菜園便り207
4月26日

 いつもだと五月に入ってから、「ずっと気になっていたけれどやっと夏野菜の植えつけができた」というところだけれど、今年はあたたかかったせいか(というかすごく不順だった)、気持ちに余裕があったのか、早めに苗を買ってきてすませることができた。やっぱりいつものように近所の花田種物店から。
 植えつける場所も含めてかなりきっちりした予定をたてるのだけれど、毎年買いに行ったその場で、たくさんの種類の苗につい目移りしてしまい、あれこれかわってしまう。今年はほぼ予定どおりにすんだ。冷静さを保って迷わなくなった、というのでなく、考える力が失せているとでもいったほうがいいのだろう、簡単な計画をたててつくったメモを手に、機械的に選んでいった。最低限のことへの最小の意欲、そういった生活態度の毎日とでもいうしかない日々、ということか。
 胡瓜五本、トマト七本、ゴーヤ四本、ズッキーニ二本、別の場所用のピーマン三本、バジル二本、レタス一株。ついに今年から茄子は放棄。毎年数本買ってうまくいかないまま何度も場所もかえ挑戦してみたけれど、どうもこの土地にはあわないようだ。オクラはもっと早く二度の挑戦で挫折したし、南瓜や西瓜もうまくいかなかった。そういえばハヤトウリも三度ほどで終わった。
 菜園便りを読んでくれていた人が我が家に来た時、「えーーーーだまされていた!」と言ったことがあって、それはあまりの小ささに驚いたということで、メールで読んでいるといかにも広々とした、緑茂った菜園を思うらしい。たしかに父とやっていた頃はそうんなふうなかんじもあった、少し。植えすぎて、混みあいすぎて、でもそうだから収穫も多くてもてあますことも多かったけれど。でも庭の片隅の菜園、ということだからこんなもんだろう。わあー、とその大きさに驚く人もいる、たまに。たしかにベランダよりは広い・・・・・・というか、まあ・・・・。
 この時期は風が強いから、振りまわされて苗の茎が弱ったり倒れたりしないように囲いをつけるのがいいのだけれど、めんどくさくてなかなかできない。ちょっと半端じゃない風が二、三日も吹いたりすると、収穫時に露骨なほど結果が表れる。今年はすんなりとその作業にも入れて、呆気ないくらいすいすいできた。竹や覆いのビニールといった材料が少なくて全部はできないまま終わったら、途端に翌日から強い風が吹き始め、慌てて材料を調達してきて囲ったけれど、これでうまく育ってみごとに実ってほしい。
 時には困るほど次々とできるキヌザヤも採れはじめ、空豆もふくらんできている。ルッコラは終わったけれどまだレタスとパセリはひとりには多すぎるほど採れる。昨年植えた無花果や柿、ざぼんも成長は遅いけれど、しっかりと新しい芽が出、葉を広げている。もうちょっと肥料をあげたり、手をかけなくてはと思いつつ、日々は流れていく。
 この砂地で、瓦礫まで放り込まれている土地にこつこつと何年もかけて根を伸ばし、潮や強い風にあらがいながら葉を広げ枝を伸ばしていくのは並大抵のことではないだろう。そうやって少しでも大きくなった樹木の陰に、隠れるように守られるように小さな草木が伸び始める。人が植えたものより、どこからか飛んできた種から伸びる木が強いのはここに適応できているわけだから当然だろうけれど、それはつまり芽吹くことさえなかった数限りない種子や片鱗があるということでもある。
 まるで無理難題を押しつけられるように、強引に植えつけられた果樹はその瞬間からたわわな実りを、誇る花々を期待されている。理不尽だといっても聞き入れられないだろう。不熱心で不器用な手入れはかえって迷惑かもしれない。それでもめげずに木々は育ち、次はキンコウジ、枇杷、桃、そうして桜だといった人の思いも際限なく広がっていく。

 

菜園便り208
4月28日

 先日また忘れ物、というか落とし物をした。最近多い、困ったもんだ。記憶力などが劣ってきているのは当然だけれど、注意力も散漫になってきていてぼんやりしている。なくすのは、そういうことが起こるのを想像し予測する半分無意識の潜在的な注意力がないということでもあるのだろう。
 いくつかのことが重なるとたちまち小さなパニックを起こして、混乱してしまうという理由もある。父の入院や転院のさいに煩雑な手続きや多い荷物に焦って汗をかいて大わらわだったときのことを思いだす。どうしても気後れせざるをえない場所でもある。ずっと使っていて気に入りのマフラーがなくなり、大事な書類や印鑑が見つからなくなった。
 カードとか鍵を落としてしまうのに、財布を落としたことがないのはえらいといってくれる友人もいたけれど、実は財布は使ってないからで、お金を落としたことがない、とはいいきれない。そうしてこうやってまたカード入れを落とした。その時のジャケットはポケットが大きくて蓋もついてるわりに落ちやすく、何度か椅子の上や床に落として、気をつけなければとひとりごちしたこともあるのに、またやってしまった。
 博多駅紀伊国屋村上春樹橋本治をかなり長く立ち読みしていたのが祟ったのかもしれない、くわばらくわばら。改札口まで来てないのに気づき、でもすぐに真っ青になるというわけでもなく、なんかぼんやりしたままあれこれ考えるふうで、バスを降りた時に新しいバスカードを買ったから、その時はあったのだから、その後の紀伊国屋だろうといちおうししょうに足元など見ながら戻る。よく考えると、免許証、銀行カード3枚、バスや地下鉄のカード2枚、テレフォンカード、図書館カード3枚、デパートや電気店や本屋のカード、それに映画館のカード5枚(シネテリエのは満願で映画が1本みられる)もあるし、お守りと名刺も入っている、見つからないとあれこれ手続きが面倒だなあとわかってくる。透明な安物で古くなって端がめくれているようなカード入れにこんなにあれこれ入れているのはやっぱりまずいかなあと、思ってはいるんだけれど、簡便なのは軽いし、ひとまとめだと、それさえ持って出れば全てすむからついついそのままになる。ふだんの近所用と出かける時用とせめてふたつくらいにはわけてと考えないわけではないのだけれど。
 周りを見回しても財布や指輪をかけまわって必死に探している人なんていない。みんなスマートにすいすいと歩いて用事をこなしている、すごいというか不思議な気もしてしまう、こんな時は。昔は時おり人の輪ができて、そのなかで泣きそうになってはいずりながらコンタクトレンズを探している人があったものだけれど。
 紀伊国屋ではとりあえず立ち寄ったコーナーを一周し、やさしそうな店員に声をかけてきいてみた。問いあわせてくれた結果は「ない」ということで、でもさすがにプロというかきちんと会社の方針があるのか「後で出てきた場合に供え連絡先を書いて欲しい」ということで、書きこんで渡して、でもあまりがっくりというか焦る気持ちがまだ出てこなくて、エレベーターの方に歩いているとアナウンスがあって、別のカウンターで預かっているとのこと。先ほど担当してくれた人とそちらに行って受け取った。うれしいしきちんとお礼も言ったけれど、なんというかあまり、ワオ!すごい!!でてきた!!!というふうでもなかった。
 なににつけ感受が薄れていて、そのぶん矛盾するようだけれど、些細なことに涙ぐんだりする。これは感情が豊になり深まったからでなく、逆に浅くなって麻痺しているからだと思う。最近世の中で泣くことがえらく目だっているのは、そういう心の脆弱さの現れでもあるのかと、自分をみながら思ったりもする。

 

菜園便り二〇九
六月三〇日

 ほんとに久しぶりに石川不二子の名前を目にした。新聞のコラムで、迢空賞、前川佐美雄賞の受賞に関しての記事だったけれど、驚かされるような、かなりつらい内容でもあった。
 「睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗うなり」「未だ熟さぬ無花果を割った色感が脳裏にありて昨日けふ過ぐ」「暗青色の鉄かぶと並べる下の顔我は見ざりき憎むを怖れて」と歌った少女の今ということ。
 ぼくにとっては「君の薔薇甦り大き花つけしことをも告げずーーただ遙かなれ」であり「あはれ冷たき声するなかれかかるとき党員きみらをもっとも憎む」であり「恃めなくゆらるる夕べ父のごと背(ソビラ)をだきてくるるものほし」の人だった。
 一九七三年に出た三一書房の「短歌体系」で初めて知った歌人だけれど、彼女自身はすでに一九五八年に最初の歌集をまとめている。その出発から関わりのあった中井英夫の所で彼女の名前が出たことがあった。八〇年代半ばのことで、中上健次も石川不二子も好きだというぼくを異星人でも見るようにみながら、でもそう言う人がでてきたということだといって、酔いに任せて石川不二子に電話しようとして、それだけは止めてもらった。中井さんももう亡くなられて久しい。
 ぼくにとっては遠きにありて思う人だった。開拓とか農業ということばに、そして荒々しく酷いけれど感嘆や喜びにも満ちているだろう環境や、さらには自給自足といったことばもぼくのなかでは膨らんでいた。そういう人の存在をおぼろにであれ知ることで、大げさに言えば生きていける、そいうことを信じさせる人だった。
 その長く困難に満ちた開拓農業のなかで、彼女自身は七人の子を育て今も短歌を続けているけれど、短いコラムのなかに点在する「子供たちは誰も農業を継がなかった」「『生きているのがしんどい』と酒におぼれる夫は見るにしのびなかった」といったことばは痛々しくさえあった。彼女にして、やっぱりこんなにもつらいことがあり、世界は理不尽であり、生きていくことの難しさと不思議がつまっているのだろうか。もちろん彼女自身はそういうふうには語らない。子供のことも、過酷な労働も、夫のことも、そのままに受け止め、見つめる人である。
 受賞した歌集は「ゆきあひの空」と題されていて、そのなかの一首が載せられていた。「ゆきあひの空の白雲 のど太く鳴く鶯もいつか絶えたり」。

 

菜園便り二一〇
七月一一日

 菜園がうまくいかないと冬野菜の時から愚痴っていたのが聞こえて拗ねたのか、夏野菜も不調。春の豆類もよくなかったし、夏野菜は苗を植えた直後からダンゴムシの猛襲で、と思う、かなりやられて再度植えた後も順調には育ってくれず、六月のズッキーニはろくに葉ものばせないまま全滅し、胡瓜もかろうじて三本が育ったけれど茎も葉も何やら不吉な色と形で、今までに小さいのが二本採れただけだ。ゴーヤも二本だけは枯れなかったけれどやっと一個実をつけただけで先行きも怪しい。
 でもトマトは小ぶりのとミニトマトにしぼったこともあってか、ぐんぐんのびてしっかり実をつけてくれている。小さめのざるにどっさり採れる日もあって、うれしい。もちろん赤くなって採るからみずみずしくておいしい。皮はかたい。慣れない人は吐きだすかもしれない。実際父があちこちに吐きだした皮が干からびて貼りついているのは汚い。でもそのオレンジ色は、子供の頃のセロファンの色のようでなかなか美しい。
 レタスも終わったし、バジルも一気に葉をのばしたちまち花をつけて終わりつつある。結局一度も使わないままだった。モッツァレラチーズ+トマト+バジル以外には、パスタとかトマトソースぐらしか思いつかないからだろう。そのままサラダで食べる蛮勇はない。ルッコラはしっかり水をやって急いで芽を出してもらったけれど、雨が続いたせいか伸び悩んで、いくつかは黄色く枯れかかっている。八月二日の花火大会の菜園サラダに間にあわないかもしれない。
 ここまで書いたら雨が小降りになったのでいそいで買っておいたレタスを2株植えに走る。売れ残って店頭にしばらくあったようだから、すぐに伸びて花をつけてしまうかもしれないけれど、これもとにかく花火大会には役にたってほしい。パセリも終わりそうだけれど、ピーマンはまだまだ続くだろうし、どうにかサラダはできそうだ。
 遠い友人からレシピでの参加があった、「遠くに感じる花火大会」。炒めた茄子にニンニクしょうが胡麻醤油をたっぷりかけたのもでおいしそうだ。是非つくってみよう。先日新聞に載ったピータン豆腐も長芋やトマトなどあれこれ加えたものだったので、それも試してみよう、と気持ちだけは積極的になる。意外にバジルもあうかもしれない。さっぱりで栄養価の高いもの、そんな夏休みによく聞かされた「暑さに負けない食事」を思いだす。冷たいものはひかえて、飲み物は食事1時間前には止めるとか、そういったことも思いだす。とにかくご飯を(口から摂取する食事ということだろうけれど)食べないと元気になれない、と具合の悪いときにはいつも聞かされたから、無理しても(というのは吐き気をおさえてもといったようなかなり強引なことで、でもそうやって少しずつ食べることができるようになっていく、ちょっとずつ)きちんきちんと「三度食べる」ことは強迫観念みたいになっている。こういうのはダイエットにいいのか悪いのか・・・・・。

 

菜園便り二一一
七月二九日

 八日に退院してきた父は、移動は基本的に車椅子、食事は腎臓病食(糖尿病食も兼ねる)という状態で、退院後の審査で介護保険は要介護度4になった。週に四回デイサービスに通い、訪問看護が週一回。隔週で近所の病院に検診に行っている。
 介護についてたずねる人がよくする質問に、「トイレはご自分でされるんですか」というのがある。こういう問いはぼく自身も以前はまっ先に思いうかべていたし、しもの始末が自分でできるかどうかは決定的な分水嶺だとも思いこんでいた。でも実際にはそういったくっきりした区切りは当然のようにあるわけはなく、寝たきりといってもさまざまな形があるように、トイレができるできないにも千の階梯がある、おおげさにいえば。先ず、他の全てのこともそうだけれど「できる」時と「できない」時がある。父の場合「できる」といっても、そこまでは連れて行くなり、そのための準備なりを前もってしていないと「できる」のは難しいだろう。車椅子を押すなり、付き添うなりして連れて行き、トイレの便座を下ろし、座ってするように頼み・・・・といったこと、また夜間はポータブルトイレをベッド脇にだし、蓋を開け、やっぱり座ってするように頼み・・・・となって、そういった一連のことを手伝わないと「できない」ことになる。
 質問の後に「トイレが自分でできるなんてすごくいいじゃない、もっとたいへんな、こんな人あんな人がいる、よかったわね」というようなことばが往々にして返ってくる。最初は違和感を持ちつつも、たしかにそうだろうなくらいに思っていたけれど、回が重なるとだんだんいらだちが生まれ不快感がつのる。おそらくそこにある無意識の軽視=否定を感じるからだろう。たしかに「できる」父は「助かる」。毎回毎回永遠に続くそういった世話がある人のことを思うともうしわけない気になったりもする。でもそれはそういう介護をしている人や疲れ果てている人にたいしてだ。
 介護であれなんであれ当事者に該当してしまう人が持つたいへんさを、他のものを対置して無化し、そんなことはたいしたことじゃないんだよ、もっとたいへんなことが世界にはあるんだ、もっと苦しい人が世界に入るんだと突き放し、結果として目の前の困難や当事者の苦しみを軽侮し、そうやって、当事者でもなく、また何もしていない自分への自責や倫理的な後ろめたさみたいなものを吹き飛ばしてしまう無意識の心理操作、そんなものを相手に感じてしまうからだろう。「なにもしない」ことが悪いのではなく(じっさい誰もなにもできないのだから)、「ほんとはできるし、しなくてはならないけれど、今はしていない」、と屈折した傲慢さで思うその心理に自分で気づかない鈍感さが厭わしいのだろう、きっと。そうしてそれはいつも誰にも、ぼくにももちろんついてまわる自戒すべきことだ。
 ついでにいうと、介護申請の審査ほどうんざりさせられるものもそうそうないけれど、前後のことはまるっきり問いもなくて、「トイレの後自分で拭けますか?」だけでいろんな判断を下すようになっていたりする。「拭く」ことができても、ひとりでその段階までたどりつけない人も多いだろうし、段取りを自分でとれない人はもっと多いだろう。それにしてもこういった直截なというかえげつない問いには辟易させられる。もうちょっとちがう言い方はないのだろうか、そもそも介護の内実や詳細を知らない人が審査することができるのだろうか。
 わたしたちは、対象のことを想像力ではきちんとわかれないときには謙虚でいるしかない。差別や嫌悪のことを考えるとわかりやすいだろう。差別されることの痛みもなにもわからない、なにもできないということを大前提に、ただことばを失い、たいへんだったねえというささやかなねぎらいのことばを小さく呟くぐらいしかできないのだろうから。そもそも自分や、自分たちが日々、平然と差別していることさえ気づかない毎日なのだから。
 でも全ての人が、ことの「大小」は別にして、何らかの形で何かの当事者であり、そのことの困難を抱えているのだから、その自分の苦しみの場からはじめる想像力なら、おそらくかなり遠くまで、対象の当事者性の奥にある哀しみ、苦しみみたいなものの近くにまで届くのではないだろうか(具体的な問題や苦しみをわかるというのは欺瞞になるしかないが)。そこではその事象の社会的な大きさ軽重などは、そもそも時代的地域的でしかないし、些事になり、その複雑さつらさの絶対値とでもいったものを感じとることができるようになれるかもしれない。
 話がとんでしまったけれど、介護というのは、溢れる「愛」はないけれどなんとか困っている人を助けたいとか、いろんななりゆきからそうする立場になってしまったからやるというものだろう。愛があればそれはもう「介護」でなく、喜びさえある日常、美しい人生の一部となるにちがいない。そうなれないから、非日常としてあり続ける終わりのない繰り返しに思えてしまい、常に負担感や嫌悪感を抱えつつやっていてつらくなってしまうのだろう。
 じゃあぼくは「愛」ある日常か、苦行の非日常かというと、父と息子に<愛>はおよそなりたつわけがないじゃないかと、エディプスコンプレックスも持ち出しつつ、後者だと答えるしかないけれど、でもその幅も、まあそう悪くないさからどうしようもない辛酸苛酷まであるのだろうから、目の前のことがらひとつひとつにその場その場で対応していくしかない、あまり遠くを見ないで。

 

菜園便り二一二
八月一八日

 お盆も終わった。もうじき寒くなる、なんて愚痴は止めて、今のこの暑さや熱夜をうんざりしつつ享受しよう。
 今年のお盆の精進料理はもうしわけないほどの手抜きだった。あれこれ手間暇かけてつくったりすることはなくなっていたけれど、一三日と一五日の団子以外で多少とも時間をかけてつくったのはがめ煮ぐらい、というありさまだ。せめて練り胡麻を買っての胡麻豆腐や夏の定番だったトルティーヤ玉乃井ふうぐらいはと思っても身体が動かない。その前に、気持ちが動かない。まったくもって・・・・。
 たった三日間だし、いつも精進だけは続けていたのに、一五日に外ですませた昼食のスープにベーコンの切れっ端が入っていて、食べ始めてから気づいて後の祭りだった。トマトソースのパスタは、ニンニクが入っているとしてもまあいいとして、やっぱりベーコンは肉食になる。玉子までは「許す」精進としても、失格だろう。お盆の間くらい肉食を止め、穀物や実のなる野菜ですませたい。(こういうのは若いときには、偽善だとか、地域共同体の強制へのへつらいとか、俗物儀礼伝統主義だとか思っていたかもしれない。自分のなかにある、形や儀式的なものに強く惹きつけられる性向を過剰に疎んでのことはあるにしても、こういう過剰さが若さというのだろうか、なんというか・・・・・食べずにすませられるのならそれにこしたことはない。)必要以上のカロリーやタンパク質などの摂取が、人を何かに駆りたてていくのはたしかなことだろう。
 ヴェジタリアンということばはおそらく七〇年代の後半に知ったと思う、Tofuなんてことばと同じ頃だ。それまでは「菜食主義者」みたいな古典的で本のなかだけのことばだった。宮沢賢治にもそんな作品がある。ダイエットということばもその頃だ。「ドクターアトキンスズレボリューショナリーダイエットブック」というのを教えられて、その本の中に、太るためのダイエット、という項目があって、ダイエットということばがやせるためのあれこれ、という意味でないこともその時知った。
 米国のクックブックを手に取ったのはもう少し後になる。デトロイトかどこかのこじんまりしたパーティでとりとめのないおしゃべりを半分緊張しつつニコニコして聞いたり、雰囲気を壊さないためだけに相づちをうったりしていたときに、ゆで卵の作り方のレシピがあると聞かされ冗談だろうと言ってると、ほんとだった。そのしっかりしたハードカバーの本には、ゆで玉子のさらに前に、お湯の沸かし方があって驚いたことを思いだす。さすがにそれがその本でも最初のレシピで、「水のくみかた」「水の見つけ方」まではなかった。結局その同じ本を、分厚いペーパーバック版で買って自分でもあれこれするようになったけれど。
 小さいときはお盆が終わるともう海に入っていけないと言われていた。土用波が立つし、クラゲも出てくる、と。学校でもしつこく言われていたから、きまじめな生徒は九月の海のあたたかさを知らないままに終わった。温泉みたいなあの生ぬるさも悪くない、と思う。

 

菜園便り二一三
一一月一一日

 なにかと慌ただしい日々で落ち着きがないのだろうか、気がつくと菜園便りも三ヶ月のご無沙汰。一度、竹内敏晴が亡くなったときに書きかけて、でもきちんともう一度手元にあるものだけでも読んで、と思っているうちに時間はたってしまった。「ことばが劈(ヒラ)かれるとき」と「声が生まれる」に改めて感動しページを捲っているうちにまたまた時間がたってしまい、しかもそれもまた中途に終わってしまった。
 細切れになりがちな時間を映像、主にはDVDやヴィデオで埋めてしまうから、長いものや集中力のいるものに目が向かないのだろうか。本もやわらかいものがほとんどになっている。困ったことだ。昨日は友人の送ってくれた成瀬巳喜男監督、田中絹代「銀座化粧」やブックオフで見つけたクーブリックの「シャイニング」をみた。田中絹代やニコルソンはさすがにすごい。
 先日、北九州ビエンナーレの企画としてSOAPで「中国ドキュメンタリー映画の現在」が開催され(ゲスト・麻生晴一郎氏)、「自由城囚徒(自由都市の囚人)」、「女人五〇分鐘(女五〇分間)」それに「排骨(パイグー)」の三本が上映された。中国の政治犯セクシュアリティに関しての資料としても貴重なフィルムだ。いちばんみたかった、「排骨」は山形ドキュメンタリー映画祭でも上映されたもので、内陸の貧しい農村出身の青年(排骨)がシンセンで海賊版DVD販売をしている姿を撮ったもので、監督は劉高明(リュウガオミン)。このいちばん興味のあった「排骨」は帰宅時間に追われて一五分くらいしかみれなかった、とっても残念。
 それでも映画の最初に、彼が自分の仕事について語るときに映画のタイトルが次々に出てきて驚かされた。「芸術映画」には自分は興味がないし、みててもすぐ寝てしまうけれど、二〇年も三〇年も探していたという人に見つけてあげられた時はうれしいといいながら、ベルイマンの「第七の封印」、「クーリンチエ殺人事件」、今村昌平の「うなぎ」「楢山節考」、パラジャーノフや「ザクロの色」といった名前を次々に挙げていく。中国でベルイマン! 敵地台湾のもの!! 予想もしなかったパラジャーノフ!!! これならきっと敵国のタルコフスキーもでてくるのではと思わされた。「クーリンチエ・・」は画面には出てこなかったけれど、台湾のデイビット・ヤン監督の九一年の作品。それなら同じ台湾でもっと活躍している侯孝賢もきっとあるだろうし、その全部をみたい、集めたいというファンも必ずやいるだろう。
 正直言って中国でこういった映画がみられているとか、求められているとか考えたこともなかった。海賊版の横行は知っていたけれどそれは「ハリーポッター」なんかのことだとしか思っていなかった。でもジャ・ジャンクー監督が生まれる所だ、いろんな人が、当然にもゴダールに熱狂する人もいてあたりまえだ。「ああここにも、「共産圏」で、「発展途上」の地にも、映画フリークがいる!!」という驚きおかしみうれしさも起こってくる。それは朴訥で率直な、排骨という青年の人がらが引き起こすものでもあるのだろう。映画のタイトルや監督名、ときには俳優の名前を聞くことがどうしてこんなにもうれしい驚きやシンパシーを生むのだろう。長く会ってなかった幼な友だち、同じ郷里や学校の出身とわかった人、そんなことだろうか。ずっと長くつきあってはいけるかどうかはわからないがその場では心を込めて握手できる相手、ということかもしれない。
 後日、最後まで全部みた人に聞いたら、やっぱりタルコフスキーの名前は出てきて、でもソクーロフはでなくて、意外なソ連系の人の名前が出てきたらしい。小津や侯のことはわからなかった。「古典」としてビスコンティフェリーニの名前もきっとあがったろうし、DVDの棚にはジャームッシュとかタランティーノ、タケシなんかも並んでいるのだろう。性的なことに関してはかなり厳しい状況だろうから、蔡明亮なんかはひどい画像とんでもない値段で取引されているかもしれない。
 些細なことで一気に想像が広がり、共感が生まれ、なんだかもう友だちみたいに思えてくるし、今の中国にも関心が湧いてくる、そういうことにも単純というか不思議というか、自分でもおかしくなる。中国の映画、中国の監督でなく、中国という地にいる名も知れないおかしな映画ファンに、フリークに遠くから呼びかける、わかるよ、でもお前もバカだねえ・・・・・、目をつり上げて並んだDVDをすごい速さで捲っていく、店の人と声高に話しながら知識の全部を振りまき思いのありったけをぶちまけながら。それがけして高慢な知ったかぶりやペダンテズムに聞こえないのはやっぱりバランスを欠いてのめり込んでしまう人の思い入れの深さや滑稽さ、映画への愛ゆえだろうか。

 

菜園便り二一四
一一月二五日

 「三秒だけ待って下さい履けるのです飛んできて靴を履かせないで」田中喜久子(加古市)。
 これは朝日歌壇(新聞)に載った投稿歌。素直な詠だから本人の現実ととっていいのだろうし、それでこそ力を持つのだろう。介護される側の、あまりシビアにならないように、ユーモアのゆとりを持たし、愛されていることの確認もしつつ、でもやっぱり残る不満やいらだち、小さな怒りもあるかすかな絶叫、といったら大げさすぎるだろうか。それは言うまでもなく先ず自分への歯がゆさであり、それを自他共に認め受け入れなければならいことへの堂々巡りするしかない、終わりのない悔しさかもしれない。
 必死の力で自分でトイレまで行って、その前で失敗してしまって泣く老婦人を大声で怒鳴り続ける介護人・・・といった情景は今はもう表だってはないのだろうが、でも気持ちとしてまったく同じひんやりとしたものがあるのはまぎれもない事実だ。そういった「現実」そのもののリアルさを遠景に、誰もが微笑んで受け入れられる形にしての本心であり、ゆるやかな角度の屈曲。
 この短歌を月曜日の朝に読んだら頭にこびりついてしまったけれど、でも初めの五文字を「五秒待って・・・」と思いこんでいて、五秒というのはたしかに短くて長い時間だと、いろんなおりにカウントしてみたりもしていた。本人にとっては三秒、飛んでくる者からすると五秒、なのだろうか。(自分で何かやっているときと、外から見ているときの時間やたいへんさの落差の大きさは誰もが日常に経験していることだ。)実際の生活の場ではおそらく九秒くらいの攻防になるのだろう、なんて考えたりもしていた。着がえるときの着脱、特にボタンをかけるとき、ズボンを穿くとき、ベルトをしめるとき。靴を穿くときももちろんそうだけれど、屈むとか立ち上がるとかの時に、手伝う側は不必要なときにもついつい力づくで支えたり、引っ張り上げたりになる。それはおそらく介護される側に圧迫や痛みをわずかずつであれ残していくのだろう。見守る側が、飛んでいくほどに神経を張りつめ、先へ先へと気を配り、「愛」を溢れさせれば溢させるほど、どこかで齟齬も膨らんでいく。
 ーーーー「フツーの人」だってこぼしたり汚したり失敗したりするでしょう、あなたも、ね、するでしょう、それだけのことなのよ、大げさにすっ飛んできて拭いたり片づけたりしないで、ちょこちょこっとわたしが自分でやるわよ、隠しちゃうわよ、できる範囲で、今までだってそうやってきたんだから。
 紙パンツでもかまわないのよ、でもこれは「パンツ」なの(ほんとは「ショーツ」って言いたいけれど)、たまたま紙でできていて、形もごわごわして大きすぎてみっともないけれど、でも「パンツ」なの。紙パンツなんてわざわざ呼ばなくていいの、こっそり穿いて、こっそり始末すればいいだけのこと、ね、こっそりやって、静かに。靴下だって、歯ブラシだって、いい加減にすますこともあるでしょう、誰だって、そんなに引っ張られたら痛いし窮屈なの、いつもいつも丁寧に完璧になんてしなくていいの、仕事だと、人のことだと、「愛」していると、いっそう丁寧にしたくなるのかもしれないけれど、でも、ほどほどでしょうあなただって、いつもは。
 箸がうまく使えなくて、ぽろっと落としたり、妙な具合に握ったりもあるわよ、でもこれはわたしのだいじな食事の道具のひとつなの、スプーンなんかの金属を唇に当てるのは嫌なの。銅のジョッキが嫌だってダダをこねて、わざわざガラスに移し替えてビールをのむ男の我がままを、うっとうしく思いつつもどこかうれしそうにそそくさとやってあげるような、行きつけのスナックのママのような、そういうこともあるでしょ。ーーーー

 病院で看護士が上向いた口に、片手で放り込むように巧みに粉薬をのませるのをみて、家畜とか餌とかいうようなことばをつい思いうかべた人は少なくはないだろう。自分が、ああいうふうにあしらわれると思うと、やっぱり耐え難い。尊厳、なんていうほど人は立派な生きものじゃないし、まして自分なんかと思いつつも、でもごくしぜんに人をああいうふうに扱えてしまうことに、いつのまにか鈍磨して伸びきってしまう感受に対して、嫌悪がそして小さな怒りが生まれてしまうのも事実だ。そういう些細なことが、専門職への感謝を拒絶へとかえ、広がるはずの安心を伸びあがってくる不安が打ち消し、濁った諦めのようなどんよりした空気の底に沈み込むこませることになるのだろうか、病棟全体がそうであったように。
 人への、誰かへのささやかな思いやりは、意外にもそういう不安や怒りから育まれてくることもあるのかもしれない。そういうねじれた屈折のような始まりはどこかへ行き着けるのだろうか、新しい感受やつながりへと結実することはないだろうにしても。

 

菜園便り215
12月12日

 キネマ旬報が「映画史上のベストテン」を発表した(と新聞に出ていた)。邦画ということばが見出しに使われていたけれど、今もそういうことばはまだ有効なのだろうか。最近は制作と監督と出演者と公開の場(国や地域)とずいぶん錯綜しているから、そういうことも簡単にはいえないのだろう。
 とにかく、「日本映画」では「東京物語」が堂々の第1位。小津安二郎だ。うーーーーーーん、そうか、驚き、というか、あたりまえというか。40年前では考えられないことだった(その頃は小津の映画はこっそりみにいかなければならない感じだった)。第2位が黒澤明「7人の侍」。ひと昔前ならもちろんこっちがダントツの1位だろう。正義と民主主義とエンターテイメントの奇跡的な合体。
 外国映画は(さすがにもう洋画ということばはない)「ゴッドファーザー」。あのフランシス・コッポラだ。へえーーー!?とも思うし、そうかやっぱりとも思う(そういうふうになっているのだろうから)。これが「スターウォーズ」とか「E.T.」またはベルイマンゴダールならわかりやすい。
 こういう統計的というか投票型は、いつも平均化されて、表層的になるしかない。キネ旬という雑誌のありかたも示している、のだろうか。
 でもこういう<ベストワン!>みたいな記事はついじっくり読んでしまう。何かがすっきりとまとめられ、単純な形に切りそろえられ、優劣がはっきりすること、順位がつけられることをどこかで楽しみ、小さく納得させられてしまう。近代の大きな病理のひとつである「批評」とその媚薬である序列化の魔力だろう。
 ともあれ順位はこういうふうに続いている。「浮き雲」「幕末太陽伝」「仁義なき戦い」「二十四の瞳」「羅生門」「丹下佐膳余話 百万両の壺」「太陽を盗んだ男」「家族ゲーム」「野良犬」「台風クラブ」。えーーーーー!と叫んだ人もいるだろう。戦後から70年代までが中心だが、山中貞夫はしっかり入っている(でもふつうだと「人情紙風船」や「河内山宗俊」じゃないのだろうか?個人的には大河内伝次郎は好きだし、その主演映画が入ってくれてうれしいけれど)。重要な監督を羅列し、その上でその作品をひとつずつ並べていく、そういったかんじだけど、人ごとながら今村昌平をいれなくて石を投げられないのと心配したり、それよりなにより溝口が入ってないって、そりゃ好き嫌いとか、ちょっとした間違いですまされない、と思った人もいるだろう。
 「外国映画」にはタルコフスキーヴィスコンティもない、ベルトリッチはある、ベルイマンやエイジェンシュテインもない、アメリカ中心だけれどスピルバーグやルーカスは入ってこない、エル・スールがあってうれしいけれど、いったいどのくらいの人がみているだろうかと気になる、ある世代を席捲したアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」もない。
 映画ほどみる人それぞれが違った受け止め方をし、それを声にだして語れるメディアは他にない。開かれていていい加減でかつ真摯であり繊細で、ことばに映像に音楽にしっかり凭りかかりつつでもシラッと勝手な方へ突き抜けていく、そういう傲慢なまでの自由さをどこかに持っている。


菜園便り216

 

菜園便り二一七
二月一二日

 立春を過ぎて、さあ酷寒の日々だと気合いを入れていたらなんと五月の下旬のあたたかさになり、とまどうよりも嫌になってしまう。こういう急激な変化は、その前も後も心身によくない、なんてつい思ってしまう。
 耳に残る風の音と共に少しずつ寒さが深まり、そうして厚い曇りガラスの底のような冷たさのなかにじっと閉じこもっていると遠くに微かな光が射し始め瞬く間に広がって、まるで夜明けのように、気がつくと雪は消え河は溶け、わずかずつであれ地面のあたたかさが伝わってきて、あれっと思う日が来る。春は気がつくと、つまりそうあってほしいときにすでにそこにある、そんな季節の変化が、いいと思う。
 なんていってもしょうがない。あたたかさに引きずられるように菜種梅雨もやってきてしばらくはずっと雨。さみしかった菜園の野菜も一気に伸びるだろう。冬を越したルッコラ、パセリ、薹がたったレタス、伸びないままだったセロリ。年を越しながら芽を出した空豆グリーンピースも倍くらいになるかもしれない。ブロッコリーも時たま収穫していたけれど、一気に菜の花になってしまうかもしれない。それくらいあたたかくてたっぷりの雨だ。
 初めて植えてみたキャベツはこぶし大の玉をつくっている。うまくいったらキャベツ畑をつくって斎藤秀三郎さんにここでやりたい放題やってもらおうなんて思っていたけれど、そうそううまくはいかない。
 鉢植えの枇杷は順調に伸びて厚く緑濃い葉を広げている。遠くから見てもすぐにわかるあの独特の葉は、小さいときがいちばん美しいとわかる。無花果はみごとなほど葉を落としきっているけれど、気づかない新しい芽はすでに伸び始めているのだろう。柑橘系の病気っぽい黄色い葉も光のなかでは輝いてみえる。
 板塀を新しくするための基礎のブロック二段は中村さんのおかげでとうにできあがっているのに、寒くて手をつけられなかった本体の板塀にもそろそろ取りかからないと、荒れた庭が曝されたままだ(人目も怖い)。海側に面したひさしがひどい状態だったのを、やっと大工さんに頼んで直してもらった。光をとおすポリカーボネイトだから明るくなったし、その下をバルコニーにする予定だからちょっとしたパーティくらいならできるだろう。庭での集まりは最近すっかりご無沙汰なので、そこを使ってまた始めたい。テーブルや椅子も庭に運んで、食器も運んで準備して・・・・というのはもうできそうにないから、バルコニーなら日よけもでき、雨でもだいじょうぶだし、準備や片づけも楽だろう。しんどかったらそのまま置いたままにしておける。テーブルクロスに使っていた広い布をいそいで探さなければ。
 いったいどこにいったのだろう、解体後にみつからないものは少なくない。しまい込んだ場所がわからないものもあるだろうし、残す方へ移すのを忘れてなくなったものもある。妙なものが丁寧に残されていたりする。こういうのは引っ越しと同じだ。以前は荷物のなかから捨てたはずのアイロン台がでてきて驚いたけれど、今は役に立ってくれている。そんなものかもしれない。
 やっと今年の初映画もみることができた。「第9地区」。近未来映画で、スペースシップで、エイリアンで、戦闘で、ガンダムで、家族の愛で、友情で、あいもかわらずのグッド・ガイvsバッド・ガイで、でも違和感は小さい。たぶんエイリアンが恐竜っぽいこともあるのだろう。醜くて弱いと公然と語られるエイリアンだからかもしれない(映画のなかではプロン(海老)という蔑称になっていた)。社会的弱者のメタファーというよりそのままの姿にみえる。大企業(組織)と軍人は悪、というのが前提になっているが、これは最近の定番で、絶対悪の役割は今はそういったものに割り当てられているのだろう。マイケル・ムーアの「キャピタリズム」がそうだったように(マスメディアからも嘲笑されてムーアもちょっとかわいそうに思える、そこが自分を曝すねらい目だろうけれど)。
 今年も、なんて言い方もおかしいほどの二月も半ばだけれど、そういうふうに言えば、今年も菜園と映画とで心を高揚させつつ鎮めつつ、ここでまたいろんなことをしのぎつつ父との生活は続いていく。四月には美術展もある、母の一三回忌もある、同窓会もある。心あたたまることも、胸つぶれることもきっとあるだろう、そうやってまた世界はまわっていく、ぼくのささやかな人生も、また。

 

菜園便り二一八
二月二五日 春の庭

 春一番が吹いたとニュースが告げている。そうだろう、ほんとにあたたかかった。こうやって季節はいつもふいにかわる。心づもりをする余裕もあらばこそ、だ。でもとにかくうれしい。あたたかさはどうしてこうも人を喜ばせ甘やかな気持ちにさせるのだろう。体温が一度上がると免疫力が二〇〇%アップと叫ぶ人もいるらしい。そういう気もする。
 あたたかさに誘われ、庭の肥料を買いに出ると、ずらりと苗木が並んでいた。冬も終わりを迎え、売れ残った落ちこぼれたちがバーゲンにまわされたのだろうか。柑橘系が多い気がするのはそういうものをぼくが求めているからだろう。
 甘夏柑、柚子、それに山椒を買った。一昨年のザボンもうまく育たず、よれよれの黄色い葉をつけているけれど、ついついまた果樹を選んでしまう。食べられるものの魅力には抗しがたい。どこに植えよう、それも大いなる問題になる。桜を二本植える位置はもうとっくに決めているけれど、なかなか苗に巡りあわない。早くしないと生きているうちにベランダから桜を愛でる、なんてことができないままになってしまう。急がなくては。
 いただいた枇杷は順調に伸びている。柿は不調。土や日当たりや潮風や、植える場所によるのだろうか。一年はもって一度花をつけたツツジも完全に枯れてしまった。もらわれてきた楠と月桂樹はうまく育っている。父が一〇年ほど前に鉢植えで買った金柑は毎年わずかな実をつけていたのが、地に下ろしたら途端にうまくいかなくなった。困ったことだ。植物にさわる親指がグリーンでなく、もしかしたら金色なのかもしれない。さわる対象をかえれば、すごいものが生まれるかもしれない、例えば・・・・・。欲張って失敗するのはおとぎ話のなかだけでないのは身にしみてわかっている。さわるもの全てを金にかえた結果は、もちろん悲惨でしかない。雨が小粒の真珠なら、なんとなくパールカラーの終末かもしれないから、全ての水の分子が氷って凍てついた世界の終わりよりはちょっとだけいいのだろうか。空から異様なものが降ってくるのだけは願い下げにしたい、できれば。
 果樹に比べて野菜はやさしい。すなおに水を吸って、肥料をかじってすくすくと育ってくれる。買ってきた二種のレタスは一週間でもうすっかり菜園に馴染んでいる。隣のルッコラと比べても遜色ない。こぶし大の小さな実りをつけたキャベツはおいしかった。もったいなくて外側のかたい葉もしっかり料理した。筋っぽくなくて甘みが多い。全体にしわしわも多い。
 いつも野菜の話ばかりで、花の苗を買ってくることはないのかとのおしかりもある。でも花は食べられないからついつい選択肢から落ちていく。サラダにしてもなあ。20年も前から鉢のなかで咲き続けている花は今年もしっかり茎を伸ばしてきた。思いだしたときに油かすをやるぐらいで、鉢もかえないのに、健気なことだ。名前を調べなくてはと思ってからでも、もう一〇年がたった。
 ついこないだ、は五年前。ちょっと前だと一〇年前、しばらくたつなあ、は二〇年、そんな時間感覚。だから中学の同窓会の先生方への案内状もなにやら大時代的で感傷的になる。「教えを受けた我々も、六〇を目の前にするに至りました。あれから四五年です。まことに光陰矢のごとしとでもいうしかなく、しばし茫然としております。・・・・輝く朝日を浴びて学んだ我々も、今や後ろに長い影をひいて、行く末を見はるかす場所に立っております。云々・・・・」
 そうか、とっくに峠は過ぎていたんだな。そういう気づきかたは、なにもなしえなかった無念や残念であり、でももう峠はないんだという、登りのきつさは終わったんだという安堵でもある。まだまだ幾度も小さな起伏はあるのだろうけれど、でももう君の時は過ぎたんだよと静かに諭す声がする。頷いて小さく口ごもる、否定なのか肯定なのか。それは哀しみであり歓びでもある。ピークということばはなにかしらリアルに山頂や際だった稜線を思わせる。たどり着くのはたいへんだけれど、若い無謀さがいつのまにか人をそんな場所へと誘い込み追い立てたのだ。気がつくと足が竦むほどの絶壁をすでに過ぎて、なにかしらの安定や衰退に入っている、またはそこで倒れて横たわっている、絶命したのか、象徴的なしぐさを若さに任せて見せびらかしているのか、いずれにしろ、後から振り返ることの淫するほどの甘さをすでにして覚えているということは、すでにして下りにあり、ゲームの規則のある中心と呼ばれるものから遙かに遠いということだろう。
 甘夏柑、柚子、山椒、それにレタス2種。新しいなにかがこの地に一粒の種として蒔かれたのだろうか、塵から塵へと移ろっていくそのあっという間の流れのなかであっても。そんな大仰な思いも、見渡すと食べられる物ばかりという散文的な滑稽さのなかに吹き飛んでいく、おかしくてそしておいしい。


菜園便り二一九
四月五日

 子供の頃「三月は去る」というような言い方を聞かされていた。たしか「1月は行く」「2月は逃げる」だったと思う。学校生活を表してのことだったのだろう。
 今年の3月はまさに逃げ去ってあっという間もなかった。12月から放りっぱなしだった海側の板塀にやっと取りかかり、材料の買いだしや事前の塗料塗りを始め、また母の13回忌の準備であれこれ連絡を取ったり、お寺さんに頼んだりしていたら、父が早朝に廊下で転倒し、救急車での緊急入院になった。「定番」の大腿骨つけ根骨折だった。周りに連絡したり父の身の回りを届けて行ったり来たり、担当の先生に会って現状や手術の予定を聞いてと2、3日バタバタしていたら、今度は中村さんから虫の息の電話。駆けつけるとひどい痛みようで、また救急車。いくつかの要因が重なって、即入院。
 毎日病院をハシゴするような毎日で、でも17日から始まる津屋崎現代美術展のための10日の搬入に間にあわなくなるので塀の作業も続けないといけない。実は、遅くとも3月中に塀はできあがるからそこも展示に使えるよ、なんて安請け合いしていて・・・・・。
 そんななか30日に中村さんはひとまず退院になったけれど、ひとりで暮らせる状態でなく、玉乃井に来てもらうことになった。やっぱり病人の介護は今までとは違うものがあってすいすいとはいかない。ペイショント(patient)ということばがなんども頭のなかを過ぎる。米国ではこのことばをインペイショント(impatient)との組み合わせで頻繁に聞いた気がするけれど、それはやっぱり人生の要のことばでもあるからだろう。どの社会でも、いつの時代でも。
 そうやって3月は去ったけれど、山本さんの尽力で塀は完成。まだまだベランダ、台所の壁と屋根、ひどくなった8番の窓際の雨漏り、それに中村さんの引っ越し、その前に自室の引っ越しといろんなことは山積みになっているけれど、美術展に向けてすでに原田俊宏君の展示はほぼできあがったし、野村さんも何度もみえて展示の確認を終え、いよいよ10日に搬入だし、原田さんも4日間の予定がとってあり、諏訪さんの友人の松本さんからも展示に関してのメールが入って・・・・・・と着々と進んでいて心強いというか、万端整いつつある。町の企画のポスターも届き、17日には4時からの玉乃井でのオープニングパーティ、夜には煉瓦造りの塩倉庫でのコンサートもあり楽しみも尽きない。
 忘れていた菜園にもしっかり春は来て、空豆が5本ほど伸びているし、サヤエンドウは7、8本も育って花をつけている。ルッコラはそろそろ終わりで十字の白い花をつけ、レタス、パセリは健在、セロリも小さいながら時々摘める。
 とにもかくにも春はゆき(いつのまにか桜も散ってしまった)、季節は足早に移っていく。カタバミの黄色い花が一面に咲き、柔らかい新緑が木々を縁取っている。その上で光が乱反射してまぶしい。

 

菜園便り二二〇
四月二一日

 そうしていつのまにか桜も散ってしまった。季節は足早に移っていく。カタバミの黄色い花が一面に咲き、柔らかい新緑が木々を縁取っている。その上で光が乱反射してまぶしい。』と締めくくったけれど、それももうすでに遠いというか、季節は大きく移って、今は毎日キヌザヤがどっさり採れる。
 三月の「去る」をなぞると、じゃあ四月はどうなるのだろう。四月は「知らぬ」でもいいかもしれない。瞬時にあっという間もなく過ぎるから、気づきさえしない、と。それともエリオットをまねて「四月は死」と言ってみようとして、でもやっぱり気恥ずかしい。暴力的なまでの、爆発的な生の噴出、輝きの横溢を、光と影になぞらえて、強ければ強いほど、激しければ激しいほど、その裏の影も濃くなり深まるのだと語っても、どこか空々しかったりする。もっと単直に生を、その裏の死も含めて丸ごとつかみって抱きしめてしまえないものだろうかと思ったりする。
 植えたばかりの山椒もいっぱいの新芽をつけ、葉を広げ、食卓に筍と並んでいる。柚子と夏みかんもどうにか育っている。遅咲きの水仙も終わり、いよいよ、とジャーマンアイリスが出番を待っている。黄色いカタバミはまだまだ続いていて、そこかしこに黄色い群れをつくっている。
 玉乃井も大きく変わり始めた。気がつけば二〇年も住んでいだ部屋を出て、今は仏間に仮住まいの身になった。荒れ果てた向かいの家も美術展に使われて開かれ、借りたいという人も現れた。これからも何が起きるか、どうなるか、予測もできない。父が戻ってくれば、また大きくかわるだろう。以前のようにはいかないだろうけれど、よきこともあしきこともそんなこともみんな含みこんで大きな流れは続いていくのだろう。

 

菜園便り二二一
五月一四日

 いつもいつも同じことを言っているようだけれど、今回も「やっと野菜を植えることができた」になった。今年はことのほか忙しく、特に心理的に余裕をなくしていたので5月に入っても気ばかり焦って何もできないといった状態だった。それでも玉乃井での「津屋崎現代美術展」が無事に終了し、思いの外大勢の人が来てくれ、新聞のコラムや展評でも取りあげられたのはうれしかった。「ブログを見て来ました」という人も少なくなく、検索すると驚くような数がかえってきて、世界は変化し続けているんだなあと思わせられる。
 気持ちも少しは落ちつき、花田種物店でまだまだこれからですよといったように並んだ苗と買いに来る人を見て安心しながら苗を買った。トマト三株、胡瓜三本、ゴーヤもピーマンも、同じく三本。後でナフコで見かけて買ったズッキーニ二本と、少し前に産直で買ったセロリとバジルそれぞれ一本ずつを加えても今年はいつもよりずっと少なめになった。無事に育ってくれるとうれしい。
 四月後半から強風が吹き続けて落ち着かなかったけれどそれも終わった後だったようで、でも風よけの覆いはしっかり張り、支柱やネットの準備も早めに進めている。苗の段階で虫にやられて全滅してまた買い足すなんてことにならないのを願おう。
 収穫が続いていたキヌザヤは二、三日採らなかったら、みんなグリンピースのように膨らんで硬くなっていて、豆として食べるか、しっかり筋をとって軟らかく煮るか、といった状態になる。空豆も採れ始めた。今年は五本しか伸びなかったけれどそこそこに実をつけて喜ばしてくれる。取れたては柔らかくて皮ごと食べられる。若緑そのもの、初夏そのものが口のなかに広がり穏やかな甘みがゆっくりと浮き上がってくる、恍惚となるほど。
 季節は豆で溢れていて、友人が届けてくれたどっさりのグリンピースやサヤエンドウも残ったのは下茹でして冷凍したからいつでもまた楽しめる。ピースご飯も出汁で下茹でしたものをできあがったご飯にいれると色がいいし、においも強くなり過ぎず時間がたってもだいじょうぶだとやっていたけれど、「ためしてがってん」では生のピースをミキサーで砕いて炊きあがったご飯に混ぜて蒸す、という食べ方も紹介していた。是非試さなくては。
 入院中の父も来月初めには退院の予定だし、この柔らかい緑と吹き抜ける穏やかな風の季節を肌に直に感じながら静かに楽しみたい。

 

「玉乃井の2階から花火を遠目に見る会」のお知らせ
六月半ば

連絡が遅れましたが、今年は残念ながらみんなで集まって楽しむことはできなくなりました。
父が6月11日になくなりました。
「菜園便り」を読んでくれている人から時おり父についてのメールもいただいたりしてましたが、「重要な登場人物」でした。
いろいろ思うことは少なくないですが、せめてこういう機会にわずかでも父のことを伝えておきたいと思います。改まって書く気力はないので、御会葬御礼に書いたことを添えておきます。
短くはない一生を終えた父をみていて、とうぜんにも自分のことをあれこれ思わせられるわけですが、哀しみも含めて全てが透明でやけに重さがないように感じられます。
恒例の行事がないのはさみしいですね。秋にでも集まる機会を設けましょう。
梅雨もそろそろ明けそうです、暑くなりますご自愛を。

御会葬御礼
 亡父、安部信次の葬儀に際しましてお忙しいなかご会葬いただきましてありがとうございます。
 父は三月に骨折で入院、手術、その後はリハビリに励んでいましたが、退院予定直前に亡くなりました。九十一歳の誕生日が目の前でした。自宅への再々度の帰還が果たせなかったのは本人にとっても残念だったでしょうが、精一杯生き抜き充実した人生を全うしたと思います。
 大正八年六月二十二日、今の宗像市の東郷に生まれ、旧制宗像中学、小倉工廠などを経て津屋崎で蹄鉄士、釘工場、調理師、旅館経営をやりつつ四人の子を育てあげ、消防団長や区長も努めて地域にも貢献してきました。繰り返し聞かされた思いでの多くは旧制中学時代のことであり、それが父の最良の時期だったのかもしれません。
 宗像大社往復をする健脚で、旅行や「歩け歩け」、毎日の長い散歩を続けていましたが、晩年は腎臓の病などで入退院を繰り返し、ご近所、介護の方々など、皆様に助けられながらの自宅生活でした。改めてお礼申し上げます。
 サツキや椿を育て、庭の菜園での野菜作りも楽しんでいました。簡単な電気工事や大工仕事もお手の物で、身軽に屋根に上っての修理もこなしてくれていました。世代的にもいやなことの多かっただろう世の中を、しのぎしのぎくぐり抜けてきた智恵であったのかもしれません。八十歳の時に宗像地区で一等賞になった自慢の歯も、衰弱には勝てませんでしたが、最後まで残ったがっちりとした前歯で全てをかみ砕いていました。
 あっという間にも感じられる人の生ですが、そこに積み重なっているものは、その前で誰もがことばをなくし立ち竦んでしまうほどの深さを持っています。全ての生に込められたその人自身の、そしてその人への周りからの思いは、喜びも哀しみも超え、慈しみとしかいいようのないあたたかく勁いものを育んでいくと思わせられます。
 これからも誰もがまた長い時間をおくっていくわけですが、父のように、多くの市井の人のように、忍耐強くでも楽観的に生きていければと思います。
 再度のお礼と共に皆様方のご健勝をお祈りいたします。
                          二〇一〇年六月十五日


菜園便り二二二
八月一一日

 「入院中の父も来月初めには退院の予定だし、この柔らかい緑と吹き抜ける穏やかな風の季節を肌に直に感じながら静かに楽しみたい」と菜園便りに書いたのは五月半ばだったけれど、結局父は再度の帰還を果たせないまま集中治療室のベッドの上で亡くなった。
 そういったことも、今年の玉乃井での花火大会をやれないという通知と共に、会葬御礼などを添付する形でおおぜいの人に知らせた。ぼくの勝手な思いこみであれこれ送りつけるようで、しかも病気や死にまつわることで気も咎めたけれど、自分からは何も話さない父に代わって、最後にもう一度だけ父のことを伝えておきたかった。代理するというのは傲慢と効率主義の、近代の諸悪の一つ、それも根源的な大悪のひとつだと常々いっておきながら、今回はなんだか止むにやまれぬ、といった気持ちだった。死という大きなできごとにのまれて動揺し、パセティクになっていたこともあるけれど、そこにはおそらく自分のこともせめて最後にはわずかでも何かが残ってほしい、伝わってほしいというような未練な気持ちや感傷もあったのだろう。でも思いがけずいろんな方から心のこもった返信もいただいた、そういうことはとてもうれしい。
 父が亡くなった日の朝、偶然病室で兄姉四人が揃った。医師からの話もみんなで聞き、いっしょに昼食をとった。その後、ぼくはひとりで病室に戻った。思うことは少なくない、語れないことばかりだ、嘘をつきたくないが、ほんとうのこともいえない。
 葬儀やその後のあれこれの法事や儀式、事務手続きに忙殺されることで、たしかに衝撃は薄れ、痛みは和らげられるし、共同体の一員としてその掟に従ってこれからも生きていくことを否応なしに確認させられる。そういうことを経て人は新たな生活の形態をいつの間にかつくりあげていくのだろう。母の時のようにさっきまでいっしょにいた人が突然喪われるというようなことは滅多に起こらない極端なできごとだったんだとわかる。父も3ヶ月入院していたから、頻繁に見舞うとはいえ、いっしょに暮らしているときとはまるでちがうし、最後は医者からの宣告もあって、受けいれる気持ちも形づくられていたのだろう。
 下宿人の中村さんが入退院を繰り返されていて、その介護に追われることで父のことを生々しく感じなくてすんでいるということもある。中村さんも三月の父とほぼ同じ頃、やはり緊急入院になった後、一気に容態が悪くなり認知症もでて難しい状態が続いている。釣瓶落としのように人が心身共に弱っていくのを眼前にみさせられるのは誰にとってもつらいことだ。本人はとまどい怒り泣いて、そうして何もかも放棄した無感覚のなかへ半分入りかけている。肩をつかんで揺すってでも、なんとかして引き戻したい。
 強健だった身体から筋肉が失われ、背骨がわかるようになる。黄色く濁り始めた眼にはまだ世界は写っているのだろうか。どういう形で、どういう音でそれは存り、そこにぼくはいるのだろうか。入歯を外してげっそりとこけた頬、声もことばもあやふやになり、それさえ押しだしてくる力を失って届かないことが多い。問いが肯定でも否定疑問でも答はいつも「うん」だ。
 続いている猛暑で菜園はひどいありさまになっている。一本だけ育った胡瓜は早々と実って驚かされたが、それっきり蔓も満足に伸びずに潰えた。これも1本残ったゴーヤはかろうじて生き延びているといったようす。せっせと実をつけて喜ばせてくれた三本のトマトも暑さと寿命だろうか、ぱたりと収穫が止まった。ピーマンは一本も枯れずに育ち、次々になり続けている。葉が垂れてしょぼんとしても、水をたっぷりやると勢いを盛り返す。おそらく秋口までこうやって続いてくれるだろう、いつものように。
 菜園の周り一帯は雑草に覆い尽くされている。雨がないことなんか彼らにとってはどこ吹く風だ。あの頑強な向日葵でさえ下の方の葉を枯らしつつかろうじて花を開かせているのに、こういった強い草木はますます枝葉を広げている。相手の衰弱につけ込んで一気に陣地広げ、敵方も乗っ取ろうということなのだろう、なんというか、すごいというか。
 花も飾らなければ。