菜園便り354 2020年1月27日

菜園便り354
2020年1月27日

 今年の旧正月は1月25日だった。いつも2月だとばかり思いこんでいたのであわてて準備。結局、お昼にお雑煮をつくり神棚など4か所にお供えした、もちろん表の恵比須様にも。旧正月まではしめ飾りもおいたままだ。
 お供えは餅と、松や梅の形に切った大根と人参、それに昆布を一切れで、これは正月と同じ。父が必ず旧正月を祝っていたので、それを引き継ぐように続けているだけだけれど、こういった伝統行事や神事は人をおだやかな気持ちにしてくれる。料理といった家事が絡むからいっそうそう思えるのかもしれない。
 ひとりだけだから自分用の雑煮もシンプルで、特に今年は煮干し出汁に餅と大根、人参の他はちょっと緑を入れただけだった。魚もかしわもなくて正月よりずっと簡略。それでもお供えのお下がりを夜にいただいて、昼夜連続の雑煮になった。こういうことも今年初めてかもしれない。気がつけば父と全く同じことをしている。今まではかたくなっていていかにもまずそうだ、なんだか貧乏くさいと、お下がりをいただくのを敬遠していたけれど。
 それは、どの世代にもある先行世代への対抗、家長への反発が根元にあっただけなのだろう。すなおな目で見れば取るに足らない些細なことをとてつもない真理や優越と思いこみ、愚にもつかない理由を数えあげていたのだろう。そういう単純なことに気づくのも長い時間がかかる。世間の大方の対立や嫌悪はささいなことが始まりで、それがあっという間に取り返しのつかないことへと拡大されていく。なんて愚かしいことだ、といえるのにも50年という時間が必要だったのだろうか。愚かすぎるわたくしたちヒトという種には、ある絶対的な存在、大いなるものとしかいえない、宗教に囲い込まれない<カミ>が必要なのだろう。
 今年は暖冬でうれしい限り、指先が凍ることもなくしもやけにもならずにすんでいる。下着もいつもの年より1枚少ないまま冬を終えられるのじゃないだろうか。雨が多いのは憂鬱だけれど、そのせいもあって庭には緑がそこかしこに残っている。枯れた茅に取り囲まれながらもマツバギクは咲き続け、気丈に陣を張っている。この時期のほとんど唯一の花として客室、応接室を飾っている。
 ここ数年山茶花が咲かなくなったので待ちどうしかった藪椿がやっと開いた。濃い緑の葉の上の朱は鮮やかで目が離せなくなる。燐家の庭のはもうちょっとかかりそうだが、沈丁花は今日明日にもという風情だし、寒さをこしたレタスやルッコラ、パセリもじわじわ伸びている。ほんとに植物は勁い。