菜園便り

 

菜園便り一二一
四月三〇日 

 さあ、今日にでもと父が思い立った日からぼくの外出が続いて、父はやきもき苛々していたけれど、やっと今日苗を買いに行って夏野菜の植えつけができた。初めていっしょに苗を買いに行った。いつも父が買ってきてくれるのだけれど、いっしょに来いというのは、たぶんいろんなことがはっきり把握できなくなっているのと、お金の支払いが絡むことには自信がなくなりつつあるからだろうか。買いに行く先は自転車で五分くらい、小さい時すぐ近所だった花田種物店。今は息子さんのセイジちゃんが切り盛りしていて、新しい大きな、花や苗のお店になっている。
 毎年もめることだけれど、ぼくは少なめに、父は多めに買いたがる。今年は事前に菜園にいっしょに行って略図も書いてこれくらいが混みあわなくていいのでは、と説得した。父も納得したようで、今までもこうやればよかったと思ったら、何のことはない、去年も同じようにしたことを思いだした。たぶん後で、小さな苗がパラッとあるように見える菜園を寂しく思って、それと、もっといっぱい植えないと畝がもったいないというような気持で、父は買い足しに行くのだろう、去年のように。
 とにかく、夏日になりそうな陽射しの下、胡瓜二種四本、トマト三種六本、ゴーヤ四本、茄子二種四本、ピーマン二種四本、唐辛子二本、青じそ三本、ズッキーニ一本、ブロッコリー一本を植えた。穴を掘って基肥を入れ、苗を植えてたっぷりの水撒き。父が早速竹の支柱を立てている。ズッキーニは山本さんからも頂く予定だし、できればセロリをどこかで調達してきたい。もう二、三本植える余裕はあるし、ラディッシュが終わればそこも使える。プランターには残っていた大根やなんかの種を蒔いているので、サラダ用などに使えるとうれしい。
 菜園の種まきや苗植は、いつからか必ず父とふたりでやることになって、年中行事というより一種の儀式みたいになっている。それまでも手伝ってはいたのが、母が亡くなってから、必ずいっしょにやるようになったのは、やっぱりどこかで互いを必要としていることを感じていて、でもうっとうしさも当然にあって、だから何かの折りに、形としても共同でやる作業をつくることで関係をうまくしたい、続けたいという思いもあったのだろう。ふたりでやれば簡単だし、はかどるし、楽しさもある。
 このまましっかりついてくれて、水撒きを欠かさず続け、初夏の台風がなければ、7月初めには収穫が始まるだろう。実っていくこと自体も楽しみだし、なんたってほんとにおいしい野菜が食べられる喜びは大きい。
 ゴーヤを植えるので、キヌザヤを少し抜いた。同じ時期に植えたグリンピースとの境がはっきりしなくなったのと、いっせいに結実し始めて追いつかず、ずいぶん筋張ったものも食べた。それで今年はキヌザヤへの感激や感謝が薄くなって、あまりまめに収穫しなくなり、少し申し訳ない気持があったので、抜いたものからも丁寧に実をちぎった。昼の久しぶりの、去年の夏の終わり以来の素麺に添えた。1年がまわったことになる。夏野菜の苗、素麺、そんなささやかなものが告げる、小さなでもとても重たくもある、季節の巡り、もう、そうして、やっと。次、を考えるのはせんないことだ。「次」は今をたちまちに消費することと、次々にその「次」を求める飢渇感だけを煽る。

 

菜園便り122
5月20日 『夏豆』

 夏豆ということばを教えてくれたのは、田村さんだった。その年初めて庭で採れた、初物の空豆を塩茹でしただけでだすと、ああ、夏豆なんて何年ぶりだろうと、こんなものが今時あるなんてといったような言い方で言って、つまみ上げてそのままガシッと噛んで懐かしそうに味わっている。
 夏豆って言うの、いいことばだねときくと、なに言ってるんだと怪訝な顔で、ああうまいと言ったっきりになった。
 いや、空豆ということばしか知らなかったからと口ごもりながらつまんでみる。翡翠色の豆はそのたっぷりとした大きさや脆いほどの柔らかさで、食べるたびに喜びが生まれるほど好きだったから、庭の菜園に必ず種まきするのをこの数年欠かさずに続けていた。十月の終わりに蒔けば、年を越して紫の花をつけ五月の半ばから収穫できる。今年はうまく発芽せずに四本しか育たなかったけれど、それでもかなりの喜びがもたらされた。
 田村さんが久しぶりだと言う時はほんとに久しくて、二十年ぶりだったりする。だから当時の年齢も環境も天と地ほどちがう時のことを思いだし、苦しくなったりするようだった。ほんとに火をつけてやりてえと思ったさ、と言ったのは退職に追い込まれた時の所長の家のことだった。
 皮をむいていると、皮、食わねえのかと聞かれて、食べられることを知らなかったからねと答えると、そんなもんかねとあきれたように驚いている。
「皮、固くない」
「いいやまだ若くて柔らかいさ、これで年取るとちょっと固くなるよな、そしたらちょっと固てぇなあってみんなで言って、それでもそのまま食っちまうだけさ」。それはまだやんちゃな子供時代、強い父親のもとで殴られたりしながらも家族揃って大きな農家を営んでいた頃のことだろう。七人もの兄弟姉妹が卓を囲んでいる姿が見える。
「こんな、茹でただけって初めてさ、うめえもんだな」
「どうやって食べてたの」
「煮たさ、丸ごと、甘がらく、砂糖と醤油で、それだけでうまいさ」、あたりまえだろ、知らねえのかといったふうに田村さんは言う。
「なんだっけあのビールと食うやつ」
「枝豆」
「そう、あれなんか食えるなんて知らなかったさ、この十年くらいさ、知ったのは、うめえな。田圃の畦にずっと植えて、どこにでもあったっけが、固くなって食うもんだとしか知らねかった」
「うん・・・」
 田村さんがもごもごと話すたびに、口のなかで咀嚼しきれない豆の皮が動いているのが時々のぞく、半部も歯がないからかみ切るのがたいへんそうだ。
 二十数年前に家を出て、それからの体を酷使した労働と不規則な生活ですっかり駄目になった体のあちこち。いちばん壊れてしまったのは、心、かもしれない。でも壊れたことで生まれたやさしさみたいなものもある。
 懐かしいさ、でも帰れるわけないっぺ、競輪で大がね借金して、下の娘は障害があって体もよく動けねえのに放っぽりだして逃げてきたんだからな。一度兄貴を見かけたことがあるさ、借金返してくれた上の兄貴のほうだ、北鉄の駅でよ、なんか聞いたことある声だなってみると、兄貴さ、年とっちゃってなぁ、仕事の出張らしくて、周りからへいこらされてて、えばってなかったけんども、俺はさ逃げるみたく離れたさ、ああ、なんも変わってねえな、すぐわかったな。一度そんなことを胸かきむしるように言ったのも聞いたことがある。
 家を捨ててすぐ見つかったタクシーの仕事はすぐ駄目になったらしい。お決まりさ、寝不足の、人身事故でな。それで、人夫出し、なんてことばも知らねえからおっかなかったさ、最初は、おそるおそるさ、来てみて、いい人ばっかで助けられたけんど、でもさ、ああ、落ちるとこまで落ちたんだって、もう人間じゃないって、そう思ったもんだ。今思うと、バカみたいだけんど、そん時はそう思ったさ、同じことさ。
 なにが同じなのと聞こうとして、ことばをのみこんだこともあった。人なんて、生きることなんて同じさ、ということなんだろうか。
 そんな話が出たのは少しのビールで珍しく酔ってしまって半分眠りながらの時だったかもしれない。話しかけることも、電車がなくなるよと起こすこともできなくて、黙ったままかなりのんで寝てしまって、その日初めて田村さんは泊まっていった。あれから冬を超して、春が終わろうとしている。
 夏豆って言わねえんか、ぼんやり思いだしているとふいに田村さんが聞く。
「いい名前だね、夏豆、初夏の味だね」
「言わねぇっけか」
「知らなかったけど」
「じゃあなんて言うだ」
「ふつうは空豆とか」
「ソラマメ、ってか」
「うん」
「ふーーん、いろいろあるんだな」
「そうだね、でも、夏豆っていいね」
「そうかい」とおかしくもないといったふうで田村さんはビールを飲み干した。
 さっき試しに口に入れてみて、吐き出すに出せなくなってのみこんだ、厚くて弾力があり、妙に生々しい皮の感触がまだ舌に残っていて、どうにもやるせなかった。しがしがする感触と後味が続いてしまう。

 

菜園便り一二三
六月一二日 塚本邦雄

 塚本邦雄が亡くなった。訃報は新聞から届いた。八四歳。もう一世代若いとばかり思っていたから、その年齢に驚かされた。ほとんど父といっしょだったとは。
 それはあの膨大な量の短歌を歌い続けた膂力や、「前衛短歌」と呼ばれ続けることに怯むことなく、永遠に、方法としても「若さ」を保ち続けていたからだろうか。でももう20年近く、彼の近作を読んだことはなかった。時々手に取るのはかつての作品ばかりだった。最後まで、ことばだけで全てを創りあげることに賭けていく、過剰な美意識に彩られた愚直なまでの邁進が、眩しくも痛々しくも、時としては淋しくもうつっていたからだろうか。あのペダンティズムや美学を正面から見られなくなると、つきあっていくのが難しくなってしまう。
 二十歳になるかならないかでの最初の出会いは、とにもかくにも、完全にノックアウトされるといった感じだった。ただただかっこよくて、知的で、ヨーロッパの匂いに満ちて、残酷で、エロスに充ち満ちていて圧倒された。社会的なラディカリズムさえも取り込まれていたし。短詩形のなかにとにかくびっしりと物語や悪意が詰め込まれ、感傷や通俗さえおそれずに歌い上げられていて、若いぼくは感嘆するしかなかった。
 一〇年以上も前に小さな冊子に投稿した愛唱する現代短歌についてのエッセイは、寺山修二から春日井健まで六、七人の歌人の歌をいくつかずつ引きながら、それぞれの歌人のぼくにとっての「愛唱歌」というか、好きな作品をひとつ選んでみたものだったけれど、塚本邦雄から取りだしてみたのはこんな歌だった。
  蕗煮つめたましいの贄つくる妻、婚姻ののち千一夜経つ
  革命歌作詞家に凭りかかられすこしづづ液化してゆくピアノ
  シェパードと駈けつつわれに微笑みし青年に爽やけき凶事あれ
  硬きカラーのあつき喉輪の紅のさらばとは永遠に男のことば
  日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係も
  赤裸の塩田夫迫りてわが煙草より炎天へ火を奪い去る
  馬を洗わば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
 そうして、こんなことを書き添えて最後にひとつ選んでいる。「・・・・しかし初めて彼の歌を教えられた時のもので、本人が自選から外してしまった、あまり秀作とはいえない「ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春」をまさに、青春の思い出として。*(アステリスク)を、おう、笑うなら笑えという気持ちだ。」
 ちょっとごつい書き方は、ぼく自身がペンネームで、いかにも別の人らしく書くといった稚拙な方法を採ってみたりしていたからで、それはやっぱり現代短歌について語ろうとすると、当然そこには寺山や春日井も含まれるから、それへの含羞みたいなものをもてあましてもいたからだろう。ほんとにリリカルで生々しくもある「若さの文学」だった。そういう形でしか捉えられない世界の、人のリアルがそこには掴まれていて、でもそれはあまりにも時代限定的に過ぎて、賞味期限はたちまちに切れてしまったのだろうか。

 

菜園便り124 ???????
6月15日 塚本邦雄

 塚本の訃報をきいて、あれこれ引っ張り出して読んで、いろいろに思わされる。
 当然のように追悼記事もでて、やっぱり岡井隆朝日新聞)で、それにも「『感幻
楽』(1969年)までは全てがすばらしい」というようなことがでてくる。業界内
の、例えば「美術」業界の「1965年以降の池田満寿夫はどうしようもない」、と
いった言い方に似て、「塚本は60年代だけだね」、なんて言い方も意味のない符丁
みたいなものとしてある。空気としてと伝わってきて染められていくだけのことを、
まるで自分ひとりの発見ででもあるかのように大仰に論いあうことにはうんざりだっ
たけれど、でもそれなりにきちんと対応し続けた中井英夫も、『緑色研究』まではす
ばらしい、絶品だ、でもそれ以降はまるでダメだと語っていて、あの人らしい大仰な
断定と否定の豪語を差し引いても、説得力があったのも確かだろう(中井英夫は、先
岡井隆の記事では「三島由紀夫中井英夫といったパトロン風の理解者はいたけれ
ど」と書かれていて、それはそれで淋しくもなる)。
 何を「作品」とみるのか、「文学」とか「芸術」とはそもそも何なのか、そんなの
は限定されたある時代を超えて普遍的なものなのか、そうして、じゃあ「表現」とは
なんだろうといった問いをとおして考えるしかないことだけれど、それ以前の、現在
流通している概念のなかで狭く考えた時にも、アンチ既成歌壇みたいな怒りや「業界
政治」も厳としてあったのだろうし、今も続く<前衛>という切り捨て方や、「詩
壇」からの傲岸な無視にもたしかに苛立ちはあるだろうけれど。
 でもそんなことは、「彼の地のことは彼の地の人に」、であって、新しい解釈や定
義などでない、根源的な表現そのものへの問いを自身に繰り返し問いつつ、「作品」
をつくるのならそこにこめられるものの全てで、世界に、つまり人に向けて語ればい
いことだろう、それが社会や既成文壇にどのように響くかなんてことに煩わわれず
に。
 なんかぼくのことばも怒りっぽく仰々しくなってしまう。
 ぼくが語りたいのは、塚本の古い本を開いて、そこに閉じこめられたぼく自身の痕
跡を見るしかない、といったようなことだ。比喩としてでなく、そこに差し挟まれて
いたいくつかの切り抜きやメモは、よくもまあと驚かされるようなものもあった。あ
れだけ引っ越しを重ね、一度などは全部の本をなくしたのに、これはどこをどう巡っ
て残ったのだろうと訝しくさえなる。
 最初に塚本を教えてくれたのは詩人の沖野隆一で、彼自身の塚本との出会いのエピ
ソードも、なんというか、いかにもそれらしいものだった。小説を書いている先輩が
沖野の所に遊びに来て、当時は誰も電話なんて持ってないし、アポイントメントを
とって会いに行くなんてことはなくて、「おい、いるか」といったふうだったから、
あいにく留守で、彼は塚本の「ロミオ洋裁店春服のトルソ下半身なし* * * さら
ば青春」の切り抜きを安アパートのドアに貼りつけて帰っていったとのことだった。
ぼくの本に挟んであった黄ばんだ切り抜きは、その時のものか、後で沖野か自分自身
で見つけた別のものだったのか。この雑誌からの切り抜きは、裏面の印刷に残ってい
た文字が「きしか死顔をもてり」で、これは春日井の「火祭りの輪を抜けきたる青年
は霊を吐きしか死顔をもてり」(1960年刊『未成年』収録)だろうから、当時の
「短歌」とか「短歌研究」とかだったのかもしれない。
 塚本はそれなりに有名人だったし、熱烈に支援する編集者も多く(関西人だし)、
ときおり文藝春秋なんかにも小さな囲みの、゛今月の詩゛とかに出たりもしていて
(そういう扱いはかわいそうではあるけれど)、そういったものの切り抜きも1枚挿
まれていた。「鬱金香」。このタイトルを読める人はいないだろうけれど、チュー
リップというルビが着けてある。やれやれ、なんていう気はないけれどでも正直ちい
さなため息がでたりするのも事実だ。対・・・・という対象を意識しすぎたり、アン
チの姿勢で書かれることが多すぎて、なんだかもう、「あなたのすばらしさも賢さも
世間の愚かさもわかったから、あなたの思いのたけを、スタイルに無駄なネルギーを
費やさずに、ストレートに語ってほしい」と思ったりもした。こんなふうに書くと、
リアリズムか写生か生活詠嘆か、なんてまた言われそうだけれど。
 「蕗煮つめ魂の贄(ニエ)つくる妻婚姻の後千一夜経つ」は贄なんてことばに負けそう
だけれど、ずっと好きだった歌のひとつで、自分でおさんどんをやるようになって、
実際に蕗を煮つめたりするといっそうわかる気がする。あの匂い、立ちのぼる湿気(ウ
ンキ)、子どもはけして好きになれない味、香り。どんなに台所が簡潔に明るくなって
も、そこだけに奇妙に黒ずんで見えてしまうような。この歌は昔は、生け贄といった
ことばの連想もあって深く隠された妻の底知れぬ悪意や憎悪だと思っていたけれど
(塚本の作品だし、三島ばりのやさしく平然とした殺意だとか)、今は、魂の捧げも
のであり、祈りにもみえてくる。でも、蕗も、煮つめるも、リアルに感じる人なんて
今もいるのだろうか。

 

菜園便り125 ????????
6月17日

 気ばかり焦るのに、なかなかやる気になれなかった梅の塩漬けがやっとできた。
買ったのがかなりひどい梅だったので、もう一回、ちゃんとしたので少し、せめて2
キロぐらいは漬けたい。
 これで黴も出ずにうまく梅酢があがってくれれば2週間後ぐらいに赤紫蘇で本漬け
(今年は紫蘇なしも少しやってみよう)、そうして間をおいて土用に干せば、梅干し
のできあがり。秋には食べられる。
 作業は、最初に黴が出ないように器具を全部洗って熱湯消毒したりすろのがめんど
くさいし、すごく神経質になるので、とりかかるまでつい億劫になってしまう。塩を
10パーセントくらいに押さえるからだろうけれど、とにかく丁寧に、ご機嫌伺いつ
つやるしかない。無精するとてきめん黴に襲われて、大わらわの後処理になる。
 送ってほしいという要望もあって、今年はいつもよりたくさんやっつけた。3キロ
と5キロぐらいだったから、8キロにもなる。残った、というより使えなかった梅の
まあまあので梅酒をつくり、残りの3キロくらいは廃棄、ひどいけれど仕方がない。
梅酒はいつもはつくらないけれど、そういう事情だし、新聞にワインでつくるのがで
ててやってみたくなったこともある。これは砂糖が通常の五分の一くらいで、だから
冷蔵庫保存、1週間目くらいからのめる、とあった。興味津々だけれど、でもどうせ
飲むのは味見の一っぱいだけだろう。
 漬け込むために必要な35度くらいの甲種焼酎(ホワイトリカー)を買いにでる
と、一面田植えのすんだ稲田だった。そのあたりは毎年早稲(ワセ)で4月には田植え
だったから、6月というのは久しぶりだ。広々と張られた水にまだ小さな苗が涼しげ
に映っている。水や作業手順の関係もあるのだろう、一帯全部がこの時期の田植えに
なっている、そういうのもちょっとすごい。なんというか、一丸の共同体、無言の強
制、外れるものは村八分、そんな不謹慎なことをちょっと思ったりもする。田圃のな
かだけでなく、畦や側溝の草刈りなんかも放っておくと、以前はかなりきつくあれこ
れ言われたと聞いたこともある。集団でやっていくしかないことがら、生きていくた
めの知恵でもあるのだろうか。
 我が家の菜園の野菜も順調で、胡瓜が採れ始めた。ずっと続いているレタス、パセ
リ、ルッコライタリアンパセリ、バジルを追って、本格的夏野菜が始まったことに
なる。トマトも色づきはじめ、ズッキーニも2日おきくらいに採れる。楽しみなゴー
ヤも小さいのがなっているのが見つかったから、もうじきだ。青じそも毎日食べられ
るし、残っていた冬野菜の種を試しに蒔いた蕪やラディッシュも順調で、サラダだけ
でなくあれこれ使える、おひたしや吸い物や。
 一気に伸びたバジルは先日どっさり収穫してバジルソース(ジェノベーゼ)にして
半分は冷凍保存したし、ついでに伸びすぎて困っていたパセリもソースにした。台風
と潮の害がなければ、夏の間に後2回くらいはつくれそうだ。もう花の咲き始めた
ルッコラは次のがプランターで伸び始めたから、端境期はなくてすみそうだ。
 頂いたディルもいつものようにいい香りを楽しんでいたら、これももう無限放射
状、とでもいった花が咲き始めたし、アーティチョークは開花に向かって固い松ぼっ
くり状の頂上を開き始めた。
 数十年に一回と昂奮して父の言う、竜舌蘭の花、も花茎を3メートルほどにも伸ば
して準備に入っている。この花茎はほとんど1日でこんなに伸びて驚かされた。父も
初めて見るもので、だからここに来て50年経ったんだと断言している。そういうふ
うに言う時、父は50年前を思いだしているのだろうか。そうしてそれはいい想い出
なのだろうか、ぼくも問うことはなく、父も黙って空を見ているだけだけれど。

 

菜園便り一二六
六月二〇日

 知人たちと集まり、プロジェクターで拡大して通常の家庭用よりは少し大きめに映画を見る機会がある。前回はフェデリコ・フェリーニ監督の「アマルコルド」。久しぶりのフェリーニは、やっぱりわくわくと楽しく、しみじみとして、そうしていつもそうなように少し哀しい。こんなにもたくさんのことを、戯画化された(それは抽象化のひとつだろうけれど)、でもやさしい視線で描き続ける2時間。彼自身のそうしてあらゆる人の郷愁や憧れがぎっしりと詰め込まれていて、それはこの極東のわたしたちにも地続きで伝わってくる。
 冬の終わりを告げる、その年初めての綿毛を掴もうと街頭に溢れてくる人々の喜びから始まり、翌年の広々とした北イタリアの野に舞う、再びの綿毛で締めくくられる。季節は移っていき、かけがえのないものが喪われ、哀しみに覆われ、それでも世界は巡っていく、それはまた生の喜びでもあり、最後には全てが祝福されてまた続いていく。
 そういったことがひとりの少年を中心に彼の家族をとおして、街をとおして描かれていく。重ねられる様々なエピソードが羅列に終わらず、重層化されて積み重なり、世界を人を浮きあがらせるのは、それぞれの挿話の質にもよるけれど、その長さの的確さにもよるのだろう。冗長にならずに、でもみるものにきちんと届くだけの長さを持って、そうして少し引いて劇的になるのを押さえつつ、といったこと。だからそれはもう特定の時代ではなく、イタリアだけのできごとではなく、わたしたち全ての過去を照らし、今につながるものになっていく。
 それぞれのできごとが一度ずつ描かれる、政治やファシズム、戦争も含めて。1年という区切られた枠のなかだからというだけでなく、あらゆることは永遠に新しくそして古い、つまりくり返され続けつつ、かつそのひとつひとつがけして同じでないということだろう。あっけないほどに単純でそうして限りなく深い、人であり生であり。
 馴染みのある人たちといっしょにみると、今までとちがう見方も生まれる。女性とか性の扱い方に少し驚かされ、改めて考えさせられもする。フェリーニの超えられなかった枠組みをわたしたちはすでに易々と超えているのかもしれない。そうして、そういうことを考えずにイタリアのおおらかな女性像、母親像を前提にできた世代が持っていたもの、今は喪なわれているものを、感傷としてでなく思ったりもする。
 でもとにかく楽しくて、映画と共に巡っていく。少年時代を終えつつある腕白坊主が、母の死、憧れの人との雪の日のすれ違いを経て、大人へと近づいていくのをみながら、成長を喜びつつも、その永遠に喪われてしまうアドレッセンスを、かなわないものへの憧憬として、遠くから手を振るように懐かしんだりもする。
 永遠に還らないもの。花嫁の去った綿毛の舞う野を三々五々帰っていく、アンチクライマックスのように拡散していく人々、映画、感傷、思いで。わたしたちも自分の世界へ、かけがえのない、退屈ででもあたたかい世界へ戻っていく。少しだけ心豊かに、賢くなって。

 

菜園便り一二七
七月八日

 菜園は空梅雨にもめげずに元気。胡瓜やゴーヤが去年ほど勢いがないのは、まあしかたないだろう。でもトマトは実が割れることも少なく、今年の方がいい。やっぱり乾燥地帯の野菜だからだろうか。例年通り、茄子は不調。四本とも枯れることはなかったけれど、小さい実を時たまつけるくらい。ピーマンは小柄な体のまませっせと大きな実をつけてくれている。青じそは生育も悪く葉が固いけれど、その香りを素麺などで楽しめる。唐辛子が赤いほっそりした実をつけ始めた。
 ズッキーニはすごい、歯も実も勢いをもって続いている。父はそのせいで横に植えた茄子が弱ったと思っているようだ。何度言ってもズッキーニを食べてない、まだ実がならないと思いこんでいる。レタスとパセリはほぼ終わり、ルッコラも次の代へ移行中、イタリアンパセリとバジルは今が盛り。ディルもそろそろ終わりそう。何となく植えてみたピーナツは少しずつ葉を広げてはいるけれど、どうなることやら。やっぱり収穫は秋だろうか。
 竜舌蘭は五〇年に一度という花茎を一晩で二メートルもの伸ばした後はのんびりで、少しづつ伸び続け今や四メートル近い。花のためだろう短い枝をいくつも伸ばし、そこに上向きに蕾らしいものがたくさん着いている。そのうち開くのだろうけれど、なんか時間が経ちすぎて、感動は薄れる一方。父も最近は無関心だ。
 ずっと気になっていた梅のほん漬けがやっとできた。赤紫蘇がなくなる前にと焦りつつも気力がでなくて延び延びだったのでうれしい。ひどい梅で漬けたから、幸い黴はでなかったけれど、梅酢が褐色がかっていて残念。紫蘇でうまく紅く染まってくれたらいいけれど。後は土用の丑の日あたりをめどに干して終わり。秋が楽しみになる。今年は梅酒もどっさりつくることになったから、それも誰かにあげよう。
 台湾大震災のドキュメンタリー映画「生命」をアジア映画祭でみたけれど、悲惨さよりも移ろっていくということが前面に現れていて、人の心のしなやかさや勁さが浮かびあがってくる。菜園や庭の樹木を見ていてもそういうふうに移ろうことで、次々に新しい命やつながりを生んでいるのがわかる(変化が正しいとか、新しいものがいいとかいうことでなく)。生のなかに死があり、死のなかに生が育まれる。あたりまえのことを、そのままに受け止められる。

 

菜園便り128 ???????????
7月25日 映画祭①

 セクシュアリティに関する映画祭をみに、東京まで出かけていった。今年で2度
目。1週間もいて、しっかりみることができたのは旧い友人たちが、歓待してくれ心
やすく泊めてくれたからで、ほんとに感謝。毎日ご飯もつくってもらい、こんな贅沢
はちょっとないから、癖になってしまいそうで困る。家に帰りたくなくなってしま
う。
 正式名称は「第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」で、例年のようにセク
シュアリティをテーマにした作品がボランティアの力で5日間に渡って上映された。
取材ということでプレス用のパスを発行してくれた。旅費も自前だったからほんとに助
かった。「文さんの映画をみた日」のせめて2回分の記事にはしたい。
 会場は青山のスパイラルホール。今回は別に1日だけ、近くの東京ウイメンズプラ
ザでドキュメンタリー3作品の上映とティーチインも行われた。小さい多目的会場は
かための内容にも関わらず2階まで埋まる盛況で、驚かされた。誰もが切実に具体的
な問題についても知りたいし考えなくてはと必死でもあるのだろう。
 映画祭は、そういったふだん接する機会の少ない表現を公開し共に考えようという
だけでなく、お祭り的な楽しさも持っていて、日頃はバラバラで孤立している、同じ
ような立場にいる人たちとの出会いやつながりを確認する場にもなっている。作品に
よってはロビーが人でぎっしり埋め尽くされて、熱気に溢れることもある。でも意外
なほど静かで、仲間と来て極端にキャンピーな態度をとっている子たちもどこか落ち
着いていて、まれな機会に舞い上がってしまうこともない。そういうことでも、やっ
ぱり誰もがふだんはひっそりと、大げさにいえば息を殺すようにして生きているのが
伝わってくるようで、ちょっと身につまされ寂しく感じたりもする。  
 映画の内容は、最近いたるところでつくられている、カミングアウトする<ゲイ>
の男性とその友人の女性とのコメディや、若者をフィーチャーしたハリウッド系的な
映画、生真面目な歴史物、それにドキュメンタリー、公募作品などなど多様。
 公募の4作品はバラバラな内容で、直接セクシュアリティに関わることのない、な
かに「同性愛」的なもの、<ゲイ>的なものが出てくるだけのものもある。何故こう
いったテーマを撮るのかが全くみえてこないものもあるなか、大阪のコジ監督を中心
にした、ヘテロ薬制作実行委員会の『ヘテロ薬』(2005年)はオムニバス形式
で、多様な視点からセクシュアリティに関わる困難や疎外感、カミングアウトのこと
などが語られている。とにかく自分のことばで今のことを語りたいという切迫感に満
ちている。と同時に、ユーモアも含まれていて、今の状況は正直しんどいけれどなん
とか距離を取って、当事者として息をつきながら、開かれた問題として話せたらいい
なという思いもある。監督などの挨拶が上映後にあり、そこでもセクシュアリティ
問題を当事者として社会に向かって積極的に語りつつも、閉じずに相対化していきた
いといったものが感じられた。誰もが、「みんなも「社会問題」としてもきちっと考
えてほしい、でも当事者はそこに留まらないで、閉じないで」と願っているのが伝
わってくる。
 マイノリティー問題とか差別問題のなかで終始せずに、当事者というあり方そのも
のを開いていく、あらゆることがらについてまわる当事者性ということそのものの相
対化を可能にする視点を探らなくてはならないのだろう、誰もが。

 

菜園便り130 ????????
8月3日

 とうとう、8月。7月に較べ天候が不安定になり不意の夕立や雷雨もたまにあるけれど、くっきりと晴れたほんとに「大気が熱い!」の日々。猛暑も最高潮。でもどこかで、この傲岸な夏もその底が見えた、とちらと思えたりもする、微かな安堵と残念さも含めて。じきお盆がくる、それを過ぎると土用波がたつ、クラゲも出る、海水浴は終わりだ。でも暑さは続く、特に近年は9月の残暑の厳しさはかなりのものだ。9月初めに必ず涼しい日があるから、易きに流れる体があっという間にそれに馴染んでしまって、その後の暑さが、季節感との違和も手伝って、異様にまで感じられてしまう、といったようなことがくり返される。でも、やっぱり夏の終わりの翳りがこの突き抜けた空の真っ白な湧き雲の彼方にそこはかとなくかぎ分けられたりする、気がする。  
 夕焼けが少しずつ色を増してくる。草木の増長や黒々とした濃い緑も、圧倒される程の勢いは止まった。かわらず勢力を誇示し、占拠した地面は一歩たりとも譲らない面構えは同じだけれど、もう勢いに任せてでたらめなまでにどこまでも広がっていく気迫は希薄だ。
 すでに6月には夏至を超して、陽射しはどんどん短くなっているのだから、やっと温まった大気の暑さと、傾いた陽射し、日照時間のもたらす落差はすでに視覚的にも隠しようもない。深夜のひっそりと抜けていく風の思わず身震いするような涼やかさも説得力がある、なんというかつまり突然の場違いではなく、受け止められる、感じられるということ。
 かろうじて菜園だけを残して庭を覆い尽くした向日葵が伸び上がり、生きいそぐように次々に花を開き黄色い花粉を撒き散らしている。やっと土用干しした梅の上にも黄色い、鉱物の結晶のような細かな粉が舞い落ちる。頭も心もたがが緩んでしまって、書くものも短くなる、一息とちょっとぐらいで終わり。読む方も楽だろう、とぼんやり思いつつ。

 

菜園便り一三二
八月二四日

 3週間ぶりの雨が潤いと涼しさをもたらし、ああ、こういう雨がせめて4、5日おきにでもあったら、8月もどんなにしのぎやすかっただろうと、どうにかくぐり抜けた時間を今からなじったりするのも、やっと終わった、先は見えた、後はどんなにひどくったってもうどうにかやりこなせるという安堵があるからだろうか。湿った空気に少しべたつく足裏にも嫌悪生まれず、それが生む水のイメジが体のなかを静かに涼しく流れる。
父が好きで1日おきくらいにくり返した素麺の昼食も、さあつくろうという気合いが薄れるのは、その淡泊な味を飽きさせないほどだった舌や喉への滑やかな爽やかさを疎んじ始めているからだろうか、暑さの微かな翳りにそれと意識しないままに敏感に反応した傲慢な気持が。でもほんとによく食べた。生姜、紫蘇、茗荷、胡麻、時には錦糸玉子やおかかも薬味にして、出汁はつくってみたり、市販のだったり。島原素麺とか播州素麺とかのいただき物以外はだいたいは揖保の糸が我が家の定番だった。残ったら寒くなってにゅう麺に、おいしくないのは椎茸の出汁で煮素麺に、そんなことももうどこかで考えている。
 菜園の水撒きは続けたけれど、炎天のきつい陽射しとそれが熱する大地や大気の暑さには勝てず、胡瓜の全部とゴーヤの半分は枯れてしまい、父がとうとう引き抜いてしまった。乾きに強かったトマトも4日前の小さな3個で途絶えたままだ。枯れた枝が切り落とされて、畝の周りはずいぶんとすっきりしている。茄子は実はつけないけれど不思議と今年は持ちこたえていて、これなら秋になってまたなり始めるのかもしれないと期待が生まれたりする。ピーマンはお休み中。青じそは縮こまった硬い小さな葉をちらほらとつけているだけで、それもショウジョウバッタにすっかり食べ散らされている。パセリは花茎を伸ばして開花し、ルッコラプランターのだけがかろうじて葉を広げている。我関せずといったふうに変わらない姿でひっそりと片隅にあるのは落花生。初めて植えてみたけれど、暑さや水不足に強いのだろうか、砂地がいいとは聞くけれど。
 菜園を取り囲む一面の向日葵だけが権勢を誇って、傲岸に頭を上げている。潮にはからっきし弱いけれど、でも鮮やかな色とくっきりとした形は、うつむきがちで固くなった気持をすっと上向きにしてくれる。そうしてそこにはまだ積乱雲も混じる青い青い空。

 

菜園便り一三三
八月二九日

 先日買い物に出ると、すでに稲刈りのすんだ田圃に鳥が集まっていた。渡鴉が覆い尽くすほどに群れをなして、というのではなく、幾種もの近隣の鳥がいる。四羽の鵲(カササギ)に先ず驚かされた。この町に一つがいしかいないだろうと思ってたこともあるけれど、こんなふうに二羽以上揃って見るのは初めてだった。近づくとつがい毎に別々の方向に飛びたつ。鳶は八羽もいて、このあたりの全部が勢揃いか。順々に飛びたち上空でゆっくり舞い始めた。白鷺も何羽か点在している。遠くのは五位鷺とか灰色鷺だろうか。すぐそばの家の、本格的な畑を持つ庭先には、雀や椋鳥などの小さな鳥が群れている。
 冬の、というか夏以降の野菜のためだろう、堆肥の山が突き崩され撒かれたからで、そこにいた虫を目当てに集まっているのだろう。黒々としてにおいも強い堆肥だから、微生物だけでなく、ミミズとかカブトムシの幼虫だとかもどっさりいるはずだ。このにおいは、これ以上、例えば倍になれば耐え難いだろうけれど、十分の一くらいに希釈されたら、かなり濃厚なうっとりする香り、麝香とかムスクプラント系のものになるんじゃないだろうか。どちらかというと身体的な、懊悩をかき乱すかなりきわどい匂いだ。こういった堆肥は珍しくなった。面倒でつくられなくなったこともあるけれど、臭いの苦情がでたりするから、目につく(鼻につく)場所にはなくなったこともある。
 最近話題の有機肥料を売り物にするところはもっと徹底して手を入れていて、だから臭いもない、手で触ってもほろほろとほぐれていくようなものらしい。そういうのはつくるのもずいぶんとたいへんそうだし、「清浄有機肥料」なんてことばで呼ばれたりするんだろうかと思ったりもする。ちょっと近寄りがたい。
 ぼくが不躾にじろじろ視るのを止めて立ち去れば、すぐに鵲のつがいが揃って戻ってくるだろうし、鳶もまた順番に仲間内で決められた定位置に降り立つのだろう。まるでタルコフスキーアンゲロプロスの映画に頻繁にでてくる配置、「タルコフスキー・アングル」ばりの位置関係で。
 暑さはまだ収まりそうもないけれど、雨や陰った日も多くなりしのぎやすくなった。太陽光が遮られるだけで、こんなにもちがうのかと、そんなことにも驚かされる。毎年の繰り返しなのに、すぐに忘れてしまうことけして蓄積されていかないことも多い。どこかに蓄えたくない、新鮮な驚きにでも出くわさないとやってられないなんていう傲慢や、考えると耐えられなくなるなんて大げさな拒否反応があるのだろうか。こんなに穏やかな気候の土地と思っても、夏と冬はやっぱり荒々しくて厳しく、耐え難く酷たらしいとさえ思ったりするのは、自分でもあまりとは思うけれど、でも温帯地域が温暖でのんびり生きるのに最適で、この極東の日本列島が快適だとはなかなか納得できない、と真夏の今は思う、そして真冬にはもっと。
 酷薄な陽射しが落ち着けば、また散歩の楽しみが復活する。空も野も、その隅から徐々に色合いを変え始めている。そうしてある日、ふいに季節はかわる。

 

菜園便り一三四
九月三日 夏の日の想いで

 夏の想いでなんてとうに色褪せてしまったけれど、八月の終わりにはメディアが必ず言及することもあって、子供がいなくても夏休みの終わりということが頭をかすめる。想い出のなかで夏休みがうっとりと蘇り、蝉の声と西瓜と海水浴と蝉とりとバタンと倒れ込むような昼寝と素麺に満ちていて、それだけでもう十分だった。夏休みの友、幾種類ものドリル、絵日記、観察研究、図画工作、そうして早朝のラジオ体操がのしかかっていたし、書道の清書に泣かされたことは今も苦く残っているけれど、でもそれでも待ち遠しく、ただただ走りまわるだけの生き生きとした日々だった。
 休み中に必ず一回だけ連れて行ってもらえる映画も大きな行事であり喜びだった。ディズニーの長編アニメーションや記録映画が多かったけれど、きちんとよそ行きの服を着て家族連れだって出かける時のあのワクワクとしてじっとしてられないような浮き立つ気持。母の化粧や着替えの長かったこと、揃って文句まで言って。でも今思うと、家を空ける準備、子供たちの着替え、あれやこれややった後、大急ぎで自分の顔を叩いていたのだろうに。夏の間だけの、氷の入った川端ぜんざいを食べさせてもらえるのも楽しみだった。そんな些細なことがあんなにもうれしかった時代があったなんて、今では信じられない気もする。
 夏は映画もかきいれどきでだから今年も大作、有名監督、人気俳優が並んでいる。大きな声では言えないけれど、映画について書いているのに、どれもみていない。とりあえずみなくてはと思いつつ時間は経っていく。予告編で何度もみた、テレビでもやっているし、メディアが書きたてるから、細部までわかってしまった気になる、まずい、でも腰は重たい。才能ある監督や出演者だし、巨大な予算を使い、CGを駆使し、流行りのテーマもしっかり取り込まれて厚みもある。大型スクリーンでしか堪能できない動きやシーン、映画館でみるならこういうのこそみなくてはという声も聞こえる。でもその全てが、結局はひとつの目的、ただ消費するためだけにつくられていると答えている。激しい動きや好ましい俳優にみとれ、愛やヒューマニズム歓喜と苦悩と涙、暴力や戦争さえも堪能し、そしてそれだけ、に思える。
 何かをほんのわずかでもいい、今までと違って感じたり考えたりするきっかけにはならない。ましてそこで改めて生きることなどおぼつかない。映画はいろんな楽しみや思いに彩られているし、それでいいけれど、消費させることだけが目的になった時、映画自体が自分を消費しはじめて未来を喪ってしまうだろう。たかだか表現のひとつでしかない、でもそれがすごいことだと、人や生を突き動かす力があり、見も知らぬ世界を開く力を持っていることを、つくる側もみる側も改めて信じることから全ては始まるのだろう。

 

菜園便り135 ??????
9月22日

 イランの、というよりクルドバフマン・ゴバディ監督「亀も空を飛ぶ」をみた。「文さんの映画をみた日」に書こうとしていた別の映画に好意的になれなくて、大急ぎでみにいったのだけれど、うちのめされるようだった。どことはそれと名ざせない人や社会の深い部分を、静かにでも思いがけないほど強くうつ映画だ。
 子供たちをとおして世界が描かれるから、いろいろのことが辛いほどにも剥き出しになる。裸の皮膚に火があてられるようで叫び出しそうになる。錯綜する中東、長く続いている絡まり合った民族や国家の軋轢、そこに介入し侵攻する米国。翻弄され痛めつけられて暮らさなければならない子供たちの、人々の、それでも生きていく現在が描かれていく。 今の社会に流通している常識や自己正当化や諦めといった、ことばによる合理化をできないから、子供たちは世界と直に接触してしまう。絶望は底なしであり、徹底して救いがない。同国人であるイラク兵に親を殺され、強姦されて産んだ憎しみの子供と共に難民キャンプで生きるクルド族の少女の絶望の深さは、ことばでは追えない。石の錘をつけてその子を池に投げ込み、自分もまた崖から飛び降りるまでの絶望。身を投げる直前に映される汚れた足の小ささが、みる者の心臓を鷲掴みにする。
 エネルギッシュに、はしっこく立ち回っては村々にアンテナをつけ、おおぜいの子供たちを使って掘り出した地雷を売り、機関銃まで手に入れるリーダー格の少年は、頻りに米語を使い、アメリカを憧がれ続けていたが、侵攻してきた米軍にくるりと背を向ける。好きになった難民の少女は死に、命がけで地雷原から救った幼児もすでにいない。走り続け怒鳴り続け、かろうじて持ちこたえていた生きる意味や目的が喪われ、現実はバラバラに崩壊して掴めない。低くたれ込める暗うつな雲の下、茫々たる虚ろさがあたりを覆っていく。瞬時も油断できない、ただ走り続けるしかない異様な世界のなかに放り込まれ、必死で駆け抜けてきて、今、呆然として立ち竦むしかない。でも救いのなさではなく、なんと呼べばいいのか、人としての生の勁さみたいなものが映画の底を流れていて途切れることがない。
 イラク、イラン、トルコなどにまたがる、長い抑圧の下にあるクルド族と呼ばれている人々に、イラン-イラク戦争が新たに加わえた痛み。そうしてイラク戦争では侵攻する米軍が、解放に来たというビラを撒く。衛星放送受信のアンテナを立てるところから映画が始まるのは象徴的だ。戦争が開始されるかもしれないと、外国のニュースを必死で聞こうとする大人たち。早く知りたい、ほんとのことを知りたいという素朴な願いが、一元化された世界へ、特定の「真実」や標準へと人々を巻き込んでいき、それはたちまち、人より早く知りたい、人に勝てる情報を得たい、へと変質するしかない。そうして一度取り込まれたら抜けることのできない網のなかにますますはまり込んでいく。
 戦争や悲惨といった素材やエピソードによってではなく、表現の地鳴りのようなものでみている者を大きな力で揺するから、そこにことばでない共振が生まれる。ドキュメンタリーという形を取らずにこんなにも直截に人々を描けるのは、登場する人々が当事者であり、その眼差しや身体、しぐさにも深く染みついた哀しみと怒りがあるからだろう。もちろんそれを引き出し結実させる監督や製作する側の力も大きい。でもそれはけして技術や才能などの問題でなく、世界をどう捉えるかといった根源的な、考え方や生きる態度の問題であり、ドキュメンタリーとフィクションの違いというようなことが様式や<現実>の違いでないことも知らされる。既成のことばや考えをなぞる限り、どんな形の表現であろうとたどり着く先は決まりきっていているし、同じことにしかならない。
 具体的な抑圧や戦争を前提にし、個々のことがらも語りつつ、映画は事象を超えた場へといつの間にかわたくしたちを連れて行く。世界をまるで初めてのように、直に見ているかのように。自由というのはそういうことなのかもしれない。
 映画のなかで悲劇的な結末を迎える少女の底なしの絶望を前に誰もがことばを失うしかないけれど、不思議なことにこんなにも深い絶望と共に、それを受け止める力も映画はそっと差し出していて、わたくしたちは知らないまにそれを受けとっている。終わった後に、勁さや明るさの印象さえ持つのはそういう力ゆえだろう。世界はこんなにもでたらめで酷たらしいけれど、そこにはわずかであれ喜びも美しさもある、その両方で成り立っている以上、今は両方を取るしかないんだと穏やかに諭すかのように。
 亀も空を飛ぶ、わたくしたちも冷たい水をくぐっていく。希望とか未来とかいう期限切れのことばでなく、まだ見えぬ知らぬ、でも誰もが持っている新鮮であたたかなものに支えられて。世界は生きるに値するんだよと何かがそっと囁く。

 

菜園便り一三六
一一月八日

 立冬はいつの間にか来る。立春のように、あんなに見つめられてカレンダーに穴が開くんじゃないかと思ったりもするほどに、指折り数えて待たれたりしない。新聞紙面のとってつけたような写真と見出しで、ああもうかと小さななため息がでるだけだ。今年はすごく暖かくて、一〇月の気温だったりするからよけいにそんなふうに思える。でも夜の冷え込みと暖房の入った電車で、寒さが近づいて来ているのを嫌でも思い知らされる。爽やかで楽しい秋はいったいどこにあったのかと、つい詰問したくなる。貧しい心根だとわかりつつも。
 菜園の冬野菜の種まきはずっと前にとりあえずすんだけれど、発芽がよくなくて、特に大根、二十日大根(ラディッシュ)、人参はほぼ全滅で、もう一度蒔いたら、それはうまくいって順調に芽が出て伸び始めた、うれしい。すっかり忘れていたいちばんだいじな蕪も一昨昨日に蒔いたから、期待しよう。冬の野菜でいちばん好きなのが蕪で、あの独特の香りや味は、軽く塩しての酢の物でも、薄味の煮物でもおいしい。鍋やみそ汁に入れたりもできるし、小さいとりたてはサラダにぴったり。他のもので代替えできない味覚だ。葉っぱももちろん同じようにして食べられる、生でも。
 大根ももちろんおいしいし同じようにあれこれ食べ方もあるし、おでんにはなくてはならないし、おろしは大根でしかできないけれど、季節限定ということもあって、冬野菜の軍配は蕪にあがってしまう。間引きした小さな大根を葉ごと軽い塩で漬けたものは、色といい瑞々しさといい、あの緑みどりした野草の草液が一面に飛び散るような青くささもすばらしいけれど。
 春菊は畝全体に発芽して伸びているけれど、同時に蒔いたほうれん草はぼちぼちといった感じ。毎年こうなのでここの土地にあわないのだろうと半分諦めているから、がっかりもしないですむ。青梗菜もまあまあだし、空豆は九割方は芽を出して、来年春への期待がつのる。
 夏から続いているピーマンや茄子もまだ収穫があるし、先日両手いっぱいに抱えるほども刈り取ったバジルもまた葉を広げて元気。再度植えたルッコラも雨が続いて生き生き繁り、イタリアンパセリも食べ尽くす蝶がいなくなってまた葉を伸ばしだした。苗で植えたレタスももうサラダには欠かせない。それから今年初めて植えてみたピーナッツがいくつか実をつけていて楽しくなる。落花生とか地豆(ジーマミ)とか言われるように、ほんとに枝が地に着いた浅い所にあの殻ごとの実が埋まっている。
 分葱も残っているし、カツオ菜もまたどこからか出てくるだろうし、まだあたたかいうちにと何度か蒔いたコリアンダーやディルの期待は消えつつあるけれど、まだまだ菜園の楽しみは続く。
 細々と映画のことを書く以外には、この菜園便りを書き継ぐだけだったような気もするけれど、そうやってまた季節が閉じて、今年も終わっていこうとしている。冬は、なんといっていいか、傲慢で無愛想な隣人というか、仕方のない、その他の喜びのために我慢しなければならない時、といった感じだ。そんなことを言うと、せっかく頑張ってくれている冬野菜には申し訳ないけれど、正直なところを言えば。

 

菜園便り137 ??????
12月17日

 ジョウビタキが窓の直ぐそばで羽ばたいて行き惑っている。何だろうと近づくとさっと飛び去った。鮮やかなオレンジに大きな白い紋だからすごくめだつが、派手なのは雄に決まっている。まだ目白がやってこないのは、アロエのあの不気味な熱帯植物みたいな花がまだ咲かないからだろうか。筒状の花に嘴を差し込んで、ちゅんちゅんと移り歩く様はかわいい。おまけにあの色と顔だ、憎める人はいないだろう。
 窓のそばの薄い桃色八重椿は今年はたくさんつぼみをつけていて、こんもりした木の形そのままに花で覆われるのが待ち遠しい。庭の入り口付近の山茶花が数年ぶりに花をつけてた。滲んだような紅色で八重で時期も遅くて、と勝手な理由で嫌ってほったらかしにしていたら、毛虫に葉を完膚無きまでに食べ尽くされて弱ってしまい、ずっと花をつけなかった。嫌われてまま子いじめされたので、虫に身を委ねてこの庭から姿を消そうと、自死を試みたのだろうか、可哀想に。久しぶりのせいか花も大ぶりでたくさん咲いている。感心するし偉いと思うけれど、そのあれこれ全部がちょと疎ましく思えたりもする、ひどい言い方だけれど。
 菜園の茄子は苗植えの時から、どうせうまくいかないと冷たくあしらわれ、そのとおりにあまり実をつけなかったのが、秋口に他の苗を植えた時に余った肥料をやったら急に元気になって花をつけ実をならし始めた。薄紫の花はなかなかのものだし、小さな実もせっせと摘んでは食卓にあげた。12月になってもまだ花は続いていたけれど、もう実にはなれない。先週まとめて引き抜いて、最後の花は花瓶に挿して楽しんだ、指ほどの実も着いていてなかなかの結構だ。健気というか、ちょっとずれてるというか。でも採れたての茄子は、他の野菜もそうだけれどほんとにおいしくてうっとりする。味も香りもふんだんで、歯ごたえがよくて
 レタスやルッコライタリアンパセリはまだ続いているし、大根や春菊も少しずつ間引きしながら若々しい柔らかさと青くさい香気を味わえる。そろそろ青梗菜を収穫して、定番の干しエビ炒めにしなくては。塩なしで爽やかな野菜の味と甘みが楽しめる。期待していた蕪は発芽した後足踏み状態だし、ほうれん草は完全にアウト、残念。
 庭のすぐ向こうの海には秋の始めに戻ってきた鴎が群れている。海岸には千鳥や鷺もいる。もちろん鴉や鳶も。時々小さな群れで騒いでいるのは、渚の漂着物の争奪戦。覗いてみても何だかわからないことも多い。彼らなりの理由や食性があるのだろう、もしかしたらただ縄張りや自尊のためだけなのかもしれない。
 11月からもう波打ち際に打ちあげられ始めた、時には1メートルを超すソデ烏賊も恰好のターゲットだ。鴎、鴉、鳶の三すくみで争う。そうしてそこにもう一派、ひとり闘いに割り込んでくるのは、人間。何人も海岸を獲物を求めて歩いているけれど、誰もがひとり、孤独に寒風に吹きさらされている。烏賊を引っかける鈎の着いた長い竿を背中に負い、長靴、防寒具で鎧い、ひとりいい目にあおうと、抜け駆けしようと、たき火を焚き、爛々と目を光らせる。せめて冷たい夜明けにと思っても、暖かい車のなかで夜を明かし、薄暗いなかにもう飛び出してくる。鳥たちに勝ち目はない。

 

菜園便り一三八
一二月三一日

 久しぶりに風邪を引いた。悪寒が走り、腰や関節が痛むのは熱があるせいだろう。こんなのは二〇年来無かったことだ。胸の奥が時々ごほごほいっているけれど、まだ喉から咳として飛び出すまでになってないし、鼻の奥がつんと痛くて、目の奥がじんじんする。典型的な初期症状。これから咳が出る、体が重くなる、寝込んでしまう、になるのか、それとも意外や意外、一気に鼻水がほとばしって回復へと向かうか(ありえないだろうけれど)。
 正月の準備の真っ最中だから、このまま寝てしまうわけにもいかないし、それほどしんどくもないし、雑煮とおせち、玄関と仏壇の花は、這ってでもこなしておくしかない。残っていた洗面所の掃除は、あれこれの備品を取り替えてごまかしておこう。
 でも首筋もすごく凝っているし、お屠蘇の道具を拭いていると腕が小さく震えていた。自分の体やその症状を丁寧にみていくのは、けっこう楽しい。身体的な痛みや激しい不快感(例えば吐き気や頭痛・・・・おお、おぞましい)が無い時は、熱は頭全体をぼんやりさせ、体も浮いているようで、ふわふわした気分だ、わるくない(今のとこは・・・だけど)。
 今年もいつものように父が雑煮の出汁(鶏ガラ)、がめ煮それに鰤の下づくりをやってくれた。ぼくもかわらずに黒豆、栗きんとん(大成功とは言い難い)、野菜の下づくり(大根、人参、カツオ菜、里芋)をこなし、後は夕食とその後の早めの年越し蕎麦が残るだけ。
 お鏡はもう昨日餅が届いた時に六箇所に備えたし、各部屋のだいたいの掃除はすんでいる。兄一家が三が日には来ないことになったので、そのへんもいつもより手抜きですむ。おいしいお菓子をどっさり頂いたのが、しっかり冷凍庫にしまってある。準備万端、と言わずになんと言おう。
 今年も暮れていく。体調のせいかすごく感傷的な気持になる。目が霞むのは熱のせいだけではないかもしれない。いろなことがあって、胸かきむしるようなこともなくはなくて、でも喜びも大きかったし、遠く離れた、長いつきあいの友人たちと何度かじっくり話す機会にも恵まれた。映画のコラム「文さんの映画をみた日」も続けることができて、丸二年が経った。ほんとにうれしい。この「菜園便り」も書き継ぐことができた。これ以上望むことなどあろうか。そう自問しつつでもそういう自問自体がすでに満足のなかにいない幸福に包まれてないことの証左だという思いがよぎり、そういう発想自体が個に取り憑かれた貧しく、果てのない飢渇でしかないと、改めて思ったりもする。
 何度も書いたけれど映画『亀も空を飛ぶ』のなかでなんとか語られようとしていること、かろうじて伝わってくることを思いだすと、喉の奥に苦いものがこみ上げてくる。でもそれが世界なんだ、あまり気にせずに、さあまた生きていこうと、あんな悲惨にもかかわらずあの映画が届けてくる穏やかな勁さや深さにはただただ驚嘆するしかない。
 今年もやっぱりセンティメンタルに、パセティクに暮れていく。それもうれしい。明日にはまた山のような事ごとに押しつぶされて、ため息さえつけないにしても。


菜園便り一三九
二〇〇六年一月一一日 

『、愛。』
 新聞の日曜版に、最近は土曜に出るので土曜版というのだろうか、「愛の物語」とでもいった連載の記事があって、そこに、前の夫や妻を捨てていっしょに暮らし始め、長く連れ添ったふたりのことがでていた。そういうのを目にすると、いつものことだけれど、「ああ羨ましい」と思ってしまう。
 以前はそこには、何故自分にはそういう人が現れないのか、誰も自分のことをわかっていないというような、過剰な自負というか何の根拠も背景もない思いこみや願望があったりしたけれど、今は、自分には残念ながらそれを受け入れる度量みたいなものがなかっただけだということもわかる。若い時も、「自分にみあってしか交通関係はつくれない」なんて知ったような口をきいていたけれど、そういうことがほんとにわかるのはずっと後になってからだ。それにほんとに望んでいたことなら何らかの形で実現していただろうといったことも。
 最近もうひとつ思うようになったのは、「たいへんだったろうな」ということ。何十年も好きで通すのは当然にもたいへんなことで、そこには、最初はふたりを追い込み燃え上がらせるあれこれの、特に外側からの難しい条件があったのだろうし、その上にそれぞれが自分で創りあげ思いこむ物語が、意識下であれ必要だろう。互いの、期待されている役割をやりぬく力も、忍耐もいる、まさに相手への愛ゆえだ。だからぼくには、周りのみんなに泥をかけて駆け落ちする大恋愛や全てを捨ててどこかの国へ、といった歌謡曲さえ真っ青になるようなことは起こらなかったし、とてつもない成功や名声を得ることもなかった。
 まかり間違ってそんなことに遭遇していたら、あっという間に吹き飛んでバラバラになってしまっていただろう。もちろんそれならそれでいいけれど、やっぱり人は自分の背負える荷物しか背負えないんだ、背負わないんだとわかる。そんなことも昔書いたりしてたけれど、それもまた当時はひどく観念的でしかなかった、今思えば。
 そう思いつつわかりつつも、でもいつだってこんなに心が騒ぐのは何故だろう。やっぱり誰もがどこかでそういうことに憧れていて、しかも実現しっこないからこそ心込めて思いを馳せるのだろうか。「ここより他の場所」というのはいつもいつも人を妖しく誘っていく、夢のなかだけで。けれど、そういうロマンティシズムは思いもかけないところでたぎる岩漿を露呈したりもしていて、自分でも驚かされるし、足を掬われることもある、怖い。性愛の暗がりや澱んだ深みは一気に人を引きずり込んでしまう、自分から進んで身を投じるという形を取りながら。
 年を重ねることは感受の深まりと鈍磨とが手を取り合ってゆっくりと進み、行き着く先は穏やかな達観、と思いきやとんでもない落とし穴があったりして、油断も隙もない。身体が衰えていくことや、性的な好奇心が鎮まっていくことにはずいぶんと個人差があって、死ぬまできりきり舞いさせられる人もいるんだろう。たいへんそうだけれど、どっか悦楽的で嫉妬してしまいそうだ、本人はただただぎりぎりと締めつけられ引き裂かれる苦しみの連続にしても。

 

菜園便り一四〇 ??????
1月15日 塩田倉庫
 先日、知人の写真家が津屋崎にみえた。街並み、旧い家屋、時の沈殿した壁、時間がつくりあげた不思議、仕事でなく自分の作品のためのそういったものを探す一環。つきあって、久しぶりにぼくも自分の町を歩いてみる。
 1994年に開催した、街並み保存-津屋崎現代美術展<場の夢・地の声>の準備で、町をあちこちまわったことが思いだされる。ぼくにも、ほとんど初めてといってもいいような新鮮さでいろんなものが目に入ってきた時だった。喪われていく旧い街並みの保存、建て壊しの危機にある旧い紺屋(染物屋)の建物を残そうという、具体的な目的をもった美術展でもあった。企画された柴田さん(残念なことに先年亡くなられた)が行政との交渉や地域との関わりを担当してくれたので、ぼくは美術展そのものに集中できたし、こういう場所でやることをずっと考えていたので、楽しく充実した三ヶ月だった。その間、ほとんど自分の仕事もできずたいへんだったけれど、驚くほど話題になり、保存の確認とその為の予算を行政から取りつけることもできた。
 新聞、雑誌、テレビと取材も多かったし、訪ねてきてくれる人を案内してはしゃべり続け、珈琲を淹れ続けていた気もする。ポスターや案内状のハガキの他に、パンフもつくったので、事前に4人の参加美術作家に作品を一部持ち込んでもらったり、写真を撮ったり大騒ぎだった。予算が少ないから、デザイン、文章、翻訳も自分でやった(美術に関して書いたのはそれが最初だったことも思いだす)。シンポジウムも開催し、いろんな方に参加協力してもらって盛況だったけれど、多くの人が関われば関わるほど、準備も進行もたいへんになる。
 その時は紺屋(上妻-コウヅマ-邸)の他に、農業倉庫や塩田-エンデン-煉瓦倉庫を会場に使った(津屋崎には以前塩田があったのはぼくもかすかに覚えていた)。他にも幾つもの魅力的な場所や建物があったけれど、貸してもらえなかったり、作家との相性がうまくいかなかったりして使わないままに終わった。もう使われてない病院、大きな雑貨店、造り酒屋などは今みてもやっぱり興味が湧く。銭湯はもう建物もなくなっていた。
 会期直後に映画の石井相互監督が、夢野久作展用のヴィデオ撮影にみえ、そういった会場や玉乃井旅館などを撮影されたのも思いだす。彼の『夢の銀河』(夢野の『殺人リレー』が原作)は津屋崎で撮りたいということでその後ロケハンにもみえたけれど、結局、予算などの都合もあって実現しなかった、それも残念だった。夢野の『犬神博士』をここで撮ったらいいねえと、玉乃井で言ってもくれたりしたけれど。
 久しぶりに歩くとこんな静かで動きのない町も、あちこちに更地が出現し新築の家が並んでいたりして驚かされる。撮影する人の視線を辿って、今まで気づかなかった視角や風景に出会ったりもできた。それにつけても、また、老朽した我が家、玉乃井のことが頭にのしかかってくる。好きだし、どうにかしたいけれど、自分でどうこうできる大きさじゃなく、屋根ひとつ直すにもとんでもない費用がかかるだろうし、いっそ思い切って全部建て壊そうと蛮勇をふるおうにも、それにもまた膨大なものが必要になる。ひどい雨漏り、吹きすさぶすきま風、剥落していく壁、動かなくなった窓や戸口・・・・きりがない。もう掃除さえしなくなった2階の広間のガラス戸を全部開け放ってすぐ前に広がる穏やかな海を見る喜びは何にも代え難いけれど、それを支える情熱は枯渇し続ける一方だ。

 

菜園便り一四一
一月二二日 干し柿

 父が干し柿を下ろしてきた。このあたりではつるし柿というけれど、ちょっと生々しすぎることばでなかなかすっとはでてこない。今はもう使ってない別館の、どこか陽当たりのいい軒先に下げていたようだ。毎年寒風に吹きされされてカチカチになってしまうので、早めに取り込んでくれといいつつぼくもつい忘れてしまう。今年はまだそんなに硬くはなってないし、オレンジ色も残っている。
 干し柿は、まるで宝石といった輝くオレンジ色のとろけるような柔らかさのものもあるし、びっくりするくらいの値段で店先に並べてあったりする。父のは、庭の手入れもしない小さな渋柿をひとつひとつ手で剥いて、シュロの葉を細く裂いてつくった紐で二つずつつないでかけただけのもの。シュロの紐は二ヶ月以上経ってもまだ緑の色を残しているし、丈夫でしっかりしていて驚かされる。そのシュロ紐をみた時は、大げさにではなく「ああこれが「文化」だ」と思わされた。こういうものを、父は親兄姉から地域の生活のなかでごく自然に見覚えて身につけ、いつのまにか自分でできるようになっていたのだろうし、たぶん自分がやっていることを意識してもいないのだろう。この紐とそれにまつわる様々なものは、だからここで途絶えてしまう。父と共に喪われるのだろうと小さな感傷が起こる。使い残して捨ててあった紐の束を拾ってきて部屋に置いているけれど、でも継承しようという気にはならない。あらたまって聞いたり教わったりするのが照れくさく、めんどくさいというのはあるけれど、それ以上に、そういったものがもう自分の生活からもリアルからも遠いし、それをあたかもそうであるかのように身につけてみるのは、どうしても嘘に思えてしまう。
 誰かが自家製の干し柿を、「乾燥して硬くなって全部が皮みたいなあの干し柿」と形容しているのを聞いて、なかなか的確な表現だと耳に残った。もちろん最初に皮は剥いてあるのだけれど、手入れせずに吹きっさらしておくと種を取り巻く厚ぼったい一枚皮といった感じになってしまう。それはそれで歯ごたえもあって、独特の黒ずんだ色合いをしっかり噛みしめれば、砂糖っぽくない甘さがあり、おいしいものだ。ほんとに歯が立たないくらい硬くなってしまうこともあって、そういう時はスライスして果実酒やラムを振ってもいいし、砂糖漬けにする人もいる。柑橘系の味をちょっと加えるとよさそうな気もする。
 膾やサラダにも使えるし、刻んでパンや菓子に焼き込んでもいい。生の柿がチーズによく合うように、干して甘みが増した柿は、チーズと相性もぴったりで、デザートにもなる。
 こういったちょっと癖のある独特の甘み、味わいは、蜂蜜やレーズン、プルーンなどの乾燥果実もそうだろうけれど、精製された砂糖的な単純さでない濃厚さがあり、また香りも特異で好き嫌いが大きく別れる。果実そのものも最近は甘みの尺度ばかりが喧伝され、酸味や苦みくさみの消し去られた単純さに一元化されていて、寂しい。今は人も、あたりがよくてつきあいやすくいつも適度で、ケータイのメールの距離がベスト、過剰さや不細工さは丁寧に削られ、ことばも選ばれつるんと口あたりがよく、規格外の哀しみや喜びは場違いなものとしてそっと外される、そんな関係が多いけれど。


菜園便り一四二
一月三一日

 庭の隅に蝋梅が咲いていて驚かされた。六〇センチくらいの何度も枯れかかった小さな木。父が正月の宮地獄神社の植木市で買ってきて植えたまま放って置いたのがすっかり枯れたと思っていたら、二年目にまばらに葉をつけたので、なにかもわからないまま時おり気がつくと水をやっていたけれど、伸び悩んでもう四、五年目だ。
 確かに蝋のような厚みと艶のある作り物めいた黄色い花弁。顔を近づけると梅に似た香りがある。葉っぱは梅とは似つかない大ぶりな楢か椚みたいだった気もするけれど、近頃の自分の記憶なんてあてにはできない。
 ちょうどみえた山本さんに見せると、花を見たのか見ないのかその直ぐ側に七、八〇センチにすっと伸びている月桂樹を見つけて教えてくれた。隣には最近頻繁に切り花にしている山茶花水仙があるのに、この蝋梅ともども全然気づかなかった。
 以前山本家から数本もらってきて植えた月桂樹の苗木のひとつだろうか、もうすっかり忘れていてわからない。はっきりと植えたのを覚えている三箇所のはとうに消えたから、もしその時のだとすると奇跡的だ。たちまち忘れられたから、水ももらえず、でもこの蝋梅の余禄の水で余命をつないだのだろうか。ここまで伸びていれば後は大丈夫だと、それほどの根拠もなしに山本さんが断言する。それもまた心強かったりする。
 糸島からのクリスマスローズ、ジンジャー、鳥栖からの三つ葉、川口さんから沖縄月見草のお返しにと頂いた、不如帰だったか、鳥の斑紋のある花、米倉さんからの夏萩、そういった頂いて植えたけれどいつの間にか消えてしまったと思っているものも、藪に紛れてひそかに生き延びているのかもしれない。頂いた当初は、土を掘り返し、肥料や水をやり、頻繁に見に行っては触りながら話しかけたりもしたけれど。
 菜園の始まりにもつながる余田さんからのイタリア土産のルッコラとチコリ系の野菜は潮で全滅したけれど、数年間おいしい野菜と花を楽しませてくれた。元気な頃は毎年庭のそこかしこに勝手に生えてきては一メートルを超して伸びるチコリの儚げな薄紫の花は懐かしい。1昨年、駅の近くの庭に一本咲いているのを見つけたので、秋口に種をもらおうか、盗もうかと行ってみると、とっくに根本から刈り取られていた。
 ここのやせた塩気の強い砂地にあうものあわないもの、気候の偶然や幸運が作用して根づいてくれるものたちまちに消えていくもの、なによりも先ず、愛情だろう。それが肥料や水やといった最低限の条件を満たさせ、幾ばくかの世話につながり、生き延びさせ、成長や収穫に結びつくのだろうから。そうしてやっぱり込められる心、思いが、相手にも伝わって、思いがけない反応や生きる力を創りだしたり引き出したりしてくるのだろう。どこにもある、何にも着いてまわる喜びとか哀しみが、この手入れの行き届かない寂しげな庭にもまた溢れている。

 

菜園便り143 ??????????
2月1日
『夏豆 2』

 田村さんは念願の引っ越しを済ませた。いくら都市の中央部とはいえあんなひどい所にそこそこの部屋代を取られながらも20年も住み続けたのは、それなりの事情があったのだろう。
 家を捨てて働き始めた人足置き場人夫出しのそばの食堂で、新参者でまだまだ娑婆の匂いをたてていたからだろう、あれこれ話しかけられ女将に気にいられ、2階の1室を借りることになったらしい。気安いつきあいができたその女将と手伝っていた嫁とがたて続けに亡くなった後も住み続けたのは、仕事に近かった他にも、その雑ぱくな環境に安心できたからだろうか。もちろん行く当てなんてない。
「解体屋の親方も親切でな、その下請けやってる人に気にいられてな、いい仕事回してくれっけが。何千円か割り増ししてくれてよ、そん人も、雇われだけんど喧嘩っ早いって言うか、強気でな、結局大げんかして抜けて、自分で始めたけんど、無理だよな、ダメになって消えちまったさ。あん頃は日銭がぼんぼん入って、住む部屋なんてないさ、サウナにつまり続けてそこから解体にいって、金もらって飲んで食って。飲まんとおさまらんていうより、金使わんとおさまらんってなそんな気分さ。あの頃に少しでも蓄えておけばな」とあまり残念そうにではなく田村さんは言う。「あいだけ体をむちゃくちゃに使うてよう壊れんかったもんだ、酒飲んで脂もんばっか食ってパッパと金使ってよ。」
 どうにかしのいで生き延び、そこからさらに下流には流されずに踏みとどまり、でもかなりの額の借金を抱え、今になって引っ越す気になったのは、掃除もしない大家の父息子に嫌気がさしたのだろうし、何年経っても気が抜けない訳ありばかりの近所のつきあいに疲れたのだろうか。なにより60半ばになって心身のはりが喪われ、気弱になったのかもしれない。年金という最後の頼みの綱もある。地震の被害がかなりでた古いその建物が急に心配になったのかもしれないし、大家がこれを機会に建て替えるとまたぞろ言いだして出ていってくれとくり返すのにも、いつもと同じ繰り言だとは思いつつ、嫌になったのだろう。今が最後のチャンスだと、ギャンブルで鍛えたそいうカンが冴えたのかもしれない。
 地震被害者ということや年齢で優先権が生まれたのか、県営住宅の呆れるような倍率のなか第1番優先となり、集合住宅の単身者向けに当選した。団地のなかだけれど郊外の川の側で落ち着いている。並木や少しばかりの花壇もある。2階の陽当たりのよい部屋は6畳二間と広いダイニングキッチン、奇妙な作りの納戸まである。湯船があまりにも小さいことを除けば、贅沢すぎるほどだ。
 「これからはようきちんと生活して、借金もちょとずつ返してよ、いつか兄貴たちや娘たちとも会えたらなんてつい思うべ。エラソーな兄嫁はいらんけんどもな。」とことば弾む。今までの同じように博打と金欠の仲間とは離れてやっていく決意も述べる。そんなにうまくいくわけはないだろうけど、あれこれの助成も出たし、少しまとまった額も行政から借りることができた、ほんとに実現するかもしれない新しい生まれ変わった生活が。「もう名乗り出たりあおうなんて思ってないさ、ほんとんとこは、できねえだろう、な、そうだろ、俺だってわかってるさ、そんくらい。兄貴は生きてっかなあ、下の方のさ。上のは年も離れんで、あんましちかくなかったっけが、口が達者で面倒見もなんかよくって、議員になってたっけがもう止めたんだろう、新聞に勲章もらったとかなんとか出たって、あれあんたの親戚じゃねえのかって教えてくれた人がいたけんどな。娘は国立の大学に入ったまでは知ってるが、そん時も兄貴が世間じゃ借金しても子供をいい学校に入れるに、お前は自分で金借りて使いまくって」って畳を拳でどんどん叩いて泣いて切ながってくれたけんど、俺の方はシラーとしててなんじゃこんくらいの金なんて思ってけが、バカだね、バカは死ぬまでなおらねえんか。じゃあだめだな、なあ、そうだっぺ」。
 そうそううまくいかないのが世の中、人生。腐れ縁の妙な関係に引きずられ、持ち慣れない金に舞い上がり、ええかっこしいが「親分肌」とおだてられ「兄貴」と呼ばれていい気になって、たちまちわずかな金は消えていく。小賢しく物の援助を金に換えようとあれこれやってろくでもない物を掴まされて挙げ句の果てに残った金も巻き上げられ、それでも懲りずに困った困ったと泣きつく男に  ローンのカードを貸したり、常軌を逸した利子の借金を「普通の」利子のサラ金からで代行してやって、かえって安んじられ、蔭で笑われたりと、まるで戦前の浪花節か  喜劇か。悲喜劇とはよくいったもの。
 かろうじて始めた病院の検査だけはどうにか終えて、新しい入れ歯、C型肝炎と診断された肝臓のスキャン、爪に食い込む水虫の治療は始まった。それだけできたかけでも御の字というべきなのか。
 しかしこれから、サラ金に較べ利子は驚異的に低いとはいえかなりの額の借金をかかえ、年金だけでやっていくことは可能なんだろうか。保証人になった年若い長崎の友人はどう思っているのだろう、不安で夜も眠れないのではないのだろうか。それとも始めっからそんなもんだろうと達観していて、諦めているんだろうか。でもそうはいかないだろうことは遠目に見ててもわかる。

 

菜園便り143 ???????
2月2日 『夏豆3』

 「もう名乗り出たり子供たちに会おうなんて思ってないさ、ほんとんとこは、できねえだろう、な、そうだろ、だろ、俺だってわかってるさ、そんくらい。兄貴は生きてっかなあ、下の方のさ。上のは年も離れてっけし、あんましちかくなかったっけが、口が達者で面倒見もなんかよくって、市会議員になってたっけがもう止めたんだろう、新聞に勲章もらったとかなんとか出たって、あれあんたの親戚じゃねえのかって教えてくれた人がいたけんどな。でもどっからそんなことがわかったんかな、考えてみるとおとろしいこった。
 娘は地元の国立の大学に入ったまでは知ってたけんど、そん時も下の兄貴が世間じゃ借金しても子供をいい学校に入れるに、お前は自分で金借りて使いまくって」って畳を拳でどんどん叩いて泣いて切ながってくれたけんど、俺の方はシラーとしてて、なんじゃこんくらいの金なんて思ってけが、バカだね、バカは死ぬまでなおらねえんかね、ほんとに。そんなことじゃあだめだよな、なあ、そうだっぺ、だろ」。
 そうそううまくいかないのが世の中、人生。腐れ縁の妙な関係に引きずられ、持ち慣れない金に舞い上がり、ええかっこしいが「親分肌」とおだてられ「兄貴」と呼ばれていい気になって、たちまちわずかな金は消えていく。地震で壊れた家財道具などの援助を、小賢しく金に換えようとあれこれやってろくでもない物を掴まされて挙げ句の果てに残った金も巻き上げられ、それでも懲りずに困った困ったと泣きつく男にサラ金ローンのカードを貸したり、常軌を逸した利子の借金を「普通の」利子のサラ金で代行してやって、かえって軽んじられ蔭で笑われたりと、ようするになめられて、まるで戦前の浪花節か場末のヤクザものの芝居か。これはいったい喜劇か悲劇か。
 かろうじて始めた病院の検査だけはどうにか終えて、新しい入れ歯、C型肝炎と診断された肝臓のスキャン、爪に食い込む水虫の治療は始まった。それだけできただけでも御の字というべきなのだろう。
 しかしこれから、サラ金に較べ利子は驚異的に低いとはいえかなりの額の借金をかかえ、年金だけでやっていくことは可能なんだろうか。保証人になった年若い長崎の友人はどう思っているのだろう、不安で夜も眠れないのではないのだろうか。それとも始めっからそんなもんだろうと達観していて、諦めているんだろうか。でもそうは簡単にはいかないだろうことは遠目に見ててもわかる。人が生きていくのは、ひとりつましくであってさえもなかなかに難しく好事魔多し、なのだから。

 

菜園便り一四四
二月二日

 海一面に靄がかかり、今年は暖かい旧正月だった。乳白色の海と空がきれめなく続く。風もなくゆったりとうち寄せる波はどこか重たげで、まるで春だ。そんな波打ち際には鴎が群れ、上空には鳶。打ちあげられた貝殻が光る。コートも脱いで、濡れた砂に足をとられながら歩く。光がまっすぐに体に入ってくる。
 大気の冷たさはまだまだで、しばらくはいちばんの寒さが続くのだろうけれど、硬くて透明な光の強さは勢いを増し眩しいほどに輝き、艶のある硬い椿の葉の上でも乱反射している。菜園の野菜もまわりの雑草も青々と伸びる。
 玄関の蔭の沈丁花も蕾がだんだんと色づき膨らんでくる。切り花にして暖かい部屋におけば開くかもしれない。今年は寒さで遅れたせいか一斉に開いた水仙はどこの家の庭でも元気に伸びて開いている。ふだんは目立たない場所もそうやって1年に一度だけ視線を集める。数本で部屋のなかが香りに満たされ豊かな気持になれる。
 今年は出かける予定があって旧正月には家にいられないからどうしようかと心配していたが、父も何も言いださない。新正月の準備がうまくいかなかったから、懲りて諦めたのかもしれない、当日になって、日めくりを捲って気づいて声をあげたかもしれないけれど。雑煮はもちろん、黒豆もがめ煮もつくらなかった。とりあえず餅だけは正月のを冷凍したのがまだ少し残してあるし、知人が送ってくれた小餅が一袋あるから、ぜんざいぐらいはいつでもつくれる。鏡開きの日には前日から煮込んでこしらえたけれど、硬くなった餅はあれこれレンジでやってみてもなかなか柔らかくはなってくれない。適当なところで焼き目をつけて後は食らいつくだけだ。幸い父は県の大会で表彰されるほど歯は丈夫で、まだほとんどが自前だから硬いものも平気だ。
 日めくりには月初めにあれこれの雑記と共に様々な薬効湯の紹介があって、父は必ず控えている。柚子、菖蒲、蜜柑の皮といった定番の他にも、酒や焼酎、ワインから牛乳、梅や桜の花びら、松の葉もある。柑橘類のばんぺいゆ(どう書くのだろう、漢字表記で見た記憶もあるけれど)の皮などはうっとりするくらい香りがたつ。林檎も果肉が硬いし、いいかもしれない、産地あたりでは売れないものでやっているのだろうか。山椒やローズマリー、乾燥させたハーブ類も適量なら楽しいだろうし、ああいった類は油があるから温まるのにもいい。
 正月の湯には何があうだろう。飾り物とあわせるなら松や梅、竹だって香りがあって悪くない。南天も実が美しいだけでなく何か薬効がありそうだ。あの強烈なお屠蘇は残りを混ぜるだけでも匂いたつだろう。花は湯に浮かべるより浴室に飾る方が香りもよく効果もあると言う人もいるから、この季節多くはない庭の花をかき集めてきてもいいかもしれない。
 何かしら新鮮で清々しいものがいいと思ってしまうのは、新年というきっかけを少しでも大げさにしたい重々しく思いたいという切実な願いだろうか。きりりとした冷たさのなかに射し込む新しい陽光、その下の清浄な湯からたち昇るま白き湯気と渦巻く香りに包まれるなら、新しく生まれ変わった産湯のなか、今、何も怖くはなく、さあ何でもできるという壮大な思いになれるのだろうか。立ちのぼる永遠を湯気の向こうにありありと見る、と豪語するまでに。たちまちにぺちゃんこになる肌の湯玉、たてつづけに出る湯冷めのくしゃみ、せいぜいそんなことのくり返しになるのがおちだとしても。

 

菜園便り一四五
二月一七日 馬医者

 時々海岸を馬が散歩している。残念なことに馬がひとりでのんびり歩いているわけじゃなくて、人が乗ったり手綱を引いたりしている。どこかの乗馬クラブのものだから、サラブレッドに近いすらりと美しい脚だ。折れたりしたらどうするんだろう。あちこちでみかけるペットの病院なんかの獣医じゃ馬なんてさわれもしないだろうし、もしかしたら一度も見たことがないのかもしれない。蹄(ヒズメ)の蹄鉄はどうするんだろう。
 祖父が獣医をしてた頃は農耕の牛馬や家畜がほとんどだったようで、農家のお祖母さんなどに「馬医者どん」と呼ばれていたと聞いたこともあるから、マルチーズとかチワワなんかとは無縁の世界だったはずだ。獣医をやめてからも器具や薬品類が家や倉庫に残っていて、勝手に持ち出して遊んだりしていた。今思うと怖いことだ。注射器、鉗子、色つきの広口薬瓶などは形としても奇妙で美しい。「豚コレラ」の血清なんてアンプルもあった、あのハート形の口金切りと共に。
 ある時ひとりであれこれいじっていて、金属の箱に、なんとモルヒネと阿片が茶色い小瓶に入っているのが見つかった。小さな活版印刷のラベルが着いていて、塩酸なんとかかんとかいった難しい薬品名だった。もちろん劇薬表示もあったけれど、思春期以前なんて世界とうまくつながってないし、まだぼんやりしたままだから、それほどリアルには響かない。括弧のなかにカタカナの通称名が入っていたのでそれとわかった気がするけれど、祖父の手書きのメモが入っていたのも覚えてるから、それに書いてあったのかもしれない。馬には何ミリグラムとか、殺す場合はどのくらいとか、そういったメモだった。なんだか体がふわっと浮いたような感じのまま、もとどおりにしようとして箱の表に祖父の硬い楷書で麻薬と書いてあったのに気がついた。
 あんなに優秀で几帳面だった祖父らしくない管理や保存の仕方に違和感も残った。ブリキの箱は蹄鉄用の釘の保管にも使われているものだった気がするし、機密性の高いぴったりした箱ではなかったから、保存状態はよくはなかったはずだ。あれからどこへ消えたのだろう、ずっと後に心当たりを探してみたけれどどこにも見あたらなかった。馬一頭が麻痺して、ショックでということなんだろうけれど、死ぬというのは、とてつもない気もする。あんなに大きくて張りのある体が。

 

菜園便り一四六①
二月一八日 馬蹄

 当時住んでいた家の庭の一角に、馬の蹄鉄交換の為の鍛冶場を備えた建物があった。蹄に着ける金属の蹄鉄はすり減ると付け替えなければならないし、時々は釘がとれて外れたりもする、そういった装蹄や修理をするところだった。蹄鉄とか馬蹄とか呼ばれているそれは、バテイ形ということばそのままに一方が開いた楕円に近い平たい金属の輪で、米国なんかでは幸運をよぶと納屋の入り口に打ちつけてあったりする。先端に小さな突起があり左右に数個の釘のための穴がついている。
 入り口が大きく開いた納屋のような建物には左右の柱から太いロープの轡(クツワ)架けが下がっていた。飼い主に引かれて馬が来るとそこに馬の轡をつなぐのだけれど、気性の荒い馬は嫌がって暴れたりするから、飼い主がなだめたりどなったりひと騒動ある。つながれてしまうと、そういう馬は奇妙な方向にぎょろりと目を剥いたりしてずいぶんと気味悪かった、大きな動物や獣への畏怖や怯えだけでなく、なにかしらぞくっとさせられるものがあって。
 馬は苛だって前足で床板を掻くように削るように踏みならし、敷き詰めただけの板は時々小さく跳ね上がって細かな埃が舞い上がる。ほとんどの馬はお百姓さんらしい飼い主に手綱を引かれてやって来ていたけれど、乗ったりはできなかったのだろうか。鞍をみた記憶もあるけれどあれはどこか他の場所だった気もする。
 荒い皮の前掛けをかけた装蹄士-国家試験の免許だったようだ-が間あいを計って馬の脚をひょいと持ち上げ二の腕と体でぐっと挿み屈めた股でしっかり受ける、これが基本姿勢で、全部の作業に共通していた。先ずペンチみたいな専用の道具で釘を抜いて蹄鉄を外し、これも独特の鈎型のナイフで爪を削る。馬は時おり嘶(イナナ)いたり大きく動いたりもするから、よおし、よおしと声を掛けてなだめたり、どなったり鼻を引いて鎮めたりしつつ、いつでもさっと体を引ける、身をかわせるような姿勢と間あいを保ちつつやっていく。後ろ脚を持ち上げている姿ばかりしか浮かんでこないけれどどうしてだろうか。
 外した蹄鉄はちびてしまっていたら取り替えるし、癖がついて不均衡になっているだけでまだ使えるようなら、打ち直して平にする。コークスの鞴(フイゴ)と鞍型の金敷や水の樽の置いてある場所での作業になる。よく手伝わさせられたけれど、けっこう楽しい手で押し引きして火を熾す鞴。真っ赤になったコークスに蹄鉄を突っ込んで焼いて、火の色と同じ透明感のある朱色になると掴みだす、もちろん素手で。それくらいできなくては一人前ではないし、実技試験で真っ先に試されるのがそれだ。というのはもちろん嘘で、掴むために先を平たくした手製のはさみでつまみ上げ、金敷の上や首の部分に掛けたりしてとんとんと叩く、もちろん拳骨で。何種類かの金槌を平たい方やとがった方を使い分けながら叩いて、形が整うとつまみ上げてジュッと水の中へ。湯玉があがり、つんとする金属の匂いが立ち上がる。水面にさっと油の皮膜が浮く、濁った水のなかの虹色の輝きで。

 

菜園便り一四六②
二月一八日 馬轡

 できあがった馬蹄を馬の爪にあわせて細かく直して仕上げる。その後、もう一度焼いて今度は冷やさずにそのまま馬の爪裏に押し着ける。爪が焦げる臭いがまき上がる。きっと小さい頃はわざと大声を上げて、鼻をつまんでくさいくさいとか言ったかもしれない。近所の子供たちといっしょだったら、きっとやっただろう。装蹄士もそれにあわせて、なんか子供をバカにすることばを吐いては楽しんだろうか。それともいつものようにむすっと押し黙ったまま、後で飲む酒のことを考えてただろうか。
 馬は突然に排泄する、予告なんてない。それもまた子供たちを喜ばせた。突然小便がどっと走り出て、作業中の装蹄士の足下に激しいしぶきを上げると、本気で怒って馬をどつく人もいた。糞もする。バフンは丸まって乾いているしあまり臭いもなくて、ぽろぽろという感じだった。その時は「おいおい、しょうがないなあ」といった苦笑いですんでた気もする。それを手製の木のちりとりでかき集めて外の一角に積み上げておくのは子供たちの役割だったか。
 最後に爪裏に押しつけた蹄鉄を釘で打ちつけていく。その釘を祖父の小さな工場でつくっていた。特別な、厚みのある長方形の頭で、釘先は平たく潰してある。その釘をとんとんと打ち込んでいく。馬の爪の部分は長いし、神経はないのだろうから痛くはないとわかっていても、見る度に体のどこかがぎくしゃくする。もちろんそういう作業の途中に、爪裏とぴったりしないことがわかるともう一度やり直しだ。爪を削るか、蹄鉄に手を入れるか。そうやって終わった後は轡かけから外され、外の柵につながれる。筋肉が浮き出て、筋が張り、皮膚が滲む汗で光るような殺気だった雰囲気が馬から消え、人もざぶざぶと顔を洗って一段落する。のんびりと馬は草を噛み、人は薬缶の冷めた茶をゆっくりと啜る。

 

菜園便り一四六③
二月一八日 装蹄士

 蹄鉄の仕事をやる小屋の片方の壁際には、作りつけの木のベンチがあって子供たちはそこに腰掛けて見ていた。もちろん子供のためにつくられたものでなくて、馬を連れてきた人だとか、何かの頼み事できた人が座るところだったのだろう。子供以外が座っているのをみた記憶がないのは、大人がいる時は近づいちゃいけないといった不文律があったのだろうか。きっとお客や大人の周りをうろうろしていると怒られていたのだろう。
 心細い気持で夜遅くまでそこにいた思い出もある。誰かいっしょだったような気もする。親に叱られたか子供の方が親の理不尽に怒ったのか。たぶんお腹がすいていたんじゃないかと、今になって気になったりもする。でもきっとそのうち半分眠りながら、半分泣きながら、家に帰ったのだろう、姉が迎えに来たりして。
 作業場には奇妙なものがいろいろあった。それも子供たちを惹きつけた理由のひとつだった。馬の骨格標本もあった。太い針金状の金属でつながれ、支柱をつけて立ててあったのが、小屋の外でもあり半分壊れかかっていた。隣の大きな倉庫の壁で薄暗く子供にはずいぶんと怖かった。そばにもう一体、バラバラのまま木枠に詰めてあるのもあった。獣医の祖父が三体つくった見本で、もう一体は近くの、ぼくもいった高校に寄贈されていたらしい。
 他にも何個かの駝鳥の卵。型どりした石膏だったけれど、その大きさ不思議さにどこか圧倒されて、触ってはいけない気がしていた。だからよけい触らずにはいられないのだろう、ほとんどが壊れていた。怖いものは他にもいろいろあったし、作業場のそばのコークスも入れる小屋は真っ暗で不気味だった。それでも、というかだから頻繁に子供たちの侵入を受けた。奥には小さな明かり取りの窓があったし、それなりの広さがあって、ただの物置にしては仰々しい作りだった気もする。子供の秘密基地になり、ちょっとした悪戯の場になり。
 いろんな道具類も、その金属や木や油のにおいと共に思いだされる。金床の横、厚い棚板の上には道具や木ぎれ金属の塊、破片が散乱し、そこに大量の黒い金属の削りかすが積もっていた。その端に油が染みて真っ黒に光った万力が、がっちりと止められ、その大きな口を回して締めつけるための長い棒がついていた。半径を長くとるために、最長の長さで上まで回すと、ストンと落としてまた下から回し上げる、そんなふうになっていた。端は手に治まる小さな球場になっていたし、油で黒光りしてちょっと湿って感じられたし、触るのが好きだたのだろうか、怖いのに惹きつけられる道具だった。

 

菜園便り一四六④
二月一八日 馬糞と薔薇

 厚い板を敷き詰めただけで固定してない作業場の床は馬が前足をかくと小さくはねて、細かい埃が日向くさい馬糞の臭いと共に舞い上がった。
 馬糞は小屋の外の一角に積み上げられていた。小学校五年生の時、担任の眼鏡をかけた怖い長島先生が突然やってきて馬糞をくれというので驚かされたことがあった。馬糞は彼が丹精する薔薇にとてもいいということだったけれど。
 その家屋と不釣りあいに広い、手入れの行き届いた庭のあるお宅には一度だけ行ったことがある。奥さんが留守で、先生は不器用に紅茶を入れてくれて珍しい外国のもののビスケットをだしてくれた。柔らかい長いすに並んで腰掛けて、先生がすごくやさしくて、そうしてちょっとぎこちないのがわかって不思議な気がした。こんな怖い人が緊張したりするのだろうかと。もっと食べなさいと進められる声がちょっと震え、それを本人も気づいていっそう意識してしまって、だからぼくにも緊張がうつって紅茶をこぼしてしまったのかもしれない。それとも図書室で読んだ外国の本の中にあったように、まるでおびかれるようにおびくようにそんなふううに失敗するように振る舞ったのかもしれない。子供はあまりにも素直でだからとてつもなく傲慢にもなるのだろうから。
 驚く先生、でもそんな失敗が生むおかしさで緊張が解け、ごく自然に服を乾かす為にと脱がされたのだったろうか。もちろん自分で脱いだのだろうけれど。それから、それからのことは覚えていない。

 

菜園便り一四七
二月一九日 丹部さん

 隣町には戦後しばらく競馬場があったからその頃は競馬馬も来ていたらしい。一度サーカスの馬を頼まれてやった時に、極端に偏った擦れかたをしていて驚かされたという話を父から聞いたことがある。小屋の中をいつも一方向にだけ走るためにそんなふうになるらしい。脚の形や左右の大きさもずいぶんとちがっていたのだろう。胸の底に残ってしまいそうな淋しい話だ。 
 蹄鉄を打つ人はふたりいて、ひとりは父で、もうひとりは丹部さんだった。酒が好きで、そのせいもあったのか最後まで装蹄士の試験には受からなかったそうだ。もちろんそんなこともずっと後になってから何かのおりに知ったことだけれど。腕はよくて何でもこなしていたから、筆記の試験が苦手だったのだろう。そんな辛気くさいことをぐだぐだ覚えてびくびくしながら試験に臨むぐらいなら、はなっから酒でもくらって楽しくやった方がいいに決まっている、もちろんそんなことはおくびにも出さなかったろうけれども。
 奥さんと息子さんと三人で駅そばの小さな町営住宅に住んでいた。当時日本中に溢れていた引き揚げ者のひとりで、そんな大勢の帰郷者のための簡素な作りの住宅が建ち並んでいた。馬が来たからと呼びに行って、軋むガラス戸の玄関から声をかけると、むっつりと奥から顔を出したり、のっそりと庭の方からまわってきたりして、ほとんどしゃべらなかったけれど、時にはぐてんぐてんに酔っていて、家の前の小さな側溝のどぶに片足だけ突っ込んで倒れたりしていた。もちろん昼間のことで、どんな事情だったのか、子供にはわかるわけもない。そんな時に小さな肩を貸して、酒の臭いを凌駕するむっとする体の匂いといったものを初めて知ったのかもしれない。でも痩せた小学生では何の役にもたたず、少し立ち上がってはふたりしてどうと倒れ、かえって深みに嵌っていったのだろう。
 ずっと後、大学時代に帰郷したおりに母に頼まれて入院中のベッドにお見舞いを届けにいって、奥さんにはまた会った。丹部さんはとうに亡くなっていた。お見舞いがお金だと途中で気づいてすごく困ったけれど、もちろんその方がずっと助かるからだろうし、互いの了解があるから母も持たせたのだろう。奥さんもさらっと受けとられてほっとしたことも思いだす。再会を喜んでくれたけれど、ぼくが誰かほんとのとこはわかってなかったと思う。そんなに何度もあった記憶はないし、あの当時はどこにも子供が多かったし、年の近い兄もいたから。とにかく玉乃井関係の誰かだろうというぐらいのことだったのだろう。
 あたたかい陽射しの穏やかな日なのに平屋の木造の病室はずいぶんと冷え込んでいた。何度も断ったのに、強いるようにして奥さんは廊下の端まで送ってきてくれた。薄い柔らかい部屋着を着て、やはり薄い色の大きなスリッパを履いて。

 

菜園便り148-② ???????


 その小さな蹄鉄用の釘工場の裏に借りていた畑でのことを楽しく思い出すのは、まだ幼くて何の仕事も強制されず、したいことだけをして遊んでいたからだろう。働くどころか、ほとんど邪魔扱いされるだけだった。姉は今でも、仕事はたいへんだったし、嫌なことも多かったと何かの折りに言うこともある。我慢強くてしっかりした、長女の見本のような姉が言うことには説得力があるし、確かにそうだったんだろうと思う。でも大根を引いたり、時たまつくっていた落花生を収穫したり、ほとんど失敗したとうもろこしから数えるように粒を採ったりする収穫の喜びはしっかり覚えている。
 さらさらと手から落ちる砂の多い土には小さな貝殻や巻き貝も混じっていた。土や野菜や肥料のにおい、そうしてそれら全部の上に、もちろんぼくの上にも降り注ぐ陽の光の匂いも。

 


菜園便り149 ?????????
3月20日 
北九州市美術館別館で加納光於展、福岡市のギャラリーmapで李禹煥展をやっています。それに刺激されて、我が家でも「李禹煥加納光於展」を開催することにしました。たまには虫干しもしないといけないし。ずっと興味を持ってみてきた作家で、一時期は作品を集めたりもした人たちですが、あれこれの、主には生活の事情で手放したものも少なくなく、今後ももう減ることはあっても増えることはないので、もう一度みておこうかというような気持もあります。
我が家をご存知の方には馴染みの、海側の玄関から入った廊下が会場です。ぼくの部屋や書庫にも置く予定です。中心は版画。油彩(アクリル)がそれぞれ1点ずつ。亡くなった難波田龍起のタブローも1点参加します。ついでに、現在残っている作品のリストもつくったので、添付しておきます(希望される方には譲ります)。
絵画が好きで展覧会などはよく行ってましたが、意識的に画廊を訪れたのは新聞で知った田中恭吉展が最初でした。それからずっと、ただで見せてくれる場所だとばかり思って楽しく通ってましたから、そこが売り買いのための場だと知った時はかなり驚きました。
エルンスト作品集をきっかけに、オリジナル作品つきの画集などを買い始めていましたが、弥生画廊の有本利夫展の会場で彼の画集のことを教えてもらって行ったのが、今はあまり思いだしたくない並木通りのギャラリー77という画廊でした。そこで有本利夫と吉田勝彦の版画を入手したのが最初です。それからはきっと作品をみる目つきがちがっていたと思います。よくも悪くも必死にみるようになったのでしょう。
佐谷画廊、しろた、ユマニテなどで、李と加納、それに山田正亮、若林奮や野田裕二などを手に入れたりしてました。売った値段では引き取るという不文律をバブルの狂騒後も維持したきちんとした画廊は、生き残るのはなかなかたいへんだったようです。ギャラリー77が生き延びたのはなりふりかまわなくなったからでしょうか。そういったわけで、80年代までの作品だけです。
帰郷後は現代美術と出会い作家たちとのつながりもできて、企画に始まり展評を書くこともやるようになりました。もう購入するようなゆとりはなく、作品もお礼に頂いたりするものがほとんどで、そういったものをまた今度まとめてみたいと思っています。
海にも樹々にもそして菜園にも、もう春はまぎれようもありません。事前に連絡いただければ珈琲なりワインなり準備しておきます。たまには穏やかな津屋崎にもおいで下さい。

李禹煥加納光於展 リスト(入り口から順に)
李禹煥    日仏シルクスクリーンポスター
      点より ドローイング 1977
     風より タブロー 3号 1988
都市の記憶 リトグラフ(イタリア制作版) 1989 

加納光於  まなざし  油彩(紙)1990
      塩の柱あるいは舞踏衣装のためのCODEX 1978  銅版   
      翼・予感  銅版 1960    
      葡萄弾(リト3点サイン・画集)美術出版 1973   
      加納光於版画集(リト「オーロラとの交信」1点)筑摩書房 1970
      葡萄弾(リト1点・画集)美術出版 1973

その他 難波田龍起:生き物 油彩3号 1971/山田正亮パステル 1980
菅井汲:版画(和紙刷り)1958/若林奮 日仏ポスター/吉田カツ:デッサン/
宇佐美圭二:リトグラフ 1981 /横尾忠則画集 筑摩書房(リトグラフ1点)1970
野田裕示:引算のフロッタージュNo.18アクリル/WORK 542 油彩 60X50cm
菊池玲二:クロコダイル等2点 銅版/吉田勝彦:煙草(志賀直也) 銅版
横山貞二:父の肖像 木版 1987/女の習作 1989/室内風景 木版 1990
有本利夫:アルルカン 銅版(弥生画廊展ポスター)

菜園便り一五〇 
三月二八日

 やっと桜も開花したとほっとした途端、突然の霰、雷、春の嵐。花の時期はけっこう冷えるねと、花冷えなんて一年に一回しか使えないことばをせっせと使って話してはいても、もう大丈夫だろうとたかをくくっているところはあって、だからこんな急な冷え込みにあたふたしてしまう。
 それでももう春はこの庭にもその向こうの海にも紛れようもなく訪れていて、もう気まぐれに顔を隠したりすることもない。菜園は続く雨のおかげもあって、緑に深まっていく、まだまだいかにも柔らかい黄色がちな緑。ずっと元気だったルッコラも次々に花茎を伸ばし開き始めた。いかにもアブラナ科といった十字の花だけれど、白くて根本が臙脂の少し異国的な雰囲気も残している。地中海からこんな遠くまできて、鄙の海辺でどんな気持でいるのだろうか。おいしいおいしいと菜園のなかでいちばんの人気者でもらわれていくことも多いけれど。
 大根は薄い藤色の花をつけ、すっかりかたくなった。今年は葉っぱとして食べた分が多かったけれど、それに気を悪くしたのか肝心の根菜部分はうまくいってくれなかった。短いのは土地のせいでいつものことだけれど、細いままで水気も少なかった。途中の追肥もあげなかったし、悪いのはひとえに育てる側だけれど。
 春菊が今になってぐんぐん伸びて頻繁に脇目を摘んで楽しんでいるし余所にもあげたりしているけれど、でももう鍋じまいの時期、我が家も今日が最後になるという時期だ。もうちょっと寒さのなかでも頑張って鍋に協力してほしかった。種まきも遅すぎたわけでないのに何故だろう。同じ日に蒔いたほうれん草が文字どおり全滅で一株も出なかったことに比べればはるかにすばらしいのだろうけれど。
 「薔薇のような」と友人にいわれて、薄くて透明感のあるうす桃色の花びらの色だけでなくその開く形が薔薇のようだからこんなにも好きだったのかと改めて眺めている八重椿ももう花の盛りは過ぎていく。父が今年初めての石蕗を摘んできてくれ、皮のまま単純な味で初物を楽しんだ。兄のふたりの男の子が揃って高校と大学に進学した。蕪も終わり、水菜も菜の花をつけ、三つ葉やパセリ、コリアンダーはひろがり始めた。空豆はひしめきあっている。先日蒔いたルッコラと残っていた大根などの冬野菜の種も芽をだし始めた。菜園も庭も、そうして世界もまた動き始める。芽をだし、成長し、開花し、そうして・・・・そうして、なんだろう。いずれはまた種をつけて空に放ち、ひっそりと土のなかに塵に帰っていくにしても。

 

菜園便り一五一
四月二六日

 ずっと気がかりだった菜園の夏野菜を、やっと植えることができた。実は胡瓜の苗を買い忘れたので、全部は終わってないけれど、気分はもうたわわな収穫にとんでいる。今年は場所を大きくかえ、新しい場所も開拓。以前、家庭内での生ゴミ処理を行った箇所が、ほくほくした赤い土になっていたのでそこにゴーヤ(苦瓜)を四本植えた。いつもの畝にはトマトは三種五本、ピーマンと茄子は四本ずつ、青じそが三本、ズッキーニが二本。レタスもあったので二株。胡瓜と、もう少し余裕があるので別種のトマトをもう二、三本植えようか。
 草取りと石灰蒔きをすませ一日。昨日は汗ばむくらいの上天気で、それぞれの位置に穴を開けて有機肥料を入れ、水を注ぎ、子供の頃よく遊んだセイジちゃんのやっている花田種物店から買ってきた苗を植えつける。たっぷりの水を撒いて、後は跪いての敬虔な祈り、というわけはないけれど、でも気持は同じだ。
 風に吹き折られず、強い雨にうち倒されず、乾きにも負けず、虫や病気をしのいで、照りつける太陽の下での色鮮やかな収穫をもたらしてほしい。及ばずながら、少しくらいは手助けできる。なるべく忘れずに水をやり、途中での追肥も思いだせばできる、風通しやひどい虫には怒りつつなんとか対策をこうじるつもりだし、運悪く枯れてしまったらしっかり泣くぞ・・・・。しかしすでにして苗の保護の囲いを端折っているし、苗たちの不安はもうつのりはじめているだろうか。ルッコラの間引きも放ったままだし、ほうれん草や蕪もせっかく芽を出したのに、後は知らん顔。倒れていたサヤエンドウや空豆も父に手伝ってもらってやっと起こしたけれど、収穫も後手後手。
 でもとにもかくにももう春も半ば、陽射しも時折の雨も、ただただ菜園を祝福している。コリアンダーが種をそこらに蒔いといたのが6本も、ほとんどが畝でない片隅でだけれど順調に育っているし、冬を越したイタリアンパセリ三つ葉もまだ葉を伸ばし、少し残した春菊は2色の黄色い花をみごとにつけている。ルッコラ、大根、水菜といった野菜の花だけでなく、ポピー、ジャーマンアイリス、鈴蘭水仙タンポポ、かたばみ等などの花があちこちで開いている。どれもが毎年顔を出す花々。蝋梅や月桂樹もしっかり葉をつけている。
 父が採ってきた若布を庭に干しているけれど、取り入れるのを忘れているから、また風に散り散りになってしまうのかもしれない。だんだんと記憶力や判断力が衰えていく。ぼくにも同じようなことが少しずつ起こっているから、相似形の緩やかに右に下がっていく2本のグラフ曲線が目に浮かぶ。忘れっぽいというより、些細なことはもう記憶の表層にも書き込まれない、ひっかき傷も残さないというほうがいいかもしれない。
 食事をしたことを(もしかしたら、していないことを)忘れることはまだないけれど、判でついたように二杯食べていたご飯が、ときおり三杯になる。立ち上がって自分でよそるのだけれど、それはいつも2杯目だと思っている。以前は「もう二杯食べたよ」と声をかけたりしていたけれど、茶碗に軽くだし、あれこれ言って気持を萎縮させる方がかえってよくないだろうと、今はないも言わないことにしている。間食は少なく、酒も飲まないから、目に見えて太るということもない。
 そんなふうに誰もがゆっくりと傾いていき、静かにばらばらにほどけていくのだろう。大きな樹がどさりと倒れるのは本人も周りも苦しいしひどく辛いだろうけれど、そんな人はそうそうはいない。だんだん薄暗がりになって、でもまだ微かな幽玄の闇のなかにひっそりととけ込んで消えてゆく、そんなふうなのだろう。突然の真っ暗闇とか、いつまでもギラギラ煌々とした光、といったことも凡人にはない。
 家族は、親子と言うことだけれど、やっぱりそんなふうにどこか相似の、滲んでずれた失敗した写し絵のように重なっているのだろうか。

 

菜園便り一五三
六月三〇日

「文さんの映画をみた日」から(掲載したのはもっと短いものです)
「ホワイト・プラネット(二〇〇六年)」
凍える大地の果てしない旅
 果てなく白い氷に覆われた大地、深々とした暗く凍える海、そこに群れる様々な動物たち。北極熊、ザトウクジラ、イッカク、海豹、海象、ジャコウウシ、狐、海ガラス、蛸や蚊までいる。多くは母子が中心で、誰もが擬人化して家族としてみるだろうから、愛やかわいさにも満ちている。時間をかけて撮られつなぎあわされた象徴的なシーンが続き、メッセージも添えられている。
 巡っていく季節、それにあわせたカリブーの百日を超す長い長い旅や鳥たちの渡り、その行程の力強さに感嘆し、不思議さにうたれる。でも次第に茫漠としたとりとめのなさに取り残されていく。大きな交差点に立ち、きりなく走り抜ける車や人の流れを見ているときの、気の遠くなるような思い「いったいわたくしたちは何をしてるんだろう、どこへ行こうとしているのだろう」という怯えにも似た思いに、どこかでつながっているのだろうか。
 文字どおり北の果てまでぼろぼろになりながら旅してきた動物や鳥の巨大な群れ、南の海からこの海までやっとたどり着いた鯨。それは豊富な餌を求めてであり、繁殖のためでもある。個体の保存と種の保存。でも彼らが元の場所に戻っていくのを知り、また来年も同じ旅をくり返すことを考えるとき、崇高とさえ感じると同時に、それが苦役への忍従にもみえてしまい、暗澹たる思いに包まれてしまうのも事実だ。霊長類ヒト科ヒトは自身も含めて<自然>を対象化し、働きかけることでその苦役から逃れようとしたのだろうか。
 村上春樹の短編「タイランド」のなかに、北の果てのラップランドから、南のタイにやってきた宝石商の男のエピソードがある。彼がする、北極熊の雄は放浪を続け1年に一回だけ偶然であった雌と交尾してはさっと逃げるように去っていく、という話に、じゃあ何のために生きているかわからない、と評するタイ人の運転手。それ対し「それでは私たちは何のために生きているんだい?」と微笑んで問い返す男。作品のなかで、宝石商は故郷を恋いつつも一度として帰ろうとしないまま、すでに亡くなっているという設定だった。
 異様なまでの長い移動をくり返す群れに問いかけたくなる、「君たちはいったい何をしようとしてるんだい」と。もちろん答はない、わたくしたちへの同じ問いに答がないように。

 

菜園便り一五四
七月二九日

 裏庭に出ると、不意打ちのように目の前に夏が広がる。濃い緑の向こうに海と空がある。強い陽光に輝く、微かに白を混ぜた明るく青い空を映して、海も明るい。水平線近くに並ぶ積雲が夏だ、夏だと叫ぶようだ。水も澄んでいるけれど青緑が混じって深さも伝えてくる。そんな色の海をちょっと怖く感じてしまうのは、もう思いだしもしない子供の頃の苦い経験がどこかにあるからだろうか。
 しばらく留守にしていた間、梅雨なのにあまり雨がなくて、菜園はちょっと辛い状況。胡瓜が二本枯れて、ゴーヤも青息吐息。茄子とトマト、それにピーマンは元気だけれどさすが実りは少ない。また復活して花をつけ、結実してほしい。意外な強さで驚かされたのがパセリ。一気に伸びてこんもりしている。定石通り、揚羽系の蝶の幼虫が見え隠れてしている。でも二匹もいたら、いくらなんでも食べ尽くしても足りなくて死んでしまうだろうに。鳥や蜂に狙われるだろうし、彼らの前途も多難なようだ。
 レタスは半分枯れて、半分は息を吹き返し、獅子唐辛子はもう赤い実を着け始めた。極悪な環境を憂えて、大急ぎで次世代をつくっているのだろう。世知辛いというか、いじましいというか。種まきから二、三日でいっせいに芽吹いていたルッコラも、日照りに負けて伸び悩んでいる。この五日間の豪雨も助けにはならなかったようだ。あまりにも幼い時期に試練を受けて萎縮してしまい、この世界に飛び出し伸びていくことを躊躇っているのだろう。
 それでもトマトはミニトマトを中心に少しは採れるし、ピーマン茄子もときおり手に入る。ズッキーニは花をつけてはいるけれども、もう結実はしないだろう。いつも早々と実をつけはじめ、喜んでいるうちにあっというまに終わってしまう。おいしいものほど、期待を一身に集めるものほど、さよならも早い。

 

菜園便り一五六
八月九日 

「文さんの映画をみた日」から
S/N(ダムタイプ公演記録制作 二〇〇五年)
願うということの深さと翳り
 「S/N」はエイズで亡くなった古橋悌二を中心としたパフォーマンス集団ダムタイプの一九九五年公演をもとに映像化されている。性や身体、それに感覚や心も時代や社会のなかで創りあげられるものだということを、HIVウイルスを比喩の核としながら、新しい考え方の枠組みも援用しつつ語っていく。簡潔でシルエットを多用したクールなシーンを重ねながらも、生身の、生の切迫感に溢れユーモアや抒情にも満ちている。上映後、この作品やダムタイプに影響を受けた人たちによるパネルディスカッションも行われた。
 障害といったことと結びつけて語られる、話すとか聞くといった身体的能力や、生物学的とされる性別、社会的文化的な性の区分け(性差)、さらには人種や民族や国籍や身分や仕事やといった様々な属性を突き抜けた場で人と出逢いたい、さらには、そこで<あなた>と交わりたいという願いが感傷を排しつつも切々と演じられる。生のただなかでいく度も倒れ、廃棄され続けても、自身がまたは誰かが立ち上がり、そうしてまた走り始めるといったどこか寂しくでも凛々しさもある姿も繰り返される。響かない声をあげ届かない腕を伸ばし、ここより他のどこかや遠い未来でではなく、今ここで、生きるこの体としてあたたかいものをかよわせたい、熱い思いを届けたいという望みが充満する。
 差別や偏見もある現在の世界のあり方を冷静にみつめ、時代や社会の枠組みにどうしようもなく囚われている自分たちを確認しつつも、それは絶望でなく希望なのだと、そこからこそ全ては始まるのだという思いを持ち抱えて捨てず、そのささやかな夢にすがるようにしてでもやっていくんだと意志するかのように。
 生きていくのにちょっと辛い負の条件を背負わされた者だからこそ見えることも掴めるものもあるのだ、だから他への想像力や思いやりも膨らむのだと信じること。確かにそういう場でだけ深まるものもあったのだし、だからこそここまで来れたのだ、そういった世界の果実の受け取り方がありそれを選びとったのだと。そうしてそういうあり方を祝福し他へも手渡していくんだといった、シンプルで切実な思いもまた語られる。とてもたいせつな、柔らかで「弱い」勁さとして。(二〇〇六年八月一六日)

 

菜園便り一五七
八月一〇日

 どこかで心地よい音がするなと思っていたら風鈴だった。父が一日中座ってテレビを見ている、夏はいちばん涼しい北向きの応接室の窓際に掛かっている。以前はもっと早くから鳴っていたけれど、かけられるのが年々遅くなる気がする。冬のストーブが片づけられるのがだんだん遅くなるように。
 父は、体というより気持が過敏なまでに暑さに反応してしまい、散歩から帰ると裸になって団扇をつかっていたのが、気がつくと長袖シャツを着て、なんとストーブをつけているといったことが七月になってもあったりした。まだ春のつもりだったのが、異様な暑さに呆然としてしまい耐え難くて裸になると、涼風のひと吹きで急に我に返って寒気を感じ、今度は慌ててストーブをつけてみる、そんなことだろうか。
 記憶力が薄れるから、日々の積み重ねで感じ取る季節感が薄れて白紙状態になり、一方判断力も衰えるから、身体の感覚とその反応を判断、自覚するのに時間がかかり、タイムラグができて対応がずれてしまう、そんなふうだろうか。
 そういうことならよくわかる、小さな幅で自分にも起こっているから。たしかに夏や冬や、季節の変化への対応が少しずつ遅れていく。反応が感覚的皮膚的になるから、全体としては鈍っているのに局所的には過敏になり、慌ててしまうけれど、それへの適切な判断と対応がうまくできなくなる。予断も含め早めに判断して、というのができなくなる。だから短期間に終わることとか小さな変化やの場合は気づいたときにはもう終わっていて、かえってほっとしてしまうなんてこともまれには起きる。それがいいのか悪いのか、楽なのかどうかは別にして。
 雨のないまま3週間以上続いた猛暑は台風で一息ついた。暴風雨がなかったから、被害もわずかで、世界全体が少し冷やされて息継ぎできた感じだ。菜園にも恵みの雨だったが、暑さと乾きに痛めつけられた今年は、もう豊かな実りは望むべくもない。風で倒れた茄子を起こしてももう枯れていくだけだろうと、手も着けずにいる。ピーマンや唐辛子の赤が寂しさを際だたせている。胡瓜も初めの数本だけだったし、ほんとに残念だった。庭の蛇口が使えなくなって、室内の浴室から長々とホースを引いて水を撒くめんどくささを厭わない元気も、もう生まれてきそうにない。しばらくはこのまま放っておいて、暑さがおさまったらルッコラの種を蒔いたりレタスの苗を植えたり、それに冬野菜のことも考えたりできるようになるだろうか。ちょっとしたことがうまくいかないのが、とても応える。これも心身の堪え性のなさが強まっていくことの現れのひとつだろうけれど。

 

菜園便り一五九
一〇月一三日

 秋は朝夕に深まっていくのに、昼間は夏日が続いてその落差にくらくらしたりもする。 札幌に住む姉が誕生日割引の航空券を利用して、今年も一週間ほど来てくれた。父に会いに来てくれるのだけれど、こちらにいる間中ずっと家事や片づけをやってくれた。せっかくの休暇なのにともうしわけない気持になるのだけれど、ついついあれこれ頼んでしまう。
 玉乃井の修理を続けている最中で、ちょうど小屋の屋根の張り替えの日にも重なった。中村さんに手伝ってもらいつつ、古いトタンの波板を剥がして新しいガリバリウムの波板を張る作業。夏が戻ったような暑い日で、蚊も最後のチャンスと襲ってくる。取り外しと、傷んだ下板を何枚か取り替えて午前中の仕事を終えて降りると、素麺の昼食が用意されていた。挽肉と南瓜もある。
 午後は二枚の半透明ポリカーボネイトを明かり取りに加えた一二枚ほどの波板を端から張っていく。飛び出した庇は削って、最後はくるむように折り曲げてと、屋根の上でちょっと滑稽な姿勢で、どこかおそるおそるやっていく。こういうのをへっぴり腰というのだなと、ことばの描写力の正確さに感心したりしつつ。屋根などでの仕事は、体のふだん使わないところを使うのと、高さでの緊張もあって、けっこうあちこち強張る。
 下からは見えないし、たいそうなところでもないからと適当にすまそうとすると、中村さんからやんわり批判されて、やっぱり最低限の見栄え、最後のつめもきちんとやる。そんなふうにどうにかやっつけて薄暗くなって降りてくると、あたたかい夕食ができていた。なにか奇跡のようにさえ思える。絵に描いたような、テレビドラマのような、そんなありきたりのことばでしか語れない、生活の、日常の時間の繰り返しのなかでつくられた比喩そのままの、誰かには当たり前すぎて何の感慨もないことだろうけれど。
 ふだんなら、ここから自分で夕食を準備してワインをあけて労をねぎらって、お礼を言って、ということになる。それはそれで特に嫌というわけではない。仕事だって、慣れないからきついけれど、でも打ちのめされて、腕も上がらないと言うようなものではないし、もちろん。昼間とはちがう筋肉や頭を使う仕事である家事は、特に料理は、気持に小さな閃きや刺激を与えつつ、落ち着かせてくれるところがある。
 でもこんなふうな、一仕事終えての心のこもった夕食、というのはとにかくうれしいし、有無を言わさない生活の力というか厚みに納得させられ包み込まれる。だから当然のように、定番にのっとってビールをあけて、陽射しで火照った顔をまた紅くする。仕事のできや失敗をさも重大そうに面白おかしく誰にともなく語って、意味のない相づちを打って、そうしてお腹も気持も満たされて、少しぽーとなってごろりと横になる。誰かが「牛になりますよ」というのが、聞こえる。