続・文さんの映画を見た日 ニコラ・フィリベール&王兵(ワン・ビン)

続・文さんの映画をみた日
去年今年・・・そして映画は続く:ニコラ・フィリベール王兵(ワンビン)

 去年みた映画は18本だった。こんなに少なかったとは、自分でも唖然とする。半分の9本はドキュメンタリー。やっぱり<リアル>はいろいろの意味で人を惹きつける。
 12月、最後にみた映画ということもあってニコラ・フィリベールの「ただいま修行中」は強く印象に残っている。看護師学校の生徒や先生が撮られた、ほんとにやさしい映画だ。いつものように穏やかなでも確固とした世界観で裏打ちされた視線で撮っていく。その場でいっしょに話しているような、ちょっと引いてうなづくような、そういうことをみるぼくらもやっている。
 そういった世界の掴み方は方法論にも支えられていて、監督は今、自分だけで撮り続けている。複数のカメラ(つまり複数の撮影者)で撮った時もあったようだけれど、それだとどこかちがうと、また自分ひとりでの撮影に戻っている。自分以外の人も含め複数で撮るとかえって「撮れない」ものが多くなってしまうのかもしれない。人はなにかをみるときいやでも応でも取捨選択をしながら頭を通過させながらみてしまうから、感じ方が違う人の映像は同じものを撮ってもどうしてもちがうものになるのだろう。最近の王兵監督の映画にそんなことを感じてしまう。
 1月にみた「ぼけますからよろしくお願いします」はタイトルが嫌でなかなか口にしずらかったけれど、2度みにいった。腰が直角ほどにも曲がった95歳の夫が、認知症の妻を抱えて生きていく姿はあまりにもせつなくて涙がでる。でも穏やかで勁い人は、楽天的にもなれて、杖にすがり財布を握って近所に買物に行くときも、百メートルほど行っては息を切らして休みつつ、カメラを構える娘に向かって「えらいことや」と笑う。
 妻任せで家事をなにもやってこなかったから、洗濯をやるようになったときは3時間もかかった。それでもそういうたいへんさやいらだちに打ちのめされ覆いつくされてしまうことはない。ゆっくりひとつひとつ、互いに声をかけあい時にはどなりながら、今までのように二人の生活は続いていく。他人や公的な場からの助力への遠慮をみていると、現代社会から消えつつあるすがすがしさ感じさせられるし、世代の矜持や共同体の掟も垣間見える。

 DVDやブルーレイではどっさりみたし、いいものもたくさんあったけれど、やっぱり大きな画面で集中してみないと映画をみたとはいい難い。特に最初にみるときは、撮った側が意図したものがきちんとみえる大きさで確認し、そこで生まれる世界を受けとることからはじめたい。日常生活の場で雑多なものや電話にも囲まれ、TVやモニターの小さい画面でみると、はっきりわからないものが多すぎるし、集中にも限界がある。
 大きく投影される画面に呑みこまれていき、表現のなかをもう一度くぐっていく。そこまでの力が生まれているのかどうか別として、たいせつに思う作家の作品は、先ずは適正な、つまり大きな画面でみなくては悔いが残るだろう。ワンビン監督の「苦い銭」を最初に自宅でDVDでみてしまって、あらためてそう思う。これでの、彼の作品への震えるような圧倒的なまでの感動がなくて戸惑ってしまった。やっぱりこういう形ではだめなのか、それとも、もしかして、さすがの王兵監督でもすごい映画を撮り続けることはできないというあたりまえのことなのか。でも今まであまりにもすばらしい作品が次々につくられてきたので、ついそれがずっと続くと思ってしまっている。                      
 王兵監督の『収容病棟』で再開した「玉乃井映画の会」がなんだか心もとないというか、落ちつかないのは上映の形にも原因のひとつがあるのだろう。
 一昨昨年に初めて『収容病棟』みた時は、あまりにも厳しい内容で正視できないことが多かったし、動きの多い画面に船酔いしてしまい、もうこれ以上はみ続けられないなと諦めかけた。前編と後編の間に1時間近い休憩があったのでお茶をのんで気力を回復させ気合を入れてどうにか全体を見終えることができたけれど、それくらい生理にもくいこんで衝撃的だった。
 泣く人、怒鳴る人、黙して表情もない人、人のぬくもりを求め他人の小さなベッドに潜り込もうとする人、庭に面した回廊になった廊下をただぐるぐる回り続ける人。
 展開される具体に目を上げられない。部屋のすみの小さな洗面器に排尿する人、濡れた床を裸足で歩きまわる人、着の身着のまま靴もはいて布団に潜り込む人、雪降る夜に素っ裸で頭から水をかぶる人、十数年拘禁されている人の横で、昨晩強制入院させられた人が涙ぐむ。
 拘禁されているから、できるのは食べることしゃべること歩くこと寝ることぐらいだ。バラバラの関係のなか、洗面器のお湯でゆっくりと足を洗ってくれた人に渡される小銭と煙草。ときたま不意に生まれるユーモアからあたたかさややさしさ、かすかな甘さがふくらみ広がる。そうして横溢するアナーキーなまでのエネルギー。
 王兵監督はとにかくしっかりみつめ続ける、穏やかにでも頑固なまでに場を人をじっとみつめている。そうして同時に自分を開いて場を人を丸ごと受けいれているから、場も対象も開かれる。誰もが、そこにワン・ビンがいてカメラもあることを認識しつつ受けいれていく。
 ワン・ビンに静かなやさしさ、深い諦念をくぐったうえでの積極性とでもいえるような穏やかな明るさ、豊かな力、つまりは受けいれていく勁さがあるからだろう。そういうことがしぜんにできてしまう力を持っていてただただ驚嘆させられる。
 全編に溢れるのは人への尽きない関心、愛や思いやり。生きるつらさを、世界の哀しさを静かにみつめ、そこにたしかにある人の勁さ、尊厳、美しさを描き、かすかなおかしみとそれが生みだすふくらみや広がり、あたたかさを丁寧に掬いあげていく。
 なにが王兵監督を奥へ奥へと入り込ませていくのだろう。好奇心にも裏打ちされた、世界への飽くことなき興味だろうか。冷静な判断もそなえ、「現代」の「中国」の「僻地」の、という状況がおびざるを得ない社会性も、映画の背景にきちんと取りこんでいく。
 小型デジタルカメラ1台を抱えてどこへでも果敢に飛び込んでいった監督が今、複数の人によるカメラ撮影で世界を切りとり、編集してつなぎあわせていく。それが今までの作品とちがう、ほんのわずかな、でも決定的なずれを生んでしまったのだろうか。それでもまだまだ大勢の人が次を待ち望み期待に満ちて画面に向きあおうと待っている。掛け値なしに今、世界でいまもすばらしい映画監督であり表現者だ。