菜園便り355 アオジの死

菜園便り355  
2月29日  そしてまた、鳥の死

 海側玄関の横の水瓶に、また小さな鳥が浮かんでいた。濡れた羽根がべったりと貼りつき、哀れに小さい。むき出しになった細い足だけがやけに生々しい色にみえる。全体は黒っぽく、暗褐色や炭色も混じり、胸から顔にかけて鮮やかなレモン色の斑点が広がっている。
 調べてみるとアオジという鳥らしい。前と同じ鳥だ。あの時はカワヒラかもしれないと思っていたけれど、ずいぶんちがう、どうしてそう思ったのだろう。
 鳥が水飲み場で溺れるなんてありえないから、屋根で倒れて、雨水と共に流されてきたとばかり思っていたけれど、少し違うようだ。朝方によく来るメジロは、少なくなった瓶の水を飲もうと淵から水までダイブしては反対側に上がってくる。径が40センチほどの瓶のなかへと羽ばたいて降り、素早く上がってくる。一瞬のことで、これで水を飲めているんだろうかと思うけれど、何度も繰り返している。そのうち中央に下がった雨樋の筒とたわむれ始める。止まるところもない筒に横向きに細い足でしがみついてはパッと離れている。
 アオジもこんなふうにしていて溺れたのだろうか。
 メジロは遊んでいるようにもみえたし、じっさい他でも楽し気に飛び回っている。なにもあんなふうにまでしなくてもどこででも水ぐらいが飲めるだろうと、不思議な気持ちにもなる。でも周りを見回してもどこにも水たまりはなく、果てもないように海が広がっているだけだ。本気で水を飲もうとしていて、慣れないアオジは水に落ち、湾曲したカメの内側であがいているうちに潰えたのかもしれない。あわれだ。
 平たい入れ物を探して、妙にモダンに淵を切りとった花器を見つけ、雨水を張って瓶のそばに置いた。すぐにメジロが飛んで来て遊んでいたけれど、渡りする野生の鳥は、警戒して近づかないかもしれない。
 鳥の死のすぐ後に、中学時代の武藤先生の訃報が届いた。担任で体育の先生だった。日体大ラグビー選手で、全日本にもでていたと聞いていた。当時の中学にはラグビー部はなく近隣の高校で教えていて、花園にも行った、優勝したという人もいた。
 葬儀も、弔辞をはじめ体育会系が中心で、短かった教員時代に2年間だけ関わったぼくらは先生にとってはなんでもなかったのかと思わせられた。数年前、古希のお祝いでのクラス会では、あまりに弱られていて愕然としてしまった。強い人は体もそう簡単には衰えないから、いっそう痛々しく感じられる。
 もう半世紀近く前、大学入学が決まった直後、数人が集まって先生が始めたスポーツ関係のお店に行き、いっしょにボーリングをした。ボーリングも生まれて初めてだったけれど、それよりその後先生がみんなを中洲のロシータというメキシコ料理店に連れて行ってくれたことは忘れがたい。メキシコ料理といったものを知ったのももちろん初めてだし、そういうレストランに行ったのも初めてだった。
 ちょっと気取って兄のジャケットを借りていったけれど、そういうぼくをみて「お前はてんぷら学生になるな」といわれたことも覚えている。かっこばかりで中身がない軟弱な学生、ということだろう。
 当時はいわゆる学生運動の最末期の熱狂のなか、全国の大学で全共闘運動が一気に燃え上がり消えていった時期で、のんびり学生をしてはいられなかった。いろいろあって、これからは軟派でいこうと決意したりしたけれど、最初から呑気な学生生活だったらどうなっていたろうか。到着点は同じでももう少し穏やかな歩みだったかもしれない。
 鳥を葬った後、そんなことも思ったりする。

菜園便り354 2020年1月27日

菜園便り354
2020年1月27日

 今年の旧正月は1月25日だった。いつも2月だとばかり思いこんでいたのであわてて準備。結局、お昼にお雑煮をつくり神棚など4か所にお供えした、もちろん表の恵比須様にも。旧正月まではしめ飾りもおいたままだ。
 お供えは餅と、松や梅の形に切った大根と人参、それに昆布を一切れで、これは正月と同じ。父が必ず旧正月を祝っていたので、それを引き継ぐように続けているだけだけれど、こういった伝統行事や神事は人をおだやかな気持ちにしてくれる。料理といった家事が絡むからいっそうそう思えるのかもしれない。
 ひとりだけだから自分用の雑煮もシンプルで、特に今年は煮干し出汁に餅と大根、人参の他はちょっと緑を入れただけだった。魚もかしわもなくて正月よりずっと簡略。それでもお供えのお下がりを夜にいただいて、昼夜連続の雑煮になった。こういうことも今年初めてかもしれない。気がつけば父と全く同じことをしている。今まではかたくなっていていかにもまずそうだ、なんだか貧乏くさいと、お下がりをいただくのを敬遠していたけれど。
 それは、どの世代にもある先行世代への対抗、家長への反発が根元にあっただけなのだろう。すなおな目で見れば取るに足らない些細なことをとてつもない真理や優越と思いこみ、愚にもつかない理由を数えあげていたのだろう。そういう単純なことに気づくのも長い時間がかかる。世間の大方の対立や嫌悪はささいなことが始まりで、それがあっという間に取り返しのつかないことへと拡大されていく。なんて愚かしいことだ、といえるのにも50年という時間が必要だったのだろうか。愚かすぎるわたくしたちヒトという種には、ある絶対的な存在、大いなるものとしかいえない、宗教に囲い込まれない<カミ>が必要なのだろう。
 今年は暖冬でうれしい限り、指先が凍ることもなくしもやけにもならずにすんでいる。下着もいつもの年より1枚少ないまま冬を終えられるのじゃないだろうか。雨が多いのは憂鬱だけれど、そのせいもあって庭には緑がそこかしこに残っている。枯れた茅に取り囲まれながらもマツバギクは咲き続け、気丈に陣を張っている。この時期のほとんど唯一の花として客室、応接室を飾っている。
 ここ数年山茶花が咲かなくなったので待ちどうしかった藪椿がやっと開いた。濃い緑の葉の上の朱は鮮やかで目が離せなくなる。燐家の庭のはもうちょっとかかりそうだが、沈丁花は今日明日にもという風情だし、寒さをこしたレタスやルッコラ、パセリもじわじわ伸びている。ほんとに植物は勁い。

 

続・文さんの映画を見た日 ニコラ・フィリベール&王兵(ワン・ビン)

続・文さんの映画をみた日
去年今年・・・そして映画は続く:ニコラ・フィリベール王兵(ワンビン)

 去年みた映画は18本だった。こんなに少なかったとは、自分でも唖然とする。半分の9本はドキュメンタリー。やっぱり<リアル>はいろいろの意味で人を惹きつける。
 12月、最後にみた映画ということもあってニコラ・フィリベールの「ただいま修行中」は強く印象に残っている。看護師学校の生徒や先生が撮られた、ほんとにやさしい映画だ。いつものように穏やかなでも確固とした世界観で裏打ちされた視線で撮っていく。その場でいっしょに話しているような、ちょっと引いてうなづくような、そういうことをみるぼくらもやっている。
 そういった世界の掴み方は方法論にも支えられていて、監督は今、自分だけで撮り続けている。複数のカメラ(つまり複数の撮影者)で撮った時もあったようだけれど、それだとどこかちがうと、また自分ひとりでの撮影に戻っている。自分以外の人も含め複数で撮るとかえって「撮れない」ものが多くなってしまうのかもしれない。人はなにかをみるときいやでも応でも取捨選択をしながら頭を通過させながらみてしまうから、感じ方が違う人の映像は同じものを撮ってもどうしてもちがうものになるのだろう。最近の王兵監督の映画にそんなことを感じてしまう。
 1月にみた「ぼけますからよろしくお願いします」はタイトルが嫌でなかなか口にしずらかったけれど、2度みにいった。腰が直角ほどにも曲がった95歳の夫が、認知症の妻を抱えて生きていく姿はあまりにもせつなくて涙がでる。でも穏やかで勁い人は、楽天的にもなれて、杖にすがり財布を握って近所に買物に行くときも、百メートルほど行っては息を切らして休みつつ、カメラを構える娘に向かって「えらいことや」と笑う。
 妻任せで家事をなにもやってこなかったから、洗濯をやるようになったときは3時間もかかった。それでもそういうたいへんさやいらだちに打ちのめされ覆いつくされてしまうことはない。ゆっくりひとつひとつ、互いに声をかけあい時にはどなりながら、今までのように二人の生活は続いていく。他人や公的な場からの助力への遠慮をみていると、現代社会から消えつつあるすがすがしさ感じさせられるし、世代の矜持や共同体の掟も垣間見える。

 DVDやブルーレイではどっさりみたし、いいものもたくさんあったけれど、やっぱり大きな画面で集中してみないと映画をみたとはいい難い。特に最初にみるときは、撮った側が意図したものがきちんとみえる大きさで確認し、そこで生まれる世界を受けとることからはじめたい。日常生活の場で雑多なものや電話にも囲まれ、TVやモニターの小さい画面でみると、はっきりわからないものが多すぎるし、集中にも限界がある。
 大きく投影される画面に呑みこまれていき、表現のなかをもう一度くぐっていく。そこまでの力が生まれているのかどうか別として、たいせつに思う作家の作品は、先ずは適正な、つまり大きな画面でみなくては悔いが残るだろう。ワンビン監督の「苦い銭」を最初に自宅でDVDでみてしまって、あらためてそう思う。これでの、彼の作品への震えるような圧倒的なまでの感動がなくて戸惑ってしまった。やっぱりこういう形ではだめなのか、それとも、もしかして、さすがの王兵監督でもすごい映画を撮り続けることはできないというあたりまえのことなのか。でも今まであまりにもすばらしい作品が次々につくられてきたので、ついそれがずっと続くと思ってしまっている。                      
 王兵監督の『収容病棟』で再開した「玉乃井映画の会」がなんだか心もとないというか、落ちつかないのは上映の形にも原因のひとつがあるのだろう。
 一昨昨年に初めて『収容病棟』みた時は、あまりにも厳しい内容で正視できないことが多かったし、動きの多い画面に船酔いしてしまい、もうこれ以上はみ続けられないなと諦めかけた。前編と後編の間に1時間近い休憩があったのでお茶をのんで気力を回復させ気合を入れてどうにか全体を見終えることができたけれど、それくらい生理にもくいこんで衝撃的だった。
 泣く人、怒鳴る人、黙して表情もない人、人のぬくもりを求め他人の小さなベッドに潜り込もうとする人、庭に面した回廊になった廊下をただぐるぐる回り続ける人。
 展開される具体に目を上げられない。部屋のすみの小さな洗面器に排尿する人、濡れた床を裸足で歩きまわる人、着の身着のまま靴もはいて布団に潜り込む人、雪降る夜に素っ裸で頭から水をかぶる人、十数年拘禁されている人の横で、昨晩強制入院させられた人が涙ぐむ。
 拘禁されているから、できるのは食べることしゃべること歩くこと寝ることぐらいだ。バラバラの関係のなか、洗面器のお湯でゆっくりと足を洗ってくれた人に渡される小銭と煙草。ときたま不意に生まれるユーモアからあたたかさややさしさ、かすかな甘さがふくらみ広がる。そうして横溢するアナーキーなまでのエネルギー。
 王兵監督はとにかくしっかりみつめ続ける、穏やかにでも頑固なまでに場を人をじっとみつめている。そうして同時に自分を開いて場を人を丸ごと受けいれているから、場も対象も開かれる。誰もが、そこにワン・ビンがいてカメラもあることを認識しつつ受けいれていく。
 ワン・ビンに静かなやさしさ、深い諦念をくぐったうえでの積極性とでもいえるような穏やかな明るさ、豊かな力、つまりは受けいれていく勁さがあるからだろう。そういうことがしぜんにできてしまう力を持っていてただただ驚嘆させられる。
 全編に溢れるのは人への尽きない関心、愛や思いやり。生きるつらさを、世界の哀しさを静かにみつめ、そこにたしかにある人の勁さ、尊厳、美しさを描き、かすかなおかしみとそれが生みだすふくらみや広がり、あたたかさを丁寧に掬いあげていく。
 なにが王兵監督を奥へ奥へと入り込ませていくのだろう。好奇心にも裏打ちされた、世界への飽くことなき興味だろうか。冷静な判断もそなえ、「現代」の「中国」の「僻地」の、という状況がおびざるを得ない社会性も、映画の背景にきちんと取りこんでいく。
 小型デジタルカメラ1台を抱えてどこへでも果敢に飛び込んでいった監督が今、複数の人によるカメラ撮影で世界を切りとり、編集してつなぎあわせていく。それが今までの作品とちがう、ほんのわずかな、でも決定的なずれを生んでしまったのだろうか。それでもまだまだ大勢の人が次を待ち望み期待に満ちて画面に向きあおうと待っている。掛け値なしに今、世界でいまもすばらしい映画監督であり表現者だ。

菜園便り353 鳥の死、再び 

菜園便り353  10月16日
鳥の死、再び                    安部文範
 海側の玄関横の水がめに小さな鳥の死骸が浮いていた。時々あることだからあまり驚かなかったけれど、やっぱりぎくりとする。そうしてその小ささにびっくりさせられる。生きていても濡れて羽毛がはりついているときは、ふくらみがなくて哀れなほどほっそりとしている。ふだん見ているかわいくふっくらとした外観は、張りのある羽毛や羽の力だとわかる。
 黒っぽい雀くらいの大きさで、背中や尾羽に黄色、というよりレモン色の羽が混じっている。こんな鳥は見たことがない、すごく珍しい鳥ではないのだろうかと思ったりもする。その小さな羽根で、どこかとても遠いところから渡ってきて、またどこかへ行こうとしていて、ここで潰えたのかもしれない、とか。
 いつものように掬って庭の奥に埋める。小石の混じる荒い土、浅い穴のなかに沈めて傍らのツワブキの葉で覆い土をかける。ざらざらとした土。昔みたギリシャの映画の埋葬シーンが思いだされる。石混じりの土が、穴の底の棺の上にごつごつと音をたてて落ちていく。身につまされて嗚咽さえうまれそうになった。不意の死、覚悟の死、誰もが必ずいつかは出会う死。「たとえどこで君が倒れても」といったことばや、「きみが死んでもたとえ話にもならない」という詩句も思いだされる。
 小さな鳥は眼を閉じ、なにもかも諦めたように黙って濡れたままだ。
 爽やかにさえ見えたレモン色が気になって調べてみると、カワヒラというこのあたりにもよくいる鳥のようだった。たくさんの鳥が来て鳴いているのに、気づくのはほんの2、3種くらいしかない。
 鳥は濡れても死んでも、羽は輝き、鮮やかな色は残っている。
 遠くで声がする。

映画評「風車」、「水平塾ノート」他

映画評(西日本新聞「風車」、「水平塾ノート」他)
侯孝賢の少年
 今年のアジア賞グランプリ受賞を記念して侯孝賢ホウ・シャオシェン)の1980年代前半の映画が回顧上映され、彼の自伝的シリーズのひとつといえる作品『風櫃(フンクイ)の少年』(83年)を観ることができた。澎湖諸島の小さな町、風櫃の゛不良少年゛たちの物語。高校を中退し、バイクを乗り回し、玉突や喧嘩に明け暮れるような毎日の、家族との関係も当然のようにぎくしゃくしている少年たち。苛立ちがつのるように、喧嘩や諍いも拡大し、怪我や警察沙汰が続いた後、3人は大都市高雄へと家出する。
 侯孝賢の映画に顕著なことだけれど、喧嘩も含め集団での姿や動きは実にリアルでみごとだ。喧嘩のせっぱ詰まった、でもどこかいい加減でもある、恐さやおかしさが、くっきりと写されている。苛立ちや反抗は、大人になる前の通過儀礼でもあるのだろうが、彼らの場合にはいつもどこかに徴兵という薄暗い影が被さっている。それはこの映画に描かれた時代の台湾という国の閉塞が落とす影でもあるのだろう。成長し、生きていく途上で、ほとんど暴力的に何かが中断されること。しかもそれはけして単なる儀式ではなく、当時の中国や世界という具体的な要素をいつも抱え込んでもいた。
 滑稽で切実で、そうしてどうしようもなく切ない思春期の少年たち、まだ余分な筋肉も脂肪もない、すらりとした自由さが、時代と場のなかで、ありきたりのそしてかけがえのない一度だけのひとりひとりの姿として過不足なく描きだされている。(舞座)
 

40年目の『にあんちゃん
 「在日」というタイトルの映画が福岡で上映された。在日韓国・朝鮮人の戦後五〇年史を凝縮したドキュメント・フィルム。Ⅱ部からなっていて、前半は様々な過去の映像も使いつつ新しい視点の戦後を浮かび上がらせる。後半は一世から三世までの六人が取りあげられ、最後が『にあんちゃん』の作者、安本末子の娘の李玲子さんで、母の暮らした佐賀の肥前町大鶴炭鉱跡を訪れる。一九五八年頃ベストセラーになったこの少女の日記のことを今どのくらいの人が知っているのだろうか。今村昌平監督で映画にもなり、その方で覚えている人もいるかもしれない。
 大鶴炭鉱は五七年頃には廃鉱になっており、だから今は炭住も何も残っておらず、草木に覆われた丘が海に向かっているだけだ。母の同級生だったという役場の職員に案内されながらゆっくりと歩く李さんが写されている。
 「にあんちゃん」を読み返してみると少女が以外に勝ち気なことや、一〇歳になるかならないで、生きることを見とうしてしまったような鋭いところもあって驚かさるが、かつて想像のなかで作り上げていたのは、李さんような一見か弱そうな少女だった。あの日記が今も胸をうつのは、貧しい生活や学校のできごとをとうしてあの時代がくっきりと浮かび上がってくることと、少女の向こうにいつもいるきょうだい、とくに長兄と姉の、今では信じることも難しいような優しさと誠実さだろう。郷愁としてでなく、今も人のなかに確かにあるはずのそういう優しさや強さを、どこでどのように「再発見」できるのか、それもこの映画の残した問いのひとつだろう。<舞座
 
まひるのほし 生きること、表現すること
 あの名作『阿賀に生きる』の佐藤真監督の六年ぶりの第二作めにあたる作品『まひるのほし』。新潟の阿賀野川流域に三年以上住んで、畑仕事をしながら少しずつ関係をつくり、撮影した『阿賀に生きる』とは出発や作り方もちがっていて、だから一作目のあの圧倒するほどの密度の濃さや、人を無言にさせる深い静かさは直接はでてこない。そもそもああいった静かな日常の表情のなかに、世界の本質とでもいえる、単純で無限な奥深さを取り出してみせたことのほうが信じ難いことであったのだろう。映画の重要な環である「水俣病」に関しても、病気やその患者を対象化して分析することではなく、病気そのもの、公害そのもの、この社会そのもの、さらには人そのものへと視線は向けられ、深まっていた。
 『まひるのほし』では「障害者」と呼ばれている人たちの「美術(アート)」と名づけられている活動をドキュメンタリーとして撮りながら、監督やスタッフ自身がそういったことがら自体への疑問を持ち、考え込みながら、映画という表現としてたちあげていく過程も映画に重なってみえてくる。
 登場する何人かが創造する表現は、そのまま現在の「美術」や「現代美術」にぴったり重なる、または重ねられてみられてしまう。それを「美術」作品として感嘆し、また表現として心揺さぶられつつも、「障害者」と彼らを取りまく人たちの関係や営為をゆっくりと距離をおいて見ていこうとする。そこでは個々の事柄としてでなく、映画全体として、人の不思議さやおかしさ、そしてその勁さ、生きていることの喜びが、当然にある苦しさや暗い面を陵駕して広がる。父親が語る、西尾繁さんのお母さんのできごとが画面のなかでぷつんと切れるとき、それは聞く人のなかに終わりなく響き続けるものとして残るだろう。人が持つやさしさや強さ=弱さということの複雑な重さ、さらにはあたりまえさを知らされる。
 見ていくうちに、「障害」とは「美術」とは何かという問いがみえてくるし、それから当然にも「人」とは「生きる」とは何か、といったありふれたでも根元的な問いへとつながっていく。私たちが生きているこの時代や社会のねじれにも思いはつながる。「障害」も「美術」と呼ばれる表現も、私たちの社会にずっとあったものであり、それを含みこんでしか社会も私たち自身もなりたたないこと、「障害」と名づけて自分の外におくことの異様さやおかしさをはっきりと識るしかないと。
 その「作品」で世界に衝撃や豊かさを再度送り返している彼らの表現が、「美術(芸術)」へと囲い込まれていき、消費されていくのを見るのは残念だ。その存在そのもの、その表現そのものが、今のこの世界とそのなかの私たちの存り方や狭さを照らしだすものなのに、それをもう一度現在の閉ざされた、貧しい価値観のなかに引き戻すことでしか、伝えていく手段が見あたらないということなのだろうか。色彩感覚や造形力のすばらしさとか、心をうつ真の精神性の深みとか、現代美術をはるかに越えた前衛性とかいう発想そのものが全てを失わせていく気がする。わたしたちのなかにあるありふれた、そして限りない様々な力(能力)や表現を、名づけたり枠の中に閉じこめたりしないことから先ず始めるしかないのだろう。
 

『河』 蔡明亮監督作品
 今世界で最も重要な映画監督のひとり、台湾のツァイミンリャンの三作目の映画『河』が福岡市のシネサロン・パヴェリアで公開されている。家族や性の問題を、台北という欲望溢れる大都市を舞台に描いてきた前作『青春神話』『愛情万歳』の続編でもある。ほとんど弧絶しきったと言ってもいいほどバラバラになってしまった人たちが、つながることでかえって深まってしまう孤独さえも抱え込みながら、それでも続けていく、また創っていく関係。 
 『河』ではそういったテーマがさらに突き詰められ、壮絶なまでの様相で、何ひとつ容赦せずに、中途な感傷や解釈を振り切って深められる。家族の崩壊からの癒しと再生とか、性の多様性の容認(他者としての)とか、異性愛の焼き直しでしかない同性間の恋愛というファンタジーといったことのはるか先。軽やかささえある穏やかな日常の風景と、重く鈍い湿度に満ちた暗い画面のなかで、先ず体だけが映しだされる。
 ほとんど口もきかない父、母、息子の三人。母は愛人を持ち、老いた父はゲイサウナに出入りし、息子はスクーターを乗り回して職もなく生きている。河に浮かぶ死体のエキストラをやったことから、息子の首が痛み動かなくなる。お互いの距離を再確認しつつも、父や母は彼を病院や整体や祈祷師の所に連れていく。父と息子が祈祷を受けに行った台北を離れた都市で、彼らはゲイサウナの個室の暗がりで知らずに体をあわせてしまう。
 そのあと、ふたりは宿泊しているホテルの大きなダブルベッドの端と端で背を向け合ったまま横になる。暗闇を見つめる父親の目から涙が流れる。それは父親や関係の浄化でも、映画としてのカタルシスでもなく、人として存在することそのものの哀しみとでもいったものだ。翌朝、ベランダへ出ていった息子が、息詰まる数秒の後、光のなかの画面に戻ってきてゆっくりと首を動かすなかに、世界への肯定、受け入れる勁さとでも呼べるものが見えてくる。映画の全体に散在する小さなユーマアも含め、けしてなくなることのない視線のあたたかさによって、世界や生、それに性は問い返されながらも肯定されるものとして語られる。
 甘美さとか夢だとかいうロマンティックな幻想が一切喪われた場所でも、人と人の性も含めた関係は、愛は成り立つのか。親子の間の愛は強制されるが性は排除されるのか。男と男のつながりのどこからが性なのか。答えのない問いが投げかけられる。
 この虚ろで寒々しい時代のなかでの無惨な、でもありふれてもいる在り方、家族や人々が、憎み、愛着し、振り回されつつも、でも手の中の関係の糸を、まるで当然のことだというように手放さずに、でも諦めを抱いて生きていく、そういう貧しさや不幸さえもが生や世界の豊かさを増すとでもいったように。深いところで静かに強く人をうつ、リアルな説得力を持った映画だ。
 

穏やかな人生
 暗ぐらと深く厳しい作品を撮り続けるロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の『穏やかな人生』(1997年)が、福岡市図書館ホールで上映された。奈良県の山奥にひとり住まいする老婦人をじっと見つめたドキュメンタリー。百数十年はたつ堅牢な家、柱や棟は揺るぎなく、濡れ縁の木目が柔らかく浮き上がり、上がり框は撫でさすったようにすべすべと光っている。自然や孤独の険しさに拮抗する勁さをもって、蝋燭やランプの揺れる火の下、七輪で煮炊きし、冬でも開けはなった住まいのなかに火鉢だけをおき、けしてうつむかず、かがみこまず、和裁で生計を立てながらの生活。床や畳のきしみ、時にごうごうと響く風の音、重なるソクーロフのナレーション、全てに満ちている静寂すらも聴こえてくる。 
 撮影の最後の夜、彼女は熱いお茶を両手でゆっくりと吹き冷まして飲み終え、氷解したような柔らかい表情でカメラに向かって語りはじめる。でも言葉は口からは発せられないまま、そっと折り畳まれる。そしてそこに言葉に形作られてしまう前の、深く豊かなものが溢れて満ち、伝わってくる。消費のための饒舌でもなく、切り刻まれ整然とした論旨の合理でもなく、また「言葉は嘘になります」という火急な否定でもないものとして。
 旅立つ人へのはなむけの宴として、正装した婦人が夜の座敷で自分の歌や句をぽつんぽつんと読み上げる。けして自分にも見せない孤独の痛みが、亡くなった夫への、嫁いだ娘への直接的な呼びかけとしてかいま見える。浸されるほどの生の豊かさや輝きと、その酷いほどの悲哀や苦しさが静かにさしだされる。(舞座)
 

「愛」という問い
 第14回アジア映画祭で、侯賢孝、蔡明亮といったすばらしい映像作家を生み、エネルギーに溢れている台湾の、ドキュメンタリー数本を見ることができた。二本はセクシュアリティに関わったもので、ひとつは呉輝東監督の『ハイウェイで泳ぐ』。問題を見つめ、対象と真摯に接し、肉薄しようとする。でも性というのは感受性や生理に直結し、社会と個人との関係のなかで複雑に錯綜していることがらだから、オーバーヒートしてしまう。また、対象に振り回されて、撮る側の思いがむき出しになっていき、カメラを介した撮る-撮られるという関係、そのなかでの「真実」と「演技」といったことを性急に問う方に流れてしまったりする。大学もやめ、仕事もなく、精神も病んでいるHIVエイズ)ウイルスに感染している青年が、カメラに向かって「じゃあ絵になるように泣いて苦しんでみせようか」と笑って語り始め、でも流れる涙は止まらなくなる。その虚実の実の深い哀しみが、類型的な感傷と見えてしまう残念さ。それが嘘だというのでなく、たぶんそういうやり方ではたどり着けないし、伝わっていかない問題だということだろう。そのことにどこまで自覚的になれるか、自身の生理や肉体、病理さえ、社会化されたものでしかないこととして相対化できるかどうかにかかっているのかもしれない。
 もう一本は陳俊志監督の『美麗少年』。「ゲイ」であることを家族や友人、ひいては社会に告げている(カミングアウトしている)十代の少年たち。その明るい率直さや勁さ、家族のやさしさが、゛暗い゛テーマから抜けさせ、未来への希望を伝えてきてすばらしい。しかし彼らが名づけられている「同性愛」という言葉が、異性愛というカテゴリーを生みだすために恣意的に引かれた境界線の結果でしかないことは抜け落ちていき、そういう存在があたかも不変のものであるかのように確定されてしまう。当人たちも「名のる」ことで、恣意的に創られた区分けという強制を自ら受け入れ、「同性愛者」として閉じこめられる結果になってしまう。
 性の問題では、往々にして、家族が身近な故に最も激しい抑圧者になってしまう残酷さと、「自分の子どもだから(子どもだけは)」という無条件の受け入れとが表裏の関係をなしてしまうことも、この映画から痛いほど伝わってくる(語られないことをとうしても)。その相克はどう埋められる、超えられるのだろうか。
 映画から外れるけれど、女性-男性という性別の固定化=強制への不一致感、苦痛に耐えらずに、肉体までも手術で変更しようとする過激な強さが、でもそもそも否定したいはずの性別の固定を裏からしっかりと補完してしまうとういう辛い逆説にはまり込んでしまうことも難しい問題だろう。
 「ちがう」人たちを差別しない良心や正義を語るのではなく、そもそもちがいというものが今の時代や社会のなかで創られ、無意識下で強制されているものでしかないこと、ちがうと意識する自分を問い返すことが先なのだと知るのが重要ではないのだろうか。
 
「性別」を超えて
                                                          安部 文範
 先月開催された映画特集「揺れるジェンダー、揺らぐセクシャリティ」は、フェミニズムから耽美的な゛ゲイ・ムービー゛、切迫した性への問いまで、多様すぎて混沌とした印象を残したが、それは今という時代やこのテーマの現在そのものでもあるのだろう。
 これまで堅固に思えていた様々な価値観が、その根本の所で揺らぎ始めている。社会の基盤そのものとも思えた、「個」や「家族」の概念などと共に「性別」も確固とした不変のものでないことが語られ始めている。固定された男性-女性という性別の区分けに違和感を持ち、自分の戸籍上の性別に安住できない、納得できかねる「トランスジェンダー(性別への異和)」の人へのインタビューを中心にしたドキュメンタリー「We are trance genders-性別を越え自分らしく生きる」はいろいろに考えさせられる。規範的な゛男性像゛の意識的、無意識的な強要に疑問を感じ、それを一時保留して押し返し、髪を長くし、スカートをはくことですごく安定できたと語り、でも女性になりたいというのではないし、自分を女の子だと思っているわけではないとも語る。性の異和、不安定感からどうしても抜けられなくて渡米し、そこで先ず「同性愛」の人たちのなかで考え始め、その助けを受けつつも、同性愛ではない、自身の「トランスジェンダー」というあり方を見つけて、一定の安定を得る。(それは、症例と同じで名前を見つける=つけられることで、安定することであるけれど、一方ではそこに囲い込まれ、閉じこめられるていくことでもあるけれど。)
 そういうあり方は、「トランスセクシュアル(性別の異和から性転換へ向かう)」と呼ばれている人が、手術などで自分の体の方を戸籍と別の性別に変えてしまうことと似ていて、でも大きくちがって聞こえる。社会が強制する性別に激しい違和感を持ち、それに苦しむことから解放されたいという願いが、体を変え別の性別に変わることで、最終的には、そういう否定したかったはずの性別の固定化を裏から補完してしまうというつらい逆説に落ち込むことにもなってしまうことと。
 現在、社会的に決定されている性別がけして絶対的、普遍的なものではなく、それぞれの時代や地域での共同体の制約のなかで、様々な形をとるものであり、そもそも性別という概念そのものが問い直されようとしているのだろう。「インターセックス半陰陽)」と名づけられている人たちの違和感はもっと直接的だ。現在の、二つの性という固定化の下で、本人の自覚が生まれるずっと前に、医者が中心になって性別を決定し、手術してしまう(性器機能主義から主に女性に決定してしまう)ことの暴力的なまでの強制が、インタビューのなかで語られる。「性別」という概念そのものが無意味であり、抑圧としてしか働かない場に立たされている苦痛から抜けていくには、固定化された二つの性別の区分けの上で、第3や第4の性別を創っていくという方向でなく、性別という概念そのものを相対化し、そういうことに囚われないもっと開かれた場を自身のなかに、そして社会のなかにつくっていくしかないのだろう。
 

「自分探し」を捨てて
 極小予算で映画製作ができるヴィデオが普及してアジアのドキュメンタリー映画は活況を呈し、多様ですばらしい映画が次々に作られており、その特集が図書館ホールでも開催された。「ナヌムの家」の監督によるその3部作の最後になる「息づかい」、台湾の労働争議を独特の視点で撮った「労使間の滑稽な競争」、話題になっている在日3世による「あんにょんキムチ」、民族派パンクロック・バンドの女性ボーカリストを中心に据えた「新しい神様」など、インパクトのある作品が揃っていた。
 そのなかでも、茂野良弥監督のドキュメンタリー「ファザーレス 父なき時代」は衝撃的だった。幼いときに両親が離婚し、母と義理の父との生活にもなじめず、高校も不登校になり、今は東京に住んでセクシュアリティの問題も抱える青年が、ビデオカメラと共に故郷に帰ってくる。若さの甘えも含んだ傲慢なまでの真摯さで、叫び泣きながら周囲に問いを放ち続けていく、ほとんど暴力的なまでに。文字どおり過剰なまでの愛憎対象である母親に詰問し、自分たちを捨てた実の父親を訪ね、現在の父親に抗議していく。その問いの前でうろたえ、怒り、嘲笑い、黙し、そして結局は愛ゆえに全部を受け止め、全力で返してくる親たち。そこではもう「親」という立場(社会的属性)はほとんで振り捨てられ、意味を失い、人として、愛を与えうる人としての答えが返されてくる。そういう反応をどこかで信じるから、ほとんど捨て身の、挑発的な問い=攻撃は始められたのだろう。母は自身の生き方だけでなく、性愛の遍歴や、現在の夫と赤裸々な関係も開いていき、義理の父は問いつめられるなかで、息子の苦しさや甘さ、その深さを問い返すように、自身の受けた過酷で苦痛に満ちていた差別や生を語る。「ああいうことはあっちゃいけないんだ」という父のことばの深さと普遍が、息子を、映画を、家族や地域や社会といった枠を突き抜け、人と人、心と心といった次元でのつながりへと連れだしていく。
 息子が(多くの現在の若者や人々が)探す自分、つまりアイデンティティ、何かへの帰属意識、それは現在の生きることの虚ろさや不安定さに耐えられずに呼び込んでしまう、新たな、時代や社会がつくる幻想でしかないだろう。個(自我)を確立して、世界に対峙するといった自立の幻想をも対象化し、振り捨てて、彼の母や義理の父の立つありふれて単純なそして深みの場で、同じように開かれて語れるようになれるのか、今、彼が問われ始める。

病枕記  死にぬく力

病枕記  死にぬく力  
                                    安部文範
8月18日
やっと父の初盆の行事も終わり、またゆっくり見舞いができると十一時半頃に病院にいくと、ひどくぐあいが悪い。今まで毎日完食していた食事がまったく入らない。お茶もよく飲みこめないので、気管がつまらないように唇をぬらすだけ。唇をすぼめて吸いついてくる反応は少しあるが、水分をわずかに吸い込めるくらいだ。つい先日までは葡萄や一口大の桃もツルンと飲みこんでいたのに。一生懸命なその姿がどことなく巣のなかのひな鳥のようでもあったのに。
看護婦長から、看護やお見舞いにも落ち着いて対応できるから個室に移られてはという話がでる。「ありがたいが、そのゆとりがないので」と応えると、「お金の心配はされなくていいです」とつらそうな表情で繰り返され、それでなんとなくわかる。病院では、後で思うとああそういうことだったのか、というようなことが多い。またことばそのものの意味やニュアンスははっきりとはわからないのに、しっかり真意は伝わってくるというようなことも多い。
死の準備、身内のつきそい、最後の別れの客への配慮、それから慌ただしい出入りを隠すことで他の患者を動揺させない、そういったこともあるのだろう。
それまでがナースステーション横の、看護士がガラス窓からのぞける部屋だったから、廊下を挟んだ個室への引っ越しもあっという間に終わる。婦長から、泊まられるんだったら簡易ベッドと毛布くらいはありますと教えられる。その場ではまだピンとこずに断ったけれど、いろいろ頭に染みこんできて、そういうことかと頼むことにする。その夜から泊まりこむ。
ただそばにいるだけで、顔を拭いたり腕をさすったり、頭をゆっくりなでたりぐらいしかできない。鼻への酸素チューブを嫌がって外すこともなくなった。そういう力も失われたということだ。
(一度自宅に戻り窓にも鍵をかけて戸締まりし、最低限必要な荷物を持ってくる。)
二時間おきくらいに紙パンツのチェックと取り替え。もう自力ではねがえりもうてないので寝位置を右向き、左向きと交替させて、褥瘡(床擦れ)の予防。喉から管を押し込む痰の吸引はとてもつらそうだ。意識はあまりないのに毎回はっきりと拒否の意思表示をする。
再々度今後のことを聞かれ、人工呼吸器は使わない、心臓マッサージもしないことを確認し、栄養の点滴と昇圧剤は頼む。会話の流れでそうなったのだけれど、医師はちょっと意外だといったふうだった。それはたぶん緩和ケアだけおこなう、無理に蘇生させたり延命させたりしないということと、点滴や昇圧剤という一種の延命措置が矛盾するからだったのだろう。ぼくのなかにももちろん矛盾がいっぱいある。苦しげなのを見るのはつらく穏やかにさせてやりたという思いと、死なないでくれ死なせてたまるかといった気持ちが同時にある。
 
8月19日
0:00、3:00に紙パンツ取り替え。寝ている向きの交替。
8:00 
血圧52ー123 体温37・9度
酸素チューブから酸素マスクに変わる。
10:24 
血圧38ー66、再度の検査では少し上がる。血圧36ー78  体温37・4度
ベッド横にモニターが取りつけられる。胸に三個のパッド、腕に血圧用のバンド、指に酸素飽和度チェックのクリップが取りつけられる。
 
呼びかけても軽くたたいても反応はないが、頭も鼻も手も温かい。苦しげな速い息で、聞いているのも見ているのもつらくなる。できるだけ声をかけ、頭や手に触れる。大勢の人が看護に関わっているのがわかる。そのなかには特に頻繁に看に来てくれる看護師もある。
(朝食は自販機の温かいレギュラー珈琲とサンドイッチ、昨日の残りの葡萄。)
舌をぬらす、少し反応あり。
(洗濯)
 
13:15 
血圧55ー101、体温37・4度
14:00 
紙パンツチェック、換えなし。
16:00 
紙パンツチェック、換えなし。  
神宮担当医師回診
「数値はよくない、点滴も負担になるかもしれない。一日100ccでやります。」
「いつなにがあってもおかしくないということですか?」
「そうです。」
 
(昼食にでて、家に戻りシャワーをすませ、果実などを持ってくる)
 
午後、点滴始まる。
5時過ぎの血圧は41ー88。
18:30 
(夕食)
喉になにか引っかかっているように、息苦しそうに口を閉じてモグモグさせる。初めてナースコールを使い来てもらい、痰の吸入。褐色の液がどっと管に入ってきてびっくりする。200ミリ以上。ある程度吸引し、酸素飽和度が87まで落ちたので中止し酸素マスクをもとに戻し、また後ですることになる。時々喉がなるが、自分で口を開けて息をして落ちつく。後でもう一度100ccほど痰などを吸引。
震えながら腕をもち上げようとするしぐさや自分で布団をはぐことも少なくなる。それでも時々は、ハンッという、声というか空気の塊をだすような音がでる。なんとなくユーモラスで、だからこちらも応えるようにハンッと声をだしたくなる。心理的なものも含めてなにか胸につかえているものを吐きだしている、そんなふうにも聞こえる。
手首をカクッと曲げて震えながらあげられる手は、老婆のような、魔女のような。そんな比喩が全くの的はずれでないくらい痩せて細くなってしまった腕。それでも手の甲は驚くほどすべすべしていて、血管も透けてみえる。
半開きの口が苦しそうにせわしなく息を吐く。ハァハァという音が時折速くなったりもする。聞いているのはつらい。脈拍が116とか120とかだから息苦しいはずだ。大きく息を吐くたびに頭全体がガクンと後ろに下がり、顎があがる、氷枕が揺れる。
21:05 
血圧 55ー101、脈拍(HR)117、酸素飽和度(SPO)92、呼吸数(RR)38
手を動かして、指先を挟んでいる酸素飽和度のクリップを首や顎にギュッと押しつけるのは、なにかの刺激を感じとれるからだろうか。むしり取ったりするしぐさはもうない。
18:10からソルデム1点滴 500ミリ。  
久しぶりに顔中がクシャクシャになるくらいの大きなあくび。「ポパイ」に出てくるおじさんのように、大きく開いて気持ちよさそうに。
21:20  
喉の妙な音の後、呼吸が止まる。口を半開きにしているが、吸うも吐くもない。ナースコールできてもらう。肩を軽く叩いて呼びかけると、数回呼吸する。痰吸引。痰は出ない。鼻から管を入れる。苦しそうだが今までほどの極端に嫌がる反応はない。不規則だが呼吸が再開し、徐々に落ちつくが、呼吸の音も小さい。不安がつのる。
夜は23:00、0:00、3:00にチェックの予定。

8月20日
(昨晩は10時にはバタンと寝てしまって23:00、1:00のチェックは覚えていない。)
3:00 
チェック
5:00 
センサーアラーム 酸素飽和度値が下がっている、マスクを直す。
5:45 
紙パンツ換え  
(起床。「へんな夢を見たよ、今日は曇りだよ」と声をかける。)
6:15 
体温36・9度  血圧62ー85  酸素飽和度95  呼吸数31 脈拍111
「夜中に落ちつかれていてよかったですね」と看護士。
7:00 
病室付きの洗面台の蛇口からのお湯は出ない。諦めて給湯器からのお湯を何回かコップで持ってきてタオルを温める。目やにをとり、顔と手を拭く。耳、首、胸も。あまり気持ちよさそうではない。鼻の穴も昨日の吸引の時の黒ずみがあり、耳コットンで拭く。そんなには嫌がらない。
(昨日残していた葡萄を少し食べる。)
7:15 
おしぼりが届く。温かいのでもう一度顔を拭く。お茶、水もくる。
明けてくると晴れる、「晴れたよ」と告げる。
いつものように四、五回呼吸して身体をびくんとさせる。時々、ハァーッ。たまにあくびもある。
7:30 
紙パンツ換え。
八時ぐらいになるとおはようございますの挨拶も頻繁になり、人の行き来、物を動かす音、ワゴンを押す音が響く。気がつくといつのまにか駐車場が全部車で埋まっている。
(八時頃、レストランはまだあいてないので売店でサンドイッチと牛乳、あたたかい珈琲で朝食。)
9:05 
医師回診。一分で終了、といった速さ。「声かけされましたか」との問い。その意味ははっきりとはわからなかったが、「はい」と答える。意識がなくても声をかけた方がいいということだろう。
聴診器を三箇所にあて「昨日と同じです」。
「息が止まって呼吸しなかったときがありますが」と聞くと、「そういうこともあります」という答え。
9:15 
掃除。昨日と同じおばさんがみえ丁寧にモップをかけてくれる。婦長がみえ、少し話す。簡易ベッドは寝心地が悪くてもうしわけないなど言われ、助かってますと答える。窓ガラスを拭く人が後で来るとのこと。
9:35 
身体ふき、着がえ。半袖のサーモンピンクのストライプが入ったパジャマを用意する。席を外してくれと言われ、外す。紙パンツ換え。
10:05 
朝のバイタルチェック。体温37・0度 血圧52ー103
痰吸引。のっけから鼻に入れられつらそう。吸引は何度見てもこちらまで痛く、苦しくなる。席を外してみない方がいいのかもしれない。
10:30 
婦長が再度みえ、窓ふきは内側もあるといって、簡易ベッドを窓際から移動する。
身体のビクンビクンが大きくなり、その度にセンサーがずれてアラームが鳴る。
10:50 
血圧59ー103 
氷枕をとりかえる。
痩せて痛そうなほどとびだしたのど仏の先端が、時々ぐぐっと顎の皮膚を引っ張るようにして下がる。
11:00 
体重測定 58・5キロ。入院前は74キロくらいだったからほんとにやせてしまった。担架形の布を身体の下に入れ、二本の金属の太い棒を通し、クレーンのように四本爪のフックで抱え上げて測定。なんだかやけに大がかりで、でも慣れているのだろうてぎわがよい。奇妙なシューレアリスティックな光景。紙パンツ換え。
11:20 
点滴交換。元気が良いのでチアーさんと名づけている看護士さんと少し話す。ぼくのこともあれこれ知ってあり、ちょっと驚く。
18日から排便がないので、便通のための座薬を入れる。
点滴交換の時、新人の男性看護士はよくわからないらしく先輩を連れてきてきいている。
「空気がここに入ったから・・・・」
「それでどこをどうするとね?」
「えーーと・・・これで・・・」
11:30 
点滴交換終了。ソルデム1500cc。
血圧 73ー105
目やにをとる。
(十二時頃昼食に出る。廊下であったチアーさんと歩き話。仕事はほぼ八時間勤務とのこと。たいへんですね、というと、「いちばんたいへんなのは患者さんです」という返答。何も応えられない。
食事の後、支払いせずに出てきてしまって、廊下で後ろから声をかけられる。「ぼんやりしててすみません」といって戻って払ったけれど、そういうことをしたこと自体にも驚きや羞恥がほとんど生まれない。後で郵便局と西鉄ストアのシティ銀行で振り込み。)
13:00 
血圧 62ー108
14:40 
血圧57ー73、体温37・6度
鼻からの吸引。血が混じり、痰は少ない。
口腔ケア。口のなかをスポンジで拭く。痛いのだろうかすごくつらそうな表情、嫌がって口を閉じる。手は動かない。
15:10 
館内放送の後、院長回診。みんな緊張している。
「呼吸はいつもこんなふうですか」
「時々つかえますがだいたいこんなふうです」
「たいへんでしょうがよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
中学時代の同級生の奥さんが回診団のなかにいて驚かされる。出自の町で暮らしているとこういうことがままある。あたりまえのような、不思議なような。
午前中だけみても実にいろんなことがあり、実にいろいろな人の世話になっている。
15:20 
血圧 66ー117
15:40 
点滴差し替え。席を外す。戻ってもまだ続いている。新米の男性看護士の緊張を高めないようまた外に出て待つ。点滴位置が右足から右腕にかわる。紙パンツ交換(軟便あり)。
15:59 
血圧70ー104、脈拍108、酸素飽和度92、呼吸数27
16:50 
酸素飽和度値が90を割り、脈拍が78から200とめまぐるしくジャンプする。口を半ば閉じての呼吸。体を仰向けに平たくする。酸素をあげ(増やし)、飽和度チェックのクリップの指もかえる。
飽和度が96になる。脈拍も109くらいに落ちつく。
17:20 
紙パンツ換え。血圧60ー106、酸素飽和度96、呼吸数27、脈拍110
(松井さんに電話。つながらない)
18:30 
カーテンを閉めにみえる。
19:01 
血圧61ー106、脈拍115、酸素飽和度92、呼吸数29  
脈拍が時々45くらいになる。モニターの誤作動かもしれない。
20:30 
酸素飽和度が90になりアラームが鳴る。酸素の漏れを減らすためにマスクを顔に押しつける。看護士がきてチェックのクリップの指をかえる。瞼をちょっと触り「まだ生体反応がありますね」とサラッという。そういうことばにも使い方にもびっくりさせられる。
暑い息を吐き続けている。どこでもない一点に目を向けたままだ。
酸素飽和度94、脈拍116、呼吸数32、血圧61ー102
21:00 
紙パンツ換え。「暑いようです」とのことで、毛布を外しバスタオルを掛ける。酸素マスクの先端に袋状の物がとりつけられ、象の鼻のようにもみえる。血圧の腕輪は外される(計るときにその都度つけるとのこと)。
21:30 
(早めに就寝。室温は26度に設定しておく。
一度横になると体がなかなか動かない。アラームが鳴ってるなと思っても起き上がれない。夜中に二度だけ起きる。体が冷たそうで、腕をさすってからバスタオルを二重にして上半身にかけ、下半身には布団をかける。後で元の状態に戻されていた。
隣の病室は工藤平八郎という立派な名前のご老人で、奥さんらしい人がいっしょにおられるのがちらりと見えたりする。平八郎はおそらく東郷平八郎からきているのだろう。ぼくにもまるっきり無縁だというわけではない。)
21日 晴れ
6:00 
軽いくしゃみ二回。あくび。こういう日常的な体の動きにほっとさせられる。
三、四回の呼吸、しゃっくりのような動きの後、上半身がビクンビクンと揺れる。数回続くこともある。口を半ばあけ、息は荒い。お湯を使って顔、手、腕を拭く。ひげ剃り。顔全体にクリームを塗る。
(梨を食べる。)
7:15 
お茶、おしぼり。あらためて顔拭き。耳も拭き、耳穴の掃除。嫌なのか反応がある。しゃっくりは止まり落ちつく。息は荒いまま。腕をさすると反応がある。
時々、太い喉の音でハアハアいう。頭をさすると落ちつく。体のビクンビクンが多くなる。その間は呼吸が止まっている。
8:00
(朝食に出る。)
9:15 
体拭き。
9:40 
痰吸入。口腔ケア。
ヴァイタルチェック 血圧53ー114、脈拍105、酸素飽和度92、呼吸数27、
体温37度
10:10 
(洗濯。松井さんに電話、つながらない)
10:15 
ピーピーという信号で点滴交換。ソルデム液1輸液500ミリ。
脈拍が80から120と激しく上下してアラームが鳴る。体もビクンビクンとする。
12:40 
体温37・2度 
光を当てての瞳孔反射検査。弱いようだ。マツゲに触ると反応はある。
(昼食。クリスティの「エッジウエア卿の死」読み終える。)
14:20 
テーブル拭き、ベッドの汚れ落とし。
(二時半から三十分ほど眠る。)
15:00 
口腔ケア、痰吸引。口を開けての呼吸で乾燥しているのか血の塊などが多い。
血圧55ー101、酸素飽和度97、呼吸数25、脈拍107
16:00 
紙パンツ換え、保冷枕。
17:15 
血圧65ー119、脈拍111、呼吸数27、酸素飽和度94、37・2度
17:45 
紙パンツ換え 
(夕食)
19:04 
血圧57ー100
20:00 
血圧54ー92 
痰吸引はつらそうで、外にでて待つ。かなり出血があったようだ。
20:20 
紙パンツ換え
21:30 
点滴交換  血圧59ー111
寝不足のぼんやりした頭。刺激のない、誰ともほとんど話すこともない、清潔で涼しい場所にじっと座っていると、ただ人が死ぬのをじっと待っているだけのことに思え、でもそれは永遠に続くような、そんな気がしてしまう。もしそうなのならそれがいいと、どこかで思ったりもしている。
ときおりの痛々しい痰吸引、その時に管を満たす血の色、視点のあわなくなった、すっかり濁った瞳、半ば開いた口で苦しげに繰り返される熱い呼吸、投げ出されたままもう反応しなくなったでも温かさを伝えてくる手のひら、そういったものも、なんだかリアルでなくなり時は停まりこのままなにもかもがずっと続いていくとしか感じられなくなる。ときおりカタカタとなにかが揺れる音が響く。以前いた病室の老婆が檻のようなベッドの介護柵を揺すってるのだろう。いろんな音が思いがけないほど近くで聞こえる。伝わってくる方角はひどく曖昧で、どこからなのかわからなくなる。静かさがそういう現象を生むのだろうか。それとも疲れた耳やとがった神経にはそんなふうに異様に響くのだろうか。   
 
8月22日
5:10 
体がビクンビクンする、うめき声、手もきつく握っている。ナースコールできてもらう。吸引しても血しかでないとのこと。ただ痛々しい。最後に少し痰がとれ、体も落ちつく。
5:42 
血圧58ー89、脈拍115、酸素飽和度92、呼吸数37
パンツ交換。酸素飽和度のアラームが鳴り続ける。頬がこけてぽっかり隙間ができているからで、マスクを頬の上で押さえるとアラームも止まる。
7:15 
吸引、血ばかり出る。熱があり(38度以上)、血圧も42ー77と低い。しばらくようすを見て、昇圧剤を考えるとのこと。大腿部つけ根と頭に保冷剤。
おしぼりで顔や耳をふく。
7:32 
昇圧剤イノバン 150ミリ 0・3% シリンダー、を開始。
7:57 
血圧55ー93に上昇
「これでようすをみます」。
(朝食へ)
8:30
 吸引。酸素飽和度も落ちつく。
「知らせが必要な方には知らせて下さい」といわれる。
9:20 
体拭きも股間など一部だけとのこと。着がえなし。
10:25 
点滴交換。血圧55ー82に下がる。
10:45 
ごくふつうのかんじでウン、ウーンという。以前の日常に戻ったようにさえ聞こえる。状態も悪いながら安定。
11:30 
血圧40ー70
昇圧剤を2/h(1時間)から4/hにあげる。
(外出はやめる)
11:37 
血圧50ー80
パンツ交換(排泄なし)
12:45 
血圧37ー65、脈拍126、酸素飽和度92
血圧が下がり続け、昇圧剤は6/hにあげられる。最大は10/hとのこと。
「他に知らせる方があれば・・・」とまた言われる。「身寄りのない方ですので」、とくり返す。
「人為的に血圧を上げている。これが効かなくなればしぜんに心臓も動かなくなります」と告げられる。
13:17 
血圧47ー76、酸素飽和度93、脈拍123
神宮医師から「血圧が下がり始めていますね。今夜くらいが山だと思います。」
13:40 
血圧45ー71、昇圧剤8/hにあげる
「この状態で酸素飽和度が92あるのは驚異的です」と言われる。
14:30 
血圧47ー75、酸素飽和度93、脈拍123
時々ハーンの声がでる。呼吸数が13になったりする。手や腕をさすり、軽く叩く。
14:55 
呼吸が止まる。ナースコールですぐに来てもらう。 血圧42ー85、酸素飽和度92、脈拍134、呼吸数9 
呼吸再開。
15:30 

ブラウン氏の思いで

ブラウン氏のおもいで
中田浩(安部文範)

 ブラウン氏に初めて会ったのは麹町でのクリスマスパーティだった。大きなお屋敷で来ていた人も多く、偽善的なほどの丁寧な挨拶とどこかたがの外れた、日頃の屈折も全て解放してしまおうとするような大騒ぎに疲れ、いくつかの部屋に別れたグループに加わったり離れたりの談笑にも倦んで、コートを置いた寝室へ上る階段に座っていた時だった。階段にも厚いウールのカーペットが色柄をコーディネートされて敷かれていて、気持ちいいなあとぼんやりしていると、不意に上から降りてきた人がいてそれがブラウン氏だった。
 ちょっと驚きながら、でもははーんといったしたり顔になって笑いながら「チョトウルサイ、デスネ」といって、隣に座って話し始めた。日本語はあまり得意でないようですぐに英語にかわった。氏も集まったメンバーをよく知らないらしく、まあクリスマスにトーキョーに残っているかわいそうな人たちを慈善のつもりでよんだのでしょうといって、あなたはと聞かれ、ぼくはリイコータイローに誘われてきたけれどもう帰ろうと思ってますと答えて立ちあがると、わたしもと立ちあがったブラウン氏がふらついて、慌てて支えたけれど身体も大きいし足下がふわふわで心許なくてひやっとしたことをはっきり覚えている。
 塀から伸びだしてきた木々の下をくぐるような薄暗い道を駅へと向かう冷たい空気のなかで、ワイルドなパーティでしたねと同意を求めるようにきかれて、わざと聞こえないふりをしたことも覚えている。地下鉄へ降りる階段の前で丁寧な別れの挨拶のさいにさっと名刺を出されてちょっとあたふたした、名刺なんて持ってきてないし。でもブラウン氏はそんなこと気にもしないといったふうで、ジュバンにもおいしいレストランがたくさんあります、ランチをいっしょにしましょうといって、電話下さいとつけ加えた。
 あの後電話したのかそれともまたどこかであったのだったか、きっとそうだろう、後になってずいぶん共通の友だちがいるのがわかったから。それともジュバンというのがなにかわからなくて気になっていたから、それを聞きだそうと電話したのかもしれない。いずれにしろ麻布十番ではその後何度も食事した。フレンチやイタリアンだけでなく、蕎麦の店もあったし焼き肉の店もあった。
 そうやって短くはないつきあいが始まった。
 

 というのはもちろん嘘で、出逢った時のことはミシガン州のアンアーバーというこじんまりとした大学街で一度だけ口にしたことがある。人と人が出逢うのはいつだって一種の緊急事態なのだから、あれこれ恐いことも汚いこともそうして恍惚とするような感動もある、はずだろう、きっと。
 それはメアリーとベスに夕食に招かれた時のことで、魅力的なこじんまりとした家いっぱいに写真やいろいろのものが飾ってあって、頼むとひとつひとつ説明してくれた。どれもが丁寧に選ばれて美しく、だから米国の、初めて招かれた家でいつも強制されるホームツアーのようにうんざりすることもなかった。肩だけのちょっとなまめかしい写真があってきいてみるとメイプルソープだった。まだ写真集も出てない頃だったから買えたのよとちょっと自慢そうにいって、でもわたしがほんとに好きなのはこっちよと教えられたのは女性の後ろ姿のポートレイトで、写真家の名前を聞き返すとジョージ・オキーフの夫よと聞こえて、オキーフに旦那なんていたっけと思っているうちに先へ進んで、ふたつ並んだ小さな根付けの話になって、けっきょくオキーフのことはそれきりになったけれど、その時の夕飯の後ちょっときつめのお酒をリビングに戻って飲みながら問わず語りに語らさられたのがほんとの出会いの時のことで、そんなのはもちろん誰にも話したことはそれまでなかった。
 どうしてアンアーバーにいたのかはっきりとは思いだせない。二週間ほどはいたように覚えているからブラウン氏の学会かセミナーにあわせてそこで落ち合ったのだろうか。でも中西部ではデトロイトとシカゴの空港に降りた時の記憶しかないから、デトロイトに行った夏に車で出かけたのかもしれない。当時は小さめの静かな街という印象だったけれど、もうずいぶんと前のことだから他の街とまぜこぜになっているかもしれない。通りを歩く若い黒人がみんなラジカセを抱えて奇妙な歌詞だけみたいな歌というか曲をかけていて不思議に思ったのは、あれは八〇年代半ばのことでだからそれは同じ大学街でもシカゴ郊外のエヴァンストンだったとわかる。
 アンアーバーにはよく知られた古本屋がいくつかあってそれが街中でなく郊外のふつうの一戸建ての家で、おそらく通信販売が主なのだろうけれど訊ねて行くときちんと対応してくれてお茶もでたような気がする。もちろんブラウン氏といっしょだったからだけれど、それでも米国ではそのへんの事情は日本とずいぶん違っていて、画廊なんかでも珈琲がでたりすることは全くないからやっぱり特別だった気がする、それでその梨の木のあった小さな裏庭のこともよく覚えているのだろう。猫背の小柄なご主人があれこれ四方山話をしつつひとつひとつ本を出してくれるといったふうだった。古いのは全部皮で装丁し直されていて、それだとオリジナルではないよなあと思ったりしたことも覚えている。「初版ですね」とついでのように言うのは商業関係の本だから、どちらかというと後の改訂したもののほうが正確でより新しいということだったのだろうか。たぶん後でブラウン氏に聞いただろうそういったことは全部忘れてしまった。   
 街には六〇年代の影響というか残映がそこかしこにあって、奇妙な、そういうことばでいえばサイケデリックな色彩の内装のインドやネパールの雑貨や色とりどりの蝋燭を売る店だとか、「アマザケ・パンケーキ」が「トーフ・ステーキ」と並んでメニューにある自然食レストランなんかがあっていろんな手書きのチラシやパンフも無造作に置かれていた。蝋燭屋に顕著なあの甘ったるい独特の匂いには未だに慣れることができない、つまりもう永久にそうだということだろうけれど。
 小さな映画館もあったし、学校や小さなホールでもよく映画がかかっていたようだった。さすがにランボーとかでなく、オーソンウエルズの「市民ケーン」とかで、でもヨーロッパの映画はすごく少なかったし、アジアの映画はクロサワは別にして皆無だった。
                                                                            


 ブラウン氏は年の半分は東京の大学で教え、半分は米国で教えていた。マーケッティングが専門で著書も多く、それも教科書として使われるものが多かったから出版社も力を入れていたしよく売れていた
 米国で教える春夏の半年間、ブラウン氏はカナダに住んでいた。カナダといっても米国と国境の河で接した小都市で「さあ、カナダに行くから南に向かおう」というジョークが必ず聞かれる場所だった。一帯は大きな湖の周りの入りくんだ地形でカナダが米国にぐっと食い込んでいるので実際そういったことになっている。そのこじんまりとした街にリタイアした後も夫婦だけですんでいるターンブル夫妻宅に下宿していた。
 家や部屋を持ったり、常時借りたりすることは不経済だと考えていたようだ。でも果樹園や麦畑は持っていてそれを貸していたから、不動産は投資のための対象としてだけ考えられていたのかもしれない。そういう場所を何度かいっしょに訪れたこともあって、林檎園のすみの桃や杏子を植えた区画で小ぶりのおいしい実をちぎって食べたりした。白い燕麦が風にかすかに鳴るなかをゆっくり歩いたことも覚えている。麦畑の上に描かれる風の形に気をとられて、熱心に語るブラウン氏に気のない相づちをうつだけだったことも。
 老夫婦は奥さんがもと高校の英語の先生で、スクラブル・ゲームが強かった。ブラウン氏を負かす数少ない人で、だから氏はしょっちゅうやりたがり、その度に機嫌が悪くなったりもした。少し年長の彼らの前ではずいぶん子供じみた振る舞いにみえたけれどあれは彼なりの郷愁だったのかもしれない。ターンブル婦人もいつもは穏やかな人なのにゲームに負けた時だけはずいぶん辛辣になった。そういう単純な一生懸命さというか子供っぽさも、今の時代から喪われたもののひとつだろう。
 彼らの親切はすぐにいくつも思いだされる。一時間以上もかかる準備を厭わず、ガレージから小型のボートを引きだしては目の前の河に浮かべてくれたし、河が見渡せるリビングで航行する船の旗をひとつひとつ教えてくれたりした。ギリシア船が通ったことだけはよく覚えている。国旗とはちがう複数で掲げられたそういう旗を大きな図鑑を広げて示してくれた。ぎょっとするほど大きな船がすぐそばを抜けていく。この河を抜けて湖へと入り、どこかの工業の街へ原材料を届けるのだろうか。
 ターンブル氏は化学関係の会社を勤めあげたエンジニアだった。だからというわけでもなのだろうけれど、自分の工作室を持っていた。いろいろの、主には手仕事用の道具がきちんと整理されてずらりと並んでいたし、工作台の上はいつもきちんと整理されていた。奇妙な形の道具やその使い方に関心を示すと熱心に教えてくれた。当時は日本の工具のことだってろくすっぽ知らなかったけれど、何かしらの共通点があるのは感じられた、墨壺が同じ目的ででもずいぶんちがう形ややり方だとかいったこと。ターブル氏も鋸の挽き方が逆だということは知っていて、でもそれは東洋の無知のなせる技だと思っていたようだ。
 氏が先に亡くなり、奥さんから届いたその知らせの手紙のことはずっと忘れられなかったけれど、奥さんが亡くなったことは誰からも知らせがなかった。
 

 ブラウン氏は生涯一度もファーストフード店に入ったことがなかった。マクドナルドが大嫌いということで、それはああいったタイプのハンバーガーが嫌いというのと、会社としても好きになれないというのと両方だった。さすがにコカ・コーラは飲んだことがあった、第二次世界大戦では軍隊にいたからとうぜんなのかもしれない。
 誰それは生涯飛行機に乗りませんでしたとか、ついに新幹線には乗らずじまいでしたとかいうのを聞くといつもすごいなあと思ってしまうけれど、マクドナルド拒否をとおすというのもなかなかだと思う。そういうことを書いていて思いだしたのは、たぶん米国のニューヨークではない大都市のひとつだったと思うけれど、その街の一角でのことだ。誰が見ても米国人家族だとわかる一家がなにやらもめていて、四〇代のあまり背が高くなくてがっちりした父親と太っていない母親、九才くらいの男の子、四才くらいの女の子で、マクドナルドからちょっと距離をとった壁際でだった。なんだろうとちらちら見ながら歩いていると、ブラウン氏になんのことかわかりますかときかれて、さあ、喧嘩でもしてるのかなあ、お父さんが真っ赤な顔してるねえと応えると、典型的なアメリカン・ファミリーですねといわれて、また振り返ろうとすると、じろじろ見るのは失礼ですとぐっと腕を引かれ、じゃあなにとちょっとむっとして聞くと、あれはですね、子供が、あの男の子がマクドナルドに行きたいといいはっていて、それにお父さんが反対しているんです、とまるで見てきたように話すのでついまた振りかえれそうになったしまった。「まさか」。
「そうです、どこにでもよくあることです、ああいうことも、家族を持つとしなくてはならない、たいへんですね」
「つまり父親は菜食主義で肉が嫌いで・・・」
「いいえあの身体を見ればそうでないのはわかるでしょう、ふつうにきちんとした食べ物をしっかり噛んで食べてきた人です、きっとお母さんが料理が上手だったんでしょうね、我が家のようにね、母さんは肉料理も魚料理も上手でしたし、野菜もいろんな料理を作ってくれました」
「もちろんデザートのアップルシュトゥードルもロシアンクッキーもだね」
「そうですよ、だからマクドナルドには一度も入らずにすみました」
「ほんとに」
「ほんとです」
「一度も」
「そうです」とブラウンさんがはっきりと言って、それはたしかに納得できることでもあった。じゃあ、残りのふたりはと話を元に戻すと、お母さんと娘さんは結果次第ですね、とわかりきったことじゃないかというふうに答えが返ってきた。
 半時間ほどで用をすませて戻ってくると、壁に背を向けて腕組みした父親だけがあらぬ方を向いて赤い顔のまままだ立っていた。まるで歯を食いしばったような表情を盗み見てから反対側を見ると隠れるように3人がマクドナルドのなかに座っていた。父親の沽券というより孤独な生活派の哀しみ、といったふうだった。そしてそういう哀しみはいつもどうしようもなく滑稽に見えてしまう。
 「たしかにまずいのはわかるけれど、安いし、とにかく速くすませられるし、仕事の隙間の時間に駆け込むことはあるよ。だいいち一度は食べないと味もわからないじゃない、そんなに嫌いなの」、
「いいえ、まちがっているからです」。
 そのブラウン氏の返事にはとても驚かされたから、いっそう記憶に焼きついたのだろう。「まちがっている!?」。そういうことをいう人が米国でもあの頃はまだいたのだ。そうして世界の止めどない崩壊を、ある角度からささやかにであはれおしとどめていたのだろう。スノビズムから鼻の先で笑ったり、そもそもそんなファーストフードが存在することすら知らない裕福な人としてでなく。  
 あの父親は生涯マクドナルドを拒否しとおしただろうか。たぶんその軋轢があまりにも大きすぎて、家族や仕事を捨てないために、捨てられないために、おそらくいくつもの止めどのない妥協をくり返すようになっただろう、と思う。ブラウン氏は楽々と、とみえるように自分の思いを好悪を貫いた。そういうことができた世代だった。
 

 ブラウン氏は散歩が好きだった。2時間くらい楽しそうに歩く。車や騒音を極力避けようとするから、住宅街や公園が多くなる。住まいの近くに三千坪もある有栖川公園があってそこはお気に入りだったけれど、そこをぐるりと歩くぐらいは、散歩の部類にはいれてなかった。南部坂を上りきったところに住んでいたから、仙台坂を抜けて二の橋から三田方面に出て、慶応やイタリア大使館のあたりをまわり、帰りは赤羽橋経由で十番に入り買い物もして、天井桟敷の前を通り、長屋の裏の路地を文字どおり擦り抜けて西町インターナショナルスクールの下から戻ってくるというのもあった。恵比寿駅から歩いて帰ってくるのは4、50分、そんなのは日常だった。渋谷から宮益坂を上って青山にで、根津美術館を抜け、西麻布から笄小学校の方へはいり、麻布税務署から愛育病院、東京ローンテニスクラブというのもあったけれど、これはちょっと極端すぎる。でもこのコースを逆にたどり、西麻布霞町から坂を上って六本木の交差点を飯倉の方へ曲がり、ロアビルの横から右に折れて国際文化会館、東洋英和、鳥居坂、十番というコースもあった。もちろんその日の気分やいっしょに行く人とかで臨機応変あれこれ変わったけれど。
 植物、特に花をめざとく見つけてはコメントをする、それも楽しみのようだった。すきあらば、さっと一枝失敬してくる。花盗人は罪ではない、風雅な咎だと思っていたところがあった。特別風格があったり堂々と大きかったりするわけでもない、慎ましい住宅の庭の木々も愛していて、ある日そういう家が庭ごと不意に消え去ったりするとがっかりしていた。バブルの頃はほんとに一夜にして一角が忽然と消え去るなんてこともよくあった。
 散歩の途中どうしても気になってしまうのが、散在する英語の表記だった。ものを書く人だし、英語が母国語だから避けられないことだろう。東京での英語表記は明治以来の西洋崇拝と、新しさ(トレンディーということだろう)の象徴、すべてのイメージ化(曖昧化)なので、かなりすごい。それに行政が設置する標識に多い、教科書的「正しい」英語の奇妙さ。西洋語(英語)は正しい、すばらしいという思いこみに拝跪していて、英語というのもひとつの言語であり、世界には多様な言語があり、その英語にしても現在はいろんな形があり得るという当たり前の見方を失っているから異様なのだろう。卑屈さとその裏返しの傲慢。そうしてそれを英語圏の人間は巧みに利用する、特に政治の場では。もっと言えば西洋的「文化」「知」へのへつらいを、素知らぬふりで微笑みながら、腹立たしいくらい上手く弄ぶ。いっとう嫌なのは、そうされることをかまってもらえたことだと、かえって喜びさえする貧相な心根だ。政治や「文化」は、囚われる人間をどこまでも底なしにおぞましくする。
 散歩では月はつきものだ。ブラウン氏も見上げてはあれこれかならず口にした。あまり映画を見ない氏が珍しく人にも勧めたのが「Waiting for the moon(たぶん「月のでを待ちながら」というタイトルだったと思う)」。あのキュービズムをことばでやったガートルード・スタインとアリス・トクラスの物語。ことばにこだわる彼は、とうぜんにもスタインも好きかと思っていると、ああいうのはインテリのスノッブな知的遊戯であの優越感が鼻につくと感じていたようだ。「a rose is a rose is a rose・・・・・・・」ではそうかもしれない。でも、そうだろうか。じゃあ、何故あの映画を気に入ったのか、それはわかりやすそうで、結局謎のままだ。待つこと、永遠にこないものでなく、ほぼ確実に来るもの、そしてやさしく慰撫してくれるもの、それは俗世を少し越えた、でも崇高な抽象ほどでないもの、でもある。そういうものを待つこと、共有しようとすることへの憧れだったのだろうか。
 

 ブラウン氏と同じように長く日本に住む外国人は、バブル以前の時代ではということだけれど、極端に「日本的」になるか、全然なにひとつ変えないかのどちらかが多かった。それが生活全般に及ぶ人もあれば、食べ物とか美術的趣味だけに限られる人とか、いろいろではあるけれど。極端に日本好きな人にみられるのは、メジャーでないもの、周辺への「愛」で、それが剥き出しのオリエンタリズムになっている人は当然多いし、本国からの、圧倒的な西洋近代からのしばしの逃避というあり方も知識的な人に多かった。それから強い通貨(かつて1ドルは360円だった)での傲岸な植民地ふう生活を楽しんだ人たちも、と意地悪く言えば言える。
 20年以上住んでいても日本語が挨拶程度しかできない人もいて、不思議な気さえする。でも使わなくてすめば、だれも使わないのだろう。ニューヨークに派遣された滞在サラリーマンが、1年いて一度も英語を使わなかったという嘘みたいな話もある。現地採用の日本人や日本語のできるスタッフを使い、話す場が会社と家族も含んだ小さな日本人コミュニティーのなかとジャパニーズ・レストランとなればそういうこともありえる。
 ブラウン氏は結局ことばにはなじめなかったほうだろう。25年近く東京に居を構えていたけれど、年のうちの半分は母国だったし、しょっちゅうあちこち旅行していたし、日本の大学でも英語で教えていたし、日常も周りは外国人を中心に英語のできる人ばかりだった。ドイツ語は博士号をミュンヘンの大学でとったぐらいにできたので、日本語がほとんどできないのをあまり格好いいことではないと思っていた。だからわかったふりでうなずき、後はヤッとかウェルとかいってやおら腕を軽くたたいたり、そっくりかえってからバイと言って立ち去った。上手といえば上手な、米国人ならだれでもできそうなしぐさだった。
 食べ物に関してはあの保守的な米国中西部出身の人としては大胆にいろいろ挑戦したのだろうけれど、でもけしてそれ以上にはでなかった。例えば青魚の塩焼きなんてものは一生涯食べなかったはずだ。「日本贔屓」が注文する「このわた」なんてきっと見たこともなかっただろう。東京で入院して、その食事に冷えた秋刀魚の塩焼きがでたときは、ほとんど絶望的な気持ちになったようだ。それは日本人にだってわかる。あのプラスティックの食器に入った冷えたご飯とおまけに冷えた焼き魚。
 お米のご飯は彼にとってはやっぱり味がないものであり、中国料理のように上になにかをのせて食べるのが好きだった。朝は珈琲と果実が必ずあり、それにトーストと玉子、またはシリアルに果物やナッツをのせて牛乳をかけたり、時にはオートミル。好きだったのはサワークリーム・ワッフルとかバナナ・パンケーキのような口当たりがよくて甘いもの。ただし人工的な甘みをつけたシリアルや、市販のパンケーキの素でつくったものは歯牙にもかけなかった。既製品やインスタント食品が全く嫌いかというとそうでもなくて、たぶん自身の子供時代の味覚が大きく影響しているのだろう。ドイツからの移民一世を親に持つ世代、なんでもきちんとつくって栄養と味と家族の団らんを守る、楽しむという信念や倫理が生きていた時代。母親の役割が、その服装と同じく絵に描いたようにくっきりしていた頃。それはだれもの役割が明確で安定していることであり、そうしてそこからけしてはみ出てはいけないという強制があったということでもある。
 ブラウン氏の好きだった日本食はすき焼き、しゃぶしゃぶ、寿司、天ぷら、すっきりとわかりやすい。一度トーフを好きですと言って、根津あたりの豆腐専門店に連れていかれ、豆腐づくしにあって辟易したようだ。たまに行く近所の麻布十番焼鳥屋で、モツ煮込みとかを好んだのもわかる気がする。ガイジンの行かない雑ぱくな店に行くことのちょっとしたスノビズム、内臓料理への嗜好、さっぱりとにこにこした対応、安さ。その十番には永坂更科蕎麦があって、そこの天ぷら蕎麦も好物だった。2本ある海老の天ぷらを半分に分けるのがちょうどよいらしく、だれかをさそって行きたがった。蕎麦の味にはまったくこだわらず、けしてざるやもりは食べなかった。冷たいヌードル(麺)というのは、彼らの食感覚からいうと信じがたいものであり、あたたかい刺身といったものにちかいようだった。
 けして音を立てないように静かに蕎麦をすすって、衣がぐずぐずになったエビをおいしそうに食べて、胡座をかいて前に座っている友人の膝をぽんとたたく。驚いて見上げる顔に「オイシデスネ」とにこにこと笑う。つられて微笑む隣の席の家族連れに、「ソウデス」と頷いて、またにっこりする。
 

 ブラウン氏は芝生とは縁遠かった。望んでのことだろう。一戸建ての家を持つことの煩雑さを避けて、プラグマティックな合理主義でとおした。入り口の鍵を掛ければそれで全てすんでしまう集合住宅を選んだ。隣の芝の青さを、比喩的にでも羨むことはなかった。
 米国人の芝生信仰はすごい。きちんと刈るとかいい色に育てるというような段階ではとうにない。それは自身のステイタスを誇示するためのひとつの、それもかなり大きな手段だ。もちろん、りっぱな家屋敷が先ずあってのことだけれど。腕のいい庭師と契約して(さすがに庭師を雇えるほどの家は少ない)、定期的に庭の手入れと管理とをやらなければいけない。うっかりしていると、見た目はきれいでも雑草を生やし開花させ、彼らが言うところの悪鬼のような種を周囲へまき散らすことになる。そんなことになると口論や喧嘩だけではすまなくなる。訴訟だ(しかしなんて社会だろう)。
 「アラブ人はひどい」とブラウン氏の友人で成功者のロイが吐いて捨てるように言っている。「差別じゃないか」と言い返すと、「いいや、あいつの芝生を見ろ」と興奮している。凡人にはわからない雑草があちこちに生えているのだろう。同じような階層の住民の同じような瀟洒な建物が隣り合って続くエリアは、そんな話で溢れている。ブラウン氏はそういう関係のごたごたも避けようとしたのだろう。大学の教授の給料では、そんな所には住めなかったこともある、幸か不幸か。いずれにしろ庭師を雇うとか、見てくれのために前庭に頻繁に手をいれるとかいうようなことを、虚栄の浪費だと考えていたようだ。
 ブラウン氏の経済観念は米国のステイタスの基準を全く意に介さないところがあったし、ちょっと極端だった。車にも興味を示さなかった。母国の米国には半年しかいないこともあって、いちばん小型の、クーラーぐらいしかついていないフォードをレンタカーで借りてすませていた。ロイは毎年いちばん新しい型のキャデラックに買い換えていた。もちろんステイタスだ。一時期ヨーロッパの車にしていたけれど(ベンツのことだ)、傷つけられたり、荒らされたりばかりだったからと、またキャデラックに戻った。ちょっと見には少し大きめのふつうの車にしかみえない。ピカピカで角張った巨大なキャデラックという印象は敗戦国民の僻みからだったのだろうか。ずらりと並んだコンピュータ化された計器類には、ロイは触らない、「動かなくなる!」と。
 隣を羨んだり嫉んだりする気持ちはみんなにある、どこの国にも。幸福は単純で不幸は様々だと誰かも言ったように、生活の繰り返しの表面には、シンプルなものしか見えてこない。米国は異様なまでに直截だ。持つことは力であり、それは示さなくてはならない、自他共に対して。まるである種の義務感のようでもある。車、家、教育(つまり学校)、職場(つまり収入)。財産と切り離れた家柄や宗教とか誠実さは、評価の軸からとうに外されている。若さ、美しさ、強さ、様々な能力、そうしてなにより収入が絶対的な評価軸になる。才能も善意も、社会のなかで最終的には当然の評価を受け、それが収入嵩に正しく反映されるはずだという信仰は揺るがない。語らない者は語れない者であり、貧しさは努力しないからだと決定される。いくらなんでも、米国もそんなに単純じゃないだろうとも思うけれど、でもどの国でも同じで、その為政者や財界人を見ると、やっぱりそうかもしれないとわからせられる。
 ブラウン氏は職業がらお金には詳しかったし、通貨の国境のからくりにも精通していたし、異国への興味も強く、強いドルを最高価値で使っているようなところがあった。同じものが通貨によって全く違う価値で現れる奇怪さは、操れればたちまち富となる。ステイタスを誇示することを止めれば、無駄な出費さえ消せる。気温も湿度も高く、雨の多い日本で、欧米型の芝生を育て管理することの異常さも氏はよくわかっていた。それは乾燥して寒い地域がゴキブリに示す異様なまでの嫌悪を、暑い国に当てはめてもしょうがないといったことだった。
 


 ブラウン氏の母国ではスイミング・プールと言わないと、泳ぐ場所としてのプールとしてうまく通じない。プールだけでは、バブルの時代に流行ったプール・バーのプールと思われることが多い。あの頃は、化繊のアロハでガムを噛むかつての日活映画の気恥ずかしくも甘苦いビリヤード(玉つき)ということばが鼻の先であしらわれていた。異様なギリシャ神殿のようなポスト・モダン建築とか、シャンペンとキャビアだけのバーとか、高くて居丈高なだけの鮨屋とかの、あの時代。都市が切り刻まれて゛輝き゛、人はヒステリックに飛び跳ね、欲望に臨界点なんてないことにごく普通の生活者さえもが気づかされ、何より金が崇高の高みで世界を睥睨し、誰もが嬉々としてその前にひれ伏した、あの頃。
 堅実な上にも堅実なブラウン氏は、そういう時代にもいつもどうりに過ごしながら、100円にまで下落したドルの価値を懐かしみ、トーキョーで王族の生活ができなくなったことを嘆きながらも、それはバンコックに求め、高い円での収入をしっかりと確保して帳尻を合わせていた。そんな楽天性は、マーケティングの優秀な教授で実践者としての綿密な合理的な計算に裏づけされていた。
 浪費や無駄な消費を嫌って、たとえ招待されたときでも、日の浅いニッポン・スノッブのように河豚の刺身やからすみを注文したりはしなかった。高級料亭の器は渋いのではなく、ただの転倒したスノビズムだと思っていたようだ。彼のなかで美しさと清潔さはいつも貼り合わさっていたし、いびつさや陰りやくすみ、もっと言えば汚れは「美」とは最後まで結びつかなかった。それはいっそ潔よくさえあった。
 40年代の兵役時代、氏が「一生涯けして会うことのない階層の人とも会った時」と形容した時期をのぞけば、ブラウン氏が玉突きをやったことはなかった。もっと体を使う、でも不器用な人にもできる、素手でのスカッシュとか、ボディーサーフィンとかをやり続けたようだ。それにひとりでの長い長い散歩、水泳。
 飛び込むというよりは頭からすとんと落ちるといったふうで水に入ると、その勢いのまま水中をゆっくり潜水し、徐々に浮力で体が上がるに任せていて、だから短いホテルのプールだとそのまま向こう側についてしまう。水の中では楽しそうだし、敏捷そうで、そう口にして言うと「そりゃ楽さ」と、もう二度ととれることのない腰回り、胸回りの脂肪を眺めていた。ダイエットを今という時代の、都市的な虚栄のオブセッションとして嫌悪していたし、食べ物を残すことができなくて、過食ではなかったけれど、体重は理想とはずれていた。太りすぎての病気や介護を考えると、それは個人的にも社会的にも大きな損失になるから、食べ残して捨てる方が、体のためにも社会利益からみてもより正しいと言いつつも、でも食べ物を粗末にするという罪の意識からは逃れがたく、質素や堅実ということの意味も実態もとらえどころがなくなってしまっている今という時代を、軽侮しつつもどこか哀しんでいた。
 

 ブラウン氏に頼まれていっしょに床屋にいったことがある。広尾の散髪店だ。薄い髪が、薄く見えないようにカットしてほしいと日本語で告げるためだ。「はい」といってシートのほこりを払った優しそうな女性理髪師は、でも困ったようにこちらを向いた。「薄い方は、ふつう両サイドをたくさん残して多めに見せます。でも、こちらの方はもう両サイドにもあまり御髪が・・・」。
 そのまま伝えるときっと詳しい説明を要求するだろうし、もめて結局は怒って出ていくとかいうことになり、両方から嫌な目で見られるし、ここにももうこれなくなるかもしれないし、だから、「それでお願いします」と答えて、ブラウン氏にも適当に伝える。疑り深そうな目でこちらを見ながらも、大きな鏡の前に座らされ、なにか言えば言うほど周りからじろじろ見られ、しかもまったく通じていかないことに気負けして、ブラウン氏は黙ってうなずく。アルバイトの゛ガイジンモデル゛で人のいい叔父さん役をやったりしていても、見られることにけして慣れることのできない氏は、大きな鏡の前でもうもじもじしている。
 柔らかい髪だし、量も少ないからたちまちに終わるけれど、散髪は1時間くらいが標準だから、お店の人はなんとかあれこれやって引き延ばそうとする。ブラウン氏の居心地の悪さはきわまっている。「頭は洗わなくていい、髭も剃らなくていい」そう伝えても、首を絞めた巨大な掛け布はとられないし、狭い椅子の前には逃げ出さないよう理髪師が立ちはだかっている。マッサージなんて止めてくれと、もう叫びだしそうだ。
 カナダや米国では首の周りだけナフキンみたいな布を掛けてささっと切って洗髪もしない、髪の毛も硬くないからぱっぱと払ってすぐ終わる。だから料金も安い。爪を磨くマニキュアは特別料金だし、そんなことはやろうとも思ってもみないブラウン氏だ。日本の料金は全部一括だから高い。揉めそうだったら、安かったからプレゼントします、とかなんとか言って自分で払うしかない。三者のだれもが嫌な思いをして終わるだけの、いつものいろんなことと同じになりそうだ。
 大きな鏡に映っているのは、傲岸にも見える厳格な教授であり、もぞもぞと困りきっている腕白坊主であり、でも当人は全くちがう自己像をもって、見ないようにして鏡を見ている。熱い蒸しタオルがばさりと広げられ、鏡がさっとくもる。ブラウン氏の表情が半分だけ消える。
 
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 ブラウン氏と飛行機に乗った回数は、よくいっしょに旅行したわりには少ない。大洋を渡る長時間の飛行機の旅は一度もない。どこかで、例えばアムステルダムとかロンドンで会って、そこから旅行し、また別れるといったことが多かった。時々は氏が半年滞在しているアメリカやカナダに一月ほど休暇で行くこともあった。短い距離の飛行機には何度かいっしょに乗った。
 よく覚えているのは、イタリアのシシリー島、タオルミナからアテネに飛んだ飛行のこと。ブラウン氏のロシア系アメリカ人の友人が仕事で住んでいたのを幸い、シシリーにいって一週間ほど滞在してから、ギリシャヒドラ島に行くという旅行だった。タオルミナにはドイツのミュンヘンから列車で行ったが、そのひどい旅のことはあまり思い出したくない。とにかくシシリーでは楽しかった。
 飛行場に送ってくれたその友人が、アリタリア航空は座席指定がないから、走っていって左側の座席をとるよう、エトナ火山が見れるからと忠告してくれ、おまけに早めのチェックインをしてくれたので、半分ありがた迷惑だった好意に従って走って乗るしかなかった。たしかに火山はすごかったけれど、すごかったという印象だけで、その形も色も覚えていない。残っているのは、どすどす走っていた大柄な中年女性の息の音ぐらいだ。大丈夫なのかなと心配するぐらい激しい息づかいだった、本人は平気そうな顔をしていたけれど。ブラウン氏は席を取っといてくれと言って、後からゆっくり来た。心臓発作で周りに迷惑をかけることもないし、ひとりが先に行けばいいのだし、合理的で賢い選択だと考えていたのだろう。
 旧ソ連時代のイルクーツクからモスクワまでの飛行は吐き気に苦しみ続けて、苦い思い出だ。機体が滑走路に降りても、ゆっくり走って止まっても、指示のアナウンスがあるまで誰も席を立たないし、荷物も下ろさなかった。あんなことは最初で最後の経験だった。三〇年以上たったし、ソ連邦もなくなって今はきっとかわっているだろう。
 それは横浜から船でハバロフスクに行き、そこからシベリア鉄道で四日かけてイルクーツクまで行ってからの飛行だった。鉄道にそのまま乗っていればモスクワまでもう四日かかる旅で、思っていたより快適だったけれど、ブラウン氏は八日間の鉄道の旅は無意味だし、不可能だと考えて、半分だけ体験しようとの計画だった。その時も当然にもいろんなことがあって、そのことはまた別に書くしかない。
 ソ連国内では、傲慢で冷たい対応とお役所的な仕事でなにひとつ思うようにできないことが多くて、心身共に疲れ果ててしまった。その時はレニングラードからキエフまでのフライトをのぞいて、モスクワからポーランドチェコまで全部鉄道の旅を予定していたけれど、結局ワルシャワで全てキャンセルして「西」のウィーンに飛ぶことになった。
 機内に入ったとたん、「匂いまでちがう、暖かく甘い」とブラウン氏は言い、たしかに食事にも驚くほど精巧な模様入りのソーセージがでたし、笑顔とやさしいサービスがあり、デザートはモーツァルトの肖像に包まれたチョコレートだった。二週間の間に、この世に存在することもすっかり忘れていたモノばかりだ、とブラウン氏が言ったそういったものは、サービスという概念や笑顔も含めて、たしかにずいぶんとまぶしく光ってみえた。
 
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 ブラウン氏にとって鳩といえばキジバトのことだった。たしかに美しい。しかもベランダに餌を啄みにきて、慣れてくると部屋の中にも入ってきて散歩する。好きにならずにはいられない。最初、部屋に入ってきてちょこちょこ歩いているのを見つけて知らせてきたときは声がうわずっていたほどだから、かなりのものだったのだろう。そのベランダには、ヒヨドリ、雀、メジロもやってきていたし、時折はツグミもきていた。近くに有栖川公園があったし、ベランダにはいつも餌と水をかかさず、また氏の暮らしが静かでもあったからだろう。鉢植えの植木もたくさん置いてあった。
 英語圏では、鳩はpigeonとdoveで、どちらもあまりかわい気がない。pigeonは公園などに群れているふつうの飼い鳩。doveは野生のものだけれど、キジバトよりずっと小型で色もくすんでいるし、何よりブラウン氏言うところのdam(お馬鹿さん)だった。辺り構わず卵を産んで、しかもほっぽり出しているとブラウン氏があきれて怒りながら言う。たしかに北アメリカでは、よろよろのよちよち歩きで、逃げないし、低く飛ぶし、賢くは見えなかった。でもどこかでその愚かしさを懐かしんでいるところが氏にはあって、だからよけい東京のdove、キジバトを愛したのかもしれない。
 鳩はフン公害とまで言われるようにところかまわず群れをなしてフンをして汚すけれど不思議にキジバトはベランダや室内ではフンをしなかった。ベランダが汚れるのはヒヨドリの黒々したフンだ。あのギャーッと鳴く鳥のことを、彼は好きか嫌いか決めかねていて、とりあえず醜いあだ名だけはつけていた。ヤック・ヤック・バード。いかにもうるさくて憎々しげで、ちょっと愚鈍っぽくもある。でもやっぱりどこかおかしみがある。日本語ではギャーギャー鳥と、とりあえず呼ぶことにしておいた。
 ブラウン氏は第二の故郷であるデトロイトあたりの気候が身についていて、それは生まれ故郷であるシカゴにも似ているのだろうけれど、それがどこにいても基準になっていた。都市のなかに住んで、でも車でしばらく行けばのんびりできる場所があるような街。冬はおもいっきり寒くて、夏は快適な乾燥した風が吹く。だからアジア、特に東京はその対極でもあるようで、夏には必ず故郷に戻っていた。そこにはカラス麦の白い穂が揺れる広い麦畑があり、桃やリンゴがたわわになる果樹園があった。まるで、昔のフランスやロシアの小説のようだ。でも、実際にあった。おまけに氏もそういうものを所有していた。
 そのカナダの畑の一つ、当時は大豆が植えられていた場所で、氏は半分埋まっていた錆びた蹄鉄を拾った。少し小さめだから、小型の労働馬だったかもしれない。特別な形の蹄鉄の釘も一本引っかかって残っていた。幸運の印だとして、彼は東京に持ち帰り自分のアパートメントの入り口に打ちつけた。開いた部分を上にして、降ってきたいろんなものがそこに受け止められるようにと。幸運だったと思えるブラウン氏に、それ以上の運がさらにまたやって来て、そしてそこに留まったのだろうか。
 
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 ブラウン氏は東京に住んで日本の大学でも長く教えていたけれど、他の堅物のアメリカ人と同じく、喫茶店が嫌いだった。ひとつには珈琲が五ドルもするなんてことが許せなかったのだろう。一ドルが二六〇円ぐらいの頃の話だ。Sin(罪)です、と言った人もいた。サンフランシスコのパーティでは日本のマスクメロンとともに珈琲の値段もよくジョークに上っていた。トキヨのホテルでは税金や何やかやついて一〇ドルになる、と叫ぶ人もいる。周りには卒倒する人もいる、一〇ドル!! 
 ブラウン氏は、お店には何かの目的、例えば食事するとかりんごのタルトを食べるとかで入るもので、ただわけもなく長く座ってしゃべったりするために喫茶店に行って珈琲をむのは、ほんとにばかばかしいと思っていた。だからおやつやデザートのスフレを食べるために、しかるべき店に出かけて珈琲もいっしょにのむのは、あたりまえであり、抵抗はなかった。でも食べ終え、のみ終えたら、すぐに立ちたがった。椅子が温まる時間がない、というような格言がつくれそうだった。たんに気短というわけでもなく、スフレができるまでなら二〇分でも三〇分でも静かに待っていた。外国を旅行した時は、街角や美術館のカフェでくつろいだり、新聞を読んだりしていた。だだっ広くて静かでお客をかまわない店が落ち着くのだろう。
 狭いわりには内装にもこだわって、お店の人の審美感が充満している日本の喫茶店は、そういったものとあわないと苦痛だし、嫌いな音楽がかかっていたらいやなのはわかる。冷暖房の風が直接吹きつけてくるのにも氏は神経質だった。東京では一時、カフェバーというような゛スタイリッシュ゛なお店があふれた時もあって、ブラウン氏だけでなく出かけるのが嫌になった人もきっと多かっただろう。
 ついに一生マクドナルドに入らなかった頑固さと、強引なわりにはスノッブな場所や人が苦手だったある種の恥ずかしがりは、彼の生きた時代や育った家庭を思い起こさせる。ぐいぐい押していくエネルギー、合理的でリベラルな判断、まだ残っていた素朴さ、ドイツ系の白人男性としてアメリカの神話を生真面目に生きて、そして死んで。
 
 
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 ブラウン氏も子供の頃は誰もと同じように犬を飼っていた。大工だった父親と一緒に散歩に連れて行ったこともある。母親に比べてずっと影の薄かった人と、いったいどんな話をしたのだろう。その大きな犬にボールや木ぎれを投げて取ってこさせて遊んだこともある。フリスビーはまだなかった、あったらきっと使っていただろう。
 成人してからは、忙しいのと旅行と住居の問題で飼えなかった。たぶん合理の精神を学びすぎたのかもしれない。時間も手間も取られる、お金もたいそうかかる、愛も削りとられ奪われる。マーケッティングすれば、もっといくつもの損益計算書リストが連なるだろう。部屋が臭くなる、壁紙やカーペットが傷む、毛が抜ける、ひとりで考え事をするときに寄ってこられたくない、互いの感情がぴったりとは一致しない、与えることと得ることとのバランスがつかない、食べ物や音楽の好みがちがいすぎる、選ぶ(選ばれる)友人のがずれる・・・・。
 犬や猫や、幼児もそうだけれど、そういうペットというか、愛する対象を抱え持って暮らしている人を見ると感動させられることがある。愛ということのありふれてでも深くて激しいことに驚かされる。たしかにもろくて可愛いものはいとおしい。でもそれを支えるためにはすごいエネルギーがいる。意識しないでそういうことが始められる人にしか、そういった日常化された、あたりまえにできる愛や慈しみは生まれないのだろう。四六時中撫でまわすことでなく、時にはぞんざいに扱い、忘れてもいられて、そうして必要なときには必ず関われる、それもしぜんな仕草として、というようなこと。だからそれは、異様な形に刈り込んだ犬に洋服を着せて連れ歩くことからは光年の彼方にある。
 めんどくさそうにさしだした父親の手の先を握って、ときどき見上げながら着いていく幼児の、ふわとしてぽきぽきとして頼りないでも全身から放たれる柔らかさ甘さはあたりの空気を風景を一変してしまう力を持っている。大きな犬と歩く少年のぶっきらぼうなでも限りのない愛情もまた世界に惜しげもなく放たれ続ける。
 そういう時代や場所がかつてあったということだろうか。それともいつの時にもどこにも慈しみの思いは溢れて、ただ人が気づく力を失い、だから省みられないままいつのまにか喪われてしまったのだろうか。でもそういうことを丁寧に考え始めると「愛」ということそのものを根源までさかのぼって考え始めたりする。新しい定義や解釈でなく、歴史や生物学さえ踏み抜く勢いで突き進んでしまう。そうなるとどこかで「性」ということもにも結びついていって様相はますます錯綜し、いよいよ遠くなってしまうかにも思えて、だから誰もがみつめること、考えることにそっとどこかで蓋をしてしまうのかもしれない。
 

ブラウン氏のおもいで⑭
ブラウン氏はもちろんインドへは行かなかった。不潔だ、というのがいちばんの理由だったようだけれど、留学生をとおして知った彼らのあくの強さを敬遠していたふしもある。もちろんそんなことをちらとでも思うのは、教師としての差別の倫理コードに触れかねないから、しっかり蓋をしてしまい込んでいた。だから彼にとってはビルマがアジアの最西だった。近東も中東も、ブラウン氏にとっては逆に遠いところだった。
ヨーロッパからすると最も遠い東(ファーイースト)の日本を気に入って住みつき、でも同じ極東の台湾や韓国には一度しか行かなかったし、中国には生涯足を踏み入れなかった。もちろん80年代までの香港は別にしてということだ。香港には友人がいたこともあるし、ヨーロッパからの便はほとんど止まるので、頻繁に寄り道していた。
知らない土地や「素朴」な人々に率直な興味を持っていたから、ラオスにも行った。フィリピンは戦争で行って敵国の日本軍と戦った。戦闘には参加しないですんだけれど、マニラ湾の惨状は記憶に焼きついていたようだった。その頃知りあったフィリピン人の将軍とはその後もずっとつきあいがあったが、それは彼がビジネスでも大きな成功を収めていたからだろう。自家用ジェットを持っている人だった。
ブラウン氏が穏やかでポジティブな人を好きなのは、多くのエスケープ米国人と同じだったけれど、アグレッシブで少々鉄面皮なところもあり、成功した人や有名人と積極的に知りあいになろうとしていた面もある。ピーター・ドラッカーもそのひとりで、どういう技を使って知りあいになったか聞かされたこともある。彼は頻繁に日本にも来ていたし、財界人とのつながりも多く、ブラウン氏も自身の経営者の知りあいを紹介しては関係を深めていた。麻布のアパートメントに昼食かお茶に来たこともあった。日本では置いてきぼりになることの多い奥さんを当時話題の竹の子族を見に原宿へ連れて行ったこともあった。彼女はフラウン氏のミュンヘン時代の学友で長い友情を築いたヨシケ教授の奥さんに似ていて、小柄でほっそりしているのにすごくエネルギッシュだった。
そのヨシケ教授夫妻、もうずっと前に亡くなられたけれど、ミュンヘンに旅行した時に会った。オーストリアのグモンデンという深い湖に囲まれた村に別荘があり3日間ほどいっしょにすごした。静かな、毎朝近所の農家から産みたての卵を届けてくれるような村だった。峡谷がそのまま湖になっていてどこで切れているのかわからないようにずっと続いていた。ボートでしばらく走っても高い峰までの距離はかわらない。深い青に木々の緑がとけこみ、空も映しこんで不思議な深みを浮きあがらせていた。小さな島の茶店で珈琲といっしょに頼んだとき、バタつきパンというドイツ語を教わったのは奥さんからだった。すごく滑稽な間違いをしたのをみんなで笑いあって、そのことは次に東京であった時にも冗談でやりとりされた。たぶん2度目に日本にみえた時は、渋谷の観世能楽堂に井筒かなんかみにいったはずだ。ちょっと虚勢を張って連れて行ったけれど、寝ているブラウン氏の横でふたりはかなり興奮してみていた。極限まで洗練されていて衣装でも動きでも、とにかくすごいと思う一方、異様な時間の流れと、ひとつひとつが異常にゆっくりと感じられて、なんだか無理やりに感覚が捻られ引き延ばされるるようで身体的な苦痛でさえあった。ある種の映画のように心静かに熟睡へと導かれることがないのはお能の深さのあらわれだろうかといつも思わせられる。
ブラウン氏がどこに行ってもすぐに誰かと知りあいになるのは、アグレッシブでオープンマインドだからだろうし、誰かと話すこと、それもちょとと気の利いたジョークを言い交わすことが楽しいのだろうけれど、でも根っこにあったのはやっぱり寂しさだろう。ひとりで旅すること、そうして生きることは誰にとってもさみしい。
 
ブラウン氏の⑯
 楽しいことも、もちろんたくさんあった。親しい人を日曜日の、いわゆるサンデーブランチに招くのもそのひとつだった。
メニューは決まっていて、エッグベネディクトにおかわりつきのブラディーマリー、ではなかった・・・・まだまだカリフォルニアが世界を席巻してはいなかったのだろう。
 サワークリーム・ワッフルとたっぷりの珈琲だった。時にはそれがバナナ・パンケーキになったりもした。これは通常のパンケーキとは外観もかなりちがっていて、一ドル銀貨よりちょっと大きいくらいの、ほとんどマッシュしたバナナだけに思える柔らかいもので、つくるのに時間がかかってたいへんだった。
 ブラウン氏は贅沢は好まなかったけれど、シロップにわけのわからないものを使うのは嫌って、必ず100パーセントピュアメイプルを選んでいた。蜂蜜はあまり好きでないようで、だから朝食のシリアルにどろりと蜂蜜をかけたりすることはなかった。
 つけあわせはだいたいカリカリのベーコンと温野菜それにサラダだった。
 サワークリームワッフルのレシピはブラウン氏の古い友人でオハイオに住んでいた先生からもらったものだった。丁寧に水色の航空書簡箋にタイプされていたそれを、東京を離れてからもずいぶん長く持っていたけれどいつの間にかなくなってしまった。たぶんGMのワッフル焼器を誰かにあげたときにいっしょにあげてしまったのだろう、もう使うこともないと思って。
 ほとんど小麦粉を使わないワッフルだからカリッとしていてさくさくと口のなかで柔らかく砕けて、メープルシロップと混ざりあった。ヨーグルトや荒く刻んだ果実を乗せたりもした。種に直接ナッツやバナナを混ぜ込んで焼くこともあった。そんなワッフルをたっぷり食べた後に、また甘いデザートをだして辟易されたことも思いだす。チョコレートなんかをだしても米国人の大半は大喜びだったけれど、たしかウェザビー氏の友人で信楽からきていた日本人の陶芸家は、うへぇーといった感じであきれかえっていた。でもあれこれつまんでおもしろがってもいたから、楽しくはあったんだろう。ぼくも楽しかった。ブラウン氏は120パーセント喜びを表さないと、そうしてあれこれ好意的に評論しないと満足しなかったから、陶芸家のことはたぶん気に入らなかったのだろう、招待者のリストには載らなかった。具体の吉原  のことを話したのを覚えているけれど、なんでそういう話しになったのだろう、まるでちがう世界の人に今も思える。    
 酒好きな人は甘いもの嫌い、というのは日本という地域限定の思いこみなのだろうか。ほとんどの人はワインも大好きでデザートも大好き、かつ夜のパーティの時はみんな甘い食後酒もしっかりと楽しんでいたから、クワントロやアイリッシュクリーム、・・・ミント、ブランデー、ミドリなどのリキュール類もいつも揃えていた。バナナダイキリとかモスコミールなんかがほんとにのまれるのをそういった場で初めて見た気もする。
 
17
 「フォシーシア、春の花です」とブラウン氏がいって、見るとれんぎょうだった。それ以来、れんぎょうをみるとフォシーシアというふわふわした響きが口をつく。「フォシーシア」、一度口にしてみるとそのことばしかれんぎょうににはあてはまらないような気がする。
 ドッグウッドがアーカンソー州の州花でであることを教えてくれたのもブラウン氏だった。氏の両親が引退して長く住んだ州の花。それがはなみずきという和名だと知ったのは、いっしょに暮らすようになった後だった。そのアーカンソーには一度だけ行った。母がひとりになった後も長く住んでいた、という家はとうに人手に渡っていたが、庭の大きなミモザはそのままで、小さな黄色い花をたくさんつけていた。
 古い映画にでてきそうなさびれた中南部の街で、ダウンタウンには数軒の小売店と、ウールワースだけがかろうじて開いていた。映画館はもちろんない。七〇年代半ばに、主だったものはみんな郊外のショッピング・モールに移ってしまっていたのだろう。全く同じことが今は日本中で起こっている。チェーン店のファミリーレストラン、異様なほど明るいコンビニエンスストア、巨大な駐車場のある郊外のモール。そこには流行の安い服の店が並び、シネマコンプレックスと呼ばれる集合映画館がある。一〇〇円でなんでも買える店もあるし、一〇〇円で売る古本屋もある。
 氏について訪れた両親の墓地は、芝生はきれいに刈られていたけれど、隅々までは管理がいき届かないようだった。「なにもかも、こうやって少しずつ綻びていく」とブラウン氏はいい、でもそれは苦い批評や寂しい感傷ではなく、ただそういう事実を述べるといったふうだった。黙って墓をみつめていると、ぽんと肩を叩いて、いつものように「シャル・ウィ」といって歩き出した。あの墓は二人用だから、彼自身はデトロイトに墓地を買っているといっていたけれど、それがどこかとうとう知らないままに終わった。
 黙っていると、「何を考えている?」と必ず聞いてくるのは、まるで映画そのまま、というより、米国人そのまま、といったほうがいいのだろう。「なにも」、と答えると、「何もなんてことはないだろう」と、その大きな目玉をぐりぐりさせて聞き返してきた。そんな時、ただ黙って小さく微笑むしかなかってけれど、もっと思いつくままになんでもないことでもいいからあれこれしゃべっていれば、いろんなことはちがう結果になったのだろうか。ほんとに大切なことはことばにはならないんだと、そんなふうに思うことは、相手を押し返して拒むことだったのだろうか。
 ブラウン氏が火葬されたのは、本人の希望だったからと聞かされたけれど、氏がほんとに火葬を望んでいたかどうかはわからない。合理的だ、とは考えていただろう。広い墓地がなくてすむ、灰になれば清潔だし処理も簡単だ、ゾンビの怖れもない、キリスト教の教条からも外れ、永遠とか劫火とか罪とか罰とか、そういうのから逃れられる。そうだったのだろうか。
 
18
 ブラウン氏は東京では一回しか引っ越さなかった。いつも初めにしっかりリサーチするし、土地や市場のあれこれにも詳しいし、お金も決断力もあったから、いい場所をきっちりと確保していた。引っ越しはたいへんな作業であり、心身共に消耗し尽くすし、その精神への影響の大きさもわかっていたのだろう。
 引っ越しだけでなく、環境の激変や同居者つまり近親との離別や喪失が鬱病や痴呆の引き金になりやすいし、そこから自死へも一歩であるとはよく聞く。だから極力、老いたり、弱っているときは場所を変えたりしないように、いろんな関係を切らないように、近い人の死の影響をできるだけ少なくするようにと諭される。それは、鬱病や精神に負荷がかかった人に、「頑張りなさい」などとけして言ってはいけないことと同じくらい、だいじなことだとも。
 でも人は往々にしてそういうときほど、いろんなことを強引に断ち切ってすっきりさせたくなってしまい、全部をスイッチひとつでリセットするような願望を抱いて、大袈裟にいえば起死回生を期して、近い人を切り捨て遠くへ移ってしまおうとする。ここより他の場所、新しい地、新生、いつもいつもつきまとってきた幻想は最後までからみつく。ここより他はここであり、長い時間のなかで積み上げられるもののなかにしか新しさもないことを、ついに悟ろうとはせずに、またはわかっていても気づかないふりで振り捨ててしまおうとする。
 たしかにそういうある種の蛮勇をふるうことは自分の力や精神力や攻撃性、積極性を一瞬感じたり、信じたりすることであり、そういった幻想はあっというまに全てを覆ってしまう。でも、結果はいつも悲惨だ。引っ越したとたん、すぐに引っ越したくなる。こんなことがあっていいのか、前よりひどい、こんなことのためにあのたいへんさを忍んできたわけじゃない。お金があり引っ越し業者さえいれば、ほんとにそれを実行してしまう人がいる。無限地獄。そのなかで何もかもが混乱し、周りのことが掴めなくなり、だから当然、外界や他者との距離、関係で計っていた自分のこともわからなくなる。苛立ちと、怒りと、全てへの嫌悪。
 周囲は彼を扱いかね、邪険にし、年老いた無能者と決めつけ、奇妙な媚びを混ぜつつ支配し始める。そんななかで、今まで自由に生き、強いプライドを持ち、身の丈以上の尊敬を受け取ってきた人が、楽しく生きていくのはもう不可能だ。ちょっとでも古くなった下着を捨てることを洗濯の係りの若い娘に命じられる、といった些細なことをついに受け入れたとき、それは自尊の放棄、そして世界への決定的な決別へとつながっていく。
 誰にとっても引っ越しは、新しい可能性への出立や新天地への一歩などではなく、いつもいつも苦い苦役であり、新しい場所への適応を身を低くしてどうにかやり抜き、またいろんなことを凌いでいかなければならない試練だったのだろう。
 ブラウン氏は東京を捨てた後、晩年にたてつづけに3回越して、そうして亡くなった。あんなに大事にしていた仏像や中国の陶器、吉田博の版画は業者に乱暴に箱詰めされたまま放置されているのだろうか。
 
19
 ブラウン氏からは三週間ほど前にハガキが来たばかりだったから、その死の知らせには驚かされた。すごく不思議な気がした。亡くなったことを三人の人が知らせてきてくれたけれど、最初は氏の仕事関係があった日本の大きな会社からだった。有能な秘書そのもの、といった人が過不足なく用件を伝えてくれた。それからブラウン氏と共通の旧い友人から、そうして最後に米国のブラウン氏の知人からだった。
 葬儀にはいけなかった。しばらくたってからのメモリアルサービスに参加した。デトロイトの、大学にも近いホールだった。親しかった人たちが集まっての、おそらく小さなミサだったのだろうけれど、なんだか親密な空気は感じられず、ただぼんやりしていた。隣に座ったロイはずっと眠っていた。
 翌日誘われてカナダの、氏の果樹園への小旅行に加わった。懐かしの場所での昼食、林檎を摘もうといったピクニックも兼ねた気軽な誘いだったけれど、橋を渡ったカナダへの入国は、車の窓から「ハーイ、シティズン」といって走り去るわけにはいかなかった。ブラウン氏は慣れっこのそういう煩わしさを彼らは初めて経験するようで、小さく驚いている。車から降ろされ、片隅の事務所でパスポートや免許所を提示させられ、スタンプを受ける。まるで外国に行くみたいねと誰かが言って、だって外国だよと誰かが答えて小さな笑いが起こった。外国人、というより東洋人がいるから厳しくなるんですよ、台湾や古いヴェトナムのパスポートだと入国が拒否されるでしょうね、そんなことも呟いたりする。
 ナイアガラの滝での出入国の悲喜劇を聞いたのはブラウン氏からではなかった気がする。滝は両国にまたがっていて、カナダ在住のヴェトナムからの難民がうっかりカナダ側を出て米国側の見物に入ろうとしたら入国を拒否され、でもカナダ側でも再入国は受けつけられないということになって橋の上で立ち往生してしまった。映画なんかにもあるけれど、空港で足止めされたまま施設で数年が経ったというようなことと同じだ。空港のここの部分はまだ「外国」で、そこからこちらには来れないといったような滑稽で奇妙なことが起こる。まあまあではすまなくなる。大使館の職員が来て一件落着にはならない複雑な関係の国がたくさんある。そもそも「国」がないとか、認めていなくて国交がないといったことも少なくないのだから。結局、彼は橋の上で観光客からのお布施を受けつつ三二年間暮らして死にました。遺体は河に突き落としてやっと自由を得ました、ということになった。というのはもちろん嘘だけれど、でもほんとはどうなったのか誰も知らない。死刑が待っている本国への強制送還、といったことも平気で起こる世界だ。誰もが誰ものことを人種や民族、国籍でしか判断するしかないなかにいる。性別や肌の色、瞳の色、そういったことのいいかげんさすらすでに日常の生活のなかではわかりあっているつもりでも、社会性を帯びてくるととたんに誰もが曖昧さと不安のなかに立っていることに気づかされる。
 成功者としてささやかな富や尊敬を勝ち取っていたブラウン氏でも、国境や民族の壁の前では誰でもないただの米国人男性でしかなく、そういった制度は冷静に受け止めていて求められれば穏やかにパスポートを差しだしていた。そんなふうに死への通行手形も静かに差しだしたのだろうか。両親がそうだったからカソリック教会で洗礼も受けていたけれど、マスタベーションの懺悔を強制させられるのには心底うんざりしたといって、一度離れてからは教会にはけして寄りつこうとはしなかったから、キリスト教的な怯えは少なかったのだろうけれど。宗教や信仰から遠い頑固な合理主義が、最後の最後に尊厳死へと向かうのはとうぜんのことなのだろうか。プライドと自己への尊厳と周囲への怒り、極端な諦念が、混濁し続けるなかでの最後の威厳だったのだろうか。
 果樹園からは黄色い大きな林檎を持ち帰ったから、あれは秋だったのだろう。正確なことはうまく思いだせない。ブラウン氏の享年も命日もすでに遠い記憶の彼方だ。