によっては雨を受け止めてくれるたいせつなものだ。なにより屋根裏のあれこれや暗さを隠してくれる。むきだしの梁の太さや美しさを愛でるだけではすまされない。
 これからこの天井や部屋を、さらには玉乃井をどうすればいいかと考えるその前に、先ずどうやって片づけたらいいのだろう、この信じられないほどの土の山。雨をすって泥濘と化し、いかにも重たげだ。乾くと褪せた芥子色でパウダー状にまき散らされる。年月のなかであらゆる要素が風化しているような土。黴も生えようがないように枯れきっている。目に飛びこみ、鼻の粘膜に張りついて、ダストアレルギーを起こさせる微粉末。まったくやれやれだ。
 翌々日の晴れた空の下、少し乾いた空気のなかであらためて見ても、その塊り感、重さ感は揺らがない。いい加減にしろ、と思うし、なんだかバカバカしくもある。いったいぜんたい・・・・。 この2ヶ月ほど妙な痛みが続いているから、「さて」と気軽に上げられるような重い腰もない。困ったことだ。

 

菜園便り273
7月10日   CDの謎、ふたたび

 CDがケースに入っていなかったこと、なくなったりしたことを書いたら、こんどは、見知らぬCDがいつのまにかモーツァルトのCDケースに入っていた。不思議だ・・・
 週末に玉乃井を開放し、モーツァルト全集を連続で聴いていて(今は弦楽四重奏曲の最後あたり)、演奏中のアルバムケースをカウンターに飾るように置いているのだけれど、その3枚組のケースのなかに、見知らぬCDが1枚入っていた。不思議だ・・・
 濃いオレンジ色の地に女の子の半身が黒く印刷してある。ちょっと振り乱した髪が、もしかしたらそういうファッショナブルな髪型なのかもしれないけれど、子どもの顔にそぐわない気がしてなんだか落ち着かない。首からつった小太鼓を叩いているので映画「ブラジルからきた少年」を思いだしたりする。
 6ポイントくらいの小さな文字が周りをぐるりと取り囲んでいて、目をこらすとBOLEROとかmr.childrenとかいう文字が読める(正確にはMRと大文字だ)。そうかこれはミスターチルドレンのアルバムなのか。でもそういうことがわかって、かえって不思議はつのる。
 そういえばずっと以前に、ぼくにとってのそういうもの(「よく聴きますよ」と見栄はっていうようなもの)はショスタコービッチコルトレーンミスターチルドレンかもしれない、どれも胃が痛くなるような気がするけれど、と書いていたけれど、最近ショスタコービッチコルトレーンをたて続けに聴いていたので、その流れに当然のように現れたのだろうか。我が家にはミスターチルドレンのCDは1枚もなかった。
 よく聴かれていたようでいくつか小さな傷もついている。
 ショスタコービッチはチェロ協奏曲の、あのでだしを確認するために聴こうとして、リン・ハレルとロンドン響だったと思うけれど見つからず、弦楽四重奏のなかにも同じ旋律が使われているのでそちらで聴こうと、これはフィッツウイリアム弦楽四重奏団演奏の全曲盤で、このカバーデザインは自分でやったCDデザインのなかでも一番のお気に入りで、それを何枚か聴いたりしていたし、コルトレーンは、近所の図書館にジャズのCDがかなり揃っていてコルトレーンもバラードが中心だけれど「至上の愛」や「ブルー・トレイン」「ソウルトレーン」なんかもあって、時々借りてきては聴いていた(ほんとは彼のLPをどっさりもらっているのだけれど)。
 そういうのを誰かがどこかで聴いていて知ったのだろうか、なんて妄想が広がったりする。でも不思議だ・・・・
 突如稲妻と共に出現したとか、なにかの深く錯綜したつながりのなかから静かに産みだされたとかいうのは、まあありえないから、誰かがおもしろがって置いていったのかもしれない。辛辣なモーツァルト評、この企画への批評だろうか。まさかと思うけれどありえなくはない。丁寧に聴く人にとっては、同じ曲を1日じゅう聴かされるのはたまったものではない。ぼくは台所で珈琲を入れたり、ケーキを切ったりしてバタバタしていて、ときおりリモコンの再生スイッチをあれこれ考えずにピッといれるだけだ。
 ひとりでいてもそんなにゆっくり聴けないし、あんまりよくないのもあるなあなんて時には不謹慎に思ったりもする全集踏破だけれど、ピアノ協奏曲21番にしみじみできたりもするから、また気をとりなおしてリモコンを構える。
 けっきょくまだチルドレン氏のCDは全部を通して聴くには至っていない、それも不思議だ。


菜園便り274
7月19日

 海側の庭はけっこう広い。以前は離れや風呂があったところだからとうぜんといえばとうぜんだけれど、建て壊した後がそのままになっていて、自然にはびこった芝生や雑草がひろがり緑に覆われている。気持ちがすっとほぐれるような空間。
 そこに猫が3匹くる。白と黒の斑はお隣の猫で、彼は野良だったのを飼われるようになって、はす向かいのお宅でも可愛がられてご飯を食べている。そのせいかすっかり太って、動きも鈍くなってきている、年齢もあるのだろうか。
 時々ふらっと家のなかに入ってきて驚かされる。応接室でのんびりテレビを見ていると奥の小さな引き戸の影から不意に出てきて、互いにぎょっとしてすくみあったりする。ここにだれかが住んでいるとは気づかないのだろうか。同じことを何度もやっているのに学習能力に欠けている、なんて思ったりもする。彼なりのエンターテイメント、だろうか。だれを喜ばせるための? 玄関が開いてないときは台所のどこかから、またはカイヅカイブキをよじ登った2階の隙間、時には食器庫のとなりの空き部屋の床下あたりから出入りするようだ。
 今朝は配膳室で珈琲を入れているとふいに廊下側の入り口からゆっくりと入ってきた。互いに顔を見あわせてちょっと驚きあって、いつもだとぱっと走り抜けるのに、そのままゆっくりと歩み去った。なんだか元気がないし、毛並みにつやがあまりない。小さかった頃の「おお」とつい声が出るような真っ白な輝きはない。年齢のせいだろうか、でもそんなに年なのかとも思ってしまう。あの輝きはつい最近のことだった気もする。
 以前、目の前で高く跳び上がって鳩を襲うのをみてひどくびっくりさせられたし、なんだか怖くもあった、見てはいけないものを見たような。餓えや死がかかった猟ではない気まぐれな遊びみたいなもの、でも確実に喪われていくものがある。
 チャコールグレイの長い毛の猫と、あれこれ混じりあった焦げ茶の毛並みのこれも太った猫はたまに姿をみせる。もちろんどれもがいっしょに顔をあわせることはない。それなりに領分があるのだろうから、気を遣うというか侵犯には心しているのだろう。とうぜん争いになるだろうから。
 そういうふうにいうならこの庭は、頻繁に来て散歩したり寝そべったり、木陰にじっと這いつくばって雀を凝視したりしている隣の斑猫の領分なのだろう。小説のなかに、誰それさんちの猫が垣根の下から入ってきて庭を横切ってどこそこの家に入っていく、黒いしっぽの短い猫は松の向こうの奥の方から出てきてそっちの生け垣の隙間からでていく、といった会話が出てきたことがある。なんでもないいつものできごとを話しているんだけれど、どこか変でなにかが決定的にずれてしまったという感じを持たされてしまう。猫はなにかしら不安をかきたてる。全く知らん顔で歩き去るのに、消える直前にうつむき加減の目の端ぎりぎりでちらとこちらを見たような気がしてしまう。
 庭に面した縁側の隅が今の仕事場なので、庭も海もすぐ目の前でついついそちらに目がいく。草木のさまざまな階調の緑と海のとらえどころのない青。庭には錆色の刈られて放置された枝や草の山もあるけれど、姑息な心理操作でそこは見えなくなっているから、視界はどこも涼やかだ。灌木が密集しているあたりは黒々と、夏の植物の居丈だかで暗い塊もある。風が吹くと、軽やかに茅が揺れる、頭を葉先を垂らして風の形そのままに揺れる、そこにはかそけささえある。


菜園便り275
8月1日 『酔っぱらった馬の時間

 前期最後、7月の「玉乃井映画鑑賞会」での「酔っぱらった馬の時間」(2000年)上映も終わった。バフマン・ゴバディ監督の最初の長編であり、初めてクルド語でつくられた映画だったけれど、最初に監督自身の「これがクルド民族の現在であり、現実です」という悲痛にも聞こえるコメントの後は、差別や抑圧の対象にされてしまう当事者がどうしても陥ってしまう、告発とその立場の絶対化に傾くことなく、みごとに生を、世界をすくい上げていく。受けいれる、というもっとも難しい勁さを持つ人たち、の存在を示していく。理不尽さも不公平も受けいれ、とうてい肯えないような強制にも耐えて、そうして先へと歩を進める勁さを持つあり方がさりげないまでにしぜんに示される。諧謔にならない静かなユーモアさえある、奇跡みたいだ。
 絶望を選ぶにしろ希望を選ぶにしろ、自身で引き受けるという率直な姿勢が、威圧的な形でなく貫かれる。整然とした論理、説得力のある文脈のなかでというのでなく、与えられた条件に身ひとつで向きあいそれらを引き受けることとして。それが今の時代の、その地域の正義であるからということでなく、押しつけられたものであっても、それを受けいれ、今の生に、あり方のなかに取り込んでいくしかないと。正しいとかまちがっているとかいうことではなく、生のあり方の根幹がそうなのだと静かに語るように。こういう人たちの存在が、個の欲望が全開にされた今の世界の唯一の希望かもしれないと思う。
 同じことは、彼の2004年の映画、「亀も空を飛ぶ」にもみることができる。けして皮肉や冷笑に陥らずに、滑稽でさえある世界が、厳しい現実が、描かれる。全てが喪われても誰も大声を上げない、愁嘆に溺れず、すでに次へと体は向いている。現象をしっかりと引き受け、身ひとつで対応していく、そうして結果をあれこれ斟酌しない。こういった勁さをどうやったら人は身につけることができるのだろう。個人や家族が単独でつかむことはできない。なんらかの共同体が時間をかけてつくりあげたもののなかで静かに発酵し成熟するものだろう。かつては宗教的とも呼ばれたものに近いのかもしれない。
 常に世界のあり方を見つめ、隣人の顔とも柔軟に対応し続けながら、一方ではけしてかわらない同じ声をどこまでも低くつなげていく。だからいつの時代でもどこででも、最後の最後の世界の崩壊を食い止め、そういうことばでいうなら小さな希望の種子を産みだしていく、自身の身体や死と引き替えに。もちろんそんなことをことばにすることも声にすることもなく。
 一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんむずかしい、とかなり突き放した場からいう人もいる。そういう呪縛の強さ、こわさをどう抜けていけるのかは、わたくしたちがすぐにでも答えなければならないほどの緊急課題だろうし、それはますます重大になっている。
 誰もが、つまり自分自身もなにかの抑圧の対象でしかないという理を丁寧に見つめる力、知る力を持つこともひとつの答えだろう。そこから人は人と「弱さ」の奥で出あいふれあっていく。自分を「底辺」に置くことは人にとってそんなに難しいことではない。
 受けいれる勁さを生活のなかで持ち抱え続けるのはつらく難しい。「成人」することで、年月のなかで、喪わざるをえないものも少なくはない。だからこの映画や「亀も空を飛ぶ」が子どもや思春期を表現の中心に据えるのもとうぜんなのだろう。
 そこを抜けてどこかへ、輝かしい未来へゆくといった通過儀礼ではない受容の形を、改めて紡ぎだしかつての神話に重ねあわせていく、そういう作業を人は、共同体はどこかで始めているのだろうか、いつも<誰か>が連綿とやり継いできたように。たぶん絶望と希望というのは、全く相容れない正反対のものではないのだろう。雪を被った遠い山稜を仰ぎ見るように、未明のでも懐かしいものへ静かに手を振る。