ブラウン氏の思いで

ブラウン氏のおもいで
中田浩(安部文範)

 ブラウン氏に初めて会ったのは麹町でのクリスマスパーティだった。大きなお屋敷で来ていた人も多く、偽善的なほどの丁寧な挨拶とどこかたがの外れた、日頃の屈折も全て解放してしまおうとするような大騒ぎに疲れ、いくつかの部屋に別れたグループに加わったり離れたりの談笑にも倦んで、コートを置いた寝室へ上る階段に座っていた時だった。階段にも厚いウールのカーペットが色柄をコーディネートされて敷かれていて、気持ちいいなあとぼんやりしていると、不意に上から降りてきた人がいてそれがブラウン氏だった。
 ちょっと驚きながら、でもははーんといったしたり顔になって笑いながら「チョトウルサイ、デスネ」といって、隣に座って話し始めた。日本語はあまり得意でないようですぐに英語にかわった。氏も集まったメンバーをよく知らないらしく、まあクリスマスにトーキョーに残っているかわいそうな人たちを慈善のつもりでよんだのでしょうといって、あなたはと聞かれ、ぼくはリイコータイローに誘われてきたけれどもう帰ろうと思ってますと答えて立ちあがると、わたしもと立ちあがったブラウン氏がふらついて、慌てて支えたけれど身体も大きいし足下がふわふわで心許なくてひやっとしたことをはっきり覚えている。
 塀から伸びだしてきた木々の下をくぐるような薄暗い道を駅へと向かう冷たい空気のなかで、ワイルドなパーティでしたねと同意を求めるようにきかれて、わざと聞こえないふりをしたことも覚えている。地下鉄へ降りる階段の前で丁寧な別れの挨拶のさいにさっと名刺を出されてちょっとあたふたした、名刺なんて持ってきてないし。でもブラウン氏はそんなこと気にもしないといったふうで、ジュバンにもおいしいレストランがたくさんあります、ランチをいっしょにしましょうといって、電話下さいとつけ加えた。
 あの後電話したのかそれともまたどこかであったのだったか、きっとそうだろう、後になってずいぶん共通の友だちがいるのがわかったから。それともジュバンというのがなにかわからなくて気になっていたから、それを聞きだそうと電話したのかもしれない。いずれにしろ麻布十番ではその後何度も食事した。フレンチやイタリアンだけでなく、蕎麦の店もあったし焼き肉の店もあった。
 そうやって短くはないつきあいが始まった。
 

 というのはもちろん嘘で、出逢った時のことはミシガン州のアンアーバーというこじんまりとした大学街で一度だけ口にしたことがある。人と人が出逢うのはいつだって一種の緊急事態なのだから、あれこれ恐いことも汚いこともそうして恍惚とするような感動もある、はずだろう、きっと。
 それはメアリーとベスに夕食に招かれた時のことで、魅力的なこじんまりとした家いっぱいに写真やいろいろのものが飾ってあって、頼むとひとつひとつ説明してくれた。どれもが丁寧に選ばれて美しく、だから米国の、初めて招かれた家でいつも強制されるホームツアーのようにうんざりすることもなかった。肩だけのちょっとなまめかしい写真があってきいてみるとメイプルソープだった。まだ写真集も出てない頃だったから買えたのよとちょっと自慢そうにいって、でもわたしがほんとに好きなのはこっちよと教えられたのは女性の後ろ姿のポートレイトで、写真家の名前を聞き返すとジョージ・オキーフの夫よと聞こえて、オキーフに旦那なんていたっけと思っているうちに先へ進んで、ふたつ並んだ小さな根付けの話になって、けっきょくオキーフのことはそれきりになったけれど、その時の夕飯の後ちょっときつめのお酒をリビングに戻って飲みながら問わず語りに語らさられたのがほんとの出会いの時のことで、そんなのはもちろん誰にも話したことはそれまでなかった。
 どうしてアンアーバーにいたのかはっきりとは思いだせない。二週間ほどはいたように覚えているからブラウン氏の学会かセミナーにあわせてそこで落ち合ったのだろうか。でも中西部ではデトロイトとシカゴの空港に降りた時の記憶しかないから、デトロイトに行った夏に車で出かけたのかもしれない。当時は小さめの静かな街という印象だったけれど、もうずいぶんと前のことだから他の街とまぜこぜになっているかもしれない。通りを歩く若い黒人がみんなラジカセを抱えて奇妙な歌詞だけみたいな歌というか曲をかけていて不思議に思ったのは、あれは八〇年代半ばのことでだからそれは同じ大学街でもシカゴ郊外のエヴァンストンだったとわかる。
 アンアーバーにはよく知られた古本屋がいくつかあってそれが街中でなく郊外のふつうの一戸建ての家で、おそらく通信販売が主なのだろうけれど訊ねて行くときちんと対応してくれてお茶もでたような気がする。もちろんブラウン氏といっしょだったからだけれど、それでも米国ではそのへんの事情は日本とずいぶん違っていて、画廊なんかでも珈琲がでたりすることは全くないからやっぱり特別だった気がする、それでその梨の木のあった小さな裏庭のこともよく覚えているのだろう。猫背の小柄なご主人があれこれ四方山話をしつつひとつひとつ本を出してくれるといったふうだった。古いのは全部皮で装丁し直されていて、それだとオリジナルではないよなあと思ったりしたことも覚えている。「初版ですね」とついでのように言うのは商業関係の本だから、どちらかというと後の改訂したもののほうが正確でより新しいということだったのだろうか。たぶん後でブラウン氏に聞いただろうそういったことは全部忘れてしまった。   
 街には六〇年代の影響というか残映がそこかしこにあって、奇妙な、そういうことばでいえばサイケデリックな色彩の内装のインドやネパールの雑貨や色とりどりの蝋燭を売る店だとか、「アマザケ・パンケーキ」が「トーフ・ステーキ」と並んでメニューにある自然食レストランなんかがあっていろんな手書きのチラシやパンフも無造作に置かれていた。蝋燭屋に顕著なあの甘ったるい独特の匂いには未だに慣れることができない、つまりもう永久にそうだということだろうけれど。
 小さな映画館もあったし、学校や小さなホールでもよく映画がかかっていたようだった。さすがにランボーとかでなく、オーソンウエルズの「市民ケーン」とかで、でもヨーロッパの映画はすごく少なかったし、アジアの映画はクロサワは別にして皆無だった。
                                                                            


 ブラウン氏は年の半分は東京の大学で教え、半分は米国で教えていた。マーケッティングが専門で著書も多く、それも教科書として使われるものが多かったから出版社も力を入れていたしよく売れていた
 米国で教える春夏の半年間、ブラウン氏はカナダに住んでいた。カナダといっても米国と国境の河で接した小都市で「さあ、カナダに行くから南に向かおう」というジョークが必ず聞かれる場所だった。一帯は大きな湖の周りの入りくんだ地形でカナダが米国にぐっと食い込んでいるので実際そういったことになっている。そのこじんまりとした街にリタイアした後も夫婦だけですんでいるターンブル夫妻宅に下宿していた。
 家や部屋を持ったり、常時借りたりすることは不経済だと考えていたようだ。でも果樹園や麦畑は持っていてそれを貸していたから、不動産は投資のための対象としてだけ考えられていたのかもしれない。そういう場所を何度かいっしょに訪れたこともあって、林檎園のすみの桃や杏子を植えた区画で小ぶりのおいしい実をちぎって食べたりした。白い燕麦が風にかすかに鳴るなかをゆっくり歩いたことも覚えている。麦畑の上に描かれる風の形に気をとられて、熱心に語るブラウン氏に気のない相づちをうつだけだったことも。
 老夫婦は奥さんがもと高校の英語の先生で、スクラブル・ゲームが強かった。ブラウン氏を負かす数少ない人で、だから氏はしょっちゅうやりたがり、その度に機嫌が悪くなったりもした。少し年長の彼らの前ではずいぶん子供じみた振る舞いにみえたけれどあれは彼なりの郷愁だったのかもしれない。ターンブル婦人もいつもは穏やかな人なのにゲームに負けた時だけはずいぶん辛辣になった。そういう単純な一生懸命さというか子供っぽさも、今の時代から喪われたもののひとつだろう。
 彼らの親切はすぐにいくつも思いだされる。一時間以上もかかる準備を厭わず、ガレージから小型のボートを引きだしては目の前の河に浮かべてくれたし、河が見渡せるリビングで航行する船の旗をひとつひとつ教えてくれたりした。ギリシア船が通ったことだけはよく覚えている。国旗とはちがう複数で掲げられたそういう旗を大きな図鑑を広げて示してくれた。ぎょっとするほど大きな船がすぐそばを抜けていく。この河を抜けて湖へと入り、どこかの工業の街へ原材料を届けるのだろうか。
 ターンブル氏は化学関係の会社を勤めあげたエンジニアだった。だからというわけでもなのだろうけれど、自分の工作室を持っていた。いろいろの、主には手仕事用の道具がきちんと整理されてずらりと並んでいたし、工作台の上はいつもきちんと整理されていた。奇妙な形の道具やその使い方に関心を示すと熱心に教えてくれた。当時は日本の工具のことだってろくすっぽ知らなかったけれど、何かしらの共通点があるのは感じられた、墨壺が同じ目的ででもずいぶんちがう形ややり方だとかいったこと。ターブル氏も鋸の挽き方が逆だということは知っていて、でもそれは東洋の無知のなせる技だと思っていたようだ。
 氏が先に亡くなり、奥さんから届いたその知らせの手紙のことはずっと忘れられなかったけれど、奥さんが亡くなったことは誰からも知らせがなかった。
 

 ブラウン氏は生涯一度もファーストフード店に入ったことがなかった。マクドナルドが大嫌いということで、それはああいったタイプのハンバーガーが嫌いというのと、会社としても好きになれないというのと両方だった。さすがにコカ・コーラは飲んだことがあった、第二次世界大戦では軍隊にいたからとうぜんなのかもしれない。
 誰それは生涯飛行機に乗りませんでしたとか、ついに新幹線には乗らずじまいでしたとかいうのを聞くといつもすごいなあと思ってしまうけれど、マクドナルド拒否をとおすというのもなかなかだと思う。そういうことを書いていて思いだしたのは、たぶん米国のニューヨークではない大都市のひとつだったと思うけれど、その街の一角でのことだ。誰が見ても米国人家族だとわかる一家がなにやらもめていて、四〇代のあまり背が高くなくてがっちりした父親と太っていない母親、九才くらいの男の子、四才くらいの女の子で、マクドナルドからちょっと距離をとった壁際でだった。なんだろうとちらちら見ながら歩いていると、ブラウン氏になんのことかわかりますかときかれて、さあ、喧嘩でもしてるのかなあ、お父さんが真っ赤な顔してるねえと応えると、典型的なアメリカン・ファミリーですねといわれて、また振り返ろうとすると、じろじろ見るのは失礼ですとぐっと腕を引かれ、じゃあなにとちょっとむっとして聞くと、あれはですね、子供が、あの男の子がマクドナルドに行きたいといいはっていて、それにお父さんが反対しているんです、とまるで見てきたように話すのでついまた振りかえれそうになったしまった。「まさか」。
「そうです、どこにでもよくあることです、ああいうことも、家族を持つとしなくてはならない、たいへんですね」
「つまり父親は菜食主義で肉が嫌いで・・・」
「いいえあの身体を見ればそうでないのはわかるでしょう、ふつうにきちんとした食べ物をしっかり噛んで食べてきた人です、きっとお母さんが料理が上手だったんでしょうね、我が家のようにね、母さんは肉料理も魚料理も上手でしたし、野菜もいろんな料理を作ってくれました」
「もちろんデザートのアップルシュトゥードルもロシアンクッキーもだね」
「そうですよ、だからマクドナルドには一度も入らずにすみました」
「ほんとに」
「ほんとです」
「一度も」
「そうです」とブラウンさんがはっきりと言って、それはたしかに納得できることでもあった。じゃあ、残りのふたりはと話を元に戻すと、お母さんと娘さんは結果次第ですね、とわかりきったことじゃないかというふうに答えが返ってきた。
 半時間ほどで用をすませて戻ってくると、壁に背を向けて腕組みした父親だけがあらぬ方を向いて赤い顔のまままだ立っていた。まるで歯を食いしばったような表情を盗み見てから反対側を見ると隠れるように3人がマクドナルドのなかに座っていた。父親の沽券というより孤独な生活派の哀しみ、といったふうだった。そしてそういう哀しみはいつもどうしようもなく滑稽に見えてしまう。
 「たしかにまずいのはわかるけれど、安いし、とにかく速くすませられるし、仕事の隙間の時間に駆け込むことはあるよ。だいいち一度は食べないと味もわからないじゃない、そんなに嫌いなの」、
「いいえ、まちがっているからです」。
 そのブラウン氏の返事にはとても驚かされたから、いっそう記憶に焼きついたのだろう。「まちがっている!?」。そういうことをいう人が米国でもあの頃はまだいたのだ。そうして世界の止めどない崩壊を、ある角度からささやかにであはれおしとどめていたのだろう。スノビズムから鼻の先で笑ったり、そもそもそんなファーストフードが存在することすら知らない裕福な人としてでなく。  
 あの父親は生涯マクドナルドを拒否しとおしただろうか。たぶんその軋轢があまりにも大きすぎて、家族や仕事を捨てないために、捨てられないために、おそらくいくつもの止めどのない妥協をくり返すようになっただろう、と思う。ブラウン氏は楽々と、とみえるように自分の思いを好悪を貫いた。そういうことができた世代だった。
 

 ブラウン氏は散歩が好きだった。2時間くらい楽しそうに歩く。車や騒音を極力避けようとするから、住宅街や公園が多くなる。住まいの近くに三千坪もある有栖川公園があってそこはお気に入りだったけれど、そこをぐるりと歩くぐらいは、散歩の部類にはいれてなかった。南部坂を上りきったところに住んでいたから、仙台坂を抜けて二の橋から三田方面に出て、慶応やイタリア大使館のあたりをまわり、帰りは赤羽橋経由で十番に入り買い物もして、天井桟敷の前を通り、長屋の裏の路地を文字どおり擦り抜けて西町インターナショナルスクールの下から戻ってくるというのもあった。恵比寿駅から歩いて帰ってくるのは4、50分、そんなのは日常だった。渋谷から宮益坂を上って青山にで、根津美術館を抜け、西麻布から笄小学校の方へはいり、麻布税務署から愛育病院、東京ローンテニスクラブというのもあったけれど、これはちょっと極端すぎる。でもこのコースを逆にたどり、西麻布霞町から坂を上って六本木の交差点を飯倉の方へ曲がり、ロアビルの横から右に折れて国際文化会館、東洋英和、鳥居坂、十番というコースもあった。もちろんその日の気分やいっしょに行く人とかで臨機応変あれこれ変わったけれど。
 植物、特に花をめざとく見つけてはコメントをする、それも楽しみのようだった。すきあらば、さっと一枝失敬してくる。花盗人は罪ではない、風雅な咎だと思っていたところがあった。特別風格があったり堂々と大きかったりするわけでもない、慎ましい住宅の庭の木々も愛していて、ある日そういう家が庭ごと不意に消え去ったりするとがっかりしていた。バブルの頃はほんとに一夜にして一角が忽然と消え去るなんてこともよくあった。
 散歩の途中どうしても気になってしまうのが、散在する英語の表記だった。ものを書く人だし、英語が母国語だから避けられないことだろう。東京での英語表記は明治以来の西洋崇拝と、新しさ(トレンディーということだろう)の象徴、すべてのイメージ化(曖昧化)なので、かなりすごい。それに行政が設置する標識に多い、教科書的「正しい」英語の奇妙さ。西洋語(英語)は正しい、すばらしいという思いこみに拝跪していて、英語というのもひとつの言語であり、世界には多様な言語があり、その英語にしても現在はいろんな形があり得るという当たり前の見方を失っているから異様なのだろう。卑屈さとその裏返しの傲慢。そうしてそれを英語圏の人間は巧みに利用する、特に政治の場では。もっと言えば西洋的「文化」「知」へのへつらいを、素知らぬふりで微笑みながら、腹立たしいくらい上手く弄ぶ。いっとう嫌なのは、そうされることをかまってもらえたことだと、かえって喜びさえする貧相な心根だ。政治や「文化」は、囚われる人間をどこまでも底なしにおぞましくする。
 散歩では月はつきものだ。ブラウン氏も見上げてはあれこれかならず口にした。あまり映画を見ない氏が珍しく人にも勧めたのが「Waiting for the moon(たぶん「月のでを待ちながら」というタイトルだったと思う)」。あのキュービズムをことばでやったガートルード・スタインとアリス・トクラスの物語。ことばにこだわる彼は、とうぜんにもスタインも好きかと思っていると、ああいうのはインテリのスノッブな知的遊戯であの優越感が鼻につくと感じていたようだ。「a rose is a rose is a rose・・・・・・・」ではそうかもしれない。でも、そうだろうか。じゃあ、何故あの映画を気に入ったのか、それはわかりやすそうで、結局謎のままだ。待つこと、永遠にこないものでなく、ほぼ確実に来るもの、そしてやさしく慰撫してくれるもの、それは俗世を少し越えた、でも崇高な抽象ほどでないもの、でもある。そういうものを待つこと、共有しようとすることへの憧れだったのだろうか。
 

 ブラウン氏と同じように長く日本に住む外国人は、バブル以前の時代ではということだけれど、極端に「日本的」になるか、全然なにひとつ変えないかのどちらかが多かった。それが生活全般に及ぶ人もあれば、食べ物とか美術的趣味だけに限られる人とか、いろいろではあるけれど。極端に日本好きな人にみられるのは、メジャーでないもの、周辺への「愛」で、それが剥き出しのオリエンタリズムになっている人は当然多いし、本国からの、圧倒的な西洋近代からのしばしの逃避というあり方も知識的な人に多かった。それから強い通貨(かつて1ドルは360円だった)での傲岸な植民地ふう生活を楽しんだ人たちも、と意地悪く言えば言える。
 20年以上住んでいても日本語が挨拶程度しかできない人もいて、不思議な気さえする。でも使わなくてすめば、だれも使わないのだろう。ニューヨークに派遣された滞在サラリーマンが、1年いて一度も英語を使わなかったという嘘みたいな話もある。現地採用の日本人や日本語のできるスタッフを使い、話す場が会社と家族も含んだ小さな日本人コミュニティーのなかとジャパニーズ・レストランとなればそういうこともありえる。
 ブラウン氏は結局ことばにはなじめなかったほうだろう。25年近く東京に居を構えていたけれど、年のうちの半分は母国だったし、しょっちゅうあちこち旅行していたし、日本の大学でも英語で教えていたし、日常も周りは外国人を中心に英語のできる人ばかりだった。ドイツ語は博士号をミュンヘンの大学でとったぐらいにできたので、日本語がほとんどできないのをあまり格好いいことではないと思っていた。だからわかったふりでうなずき、後はヤッとかウェルとかいってやおら腕を軽くたたいたり、そっくりかえってからバイと言って立ち去った。上手といえば上手な、米国人ならだれでもできそうなしぐさだった。
 食べ物に関してはあの保守的な米国中西部出身の人としては大胆にいろいろ挑戦したのだろうけれど、でもけしてそれ以上にはでなかった。例えば青魚の塩焼きなんてものは一生涯食べなかったはずだ。「日本贔屓」が注文する「このわた」なんてきっと見たこともなかっただろう。東京で入院して、その食事に冷えた秋刀魚の塩焼きがでたときは、ほとんど絶望的な気持ちになったようだ。それは日本人にだってわかる。あのプラスティックの食器に入った冷えたご飯とおまけに冷えた焼き魚。
 お米のご飯は彼にとってはやっぱり味がないものであり、中国料理のように上になにかをのせて食べるのが好きだった。朝は珈琲と果実が必ずあり、それにトーストと玉子、またはシリアルに果物やナッツをのせて牛乳をかけたり、時にはオートミル。好きだったのはサワークリーム・ワッフルとかバナナ・パンケーキのような口当たりがよくて甘いもの。ただし人工的な甘みをつけたシリアルや、市販のパンケーキの素でつくったものは歯牙にもかけなかった。既製品やインスタント食品が全く嫌いかというとそうでもなくて、たぶん自身の子供時代の味覚が大きく影響しているのだろう。ドイツからの移民一世を親に持つ世代、なんでもきちんとつくって栄養と味と家族の団らんを守る、楽しむという信念や倫理が生きていた時代。母親の役割が、その服装と同じく絵に描いたようにくっきりしていた頃。それはだれもの役割が明確で安定していることであり、そうしてそこからけしてはみ出てはいけないという強制があったということでもある。
 ブラウン氏の好きだった日本食はすき焼き、しゃぶしゃぶ、寿司、天ぷら、すっきりとわかりやすい。一度トーフを好きですと言って、根津あたりの豆腐専門店に連れていかれ、豆腐づくしにあって辟易したようだ。たまに行く近所の麻布十番焼鳥屋で、モツ煮込みとかを好んだのもわかる気がする。ガイジンの行かない雑ぱくな店に行くことのちょっとしたスノビズム、内臓料理への嗜好、さっぱりとにこにこした対応、安さ。その十番には永坂更科蕎麦があって、そこの天ぷら蕎麦も好物だった。2本ある海老の天ぷらを半分に分けるのがちょうどよいらしく、だれかをさそって行きたがった。蕎麦の味にはまったくこだわらず、けしてざるやもりは食べなかった。冷たいヌードル(麺)というのは、彼らの食感覚からいうと信じがたいものであり、あたたかい刺身といったものにちかいようだった。
 けして音を立てないように静かに蕎麦をすすって、衣がぐずぐずになったエビをおいしそうに食べて、胡座をかいて前に座っている友人の膝をぽんとたたく。驚いて見上げる顔に「オイシデスネ」とにこにこと笑う。つられて微笑む隣の席の家族連れに、「ソウデス」と頷いて、またにっこりする。
 

 ブラウン氏は芝生とは縁遠かった。望んでのことだろう。一戸建ての家を持つことの煩雑さを避けて、プラグマティックな合理主義でとおした。入り口の鍵を掛ければそれで全てすんでしまう集合住宅を選んだ。隣の芝の青さを、比喩的にでも羨むことはなかった。
 米国人の芝生信仰はすごい。きちんと刈るとかいい色に育てるというような段階ではとうにない。それは自身のステイタスを誇示するためのひとつの、それもかなり大きな手段だ。もちろん、りっぱな家屋敷が先ずあってのことだけれど。腕のいい庭師と契約して(さすがに庭師を雇えるほどの家は少ない)、定期的に庭の手入れと管理とをやらなければいけない。うっかりしていると、見た目はきれいでも雑草を生やし開花させ、彼らが言うところの悪鬼のような種を周囲へまき散らすことになる。そんなことになると口論や喧嘩だけではすまなくなる。訴訟だ(しかしなんて社会だろう)。
 「アラブ人はひどい」とブラウン氏の友人で成功者のロイが吐いて捨てるように言っている。「差別じゃないか」と言い返すと、「いいや、あいつの芝生を見ろ」と興奮している。凡人にはわからない雑草があちこちに生えているのだろう。同じような階層の住民の同じような瀟洒な建物が隣り合って続くエリアは、そんな話で溢れている。ブラウン氏はそういう関係のごたごたも避けようとしたのだろう。大学の教授の給料では、そんな所には住めなかったこともある、幸か不幸か。いずれにしろ庭師を雇うとか、見てくれのために前庭に頻繁に手をいれるとかいうようなことを、虚栄の浪費だと考えていたようだ。
 ブラウン氏の経済観念は米国のステイタスの基準を全く意に介さないところがあったし、ちょっと極端だった。車にも興味を示さなかった。母国の米国には半年しかいないこともあって、いちばん小型の、クーラーぐらいしかついていないフォードをレンタカーで借りてすませていた。ロイは毎年いちばん新しい型のキャデラックに買い換えていた。もちろんステイタスだ。一時期ヨーロッパの車にしていたけれど(ベンツのことだ)、傷つけられたり、荒らされたりばかりだったからと、またキャデラックに戻った。ちょっと見には少し大きめのふつうの車にしかみえない。ピカピカで角張った巨大なキャデラックという印象は敗戦国民の僻みからだったのだろうか。ずらりと並んだコンピュータ化された計器類には、ロイは触らない、「動かなくなる!」と。
 隣を羨んだり嫉んだりする気持ちはみんなにある、どこの国にも。幸福は単純で不幸は様々だと誰かも言ったように、生活の繰り返しの表面には、シンプルなものしか見えてこない。米国は異様なまでに直截だ。持つことは力であり、それは示さなくてはならない、自他共に対して。まるである種の義務感のようでもある。車、家、教育(つまり学校)、職場(つまり収入)。財産と切り離れた家柄や宗教とか誠実さは、評価の軸からとうに外されている。若さ、美しさ、強さ、様々な能力、そうしてなにより収入が絶対的な評価軸になる。才能も善意も、社会のなかで最終的には当然の評価を受け、それが収入嵩に正しく反映されるはずだという信仰は揺るがない。語らない者は語れない者であり、貧しさは努力しないからだと決定される。いくらなんでも、米国もそんなに単純じゃないだろうとも思うけれど、でもどの国でも同じで、その為政者や財界人を見ると、やっぱりそうかもしれないとわからせられる。
 ブラウン氏は職業がらお金には詳しかったし、通貨の国境のからくりにも精通していたし、異国への興味も強く、強いドルを最高価値で使っているようなところがあった。同じものが通貨によって全く違う価値で現れる奇怪さは、操れればたちまち富となる。ステイタスを誇示することを止めれば、無駄な出費さえ消せる。気温も湿度も高く、雨の多い日本で、欧米型の芝生を育て管理することの異常さも氏はよくわかっていた。それは乾燥して寒い地域がゴキブリに示す異様なまでの嫌悪を、暑い国に当てはめてもしょうがないといったことだった。
 


 ブラウン氏の母国ではスイミング・プールと言わないと、泳ぐ場所としてのプールとしてうまく通じない。プールだけでは、バブルの時代に流行ったプール・バーのプールと思われることが多い。あの頃は、化繊のアロハでガムを噛むかつての日活映画の気恥ずかしくも甘苦いビリヤード(玉つき)ということばが鼻の先であしらわれていた。異様なギリシャ神殿のようなポスト・モダン建築とか、シャンペンとキャビアだけのバーとか、高くて居丈高なだけの鮨屋とかの、あの時代。都市が切り刻まれて゛輝き゛、人はヒステリックに飛び跳ね、欲望に臨界点なんてないことにごく普通の生活者さえもが気づかされ、何より金が崇高の高みで世界を睥睨し、誰もが嬉々としてその前にひれ伏した、あの頃。
 堅実な上にも堅実なブラウン氏は、そういう時代にもいつもどうりに過ごしながら、100円にまで下落したドルの価値を懐かしみ、トーキョーで王族の生活ができなくなったことを嘆きながらも、それはバンコックに求め、高い円での収入をしっかりと確保して帳尻を合わせていた。そんな楽天性は、マーケティングの優秀な教授で実践者としての綿密な合理的な計算に裏づけされていた。
 浪費や無駄な消費を嫌って、たとえ招待されたときでも、日の浅いニッポン・スノッブのように河豚の刺身やからすみを注文したりはしなかった。高級料亭の器は渋いのではなく、ただの転倒したスノビズムだと思っていたようだ。彼のなかで美しさと清潔さはいつも貼り合わさっていたし、いびつさや陰りやくすみ、もっと言えば汚れは「美」とは最後まで結びつかなかった。それはいっそ潔よくさえあった。
 40年代の兵役時代、氏が「一生涯けして会うことのない階層の人とも会った時」と形容した時期をのぞけば、ブラウン氏が玉突きをやったことはなかった。もっと体を使う、でも不器用な人にもできる、素手でのスカッシュとか、ボディーサーフィンとかをやり続けたようだ。それにひとりでの長い長い散歩、水泳。
 飛び込むというよりは頭からすとんと落ちるといったふうで水に入ると、その勢いのまま水中をゆっくり潜水し、徐々に浮力で体が上がるに任せていて、だから短いホテルのプールだとそのまま向こう側についてしまう。水の中では楽しそうだし、敏捷そうで、そう口にして言うと「そりゃ楽さ」と、もう二度ととれることのない腰回り、胸回りの脂肪を眺めていた。ダイエットを今という時代の、都市的な虚栄のオブセッションとして嫌悪していたし、食べ物を残すことができなくて、過食ではなかったけれど、体重は理想とはずれていた。太りすぎての病気や介護を考えると、それは個人的にも社会的にも大きな損失になるから、食べ残して捨てる方が、体のためにも社会利益からみてもより正しいと言いつつも、でも食べ物を粗末にするという罪の意識からは逃れがたく、質素や堅実ということの意味も実態もとらえどころがなくなってしまっている今という時代を、軽侮しつつもどこか哀しんでいた。
 

 ブラウン氏に頼まれていっしょに床屋にいったことがある。広尾の散髪店だ。薄い髪が、薄く見えないようにカットしてほしいと日本語で告げるためだ。「はい」といってシートのほこりを払った優しそうな女性理髪師は、でも困ったようにこちらを向いた。「薄い方は、ふつう両サイドをたくさん残して多めに見せます。でも、こちらの方はもう両サイドにもあまり御髪が・・・」。
 そのまま伝えるときっと詳しい説明を要求するだろうし、もめて結局は怒って出ていくとかいうことになり、両方から嫌な目で見られるし、ここにももうこれなくなるかもしれないし、だから、「それでお願いします」と答えて、ブラウン氏にも適当に伝える。疑り深そうな目でこちらを見ながらも、大きな鏡の前に座らされ、なにか言えば言うほど周りからじろじろ見られ、しかもまったく通じていかないことに気負けして、ブラウン氏は黙ってうなずく。アルバイトの゛ガイジンモデル゛で人のいい叔父さん役をやったりしていても、見られることにけして慣れることのできない氏は、大きな鏡の前でもうもじもじしている。
 柔らかい髪だし、量も少ないからたちまちに終わるけれど、散髪は1時間くらいが標準だから、お店の人はなんとかあれこれやって引き延ばそうとする。ブラウン氏の居心地の悪さはきわまっている。「頭は洗わなくていい、髭も剃らなくていい」そう伝えても、首を絞めた巨大な掛け布はとられないし、狭い椅子の前には逃げ出さないよう理髪師が立ちはだかっている。マッサージなんて止めてくれと、もう叫びだしそうだ。
 カナダや米国では首の周りだけナフキンみたいな布を掛けてささっと切って洗髪もしない、髪の毛も硬くないからぱっぱと払ってすぐ終わる。だから料金も安い。爪を磨くマニキュアは特別料金だし、そんなことはやろうとも思ってもみないブラウン氏だ。日本の料金は全部一括だから高い。揉めそうだったら、安かったからプレゼントします、とかなんとか言って自分で払うしかない。三者のだれもが嫌な思いをして終わるだけの、いつものいろんなことと同じになりそうだ。
 大きな鏡に映っているのは、傲岸にも見える厳格な教授であり、もぞもぞと困りきっている腕白坊主であり、でも当人は全くちがう自己像をもって、見ないようにして鏡を見ている。熱い蒸しタオルがばさりと広げられ、鏡がさっとくもる。ブラウン氏の表情が半分だけ消える。
 
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 ブラウン氏と飛行機に乗った回数は、よくいっしょに旅行したわりには少ない。大洋を渡る長時間の飛行機の旅は一度もない。どこかで、例えばアムステルダムとかロンドンで会って、そこから旅行し、また別れるといったことが多かった。時々は氏が半年滞在しているアメリカやカナダに一月ほど休暇で行くこともあった。短い距離の飛行機には何度かいっしょに乗った。
 よく覚えているのは、イタリアのシシリー島、タオルミナからアテネに飛んだ飛行のこと。ブラウン氏のロシア系アメリカ人の友人が仕事で住んでいたのを幸い、シシリーにいって一週間ほど滞在してから、ギリシャヒドラ島に行くという旅行だった。タオルミナにはドイツのミュンヘンから列車で行ったが、そのひどい旅のことはあまり思い出したくない。とにかくシシリーでは楽しかった。
 飛行場に送ってくれたその友人が、アリタリア航空は座席指定がないから、走っていって左側の座席をとるよう、エトナ火山が見れるからと忠告してくれ、おまけに早めのチェックインをしてくれたので、半分ありがた迷惑だった好意に従って走って乗るしかなかった。たしかに火山はすごかったけれど、すごかったという印象だけで、その形も色も覚えていない。残っているのは、どすどす走っていた大柄な中年女性の息の音ぐらいだ。大丈夫なのかなと心配するぐらい激しい息づかいだった、本人は平気そうな顔をしていたけれど。ブラウン氏は席を取っといてくれと言って、後からゆっくり来た。心臓発作で周りに迷惑をかけることもないし、ひとりが先に行けばいいのだし、合理的で賢い選択だと考えていたのだろう。
 旧ソ連時代のイルクーツクからモスクワまでの飛行は吐き気に苦しみ続けて、苦い思い出だ。機体が滑走路に降りても、ゆっくり走って止まっても、指示のアナウンスがあるまで誰も席を立たないし、荷物も下ろさなかった。あんなことは最初で最後の経験だった。三〇年以上たったし、ソ連邦もなくなって今はきっとかわっているだろう。
 それは横浜から船でハバロフスクに行き、そこからシベリア鉄道で四日かけてイルクーツクまで行ってからの飛行だった。鉄道にそのまま乗っていればモスクワまでもう四日かかる旅で、思っていたより快適だったけれど、ブラウン氏は八日間の鉄道の旅は無意味だし、不可能だと考えて、半分だけ体験しようとの計画だった。その時も当然にもいろんなことがあって、そのことはまた別に書くしかない。
 ソ連国内では、傲慢で冷たい対応とお役所的な仕事でなにひとつ思うようにできないことが多くて、心身共に疲れ果ててしまった。その時はレニングラードからキエフまでのフライトをのぞいて、モスクワからポーランドチェコまで全部鉄道の旅を予定していたけれど、結局ワルシャワで全てキャンセルして「西」のウィーンに飛ぶことになった。
 機内に入ったとたん、「匂いまでちがう、暖かく甘い」とブラウン氏は言い、たしかに食事にも驚くほど精巧な模様入りのソーセージがでたし、笑顔とやさしいサービスがあり、デザートはモーツァルトの肖像に包まれたチョコレートだった。二週間の間に、この世に存在することもすっかり忘れていたモノばかりだ、とブラウン氏が言ったそういったものは、サービスという概念や笑顔も含めて、たしかにずいぶんとまぶしく光ってみえた。
 
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 ブラウン氏にとって鳩といえばキジバトのことだった。たしかに美しい。しかもベランダに餌を啄みにきて、慣れてくると部屋の中にも入ってきて散歩する。好きにならずにはいられない。最初、部屋に入ってきてちょこちょこ歩いているのを見つけて知らせてきたときは声がうわずっていたほどだから、かなりのものだったのだろう。そのベランダには、ヒヨドリ、雀、メジロもやってきていたし、時折はツグミもきていた。近くに有栖川公園があったし、ベランダにはいつも餌と水をかかさず、また氏の暮らしが静かでもあったからだろう。鉢植えの植木もたくさん置いてあった。
 英語圏では、鳩はpigeonとdoveで、どちらもあまりかわい気がない。pigeonは公園などに群れているふつうの飼い鳩。doveは野生のものだけれど、キジバトよりずっと小型で色もくすんでいるし、何よりブラウン氏言うところのdam(お馬鹿さん)だった。辺り構わず卵を産んで、しかもほっぽり出しているとブラウン氏があきれて怒りながら言う。たしかに北アメリカでは、よろよろのよちよち歩きで、逃げないし、低く飛ぶし、賢くは見えなかった。でもどこかでその愚かしさを懐かしんでいるところが氏にはあって、だからよけい東京のdove、キジバトを愛したのかもしれない。
 鳩はフン公害とまで言われるようにところかまわず群れをなしてフンをして汚すけれど不思議にキジバトはベランダや室内ではフンをしなかった。ベランダが汚れるのはヒヨドリの黒々したフンだ。あのギャーッと鳴く鳥のことを、彼は好きか嫌いか決めかねていて、とりあえず醜いあだ名だけはつけていた。ヤック・ヤック・バード。いかにもうるさくて憎々しげで、ちょっと愚鈍っぽくもある。でもやっぱりどこかおかしみがある。日本語ではギャーギャー鳥と、とりあえず呼ぶことにしておいた。
 ブラウン氏は第二の故郷であるデトロイトあたりの気候が身についていて、それは生まれ故郷であるシカゴにも似ているのだろうけれど、それがどこにいても基準になっていた。都市のなかに住んで、でも車でしばらく行けばのんびりできる場所があるような街。冬はおもいっきり寒くて、夏は快適な乾燥した風が吹く。だからアジア、特に東京はその対極でもあるようで、夏には必ず故郷に戻っていた。そこにはカラス麦の白い穂が揺れる広い麦畑があり、桃やリンゴがたわわになる果樹園があった。まるで、昔のフランスやロシアの小説のようだ。でも、実際にあった。おまけに氏もそういうものを所有していた。
 そのカナダの畑の一つ、当時は大豆が植えられていた場所で、氏は半分埋まっていた錆びた蹄鉄を拾った。少し小さめだから、小型の労働馬だったかもしれない。特別な形の蹄鉄の釘も一本引っかかって残っていた。幸運の印だとして、彼は東京に持ち帰り自分のアパートメントの入り口に打ちつけた。開いた部分を上にして、降ってきたいろんなものがそこに受け止められるようにと。幸運だったと思えるブラウン氏に、それ以上の運がさらにまたやって来て、そしてそこに留まったのだろうか。
 
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 ブラウン氏は東京に住んで日本の大学でも長く教えていたけれど、他の堅物のアメリカ人と同じく、喫茶店が嫌いだった。ひとつには珈琲が五ドルもするなんてことが許せなかったのだろう。一ドルが二六〇円ぐらいの頃の話だ。Sin(罪)です、と言った人もいた。サンフランシスコのパーティでは日本のマスクメロンとともに珈琲の値段もよくジョークに上っていた。トキヨのホテルでは税金や何やかやついて一〇ドルになる、と叫ぶ人もいる。周りには卒倒する人もいる、一〇ドル!! 
 ブラウン氏は、お店には何かの目的、例えば食事するとかりんごのタルトを食べるとかで入るもので、ただわけもなく長く座ってしゃべったりするために喫茶店に行って珈琲をむのは、ほんとにばかばかしいと思っていた。だからおやつやデザートのスフレを食べるために、しかるべき店に出かけて珈琲もいっしょにのむのは、あたりまえであり、抵抗はなかった。でも食べ終え、のみ終えたら、すぐに立ちたがった。椅子が温まる時間がない、というような格言がつくれそうだった。たんに気短というわけでもなく、スフレができるまでなら二〇分でも三〇分でも静かに待っていた。外国を旅行した時は、街角や美術館のカフェでくつろいだり、新聞を読んだりしていた。だだっ広くて静かでお客をかまわない店が落ち着くのだろう。
 狭いわりには内装にもこだわって、お店の人の審美感が充満している日本の喫茶店は、そういったものとあわないと苦痛だし、嫌いな音楽がかかっていたらいやなのはわかる。冷暖房の風が直接吹きつけてくるのにも氏は神経質だった。東京では一時、カフェバーというような゛スタイリッシュ゛なお店があふれた時もあって、ブラウン氏だけでなく出かけるのが嫌になった人もきっと多かっただろう。
 ついに一生マクドナルドに入らなかった頑固さと、強引なわりにはスノッブな場所や人が苦手だったある種の恥ずかしがりは、彼の生きた時代や育った家庭を思い起こさせる。ぐいぐい押していくエネルギー、合理的でリベラルな判断、まだ残っていた素朴さ、ドイツ系の白人男性としてアメリカの神話を生真面目に生きて、そして死んで。
 
 
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 ブラウン氏も子供の頃は誰もと同じように犬を飼っていた。大工だった父親と一緒に散歩に連れて行ったこともある。母親に比べてずっと影の薄かった人と、いったいどんな話をしたのだろう。その大きな犬にボールや木ぎれを投げて取ってこさせて遊んだこともある。フリスビーはまだなかった、あったらきっと使っていただろう。
 成人してからは、忙しいのと旅行と住居の問題で飼えなかった。たぶん合理の精神を学びすぎたのかもしれない。時間も手間も取られる、お金もたいそうかかる、愛も削りとられ奪われる。マーケッティングすれば、もっといくつもの損益計算書リストが連なるだろう。部屋が臭くなる、壁紙やカーペットが傷む、毛が抜ける、ひとりで考え事をするときに寄ってこられたくない、互いの感情がぴったりとは一致しない、与えることと得ることとのバランスがつかない、食べ物や音楽の好みがちがいすぎる、選ぶ(選ばれる)友人のがずれる・・・・。
 犬や猫や、幼児もそうだけれど、そういうペットというか、愛する対象を抱え持って暮らしている人を見ると感動させられることがある。愛ということのありふれてでも深くて激しいことに驚かされる。たしかにもろくて可愛いものはいとおしい。でもそれを支えるためにはすごいエネルギーがいる。意識しないでそういうことが始められる人にしか、そういった日常化された、あたりまえにできる愛や慈しみは生まれないのだろう。四六時中撫でまわすことでなく、時にはぞんざいに扱い、忘れてもいられて、そうして必要なときには必ず関われる、それもしぜんな仕草として、というようなこと。だからそれは、異様な形に刈り込んだ犬に洋服を着せて連れ歩くことからは光年の彼方にある。
 めんどくさそうにさしだした父親の手の先を握って、ときどき見上げながら着いていく幼児の、ふわとしてぽきぽきとして頼りないでも全身から放たれる柔らかさ甘さはあたりの空気を風景を一変してしまう力を持っている。大きな犬と歩く少年のぶっきらぼうなでも限りのない愛情もまた世界に惜しげもなく放たれ続ける。
 そういう時代や場所がかつてあったということだろうか。それともいつの時にもどこにも慈しみの思いは溢れて、ただ人が気づく力を失い、だから省みられないままいつのまにか喪われてしまったのだろうか。でもそういうことを丁寧に考え始めると「愛」ということそのものを根源までさかのぼって考え始めたりする。新しい定義や解釈でなく、歴史や生物学さえ踏み抜く勢いで突き進んでしまう。そうなるとどこかで「性」ということもにも結びついていって様相はますます錯綜し、いよいよ遠くなってしまうかにも思えて、だから誰もがみつめること、考えることにそっとどこかで蓋をしてしまうのかもしれない。
 

ブラウン氏のおもいで⑭
ブラウン氏はもちろんインドへは行かなかった。不潔だ、というのがいちばんの理由だったようだけれど、留学生をとおして知った彼らのあくの強さを敬遠していたふしもある。もちろんそんなことをちらとでも思うのは、教師としての差別の倫理コードに触れかねないから、しっかり蓋をしてしまい込んでいた。だから彼にとってはビルマがアジアの最西だった。近東も中東も、ブラウン氏にとっては逆に遠いところだった。
ヨーロッパからすると最も遠い東(ファーイースト)の日本を気に入って住みつき、でも同じ極東の台湾や韓国には一度しか行かなかったし、中国には生涯足を踏み入れなかった。もちろん80年代までの香港は別にしてということだ。香港には友人がいたこともあるし、ヨーロッパからの便はほとんど止まるので、頻繁に寄り道していた。
知らない土地や「素朴」な人々に率直な興味を持っていたから、ラオスにも行った。フィリピンは戦争で行って敵国の日本軍と戦った。戦闘には参加しないですんだけれど、マニラ湾の惨状は記憶に焼きついていたようだった。その頃知りあったフィリピン人の将軍とはその後もずっとつきあいがあったが、それは彼がビジネスでも大きな成功を収めていたからだろう。自家用ジェットを持っている人だった。
ブラウン氏が穏やかでポジティブな人を好きなのは、多くのエスケープ米国人と同じだったけれど、アグレッシブで少々鉄面皮なところもあり、成功した人や有名人と積極的に知りあいになろうとしていた面もある。ピーター・ドラッカーもそのひとりで、どういう技を使って知りあいになったか聞かされたこともある。彼は頻繁に日本にも来ていたし、財界人とのつながりも多く、ブラウン氏も自身の経営者の知りあいを紹介しては関係を深めていた。麻布のアパートメントに昼食かお茶に来たこともあった。日本では置いてきぼりになることの多い奥さんを当時話題の竹の子族を見に原宿へ連れて行ったこともあった。彼女はフラウン氏のミュンヘン時代の学友で長い友情を築いたヨシケ教授の奥さんに似ていて、小柄でほっそりしているのにすごくエネルギッシュだった。
そのヨシケ教授夫妻、もうずっと前に亡くなられたけれど、ミュンヘンに旅行した時に会った。オーストリアのグモンデンという深い湖に囲まれた村に別荘があり3日間ほどいっしょにすごした。静かな、毎朝近所の農家から産みたての卵を届けてくれるような村だった。峡谷がそのまま湖になっていてどこで切れているのかわからないようにずっと続いていた。ボートでしばらく走っても高い峰までの距離はかわらない。深い青に木々の緑がとけこみ、空も映しこんで不思議な深みを浮きあがらせていた。小さな島の茶店で珈琲といっしょに頼んだとき、バタつきパンというドイツ語を教わったのは奥さんからだった。すごく滑稽な間違いをしたのをみんなで笑いあって、そのことは次に東京であった時にも冗談でやりとりされた。たぶん2度目に日本にみえた時は、渋谷の観世能楽堂に井筒かなんかみにいったはずだ。ちょっと虚勢を張って連れて行ったけれど、寝ているブラウン氏の横でふたりはかなり興奮してみていた。極限まで洗練されていて衣装でも動きでも、とにかくすごいと思う一方、異様な時間の流れと、ひとつひとつが異常にゆっくりと感じられて、なんだか無理やりに感覚が捻られ引き延ばされるるようで身体的な苦痛でさえあった。ある種の映画のように心静かに熟睡へと導かれることがないのはお能の深さのあらわれだろうかといつも思わせられる。
ブラウン氏がどこに行ってもすぐに誰かと知りあいになるのは、アグレッシブでオープンマインドだからだろうし、誰かと話すこと、それもちょとと気の利いたジョークを言い交わすことが楽しいのだろうけれど、でも根っこにあったのはやっぱり寂しさだろう。ひとりで旅すること、そうして生きることは誰にとってもさみしい。
 
ブラウン氏の⑯
 楽しいことも、もちろんたくさんあった。親しい人を日曜日の、いわゆるサンデーブランチに招くのもそのひとつだった。
メニューは決まっていて、エッグベネディクトにおかわりつきのブラディーマリー、ではなかった・・・・まだまだカリフォルニアが世界を席巻してはいなかったのだろう。
 サワークリーム・ワッフルとたっぷりの珈琲だった。時にはそれがバナナ・パンケーキになったりもした。これは通常のパンケーキとは外観もかなりちがっていて、一ドル銀貨よりちょっと大きいくらいの、ほとんどマッシュしたバナナだけに思える柔らかいもので、つくるのに時間がかかってたいへんだった。
 ブラウン氏は贅沢は好まなかったけれど、シロップにわけのわからないものを使うのは嫌って、必ず100パーセントピュアメイプルを選んでいた。蜂蜜はあまり好きでないようで、だから朝食のシリアルにどろりと蜂蜜をかけたりすることはなかった。
 つけあわせはだいたいカリカリのベーコンと温野菜それにサラダだった。
 サワークリームワッフルのレシピはブラウン氏の古い友人でオハイオに住んでいた先生からもらったものだった。丁寧に水色の航空書簡箋にタイプされていたそれを、東京を離れてからもずいぶん長く持っていたけれどいつの間にかなくなってしまった。たぶんGMのワッフル焼器を誰かにあげたときにいっしょにあげてしまったのだろう、もう使うこともないと思って。
 ほとんど小麦粉を使わないワッフルだからカリッとしていてさくさくと口のなかで柔らかく砕けて、メープルシロップと混ざりあった。ヨーグルトや荒く刻んだ果実を乗せたりもした。種に直接ナッツやバナナを混ぜ込んで焼くこともあった。そんなワッフルをたっぷり食べた後に、また甘いデザートをだして辟易されたことも思いだす。チョコレートなんかをだしても米国人の大半は大喜びだったけれど、たしかウェザビー氏の友人で信楽からきていた日本人の陶芸家は、うへぇーといった感じであきれかえっていた。でもあれこれつまんでおもしろがってもいたから、楽しくはあったんだろう。ぼくも楽しかった。ブラウン氏は120パーセント喜びを表さないと、そうしてあれこれ好意的に評論しないと満足しなかったから、陶芸家のことはたぶん気に入らなかったのだろう、招待者のリストには載らなかった。具体の吉原  のことを話したのを覚えているけれど、なんでそういう話しになったのだろう、まるでちがう世界の人に今も思える。    
 酒好きな人は甘いもの嫌い、というのは日本という地域限定の思いこみなのだろうか。ほとんどの人はワインも大好きでデザートも大好き、かつ夜のパーティの時はみんな甘い食後酒もしっかりと楽しんでいたから、クワントロやアイリッシュクリーム、・・・ミント、ブランデー、ミドリなどのリキュール類もいつも揃えていた。バナナダイキリとかモスコミールなんかがほんとにのまれるのをそういった場で初めて見た気もする。
 
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 「フォシーシア、春の花です」とブラウン氏がいって、見るとれんぎょうだった。それ以来、れんぎょうをみるとフォシーシアというふわふわした響きが口をつく。「フォシーシア」、一度口にしてみるとそのことばしかれんぎょうににはあてはまらないような気がする。
 ドッグウッドがアーカンソー州の州花でであることを教えてくれたのもブラウン氏だった。氏の両親が引退して長く住んだ州の花。それがはなみずきという和名だと知ったのは、いっしょに暮らすようになった後だった。そのアーカンソーには一度だけ行った。母がひとりになった後も長く住んでいた、という家はとうに人手に渡っていたが、庭の大きなミモザはそのままで、小さな黄色い花をたくさんつけていた。
 古い映画にでてきそうなさびれた中南部の街で、ダウンタウンには数軒の小売店と、ウールワースだけがかろうじて開いていた。映画館はもちろんない。七〇年代半ばに、主だったものはみんな郊外のショッピング・モールに移ってしまっていたのだろう。全く同じことが今は日本中で起こっている。チェーン店のファミリーレストラン、異様なほど明るいコンビニエンスストア、巨大な駐車場のある郊外のモール。そこには流行の安い服の店が並び、シネマコンプレックスと呼ばれる集合映画館がある。一〇〇円でなんでも買える店もあるし、一〇〇円で売る古本屋もある。
 氏について訪れた両親の墓地は、芝生はきれいに刈られていたけれど、隅々までは管理がいき届かないようだった。「なにもかも、こうやって少しずつ綻びていく」とブラウン氏はいい、でもそれは苦い批評や寂しい感傷ではなく、ただそういう事実を述べるといったふうだった。黙って墓をみつめていると、ぽんと肩を叩いて、いつものように「シャル・ウィ」といって歩き出した。あの墓は二人用だから、彼自身はデトロイトに墓地を買っているといっていたけれど、それがどこかとうとう知らないままに終わった。
 黙っていると、「何を考えている?」と必ず聞いてくるのは、まるで映画そのまま、というより、米国人そのまま、といったほうがいいのだろう。「なにも」、と答えると、「何もなんてことはないだろう」と、その大きな目玉をぐりぐりさせて聞き返してきた。そんな時、ただ黙って小さく微笑むしかなかってけれど、もっと思いつくままになんでもないことでもいいからあれこれしゃべっていれば、いろんなことはちがう結果になったのだろうか。ほんとに大切なことはことばにはならないんだと、そんなふうに思うことは、相手を押し返して拒むことだったのだろうか。
 ブラウン氏が火葬されたのは、本人の希望だったからと聞かされたけれど、氏がほんとに火葬を望んでいたかどうかはわからない。合理的だ、とは考えていただろう。広い墓地がなくてすむ、灰になれば清潔だし処理も簡単だ、ゾンビの怖れもない、キリスト教の教条からも外れ、永遠とか劫火とか罪とか罰とか、そういうのから逃れられる。そうだったのだろうか。
 
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 ブラウン氏は東京では一回しか引っ越さなかった。いつも初めにしっかりリサーチするし、土地や市場のあれこれにも詳しいし、お金も決断力もあったから、いい場所をきっちりと確保していた。引っ越しはたいへんな作業であり、心身共に消耗し尽くすし、その精神への影響の大きさもわかっていたのだろう。
 引っ越しだけでなく、環境の激変や同居者つまり近親との離別や喪失が鬱病や痴呆の引き金になりやすいし、そこから自死へも一歩であるとはよく聞く。だから極力、老いたり、弱っているときは場所を変えたりしないように、いろんな関係を切らないように、近い人の死の影響をできるだけ少なくするようにと諭される。それは、鬱病や精神に負荷がかかった人に、「頑張りなさい」などとけして言ってはいけないことと同じくらい、だいじなことだとも。
 でも人は往々にしてそういうときほど、いろんなことを強引に断ち切ってすっきりさせたくなってしまい、全部をスイッチひとつでリセットするような願望を抱いて、大袈裟にいえば起死回生を期して、近い人を切り捨て遠くへ移ってしまおうとする。ここより他の場所、新しい地、新生、いつもいつもつきまとってきた幻想は最後までからみつく。ここより他はここであり、長い時間のなかで積み上げられるもののなかにしか新しさもないことを、ついに悟ろうとはせずに、またはわかっていても気づかないふりで振り捨ててしまおうとする。
 たしかにそういうある種の蛮勇をふるうことは自分の力や精神力や攻撃性、積極性を一瞬感じたり、信じたりすることであり、そういった幻想はあっというまに全てを覆ってしまう。でも、結果はいつも悲惨だ。引っ越したとたん、すぐに引っ越したくなる。こんなことがあっていいのか、前よりひどい、こんなことのためにあのたいへんさを忍んできたわけじゃない。お金があり引っ越し業者さえいれば、ほんとにそれを実行してしまう人がいる。無限地獄。そのなかで何もかもが混乱し、周りのことが掴めなくなり、だから当然、外界や他者との距離、関係で計っていた自分のこともわからなくなる。苛立ちと、怒りと、全てへの嫌悪。
 周囲は彼を扱いかね、邪険にし、年老いた無能者と決めつけ、奇妙な媚びを混ぜつつ支配し始める。そんななかで、今まで自由に生き、強いプライドを持ち、身の丈以上の尊敬を受け取ってきた人が、楽しく生きていくのはもう不可能だ。ちょっとでも古くなった下着を捨てることを洗濯の係りの若い娘に命じられる、といった些細なことをついに受け入れたとき、それは自尊の放棄、そして世界への決定的な決別へとつながっていく。
 誰にとっても引っ越しは、新しい可能性への出立や新天地への一歩などではなく、いつもいつも苦い苦役であり、新しい場所への適応を身を低くしてどうにかやり抜き、またいろんなことを凌いでいかなければならない試練だったのだろう。
 ブラウン氏は東京を捨てた後、晩年にたてつづけに3回越して、そうして亡くなった。あんなに大事にしていた仏像や中国の陶器、吉田博の版画は業者に乱暴に箱詰めされたまま放置されているのだろうか。
 
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 ブラウン氏からは三週間ほど前にハガキが来たばかりだったから、その死の知らせには驚かされた。すごく不思議な気がした。亡くなったことを三人の人が知らせてきてくれたけれど、最初は氏の仕事関係があった日本の大きな会社からだった。有能な秘書そのもの、といった人が過不足なく用件を伝えてくれた。それからブラウン氏と共通の旧い友人から、そうして最後に米国のブラウン氏の知人からだった。
 葬儀にはいけなかった。しばらくたってからのメモリアルサービスに参加した。デトロイトの、大学にも近いホールだった。親しかった人たちが集まっての、おそらく小さなミサだったのだろうけれど、なんだか親密な空気は感じられず、ただぼんやりしていた。隣に座ったロイはずっと眠っていた。
 翌日誘われてカナダの、氏の果樹園への小旅行に加わった。懐かしの場所での昼食、林檎を摘もうといったピクニックも兼ねた気軽な誘いだったけれど、橋を渡ったカナダへの入国は、車の窓から「ハーイ、シティズン」といって走り去るわけにはいかなかった。ブラウン氏は慣れっこのそういう煩わしさを彼らは初めて経験するようで、小さく驚いている。車から降ろされ、片隅の事務所でパスポートや免許所を提示させられ、スタンプを受ける。まるで外国に行くみたいねと誰かが言って、だって外国だよと誰かが答えて小さな笑いが起こった。外国人、というより東洋人がいるから厳しくなるんですよ、台湾や古いヴェトナムのパスポートだと入国が拒否されるでしょうね、そんなことも呟いたりする。
 ナイアガラの滝での出入国の悲喜劇を聞いたのはブラウン氏からではなかった気がする。滝は両国にまたがっていて、カナダ在住のヴェトナムからの難民がうっかりカナダ側を出て米国側の見物に入ろうとしたら入国を拒否され、でもカナダ側でも再入国は受けつけられないということになって橋の上で立ち往生してしまった。映画なんかにもあるけれど、空港で足止めされたまま施設で数年が経ったというようなことと同じだ。空港のここの部分はまだ「外国」で、そこからこちらには来れないといったような滑稽で奇妙なことが起こる。まあまあではすまなくなる。大使館の職員が来て一件落着にはならない複雑な関係の国がたくさんある。そもそも「国」がないとか、認めていなくて国交がないといったことも少なくないのだから。結局、彼は橋の上で観光客からのお布施を受けつつ三二年間暮らして死にました。遺体は河に突き落としてやっと自由を得ました、ということになった。というのはもちろん嘘だけれど、でもほんとはどうなったのか誰も知らない。死刑が待っている本国への強制送還、といったことも平気で起こる世界だ。誰もが誰ものことを人種や民族、国籍でしか判断するしかないなかにいる。性別や肌の色、瞳の色、そういったことのいいかげんさすらすでに日常の生活のなかではわかりあっているつもりでも、社会性を帯びてくるととたんに誰もが曖昧さと不安のなかに立っていることに気づかされる。
 成功者としてささやかな富や尊敬を勝ち取っていたブラウン氏でも、国境や民族の壁の前では誰でもないただの米国人男性でしかなく、そういった制度は冷静に受け止めていて求められれば穏やかにパスポートを差しだしていた。そんなふうに死への通行手形も静かに差しだしたのだろうか。両親がそうだったからカソリック教会で洗礼も受けていたけれど、マスタベーションの懺悔を強制させられるのには心底うんざりしたといって、一度離れてからは教会にはけして寄りつこうとはしなかったから、キリスト教的な怯えは少なかったのだろうけれど。宗教や信仰から遠い頑固な合理主義が、最後の最後に尊厳死へと向かうのはとうぜんのことなのだろうか。プライドと自己への尊厳と周囲への怒り、極端な諦念が、混濁し続けるなかでの最後の威厳だったのだろうか。
 果樹園からは黄色い大きな林檎を持ち帰ったから、あれは秋だったのだろう。正確なことはうまく思いだせない。ブラウン氏の享年も命日もすでに遠い記憶の彼方だ。