続・文さんの映画を見た日

 

続・文さんの映画を見た日①
2009年を顧みよう
 新聞に書いていた「文さんの映画を見た日」がうちきりになってから、映画をみる回数は確実に減った。いちばん通っていた映画館、シネテリエ天神がなくなり、百道の福岡市総合図書館ホールでの企画も刺激的でなくなり、なにより是非みておかねば、書けるものをみつけねば、といった切迫がなくなったからだろう。新しいメディア(YANYA’)にまた再連載ができるようになって、すなおにうれしい。
 先ずは、忙しさにかまけて顧みれなかった昨年の映画のことから始めよう。
 少なくなったとはいえ短編もいれると80本くらいは昨年もみていた。でも全体の印象は淡い。圧倒的ななにかを残していったものがないからだろうか(もちろん無い物ねだりしてはいけない、そんなにすごい映画、例えばジャ・ジャンクーの「長江哀歌」とか蔡明亮の「黒い瞳のオペラ」とかがそうそうあるわけがない)。周りに薦めたのは「レスラー」だったけれど、これは主演したミッキーロークの変貌と挑戦に、そのあまりのおぞましさというか、痛々しさにうたれたからで、映画としては通俗的でちょっとずつエピソードを重ねてつないでいくというものだった。登場するレスラーたちがすごくリアルだったけれど、それもそのはず現役のプロレスラー。ファンなら誰でも知っているのだろう、ガラス割り、鉄条網、蛍光灯殴打(当然にも音をたてて割れる)、ガンタッカー撃ち(もちろん体に)などなど正視が難しいものも多い。そういう「痛み」もぼくにはきっとリアルだったのだろう。
 かつてのプロレス界の大スターが落ちぶれて、家族もなくし、スーパー・マーケットの裏仕事をしながらトレーラー(これは米国では貧しさの象徴)に住んでいる。でもレスリングは続けていて、週末ごとに小さなリングに出演している(つまり闘っている)。失敗ばかりの駄目親父の恋、娘との再会、新しい生活への希望、そんなときに心臓の発作を起こし、レスリングを禁止される。いったんは生のためにと受け入れるが、生活の惨めさも加わり再度のちょっと大きめのリングでの挑戦にすべてを投げうってでていく。ボロボロの体で、最後のファイト、得意技のロープから飛び降りてのエルボーキック、死への果敢なダイブへと向かう。映画はロープからダイブした瞬間でフリーズする。こういったストップ・モーションのエンディングは、監督もずいぶん考えて、何度もやり直したんじゃないだろうかと思ってしまう。正直言ってうまくいっているのかどうかわからない、思い入れしたぼくのように判断停止していれば問題はないのだろうけれど。滑稽さやあざとさばかり目についてしまった人もいるだろう。
 でも、その最後の、パセティクでヒロイックに終わるしかない、消え去っていくあり方に感動させられもするのだろう。クールな2枚目で売ったあのミッキーロークが醜くなった顔とぶくぶくの体を曝して映画のなかで暴れるのはすごい。「警官は豚されど若き警官は猛きイルカかジャンプせよ死へ」という歌も浮かんでくる。
 ソクーロフ監督の「チェチェンへの旅」、王兵(ワンピン)監督の「鳳鳴 中国の記憶」はみることができてもちろんれしかったけれど、彼らの他の作品と較べると色褪せて見える。だからけっきょく、今の映画業界そのままに過去の映画の特集とか映画祭の企画での上映などがいちばん心に残ることになる。川島雄三監督特集の「洲崎パラダイス 赤信号」もそのひとつだった。かつての映画人や俳優への、どこかしら郷愁に似た懐かしさを感じ、その顔や表情そのものに今はない時代や生活のリアルを生々しく探してしまう。声の響きや今は聞かなくなったことばの魅力も大きい。手間暇かけたセットへの感嘆、贅沢な衣装、そしてすでにない風景、映画のなかに写し撮られかろうじて残った故に、いっそういとおしくて心震えたりもする。
 田中絹代の特集もあり、「おかあさん」とか「銀座化粧」とかのなかに「月は東に」という映画が、彼女の監督作品として入っていた(地味でないがしろにされる女中役で出演してもいて、そういうことができるのはすごいなと感心させられる)。脚本に小津安二郎が加わっているせいだろうかかなり小津的なつくりになっていて、関係のない静的なシーンが頻繁に挿みこまれる。喋り方や仕草もちょっとぎくしゃくしている。こういった軽い恋愛喜劇のなかで、家族や人生が「ディスカッション」ふうにきまじめに語られたりするのは面はゆいけれど、そういう形の真摯さへの憧れと諦めは多くの人が共有するのではないだろうか。偽善だとののしったり、鼻の先で嘲笑ったりすることなく、でももうそういう関係は喪われているんだ、違う形でしか人の慈しみやつながりは見いだせないんだという、胸かきむしるほどの後悔とあっけらかんとした諦めが同時に生まれるような心持ちのなかに放りだされる気もする。そうしてそれはけして嫌な感情じゃないからやっかいでもある。
  チャン・リュル監督の「キムチを売る女」と「イリ」を偶然続けてみることもできた。映画祭で監督本人のことばを聞いたこともあって、うまく映画のことを語るのがいっそう難かしくなった。出演している役者本人やその仕草に大きなウエイトがあるようにつくられているし、まだ整理されたことばにはできそうにない。自分の何がこんなにも彼の映画に刺激されて反応してしまうのかも、うまくつかめない。
 そうしてやっぱりドキュメンタリーの直接的で素手で何かに触れるような力には、また惹きつけられた。今、誰もがそういうリアリティを怖れつつ憧れているのだろう。中国の今をすくいとる「排骨」、60年代の米国のセクシュアリティを巡る「ハーヴェイ・ミルク」、これも中国の「長江に生きる」などなど。同じドキュメンタリーでも想田和弘監督の「精神」はたしかに宣伝コピーのままに゛衝撃的゛だったけれど、こういった問題を撮ることにどのくらい自覚的なんだろうと、そればかり気になるようなところがあった。どんなことでも考え問い返し続けるほどの力をぼくらは持っているわけがなく、自分ができるわずかなことを誠実に一生かけてやっていくしかない。心を病むというぎりぎりのエッジに立って生き延びようとする人たちを、どういう視線でみる=みないことができるのか、先ずそれから真摯に考え始めることがだいじなのだろう。対象や素材としてでなく、そこを再度自分も、みる人も生きることのできるものにできるかどうか。フィクションであれノンフィクションであれ、表現する人の考え方の反映であり、そういう意味ではドキュメンタリーというのは、「現実」を使ってのフィクションである、ということも再考させられる。原一男監督のこと、彼の一連のドキュメンタリーがいやでも思い返される。
 他には「青べか物語」「春天」「鈍獣」「高田渡的」「グラントリノ」「懺悔」「里山」「ミルク」「あなたのなかのわたし」「小梅姉さん」「ターミネーターⅣ」「空気人形」「キャピタリズム」「Dr.パルナソスの鏡」「アバター」などをみることができた。
 そうやって2009年は終わり、2010年の初映画も2月になってやっとみることができた。なにやらおぼつかない年始めだけれど、こんなふうにまた映画のことを語り始められることを喜ぼう。 
 
続・文さんの映画をみた日②
牛と共にたどり着く場所
 農耕用の牛を最後にみたのはいつだったろうか。近所には農耕馬が多かったから、最後に牛馬を目にしたのは、がらがらと大きな音のする荷馬車に山積みのわら束や農具、それに人を乗せてゆっくりと歩く馬だったかもしれない。中学に入ってからは目にした記憶がないから、60年代初頭あたりが最後だったのだろう。
 祖父が獣医をしていたから(当時はもちろんペットなどでなく、農耕用や家畜としての牛馬や豚が対象だった)、敷地の一角に蹄鉄直しの小屋があった。すり減った蹄鉄を取り外し、爪を削り、新しい蹄鉄をつける作業は子供たちに人気で、ぼくもみんなに混じってよくみていた。丹部さんといういがぐり頭でずんぐりした、いかにも馬と関係あるなあと思わせる人が蹄鉄士だった。酒飲みで、酔っぱらって落ちたドブから這い上がるのに手を貸したこともある。もちろんやせっぽちの小学生が助けになったとは思わないけれど。
 気性の荒い馬はロープに轡(クツワ)を繋がれるだけで前足を高くあげて暴れ、後ろ足の踵で床を蹴り続け、作業にはいるまでにずいぶんと時間がかかっていた。持ち主や丹部さんが時には殴りつけながらドヤしたりしていたこともある。ぎょろりと斜めに見る馬の眼は、なにやら必死なようすで怖かった。
 鞴(ふいご)、真っ赤なコークス、焼けた鉄を金床で打ち、ジュッと水につけて走る湯玉、といった心躍ることについてはまた別の機会に落ちついて書きたい。
 そうやって馬そのものはよく見ていたけれど、実際の農作業を見た記憶ははっきりしなくなる。後ろに人が支える鋤(スキ)をつけて田んぼをまっすぐに進んでいたこと、鋤から黒々とした土がナイフですくい取られるようにシャープな切り口で光りながらぐるり、ぐるりと弧を描いて掻き出されていたこと。ずらり並んだ小さな巴型の刃が回転する攪拌機を引きずって歩くのは、たしか田植え前の水を張った田で、やっぱり後ろから人が支えながら、馬の首から続く細い綱で体側をぴしゃぴしゃ打ちながら進めていた。「どうどう」といったかけ声。そういった光景は、ほんとにどこまでも続くと思えた田んぼのなかにぽつんとあった小学校に通う途中で見ていた気がする。春は文字どおりいちめんの菜の花のなかを歩いて行きながら、幼いなりに小さく感動していた。
 そばでみる機会は多かったけれど、馬はやっぱり大きいいし、張りのある光った筋肉や強い足はもちろん恐くて、さわるどころかすぐ近くに寄るのもおぼつかなかった。突然ジャアと迸ってはねる小便も厄災だ。だから愛馬をなでさすったり、売られる牛に泣いてすがる、といったこともなかったし目にすることもなかった。やけに大きくて荒い毛を梳くブラシがあったのと、焼けた蹄鉄が爪に押しつけられるときの焦げた臭いは今も覚えている。
 そんなふうだったから、牛ということでまっさきに思いだすのは、子供の頃深夜のテレビでやっていた西部劇「ローハイド」、ではなく、ドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」(ニコライ・フィリベール監督)の冒頭に現れる降りしきる雪のなかのごつごつとして頑固な牛の群れだ。映画の全体を象徴するような素朴さ頑迷さ美しさ哀しみ、そして小さなおかしみ。
 「牛の鈴音(すずおと)」(イ・チョンニョル監督)は韓国でドキュメンタリーには珍しく大勢の人がつめかけた映画で、そのことが先ず話題になっていた。農村のドキュメンタリーだから地味で暗く、単館上映でやっと2週間、といったところがふつうだからだろう。 
 韓国も極端な効率化、「近代」化で激変していくなか、美しい田舎風景、牧歌的な農村、懐かしい人々、強い人間関係といったことが郷愁を生み、一方でのヨーロッパからきたばかりのゆっくりした生活や生き方なんて流行もあって、この映画が人を惹きつけたのだろうか。老人、古いことばや習慣、老牛が、一見のんびりと実は必死に生き延びていることへの、離れたところからの感動といったことだろう。機械を使わない農作業、田植え、稲刈り、草刈り、農薬を使わない昔のままの作物作りも共感を呼ぶのか。典型的な頑固爺さん、でも根は気弱、しっかりもので強いオモニ、でも根は優しい、そんな類型化に安心して身をゆだねられるからだろう。映像も奥行きのないように手前(表面)の構図ががっちりとつくられて、絵はがきのように美しい。夕陽のなかを帰る牛車老人という定番も挿まれる。ちょっとあくどくみえる壮年の牛飼い、理解のない子供たち、暴れてなかなか馴染まない新しい牛といった適度な負の要素も加えてある。画面がつなぎ合わされ擬人化され、人と牛が、牛と牛が、生きものと自然が目配せしたりいがみあったりするようにみえる。懐かしく美しくちょっと悲しくでもほほえましい、そんなふうにまとまっている。
 荒れた手、しわだらけの顔、最後の最後に涙のにじむしょぼしょぼした目。よろけながらも必死に坂を上り降りし、進みかねて何度も足をあがかせる老牛、でも牛車を降りない老人。声を荒げ鞭打つことと、牛の餌になるから草にも農薬は使わないと言い張って、よろけながら毎日大量の草を刈り取って与えるやさしさが同居する。働くこと、生き延びること、子供たちを育てることは、ペットの犬に服を着せ靴をはかせて撫でまわすこととはちがう。共同体のなかで一人前にやっていくこと、なめられずに家畜を扱うこと、それはそのまま仕事に収穫に反映するのだろう。
 老牛はついに暗い牛小屋のなかで倒れ、苦しさにもがいて壁を突き破り、頭だけ外に出し横たわって最後を迎える。太りじしの意地悪な嫁、といったふうだった新しい牛が不安げにそわそわと周りをうろついている。埋められ盛られた土のそばの老人。「悲痛」な表情や仕草はなく、なんだか気が抜けてしまって呆としている。
 思わせぶりなナレーションはないし、誠実に時間をかけてつくられ対象への思い入れが溢れるのだけれど、風景のさりげなさあたりまえさ、生きることの汚さ難しさが背景に見えてこないから、前面には了解済みのことば化された光景だけが並んでいってしまう。そのほんのわずかな皮膜の下の苦さと輝き、胸震えるほどの畏れややさしさは浮かび上がってこない。みているぼくらは小さく傷つくこともなく、感傷的になり、現代社会を批判し、そうしてドアを押して「現実」に戻っていく。映画も映像も消費尽くされているからどこかでふいに鈴音が響くことはない。それはちょっとさびしい。
 
<続>文さんの映画をみた日③
記録されるものの向こうへ(1)
 どんなものでもドキュメンタリーはやっぱりすごいなあといつも思うけれど、それは漫然と撮られたものにもなにかしら「事実」のもつリアリティがにじみ出てくるからだろうか。そこに人の無防備な表情やしぐさをみる喜びもあるのだとしたら、どこか覗き見るといった視線がないとは言えない。
 ありふれてでも深い胸をうつ表情や動きを最初にスクリーンの上で感じとったのは柳町光男監督の「ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR」をみた時だった。たぶん肩に乗せたカメラで撮っているんだろうけれど、時間をかけて対象とつきあいながら、訪れた家の居間や台所で撮られた映像や音声。馴染んでしまって、誰もカメラを気にしなくなっているのだろう、暴走族の若者やその家族、特にお母さんの表情やことばがあまりにもふつうで辛辣でびっくりしてしまった。典型的な表情を「描きだす」ために、例えば感極まって潤む瞳へカメラがぐぐっと寄っていく、といったことでなく、生活のなか、人が生きるなかで生まれ続けるものをその場であたりまえのこととしてすくい取っていく、そんなふうだった。それは柳町監督が台湾で撮ったドキュメンタリー「旅するパオジャンフー」にもっと激しい形で現れていて、登場する人たちひとりひとりが今も忘れがたい。同じような思いは王兵監督の「鉄西区」とそのなかの人々にもある。
 ドキュメンタリーは、以前は「記録映画」と呼ばれていたように、子供の頃は学校でみる自然科学的だったり社会勉強的だったりする記録映像がほとんどだった。新しい工場、開発された機械、様々な施設や団体とその活動、探検や珍しい自然動物、そういった、ふだんの生活のなかでは眼にすることのできないものを学ぶための教育や啓蒙の手段として使われていた。だから癌の手術の映像が子供会で上映されたり、「秘境の部族の奇妙な風習」といった、どこかしら猟奇的な雰囲気もするものをみせられたりすることも少なくなかった。「世界残酷物語」をだすまでもなく、人はそういったものを目を背けつつ凝視してしまう。好奇心や過剰なものへの興味は誰にも押さえがたいのだろうか。
 60年代半ばからは、ニュースやその延長としての時事解説などでなく、社会問題などを「中立の報道」でない、自分たちの視点から描いていくことが始まる。大学闘争、三里塚に代表される農民闘争、そうして水俣病などの公害闘争などとして、映像が記録し告知するものとしてでなく、それ自体が表現であり、社会的な立場や闘う主体としての力を持ち始めたということだった。だからそこでは、客観的立場で冷静に外側からみていくといったことでなく(そもそも客観的な視点なんてないんだ、外からというのは撮る側の視点を持たないことだとして)自身の視点、世界観をはっきりと持ったうえで対象を捉え描いていく、つまりフィルム上に映像それ自身の力で生きさせることで、撮る側も撮られ側も、みる者も、映像をくぐって再度生きることのできるものがめざされた。
 切迫した時代だったこともあって、すぐに主体の主張を全面に押しだした、「正義」の視点の、政治的にも過剰なものになっていく。しかしそれがかつてのプロパガンダに堕ちていかなかったのは、走りながら考え創っていかざるを得なかったら、「高み」に立つゆとりすらなかったこと、それ以上に<当事者性>を基本に据え、世界の、自他の硬直した関係を問い直そうとする希求があったからだろう。みる-みられる関係すらまったく新しく作り直そうとする勇気。「圧殺の森」とか「死者よ来たりて我が退路を断て」といった直截なタイトルもあった。
 「三里塚 第2砦の人々」「三里塚 辺田部落」など三里塚を撮り続けた小川伸介はその軌跡を愚直なまでにまっすぐにたどり、そうして農村そのもの、農村に生きる人そのものへの好奇心を肥大させながら山形に移り住んでの映像表現へと走っていく(「日本古屋敷村」など)。そうして同じような方法論をとりつつ、共同体そのものよりもさらにその内の人そのもの、その奥に積み重なった時間へと向かい、でもなにかしらの距離を保ちながら共に生活し、映像としてはけしてクローズアップしない控えめさで、佐藤真の傑作「阿賀に生きる」が誕生する。この日本のドキュメンタリー映像の最高の作品を今もみることができる喜びと、でもほんの数本の作品を残して果てた監督への哀悼の念や無念さが起こってくる(「Self & Others」「花子」「エドワード・サイード」など)。
 その時代のなかで最も中心的となるテーマに沿ったドキュメンタリーもつくられ、原一男監督の「さよならCP」や「極私的エロス-恋歌1974」は衝撃的だった。でもその激しさは、みつめ続けてしまい、対象から目を背けないというのではない、対象が何かやるまでカメラをまわすといったような、どこか消極的な無言の挑発にも似たものだった。最近のインタビューの常道である、クールに突き放して動揺させたり、居丈高なことばや態度で怒らせて撮るほどひどくはないし、その後多く語られたほど、相手に行為(演技)を強要するものではなかったけれど、どこかしら不健康に思えた。煽ったり挑発したりというよりも、カメラを止められない、その場を去れないといったある種の優柔不断さや弱さの表れだったのかもしれない。いずれにしろ撮られてフィルムに定着された映像は世界に向けて剥きだしで投げつけられて予想できない反応を引き起こす。それが後の「ゆきゆきて、神軍」の酷たらしいまでの映像へとつながっていったのだろう。
 人は誰もカメラの前で威圧され気後れし萎縮させられるか、異様に高揚してハイな状態になってしまうかで、常態を保てるのはよほどの人だけだ。そこにある高慢と卑屈、おもねりや優越、屈折は、でも描く側が思う以上に映像として現れてきて、その背景や関係をあぶりだしてしまう。
 そうしてフェミニズムセクシュアリティの問題が「政治」としてでなく浮上してくる。いまや近代の一制度として喪われていく「家族」の問題も多く撮られるようになる。そのなかで、社会問題としてでない、個や世界、そのつながりを考えるものとして差別を丁寧にでも新しい視点でみていこうとする映像も撮られ始め、「大阪物語(ストーリー)」のような真摯な作品も生まれ始める。(続く)
 
続・文さんの映画をみた日④
ゾンビはくりかえし甦り
 米国ではまたぞろ終末論的な映画というか、近未来の大惨事(おおかたは致命的な戦争)後の、荒涼たる地の果てでのおぞましい物語が流行っている。こういった終末観はキリスト教圏では繰り返し現れるものだろうけれど、米国では自国の初めてともいえる、孤立を伴うゆきづまり感がひろがっている。今までにない体験だからなんのことだかわからずに不安や怯えが昂進し、でも結局いつものように独善的でかつひどく単純化されたお話が繰り返されることになる。そうしてますます疲弊も荒廃も進行する、取り返しのつかないまでに。
 「ザ・ウォーカー」という世界戦争後を舞台とした映画をみたけれど、直裁に「西部劇」を模しつつというもので、全体の流れは、神がかった男が何故か知らないけれど引き寄せられるように西を目指すかたちになっている。彼は世界に唯一残ったある本を持っていて、それを運ぶ、届けるのを使命と信じている。こうやって<西>はいつも永遠のどこか、ここより他の救いの地としていつまでも何かを慰撫する郷愁としてあり続けるのだろうか。
 西部開拓史は文字通りの殺戮史であって、先住民を根絶やしにしながら、動物も、樹木もあらゆるものをなぎ倒し根こそぎにしながらの西進であり、それがこの国の根幹に、つまり深層の無意識のなかにけして癒えることのない深く巨大な傷口となって残っている。それをけして認めず、かつての、今の、自分たちの正義を振りかざすとき、人は集団としても精神に異常をきたすしかないのだろう。とうぜんにも起こってくる罪の意識や懺悔を塗り固め封印し消し去ることで、認めて引き受けることによる贖罪とそこからの解放の道も完全に閉ざされるしかない。そういう幼児的な愚かしさ、彼らのいう強さを選んだ以上、不安や恐怖からのヒステリックな攻撃性は永遠についてまわる。
 今も繰り返される他国への侵攻、殺戮行為がきりなく続き、さらにそれを常に正義だと思いこみたい、けして批判を認めない心性が全てを補完し続けてしまう。ヴェトナムではさんざんの酷たらしい攻撃の後、「負けた」ことすら国として(共同体として)引き受けようとはしない。隠蔽につぐ隠蔽、虚飾の上塗りの繰り返し、無意識はますます厚い壁に閉じこめられていき、ときおり個や小さな集団の暴力的で異様な狂気として噴出する。
 国家として疲弊し、溢れる資源の枯渇が見え始めた今、強迫観念に浸された極端な行動が繰り返され、それはますますひどくなるのだろう。そういう国や集団が、今の世界のゲームの規則をつくってしまい、全ての人を引きずりながら滑り落ちていっている。無意識のなかに押しとどめ、けしてことば(意識)にすることなく、でも深層では不安にびっしりと取り囲まれ、恐怖で絶叫し続け、それを憎悪へ転化して、暴力行為を続けているのが、彼の国だろう。わたしたちも一蓮托生、引きずられていつか最後の巨大な滝を落ちるしかない。未来なんて、ない、ついそう断言してしまいそうになる、彼らがチープな映画のなかで何度も語るように。
 米国映画のなかでゾンビは復活し続ける。今までどうしてあんな映画が繰り返されるのか不思議な気もしていたけれど、こんなふうに「西部劇」の郷愁とセットで語られるとよくわかる。先住民の徹底した殲滅、「開拓者」どうしの血みどろの闘い、その記憶、それは底知れぬ恐怖でありそれから反転しての暴力、攻撃、そうしてそこで生まれてしまった歪んだ快楽もあるのだろうか。破壊すること、殺すことへの何重にも屈折した底知れぬ後悔と恍惚。しかもそうやってマサカリ(虐殺)の上に築かれた今の繁栄は、ごく一部の虚栄でしかなく大半はかろうじて「中流生活」を保つことに汲々とし、またはそこから転落した「悲惨な」と自身で思いこむ貧しい生活のなかに放りだされている。だからその屈折が単純だけれどすごく大きいのはわかりやすい。
 もう一つの伏流としてのテーマとして、「カニバリズム(人肉食)」もある。これもキリスト教圏では繰り返される罪のテーマだ。こんなふうにいうと身も蓋もないけれど、食べることも食べないこともその時代や社会の共同体の掟以上でも以下でもない。脳死判定にみられるように、臓器利用(摘出)のための新たな合意が、法的にも、つまり公的な掟としても次々にかわっていくように。より生きのいい臓器を使うには、身体(心臓)が動いている(生きている)死、を仮構するしかない。70年代初期の近未来映画「ソイレント・グリーン」では「食べる」ことは死とセットで高度にシステム化されたものとして描かれていた。食べる、食べないがへいぜんと語られるときは、そのことに関しての論理や倫理が揺れている、堅固なものでなくなっているからで、安定した社会ではこんな文字どおり生死を分かつ重大なことが揺らぐことはけしてありえないだろう。いずれにしろ、本能が壊れたといわれても、種の保存が最優先課題としてあるのは微動だにしない要件だろうから、そこから意識下も含めて全ての決定はなされていくのだろう。
 現行の映画ではもちろん「食べない」派が正義であり、唯一の正常さの証であり、そこから徹底した露骨な差別、排除、殺戮も生まれる(でもどうしてこうも単直な二元論、正負論として問題がたてられるのだろう、いくら単直な正しい答をだすためだとはいえ)。手が震える奴、光る奴、黄色い奴等々は食べてる奴だ、殺せ!になる。やられる前にやれ、食われる前に食え!ということだろうか。もちろんゾンビは「人肉食」派だ。君はヴェジタリアン?
 
続・文さんの映画をみた日⑤
死にぬく力
 ことのほか暑い夏だった。
 父が6月に逝ってしまい、8月に下宿されていた中村さんが亡くなられた。
 家はがらんどう、ゴーゴーと風が吹き抜け、心はボウボウの曠野、深淵がのぞいている。
 それでも飯を食い誘われれば酒も飲み、そうして映画もみる。
 まことに人は救われがたい、ではなく、だから人に救いはある、ということだろうか。
 そんなふうに世界は、映画は、人を魅惑する、誑しこむ。
 そう?
 そうだろうか。
 病室のなかで唯一動いている計器にばかりつい目がいってしまい、規則的に繰り返される心臓のグラフ、数値化された血圧や酸素飽和度に意識がとられてしまう。だから個室に移って5日目、ベッドに横たわっている人が荒い音の呼吸を止めてグラフが乱れたときはとても異様に感じられて、反射的にナースコールを押してしまう。すぐにとんできて「そんなことでよばないで下さい」なんて言わず、丁寧に対応しつつも強く肩が揺すられて呼吸が回復する。そんなことを見ていたからだろうか、次の時は頬を叩いたり腕を揺すった後、ガクンガクンと音がするほど強く肩を揺する。「息をして、息をして」と、息することを忘れてるよ、ときつく注意するように。呼吸は再開される。でも。
 昇圧剤はまだ半分以上残っていて血圧もかろうじて80前後にある、酸素飽和度もしっかり93を越し、心拍は120。でも中村さんはまた呼吸をしなくなった。口を開いたまま続いていた荒い息が不意に止まる、2秒、3秒、10秒、「中村さん、中村さん息をして、息を」、耳元で怒鳴り、それでも駄目なときは肩を掴んで強く揺する、周りの誰も手助けしてくれない。呼吸が再開される。ほっとしつつも動揺はます。どうすればいいのか、なにをしたらいいのか。
 頭をなで、腕をさすり、頬を軽く叩き続ける。連絡の取れない担当でなく若い医師がよばれてきてそばに立ち、身構えている。これ以上無理に息をさせて苦しさを長引かせない方がいいと思いつつ、それは見殺しにすることじゃないかと拒んで、でももう声を荒げても身体を揺すっても呼吸が再開することはなかった。TVドラマのように看護婦がやさしく腕を押さえて止めさせるというようなこともなく、ただ受けいれるしかない。
 病室の壁にかかった時計をちらりと見て医師が時間を告げる。「計測器のグラフでは心音のパターンがあるようにみえますがこれは身体のなかに残るある種の電気的な反応で、心臓は動いていません」。若い医師は緊張し声も少しうわずっている。
 嗚咽しながら、お世話になりましたとだけ言おうとして「ありがとうございました」ということばになってしまう。誰にたいして、誰が言ったのだろう。
 「ハリーとトント」の映画評を新聞に載せたとき、「せめてハリーには穏やかな死を、と思わずにはいられない」と書いたけれど、でも自分が直面してしまうと死を思いたくないし、遠ざけたいから、死を考えなくなってしまう。人工呼吸器は使わない、極端な延命策や心臓マッサージはしないでほしいと冷静に頼んで記録してもらっても、いざというときには肩を揺すり、頬を打って「息をして、息を」を叫んでしまう。無理に身体にだけ息させる、そういうことが何を意味するのか考えられない、意識もなく荒い呼吸で最後の力を振り絞っている人の苦しみを引き延ばしていることも思いつけない。でも誰も手をかさないことが、病室のシンと張りつめた静かさがそっとなにかを押しとどめる。
 こんなんにも力をふりしぼらなければ人は死ねないという不可解なまでの逆説。生きぬくということばを人は時にヒロイックにも使うけれど、死ぬために生きぬく、というか、死ぬために死にぬくのにはほんとにすごい力がいる。生きることで力を使い果たしたら人はどうやって死ねるのだろう。
 ティム・バートン監督の映画「ビッグ・フィッシュ」ではベッドの上でのわざとらしいしぐさや死の間際の劇的な覚醒やことば、達観したような表情もなく、見まもる息子とつくりあげたファンタジーのなかで静かに息を引きとる。鼻へ酸素を送る細いチューブがいつも頬に食い込んでいるのは映像的な解説なんだろうか、それとも米国ではあいかわらずの効率性から、ずれないようにきつく止めるのだろうか、なんだか嘘くさいなあと思ったことも遠ざかる。
 この映画のなかで、服を着たままバスタブに沈んでいるアルバート・フィーニーがすっと浮き上がってきて、見つめていたジェシカ・ラングがやっぱり服のままバスタブに入って、静かにフィーニーを抱きしめる場面ははっとするほど美しく、20世紀の名ラブシーンのひとつだと思ったことも、小さな気泡になって部屋のなかに消えていく。
 水をくぐって、人はどこへ行くのだろう。「アンダーグラウンド」での水をくぐってシテール島(桃源郷)へと渡っていくシーンは美しかったし、「亀も空を飛ぶ」の池に捨てられた子供が水のなかで沈みながら動く姿は、悲痛きわまりないけれど、でもやっぱり異様な力に満ちていて美しかった。
 中村さんは死という水をくぐってどこへ行ったのだろう。無、ではない気がする。あれほどのエネルギーがぽんとゼロになることはないだろう、きっと。神秘主義的にではなくそう思う。生はもっと曖昧でかつ自由というかいいかげんなはずだ。厳格なまでに確固としているようにみえる個体の心身の区切りは、そう思いこんでいるこの時代での区切りでしかない。
 天国とか甘くあたたかい夢の王国といったことでなく、そういったこの世界の貧しい想像力の延長にあるディズニーランドでなく、ことばでいうとお決まりになってしまうけれど、なにもなくてでも全てがある、そういう世界というか存り方。もちろんそういう言い方そのものが現在というか現感覚的だけれど、そういったふうにしかいえない存りようみたいなことだろう。
 <神様>わたくしにも穏やかな死を。
 
続・文さんの映画をみた日⑥
笠智衆の林檎
 荒れ果てた菜園の一部を整えて空豆を植えた。中村さんが夏豆という名を教えてくれた野菜。11月第3週の終わりまでにすませることができたし、花田種物店のいい種だから来年の6月にはおいしい大きな豆をどっさり届けてくれるだろう、きっと。土を起こして石灰も蒔いたし、下肥もほどこした。前後にたっぷりの水を撒き、祈りも捧げた。
 翌日には祝福するように柔らかい雨が降った。
 薄曇りの空の下、海も鈍い色に光っている。いつものように鴎が波よけのコンクリートの上に並んでじっとしている。車が走っても、水産高校の生徒たちが怒鳴りあっても、知らん顔だ。
 夕暮れにはまだ少し水色の残った空の端がうすあかく染まり、いくつかの光の筋が金色に射すだろう。海岸のどこかでは散歩中の初老の夫婦がうっとりと水平線をみているだろう、きっと。冷たくなった風に襟を立て、ちょっとふたりで顔を見あわせてまた視線を戻すのだろうか。夫は夕飯のおでんに熱燗がつくといいなあ、お母さんもちょっとのむといいのになあと、そんなことを思っているかもしれない。わかってるわよそんなこと、武さん、と奥さんは胸のうちで夫を名前で呼びながら、単純でかわいいわと思ったりしている。もう゛お母さん゛は止めてとも思いながら・・・・・。
 そんなたわいもないことをわたくしが思ってしまうのは、そういう生活やあり方に憧れていたからだろうかと、ふと内省的になったりもする。なんでもつい深読みしたり分析したりするのはわたくしたちと時代の悪い癖だ。この社会に生きるなかで育まれた想像力がそういうあり方をなにかの典型として引き寄せているだけのことだ。でもなかなかにあたたかみのある空想だ、おでんとぬくまった布団と。少し酔って、甘えてくれたらいいなあ、俺も甘えられるし・・・・・といったことだろう。
 そうだろうか。
 きっとそうだ。
 埒もなくそんなことを思っていたら、いつのまにか空は群青に塗り込められ、微かな水平線の輝きは、とうとう桃色にも染まらずに消えるところだ。夕焼けもなく、一番星もなかった。
 風が庭を抜け、黄色い菊の群を揺すっていく。一枝折って、夕食前の彼らに届けよう。先週買った純米酒を抱えていこう。おでんとあたたかみのお相伴にあずかって、ふたりの気持ちをちょっとかき乱してあげて、そうして早めに戻ってこよう。珈琲は自分で淹れよう。ひとりのむ珈琲はさみしいだろうか、笠智衆の林檎のように。いいやそんなことはない、あたたかさもやさしさの移り香もまだ残っているし、なんというか、かすかな愛や性の残照もわたくしをほの朱くしている。世界は美しい、人はやさしい、きっとそう思えるだろう。
 明日はまた早起きして海岸を散歩して、打ち寄せられた烏賊や若布を拾って夕食のご馳走にしよう。残ったら保存しておいて、時には彼らを(誰のことやら)招いてもいい。たぶんボルドーのワインがくるだろうから、メインはあれで、サラダはこれで、デザートは・・・・・あれもこれも、思うことは楽しくそしてせつない。
 おだやかな喜びはどこかで哀しみに通底していく、わたくしたちのあり方、つまり世界のあり方そのものが哀しいからだ。暴力や快楽は苦しく痛く濃密だけれど、どこかあっけらかんとしていて限定的であり深みにかけるから哀しくはない。
 そうだろうか。
 
続・文さんの映画をみた日⑦
松の内も映画も終わった
 さあ、松の内も過ぎた、粥も食べたし、注連飾りも下ろした、節分の豆も蒔いたし、菱餅も食べた、そろそろ雛人形も下ろさなくては、はちょっと早すぎるかもしれない。でもいつのまにか世界も終わったようだし、去年みた映画のことも忘れないうちに書いておかなくては。
 昨年は40本ほどの映画をみた。我が家で、他所でたいせつな人がたてつづけに亡くなってたいへんな年だったけれど、思ったよりたくさんみていたのは「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」や、偶然東京で遭遇したユーロスペースの「山形国際ドキュメンタリー映画祭特集」などでまとめてみたからだろう。家族同様にしていて最後は我が家にいっしょに住んでいた中村さんは、3月の最初の入院から半年もたたずに逝ってしまった。介護の迷惑をかけたくないとそんなふうにどこかで感じていたのかもしれない、と思ったりするとまた涙がでる。
  福岡市にはアジア映画祭がふたつもあるし、図書館がアジア映画中心のアーカイブを持っていて、頻繁に上映もやっている。そういう恵まれた所にいるからアジアの映画を数多くみることができる。
 今年のアジアフォーカス福岡国際映画祭でのチャン・リュル監督「豆満江」はやっぱりいつものように激しくて哀切だったけれど、今までの「キムチを売る女」や「イリ」よりは穏やかになっている。今回も監督本人が舞台挨拶にみえたけれど、そのどこか益荒男感傷派とでもいったことばや雰囲気はいつもとかわらず、なんだかうれしいような残念なような気持ちにさせられる。トルコのベリン・エスメル監督の「11時10分前(10to11)」は主演の男性が生みだすリアリティに圧倒されるけれど、職業俳優でないゆえの力や雰囲気がそのまま現れてきていてすばらしかったけれど、彼が監督の叔父さんにあたる人だときかされて、だからあんなにも自由にできるのかと納得させられた。そういうことも映画の上映後の解説や質疑応答のなかででてき、感じられることで、そういうことがあるのも楽しい。フィリピンのメンドーサ監督の「ばあさん」が描く雨期に水没した街の街路を交通手段としての舟がゆく映像には驚かされる。異様でそして美しい、なにもかも終わった後のような光景。そういった作品をみ、観客賞を受けた台湾の「お父ちゃんの初七日」などもみたけれど、なんだか淡い印象しか残ってない。それはみる側、つまりわたくしの問題であるらしく、山形映画祭にもうまくコミットできなかったようだった。
映画祭はあるテーマに沿ったたくさんの映画がまとめて上映されるし監督などの関係者も来て通常では考えられないほどの情報を得られたりするし、感激も大きい。でも経済的にも心身的にも全部みるなんてことはほぼ不可能だし、難しい。1日に60分以上の映像を5本以上みることができる人はそうそういない。わたくしも体調のいいときで間をあけつつ3本がいいとこだろう。短いのが混じったり、かなり無理しても4、5本。
 山形映画祭特集は山形で開催されているドキュメンタリー映画祭を、特別にまとめてユーロスペースで上映したものだから、中心になる2009年の作品だけでなく過去の作品も上映されてうれしい企画だった。「ぼくの好きな先生」のフリューベック監督の「音のない世界」、も過去に上映された作品としプログラムに入っている。
 
続・文さんの映画をみた日⑫
王兵監督「無言歌」 - 声のない叫び
 王兵監督の「無言歌」をみてきました。彼の作品は、それぞれのシーンのなかではあたたかな安堵に包まれつつ、全体では緊張して居住まいを正させられる、そういった気持ちにさせられます。でもそれはテーマの厳しさに竦ませられてといった威圧的なことでは全くありません。つらく無惨な、おそらく解決不可能な人の犯す罪を暴きながらけして映像も映画自身も居丈高でもなく懺悔を強いるものでもありません。だからいっそう深々と、遠くまで届いていきます。小さなでもしっかりとした声が濃い闇を抜け争いの喧噪をくぐってかすかにでもはっきりと届くかのようです。
 この「無言歌」でも、あまりにもつらいことがみごとな映像で真摯に描かれていて、ただただ呆然とさせられてしまいます。王兵監督の初めての非ドキュメンタリー映画です。劇映画とかフィクションというと少しちがってしまう気がして、非ドキュメンタリーといったへんなことばになってしまいます。直裁に「映画」といえばいちばんいいのでしょう。
 あの「鉄西区」の自由さ、例えば浴槽のなかにまで踏み込んでいくような、めまぐるしいまでの自在さと異なり、カメラを固定し静かにじっと撮っていきます。ですからみているわたくしたちもこちら側の一点から対象を凝視することになります。存在感溢れる人たちの顔や手、纏った襤褸、剥きだしの砂岩の上に敷かれた砂まみれの布団がこわいほどリアルに迫ってきます。臭いや淀みきった空気も感じられるほどですが、でも息苦しさはなく、荒涼とした広さや虚ろさが浮きあがってきます。
 わずかな台詞、変化のない表情、決まりきった動き、それらの積み重なりのなかから時代の悲惨が吐きだされてきます。誰も生まれる場所も時代も選べない、ということの哀しみが全部を覆っていきます。戦争はどうしようもなく酷たらしく悲惨です。しかしそこには圧倒的な暴力と剥きだしの死がひしめいていて、妙な言い方ですが速度と彩りがあります。この「無言歌」で描かれる中国の1950年代後半の反「右派」闘争とよばれた政治闘争と強制労働キャンプには、止まったままの時間とその底のどろりと淀んだ暗がりがあるばかりです。
 反体制派として「右派」と断罪され、蔑まれて最果てのキャンプに追放された人々は、荒れて乾いた北の地で寒さに震えながら石に爪を立てるように開墾をしています。地下に掘られた剥きだしの宿舎。国全体の飢饉が重なり食料は途絶え、次々に死んでいきます。飢えの苦しみからの様々な悲惨な逸話が描かれ、死体の衣服を引きはがして売ることから人肉食までもが語られます。上海から何日もかけて医者だった夫に会いに来た妻が、衣類もはぎ取られ野ざらしにされた死体と向きあう無惨なシーンもあります。
 こういった全ては、でも、中国という限定や、ある特別な時代ということからはみ出し続け、わたくしたち自身の上にも覆い被さってきます。生理的な痛みさえ生まれ、悲しみが胸をふたぎ、痺れたように無感動な状態に放り込まれます。世界の不平等も社会の不穏もいつの時代にもどこにもありふれてあったのであり、そういう恐怖や暴力の圧倒は今も酷たらしいほどに人を襲い続けています、この平板に思える日常のなかでも。
 そうして結局人は呆気なく死んでいきます。こづきまわされ、尊厳のかけらすら喪って縮みあがって死ぬのも、最後の力をふりしぼって<どこか>へ向かって走りだして死ぬのも、でも死にちがいがあるのだろうかと、つい自分に問いかけてしまいます。死として具現されることになにかのちがいがあるのだろうかと思わせられてしまいます。
 家族に手をとられ清潔な夜具の上でこときれるのと、酷寒の曠野で汚穢の泥濘のなかに溺れ死ぬのと、のたれ死に吹き曝され狼に食いちぎられて果てるのと、どうちがうのだろうか。痛みや恐怖や絶望、さらにそれらへの予感の怯えを思おうと息もできなくなるほどで背筋も凍りますが、でもそのほんのわずか先では感覚さえ消えたただの空白が広がっているばかりでなないのでしょうか。
 歴史の残酷な滑稽さとでもいうように、不意に終止符が打たれます。始まりと同じような当局の場当たり的な一時しのぎです。収容者のあまりの死亡率の高さに、健康なもの、つまり死なずに家まで帰れるものは、帰還させられることになります。食料を「自給させよう」ということでしょうか。離婚させられた者や家族からも放棄された者はどこへ向かったのでしょう。
 右派として、罪人としてキャンプに送られ、そこで班長のようなことをしていた男に、隊長が「ここにとどまって次期も手伝わないか」ともちかけます。「故郷に帰ってもお前はいつまでも「右派」なんだ。今は釈放されてもこの先どうなるか誰もわからない」と。
 最後、男はみんなの去ったガランとした地下壕のなかでひとり汚れた布団にくるまって横たわります。誰も、20世紀中葉という時代からも、中国からも、さらには人であることからも逃れることはできません。死という最後通牒だけがあるだけです。
 叫びだしたくなるような怒りや哀しみから、涙も溢れてしまいますが、それがある種のカタルシスとしてなにかを昇華し、浄化し、ささやかな安逸をもたらすことはありません。流れた涙の分だけ、もう一段暗い方へ傾きます。もちろん勁い作品ですからそれと気づかないうちに、なにかの力も渡されていて、どこかに毅然としたものも生まれはします。でもそれは希望とか前へと向かう力とかではありません、そういった現世的な効能は生みません。人は誕生させられ、そして死なされるということを四の五の言わずに棒で殴るように納得させられるのです。凍った映像がみごとなだけにそれはいっそうつらいほど腑に落ちます。
 美しい映画です。
 
続・文さんの映画をみた日⑭
タヒミック再び:映画祭のフィリピンとタイ
 キドラット・タヒミックの名は福岡の人には特別なものがあるかもしれない。90年代にはアジア展やミュージアムシティ天神などで何度も来福し美術展やパフォーマンスを展開していた。人なつっこく、不思議な暗い深さもあって、人を惹きつけて止まなかった。1942年の生まれだからもう70だ。
 今年、福岡市がだしているアジア賞を受賞したのでその記念に来福し、彼のもう一方の表現である映画の上映と講演も行われた。6時間に及ぶ上映、講演、パフォーマンスに魅了された人も多かっただろう。会場のエルガーラはいっぱいだった。最後は彼らしく家族や演奏家全員を舞台によんで踊って、喝采のあたたかい拍手を浴びていた。
 そこでは最初期の「悪夢の香り」(1977年)、「虹のアルバム 僕は怒れる黄色'94」(94年)、それに制作中の「マゼラン」が上映された。制作中といっても、創りつつ上映しつつ絶えず変更していくのも彼のスタイルだから、完成ということはないのかもしれないけれど。
 同時期に開催されていたアジアフォーカス福岡映画祭でも「月でヨーヨー」(81年)と「トゥルンバ祭り」(83年)が特別無料上映された。「トゥルンバ祭り」は彼としては珍しく整ったまとまりのある作品で人気も高い。破天荒なまでの自由さや強さがないという声もあるけれど、わたくしはいちばん好きな映画だ。
 あまやかなほどのせつなさ、息苦しいほどのいとしさ、森や村の暗さ深さ。それは喪われていくものへの、無垢の子ども時代への、無償の愛や慈しみへの、そうして映像のなかの共同体が壊れていくことへの哀しみであり、「近代」に陵辱され続けたアジアへの哀しみでもある。いったいどれだけのたいせつなものがむざむざと破壊され喪われたのだろう。
 家族を父を愛し、隣人を愛し、村を愛し、祭りにも興じる男の子が、時代の大きなうねりに巻き込まれ、それを拒みつつもでも受けいれざるを得ないなかで、何重にも屈折し、世界からはね返され、でもどこかで世界を生を愛し信頼し続けていく。そんなふうにもいえる。
 フィリピンの村。スペインや米国からの大きすぎる影響のなかでもかろうじて保たれていたつながりは寸断され、都市が、世界が一気になだれ込んできて、村落の親密な共同性はたちまち崩壊していく。頑固で保守的な父に反抗し都市へと出ていく息子、という形でなく、父の近代的な市場経済への没入と成功を嫌悪し、どうにか続いている村の祭りや関係をみんなと共になんとか維持していきたいと願っている息子というあり方。近代化の脅威、「文明」との対立や憎悪、親族・地域共同体の崩壊といった図式的なまでの構図の上に、ドキュメントとしての村の祭りが丁寧に描かれて映画は始まる。混乱しつつもどこかにまだ根を残している息子や家族の生活の活き活きとしたありかたが、映画としてのリアリティも底支えする。
 強権的な父と優しい叔父という、世界共通の神話のヴァリエーションが、ここでも形を変えながら展開し、普遍性を与えていく。それがタヒミック作品にしてはこじんまりとまとまってみえるこの映画に強さと深さを与えているのだろう。すごくシンプルでそうしてどこまでも限りがないような物語になっている。
 祖母を中心にして手作りで行われていた小さな張り子人形作りが、外部(西洋)からの注文で一気に拡大し、市場経済、世界事情に巻き込まれ何もかもが急速にかわっていく。購入されるテレビや扇風機に嫌悪を示し、息子が商売にのめり込んでいくのを、なによりつくる人形が乱雑になっていくことを嘆き怒る祖母とそれに寄り添う主人公の少年。その少年にやさしく寄り添う、父と同世代のおじさん。彼は今も手作業で鉈をつくる鍛冶屋さんだ。戦争で放棄さたトラックの部品を材料に使い、拾ってきた看板も利用している。少年は時間さえあれば彼の所に行っては手伝っている。
 でも確実に全ては動いていき、流れていき、よどみのなかに残されたものはそこにじっと沈んだまま少しずつくすんでいくしかないかにみえる。
 アジアの、世界のどこにでもあった避けがたかったできごと。でもほんとに避けられないことだったのだろうか。今もどこかに、近代の喧噪から離れて静かな生活を送っている共同体はないのだろうか。おそらく空間的にでなく時間的にだろうけれど、自身の生き方として巻き込まれない、というあり方を集団で維持していくというようなことはあるのかもしれない。
 映画は生活の具体をとおして語られる。子供のどうやっていいのかわからない混乱と怒り、祖母の何もかもが喪われていくことへの不安や哀しみ小さな爆発があり、でも結局全ては黙って過ぎていくしかないと諭すかのように続けられていく。尊敬し自慢していた父の変貌に少年は動揺し、かわらずに森や村とつながっているおじさんの生き方に寄り添いつつも、どこかでそれにも限界でもあると感じてしまうことも描かれていく。
 タヒミックの他の映画にも通じるユーモアが溢れ、諧謔も重ねられるけれど、みているわたくしたちに満ちてくるのは悲哀であり、でもそれはパセティクな否定には傾かない。「ブンミおじさんの森」のようにどろりと暗い底なしの深みや怖さは生まれない。彼らがつくる新聞紙の張り子の人形の軽さにどこかでつながっているかのようだ。深刻には語らないし語れないけれど、でも、だから、まだ親から離れられない従うしかない子どものもつ苦しみや哀しみがそのまま丸ごとさしだされてもいる。それは誰もの胸をうつ。

 アジアフォーカス福岡国際映画祭は少し装いを変えたようで、カタログもこじんまりとした判形になった。トルコの「未来へつづく声」(オズジャン・アルペル監督 2011年)は深刻な内容を小さな声で語っていく。タルコフスキーを思わせる映像で描かれる風景や教会はどこも静かな抒情に満たされていた。
 タイのウイチャノン・ソムウムジャーン監督の「4月の終わりに霧雨が降る」( 2012年)は、そういうことばを使って言うとすれば、インディーズ、独立系の映画。なぜこういうことをいうかというとそういったことが映画の成りたちにも関わっているし、映画のなかでも語られるから。
 バンコクで暮らす若者が失業し故郷に帰って家族や友人に会うという流れの映画で、所々に監督が自分の家族をインタビューした映像が挿まれる。その構造はわかりやすそうでそうでもない。実験映画的な難解複雑さではないけれど、でも単純に、撮られている映画そのものとそれを撮っている現実が交互に、というのでもない。映画についての映画だとか、映画のなかに私的な視点を家族をインタビューをとおして貫くということでもない。そういった非整合的整合性はどこかで放棄されている。巧みに隠されてとか複雑な構造によってというのでなく。
 抒情と冷静な相対化の視点が滑らかにつながっていく。つながりが滑らかだから違和感が生まれないし、納得させられる。おそらく監督(表現者)の思いの流れに乗っているのだろう。丁寧な、長すぎるほどの描写が退屈でなくここちよいのはそういう流れに乗せられているからだろうか。こけおどしや「知的」な操作に傾かずに、静かに語りかけてくる。「でも何を語りかけているのだろうか?」という問いが、生まれるかも知れない。
 「何を・・・?」という問いに答えるように、一度だけベッドに横たわる女性の短いシーンがある。とうに喪われた母、だろうか、そうしてそばにいのは誰だろう。
 社会的なできごと、おそらく学生時代の政治闘争といったようなできごとが挿入される。たぶん実兄が深く関わったのだろう。彼はそのことを今も背負って生きており、解決できずにいるようで、インタビューのなかで硬いことばを弟に向ける。
 若い女性、かつての恋人との対話のなかに、唐突にカミュの名がでてくる。青春の記憶や若さの饒舌としてでなく、おそらく、今、いろいろな人が世界中の様々な場所で改めてカミュのことを彼の著作を問い返そうとしているのだろう。
 バンコクの路上の撮影現場で、こんなふうな楽しいやりとりがある。撮影に興味を持って「どんな映画なんだいと」問いかける青年に、「インディーズ映画さ」現場担当者が答える。そこで彼はもう一度問いかける。
「インディーズ、ってなんだい?」 
「低予算映画ってみたいなことだな」
「じゃあ『ブンミおじさんの森』みたいなものかい」。
思わず笑った人も多かっただろう。
 タイの映画だからというだけでなく、多くの人がその「ブンミおじさんの森」の監督、ウィーラセタクンの名を口にしたがっている、自分にちかい名前として。わたくしもそうだ。彼の表現が、ほんとうに必要とされている。この生きがたい時代に、何をどう考えたらいいのかまるでわからなくなってしまった今の世界に、明快な答えを求めるのではなく、問いそのものを問い返し、答がないことを受けいれる力を持つこと。近代にまみれた狭い考え方の枠組み自体を取り払うことで、いろいろのことがすごくシンプルでそうして限りなく深いと知ること。そういったことが彼の名をとおして、ブンミおじさんの森をとおして伝わってきているのだろうから、今。
 
続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。当時書いたものはずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もある。
 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。

続・文さんの映画を見た日①
2009年を顧みよう
 新聞に書いていた「文さんの映画を見た日」がうちきりになってから、映画をみる回数は確実に減った。いちばん通っていた映画館、シネテリエ天神がなくなり、百道の福岡市総合図書館ホールでの企画も刺激的でなくなり、なにより是非みておかねば、書けるものをみつけねば、といった切迫がなくなったからだろう。新しいメディア(YANYA’)にまた再連載ができるようになって、すなおにうれしい。
 先ずは、忙しさにかまけて顧みれなかった昨年の映画のことから始めよう。
 少なくなったとはいえ短編もいれると80本くらいは昨年もみていた。でも全体の印象は淡い。圧倒的ななにかを残していったものがないからだろうか(もちろん無い物ねだりしてはいけない、そんなにすごい映画、例えばジャ・ジャンクーの「長江哀歌」とか蔡明亮の「黒い瞳のオペラ」とかがそうそうあるわけがない)。周りに薦めたのは「レスラー」だったけれど、これは主演したミッキーロークの変貌と挑戦に、そのあまりのおぞましさというか、痛々しさにうたれたからで、映画としては通俗的でちょっとずつエピソードを重ねてつないでいくというものだった。登場するレスラーたちがすごくリアルだったけれど、それもそのはず現役のプロレスラー。ファンなら誰でも知っているのだろう、ガラス割り、鉄条網、蛍光灯殴打(当然にも音をたてて割れる)、ガンタッカー撃ち(もちろん体に)などなど正視が難しいものも多い。そういう「痛み」もぼくにはきっとリアルだったのだろう。
 かつてのプロレス界の大スターが落ちぶれて、家族もなくし、スーパー・マーケットの裏仕事をしながらトレーラー(これは米国では貧しさの象徴)に住んでいる。でもレスリングは続けていて、週末ごとに小さなリングに出演している(つまり闘っている)。失敗ばかりの駄目親父の恋、娘との再会、新しい生活への希望、そんなときに心臓の発作を起こし、レスリングを禁止される。いったんは生のためにと受け入れるが、生活の惨めさも加わり再度のちょっと大きめのリングでの挑戦にすべてを投げうってでていく。ボロボロの体で、最後のファイト、得意技のロープから飛び降りてのエルボーキック、死への果敢なダイブへと向かう。映画はロープからダイブした瞬間でフリーズする。こういったストップ・モーションのエンディングは、監督もずいぶん考えて、何度もやり直したんじゃないだろうかと思ってしまう。正直言ってうまくいっているのかどうかわからない、思い入れしたぼくのように判断停止していれば問題はないのだろうけれど。滑稽さやあざとさばかり目についてしまった人もいるだろう。
 でも、その最後の、パセティクでヒロイックに終わるしかない、消え去っていくあり方に感動させられもするのだろう。クールな2枚目で売ったあのミッキーロークが醜くなった顔とぶくぶくの体を曝して映画のなかで暴れるのはすごい。「警官は豚されど若き警官は猛きイルカかジャンプせよ死へ」という歌も浮かんでくる。
 ソクーロフ監督の「チェチェンへの旅」、王兵(ワンピン)監督の「鳳鳴 中国の記憶」はみることができてもちろんれしかったけれど、彼らの他の作品と較べると色褪せて見える。だからけっきょく、今の映画業界そのままに過去の映画の特集とか映画祭の企画での上映などがいちばん心に残ることになる。川島雄三監督特集の「洲崎パラダイス 赤信号」もそのひとつだった。かつての映画人や俳優への、どこかしら郷愁に似た懐かしさを感じ、その顔や表情そのものに今はない時代や生活のリアルを生々しく探してしまう。声の響きや今は聞かなくなったことばの魅力も大きい。手間暇かけたセットへの感嘆、贅沢な衣装、そしてすでにない風景、映画のなかに写し撮られかろうじて残った故に、いっそういとおしくて心震えたりもする。
 田中絹代の特集もあり、「おかあさん」とか「銀座化粧」とかのなかに「月は東に」という映画が、彼女の監督作品として入っていた(地味でないがしろにされる女中役で出演してもいて、そういうことができるのはすごいなと感心させられる)。脚本に小津安二郎が加わっているせいだろうかかなり小津的なつくりになっていて、関係のない静的なシーンが頻繁に挿みこまれる。喋り方や仕草もちょっとぎくしゃくしている。こういった軽い恋愛喜劇のなかで、家族や人生が「ディスカッション」ふうにきまじめに語られたりするのは面はゆいけれど、そういう形の真摯さへの憧れと諦めは多くの人が共有するのではないだろうか。偽善だとののしったり、鼻の先で嘲笑ったりすることなく、でももうそういう関係は喪われているんだ、違う形でしか人の慈しみやつながりは見いだせないんだという、胸かきむしるほどの後悔とあっけらかんとした諦めが同時に生まれるような心持ちのなかに放りだされる気もする。そうしてそれはけして嫌な感情じゃないからやっかいでもある。
  チャン・リュル監督の「キムチを売る女」と「イリ」を偶然続けてみることもできた。映画祭で監督本人のことばを聞いたこともあって、うまく映画のことを語るのがいっそう難かしくなった。出演している役者本人やその仕草に大きなウエイトがあるようにつくられているし、まだ整理されたことばにはできそうにない。自分の何がこんなにも彼の映画に刺激されて反応してしまうのかも、うまくつかめない。
 そうしてやっぱりドキュメンタリーの直接的で素手で何かに触れるような力には、また惹きつけられた。今、誰もがそういうリアリティを怖れつつ憧れているのだろう。中国の今をすくいとる「排骨」、60年代の米国のセクシュアリティを巡る「ハーヴェイ・ミルク」、これも中国の「長江に生きる」などなど。同じドキュメンタリーでも想田和弘監督の「精神」はたしかに宣伝コピーのままに゛衝撃的゛だったけれど、こういった問題を撮ることにどのくらい自覚的なんだろうと、そればかり気になるようなところがあった。どんなことでも考え問い返し続けるほどの力をぼくらは持っているわけがなく、自分ができるわずかなことを誠実に一生かけてやっていくしかない。心を病むというぎりぎりのエッジに立って生き延びようとする人たちを、どういう視線でみる=みないことができるのか、先ずそれから真摯に考え始めることがだいじなのだろう。対象や素材としてでなく、そこを再度自分も、みる人も生きることのできるものにできるかどうか。フィクションであれノンフィクションであれ、表現する人の考え方の反映であり、そういう意味ではドキュメンタリーというのは、「現実」を使ってのフィクションである、ということも再考させられる。原一男監督のこと、彼の一連のドキュメンタリーがいやでも思い返される。
 他には「青べか物語」「春天」「鈍獣」「高田渡的」「グラントリノ」「懺悔」「里山」「ミルク」「あなたのなかのわたし」「小梅姉さん」「ターミネーターⅣ」「空気人形」「キャピタリズム」「Dr.パルナソスの鏡」「アバター」などをみることができた。
 そうやって2009年は終わり、2010年の初映画も2月になってやっとみることができた。なにやらおぼつかない年始めだけれど、こんなふうにまた映画のことを語り始められることを喜ぼう。 
 
続・文さんの映画をみた日②
牛と共にたどり着く場所
 農耕用の牛を最後にみたのはいつだったろうか。近所には農耕馬が多かったから、最後に牛馬を目にしたのは、がらがらと大きな音のする荷馬車に山積みのわら束や農具、それに人を乗せてゆっくりと歩く馬だったかもしれない。中学に入ってからは目にした記憶がないから、60年代初頭あたりが最後だったのだろう。
 祖父が獣医をしていたから(当時はもちろんペットなどでなく、農耕用や家畜としての牛馬や豚が対象だった)、敷地の一角に蹄鉄直しの小屋があった。すり減った蹄鉄を取り外し、爪を削り、新しい蹄鉄をつける作業は子供たちに人気で、ぼくもみんなに混じってよくみていた。丹部さんといういがぐり頭でずんぐりした、いかにも馬と関係あるなあと思わせる人が蹄鉄士だった。酒飲みで、酔っぱらって落ちたドブから這い上がるのに手を貸したこともある。もちろんやせっぽちの小学生が助けになったとは思わないけれど。
 気性の荒い馬はロープに轡(クツワ)を繋がれるだけで前足を高くあげて暴れ、後ろ足の踵で床を蹴り続け、作業にはいるまでにずいぶんと時間がかかっていた。持ち主や丹部さんが時には殴りつけながらドヤしたりしていたこともある。ぎょろりと斜めに見る馬の眼は、なにやら必死なようすで怖かった。
 鞴(ふいご)、真っ赤なコークス、焼けた鉄を金床で打ち、ジュッと水につけて走る湯玉、といった心躍ることについてはまた別の機会に落ちついて書きたい。
 そうやって馬そのものはよく見ていたけれど、実際の農作業を見た記憶ははっきりしなくなる。後ろに人が支える鋤(スキ)をつけて田んぼをまっすぐに進んでいたこと、鋤から黒々とした土がナイフですくい取られるようにシャープな切り口で光りながらぐるり、ぐるりと弧を描いて掻き出されていたこと。ずらり並んだ小さな巴型の刃が回転する攪拌機を引きずって歩くのは、たしか田植え前の水を張った田で、やっぱり後ろから人が支えながら、馬の首から続く細い綱で体側をぴしゃぴしゃ打ちながら進めていた。「どうどう」といったかけ声。そういった光景は、ほんとにどこまでも続くと思えた田んぼのなかにぽつんとあった小学校に通う途中で見ていた気がする。春は文字どおりいちめんの菜の花のなかを歩いて行きながら、幼いなりに小さく感動していた。
 そばでみる機会は多かったけれど、馬はやっぱり大きいいし、張りのある光った筋肉や強い足はもちろん恐くて、さわるどころかすぐ近くに寄るのもおぼつかなかった。突然ジャアと迸ってはねる小便も厄災だ。だから愛馬をなでさすったり、売られる牛に泣いてすがる、といったこともなかったし目にすることもなかった。やけに大きくて荒い毛を梳くブラシがあったのと、焼けた蹄鉄が爪に押しつけられるときの焦げた臭いは今も覚えている。
 そんなふうだったから、牛ということでまっさきに思いだすのは、子供の頃深夜のテレビでやっていた西部劇「ローハイド」、ではなく、ドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」(ニコライ・フィリベール監督)の冒頭に現れる降りしきる雪のなかのごつごつとして頑固な牛の群れだ。映画の全体を象徴するような素朴さ頑迷さ美しさ哀しみ、そして小さなおかしみ。
 「牛の鈴音(すずおと)」(イ・チョンニョル監督)は韓国でドキュメンタリーには珍しく大勢の人がつめかけた映画で、そのことが先ず話題になっていた。農村のドキュメンタリーだから地味で暗く、単館上映でやっと2週間、といったところがふつうだからだろう。 
 韓国も極端な効率化、「近代」化で激変していくなか、美しい田舎風景、牧歌的な農村、懐かしい人々、強い人間関係といったことが郷愁を生み、一方でのヨーロッパからきたばかりのゆっくりした生活や生き方なんて流行もあって、この映画が人を惹きつけたのだろうか。老人、古いことばや習慣、老牛が、一見のんびりと実は必死に生き延びていることへの、離れたところからの感動といったことだろう。機械を使わない農作業、田植え、稲刈り、草刈り、農薬を使わない昔のままの作物作りも共感を呼ぶのか。典型的な頑固爺さん、でも根は気弱、しっかりもので強いオモニ、でも根は優しい、そんな類型化に安心して身をゆだねられるからだろう。映像も奥行きのないように手前(表面)の構図ががっちりとつくられて、絵はがきのように美しい。夕陽のなかを帰る牛車老人という定番も挿まれる。ちょっとあくどくみえる壮年の牛飼い、理解のない子供たち、暴れてなかなか馴染まない新しい牛といった適度な負の要素も加えてある。画面がつなぎ合わされ擬人化され、人と牛が、牛と牛が、生きものと自然が目配せしたりいがみあったりするようにみえる。懐かしく美しくちょっと悲しくでもほほえましい、そんなふうにまとまっている。
 荒れた手、しわだらけの顔、最後の最後に涙のにじむしょぼしょぼした目。よろけながらも必死に坂を上り降りし、進みかねて何度も足をあがかせる老牛、でも牛車を降りない老人。声を荒げ鞭打つことと、牛の餌になるから草にも農薬は使わないと言い張って、よろけながら毎日大量の草を刈り取って与えるやさしさが同居する。働くこと、生き延びること、子供たちを育てることは、ペットの犬に服を着せ靴をはかせて撫でまわすこととはちがう。共同体のなかで一人前にやっていくこと、なめられずに家畜を扱うこと、それはそのまま仕事に収穫に反映するのだろう。
 老牛はついに暗い牛小屋のなかで倒れ、苦しさにもがいて壁を突き破り、頭だけ外に出し横たわって最後を迎える。太りじしの意地悪な嫁、といったふうだった新しい牛が不安げにそわそわと周りをうろついている。埋められ盛られた土のそばの老人。「悲痛」な表情や仕草はなく、なんだか気が抜けてしまって呆としている。
 思わせぶりなナレーションはないし、誠実に時間をかけてつくられ対象への思い入れが溢れるのだけれど、風景のさりげなさあたりまえさ、生きることの汚さ難しさが背景に見えてこないから、前面には了解済みのことば化された光景だけが並んでいってしまう。そのほんのわずかな皮膜の下の苦さと輝き、胸震えるほどの畏れややさしさは浮かび上がってこない。みているぼくらは小さく傷つくこともなく、感傷的になり、現代社会を批判し、そうしてドアを押して「現実」に戻っていく。映画も映像も消費尽くされているからどこかでふいに鈴音が響くことはない。それはちょっとさびしい。
 
<続>文さんの映画をみた日③
記録されるものの向こうへ(1)
 どんなものでもドキュメンタリーはやっぱりすごいなあといつも思うけれど、それは漫然と撮られたものにもなにかしら「事実」のもつリアリティがにじみ出てくるからだろうか。そこに人の無防備な表情やしぐさをみる喜びもあるのだとしたら、どこか覗き見るといった視線がないとは言えない。
 ありふれてでも深い胸をうつ表情や動きを最初にスクリーンの上で感じとったのは柳町光男監督の「ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR」をみた時だった。たぶん肩に乗せたカメラで撮っているんだろうけれど、時間をかけて対象とつきあいながら、訪れた家の居間や台所で撮られた映像や音声。馴染んでしまって、誰もカメラを気にしなくなっているのだろう、暴走族の若者やその家族、特にお母さんの表情やことばがあまりにもふつうで辛辣でびっくりしてしまった。典型的な表情を「描きだす」ために、例えば感極まって潤む瞳へカメラがぐぐっと寄っていく、といったことでなく、生活のなか、人が生きるなかで生まれ続けるものをその場であたりまえのこととしてすくい取っていく、そんなふうだった。それは柳町監督が台湾で撮ったドキュメンタリー「旅するパオジャンフー」にもっと激しい形で現れていて、登場する人たちひとりひとりが今も忘れがたい。同じような思いは王兵監督の「鉄西区」とそのなかの人々にもある。
 ドキュメンタリーは、以前は「記録映画」と呼ばれていたように、子供の頃は学校でみる自然科学的だったり社会勉強的だったりする記録映像がほとんどだった。新しい工場、開発された機械、様々な施設や団体とその活動、探検や珍しい自然動物、そういった、ふだんの生活のなかでは眼にすることのできないものを学ぶための教育や啓蒙の手段として使われていた。だから癌の手術の映像が子供会で上映されたり、「秘境の部族の奇妙な風習」といった、どこかしら猟奇的な雰囲気もするものをみせられたりすることも少なくなかった。「世界残酷物語」をだすまでもなく、人はそういったものを目を背けつつ凝視してしまう。好奇心や過剰なものへの興味は誰にも押さえがたいのだろうか。
 60年代半ばからは、ニュースやその延長としての時事解説などでなく、社会問題などを「中立の報道」でない、自分たちの視点から描いていくことが始まる。大学闘争、三里塚に代表される農民闘争、そうして水俣病などの公害闘争などとして、映像が記録し告知するものとしてでなく、それ自体が表現であり、社会的な立場や闘う主体としての力を持ち始めたということだった。だからそこでは、客観的立場で冷静に外側からみていくといったことでなく(そもそも客観的な視点なんてないんだ、外からというのは撮る側の視点を持たないことだとして)自身の視点、世界観をはっきりと持ったうえで対象を捉え描いていく、つまりフィルム上に映像それ自身の力で生きさせることで、撮る側も撮られ側も、みる者も、映像をくぐって再度生きることのできるものがめざされた。
 切迫した時代だったこともあって、すぐに主体の主張を全面に押しだした、「正義」の視点の、政治的にも過剰なものになっていく。しかしそれがかつてのプロパガンダに堕ちていかなかったのは、走りながら考え創っていかざるを得なかったら、「高み」に立つゆとりすらなかったこと、それ以上に<当事者性>を基本に据え、世界の、自他の硬直した関係を問い直そうとする希求があったからだろう。みる-みられる関係すらまったく新しく作り直そうとする勇気。「圧殺の森」とか「死者よ来たりて我が退路を断て」といった直截なタイトルもあった。
 「三里塚 第2砦の人々」「三里塚 辺田部落」など三里塚を撮り続けた小川伸介はその軌跡を愚直なまでにまっすぐにたどり、そうして農村そのもの、農村に生きる人そのものへの好奇心を肥大させながら山形に移り住んでの映像表現へと走っていく(「日本古屋敷村」など)。そうして同じような方法論をとりつつ、共同体そのものよりもさらにその内の人そのもの、その奥に積み重なった時間へと向かい、でもなにかしらの距離を保ちながら共に生活し、映像としてはけしてクローズアップしない控えめさで、佐藤真の傑作「阿賀に生きる」が誕生する。この日本のドキュメンタリー映像の最高の作品を今もみることができる喜びと、でもほんの数本の作品を残して果てた監督への哀悼の念や無念さが起こってくる(「Self & Others」「花子」「エドワード・サイード」など)。
 その時代のなかで最も中心的となるテーマに沿ったドキュメンタリーもつくられ、原一男監督の「さよならCP」や「極私的エロス-恋歌1974」は衝撃的だった。でもその激しさは、みつめ続けてしまい、対象から目を背けないというのではない、対象が何かやるまでカメラをまわすといったような、どこか消極的な無言の挑発にも似たものだった。最近のインタビューの常道である、クールに突き放して動揺させたり、居丈高なことばや態度で怒らせて撮るほどひどくはないし、その後多く語られたほど、相手に行為(演技)を強要するものではなかったけれど、どこかしら不健康に思えた。煽ったり挑発したりというよりも、カメラを止められない、その場を去れないといったある種の優柔不断さや弱さの表れだったのかもしれない。いずれにしろ撮られてフィルムに定着された映像は世界に向けて剥きだしで投げつけられて予想できない反応を引き起こす。それが後の「ゆきゆきて、神軍」の酷たらしいまでの映像へとつながっていったのだろう。
 人は誰もカメラの前で威圧され気後れし萎縮させられるか、異様に高揚してハイな状態になってしまうかで、常態を保てるのはよほどの人だけだ。そこにある高慢と卑屈、おもねりや優越、屈折は、でも描く側が思う以上に映像として現れてきて、その背景や関係をあぶりだしてしまう。
 そうしてフェミニズムセクシュアリティの問題が「政治」としてでなく浮上してくる。いまや近代の一制度として喪われていく「家族」の問題も多く撮られるようになる。そのなかで、社会問題としてでない、個や世界、そのつながりを考えるものとして差別を丁寧にでも新しい視点でみていこうとする映像も撮られ始め、「大阪物語(ストーリー)」のような真摯な作品も生まれ始める。(続く)
 
続・文さんの映画をみた日④
ゾンビはくりかえし甦り
 米国ではまたぞろ終末論的な映画というか、近未来の大惨事(おおかたは致命的な戦争)後の、荒涼たる地の果てでのおぞましい物語が流行っている。こういった終末観はキリスト教圏では繰り返し現れるものだろうけれど、米国では自国の初めてともいえる、孤立を伴うゆきづまり感がひろがっている。今までにない体験だからなんのことだかわからずに不安や怯えが昂進し、でも結局いつものように独善的でかつひどく単純化されたお話が繰り返されることになる。そうしてますます疲弊も荒廃も進行する、取り返しのつかないまでに。
 「ザ・ウォーカー」という世界戦争後を舞台とした映画をみたけれど、直裁に「西部劇」を模しつつというもので、全体の流れは、神がかった男が何故か知らないけれど引き寄せられるように西を目指すかたちになっている。彼は世界に唯一残ったある本を持っていて、それを運ぶ、届けるのを使命と信じている。こうやって<西>はいつも永遠のどこか、ここより他の救いの地としていつまでも何かを慰撫する郷愁としてあり続けるのだろうか。
 西部開拓史は文字通りの殺戮史であって、先住民を根絶やしにしながら、動物も、樹木もあらゆるものをなぎ倒し根こそぎにしながらの西進であり、それがこの国の根幹に、つまり深層の無意識のなかにけして癒えることのない深く巨大な傷口となって残っている。それをけして認めず、かつての、今の、自分たちの正義を振りかざすとき、人は集団としても精神に異常をきたすしかないのだろう。とうぜんにも起こってくる罪の意識や懺悔を塗り固め封印し消し去ることで、認めて引き受けることによる贖罪とそこからの解放の道も完全に閉ざされるしかない。そういう幼児的な愚かしさ、彼らのいう強さを選んだ以上、不安や恐怖からのヒステリックな攻撃性は永遠についてまわる。
 今も繰り返される他国への侵攻、殺戮行為がきりなく続き、さらにそれを常に正義だと思いこみたい、けして批判を認めない心性が全てを補完し続けてしまう。ヴェトナムではさんざんの酷たらしい攻撃の後、「負けた」ことすら国として(共同体として)引き受けようとはしない。隠蔽につぐ隠蔽、虚飾の上塗りの繰り返し、無意識はますます厚い壁に閉じこめられていき、ときおり個や小さな集団の暴力的で異様な狂気として噴出する。
 国家として疲弊し、溢れる資源の枯渇が見え始めた今、強迫観念に浸された極端な行動が繰り返され、それはますますひどくなるのだろう。そういう国や集団が、今の世界のゲームの規則をつくってしまい、全ての人を引きずりながら滑り落ちていっている。無意識のなかに押しとどめ、けしてことば(意識)にすることなく、でも深層では不安にびっしりと取り囲まれ、恐怖で絶叫し続け、それを憎悪へ転化して、暴力行為を続けているのが、彼の国だろう。わたしたちも一蓮托生、引きずられていつか最後の巨大な滝を落ちるしかない。未来なんて、ない、ついそう断言してしまいそうになる、彼らがチープな映画のなかで何度も語るように。
 米国映画のなかでゾンビは復活し続ける。今までどうしてあんな映画が繰り返されるのか不思議な気もしていたけれど、こんなふうに「西部劇」の郷愁とセットで語られるとよくわかる。先住民の徹底した殲滅、「開拓者」どうしの血みどろの闘い、その記憶、それは底知れぬ恐怖でありそれから反転しての暴力、攻撃、そうしてそこで生まれてしまった歪んだ快楽もあるのだろうか。破壊すること、殺すことへの何重にも屈折した底知れぬ後悔と恍惚。しかもそうやってマサカリ(虐殺)の上に築かれた今の繁栄は、ごく一部の虚栄でしかなく大半はかろうじて「中流生活」を保つことに汲々とし、またはそこから転落した「悲惨な」と自身で思いこむ貧しい生活のなかに放りだされている。だからその屈折が単純だけれどすごく大きいのはわかりやすい。
 もう一つの伏流としてのテーマとして、「カニバリズム(人肉食)」もある。これもキリスト教圏では繰り返される罪のテーマだ。こんなふうにいうと身も蓋もないけれど、食べることも食べないこともその時代や社会の共同体の掟以上でも以下でもない。脳死判定にみられるように、臓器利用(摘出)のための新たな合意が、法的にも、つまり公的な掟としても次々にかわっていくように。より生きのいい臓器を使うには、身体(心臓)が動いている(生きている)死、を仮構するしかない。70年代初期の近未来映画「ソイレント・グリーン」では「食べる」ことは死とセットで高度にシステム化されたものとして描かれていた。食べる、食べないがへいぜんと語られるときは、そのことに関しての論理や倫理が揺れている、堅固なものでなくなっているからで、安定した社会ではこんな文字どおり生死を分かつ重大なことが揺らぐことはけしてありえないだろう。いずれにしろ、本能が壊れたといわれても、種の保存が最優先課題としてあるのは微動だにしない要件だろうから、そこから意識下も含めて全ての決定はなされていくのだろう。
 現行の映画ではもちろん「食べない」派が正義であり、唯一の正常さの証であり、そこから徹底した露骨な差別、排除、殺戮も生まれる(でもどうしてこうも単直な二元論、正負論として問題がたてられるのだろう、いくら単直な正しい答をだすためだとはいえ)。手が震える奴、光る奴、黄色い奴等々は食べてる奴だ、殺せ!になる。やられる前にやれ、食われる前に食え!ということだろうか。もちろんゾンビは「人肉食」派だ。君はヴェジタリアン?
 
続・文さんの映画をみた日⑤
死にぬく力
 ことのほか暑い夏だった。
 父が6月に逝ってしまい、8月に下宿されていた中村さんが亡くなられた。
 家はがらんどう、ゴーゴーと風が吹き抜け、心はボウボウの曠野、深淵がのぞいている。
 それでも飯を食い誘われれば酒も飲み、そうして映画もみる。
 まことに人は救われがたい、ではなく、だから人に救いはある、ということだろうか。
 そんなふうに世界は、映画は、人を魅惑する、誑しこむ。
 そう?
 そうだろうか。
 病室のなかで唯一動いている計器にばかりつい目がいってしまい、規則的に繰り返される心臓のグラフ、数値化された血圧や酸素飽和度に意識がとられてしまう。だから個室に移って5日目、ベッドに横たわっている人が荒い音の呼吸を止めてグラフが乱れたときはとても異様に感じられて、反射的にナースコールを押してしまう。すぐにとんできて「そんなことでよばないで下さい」なんて言わず、丁寧に対応しつつも強く肩が揺すられて呼吸が回復する。そんなことを見ていたからだろうか、次の時は頬を叩いたり腕を揺すった後、ガクンガクンと音がするほど強く肩を揺する。「息をして、息をして」と、息することを忘れてるよ、ときつく注意するように。呼吸は再開される。でも。
 昇圧剤はまだ半分以上残っていて血圧もかろうじて80前後にある、酸素飽和度もしっかり93を越し、心拍は120。でも中村さんはまた呼吸をしなくなった。口を開いたまま続いていた荒い息が不意に止まる、2秒、3秒、10秒、「中村さん、中村さん息をして、息を」、耳元で怒鳴り、それでも駄目なときは肩を掴んで強く揺する、周りの誰も手助けしてくれない。呼吸が再開される。ほっとしつつも動揺はます。どうすればいいのか、なにをしたらいいのか。
 頭をなで、腕をさすり、頬を軽く叩き続ける。連絡の取れない担当でなく若い医師がよばれてきてそばに立ち、身構えている。これ以上無理に息をさせて苦しさを長引かせない方がいいと思いつつ、それは見殺しにすることじゃないかと拒んで、でももう声を荒げても身体を揺すっても呼吸が再開することはなかった。TVドラマのように看護婦がやさしく腕を押さえて止めさせるというようなこともなく、ただ受けいれるしかない。
 病室の壁にかかった時計をちらりと見て医師が時間を告げる。「計測器のグラフでは心音のパターンがあるようにみえますがこれは身体のなかに残るある種の電気的な反応で、心臓は動いていません」。若い医師は緊張し声も少しうわずっている。
 嗚咽しながら、お世話になりましたとだけ言おうとして「ありがとうございました」ということばになってしまう。誰にたいして、誰が言ったのだろう。
 「ハリーとトント」の映画評を新聞に載せたとき、「せめてハリーには穏やかな死を、と思わずにはいられない」と書いたけれど、でも自分が直面してしまうと死を思いたくないし、遠ざけたいから、死を考えなくなってしまう。人工呼吸器は使わない、極端な延命策や心臓マッサージはしないでほしいと冷静に頼んで記録してもらっても、いざというときには肩を揺すり、頬を打って「息をして、息を」を叫んでしまう。無理に身体にだけ息させる、そういうことが何を意味するのか考えられない、意識もなく荒い呼吸で最後の力を振り絞っている人の苦しみを引き延ばしていることも思いつけない。でも誰も手をかさないことが、病室のシンと張りつめた静かさがそっとなにかを押しとどめる。
 こんなんにも力をふりしぼらなければ人は死ねないという不可解なまでの逆説。生きぬくということばを人は時にヒロイックにも使うけれど、死ぬために生きぬく、というか、死ぬために死にぬくのにはほんとにすごい力がいる。生きることで力を使い果たしたら人はどうやって死ねるのだろう。
 ティム・バートン監督の映画「ビッグ・フィッシュ」ではベッドの上でのわざとらしいしぐさや死の間際の劇的な覚醒やことば、達観したような表情もなく、見まもる息子とつくりあげたファンタジーのなかで静かに息を引きとる。鼻へ酸素を送る細いチューブがいつも頬に食い込んでいるのは映像的な解説なんだろうか、それとも米国ではあいかわらずの効率性から、ずれないようにきつく止めるのだろうか、なんだか嘘くさいなあと思ったことも遠ざかる。
 この映画のなかで、服を着たままバスタブに沈んでいるアルバート・フィーニーがすっと浮き上がってきて、見つめていたジェシカ・ラングがやっぱり服のままバスタブに入って、静かにフィーニーを抱きしめる場面ははっとするほど美しく、20世紀の名ラブシーンのひとつだと思ったことも、小さな気泡になって部屋のなかに消えていく。
 水をくぐって、人はどこへ行くのだろう。「アンダーグラウンド」での水をくぐってシテール島(桃源郷)へと渡っていくシーンは美しかったし、「亀も空を飛ぶ」の池に捨てられた子供が水のなかで沈みながら動く姿は、悲痛きわまりないけれど、でもやっぱり異様な力に満ちていて美しかった。
 中村さんは死という水をくぐってどこへ行ったのだろう。無、ではない気がする。あれほどのエネルギーがぽんとゼロになることはないだろう、きっと。神秘主義的にではなくそう思う。生はもっと曖昧でかつ自由というかいいかげんなはずだ。厳格なまでに確固としているようにみえる個体の心身の区切りは、そう思いこんでいるこの時代での区切りでしかない。
 天国とか甘くあたたかい夢の王国といったことでなく、そういったこの世界の貧しい想像力の延長にあるディズニーランドでなく、ことばでいうとお決まりになってしまうけれど、なにもなくてでも全てがある、そういう世界というか存り方。もちろんそういう言い方そのものが現在というか現感覚的だけれど、そういったふうにしかいえない存りようみたいなことだろう。
 <神様>わたくしにも穏やかな死を。
 
続・文さんの映画をみた日⑥
笠智衆の林檎
 荒れ果てた菜園の一部を整えて空豆を植えた。中村さんが夏豆という名を教えてくれた野菜。11月第3週の終わりまでにすませることができたし、花田種物店のいい種だから来年の6月にはおいしい大きな豆をどっさり届けてくれるだろう、きっと。土を起こして石灰も蒔いたし、下肥もほどこした。前後にたっぷりの水を撒き、祈りも捧げた。
 翌日には祝福するように柔らかい雨が降った。
 薄曇りの空の下、海も鈍い色に光っている。いつものように鴎が波よけのコンクリートの上に並んでじっとしている。車が走っても、水産高校の生徒たちが怒鳴りあっても、知らん顔だ。
 夕暮れにはまだ少し水色の残った空の端がうすあかく染まり、いくつかの光の筋が金色に射すだろう。海岸のどこかでは散歩中の初老の夫婦がうっとりと水平線をみているだろう、きっと。冷たくなった風に襟を立て、ちょっとふたりで顔を見あわせてまた視線を戻すのだろうか。夫は夕飯のおでんに熱燗がつくといいなあ、お母さんもちょっとのむといいのになあと、そんなことを思っているかもしれない。わかってるわよそんなこと、武さん、と奥さんは胸のうちで夫を名前で呼びながら、単純でかわいいわと思ったりしている。もう゛お母さん゛は止めてとも思いながら・・・・・。
 そんなたわいもないことをわたくしが思ってしまうのは、そういう生活やあり方に憧れていたからだろうかと、ふと内省的になったりもする。なんでもつい深読みしたり分析したりするのはわたくしたちと時代の悪い癖だ。この社会に生きるなかで育まれた想像力がそういうあり方をなにかの典型として引き寄せているだけのことだ。でもなかなかにあたたかみのある空想だ、おでんとぬくまった布団と。少し酔って、甘えてくれたらいいなあ、俺も甘えられるし・・・・・といったことだろう。
 そうだろうか。
 きっとそうだ。
 埒もなくそんなことを思っていたら、いつのまにか空は群青に塗り込められ、微かな水平線の輝きは、とうとう桃色にも染まらずに消えるところだ。夕焼けもなく、一番星もなかった。
 風が庭を抜け、黄色い菊の群を揺すっていく。一枝折って、夕食前の彼らに届けよう。先週買った純米酒を抱えていこう。おでんとあたたかみのお相伴にあずかって、ふたりの気持ちをちょっとかき乱してあげて、そうして早めに戻ってこよう。珈琲は自分で淹れよう。ひとりのむ珈琲はさみしいだろうか、笠智衆の林檎のように。いいやそんなことはない、あたたかさもやさしさの移り香もまだ残っているし、なんというか、かすかな愛や性の残照もわたくしをほの朱くしている。世界は美しい、人はやさしい、きっとそう思えるだろう。
 明日はまた早起きして海岸を散歩して、打ち寄せられた烏賊や若布を拾って夕食のご馳走にしよう。残ったら保存しておいて、時には彼らを(誰のことやら)招いてもいい。たぶんボルドーのワインがくるだろうから、メインはあれで、サラダはこれで、デザートは・・・・・あれもこれも、思うことは楽しくそしてせつない。
 おだやかな喜びはどこかで哀しみに通底していく、わたくしたちのあり方、つまり世界のあり方そのものが哀しいからだ。暴力や快楽は苦しく痛く濃密だけれど、どこかあっけらかんとしていて限定的であり深みにかけるから哀しくはない。
 そうだろうか。
 
続・文さんの映画をみた日⑦
松の内も映画も終わった
 さあ、松の内も過ぎた、粥も食べたし、注連飾りも下ろした、節分の豆も蒔いたし、菱餅も食べた、そろそろ雛人形も下ろさなくては、はちょっと早すぎるかもしれない。でもいつのまにか世界も終わったようだし、去年みた映画のことも忘れないうちに書いておかなくては。
 昨年は40本ほどの映画をみた。我が家で、他所でたいせつな人がたてつづけに亡くなってたいへんな年だったけれど、思ったよりたくさんみていたのは「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」や、偶然東京で遭遇したユーロスペースの「山形国際ドキュメンタリー映画祭特集」などでまとめてみたからだろう。家族同様にしていて最後は我が家にいっしょに住んでいた中村さんは、3月の最初の入院から半年もたたずに逝ってしまった。介護の迷惑をかけたくないとそんなふうにどこかで感じていたのかもしれない、と思ったりするとまた涙がでる。
  福岡市にはアジア映画祭がふたつもあるし、図書館がアジア映画中心のアーカイブを持っていて、頻繁に上映もやっている。そういう恵まれた所にいるからアジアの映画を数多くみることができる。
 今年のアジアフォーカス福岡国際映画祭でのチャン・リュル監督「豆満江」はやっぱりいつものように激しくて哀切だったけれど、今までの「キムチを売る女」や「イリ」よりは穏やかになっている。今回も監督本人が舞台挨拶にみえたけれど、そのどこか益荒男感傷派とでもいったことばや雰囲気はいつもとかわらず、なんだかうれしいような残念なような気持ちにさせられる。トルコのベリン・エスメル監督の「11時10分前(10to11)」は主演の男性が生みだすリアリティに圧倒されるけれど、職業俳優でないゆえの力や雰囲気がそのまま現れてきていてすばらしかったけれど、彼が監督の叔父さんにあたる人だときかされて、だからあんなにも自由にできるのかと納得させられた。そういうことも映画の上映後の解説や質疑応答のなかででてき、感じられることで、そういうことがあるのも楽しい。フィリピンのメンドーサ監督の「ばあさん」が描く雨期に水没した街の街路を交通手段としての舟がゆく映像には驚かされる。異様でそして美しい、なにもかも終わった後のような光景。そういった作品をみ、観客賞を受けた台湾の「お父ちゃんの初七日」などもみたけれど、なんだか淡い印象しか残ってない。それはみる側、つまりわたくしの問題であるらしく、山形映画祭にもうまくコミットできなかったようだった。
映画祭はあるテーマに沿ったたくさんの映画がまとめて上映されるし監督などの関係者も来て通常では考えられないほどの情報を得られたりするし、感激も大きい。でも経済的にも心身的にも全部みるなんてことはほぼ不可能だし、難しい。1日に60分以上の映像を5本以上みることができる人はそうそういない。わたくしも体調のいいときで間をあけつつ3本がいいとこだろう。短いのが混じったり、かなり無理しても4、5本。
 山形映画祭特集は山形で開催されているドキュメンタリー映画祭を、特別にまとめてユーロスペースで上映したものだから、中心になる2009年の作品だけでなく過去の作品も上映されてうれしい企画だった。「ぼくの好きな先生」のフリューベック監督の「音のない世界」、も過去に上映された作品としプログラムに入っている。
 
続・文さんの映画をみた日⑫
王兵監督「無言歌」 - 声のない叫び
 王兵監督の「無言歌」をみてきました。彼の作品は、それぞれのシーンのなかではあたたかな安堵に包まれつつ、全体では緊張して居住まいを正させられる、そういった気持ちにさせられます。でもそれはテーマの厳しさに竦ませられてといった威圧的なことでは全くありません。つらく無惨な、おそらく解決不可能な人の犯す罪を暴きながらけして映像も映画自身も居丈高でもなく懺悔を強いるものでもありません。だからいっそう深々と、遠くまで届いていきます。小さなでもしっかりとした声が濃い闇を抜け争いの喧噪をくぐってかすかにでもはっきりと届くかのようです。
 この「無言歌」でも、あまりにもつらいことがみごとな映像で真摯に描かれていて、ただただ呆然とさせられてしまいます。王兵監督の初めての非ドキュメンタリー映画です。劇映画とかフィクションというと少しちがってしまう気がして、非ドキュメンタリーといったへんなことばになってしまいます。直裁に「映画」といえばいちばんいいのでしょう。
 あの「鉄西区」の自由さ、例えば浴槽のなかにまで踏み込んでいくような、めまぐるしいまでの自在さと異なり、カメラを固定し静かにじっと撮っていきます。ですからみているわたくしたちもこちら側の一点から対象を凝視することになります。存在感溢れる人たちの顔や手、纏った襤褸、剥きだしの砂岩の上に敷かれた砂まみれの布団がこわいほどリアルに迫ってきます。臭いや淀みきった空気も感じられるほどですが、でも息苦しさはなく、荒涼とした広さや虚ろさが浮きあがってきます。
 わずかな台詞、変化のない表情、決まりきった動き、それらの積み重なりのなかから時代の悲惨が吐きだされてきます。誰も生まれる場所も時代も選べない、ということの哀しみが全部を覆っていきます。戦争はどうしようもなく酷たらしく悲惨です。しかしそこには圧倒的な暴力と剥きだしの死がひしめいていて、妙な言い方ですが速度と彩りがあります。この「無言歌」で描かれる中国の1950年代後半の反「右派」闘争とよばれた政治闘争と強制労働キャンプには、止まったままの時間とその底のどろりと淀んだ暗がりがあるばかりです。
 反体制派として「右派」と断罪され、蔑まれて最果てのキャンプに追放された人々は、荒れて乾いた北の地で寒さに震えながら石に爪を立てるように開墾をしています。地下に掘られた剥きだしの宿舎。国全体の飢饉が重なり食料は途絶え、次々に死んでいきます。飢えの苦しみからの様々な悲惨な逸話が描かれ、死体の衣服を引きはがして売ることから人肉食までもが語られます。上海から何日もかけて医者だった夫に会いに来た妻が、衣類もはぎ取られ野ざらしにされた死体と向きあう無惨なシーンもあります。
 こういった全ては、でも、中国という限定や、ある特別な時代ということからはみ出し続け、わたくしたち自身の上にも覆い被さってきます。生理的な痛みさえ生まれ、悲しみが胸をふたぎ、痺れたように無感動な状態に放り込まれます。世界の不平等も社会の不穏もいつの時代にもどこにもありふれてあったのであり、そういう恐怖や暴力の圧倒は今も酷たらしいほどに人を襲い続けています、この平板に思える日常のなかでも。
 そうして結局人は呆気なく死んでいきます。こづきまわされ、尊厳のかけらすら喪って縮みあがって死ぬのも、最後の力をふりしぼって<どこか>へ向かって走りだして死ぬのも、でも死にちがいがあるのだろうかと、つい自分に問いかけてしまいます。死として具現されることになにかのちがいがあるのだろうかと思わせられてしまいます。
 家族に手をとられ清潔な夜具の上でこときれるのと、酷寒の曠野で汚穢の泥濘のなかに溺れ死ぬのと、のたれ死に吹き曝され狼に食いちぎられて果てるのと、どうちがうのだろうか。痛みや恐怖や絶望、さらにそれらへの予感の怯えを思おうと息もできなくなるほどで背筋も凍りますが、でもそのほんのわずか先では感覚さえ消えたただの空白が広がっているばかりでなないのでしょうか。
 歴史の残酷な滑稽さとでもいうように、不意に終止符が打たれます。始まりと同じような当局の場当たり的な一時しのぎです。収容者のあまりの死亡率の高さに、健康なもの、つまり死なずに家まで帰れるものは、帰還させられることになります。食料を「自給させよう」ということでしょうか。離婚させられた者や家族からも放棄された者はどこへ向かったのでしょう。
 右派として、罪人としてキャンプに送られ、そこで班長のようなことをしていた男に、隊長が「ここにとどまって次期も手伝わないか」ともちかけます。「故郷に帰ってもお前はいつまでも「右派」なんだ。今は釈放されてもこの先どうなるか誰もわからない」と。
 最後、男はみんなの去ったガランとした地下壕のなかでひとり汚れた布団にくるまって横たわります。誰も、20世紀中葉という時代からも、中国からも、さらには人であることからも逃れることはできません。死という最後通牒だけがあるだけです。
 叫びだしたくなるような怒りや哀しみから、涙も溢れてしまいますが、それがある種のカタルシスとしてなにかを昇華し、浄化し、ささやかな安逸をもたらすことはありません。流れた涙の分だけ、もう一段暗い方へ傾きます。もちろん勁い作品ですからそれと気づかないうちに、なにかの力も渡されていて、どこかに毅然としたものも生まれはします。でもそれは希望とか前へと向かう力とかではありません、そういった現世的な効能は生みません。人は誕生させられ、そして死なされるということを四の五の言わずに棒で殴るように納得させられるのです。凍った映像がみごとなだけにそれはいっそうつらいほど腑に落ちます。
 美しい映画です。
 
続・文さんの映画をみた日⑭
タヒミック再び:映画祭のフィリピンとタイ
 キドラット・タヒミックの名は福岡の人には特別なものがあるかもしれない。90年代にはアジア展やミュージアムシティ天神などで何度も来福し美術展やパフォーマンスを展開していた。人なつっこく、不思議な暗い深さもあって、人を惹きつけて止まなかった。1942年の生まれだからもう70だ。
 今年、福岡市がだしているアジア賞を受賞したのでその記念に来福し、彼のもう一方の表現である映画の上映と講演も行われた。6時間に及ぶ上映、講演、パフォーマンスに魅了された人も多かっただろう。会場のエルガーラはいっぱいだった。最後は彼らしく家族や演奏家全員を舞台によんで踊って、喝采のあたたかい拍手を浴びていた。
 そこでは最初期の「悪夢の香り」(1977年)、「虹のアルバム 僕は怒れる黄色'94」(94年)、それに制作中の「マゼラン」が上映された。制作中といっても、創りつつ上映しつつ絶えず変更していくのも彼のスタイルだから、完成ということはないのかもしれないけれど。
 同時期に開催されていたアジアフォーカス福岡映画祭でも「月でヨーヨー」(81年)と「トゥルンバ祭り」(83年)が特別無料上映された。「トゥルンバ祭り」は彼としては珍しく整ったまとまりのある作品で人気も高い。破天荒なまでの自由さや強さがないという声もあるけれど、わたくしはいちばん好きな映画だ。
 あまやかなほどのせつなさ、息苦しいほどのいとしさ、森や村の暗さ深さ。それは喪われていくものへの、無垢の子ども時代への、無償の愛や慈しみへの、そうして映像のなかの共同体が壊れていくことへの哀しみであり、「近代」に陵辱され続けたアジアへの哀しみでもある。いったいどれだけのたいせつなものがむざむざと破壊され喪われたのだろう。
 家族を父を愛し、隣人を愛し、村を愛し、祭りにも興じる男の子が、時代の大きなうねりに巻き込まれ、それを拒みつつもでも受けいれざるを得ないなかで、何重にも屈折し、世界からはね返され、でもどこかで世界を生を愛し信頼し続けていく。そんなふうにもいえる。
 フィリピンの村。スペインや米国からの大きすぎる影響のなかでもかろうじて保たれていたつながりは寸断され、都市が、世界が一気になだれ込んできて、村落の親密な共同性はたちまち崩壊していく。頑固で保守的な父に反抗し都市へと出ていく息子、という形でなく、父の近代的な市場経済への没入と成功を嫌悪し、どうにか続いている村の祭りや関係をみんなと共になんとか維持していきたいと願っている息子というあり方。近代化の脅威、「文明」との対立や憎悪、親族・地域共同体の崩壊といった図式的なまでの構図の上に、ドキュメントとしての村の祭りが丁寧に描かれて映画は始まる。混乱しつつもどこかにまだ根を残している息子や家族の生活の活き活きとしたありかたが、映画としてのリアリティも底支えする。
 強権的な父と優しい叔父という、世界共通の神話のヴァリエーションが、ここでも形を変えながら展開し、普遍性を与えていく。それがタヒミック作品にしてはこじんまりとまとまってみえるこの映画に強さと深さを与えているのだろう。すごくシンプルでそうしてどこまでも限りがないような物語になっている。
 祖母を中心にして手作りで行われていた小さな張り子人形作りが、外部(西洋)からの注文で一気に拡大し、市場経済、世界事情に巻き込まれ何もかもが急速にかわっていく。購入されるテレビや扇風機に嫌悪を示し、息子が商売にのめり込んでいくのを、なによりつくる人形が乱雑になっていくことを嘆き怒る祖母とそれに寄り添う主人公の少年。その少年にやさしく寄り添う、父と同世代のおじさん。彼は今も手作業で鉈をつくる鍛冶屋さんだ。戦争で放棄さたトラックの部品を材料に使い、拾ってきた看板も利用している。少年は時間さえあれば彼の所に行っては手伝っている。
 でも確実に全ては動いていき、流れていき、よどみのなかに残されたものはそこにじっと沈んだまま少しずつくすんでいくしかないかにみえる。
 アジアの、世界のどこにでもあった避けがたかったできごと。でもほんとに避けられないことだったのだろうか。今もどこかに、近代の喧噪から離れて静かな生活を送っている共同体はないのだろうか。おそらく空間的にでなく時間的にだろうけれど、自身の生き方として巻き込まれない、というあり方を集団で維持していくというようなことはあるのかもしれない。
 映画は生活の具体をとおして語られる。子供のどうやっていいのかわからない混乱と怒り、祖母の何もかもが喪われていくことへの不安や哀しみ小さな爆発があり、でも結局全ては黙って過ぎていくしかないと諭すかのように続けられていく。尊敬し自慢していた父の変貌に少年は動揺し、かわらずに森や村とつながっているおじさんの生き方に寄り添いつつも、どこかでそれにも限界でもあると感じてしまうことも描かれていく。
 タヒミックの他の映画にも通じるユーモアが溢れ、諧謔も重ねられるけれど、みているわたくしたちに満ちてくるのは悲哀であり、でもそれはパセティクな否定には傾かない。「ブンミおじさんの森」のようにどろりと暗い底なしの深みや怖さは生まれない。彼らがつくる新聞紙の張り子の人形の軽さにどこかでつながっているかのようだ。深刻には語らないし語れないけれど、でも、だから、まだ親から離れられない従うしかない子どものもつ苦しみや哀しみがそのまま丸ごとさしだされてもいる。それは誰もの胸をうつ。

 アジアフォーカス福岡国際映画祭は少し装いを変えたようで、カタログもこじんまりとした判形になった。トルコの「未来へつづく声」(オズジャン・アルペル監督 2011年)は深刻な内容を小さな声で語っていく。タルコフスキーを思わせる映像で描かれる風景や教会はどこも静かな抒情に満たされていた。
 タイのウイチャノン・ソムウムジャーン監督の「4月の終わりに霧雨が降る」( 2012年)は、そういうことばを使って言うとすれば、インディーズ、独立系の映画。なぜこういうことをいうかというとそういったことが映画の成りたちにも関わっているし、映画のなかでも語られるから。
 バンコクで暮らす若者が失業し故郷に帰って家族や友人に会うという流れの映画で、所々に監督が自分の家族をインタビューした映像が挿まれる。その構造はわかりやすそうでそうでもない。実験映画的な難解複雑さではないけれど、でも単純に、撮られている映画そのものとそれを撮っている現実が交互に、というのでもない。映画についての映画だとか、映画のなかに私的な視点を家族をインタビューをとおして貫くということでもない。そういった非整合的整合性はどこかで放棄されている。巧みに隠されてとか複雑な構造によってというのでなく。
 抒情と冷静な相対化の視点が滑らかにつながっていく。つながりが滑らかだから違和感が生まれないし、納得させられる。おそらく監督(表現者)の思いの流れに乗っているのだろう。丁寧な、長すぎるほどの描写が退屈でなくここちよいのはそういう流れに乗せられているからだろうか。こけおどしや「知的」な操作に傾かずに、静かに語りかけてくる。「でも何を語りかけているのだろうか?」という問いが、生まれるかも知れない。
 「何を・・・?」という問いに答えるように、一度だけベッドに横たわる女性の短いシーンがある。とうに喪われた母、だろうか、そうしてそばにいのは誰だろう。
 社会的なできごと、おそらく学生時代の政治闘争といったようなできごとが挿入される。たぶん実兄が深く関わったのだろう。彼はそのことを今も背負って生きており、解決できずにいるようで、インタビューのなかで硬いことばを弟に向ける。
 若い女性、かつての恋人との対話のなかに、唐突にカミュの名がでてくる。青春の記憶や若さの饒舌としてでなく、おそらく、今、いろいろな人が世界中の様々な場所で改めてカミュのことを彼の著作を問い返そうとしているのだろう。
 バンコクの路上の撮影現場で、こんなふうな楽しいやりとりがある。撮影に興味を持って「どんな映画なんだいと」問いかける青年に、「インディーズ映画さ」現場担当者が答える。そこで彼はもう一度問いかける。
「インディーズ、ってなんだい?」 
「低予算映画ってみたいなことだな」
「じゃあ『ブンミおじさんの森』みたいなものかい」。
思わず笑った人も多かっただろう。
 タイの映画だからというだけでなく、多くの人がその「ブンミおじさんの森」の監督、ウィーラセタクンの名を口にしたがっている、自分にちかい名前として。わたくしもそうだ。彼の表現が、ほんとうに必要とされている。この生きがたい時代に、何をどう考えたらいいのかまるでわからなくなってしまった今の世界に、明快な答えを求めるのではなく、問いそのものを問い返し、答がないことを受けいれる力を持つこと。近代にまみれた狭い考え方の枠組み自体を取り払うことで、いろいろのことがすごくシンプルでそうして限りなく深いと知ること。そういったことが彼の名をとおして、ブンミおじさんの森をとおして伝わってきているのだろうから、今。
 
続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。当時書いたものはずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もある。
 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。