菜園便り1

 

菜園便り①
2001年6月20日

 元気ですか?
 梅雨の合間の、さわやかな晴天の後、昨日はまたとんでもない天気でした。強風と豪雨、しかも横殴りだったので、家中で雨漏りです。初めてぼくの部屋の窓際まで漏りはじめ、暗澹たる気持ちでした。文字どおりこの玉ノ井はゆっくりと傾いて崩壊しつつあります。それを為す術もなく茫然と、諦めて見ているだけです。なんとかしなきゃ、というのは外にでているときにいつも思うのですが、帰ってくると、この家の独特の雰囲気のなかでなにもかもぼんやりとしてしまいます。ひどいなあ、とつぶやくぐらいで。
 おまけに昨日は、珍しく3年ぶりに風邪で一日寝込んだ後、よくなったといって出歩いていた父が痛風をだして倒れてしまい、トイレに行くのがやっという状態で、大わらわでした。近所の医者に来てもらったり薬を取りに行ったり、食事やお茶を運んだり。その合間に、二階の雨漏りに走り回ったり、父がスリッパを履けないのでトイレの床を消毒液で掃除したり、干していた洗濯物を他に移動させたり、あれこれでした。
 今日はとにかく雨風が止んでくれてほっとしています。海側の玄関の天井が今にも落ちてきそうで、ああああああ、という気分ですが。雨漏りのたらいやなんかを片づけ、大量の雑巾を干して、トイレをまた掃除して(父は今日もまだ自由が利きません)、花の水を換えて、ご飯の片づけの後、ちょっと一息して紅茶をのんでいるところです。やっぱりちゃんと葉っぱで丁寧にいれると美味しい。友人の萩原幸枝さんにもらった紅茶は評判がいいのでお客にだすことにして、ぼくは自分の好きな単純な葉、ダージリンを濃くしてのむ。果実や花で甘く香るのは、ごくたまに部屋に香りを満たすようにしてのんでいます。
 今日、庭の父の菜園からは(今回おこった父の痛風は菜園つくりに精を出しすぎたせいじゃないかと思っていますが)、下の方から葉だけを摘んでいるレタスがどっさり(緑とサニーの二種類)、すっかり伸びた胡瓜6本、ミニトマト4個、伸び続けるルッコラ(ロケット)を30葉ほど、パセリ5,6枝、いんげん3個、イタリアン・パセリ少々、バジル5葉、大葉4枚が採れました。胡瓜は3日間も採らないととんでもなく長くなるし、レタスは茎まで伸び始めてるし、ルッコラも先端にもう花が咲き始めた。採るのや、食べるのや、配るのにあたふたしてしまいます。楽しいたいへんさ。それからピーマンもすごく大きくなっていますが、色づくまで待つことにします。大きくて重すぎて茎が傾いていて、ちょと心配ですが。緑の普通のピーマンはもう時々摘んで食べています。少し堅めで、青臭さも半端じゃありません。それぞれが野菜独自の香りと甘みをもっています。
 茄子、ゴーヤ(ニガウリ)、モロヘイヤはまだです。今年も秋にはハヤトウリが採れるといいのですが、父によると、今年はまだ蔓がでてきてないとのことです。
 父は以前からごくたまに痛風がでていたし、コレステロール値も高い(家族性)ので、肉類を控え、内臓はなし、動物性タンパク質は青魚を中心に、豆腐や野菜をたくさん、オイルは少な目で酢をどっさりの食事を心がけていたのですが、なかなか難しいですね。酒も一滴ものまない人なので、もちろんビールはないし、原因は推し量りかねます。この2、3日はほとんどピュア・ヴェジタリアン食でやっていたので、そろそろ献立も底をつきます。たっぷりの生野菜のサラダだけでなく、余田さんの教えてくれたレタスのスープとか(フレンチのレシピなのですがちょっと中国風でもあって、食事にもあいます)、オリーブオイルで炒めたトマト、ルッコラのおひたしもやってみようと考えています(これはやってみましたが、哀しいくらいちょっとの量になって、しかもあの香りも辛みもふっとんで、ルッコラでやる意味が全くありませんでした。とにかく大量に食べ尽くすだけの目的ならいいでしょうが)。
 そんなわけで、朝、昼、晩と食事をつくるのにはもう倦んでいますが、今日まではとにかくつくろう!(昼夜だけつくるのは楽しいくらいなのに、一回増えて、毎日必ず3回となると、とたんに苦痛になるのは何故だろう?とにかく朝あれこれするのは辛い。)昼は麺です。一昨日の温かい蕎麦、昨日の冷たい素麺の後、今日は冷パスタにしようかと思っています。素麺などの時は卵焼きをつくったり、胡瓜の塩もみに縮緬じゃこを混ぜて添えたりしていましたが、しばらくは野菜だけになりそうです(ぼくは動物性タンパク質をもっととります。だからメニューがふたついるのです、これも疲れる)。でもとれたての胡瓜はみずみずしくカリカリしてほんとに野菜の甘みがあっておいしいから、それだけでも十分にだいじょうぶ。
 嵐の後の静かな津屋崎の海と庭から。

 


菜園便り②

 梅雨は続いている。父の痛風も続いている。土曜日は友人の元村正信さんの小さな個展の最後の日だったし、ずっと家にいて3度3度食事をつくるのにも嫌になっていたし、父も少し歩けるようになって台所に出てこれるようになったし、それで博多に出た。
 千代町にある画廊、WALD(ヴァルト)に寄り坂井存の個展をみて、会場にいた本人と少し話し、画廊主の森さん夫妻ともしゃべってから天神の画廊、貘へ。画廊主で喫茶店の方もやっている小田さんに会う。待ち合わせた萩原幸枝さんももう来ている。元村さんのは、現在やっている仕事の流れのなかのドゥローイングの新作1点と、後はかつて創ったり、集めたり、拾ってきていつのまにか手元に残ったものなどを素っ気なく展示したもの。それは私的なものを、展示空間に持ち込むことで「作品」にしたり、その行為自体を表現にしようというのでなく、かつての自分や「作品」と呼ばれたものとの距離を考えよう、見ようとしていて、それが結果として見せることにもなるといったもの。でもそのさりげなさが上手すぎて、ほとんど今の「作品」として現前してしまいそうなところもある。それはそれで「作品」として見られてもかまわない、といった決意(=諦め)もあったりするのだろう。元村さんらしい。
 幸枝さんとは、先日ぼくが「水平塾のみんなへ」としてメンバーに渡した質問状的な手紙のことを話す。彼女は水平塾には参加してないひとだけれど、現在の水平塾の中心である原口さんとは30年来の友人であり、彼のことが主に話題となる。「部落」が共同の幻想であると語り、書いてきた原口さんの現在の在り方や、それとのぼくの対応、そういった問題への関わり方そのものについて、幸枝さんの結婚や旦那さんのことも含めた個人史やぼくの個的な問題にも及びつつ話したけれど、時間も十分でないし、結論が出ることがらでもないし、中途なままで別れる。
 そういう半端な気分だったこともあって、もう一回ヴァルトに戻り、小さなパーティに参加する。8、9人の集まりで悪い酔い方になり(いつものことか)、はしゃいで山口百恵や黛じゅんの歌を歌ったりする。もどしそうな状態でやっと最終で帰宅すると、家中にたらいなどの雨漏りの受け皿がだしてあって驚いた。翌日聞くと夜すごい雨になり、二階のたらいなどがいっぱいになってあふれ出し下に流れてきたとのことで、動かない足で父が二階にもはって上がって処理したとのことだった。それで少しよくなりかけていた痛風もまたひどくなりまたずっと寝込んでいる。
 日曜日は驚くような強い日射しになり、一気に蒸発がおこりすごい蒸し暑さ。でも雨がないこと、それに雑巾や何やかやを干せて大助かりだった。英語のレッスンも12時の千鶴子さん、14時の余田さんと二人で、その合間に昼食をつくって父に運んだりする。昼は素麺と胡瓜の塩もみ。ぼくのにはチリメンジャコをいれ、父のには梅干しのシソだけを。動物性のものはできるだけ減らす。この胡瓜は一昨日の菜園からの収穫。
 やっと菜園のこと。今日は千鶴子さんが帰るときに胡瓜を一本とレタス、それにパセリを摘んで渡したのと、午後レタスとルッコラ(ロケット)をどっさり、パセリ4枝、トマト5個(まだ赤身は薄いけれどもう割れ始めていた)を収穫。夜は近所の芹野さんの所で、余田さん持参の水牛のモッツァレラチーズを食べる集まりがあり、「菜園サラダ」と称して、採れたものだけのサラダ(レタス、ロケット、胡瓜、ピーマン、パセリ、ルッコラ、イタリアン・パセリ、トマト)と鳥の手羽料理を持っていく。残りのレタスとロケットのほとんどを余田さんにお土産に渡す。ロケットもレタスもずんずん伸びて、まだまだ摘み続けられそう。胡瓜も次のが控えているし、ピーマンもどんどんできている。茄子はまだまだで、少しおかしい。ゴーヤが全くなのはどうしてだろう。芹野さんからもらって植えたバジルがしょぼいのも、本家の繁茂状態を見ると、不思議に思える。梅雨はうっとうしいけれど、水をやらなくていいのはほんとに助かる。
 夕食は父には鯵の煮付けとサラダ、昆布のゴーヤ酢漬けとみそ汁で、ぼくは上記のモッツァレラチーズ手羽、サラダ、イカのマリネ、パエジャ、パンそれにレモンケーキとサクランボのデザート、エスプレッソ珈琲だった。ワインは辛口の白とスペインの赤を少し。歩いて帰れる距離でのあまり遅くならない、ワインもバカのみしない、いろんなもののある食事、親しい友人との会話は穏やかで落ち着けるし、冗談や軽い皮肉ももちろん言えてほんとに楽しい。 

 

 

菜園便り③
01年6月26日
 あいかわらず不安定な天候で、今日も大雨の注意報が出ていたけれど、午前中はかなり強い日射しだった。それでいさんで洗濯をしたら午後からはかげりがでてきて、今にも降りそうになった。それでもどうにかもってくれて、夕方郵便局と図書館を周り、海岸を散歩した後野菜を摘む。父はまだ痛風で寝たまま。でも少しずつ歩けるようになり食事には起き出してきている。
 今日の収穫は胡瓜3本(ずいぶん大きさにばらつきがあった)、トマト大小12個、ピーマン4個(待ちきれない色物も緑のまま摘む)、インゲン8個、レタスたくさん、ルッコラたくさん、パセリ4枝。インゲンとニガウリとトマトが絡み合っているのを少し刈り込む。後で父に聞くと、ゴーヤは高い蔓になるので目止めしない方がいいとのことで、少し心配になる。
 ルッコラはどんどん白い花が咲き始め、終わりが近い雰囲気。そのわりにはまだまだ葉がのび続けているけれど。芹野さんにレタスとルッコラをお裾分け。
 食事の準備や買い物や家事あれこれで時間が寸断されるので、書いたり考えたりがなかなかできない。図書館から借りてきた軽いもの、ミステリーとか短編集とかばかり読んでいる。かなりつめて考えないといけないこともあるのに、困ったことだ。これはでも父や家事のせいだけではないのだろう。梅雨で季節の変わり目で、心身共にだるさが続いているし。
 そういうわけで、収穫のことだけでした。

 

菜園便り④
6月30日

トマト12個、初めて黄色も6個採れた、胡瓜2本、ピーマン6個、茄子2個(まだ小さいけれど千鶴子さんの、苗が弱っているから採ったほうがいいという忠告に従う)、イタリアン・パセリ6枝、パセリ4枝、レタスたくさん、ルッコラたくさん。千鶴子さんにレッスンの帰りに胡瓜とレタス、トマトをあげる。ルッコラは苦いからいらないとのこと。好みは人によっていろいろだ。余田さんはこの菜園のは味が濃くてすごく美味しいと言っている。たしかに買ったものは形も小さな青梗菜のようでふわふわ柔らかくて、味も淡泊。芹野さんによると、去年の、余田さんがイタリアから直接もってきた種のルッコラのほうが、歯ごたえもあってもっと香りも味も強くて美味しかったとのこと。形も全然違っていて、30センチくらいの茎に6,7センチの細い葉がびっしりとついていた。今年のは東京の友人、森さんが送ってくれたもの。袋にはルッコラ(ロケット)と書いてあった。その時いっしょに送ってくれたのがイタリアン・パセリ。これは繁るというのからはほど遠いかんじ。あまりこの土にあわないのかもしれない。芹野さんにもらったバジルもうまく育たない。
余田さんのお土産のもう一つのイタリアの野菜は、ものすごく大きくなって藪のようななっている。若くて柔らかいとき(野菜らしく小さいとき)は摘んでサラダにしていたけれど、今はちょっと唖然として見ているしかない。小さな薄水色のデイジーみたいな美しい花をたくさんつける。水揚げしないので、切り花にできなくて残念。余田さんは時々もって帰って炒めたりしていたけれど、彼女ももう諦めたようだ。かなり苦みが強く、硬め。先の丸いスッと伸びた葉はなかなかいい形だけれど。ここの土地にあったのだろう、3年目ですでに庭の一角を占拠している。
ピーマンは以前摘んだインゲンといっしょにオリ-ブオイルでかために炒めて、青々とした色と味を楽しんだ。茄子は半分に割ってごま油で焼いて、昼の素麺の時に食べたけれど、やっぱりかなりかたいし、味もうすかった。他の野菜はとにかくせっせとサラダで食べている。ルッコラの味は癖になるらしく、これが入ってないとサラダらしく感じられない。パセリやバジルもとにかく混ぜてしまう。

父はずいぶんよくなってきた。食事にはもう台所に出てくるし、食欲も変わりなく旺盛。少しの魚、わずかな肉以外は、豆腐、納豆、若布そして野菜、野菜、野菜。津屋崎に窯を開いている陶芸家の岩田啓介さんが実家からもらってきてお裾分けに届けてくれた干し竹の子と椎茸の煮物、高菜の油炒め、鰯の糠漬け煮や、芹野さんが届けてくれたお父さんが獲ってこられた鯵(頭を落とし内臓も丁寧に抜いてあった)なども、そのやさしい気持ちと共においしくいただく。干し竹の子は初めて味わうもので、おいしいのにビックリした。偏見をもっては損する。
まだ天候が不安定な津屋崎海岸から。

 

菜園便り⑤
7月2日

 元気ですか?
 昨日は胡瓜1本、ピーマン3個、レタスたくさん、ルッコラたくさん、パセリ、イタリアン・パセリ少々。レッスンにみえた余田さんと、芹野さんにお裾分け。芹野さんには30日に続いてまた今日もお父さんが獲ってこられた小鯵をいただいた。塩焼き、煮付けのあと、今日はグレープシードオイルで焼く。新鮮なので生で食べれないのがもったいなく、とにかく美味しい。
 今日は胡瓜2本、トマトどっさりが採れた。胡瓜の一本は囲いのない菜園に植えてあった一本でこれがはじめて。同じ場所のレタスは茎が伸びきってもうお終い。茎をレタス・スープにしたらよさそうだ。毎食サラダで食べているけれども飽きない。
 父は昨日も入浴したし、今日は着替えて小島病院に行った。まだ本調子ではないらしく、帰ってきてまたパジャマになってホール(そう呼んでいる旅館時代の応接間、TVが置いてある)で一日寝たり起きたり過ごしていた。明日はぼくは出かけるので、このへんでひとりであれこれやり始めてくれそう。顔色がちょっとくすんでいるのが気になるけれど、本人は痛風の痛み以外は何もないと言っているし、小島先生の話もあいかわらず同じのようだ。
 昨日夜は、芹野さんへおじゃまし、いっしょにシシリアのワインをのんであれこれしゃべって楽しかったけれど、寝付かれなくてぼんやりずっと起きていたので、今日はだるくて眠くて、夕方買い物に行こうとしていて、ばたんと倒れるように寝てしまう。小一時間寝てがんがんする頭でまだ強い日射しのなかを買い物に。それでもひろびろと広がる田圃の道を行きながら、四,五日見ないだけでずんと伸びて、緑も濃くなった稲が風にさっと揺れていくのを見ていると、頭も心もすっと開けるようだった。
 今日は金曜日の夜に、ぼくのだした「水平塾のみなさんへ」という手紙のことをききたいと家へ来てくれ、一昨日もメールをくれた松井さんへ、返事を書く。送られてきた、<「他者とのかかわりは、他者との分離と同じように、われわれの存在の本質的な側面でありながら、しかもどのような特定の他者もわれわれの存在にとって不可欠な部分でないという逆説」を、「孤立者ではないし、かといって同一の身体に属する諸部分でもない」われわれの悲劇的な逆説である、とレインは語っていました。>という、レインの引用について少し、そしてちがう世代への違和感について。
 ブラッドベリの短編集を借りてきているので時々開いては読み続けている。「最後のサーカス」とか、とにかく上手くて、感傷的で、よい。永遠に戻らない至福の時、家族の絆、愛、酷薄でないだからいっそう深い孤独、そっとすくい上げてことばで微かな輪郭を描いて差し出す、そういったような。
 暑いけれどまださわやかな暑さと言える津屋崎の風のなかから。 

 

菜園便り⑥
7月5日 雨

7月3日は久しぶりに博多へ出た。父ももう歩けるし、昼は自分でパンを食べてもらって、夜の分だけ(鯵の煮物とサラダ)を用意して出かけた。散髪した後(以前天神で切ってくれていた人が友岡の理髪店に嫁いだので、そこまで通っている)、余田さんと会って博物館、画廊に。渡辺さんともずいぶん会ってないねということで、彼にも電話して会うことになり、貘で待ち合わせる。ほんとに久しぶりだったし、東京に行かれた後だったのでいろいろ聞く。3人で「満腹楼」で食事。ここのことは何度もきかされていたけれど、行ったのは初めて。すごく元気のいい中国人のオーナー・シェフがはりきって応対し、つくってくれる。おいしくて、やすい。
ちょっと紹興酒をのみすぎたので、渡辺さんの行きつけのカフェド・カッファで濃い珈琲をのんでから帰ってくる。いろいろ昔の話がでて、川奈ホテルまででてくる、懐かしい。「死ぬ前にもう一回だけ行きたい」なんて大仰なことばもでて。

そういうわけで3日はなにも収穫しなかったけれど、菜園もひとつの周期を終えたようで、胡瓜はまだ、茄子もとうぶんなしで、4日にはレタス、ルッコラ、トマトをどっさり摘んだだけ。ミニトマトが房になってどんどん大きくなり色づいている。完熟前に採らないと落ちてしまうので、少し青いのも摘む。2、3日で甘くなる。やっぱりサラダで食べる。こんなに毎日2度も3度もサラダにしているのに飽きない。ほとんどドレッシングもなく、酢だけでも美味しい。とくにルッコラは癖になってしまって、あの味がないともの足りなくかんじてしまう。父もそういった香菜を黙って食べている(食事に関してもうんともすんとも全く何も言わない人ではあるけれど)。

4日は珍しく電話や訪問者が多かった。亀井久美子さんが娘さんのまりちゃんが取材されたTVのヴィデオテープ(NHK「さよならぼくらの島」)と自分で漬けたらっきょうを持ってきてくれた。先日はがきもくれたし、いろんな話があったのかもしれないけれど、芹野さんからもらってきていたミントをいれたアイスティーを飲んだだけで、帰っていった。その後、坂井さんがディアン・ルグスビーさんといっしょに二日市から車で来てくれた。下げてきてくれたワインをのんで11時過ぎまでしゃべる。家族のこと、映画のこと、彼女の出身で、ぼくもしばらくいたオハイオ州のことなどなど。(クリーブランドとコロンバスが同じくらいの大きさの都市だとはじめてきいた。ほんとに!?)

5日現在、父の痛風ももうほとんどいいようだ。でも昼間でもパジャマを脱がず、布団も敷いたままなのは、まだ完治していないという、俺は病人だというサインなのだろう。それで今朝もお茶を部屋に届ける。昨晩、叔母が亡くなったという知らせがあり、今日とりあえずぼくだけお線香をあげに行く。千葉や佐世保にいる従兄弟もすでに来ていて、少し話す。だれもが儀式の準備のあれこれをこなしていくだけで精一杯で、哀しんでいる暇もなく、そうやって人はいろんなことを先送りし、なだめ、そっとしまい込むのだろうか。87才、母の姉だった人。ほんとならここに母がいるはずだったのにと、またせんないことを思ったりもする。母の交通事故死の時何度も口をついた「ひどい」ということばが歩いているときにふいに突き上がってきたりする。3年経っても慣れることができないことがたくさんある。

時折の雷雨と小雨の一日。夕食前に雨があがっていたらトマトだけは摘もうと思う。そうなれば7月5日は、トマトどっさり、ということになる。昨日は久しぶりに鶏のカレーだったので今日はまた魚に戻って鯵、それにゴーヤ(ニガウリ)と豆腐のチャンプルーにしよう。このゴーヤは残念ながら買ってきたもの。菜園のはまだまだのようだ。

薄明るい海から

追伸:そうやって締めくくって晴れ間をぬって菜園に行くと、なんとりっぱなゴーヤがなっていた。胡瓜もビックリするくらい大きいのが一本。さっそくゴーヤとトーフのチャンプルーにし、買ってきた細いゴーヤはカリカリ漬け(酢醤油漬け)にする。2週間待てばこれも美味しく食べられる。父の亡くなった級友の奥さんから大きな奈良漬けが届いた。父はお見舞いや、仏事に細かくまめだったから、当人が亡くなられてからもいろんなことがある。

 

菜園便り⑦
7月8日

久しぶりの快晴。強い光が溢れている。雨漏りの水をはけて、敷いていた雑巾を外して干す。洗濯までは手がまわらない。今日は萩原隆さん、松岡さんが12時頃みえることになっているし、余田さんが3時にはレッスンにみえる。ばたばた片づけものをして、ざっと掃除もする。

隆、松岡さんはどっさり昼食まで持ってきてくれて、恐縮する。ぼくは遅い昼食だと言い忘れていたし。ピッツァやポテトをいただきながら、先日の「松永さんを偲ぶ会」のことやぼくの「手紙」のことなども話す。こうやって丁寧にきちんと話すことがいまの水平塾ではできにくいということもでる。余田さんは仕事で使った花とレモンバームなどのハーブ(友池さんの家の本格的な菜園からのものですごく大きく青々している)の花束をもって来てくれる、うれしい。

昨日父とちょっとした口論になり、この間のストレスが溜まっていたこともあって、かなりきついことを言ってしまい、当然あとでうんざりしたし悪いなと思ったけれど、そう簡単に気持ちはおさまらないし、気まずいので今日は食事の時間をずらし、夕食もつくってテーブルに並べて芹野さんのところへ余田さんとうかがう(夕食は昨日芹野さんからいただいて葬儀でそのままになっていたお父さんが獲ってこられたアラカブを山椒の実と煮たものとサラダ、納豆、奈良漬け、みそ汁)。父は少し左足に痛みが残っているらしいけれど、もうすっかりいいようだし、あの痛みと寝たきりのなかでも結局キャンセルしなかった明日からの宮崎への旅行に気もそぞろ。

レッスンの後、夕食の準備をしている間に余田さんが自分の分も含めて菜園での野菜摘みをやってくれる。茄子1個、トマトはどっさり、レタスたくさん、ルッコラもたくさん、イタリアンパセリ少々。午後、久しぶりに庭に出た父が菜園の草取りの後、胡瓜2本、大きな色つきピーマン(パプリカ)2個も摘んでいたので、今日はあれこれたくさんの日だった。パプリカはもう少し我慢してすっかり色づくまで(甘くなるまで)置いておきたかったけれど、残念。黄色は八部、赤は五部の色づきで、かなり奇妙な色。しばらく置いておこう。ゴーヤももう次のがなっている。

7日の叔母の葬儀では、火葬場にも行き、その後の精進落としの食事にも加わったので、ずっと従兄弟やその子どもたちとも話した。奈良に住んでTVのディレクターをしている建は、叔母の次男の宏介さんの息子で、たまに会うと仕事や映画のことなどいろんな話をしてくれる。ちょうど河瀬直美のインタビューを終えたばかりで、彼女のことなども。「火垂」は見そびれたけれど、それがものすごく残念に感じられなくて、ちょっと寂しい。「につつまれて」はすばらしい映画だったけれど、「萌えの朱雀」は映像や風景の美しさばかりが印象に残った(後でわかったけれど、図書館ホ-ルが特集した、カメラマン田村正毅の撮影だった)。従兄弟に叔母のこと、つまり母の姉のことを少しきいたりする。母は死ぬまでファザーコンプレクスだったけれど、お姉さんは父親を、つまり従兄弟やぼくの祖父をどう思っていたのかとか。すごく若いときのきりっとした写真がでてきたと見せられて、そのなかに母や祖父の像を重ねようとして、でも当然だけれどうまくいかない。
叔父の方の親族や従兄弟もはじめてその名前や関係を教えられる。まだ中学生くらいの時、会ったことがあったのを思い出したりもする。彼女も覚えていて、あの時連想ゲームやセブンブリッジをやりましたねと。ありありと覚えていること、すっかり忘れてしまったこと、その不思議。従兄弟は年齢もちかいし、すごく小さいときから会うことが多いから、互いに愛憎が剥きだしになってしまうところがあって、そのねじれが尾を引いて関係がもう修復できないこともある。叔父叔母に対しては敬して遠ざけるというようなやり方もできるけれど。

余田さんが友池さんから預かって、萩尾望都の「マージナル」を持ってきてくれたので、夜はそれをずっと読み続ける。5巻だから今日中に読み終えられるだろう。

 

菜園便り⑧
7月14日

今年の梅雨は長く、この1週間も強い雨が続いて、野菜もなかなか摘めなかった。それでも時折の晴れ間をぬって9日には、ゴーヤ2本、胡瓜1本、インゲン少々、トマトどっさり、レタスたくさん、ルッコラたくさん、イタリアン・パセリ数枝、ピーマン2個、青紫蘇少々を収穫。13日には胡瓜2本、ゴーヤ1本、茄子1本、レタス少々、ルッコラ少々、青紫蘇少々を摘む。茄子は茎も60センチくらいの短いままで、2本は枯れたし、実もなかなか生らないし小さい。昨年の近所に借りていた畑でもあまりできなかったから、こういった塩気の多いやせた土地には向いてないのかもしれない。インゲン、ゴーヤ、トマトは同じ畝に2本ずつも植えてあって、完全に絡み合ってしまった。枝や葉の陰に隠れて、大きなゴーヤがぶら下がっていて驚かされたりもする。レタスは時期をそろそろ終えそうで、茎が伸び始めたし、葉も小さくなり少し硬くなった。ルッコラは株別れするような形でどんどん伸び始め、花もつき、これも終わりが近いのかもしれない。この二つはほんとによく食べている。菜園の外の庭の隅に植えてある南瓜(父によると、南瓜とは思えないがたぶん西洋南瓜だろう、ということ)は、雄花ばかりで実の生る花は今のところないらしい。
手のひらくらいになるまで待ったけれど、完全に色づく前に採った黄色ピーマンは、置いていたらすっかり色づき甘くておいしい。

雨が続いて、だからひどい雨漏りも続いて、玄関の天井もまた剥落して、うんざりだった(過去形でいうには、まだ剥落はそのままで進行形だけれど)。芹野さんが炎天下に屋根に登って修理してくれた玄関もどういうわけか、また漏った。雨漏りは難しく、不思議で、なかなか奥が深い。今日は快晴で暑くて、雑巾やバケツを干したり片づけたり。午後は千鶴子さんがレッスンにみえた。もう1年ちかい。下手くそな教え方に、つき合ってくれて感謝。

木曜日はあの豪雨のなかを、本村さんとアジア映画祭の試写会にいった。「千言万語」という香港の映画。監督は「望郷」のアン・ホイ(許鞍華)。いろんなことが詰め込まれ過ぎているし、固有名詞や香港・中国の事情、特に歴史がわからないと細部は掴みにくい。若き日の政治闘争への追憶、といった面もあって、ちょっとしんどい。インターナショナルがギターの演奏で何度も歌われる。歌詞が国によってずいぶんちがうのには驚いた。政治と愛はそんなにも人を縛りつけるテーマなのだろうか、今も。ほとんど感傷でしかないことばやシーンもある。台湾の蔡明亮の映画に必ずでてくる男優リー・カンショ(李康生)が中心人物の一人で、だからシンパシーはもてる。わりと単純な屈折と重ったるいパッション、エピソードの羅列、などと言うのはひどすぎるけど。でも久しぶりに本村さんや、受けつけにいた岩槻さんに会えてうれしかった。

昨日は芹野さんのご両親が行かれるはずだった、津屋崎の文化ホールでの能に誘ってもらう。「羽衣」。ステージのうえに能舞台がつくられていて、4隅の柱が2メートルくらいだけしつらえてある。つまり床から途中まで柱が伸びて、切れていて、だからもちろん屋根はないし、奥の松の絵もない。始めに挨拶や説明があって、能楽のみ(狂言はなし)。衣装をつける前の演者たち、謡い方、演奏者が舞台上で少し話をしてから、始まった。よくある高校生のための会といったような説明でなく(そういうのに行ったことがないのだけれど、たぶん)、上演にあたっての心構えのようなもの、きっかけの互いの確認などだった。でも「羽衣」というのはなんというかあまりに、あまりというか、このぼくでさえ2、3回は観ている。たしかに衣装の豪華な、能にしては派手で動きのある華やかな舞。引っ込む直前にはくるくると二度も回って驚かされた。でもいつもそう感じるけれど、ものすごい洗練と様式美の極地での、絶望的なまでの退屈もやはりある。有名な「疑いは人間にあり(ずっと、゛人にあり゛と思っていた)」のことばにはさすがに眠気がすっとんだけれど。
感情移入とかだけでない何か、たぶんひとつには観るぼくがあの速度(進行する時間と演劇ないの時間の)にもうどうしてもついていけないのかもしれない。そうして、演ずる人は、形の洗練を守るあまり、つまり修練で会得し続ける美の形式に囚われ続ける限り、様式の力の前になぎ倒されるのかもしれない。様式は、その極みで抜けるためにあるのだろうし、結局、伝えたいこと、表現したいことのためにある形であることをどこかでつかみ続けていないと、膨大な時間の重みや純粋な型の威圧にただ押しつぶされ、もたれかかり、それへの対応で終始してしまうのかもしれない。素顔の能役者を見れたのはうれしいような、残念なような。もちろん素顔といっても、紋付きに袴の正装でだけれども。鼓の音や謡はいつ聴いてもすごいと思うけれど、今回は夢野久作のことを思いだしたりした。ご存命の息子さんの三苫先生に知り合ったり、久作をきちんと読むようになった後、はじめての能だからだろう。彼はずいぶんと長くやっていたらしいし、「あやかしの鼓」という作品もあるし。

今日は坂井存さんの個展の最終日でパフォーマンスなんかもあるようだけれど、行けなかった。いっしょにやるらしいビアンさんから彼女の書いたものの翻訳を急遽頼まれ、汗だくだくでやっつける。タイプしてない読みづらい手書き文字で、送ってきたファックスも尻切れトンボで、計画性のない人はどこまでもとんでもない、と暑さへのうんざりをぶつけたりする。不思議なことばがたくさんでてきて、めんどくさいけれど興味深い。でも、いくらなんでも詩とはよべない。坂井さんがうまくいくといいけれど。「見えない形」というタイトルをかってにつけたから、これでぼくも「参加」だ。

東京の森さんから暑中見舞いのちょっとドキッとする葉書が届く。今日から本格的な暑さになった。夕食は鯵のオイル焼き野菜ソース載せ、ゴーヤの酢の物、菜園サラダ、南瓜のスープで、けっこうつくるのバタバタしたので、食べていると汗がどっとでてきて、「やーあ、夏だ!」といったかんじだった。食事中、千葉の福田から酔っぱらっての電話があった。懐かしい、これからもどうにか元気でいてほしい。
いつまでも続く関係、あんなに深かったのに切れてしまったつながり、なにもかもただ不思議のなかにある。

 

菜園便り⑨
7月16日

雨は続いている。雨漏りも続いている。気が滅入る。芹野さんがあれこれ心配してくれてまた屋根に登ってみましょうと言ってくれる。でも、この大きなあばら屋の屋根を思うとため息がでる。とにかく早く梅雨が明けてくれることを!

晴れたときにすかさず野菜を摘む。勢いが落ちたこともあって前みたいにいちどにはそんなにたくさん採れなくなり、レタスやルッコラの採りおきがきれるときがでてきた。一日にもう2度も3度も食べてもう飽きたからいいやなどと傲慢に思って朝食にサラダを用意しなかったけれど、なにかもの足りなくて、やっぱりルッコラを食べた。あのクレソンに似た辛みと緑くささ、それに胡麻やナッツのような味は、ほんとに癖になる。昨日は父が胡瓜とゴーヤを1本ずつ採って、法事の帰りに送ってくれた従兄弟の息子さんにあげた他は、初めてのオクラを2本採っただけ。ずいぶんと大きくて、12センチくらいあったけれど、水気が少なくてぱさぱさしていた(昼のソーメンに添えた冷や奴に刻んでのせた)。これもいただいた苗で、菜園の外に植えてあったもので、4本のうち2本は枯れてしまった。父によると、南瓜には雌花がやっと1個ついたとのこと、楽しみ。今日は小雨のなかをトマトどっさり、レタスとルッコラたくさんを摘んだ。父が夕方ゴーヤを摘んできてくれる。彼はレーシと呼んでいる。鹿児島とかはそういうふうに呼んでいるようだし、もしかしたら、このへんも以前はそうだったかもしれない。子どもの頃、食べたことも観たこともなかった。はじめて八百屋で見たときはかなり強い印象を受けて、お店の人にきいた記憶がある。買ったかどうかは忘れたけれど。最初に食べたのは、覚えているかぎりではセンター街を抜けたところにあった「沖縄」という沖縄料理店で、マウザーさんと行ったときだった。ゴーヤチャンプルーで、豆腐といっしょに炒めてあった。彼は苦くて一口で止めたけれど、ぼくはすっかり好きになった。子どもの時に食べていたら、一生二度と食べなかったかもしれない気もする。ハブ酒を初めてのんだり、沖縄ソバを初めて食べたりしたのもそこだった。「沖縄」は2階にあったけれど、上の方に風俗の店(当時のキャバレー)が入っていて、その強引な客引きとビルの入り口でいつもごたごたしたけれど、でもそれでもおいしくてよく通った。そのうち慣れて、わざと気を惹かれるふりをしたりもして。たしか「歌麻呂」という名前だった、なんというか・・・。

今はゴーヤはだいたいニンニク、豚肉と炒めて、しょうゆ味で食べる。たまに薄くスライスして、酢の物にもしたりする。父はどうもあまり好きでないようなので、茄子やなんかもいっしょに炒めて、彼のさらにはゴーヤは極力少なくいれる。プロの兄が薦めるのは、半分に割ってオリーブオイルをたらして、焼くもの(オーブンでなく、魚焼き器などで)。苦みが薄れて柔らかいらしい、まだやってみていない。ゴーヤが終わる季節には、まとめて「カリカリ(コリコリ)ゴーヤ」をつくる。酒、薄口しょう油、酢を1対1対1の酢醤油につけ込んで、冷蔵庫で2、3ヶ月もたせて、冬に食べようというもの。酒のつまみにすごくあうし、漬け酢はいろいろ使える。兄は味がきつすぎるといって、いちど出汁を煮きることを薦めていた。プロは洗練にはしって、それはたしかに美しくてデリケートだけれど、一面荒々しい強さが失われてもしまう、それも残念。

ぼくの「水平塾のみんなへ」の手紙に対して、北口さんが電話やファックスをくれる。ありがたいけれど、でも肝心の思いは届いていない気がする。ほんとに切実なこと、どうしてもやりたいこと、つまり生の核になてしまっているようなこと、それだけを考え、やればいいし、それぐらいしか人にできることはないとも思う。できないことをできないとした後に残るわずかなことに、大切なことにこだわることで、世界も他人もはじめて見えてくるのだろう。

 

しゅもく鮫の日
8月16日快晴
 あいかわらず暑い日が続いている。それでも、秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・で、風はもう秋です、と言いたいところだけど、なんのなんの風も熱風、日射しも傾いたぶん家の中にも、夕暮れちかくも横から射し込んで、どこまでも真夏。空も、鮫まででる海のうえに真っ白な入道雲や積雲が浮いたまま。
 友人が四国から久しぶりに会いにきてくれたので、今年は何年かぶりに家の前の海で泳いだ。沖をしゅもく鮫が集団で回遊し、このあたりはちょっとしたパニックになっていて、ちょうどその日から遊泳禁止がでたので他に泳ぐ人もいなくて気持ちのいい1時間だった。ちょっと泳いではぷかぷか浮いて、「海はぬるい温泉みたいだ」「しかもこんなに広い」などどらちもあかぬことをしゃべっては空をぼおっと見ていた。
 友遠方より来る、それも十年ぶりに、といったことがどういうことか、なかなか語るのは難しい。もちろん喜び、懐かしさ、と、でもどこかにどうしても生まれる齟齬。脳天気にかつての思いでだけを語り合えばいいのだろうけれど、でもそのかつてはもう遠すぎて、すでに記憶から抜け落ちてしまってもいて、残っているのはとても鮮やかに感じていたその印象だけ。だから互いに思うことはすれちがい続ける。<現在>は、もっと遠い。互いの生活や思索は光年の隔たりのなかにある。それでも互いのなかに残る口調や目尻の笑いをたどりながら、しばし旧交は温められる。心づくしの料理、下げてきてくれた酒。
 うまく思いが伝わらないことは哀しみではない。それを残念に思ってしまう自分のあいかわらずの希求する気持ちや湧いてくる問いが煩わしい。酒を酌み交わし、ことばを重ね、思いでの店へ繰り出し、自分たちの子どもの世代より若い子がやるスナックでカラオケを歌い(サイモンとガーファンクル吉田拓郎ときている)、静かに珈琲を啜り、また酒をのんで、酔った勢いで夜光虫の光る暗い海にはいって、肩を滑る黄緑色の光と共に泳いで、それでいいではないか、充分というにもお釣りがくる。
 でもどうしても残る舌の上のかすかな苦いもの、うっとどこかがうめいてしまう、手つかずの奥深い柔らかさへの痛み、それはどうやって流せばいいのか。センティメントにすら関わらないかのように、にこやかに笑って、現在の世界をるると語る友の語調は乱れもなく、全ては十全な球体の、確認済みの箱庭におさまっている。
 テーブルの上の食べ残しが、すでに朝の熱気の中で饐えた匂いを放ち、グラスに残る南の酒から立ち上る匠気が、うんざりする一日の長さを告げる。黙劇のような動作で、片づけては階下へ運ぶことをくり返しながら、短かった夜の、白々とした夢を反芻する。休暇を半日残して帰宅したい友へ、早い朝食をだして、あとはがらがらのバスが海岸通りを去っていくのを見送る。たぶん着いたという電話がお礼と共にはいるだろう。しっかりした奥さんもひとことを添えるだろう。それは喜びである。それは憎悪である。こんな静かな嘘をつくためにぼくらはあてもないまま、こんなにも遠くまではるばるやってきたのだろうか。そういう<生活>なら、生きることすらなくても、やすやすとわかっていたのだったろうに。手を伸ばしても掴めない、なにもかも、ただ自分の今をじっと凝視する。

 

菜園日記一一
七月二一日 晴れ

梅雨が明けて真夏、暑い日が続いていますが、お元気ですか?
雨がないのと、先日また芹野さんが屋根の修理に来てくれたので、海側の玄関の雨漏りは一段落。他の場所や、天井のことはしばし、忘却の彼方へ(そうやってこうなってしまったのだけれど)。
菜園はちょっとぐたっとしたかんじです。日照り、水不足と、レタス、胡瓜の終りが近いことで。それでもまだ、伸び始めたレタスの小さな葉は少し硬いくらいで、十分サラダにもあいます。ルッコラも株別れを続け、緑も濃くなり、花もつけ元気です。やせた乾燥した土地にあうのかもしれませんね。昨年のイタリアの種だったルッコラも一抱え以上に群れ、藪のように元気でした。そこから取りだして一冬根で生き延びた株は、鉢のままのせいか繁るといったかんじからはずいぶんとおいままですが。
18日はトマトどっさり、インゲンたくさん、オクラ一個。インゲンはもう終わりと思い、小さいのも全部摘みました。オクラはここにきて、急に伸び始め、隠れていた一本もでてきて、都合三本が伸びています。葉の根もとから枝みたいに直接にょきっと上に向けてでてくるとは知らなかった。かなり奇妙な姿ですね。
二〇日はレタスとルッコラ少々、イタリアン・パセリ数枝。ルッコラの陰でひょろっとしていたイタリアンパセリはいつのまにか色も濃く大きく繁っています。あまり使いでがないので採らないせいもあるのかもしれません。パスタや焼いた魚にかけたり、いろんな料理の彩りに添えたり。パセリほど味や香りも強くなくて、なんとなく中途半端。このへんは霜が降りないから、ほっといても越冬できるかもしれない。野菜やハーブにはそういう年越しの楽しみもあります。
二一日はゴーヤ二本、胡瓜一本、トマトどっさり。
このところ訪問者が多く、しかもかなりシビアなことがらが多かったので少し疲れた。自室が夏は暑いので(もちろん冷房はない)、廊下にテーブルと椅子をだして臨時の応接間にしている。慣れているのでぼくには心地よいけれど、ふつうに冷房のなかで生活している人にはちょっと辛そうで、それを見ると気の毒な気もするし。原口さんとは汗をかきかき、集中して三時間話した。伝わったこと、伝わらないこと。それが互いの思いだろう。それなりの時間をかけて語り、話し合い、了解しあってきたと思っていたことも、そうじゃなかったことが顕わになったり、改めて確認できたことに安心したり。自分で選ぶことのできない生まれてくる時代、場所のなかで、剥きだしの攻撃も含め、翻弄され屈折する生、でもそこでだけ人の深みや慈しみが生まれるのも事実だろう。「該当者」にさせられる、なってしまうことの痛みや哀しみを抜けたところで、該当者性を対象化できた後、「当事者」として人は初めて、人にも世界にも出会うことができるのだろう。互いの生活の、生の具体的な苦しみをそのままでは知ることもわかることもできないんだ、ということを肝に銘じることから始めるしかない。だからこそ、そこで自分の囚われからも自由になれる可能性が生まれるのだろう。そう思うし、思うしかない。

 

菜園便り一二
七月二三日

 久しぶり、たぶん二週間ぶりくらいに田圃の白い道を抜けて買い物に行った。稲はすでに穂をつけ頭をたれている。ほんとにびっくりした。梅雨のさなかにも、もうこんなに伸びたのかと驚いていたけれど、でもそれはたんに稲自体の成長のことだった。雨と太陽の力はすごい!もう稲穂とは! 以前きいた「早稲は、冷たい水で田植えして、暑さのまっただなかで刈る、辛い」というのを思いだした。八月に刈るには、こうでなくてはできないのだろう。なんかことばもなくなる。台風の前、ウンカの大発生の前に刈り取れるし、値段もいい、ということもあるのだろう。
 作業に来ていた三人の中年の男たちが、かなり車も走る舗装道に止めた軽トラックの後ろで雑談をしていた。旅行のことと奥さんのことらしい。「機械だけは扱わんもんな」と嘆いている。それはたぶん彼女たちの生活の知恵だろう。「あれもこれも、そのうえ機械作業までさせられてはたまったもんじゃない。しかも男たちは機械は自分にしかわからないと自慢してもいるし。もっけの幸い」と。その横を抜けて買い物を済ませて帰ってくると、車の日陰に座り込んで冷たいビールをのみつつの宴になっていた。そういうふうにいろんな場所に(ここでは自分の田のそばだからだろう)すっととけ込んで、自在に振る舞えるのは羨ましい。隣との関係すらうまくさばけず、゛家を出ると緊張の世界゛というのはほんとに寂しい。緊張せず自由になれる場で、人は積極的になれいろんな力を発揮し、ずんずんやっていける。それは家庭のなかだったり、学級、地域、会社、業界、マスメディア、都市、日本・・・と広がっていくのだろう。それが今の社会の才能であり、力ということになっている。そのきわどい境を、傲慢にならずにどう渡っていけるのか。そんなことは可能なのか。見ないようにしている、自分のなかにたしかに残っている野心や、嫉心はそれにどう答えるのだろう。
 田圃の周囲はいつもきれいに刈り込まれているのだけれど、舗装のない白い道の一角に、雑草が放置された部分があって(休耕田でなく)、その丈がぼくより高くてそれも驚かされた。ちょっとした細長い藪になっている。揺れてどこまでも続く緑の穂並み、といった文字どおりの田園風景も、管理され、労力がそそぎ込まれた結果なのだとわからせられる。管理と自在さ、強制と自由はするりとどこかで入れ替わり続け、境界は見定めがたい。それが同じことの両面だと、互いに補完しあってなりたっているのだと、緑濃く、水も豊かに広がる田園のなかで知らされる。
 南瓜がごろんところがっている。シオカラトンボがすいっと川面をかすめ、ひまわりが毅然と顔を上げ、そうしてススキの穂も立ち始める。秋桜も一輪ある。ぼくは何がなにやらわからなくなって、牛乳やら豆腐やらの重い荷物を抱えてとぼとぼ帰ってくる。
二二日レタス、ルッコラどっさり、イタリアンパセリ少々、トマトたくさん、ピーマン五個、ゴーヤ一本、茄子一本(レッスンの後余田さんが摘んでくれる)。二三日、ピーマン五個、胡瓜一本。夕食は南瓜と茄子とピーマンの素揚げ。

 

菜園便り一三
七月二五日

 昨日は宮地海岸の花火で、玉ノ井では「掃除と花火の会」を催した。恒例の「福間海岸の花火大会を遠見に見る会」(今年は八月二日)で使う二階の広間の掃除がたいへんだと愚痴を言っていたら、みんなでやれば、と言ってくれて、それなら前哨として宮地の花火にあわせようということになった。参加者7名。数名での掃除の後、宴会。遅れてきた人も交え花火を見つつ、のんで食べて。直子さんの茄子のトマトソース煮、鮭のおこわ、鴨の薫製サラダ、チェリー。余田さんの三種の珍しいチーズと数種のパン、ブルーベリー。ぼくの野菜の素揚げを出汁につけ込んだものとゴーヤ豚肉炒め、菜園サラダ。友池さん梅田さんのデザートもいただいた。宮地海岸は真横すぎて見えづらいと思っていたけれど二階からも十分に楽しめる。今年は白い大型花火が多く、感動。幸い風のよく入る日で、凌ぎやすかった。ハードロックに夢中だったことがある西田さんにささげて、真夜中にツェッペリンのファーストアルバム(もちろんCDで)を最大音量でかける。こういうこともこういう場所で、ちょっと酔っていたりするとできる。楽しい。
 この会に使うので二四日にゴーヤ一本、レタス、ルッコラたくさん。トマト少々を摘む。レタスはもう茎がどんどん伸びて、もうしばらくの命。ルッコラも茎が硬く伸びて、葉も小さくなってしまった。それでも炎天の下でしっかり実りを届けてくれる。ゴーヤがどんどんできている。
 朝食に桃を食べた。たぶん今年三度目の桃だ。最初のは父が買ってきてくれた大きな水蜜桃だった、かなり痛んでいたけれど甘くみずみずしかった。この季節になると、いやでも桃を思いだす。東京にいる大学の先輩が山梨の人で、いろいろあって毎年ビックリするくらい大きくて甘い水蜜桃を二箱も送ってくれていた。彼の友人が山梨の果樹園でつくっている桃。「そのまま皮ごとかじってもいいんだ」という桃だった。東京に行くときはいつもその人の所に泊めさせてもらって、一〇日も二週間も気ままに過ごしていた。気安くいろいろ言えたし、当時はまだ母がいてくれて家事をやってくれていたから、よそで掃除したり食事をつくったりするのは、新鮮で楽しかった。
 お土産に抱えていった獲れたての魚やサザエやエビを食べながら(冬は河豚の鍋だった)、積もる話をしたし、いっしょに近代美術館や写真美術館に行ったりもした。映画や芝居は誘ってもこなかった。たまにはのみにいったりも。でも、ある時ぼくが、傲慢にほんとに嫌なことを言ってしまって、それでもうそれっきりになった。手紙やファックスの返事もなく、ぼくも電話はかけづらい。一九六九年に会って、間にきっかり一〇年の空白があって、一九九八年に終わった。桃はとぎれた。あんなに大きくて甘やかな香りを放つ、淡い桃色にさっとひと刷毛の紅がのった、果汁の滴るりっぱな、手にずしりと重い桃は、それっきり見ない。

 

菜園便り一四
八月一日

 七月三一日の夜に書いているのだけれど、実際はもう八月一日で、今年も七ヶ月も終わったと、嫌でも考えずにはおられない。それは、この真夏に、あの二月の惨めな寒さを思うようで、もったいない気もするけれど。海辺のサナトリウムでのような生活を送っていると、時々、叫びたくなるような不安にかられたりする。それは暑さのせいであり、年齢のせいであり、崩壊しそうな建物のせいなどなどであり、総じて、語ってもせんないことだろう。
 建物といえば、ついにあの海側の玄関の天井が修復された。自分でも信じられないくらいだ。あれこれ言いつつも、ずっと表面をことするだけのままでぐずぐずいくのだろうと諦めていたら、先日芹野さんが夜の八時に様子を見に来てくれて、「もう今日やっちゃいましょう」と宣言して、あれよあれよとやってくれた。直子さんも手伝いに来てくれ、一二時まで、夜なべ仕事でやつけた。すごい!とにかくほっとしたし、うれしい。感謝!!たいへんだったけれどどこか子どもの頃父や兄とやった夜の作業を思い出して、しみじみしたりもした。それも主だったいちばんたいへんな仕事をやってくれる人がいたから、そんな郷愁も生まれる余地があったということだろう。ほんとにありがたい。
 菜園は雨がないせいもあって、ぐったりしている。いろんなものが終わりに近いこともある。胡瓜は終わった。レタス、茄子ももうじき、ルッコラもすっかり小さくなった葉を摘み続けてもそんなには長くないだろう。ゴーヤは今が盛り。明後日の、花火の会にはチャンプルーをつくるのでそれまで残しておこう。ピーマン、イタリアンパセリはまだ元気。青紫蘇もまだまだだし、オクラも成長途上。南瓜は諦めた。トマトは暑さや乾きに強いからまだ保つだろう。でも菜園サラダもじきできなくなる、それもちょっと寂しい。しかしこんなやせた土地でよくあれだけのものを産みだしてくれたと驚かされたし、感謝している。父の発案、計画、実作業にも、もちろん。収穫し、食卓にあがり、とても美味しく食べられることの喜び。お裾分けもずいぶんできた、それもなんか喜びを分かち合うようで(押し売りでも)うれしくなる。二六日、胡瓜一本、トマト少々。二七日、レタス、ルッコラ、イタリアン・パセリ、バジル、トマト少々。二九日、レタス、ルッコラ、トマト少々、ゴーヤ1本、ピーマン二個。三一日、レタス、ルッコラ、トマト少々。
 たしかに庭の花も楽しいけれど、でも喜びの質が全くちがう気がする。それは食べられることがいちばん大きいのだけれど、楽しみのバリエーションがすごく広いこともあると思う。形や色を鑑賞でき、実にいろんな方法で料理できてそれぞれに味わえ、保存して長く楽しむこともでき、あれこれ語ることさえできる。手のひらに抱えたときのずっしりした重みと瞬時に頭のなかで広がる香りや味、そういうことも決定的にちがうのだろうか。
 庭には向日葵が群生し、ゼラニウムも梅雨が明けてまた咲き始めた。浜木綿が夕方になると香り、夾竹桃がいつの間にか開いているし、沖縄月見草もあいかわらずある。それから例の藪になったイタリア野菜の薄紫の花も。最近は仏壇の花はずっと向日葵。
 昨日、美術作家の森山安英氏のお宅に伺って、この六年間の作品約二〇〇点をまとめて見せてもらい、その後ものんで話したので、かなり緊張や集中が続いて、今日はちょっとぐったりだった。すごく暑かったせいもあるし。戸畑のそのお宅は大正時代の牧師館だったいい建物。残念ながらかなり手が加わっているけれど、それでもドアや階段、踊り場の窓などはしっかりと面影を残していて、手で触ってみたくなる。全体の造りも当時の日本の住居との混合で、その間取りも懐かしい。外は蔦に覆われており、庭にはいろんな立木に混じって梅や芍薬などもみえる。その梅も使っての梅干しを見せてもらって驚く。奥には野菜畑もあるそうで、ニガウリやトマトをつくってあるとのことだった。それも驚き。駅まで車で迎えに来ていただいたときもかなり驚いた、運転されることも知らなかったし。あの「集団蜘蛛」の森山さんが、と、あれこれいろいろに感じる人もいるだろう。ぼくはずっと後になって知り合ったので、「伝説」よりずっと穏やかですごく率直な人だという印象が今のところいちばん強い。
 時代のなかで、具体的な場のなかで、だれかに何かに出会うこと、出会わないこと、その不思議の前にみんなが立っている。そういう時代や場の条件をしっかり考慮しつつ、でも最後にはその人が選んだんだということ、弱さや限界も含めた人の力をじっと見つめ、わかりたい。

 

菜園便り一五
八月九日

 一日、ゴーヤ一本、オクラ一本。二日、レタス、ルッコライタリアンパセリ、バジル、トマト、青紫蘇少々。胡瓜一本。ゴーヤ二本、ピーマン三個。六日、ルッコライタリアンパセリ、青紫蘇少々。トマトたくさん、ゴーヤ二本、茄子一個。すっかり茎が伸びたレタスを全部抜く。小さな葉がそれでも手にいっぱい採れる。ほんとにたくさん産みだし食べさせてくれた。九日、トマト少々、オクラ一個、ピーマン三個。
 ぼくには珍しくあれこれあった一週間だった。二日に花火の会。二〇人を越す人が集まって、海をはさんで遠目に福間海岸の花火を見、日田杉の一枚板の大きな卓を囲んで持ち寄った料理を楽しんだ。ワインがどんどん空いた。二人の子ども、長老的な存在の人などで、なんか大家族の集まりのようでもあって、ぼくはうっとりし、少し感傷的になる。玉ノ井旅館が活気に溢れている頃はこうやって夜も煌々と明かりがともり、人の声がうるさいほど続いていたことも思いだされる。ずっと小さい頃は、お盆に毎年父の実家に家族全員で行っては、叔父叔母、従兄弟はとこと大騒ぎだった。大きな農家だったそこも、もうとうに建て変わり、行き来もすっかり少なくなった。アチャラ漬けという食べ物を知ったのもそこだった。
 四日五日は「松永さんを偲ぶ会」実行委のメンバーで小浜温泉に行った。運転も、計画も当日のさい配も全てやってもらって、申し訳なく、でもほんとに楽しかった。泊まった所は、一時代前の旅館の雰囲気があって、料理も廃業する前の玉ノ井のようで、懐かしかった。小エビの煮付けは二〇年ぶりくらいに味わった(品数を増やすためのまずい小鉢、などど生意気なことを思っていたのも思いだした)。夜はシビアな「討議」にもなった、ちょうど花火大会にぶつかり部屋の窓から堪能した後に。十数人で話すことの難しさのなか、ぼくは場になじめないまま(ばかなことに火傷までして)、少し投げやりになってしまった。翌日は暑いなか、旅館の温泉だけでなく、岸壁に設えられた浴場や帰る途中の武雄温泉にも入った。戻ってから、メールをもらったり、また少し書いたものを送ったりする。時間をかけないといけないこと、かけすぎるとダメになってしまうこと、いろいろある。今までのことを切り捨てるような形でなく、その上にまた重ねていくようないろんな動きもでてき始めているようだ。
 不思議でおもしろい夢のことを宮田靖子さんが手紙に書いてきてくれたので、お裾分けします。「・・・・・・今朝、安部さんの夢を見ました。お庭で出来た野菜を紙袋につめ、リュックと背中の間にさし込み、東京のお友達の所へ出かけてゆかれる所でした。なぜか私の実家、熊本の駅からで、私は見送りをしていました。・・・・」賢しらに詮索しようとすると、あれこれどっさり言えそうな夢ですね。とにかく奇妙で滑稽で、でもなんかリアルです。リュックと背中の間に野菜を押し込むのは妙ですが、でも昔キャンプに行くときは膨れ上がって重いリュックの口と頭の間に確かに小さい荷物を押し込んでいた記憶があります。でも夢のなかでもガリガリのぼくに、リュックや野菜の包みは哀しいくらい滑稽に大きかったでしょうね。「おい、大丈夫か、しっかりしろ」と、思わずぼくはぼくに声をかけます。「黒猫ヤマトで先に送ればいいんだよ」と教えたくなります。学校に行ってた頃は、まだ荷物は国鉄のチッキで送る世界で、あれは駅まで持っていったり、受け取ってくるのがほんとにたいへんだった。自分より大きな布団袋を引きずっていったりもして。西武池袋線石神井駅の親切な駅員が、布団袋をひょいとかついで改札口へと線路を横切ってくれた姿は、高架橋を見上げてすくんでいたぼくには、神のごとくに見えた。でもあの頃はそういう感謝をうまく口にできず、今思っても、若さの無知や傲慢に身がすくむ思いがする。

 

菜園便り一六①
八月一八日

 お盆が終わった。父が張りきることもあって、今もお正月とお盆は大騒ぎになる。家庭内の儀式や行事めいたことは嫌いではないし、お盆は母のことも含めいろんなことを考えさせられるし、できるだけのことはしたいと思う。でも三日間精進料理を供えるのはけっこうたいへんだ。わあわあ言うだけで父はつくらないし、あれこれきつく指図するわりには、献立も、やり方もきちんと聞くとわからない。かつての自分の体験した実家のお盆の喜びや格式やを漠然と心に抱え持っていて、それを今のなかで再現させたがっていて、だから「そうじゃない」とだけははっきり言えても、じゃあどうするかは曖昧なままだ。それでも、父なりの新しい伝統がつくられ、それでぼくらは済ませていく。迎え団子、送り団子、それらにつける白砂糖、小豆あん。野菜や厚揚げの煮つけ、幾種類かの酢の物(アチャラ漬けというのに挑戦しようと思っていたけれど、難しいわりには見栄えしないし、だれも喜びそうにないので中止。だいたい精進料理はどれもそうだろうけれど)、胡麻葛豆腐(これは秋月の葛をいただいていたので、初めてつくってみた。かたすぎたようで、味はいいのだけれど、つるんとした感触はない、まあ、失敗ということだろう。でもしっかり自分にも人にも食べさせた)、野菜の素揚げ(例によって半分は出汁につけ込んで翌日、翌々日に)、おきゅうと、みそ汁、吸い物、ご飯、そうして素麺。そういったものをあれこれこしらえて毎日お供えし、一三日にはお寺に迎えにいき、一五日には送っていく。今年は叔母や、親戚の初盆があったし、友人が四国から会いに来てくれたので、それも重なって、大わらわだった。珍しく、兄たち一家も一三日に夕食に来た。
 その叔母の残した「思い出」を従兄弟がプリントして、お盆のお参りのお返しと共に配った。四二歳で亡くなった祖母のことや祖父のこと、戦争で亡くなった叔父のこともでてくる。母のことも少し。叔母が生まれた大正三年から始まり、祖母の亡くなった年、昭和七年までで中断している。家族のことや祖父の仕事や事業のことだけでなく、お菓子のこと映画のこともあってひろがりもある。叔母が後半を書かなかったのか、紛失したのか、残念だ。会うことのなかった祖母や叔父のこと、そして何より母のことをもっと聞きたかった。
 お盆のあれこれのための買い物は父と分担してやった。父は買い物にはちょっとマニアックなところがあって、近所のスーパーのチラシを必ず見ている。そうして特別価格の時に、買おうとする。そういうのはだいたい限定一個とか二個で、いつも食べる素麺「揖保の糸」は限定一個。そういうときは、わざわざ二度レジに行って、二個買ってくる。最近編み出した手は、「隣に頼まれた」といって別会計で二個買うというもの。一〇円安いとか、五円高いとか聞かされるのはたまったものではないけれど、こういう話はなんかおかしくて、聞いてても楽しい気持ちになれる。父のゲームだ。
 菜園は夏野菜の終わりと、炎天の水不足ですっかり干上がってしまった。それでも一三日にはトマト少々、オクラ一個、一五日にはトマト少々、ゴーヤ一本、ピーマン四個が採れた。さっそくお供えと夕食と、遠来の友人への馳走とに使う。野菜の素揚げ、ゴーヤと豚のチャンプルー(一五日の夜で、精進あけ)、ちょっと貧相な菜園サラダにかわる。四国からの和泉君に会うのはたぶん八年ぶりくらい、お互いすっかりかわっていて、だからお互いのなかに残る同じ口調や、ある種のやさしさがかえって異様に思えたりする。まじめで、でもあまりつきつめずに、じっくりと生活人している彼に、かつてのことへのセンティメントも今の現実もうまくは伝えられない。ぼくは自分で選んでそして掴んだ、それはそうせざるおえなかったといっても同じだろうけれど、今と自分のいる場を手放さずに、ぎりぎりと歩を進めるしかない。だれが正しいというようなことでなくて。

 

菜園便り一六②
八月一八日 快晴 「しゅもく鮫のでてきた日」

 あいかわらず暑い日が続いている。それでも、秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・で、風はもう秋です、と言いたいところだけど、なんのなんの風も熱風、日射しも傾いたぶん家の中にも、夕暮れちかくも横から射し込んで、どこまでも真夏。空も、鮫まででる海のうえに真っ白な入道雲や積雲が浮いたまま。
 友人が四国から久しぶりに会いにきてくれたので、今年は何年かぶりに家の前の海で泳いだ。沖をしゅもく鮫が集団で回遊し、このあたりはちょっとしたパニックになっていて、ちょうどその日から遊泳禁止がでたので他に泳ぐ人もいなくて気持ちのいい一時間だった。ちょっと泳いではぷかぷか浮いて、「海はぬるい温泉みたいだ」「しかもこんなに広い」などどらちもあかぬことをしゃべっては空をぼおっと見ていた。
 友遠方より来る、それも十年ぶりに、といったことがどういうことか、なかなか語るのは難しい。もちろん喜び、懐かしさ、と、でもどこかにどうしても生まれる齟齬。脳天気にかつての思いでだけを語り合えばいいのだろうけれど、でもそのかつてはもう遠すぎて、すでに記憶から抜け落ちてしまってもいて、残っているのはとても鮮やかに感じていたその印象だけ。だから互いに思うことはすれちがい続ける。「現在」は、もっと遠い。互いの生活や思索は光年の隔たりのなかにある。それでも互いのなかに残る口調や目尻の笑いをたどりながら、しばし旧交は温められる。心づくしの料理、下げてきてくれた酒。
 うまく思いが伝わらないことは哀しみではない。それを残念に思ってしまう自分のあいかわらずの希求する気持ちや湧いてくる問いが煩わしい。酒を酌み交わし、ことばを重ね、思いでの店へ繰り出し、自分たちの子どもの世代より若い子がやるスナックでカラオケを歌い(サイモンとガーファンクル吉田拓郎ときている)、静かに珈琲を啜り、また酒をのんで、酔った勢いで夜光虫の光る暗い海にはいって、肩を滑る黄緑色の光と共に泳いで、それでいいではないか、充分というにもお釣りがくる。
 でもどうしても残る舌の上のかすかな苦いもの、うっとどこかがうめいてしまう、手つかずの奥深い柔らかさへの痛み、それはどうやって流せばいいのか。センティメントにすら関わらないかのように、にこやかに笑って、現在の世界をるると語る友の語調は乱れもなく、全ては十全な球体の、確認済みの箱庭におさまっている。
 テーブルの上の食べ残しが、すでに朝の熱気の中で饐えた匂いを放ち、グラスに残る南の酒から立ち上る匠気が、うんざりする一日の長さを告げる。黙劇のような動作で、片づけては階下へ運ぶことをくり返しながら、短かった夜の、白々とした夢を反芻する。休暇を半日残して帰宅したい友へ、早い朝食をだして、あとはがらがらのバスが海岸通りを去っていくのを見送る。たぶん着いたという電話がお礼と共にはいるだろう。しっかりした奥さんもひとことを添えるだろう。それは喜びである。それは憎悪である。こんな静かな嘘をつくためにぼくらはあてもないまま、こんなにも遠くまではるばるやってきたのだろうか。そういう「生活」なら、生きることすらなくても、やすやすとわかっていたのだったろうに。手を伸ばしても掴めない、なにもかも、ただ自分の今をじっと凝視する。

 

菜園便り一七
八月二一日

 今日、お盆の飾りつけの片づけを父とやった。父によると、お盆は二〇日まで。かつては各町内で順繰りに盆踊りが続けられ、二〇日に最後の盆踊りがあったそうだ。下げる提灯一対、畳に置くもの一対、仏壇の八方一対、菓子台一対を片づけて、箱にしまう。外の提灯と三日間の食べ物のお供えの器は一六日にすでにしまってある。お菓子や花や、供えてあるものの大半もおろす。食べれるものはいただき、捨てるものは処理する。
 「私設」ヴィデオ・ライブラリーの友人に借りていたヴィデ・オテープを送り返す。今回は先方で見繕ってくれたもので、「欲望の法則」「惜春鳥」「きらきら光る」など。ほとんどが初めてのもので、特に木下恵介の「惜春鳥」はその存在すら知らなかった。どれもすごく興味深い。包みを持って郵便局に行った帰り、買い物に行く。もう半分くらいの田圃は稲刈りがすんでいて、早く終わった稲の切り株からはもう新しい芽が伸び始めていて、一〇センチほどにもなっている。すごい生命力だ。これが伸びて十月頃には、短い茎にちゃんと稲穂が実る。うち捨てたまま立ち枯れてしまうそれを毎年見るたびに、あれこれ思ってもしまう。
 田圃のなかの白い道には秋の野の草が溢れていて、指や爪で摘めるものを摘んでくる。さすがに雑草はしぶとくて、なかなかのことでは折ったりちぎったりできない。マコモ、エノコロ(猫じゃらし)、オヒシバ、メヒシバ、イノコズチなどなど(知ったかぶりに書いているけれど、これは図書館から「道ばたの草花図鑑②」というのを借りてきたから)。コップにさして台所のテーブルに置いて眺める、形も色もほんとにみごとだと思う。たぶん、それが住んでいる地域の草であり、自分で摘んできたからであり、さらには子どもの頃の思いでがぴったり張りついているからでもあるのだろう。植物の色は、海や空の色のようになにかの反映でなく、取り込んだ光をその内側から色彩として、「緑」として放っているようで、だから特別に目に穏やかで、心にしむのかもしれない。水を見つけるのは匂い、植物を見つけるのは色、だろうか。
 マコモはちょうど新聞のコラムにでていて、ワイルドライスというものがマコモの実だったのだとやっとわかることができた。長年ずっと気になっていた疑問が、もう買うことも食べることもなくなった後ふいに解消する。初めて米国に行ったとき、すごくお世話になったバーベロ夫妻に連れていってもらって友人宅で、初めて食べて、そのおいしさや不思議さ、ライス(米)ということばへの違和感をもったのが始まりだった。そうして「とっても珍しくて、高いのよ」とバーベロ夫人にしっかり教えられて、心して食べたことも忘れられない。それは75年頃のことで、八〇年代に入っても、このワイルドライスとピーカンナッツだけは日本では手に入らなくて、米国からのお土産に頼んだりしていた。茹でて、さっとバターで炒めたりして食べるのだけれど、味は米よりは、茹でた蕎麦の実なんかにちかい。懐かしい名前、懐かしい味。日本のマコモ多年草でほとんど結実しないらしい。
 台風がそれ、ほんとにほっとしたけれど、期待していた雨もそれてしまった。乾ききった菜園からはそれでもまだしっかり収穫が届く。一八日、トマト、イタリアンパセリルッコラ、青紫蘇、バジル少々(水不足だろうどれも堅め)、ピーマン四個。ピーマンとトマトはまだもう少し続きそう。
    


菜園便り一八
八月三一日

 季節はいつも、ある日不意打ちのようにことりと移る。窓を開け放っていても暑苦しい夜の後に、ふいに秋の宵がくる。昼間の日射しはかっきりとまだ強いけれど、日が沈むとすっと寂しくなるような涼しさがはいってくる。風の抜ける部屋では、足下がうすざむくさえある。まだ虫は鳴かないけれど、九月の声をきく前に、季節はぐっと場所を移したようだ。Tシャツ一枚でいられるのはいつまでだろう。
 菜園は元気に葉だけ繁らせている茄子を除いて(たぶん実は生らないと思う)ほぼ終わりになったけれど、ここにきて小粒のピーマンがたくさんできている。オクラの花がひとつ咲いていたから、もう1個採れるかもしれない。友人から問われたハヤト瓜はまだ目につかない。今年あらためて苗を植えたわけではないので、実が生るかどうかはわからないと父は言っている。二二日、トマト少々、ピーマン二個、ゴーヤ一個、青紫蘇少々、ルッコラ少々。二七日、トマト少々、ピーマン四個、青紫蘇少々、ルッコラ少々。三一日、トマト少々、ピーマン四個、イタリアンパセリ少々。
 あまり集中して考えたり書いたりできなくて、本も手にするのが少々億劫で、だから映画やヴィデオを見る機会が多くなる。先週は図書館ホールでインドのサタジット・レイの「大地の歌」を見た。長い間ずっと気になっていたのを、やっと見ることができた。資料を読むと一九五五年の映画とあって、びっくりした、そんなに前の映画だったとは。こわいほどリアルに、どろっとした手触りも生々しいインドの森や風景が続き、そのなかを生きる姉弟の、生命の核そのものような自由さ柔軟さ、直截な屈折や輝きに圧倒される。姉の死をきっかけに一瞬にしてかげる弟の瞳、その奥行き、一晩で彼は大人の表情へと変貌する。とめどない歌、放埒なまでの笑顔、澄みきった喜び、大地そのものに抱きかかえられていた時は終わる。喪われた輝きはもう2度と戻らない。姉への、暖かさへの、勁さへの、甘やかさへの、具体を伴った憧憬は不意に中断されて、彼のなかに強引に深く閉ざされる、見えない巨きな石に封印される。そんなにも大きく重く苦いものを呑み込むことで、自身にすら届かない果てのない井戸を掘ってしまい、そうしてそれを封印するという転倒、逆説。
 どうしてこんなにも個のことがらが世界の(風景の)ことがらとしてぴったり重なって語れるのだろう。個と世界が通底しあう、そのままで地続きであることが、風景のまだ生きている共同体での在り方だからであり、それは掟であり同時に無限の自由、自由という概念のない自由でもあったのだろうから。
 同じ日にもう一本「ディスタンス」というのを見ようと計画していたけれど、さすがにそれは無理で、貘で写真展を見たあと珈琲を飲んで居座ってしまった。一度座ってしまうとお尻がほんとに重くなって困る。たぶんあちこちで長居して迷惑をかけているのだろう。
 久しぶりの遠来の友のこと、一〇数年ぶりに不意に電話がかかってきたかつての知り合いのこと、それやこれやをいろいろ考え思い煩ってしまう。そういうことが重なる時期であり、年齢なのかもしれない。思わず激しいことばが口をついたりもする。こういったことを知らされるために、受け入れるために、こんなにも遠くまで来たのだろうかと。それももちろんどこかに幼いヒロイズムの匂いを残した感傷のひとつであり、そうしてそれは、ここまでは来ることができた、ということと全く同じことなのだけれど。でもやはりどうしても譲れないものがどこまでも残ってしまう。

 

菜園便り一九
九月一二日

 しのぎやすい日が続いた後の暑さはまた格別で、この夏いちばんの暑さだと思ったりもする。たった二、三日で、人はすっかり体感も気構えもかえてしまう。それがこの移ろいやすい世界を生きていく術なのだろうけれど、それもまたすごい、と思ってしまう。
 そうしてその暑い日の後にはまた涼しい日がきて、とうとう夜にはTシャツだけでは過ごせなくなった。確実に季節は移り、虫が鳴きだし、ヒグラシも朝から騒ぎ、海には鴎の群が戻ってき、千鳥も見かけるようになった。波は荒くうねってどうとうち寄せ、波表のぎらつきは消え、海の色もくっきりとした水の透明感はうすれ、変わっていく空を映して淡く緑がかってくる。
 部屋のすぐ横の道路工事がまだ続いていて、コンクリートの土管に穴をあける作業の音は耐え難い。諦めて、洗濯や掃除やをするしかない。書いたり読んだりはやはり狭い自室の机の上がいちばん集中できる。よく、こんなに広くて部屋もあるのに四畳半に机もヴィデオもオーディオも本も置いて寝起きまでするんですか? と聞かれて、答えに窮することがある。たしかにそうだ。せめて寝室だけでも他にすればいい、と思うことはあるし、パソコン関係だけでもどこかに移そうかとも。でも、じっさい、きちんと使える部屋がないことやめんどくささやでそのままになり、何でもすぐ手の届くところで、気に入ったCDを聴きながら作業するのが、貧乏性にはあっているようだ。学生の頃最初に独りで住むようになった部屋は、なんと三畳半だった。それからすれば進歩だ。
 机は海に向いている。緑繁る庭の植木の向こう、海岸通りをはさんで広がっている。遠浅で穏やかな海だし、沖には島や砂嘴博多湾のさらに向こうの山並みも見えるから、茫漠とした海とか荒々しい玄界灘と言った趣はない。静かな湖のような海だ。それでも台風の時は道路の岸壁に波がすごい高さまで打ちつける。翌日、庭の植木はみごとに海側の半分を茶色に変色させられ、茂みや草花は潮で無惨に枯れてしまう。赤茶色の広がりはいかにも死に絶えたという様相でかなり酷たらしくあり、その度にふだんは寡黙な母があれこれ言うのもわかる気がした。そういう海を、窓の簾越しに見ている。もうじきこの簾も外せるようになる。緑がじかに目に入ってくる、低くなった光が部屋のなかまで入ってくる。それは喜び、そうして小さな哀しみ。
 菜園の夏は終了。プランターに別植えされたルッコラと、庭の隅のピーマンと唐辛子の収穫が残っているだけ。ほんとにどっさりの野菜と喜びをもたらしてくれた。何よりも父に感謝。そうしてあれこれの種や苗を分けてくれた友人や近所の人、もらってくれ、食べて楽しんでくれた人にも(野菜は集中してどっとできるものが多いので、必ず配れる相手を確保しておくことというのも、野菜作りのこつらしい。でないと採れすぎて腐らせたり食べ飽きたりで嫌になることもあるようだ)。幸い、余って困ったり、嫌になったりもせず、ゴーヤは少しは保存もできた。採れたての野菜は、何度も言っているようだけれど、ほんとにみずみずしくてかりかりっとしておいしい。野菜のあまみというのは改良された果実のような、刺激の強い甘みでなく、全体でやっと届くといったような、静かに遠くから伝わってくるといったかんじだ。新鮮だから、皮の固さもまだ中身と一体となっていて気にならない。トマトなんかは皮の独特の甘みも楽しみのひとつになる。
 父は近々大根を植えると言ってくれている。たぶん定番のほうれん草や春菊もだろう。寒さはほんとに嫌だけれど、庭の野菜を使った鍋は待ち遠しい。友人たちの、来年は是非ズッキーニを植えてねとか、ハヤト瓜もとかいう声もある。ぼくもまた期待にわくわくする。ピーマンは減らして、南瓜やオクラは止めて、ゴーヤを増やしてなどなど。いく枝か玄関脇にいい加減にさしていたハーブのうち、レモンバームが生き残った。あの暑さをのりきり、すごい生命力だ。鉢のローズマリー、イタリア種のルッコラも順調、来年は地面に植え替えようか。
 涼しくなり気候も穏やかな静かさをとりもどすと、澄んだ空気のなかであれこれの問題や悩みがスッと浮上してくる。つめて考えなければならないこと、集中してまとめなければならないこと、そういう先延ばしにしてきたことが、夏の宿題のようにばさりと目の前に広げられる。

 

菜園便り二〇
九月二〇日 晴れ

 我が家の菜園の終わりにかわるように、どっさり野菜をいただいた。千鶴子さんの実家、朝倉のお母さんがつくられたもので、茄子、ゴーヤ、韮、分葱、里芋、薩摩芋それに柿も。もう薩摩芋が採れるのにも驚いたし、どの野菜もいかにも自家用につくられたといったかんじで、手のひらになじみ、土もついて採れたばかりの柔らかさがあった。
 さっそく韮と玉子炒め、茄子と茗荷の即席和え、茄子のトマトソース煮(このためにバタバタとソースをつくったけれど、炒めたセロリやタマネギ、トマトを漉さないでミキサーで砕いてソースのなかにとかし込んだけど、悪くない)、ゴーヤと豚肉のチャンプルー、保存用のゴーヤのカリカリ漬け、みそ汁に分葱をいれ、薩摩芋は昼食として食べた(これは冬の昼食の定番のひとつ)。それでもまだまだあって、芹野さんにも少しお裾分けし、日持ちするものは東京の森さんにヴィデオのお礼もかねて送る。
 野菜は夏は生や即席漬けで食べることが多いけれど、そういう時に、つくり置いておいた梅醤油や梅酢が役にたってくれる。それだけをかけてもいいし、オリーブオイルやごま油、芥子を混ぜてドレッシングをつくってもいいし。酸味はさっぱりとして食欲を増してくれるし、食後も胃にもたれない。
 まだ菜園でもルッコラ、バジル、イタリアンパセリは少しずつ収穫できるし、ピーマンと唐辛子はまとめて採ってきた。乾燥させれば一年は保つだろう。父が胡瓜、ゴーヤ、トマトを全部抜いて灰や肥料を入れてくれ、四畝が冬の準備に入った。背丈ほども伸びて藪になっていたイタリア土産の野菜も新しく生えてきた小さい株だけを残して刈り取った。父はあちこちの畑などの状況を見てきて、どこそこではもう大根も芽が出てるとか、薩摩芋の茎と葉が異様に大きいのがあるとか知らせてくれる(ついでに茎を少々失敬してきている。これは明日のみそ汁にはいるのだろう)。中垣さんの娘さんの畑では薩摩芋ができ、白菜も芽を出したとのこと。冬へと向かっていろんなことがまっしぐらに進んでいく。振り捨てられるもの、だいじに抱え運ばれるもの、そっと土のなかにしまわれること、さりげなく通り過ぎられて喪われること、いつまでも剥きだしでとびだしているもの、まるで永遠にそこにあり続けたかのようにごろんところがっているもの。
 夜はもう完璧に秋になったけれど、日中はうす寒い日と三〇度になる暑い日が交互にあってめまぐるしい。芙蓉はまだ咲いていて切り花にできないのが残念だけれど、その下には水引草が咲き始め、いっぽうでは向日葵もまだまだ続いている。秋の百合は中途半端に終わり、菊はまだ姿を見せない。ローズマリーも薄水色の花をつけ、化粧花は夕方にはまだ匂っているし、ゼラニウムも気まぐれに咲いたり消えたりしている。それらの隙間に名前も知らないいろんな草花がおい茂っている。

 

菜園便り二一
九月二二日晴れ

 強い風の吹いた二一日アジア・フォーカス映画祭のモンゴル映画「ゴビを渡るフィルム」を見に行って、FMF(福岡フィルム・メーカーズ・フィールド)の宮田さんに会った。こういう偶然がしょっちゅうあるから、福岡という街の大きさのちょうどよさにいつもうれしくなる。おまけに映像作家のかわなかのぶひろ氏といっしょで、紹介された後、厚顔にもいっしょについて行って氏が発見した川端の川沿いの五〇年代的な喫茶店(ぽこ)、図書館ホール、そうして西新での福間さんとの呑み会にも参加。さらに最後は福間さんのお宅へお邪魔し、子供さんや、文字どおり生まれたばかりの子猫五匹にも会った。草木がいっぱいの、イチジクも採れるすてきなお宅だった。驚くほど大きなローズマリーもある。悪い癖でついちらっと本棚を覗いたりして、ポールニザンにニヤッとしたり。かわなか氏の仕事での来福にあわせて彼の「私小説」などの上映会も、福間さんたちの手で行われる。
 その強い風のなかを西鉄の最終電車で帰ってくると原口さんからの厚い郵便が届いていた。ぼくが「水平塾のみんなへ」という形でだした問いかけへの応えでもある。とにかく返事がもらえてうれしいし、これからまたいろいろ考え討論していくもとにもなってくれるだろう。当然のことだけれどいろんなことは互いに伝わらないことも多いし、感情的になってしまうこともある。そういうずれをかろうじて決定的な違いとしてしまわないでいけるのは、時間をかけて積み上げてきた関係であり、そこに込められたことばを越えた思いだろう。壊れるときはあっという間、ともいわれるけれど、でもそうそう簡単につながりは切れたり喪われたりはしないものでもある。自分を見ててもそう思うけれど、人はみんななかなかにしぶとい。喪われ消えてしまったように思える関係が、歌のように灰のなかから甦ることもある。憎悪というのも関係である、といったようなレトリックでなく、ほんとにたいせつなものはどこかでたいじに抱え続けられているものだろう、互いに。
 こんなにも遠くまできた、ただうちのめされるためだけに、といった感傷的なまでにパセティクな思いはないけれど、でもことばにはぜずとも、だれもができれば遠くまで行きたいと願っているのはたしかなのだし。

 

菜園便り二二
九月二六日 晴天

 軒下の簾を外した。庭の植木がぐっと伸び上がり、近く、大きく見える。整然としていた遠近が揺らいで、全部がどっとひとかたまりに飛び込んでくる。遠近、大小、緑の濃淡や色彩、そういったぼくらが習得し日頃馴染んでいる距離感が、突然開かれたドアから外を垣間見た瞬間のように一気に崩れ、そうして再度立ち上げられる直前に、餓えていた視線が一息に全てをまるごと取り込んでしまったためだろう、たぶん。見えるということはそういうことだと思う。もちろん樹木や植物それ自体の力、緑という色の力が、つまり光がぼくや世界の枠組みをちょっと揺すったのだろう。遠近、識別、色彩感覚、そういった肉体機能、「本能」と思われているようなものも、創られたものでしかないこと、それもかなり狭い時代や場所内での約束事でしかないと思い知らされる。
 見ること、見えること、知覚や認識の不思議さ曖昧さを、図書館ホールが開催した「カメラマン田村正毅特集」のパンフレットにもどうにか書こうとしたけれど、ほんとに難しい。ひとこと、観念を、つまりそういう見え方を共同で立ち上げて、その反映をいっしんに浴びているんだといってみても、誰もがそうだね、といった返答をすることぐらいしかできない。知覚がそうである以上、ましてや「知」やそれが生みだす「文化」はまさに観念そのものの組立でしかないし、その上にたつ民族や国家という概念が空疎なのはいうまでもない。そうしてそれは空疎であればあるほど、真空のようにその内へ人を引きずり込む異様なまでの力を持っている。そうして人は常に全体の(隣人の)動向を無意識のうちに伺いつつ、同調しつつ生きているから、素早く気分を察知して瞬時に自身を取り込ませてもいくのだろう、積極的に。だれにも身に覚えのある、目を開けていられないように底なしに恐くてでも放棄しきって麻痺した恍惚とする感覚だろう。

 

菜園便り二三
一〇月一日

 とうとう十月になった。今夜は十五夜、父が柴を刈りに行ったついでにススキを一群採ってきてくれた(でも「山に柴刈りに」なんておとぎ話のなかにしか生息しないことだと思っていた、つい最近まで。でもこの柴は薪でなく、神棚に供える常緑樹の柴)。月は冷たく澄んで、玄関の床にかたいくっきりした光を投げている。明るすぎて気持ちがざわざわする。
 昨日のまる一日続いた雨で、大根はもう芽を出した、すごい。ほうれん草は種が古かったらしく、芽を出さないと父はこぼしている。庭のピーマンは青も赤も黄色もみんな元気でまだ実り続けている。唐辛子は全部摘んだら、また青いのがでてきたし、茄子もここにきて、短い茎を生き生きさせている。ルッコライタリアンパセリ、バジルもかわらずに少しずつ摘め、青紫蘇も先の柔らかい部分はまだまだ食べられる。初めてレモンバームの葉を採って、アイスティーにいれてだす、すごく強い香りだった。喜びは続いている。
 本村さんに茗荷をどっさりいただいた。採りに行きますといっておきながら、結局、彼女の近所の千鶴子さんに持ってきてもらった、申し訳ないけれどでもおいしい、うれしい。西田さんや、ビールとカボスを届けてくれた妹にもお裾分けをする。是非もう一回採りに行って、冬のための酢漬けもつくりたい。菜園の秋茄子を初めて採って塩もみにしてお昼の素麺といっしょに食べた。皮がかためで、でもそこに甘みがあって噛むほどに味わい深く、美味。涼しくなってまたなり始めた秋の茄子は、細めで短く、触ったり切ったりしたときのあのスポンジのようなふわふわ感がなく、引き締まって詰まっていて、切るときもさりっさりっといったふう。気のせいか色も紺が深まったようだ。
 偶然にも同じ日に父が知り合いの畑から、茄子と分葱をもらってきてくれた。ほっそりとして、鮮やかな茄子と、きついほどの香りのたつぱりっとした分葱。葱はさっそく茹でてしばって、幸枝さんにいただいた梅味噌であえていただく、歯の間できしきしと鳴っておいしい。余田さんにも広島からわざわざ買ってきてくれたパンのお土産のお返しに少しお裾分け。
 野菜が周り廻っていくのはなんかうれしいし、すてきだ。収穫を楽しみ喜び、じっくり味わい、その気持ちをだれかにあげたり、またいただいたり、あれこれ調理したり、漬け込んだり、遠くに送ったり、送られてきたり。
 今日は珍しく人の訪れが多かった。美術展に使うために草野貴世さんが障子をとりにみえ(だからぼくの部屋に今障子はない)、石津まちこさんがお盆のお礼にみえ(久しぶりに珈琲をのんで話せた)、余田さんがレッスンにみえ(イタリア行きは中止になったとのこと)、電話も森山さん、西さんからあった(やっと森山さんの個展のパンフ原稿を送ることができてほっとする)。宮田さんと貘の小田さんから封書が届き、ユマニテから案内が届いた。こうやって静かに着実に秋は深まり、季節は移ろい、人は死んでいく・・・ではなく人は黙していく(ほんとに?)。

 

菜園便り二四
一〇月九日

 札幌にいる姉が父に会いに一週間ほど来てくれた。恒例の庭での月見・誕生会をその時期にあわせてくれたので、姉もいっしょに楽しむことができた(芹野さん、渡辺さん、それに飛び入り誕生の友池さんが、やさしく賢い天秤座だった)。かなり遅くなってあがってきた少し欠けた月は、さすがこの時期の冴えわったった光を放っていて、自分の後ろのくっきりした影を意識させられたりもする。
 姉が来てくれる度にいつも思うけれどほんとに家事の手際がいいし、すごい量をさっとこなしてしまう、特に洗濯や掃除。今回もあれこれやってくれたうえに、もう何年も気になっていた2階の部屋の障子の張り替えもやってくれた。手伝っていてもそのスピードに圧倒されて、おたおたしてしまう。「家事」は奥が深い、実に・・・・。
 そうしていつものことだけれど、姉が帰った後は気抜けしたようにがらんとした家になってしまう。秋の強い風が吹いて、いっそう寒々しい。でもそういうことはたぶん一日で慣れることができる。何かが決定的に喪われるということとは全くちがう、あたりまえだけれど。姉がいる間は、客も多い。兄や妹が家族連れで来るし、従兄弟も孫を連れて来てくれた。
 新しくなった真っ白い障子に、まだまだ強い日射しが反映して、体が包まれて浮き上がるようでうっとりする。家中全部の障子とカーテンを新しくしたらすごいだろうと一瞬考えたりするけれど、そういう過激なことは思わない方がいい。過剰な期待は現在への(現実への)憎悪をつのらせてしまう。強い風のなか高く揺れる咲き残った芙蓉の花やその細い枝、椿の光る葉を見ているだけで、充分というものだ。根本には水引草さえ群れている。
 父は散歩の帰りに野草を摘んできてくれる。見たことはあるが名前は知らないものばかり。ぼくも買い物の帰りに白爪草を摘んできた。春の花だと思っていたから、戸惑う。遅いのか早いのか。宮沢賢治の「ポラーノの広場」にも重要な役割ででてくるけれど、あれは季節はいつだったろう。彼の作品には動物も植物もたくさんでてくる。よく、いちばん好きな映画は?とか、いちばんいいと思う協奏曲は?とかいう質問があって、応えるのはほとんど不可能だけれど、賢治の作品で何がいちばん好きか?というのも難しい質問だ。好きなものが多すぎることもあるけれど、丁寧にうまく答えないと全くの誤解を生んでしまうような気がする。彼の作品は深読みしすぎても教科書的に読んでも、失敗する。宮沢賢治の表現は、すごく素直に、書かれたまま、ことばそのままに受け取ればいいのだろう(例えば「春と修羅」序文のあの有名な「わたしという現象は・・・・」というのは、わたしがかくとした不滅な現存でなく、「因果交流電燈のひとつの青い照明」でしかない、仮象の現れでしかないということ、「歴史」や関係の網の目のなかで、そういうふうにその時代の現在のなかに現前しているだけだというようなこととかも)。でもそれをどうとるか、どう考えるかは人によってかなりちがってしまう。
 二〇代の頃は「グスコーブドリの伝記」やその異稿「ペンペンペンネネムの伝記(ほんとは「ペンネンネンネン・ネネムの伝記」だった)」、「北守将軍と三人兄弟の医者」などが奇妙で不思議な異郷性があって好きだった。どこでもないどこか、でもノスタルジアに満ちた場。黒テントが小集団で(たしか、紅いキャベレーとかいった)上演していたことも影響していたと思う。
 今もすごく好きな作品のなかに「ひかりのすあし」がある。このことは人にはちょっと言いづらい。読めば泣くしかないので、あまり手にも取れない。あれにも同じような似た作品がある。たしか子どもが救われるもの(文庫版の賢治全集は揃えていたけれど、五巻、六巻が見あたらなくて、たしかめられない。たぶんデトロイトに置いてきてしまったのだろう)。彼にはいろんな草稿や異稿と呼ばれるものがあって、完成されないままとも思われているけれど、でも彼はどこかで、全体で表現だと考えているようなところもあり、ふつうの意味での作品の完成という概念をずらしてしまっているようにも思われる。だから文体としてもうまくてすごくまとまりのいい「セロ弾きのゴーシュ」より、曖昧な「銀河鉄道の夜」のほうが不可思議さやその奥の暗さがあって、細かい部分に躓きつつも、いつまでも気にかかってしまうのだろう。

 

菜園便り二五
一〇月一八日

 昨日の朝、水を冷たいと感じた。二日続いた雨のした、夜は冷え冷えとして、なにかたまらずフリースまで着て茫然としていた。もう、初冬か!? こんなだと一年の半分が冬だ、いくらなんでもそれはひどい。でも、確実に冷たさは押し寄せてきていて、昼間の暑いほどの日射しも、影になる背中には薄ら寒い空気の動きが感じられる。戻ってきた鴎が群れている海岸を、セーターを着てずっと歩いても汗ばみさえしない。夕日は巨大なオレンジ色で、見てる間にするすると沈んでいく。後に残る一捌けの雲にかすかな夕焼けが反映している。光線は低く長く、白っぽく透明になる。
 そんな冬の前兆のなか、秋植えの野菜がもう収穫できるようになった。月曜日にレタスをどっさり摘む。久しぶりに「どっさり」の文字。緑、紅、丸くなるタイプと三種あり、どれも勢いがいい。大根のはざびき(間引き)も始まった。朝のみそ汁に、柔らかくておいしい。ほうれん草以外は、葉ものも順調に伸びている。夏のピーマンと唐辛子、それに茄子もまだまだなり続けてくれている。緑のピーマンは炒め物や揚げ物、肉厚の黄色や赤はサラダに。ルッコライタリアンパセリ、バジルもまだ時々摘める。雨が多いせいか、二年越しのイタリア種の鉢植えのルッコラはぐんぐん葉を広げている。いろんな楽しみが続く。
 頂き物も多い。千鶴子さんから、また朝倉のお母さんの野菜をどっさりいただいた。茄子、分葱、薩摩芋、里芋、ゴーヤ、いんげん、柿。あれこれ料理していただく、定番のゴーヤ・チャンプルー、茄子味噌炒め、素揚げ。茹でただけのいんげんの少しあおくさい甘み、ぬるりとした里芋の感触。昼食に薩摩芋と馬鈴薯を焼いて食べる、ちょっと胸焼けするけれど、あつあつでおいしい。この馬鈴薯は姉が北海道から送ってきてくれたもの、たっぷりバターをのせていただく。
 庭の最後の向日葵を摘んできてコップにさす。カンナの大きいのが残っていて、それも切ってくる。菊はまだかたい蕾。雨が続くと、ゼラニウムは花をつけなくなり、かわりに植木の下の雑草がいっせいに小さな花をつけては慌ただしく散っていく。かろうじて孵化した最後の小さな蚊が狂ったようにキンキン羽根をならして顔の周りを飛び回る。刺したところで、もう繁殖には間に合わないだろうに。ゴキブリや小蠅もこの時期はうるさい、必死な様相をしている。
 宮沢賢治のことを少し書いたら、返事があった。作品集(彼の生前に出版した唯一の童話集だ)「注文の多い料理店」の序文を全文書き写して送ってくれた。その行為自体に、軽い目眩のような小さなショックを受けた。そういうゆっくりとした時間の取り方、リズム、そういうまどろこしさを厭わない落ち着き、それが賢治の作品を読むときに必要だともわかる。簡単なことばだし、短いから、さっさと読めばあっという間に終わる、意味も取れる、「なーんだ」ぐらいでもう次のページに移る、ぱっぱと捲って終わり、「それで?」。そういう読み方ではおそらくなにも伝わってこない。
 「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃色のうつくしい朝の日光をのむことができます。・・・・・」ぼくに書き写せるのはここまでだった。次の文章を素直に写せなかったり、メールの文章をコピーすれば一発でできると思ったり、書き写すことで自分を賢治を使って底上げしているような気になって、できなくなる。静かなゆったりとした気持ちで、ひとつひとつのことばを、音を、手のひらに載せてながめ、唇にのせるようなそんなゆとりがない。どこかあくせくと落ち着かなさに追いかけられる、こんなに暇にしているのに。
 「ひかりのすあし」と対になっている作品のことも教えてくれた、「水仙月の四日」。その最後はこうだ、「そして毛皮の人は一生けん命走ってきました。」これは赤い毛布(ケット)で雪に埋もれている子どものお父さんのこと、そうして男の子は雪の下だ、たぶん死んではいない。吹雪が終わり、雪の上のギラギラした日の光を浴びて、どこもかしこも輝き光り満ち、雪の下に横たわって細く小さく息しながら眠る子と、かんじきで必死に急ぐ父と。遠い小さな雪煙、低い風の音、微かな狼の声。

 

菜園便り二六
一〇月二六日

 朝、電話があったせいかもしれない。午前中元気がよくて、久しぶりにフリー・ジャズをかけた。コルトレーン。といっても「至上の愛」とかでなくて、もっとやわらかめのもの。それでもやっぱりフリーしていて、それを、もっとくずせ、がんがんやれ、みたいにちょっと興奮して聴いた。ふだんは最初の一音で、あ、だめだ、ときってしまうことも多いのだけれど。
 ジャズのレコードやCDは少ない、あわせて三〇枚あるかないか。キースジャレットやチック・コリアビル・エヴァンスそれにビリー・ホリデイだけが複数枚あるぐらいのさみしさ。そういったなか、ジョン・コルトレーンだけは、゛燦然と輝いて高みに君臨して゛いる。コルトレーンの隠れ熱狂的ファンの鈴木君が、テープに五本(エリック・ドルフィーも含め)もダビングしてくれたもの。ハードなものから(それがほとんどだけれど)静かでせつせつとしたバラードっぽいのを集めたものまである。ちょっとすごい。でもやっぱりそんなに頻繁には聴けない。ふだんはキース・ジャレットの「The melody at night with you」とかビル・エヴァンスの「自己との対話」、チック・コリアのソロとかを聴き流すばかりになってしまう。
 宮沢賢治のことを書いたらいくつも返事があった、さすがだ(ぼくの書いたものへの「反響」としては前代未聞だ)。「風の又三郎」が好きだと教えてくれたのは宮田さん。「下の娘が生まれたての頃、風がほほをなぜていった時、風の行った先へ目線を動かしたのが、私にはとても大きな発見でした。まるで風の女神の触手が見えたかのように。」
 不思議な気がするけれど、賢治の作品の゛学校の同級生もの(風の又三郎銀河鉄道の夜)゛はどこか暗くてさみしい。ふつうはこういう学校ものは元気だし、切ないくらい友情が濃く、甘やかな感傷と凛とした潔さがあり、結局だれもが成長して別れていく、過ぎ去っていく。でも彼のはどこまでもどこまでも、いなくなっても続いていき、でも現象としては死に、去り、決定的に喪われるものとしてある。その落差に読むものが引き裂かれる。どちらにもなれない、どちらもが両方同時にある、喪われることと永久につながっていることと。それは、人が現在の世界のなかで生きて生活していくなかでかかえていくには重たすぎ、辛すぎるものだ。永遠の歓喜や無限の闇に耐え得ないように。だから少し大人のさりげなくやさしくさみしい「ポラーノの広場」なんかが落ち着いて読めるのかもしれない。遠く去った時と場所をどこかで追憶するものとして。しかもあれには「姉」もでてくる。けして具象化しない、永遠の、しかも母のように巨大すぎたり圧倒したりすることのない、やさしさとして。健気ででも美しい陰りがあって、弟がいて。
 森さんからもメールがきた。彼はぼくのいうなればクラシック音楽のお師匠さんで、ほとんど全部を教わったし、仕事も山のようにくれたし、パバロッティ、キリテ・カナワ、ラド・ルプー、リン・ハレル、ギドン・クレーメル、ヨーヨーマ、スターン、アンドラーシュ・シフ、ラ・ローチャ、チョン・キョンファなどなどを聴かせてくれたし、ホグウッド、ショルティアシュケナージ、ドュトワ、ホルヘ・ボレットなどと仕事で食事できたりしたのも全部彼のおかげだし、あの三〇〇枚を越すCDも全部そうなんだけれど、やっぱりというかさすがというか、賢治とブラームスがつなげてあった。「(賢治は)とても個人的な、マイナーな人だったような気もします。宮沢賢治の事を思い出すとどういうわけだかブラームスの音楽が聴きたくなります。ブラームスもとても内向的でいて、あのようなほとばしるロマンを秘めていた人でした」。
 賢治のロマンティシズムはみんななかなか語らないし、たしかに扱いかねる。ぼくもときには視れなくなる、とくにどこかでふっと感じるエロティシズムやどこまでも暗い陰りに。作品のなかで、元気にどこまでもひとりでずんずん歩いていく姿の時などにそれはすっと現れたりする。初期短編に繰り返される、父との離反と抱擁にはさっと後ろを向いて逃げ出したくなる。もちろんそれはぼくのなかで増幅されてそうなるのだろうけれど。
 それから月の明るい夜に、亀井久美子さんがお皿を受け取りがてら、寄ってくれた。ちょうど部屋に賢治全集がでたままになっていて、あれこれ話した。彼女の好きな作品は「雪渡り」。兄妹が狐の学校の幻灯会に招かれる話しで、堅雪かんこ、凍み雪しんこという囃子ことばと、キック、キック、トントンというオノマトペというか擬音が繰り返される。「読むと泣けてしまうのよ」と言われて、ついいろいろ推測したり、フロイドしたりしてしまう。賢治の作品は、読む人それぞれの「心」の様々な部位に全くちがう形で度合いで触れてくるから、何故?と問うことからはほとんど何も見えてこない。でもふっと全部わかったりするという、奇跡のようなこともあったりする。「知」じゃないから、「全て」が含まれているからだろう。

 一九日に従兄弟が亡くなった。五三歳。年も育った場所も近かったし、親しい親族のひとりだったっから、あれこれ思わずにはいられない。ぼくよりも兄のほうがもっとずっと堪えているようだ。叔母が亡くなったのが七月だから、直接の家族はほんとにたいへんだと思う。まだあれこれのやらなければならないことも多いだろうし、その後もずっと続くものだし。
 別離や決定的な喪失である死に曝されるとき、やはり「存る(アル)」ということを考えてしまう。実在する、形がある、生きている、といったことの意味。ものも人も現前して存るように見えているものは、それは存ることを前提とするから、つまり存るとして今の世界像(世界観といってもいいのだろうけれど)を共同で立ちげているから、存るので、それは一種のトートロジー(同義反復)でしかない、存るから存るといった。絶対存在としての、先験的なものとしての具体・世界があるのかという問いでもあるだろう(例えば存るとしてみたとして、それをこういう形で認識しているということへの問いとしても問えるものだ)。そこを少しでもずらして感じ、考えられれば、当然のように世界像の全体が変化し、根源的にちがって感じられ、見えてくるだろうし、そこでは生と死や個、それに人や性別という概念も全くちがってくるのだろう。全ては現在の、今の世界観のなかで生起してその内で感じ、考えられていることでしかないのだし。
 臓器移植が進むなかでだされてきた脳死という概念は、人の生と死の境界の曖昧さを巧みに使いながら強引な一線を引いたけれど、もう少し踏み込めばそもそもどこからが死でどこまでが生か、だれも確として語れないのがはっきりしてくる。それに対して「決定的に喪われるじゃないか」という明解な答えが返ってくるけれど、でもそれは、人、個をどう考えるかで変わらざるをえないものでもある。肉体はもちろん精神も、その個体性は歴然としているし、その境界は絶対的に具現している、確実にあるというのも、ひとつの現在の世界の認識の形、概念でしかない。ほんとにそうなのだろうか?わたくしは、個は、決定的なまでに自立し独立し=疎外されているのだろうか?具体として、分離しているのだろうか?それは現在という世界のある現象をある面から見ているから、そう見えるだけではないのか?こういうときすぐ現れるのが実証主義的な反論で、その根拠には近代の自然科学が多いに援用されるけれど、それはもう反論するまでもなく、ひとつの超観念といってもいいくらいの異様に肥大したある発想の極端な徹底化でしかない。
 こういうことを語ろうとするとどうしても性急でことば足らずになる。今日の標語、「時間をかけてゆっくりと」
 菜園からは四、五日おきにどっさりのレタスが採れ、大根や蕪、ラディッシュが間引きされてくる。ルッコラ、イタリアン・パセリ、バジル、ピーマン、唐辛子それにふつうのパセリも少しずつ続いている。みずみずしいいろんな緑ばかりのかたまりを洗っていると水が色づき、手が染まっていくような気分になる。細くてつるっとした唐辛子の赤が際だつ。菜園のほうれん草は弱々しい葉がひょろりと少し伸びただけだけれど、その横の春菊はひしめき合って育っている。同じ畝の端が余ったからと後から父が蒔いた春菊はまだ芽も出さない、不思議だ。茄子はもう茎自体がくたっとして、全体が茶色っぽくて花はつけるけど実は育たないようだ。寒さが近づいているし、何より日照が短くなったからだろう。レタスも夏のものに較べると、その伸び方が速い。もう芯が立ち始めているのもある。間に合う内に大急ぎで花をつけ「子孫」を残そうとしているのだろうか。庭の半分を覆って広がり続ける菊はいっせいに小さな花を開き始め、香りをわきたたせている。

 

菜園便り二七
一一月三日

 今日は一一月三日。特異日と呼ばれる、必ず晴れになる日のはずだった。過去一〇年間はそうだった。何故はっきり言えるかというと、一一年前に帰郷してからずっと、近所にある(実はぼくも一年だけ通った)聖愛幼稚園のバザーに行っているからで、それはぼくが親しく頻繁に行き来していて、順家族とでもいったつながりのあった亀井家のみんなととだった。たしか亀井家の近所に幼稚園の母胎である日本キリスト教津屋崎教会の信者総代のような方がいて、そのすすめで彼らがバザーに行くようになりぼくも誘ってもらったのだった。最初はよくわからずにきちんとジャケットを着たりして出かけて、でも変に浮き上がったりもしなかった。おおらかで、のんびりして、でもどこかしらきちっとしていた。チケットを買ってカレーやうどんやコーヒーをいただき、古着の山をのぞいたり、熊本教会からのオレンジや紅茶のパウンドケーキを買ったりした。あのケーキは甘すぎなくてやさしく、でもしっかり濃くて、母が好きだった(一度は出しっぱなしにしていてネズミ!に持って行かれたこともあった。ネズミも好きなくらいおいしい)。
 とにかく、過去一〇年間は晴れだった。亀井家のみんなとも行かなくなり、雨の中ひとりでぽつんと仮設テントの下でコーヒーをのんでも、ただせつないだけだと言えばそれはそれでかっこうつくけれど、でもけっこう楽しい。子どもと身近に接することのないまま今に至ったので、幼稚園くらいの子どもやいっしょに来ているもっと下の子どもたち、その両親や大人たちを見ていると興味が尽きない。降りしきる冷たい雨の中をサンダルだけの裸足で水たまりも走りまわる子もいるし、「傘を持った兄ちゃんに着いて行け」という父親の声に飛び出していく弟は、遠い兄貴の傘なんて気にもしていない。母親たちはいつもと変わらず、といった風情で子どもたちにあれこれ口やかましく言いながらもほっぽっているし、父親たちもたまの家族との同行に戸惑うといったふうでなく、いつもやっているといった様子で子どもを抱きかかえたり、食べさせたり、まわりのみんなに冗談を言ったりしている。給仕したり、売り子しているのも同じ幼稚園の父姉たちや信者の会であり、時々の会合やこういった集まりで互いに見知った顔でもあり、日常的にも゛誰それちゃんのお母さん、お父さん゛の世界でもあるのだろう。目が合うとちょと照れたようにふっと笑って、でも後ろからしがみついている子どもに手をまわしつつ、映画に走る上の子に百円玉をいそいで渡している。「場所はわかってる?」母親から声が飛ぶ。「ホールよ、今年は、わかった?」返事もせず傘も持たずに彼は雨の中へ。
 今年は古本はほとんどでてなかった。古着も子どもと女性のばかり。どこのバザーでも見かける、だれも使いそうにない奇妙な色のタオル類や引き出物の食器が並べられている。オーストラリアのお土産らしい、アロハと言う名でインドネシア製という、今という時代そのままの複雑な出自の半袖シャツと麻の白いズボンを買う。六〇〇円。来年の夏の楽しみ、になるのかどうか。なかなか使いでがあり役に立つ乾燥こんにゃくと、みずみずしい蕪も買う。
 少し雨足の弱まったなかを荷物を提げて帰ってくる。二〇分ほどの道は、乗馬クラブの厩舎を過ぎると海へと曲がる。かすかな勾配の向こう、松をとおして薄明く光る海が見えてくると、わかっていても新鮮な驚きや喜びが湧いてくる。視界が思いもかけず開けたときの感動が、またはその記憶がさっと立ち上がってくる。伊豆、古賀、オハイオ、箱根、別府、グモンデン・・・・。その時々の喜び、しんどさ、そうしてだれといても必ずおこる、ひとりであるという、さみしさというには透明すぎる思い。

 

菜園便り二八
一一月一一日

 最近の菜園はすごい。三、四日おきにどっさり採れる。夏が終わってから父が植えてくれたレタスが最盛を迎えて繁っているし、ルッコラもここにきて夏のような勢い。伸び上がった茎の根本にも上にも葉を茂らせている。色も濃く、少し硬く、香りも辛みも強い。花が咲いているのもあるけれど、イタリアの種のルッコラと違い白い花(イタリアのは黄色)。どちらもアブラナ科のような花だ。辛みもあるしきっとそうだろう。ふつうのパセリ、イタリアン・パセリもしっかり葉を広げ続けてくれている。雨が元気のもとのように思える。
 ピーマンもまだまだで、緑と黄色が元気になり続けている。特に黄色は夏とちがって虫がつかずに大きくなるまでおいておける。肉厚の大ぶりのピーマン(パプリカ)は甘くておいしい。そのすぐ脇の唐辛子が一度終わった後また花が咲き毎日どんどん赤くなっていく。時々まとめて摘んで、干している。とにかくすべすべしていて朱に近い赤色がきれいだ。
 冬野菜の春菊も間引きをかねてもう収穫が進み、鍋にどんどん使える。豆腐と春菊だけの湯豆腐もおいしい。間引きの大根や蕪は毎朝のみそ汁にはいっている。それからラディッシュが採れ始めた。これは以前借りていた畑でもつくってなかったから、全くの初めてのもの。赤い玉が土から少しのぞいていて、可愛いと言うより、いかにも美味しいそう。コリコリッとしてぴりっと辛くて、ちょっとまだらに染め付けたような紅色も鮮やかで、菜園サラダがぐっとひきたつ。オリ-ブオイルと酢だけのシンプルなドレッシング。梅酢や梅しょう油だけでも美味。ひょろっと淋しいほうれん草の向こうに父はサヤエンドウを植えた。来年の春を待つ。
 新聞には苺の収穫が始まったとでていた。とにかくクリスマスにあわせるためにと早くなりはじめた苺が今や一一月初旬。以前仕事で農業試験場筑後の農家を見学に行き、冷蔵される苺の苗や乳牛に産ませる肉牛、一代雑種の地鶏のことを聞いて驚いたけれど、もうそんなことさえ牧歌的なことがらにしか響かないようになったのだろうか。
 一〇日は、父がよい歯のコンクール・シニア版とでもいうものの表彰式にでかけた。一昨年宗像地区の大会で一等賞になり、今回は県の表彰となった。きちんと背広を着て、勇んで出かけて行った。全部歯が揃っているからきっといい賞になると張りきった父の思惑に反して、優劣はつけずに全員が優秀賞をもらったらしい。父は拍子抜けしたようで、場所もわからんし、それで時間に遅れるし、言ってることは聞こえんし、と夕食では不平がが続く。せっかくのおめでたいことだからと、お赤飯と鯛の煮つけを用意していたから、それは少しはうれしかったようだけれど。土曜で並んでいる人が多くて、岩田屋蜂楽饅頭も買えなかったと、また怒っている。
 やっと水平塾が開かれた。五月の「松永さんを偲ぶ会」、六月の中垣さんのコンサートを別にすれば、八ヶ月ぶり。久しぶりに会う顔もある。ぼくがあれこれ言ったり書いたりしたことも長い中断の原因の一つだろうから、ほんとにほっとした。みんなにこにこしている。初めての顔もある。片山恭一さんの「過剰さのなかの文学」というタイトルでの話。事前の資料もあり、密度のある内容だったけれど、それに見合った充分な討議の時間がなく、来月もう一度やってもらうことになった。今の水平塾にちょうどあうテーマで、ぼくもあれこれ考えさせられた。いつものことだけれど、塾の後の食事会(のみ会)やコーヒーも楽しい。このときの方がかたくならずによく話せるし深まるし、こっちがメインだと言う人もいる。片山さんも、それから初めての斎藤秀三郎さん、キム・テヨンさんも最後まで参加され、あれこれ、音楽の話もできた。こういうところから人は人と少しずつつながっていけると思う。バッハとキース・ジャレットちあきなおみが好きな人、とかとして。ブルックナーのことを片山さんが書いていたのを読んだことがあるので、すごく好きなんですかと聞くと「見栄ですよ」と軽く言われてみんなで大笑いした。そういうふうに言えば、ぼくはショスタコービッチとドアーズとコルトレーンミスターチルドレンが好き、ということになる。胃の痛いときには聴けそうにない人たちばかりだ。
 また酔っぱらってひとりあれこれ勝手にしゃべって、翌日の苦い反省までのひととき、ちあきなおみをひとり歌って帰る、「・・・ああ死んでしまいたい雨の街角・・・好きで別れたあの人の胸でもう一度・・・」。歌謡曲って、やっぱりすごい。文字にすると気恥ずかしいどころじゃすまない。「あなたは気づくでしょいつかわたしの真心にだけど悲しい目をして探さないでもういいの・・・」。
 稲妻が走る、犬も吠える、海は暗く濁って繰り返し繰り返し打ちつけている。 

 

菜園便り二九
一一月二五日

 朝の電話で告げられて、あわててメールをあけると四通もきていた。うれしいし、なかみも静かであたたかいものだった。ちょっとしんとした気持ちになる。遠くに住む友人にいろんなお礼もあって、菜園の野菜をあれこれ、初めての試みとして送ってみた。熱や重みでぐちゃぐちゃになったりするかと心配していたけれど、葉ものも花も全部無事着いたという知らせも届いていた。
 友だちというのは、出会った時期や場所がとうぜんにもあって、それは世代論ではないけれど、七〇年代とか八〇年代とかでまとまるところがある。それはぼくの生活が、八〇年、九〇年でかなり劇的にかわったからでもある。一九八〇年に元麻布という所に越してそれまでと全くちがう形での新しい生活を始めたし、九〇年にそれまでの全部から切れてしまうように、郷里の津屋崎に戻ってきたとかいったような。それと一九五一年生まれだから、それぞれの一〇年(ディケイド)が二〇代、三〇代と重なることもあって語りやすいからかもしれない。
 七〇年代は学生生活とその延長だった。ちょっと米国の大学にいたりもしたから七五年まで「学生」だったし、その後も友人の所に居候してアルバイトをやった後、先輩の始めた印刷会社に勤めたから、周りには迷惑をかけつつ本人はずいぶんのん気にしていた。友人たちと「ピストル」という同人誌をだし、飛行商会という小さな出版社をでっち上げて、作品集をだしたりもして、「学生」気分は続いた。だから七〇年代は学生時代の友人とほぼ重なっている。残念ながら米国でのアジアからの留学生を交えた関係は全部切れてしまった。すごくお世話になったバーベロさんご家族とも、ぼくの不義理と、ご夫婦が亡くなられたことで、音信は絶えた。七〇年代の「学生」友人は、会えばそれだけでもうもとのままになれるけれど、日頃はほとんど音信不通がふつうになっている。
 八〇年代はぼくにとってもすごくバブリーだった。まるでだれも時代から逃れられない、を絵に描いたようだ。サラリーマン生活と新しい共同生活で生活は安定し、精神的にも落ち着いていた。先ず書くことをしなくなった。『フリーウェイの鹿』という小さな作品集をまとめることでなにか精算してしまったようなところもあったのだろう。
 会社勤めを止めフリーになってからは、時間にも余裕ができ、ハッピーで楽しむばかりの生活になった。時代もルンルンしていた。八〇年代はぼくの三〇代、心身共に過剰の時で、とにかくのんで食べて旅行してということになった。そういうとき人は内省的に考えたり書いたりなんてできないものだ。それに村上龍村上春樹もでてきて、いろんなことはすでに書かれてもいたし。だから八〇年代の友人とは、のんだり食べたり、旅行したりの思い出が多い。そうしてすぐにあっけなく切れてしまって夢の彼方、かというとそうでなく、まったく逆に今も頻繁に手紙やメールを交換し、電話でも話すし、あれこれ送ったり送られたりしている。年齢的にもちかく、かつ生活の形や生き方の基盤が似ているからだろうか。どこかに、支えあうといったような意識が小さくあるのかもしれない。時代のせいもあって「消費」的なこと、嫌なことばで言えば「趣味(テイストというような意味の)」が近いということもあるのだろう。いい音楽を聴くこと、美味なものへの関心、芝居や映画や絵画、新しい話題に添うこと、いいレストランとバーをしること、そういうものへの飽くなき興味と偏愛と、それを支えるエネルギーと経済的な裏打ち。子どものいない友人たちが多かった。たくさんいた外国人の知りあいとのつながりはほとんど消えてしまったけれど、ほんのわずかな人が残ってくれた。
 九〇年代は、福岡での新生。偶然、「現代美術」に仕事で関わったことから一気に美術作家を中心に友人ができ、いっしょにあれこれしているうちにいろんなことに加わるようになった。必要に迫られて企画やパンフのための文章を書くうちに、新聞などの展評なども頼まれたりし、再び自分の「作品」も書くようになった。両親との生活での新しい家族関係。経済的にはぎりぎりの質素で落ち着いた、時間と見渡せる空だけはあり余るほどの生活。完全に蓋を閉ざしていた「社会」的、「思想」的なことがらにも生きるということのなかで触れ、考えるといった形で出会うことになった。だからそういう「美術」と「思想」関連の友人が九〇年代の友人ということになるのだろう。
 ぼくも五〇歳になった。越えがたいと思っていた四〇の峠を越えた後は、五〇も六〇もなんてことはない気もする。少しずつずれながら重なりながら、友人とのつながりはこれからもそんなに大きな変化はなくて続いていくだろうと思うし、そうあってほしい。
 でも何度も書いてしまうけれど、人と人が出会うことの不思議とあっけなさには、いつもいつも茫然としてしまう。あの時あのひとことがなかったらそれっきりだった人と、それから何十年もつき合ったり、ほんのささいなひとことで、長い関係がぱあになったり。それはそのくらいの関係でしかなかったからだと言ってみても何の答えにもならないだろう。最初から゛本質゛に迫るような真摯さと厳しさで初めなければ、ほんとに真剣な関係は生まれない時間の無駄になると言われても、そんなことできるわけもないし、そうやって生まれた関係があったとして、大きなものを最初から抜け落としてしまっているとしか思えない。でも、そう言いたい気持ちは分かる気がする。そのくらいだれもが、出会うことのあまりの単純さと不可能とに立ちすくんでいるのだろう(それは「知る」ことの難しさにも似ている)。みんな、求めることと求められることの落差のなかに、ことばと情動とに振り回されつつかろうじて立っているのだろう。とうぜんにも、「愛」も「性」も繰り返し問い返され続けるしかない。

 

菜園便り三〇
一一月二六日

 今年は一〇月の終わりには、もう冬の恒例の大型烏賊があがったらしく、休日には海岸を歩く人の数も多くなった。波打ち際まできた烏賊をひっかける長い銛の変形のような道具を持っている人もいる。本職の漁師さんもいて、週日も歩いている。冬に産卵に来る烏賊が(ソデイカとも言われている)、強い風に煽られて浅瀬にまで来てしまい帰れなくなるというのが通説だけれど、ほんとのところはよくわからない。子どもの頃にはあまり聞かなかったから、ずっと昔からあったことでもないようだし。でも大きいのは一メートルにもなる大型の烏賊だから、けっこういい値がつくし、だいいちそんなのを捕まえるのはなんといっても楽しいだろうし、興奮することだろう。上がった後は、たちまち人が集まり、噂が飛び交い、我が家にも伝わってくる、又聞きの又聞きのそのまた次ぐらいにして。
 時にはナマコも海草に絡まって強い風にうち寄せられるけれど、それはたまたま出くわしたら拾うくらいの人気しかなくて、でもぼくには大きな喜びだ。烏賊はもちろん捕らえたことも捕らえるのを見たこともないけれど、そんなに美味しいものでないし、配ったり、食べたり、冷凍にしたりけっこうたいへんだろう(時にいただくことがあって処理に困ることもある)。それより1月からの若布が楽しみだ。たくさんうち寄せられるし、時には沖で刈ったのをもらえたりするし、しっかり貯蔵したり、配って喜んでもらえたりもできる。あの、茹でる瞬間、さっと透き通った若草色の緑に変色する美しさはすごい。おいしさはすごい、と言い換えてもいいくらい、歯や舌の触感も刺激される。
 そんな季節になったけれど、一一月初旬急に寒くなった後、また暖かさが戻って今は上天気で乾燥した日が続いている。最高の日々、と言ってもいいかもしれない。水もまだきれるような冷たさでなく、かじかんで痺れるようなこともない。採ってきた野菜をざぶざぶ洗える。いつものように三種のレタス(玉になるタイプは最後のひとつだった)とルッコラがどっさり採れた。唐辛子は満開。イタリアンパセリ、バジル、ピーマンも少しずつ続いている。春菊ももういつもある。父が間引きして、みそ汁にいれる蕪の玉も大きくなってきた。ラディッシュもまだ一〇個ほどは収穫できそうだ。ほうれん草も大きくなってきて、日曜日に初めておひたしにして食べた、柔らかくて、しっかり苦みもあって、おいしい。
 その時のメインディッシュは鰆(サワラ)の塩焼きだった。春の魚で知られる鰆がもう捕れる。四、五月の産卵前のが美味しいから、春の魚になったのだろう。それに基本的に日本の季節感は関東のものにされていて、だから教科書に違和感を持った子も多いと思う。田植えや収穫の時期や魚の名称や、祭りや遊びやあれやこれや。もちろんなによりことばに。それはともかく、さっぱりとした白身で皮や骨にはしっかり癖もある鰆は、芹野さんのお父さんが獲ってこられたものをいただいたもの。いっしょにエソもどっさりいただいた。これは蒲鉾やそぼろに最高の魚。やっぱり白身で、骨が硬く鋭くてしかもとても多い。芹野さんのお母さんがつくられた、そぼろをいただいたこともある。柔らかい甘さで、落ち着いた色だった。このエソも焼き魚で食べた。時間はかかるけれど、ゆっくり身をほぐしながら食べれば大丈夫だ。癖のある味で、骨のことがなくても、好き嫌いがはっきりする魚だろう、きっと。
 芹野さんは入院されていたお母さんが急に亡くなられ、心身共にたいへんななか仕事も続けられたし、直子さんは東京でのグループ展も、搬入搬出にもいって、無事終えられた。すごいと思う。でもお父さんも含め、みんなつらいのがわかるし、何とも言いようがない。母の時のことを思いだしてしまう。
 時間が押し流していくもの、繰り返し繰り返し寄せてきてしまうもの、遠くに、でもいつもあるもの、近すぎて視ることができないもの。目をそらせて静かに過ぎて行こうとして、目を閉じて自身の内に目を向けて、でもそこには全くちがう形で、いっそうリアルなものがありありと見えたりもする。無理にねじ伏せたり、あまりに丁寧になぞったりしても、どこかでバランスが壊れてしまう。自分の心の大きさが計られる。そうしてほんとに心を開くことができたら、だれもが底なしの広がりを持っているのだろう、とまでは思える。そう思いたい。