菜園便り 

 

菜園便り八七
三月一日

 買い物に行く途中の田や畑をぬっていく道は、続いている春の雨と強くなる陽射しで、日ごとにかわっていく。カリフラワーの硬くていけだかな暗緑色の葉、収穫が終わって黒い土に戻った畑。耕耘を待って昨秋から放置されている田は細かな柔らかい緑でびっしり覆われている。ベルベットのようなこけの絨毯がうっかり伸びすぎ、浮き上がってひび割れてしまったとでもいうような様子だ。
 畦の道の両側にも様々な草がこんもりと繁り始め、定番の仏の座、ナズナ、いぬのふぐり、シロツメクサがめだつ。仏の座やツメ草は晩秋から真冬にもときおり花をつけるのが異様にも思えていたけれど、通年草だとわかって納得がいく。水と光、温度の条件次第でいつでも成長、開花の準備を整えているのだろう。雪や氷に覆われることもなく、霜もほとんど無いこの一帯では、真冬の間も、どんなささやかな空き地にも、緑が消えることはない。
 温かい季節に子育てをするため、今はメイティングのシーズンたけなわ、誰も彼もが走り回って相手を探し、猫から始まり、雲雀もかますびしく鳴きたてている。麦畑や菜の花畑が少なくなった今、彼らはいったいどこで巣作りをやっているのだろう。市街地でも山林でもない、田園の鳥と思っているので、心配になる。竹藪や雑草地もほとんど無くなっているし、小さな畦にもトラクターが走り、電動の草刈り機がうなっているこの時代には。
 暗い空の下で波だって荒れていた海も薄い緑色のたゆたいになり、群れていた鴎もそろそろ消える頃だけれど、彼らはどこでメイティングや子育てを行うのだろう。大きな港や湾には一年中いるようだから、そのあたりの岸壁や廃船のなかだろうか(廃船なんて藤田敏八の映画のなかにしかもうないのだろうけれど)。アホウドリとか皇帝ペンギンとかいった、一生涯見ることもないだろう鳥のことは、ドキュメントフィルムで(父がかかざず見ているNHKの不思議発見とかで)事細かに記録され放映されて、なんだか知り尽くしているような気持ちにさせられるけれど、どこにでもいる鴎は、卵さえ映像でも見た記憶がない。雑食で雑ぱくだから、けっこう簡略な巣作りと子育てなのだろう、きっと(ようするに「絵」にならないとされているのだ)。同じ近くにいる鳥でも、鴉はその狡賢さや適応力の(特に都市部での)あざとさで映像にもなっている。洗濯ハンガーなどの金属素材での巣作りや他の鳥の巣の、つまり雛鳥の襲撃などでも。ツバメはだいたい誰もが知っているし、今も同じようなスタイルを続けている、協力的な家や人が減ってはいるけれど。雀の巣も屋根瓦の下や軒先の隙間などに今もある(街路樹を含めある特定の木に群がって夜を過ごしているのを見かけるけれど、あれは巣なのだろうか)。
 青や茶の斑入りの小さな卵を手にしたときの叫んで飛び跳ねたいまでの驚喜する思いと、何かとりとめのない不安や怖さ、つぶすまいと指や手に気を遣えば使うほど力が入ってしまう汗のにじみ出すような焦りとは、多くの子供が体験したことだろう。神秘そのものだったあの形、すべやかな表面、うっとり見とれてしまう模様、色、そして透かし見える光。
 チチチと走り回っていた千鳥はどこへ行ったのだろう。キジバトは人家の庭にも巣を作るらしいけれど、まだ見たことはないし、あんなに頻繁にやって来てかまずびしい鵯も、その住まいはたぶん山や林だろうというくらいしか知らない。卵には恍惚とさせられるけれど、雛の、特に生まれたての小鳥の醜さや危うさにはできれば関わりあいたくない。ときおり屋根や木から落ちてきて半分死んでいるのを見ると気が滅入る。拾い上げ、介抱したり、巣に帰しても絶対に死ぬ、としか思えないし、触れた指にあの気味悪い赤黒さとぐにゃっとした柔らかさが染みついてしまい、記憶からも消えていかない。鳥は奇妙な回路を通ってどこかで悪夢につながっていったりもする。


菜園便り八八
三月五日

 ひな祭りも終わった。今年は父が買ってきてくれたひと組の菱餅を仏壇に飾っただけだった。小さな雛人形をだしてくるのも何となくわざとらしくて、桃の花もない無愛想なお節句になった。母が生きていたとしても、たぶんこけしの内裏びな一組を飾るぐらいだっただろうけれど。三月は女の子の祭り、五月は男の子の節句、というような言いまわしに、どこかで囚われているのだろうか。
 子供の頃はひな祭りの餅も近所といっしょについて、色もつけ、各家に持ち帰ってもろぶたに広げ、菱形に切って飾ったりしていた。小学校の上級生になって、コンパスで菱形がかけるようになってからは型作りをやっていたことも覚えている。三つか四つの菱形のそれぞれがなかなかうまく相似形にならなくて何度も失敗し、いくつものずれた線が重なり合った、黒ずんだ型紙。そのボール紙の形にそってピンクや白、黄色や蓬の緑の三段や四段重ねを包丁で切り抜いていく。もちろん食べることにも熱心だった。甘い酢みそ(正直なところあまり好きでなかったけれど)をつけたりしてもいたけれど、ただこんがり焼いただけで、ぷっくりと膨れた色ちがいの菱餅は楽しくおいしかった。黒砂糖を砕いてつけて食べていた記憶もある、それから当然だけれど白い砂糖も。長方形に広げた餅から菱形を抜くから余分な所がたくさんでて、それは小さく刻んであられにしていた。これも色とりどりのあられが少し焦げついてふくらんで、カリッとおいしかった。お菓子屋で見るようなあんな上品に小さくはなくて、甘くもなかったけれど。
 そんな酷寒も過ぎた三月なのに、今年は珍しく人並みに風邪も引いて、今頃になってまたぐずぐずしたりもしている。風邪の症状はほんとに人さまざま。ぼくは子供の頃から大きな扁桃腺をかかえていて、しょっちゅう問題を起こしていたのに、どういうわけか熱はでなくて、だからあのぼうとしてうなされるような、でも何もかも白熱しきって乾燥しきって身体も心も動かない、極みの静けさといった感覚は、今までに一度しか味わったことがない。
 病気というといつも襲ってくる吐き気の不快感、嘔吐の苦しみ、頭痛やあれこれの痛み、無力さだった。だからあの一度だけ体験した、全身麻痺したような、不快感のない、でも確かに病気である状態にはちょっと心ときめいた。職場から早退しやっと帰ってきて(這うようにということばが大げさでなかった)、「寝る」といっただけでバタンと倒れ込んでしまった、その時点でさえ、なにか不思議な体験をしている気がした。着替えて、何か少し食べて、話して、と思ってもぜんぜん身体がいうことをきかなかった。かすかな意識の向こうに時間や人声や匂いが流れて、吐き気も頭痛も起こらず、でも全く自由の利かない身体を、特別に持ってきてくれた大きな枕のなかに沈み込ませて、その嗅ぎ慣れた匂いも快でも不快でもなく、でも十全な安心感で包み込まれて。二日ほどたって深みから浮き上がってくるときも、苦しみや痛み、体調が急に変化するときのひずみのような不快感もなくて、少しずつ意識が蘇ると共に明るさが広がっていくというような、夜明けのかすかな一筋の光が、それとわからぬうちにあらゆる場所に浸透していつの間にか朝がきているように、徐々に世界に復帰していった。身体のしびれが消えてゆき、心が動き始め唇が動き、声が出てくる。その初めてのことばがなんであったかは、残念だけどもう忘れたけれど、冷たいオレンジのジュースが唇を濡らし、舌を潤し、乾いて貼りついた口の粘膜をゆっくりと剥がし喉の奥に流しこんでいったことは覚えている。喉自体に意識があるように水気を液体を舐め回し味わいつつ、冷たさを、病んだ舌にはきつすぎる味を、餓えたように取り込んでいった。高熱で昇華されるような、そういった経験もその時のたった一度だけだったけれど。

 

菜園便り八九 ????????
三月七日

 萩原幸枝さんが録画してくれて(感謝!)、キアロスタミ監督の『オリーブの林をぬけて』をヴィデオで手に入れることができた(一八〇分テープの標準速度)。うれしい。たぶん多くの人が『友だちのうちはどこ』で初めて彼のことを知ったと思うけれど、ぼくはいつもの悪い癖で、゛ガキものかぁ゛と敬遠していて、最初に見たのがこの『オリーブの林をぬけて』だった。たぶんユーロスペースでだったと思うけれど、まとめて三部作を上映していて、『そして人生はつづく』もそのときに見たと思う(はっきりしないのはその後もチャンスがあるとあちこちで見たので、ごちゃごちゃになってしまっているから)。『友だちのうちはどこ』は福岡市図書館の映像ホールで見た。アジア映画祭でも上映されたし、ホールの収蔵品にもなっているらしく、時々上映していた。
 それから『クローズ・アップ』や、その後の『桜桃の季節(だったと思う)』『・・旅・・(といったタイトルだった)』『ABCアフリカ(たぶん)』と見て、でもちょっとがっかりもした。三部作と呼ばれる『友だちのうちはどこ』『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』を今もいちばん好きという人の気持ちはよくわかる。
 『オリーブの林をぬけて』は映画としてすばらしいのだけれど、でてくる人たちがとてもすてきで、それはとうぜん表情やしぐさや声やささいな戸惑いや喜び哀しみやおかしみとしても現れてきて、だからついつい見入ってしまうところもある。中心人物のひとりになる青年、ホセインには、特にいろいろに思わせられるし、感嘆してしまう。演ずるとか、表現とか、虚構とかいう概念がとっくにチャラにされている、最初からふっとんでしまっているようなところがある。身体を使う労働としての単なる仕事とか、ただそこにたまたま存在するといった、生活そのものといったような境界の曖昧さ(生のあたりまえさ)が、みごとに(偶然に=必然として)映像として掬いあげられる。
 ホセインは当然イスラム教徒だろうけれど、その強さと屈折は、若さの傲慢と卑屈とも重なって、痛々しいほどのリアルさで伝わってくる。だから、ぼくのなかで好感と嫌悪もめまぐるしく交錯する。ヨーロッパ文明の根幹にあると思える「契約」の根源。宗教であれ、ビジネスであれ、愛や関係であれ、全ては互いの契約の上に成り立っているとでもいうような社会の構造。だから、どんな理不尽なことがらであっても、互いが受け入れれば契約は成立しているのであり、それはもう完全に納得させうる(するしかない)正義なのだというような。例えば卑近な商売のやりとりで法外な値段や条件を押しつけても、相手が受け入れればそれは了解の上の契約の成立であり、悔いることも否定されることもあり得ないのであり、受け入れがたいなら当然にも交渉を続ける=戦いを続けるだけのこと、といった単直な、ゆえに強固な論理と倫理がそびえている。
 そういった見も知らなかった考え方、在り方に直接出会ったのはインドでだったけれど、あのうっとうしいくらい強引でしぶといヒンドゥーの人さえ一歩引く、イスラム系の人々の強さは(特にインドのなかではそうなるのだろうけれど)、ぼんくらな東アジアの人間には強大で巨大な氷の壁にさえ見えた、けして超えられるなんて夢想してはいけないものとしての。先ず相場の百倍くらいから始まる値段の交渉でも、けして通常の値なんてちらりとも考えずに、せめて十倍くらいに収まればもう御の字と思わなければいけないと。ただし、その値段でさえ「外国人」には安価だからかまわないというような傲慢で怠惰な気持ちでではなく、負ける諦めとして。
 負けることはつらい、悔しい、哀しい、だから自分が負け続けてしまうインドやイスラム社会への苦い思いがどこかに(隠されて)染みこみ、隠されているから残り続け、こうやってふいに映像の向こうから雪崩れてきたりする。強い者への率直な、そして屈折した魅惑や拒絶もとうぜんにもあって、それがいっそう思いを捻れさせる。そうしてそういっとこと全部を凌駕して、ホセインの、初々しい愛の、映画の力が見る者を覆い尽くしていく。
 ふいに、吉田修一の小説作品に惹かれるのは、ホセインにあるような強さと弱さの混交が、みごとに取り出されているからだろうし、描写される人物像が放つ熱やテクスチャーが、ごつごつしながらリアルだからだろうとわかったりもする。

 

菜園便り九一
四月一一日

 一昨日、今年初めてのサヤエンドが採れた。初物。種まきが早すぎ、暖かい日が続いて瞬く間に芽が出て、これは冬を越せないかと心配していたけれど、丈夫な茎にえんじの花がたくさん咲いて、そうして結実した。収穫が遅れるとたちまち大きく厚くなってしまうけれど、筋張った所もなくて全体が柔らかく、しっかりとした野菜の味とあまみがある。下ゆでして、ちょうど手に入った若布との酢の物にしたり、いただいた竹の子を煮たのに添えたり、余ったのはとっておいて、サンドイッチに挟んだり。サヤの筋をとるとき、必ず映画「悲情城市」を、そして子供の頃母にやり方を教えられて手伝わさせられたことを思いだす。
 春の初物はいろいろ続いて、石蕗は庭のを父が摘んで皮もむいてくれたのを(指が真っ黒になる)あの特有のあくや食感と共に食べたし、皮のままキャラブキにもした(ぼくはこのほうが好きだけれど)。土筆も父が採ってきてくれハカマまでとってくれたのを(これも指が真っ黒になる)玉子とじして野の香りを味わえたし、今も続いている竹の子は、最初は近所に住む又従兄弟が堀立を持ってきてくれたのをすぐに茹でて若竹煮や酢の物で食べれた。鹿児島からもどっさり届いた。やっと生き返って葉を延ばし始めたミントを二、三枚摘んで紅茶に入れたのも初物ともいえる(ダージリンは春摘みの新茶が入り始めたとかで、色も薄く香りも少な目でさっぱりしているけれど、味わいは深くけっこう濃いお茶になるのが手に入った。入れる温度も通常よりちょっと低めの指定があり、なんかいかにも緑々して生っぽく特別にも思われたりする)。
 冬野菜もそろそろ終わり、整理しないといけない時期が近づいている。畝の大根も種々の葉物も白や黄の花が咲きほこっていて、もう菜園とは思えない。ルッコラアブラナ科らしい、白に茶の十字の線が入ったなかなかにきれいな花をつけて、一面に咲いている。とうとう間引きしないままだった人参は混み合って育たないまま、ひしめいてひょろりと盛り上がり、周りの伸び上がった花々に挟まれて隠れている。やっとレタスが葉を広げ始めた。セロリは小さいながら自身で株別れしつつまだまだ続いていて、柔らかいし、葉も味や香りがうすいので食べられる。分葱がちょうど手頃な大きさになり、刻んでお吸い物などに浮かべると、むっとするほどの緑の香りがあるし、舌にも刺激が強い。庭のどこかにある雪の下、あけびの蔓先、ドクダミの葉なども食べられるはずだけれど、揚げ物や天ぷらが苦手なこともあって、なかなかに手を出しかねる。
 庭の花も水仙は終わり、海側の庭の八重の桃色の椿が満開。日陰に残っていた沈丁花を二輪、切り花にすると弱いけれどあの香りが立ち上がってくる。アイリスも伸び、父の自慢の椿はまだまだいく鉢も開き続けている。夜には冷える日もあるけれど、もう望んでも寒さは戻らない、それもうれしい。
 人も心も活動的になってくる。先延ばしにしてきたやらなければことのリストがあらためて引き出されてくる、でも結局、このうらうらと照れる春日にはただ茫然と光を浴びて立ちすくむことで終わるのだろう。石井辰彦の歌のように。
「花ざかりの畑にしあれば雲雀あがり水晶の降る喜びの降る」

 

菜園便り九三
五月二九日

 札幌にいる姉から、毎年送ってくれるアスパラガスが届いた。丁寧にチルド便で送られてきたそれは、ふっくらとして柔らかく、おいしい。かすかな苦みもあって、またいかにも伸びていくといった形や先端の紫に近い色からも、植物の芽を、成長点を食べてるという思いにさせられる。
 届いた日は三〇度を超す夏日になって、それで今年初めて昼食にそうめんをつくった。もちろんアスパラもいただく。茹でただけでレモンをかけ、緑の味を楽しむ。父もぼくも昼食は自分の都合のいい時間に簡単なものですませるから、冬の間はめったにいっしょにしないけれど、夏はそうめんが多くて、そういうときはいっしょに食べる。父が必ず一度はいうのが、「冷や麦はすかん、中途半端で、それならうどんの方がよか」。ぼくもそれを学んだのか、冷や麦は苦手だ。子供の頃は、一、二本入っているあのうす紅色や黄緑色の麺を奪いあったのを覚えているから、よく食べていたのかもしれない。細くてすべやかでつるつると唇や舌にここちよいそうめん。しっかり腰があって歯にも顎にも食感が伝わり、量としての充実感もあるうどん、そういうことだろうか。麺のなかでも特にそうめんを好きにみえる父は、とがらせた細い箸の先でちぎれた一本一本もつまみ上げている。
 恒例の父のことばを聞きつつ、でも、母はどうだったのかは思い出せない。蕎麦よりもうどんだった、ぐらいはわかる。けっこう麺には無頓着だったから、どれでもよかったのかもしれない。たしかにつくる側はあまりあれこれこだわっていては準備が進まないし、選択肢がせまくなりすぎてしまう。麺を茹でるのもわりとおおざっぱで、だからそうめんの時はうまくおだてられてぼくが茹でたりしていた。作る人にとっては、とにかくこなしていくこと、テーブルに毎回並べること、その永劫とも思えるルーティーンに耐え続けることが最重要課題だったのだろうか。
 「愛だ、つくるのも食べるのも愛だ」、なんて冗談をよく口にするけれど、つくる動機はなんなんだろう、と考えたりもする。四の五の言ってもとにかくつくらなければならないからだろうし(プロは仕事だ)、家族や好きな人や、だれかに食べさせてあげたいのだろうし、自慢したいとか、自分が食べたいということもあるだろうし、材料を消化しなくてはという強迫観念もあったりするのだろう。満杯の冷蔵庫は安心より不安がつのる。腐敗へとじょじょに傾いていく音が聞こえる気がする。ない知恵を絞ってあれこれのメニューを考え、とりあえず加工して冷凍に、いざとなれば人を呼んだり、あちこちに配ったり、気づかぬふりで奥に押し込んで、1週間後にあっと驚いたふうに捨てれば心も痛まずにすむ、か。
 梅雨直前。最後の爽やかな季節が過ぎていく。ああ残念。昼間三〇度を超しても日陰は涼しいし、湿りのない爽やかな風が抜ける。夜には気温はぐんと下がる。強い陽射しと不快感がまだ重ならない日々。木々は枝を葉を広げ、緑濃い深い影をつくり始める。草ぐさは暴力的なまでの勢いで伸び続ける。植えたばかりの野菜の蔓にもういくつもの花がつき、小さな堅い実がひっそりと葉に隠れてふくらみ続ける。ここが亜熱帯に近いアジアであることを確信させられる夏がくる、その直前の日々。

 

菜園便り九四
六月一日

 父が、奥の庭の枇杷を摘んできてくれた、今年初めての枇杷だ。「水産高校の横を歩いていて」そんなふうに父の話は始まる。門の脇に枇杷が落ちていて、生徒が持ってきたのだろうか、今時の子が食べるのだろうかと考えつつ、ふと見上げると、そこに大きな枇杷の木があって、たわわに実がなっていた、ということだった。今まで何百ぺんも通ったのに、気づかなかった、でも、それで奥の庭の枇杷を思い出して、行ってみたらもう色づいていた、高いところのがもっと熟れているけれど、脚立がないと無理だと、八三才の父は残念そうだ。でも結局、危ないから止めてくれなんてことばは無視して、父がその都度残りも摘んできてくれるのだろう、脚立や時には屋根に上ったりして。小さいけれど果実の甘さと酸味のあるおいしい枇杷がそうやって食卓に届く。
 メロンに典型だけれど、当たりはずれの多い果実は、失敗すればサラダにすればいいと、遠い昔マウザーさんに教わっていらい、あまり気にせずに買えるようになった。リンゴも、パパイヤも、キウイも、そして枇杷も、まずかったら、甘みが足りなかったら、サラダだ。オリーブオイルと酢が、果実をひき締め、適度な甘みを引き出してくれる。塩や酢の力と、混ぜたりあれこれしたりで柔らかくもなる。
 海側の庭のグミは一粒だけなった。赤くて大きい実だけれど、一粒だとさすが摘めなくて、ときおりあの銀色に光る葉裏の陰の鮮やかな色を見る。舌の上のざらっとした感覚、ウッとくるときもある、酸味、濃い甘さ、大きな種の筋々が唇をなぞりながらはき出される、舌の上のますます耐え難くなるざらつきを押さえるためにも、いっそう熟したどろりと柔らかく甘い一粒が探される、指に潰れそうなそれを啜るようにとりこむ、唾液で濡れた唇を滑り込み口腔にはじけ、喜びが広がる、かすかな渋みがいっそうの味わいを深める。こんな果実誰が見つけたのだろう、そうして改良するほどの情熱をどうして持ったのだろう、色だって周りがざらついているから、「ルビーのような滴り」からはちょっと遠いし、同じように粒々にざらついた葉のテキスチュアや銀にまぶした光は美しくて魅惑的だけれど、たぶんそういう葉裏に点在するから、激しく誰かの心を、関心を惹きつけたのだろう、そうだろうか。単に甘いものが少なくて、この甘みでも感動だったのかもしれないし、樹木だから野いちごより管理しやすくて、安定していて、それに、以前はなかったのだろうけれど、日本の果実は砂糖甘くなりすぎて、酸味や深みに欠けて調理には、つまりパイとかジャムやゼリーには向かないものが多くなったのに、この野生を残す果実はその条件を全部満たして、しかも煮詰めればざらりとした皮も消えて種ももちろん取り出されるし、完璧なものになって、しかも量が少ないから貴重感や珍味性もだせて・・・・となるのだろうか。
 梅は今年もならなかった。父が言うように梅は悪食だから、しっかり肥料を与えて手入れしないとだめなのだろう。実がならないということは、花も咲かなかったということで、あの香りも冬の枝に点在する輝きもないということ。でも父が散歩の途中で失敬してくる天満宮さんの梅で今年も醤油漬けはできた。もう3週間、そろそろ食べ頃になってくる、醤油はドレッシングとして長く使える。青い梅をそのまま置いておくとだんだん黄色くなり赤みがさし、甘い香りがたってくる、熟すとそのままでも食べられる。甘みのないアプリコットのようで、でも皮の歯ごたえや苦い酸味はそれなりに捨てがたい。こんなふうにも食べられるのを教えてくれたのは父だ。


菜園便り九六
六月一六日

 曇った日には不穏が見える・・・なんてつまらない冗談はよして、でも、薄曇りの日、空と海が同じ透んだ灰白色に覆われて、遠くの海岸や山も霞み、水平線もとけ込んでしまうと、ほんとに、奇妙な平たい輝く球体のなかに取り込まれているようで、でも、そこはすごく無限に広くも感じられて、たぶん全てのエッジや境界が曖昧なために包まれて閉じこめられて浮いているような感覚と、視界が曖昧に隠されることでどこまでも恐いほど果てしなく続くように感じられるからかもしれない。心に直に通底してしまうような不思議で美しい風影。
 湾のように取り囲まれた遠浅の海岸、波もない穏やかな海面が表面張力のようにわずかに膨らんで盛り上がり、波打ち際でふいに小さくくだけて光り、粉々になった水の透明な断面を見せて、またすっと吸い込まれるように消えていき、そしてまた小さなしぶき。海は雲に隠れた太陽をその深みの底でだけ正確に映すかのように、表層の真珠色の偏光のずっと下で様々に彩られて揺れる。見えない陽光は果てしない乱反射を繰り返して、白濁して柔らかい、でも微細な棘を隠し持った光となって大気に溢れ、眼の中に飛び込んでくる。思わず細めた眼に、風景の、世界の輝きは一瞬大きくゆがんで真っ暗に暗転し、次の瞬間にはもう何事もない凡庸な眺めのなかに収まっていく。
 続いた雨と暑さで、菜園の野菜は数時間単位でぐいと成長する。胡瓜やゴーヤの蔓は透きとおるような先端をくねらせて一気に伸び上がり、からみつく。ルッコラはいよいよその緑を濃くし、葉を厚くし、押し合って繁茂する。やっと芽を出したバジルもたちまち三葉、四葉。今年は茄子もうまくいっているようで、どの株も小さな実をいくつもつけ始めた。トマトはそろそろ色づき始め、胡瓜の黄色い花もあちこちに見える。
 そんな穏やかで静かに輝くような日にも、あれこれ考えることは少なくない。読んでいた本や、届いたメールが、生きることのしんどさや残酷、そして小さな喜びを語る。それは誰にもどこにもあることだけれど、それが真摯な、長い内省の果てに語られるものであるとき、ぼく自身のなかの異和や屈折とも反応しあって、かすかなでも長く続く共振となって震え続ける。例えばそれは誰かの痛みや苦しみであり、それらを呼び込む病や死や、偏見や疎外や、社会的な差別であったりもする。
 きちんと考えないと、この世界を覆っている考えや感じ方のなかにぴったりと収まって、世界そのものでしかありえない。もちろん世界の中での「否定」も同じことで、そうやって世界を補完し続ける。整合的な論旨に頼りすぎ、ある規定された方向で、その枠組みの中で考えを進めると、やはり、世界そのままの、「知」、もっといえば<知識>の内に取り込まれる。「近代」としての狭く、効率的な解析とその敷衍でしかない解釈のひとつが世界の普遍として全ての上を覆っていく。そのずっと向こう、またはずっと手前にあり続けることにたどり着く、改めてのように手に取ることはもう不可能かと思うくらい難しくて、でもほんとはあっけないくらい簡単なことなのだろう。そういう意味ではだれもがすでにして、今も、その中にいるのだろうから、世界を少しだけ相対化して押しやれば。

 

菜園便り九七 ??????
六月二二日

 六月中旬、入梅。かつてはこの頃が田植えの季節で、登下校の道のまわりも蛙の切れ目なく鳴く声に取り囲まれ、一面の同じ光景が続いていた。今は四月の田植えの稲がすでに三〇センチにもならんと濃い緑の太い茎を伸ばしている。そんななか、わずか二、三枚の田に水がはってあり、頼りなげな細く小さな苗のふわとした影を映している。どこか落ち着かない、奇妙な光景に見える、意識することさえなく納得していることと、突きつけられてもうまく収まりかねることが同時にあるような。そんななかに白や灰色の鷺が優雅に旋回しながら下りてくる、ときおりグエッとおぞましい声で鳴きながら。
珍しい六月の台風はしっかり跡を残していった。雨の少ない強い風台風で、だから全く何の影響もなかった所も多いけれど、満潮時の波が防波堤に打ちつけ、高くあがり道路にどうとうち寄せ、風に乗って庭へ、菜園へ降りかかった。雨がないので直接潮がかかって、野菜全部をうちのめした。風が収まってホースで水をかけて洗ったけれど、そんなことではやっぱり全然だめだった。その日はかろうじてまだ緑の色や青い実を見せていた野菜も、翌日には葉物のレタス、ルッコラ、パセリ、バジルが融けて消えてしまったように縮こまり消滅し、胡瓜、茄子、トマト、ゴーヤ、ピーマンと、全部が芽や蔓だけでなく葉も枝も潮垂れ枯れてしまった。もしかしてまだ幹や根は残っているかと、毎日水はかけ続けているけれど、おそらくはだめだろう。これから収穫というときだったからいっそう残念だ。ルッコラ、バジルはあらためて種を蒔いたから、またじき伸びてくれるだろうが、ディルやタイムはもう種もないから、今年はお終い。表側の庭の、直接潮がかからなかった紫蘇も全部消えたのには驚いた。風で飛んできた飛沫が柔らかい葉をひとつひとつつぶしていったのだろう、すごい、というか・・・。
 台風の直前に森さんから、近所からいただいたという梅が3キロ以上も送られてきていたので、台風をはさんで漬け込む込むことになった。黄色くなり始めた、ベストの状態をちょっと過ぎたかなといった梅で、なかなかおいしそう。水気を丁寧にきって、塩と35度の甲種焼酎で漬け込んでいく。最初の、梅酢があがるまでの段階がいちばん神経を使うところ。漬け込む樽や(プラスティックだ)道具類をよく洗い熱湯消毒し、しっかり気を配る。梅酢があがるまでのあいだは、解説書の言う「ご機嫌伺い」をくり返し、用心し、ことに備える(要するに、黴やなんかの兆候を素速く見つけて対処するということ)。昨年はそれで早めに処理して事なきを得た。すでに漬けていた一キロほどの梅は順調、透明な液(梅酢)がたっぷり溢れて梅全体を覆っているので、重しを減らす(こういう細かいあれこれもある、難しい)。このままうまくいけば今月末頃には両方いっしょに赤紫蘇を漬け込むことができるだろう。柔らかくなりすぎていた梅は砂糖と焼酎を加えて、梅酒にする。果実酒は手引き書を含めて多様でカラフルで興味をそそられるし、漬け込むのも楽で楽しいからついやりたくなるのだけれど、実際できあがってみると香りや色に小さな感動があるくらいで、たいしておいしくもなくて、人に勧めてもせいぜい一杯までで、だいたいは婉曲に断られることの方が多いし(ぼくだってそうだ)、いつまでも残ってしまう。それで「熟成七年もの」とか、「なんと一二年もの」とかあれこれ言ってみるけれど、あのやたら甘ったるい、香りを強制するような味わいにはちょとうんざりが正直な気持ちだろう(砂糖を半分くらいに減らしてみたり、全く加えずに漬けたりもするけれど、結果は、つまり飲まないということはほとんど同じだ)。でもやっぱり梅を捨てるには忍びないし、ジャムよりはいいかと梅酒になった(なんたって楽だ)。それで、つい(そうだろう!)、もうひとつ珈琲酒を漬けてしまった。あの手引き書がいけない、カルワとかベイリーズアイリッシュクリームとかまでつい思いだしてしまった。そもそもああいった食後酒をのむ習慣やパーティが失われて久しいし、もう帰ってくることもないのに。

 

菜園便り九八
六月三〇日

 今日で六月も終わり。六月二二日は父の誕生日で、いつものように赤飯と尾頭つきの鯛、と予定していたら、今年は航空会社のバースデイ割引での北海道旅行を札幌にいる姉から薦められ行くことになった。リストラで失業中の兄もいっしょに。出発は二〇日、それで定番の夕食は一九日の夜になった。いつからこういうお祝いの夕食の習慣になったのかは覚えがないけれど、母がつくりあげた新しい伝統だったのだろう。ぼくらも子供の頃、七五三などでは鯛のお頭つきの焼き物(子供には煮物が多かった)と赤飯がでていた。鯛は子供には淡泊すぎる魚で(ちょっと腹べの癖もあるし)、骨も鋭く硬くて人気はなかったけれど、大きいし豪華だし、とにかくありがたくいただかなくては、というものだった。あの頃は父が競りにでていたこともあって、とんでもない大きさの鯛がでることもあった。きっともてあまして、残りはまた火を入れてみんなでつついたのだったろうか。父と母のふたりだけになってから、母のそういう伝統が復活し、誕生日の鯛になったのかもしれない。
 とにかく、鯛だ。ぼくは刺身にひいたのは好きだけれど、未だに新鮮さやうまさの極みとも言える洗いは苦手だし、塩焼きがいいのはわかるけれど、あのちょっとした臭みや苦みはしんから好きとはいえない。でもとにかく手頃な大きさのがでていて色もいいし、塩焼きにする、蛤の吸い物をつけて。こういった行事ものの定番は基本的にそれほど面倒でないし、味そのものもよりも、形やことば、あるということが先行するから楽と言えば楽だ。おめでたい鯛、お祝い、おいしい、感謝、となる(と思う、たぶん)。まあ、世界のあらゆることがそういう思いこみとことばとで成り立っているのではあるだろうけれど。
 生ハムとパパイア、スモークサーモンとケッパーの前菜、ラムの香草焼きにつけ合わせとして花ズッキーニ揚げ、馬鈴薯のニョッキ、サラダはアンディーブと空豆、オレンジのパプリカでドレッシングはフレンチ、デザートは・・・・と考えるよりは(もちろんつくるよりは)ずっと楽だ、たしかに。
 ドレッシングにはイタリアンパセリを刻んで入れたほうがいいかななんて考えていて、萩原さんのベランダ・ガーデンの揚羽蝶を思いだした。我が家の菜園の伸びきって花が咲いたパセリを、香りと花の珍しさで、他の野菜といっしょに届けたら、それに小さな卵が着いているのを見つけたとのことだった。卵を見つけるだけでもすごいけれど、それを揚羽らしいと推測するのもすごい。ベランダの鉢のパセリに移したら孵化し、ぼくがお邪魔したときはみごとな幼虫になっていた。たしかに蝶系で、黒い縞もあり揚羽の系統みたいだった。鉢のパセリを食べ尽くしても足りなくて、またどっさり買ってきたと聞いたけれど、動きが鈍くなり、どことなく透明感がでてきて、先を少し傾けた、いかにも正しい起立の姿勢といった態勢のサナギになっただろうか。
 姿を変えるとき、特に成虫としてでてくるときに偶然で会えたときは、蝉や蝶、ほんとに撃たれたような気持ちになる。誕生、何かが生まれる、つまり新しいものになるんだ、これからはこの形で生きていくんだというマニフェスト(宣言)のようなことが、それは徹底してひとりになれる、個に閉じこめられるということでもあるのだろうけれど、そういうことがとてもリアルに届いてくる。大げさに言えば輝きと暗さ、こことどこか、生と死ということでもあるのだろうけれど。どちらが輝きで生なのかはもちろん意味のない問いだけれど。

 

菜園便り九九
七月九日

 梅雨の晴れ間、久しぶりの洗濯をしながらいつのまにか鼻歌を歌っている。母もいろんな家事をしながら口ずさんでいた。彼女のは、自慢なだけあって、高い細い声でのきちんとしたハミングとか歌唱とかいえたけれど、ぼくのはなんだろう。 
 唱歌「故郷」が口をつく。いかにいますちちはは、つつがなしやともがき、ここはぼくの生まれた地で、親族のつながりもあり、父もいる、嫌な従姉妹もいる、あめにかぜにつけても、おもいいずるふるさと、気がつかないうちにもごもごと始まっていた「故郷」は、でも思いもかけない情動を呼び寄せる。不意に動けなくなって、ぼくは干しかけていた洗濯物を手に立ちつくす。いつのひにかかえらん、もちろんすぐにぼくは解き放たれて単調なしぐさを続けていく、ハンカチを干し、Tシャツを干し、Yシャツやアロハを干し、パジャマを干し、ズボンを干し、最後に下着や靴下をまとめて干す、みずはきよきふるさと、やまはあおきふるさと、ゆめはいまもめぐりて、わすれがたきふるさと
 ここは海のそばのひなびた町で、少し歩けば田園が広がり、遠くには高くはないけれど山並みもある。ここがヒガシアジアのフルサトでなくてなんだろう、ましてや自分の出自の場だ、一七才まで暮らして、そうして今もまた暮らしている。それなのに、どうしてさらに故郷を思うのだろう。ここより他の場所、永遠に遠い、どこか、夢のなかの、または足掻くように希求された彼方。それは、ないからこそ求められたといったレトリックを遙かに超えて、いつもいつもどこか深いところで手探りされてきたのだろう。そうしてそのどこかがここであることもまた、すでに知られている。ここも他も、同じひとつのことの両面でしかない。そういう、こことか他のとかいう発想そのものが変わるしかない。今とかかつてのとかいう時間の概念が問い返されるしかないように。過去、現在、未来、あまりにも単直な線的な流れ、そのとってつけた整合性。まるでできるだけ皮相に整合するためにだけ選ばれたような区切り、そうしてそのとおりなのだろう。ささいなまとまりと合理、単純な始まりと終わり、安直な達成、裁断、そんなものものために準備された深みに欠けた発想と貧しい展開。こんなものに振り回され人は人を傷つけ殺戮し愛し産んできたのだったろうか、ほんとにそうなのか。
 世界に、ただ存ることで人を傷つけ、傷つけられてしまう。わからないこと、受け止めきれないことでの不安が怯えを呼び、それはたやすく怒り、憎悪へと転化し、そうしてそれらの行き着く先の殺意へと駆り立てられてしまう。そんな存り方への嫌悪と恐怖。そうして、そいう存り方に従わない限り生きていけないという掟のなかに誰もが自らを閉じこめ、閉じこめられているような存り方。
 そういった存り方から、関係から抜けて、存ることそのままで、さらには存ることそれ自体すらも受け入れられ、同じように他の存り方をやすやすと受け入れられる、そんな関係を、存り方を夢み、見えないままに手繰っていく。求められているのは、そういう関係と、そしてそれがなりたつ場。関係といったことばが意味を失うような「関係」の存り方。おそらく時間と場が同時にあるような、ごくあたりまえのはずの、でも今のぼくらにはずいぶんと遠く隔たって感じられる存り方、つまり場。ささやかな存在であることですでにして十分に全てであること、つまり何ものでもないこと、何かである必要などないことと同じこと。

 

菜園便り一〇〇
七月二二日

 台風で全滅して土がむきだしの菜園にも、新しく蒔いたルッコラが芽をだして伸び始め、バジルも少しずつ双葉を開き、うれしいことに春菊のこぼれ種が今になってあちこちに芽をだし始め、先日難しい用件で五年ぶりに出かけた東京の森さんや小林君の市民菜園にも同じように春菊があったのを思いだしたけれど、その時は帰郷する直前に沖野や小川さん、それにポール・マッカーシーにもどうにか会うことができ、いろんなこともあるていど落ち着いて家に戻ると、母の命日には誰もも来なかったと父が言いつのり、でもそんなに言うのなら生きてるときにこそだいじにすればよかったじゃないか、今を大切にすればいいんだと言いたくもなり、それでも父が姉の住む札幌にでかけて、義兄や姪の知美や智春とも楽しく過ごせたのはなによりで、そんなふうに時は流れていくのだろうし、半年以上なかった水平塾も久しぶりに開催されてうれしく、本村さんや千鶴子さん、それに珍しく山から戻っていた萩原隆さんには、先日幸枝さんの所でいっしょに手巻き寿司のご馳走をいただいたおりに会っていたけれど、原口さん、高倉さん、松井さん、浴口さん、それに中富さんは久しぶりで、片山さん、坂井さんも参加、大坪夫妻、森崎さんにも会え、斎藤秀三郎さんもいつものように生真面目に出席されていて、メゾチント銅版画の制作も進んでいると聞けて安心できたし、天神の貘にも時々は行っておられるとのことで、その画廊と茶店をきりもりする小田さんとは最近はゆっくり話す機会もなくて残念だけれど、そこには大勢の美術家だけでなく小林さんのようなジャーナリストもくるし、パーティなんかもあって以前は頻繁に出入りしていたのが最近めっきり減ったのは、「現代美術」やその作家たちと距離ができつつあるからなのかもしれず、じゃあこれまでは近かったのかい、というような声がニヤッと笑って坂井存さんあたりから聞こえてきそうだけれど、外側からあれこれ解析したり、何かのために解説したり代理したりするつもりはなく、新鮮な輝きがあり改めて生きることのできる場だったからいたのだろうし、今さら、狭い業界意識とそのなかでの上昇志向、「美術」さえ相対化しない充足なんていっても意味のないことで、この世界への異和を抱えどこか壊れているから表現に走るのは自分も同じなわけであり、元村正信も険しい隘路をきわどく渡っていっているのだろうし、結局そういうことはひとりでやるしかなく、そういう孤絶のなかででもやはり「他者」がいることの不思議にうたれるところから始めるしかないのであり、その「他者」は「社会」と同じく誰ものなかにすでにして含まれていて、それに気づき驚きと共に納得するのは、やはり「該当者性」という自身の抱えこんでいる抜き差しならないことがら、それに対しては往々にして侮蔑や憎悪が投げつけられるけれど、そこを切り捨てたり逆に怒りで覆い尽くしたりせずに受け止めつつ、それが実体のないものだ、観念としての「幻想」だと確認することで、内面化された屈折をも抜けていく方向は見えてくるし、世界はあらためてゆっくりと開かれ始め、そんなとき、この目の前に広がるただただ穏やかで光に満ちた津屋崎の海がどういうふうにその姿を見せるのかは誰も今は語ることはできなくて、そこの古びたかつての旅館、玉乃井でやる時おりの集まりには様々な人が来てくれ、「場の夢・地の声」というたいへんだったけれど充実した現代美術展をやったときに知り合った余田さんもみえるようになりそのつながりで、川内夫妻、渡辺さん、西田さん、その知りあいだった芹野夫妻と広がっていき、前崎さんもみえるようになり、でもいっしょに企画した柴田さんはもう亡くなられてしまったし、会場でとりとめのないことを話した従兄弟の和彦さんもなくなり、宏介さんももう退職間近で、そういうあれこれを含めてぼくの今を「菜園便り」としてメール通信で書き送ったりしていると、時として忘れがたい返信も届き、かわなかのぶひろさんの冷や麦の逸話は、人が一生抱えていくしかないものは誰にも率直に伝わるのだとわからせられるし、重たいことがらがおかしみにくるまれてさらりと語られる時には、端正な勁さと品格を持つのだろうし、生きてきたことの総和はどこにも積み重なっていて、隣町にすむ小林君が始めた焼肉店に顔を出すと、中学時代の武藤先生や旧友が集まってうれしい驚きであり、たまには外す羽目もそれはそれで楽しく苦く、ばったり図書館であった山本さんが借り出したヴィデオがすばらしかったと夜半にわざわざ持ってきてくれたそれは、台湾の侯孝賢製作、呉念眞監督の『多桑(トウサン)』で、地味で静かな、美しいけれどけしてスタティクにもスタイリッシュにならない映像のなかに、生きること死ぬことがあっけないほどの単純な文字でしかし岩に穿つようにくっきりと記され、こんなふうに映画は、生はありふれて存れるのだと感嘆しつつ、部屋の隅の積み重なったヴィデオの山がまた膨らんでいき、蔡明亮侯孝賢、小津、タルコフスキーヴェンダース、山中貞夫、キアロスタミなどなど好きな作家たちの作品の他にも、少しパセティクに語る『大阪ストーリー』もあり、ロッド・スタイガーやドレイファス、最近のはすごいなと思うポルノグラフィもあり、別な一角にはCDが層をなし、モーツァルトだけでなくバッハ、ハイドンシューベルトちあきなおみキース・ジャレットやチックコリアやコルトレーン桑田佳祐、パバロッティ、中島みゆき、それに亀井君がくれた沖縄の唄を聴いたりするのはそういった何もかが詰め込まれた、寝起きもする4畳半で、そこには以前集めた李禹煥加納光於、難波田龍起などの版画やタブローの他にも、90年以降知り合った母里君や大浦さん、草野さん、二宮君、伊藤マン太郎、江上さん、原田君といった作家たちの作品が並んでいるし、もう「作品」なんて概念はとうに過ぎてきた宮川君、外田さん、鈴木淳の表現もどこかに紛れているし、久利屋グラフィックで刷ってもらった九三年の元村展のシルクスクリーンの版画は今も壁にかかり、机の上のパソコンには近藤さんからの花火の会欠席の素っ気ないひとことを含めた、これまでのメールがぎっしり詰まっていて、そのせいもあって状差しの郵便は最近めっきり減って個展の案内状以外には久美子さんからの近況を知らせるハガキだけ、書棚には小川国夫や村上春樹高橋源一郎奥泉光それに大友克彦や岡崎京子と並んで荒川や平出隆塚本邦雄、春日井、石川不二子などの現代詩や短歌もあり、沖野隆一詩集『青空病』も数冊並んでいて、恥ずかしながらというかんじでぼくの『フリーウェイの鹿』もあり、「水平塾ノート」も一六号まで揃えてあるし、新しくだした「メモランダム」一号もあり、八〇年代の「麒麟」も揃っていたりするのはかつての名残りでもあって、その頃の友人とのつき合いからはいろんな影響を当然にも受けていて、当時沖野を中心に宮田や三島もいっしょにだしていた『ピストル』という飛行商会の同人誌も揃っているし、福田からもときおり電話があったりするけれど、でも引き出しのなかのパスポートはもう期限が切れていて、最後に使ったのはマウザーさんの告別式にデトロイトに行った時で、あれからもうずいぶんたつけれど、その後母も死に松永さんも亡くなられて、思いだすことは少なくはなく、時間と共に激昂は鎮まっても、でもほんとのところ全ては深い場所にそのまま手つかずにずっと残り続けているのだし、それは死や喪失への痛みだけでなく、死に続ける人が伝えてくる、生きることの意味であり、その豊饒と輝きをこうして日々浴びつつも、でもどこかでしらじらとうすく広がってくる嘘々しさや厭わしさに感応し染められていくのもまた人の真実だろう。

 

菜園のまわりで 1 ??????????

 小さいときから馴染んでいて、でも名前もわからないし、周りにきいても誰も知らないような植物は、特に野の草花に多いけれど、子供の頃に住んでいた家の庭にあって、今の家の庭の隅にもちょっとひねこびてある水仙大の朱色の花が群れて咲く花もそのひとつだった。新聞に゛花おりおり゛という写真付きのコラムが載るようになり、ある日、とうとうという感じでその花もでてきた。ああこれだと、この花にもこんな名前や来歴があったと懐かしくうれしくなる。全く聞き覚えのない「モントブレッチア」というのがその名で、でも「ヒメヒオウギスイセン」という名前も持っている。ひめ緋扇水仙、だろう、3分の1開いた扇。アヤメ科。グラジオラスのような葉と解説にもあるけれど、花の付き方も小さなグラジオラスといったふうだ。強健な球根植物、野生化、ということばどおり、とても強くて繁茂し、だから我が家ではあまり愛される花ではなかった。それに小さい頃は自分の庭でできるものというのは、なんとなく軽んじてしまってもいたし。今はどちらかというとその逆で、頂き物でも庭や菜園でできたと聞くと、即25点プラスくらいになる。
 小学生の時、何の事情だったのか、教室に飾る花を持って行かなくてはならなくなり、もちろん買ってはもらえず、庭のこの花を新聞紙にくるんで持たされたときの恥ずかしさや小さな怒りの重い気分は、探ってみれば今もどこかにきっと残っていると思う。友だちも誘わず、ほんとに陰鬱な重い足取りで学校に行く、何も見えず聞こえず、花と嘲笑のことだけでいっぱいの頭での道のりはさぞ長かっただろうと、自分のことながらなんかいじましくなる。今なら、「何でそういう気持になってしまうの?」と問いかけて、すごく可愛くてきれいな花だし、みんなんも先生も喜ぶよと。それに誰もそんな花のことや君のことをあれこれ考えてはいないんだよ、思いつきの気分であれこれ言ってるだけだよ、君にもそういうところがあるだろう、「フン」っていうぐらいの気分でいいんだよ、「いいだろう」って自慢げにいえばそれで、「バッカ」とか「きゃーきれい」とか返ってきて、それで終わりさ、そんなもんだよ、と、言ってあげたいし、そもそもそういう発想になんでなるのか、もっとフツーに楽にしてればいいジャン、子供の特権だよ、とかも言ってあげたい。
 もちろん、教室では先生が「きれいね」と言ってくれて、そうなるとこんどは逆に鼻高々で、みんなが褒めそやさないことが不満で、友だちが愚かに思えて、先生が一度しか言わなかったのがもの足りなくて、でもさすが自分で言うほどの厚顔はなくて、なんというか、気持ちが急上昇急降下し続けてそれに連れてきっと顔色や体温も上下するたいへんな一日だったのかもしれない。ほんとのところは、誰もがそうなようにぼくもたちまちに花のことなど忘れて、いつものようなはしゃいだり泣いたりの一日をまた送っただけだったのだろう。でも、子供があんな気持ちでいることは、親も先生も誰も、もちろん知らないままだろうというのは、微かにでもはっきりと感じられてもいた。
 思いだすと胸が痛むといった、どこか甘い苦さのあるようなことではなく、ほんとにどうしようもなく辛いこと、生きるか死ぬかといっことは、けして開かない心の奥の奥にぴったりと閉ざされ隠し込まれるから思いだしようもなく、思春期以降の愛や性にまつわることは、激しくおぞましいし、切り刻まれるくらい苦しくて辛いけれど、でもそれは同じ大きさの喜びが裏に貼りついていて、またはその予感があって(実現するとかどうかとは無関係に)、だからほんとに深く傷ついたことというのは、誰にも知られず、自分だけに小さく自覚されてでもそっとしまい込まれた、微かに記憶の影のように今も残る、そう少なくはない、静かでささやかだったできごとなのだろうか。

 

菜園のまわりで 2 ????????????

 庭にも山にもどこにもあって、繁茂しすぎて困ってしまうけれど、根が深くて取り除くのは難しいし、お正月には使うものだから、それにわりと形や色も好ましくて、ついそのまま茂にまかせてしまっている羊歯の類があって、その名前も新聞のコラムで見つかって、それは耳にも馴染みのある「ウラジロ(裏白)」だったけれど、別名で「モロムキ(諸向)」の名も出ていて、ああこれは正月の名だと思い至った。このあたりでは、モロブキと呼ばれていて、ムがブになるのは、寒い(サムイ)と寒い(サブイ)にもあって、同じ変化だろう。
緩いくさび形の基本形が3回繰り返されて全体を構成しているのも
正月にはこの諸向を2枚敷いた上に、さらにユズリハの葉を2枚敷いて重ねて鏡餅を乗せ飾る。玄関脇のカウンターにいちばん大きな重ねを八方に乗せて飾る。


菜園のまわりで 3 ????????
10月28日

 朝から強かった風が、昼に近づくにつれますます激しくなってガラス窓をガタンガタンとこわいほど揺すり、満潮近くなって潮がどうと岸壁に打ちつけてしぶきとなって道路に降りかかり、飛沫は煽られて菜園に降り注ぐ。
 また塩害で野菜が全滅かと危惧しながら眺める海の上、羽を止めたままの鴎が鋭角に切り込むようにさっと視界をよぎる。海にぶつかって跳ね上がる風に煽られ、下から抱え上げるようにぐいと押し上げられて、ふいに重力からも自由になったようにふわと羽ばたいて飛び去っていく。
 今年は台風の潮で2度も全滅し、3度目の種でまた伸びて繁り始めたルッコラやバジルにディル、それに3週間ほど前に種まきして順調に伸びている冬野菜の大根やラディッシュや春菊や空豆やが、また全滅しかねないほど風は激しくなり、波は荒々しく舞い上がり、潮はまだまだ引きそうにない。昼過ぎると空まで夕暮れのように暗くなった。1時間おきに2度ホースで水をかけて、潮を洗い落としてみたけれど、今までの経験ではあまり効果はなかったから、またかと半ば諦めかけていると、空が真っ暗になりぶちまけたような土砂降りになった。今度は慌てて家の中の2階の雨漏りの養生に走って、でもそうこうするうちに雨も風も収まり、潮位も下がり、2時をまわると陽射しが戻ってきた。
 ひとつだけ取り外した簾の後の空間に、まだ灰色に濁りながらも表面に陽光を反射して輝く海と、久しぶりの雨に洗われた緑の草木が見える。まだらに雲が重なりあってぼんやりとくすんだ空から、秋の傾いた陽射しが真っ直ぐな光を届けてくる。内側まで黒く濡れたガラス窓をつき抜け、畳の上に揺れる影を落としている。
 その光の揺れを受けて、漆喰の白い壁にも光がかすかに揺れる。鴨居にはグレーの霜降ツイードのジャケットが掛かっている。先日5日ほど寝込んだ時に、不意にやってきた友人が、自分はもう着ないからあげると置いていったものだ。パジャマのまま玄関口で二言三言、もちろんお茶も出せなかった。彼女の好みらしく、男仕立てで、ザックリとしてでもウエストの少し絞ってある英国風のジャケットだった。
 太宰が夏用の着物地をもらったから夏まで生きていようと思ったような大仰な気持ちの高揚はないけれど、もう夜には暖房のはいる列車もある季節だから、今晩から着てもおかしくはないのだろう。


12月4日

水仙が咲き始めた。我が家のはいつも遅いのに、今年はあたたかいせいか、例年より早いし、数も多い。青白くひょろりと伸びすぎて途中で折れるということもなく、すっくと立って花をつけ、匂いを放っている。建物のかげの目につかないすみにも咲いている。八重はまだのようで、一重で中心に黄色いカップが着いているふつうのもの。

今年は父が芙蓉を根本の50センチくらいだけを残して切り倒したこともあって、窓の外がすかすかで落ち着かない。グミの葉が潮で全部落ちているし、椿も虫が食べ尽くしてやっと新しい葉が出そろい始めたくらいだし、剥き出しになっているような気がしてしまう。すっかり低くなって、でもまだかなり強い陽射しが部屋に差し込むこともあって、うすいカーテンを半分ひくことも多い。


月見草の天ぷら ???????????
  庭の  をぷつんとちぎって、衣をつけてあげた天ぷらがその夜のメインディッシュで、それは火を使わない手間のかからない夕食が多いここではご馳走なのだったけれど、フェルディナンドはお義理でひとつつまんだだけで、それはあんまりだとつい思ってしまってそのお詫びも兼ねるような気持ちもすっこしあったし、その珍しさと形のよさに3つまで食べて、でも香料を飲み込んだようなげっぷに一晩悩まされることにもなった。それはドイツ南のマークブライトという村で、キッチンゲンの近くだったけれど、つくってくれたのはヒーブルさんで、彼女はフェルディナンドの従姉妹にあたり、結局4日間泊めてもらったのだけれど、フェルディナンドのお母さんの旧姓はブラウンで、だからちょっと不思議に思っていると、ヒーブルさんも嫁いで今の名前になっていて、そうして3人の子供たちもみな家を出て、夫もなくなった今、ヒーブルの名前でひとり暮らしているのだった。けれど、
 着いた日、広い菜園になった庭のある白い壁の家へと垣根の切れ目からゆっくりした坂を下りていったときに心を占めたのは、すぐ下の、後で農具類を入れた小屋だとわかった小さな煉瓦小屋の軒下にぴったりと計ったように正確な並びで積み上げられた薪でなく、子供の頃時々遊びに行った稲本の従兄弟の家のことだった。農家だったそこは広い前庭を土塀が囲みその切れ目の入り口から外へと、ゆっくりした傾斜の坂になっていて、すぐ前が川で、慣れない小型バイクを押しながら出ようとして弾みがつき、かろうじて土手のイチジクの木にぶつけてとめたこともあったりしたけれど、その入り口の坂の印象が似ていたからだったのだろう。ヒーブルさんの庭で採れ始めた苺は、小型の少し酸味のある古いタイプの苺で、それが夕食にもだされていて、その酸味やいびつな形が、稲本をあらためて思い起こさせたこともあって、あの場所の記憶や印象が後から強められたのかもしれない。

 


 小柄で黒い服を着て、大きめの黒い靴をカツカツと鳴らして歩くヒーブルさんは

 


菜園便り一〇一
二〇〇四年九月三〇日

 「菜園便り一〇〇」が二〇〇三年の七月だったから、一年以上たったことになる。一年でかわったこともあるけれど、まるで同じまま、といったことのほうが多い。去年の秋は個人的にはいろいろあって、ちょっとしんどかった。年を越してしまうと、今度は生活のあれこれがたいへんになって、だからそれに追われて、あまり考えこまずにすんだところもある。貧しさが人を助けることもある、か。
 「菜園便り一〇〇」は百回記念みたいな気持が混じって、面白半分で「現在の生活総集編」みたなことをやってしまい、一行に簡略にまとまる自分の現在に唖然としてしまって、書くことやメールを送ること、そういったこととの関わり方なんかも妙に考えこんだりしてしまって、以後中断してしまった。「菜園のまわりで」という形で書いたりもしたけれど、中途なままだった。以前のままではやれそうにもなく、でもスタイルも含め全く新しい形で始める情熱もなく、といったような。
 最近手紙のやりとりを始めた糸島の板橋さんからの便りが、住まいのある場所「SmallValley」についてや生活のあれこれを知らせてくれるもので、ああ、こういうのがいちばんうれしいし、自分が書きたいことなんだと改めて思って、だから以前と同じ形でもう一度始めようと決めたところもある。いつの間にかそういうことをまた書き始めていたということでもあるけれど。
 海に面した庭の菜園はまだ健在だけれど、何度も潮や台風で痛めつけられて、周りの竹の柵はすっかり潰えてしまったし、今年何度も来た台風で野菜は全部なくなってしまい、剥き出しの畝だけになっている。先日、もう一度ルッコラとバジルの種を蒔き、その芽が出始めたところで、レタスとパセリ、芽キャベツと白菜の苗を少し植えたら、最後の(そう期待したい)台風がきた。ついに柵がばったり倒れて死に絶えた他は、野菜にはあまり影響が無くて助かった、今のところ野菜は順調、と思っていたら、白菜がダンゴムシに完膚無きまでに食べ尽くされてしまった。
 今年の続いた台風は九州中部を横断することが多くて、そういうときは潮の被害は少ないけれど、風向きのせいで建物への被害は大きく、ちょっとたいへんだった。八月三〇日の台風では別館の使ってない玄関の四枚戸が吹き倒され、風と雨が雪崩れ込むのを父とどうにか立て直し、緊急のトタン板で塞いだけれど、ずぶ濡れになり戸ごとよろけたり倒されたりしながらだった。まるで映画だなとおかしいような、ちょっとヒロイックで、総じてうんざりするような(実はまだ仮の修理のままだけれど)。
 プランターに蒔いた種はしっかり発芽したけれど、畝に直かまきした種はほとんど芽を出さない。今日もう一度蒔いたから、今度はでてほしい。実はあまりあてにせずにコリアンダーとディルも蒔いているけれど、発芽まで時間がかかるし、どうなるか見当もつかない。上手く育てば、冬を越して来年の春まで続いて楽しめるし、海辺の霜のないあたたかさを感謝できる。父も冬野菜の準備にかかってくれたようで、新しい展開が始まった。

 

菜園便り一〇二
一〇月一日

 あまり変化の無かった一年間だったけれど、いちばん大きくかわったのは今年から映画について書く仕事ができるようになったことだろう。隔週で読売新聞の夕刊にコラムの形で映画評を書いている、水曜日。定期的な仕事があることだけでもすごい。映画はずっと好きで見続けてきたから、できればファンのままでいたかったけれど、背に腹は替えられず、まめに映画に通ってはあれこれ無い知恵を絞っている。コラムのタイトルは「文さんの映画をみた日(ブンさんと読みます)」というので、これは新聞社の方からの提案だった。「愛称や通称はありますか?」と聞かれたけれど、一部では小津安二郎のオズちゃんと呼ばれていますなんて、洒落にもならないし、結局、ごく稀にだけれど使われたこともあったブンちゃんで返事したら、こういうことになった。
 せっかくの個人名タイトルだし、エッセイ的な柔らかいもので、ユーモアもたっぷりで洒落ていて、しみじみするものなんて思っていたけれど、もちろんそんな芸当はできるわけはなく、いつものように、地味で暗めちょっとパセティク、になってしまった。まじめに書き始めると、そういう映画にしか興味が持てなくなっていることに気づかされた。それに当たり前といえば当たり前だけれど、ほんとにいい映画ってそういつもいつもあるものでもない。だからみるのはドキュメンタリーが多くなる。少なくとも、映像作家が前もって思いこみさえしていなければ、「ほんと」のことはやはり胸に響く、どこかがうたれる。それは技術とか様式とかとまったくちがうところにある、当然だけれど。ただカメラを構えて撮していても、表現したいことがあるとき人は無我夢中で何かに迫っていて、語っていて、思いは溢れ、それはぼくらに静かに流れ込んでくるし、深々と突き刺さってくる。個人的にはフツーの人の表情や体型が好きなこともあるのだろう。
 いちばん最近みたのもやっぱりドキュメンタリーで、グルジアの作家、あの、といいたくなるセルゲイ・パラジャーノフについての映画だった。彼が最後に取りかかり、葬儀のシーンだけを撮って亡くなった『告白』のシナリオや書簡をナレーションとして使った、伝記的なもので、その複雑で過酷だった人生が語られていた。監督名がゲオルギー・パラジャーノフだったから息子さんかなんかかなと思って問い合わせしたりしたけれどわからなかった。久しぶりにパラジャーノフの作品が断片的だけれど挿入されていてみることができてうれしかった(残念ながら引用部分の映像は色が褪せていたけれど)。
 とんでもなく奔放というか、物語を蹴飛ばして、原初的神話的で奇怪で、豪奢な色彩に溢れ、様式化された動き、細部まで重なりあった物々、映像の中と外の不思議な時間の流れ、そうしてそれらの間に絶えず挟まれる破調が、荘厳さと同時にそれと全く逆のおかしみさえ生みだしていく。とにかくそのめくるめく色彩の横溢に圧倒されるし、生々しい野生の力や誇張された情動に惹きつけられ、そうして静かで牧歌的だったりもするから、唖然とする。
 色彩美、様式とくると誰もがヴィスコンティや三島やを連想して悲劇を思うけれど、パラジャーノフの場合はそれが極彩色のおとぎ話のような、恐くておかしくてでも聖なるものになるから、いっそう不思議さは募る。
 彼の映画に初めて出会ったのはシネ・ヴィヴァンで、「パラジャーノフ祭」という形で上映された時だから、一挙に『ざくろの色』『アシク・ケリブ』『スラム砦の伝説』をみることができた。パンフレットをみると、一九九一年四月の発行になっていて、だから何かの用事で東京に行ったときだったらしい。運がいいというか・・・・。その時にレイトショーでやっていて見そびれた『火の馬』もバウシアターで後日みることができた。結局それ以後、彼の映画をみるチャンスはないけれど。

「文さんの映画をみた日」を添えておきます。

孤独な声(ニコライ・ソクーロフ監督 一九七八年)

呼び起こされるもの、生まれるもの
 だれもがいろんな形で映画と出会い、喜びを、興味を育てていくのだろうけれど、それは途切れることなく続いていて今もわたしたちを誘い楽しませ、豊かにしてくれる。年の終わりに一年を振り返り、最も心に残った映画といったことに思いを馳せた人もいただろうか。ぼくにとってはフランスの奥まった村落と小さな学校を描いた「ぼくの好きな先生」(ニコラ・フィリベール監督)だなとひとりごちていたけれど、一二月の終わりに福岡市図書館ホールで、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の「孤独な声」(一九七八年)を観て、その深さにもうたれた。  
 九九年に奄美島尾ミホを撮った作品「ドルチェ-優しく」もあるソクーロフの二代の卒業制作作品であり、長編第一作。同じロシアの故タルコフスキー監督に捧げられていて、圧倒的なその影響下にある。繰り返し挟まれるモノクローム映像、スローモーション、鏡、流れの下で揺れる植物、火、風、それが揺らす木々、草原。でもどこまでいってもそれはソクーロフの映像そのものだ。どこか厳しさを含んだ映像には一瞬一瞬を凝視させるような力があり、その流れとふいの中断にも引きつけられ魅了される。
 戦場から戻った若者とその恋人、父親、僧侶が描かれていて、下敷きになった小説があるのだろうけれど、その内容は詳しくは語られず、時間的にも飛躍し、複雑な歴史の流れ(17年の革命後の混乱期)や宗教もからんでいて、観ているぼくらは小説的な物語の文脈からは振り落とされていく。でも最後まで映像・映画の内側に留まり続け、その暗さや激しさにもかかわらず全編に溢れる初々しさにも助けられ連れられ、愛や生の再生と復活にたどり着く、映画のなかでたどり着いた人々や、映画をつくることでたどり着いた人たちと同じように。たぶん物語を語る映像の力というのはそういうことなのだろう。
 そうしてまた不思議さはつのる。時代も民族もまったくちがい、歴史も重ねようもないほどに遠いのに、あまりにも人は人であり、やすやすとわたしたちのなかに忍び込み重なりあっていくことに。一瞬の映像が、ひとつのことばが呼び覚ますものの広さ深さ。今年もまたいくつもの喜びに出会えることを。(二〇〇四年一月一六日)

 

菜園便り一〇三 
一〇月二〇日

 買い物に行く道は、途中から田圃の間を抜けていく。舗装された農道を離れると、雑草の中に二本の轍がかろうじて続く小道か畦だ。夏の盛りには踏みいるのが恐い気さえする。蛇だとか、ぬかるみだとか、虫だとか、あれこれ思ってしまう。
 秋も進み、そういった雑草も種を散らしながら枯れていき、台風になぎ倒されている。そのあたりの田は概ね早稲だから、八月には収穫が終わり、その刈り跡からのひこ生えが四〇センチ近くにもなって、そこそこの稲穂をつけて揺れている。もちろん黄金色で、何枚か残るこれから収穫を待つ晩稲の田かと見まごうほどだ。暑い夏で、しかも長く続いたから、元来は熱帯の植物には伸びやすかったのだろう。それらは採る人もなく放置されたままだ。鶴の越冬地として知られる出水などでは、このひこ生えの稲を餌にすると聞いたこともある。食べ物に困るようになったら、ぼくらは持ち主に土下座してでもこういった落ち穂を拾うようになるのだろうか。
 途中に保育園がある。そばを通ると遊技の歌や、噛んで含めるように言う保母さんの声が聞こえたりする。でも姿はほとんど見かけない。通園には必ず送り迎えが決められているようで、夕方は引きもなく車が出入りしている。サングラスをかけて歩いていると、なんとなく胡散臭い目で見られる。つい最近広報に出た、サングラスをかけた露出魔の記事を思いださせられたりして、気弱く眼鏡を外したりする。
 たしかにそんなものはかけないほうが、草木の色や光がしっかりと飛びこんでくるし、目に染みる。色あせたあかまんま、いっせいに芽生えて蔓延るうまごやし、傾いたいく種もの稲科やまこも系の草々、点々と突き出たアワダチ草の花、まだ残る蝶や蜻蛉も原色でみえるし、少し遠くの白や青灰色の鷺、そういったものも鮮やかにみえるのだから。
 夕食の鯖でずっしりと重い袋を下げて、来た道を戻る。海に突き出た半島の山の端が薄く紅色に染まり始める。熟れずに取り残された南瓜がごろんと転がって、暗い影をつくっている。

 

菜園便り一〇四
一一月一五日 快晴

 人生の、なんていうと大げさだけれど、その後半に入ったとたん、いろんなことがたてつづけに起こる。どこにも誰にもあることなのだろう。
 母の七回忌も終わった。周りでも知りあいの親の死が続く、そういう年齢になったのだろう。友人そのものが亡くなることもぽつぽつとでてきた。まじめで精力的な、働き過ぎの死が多い。「いいやつほど早く死ぬ」と若い時から言い続けて、ぼくはまだしれっと生きてるけれど、死ぬやつはやっぱりいいやつからだ、と今もしみじみ思う。
 そんなに一生懸命にならなくてもいいじゃないか、よくも悪くもたかが社会(世間)、そこそこの生活なんだから、とつぶやいてみても、どんなことも本人にとってはとてつもない、世界全部にあたるほどの大きさなんだろうことはわかる。そういう人たちだから、つい真摯に生き急ぐのだろう。
 どうにかしのいでいく、「やっとかっつ」生き延びていく、ときおりのささやかな喜びを持ちつつ、ぼちぼちの生を後に送っていくことが、でもときには耐え難くて、体を折って呻くほどの時もある。そんなとき、人はそれぞれどうやってやり過ごしてきたのだろう。ぼくみたいに静かに片隅で生きていても、ぶつかる角かどはある。
 身も世もないような、そんなとき、友人や友情は何の力にもなれないのだろうか。お金や家族の問題、身体のことはどうしようもないと、はなから諦めて、また互いに迷惑はかけまいとして、口閉ざすのだろうか。保ち続けたささやかな美学に殉じて、潔い純情を友情にも愛にも貫くのだろうか。眠れない真夜、誰かに一杯の酒をつきあってほしいと、心底思うことのなかったものはいないだろう。でも誰にも電話せず、誰からの電話もなく、ぼくらはまた深い夜のそこに沈んでいく。閉じることもままならない目を、真の闇にすいこまさせながら。
 葬儀、お盆、お彼岸、命日、そんな月並みな行事を送ることで、人はことばにならない声を、叫びだしたい衝動をやり過ごし、生き続けていく。そういった形式にかまけて、噴きだしそうな黒ぐろとした思いを封印する。季節が巡り、いつの間にか心焼きつくす劇薬が、芳醇な酒にさえ変わるかもしれない奇跡を待つ。そんなことが起こることがないのはわかっている、でもそれを微笑んで受け入れる力を、季節の移ろいは確実にぼくらに届けてよこす。どんなことがあっても受け入れない、喪われたものをけしてひとかけらさえ手放さないと決めた閉ざされた硬い心にも、夏の陽が、春の開花が、冬の吹きすさぶ風が、しみこんでくる雨が、表面を焼き、亀裂を入れ、さらさらと風化させていく。そういう柔軟でしたたかな、強靱な心を、人は持ち続けている。個としてというより、たぶん類として、共同性として。
 逝ったものは帰らない、逝ったものをして、逝ったものを葬むらせよ、そんな、冷静な声も聞こえる。ああ、逝ったものよ、逝ったものよ、世界はそんなにも生きるに値しないのか。ほんとにそうなのだろうか、問いは繰り返され、今日の極上の晩秋の空に上っていく。うす水色の空にも、どこまでもきらめきがつづく海にも、庭の木々にも、菜園で草取りする父の顔にも、光は溢れ、全ておしなべてとけさせていく。

 

菜園便り105
11月25日

 鵲(カササギ)を写真に収めることができた。デジタルで望遠もないから、「かすかな点のような」と言う人もいるだろうけれど、電線に止まっている一羽が撮れた(漆黒のなかの白い翼が浮きあがる、飛んでいる状態のも撮ったつもりだったのに、うまくいってなかった)。必ずつがいでいるけれど、二羽いっしょにいるのを撮るのはなかなか難しい。この津屋崎でではなく、隣の古賀市で見かけたもの。佐賀平野以外の北部九州には、まるで一市町村ひとつがいずつとでもいったように、ぽつんぽつんと住んでいるみたいだ。
 海岸もすっかり冬もようで、鴎が戻り、千鳥やそれより少し大きめのしぎ、それに白や青灰の鷺が片足で佇んでいたりもする。
 恒例の大型烏賊(そで烏賊)も打ち上げられはじめ、プロも含めて男たちが海岸を徘徊し始めた(ここらでは「そうつく」と言うけれど)。双眼鏡を抱えて海岸や防波堤に立つ見物客も増える。自ら獲らなくても、現場はスリリングで興奮するらしい。浅瀬で戻れなくなった烏賊が赤く染まり、水しぶきを上げ、墨を吹くのはたしかに見物だろう。人々のどなり声、水辺を走る足音、紅く上気した顔も。早起きできないし、風の強い海岸にも出ていかないし、だからもちろんぼくは烏賊を獲ったことはなく、まだ現場を見たこともない。お裾分けで頂くことはけっこうあって、それくらい大きくてみんなもてあますということだろう。足まで入れると1メートルくらいになるのもある。
 父が剪定した庭の松に、メジロが数羽群れている。まっすぐな陽光を反射して眩しいほど輝いている松葉の根本をつついているのは、蜜でもあるからだろうか。毎年決まってやって来る。チュンチュン、ひょいと飛んでは次の枝に、また次へ。不意に鵯が割り込んできても意に介さず、といったふうにつついている。

 

菜園便り一〇六
一一月二九日

 何度も来た台風で荒れた菜園も、冬野菜のおかげで畝も緑に覆われ、生き生きと盛り上がっている。バジルは秋の初めに改めて植えたのが芽をだしたけれど、やっぱり夏のようにはいかず縮かんだまま、かろうじて数枚の葉を保っている。一一月の初めでもまだまだ繁るようだった米多比(ネタビ)の小松さんの畑からもらってきた二本だけが葉を重ねて、時々のサラダに香りを送ってくれる。ここにきてルッコラが伸び始め、隠れた場所からも芽を吹き、サラダの定番になってくれている。レタスは花茎を伸ばしきり、もう小さな葉だけを掻き取るしかない。すごく苦みが強くて、子どもは無理だろうなと思いつつ、そのあくの強さを楽しんでいる。念願だったコリアンダーも二本がうまく伸びはじめてくれて、これでビーフンは安泰。この独特の香菜があるのとないのでは天と地ほども味わいに差がでる。パセリも小さくこんもりとまとまり、寒さに背を向けるようにしながらもまだ続いている。
 冬野菜は順調そのもの。大根、蕪、紅芯大根は間引きが間に合わないくらいに伸びてひしめいている。みそ汁、吸い物、お浸しなどに使いつつ、まだ柔らかいものはサラダにも放り込める。ラディッシュも追いつかないくらいどんどん丸々と太って押し合って、土の上にはみ出している。割れる前に収穫しなければ。その赤々とした実だけでなく少し棘のある葉も茹でると少し癖のある甘みがでておいしい。捨てる所はなくなる。サラダに切り分ける時、指やまな板が薄紅に染まるのもうれしい。
 残念なのは、鍋の季節になったというのに、春菊がうまく芽がでず、でてきても順調に伸びてくれない。ほうれん草もコバルト色の種がきれいで買ったのに、発芽がおぼつかない。初めての芽キャベツは周りの葉が固く大きく広がっていはいるから、期待は持てる。豆類は好調、昨年は早く蒔きすぎて冬前に花が咲いてしまい、うまく収穫できなかったから、今年は一一月初めまで待って蒔いたエンドウがきれいに並んで芽を出し、すっと双葉も三葉も広げている。一週遅れで蒔いた空豆も、だからうまく芽吹くだろうとたかをくくっていたら、なかなか出てこない。土をかけすぎたか、水やりが悪いのか、下肥が足りないのか・・・・・。五月の空の下のあの色あい、手触り、おいしさを思うと、頑張ってくれ、と励ましたくなる。 
 台風の影響で、農家が種まきすらできなくて異常な値上がりをした葉野菜の類も落ち着きはじめ、山本さんが野菜畑の百円コーナーから小ぶりの青梗菜(チンゲンサイ)を買ってきてくれた。柔らかくて、何とでも相性がよくて、でも自分の味もしっかり残す優等生だから、さっそく姉に教わった、干しエビ炒めにする。干しエビを炒めて香りをだし、それに青梗菜を加えて炒めるだけ。味つけもほとんどなくてそのままでいい。今年は頂くことの多かった薩摩芋(一度は自分たちで堀りにも行った、健在だった亀井君もいっしょだった)も、昼食に焼いて、夕飯の天ぷら、冬の定番のレモン煮と活躍。今年はどっさり北からの贈り物も届き、初めて経験するナメコや味噌もあり、豊かな食卓になってうれしい。届けてくれる人々のあたたかさも加わった多彩で深い味わいをしみじみといただく。

 

菜園便り一〇七(限定版) ???????
一二月一日

 遠方より友来る。関東からの森さんと小林さん。もう二〇年来のつきあいだから、久しぶりに会っても、つい先週も会ったばかりのような気になる。メールや電話で頻繁にやりとりしているからかもしれない。でもテクノロジーと呼ばれるものは人と人の距離を近づけたのだろうか遠ざけたのだろうか。
 博多で会ってのみ、津屋崎にも寄ってもらい、糸島を訪れてのみ、門司にも行ってまたのみ、と盛りだくさんだった。津屋崎では我が家の前の静かな海だけでなく、岩場で波も荒い、いかにも玄界灘といった岬の外の海も案内した。漂着する塵は隠せないけれど、まだ白い砂浜も残り、松林とくっきりとわかたっている。陽射しが強いせいもあり、冷たい風も爽やかにすら感じられた。
 糸島は板橋家の感謝祭(サンクス・ギビング・デイ)のパーティで、亀井一家ともいっしょにお招きしていただいた(亀井君はいない)。谷間の樹木に囲まれたおとぎ話のような場所での、丸ごとの七面鳥をはじめどっさりのおいしいご馳走(ビーツやクランベリー、それにアーティチョークまでも)、楽しいひととき。工房としてお菓子を焼かれる日々、そのキッチンからも周りの木々や山、たっぷりの空が見える。居間も含めたどの部屋からも同じように周りが見わたせる、すばらしく贅沢な、雪崩れ込んでくる風景の流れのなかに浮かんでいるような家。工房には物語のなかの物見台のような、ぐるりとガラス張りの屋根裏展望室もあった。もちろん猫も犬もいる。
 お菓子にも使われる杏、レモン、数え切れないほどの種類の植物が、小さな流れもある敷地内に点在している。去年まで山羊がいたという白い楕円形の柵も残っていて、何かの作品のように見えたりもする、それもすごく観念的、抽象的な。そうしてその上にも、もちろん空が広がっている。招かれた誰もが心身を休め、つかの間心を開いて周りの樹々や空に解き放つかのようだった。
門司では関門海峡を渡る連絡船に乗り、流れの速い海峡を突っ切ったけれど、わずか数分の航海にも、出発の感傷や振られる手のひらがある。前回、もう一〇年以上前に初めて乗った時は亀井一家といっしょだったんだと、そんなことも思いだした。もちろん亀井君もいっしょだった。どこに行っても、何を見ても思いだすことはあり、そんなにもいろんなことをいっしょにやったんだと、改めて時間の長さ、つながりの強さを思い知らされる。
 森さんたちが泊まったのはアルドロッシ設計のホテルで、外装の色や内装のデザインをさんざっぱら批評しつつも、バーにも行ったし、メインダイニングで食事もした。窓からは海峡と長い橋が眺められ、遠いせいか車はゆっくりと走って見える。距離感や時間の流れが、奇妙に縮まったり伸びたりする、海流に乗ってでもいるかのように。流れ、流れ、そしてたどり着く先は、誰にも見えない。

 

菜園便り一〇八 ???????
一二月八日

 窓から見える海に光が溢れて目を開けられない。障子を少し閉めて、斜めに、遠めに見る。刻々と光は移るから、じきにどこまでも光りさざめいて続く穏やかな海が正面から見えるようになる。太陽もまた少し傾き、部屋の奥までするすると入り込んでくるだろう。いちばん隅に据えてあるヴィデオ・デッキが熱いほどの光に焼かれて、ぶつぶつ呟きはじめる、ジーッとかカチカチとかいう音で。熱せられた金属が膨張するのだろうか、他はすきま風で冷たいままの部屋の低い温度との落差に、歪んでいるのだろうか。ささいな不平や小さな悲鳴に聞こえなくもない。
 晩秋の豪奢な夕焼け、冬のこの溢れる光、そういったものに支えられて、この憂鬱な寒さも耐えていける。そんなことを言うと、ほんとに寒い所の人から、これが冬か? こんなの寒さじゃない! とか言われてしまいそうだけれど。でも、体や心が感じることはどうやったって相対的だから、これが耐え難く寒い人もいれば、なんぼのもんじゃと呆れる人もいてとうぜんだろう。それに、ほんとに寒い場所では、寒さへの対策や室内の暖かさの維持には心砕いてあるから、まるでちがう。この、夏向きのすきま風だらけの、それには床下からの隙間風さえもある、大雑把さとは雲泥の違いだ。
 でもやっぱりこの光の横溢と、乾いている感じ、ふわっとあたたかな空気は、どうしたって南の温帯のものだろうとは思う。日本海側に面しているから、あの冬の関東の突き抜けてしまった青い空はないけれど、のんびりした少しくすんだ晴天が続く。常緑樹、椿やまさきやネズミモチやの、その広葉の固い葉表にも陽光は乱反射し続ける。どうしてこんなにも惜しげもなく光は溢れ、飛びかい、そうして人を魅了するのだろうかと、訝しくさえなるほどにも。
 机の上の、近所の水産高校の学園祭で見つけた小さな文鎮は真鍮色に磨かれていて、その丸くつるりとしたつまみの上にも光は反射し、カシャカシャとキーボードを叩くぼくの小さな影をも映しこんでいる。米粒ほどのそれが笑うのが眼が光っているのでわかる・・・・・わけはないか。

 

菜園便り一〇九
師走なかば

 台風で破れて気になっていた障子を、師走になってやっと貼り替えた。かつての旅館の応接室、ぼくらはホールと呼んでいた部屋の、窓際の小形の障子。スプリングの壊れた古い型のソファが置いてあって、父がテレビを見たり書斎みたいにして使っている所だけれど、そこの天井の照明にはめ込んであったガラスが落ちて粉々になっていたので、そこも磨りガラスを入れるのを止めて障子紙にしようと、その張り替えもあった。両方とも同じ部屋だから、少し見栄えがちがってくるかもしれない、父は気づきもしないにしても。
 障子貼りは一人でもやれるけれど、広げて桟に貼りつける時だけは、もう一人いてくれると、天と地ほどの違いがある。結局ひとりでやったけれど、こんなささいな仕事にも思いだすことは少なくない。前にこの窓の障子を貼り替えたのは四年前の母の三回忌の時で、早く来て準備を手伝ってくれた札幌の姉といっしょにやった。帰郷してからなんとなく障子の張り替えはぼくがやるようになっていて、もちろん毎年なんてやらなかったけれど、やればけっこうの数の障子を貼り替えていた。大型の1枚で貼れる障子紙を知ってから、ほんとに簡単で楽になったから、のんびりひとりでやりつつ、紙を広げて貼りつける時だけ母に手伝ってもらっていた。
 そういうこともあって、姉に手伝ってもらうのは、どこかしら家族的な親密な感じを確認しているような思いもあったのだろう、楽しくてしょうがなかったし、家事とか作業を誰かと協力してやる喜びもあった。何度も小津の映画、特に『麦秋』で東山千栄子三宅邦子が布団に綿を詰め(打ち直してもらったのだろう綿が廊下に積んであるのもちらりと見える、かつてはそういうこともやった)、両端や隅をひっぱたり叩いたりして均等にならし、そうして大きな針で幅びろの緑色の糸なんかを所々に留めに刺しているシーンを思いだしたりもした。
 掃除機でざっと埃をとって壁に障子を立てかけ、古い紙の上から桟を刷毛で塗らし、間をおいてゆっくり剥がすとすっと全部が一枚で外れる。桟や縁をぬれ雑巾で拭いて、床に敷いた古い畳表の上で作業になる。薄めに溶いておいた糊を刷毛で桟に塗っていく。いそがないと乾いてしまうから、この作業もふたりだと楽だ。障子紙を貼る時も、ふたりだと上と左をはみ出させないで揃えて貼れる、そうすると後で切り落とす作業が、下と右だけですむ、そんなちょっとした利点もある。めんどくさそうにみえても、その最後の切り取りの作業は仕上げだから、どう転んでも楽しいのだけれど。
 こんな障子一枚も、自分で持ち抱えたり拭いたりしていると、その丁寧なつくり、長い時間のなかで人がつくりあげてきた知恵や細部に感嘆させられる。効率的で、購買目的のあっというまに進化する現代の物ものとちがって、時間をかけて少しずつ改良されてきた洗練。細い桟は丁寧に組み込みあって格子をつくり、外枠にはめ込んである。エッジはそれとわからないほどに、つまりしっかりと鋭角な面を保ちつつも微かに面取りされて、指に痛くない。無骨な膝でどんと乗ったりしたらたちまち砕けてしまうほど繊細なのに、全体としてはがっしりと安定している。外枠も桟の面、つまり室内に向かって角がかっきりと面とりしてある。軽い、そしてこの木と紙の一枚の持つ力の大きさは、冬になると唖然とするぐらいはっきりする。すきま風を塞ぎ、温かさを守り、眩しい陽光は遮りつつも、穏やかな光と熱は取り込む、もちろん外からの視線を遮り物音を低め。
 材料は何だろうか、こういったことは一目でわかる人もいれば、何度教わっても身につかないぼくのようなものもいる。檜はその木目模様で、杉は香りと使われる場所で、松は表面の色と節で、と言われればもちろんそうだと、はっきりしているのだけれど。楠や栂、朴なんていうのもわりと使われていたりもするし、柿や桜や南天が要所にアクセントをつけている家も多い。
 安普請だから、我が家には上等の材料や珍しい素材の床柱はないし、職人芸のような欄間なんかもないけれど、台所や風呂場のありきたりのガラス戸の飾り桟が、どれも軽くアールを描いていて、そんなささやかな意匠や技術に、つくっただろう人の慎ましい矜持を思ったりもする。
 何かCDでも聴きながらと思ってスイッチを入れると、入れっぱなしになっていたビリー・ホリデイがかかったので、そのまま聴きながらやったけれど、初期のだったこともあって、あたたかい陽射しを浴びながらひとりでやる障子貼りにもうまくあっていた。若い時のはりのある声、どこまでも軽やかで甘くて、「ソァリチュード」とか歌われても、そうかい、とかなんとか互いにニヤッと微笑みを交わすようなそんなふうに響く。
いろんなことがあったんだ、
でもいいじゃない障子もけっこううまく貼れたんだし、
そうさ、
それでいいのよ。

 

菜園便り一一一
二〇〇五年一月一二日

 一月も中旬になって、がくんと落ち込むように寒さに入り込んだ。冬至を過ぎて長くなり始めた陽光は、海辺ではもう春の輝きを持ちはじめているけれど、気温はこれからの寒さを告げている。だから光のエッジもまだまだ柔らかなふくらみにはなれないまま、凍えて大気のなかで鋭く乱反射している。
 雪さえ混じる空の下、菜園の冬野菜はかわらずに元気でほんとにすごい。ラディッシュもまだ続き、蕪はひしめき合うのを間引きしつつ摘み続けても、まだまだどっさりあるし、大根はそれなりの大きさになって抜く毎に、隣がぐっと太り始める。紅芯大根もその不思議な色合いがサラダのアクセントになる。ルッコラも葉を広げ続け、コリアンダーも生き生きしている。さすがにレタスは伸びきって終わったけれど、パセリはここにきて株も増えるし育っている。
 いただいて植えた小松菜や水菜は上手く伸びず、かろうじて潰えずにいるだけ、種を蒔いて二ヶ月を過ぎたほうれん草と春菊はまだ双葉くらいのまま地面に貼りついている。葉物はダメなのかなと思って諦めていると、少し離れたアイリスの群生する庭の隅に1本だけしっかりと伸びた春菊が見つかった。去年のこぼれ種か、どこからか飛んできたのか、葉をいっぱいに伸ばしていて、さっそく周りから掻き取って葉物の少ない鍋に使う。茎も葉も柔らかく瑞々しく、摘みたては鍋のなかでもしっかりと強い味と香りを放つ。
 それもあって、最近の鍋は、菜園鍋とでも呼びたくなるように、庭の野菜だけで賄える。春菊の他にわずかだけれどカツオ菜もあり、蕪や大根も茎や葉ごとどっさり入れる。分葱はまだ小さいから、二〇センチほどの長さのままに使うと、鮮やかにすっと伸びた葱の青さが、その爽やかさやぴりっとした匂いや辛さを目にも伝えてくる。
庭の野菜を食べるようになって、根菜などは皮を剥かなくなった。蕪も抜いてきたのを、ざぶざぶ洗ってがぶり、果実的な糖分でない甘みや微かな苦みが広がるし、そのがりがりした食感もご馳走になる、後には舌に爽快感。調理するとたしかに皮の部分は色が変わるし皺になるから美しさが削がれるけれど、新しい野菜は皮も固かったり筋張ったりしてないので、味も深まるし、それに皮を剥かないのはもちろん楽ちんでもある。
 じっと地面にへばりついていても、冬空の下の野菜は、鈍重な家畜がただただその頑固さで押しても引いても動かないのとちがって、どこか可愛さや微かなおかしみを秘めていて、ついじっと見入ったり、触ってみたくなったりする。華奢ですぐにちぎれたりつぶれたりするけれど、そこから思いもかけないほどの樹液や強い香りを放って指を濡らし手を染めあげ、たちまち記憶のなかにもしみこんでいつまでも残り続ける。

 

菜園便り115
3月2日

 初夏の陽射しになったり、雪が舞ったり、春はためらって、行きつ戻りつ、そうして結局、誰もが思っているように、そうなるように決まっているのに、どうせあたたかい腕に向こう向きにそっと倒れ込むのに、逡巡や思わせぶりや、時にはできもしない小賢しい計算さえやりつつ、でもついにはなにがなにかわからなくなり、なにもかも振り捨てて、最初よりもよほど条件の悪くなった底値の時にあっけなくどこかにおさまってしまうくせに、なんてことは思わないけれど。
 一月のひどい気候のなか、陽射しの明るさに惑わされてつい買ってきて植えた3本のレタスはたちまちしなえてしまったけれど、でもそのうちの二本は枯れた葉の下でしっかりと根を保ちあたたかさの増してきた土の上に葉を広げ始めた、すごい。他にも、ほうれん草が指ほどの大きさのままびっしりと生えている一角に、すっかり忘れていた春菊が一本伸び始めた、これも驚き。ほうれん草は、二ヶ月遅れで律儀に発芽はしたけれど、寒さの下で伸びられず、あまりに小さすぎて間引くに間引かれず、だから葉も広げられず、といったところでこれからいったいどうするつもりなのか、こちらからも聞いてみたい。もう冬も終わりだというのに。我が家の冬の鍋は、どこからか飛んできたのか、去年のこぼれ種か、隅にしぜんに生えてきたカツオ菜と春菊が、わずかながらも頑張って助けてくれたけれど。
 台風の影響ですっかりサイクルが狂ってしまい、不足、高値だった野菜類も落ち着き、いただくことも多い。ほうれん草、カツオ菜、葱、ブロッコリー、時には蕗の薹、蕪。葉物はどっさり来るから、気も焦る。先ずは鍋、おひたしや炒め物(最近の定番の干しエビ炒めや玉子とじ)で食べて、残りはとにかく茹でて半分は冷凍、半分はあれこれやりつつ食べ続ける。多いのは何種類かの茹でた葉野菜を切りそろえてポン酢や芥子醤油でいただくもの。さっぱりとして、酒にもよくあう。
 火をとおすとびっくりするくらい野菜はぺっちゃんこになる。そうなってもしっかりとした歯ごたえや独特の甘みや苦みが残って楽しませてくれるし、色合いもそうすぐには黄変しない。緑みどりして、きちっとした食感があり滑らかさもついてくる、筋張らない。庭の大根、蕪、ラディシュ、ルッコラ、パセリ、コリアンダー(香菜)は変わらずに続いていて、ラディッシュはもうじき次の種まきもできそうだ。そうなると、二十日大根の名のとおり、三週間待たずにまた新しいのが食べられる。プリンとしたあの鮮やかなツルンツルンの赤い玉が柔らかい緑の下に押し合って並ぶことになる。
 鵯に散々つつかれて無惨な芽キャベツもどうにか結実しそうなようす、その健気さ、したたかさに圧倒されつつ、それが収穫しようとする自分に向けられたものだと思うと、喜んで受け止めつつもなんだか照れくさいし、ちょっと鬱陶しくも怖くもあって、でもそんなふうに思うことじたいが何かしら後ろめたくもあるようで、なんてついあれこれ思ったりもしてしまう、誰もがそうであるように。たしかにすごく感謝しているけどでもそんなに思いを込められたり言いつのられたりすると、気持に少し秋風も吹く、まだ春になったばかりだというのに。

 

菜園便り一一六
三月一七日 父の旅行

 二拍三日の旅行で疲れたのか、四月の気温から一気に一晩で五月に戻って冷え込んだせいか、父は帰宅して寝込んでしまった。熱はなく、咳もひどくなく、でも寒気とだるさで動けない、といったようす。軽いインフルエンザだろうか。頼めば来てもらえる近所の小島医院からの往診も嫌がるので、とにかく暖かくして終日寝ている。食欲はそこそこにあって、今までの半分くらいは食べることができるから、心配も中途になる。
 珍しく仕事が重なり、それもかなり難しい内容で四苦八苦してるところに、四年ぶりに父の看病、世の中はそういうものだ、ヒステリーは起こすまいとできるだけ冷静に努め、あれこれじっと視たり考えたりしないようにしていると、なんと地震まで起こった。幸い家屋損壊といった大事には至らずにすんで、食器や欄間のガラスが落ちて割れたり、白壁がはげ落ちたりぐらいだった。実は忙しさもあって(恐くもあって)まだきちんと全部は見回っていないのだけれど。
 父は旅行は好きは好きなのだろうけれど、ほとんど団体旅行しかしたことがないようで、まだ旅館をやっていた頃は旅館組合や仲買組合といったグループでの旅行に必ず参加していた。まあ、半分強制的だし、費用を積み立てるからでもあったのだろう。仲買組合は地場の港にある魚市場の競りの組合で、仕事がら酒飲みや癖の強い人が多く、酒を飲まない父には鬱陶しいことも多かったのではないかとも思うけれど。
 まだ東京にいる頃、その仲買組合御一行がニューオータニに泊まったことがあって父に会いに行った。いくつかある部屋のドアを全部開けて、ステテコ姿でみんなが行き来していて、たまりかねてホテルの人が慇懃無礼に挨拶してドアを閉めていくのだけれど、誰も気づきもしないで、また開け放って廊下越しに夜の予定を大声で確認しあったりしている。なかなかの景観で、さすがというか、とにもかくにもそういうのが似合っているのはいいと思いながらも、珈琲をのみに降りていく。
 向こうでは、大声でおらびあい哄笑していたのが、酒も行き交いお決まりの喧嘩になって、誰が持ち込んだのか市場の手鈎まで振り回され、ドアは破れて吹っ飛び、スタンドや椅子まで放りだされ、その上に不気味にシャンプーやリンスがどろりと流れ、枕の羽は部屋に廊下に吹き荒れ、他のお客が遠巻きにおずおずとでもしっかり覗きこむなか、ホテルマンがすっ飛んできて仲裁し、半ば怒鳴り、掃除のおばさんはうんざり顔で・・・・というようなことまでは、もちろんなかったけれど。
 今では仲買組合どころか、港の競り自体がなくなり、朝市とか自家用加工とか以外は魚のほとんどは他の港、多くは博多の市場に水揚げされているし、地場の魚を扱っていた小売店も減ってしまい、旅館や料理屋も大半はまとめて安く仕入れる方へ流れるし、ごくたまに頂く季節の魚のおいしさをしみじみと味わいつつも、今年も甲烏賊はとうとう1回しか食べられなかったなあ、若布も自分で拾ってきた以外にはもらえなかったなあと、誰に言う宛もない愚痴をつぶやいてみる。

 

菜園便り一一七
四月一日 母の旅行

 そんな父も、ほんの一、二回だったけれど母とふたりで旅行したこともあって、その時のエピソードはとっておきというか、とてもチャーミングだ。もちろん、それは母から聞いたことだけれど。
 北海道に孫の顔を見に行った帰り、東京で東北新幹線から東海道新幹線に乗り換えるのに、上野で降りて東京まで行かなければならかった頃。慣れない乗り換えに手こずり、迫ってくる時間に追われてやっと着いた東京駅のホーム、焦って駆け上がり、今にも発車しようとしていた新幹線にとびこんだらしい。
 乗ってみるとガランとしていてへんだなと思っているとアナウンスがあって「これは回送車だけれど、もし間違って乗った方がいたらいちばん前の車両まできてほしい」とのこと。長い長い列車を先頭まで行くと、(「ほんと長いのよ、ほんとに」、と母)これは点検に新横浜まで回送していくこと、途中にはどこにも止まれないこと、新横浜から東京駅までは何かの便で送り返してあげるとの説明。
 母の話はどこかリアリティが希薄で、いろいろ聞き返しても、「そうなのよ」と自分でも笑っていて、この場合はその時の緊張しつつもなんだかおかしく不思議な空気感がよく伝わってきたけれど。新横浜では、老人ふたり旅であるし、北海道から九州へということだったからか(まるで小津の映画のようだし)、丁寧に対応してもらって、駅の事務所で待っている間も、「駅の帽子に線のある偉い人」と話したり、お茶まで出たとのことだった。
 旅館をやってる時はなかなか休めず、父は自分はあちこち行くのに、母が出かけることにはうるさかったから、滅多になかったけれど、それでも母もたまには姉の所などに行ったおりにひとりで旅することもあって、その途中に当時東京にいたぼくの所にも寄って、能や芝居を見たりもしていた。一度、鎌倉へのセンチメンタル・ジャーニーにつきあったこともある。
 そのほうが楽だといって、いつも着物を着ていて、でも都市の世知辛くひしめきあった空間にはなかなか馴染めず、ちょっと気取って出かけた西麻布のフレンチレストランでは、席と席の間が狭くて、立つ時に隣のテーブルのグラスを帯で倒してしまったこともあった(小さなバックパックを背負っているようなものだ)。ぼくはもちろん、お店の人も先方のカップルもびっくりしつつもおかしがって事なきを得たのだけけれど、母はなんというか、しれっとしてというか、何が起こったのかよくわからないふうで、謝ってはいるけれど心ここにあらずというか、たいしたことじゃないでしょうといった感じだった。東京は坂と階段の多いところで、着物で歩くのにはたしかに適してはいないし、地下鉄の階段の深さはもちろん、一段ずつの高さもかなりある。
 着物で困ったことは他にもいくつかあって、一度寝台車で帰ることになった時(もう今はないハヤブサとかサクラとかだ)、ウイークデイだからとたかをくくって当日東京駅に行くと、なんとほとんど売り切れで、二等車のいちばん上しかなかった(当時は上、中、下の三段)。着物であの梯子のような階段を上り下りできるわけもなく、とにかく車内で車掌さんにでも相談しようと乗り込んで座席に行くと勤め人ふうの人が座っていて、頼み込むと気さくに席を替わってくれた。母は恐縮しつつも、ここでもどこか平然としてもいて、せめてお礼や料金の差額だけは失礼にならない形で払った方がいいよと言ったことばも伝わっていたのかどうか。でもぼくがあれこれ気を使わなくても、着物の老婦人がいれば、誰だってそうせざるを得ないだろうとは思う。シベリア鉄道の八日間とかだと考えてしまうけれど、一〇時間に満たない夜の寝台車では、ぼくにもできない親切ではない。
 寝台列車の濃紺のコンパートメント型の車両や、リネンのテーブルクロスの食堂車、その上の銀色の一輪挿しにはカーネーションや薔薇の一輪、シーツをセットしていく客室乗務員のきびきびした動きやその制服、夜を徹して走り続ける列車、照明を落とした車内のひっそりとした空気、轟き疾駆する列車のなかの静かな揺れ、そんなことも思いだし始めるときりがなくなる。最後に乗ったのが、その東京駅での五分間になってしまったけれど。

 

菜園便り一一八
三月某日 地震の後で

 福岡は地震はないというのが通説だったから何の心づもりもなかったし、震度六というのも生まれて初めてだったから、揺れた時はもちろん驚いた。天井から下がった蛍光灯と鴨居のガラス、それに壁の版画の額が、バタンバタンと叩きつけられて、ああ、もう割れる、押さえようもないと観念したりもした。外に飛び出さなくては、ということを全然思わなかったのは、木造二階建てで開口部だらけの家だし、その時も窓の側にいたからだろう。集合住宅の時は、とにかく火を消し、ドアを開けて逃げる道を確保してくださいと散々言われていたけれど。
 古いあばら屋である我が家の状態を知っていて心配してくれたのだろう、びっくりするくらいたくさんの電話やメールをもらった。直後に先ず東京から電話があった。このあたりがニュースに流れたらしく、我が家も半壊しているんじゃないかと、おそるおそる。電話は携帯も含めてほとんどが不通になったけれど、つながっているのもあってあれはどういう加減だったのだろう。隣町の妹は「そっちにかけてたけど、ずっとつながらなかった」と、夕方来てくれた時に言っていたが、彼女の方が不通だったのだろうか。北海道の姉からも夕方こちらにかかってきた。
 近隣の友人知人からは、翌日の午後過ぎてから続々とかかってきた。みんな自分の所が一段落したのだろう。あまり大きな被害はなくて、お互いにほっとしつつ、あれこれ報告し合う。「我が家は、本が落ちて、食器がかなり割れて、鴨居のガラスが落ちて割れて、白壁が剥がれて落ちたけれど、屋根とか外壁とかの大きな損壊はなかった、まだ全部は見てないけれど」と伝えると、それはよかった、不幸中の幸いだと安心してくれる。こちらも相手の状況を聞いて安心する。互いに喜びつつ、でも、たったそれだけ? あの揺れで? あの玉乃井の状況で? 大変だったらすぐに片づけに駆けつけるのに・・・・といったニュアンスもかすかにあったりして、それもおかしい。
 自然災害で、かなり大きめで、でも決定的なほどでなく、ニュースは大仰で、話題性があって、ちょっとだけ参加するにはもってこいの規模。直接駆けつけられなくても、心遣いや物資でも励ませる。ぼくも電話無精でなければせっせとかけただろうし、近場なら駆けつけただろう。そこには無私のとにかく力になりたい気持もあれば、お祭り騒ぎへの参加もあるだろうし、倫理や義務に心底縛られてのほぼ自動的な反応や、共同体の暗黙の掟もあるだろう。でも結局、研ぐのもそこそこに大急ぎでご飯を炊いて、握り飯をつくり、梅干しを添え、そこらの日持ちする食べ物をかき集め、たっぷりのお茶といっしょに背負って、届けに走りだすことはなかった。
 ちょうど風邪で寝込んでいた父はそれとははっきり気づかなかったようで、枕元の仏壇が倒れなくてほんとによかったと思いつつも、「すごかったね、もう、びっくりしたね」と大声を張り上げての、緊張しすぎて笑ってしまうような会話ができなかったのはちょっと残念だった。

追伸:ほんとにこわくなったのは少し後に始まった余震からだ。今もたまにある。直後は震度三とか四のけっこう大きいのもあって、かなり揺れた。一度目の恐怖がその時にほんとう現れる、実感が固定される。揺れる予感だけでぎくりとする。体が揺すられると、心のかなり深い部分が突き動かされてしまうようだ。とても、こわい。

 

菜園便り一一九 ????????
四月七日

 仕事場兼応接間兼寝室兼・・・の四畳半の床の間が下がったのに気づいて始まった改修は、絶大な助っ人、山本さんの尽力で次の段階に進むことができた。長年の懸案だった本の整理のための改装が一段落して、りっぱな書庫ができた。我が家を知っている人も、海側の玄関から入って、ぼくの部屋から廊下を挟んだ左側の狭い部屋、といってもほとんどわからない。それくら目立たないし、何も使ってなくて放置してあった、かつての「女中部屋」(すごいことばだ)で、三畳を縦に二つ並べたような細長いつくり。
 山本さんが床張りから、作りつけの壁いっぱいの本棚までやってくれた。プロ並みの技術だし、道具も移動できる据え置き型の丸鋸まであって、すごい。新しく張った床材も、買い置きがあると提供してくれたものだ。足を向けては眠れない。照明は以前からあった電球と笠を利用し、ちょっと離れたところからコードを引いてきて2箇所に取りつけた。小さなテーブルと折り畳みの椅子もおき、CDだけは聴けるようになって、夜なんかひとりで座っているとシンとした気持になる。
 厚い棚板のその本棚に、とにかくありったけを詰め込んだ。今まで使っていた本棚もまた据えつけて、それにも詰め込む。おかげで四畳半がすっきりした。溢れていたCDやカセット・テープそれにヴィデオ・テープも収まった。余裕もできて、少しものを飾ったりもできる。
 本は引っ越しの度にかなり処分したし、今は極力買わないようにしているけれど、それでもかなりある。もちろん小説など文学系が中心だけれど、美術、映画関係、まんがも少なくはない。全集や選集といったまとまったものがないのは、好きな作家は単行本で買っているからだろうか。木山捷平久生十蘭の全集を最後の引っ越しで人にあげて以来、まとまったものを持つことはなくなったけれど、プルーストはもらってくれる人もいなかったのか、「失われた時を求めて」七冊が揃っている。これがいちばん長いものかもしれない。他には大友の「アキラ」六冊ぐらいだ。
 でも、なんていっぱいだろうと思う。もちろんこの十倍だって百倍だって持っている人はいるし、もっともっとと集めている人もいる。若い時は、初版以外は本でないみたいな気持さえあったし、ずらりと壁際に背文字が並ぶのは単純にうれしくもあったけれど。「初版」への興味がオリジナルつき画集へ、さらに版画、タブローへと移り、少しずつ集め始めた頃から、ほんとに必要な本だけ、それもなるべく文庫で買おう、となって、それでも増えていたのが、津屋崎に戻って、図書館を利用することが多くなってから、要するにお金に困って支出が切りつめられ、本を買うのはめっきり減って今に至っている。
 手元にあるなかでいちばんだいじなものは、友人たちと始めた飛行商会という出版企画からだした沖野隆一の2冊の詩集、と自分の作品集、それに五冊までだした「ピストル」という冊子だろう。因みにいちばん高かったのは八二年に出た塚本邦雄の作品集で、これはいちばん厚くもある(広辞苑より厚い!)。そんなふうに書いていけば、全ての本が何らかのいちばん・・・になるのかもしれない。繰り返し読み返すもの、もう二度と開くことはないだろうもの、何かの不思議なつながりでこの書棚に紛れ込んだもの、すっかり忘れていて驚かされるもの、形としての本と、そこにある活字と、そうして書かれていることがらとしての本。かつては手に取ることさえ耐え難いほどだったこともあったりしたけれど、正しく時は流れて、今では厚い本はたんに手首が痛く、小さな活字は目が痛いだけ、なのかもしれない。

 

菜園便り一二〇
四月一一日

 先日、処分されることになった亀井君の家から本や遺品を少し頂いてきたので、新しくできた部屋に亀井清コーナーをつくった。本を中心にした亀井君のものと、亀井君と親交のあった者のもの、とで構成していこうと思うから、ずっと未完成ということになる。今のところ、彼がまとめて買ったものの最後になった、岩波の「日本通史」全二四巻が中央にずらりと並んでいる。
 本は亀井君らしいもの、典型的なものを代表で二、三冊ずつ、といった感じでもらってきた。考古・地図・歴史・数学・沖縄関係、漱石中原中也宮澤賢治島尾敏雄ポール・オースター村上春樹などなど。亀井君自身が関心を持っていたもの、好きだったものの他に、彼は自分の親しい人の好きなものにも丁寧に目配りするところがあって、その時々の関係を反映したものも多く残っていた。そういうのを見るのはやっぱり少し辛い。小川国夫、荒川洋治があり、セクシュアリティに関する本があり、つげ義春ナンシー関がある。
 彼の使っていたアルミのコップやでっかい天眼鏡、元村正信のドローイング、佐々木氏の焼き締めの徳利。壁のボードと貼りつけてあった絵はがき、写真、メモ、さすがに「下の畑にいます」という走り書きはついていなかったけれど。現代美術にも積極的に関わり、プロデュースや支援を続けた彼らしく、美術展の案内のハガキも積み重なっている。「何もかもが懐かし」くて捨てられなかったのか、ただの無精だったのか(それにしては丁寧にまとめてある)、なんでもかんでもとってある。領収書、電話メモ、税金明細、役員をしていた児童館の案内状草稿、古い名刺、時々の写真、赤茶けたファックス紙、入場券の半券(多くは美術と博物館関係)、映画の前売り券、使ってないのは義理で買ったのだろうか、映画「デリカテッセン」の半券もあってまたいろいろ思いだしたりする。最後にいっしょにみたのは韓国の「ブラザーフッド」だった。「とんでもないひどい映画だ」と、珍しく批判をくり返す亀井君に、「それは自分の兄弟に引きつけすぎるからだよ」と半分からかったりもしたけれど。
 写真や手紙類も、遺族がまとめられた他にあちこちに挟み込まれていたのが出てきた。ぼくの出した手紙やハガキもある。若い時の、やせ細った傲慢と卑屈に揺れる自分をみるのはしんどいけれど、共に若かったとはいえこういったものを読まされた人への申し訳なさや、それでも続いた友情への感謝の念があらためて湧く。でも、もう一度読み返して笑いとばすことを、彼は、もう二度と、しない。