映画を生きる

映画を生きる 0
 福岡で行われている現代美術の講座があって、その特別会員のための機関誌として発行されているのが、「IAF Paper」。不思議なことに美術関係の記事はあまり多くなくて、投稿のエッセイがなかなかおもしろくて楽しい。ぼくも映画に関するエッセイを投稿したのがかなりかたまったのでまとめてみた。
 映画はずっと好きで、だから一度はしっかりした長い評論を小津安二郎とかタルコフスキーとかの作家論や作品論でガチッと決めようなどと思っていたけれど、そういう志向はもう止めて、自分の好きな映画や監督のことと、自分の事を絡めながらさらっとかけたらいいなと思って始めてみた。文化の、もう見えないぐらい深い根幹をなしていることばをさらに構築した論理、とくに近代における合理発想の枠組みをなんとかずらしていく、または抜けていくには、ことばや論理によって論理を打ち砕くということではなく、そういったやり方から少しでも身をひきはがしていく方向にしかないのだろう。ぼくが現代美術に関心をもつのも、ひとつにはことば以外というか、ことば以前のことがらとその表出、表現に賭けていく、すがるしかないということもある。だから話は少しそれるけれど、現在から見て再度作り上げたものでしかない歴史、そのなかの美術史に固執したり捕らわれたりするのは止めたい。まして現代の美術マーケットの中心の言説とか、中央と周辺とか、ヒエラルキーなんかが何の意味もないことをはっきり自覚して欲しいとも思う。何故東京とかニューヨークとか語られてしまうのか、冷静に考えてほしい。また美術を素材や概念やで際限なく細かく分析し閉じ込めていくといった近代そのままの異様さも止めてほしい。そうではなく美術とか音楽とか文学とかいった区分けが時代的なものでしかなく、その枠組みを今また取り払われようとしていることを確認してほしい。表現は何かの特権的なジャンルでもなくまた特権的な作家や方法だけのものでないのははっきりしている。その方向を目指さない限り永久に狭い時代の傾向に振り回され上昇志向で努力し結果無惨なけいがいだけが残ることになる、今までのように。
ぼくにとっての現代美術というのは、
具象や絵画が嫌いなのではなく、閉じた、既成の絵画という概念につかったままの、だから結果として表現にならない絵画゛的゛なものでしかないものに嫌悪がある。しかもそのほうが作品としても流通していくのが今の美術界でありアートマーケットだから。
 
映画を生きる 2 
阿賀に生きる』を求めて生きて
 タイトルの「映画を生きる」というのは、ちょっとおおげさすぎたけれど、でも表現というか作品をもう一度くぐる、生きるというのはやっぱりすばらしいことで、そんな体験を求めて旅はつづくのだろうから、そういったものと出会いたいという願望も含まれていたのだろう。もちろん、再度生きるというのは作品のプロットや作中人物をなぞっていくことや感情移入していくことではなく、作品内の時間とその外にある自分の時間との両方を同時にリアルに抜けていく、つまり読む=観ることで表現する(作品をつくる)ことです。
 このタイトルは、たんに今までの映画の題名に添ったものにしたいと思っていて(例えばよくある『映画について知っている2、3のことがら』とか、『映画から遠くはなれて』とか)、でも時間もなく、とりあえず好きな作品をいろいろ思い浮かべて、佐藤真監督のドキュメンタリー映画阿賀に生きる』からとったものです。あの映画のラスト・シーンは老人たちが重なり合うようにこちらを(つまりカメラの方を)見ているところで、そこは誰でも思わず胸がつまるような美しいシーンで、光のなかで笑っている彼らとそれをこちらからなんとなく恐縮しながらでもしっかり撮っている人たち、その全部が存在しているのが感じられた。不思議なことに、この時思わず涙しそうになりながら思いだしたのは、ダニエル・シュミットハワード・ホークスのインタヴューを撮ったドキュメントのシーンで、ホークスが玄関から出てきてゆっくりと(たぶん)こちら向きに歩いてくる所だった。たぶんそこでも胸がつまったから思いだしたのかも知れないけれど、でもやはり映画そのもののトーンがどこかでつながっていたのかもしれない。
 『阿賀に生きる』は4年ちかくその村に住んで田圃や畑の仕事をしながら、ゆっくりと風景や人々と馴染んでいき、フィルムに納めていった作品で、そういうと、ああ小川紳介ねとすぐ声が返ってきそうだけれど、作り方というか考え方はずいぶんとちがうと思う。阿賀というのは新潟水俣病が起こった現場で、だから当然のように水銀を流し続けた昭和電工はひどいということはでてくるし、それにきちんと対面しつつも、映画はもっと辛辣で深い、生きることそのもの、世界そのものへと入っていく。積み重なる暗い、難しい事がらは、でも結局は生きる肯定へとつながっていく。線的につながってきた長い時間の上に(端に)今があるのではなく、それと一体となって、重層的に混じり合って現在もあるということをリアルにわからせてくれる。「歴史」とよばれるものが現在から、今の価値基準を前提にして見通した、ひとつのフィクションでしかないことも。だからこの阿賀はぼくらの物語でもあり、今そのものでもある。と思う。「と思う」と付け加えるのは「そうじゃない、すべては終ってしまった、もうどこにもそんなものはない、あると言うのは郷愁だ幻想だ、歴史的反動だ」と、歴史を線的に、一方向の流れとしてしかみない近代的な考え方の人もあって、ずいぶんきつい口論になってしまい、それやこれやで友情もいく分か損なわれてしまったりしたこともあったからだけど。
  前回、気になる作家の名前をかなりあげたのだけど、何故かデレク・ジャーマンファスビンダーがでてきてなくて、それでちょっと気を悪くした人もいたかもしれないけれど、ぼくはこのふたりは作家自身がすごく気になって好きで、とくにファスビンダーの何かを(とりあえず映画と呼ばれているもの)をつくろうとする情熱というのには圧倒されてたくさん見たけれど、作品自身はすごくおおざっぱで、とにかくつくること、そしてまたつくることしか見えてこないところもある。作品の完成を気にしてないようなところがあり、平気でディテイルが放棄されてしまったりする。もちろんだからこそすごい力や映像がでてくる面もあるけれど。ドキュメンタリーでオムニバスの一篇でしかない『秋のドイツ』がいちばんいい、と言おうとして、でもそれじゃ誉めているのかけなしているのかわからなくなってしまう。同じように『エンジェリック・カンヴァセーション』以降のデレク・ジャーマンも伝わるように語るのは難しいし、だいじなことだからもっと時間をかけてゆっくり語りたい。
 今回はホウ・シャオ・センのことです。彼の今までの作品のなかで、いちばん密度の高い『悲情城市』は、内容を要約しようとすると、なんか大ぎょうでとんでもない映画に聞こえてしまう嫌いがあって、だから、簡単に言うと、第二次世界大戦が終って、やっと日本の植民地から解放されたと思ったら、中華人民共和国の成立の影響で政治的な大混乱に・・・やっぱりこういう言い方だと上手くない。戦争が終った時を中心としたキールン市のある一家の物語、とでも言うしかない。誕生、死、結婚、それにまつわる冠婚葬祭があり、食事があり喧嘩があり、やくざの出入り(!)があり、共産主義革命の根拠地があり、もっといろんなことがあり、でもそういったことが生活のあたりまえの背景としてずっとつながり、続き、人々はまた泣いて、ご飯を食べ、優しい聾唖の写真技師がいて、気の狂った上海帰りの兄がいて、根拠地をめざした男たちは軍事政府に銃殺され・・・こんなふうに書くとまるで「全体小説」みたいにしか響かない。ほんとはもっと柔軟で、そして厳しい、この世界がそうであるように。いわゆる写実主義とか自然主義とかが、世界を(彼らは゛社会゛をだったんだろうけど、それなら、成功しているのかもしれないが)リアルに描こうとして逆に観念的なフィクションに陥ってしまったのと反対に、既成の概念をなぞることなく、在るがままの世界を(概念に染まった視線で゛在るがままに゛見た自然主義の倒錯とはちがって)静かに確固としてすくいあげている。ぼくらは台湾で起こったいくつもの歴史的な出来事や事件さえ教えられつつ、台湾の人と大陸から渡ってきた人(特に゛亡命゛政府)との関係やあつれき、三つの中国語が通訳を介して話されたりすることやサヤエンドウのすじの取り方のちがいまで知ることになる。植民地として支配した国への怒りと、でも自分たちが身につけさせられてしまった音楽や言葉や感じ方への屈折した思いの全体が示される、もちろん平易な言葉として。ほんとうのことというのは生活がそうであるように単純で深く、大切なことはいつも静かな簡単なことばでこそ語られる、といったように。
 答えをだすために問いをたて、合理や整合性で論理を組み立てて抽象し概念化してできるだけ遠くまで届く回答をだす、といったことを信じるのはもう止めにしたい。答えがないということだけが真理だと、諦めに似て納得することぐらいしかないことを了解しあいたい。
 ホウ・シャオ・センはいい、残念だけど結局そういうふうにしか言えない。なんか切なくて、でもだからうれしい。 
IAF Paper No.4  1995 11 20

映画を生きる 3
蔡明亮(ツァイ・ミン・リャン)の悦びと哀しみと
 「ホウ・シャオセンはいい、残念だけど結局そういうふうにしか言えない。なんか切なくて、でもだからうれしい」と前回締めくくってしまったけれど、そう言ってしまったらほんとにそれで終わりになってしまうから、そのひとつ手前で、ことばにならないものをなんとか指し示すということに賭けていく努力を続けなければいけないと反省している。堪え性のないぼくは、答えはない求めてもいけない問いしかないんだと騒ぎつつも、自分は勝手にすぐに終ってしまおうとしている、いけない。
 『愛情万歳』を観た人から「ヒトの生が愛しい、無性に愛しい」というハガキをもらって、ぼくもそう思ったしそれがすべてなのだろうけれど、でもこの映画も語るのは難しい。プロットはすごく単純で、わざとのように、実際そうなのだろうけれど、図式的につくられていて、音楽は背景としてもいっさいない。うっかりすると、俳優のいわゆる上手さを見せようとしているのかとも思えてしまう。つまりそのくらい登場人物そのものに目がいくし、そこで視線が止められてしまうようになっている。それはもちろん監督がそこで止まって内的に彼らのことを考えてほしいと言っているからで、この作品はかなり監督自身の私的な内側と直結しているように感じられるし、おそらくそうなのだろう(こういうふうに断言的に言ってしまうのは、実は一度ツァイ・ミンリャンの映画館での舞台挨拶を聞く機会があり、その時受けた強い印象があるからなのだけれど)。
 台北、偶然空きマンションの鍵を手にいれた若い男性営業マン、シャオ・カン(彼の職種の設定は卓抜だ)と、そのマンションをゆきずりの逢引に使う不動産会社の若い女性社員メイとその相手になる、路上で衣類を売る若い男性アーロンの奇妙な関係の数日間。シャオカンとメイが徹底してその表面だけをとうして語られる、体とか顔とか眼とか。仕草は、記号化された情感を生まないようルーティーンで無熱であり、ことばはとうに捨てられている。ほんとに喋らない映画だ。誰もが孤立していて、乾いていて、水を飲み続け、性も一方向的なものでしかない。メイとアーロンには体の交わりがあるのだけれど、そこには一体感すら生まれない。性の描写も、リアルに感じられるのは一方的な愛の仕草でしかない。メイがアーロンの乳首を嘗めまわす時に顕著なように、そこには彼女によるその時間や行為の支配だけが、快感へのあがくようなにじみ寄りが(もちろん届かないものとして)あるだけだし、ホモセクシュアルであるシャオ・カンのマスタベーションには悦びのかけらもなく苦行のようですらあり、ただそうするしかないからするのだという、始まる前に諦めてしまわざるをえない存りかたしかない。
 ベッドの上で眠っているアーロンにそっとよりそうシャオ・カンの社会的な孤立(それはだから逆に社会に対する力にもなり得る可能性もあるのだけど、それはたちまち個的な孤絶につながっていくしかない)とメイの個的な孤絶、そのどうしようもない、でもどこにでもあるあまりにもありふれた哀しみでしかありえないもの。種火が消えて漏れていたガスを慌てて止める時に少しガスを吸い込んでしまった彼女の一瞬の恍惚と強い嫌悪(それは死への恐怖ではなく、自死への気恥ずかしさであり、ある種の弱さへの拒否なのだろう)。
 明けていく新興開発地をカッカッカッカッと歩く女は、過去の映画のいろんなシーンや物語を直接的に思い出させてしまうけれど、でも最後にやっぱり泣いて、鼻をかんで、でも強い、やっぱり弱い、で強い・・・女であり、都市といつものようにありふれた朝とがあって、ついに、というか当然にというか、彼らにはたどり着く場所はない。(ぼくらには「こんなにも遠くまで来た、ただうちのめされるためだけに」とか「手をのばす、もう自分にも届かない」とか言ったりするセンティメントが残されていたけれど。) 
 いろんな人がいていろんな考え方があるから世界は楽しいのかもしれないけれど、「皮膚の色よりも、生殖器のちがいより、もっと深い考え方のちがいがある」こと、それはやはり淋しいことなのだろう。ちがいがあることが、ではなくちがいを受け入れられないことが、だけれど。
 どうしてぼくらはこうもちがいをあげつらうことことに熱心なのだろうか。それがその人の優越を証すからなのか、同じであることがどうしようもなくがまんできないのか、それしか進んで行く、いわゆる゛発展゛して行く道を見いだせなかったからなのか。全てを一元化し続け、だから当然のように差異をつくりだしていこうとする近代のあり方そのままに。
 ぼくらはすごく否定のことばに弱い、口では強がって平気そうに反論しても、家に帰って怒り狂ったり泣いたりしてしまう。だから、先に否定した方が勝ちということになりやすい。肯定して、それを他人に説得するのはなかなか難しいし、曖昧で賢く聞こえないと思われやすい、困ったことに。
 小津の映画を悪く言う人は少ない、というかよくも悪くも関係ない、と言うことかもしれない。小津が好きなぼくだって、正直いって気恥ずかしくて顔をあげられないところもあったりするけれど、そんな時はちょっと下でも向いていればそれですんでしまう。タルコフスキーだってそんなところがいくつかあったりするし、それでいいのだと思う。完璧さは強制力を持ってしまうし、だいいち完璧さとか整合性とかは近代の悪しき一面でしかないのだろうし。
 ツァイ・ミン・リャンの映画は「青春神話」から観た方が、柔らかい部分がたくさん残してあって甘いし、僅かに使われるテーマ曲も心に残るし、いいのだろうけど、でも、だれも生まれる時代を自分で選べないように、どの作品から観始めるかは、もう運命でしかなく、例えばイランの監督キアロスタミに関して言えば、もし『クローズ・アップ』を最初に観ていたら、確かにドキュメンタリーとかの方法論としての衝撃は大きかっただろうけれど、その後の『友だちの家はどこ』や『そして人生は続く』『オリーブの林を抜けて』までの全てを観たいと思うような気持ちが生まれたとは思えない。
IAF Paper No.5  1995 12 28
 
映画を生きる 4 
エドワード・ヤンの観念「性」と具体「性」
 もうずっと前に、「あなたにとっての映画ベスト10は?」ときかれたことがあって、ちょうど蓮實重彦が元気に映画について語り始めた頃で、そういうこともやっていたりしたので、ぼくらも彼女に言われるままに書いてみた。それはやったことのある人はわかると思うけどけっこう難しいことで、のみ会のオチャラケでなくなってしまって、結局、誰も書き終えれなかった。ぼくの場合は10本あがってこなくて、多すぎてどうしようかなんて最初の杞憂はふっ飛んでしまった。でもその時知ったのは、やっぱり世代によっての特別な゛ある゛映画があったことで、それは例えばクラスの半分以上の子が見に行った、とかいった映画だ。『イージーライダー』とか『2001年宇宙の旅』とか『転校生』または『灰とダイヤモンド』とか。もちろん『E.T.』とかになるとだれもかれもが嫌でも見させられたのだろうし、『スター・ウォーズ』を一本も観ていない人というのはたぶんいないだろう。それとひとつ驚いたのは、「あの映画を観た観ない」という話をしていて、それがヴィデオで観たことも含んで言う若い人がいて、あれはちょっとショックだった。映画は映画館とかホールとかで観るもので、TVのモニターで観るのは、あくまでそれでしかない、いいとか悪いとかいうことではなしに。もちろんぼくもヴィデオやTVでも観るけど「映画を観る」というのはそれとはちがう。だいいち小さくなると見えない部分がいっぱいでてくるし、字幕とスクリーンの大きさのバランスなんかはずいぶんちがう。だからそんなに集中して観ない方がいい映画はかえって小さいTVスクリーンの方が落ち着くといったこともある。また昔の白黒の映画はTVモニターだと縮小されているので粒子の荒れも小さくなっていて、すごくきれいな画面に感じられ、一度なんか山中貞雄の『人情紙風船』の新しいプリントが発見されたのかと驚かされたこともあった。
 昔のはなしになったのでついでに、というのもへんだけれど、人が映画にどう出会うかとういのは、それはもう当然にも、「誰も自分の生まれる時代を選べない」、ということで、ぼくは1951年に福岡の津屋崎に生まれて育ったので、スポーツ・センターの゛センター・シネマ゛とか東宝会館にあった゛ATG゛とかがそういった出会いの場所で、とても強い印象を残した2本の映画ともそこで出会った。ぼんやりとブンガクっていいなあ、とか思っている高校生にとっては、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望('Blow up')』はまさに晴天の霹靂、とでもいった感じであり、そのモッズ的な風俗、「不条理を語る」的な文学っぽいことへのスノッブなしたり顔のうなずきとかに始まって、でも最後の、見えないテニス・ボールを投げ返すシーンでは熱いものと、何か理不尽な怒りと、でも甘ーい安堵みたいなものが重なりあって、そうか、映画というのはショーン・コネリーの007だけでないのだと震えてしまった。
 そうしてもう一本、これは今では口にするのが、誤解を生みそうだからだけでなく、すごく言いづらいのだけれど、『絞死刑』で、これはもちろん、あの、大島渚監督で、ほんとに彼の名前をだすのはつらい(『太陽の墓場』も長くぼくのなかに残っていた映画で、最近、といっても5年ほど前にまた見て、クローズアップの多い、それまでの映画の文体によりかかった部分の多いものだったけれどやっぱりあの炎加世子はすごくて、具体的な人や体がでてくる映画のそれが魅力や強さの一つかと思わせられたけど)。
 こういった2本の名前をだすと、もうすっかり'60年代で、その観念性と、それにぴっり重なる直接的な肉体性とか暴力性、それにいわゆる作品としての完成度みたいなことを放棄することで自由さを得る、というか曖昧なゆえに遠くまで届く声やスタイルを取るといった方法、そういったものは今観みたらどう見えるのかは見当もつかないけれど、こういった2本にしびれる高校生というのはまさにというか、やっぱりというか絵にかいたようで、時代は60年代末期でもあり、彼は次の年に当然のように゛東京゛に出て行くのでした、ということになってしまう。映画のなかには「世界」の怖さと同時にその魅惑も(こういった「世界」ではいけないといった直さいな否定も含めて)あって、つまり、ヨシ、ボクモせかいニサンカスル、といった気持ちにさせられてしまったのは事実だ(当時はまだアンガージュマンとかいったことばも残っていて)。
 『絞死刑』というのは実際に起こった「小松川女子高生殺害事件」を直接題材にとっており、その犯人とされ処刑された在日二世の青年、李珍宇(映画のなかでは「R]となっている。アルファベットのイニシアルは文学で使われた時ほどではないにしても、やっぱり60年代的で気恥ずかしいが、でもこの時の、リ・チンウの記号化による抽象化、普遍化には説得力があった)が刑の執行後も死なないという卓抜な設定で始まり、生き返った、というか死なないRに、全員が事件をグロテスクに再演してみせて、再び罪を感じ罰を受ける決心をさせ、改めて処刑=殺害しようとする。国、民族、家族それに個としてのアイデンティティを総動員して、歴史を政治を愛を性を吹きつけて、彼に殺人と死刑を納得させようとする。観ているのがつらいほどの、酷いまでの喜劇と冷徹な展開のなかで、当然のように国家や法律や死刑や殺人といったことが何度も問い返される。神とか愛とか信じるとか生きるとかいったことも。映画の最後ちかく、「国家をほんとに感じないのなら、君は出ていける」ということばのままに、処刑場を出ていこうとドアを開けるRに外からどっと強い光が雪崩かかり、彼は出ていけないのだけれど、(「君はでていけない、なぜなら今、君は国家を感じたからだ」という検事役の小松方正のことばは耳に残っている)そこでウッとこみ上げたのは、怒りでなく鳴咽みたいなものだったのは、やっぱり今にして思えばぼくらしい反応だったのだろう(でも涙ぐんでなんかいられない忙しい時代だった)。
 そこで語られた国家とはレーニン的な意味の制度、つまり抑圧の装置としての国家だったのだろうし、自分や自分の行為のリアリティを感じられないといった、アイデンティティの喪失や想像力の問題(個が自身や社会とつながっていく)も問われていた。もう一歩で、国家も観念の、関係性の集中的な現れなのだというところまで近づいていたのだろうけれど、でもそう言いきってしまうと、自分たち自身の組織論が成り立たなくなることもあって、そのへんは60年代末の行動主義というか代理正義主義の大波に呑込まれていって見えなくなってしまう。
 それは別にして、映画というのが゛芸術゛なんだということの驚きと、なにかの物語や雰囲気を創りだすために用意されてでき上がっている台詞や仕草でないのだな、という漠然とした確認を自分なりにしたようだった。いわゆる顔面演技のようなことからは何も、それが示そうとしている決まりきった感情さえ伝えられないのだという確認。人というのはもっと単純で、だからこそ類型化できない一回限りの深い表情や仕草をする=しない、のだということも含めて。
 だからエドワード・ヤンの『恋愛時代』が類型的な素材と当然のようにスラプスティックなまでの喜劇で、台北の人々の今の具体を゛描く゛ことで、抽象の度合を強め、観念化して類型や通俗をすり抜けようと試みるのは解る。解るけれどその操作そのものが観念的で類型的になってしまうのは、たぶん、誰にも避けられないことなのかもしれないけれど、残念な気もする。
 映画の最後に、関係が壊れてしまった恋人たちが「フライデー」で会おうと約束する時のそのタイペイふうの発音は、ぼくらが律儀に「まくどなるど」とか「みすたー・どーなっつ」と言ったりすることに似てとてもキュートでリアルで切ないくらいいとおしい。都市の表層を覆う輝いた建築物や流りの事柄にぴったり寄り添っている生活のリアル。それはお互いに別の恋人をもつ若いふたりがかりそめの関係を持つ時には、当然のようにくすんだ生活の臭いのある場所でしか体を重ねられないことでもある。
 病院の一階のエレベーター前で、「もう全ては終ってしまったけれど、落ち着いたら今度゛フライデー゛ででもちょっと会おうか、友だちとして」そう言ってお互いに十分納得した微笑みを交わし、彼はなかなか閉められないエレベーターのドアをやっと閉じて、父の病室の階のボタンを押そうとするけれど、当然にもその最後の機会が失われていくことに苦しくて耐え難くて、ボタンは押せない。結局、当然のことだけれど彼は彼女を追いかけるべくエレベーターのドアを開けて飛び出そうとする。そうして、当然のことだけれど、そこには彼女がためらいながら立ちすくんでいて、「今日じゃだめ、゛フライデー゛」と精いっぱいの声で語りかけて、今までもそうだったようにこれからもいろいろたいへんな人と人との関係は続いていく(ちょっと象徴的なのはこの時点で二人とも人間関係のごたごたから、失業したばかりであるということ、でもそれが何ら生活や生に不安の影さえ射さない要素でしかないこと。それはこの映画がすくいとろうとする現代の都市の薄さや酷さに正確に対比している)。
IAF Paper No.6  1996 02 08
 
映画を生きる 6
ゴダールも武満も死んでしまった
 先日、市内某喫茶店でコーヒーをのみながら映画のはなしをしていたら、「え、ゴダールって去年死にましたよ」と言われてびっくりしてしまった。全然知らなかった。当然新聞にも載ったのだろうけれど、気がつかなかった。小さな扱いだったのかもしれない。ゴダールのことは最近よく語られたり雑誌に載ったりしていたので、再評価が高まったのかと思っていたけれど、それだけでなく、追悼とか回顧とかの意味もあったのかと思い知らされた。ヌーベルバーグなんかが話題になることがここ2、3年多かったから、これからまた若い人をたぶらかすのかと少し皮肉な目でみられたりしていたし、ずいぶん損な役まわりの人だった気がする。これからは存命する20世紀の゛巨匠゛として語られるようになったのかもしれないのに。しかし、ゴダールと゛巨匠゛なんてことばはほんとに似合わない。ヌーベルバーグの再評価といったこと自体が現在の貧しさを語っているのかもしれない。
 この゛映画を生きる゛では一度も彼の名前さえあげたことがなかったから、変に思ったり怒っていたりした人もいたかもしれない。あの衝撃的な出現は60年代の時点で既にもう伝説だったし、スクリーンのなかの元気さと映画そのものの元気さが相乗して全く新しい目の眩むような映像として現前していた。ブニュエルのような一種しりとり的に論理とか言葉が転がっていくおかしさや不思議(不条理)でなく、論理そのものことばそのものが限りなくずらされていく、しかも滑稽でリリカルに、といった感じだった。スクリーンをよぎっていく男や女もすごくかっこよかったし、チープな豪奢といったものが溢れていた。そうしてやすやすと政治の季節に身を売り渡していくのも潔いというか、当然というか、解りやすかった。突然の寸断、不意のアジテーション、けして届かない思い、初めからすれ違う体。そうしていつのまにか誰もゴダールを観なくなってしまった。何故だったんだろう。
 「パッション」が公開されたのは83年の11月だった。シネマ・ヴィヴァンの柿落しで、西武の戦略というか、営業の上手さというか、あざとさにも感心してしまった、こんなふうにして゛文化゛とか゛情報゛がつくられていくのかと。第4回が『ノスタルジア』、第5回がまたゴダールの『カルメンという名の女』。あの頃は、そして今もだろうけど、それだけで十二分に成功は保証されていて、六本木の西武の映画館は話題になって、スノッブな人種が(ぼくも含めてと言わなければいけないのだろうが)集まった。プログラムは蓮實重彦武満徹のシビアで愛に満ちた対談や採録シナリオが載って充実していて、それも驚きだった(第2回の『コヤニスカッティ』ではふたりがこの映画を徹底してこき下ろしていた)。あれから後期ゴダールがまた日本でも公開され評価されるようになって、いくつかは観たけれど、ほとんど何も覚えていない。すごく残念というより、とても哀しい気分だった。探しても「パッション」のパンフも見つからない。
 それは別にして、このシネ・ヴィヴァンにはずいぶん通った。歩いて行ける距離に映画館がある喜びもあったし。タルコフスキーの『ノスタルジア』、アンゲロプロスの『シテール島への船出』、侯孝賢の『童年往事』、エリック・ロメールの『緑の光線』、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』『トスカの接吻』それに小川プロの『日本古屋敷村』なんかはみんなここで観た。レイトショーもあって、あのアニメーション『ストリート・オブ・クロコダイル』に驚いたのもここだった。他にもベルトリッチの『暗殺の森』とかフレディ・ムーラーの『山の焚火』等等など。
  映画そのものに言及しつつ(それはもう今の時代には芸術だけでなくあらゆる分野で避けられないことなのだから)喜びというか直接性をリアルを生みだす力を探っていく果敢さは、たぶん最後までゴダールが失わなかったものだろう。映画についての映画という、どうしても自己言及的で観念的になっていかざるをえない場にかろうじて踏みとどまり、映像が「動くもの」だったんだとまるで初めてそのことを発見するかのような感覚を観るものにも共有されるかたちで提示する。つまり開かれていく。そういった不思議なまでの新鮮さが、それぞれの画面そのものの感嘆するようなうっとりする映像色彩の美しさとして現れていた。自然光で撮ることにこだわることが、当然の事として誰もに了解された。ぼくにとっては、メタファーやことばが散乱しすぎて引き回され、撹乱されきってしまい、全体から弾き飛ばされてしまう苛立ちが大きすぎた。
 自由。生理が、もっといえば細胞のひとつひとつが感応するような自由の、つまりリアルな感覚、それがゴダールのすべてだった気がする。最後まで好きになれなかったけれど、尊敬しつつ、今やっぱり寂しい。時代の制約も含めて、こういっためんどくさい、でも今こそ切実なことを滑稽なまでに律儀に考え抜く、行為し続ける人はもう現れないかもしれない。
IAF Paper No.8  1996 05 14
 
映画を生きる 7
タルコフスキー衝撃
                安部文範
 「惑星ソラリス」のLPサイズのジャケットを本棚に飾っているので、サウンド・トラックのレコードかと驚かれたりする。でも残念ながらそうではなくてLD。レイザー・ディスク・プレイヤーを持ってないので当然だけど観ることはできない。そのことがひどく不思議に思えてしまう時があり、ジャケットを手に取ってじっと見たりする。本といっしょに置いてあるせいか、中身が全然分からないことが理不尽なことのような気がしたりする。せめて動かなくても、静止した写真としてでもいいから無性に見たくなる。でも、見れない。あの水のなかで不気味なまでに揺れる水草や藻や、すごくリアルに空中を浮遊する体、思い詰めて一種虚脱的になった表情、胸を締め付けるようなふいのことばも、奇妙な非未来的なメッシュのシャツもおおぶりの白い水差しも見ることはできない。ソラリスと呼ばれる惑星そのものが、宇宙船のなかの地球人の意識下を実体化させていく過程の、過去として未来をみているような既視観、とでもいったスリリングな展開のなかで少しずつ増殖するように増えていく思い出や郷愁そのもの、は見れない。再生された、かつて自殺した妻と「わたし」の両親、特に母親との関係がどうだったか、僅かなことばで表されていたはずだけど、それを確かめることはできない。一度は拒否した(宇宙船から小型ロケットで外へ放り出してしまう)彼女を受け入れてゆっくりと過ごす客室内に掛かっていたのはブリューゲルの作品だったけれど、なぜブリューゲルなのかどこかでほのめかされていたかどうかも確かめられない。
 「惑星ソラリス」の最後、ゆっくりと歩きながら水のなかの植物や庭を眺めながら家へ近づいていく「わたし」はついに家のなかをのぞきこみ、そこに室内に降る雨、書棚、父親を見いだす。玄関で父の前に膝まづく「わたし」、それだけでもぞくぞくしているのに、だめ押しのようにぐんぐん退いていくカメラが俯瞰でとらえる惑星の海に浮かんだ小島(あまりのちゃちさには驚いたけれども)。強められた「わたし」の思いはついにはこの不思議な惑星の上に、故郷そのものを創りだしていたことを、つまり゛故郷゛なしには人が生きていけないことを語る。
 この映画にも顕著な、タルコフスキーの作品のもつ一種のあざとさみたいなことは、時々語られたりもする。そしてその、こけ脅しにも似た映像による驚かせかた、というか衝撃は、映画という表現のもつ力の大きな部分でもあることをいつもいつも、改めてのように思いださせる。
 「ストーカー」の最後では歩けない娘がじっと見つめると、テーブルの上のコップがカタカタと揺れ、すっと滑って落ちるし、「ぼくの村は戦場だった」の少年の指先から樹液のように液体が滴る。「鏡」では合わせ鏡のように語られてきた現在と過去、いく層かの時間が、ひとつの画面にねじ合わされ閉じ込められて出現する。そして何より「ノスタルジア」の最後、ロシア(故郷)の風景のなかにうずくまるように座る男と犬、カメラが退いていくと、それがイタリアの遺跡のなかにしつらえられたものだとわからされる、あの衝撃。そしてさらにその上に降る雪、それはもうただただ涙を流して見つめるしかない。
 タルコフスキーの映画では人は覚めている時は、限りなく明晰にあろうとするが、そうでない時は激しく意識を放棄した状態をとろうとする。だから、眠りや夢、精神の歪みが頻繁に出現し、また語られる。人は必ず浮遊し、光と闇の強められたコントラストのなかに出入りし、ふいに目覚めたその瞳は遠い背後にしか焦点を結ばない。視覚や音の遠近は巧みに強められ弱められて、知覚を揺らし惑わせてどこかへ(どこでもない所へ)連れていく。当然のことなのだろうけれどそのふたつの状態、喪失と覚醒は入れ子のように組みあわさっており、どこまでがそれなのかは誰にも定め難い。詩や宗教とでも呼ぶしかないものが、論理的なもの、「知」と侵食しあう、この現実の世界のありようのままに。そもそもそういったことを名づけたりことばに置き換えて、いくつかの概念にわけていくこと、整理していく現代こそが特殊で異様なのだろうけれど。そしていつもいつも、民族の故郷の時代の少年期の母へのノスタルジアを通して、未来の起源の宇宙の無の全のノスタルジアが探され求め続けられる。けして純粋な形ではどこにも存在せず、でもあらゆる所に形を変えて存り続ける、存らしめられてしまうものとしての。
 世界を対象化され、分解され分析されたものとしてでなく(それは先ず「自己」や生の固定化=対象化という異様さとしてあるのだし)、全体のまま動的なままで見ていく受け入れていく力。だから当然のように均一化と差異化の終わりのない繰り返しに陥ることのないあり方。そういったものへの視覚をとうしての直接的な働きかけ、というか提示がある。(少し話がかわるけれど、フィルム上の形や色の影である映画と光の記号であるヴィデオとでは映像の質だけでなく、大脳も含めて知覚に与える影響、というか刺激の与え方は質的にちがうんじゃないだろうか。)
 イタリアの遺跡のなかに作られたロシアの風景は互いに入れ子状であることさえ越えて、同時にそこに存在する、なんの注釈もなしに。それは空間的なことだけでなく、あらゆる時間的なものも存在するということで、私的なささやかな感覚と無限的に思える宇宙がひとつながりに存る、あらゆる細部は際だちながら、全体のなかに調和しているといった存りかた、だろう。
 映画のなかで作家自身が変貌をとげていく、つまり自分を固定せず開いていくことでそこに大げさに言えばあらゆるものを、全ての人をひきこんでいく力をもつ、そういった希有な地点に『ノスタルジア』は立ち、ぼくらもまたその前にたつことで既成の知性を一瞬にして抜けでていく視覚を通した力を感受できる。そしてそれがすばらしいのは、もう一度ことばや知に還元したりできない地点にまで至っていることが了解できることだろう(ことばを越えたもの、ことば以前のものと言ってもいいが、をことばにしようとしていつもぼくらは失敗してしまったのだろうから)。
IAF Paper No.9  1996 07 13

映画を生きる 8
1996年7月24日                                   
 1996年の7月は映画を好きな人にとってはたいへんな時だった。福岡市図書館がオープンし、その記念のシネマ・パラダイスと名うった名作映画特集を始めたのが6月29日。小津安二郎から内田吐夢マキノ雅弘、アジアのザッリーンダスト(「サイクリスト」)、アン・リー(「ウェディング・バンケット」)など20本ほど上映された。その直後の13日から、今度は韓国映画祭が始まった。これは4期に分かれていて、その第1期『黄金の80年代』として19本が上映された。この映画祭はとびとびに1997年の9月まで行われ、韓国映画のほぼ全貌を見渡すことができることになる。チラシに「知られざる映画大国」とあるようにぼくにとっても未知の世界であり、すごい数の多彩な作品が並んでいる。全部は無理でも半分でもと思っていても、いろいろの事情でそうはいかない。あれこれ算段して6、7本を選び出して予定をたてていると、14日から『福岡アジア映画祭』が始まった。これも最低2本は観たいのがある、ああどうしよう、しかもまだ観ていない「アンダーグラウンド」も早く行かなければ終ってしまうし、新しい映画館゛パヴェリア゛も20日にオープンする。どうなることやらと考え込むその上に、福岡市美術館で『アンディ・ウォーホル』展の一環として彼の映画作品の上映も始まった、しかも無料で。これを観ないですませられようか。
 でも当然のように1日に3本も観るなんてことはできるわけがなく(1本を間においてやっと2本だろう)、他の予定やお金のことも考え考え、スケジュールは組まれ変更されていく。そうしてほとんど初めてといっていい韓国映画を6本も観ることができた。
 パンフレットに゛韓国ニューウェーヴ゛の始まりを告げる作品とあったので、じゃ時間的な順番も追ってみようとイ・チャンホ監督の『風吹く良き日』から始めた。これは映画祭の皮切りでもあり、監督の舞台挨拶があってすごくうれしかった。それはファンとしての喜びでもあるし、また実際にその人を見たり声を聴いたりすることで感じ了解できることが小さくないと思えるからだ。その言葉とか喋る内容とかよりも、人が発する具体的なものが、作品のより丁寧な理解につながっていく。
 60年代的というか゛ぼく自身の若い頃゛的な映画で、だからただじっと観ているしかない。大都市ソウルにでてきた3人の若者の友情と社会との軋れき。激変する都市、社会が生み出す矛盾、貧富の差、早くなる風俗の流れ(ついこういった紋切り型の説明になってしまう)等などが若者の過剰なまでの愛や性、正義、挫折、再生として、そして当然にもナイフ物語としてのクライマックスをもって描かれる。映画への思いいれや好感が、自分や自分の世代への思いいれにスライドしていきそうで、食い止められてしまう、自分のなかで。もちろんきちんとつくられた作品でしっかりした構造ももっているし、いろんな読みといていく要素も含まれていて考えさせられる。困るのはこの映画それ自体や、内容を(それぞれの人物やできごとを含め)ついつい社会学的な視点で、つまり世界がこういった形で作品化されることを、韓国という社会やその精神の構図として観てしまおうとする視点になっていきやすいことだ。それはそれで(好きではないが)作品に対するひとつの接し方だろうが、作品をとうして作家も含めた社会を見、さらに世界にいたる、といったことができなくなる。つまり、作品があくまで外的なものとしてあり続けてしまう。現在の、゛ある時代の限定された社会゛にいたるための過程としてのみ作品が倒立させられてしまう。作品への関心と理解が(1)作品内の関係性(共同体、家族、男女等のタームとしての)と(2)作品と作家(監督)の関係だけに終始してしまい、作品と観る者との固定化されていない動的な関係(観ることによって変わっていき、作品も観られる視点の動きのなかで変化していき、それがまた観るものをかえていくという静的でない関係、存りかた)でなくなってしまう。つまり開かれているということがなくなってしまう。この作品が1980年の制作であることが、いろいろに意味を帯び過ぎたりして、なかなか直に作品と向き会えなくなったりする。
 ニューウェイヴェのもうひとり、ペ・チャンホ監督の『ディープ・ブルー・ナイト』が次に観た映画。これも監督の挨拶があった。現実的な能動性の強さとか、現実的な諦めの濃さ、とでもいったものに溢れていて、これも視点のとり方が難しかった。特にアジア人としてアメリカにあることの屈折は、ほとんど身体的な痛みや嫌悪を伴ってくる。この映画はどこまでそういった社会性、というか具体的なことがら、例えばグリーン・カードやアメリカの都市の問題を知っているか、関心があるかによって作品の了解(伝わってくるもの)がちがってくる部分が大きい。そのことでいわゆる作品の゛奥行き゛が深まり男と女の愛情や関係の問題だけでなくなる(またはその逆だって同じだが)かのような気にさせられてしまう。それも少し困る。アメリカ合衆国への永住証明書であるグリーンカードをとるために惨いことをやったりやられたりしながら、結局はそういうことをやり始めた理由であった、アメリカに呼び寄せようとしていた故国(韓国)の妻や子供も失い、決定的に傷つけてしまった偽装結婚の相手の韓国女性との悲劇へと至ってしまう。こういうまるで文字に書いたような内容を、主演の安聖基(アン・ソンギ)の異様なまでの集中力で大画面の映画としてのリアリティを支えているのはすごい。(彼は韓国映画界のスーパースター的な人で、すごいと思うのだけれど、こういう映画週間とかではほとんど全ての映画にでてくるので困ってしまう。)
 他にはイム・グォンテク監督の作品などを観た(「風の丘を越えて」で話題になった監督)。映画のなかで語られる具体的なことと、映画全体の構造とを両方おさえながら観ていくことはひどく難しい。愛情や憎悪がそのままで成立した幸福な(不幸な)時代なんて、ほんとはどこにもなかったはずなのだろうし。それにしても、彼らの(映画のなかの、そしてその外の)思いがこんなにわかってしまうのは何故だろう。同じ極東のアジア人だから、などとノーテンキなことを言うつもりはないが、と言いかけて、でもそれこそがわかることの始まりだろうとも思い直す。ヨーロッパ的近代を、必ず先ず頭を使って理解しようとする、してきたことに慣れてしまって、思考の流れや型がそういうふうに偏っているにすぎない。
 韓国の映画の特徴は何といってもその強さ、だろう。粘り強さといってもいい。沈黙も含めて全てが饒舌で、悲しみすらが(アジアの映画の特徴として実にみんなよく悲しむし、泣く、ヴェトナムでもタイでも)すごく積極的で説得的な語法を持っている。そういった直さいさに正面から向き合い続けるのがしんどいと、ぼくは台湾の映画ファンになったわけではないけれど、韓国派、台湾派といった安直な分け方をつい思ったりもしてしまう。
IAF Paper (PAT Papper) 特別臨時増刊号Ⅰ 1996 09 17
 
映画を生きる 9
アンダーグラウンド』を悪く言う奴は友だちじゃない
のだろうけれど、それはつまり、これがあの、『パパは出張中』のエミール・クストリッツァ監督の作品であるからで、でもあの映画に感動し、しかもじんとしてしまったぼくとしてはこの『アンダーグラウンド』はいかにも辛い。映画をすごく愛していて、ずっと観続けている友人からあんなにも熱烈なはがきがこなかったなら、ぼくだってもう少し冷静な気持ちで、つまり少しくらい悪いところもあるかもしれないとか、『パパは・・』ほどの作品はそんなにしょっちゅう作れるはずがないとか、それ以降全く観ていないから、変わっているかもしれないとか、題材が題材だからうまくいってないかもしれないとか、幾ばくかの警戒心をもって行けたかもしれなかったが、彼女の「・・狂躁と猥雑さと複雑さとに満ちあふれて、いかようにも解釈できるすばらしい映画・・悲劇的な祖国の運命にあっても絶望のなかにもユーモアを失わず、フェリーニのサーカスのようでもあり、ビスコンティの『地獄に落ちた勇者ども』にも似ているようであり、アンジェイ・ワイダの映画をもほうふつとさせ、水中シーンやその他タルコフスキーのようでもあり、地上、地下、水中と、時間と空間とか圧倒的な過剰さでもってあり、笑い、最後は泣きながらみました。」という文面にいっそう気持ちを煽られ、自分でも煽り、超過大な期待を、人が抱いてはいけないほどの期待を抱いて映画館に、KBCキネマ北天神に出かけてしまったぼくが悪いのはわかっている。だから、もし、もう少し控え目な気持ちで出かけていたら、もっと上手く観ることができたかもしれないと残念な気持ちだ。映画って困ったもんだ。
  その友人が言うように、他の映画を含め実にいろんなことを思い起こさせる。コピーとか引用とかいったことでなく、この映画の持っている濃密さみたいなものや、時代や民族が当然にもってしまう色合いや匂いが、他のいろんなものをかなり直裁に思い起こさせるのだろう。そうして、ほんらい豊かさやディテイルの綿密さとしてあるそういうことが、思ったほど人をうたないことに逆に唖然としたしまったりする。冗長さや観念的な饒舌さ。いわゆる゛わかりやすさ゛とは、超観念的とでもいうしかない概念を(実際はありもしない概念を)なぞるだけであり、わかりやすさ=おかしさといったことが記号化されていて、ここは笑うところです、みたいなことになってしまう。人が、ありふれた生活のなかで示す単純でだから深いしぐさは、どこまで待っても現れない。生きるということは、あまりにも単純なのだし、だからどこまでいってもわかりきれない、答えのない複雑さをもっている。(近代とそれに至るヨーロッパ文明の悪癖のひとつは、いつもいつも答えを求めて問いをたて、それをいかに効率的に解いていくかに汲々とすることで、そういったことはもうそろそろ終わりにしたい。)そういう深い複雑さを捨象して、歴史大河ドラマ的にエピソードをいかにもありそうにつなげていって長い映像時間をつぶしていく。だから、視覚的にも胸を撃つ映像も現れない。全ては決まりきった約束ごとの連鎖でしかなくなる。ポスターやチラシに使われた民族衣装の花嫁が宙を泳ぐシーンも、上手につくられたエピソードとしてしか伝わってこない。あの、細かい細工の重そうなレースが、いかにも伝統や歴史、民族そのものの重さや美しさとして、幾重にも厚く重なり合っていることも、うまく伝わってこない。映画内の、そしてその外の時間にもつながっていくはずのものが、そこだけ浮き上がった゛美しい゛シーンとして終っていく、「あの、映画史上に残る不滅のシーン」とでもいったコピーをつけて。ああ、残念だ、はがゆい。
 物語は、複雑な歴史をもつ東欧(こういった言い方そのものヨーロッパ中心主義)のユーゴスラビア、第2次世界大戦のナチス・ドイツの侵攻から始まり、現在の戦争まで。大戦中に反ナチ・レジスタンスとして地下に隠れて武器の製造を行っていた人たちがその後も終戦を知らされないままそこに住んで武器をつくり続け、我慢できずにとうとうでてきたら、そこはまた現代の戦争の最中であり、かつてそのために闘った祖国すら無くなっていて、今まで地下で維持されていた家族を中心とする絆もたちまちずたずたにちぎれてばらばらになっていく(こういったことが、地下=周辺の歴史的変遷のアナロジーとしてみられてしまうのは、作家にもそういう視点があるからだろうか)。
 思想は現実の゛政治゛としてだけ取り出される。チトーやスターリンなどの政治的な人物はもとより、他の人物もリアリティをもつまでに造形されないまま類型化され断片的なカリカチュアとしてだけ現れてくる。そして頻繁にチンパンジー(動物)とか幼児とかの無垢性によりかかってしまうので、複雑で深くておぞましくて、でもだからこそ喜びも大きかった、つまりどこにでもありふれていて、だからこそ救いがなく、でも素晴らしい゛この世界゛はついに姿を見せないまま、いかにもヨーロッパ的な船出、として締めくくられていく。最後に、岬から切り離された浮き島の上で、水をくぐって(死をくぐって)たどり着いて再会した登場人物たちがいっしょに歌い、踊り、島はまるでシテール島を目指すように彼方へと流れていく。だから最後のシーンが美しければ美しいほど、それはあまりにも無惨なまでに平板なものとしてしか見えてこない、すごく残念だけれど。(ヴェンダースの「ベルリン・・2」の最後も感傷的で観念的な船出のシーンで、あの映画そのものの象徴のようで残念だったけれど)。それにしても水をくぐって再生するというのは、いつでもどこでも、あまりにもといっていいほど、美しい。水のなかで全ては溶解し、あらゆる場所へとつながっていく、抱きかかえられたまま。
 いつもいつも、リアリズムということは誤解され続ける。写実とか技術の問題だと考えられてしまう。それはあくまで思想の、表現の出発の問題であり、あらゆる表現(作品といってもいいが)内部の現実や時間のリアリズムが、当然にも先ず成立していなくてならないのは原則だろう。ごくあたりまえの作品内の整合性のこと(非整合という整合も含めて)。それが、ありもしない概念的な記号にすりかえられて、いかにもありそうな、その実、けしてありえない゛リアリズム的゛なものにすり替えられていっている。
 作品内のリアリズムが成立した上で初めて、それを越えるもの、つまり生活の実相のなかではみえづらい、゛リアル゛がやっとその存在の気配をみせる。そこまでたどり着こうと努める、入っていこうと試みるのが、たぶん表現とよばれる営為なのだろう。
IAF Paper No.10  1996 09 23
 
映画を生きる 10
観たい映画がなかったのか、家族を考えたかったのか
 9月、10月がものすごく忙しかったこともあるだろうし、7月に映画に集中し過ぎたこともあるのだろうけれど、映画のことを語りた気持ちがぜんぜん湧いてこない。どうしよう。
 映画を観ていないせいだけではないだろう。今までにあんなにたくさんいい映画を観ているのだから、語ることなんか限りなくあるだろう、例えば、と言いかけてそれ以上ことばがでてこなくなる。どうしよう。
 11月1日の映画の日にはいろいろ観ようと予定を立てて、とりあえずとアレクサンドル・ソクーロフの『ロシアン・エレジー』と岩井俊二の『スワロウテイル』から始めようと思っていたけれど、いつものように映画の日には他の用事が、つまり仕事がはいって観れなかった。でもそのことがそんなに残念に感じられなかったのは、どうしても観たい映画がないからかもしれないと思ったりしてちょっと淋しい。
 以前に観た(福岡市美術館のレン・フィルム特集。これはたいへん充実した量的にもすごいものだった)ソクーロフの『ソビエト・エレジー』ではまだ大統領になる前のエリツィンが長い時間、苦しげなまでに考え込んでいるのが少し離れた距離からずっと撮られていた。傲慢にも見える鈍重な様子や、まるで悦楽に放心したかのような表情は忘れ難い。(現在において何かを集中して、つまり論理の脈絡のなかで考えるということが、広告代理店のすごく明解で皮相な現状分析とどうちがうのかは、たぶん誰にも語れないだろう。そういう思考の回路それ自体を無化しつつ、同時にことばに文節化しないままで、全体として、動いているものとして受け取る=伝えようとする方向にしか、もう期待できるものなんてないのだろう。そこからしか何も見えてこないし、何も生みだせないと思う。)
                                 ・・・・・・
 そんなことをぼんやり思っていると、もう12月になってしまった。今年の日本映画の回顧が新聞に載ったりする。5人の選者が5作品ずつ選んでいるのだけれど、そのなかの一作品も観ていないことに驚かされた。『絵のなかのぼくの村』は観たいと思っていたし、ほとんど観るところまでいっていたから、そういう意味ではゼロではなかったのかもしれないけれど。(8月に観た日本映画『初国知所之天皇』『百代の過客』は原将人監督が来ていて、機械の故障というアクシデントもあって2時間以上本人の話しがあり、だから作品も含めて密度が濃かったので、じっくり語りたい。)
 結局この4カ月の間に観た映画は『忘れられた子供たち』だけということになった。フィリピンのマニラにあるゴミの山゛スモーキー・マウンテン゛に住む人々を子供たち(18才くらいまで含め)を中心に撮ったドキュメント・フィルム。四ノ宮浩監督。ストリート・チルドレンを描いたドキュメントにはシアトルの子供たちを描いたマーアティン・ベル監督の『子供たちをよろしく』というのがあって、あれは観ているのが辛かった。自分でなにひとつ選べないまま、家族とか社会とかの複雑な力の前で文字どうり翻弄され、路上の新聞紙のように吹き払われちりじりに消えていくしかない少年少女たち。ごみを漁ったり、物乞いしたり、盗みをしたり、売春したりしながらほんの一時を、一日を生き延びるだけの存り方。状況を丸ごと受け入れているから、表層だけを滑っていくから、元気に楽しくやってるようにさえ見えて無惨だ。お決まりの「崩壊した」ということばさえ成立しないような家庭から追放されたり、逃れたりした結果としてそこにかたまりあって、優しさとか安心とかに餓えていて。
 やはりそういう子供たちをあつかったロシアのヴィターリ・カネフスキー監督の『ぼくら、20世紀の子供たち』には悪をやっても何しても、とにかく生きていく、生き延びていくことが至上命題であり、ぞっとするほど厳しいけれどでもどこか明るさ、というか希望(なんてことばだろう!)があったし、監督との関係も見えてくる(実際監督がでてきて、彼らにインタビューしたり喋ったりする)し、どこか安心が、つまりそこにはまだ関係性とか、なんというか共同体の余熱みたいなものがあって、最後の部分では護られている=内側にいる、それはつまり殺されるという非情も含めてだけれど、残っていることが感じられた。でも『子供たちをよろしく』では家族とまだ一緒に住んでいる(そのこと自体が不思議だけれど)ストリートチルドレンでさえ、関係が零度の熱もない無惨さがあった。そうしてこの映画のつくり方とも大きく関わってくるのだけれど、誰もがカメラの前だけでなく、演ずる、というか振舞うことから逃れられず、リアルのなさ、空虚さが際だっていた。
 『忘れられた子供たち』では家族や、スラム居住者たちの共同体のなかに子供たちは生きていて、生き延びるのは半分以上は健康さというか体力にかかっているようにちょっとみえたりもする。もちろん生活の困窮や悲惨は覆うべくもないのだけれど、家族や親族がつながっている。生き続けることが当然にも目指され、明日も信じられている。誰もがここを出て行くことを第一に語るけれど、この共同体がもつ力、抱擁力に(それは妬みあい、殺しあうといったことも含めてだけれど)に引き付けられて、また、それが圧倒的なのだけれど、外の社会の悪意や競争、階層の落差に疲弊して戻って来る、こざるをえない。社会の仕組みがそうなっているし、その役割を彼らに押し付けている以上そうならざるをえないのだろうから。だからこれは子供がたくさんでてくるけれど、もちろん家族の物語であって、だから最後には新しい若い家族の、こわいくらい危ういあり方を見せて終る。このスラムで逞しく生き抜いていく力に溢れてもいず、強い家族や関係の後ろだてもなく、でもここで生きて行くことを選んだ(諦めてというのとは少しちがう)、納得した若い夫婦とその赤ん坊と。
IAF Paper No.11  1996 12 27
 
映画を生きる 12
映画:好きとか嫌いとか恐いとか
                                          安部文範
 映画にはいろいろな魅力があって、深く考え込まされながら何回も観たり、シナリオを丁寧に読んだりするものの他に、あの、いかにも゛映画゛といった、わくわくする動きや進行そのものにに引きずられ、あれよあれよという間に観終ってしまう、といったものもあり、そういったものは何度も観るけれどシナリオを読んだりすることない(パンフにもシナリオなんて付いてない)。このふたつはみごとなくらいはっきりと別れていて、中間領域もまったくない。後者の代表は『エイリアン』で、もちろん最初のもの。他に『ターミネーター』の1、『時をかける少女』などがある。何回も観ているし、全然飽きない。(こうやって並べてみると全部SFで、どれにも異星人とかレプリカント等がでてくる、と初め
て気づいた。それに゛時間゛の円還するような流れも。あとひとつ、メロウドラマの枠組みということ。「エイリアン」でのその枠組みを考えるのは、かなり倒錯的で怖いけれど。)
 いちばん多く観た映画は、ヴィデオでの回数もいれると、『エイリアン』かもしれない。あの映画は今でこそみんなよく知っているけれど、公開当時はTVでまでコマーシャルを流したのに(「宇宙ではあなたの悲鳴はだれにも届かない」というやつ)あまり興行成績はよくなくて、というかコケて、そのへんは『2001年宇宙の旅』と似ている。恐い映画が流行っている時で、ぼくの友だちもいやがる旦那を口説き落として観にいって、その手前もあったのか、「ふいちゃったわよ」とバカにしていた。確かにエイリアンそのものがでてきた時はぼくも観てはいけないものを観てしまった気がして、思わず目を背けてしまったけれど。他のシーンでのおもわせぶりな雰囲気や奇怪で性器的なギーガーの装置や美術はすごかったから、残念というか腹だたしいというか。しかしでてくる俳優たちも、いかにもといったかんじでなしに、しっかりクセがあって楽しい。いちばんあっさりしていた(どっか眠そうな)艦長がやっぱり早く死んでしまうのだけれど(少し残念だった)、彼がマザー・コンピューターと話す時に背景にちょっとモーツァルトがながれたりする。
 少し話がかわるけれど、恐い映画というのも、当然、人によってずいぶんちがうだろうし、これもやっぱりコケたキューブリックの『シャイニング』はぼくも期待して封切りで見に行ってあのコーコツとなるぐらい美しかったトイレのシーン以外はただただがっかりしてしまって、確かに双子の女の子というのは卓抜で、洪水のような赤い血も迫力はあったにしても、何もキューブリックがやるほどのことか、と苦々しく思ってしまったけれど、あの映画をほんとに恐がった人もやはりいて、ぼくの友だちが、彼女はひとりで観に行ったのだけれど、やっぱり「フン」と半分怒ってでてきたところ、ロビーに女の子がひとりで立っていて(ガラガラだったし特に女性の数はすごく少なくて)、「トイレに行きたいんだけれど、恐いからいっしょについてきてほしい」と真剣に頼んだらしい。こういうのは、おかしいというよりなんかついしみじみしてしまう。だいいちこういうことは女の子の間でしか起こりっこない。ついでだけど、彼女は映画が好きだからよく観に行っていて実はもうひとつ、これはすごく美しい、トイレ(というよりバスルームとでも言った方がいいかもしれないけれど)エピソードがあって『ノスタルジア』の時、やっぱり終わりちかくのあの二シーンにさめざめと泣いてしまって、だからまだ暗いうちに席をたってバスルームにいくと、すでに来ていた人がいて、その外国人の女の子と鏡ごしに濡れた目があって、お互いにうなずきあってまた泣いたらしい。こういうことも、当然だが男の場合は絶対に起こらない。ヘミングウェイあたりが、バーのカウンターで、マッチョな感じで、ならでっちあげるかもしれないけれど。
 話がそれたついでだけれど、いちばん恐い映画は何かというと(もちろん恐くて嫌な映画は論外として)、たぶんもう二度と観れないと思うけれど、トビー・フーパーの『テキサス・チェーンソー・マサカリ』という映画で、邦題はたぶん「死霊のいけにえ」とかいったようなものだったと思う。これは、チェーンソー(電気のこぎり)からもわかるように、いちおうスプラッタ的なものなのだけれど、あんまり切ったり、血がでたりということはなくて、でも恐い。ぼくの刃物恐怖も大きく影響しているだろうけれど、映画としてもしっかり恐い。バックスキンのお面のようなマスクを被った男がチェーンソウを振り回しているシーンはけっこう有名になったから知っている人もいると思う。(詳しく説明しない、できない。)
 ついでだからどんどん脱線していくと、恐さにも当然いろいろあって、ただただたまらなくなって飛び出してきた映画というのがひとつだけある。せっかくお金を払っているから、途中で出て来ることなんてほとんどないのだけれど、原一男の『ゆきゆきて神軍』は思わず叫びだしそうになって、満員の客席から走るようにでてきてしまった。その時はとりあえずロビーにでて、落ち着こう、あの声さえやり過ごせば、とか思っていたけれど、狭い所(ユーロスペース)だったので音も全部ロビーにまで聞こえていて、それで諦めて帰ってきた。だからあの映画は途中までしか知らない。彼の作品はたくさん観ていて、もしかしたら全部観ているのかもしれないけれど、屈折を語るのに屈折をもってしなくてはいけないようなところがあって、上手くできそうにないし、どこかですごく突き放してしまいたくなり、愛情をもって語れなくなる。('60年代の嫌な一面をあまりにみごとに切りっとってみせていて、正視できなくなったりもする。)ドキュメントという概念に含まれている単純な嘘を、本気な顔でスラスラとついてみせる人だ。つまりドキュメントを、しつこくやり続けるなかで、どこかで相対化しぬいた、というかそこまで対象から目を離せなかった、というか。だからどこまでいっても原一男の揺れ、というか彼が自分のなかで振り切ってしまった(それもひとつの演技=演出なのだろうけれど)本気さと嘘さの振子の振幅、みたいなものが前面にでてくる。ノンフィクションというフィクション、ということが、裏側からみえてくる。だから正面からそういうことを切ってみせる、裏切ってみせようとすると、逆にすごく見え透いてしまう。『全身小説家』はそういう面ばかりがでてきてしまっていた。でもあの『さようならPC』の最後のシーンの、延々と続いた果てに、奇跡のようにカメラがすくいとった美しさは、まさに奇跡だとしかいいようがない。でもそれを原一男の力だ、と言うことも言わないこともどちらもちがっている気がする。
IAF Paper 臨時特別増刊号Ⅱ(1997年1月発行予定)
 

映画を生きる 13
船酔の苦しみの中で観る感傷と残酷と
                                        安部文範
 うらうらと穏やかな春の日には、かかえこむまでの頭の痛みもどこか甘酸っぱくて、微熱のやさしさと高熱の放心との間をたゆたってしまう。
 この頭の痛みのほうには原因があって、それはまあ、言ってみれば劇場での船酔とでもいえるのかもしれない。ジョナス・メカスあたりから始まった゛私映像゛的なものは小型カメラを抱えて自在に軽やかに動いていくので、撮影時の手ぶれや揺れとその結果である映写時の画面の細部のぴくぴくした動きや波のような腹にズンと応えるような大揺れは当然のこととなり、しかもそれが映像の力や自由さ、さらには美しさとなっていく。判読不可能なまでに早く流れる映像や、撮す人の動きのままに上下左右に揺れて飛び跳ねる映像は確かに現在をとてもうまく切り取っていくし、かすれたようなタッチも繊細ですごく好きなのだけれど、もろに船酔状態になってしまう。自分が揺れても対象が揺れても結果は同じらしく、吐き気とひどい頭痛、めまいの持続のような不快感が襲ってくる。目を閉じたり下を向いたりしてやり過ごしながらなだめながら、音声だけを聞いてときどき目を上げてちらりと確認したりするしかなくなる。そうして、やっぱり最後は諦めて出てくるしかない。ふつうの船酔とちょっとちがうのは、会場をでても陸にあがった時のようには目まいや吐き気がすぐには収まらないことだろう。つらい。胃のあたりのむかむかはずっと続いてしまうし、頭の痛みはこうやって次の日まで残ってしまうときもある、困ったもんだ。
 その時の映像は、「Japanese Independent Films For Cinema Freaks」という英文のタイトルの企画で、ようするにぴあフルムフェスティバルなんかにでてきた映像作品を紹介しようというもので、'95にグランプリをとった大月奈都子の『さようなら映画』もプログラムにはいっていてそれを観るのが目的でもあった。せっかく津屋崎から出てきて観るのだからついでに他のものも、とか思ってしまうこころ根の貧しさもあるのだけれど、でもそれで河瀬直美という人の『につつまれて』も観ることができた。これも以前からタイトルはあちこちで見かけていたのでうれしかったし、中身もしっかりしていて作品のことも方法の事も彼女自身のことも、それからもっと広がって少女性や家族や感傷や強さや弱さややさしさや、生きるいったことまでもしっかり考えさせられた。そして「男っちゅうのはなんて勝手でずるいんや」とも改めて思わされて、でもそれがチカラでもあることは誰もがいやおうなく識らされていることでもあるのだろう。映像のつなぎ方や処理の仕方が上手すぎるほどで、あざといまでの最後のもってき方にはうーんとうなってしまった。濃い中身の長編を短編の技法で中編にまとめたといえなくもない。とにかく大月さんもそうだけれど若い女性作家の甘やかさと大胆さと柔軟さと弱さ=やさしさにはただただ感心してしまう、ほとんど過激さと紙一重だ。彼女たちをとうして映像の力や未来に希望が見える気すらする。(両方とも関西で撮られ、関西語だったけれどそれも力にみえてしまう。たぶんズレとか自由さとかを感じさせるからだろうか。)
 そんなにも感動しながらもでもこの『につつまれて』も途中から苦しくてちゃんと観続けていられなかった。オリジナルの8ミリビデオでの上映で、方法論的にいろんな映像処理がしてあるから当然画面は揺れるし、頻繁に静止画面が挟みこまれて時間的にもぎくしゃくさせられていて苦しみは倍加される。事情があって(なんて都合のいい言い方だ)祖父母に育てられた作家の自分探し=父探しの物語でもある。すごく元気であいまいさなくはっきり語るおばあさんの魅力でぐいぐいひっぱっていき、だから作家のクルシミとかアマサがうまく中和される。この世代の特徴だろうけれど電話が多用されていて、あのふいの呼び出し音や、相手が受話器を取り上げた時に聞こえてくる機械音にはドキリとさせられる。(自分の日常であれ人の生活のなかであれ、あの響きのほとんど暴力的なまでの威圧を改めて思ってしまう。けして慣れることはできない。)フィルムには植物、特に花や昆虫がところどころに挟み込まれて奥行きをふかめているし、映像的な刺激や安堵感を与えてもいる(象徴としては使われていない、当然にも。そのへんはもう安心していいと思う)。そういったつなぎ方はものすごく上手だし、たぶんそれ以上にいろいろ読み取れるようにつくってあるのだろうけれど、なにせ半分くらいは下を向いたりうんうんうなったりしているので、おおざっぱな見方しかできなくて残念だった。
 それがプログラムの①で、②はとばして(折尾から観にきていた現代美術の作家で生物の先生をしている鈴木君と、ギャラリー゛とわーる゛の「西村光二郎展」を観て貘で食事した。彼はあんまり自主企画映像とか関係なさそうにみえるけれど、実は演劇も好きで、ジャズ、特にコルトレーンに詳しい。)、③で大月奈都子『さようなら映画』を観たのだけれどその前の『超愛人』(歌川恵子)という作品ですでに酔いが始まってしまい、しかも大月さんのはもっと過激に揺れるし跳ぶし、かすれるし、ほんとにつらかった。なかの会話にもデジャブという言葉がでてくるけれど、時間の流れも過剰に波うたせてありすごいなと思うのだけれど観る苦しみはしっかり倍加される。作家の生理の流れともちかそうなあの時間のゆきつ戻りつはちゃんと確認したい。撮影する主体が(被写体がといっても同じだけれど)いれかわったり、重なったりする。そうなるとわかっていても、すごく新鮮で説得力がある。さりげなく挟み込まれた映像が意味を持ったものであることが後でわかったりする。ここでも家族の物語が中心にある。当人にとっては絶対的で絶望でもうどうしようもないのに、でも世の中のどこにでもあるありふれたできごとでしかないといった、目の眩むような落差のなかに放り込まれる、つまり、死とか愛する大切な人を喪うとかいうこととして。癌の母親を一方に、それと対応する極端に不安定になった若い女性(作家本人)との間を、日常の風景と会話でつまり仕草で埋めていこうとすると、いうか背景の細部の全てに進行する物語を埋めていこう、記憶させていこうとする。だから繰り返される、揺れて流れ、かすれる風景そのものがそのつなぎ方も含めてとても大事なのに、頭の痛みと不快感は頂点にたっして、母親の死の前後すらちゃんと観れない、ものすごく残念だ。音だけ聞いていると父親からの死を告げる留守番電話の伝言が、虚実のはざまでいっそうリアルに聞こえたりもする。でもそのあたりは、家族の、母親の死という現実の前に謙虚に身をゆだねたいという観る者の思いが(そうあってほしいという小市民的な願いが)この作品のきわどいまでに虚構された残酷な構造を観ないようにさせてもいる、とくに船酔ですっかり弱気になった観客には。(一説によると頭の苦しみは映像によるめまいや酔いなどではなく、たんなる中年化による老眼のためだという人もいて、あまりにも散文的でがっかりする。現実というのはいつもいつも雑駁で、でもどっかおかしくて楽しい。)
IAF Paper No.13  1997 4 22