菜園便り

 

菜園便り30
11月26日

 今年は10月の終わりには、もう冬の恒例の大型烏賊があがったらしく、休日には海岸を歩く人の数も多くなった。波打ち際まできた烏賊をひっかける長い銛の変形のような道具を持っている人もいる。本職の漁師さんもいて、週日も歩いている。冬に産卵に来る烏賊が(ソデイカとも言われている)、強い風に煽られて浅瀬にまで来てしまい帰れなくなるというのが通説だけれど、ほんとのところはよくわからない。子どもの頃にはあまり聞かなかったから、ずっと昔からあったことでもないようだし。でも大きいのは1メートルにもなる大型の烏賊だから、けっこういい値がつくし、だいいちそんなのを捕まえるのはなんといっても楽しいだろうし、興奮することだろう。上がった後は、たちまち人が集まり、噂が飛び交い、我が家にも伝わってくる、又聞きの又聞きのそのまた次ぐらいにして。
 時にはナマコも海草に絡まって強い風にうち寄せられるけれど、それはたまたま出くわしたら拾うくらいの人気しかなくて、でもぼくには大きな喜びだ。烏賊はもちろん捕らえたことも捕らえるのを見たこともないけれど、そんなに美味しいものでないし、配ったり、食べたり、冷凍にしたりけっこうたいへんだろう(時にいただくことがあって処理に困ることもある)。それより1月からの若布が楽しみだ。たくさんうち寄せられるし、時には沖で刈ったのをもらえたりするし、しっかり貯蔵したり、配って喜んでもらえたりもできる。あの、茹でる瞬間、さっと透き通った若草色の緑に変色する美しさはすごい。おいしさはすごい、と言い換えてもいいくらい、歯や舌の触感も刺激される。
 そんな季節になったけれど、11月初旬急に寒くなった後、また暖かさが戻って今は上天気で乾燥した日が続いている。最高の日々、と言ってもいいかもしれない。水もまだきれるような冷たさでなく、かじかんで痺れるようなこともない。採ってきた野菜をざぶざぶ洗える。いつものように3種のレタス(玉になるタイプは最後のひとつだった)とルッコラがどっさり採れた。唐辛子は満開。イタリアンパセリ、バジル、ピーマンも少しずつ続いている。春菊ももういつもある。父が間引きして、みそ汁にいれる蕪の玉も大きくなってきた。ラディッシュもまだ10個ほどは収穫できそうだ。ほうれん草も大きくなってきて、日曜日に初めておひたしにして食べた、柔らかくて、しっかり苦みもあって、おいしい。
 その時のメインディッシュは鰆(サワラ)の塩焼きだった。春の魚で知られる鰆がもう捕れる。4、5月の産卵前のが美味しいから、春の魚になったのだろう。それに基本的に日本の季節感は関東のものにされていて、だから教科書に違和感を持った子も多いと思う。田植えや収穫の時期や魚の名称や、祭りや遊びやあれやこれや。もちろんなによりことばに。それはともかく、さっぱりとした白身で皮や骨にはしっかり癖もある鰆は、芹野さんのお父さんが獲ってこられたものをいただいたもの。いっしょにエソもどっさりいただいた。これは蒲鉾やそぼろに最高の魚。やっぱり白身で、骨が硬く鋭くてしかもとても多い。芹野さんのお母さんがつくられた、そぼろをいただいたこともある。柔らかい甘さで、落ち着いた色だった。このエソも焼き魚で食べた。時間はかかるけれど、ゆっくり身をほぐしながら食べれば大丈夫だ。癖のある味で、骨のことがなくても、好き嫌いがはっきりする魚だろう、きっと。
 芹野さんは入院されていたお母さんが急に亡くなられ、心身共にたいへんななか仕事も続けられたし、直子さんは東京でのグループ展も、搬入搬出にもいって、無事終えられた。すごいと思う。でもお父さんも含め、みんなつらいのがわかるし、何とも言いようがない。母の時のことを思いだしてしまう。
 時間が押し流していくもの、繰り返し繰り返し寄せてきてしまうもの、遠くに、でもいつもあるもの、近すぎて視ることができないもの。目をそらせて静かに過ぎて行こうとして、目を閉じて自身の内に目を向けて、でもそこには全くちがう形で、いっそうリアルなものがありありと見えたりもする。無理にねじ伏せたり、あまりに丁寧になぞったりしても、どこかでバランスが壊れてしまう。自分の心の大きさが計られる。そうしてほんとに心を開くことができたら、だれもが底なしの広がりを持っているのだろう、とまでは思える。そう思いたい。

 

菜園便り31
11月27日

 宮沢賢治のことを書いたら、いろんな返事が来た。それもあって、欠けていた賢治全集(筑摩文庫)の5と6を買って改めて読み始めた。すごくゆっくりになる。頭からガリガリ全部やっつけるといったふうにはならない。読みたかったもの、読みたいものから少しずつ。だから気になる作品にぶつかると、そこで止まって何度も読み返したりする。今は『土神ときつね』で止まっている。何度か読み、ひとつ戻って、読みづらい『ビジテリアン大祭』を読んでまた戻る。ひとことで、三角関係の話しやね、という人もいる、それはそうだけれど。愛と孤独と嫉妬と絶望の物語だとも、いえなくはない。でも、賢治と絶望は似合わない。
 煮えたぎる嫉妬、おさめることのできない自尊、それへの嫌悪、でもまたふつふつと沸き上がる執着、伸び上がる憎悪。そのなかをくぐり抜け、秋の光のなか、色づいた草々のなかでついに諦念の境地に達した土神の透明な穏やかさが一瞬にしてどす黒く濁った血の色に染め上げられるのは、あまりにもリアルであまりにもつらい。人は、神ですら、ついにはどこへもたどり着けないのだろうか。ぐったりと殺されて小さく笑っているようにみえる狐だけが、全てから抜け出して、今は閑かなしんとした場のなかに浮かんでいる。恐怖で震えるしかない樺の木、永遠に自分を呪い続けるしかない土神、もう平穏はどこにもない。ただ迫ってくる冬が、雪が全てを覆って、無言の巨大な力で何もかもを終わらせる、新生を準備する。でも、神も樺の木もまた春の圧倒的な輝ける光のなかで、喪われたものを思い起こさずにはいられないだろう。地に縛られ、動けない彼らは、死からも遠く、ただ自身がつくる蔭のなかにうなだれて、そうして発作のように痙攣的に叫び、泣くしかない。喪われたものよ、喪われたものよ。
 「春には・・・望遠鏡を見せますね」というかなわぬ嘘を、ついには秘めたまま死んでいった狐の、哀しみと喜び。たった一人の友だちの樺の木に、嘘をついて、そうしてそれが嘘だったと告げて再び傷つけることからも、ついには自由になれたのでもある。そうしてやっぱりたったひとりの友だちを、愛を、永遠に凍結するしかないいっそうの苦しみに落ち込む土神の悲哀狂気絶望。
 「この木に二人の友達がありました」と物語が始まるように、狐にも神にもそれぞれひとりでなく、実はふたりの友だちがあったのに。それに気づくのは喪われてからでしかない、物語の常道として、世界の掟として。神の狐への僻み、狐の神への嫉心、互いの相手への的はずれな劣心、屈折、怯え、軽蔑、怒り。それがどこで憎悪へとなり果てるのだろうか。生活を切りつめ、虚栄と愛から、おしゃれして赤いキットの靴で歩く狐は、ついに冬の帽子を買えないまま、買えない口実を見繕うことなく息絶える。轟く神の号泣が、ぐったりとしたその全身を濡らしても、濡らしても、再び甦ることはない。
 やすらぎ。

 

菜園便り32
12月8日

 庭の山茶花が先週から咲き始めた。よそのよりずいぶんと遅い。見事なくらい葉を虫に喰われて丸裸になっていたから、そのせいかもしれない。印刷のインクで言えば原色の紅をあせさせたような色で、正直、あまり美しくはない。でもさっそく一輪挿しににさして飾った。初物は、どんなものでも楽しく、心はずむ。次は水仙か椿か。
 庭の一部を覆い尽くしている小菊はまだまだ続いていて、香りを放ち、ミツバチを呼び寄せている。さすがに10月の勢いはないけれど、まだ新しい花を日毎にあちこちで開いている。日持ちする花だから、くすんでしおれても形を保っていて、うら寂しくもある。
 赤と白の千両がいつの間にか実をつけていて、正月の近さを思わせられる。手入れしてないので、ひょろっと長く、葉も黒ずんで虫食いもあるけれど、緑に埋もれるようにある赤い実には引き寄せられる。冬になってもほとんどが落葉しない庭木が多いから、水仙なんかもうっかりしていると見落としてしまう。
 ルッコラといっしょにもらったイタリアからの野菜が冬になっても透きとおる薄紫の花を付つけ、あちこちに新しい芽をだしてはぐんぐん伸びている。若くて柔らかいときは生でも食べられるけれど、だんだん野生に帰っていくのか苦みが強くて敬遠してしまう。今日どっさり野菜を摘んでいて、秋口に咲いた花からの種だろうか、ルッコラが目をだして柔らかい新芽を伸ばしているのに気づかされた。冬でも条件さえ整えば、いつでも芽をだしてくるのだろう、すごい。地中海性の気候のものは、海のそばで、太陽が昇り、そこそこにあたたかい所で水があれば、元気なのかもしれない。イタリアンパセリも冬を越しそうな勢いだし、バジルだけがひっそりと葉を落とし尽くそうとしている。残念。露地物の香草の香りはやはりすばらしくて、ほんの一枝バジルをいれるだけで、野菜箱が香りで満たされる。季節のせいか香りも強すぎることはなく、穏やかに甘い。
 買い物に行く田圃の道には今もいろんな草が咲いていて、その中には仏の座やナズナ、アカマンマ、野菊、白爪草、タンポポなどなどがあり、季節は区切られることなく曖昧な領域区分すらくぐり抜けて、境界のない重層した多様性のなか、つまりなんでもありで、さすがに背丈はもう高くないがセイタカアワダチ草も当然にある。種が落ちて、水分と光とあたたかさがあれば、どこででもいつでも草花は芽をだし、伸びて花をつけ、種をまき散らしてまた次の発芽に供えるのだろう。
 早稲が8月に刈り取られた後の株から短く伸びてちゃんと実をつけた稲がそのまま放置され、立ち枯れて、淡い金色にゆらゆらしているのはすごく淋しくみえる。隣に今伸び盛りのカリフラワーがその厚くて黒々とした青緑の大きな葉をひろげているからいっそうそうみえるのだろう。白菜、高菜、カツオ菜と葉ものが美味しい季節で、だから鍋物や漬け物も当然に美味しくて、多くなる。薬味に使う大根や葱ももちろんいいし。
 菜園の大根も大きくなった、もうじき収穫。蕪はもう取り始めた。生のまま菜園サラダに入れても柔らかいし、匂いや味もきつすぎずにおいしい。蕪は鍋に入れてもおいしい。まあ、なにをいれてもうまくいくのが鍋の神髄だろうけれど。きついものも下茹でしていれると大丈夫で、里芋もうまくいく。ほうれん草も取れたての若いのはそのままいれてもえぐみがそんなにでないし、ほんとに「野菜って美味い!」と思える
 昨晩は、父が買ってきてくれたカナトブクで鍋をやった。あたたまるし、お腹もいっぱいになるし、全然酒を飲まない父も珍しく饒舌になったりする。以前旅館をやっていた時代に買いつけに出ていた津屋崎漁港の仲買の競りや柳橋市場でのこと、旅行先の宿の魚のこと、最近の魚屋の店頭での若い店員との駆け引き、ようするにどれも自慢話で、いつものようにうなずくだけの対応でも父は気にせずにしゃべっている。思いではいつも強がりや自慢で、それは彼の人生を透かし見せるようで時には聞くのがつらい。
 寒さはつのっていく、でも陽光は輝いて強く、海の上で木々の葉の上で目にいたいほど乱反射している。

 

菜園便り33
12月13日

 昨日、図書館ホールで「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)というドキュメンタリー映画を見てきた。米国ペンシルベニア州の「犯罪を犯した精神障害者の矯正院」での日常を記録したドキュメント。Folliesというのは映画のなかにもでてくるけれど、そこで毎年行われているらしい、演芸発表会のようなもののタイトルそのものでもあるが、ちょっと艶っぽいレビューという意味もあるようだし、follyには狂気とか愚考とかいう意味もある。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なってこれは撮影できたのだろうけれど、先ずそのことに驚いてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけてかなり大胆な所まで踏み込んでの映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しには全くならないのは歴然としている。ひとつには管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに鈍感になって気づきもしなかったからだろう。だから結局この映画は州の提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年に法律が改正されるまで封印されてしまう。
 その時の禁止理由は「患者のプライバシーを護る」という常套で、それは行政や司法によるたんなる隠蔽でしかないのははっきりしている。すでに「患者」の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、なにがプライバシーかとも思うけれど、それとは別に、個人の撮される=撮させない権利や、その独特で個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ。この映画の監督も、見るわれわれも、もちろんこうやって今語っているぼくも。マスメディアの意味、撮るということの関係性、視ること、語ること、代理すること、それらは簒奪するということでもあり、大切なものを一瞬にして消費して捨て去ることでもあることを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろうから。
 映画は、恒例の演芸会の始まりの風景、そろいの服と帽子での男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。ビートルズの「サージャント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」や映画「キャバレー」の開始を思いださせる。少し奇妙に見える振る舞いや顔つき、モノクロで陰影の濃い映像はドイツ表現主義的で、少しこわくもある。もっといいものが次にあるという管理者の司会の笑い、声のアップは不気味だ。「マルキド・サドの演出によりシャラントン精神病院の患者たちによって演じられたジャンポール・マーラーの迫害と暗殺」も思い起こさせる。
 不意に映像はかわり、広い部屋に集合させられ、裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係を有言無言に強制され、威圧を受け続け、再確認させられる。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地で言うことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」「精神障害者」だから当然だというように。
 11歳の少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか?奥さんがいるのに?大きな胸と小さな胸はどっちがいいか?成熟した女性へが恐いのか?同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことがわかってき、その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子の窓と、シ-ツもないマットが床に置かれただけのだけの部屋に入れられる。はらわたを裸足で踏んでしまったような、冷たさや酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のように伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をぼくらはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、何故認める嘘の証言をしたのか、どうして闘わなかったのかといったお気楽な問い。あの野合機関の国連でさえクレームをつけざるをえなかった日本の゛代用監獄゛の実態を知ってなされる発言は皆無だろう。拘置所よりさらに劣悪な警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての、現行法でも違法な尋問、隠された拷問の下での恐怖や孤立感が、取調官の「ここで死んでもだれにもわからない。調書に署名捺印すれば、長くても7年ででてこれる」といった甘いことばの罠へと人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、取調官や看守を体温を持った唯一の隣人とみなしてすり寄っていく気持ちもわかる。それくらい全てから隔絶され、繰り返される同じ問いの前に曝されるなかで、巧みな恫喝と懐柔のなかで、リアリティが喪われていく、当たり前の感覚が奪われていくのもわかる気がする。そうして文字どおり壁ひとつ隔てた外では、社会では、この代理監獄という制度の異常ささえ、ましてや留置所や刑務所の極端な悪条件や設備、管理を、当然とみなす感覚や意見が多勢を占めている。罪には罰を。真に無実の者には、まっとうな市民には永遠に関係ないはずの場所だからと。そういう思いは、孤絶した絶望のなか放り出された者に空気のように伝わっていく。
 映画のなかには、当然だけれど直接的な暴力はでてこない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言わせるまで続く看守の執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響には、もちろんのこと向かわない。悪いことをした者が悪い、それへの処罰として使うのだから。合理で、正義で、しかも抵抗できない弱い立場の相手に思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、西洋の、治者の論理。60年代末、日本各地の街頭での機動隊の催涙弾が与えた身体的な影響は当時もほとんど語られることすらなかったし、今も続くヴェトナムの枯れ葉剤その他の「兵器」の異常なまでの影響も、ついには全地球規模で被害が現れるまで放置される。もちろん、責任なんてことばはどこにも生まれない。はるか遠い水源にばらまいた危険を、それでもはしっこく察して、「安全」な水を自分のためにパッケージにして飲み、それから売り出しにかかる。
 かなり強い癖のあることばのハンガリー出身の治療医は質問し続け、命令し続け、煙草を吸い続ける。食事をとらない「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。ただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が移される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。大勢によって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映し出す。
 数人の医者たち、担当者たちの前での、「ふつうの刑務所へ戻してくれ、ここにきて悪くなった」と言い募る患者への聴聞。自分はパラノイアではない、分裂症でもないと主張する患者に、論理はとおっているけれど、前提が間違っていると切って捨て、おざなりに討議し、トランキライザーをもっと処方すると結論する医者。映画にもなった「郭公の巣の上で」にみられた、頭脳に直接メスを入れる外科手術、過剰な電気ショック治療、大量の薬物投与といったことが、まだ続いていたことが知らされる。
 「治療」のさいですら、ガレージで車の解体作業をしながら煙草を吸うように、だれもが競うように煙草を吸い続ける。管理者、医者、看守。絶え間ない煙草、止めどないおしゃべり。いらだっていること、不安に駆られていること、労働に倦んでいること、職場や立場や自身を卑下しながら、だからいっそう「患者」に傲慢になっていく。そうしてその底にある自信のなさ、無責任さを互いに卑屈な目で見合いながら、おうような態度で粉飾し続ける。外部の者(撮す側)への、付き添っているだろう担当者への媚びるような、やってられないよなとでもいった同意を求める視線が度々カメラの方へ向けられる。そういう愚劣さのなかで、法律や規則や慣習や、思いこみやなれ合いや、勝手や気まぐれで、いいようにあしらわれる「患者」たちは、ますます深みに、世界から遠くにはじかれていく。やみくもに怒鳴り、叫び、意味不明になるまでただしゃべり続けることで最後の自分を保とうとし、当然にも懲罰とますます悪辣な対応と蔑視を受け、ついには精神の、肉体の最後に至るしかない。それはもう平穏であり、平和であり、願いうる最上の至福とさえみえてしまう。こんなふうに人が扱われ、裁かれ、うち捨てられ、そうして尊厳も何もない場で、状況で生きること、死ぬこととはいったいなんなのだろう。今までもあらゆる場所で幾たびも繰り返されてきたように、愚劣でおぞましい頭脳の判断と、優秀で従順なテクノラートの腕とが、工芸のようにまた巧みに組み合わされるのだろうか。
 映画の最後に、フォリアーズ・ショーのエンディング男性コーラスがまたでてきて、歌う。みなさん楽しんでもらえたでしょうかと。出演者全員が舞台に出てくる、だれもが笑ってはしゃいで。簡単なクレジットがでて映画は終わる。会場の明かりがつく、茫然として、でもこの苦くて、痛くて、ほとんど怒りとしかいいようのない感情をどこに向けたらいいのだろうか。もちろんあの米国流の単純な傲慢と合理に憎悪は向くし、人が人を裁けると思うことへの奇矯さにも向くし、そういったことを支えている、人が持つ鈍感さ、卑屈さと傲岸さ、その底にある「善意」にも。そうして生理にも突き刺さってくる、あの汚さや臭いにへの嫌悪、恐怖、いたたまれなさ、全てへの底知れぬ怯え。
 人が犯罪を裁くとき、けして被害者には、その計りようのない痛みにはついに目を向けることはない。ただ、量に換算された「犯罪」への量としての「罰」を、共同体の代理、正義の執行として、機関として執り行う。だれも、責任を負わない。それは目には目をですらない。傷つけられた少女の痛みは救いのなさは、傷つけた男のなかにだけ何かの形でかろうじて残るだけだという異様な転倒。それを名づけることばすらない。少女は、犯罪によって、裁きによって、社会によって、人々によって二重三重に傷つけられ続ける。
 うまくことばにできないけれど、犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないと思う。犯罪者は、このわたしたちの立ち上げた社会が析出した「悪」とでも言うしかないものを、たまたまある「個体」として体現している=させられているのだろうから。個の内には社会が100%反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが投影されている。二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の思いの結節点でもあるだろう。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪が、様々な条件のなかで特定のだれかに、集団に集約されていく。時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつに焦点を絞る。
 わたしたちが全員で立ち上げているこの社会の犯罪とは、わたしたちの意識無意識の欲望の投影であり、その社会の反映を受けてそこにある全てのものを全員が自身のなかに映し出す抱え込むとうぜんにも。そうしてできあがったわたくしがまた全体として社会を再編つくりあげる。
 そうしてそういうことは、善についても、慈しみについても同じように言えるだろう。だから全ての人のなかに善があり、よきものがあり、慈しむ無限の力がある。特定の宗教としてでない「神」を、人が最初につくりあげたように。

 

菜園便り34
12月17日

 やっぱり大きいスクリーンはいい。タルコフスキーはすごい。「惑星ソラリス」はすばらしい。
 久しぶりのタルコフスキー。何年ぶりだろう。この10年間は見てないかもしれない。ヴィデオ・テープもかびが生えてほとんどがダメになったし、それにTVでは小さすぎるし。
 「ソラリス」というと、できたばかりの首都高速のシーンを思いだす人も多い。あれは確かにキッカイではある、特に文字も意味もわかってしまう日本人にとっては(フューチャーシティということなのだろうけれど、タクシーや運送トラックは、なんというか。でも今ではあの古い形や意匠が奇妙にも見えるから、SF的といえなくなくもない、か)。出てくる人たちがやたら苦悩に歪んだ表情を曝すのもわざとらしい、と思う人もいるだろう(そうだ!)。でも、語られようとすることの深さとそれを支える映画自体の骨格の強さが、有無を言わさずぼくを、見るものを引き込んでいく。
 忘れていたこと、まちがって思いこんでいたこと、いろんなことにも驚く。中心になる二人が美形なのにも改めて驚いた。だからじっと視続けれるのだろうか。もちろんそんなことはなくて、でも思い入れしやすくて、「愛」や関係への苦悩がアリティを持つ、見る人のなかで(ほんとに?)。
 やっぱり母と妻の葛藤は語られていた。でもそれよりも妻と夫の間の齟齬が彼女を発作的な自殺に走らせたいちばんの要因だったことがわかった。そうか、男が悪いのか、やっぱり。メロウドラマとしての愛のゆきちがい、互いの気持ちのずれ、共に美しい母と妻の間でも揺れる男。毅然とした知的な母、感情の均衡をとりかねる妻。
 その自殺に責任を感じ、今も愛を感じている男の前に、人の思念を実体化させる惑星ソラリスの海が「妻」を創りだす。驚愕、怯えでパニックになった男は一度は彼女を小型ロケットでステーションから宇宙に放り出してしまうが、再び生みだされた妻(つまり自分の思いが再度生みだした)を受け入れ愛し、暮らし始める。彼女は他の科学者から自分自身(ニュートリノから成り立っている゛お客さん=お化け゛だと)を知らされ、混乱し、疎まれたとかんじ、また自殺を図る。世界の残酷と感傷と。
 困憊していく男。うなされる夢のなかで、ステーションの「現実」のなかで、彼は妻を母を、思い出の品々を意識下で生みだし続ける。現在の自分として、かつての若く美しい母との出会い、彼女がゆっくりと男の腕を洗い、寄り添うその恍惚。
 そうしてやっぱりあのエンディングの衝撃。「故郷」に降り立った男の不安と喜びがないまぜになった視線の先の、池や水の中で揺れる藻、自分の育った、両親の住む家、走ってくる犬、窓から覗き込む室内に降る雨。振り返る厳格な父。少しだけ捻れた形、形象化された思い。
 やっぱり、タルコフスキーは見るしかない。食べなかったすごいごちそうのことをあれこれ聞かされてもしょうがない。食べ当たりしても、食わず嫌いでも、奇妙な成分に麻痺しても、酢に変質してしまっていてがっくりしても、まだまだ食べることからは遠ざかれない。


追伸:以前「IAF通信」という小誌に寄せた「映画を生きる」というエッセイの7に書いたタルコフスキーへの思いをおまけに付けておきます。 

映画を生きる 7
タルコフスキー衝撃
                
 「惑星ソラリス」のLPサイズのジャケットを本棚に飾っているので、サウンド・トラックのレコードかと驚かれたりする。でも残念ながらそうではなくてLD。レイザー・ディスク・プレイヤーを持ってないので当然だけど観ることはできない。そのことがひどく不思議に思えてしまう時があり、ジャケットを手に取ってじっと見たりする。本といっしょに置いてあるせいか、中身が全然分からないことが理不尽なことのような気がしたりする。せめて動かなくても、静止した写真としてでもいいから無性に見たくなる。でも、見れない。あの水のなかで不気味なまでに揺れる水草や藻や、すごくリアルに空中を浮遊する体、思い詰めて一種虚脱的になった表情、胸を締め付けるようなふいのことばも、奇妙な非未来的なメッシュのシャツも、おおぶりの白い水差しも見ることはできない。ソラリスと呼ばれる惑星そのものが、宇宙船のなかの地球人の意識下を実体化させていく過程の、過去として未来をみているような既視観、とでもいったスリリングな展開のなかで少しずつ増殖するように増えていく思い出や郷愁そのもの、は見れない。再生された、かつて自殺した妻と両親、特に母親との関係がどうだったか、僅かなことばで表されていたはずだけど、それを確かめることはできない。一度は拒否した(宇宙ステーションから小型ロケットで外へ放り出してしまう)彼女を受け入れてゆっくりと過ごす客室内に掛かっていたのはブリューゲルの作品だけれど、なぜブリューゲルなのかどこかでほのめかされていたかどうかも確かめられない。
 「惑星ソラリス」の最後、ゆっくりと歩きながら水のなかの植物や庭を眺めながら家へ近づいていく「わたし」はついに家のなかをのぞきこみ、そこに室内に降る雨、書棚、父親を見いだす。玄関で父の前に膝まづく「わたし」、それだけでもぞくぞくしているのに、だめ押しのようにぐんぐん退いていくカメラが俯瞰でとらえる惑星の海に浮かんだ小島(あまりのちゃちさには驚いたけれども)。強められた「わたし」の思いはついにはこの不思議な惑星の上に、故郷そのものを創りだしていたことを、つまり゛故郷゛なしには人が生きていけないことを語る。
 この映画にも顕著な、タルコフスキーの作品のもつ一種のあざとさみたいなことは、時々語られたりもする。そしてその、こけ脅しにも似た映像による驚かせかた、というか衝撃は、映画という表現のもつ力の大きな部分でもあることをいつもいつも、改めてのように思いださせる。
 「ストーカー」の最後では歩けない娘がじっと見つめると、テーブルの上のコップがカタカタと揺れ、すっと滑って落ちるし、「ぼくの村は戦場だった」の少年の指先からは樹液のように液体が滴る。「鏡」では合わせ鏡のように語られてきた現在と過去、いく層かの時間が、ひとつの画面にねじ合わされ閉じ込められて出現する。そして何より「ノスタルジア」の最後、ロシア(故郷)の風景のなかにうずくまるように座る男と犬、カメラが退いていくと、それがイタリアの遺跡のなかにしつらえられたものだとわからされる、あの衝撃。そしてさらにその上に降る雪、それはもうただただ涙を流して見つめるしかない。
 タルコフスキーの映画では人は覚めている時は、限りなく明晰にあろうとするが、そうでない時は激しく意識を放棄した状態をとろうとする。だから、眠りや夢、精神の歪みが頻繁に出現し、また語られる。人は必ず浮遊し、光と闇の強められたコントラストのなかに出入りし、ふいに目覚めたその瞳は遠い背後にしか焦点を結ばない。視覚や音の遠近は巧みに強められ弱められて、知覚を揺らし惑わせてどこかへ(どこでもない所へ)連れていく。当然のことなのだろうけれどそのふたつの状態、喪失と覚醒は入れ子のように組みあわさっており、どこまでがそれなのかは誰にも定め難い。詩とか信仰とかいうことばで呼ばれているものが、論理的なもの、「知」と侵食しあう、この現実の世界のありようのままに。そもそもそういったことを名づけたりことばに置き換えて、いくつかの概念にわけていくこと、整理していく現代が特殊で異様なのだろうけれど。そしていつもいつも、民族の故郷の時代の少年期の母へのノスタルジアを通して、未来の起源の宇宙の無の全のノスタルジアが探され求め続けられる。けして純粋な形ではどこにも存在せず、でもあらゆる所に形を変えて存り続ける、存らしめられてしまうものとしての。
 世界を対象化され、分解され分析されたものとしてでなく(それは先ず「自己」や生の固定化=対象化という異様さとしてあるのだし)、全体のまま動的なままで見ていく受け入れていく力。だから当然のように均一化と差異化の終わりのない繰り返しに陥ることのないあり方。そういったものへの視覚をとうしての直接的な働きかけ、というか提示がある。(少し話がかわるけれど、フィルム上の形や色の影である映画と光の記号であるヴィデオとでは映像の質だけでなく、大脳も含めて知覚に与える影響、というか刺激の与え方は質的にちがうんじゃないだろうか。)
 イタリアの遺跡のなかに作られたロシアの風景は互いに入れ子状であることさえ越えて、同時にそこに存在する、なんの注釈もなしに。それは空間的なことだけでなく、あらゆる時間的なものも存在するということで、私的なささやかな感覚と無限的に思える宇宙がひとつながりに存る、あらゆる細部は際だちながら、全体のなかに調和しているといった存りかた、だろう。
 映画のなかで作家自身が変貌をとげていく、つまり自分を固定せず開いていくことで、そこに大げさに言えばあらゆるものを、全ての人をひきこんでいく力をもつ、そういった希有な地点に『ノスタルジア』は立ち、ぼくらもまたその前にたつことで既成の「知」を一瞬にして抜けでていく視覚を通した力を感受できる。そしてそれが特にすばらしく感じられるのは、もう一度ことばや知に還元したりできない地点にまで至っていることが了解できるからだろう(ことばを越えたものを、ことば以前のものと言ってもいいだろうけれど、ことばにしてしまおうとしていつもぼくらは失敗し続けてきたのだろうから)。

 

菜園便り35
12月21日

 映画のことが3回も続いてしまうけれど、年の暮れが押し詰まってからいろいろ不思議で興味深い映画が続いているのでしょうがない。映画を上映する側というのは、年末とか大掃除とかの世俗から超越しているのだろうか?でも、今年中に収めなければならない仕事や正月の準備の合間に、しなければならない窓拭きから逃げて、奇妙でリアリスッティックな幻惑のなかへとはいっていく。
 パヴェリアで、ロシア映画特集というのをやっていて、かなり変わったプログラムになっているのだけれど、SFやファンタジーがあり、タルコフスキーがあり、無声映画がありで、ついつい気になってでかける。「ひまで暢気な奴にしかできないことだ」と石が飛んできそうだ。
 「アエリータ」というタイトルの映画で、印象を羅列するとこんなふうになる。革命後のソ連、混乱と建設と、戦艦ポチョムキンばりの群衆シーン、コントラストの強い顔(映像も演技も)、ビルの丸窓などの古典とモダンが混じり合う様式美、ロシア構成主義の作品群-特に装置や衣装、もちろんメロウドラマの筋立て、舞台のひとつはなんと「火星」!、もちろんロケットで行く、そういう荒唐無稽というか、全くリアリティを放棄したような、キッチュなまでのファンタジーの極みみたいなことと、一方での自然主義リアリズムのような、臭いまでわき上がるような実写的なもの(心理も映像も)での搾取、反乱、革命、混乱が地球と、そこから天体望遠鏡で覗かれる火星とで慌ただしく生起する。お目当ての構成主義は十二分に堪能できたけれど、でも・・・・というのは残ってしまう。

 

菜園便り36
12月末日

 世代やディケイド(10年)でくくることをよしとしないように、1年で区切ったり振り返ったりすることを鼻で笑う人もいるけれど、センティメントや季節の移りもふくめて、ぼくはやっぱりあれこれ思い、考えてしまう。「時間」の、せめてどこかに読点をうたないとあまりにも茫漠として、平板な浅い永遠が無限に広がってしまうようで不安で。そこが甘い、と言われるならそれは今は受け入れるしかない。せめても、この現在を来年へと渡っていくためのすがる糸にもしたい。でもほんとに、喜びのある深さのある世界へと生き延びていけるのだろうか。
 だれもがそうであるように、不安はいつもある。びっしりと覆われて、でも、ことばのいたけだかな威圧には耐えられる。そんなのは嘘なんだと。リアルでないと。ほんとに世界を人を考えるというのは、善さえ、愛さえ、疑うことなのだと。゛地獄への道は善意で埋められている゛ということばのリアルをもう一度くぐってしか、なにも見えてこない。それは愛や善を越えた、ある慈しみや痛みへの共感みたいなものをほんとに手にするための一歩だろう。眼前の見えている現在を相対化するために、現在にのみ向き合ってしまい、゛対現在゛になって、そこに囚われ、そこからアンチ現在とでもいうしかない発想で対抗しても何も生まれない。この現在を補完し続けるだけになるだろう。
 形になっている主観や希望を語るのではなく、見えないもの語られないもの、でもそこにこそあるものに視線を向ける、ほんの少し今の呪縛から逃れて。国家や巨大なメディアの御宣たくをふりきって。誰しもに完全に内面化されているかのように思える、今の感受や感覚、考え方の鋳型を擦り抜ける、そこから抜け落ちる、ストンと。
 見えるものはあるだろうか? もしかしたら見えないということが見えることの唯一のあり方かもしれない。たえず、一瞬一瞬、その度ごとに新たに見ようとすること、その力、それが見えるということかもしれない。見えているのは、見えると思わされている、今の世界の共同体の創りあげて配信された像でしかないのだろう。そういう見えるを抜けようとする、疑いとらえかえす。見る=見えるはもっとシンプルでそうして限りなく深いことなのだろう。形や色や遠近を識別できることでなく、ましてやそれが何であるか認識する能力でなく、さらにそれを解析してそれへの対処を即決し行動するための(人よりちょっと先に)手段ではけしてない。
 現在、見ることは、見て・判断することとしてセットになっている。これを見たら、こう理解する、そういう型に。だからだれもが先を争って見たものを定義し、叫び、押しつける。見えたことに足を取られる以前に、積極的にそういう見え方・判断や認識にすでに身をゆだねている。それなら見ることさえ、ほんとは必要ないのだろう。
 だれもが答えを求める。つまり正解があると考えてしまう。だから、明快な論旨へと、大きな声の方へとなびいていく。今のとりとめのなさや無惨に耐えられなくて、誠実ささえもが、怜悧で整然としたことばの方へ、顔を向けてしまう。そこでは全てが停止される。つまり、もう求めるということがなくなり、なにかが生まれるという可能性も喪われる。契機は閉じられた眼のうちの安定のなかに溶解する。自身の誠意が善意が、人を殺してしまう、世界を閉じさせてしまうかもしれないという怯えからさえ、ついに離陸してしまう。それは<自由>と呼ばれることの、ひとつの形でもある。平板で冷たい、でも安定した、閉じられた世界。
 生きることのしんどさと喜びとは等価であるのだろう。そういうふうにしか人は生きられない。それでいいじゃないか、なにをこれ以上求めることがいるだろう。光はどこにも、光のないところにもある、いつも、今も。その温かみと陰り、その波動が自分の真ん真んなかに届いてくることの、ことばにできない思いを、とりあえず手に取ること、そこからまた次の思いが、ことばへの力が湧いてくる、きっと。
 この年もまたあなたにとって、そう、あなたにとってのいい年でありますように。

 

菜園便り37
1月3日

 すっかり真冬だ。ガクン、ガクンと寒さがつのって、心はつんのめりそうだ。指も体も縮かんで動かない。背中を丸めているので腰も痛い。ほんとに冷え冷えとした大きなあばら屋のなかを、どこからくるのか風がごうごうと吹き抜けている。小さなすきま風が集まって台風になるのだろう。おまけに雪だ、救いの陽光さえない。海は暗い緑色でうねって濁っている。時折、白い波が岸壁に打ちつけて飛沫をあげる。横切って飛ぶ鴎が、不意に風の形に大きく揺れる。寒い、寒い、嫌だ。
 そんな子どもみたいなことを言いつのってもしかたない。落ち着いて菜園のことを。この急な冷え込みでやっぱり菜園は一気に勢いをなくし、縮んだようにみえる。レタスも葉を伸ばすことを諦めたようだし、イタリアンパセリはぴったりと口を閉ざした貝のように土に張りついたままだ。バジルは茎も枯れ果てた。ルッコラは小さな葉をたくさんつけたけれどもうそれ以上には広がれない。パセリはふわふわとした灰のように枯れている。残っていたいく株かのラディッシュは、もう地下茎を太らせる力はない。ピーマンも先日のが最後になったようだ。唐辛子は、最後の赤い実を枯れた葉の上から突き立てている。
 それに比べて冬野菜はさすがに元気だ。大根は根はあまり伸びないのに葉を生き生きと茂らせているし、蕪もみずみずしい。かつお菜やほうれん草、それに春菊は伸び続けている。正月の雑煮に入れたかつお菜は今年は庭のものだった。もうひとつ、青梗菜を大きく色濃くしたような野菜も勢いがある。これは父も名前を知らないけれど、たぶん中国系の野菜だと思う。鍋に入れたら、大きくなりすぎていたのか茎の部分はちょっと固すぎた。さっと炒めて食べてみよう。
 レタスは苦みが強くなり固くなる、ルッコラも辛みが強まり固くなる、でもやっぱりおいしい。バリバリと歯ごたえがあり、庭の緑がそのまま口のなかに広がる。ナマコを口にしたとき、一瞬にして口のなかに海が広がるように。
 この冬はとれないのか、ナマコは高くて、まだ味わうチャンスがない。鰆は芹野さんからいただいて何度も食べることができた。ヤズも正月の雑煮も含めてよく食べた。カワハギや馬頭はこれからだろうか。去年の冬はそのことばかり書いていたような気もする。最近の鍋はアラや赤魚、タラなどが多い。安くて、さっぱりとしているもの。
 斎藤秀三郎さん宅へお年始もかねて、鍋を担いでうかがった。卓上コンロと土鍋、それに材料の魚や野菜を亀井くんの車に乗せてもらって行く。ついでに、正月のがめ煮数の子、黒豆、漬け物なども持っていく。形ばかりのお屠蘇も。三人で鯛とカワハギ、牡蠣のチリ鍋を囲み、酒を酌み交わし、ついでにワインもあけて歓談する。正座した冗談、生真面目な内省、辛辣な批評、冷静な洞察。あれやこれや、他愛なく笑い、憤慨しながら、でもだれもが自身の現在を、見渡せる今後を確認してもいる。できることは多くはない、何かを諦めるということではなく、でもささやかさや無限ということの意味を改めて自分の生のことばとしてなぞってみる。
 「今、ほんとに楽しいんですよ」と繰り返される斎藤さんのことばに、亡くなられた松永さんの声が重なるような気さえする。長く真摯に生きてきた人たちの放つ、尊厳や軽やかさ、孤独、そうしてやっぱり達観でも清明でもない、思い悩み求め続ける生のあがきでも力でもあるもの。そういうもの感じ取りながら、でもどうしても「知」に傾きそうになることばを乱射し続けてしまう自分の饒舌と浮力のついてしまったことばに、心根の底の浅さに、小さく淋しくうつむき、新春の夜の少しの苦さにも酔って、でもそういうことへの既にしての了解の穏やかさももう嫌でもあるのであり、滑稽さえ漂わせながら、だれもが静かに、自分を全てを受け入れていく一瞬もあるのでした。 

 

菜園便り38
1月24日

 無性に木山捷平が読みたくなるときがある。そういう作家は多くはない。本棚に置いてある本で、ほぼ定期的に取り出して読む人はいる、特に詩はそうだ。それが何年おきかの周期になっている人もいる。でも、こんなふう矢も楯もなく読みたくなる作家は、木山以外にはほとんどいない。それはたぶん、作品への愛着や、書かれていることがらへの共感、時代や場所や作家のひとがらとぼくの生活やなにやかやが絡まり合ったものなどが混ざり合い徐々に発酵し続けていて、ある時点でぽんと破裂するからかもしれない。自家製造の葡萄酒のコルクが飛んだり瓶が破裂したりするように。ただもう、何でもいいから読むしかない、またそこに葡萄液を満たすように。
 そうして穏やかさがくる。木山の読後の穏やかさは深い。人生の哀歓、庶民の美しさとかいったキャッチコピーのずっと遠くで、弱さも浅さも全部、両手ですくい取れるだけの嵩として差し出される。さりげなく受けとろうとしてその重みにたじろぎだれもがとり落としてしまう。「苦いお茶」で正介が負ぶったナー公、今は大人になった布目邦子のように、軽くてそして重い。体の、何かの暖かみが丸ごと直接伝わってくる。人は大きい、世界は不思議だ、おかしくさえある、こんなにも苦しいこと、厭なことがあるのに。とうぜんのことだけれど、全てを見渡せるわけはない、感じとるのも難しい、そんなにも深い、でも、わかる、全部が一瞬に、そういったこと。
 1968年に亡くなっているから、彼のことを知っている人はもう多くはないだろう。「長春五馬路」や「大陸の細道」「茶の木」「耳学問」などが知られているし、旺文社文庫でも何冊かでている(ぼくが今読み返せるのはその文庫でだ)。とうぜんのようにとても貧乏をして、あまり有名にはならなかった人。それでも亡くなった翌年、ちゃんと全集がでた。その頃はそういう美しい伝統も残っていたのだろう。今は太宰や井伏鱒二の知人として名前がでることのほうが多い。それでも例の講談社文芸文庫にはきちんと入っている(しかし文庫が千円以上というのはなんというか・・・)。
 一月初めの猛烈な寒さの後、4月の陽気になって、今は「ふつうの」冬だ。諦めがついたのか、体もなじんだのか、気持ちも落ち着いて、寒さへのおびえや極端な嫌悪はうすれた。冬でもあまり弱まることのない海辺の光が、それでも少し強く、かっきりと感じられる。肉厚の椿の葉の上で光り、窓から入ってきて広げられた新聞紙に反射して、まぶしい。晴れた日には、見渡せる限りの海が幾重もの帯状にきらめいて、全体がゆっくり揺れている。春のように、どんよりとして底から鈍く光り揺り返すにはまだ間があるけれど、気温は下がっても、もう光の横溢は止めようもない。
 菜園の野菜も時折のみぞれや雪に耐え、雨と光を吸収しては外に放っている。鍋をする度に春菊とほうれん草を摘み、まだ残る子蕪やピーマンをサラダにする。レタスとルッコラも越冬する様相を見せている。ほんとにすごい。初夏に向けて父が蒔いたサヤインゲンは順調に伸びて、たてられた竹の添え木を上っている。思いの外時間がかかったネギも、もうじき第1回目の収穫ができそうだ。
 近所からもいろいろいただく。終わってしまって残念に思っていたら、まるで手品のようにサツマイモが届けられた。小ぶりの赤い芋。さっそく昼に焼いて食べ、夜にはレモン煮にする。大根や白菜は大きいので、あたふたする。鍋や煮物やとせっせと食べ、間に合わないときは、本をみながら漬け物に挑戦する。白菜の塩漬けも初めてやった。ちょうど柚子があり、昆布や唐辛子もいれて、ビギナーズラック(初心者の幸運)でおいしくできた。2、3日目のしゃりしゃりした浅漬けもサラダみたいでおいしい。それからやっぱり野菜そのものがおいしいと、できがまるでちがうのだともわかった。今回は千鶴子さんのお母さんの大きな白菜で、その甘さや独特の匂いがはっきりとわかる。大根は下漬けしてから、焼酎漬けに。甘めだけれど、酒好きな人には好まれるようだ。
 父が全く酒をのまないので、我が家は晩酌もないし、なにか特別の時にも酒はでない。ときをり自分だけちょっとのんでみるけれどたいしてうまくもないし、長引くし後かたづけがいやになるしで、止めてしまう。少し陽気になり、心広くなれ、話も弾むから、ちょっとの酒はほんとに心身にいいと思うけれど、ひとりでそんなことやってもただ浮き上がってさみしくなるだけで、結局、無粋な相手に怒りさえわいたりするから、やっぱり止めるしかない。

 

菜園便り38 未送信
1月18日

 昨年は初めて映画について書く仕事(図書館ホールの特集「カメラマン田村正毅の世界」パンフ)があってうれしかったし、そのためにヴィデオデッキも買ったし、日本映画もずいぶんたくさん見た。そう思っていたけれど、年末にメモを見ながら思い出してみると、田村特集で見たのが、昨年見た日本映画のほとんどで、ちょっと唖然としてしまった。
 よく映画の話をするし、もちろん大好きだし、同世代の平均値からすればずっと多い回数かもしれないけれど、実はそうでもなかった。でも、先日いっしょに見に行った友人が、映画館に行くのは20数年ぶりだ、というのを聞いてやっぱり驚かされた。それが「ふつう」なのかもしれない、淋しいけれど。
 そのときの、そんなに久しぶりの映画というのが、「アエリータ」というソ連のモノクロ・無声・SF映画で、ストーリーさえとうてい一言ではいえないもので、彼はかわいそうにほとんどずっと寝ていた。誘う方も誘う方だ、よりによって年末にロシア構成主義の装置や衣装に溢れた、革命の余韻の時代の無声映画に行くとは。でも、構成主義はさすがで、それを見るだけでも十分楽しかった、ぼくには。
 去年の暮れから映画のことばかり書いているようだけれど、また映画のことになってしまった。今年初めに書き始め、うまくいかなくて止めていたけど、表現を語るうえでもいつも気にかかっているところなので、乱暴でおおざっぱになってしまうけれど少しだけも書いておこうと思う。「またか」といわれそうだけれど。
 映画のことを語るのは難しい。もちろんあらゆる表現を語ることは難しいけれど、映画は具体的な人や物がでてくるし、しゃべるし、百人見れば百の反応が当然にもある。先日も中国映画「こころの湯」をみて、森さんにメールで少し書き送ったら「もう少し聞きたい」と問われ、改めて整理しようとしてみた。なぜわざわざ語るのか、批評というような形にみえてしまうのかというようなことも含め、丁寧にいくつかの前提をおかないと(語らないと)、あまりに唐突すぎ、すごく傲慢で自分勝手な言い分に聞こえ、やたら細かいことばかりにこだわっているようにみえてしまうのだろう。
 何かの表現について語るとき、できるだけ具体的な内容そのものには触れたくない、説明してしまいたくないという気持ちがいつもある(それがどう見えたかという要約はすでにひとつの批評だろうし、また説明、解説することで消費させてしまうことにもなる)。見た人、読んだ人に自分が思ったこと、考えさせられたことを伝えたい、語り合いたい、できればそうだそうだねと感動を共有したいからでもある。
 「こころの湯」という映画は、家族や隣人の愛、人情やユーモアといったことが(いわゆる「テーマ」が)、黒々と文字に書いて画面に貼りつられているようにつくられている。でてくる人々は類型的(つまりいかにもありそうで実はありえない人)に造形されているし、出演者(俳優)たちは、ある決まり切った約束事としての表情や仕草や声で(つまり生活の中では誰もほんとはやることのない仕草で)、決められ記号化された感情や思いの表現を繰り返す。だから見ている者は、スクリーンの表面だけを見ることを強いられ、それ以上のことを思うことも考えることも止められ、そのなかに踏み行っていけない。だから映画それ自体を丸ごと消費してすっきり終わることになる。だれもが安心して、満足して帰らざるを得ない。新鮮な発見も小さな驚きもない。ことばを使っての論理的思考としてでない、思いを広げることや、あれこれ考えることができないようになってしまっている。まるで、「こうです、こう受け止めなさい」、「そうです、それが正解です」と告げられてでもいるように。
 あの映画のなかで提示されていることは、ほんとに大切なことだと思うし、そこを突き詰めればいやでもいろんなことがらにぶつかるし、なにかに、もしかしたら世界や人に改めて会えるかもしれない可能性を秘めてもいる。家族とか愛とか障害とか、地域、水、人、男-女、進歩、関係、虚構、金、時代、経済・・・・限りなくあるだろうに、そのどれひとつも問い始めることなく、終始了解済みの(と思われている)結論を先回りにおいていってしまう(「滑稽さ」の表し方に典型的)。愛や人をいちばん信じてますよ、というような語り口で、のっけから信じるどころか、見もしない。世界や人をこういうものだと前提する傲慢と怠惰だけがある。だれもあんなふうに生きたり死んだり、愛したり憎んだりしない。あんなふうな底の浅い表情や仕草はしない。あんなふうには語らない、笑わない。人は、世界は、もっともっと単純でそうして限りなく底知れず深い。いつもいつも、どこにも、誰ものなかにそれはあるし、あり続けている。そこから改めて始めない限り、何も見えてこないし、どこにも向かえない、と思う。

 

菜園便り40
2月6日

 遅い、遅いといっていた庭の藪椿がいつの間にか咲いている。聞こえたのかもしれない。それにしてもどうして山茶花も、椿も、それに沈丁花も我が家のは遅いのだろう。海辺のやせた土地(かつては砂浜だった)だし、手入れを怠っているので虫や病気のせいかもしれない。それでも毎年、季節毎にきちんと開く、それはやっぱりすごい。
 よその花の方が早すぎなのかもしれない。いくら春の光が溢れるとはいえ、今がいちばん寒い時期だし、旧暦での立春まで一月以上ある。正月もたしか12日頃だ。沈丁花はいくらなんでも早すぎると思うけれど、でも風の当たらない、日当たりのいいところではもうほころび始めている。めだたなく、でもどこにも溢れている野草は、ほとんど一年中花をつけることもよくわかった。植物にとって時候というのは、気温と日照と繁殖の条件とが絡み合ったときに素早く取り込まれるものなのだろう。この季節だから何かが開くのではなく、開いたからこの季節ということだったのが、他の多くのことと同じく転倒していく、人の頭のなかで。でも、不思議だ、美しい。
 我が家でも今は正月は新暦だけれど、旧暦でも雑煮だけはつくって祝う。祝うというより、感謝するということなんだろうと、父を見ていて思う。家のなかの神棚や水神や外の恵比寿様などにお餅をあげ、1年の一族の無事を願いたてる。彼にとっての家族、彼の一族。父は下げてきたものも捨てずに食べている。以前旅館をやっていたこともあって、我が家の雑煮は鶏と鰹の出汁でつくる。それに鰤、かしわ、かつお菜、大根、人参、里芋、かまぼことあれこれいれる。餅も全部どんぶりにいっしょに入れ、出汁をはって、器ごと蒸す。餅を焼いたり、ゆでたりしながら食べるのでないので、できあがったら即、食べないとながれてしまう。あわただしいし、そういうときに采配をふるう父がかりかりしてちょっと鬱陶しい。どこにでもある光景だけれど、正月の最初の食からというのは落ち着かない。
 だれでもそうだったろうけれど、ぼくにも家庭幻想みたいなものがあって、勤め人の父(落ち着いていて、日曜が休みで、平均的な家庭の象徴ということ)、主婦の母、二人の子供(自分がそのひとりだ)というような家族構成で、二階と生け垣のあるこぢんまりした家に住むというのが、理想の家庭像だった。あれこれ感じたりするような年齢になった頃、つまり小学校の中頃から、すでに父は祖母のやっていた旅館を手伝うようになり家にほとんどいなかったし、母も手伝うようになり、そのうちぼくら全員が旅館に越してきた。だから家族の団らんというようなことが、その象徴が家族そろっての食事だと思うのだけれど、完全になくなった。旅館やそこでの暮らしは嫌いだったし、とにかく早く高校を終えて、どこでもいいから出ていきたいということばかり考えていた。そうして、そうなった。
 平均的なサラリーマン家庭も、食事なんてバラバラだったのだろうし、休日は父親は寝て休んで次の一週間を生き延びるのに精一杯なのだろうし、母親は年中安月給や子供の成績や近所の噂をすることしかないのだろう。でも単純で誰もが経験するような、つまりしなくていいことはしなくてすむような、そんな生活だったらと思わないでもなかった。どう転んでも、結局はこうなったのだし、それはどういうふに生きてきても、生活の形態は大きく違ってみえても、同じことだったろうとは、今はわかるけれど。やっぱり、どうであれ最後はぼくが自分で選択した=させられたのだから。
 水仙はまだ咲き続けている。遅く咲けばそのぶん遅くまで咲き続ける、あたりまえのことだ。それも悪くない。八重の椿はまだ堅いつぼみのままだ。父が丹精している鉢植えの山茶花や椿は別の庭にあるからほとんどだれの目にもふれない。彼らはかなり奇怪な名前をつけられている(園芸植物は往々にしてそうだけれど)。ひっそりと<侘び助>が散り、<マダム>がぽつんと過剰な華麗さで開く。そばには<レディ・バンシタート>と<港の曙>。なんというか・・・・・。

 

菜園便り41
2月10日

 一昨日、目白がやってきて、しきりにアロエの花に嘴を差し込んでいる。紅い異様な形の筒型の花に顔をつっこむようにして蜜をなめる。素早く抜いて、口を左右に振って嘴についた花粉や何かを葉っぱにこすりつけるようにして落とす。目白は色はシックで複雑な鶯色で美しいし(いかにも日本の古代色のカラーチャートに真っ先にでてきそうだ)、ほっそりと小型でかわいいし、それがそんな仕草をするので、ただただうっとりさせられる。おまけに窓のすぐ近くにやってくる。野生だから警戒心は強いのだけれど、ふだんあまり窓際に人がいないし、赤い服はかえって目立たないのかもしれないなどと思ったりもする。ピッピッといったふうに短くさっと飛び移る。しっかり足で枝をつかんでかなり無理な姿勢で首や胴をねじって花に挑戦する。先がすぼまった5センチくらいの花弁だけれど、つつかれた後は、ラッパのように先が広がっている。それで彼らがどこまで食べたかもわかる。
 その日は鶺鴒(セキレイ))もきた、すごい。どの野生の小型の鳥もそうだけれど、まるで今できあがったばかりといった鮮やかでくっきりとした色と艶を持っている。ふわりとした綿毛の下に驚くほど小さく細い、でもはりのある体をしているのが外側からもみえるようだ。よく映画や小説で子供の手のなかで握りつぶされて、それが少年期の終わりや、激情の思春期の始まりを告げたりするけれど、握りしめたときのあの温かさ、はじくような動きに思わずとまどった瞬間にいつも彼らは飛び去る、したたかに手のひらや頬を羽の一撃でうって。哀しみ、喜び。
 雀、雉鳩(キジバト)はいつもいる。鵯(ヒヨドリ)もこの季節はよくくるし(最近は夏場も里や都市部に降りたままらしい)、鴎も今は海岸に群れをなしている。庭の向こうの電柱は鳶(トビ)の止まり木になっている。時折複数で姿を見せる鴉に負けて追い払われるときがあり、しっかりしろと怒鳴りたくなる。ほんとに鴉は賢くてどう猛でいやになる。姿も、動きも醜いし、臭いし、怖いと思うときもある。雑食性で、本来のすみかの森からでてきて都市という餌場を見つけ、確保したからにはますます増えるだろうという予測で、それは鴎にも言えるらしく、将来この二つの集団の間で熾烈な、文字通り生き延びるための大戦争が始まるだろうと言われている。もちろん鴎にエールを送りたいけれど、そんなふうに鴉を憎む自分の気持ちも、かなり安易につくりだされたもののような気もする。最近、鴉が海岸にいるのをよく見かけるから、個体数に対する餌場の確保、占拠が緊急の課題になりつつあり、両者の間ですでにテリトリーがぶつかり始めているのかもしれない。
 鴉は嫌いだし怖くもあるけれど、でも大集団で上空をゆっくり旋回しながら山の方へ流されるように飛んでいるのはやっぱりすごい。黒島伝治の小説のタイトル「渦巻ける烏の群れ」を思いだしたりもする。その圧倒的な数、風に乗ったゆるやかな動き、渦、そういうものが喚起するものは小さくない。ここより他の場所、遠くまでいくんだ、といった感傷的でパセティクなことばがでそうになる。一心に渡りをする、目的地に向けてまっすぐに飛び続ける生真面目で一直線の渡り鳥の真剣さではない、ここで漂うしかない、でもどこかを求めている、そんなふうに見えてもしまう。
 鷺(サギ)も、白鷺でも五位鷺でも、河口周辺の海岸にやってきて何かつついているし、千鳥もチチチと走り回ってる。海岸は魚や海草やいろんなものが生息し流れ着き、ぼくらも烏賊やナマコ、若布を手に入れることもある。鳶が打ち上げられて死んだ魚をつついているのを見て、鴉なみだとがっかりしたこともある。ぼくらの勝手な思いこみにすぎないけれど、でも猛禽類には、生きたものを捕らえて食べる、けして人になつかないといった矜持をみていたい。でも、じっさい、あんな死んだ魚は不味いだろうに。だから鴉と奪いあったりすることになる。
 海岸には貝殻や海草や魚だけでなく、江戸時代に沈んだ船の陶器のかけらも長い時を経て打ち上げられたりする。海鳥の死がいも、流れ着く。猫や犬や狸も。時には人も。

 

菜園便り42
2月10日

 よく晴れた、しっかりと寒い朝、バリー・タックウェルがモーツァルトのホルン協奏曲を透きとおるような明るさで吹いている。ラーラーララララララーララが、「夢をみるのはあなた」というふうに響く。愛、いつもそんなことばばかり浮かんでくる。ジョン・レノンの「スターティング・オーヴァ」のあの部分は、゛愛について語ることば、そんなものはとうに捨てたけれど゛となってしまう。慈しむ気持ち、何かが喪われたことへの感傷、かけがえのないものがなくなることへの怯え、ささやかな思いさえ届かない哀しみ痛み。だから一息に全部切り捨ててしまおうとするような極端な反応もでてしまう。たぶん全ては、求めることへの渇きみたいなものからきているのだろう。
 愛することも愛されることも、喜びというには複雑すぎる、もっと強いしびれるような、痛みも含んだ快感、だからその強すぎる刺激にいつまでも耐えられなくなる。かすかな痛みの予感すら、人を怯えさせ弱気にさせる。愛されることは逃げれば避けられる、愛することは事前の予感のなかで封印する。そうすれば淋しいけれど、平穏な生活があるし、それはそれで人を賢くもする。愛や性に振り回され、やせ細り、みずみずしい感受さえ枯れ果てて、何が残るのか?遠くまで届く洞察や深い思索ではなく、せいぜい底の浅い仮構された諦念、または自分をぼきりとへし折って終わらせるような蛮勇。あらゆる感覚をゼロに閉じこめ、徹底した無反応を装った不毛な時間が続く、時には永遠に。それは、つらい、だれにとっても。
 結局どう転んでも・・・・といったふうに考えることは、どこかで生きることとの接点を失って表層を滑ってしまい、焦点を結べないまま虚しい空転が続いてしまう。自身の肉感や生理を素直に信じ切って積極的に身をゆだねた、愚かで大胆だった時代が、若さが懐かしい。体の柔軟さが、稚拙な思考が、傲慢な矜持が、すでに巻き込まれている巨大な雪崩にすら気づくことから遠ざからせていた、そんな時が。
 でもそんなことばかり言ってはいられない。久しぶりの晴れだ、明日は雪らしい、今のうちに洗濯をしなければ。掃除もして、昼食には、いただいた薩摩芋を焼いて食べ、夕食は予定どおりアラのちり鍋だ。野菜は庭からもカツオ菜、春菊、大根を採ってこれるし、白菜や根深ネギは買い置きがある。昨日いただいた牡蠣を殻からだして塩で洗って準備しておかなければならないけれど、他のものは、シラタキは乾燥こんにゃくを戻して使えるし、豆腐もある(最近は平気で2、3日もつようなものばかりだ)から、買い物には行かなくてもいい。でも久しぶりにこの空の下ゆっくり海岸を散歩したい。何もかも早くすませなくては。
 曲はいつの間にか桑田佳祐にかわっている(だれもいないのにそんなことがあるわけがない)。あの声で愛を歌っている、だからリアルだ。「忘れないと誓ったあの日のことばは遠く・・・・めぐり逢えた瞬間から魔法がとけない」。ささやかなことを大仰なことばにまぶし(その反対かもしれない)、でもいつもの馴染みあるメロディーに説得させられてしまう。彼の歌もいつも失恋やお別れだ。愛はいつも成就しないことが美しく、出会う前にして別れが希求された、ほんとに!?
 天気予報をいつものように裏切って、青空は続く。冷たい北西の風も続く。北北西に進路をとったのはだれだったのか。どこへもたどり着けなかったと淋しく叫んだのはだれだったのか。ぼくはかっきりとした真っすぐな光の下、180パーセント空、90パーセント海の視界のなかを、ふわふわ歩いていく。風に乗ってすごいスピードでウィンドサーフィンのボートが走る。波が寄せる、寄せる、寄せる。 

 

菜園便り43
2月12日

 1個だけ残っていた黄色のピーマン(パプリカ)を摘んできた。肉厚で柔らかくて甘みがあり、おいしい。かなり大きくなったし、まだ色は緑とのまだらのままだけれど、もう採らないと萎れてしまうだろう。最後のピーマンだ。夏の間ずっとなり続け、秋にから冬にかけても小さくなりながら続いて、もう2月、すごい。肉厚の黄色や赤はサラダやオリーブオイル炒めが多かったけれど、ふつうの緑のものはチンジャオロースー(ピーマンと牛肉の細切り炒め)。菜園の野菜は味も香りもかなり強いから、こういう料理によくあう。サラダには強すぎることもあるけれど、蕪なんかはあの癖のある苦みが、生だとかえって感じられない、生の人参のように。だから菜園サラダには何でもいれた。さすがに春菊は試さなかったけれど、そういうレシピもあるから、わりにあうのかもしれない。その春菊もさすがに最近は小さく硬くなってきている。
 何度も書いているけれど、ほんとに鍋料理には何でも合う、菜園のカツオ菜、ほうれん草、春菊、青菜(と呼んでいる中国系の青梗菜の親分みたいなもの)。大根はおろして薬味に使うし、箸休めに蕪の酢漬けやルッコラブロッコリーのサラダもちょっとピリッとして悪くない。いただいたり買ってきたりした白菜、根深、里芋、椎茸、エノキタケ、とにかく驚くほどどっさり食べられる。サラダの倍以上は食べる。
 菜園サラダもまだまだがんばってくれている。もうあと2回くらいで終わりそうな、茎が伸び始めて葉も小さくなったレタス、茂って勢いもあり芽も伸びているルッコララディッシュはもう一回くらい採れるかもしれないし、イタリアンパセリも健在。
 冬こそおいしい大根も、密集していたけれど順当に育ってくれ、最盛期。ぽつぽつと茎が伸び始めるものもでてきて、ちょっとあわただしくなった。あれこれの料理や貯蔵を考えなければ。昨日も大根と干し椎茸を薄味で煮て食べた、少しえぐいような甘みがあっておいしい。引き抜くまでどんな大きさか形か見当もつかない。ほっそり長かったり、ずんぐりと短かったり、ねじれて途中で曲がったものや、二股に分かれたり、葉っぱの勢いに比べてしょぼいものや、首を文字通り青々させているものもある。昨年の父が別の場所でやっていた菜園では大根だけはうまくいかず、小さいものしかできなかったから今年のが特に立派に見える。でも、よそからいただくのはあきれるほど大きかったり太かったりして、驚かされる。丸い聖護院大根もいただいたけれど、癖が少なすぎるのか煮てもさっぱりと淡泊にすぎる気がしてちょっともの足りない。別の料理が合うのかもしれない。
 野菜は形も色も華美なところがなく簡潔で美しい。食べられるということを除いても、人を惹きつけるし、楽しませてくれる。どこに置いても、ごろんといったかんじで存在を示している、誇示するというのとはまったく違って。勁いけれど見ためは柔らかで、あたりも穏やかだ、つまりほんとのやさしさがある。そういう人にはとうとうなれなかった。なりたいと思ってこなかったからでもあるだろう。宮沢賢治ではないけれど、そういう人はでくのぼうと呼ばれ、軽んじられ、いいように使われる、つまり損だ、というように思ってきたふしがある。少なくとも、負けたくないとかいやな思いをしたくないというのはあった(小さな野心や嫉心)。そこをほんの少し抜けるのにいったいどれだけの時間と強靱さと忍耐がいるのだろう。植物のようにゆっくりと時間をかけ、周りをきちんと見ながらも巻き込まれず、ほんとに大切なことだけを護って、結果をおそれず、自他への尊厳を保ち、何よりも受け入れる力を持ち続けること、といった生き方。ほんとはだれもがあたりまえのこととして持っている、でも今は「個」が前面に出てきて見えなくなっているもの。慈しむ気持ち、生の単純な深み、そういうもの。 

 

菜園便り44
2月15日

 新聞の日曜版のコラムに、16年間住んだ大正時代の長屋の生活を懐かしむエッセイが載っていた。今は新しい住居に移っていて、建付もいいしお湯も出るし、内風呂もある。快適になり、霜焼けもなくなった、ほんとにうれしくてほっとするけれど、喪ったものもあると、感傷や持てるものの余裕としてでなく、彼女は寂しく思っている。冷え切った手に持つ湯呑みのあたたかさ、かじりつくようにして暖をとった火鉢。静かに語られる、何かを得ることが何かを喪うことだという真実は、しんと人をうつ。
 ソクーロフ監督が奈良の奥でひとり住む婦人を撮った作品「穏やかな生活」を思いだす。子供が嫁ぎ、夫が亡くなり、広い大きな家をひとり護っている婦人。凍えるような真冬にも火の気は和裁の仕事部屋の小さな火鉢くらい。それも暖をとることよりも、仕事で使う鏝を灰に埋めて温めるのが主要な役割。裁縫台の上に広げられた、持ち重りしそうな厚い黒と白の礼装用絹生地を、時々火鉢にかざして温めた指で縫っていく。はあっと息を吹きかけて手を温めるときのような、かすかなぬくもりまで伝わってくるようだった。七輪で準備する食事も質素だ。食後の暖かいお茶を両手で抱えてゆっくりとのむとき、カメラの前の硬かった表情がすっと溶けていく。
 思わずつま先をあげて踵で歩きそうになる畳の冷たさも、湯呑みから立ちのぼる湯気の湿った温かみさえもがいとおしいようにさえ思えることもわかる。環境の厳しさに対応したような彼女の厳しさ。その世代ではきっと破格だったろう教育を受けた育ち、こちらも居住まいを正されるような威圧さえ感じてしまうけれど、それはけして独善の排除ではなく、ひとつにはひとりに慣れた人の周囲への関心のなさであり、生きていくなかで身についた、引き受けれるものだけを引き受ける、引き受けなければならないことはただ黙って引き受けるというような勁さであるのだろう。 不便さから便利さへと移った人と逆に、ぼくもはじめは激怒することさえあったこの大きいだけのあばら屋「玉ノ井」での不便な生活に、喜びを見いだすことがある。広いし、古いし、隙間だらけだから、夏は心地よい。ぼうとなりそうな暑い日も家のどこかにはひっそりとした涼しい塊が残っている。窓も戸も開け放って風を入れる。夜になると人心地する温度までは下がってくれて、一息つけるし眠れる。だからそのぶん冬はひどい。でも、一月上旬には寒さへの怯えや嫌悪が慣れて薄まるのか、平気になってきて、きつい寒さの日、台所で指がかじかんでも、なかなかだなと思えたりする。買い物の途中雪に吹きつけられても、季節もいよいよ気合いがはいってきたなとかんじる余裕もでてくる。食器をひとつひとつ温め、湯気を見ながら料理を盛る。蛇口の水がしばらくすると暖かくなる、冬の傾いた日差しが部屋のずっと置くまで差し込んできて背中を温める、そういったささやかな喜び。
 遠い記憶のなかには、ぼくにも、焼き物の火鉢の重さ、なめらかさ、そしてまだ火が回る前のあのぞっと手に張りつくような冷たさが残っている。入れ替えたばかりの黒々としてわらの形を残した灰の上にごとくを立て丸い焼き網をのせ、真ちゅうの火箸でかき餅を焼いたことも。病気で休んだのか、正座して生真面目にあられを火箸でひとつずつ摘んでは火にかざして焼いているぼくは、灰色のネルの寝間着姿だ。子供心にも貧相だと思っていたあの寝間着。父方の祖母がなんて器用な子だろうと言ったと母から聞かされていたから、後でつくりあげた記憶かもしれない。でも、学校を休んだ日に火鉢にかじりついてかき餅を焼いていたのはたしかな記憶だ。もう6つか7つだっただろうし。
 当時は誰もがやっていて、もちろん母もやっていたし、近所に和裁の先生もいて見ていたのだろう、いろんな裁縫の道具のことなども思いだされる。和裁のための低く長い木の台、マストのように棒が立った箱形の裁縫箱、その箱や大の端にひもで取り付けてある生地をぴんと張るためのピンチ。たしか長い台の上には折り畳める紙や布の厚い台紙が乗っていた。生地に印を付けていくイチョウ型のへら、折り返しを押さえる柄の長い鏝。しつけ針も、縫い針もたしか洋裁とは違っていた。針山の中身には糠が使われ、しつけ糸も、ほぐしたときの糸も捨てずにきちんと巻き取ってまた使っていた。中指に指貫をつけ、それがどう役立つかは、何度見てもついにわからないままだった。かえってめんどくさそうに思えたけれど。(ヨーロッパでは指貫は、指にかぶせる形になった金属のものだった。やっぱりコレクターがたくさんいて協会もある)
 着物の仕立て直しの際の洗い張りのことも、とぎれとぎれに覚えている。糸を抜いてバラバラにした濡れた細い絹生地をしゃっしゃっと音を立ててのばして洗い張りの板に張りつける。反のままの広い生地は、両端にさしてたわめた籤を連ね、ぴんと張ってひっくり返した蒲鉾のような形で干されて揺れていた。その時も張った生地を、やはりしゃっしゃっとのばしていく。そういうリズミカルな音やてきぱきとした動作、ぬれていく干し板、光に透ける生地の模様、連なった籤の形、風に奇妙な動きで揺れていたこと。
 もう耳たぶが霜焼けで腫れ上がることもなく、台所のバケツに氷が張ることもない。でも風呂から上がってのんびりできない、急いであれこれすませて床に入らないと、死語になっていた、湯冷めということばを震えながら冷たくなった足先で体感することになる。

(以前にこの映画についてコラムに書いたものがあるので、つけておきます。)

穏やかな人生

 暗ぐらと深く厳しい作品を撮り続けるロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の『穏やかな人生』(1997年)が、福岡市図書館ホールで上映された。奈良県の山奥にひとり住まいする老婦人をじっと見つめたドキュメンタリー。百数十年はたつ堅牢な家、柱や棟は揺るぎなく、濡れ縁の木目が柔らかく浮き上がり、上がり框は撫でさすったようにすべすべと光っている。自然や孤独の険しさに拮抗する勁さをもって、蝋燭やランプの揺れる火の下、七輪で煮炊きし、冬でも開けはなった住まいのなかに火鉢だけをおき、けしてうつむかず、かがみこまず、和裁で生計を立てながらの生活。床や畳のきしみ、時にごうごうと響く風の音、重なるソクーロフのナレーション、全てに満ちている静寂すらも聴こえてくる。 
 撮影の最後の夜、彼女は熱いお茶を両手でゆっくりと吹き冷まして飲み終え、氷解したような柔らかい表情でカメラに向かって語りはじめる。でも言葉は口からは発せられないまま、そっと折り畳まれる。そしてそこに言葉に形作られてしまう前の、深く豊かなものが溢れて満ち、伝わってくる。消費のための饒舌でもなく、切り刻まれ整然とした論旨の合理でもなく、また「言葉は嘘になります」という火急な否定でもないものとして。
 旅立つ人へのはなむけの宴として、正装した婦人が夜の座敷で自分の歌や句をぽつんぽつんと読み上げる。けして自分にも見せない孤独の痛みが、亡くなった夫への、嫁いだ娘への直接的な呼びかけとしてかいま見える。浸されるほどの生の豊かさや輝きと、その酷いほどの悲哀や苦しさが静かにさしだされる。(舞座)


菜園便り45
2月25日

 ナズナシロツメクサ、仏の座、オオイヌノフグリ、コスモス、タンポポ、買い物に行く田圃の道に散らばって咲いている花の一部。季節や場所はとうに越えられて、という気になる。稲刈りの後そのままにしてある田圃、年末に鋤を入れた田、勢いのあったカリフラワーもそろそろ終わりそうな畑、鋤いたばかりで黒々と粘りのある土が盛り上がっている一角、休耕地なのか手つかずの場所。住居から離れた田圃や畑だけのこの地域は、稲も含めた商品作物がほとんどだから、あれこれたくさんの種類はない。
 農家の庭の片隅や地続きの畑には自家用の様々な野菜が少しずつ植えられている。少しずつといってもさすがにプロだからどっさりなっている。ピーマンなんかは何本も立ち枯れのまま放ってある、ちょっと声を掛けてもらっていきたくなるほどしっかり色づいておいしそうだ。でも、そういうことはとうていできそうにない。地域共同体の気安さと気難しさの案配の微妙は、はかりがたい。隣近所の人の顔すら未だにきちんと覚えられないぼくにはとうてい、とうてい。父も親しい人の畑にたまたま当人がいたときだけ声を掛けて、そうなると当然の成りゆきで、帰りに持ってお行きなさい、ということになるらしい。そうしてもらってきてくれた取れたての野菜は、ネギをはじめとにかくみずみずしくて、驚くほど柔らかくてあまみがあっておいしい。きっちりした触感があることと、筋張らない柔らかさとがぴったりと同居している。光、土、水、肥料、そして何より手入れ、つまり愛情の結果なのだろう。
 2、3日暖かい日が続いて、しかも今日は4月の気温だとか、庭の陰の沈丁花もいっせいに開いてつよい香りを放っている。玄関脇の八重椿も咲き始めた。真っ直ぐにさしてくる光と共に、温かさがしっかりと隅々まで届けられる。雀と紋黄蝶が見える。
 一昨日、芹野さんから初物の若布をいただいた。さっとゆでられた後のあの緑の鮮やかさ。少し粘りのある葉と歯ごたえのある茎、口の中に春の海がそのまま広がるようだ。橙と醤油をふりかけただけの単純な味でいただく。濡れてつやつや光り、器の中でぴんとたっている。一口ごとに季節が体に入ってくる。
 初物はいつもうれしい。見るだけで美しく、季節や気温や光りがリアルに形になりきっている。うれしさで100パーセント底上げされて、香りも味もすごい。父が土筆を少し採ってきてくれた。旧暦だと、まだ立春前なのにと驚いている。でもしっかりのびていて、さっそく薄い出汁で煮て玉子とじにする。苦みとあの独特の食感がひろがる。ちょっとむっとするような伸び始めた野の植物の匂いと気迫が伝わってくる。おいしいし、うれしいし、でも袴をとるのはほんとに面倒だともつい思ってしまう。
 初物のことを考えるときとまどうのは、トマトや胡瓜や茄子は今は一年中出回っているし、食べているけれど、すごく季節を感じさせるもの、例えば茗荷が今の時期に出てくると、やっぱり驚かされる。初物の喜びでなく、なんか異様なものを見たような、胡散臭いものをかんじて、みそ汁に入れて味わいつつも、どっかで軽んじ疎んじてしまう。でも、こういうかなり特殊で、そんなにたくさん売れないだろうものをハウスで栽培して、採算がとれるのだろうか。値段も高いわけではないし。
 遠くの兄姉、友人たちからもときおり季節の小包が届く、北海道から鹿児島から。果実、漬け物、海産物、珈琲豆、お菓子、そういったものが特にあらたまってでなく、簡単なお返しとして、お裾分けとして送られてくる。もちろんうれしいけれど、それなりにあれこれと思うこともある。珈琲はぼくが好きだからいろんな方からいただけてうれしいし、知らないところのものは初めていれるときの楽しみも増すけれど、でも珈琲ひとつにもいろんな事情がある。今度の姉からのはよくもらういつものお店のや、姪がつとめているお店のものではなかった。それは姪がつとめを止めたらしいこと、義理の兄の会社にいた人がひとりで珈琲豆の焙煎販売をはじめて、その珈琲だということなどが、添えられた短い手紙からわかってくる。だれもが時代や場のなかのたいへんさとともに、やっと息をついて暮らしているのもみえてくる。そうしてそこにはそれとははっきり名指せないほどの、生活のなかの愛とか妬みとか疎ましさとかもとうぜんにも混じっているのだろう、だれもの生のなかに混じっているように。

 

菜園便り46
2月28日

 先日、久しぶりに田川に行った。田川市美術館の「描かれた筑豊」展にあわせての企画、「筑豊・その風土と美術」というパネルディスカッションに母里(ボリ)君がでるので、それを聞きに。母里君とはずっと会ってなくてどうしてるかとちょっと心配だったのだけれど、先月の森山さんの美術館とトワールとでの個展のオープニング・パーティでばったり会ったので、とりあえず安心はした。そのパーティはさすがに゛伝説の人゛森山さんの久しぶりの個展でもあり、そうそうたるメンバーで、九州派や伝習館高校関係の長老が大勢参加されていて、初めてお会いする方々も多く緊張したし、大きな声での論陣があちこちで張られて壮観だった。すごいなと思うけれど、でもやっぱり疲れる。
 田川のディスカッションはほのぼのとしていて、母里君の塾の先生でもあった(なんと仲人でもあったことも暴露された!)、もう80を越えられているだろう阿部平臣さんのきりっとしつつどこかおっとりといった風情が印象的だった。出品作家で現在も学校の先生をされている植木レ・オナルド藤田・好正さんにも紹介してもらった。後で同年とわかったけれど、元気に1万枚の似顔絵を描き続けている人で、ぼくも描いてもらった(その日はいろいろあって、母里君の奥さんの勤子さん(彼女も阿部塾の生徒だった・・・といえばいろんなことがわかる・・・・ふーん・・・・)には後でずいぶんひやかされた。ほんとに冷や汗ものだった)。
 レセプションにも参加してビールをどっさり飲んだ後、勤子さんが女将をつとめるすばらしい明治期の建物の「あおぎり」に寄って珈琲をごちそうになり、それから母里君のやるギャラリーでもありバーでもあるhacoに行った。ここは三井炭坑が機械のために造った防空施設で、とにかく不思議ですてきな場所。そこでもまたビールを飲んで、でも八幡から便乗させてくれた鈴木君がそれから友池さんたちのグループ展を見に行くのにつきあい、福岡の薬院まで行った(そのおかげで新しく知りあえた人もいる)。なんというか鈴木君の、現在続けている表現と同じようなその溢れるエネルギーには感心させられる。ぼくも酔ってなければここまではつきあえない。遅くなったのにしっかり待っていてくれた友池さんに、でも酔った饒舌でついあれこれ語ってしまう。八幡の旧130銀行(これは辰野金吾事務所の設計)跡のギャラリー130での個展や今までの活動にもおよび、辛辣なことばも混じってしまった。でもチョコレートをどっさり持っていったから甘さで多少はうち消された、と思うしかない。
 狭い定義での「表現する」ということ、現在一般的に語られる「芸術」や「作品」ということなのだろうが、それはたしかに心躍る、同時に責め苦でもあるような、美しくてうっとりしてしんどくて苛々するやっかいなことだ。だから始めると時間のたつのも忘れるし、ずっとやり続け関わり続けていたいし、すぐにでも逃げ出してしまいたくもなるのだろう。それは自分がやることでも、だれかのをみること(読むこと、聴くこと)でも同じだろう。でも、「表現」ということがもっと開かれ、とりあえず「芸術」や「作品」という概念だけでも抜け出ていければ、ずいぶんと広い所へでれる気がする。そうなれば、全てのことが表現だという地点、表現ということばが意味を失う場にもいつか出会えるのだろう、その単純で深い場に。

 

菜園便り47
3月15日

 先日、水平塾の面々と山口、萩への旅行へ出かけた。笠山という所の椿の群生を見るのが目的だけれど、それはあくまでひとつの理由で、とにかくみんなで楽しくやろうということだ。2台の車に便乗し、計画、会計、運転してくれる友人に感謝しつつ、門司での昼食(かつての繁栄の雰囲気を残す中国料理店で特大チャンポン!)、下関美術館(「殿敷侃」展と珈琲)、長府の功山寺を経て泊まりは湯田温泉。温泉に何度もつかり、訪ねてみえた古い友人、藤田さんも加わっての宴、歌もでて(なんと50年代の「桑畑」「グミの木」!)、最後は深夜の真摯な会話のおまけもついた。国家や民族が共同の幻想であり、時代と地域のなかでつくりあげられた観念でしかないように、「部落」や性別(セクシュアリティ)も幻想であり、個(個体)という概念、さらには生や死という意味さえも根源までさかのぼって問い返す、考え直せるはずだといった、もうずっと続けているけれどなかなか進んでいかないことがらについてなどの。
 晴天の翌日、椿の林を散策し、群青の海にうち寄せる荒い波しぶき、吹きつける風に晒され、そしてまた揃っての昼食(甘鯛の煮付けやさざえ飯)、そして珈琲。高台からの眺めは、荒い外海と、防波堤のなかの穏やかな様が、ふいの時雨や群れをなす鳶の下で様々に変化する。鳥羽を、行ったこともないのに思いだしたりする。萩はぼくには初めての地で、瑠璃光寺五重塔松陰神社(こういうものがあることも知らなかった)のなかの松下村塾、旧住居も見る。松蔭や高杉晋作の名前が語られる度に生まれるある親和感は、でもぼくには遠い。
 夜のなかを走る車のなかはどこかしんとして、会話もぷつんときれる。少しの疲れ、一度にたくさんのものがなだれ込んできた酩酊、楽しみが終わることと一日の終わりが重なって、だれもが宵闇に浸される。でも、元気にまたいっしょの夕食をすませて、そうして別れていく。飛び交うことば、感謝の挨拶、またね、またね。今度は松永さんを偲んで、桜を見ましょうね、必ずね。
 前夜の宴では「琵琶湖就航の歌」がでて、それは松永さんが好きだったからで、しかもそのなかの歌詞に琵琶湖に浮かぶ竹生島(チクブジマ)が出てくるのだけれど、彼が京都の交流会の後にぼくらを彦根から竹生島まで連れて行ってくれたことがあって、だからこの歌は幾重にも彼を思いださせ、おまけにその日湯田まで訪ねてみえた藤田さんのお宅に原口さんと伺った日に、松永さんは亡くなられたのだったし、あれやこれや記憶がどっと噴きだして酔った頭のなかを渦巻く。それはみんなのなかにも、いろんな形で膨れ、溢れ、流れだす。
 死や、喪失は、いつでも不意打ちのように、まるで曲がり角に待ち伏せしていたように、一息に姿を現す、けして逃げ場はない、答えはでないままだ、永遠に、自分にも喪われたものにも。さりげなくその場をかわす、尻をはしょって逃げだす、また次の不意打ちの予感に怯えつつ、でもそこだけが喪われたものとの再会の場だとも気づく、淋しいその時の間にだけ、瞬間の逢瀬があり、逢魔がある、怖い、狂おしい。そこでは何が語られるものとして、受け取られるものとして、差しだされるものとして、待っているのだろう。 

 

菜園便り48
3月19日

 菜園はもうすっかり春のなかだ。大根も終わりが近づき、父は花が咲かないように、地面に植えたまま葉だけを切り落としている。奇妙な、わびしげな風景。カツオ菜はまだしっかりと肉厚の葉をつけているけれどさすがにもう固くなってきた。ほうれん草は大人の手くらいの大きさに葉を広げていて、ちょとびっくりする。でも甘くて柔らかくておいしい。ルッコラは冬を越してまた伸び始め、白い花をたくさんつけた、いよいよこの代は終わりなのだろう。べつ植えになっていた枯れた鉢からはすでに新芽が出てきている。エンドウはスイートピーそのままの白い花をたくさんつけ、もう小さい実がなり始めた。絹ざやかグリンピースかまだ聞いてないけれど。
 青梗菜の親分のような青菜も終わり、茎をすっと伸ばして黄色い花をつけている。隣の蕪とそっくりの菜の花のような黄色い花。開く前のつぼみを鍋にしてみたら、かなり苦みが強いけれど、いかにも春の野菜といったかんじだ。さっと茹でて、芥子醤油で食べたらおいしいかもしれない。イタリアンパセリもぐんぐん伸び始めた。あいかわらず、癖の少ない楚々とした味。
 いただくものも多くて、ブロッコリーや菜の花、大根を友池さんにいただいた。しっかりとした野菜畑と上手なご両親からだから、りっぱなおいしい野菜だ。大根やネギもあちこちからいただいた。黒々とした、いかにも肥沃な土のついた里芋や人参は千鶴子さんのお母さんから。鹿児島の知人から馬鈴薯も届いた。父があまり好きでないので、あれこれやってみる。すり下ろしてお焼きのように焼くとか、蒸してマッシュポテトにするとか。マッシュはバターと牛乳をたっぷり入れてなかなかの味だったけれど、父にはいまひとつのようだ。先日は芹野さんのお父さんから、獲ってこられたばかりのボラとメバルの小魚をいただいた。さっそく父に刺身に引いてもらい、次の日は鍋に、そうして最後は残りを煮付けにしてしっかり食べ尽くした。さすがに満腹。
 昨日、庭で友人たちと「春の野菜を天ぷらで食べる集り」をやった。買ったものも多いけれど、土筆と雪の下、春菊、ノビル、菜の花は野や庭で採れたもの。まだ薄い緑色の際だった香りや独特の苦み、そしてじわりと下から浮き上がってくるような甘みが混じり合った野菜はそのえぐみまでもおいしい。蕗のとう、タラの芽、竹の子と次々に揚げては熱々をいただく、ただただおいしい。目の前には穏やかにたゆたう春の海が広がり、まだ少し冷たさを残した、生まれたての風が抜けていく。あおられて捲れるテーブルクロスの上には、他にも鰻巻きや鶏、芹のおひたしや空豆、桜ご飯、それにチーズもワインと共に並ぶ。至福、そんな大げさなことばも浮かぶ。
 余田さんがいただきものだと下げてきてくれたあさりを使ってのお吸い物も木の芽を浮かべていただいたし、お裾分けの鰤のあら煮もいただく。書家の前崎さんが点ててくれたお茶を、奈良のお土産の干菓子でいただき、最後には川内さんのバナナケーキにも及んだ。長い長い゛快楽゛の一日が終わったのはもう夜中の11時。
 水温み、野からも海からも新しい届けものの知らせが続く。

 

菜園便り49
4月13日

 お彼岸(春分)を過ぎて、陽射しもかなり高くなり、もう部屋の奥まで光を届けてこない。あついほどの陽を背中に受けながらまどろんでいたのも、ずいぶん遠いときのように思えてしまう。
 今年もまた竹の子をあちこちからいただいた。今年は不作の年のようで、いつもより少ないけれど、しっかりお裾分けもし、あれこれ料理していただく。何はさておいて、竹の子ご飯、これはかかせない。人参を彩りに入れるだけであとは出汁と調味料、できあがってから庭のエンドウをいれて、おしまい。簡単で素朴でおいしい。そうやって2、3回やった後は、鶏肉(かしわ)をいれてちょっと濃くしてもいい。他には、定番の若竹煮、酢の物、玉子とじ。どれも適当に味を変えられるし、飽きない。味付けしたものを天ぷらにしてもおいしいらしいので、一度挑戦したい。でも天ぷらは難しいし、うまくできないし、片づけも面倒だし、二の足を踏む。
 ツワブキも庭でたくさん採れる。庭にたくさんあるのは、ここが野山の状態だから野草が蔓延ったのだろうかなんて思っていたけれど、父に、観賞用として庭に植えられていたと聞いて納得がいった。それが、あまりあれこれ手入れせずに、育つに任せていたから野生に戻り、こうなったのだろう。父が採って皮もむいてくれるから、いろいろに料理できる。あの独特のえぐみがいいから、あまり濃い味で料理しない方がいいけれど、今年は教わったばかりのきんぴら風でもつくってみた。これはうまくいった。みりんの甘みと濃い口の味が油とまじりあって、酒にもよく合う。
 季節に季節のものを食べて、飽きるほどそればかり食べて、そうしてまた次の季節を待つ、そういうのはうれしい。ゴーヤ(ニガウリ)もそういうひとつであってほしい。今年も父が植えてくれそうだ。菜園は冬野菜の撤収が進み、夏野菜の準備が始まった。残った大根を抜き、青菜を抜き、畝を耕し、肥料を入れる。ほとんどは父がやってくれて、ぼくは整理の手伝いや、草取りや、残った野菜のしまつをやるぐらい。ルッコラも種がふくらみはじめていよいよ終わり。イタリアン・パセリも芯が伸び始め、花をつけそうだ。先日買ってきたズッキーニももう植えないといけないけれど、まだこういうカボチャ系の地を這う野菜の居場所は決まらない。去年の場所には分葱とニラが育ち、エンドウも実をつけ続けているし。春菊も花が開き始めた。採れるだけとっておひたしにし、残りは冷凍にしてみよう。花も美しい。ほうれん草も終わった。カツオ菜は相変わらず大きな葉を広げているけれど、かたくなったし、ぼくは正直飽きてしまった。二人家族には多すぎる。
 芹野さんのお父さんからの魚も続いていて、感動的においしい。獲れたての鰺、メバル、ゴウザなどなど(魚の名前は覚えられない。先日も一度聞いたら一生忘れられないような奇妙な名前を聞いて知らなかったので、モグリの津屋崎人だと言われたばかりなのに、もうその名前も思い出せない。すごくおかしみのあるユニークな名前だった)。刺身、焼き物、オリーブオイル焼き、煮ものなどなど。シンプルな醤油とみりんだけでも十分においしいし、ショウガや山椒、今は木の芽を加えてもいい。抵抗のあった、煮汁で炊く野菜もだいじょうぶになった、なんたってこんなに新鮮でおいしい魚の出汁なのだから。直接いただいたり、庭で収穫したものへの偏愛は、ますます強まる。実際、香りも味も、食感もまったく違うし、喜びや感謝する気持ちが生まれる。無駄にならないよう、隅から隅まで使う気にもなる。
 まだトマトやバジル、レモンバームの種まきもある。もうちょっと温かくなると、どっといろんな野菜の植え付けも始まる。小さな菜園から、また信じられないくらいの野菜が採れるようになるだろう、ほんとにすごい。

 

菜園便り50
4月15日

 先日庭でやったパーティの時、外まで聞こえるように部屋のステレオを大音響にしてパバロッティをながしていたらスピーカーが壊れてしまった。そのわりには、やっと聞こえるぐらいにしか音は届いていなかったのだけれど。
 がっかりして愚痴っていたら、森さんがよぶんなのがあると送ってくれた。うれしい。さっそく接続して3週間ぶりくらいに音楽に浸る。こういうオーディオセットなんかは、ひとつ替えるだけでがらっと音が変わって、いったい今まで自分が聴いていたのは何だったんだろうとか思わせられたといったようなことをよく聞くけれど、実際今度もそんな気がする。2年前のアンプの時ほどではないと思うけれど(いまさらもうわからない)、でもずいぶんとちがう。ふーーーーーーん。
 しょっちゅう聴いていた管楽器もののモーツァルトや歌もののアリア集をかけてみて、やっぱりちがう、と思う。聞こえる音それ自体がふくらみがあるし、ほとんど聞こえていなかった音もある。これまでのはもっと線が細くて、音も高めに感じられたような気がする。今のはすごく粘りがあって厚みがあり、艶がある、みたいな言い方しかできないけれど。
 でも3週間聴けないのは、思っていたほど苦痛ではなかった。他で聴くことが多かったせいもあるけれど、ぼくは、音楽が無ければ死ぬ、いたたまれないということはない。よく、「第一楽章派です」とか言ったりするけれど、CDを聴いていていつの間にか何か他のことを考えていて、聞こえなくなっている。何かしながら、ただ流していることも多い。だから、きちんと聴くと、第2、第3楽章などは。まるで初めて聴くような気がしたりする。これは何?と驚いたりする。
 以前仕事で関わっていたことがあって、CDはかなりある。でもふだん聴くのはほんとに限られている。たまに奥から引っ張り出してきて聴いて、ああいいなと思ったりしてもいつの間にかまた奥に戻ってしまっている。音であれ、音色であれ、テーマであれ、内容量の豊富すぎるものはつい敬遠してしまう。例えば交響曲印象派、ベートーベンといったような。
 オペラ(ダイジェスト版)やアリアをよく聴くのは、ことばがわからないから、声としてだけ聴いていられるからということもある。日本語のようにはっきり意味がとれると耳についてしまい、つい聞き込んだり、いらだったりしてしまう。あの奇怪な日本語のアリアや歌曲よりは、ポップソングや歌謡曲の方が、当然だけれどずっと聴きやすい。演歌になるとまた、異様でステレオタイプというとんでもない歌詞や節回しになったりする、どうしてだろう。あまりにも思いこみの前提をおきすぎる、決めてかかるからだろうか。
 先日、演歌歌手がどっとでてくる歌番組をみていたけれど、あの表情や髪型や化粧や仕草にはちょと耐えられなかった。どうしてあんなふうにするんだろう。それが求められているとしたら、ずいぶん奇妙な世界だ。ああいった傾向の歌が持つ力やリアリティ、情動や抒情はそのままストレートに人の胸にドンとぶつかり、一瞬にして掴んでしまうものを持っていると思うのだけれど、なかにいる人たちはそれを信じてないのかもしれない(ことばとしてはいかにもそういうふうに言われていそうだけれど)。通俗的なことばを重ね重ねたうえに、ふいに小さなでも永遠の一瞬があったりする、それを再び「愛」と叫ばなくてもいいのにと思ってしまう。
 


菜園便り51
4月16日

 先日、萩原幸枝さんに勧められ、またデジタル・ヴィデオ・カメラも貸してもらって、玉乃井を記録として撮影した。幸枝さんは当日も撮影助手みたいなことまで手伝ってくれた。感謝。
 彼女の子供の頃の8mmフィルム映像をずっと後になってVHSで1時間くらいにまとめたものがあって、以前に初めて伺ったときに見せてもらい印象深かったことと、やっぱり記録や「思いで」は大切よと言われて、そういうきっかけがないとなかなかとりかからないものだから、ことばに甘えて集中してみた。慣れないことだし(ほとんど初めてのようなものだ)、体も気持ちもそうとうむりな強張りがあったようで、ぐったり疲れた。
 現在ぼくが父と住んでいる玉乃井は、戦後、祖父母が買い取って始めた割烹旅館だった所で、7年ほど前に営業を止めた建物。崩壊しそうなあばらやだけれど広いし、全く使ってない部屋ばかりだし、雨戸ひとつとっても1年ぶりに開けるといった状態で(開けることのできない所の方が多い)、始めるまでもなかなかたいへんだった。それでも、励まされたり、自分でも「なかなかだ」なんて思いこみつつ2日かけて撮った。編集なんてできないから、コンテみたいなものをでっちあげて、それにそって頭から直に撮っていき、ナレーションも撮りながら入れていく。手元は震えるし、テキストを読んでると持ってるカメラの位置がずずずっと傾いていくし、ズームとワイドを間違え行ったりきたりして揺れる。
 全景、庭、各部屋、廊下や階段、風呂、以前住んでいた向いの家、津屋崎の港や街並みも撮る。厨房と、荒みきった竹の間は幸枝さんが撮影してくれた。あまりにひどい所は、当然の身びいきでぼくが外していたら、それもおもしろいしきっといい記録になる(「思いで」になる)ということで。
 母の古い写真も撮った。亡くなってからずっとアルバムを見ることさえ苦しくてできなかったのに、4年たっていつのまにかじっと眺められるまでになっていた。古いものだけでも5冊ものアルバムがある。母方の曾祖父、祖父、祖母、叔父、叔母。父のアルバムも撮る。結婚前のは1冊だけ。以前、父に聞きながらメモした、ぼくらのあまり知らない父方の家系図みたいなものもおさめる。
 準備したテキストは長すぎたし、うまく読めないし、削りながらナレーションに使ったけれど、ぼくの思いや好悪が露骨にでてきていて、自分でもちょっと驚いた(これじゃまるで、ぼくの映画になってしまいそうだ)。親族、家族への、子供時代への、愛憎は深い、と言うべきか。こんなに穏やかな環境のなかで、でも屈折や内向を抱え込んでしまうのも、また、生なのだろう。父や母が持った感情のねじれを、ほぐして開いていくのでなくそのまま受け継ごうとしているところもあるのだろうか。それが、彼らの思いを晴らす「復讐」であるとでも思っているのかもしれない。そうしてそこには当然のようにぼく自身の愛憎がさらに重なり織り畳まれて、幾重にも屈折は深まり、現在のことがらも取り込まれ切り刻まれ、どろどろと深まるばかりだ。せんないことを、と思ってはいるのだけれど。
 この「菜園便り」の主役である、海側の庭にある菜園も野菜も、もちろんでてくる。海も、そして空もでてくる。そこだけはかけねなしに美しいし、無垢だ。

 

菜園便り52
4月20日

 久しぶりに、田圃の道を歩いて買い物にいく。田には水が張られ、耕耘機が鋤きながら泥を攪拌している。いろんな地中の虫などがでてくるのだろう、白鷺が群れをなして降りてきている。もうじき田植えか、と思っていると、もうあちこちでは終わっていて、かすむようなうす緑色が光る水に反映って続いている。早い!
 今年は桜もそうだったけれどなんでも早い。先日も子供の頃住んでいた蔵屋敷というところを通りかかると、観音堂の藤棚が満開で、強い匂いを放っていた。下を歩くとくらくらしそうなほどだった。房の先をひとつちぎってポケットに入れると一日香りは続いた。昔、この下で子供会の集まりがあって楽しみにしていたけれど、それは5月のこどもの日のことだった。早い!
 お堂では、匂いだけでなく、今はない土塀の周りを飛び回っていた蜜蜂の羽音や、誰かが強引に引きちぎった蜂の体やなんかがリアルに蘇ってくる。トンボの頭、蝉の羽、カナブンの足、そんなものをむしる残酷と怯えとは、しっかりと焼きついて残っている。どうしてあんなことをしたのだろう、そんなにも激しい関心を、どこで育んだのだろう。そうしていったいいつその全部を喪ったのだろう。
 蝶の複雑で妖しげな美しさと、鱗粉が手につく気味悪さとから離れ、甲虫類の単純さや愚鈍な強さが、子供たちを惹きつけていた。かっきりとした輪郭、曖昧な所のないフォルム、すべやかな表面の輝き。あの惜しげなくまばゆさを散りばめた玉虫も、洗いたてた紺地に水玉のカミキリ虫だって、簡単に捕れていたのに。虫や魚への興味が失われ、野山や川での遊びがいつのまにかなくなり、仲間とぶらぶら意味もなく歩いてとりとめなくしゃべりながら、そのくせどこかぴりぴりしているようになって、ときおりじっと黙り込んで、そうして、あっという間に今だ。
 あちこちからいただいていた、トマトとバジル、それにレモンバームの種を父と鉢に蒔く。久しぶりにふたりしてあれこれやりながら、さしてきた陽射しの下、庭の芝生に座り込んで、名札に名前を書いたり、土を混ぜたりするのは楽しい。ずっと以前にもらってガラスの花瓶に飾っていたいろんなハーブ類を適当に鉢にさしてみたら、ミントはどうやら着いたようだ。ローズマリーは4本もあったのに、全部枯れてしまった。いちばん簡単なハーブだと言う人も多いけれど、なぜか我が家では失敗してばかり。やっとついたのも1年後ぐらいに、地植えする前になくなってしまった。風にとばされたのか、だれかが持っていってしまったのか。フェンネルも試しているけれど、うまくいくかどうか。とにかくぼくがやると九分九厘失敗する。
 ずっと前に余田さんからルッコラといっしょにお土産にもらたイタリアの種の野菜で、名前がずっとわからなかったのは、野菜やハーブの本なんかをみると、花や味がチコリにすごく近い。その透けるようなうす水色の花の写真や苦みの描写からして、チコリ、エンダイブ、そういった系統のもののようだ。花のために栽培する人がいるのもわかる。たしかにひっそりとして美しい。切り花にしても水あげしないからすぐ枯れてしまうと思っていたけれど、一日だけの花だとわかった。しかもこの花も食べられるらしい。つぼみで切り花にしたら、人にあげることもできる。「開いたらすぐに摘み取って引きちぎりむしゃむしゃと食べてください」、と詞書きを添えて。    

 

菜園便り53
4月25日

 春の野草や野菜も終わってしまったと残念に思っていたら、井上さんがどっさり届けてくれた。玄海町の実家で、市川さん母娘といっしょに掘って茹でてくれた竹の子。他にもわらび、蕗をいただいた。みずみずしく、匂いたつ。さっそく、竹の子を椎茸や高野豆腐との煮物、庭のエンドウとの酢の物に。はじめての蕗ご飯にも挑戦してみた。味をつけて煮込んだものを後で混ぜるので、失敗はないしおいしかったけれど、色が黒ずんで紹介記事の写真のような薄い翡翠色とはかけ離れていた。まだたくさん残っているので、今度は出汁にちょと味をつけたぐらいで煮含めてみよう。わらびもすぐに灰汁抜きして、一晩おく。
ちょうど父がえんどうを摘み、ツワブキの皮をむいて札幌の姉に送る準備をしていたので、いっしょに少しだけお裾分けする。こういうときはほんとに吝嗇になる。とにかく飽きるまで、気持ちもお腹いっぱいになるまで春を食べ尽くしたい、と餓鬼のように本気で思ってしまう。
 翌日は竹の子をごま油と唐辛子で炒めて味噌をからめたもの、わらびと春菊とエンドウの酢の物、蕗とわらびの煮浸し(他に津屋崎のおきゅうとなど)。翌々日は竹の子とわらびとエンドウの酢の物、ツワブキのきんぴら(他に芹野さんからいただいた鰺の刺身(背ごし)、鰺の塩焼き、庭のほうれん草のおしたし、酢人参)。その次の日は、竹の子と蓮根をすり下ろした団子を揚げてお吸い物にするのを初めて試み(なかなかおいしい、でも揚げただけで食べた方がいいと思う)、先日の竹の子の煮物を温め、わらびと蕗にエンドウを加えて温め、後は鰺の塩焼き。
 竹の子はもう一回ご飯にし、残りを酢の物にするのがやっとというところ。それで春もほんとに終わる。今年も若布が少なく、竹の子もいつもほどではなかったけれど、ほんとにおいしく、春の野菜を十分に堪能できた。届けてくれた人、つくってくれた人、教えてくれた人に、感謝。
 先日の玉乃井の記録撮影について菜園便りに書いたら、いくつもメールが届いた。やっぱりだれもが、時代や年齢からか、記録を取ること、とくにかつての生活や両親や家族や家(建物や親族や)のことを知っておきたい、残しておきたいという気持ちを持っているからだろう。喪われた、喪われていくものへの哀惜、生々しいリアルさから少し離れたゆえのセンティメント、自身を振り返り、残すにしろ消すにしろその痕跡についていやでも考えてしまうのだろうか。50年、区切りのいい響き。もう多くは望めないし期待もしない、でもこのまま穏やかに消え入っていくほどには、静かな落ち着きはまだない、そんな年齢、時代。いよいよこれからだ、とでもいいたいほどの体力やぎらぎらするまでの野心を持ち抱えている人もいる、実際、社会的な定年だってまだずっと先だ。でも何をやれるかでなく、何かをやること自体への、大げさに言えば懐疑がぼくらを浸しているのも事実だろう。やさしさとか、愛とか、正しさとかいった、根源的で本質的とさえ思えていたことすらが揺れている今という時には。  


菜園便り54
4月29日

 現在、たぶん世界でいちばん深い映画をつくる監督、蔡明亮の『ふたつの時、二人の時間』をみることができた。過激なまでにぐいぐいと世界の、人の深みに突き進んで息が止まるほどだった傑作『河』(1997年)の後、あまりうまくいかなかった前作『Hole』(1998年)の後だから、心配で見るのがこわくもあった。すばらしい作品の後、うまくいかなくなる監督も多い(そんなに抜きんでたものをつくり続けることはもちろん不可能だろうけれど)。でも今回の蔡明亮は、あざとささえもあって、あらためてすごい、すばらしい。ほんとうにさりげないユーモアもそこここに散在する。
 これまでの作品と同じように台北の喧噪のなか、人々は飢渇をかかえたままいつものように水を飲み続ける。食べることが慰安であるかのように、父親を喪った母と息子(いつものシャオカン)は、まるで初めて家族揃って食べるかのように、残されたふたりで食事を繰り返す。そうして、やはりだれもが孤立し、無援のままで放りだされている。閉ざされた外界、様々な難しさを抱えた生の現場のなかで人々はさらにばらばらになり、精神の安定を失い、急速に壊れていく。
 そうして、通りで時計を売るシャオカンとふれあった若い女性(シアンチー)は、旅だった先、異邦での完璧なまでの孤絶と緊張のなか、周りに溢れる見知らぬ人々の拒絶と攻撃とにさらされ続ける。わずかなことば、ささやかな思いやりは、それと気づく間もなく互いにすれ違うしかなく、またたくまに騒擾のなかにかき消される。都市の、ヨーロッパの、圧倒的な数の、巨大な前史の伽藍の前で、まるで存在さえしないように、痕跡すらなくて。凍りつくような、うそざむいまでの孤独、無感覚、亀裂、あがき、無。
 だれもが必死で叫びながら、でもだれともふれあえず、ふれあうことを恐れて立ちすくむ。そうしてそういう自分の在り方にさえ気づかないまま、大きく見開かれた目は、なにも見ないために、知ることを拒むために、瞬きさえできないかのようだ。どうしようもないほどの孤立と、どうしようもなくつながりあってしまう関係とは、人の生のなかでぴったり重なっている。ほんとうは人はもっと単純で深いはずなのだろうけれど。
 ぐっすり眠って(自失して)そうして目が覚めたら、たとえ何かが喪われていたとしても(よしんば自身の体や命であっても)、また始める力を人は持っている、大丈夫だよ、安心してゆだねなさい、そういうふに最後に映画は語る。
 だれひとり笑わない、微笑めない、でもだれもがもがきつつ、最後には穏やかな至上の優しさを浮かべる。吹きさらしの公園で眠り続けるシアンチーも、見まもって歩み去るかつての父親も、憔悴しきって眠る母親も、その母に穏やかに寄り添って横たわるシャオカンも。
 そうして、時、時間という概念がゆっくりと揺すられる、そうして当然にも、在る、存在するということの意味も在り方も揺れる。人はどこにいて、どこへ行こうとしているのか、何を求めて、何をしようとしているのか。伸ばした指はすでに何かにしっかりと触れているのだから、それに静かに気づくことだけが、ぼくらに、だれにもに残されていることなのだから。

 

菜園便り55
5月6日

 古本屋で文芸文春のだしている、年間ベストエッセイ集を見つけて買ってきた。このシリーズは当たりはずれが大きくて、最近はもう全然読んでなかったけれど、久しぶりに買ってみた、89年集だ。タイトルは『誕生日のアップルパイ』、当たりでも外れでもなく、でもよく知られた人が多い。全く知らない人が小さなメディアに書いたいいものがひとつあったりすると、それだけですごくうれしくなれるのだけれど。でも、さすがにタイトルにもなっていた庄野潤三のは懐かしかったし、よかった。
 庄野のことは沖野が学生時代に教えてくれた。文学好きの学生のほとんどが大江健三郎やクレジオを抱えていた時代に、第三の新人の庄野を語る、というだけでもなかなかだ。彼が「庄野大先生」と呼んでいたのは、照れの揶揄やそれなりの矜持や批評だったのだろうけれど、今じゃ文字通り最長老の大先生だ。
 エッセイは、長女からの「40になりました」という2枚続きのはがきのことだった。読み進めていくうちに、彼の「小説作品」ほどでないけれど徐々に人は庄野ワールドにはまりこむ。ありふれたできごと、でてくる人も限られている。映画では小津がずっとやり続けたようなことがら。ほんの少し焦点をぼかして(どちらかというと時間的なずれとして)、語られていることが読者にすぐにわからないようになっていて、徐々にいろんなことが見えてくる。そうして、最後にばさりと全体が、ではなく、なんとなくわかったようで・・・・で終わる。
 この長女のことは、他の子供たちにもまして、庄野を読んだ人には特別なものがある。今でもいちばん著名な彼の作品『静物』で、父親が(庄野だ)映画のなかの怖い場面になるとそっとその大きな手で彼女の目をふさぐところがある。この箇所にはたぶん多くの人がいろいろに反応しただろう。圧倒的な懐かしさや憧憬、喪われたものへの感傷、「父」なるものへの思い。父権(男)の威圧とやさしさが戦後の新しい世代、小市民といわれる世界にも形をかえてあり続けたことへの小さな驚き、などいろいろ。
 そうやって目隠しをしたから、この子はわたしたち夫婦のきわどい問題を見ずにすんだんだ、知らずにすんだといったような、さり気ないひとことがどこかにでてきて、それがどうやら妻の自殺未遂のことだったらしく、だからいっそう、手の意味はふくらんでくるし、広がって覆いかぶさってくる。(読んだ人は知ってると思うけれど実際は女の子は父親に買ってもらったばかりの絵本を使って自分で隠すし、父親も若くてクールで、なのだけれど。それから作品の人物、特に主格になっている人物と実際の作家や家族との関係は単純なようで複雑だけれど、でも自身の心理を追求する形での「個」や自己処罰の対象の「私」とはちがう、モダンの洗礼の後の、けっこう単純な<わたくし=自我>みたいなものが確とした基盤になっているようにみえる。)
 その長女は、エッセイからは、元気で、楽天的に考えることのできる、生活の雑務にもしっかりし、英語を教えたりもしている人になっているようで、それはそれであまりにも「庄野<家族>文学」という色合いにぴったりになっていて、不思議な気がする。
 とにかく、庄野はすごくうまい。その間合いやリズムのとり方、外し方、ほのめかし、庄野自身の風貌のような落ち着き、かすかなおかしみ、ふいに亀裂が覗くことでいっそう際だつ生活の、日常の重みいとおしさ。それもあざといことがらでなく、どこにでもあり得る、でも決定的でもあるできごととして。
 今再読すると、日常-非日常、夫-妻、親-子、私-他者といった二項や既存の家族という制度を確固とした前提にしてしか成り立たないつくりで(小説が)、だから、意味不明のくろぐろとした澱みとか、不可解な揺れやゆがみは現れない(現れないように書かれるといったほうがいいのだろうけれど)。そうしてそのことでよりいっそう、世界や生の(性の)真実が透けて見えてくる、より深く伝わってくる、といった神話を呼び込んだのかもしれない。戦後派という社会性、政治性を主軸に声高に力強かった世代への対抗としての、ありふれた生活、平穏に生き延びようとする市民への共感、穏やかででも柔軟に貫き通す、曲げない在り方、というようなまとめ方でくくられ、浮き上がらせられたのだろう、「文学界」の要請としても。至難な、「個」の追求、つまり「私」とは何かといった問いが内省の内の個の微分的解析や時代(状況)のなかの位置確認みたいなことに留まってしまったのだろうか。私なんてないんだ、個なんて近代の概念のひとつだという視点へ向けた、またそこからの捉え返しはみえてこない、時代の限界も含めて。

 

菜園便り56
5月10日

 一昨日、父が菜園に野菜の苗をどっさり植えてくれて、それを手伝った。茄子6本、胡瓜(2種類)8本、トマト(3種類)9本、ピーマン(3種類)6本、ゴーヤ4本、唐辛子2本、パセリ2本、レタス(2種類)12本。あまり広くない菜園にかなり詰め込んで植えていくので、ちょっと不安だけれど、去年も密集しつつしっかりなってくれたので、期待。それぞれの苗の周り四方に竹を立て、ビニールの被いで囲って風よけにする。この竹は父が大土手と呼ばれる内海の堤から切ってきたもの。今の時期の竹は虫が付つくからだめとのことで、以前に切ってきて準備していたものと、その頃切り倒されて放置されていたものを今度また持ってきてくれたもの。
 ズッキーニはかなり大きくなっていて、風よけの被いを外す。大きいし、茎も太いのだけれど、なんか水っぽくてぽっきり折れそうな茎だ。かぼちゃのように、蔓でどんどん伸びていくようにはちょっと見えない、だいじょうぶだろうか。うまくいってくれるとほんとにうれしいのだけれど。庭では初めてだし、あの淡泊なわりには印象深い味を楽しみたい。
 春菊は完全に撤去。三〇本ほどはすでに刈り取って花として花瓶にさしておいたけれど、残りもかなりあった。柔らかい葉や茎もまだあるけれど、苦みがかなりきつくて、もう潮時かもしれない。今まであったことが不思議なくらいだろう。種がたくさん散ったことも期待したい。
 畝の端に居座った浜木綿も移植する。父が好きであちこちに植えているのが飛んできたのだろう。たしかに夕方に漂う甘いむせるような香りはすばらしいけれど、大きな株になるし、葉も花も虫につかれやすくて、無惨な姿をさらすことも多い。ぼくには、すごく高くなる向日葵と同じで、庭の隅に2、3本あれば充分の花だ、そんなことを言うと父に怒られそうだが。野菜の日当たりもてきめんに悪くなる。
 でも、いつも思うことだけれど、こんな小さくてひ弱そうな苗があんなに伸びていくつもの大きな実をならせるとは、信じがたい気もする。茎がしっかりと伸び、緑の葉を広げ、枝に小さな堅い実をつけ、それが日ごとにふくらんで赤くなったり、紫になったり、ぶつぶつの奇妙な形でぶら下がったり。それを見、手にし、そうして味わう喜び。極端にひどい天候に見舞われなければ(豪雨、ひどい潮風、台風、異常気候とか)、水さえ欠かさなければそれなりにがんばって、実りをもたらしてくれるだろう。とにかく愛を持ってあたって、愛のお返しを期待して、けして焦らず怒らず。
 ベランダにびっくりするくらい充実した菜園をつくっている幸枝さんからトマトの苗をいただいたのでそれも後から植える。芹野さんから近々バジルの苗もいただけるし、ルッコラももう種が採れそうなので、急いで植え替えたい。一部は根を残して、そこからの新芽でもやってみよう。イタリアからの種で一株だけ鉢に残っていたものも畝に移す予定。
 あれこれやりつつ、潮でやられた後また実をつけ始めたエンドウを茹でて酢の物に(切り干し大根と胡瓜と茗荷)、イタリアン・パセリの花芽も摘んでサラダ(トマトと玉ネギと生ハム)にしたりもする。体や仕事や目や舌や愛や指先やことばで、菜園の喜びを深呼吸するようにとり込む。

 


菜園便り57
5月
 1970年代初め、つまり、60年代の最最後という頃、木造の静かな病院での父の死から映画は始まる。ひどく無口で、まじめな(だからちょっと鈍くさい)中学生の男の子は、山村のキリスト教系の学園に転校させられる。彼が吃音だったことがしばらくしてわかる。
学園での自己紹介で揶揄されことをはじめ、敵意と嘲笑にびっしりと取り囲まれているとしか思えなかった少年は、音楽室でひとりレコードを聴く少年に出会う。微笑みながら彼の手がすっと伸びて少年の耳たぶを触る、驚愕して思わず振り払う少年、でも友情はそこから始まる、もちろん。
少年の名はジョバンニ、ではなくミチオ、そうして当然にも出会うこととなったカンパネルラはヤスオ。このジョバンニはけっこう強そうで、あまちゃん、このカンパネルラは見事なボーイソプラノの、勉強はも好きでなさそうで、喧嘩には弱い、つまり優等生ではない。
当然、愛情あふるる、理解ある、でも時代の苦悩を背負った、アウト・ドア派(このへんが70年代というか、アメリカナイズというか)でちょっと屈折した先生がでてくる。彼はコーラス部(グリークラブ)の顧問で、廃材でこつこつ家を建てている。彼がもと過激派だったということがわりと早く語られて、その後の展開の伏線になっていく。お決まりのように、もと同士で後輩の女闘志が現れ、革命論議や絶望や「はらはら時計」や指名手配や刑事たちの追跡や、があって、彼女はダイナマイト自殺。
そういった過剰なできごとを一方に、緑溢れる山間の四季のなかで、少年たちは合唱コンクールを目指す。先生の指導の下、曲は『ポーリシカ・ポーレ』。うーーーーん、そうか!?どこまでも、西洋、キリスト教、近代で、だから゛旧態゛日本は否定の×、だから革命は○、コーラスも○、新しい村と信仰もとうぜん○。
最初の夜、ジョバンニは寮から逃げ出そうとする、カンパネルラが助ける、でも、結局、線路の横を歩き始めた足は止まる。何故だろう?ジョバンニは、この、まだ会ったばかりの少年に「でも、どこへ行くの」と問われて、「家がある」と答えて、その問いにも答えにもずいぶんと重い意味があることを、歩きながら気づいたのだろうか。ヤスオとの芽生えたばかりの友情には、すでに彼の痛ましい家族関係や今までの歴史が染みだしてきていたのだろうか。「ぼくのことは忘れないでね」と叫ぶ少年。歩みを止めた少年に、ヤスオは喜びとある種の責任をもって言う「ここもそんなに悪くないよ」。

 

菜園便り58
5月22日

 夏野菜に植え替えて初めての収穫。外側の葉がダンゴムシに襲われ始めたこともあって、まだ小さいけれどレタスの葉をかく。少しずつだけれど12株ほどあるのでけっこうな量になる。やや固くてかさかさし、あおいというか未熟というかんじ。我が家では初めての試みのズッキーニも同じ状態なので、一番下の地面に着いているのは小さいけれどちぎる。ほんとに初物。
 植え替えてそんなに経ってない気がするのに、もうトマトは小さな青い実をつけているし、胡瓜も伸び続け、茄子は花をつけた。なんかすごいなあと思わせられてしまう。芹野家からやってきたバジルもうまく着いたし、幸枝さんのルッコラも我が家のに混じって芽をどんどん出している、もう圧倒的というか。
 今頃になって、種から植えたトマトが芽吹いて伸び始めた。でももう畝にスペースはない、あまったバジルなんかといっしょに庭のそこここに植えて、育つのを願うしかない。なんかいろんな条件の子供たち、家族といっしょだったり、「孤児(みなし子)」だったり、子供だけの集団教育だったり、独立独歩だったり、引きこもってしまったり、をあれこれやりながら、なだめすかしながら、でも大筋では祝福しながら・・・ではなくいっしょに楽しみ喜びながらやっているというような(こういう時、比喩はどうしても婚姻とか家族とか、子供に傾いてしまう。それぐらい現在<家族>という形で現れている、関係や愛情(慈しみ)が深く染みついている、普遍的に見えてしまうということだろう)。
 札幌の姉から、毎年恒例のアスパラガスも届いた。たきかわの協同組合からの直送で、ずっしりと太くて先っぽがかすかに紫がかっている。さっそく茹でて昼のサンドイッチにする、野菜の甘みと独特のえぐみがあり、根本まで柔らかく食べられる。柔らかいけれど、しゃきっとしていて、食感がよくて。どこまでも広がる緑霞む春の野の匂いや風が、その添えられた写真やメモからも伝わってくる。我が家のレタスはひがむかもしれない、「まだまだ完成じゃないんだから、比較されたらたまらない」と。
 「自分ちのは徹底したひいき目で見るから、もちろん心配ない」と言ってやりたい。自分で収穫することの特別さ、喜びは、けしてうまくことばではいえない。父がしっかり管理して育ててくれて、ぼくはあまりあれこれできなくても、摘み取る感動は、ほんとに大きい。
 ツワブキもまだ採れる。父が選んで摘んできては皮もむいてくれるので、いつものように薄味で炊いたり、甘辛く煮込んだり。この季節でも充分柔らかく、味も香りもぎっしりと詰まっている。
 年ごとに逞しくなり、花も大きくなる琉球月見草が群生している。根っこから引き抜いて植えても着くぐらい丈夫で、でも花はピンクではかなげで細い茎は風に楚々と揺れる。表側の玄関近くに毎年顔をだすテッポウユリもまた帰ってきた。ネズミモチが垣になっているので、そこを抜けてつぼみをだすべく長い長い茎を伸ばしている、けなげと言うか逞しいというか。切り花にすると夕方から強い香りを放って部屋を満たす。
 夕食には北海道のアスパラと、庭のズッキーニをいっしょに軽く炒めた。不思議なほど食感や色合い、それに野の野菜のようなかすかな青くささや苦みが共通していて、晩春の献立になった。サクッ、シャキッと歯の間で跳ね、甘みと苦みが油に混じり合って舌の上で広がり、鼻孔の奥に青い終わりの春が消えていく。

 

菜園便り59
6月3日
 斎藤秀三郎さんが80歳になられた、すごい。
 小さなお祝いの集まりがあり、その案内状にあったように、「かわらずに好奇心と
積極性にあふれ、柔軟な感受と硬派の気概とをあわせもち、毅然とした姿勢を保ち、
凛とした生き方を貫かれています。そうしながら、いつも飄々とした軽やかさやユー
モアを失わず」だ。
 「大げさにでなく、ちょっと集まって、お祝いしたいと思います。励まし、励まさ
れ、この生きづらい時代を、混沌とした世界を、あれこれ悩みながら怒りながら泣き
ながら、いっしょにやっていけるように」という呼びかけだったけれど、斎藤さんは
人気者で、わたしもわたしもという人が続いて、十数人の集まりに広がった。
 他の会も重なり、珍しくネクタイをされての斎藤さんは主賓席ではなかなかに格好
もよく、静かににこにこされていた。忘れられないいちばんの思いではときかれて、
「それは12の頃、17歳くらいの少女のお尻を見たことです」と答えられる。身体
や妄想が、完全に性的なものになりきってしまう直前、思春期の始まりの、たぶん母
親や家族の肌への、柔らかさや、白さへの懐かしさも含まれていたのだろう、憧憬の
ような思いとして。そうしてそういう対象への憧れや執着だけでなく、そういったか
けがえのないものと自分とはどうしようもなくちがうのだ、そうはなれないんだ、ま
すます遠ざかるだけなんだという、決定的な思いもあったのだろうか。
 誰もが、母なるものを、ほんとに好きな人を、ずっといっしょにいたい友を、どこ
かで諦めて、他者として切り離すことで、<自分>を見いだすのだろうか。こんなに
も始終思い続けていて、すぐそばに感じ続けているのに(もっといえばぴったりと重
なりあっていると感じているのに)、その人と自分とは一体ではないんだと知る驚
愕。そうして、自他を切り離すその残酷なとさえ思えた世界の掟が、でも小さくまと
まった自己とそこから距離を測れる世界といったものを提供してくれるんだという発
見の予感。そこで、そのまとまりのなかで、整合の下で感じ考えなさいと。失われる
ことは喪失や死としてでなく、この世界内で<時間>と呼ばれているものの、ある生
真面目な(受け入れるしかない厳格な)一面に過ぎず、それは一方では、安定や成
熟、完成や、終わりを示してくれるものでもあるのだと。
 そうしてどんなに疑問や異議があろうと、今の無力で無能な自分としてはその掟を
とりあえず受け入れるしかないと、その後で知を力をつけて充分に抵抗するのだとい
楽天的な嘘を、それと自覚すらせずに(最初の自己欺瞞だ)平然とついたのだった
ろうか。それともただ強制されるままに、従順に世界のなかに(共同体の懐へ)抱き
取られる安堵に身をゆだねたのだろうか、世界の側から身をかわされ突き放されて絶
望的なまでに途方に暮れる、いく人かの隣人を遠くに見やりながら。
 そうだったのだろうか?そうやって誰もが生きのびてきたのだろうか。そうしてそ
のことへの厚顔な開き直りか、青ざめた倫理で、今、世界の前であらためて立ち竦ん
だり、立ち眩んだしぐさをしてみせているだけなのだろうか。そんなにも淋しい表情
しかぼくらは持ちあわせがないのだろうか。
悪い癖だ、すぐパセティクになって言いつのってしまう。お祝いの愉快であたたか
いことばをこそ探していたのに。でも斎藤さんのことだ、にやっと笑って「またです
か」と許してくれるだろう。

 

菜園便り60
6月5日
 この夏はじめての胡瓜の収穫。しゃきっとして、でも水っぽいのではなく、粘液質的なまでに密度のある柔らかさと瑞々しさが果肉のなかで一体となってつやつやと輝いている。こんなふにいうと、あまりにも大げさに響くのかもしれないけれど、でもあの色や香り食感、味を受け取ると、つい言ってしまう。それはなかなか大きくならず、小さいままで収穫するズッキーニにも言える。ヘチマもそうだろうけれど、瓜の類の果肉は、大きくなると密度が緩んで柔らかくなり、種が見え始めるともうぐずぐずに崩れ始めるようなところがある。調理すると茄子のような歯ごたえや味になってくる。それはそれでおいしいし、好きな人も多いだろうけれど、あの、硬さがとれてやっと食べられ始める頃の、緑緑した色そのままの青臭さと微かな甘さ、かりっとしていてねっとりと密な歯ごたえは何ものにも代え難い。
 苗から植えていた茄子が2本だめになり、その後に父が植えてくれたのは、馴染みのある香りや形なのにすぐには何かわからず、食べてみてやっとわかったけれど、セロリだった。葉を食べるタイプなのだろうか、それともまだ小さいからこんなに筋もなく柔らかくて香りも穏やかなのだろうか。いずれにしろ楽しみ。
 バジルやルッコラも間引きを続けてサラダにし、レタスも緑のを中心にどんどん掻き取っていく。一本だけ生えてきた青じそも昼のそーめんの時に使うし、最後に2つだけなったエンドウも久しぶりの破竹といっしょにいただく。胡瓜は次々に実を結んでいるし、トマトや茄子、ピーマンも収穫は近い。来月にはゴーヤがも採れるかもしれない。それも楽しみ。
 チコリのような苦みのあるイタリアの野菜も元気よく庭のあちこちから伸び出しているし、すでに大きな株には薄紫の花がびっしりと咲いていて、サラダの彩りにもなる。
 きゅうに暑くなり、もうTシャツ1枚でいられる。夜には窓を開けているといろんな虫が飛び込んで鬱陶しいけれど、昼間は蝶や蜂が元気に飛び交い、まるで叫んでいるかのように満開して誘い込む花々がある。そこここの草木は伸び続け日ごとに緑を濃くし、松も短く密集した新芽がつき立っている。蕾や柔らかい芽が終わったのだろう、鳥たちはもう木々にまとわりつかない。海はどんよりとした空を映し、水平線も霞んで、ひとつながりに淡く光っている。先ず中学生の男の子たちが、競うように粗暴なものをもてあますように、海に飛び込む。そうして小さな子供たちが下着のまま、波打ち際でばしゃばしゃと手足で水をはね、他愛なく転んでは声を上げる。梅雨前の最後のすがすがしい季節が過ぎていく。真っ直ぐに突っ立っていた、いかにも軽く硬い金色の麦も、水田に広がる稲の猛々しいまでの勢いに押しきられるように刈り取られていく。

 


菜園便り61
6月18日

 千鶴子さんに朝倉の梅をいただいたので、久しぶりに気合いを入れて梅干しに挑戦。最初に漬けたのは四年前で、ビギナーズ・ラックもあってうまくいったことはいったけれど、母が亡くなった直後のちょっと異様な精神状態のときだった。どこか目をつり上げて、家の行事や「家事」を完璧にやり抜くことが母を救う(悼む)ことだといったような奇妙に捻れた心持ちだった。今思うとなんであんなに無理して仕事にも家事にも必死になってしまったのだろうかと、淋しくなる。もっと静かに母も父も自分も、大切にすべきだったのに、泣いたり思いわずらったりすることにかまけていてよかったのにと思う。心ここにあらずのまま、展評に書くつもりで個展を見に出かけた帰り、博多駅で食事してお金を払わずにでてきてしまい、電車の中で気づいたこともあった。あのときはやはりショックだったけれど、そのショックさえどこか少しずれて遠くに感じられていた気がする。
 今はもう落ち着いていて、梅干しは楽しくもあるがでもめんどくさいなという、当たり前の気持ちだ。解説書を読みながらだから、神経質になりすぎる。最初の塩漬けでうまく白梅酢があがってきた後、液の表面に白い膜が所々にでたのが気になり、全部を取り出して陽に干し、酢は煮立てることにした。赤紫蘇も出始めたので、ついでに本漬けもやってしまおうと、あれこれ結局二日がかりになった。とにかく黴がこわいし、解説もそのことを強調するし、いちいち容器や道具を洗い、煮沸し、乾燥させなければならないので、ちょっとうんざりする。
 父の日だったこともあって週末にやってき兄や妹と話してみると、二人とも毎年梅干しを漬けているとのことでびっくりした。兄は勤め先の若宮のレストランでで、これは環境からいってもわかるけれど、あの妹が、今は高校生二児の母であるとはいえ、梅干しやラッキョウを毎年漬けているなんて信じがたい。人はいろいろだ、人は変わる。
 とにかく、今日は朝起きて昨日引き上げていた梅をまた陽に干して、その漬ける容器と使う道具を煮沸してから、父が夏みかんを札幌の姉に送るのに、庭の野菜も入れてもらおうと、胡瓜、ズッキーニ、レタス、バジル、ルッコラを摘んで洗って渡し、赤紫蘇を買いに行き、帰ってすぐに葉をちぎって洗ってざるにあげ、乾くまでの間にたまっていた洗濯をやって干し、昼食(簡単なサンドイッチ)と濃い紅茶の後、紫蘇を塩で揉んで絞ってを2度繰り返す(今年は梅の塩漬けも中国の岩塩を使った)。この時の絞り汁の美しさにはいつも感動する。最初は濁った赤紫、二度目は深い紺紫で、白い磁器のボールの中にたまった汁は捨てるに忍びなく暫くおいて眺めている。それから紫蘇に白梅酢を加えるのだけれど、このときの一気に赤変する梅酢の色のことはだれもが言うし、書いてあるけれど、やっぱり美しい。硬く硬く絞られ、美しさをだしきってしまった赤紫蘇は薄汚れた灰色の団子になっているのだけれど、そこに白い梅酢がかかると、一息に赤く、つまり梅干し色になる。ほんとにすごい。
 そこまでやれば、後はゆとりをもってその色や立ち上がってくる香りを楽しみながら梅を酢と共に容器に戻し、紫蘇をかぶせて、また重しを載せるだけ。二週間ほど待って、土用の天気のいい日に二、三日しっかり干せば、ほぼ完成。時々、黴やあれこれに注意して気を配り、手塩にかければ、きっと言い返答がもらえる、と思う。
 少し残った紫蘇は夕飯の胡瓜の塩もみに混ぜる、簡単な塩もみだけれど、別の拾ってきた梅を塩漬けにしてとって保存してある白梅酢をかけると、やっぱり最後には薄いピンクになった。夏の間、この梅酢はいろんな料理に使えるし、すごく体にもいいと書いてある。どの解説書にも「ものすごく貴重な梅酢」とでていて、すっかり感化されていて、最後の滴まできっちりとり、使っている(我が家には今、漬け物の本が二冊と、梅干し漬けの載っている冊子が一冊ある)。
 夕食の前に、大急ぎで掃除も(モップかけだけ)すませる。二階と、たまにしかやらない゛暗いコーナー゛拭きも。夕食はメインは鰺の塩焼き(トマトとブロッコリー添え)にトビウオのたたき、前述の胡瓜の酢の物と酢人参(父の要望)、大根おろしといただいた十穀米いりご飯とみそ汁。
 後かたづけの後、庭の一部の野菜に水をやり、珈琲を入れ、ちょっと「セント・エルモズ・ファイヤ」を見て、早めに入浴、髪も洗い、かくして「家事の日」は終わりに向かうのでした。最近あちこちから高橋源一郎を借りてきているけれど、今ある「ゴヂラ」も「退屈な読書」も読んでしまったので、今日は早く寝よう。そうして明日はまたしっかり働こう!

 

菜園便り六二
七月一二日

 あちこちから借りてきて高橋源一郎をたて続けに読んでいたら、まるでそれにあわせてくれたかのように岩波新書で彼の『小説教室』がでたので、さっそく買ってきた。丁寧に柔らかく(いつものように軟派で)書かれ、「小説の書き方(文章読本)」の形になっているけれど、かなりきちっとした彼の表現論でもある。小説作品と共に長く続けられてきた評論活動の、ひとつのまとめ、シンプルな結実になっている。固く難しく(精緻に、権威的に)語るのでなく、対象をありもしない領域に囲っての゛わかりやすい゛解説でもない、自分の切実な関心から出発し、誠実に向き合い、きちんとつめて考えられた結果の、そういうことばを使うなら「批評」。
 表現論といっても、もちろん、小説と呼ばれる形式に読者としても作家としてずっと関わってきた人だから、当然文学のこと(それは小説のこと)が中心になっている。
 語られようとすることはいたって簡潔で、その人なりの世界の見方がなければ、今まで教えられてきた見方・考え方(社会の見方・考え方そのままの)がかわらなければ、その人の表現というのは生まれない=できない、というようなこと。
 「世界をまったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったくちがうように見えるまで、待つ」「他の人とはちがった目で見る、ということです。そしてそれは、徹底してみる、ということでもあるのです。なぜなら、・・・(わたしたちは)ふだん、なにかを、ただぼんやりと見るだけで、ほんとうはなにか、とか、そこにはなにがつまってるのか、とか考えたりはしないからです」。
 そういう表現に到る道筋のひとつとを、例えばこういうふうに説明する。
 小説(文学)は過去に属しているから、過去から学び、まねることから出発するしかない。「まねすることによってその世界をよりいっそう知ること、そのようにしてたくさんのことばの世界を知ること、さらに そのことによって、それ以外のことばの世界の可能性を感じること」。「まねることは、その間、それを生きること、でもあるのです」から。何故そうなるかといえば、「好きになると、その、好きになったなにかになりたい、とひとは思うようになるからです」。
 そうやって過去から始まり、過去をなぞりつつ、でも、真摯な表現はどこかでそれを抜けてしまい、未来へとつながっていくんだ、と彼はいう。『人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ』というミラン・クンデラのことばを引用しつつ、「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。/小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている」のだからと。そしてそういった小説の書き方は、誰もがたった「ひとりで見つけるしかない」のだと、当然だけれども。
 そういう表現に向かう、向かってしまう人はだれも「みんな、少し哀しく、孤独で、かたくなで、近寄りがたく、ただ自分の前だけをじっと見つめている」ようにみえるし、『銀河鉄道の夜』のジョバンニのように、「他の人たちと同じように、世界を見ることができないから、「バカ」な(人間と見なされてしまう)のです」と。
 今いちばんすごいと思うのは、「精神のチューニングがずれている(と思える)人たちの作品」であり「精神のチューニングがほんの少しずれている、というのはどういう状態なのか」わからないけれど、「その世界が、わたしたちが「人間」と呼び習わしている世界のすぐそばにあること、そして、同時に無限に遠いように思えることは事実です」というようなことも率直に語っている。
 彼が思っているようなことは、現在、生きているあらゆる人によって様々な形で語られているけれど(多くはことばや形を持たずに)、村上春樹の作品のなかでもかなり具体的で直截なことばとしてもでてくる。例えばこんなふうに。
 「俺はべつに頭なんてよかねえよ。ただ俺には俺の考えがあるだけだ。だからみんなによくうっとうしがられる。あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ」。
 「差別されるのがどういうことなのか、それがどのくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公平さを求めるという点では、僕だって誰にも引けを取らないと思う。ただね、ぼくがそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う「うつろな人間たち」だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気がつかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ」「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとに怖いのはそういうものだ。ぼくはそういものをこころから恐れ憎む。なにが正しいか正しくないかーーもちろんそれもとても重要な問題だ。しかし、そのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。」
 そうしてそういう人間は、様々な具体的な生の現場に現れ続ける。痛くもかゆくもないことに頭を突っ込み(自分の足元だけはけして見ずに)、過剰な思いこみでかってに代理して(多くは正義の社会派として)、拾ってきた空虚なことばを繰り返しまき散らし(誰かを仮想敵として)、闘い続ける人は今も掃いて捨てるほどいる。永遠に自分の抱えている問題すら気づかず(だから゛該当者性゛に徹底してこだわることができず)、自身の問題を直視続けることだけが連れて行く場、つながりの、関係性の広がりから無限に遠い(つまり゛当事者性゛にたどり着くことがけしてない)在り方。そうしてなによりそういうこと全部にいっさい気づかないまま(自分の正しさと善意を疑うことすらないから)、どこまで行っても(ほんとはどこにも向かってない、動いてないのだけれど)けして、社会とか善とか正義とかを、その概念そのものを問い返すことすらできない(気ぜわしく、そういったことばの反復と再定義の繰り返しで、自分を煙に巻き、相手を威嚇し続けるのに忙しくて)。
 自分が、人というものが小さくて弱くて愚かで、でもだからこそ限りない深さをもち慈しみを抱えてもいるんだ、と知ることになる道筋を自身で探すことから始めるしかない。このおぞましい、暴力に満ちた混乱の世界のなかで、でもそういうのが唯一絶対の在り方ではないんだ、というあたりまえの考えを見失わずに抱え持って生きていくこと。そういう単純ででも気の遠くなるように遙かに思えることを、いろんなことをしのぎつつ、ささやかな生活の喜びと共に探っていくこと、だろうか。


菜園便り六四 ???????
八月三日

 もう八月。クラクラしそうになる。あんなに寒さを呪っていて、やっと過ごしやすくなったこれからだと思っていたら、たちまち暑さにうだされるようになって、そうしてもうお盆の八月だ。ふーと息のひとつもつきたくなる。
 でも、寒さの、冬の悪口をあれだけ言っている以上、夏には口を閉ざすしかない。実際、Tシャツだけで過ごせる生活は楽しい。体や心がのびのびできる。頭はぼーとして、考え事にはむかないし、書くことも滞りがちになるけれど、水仕事は楽だし、水まきも気持ちいいし、やっぱりいいことが多い。でも、暑いね。
 夏野菜も結果がでてしまった。春の終わりからどんどんおいしい葉を届けてくれたレタスが先ず終わった。あれだけ食べて、配って、たぶん一枚も無駄にしなかった気がする。外から少しずつかきとるだけでも、どっさり収穫があって、洗って冷蔵庫に閉まって、毎日サラダ、ときにはスープにしてまとめて食べたり。配るときも、かさがあって他の野菜が少なくても見栄えした。努力家で博愛家で文字通り身を削って愛を配給してくれた、味も奥ゆかしくシンプルででも奥深くて。
 茄子は全部だめだった。後から植えた二本も入れて一〇本の苗から、小さいのが3つ採れただけ。三本ほどはまだ小さいまま茎が残っているから、秋なすが楽しみね、と言ってくれるやさしい人もいるけれど、ぼくは正直そんなことはないと思っている、きっとだ。
 胡瓜も先日の台風で新芽がやられて、ほとんど実をつけなくなってしまった。茎や葉は元気そうだけれど、花もつけないし、もう終わりかもしれない。すごく残念。胡瓜もほんとによくなってくれて、よく食べた。細めで棘のあるカリカリタイプと、ちょっとデブッとした棘のない濃い緑のタイプと、だった。ちょっと太めのタイプは、終わり頃にはかなり大きくなるまで待って、漬け物やなんかにしてみようかとも思っていたのだけれど。
 ズッキーニは茎も引き抜いて完全に終わった。あの大きくて圧倒的な葉にはびっくりしたし、次々に花を実をつけて楽しませてくれた。ダンゴムシの襲撃についにダウン、実よりも茎がどんどん囓られてしまったようだ。おいしいものは虫にもおいしい。ミントやバジル、青じそはショウジョウバッタが群がっている。大人と全く同じ体で極小のバッタは可愛くもあり、めんどくさくもあって、そのままにしてしまっていると、あっというまに柔らかくて香りがよくておいしい青葉は葉脈だけになってしまう。でも、それでも元気に、というか生きるために、次々に葉を伸ばし、新しい目を地面からもだしてくる、すごい。
 スッキーニは初めてだったけれど、うまくできて(と思う)ほんとにおいしく食べ続けられた。こういう少し青臭くて、独特の歯ごたえがあって、どんな調理にも身をゆだね、相方の食材にそっと寄り添って支え、でも自分の主張も、控えめであれきちんと通す姿勢はすばらしい。来年も是非つくろう!(と父に頼もう。)
 ルッコラはまだまだがんばってくれている。朝晩のサラダの定番。固くなり、辛みがきつくなったけれど、そういうものとしてまた楽しめる。まだまだ。
 バジルは直子さんが一度まとめてバジルソースにしてくれたので、冷凍してある。パスタや夏野菜にそのまま使えて、メインディッシュにもなる。彼女の烏賊や魚の、唐辛子でピリッとした、シーフード・バジルソースはとてもおいしいし、ワインによく合う。バジルも穴だらけになりつつまだまだ元気。今年はフレッシュの(生の)ミントだけのミントティーを飲んでたけれど、バジルも入れてのティーもおいしい。カップにどさっと入れて、熱湯を注ぐだけ、少し青臭くて、かすかな甘みがあり、さっぱりとしている。以外にあの香料のような香りは強くなくて、飲みやすい。珈琲や紅茶より胃に穏やかで、でも充分に食べ物や油の味を消し去るし、口や下にも刺激がある。ミントから発散される霧のような刺激は爽快感を鼻や体に与えてくれるし。
 トマトが全盛。三種類植えたほかに、芹野さん、幸枝さんからもらったのも実をつけ始めた。黄色ミニが二種、赤でミニの丸いのと細長いの、大きいタイプとある。どれもどんどん実が続いている。特に大きいタイプは今まであまりうまくいかなかったのに、今年は順調になりつづけてくれて、毎日収穫がある。
 とても残念なのが、ゴーヤ(苦瓜、レイシ)。三本採れたところで台風の潮風でやられてしまった。また花が咲き始めたけれど、元気にはみえない。去年のようにどんどんなって、あれだけ食べて、配って、カリカリゴーヤにも漬けて保存までしたのが嘘のようだ。せめてもうひとがんばりしてなってほしい。夏はゴーヤ・チャンプルー、これがなくては寂しすぎる。
 小田さんにいただいた生で食べられる春菊も、摘んでも摘んでも伸びてきて毎日の食卓を賑やかにしてくれる。特に、刻んでみそ汁に入れると、その苦みと食感で、暑いときでも汁物もおいしく食べられる。
 パセリも細々とつづいていて、ふたりだけの食事には充分の量。セロリもあまり大きくはならないけれど、サラダの味のアクセントや、カレーやソースのなかに葉を投げ込んで香りづけに使える。
 つい何度も言ってしまうけれど、あの小さな苗がこんなに大きくなってしかも実をつけ続けて、視覚を、収穫を、そして味覚を楽しませてくれることにほんとに驚かされるし、いやでも感謝の念が生まれる。おいしい!

 

菜園便り六五
八月四日

 菜園便りに映画のことを書いたら、いくつか映画のことと映画館のことと便りがあった。みんなやっぱり映画が好きだし、何か言わずにはいられないんだろうな。
 外田さんが、ロッドスタイガーにもふれて、「・・・安部さんもロッドスタイガーに愛着があるのですね。/ぼくも中学生の時、彼やペキンパーの映画に出てくる粗野でいつも、わきの下に汗をかき、首の後ろがやけている役者たちに強烈に惹かれていました。/それは、安部さんの仰る通り、映画のテーマだけでなく彼等のもつなにかしらであり、当時は、アメリカの本質的な孤独を見ているつもりだったのかもしれません。・・・」と書き送ってきてくれた。スタイリッシュでもある外田さんらしい、的確な分析とその裏側の肉感性もすくい取る感じ方=描き方はいつものようだ。「アメリカ」に嫌でもおうでも覆われざるを得なかった時代、世代。そういうなかで育った、育てた感受の形の美しさや限界、ささやかな喜びや、ある種の諦め(誰かは絶望と大仰に言うかもしれないような)。小説や戯曲より、もっと直裁に思える映像、映画でのインパクトは、ぼくらのなかにしかと自覚できていない、かすかなでも決定的な痕跡を残しているのだろう。
 映画館のことについて、宮田君や母里さんが送ってくれた。やっぱり福岡では、センターシネマとかステーションシネマとかが、いろんな人のなかに様々な形で残っているのだろう。どちらも今はない。
 天神の現在ソラリアのある場所が、以前は九電体育館で、スポーツセンターと呼ばれていて、相撲もそこでやっていたし、冬はスケートリンクになっていた。そのほんとに端っこに小さな、でもすっきりした雰囲気の映画館があってそれがセンターシネマだった。洋画(外国映画と言う意味だった)のみ、一本だけの上映。中学生の頃は五〇円とか、そんな今では信じられないような金額だったと思う。ずいぶんたくさんの映画を見た。とても驚かされた、印象深い映画もあって、そのことはIAF通信に書いたので、一部添付するとして、『獲物の分け前』とか『戦争と平和』(これは前編だけ3時間を立って見て、結局後編は見なかった)なども見た。プレスリーなんかも見たと思う。
 ステーションシネマは博多駅にあって、ちょっとくすんだ感じで、あまりよく覚えていない。時々は行ったとは思うのだけれど。ついでだけれど、津屋崎にも恵比寿座という映画館が昔はあって、そこで日活映画(裕次郎だ)、サザエさん(江利ちえみだ)、怪獣映画(モスラだ)、『明治天皇』、『きくといさむ』、『コタンの口笛』、『矢車健之介』、『路傍の石』そしてあの暗い『楢山節考(最初のやつで、田中絹代がでていた)』なんかを見た。
 せっせと映画に通ったのはやっぱり二〇代の頃で、すでに新宿の日活ビルの名画座はなく、そんなことを懐かしく語る人たちを横目に、新宿文化や蠍座、池袋文芸、文芸地下、銀座並木座なんかによく行った(この全部が今はない!)。安いし、「名作」を見ておきたいということもあったのだろうし。情報誌『ぴあ』ができて、簡単に見つけられるようになったこともある。
 宮田君はそんななかでも最後まで続いた、超ハードコアな映画館、新宿昭和館のことにもふれていたけれど、やくざ映画で有名なそこは、場所柄も含め、なんというか、あまりにもコアだったし、臭いも(実際の)きつくて、そう何度もは行けなかった所だ。
 アテネフランセユーロスペース、近代美術館などもいろんな特集があって、かなり通った。八〇年代にはいると小さな映画館ができはじめて、様々な映画がかかるようになったこともあって、その後も映画を見る情熱だけは続いた。あまり深くのぞき込みたくないけれど、そこにはそれなりの、誰にもある、浅くはない事情、というかあれこれの屈折や思いがあったのだろう、たぶん。暇だったと言えばもちろんそうなのだろうけれど。
 

(IAF Paper No.6 1996 02 08, 映画を生きる4 「エドワード・ヤンの観念「性」と具体「性」」より)
・・・・・・・・・・・・昔のはなしになったのでついでに、というのもへんだけれど、人が映画にどう出会うかとういのは、それはもう当然にも、「誰も自分の生まれる時代を選べない」、ということで、ぼくは一九五一年に福岡の津屋崎に生まれて育ったので、スポーツ・センターの゛センター・シネマ゛とか東宝会館にあった゛ATG゛とかがそういった出会いの場所で、とても強い印象を残した2本の映画ともそこで出会った。ぼんやりとブンガクっていいなあ、とか思っている高校生にとっては、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』はまさに晴天の霹靂、とでもいった感じであり、そのモッズ的な風俗、「不条理を語る」的な文学っぽいことへのスノッブなしたり顔のうなずきとかに始まって、でも最後の、見えないテニス・ボールを投げ返すシーンでは熱いものと、何か理不尽な怒りと、でも甘ーい安堵みたいなものが重なりあって、そうか、映画というのはショーン・コネリーだけでないのだと震えてしまった。
 そうしてもう一本は『絞死刑』で、これはもちろん、あの、大島渚監督で今は彼の名前をだすのはつらい(『太陽の墓場』も長くぼくのなかに残っていた映画で、最近、といっても5年ほど前にまた見て、クローズアップの多い、それまでの映画の文体によりかかった部分の多いものだったけれどやっぱりあの炎加世子はすごくて、具体的な人や体がでてくる映画のそれが魅力や強さの一つかと思わせられたけど)。
 こういった二本の名前をだすと、もうすっかり六〇年代的で、その観念性と、それにぴったり重なる直接的な肉体性とか暴力性、それにいわゆる作品としての完成度みたいなことを放棄することで自由さを得る、というか曖昧なゆえに遠くまで届く声やスタイルを取るといった方法、そういったものは今観みたらどう見えるのかは見当もつかないけれど、こういった二本にしびれる高校生というのはまさにというか、やっぱりというか絵にかいたようで、時代は六〇年代末期でもあり、彼は次の年に当然のように゛東京゛に出て行くのでした、ということになってしまう。映画のなかには「世界」の怖さと同時にその魅惑も(こういった「世界」ではいけないといった直さいな否定も含めて)あって、つまり、ヨシ、ボクモせかいニサンカスル、といった気持ちにさせられてしまったのは事実だ(当時はまだアンガージュマンとかいったことばも残っていて)。
 『絞死刑』というのは実際に起こった「小松川女子高生殺害事件」を直接題材にとっており、その犯人とされ処刑された在日二世の青年、李珍宇(映画のなかでは「R」となっている。アルファベットのイニシアルは文学で使われた時ほどではないにしても、やっぱり六〇年代的で気恥ずかしいが、でもこの時の、リ・チンウの記号化による抽象化、普遍化には説得力があった)が刑の執行後も死なないという卓抜な設定で始まり、生き返った、というか死なないRに、全員が事件をグロテスクに再演してみせて、再び罪を感じ罰を受ける決心をさせ、改めて処刑=殺害しようとする。国、民族、家族それに個としてのアイデンティティを総動員して、歴史を政治を愛を性を吹きつけて、彼に殺人と死刑を納得させようとする。観ているのがつらいほどの、酷いまでの喜劇と冷徹な展開のなかで、当然のように国家や法律や死刑や殺人といったことが何度も問い返される。神とか愛とか信じるとか生きるとかいったことも。映画の最後ちかく、「国家をほんとに感じないのなら、君は出ていける」ということばのままに、処刑場を出ていこうとドアを開けるRに外からどっと強い光が雪崩かかり、彼は出ていけないのだけれど、(「君はでていけない、なぜなら今、君は国家を感じたからだ」という検事役の小松方正のことばは耳に残っている)そこでウッとこみ上げたのは、怒りでなく鳴咽みたいなものだったのは、やっぱり今にして思えばぼくらしい反応だったのだろう(でも涙ぐんでなんかいられない忙しい時代だった)。
 そこで語られた国家とはレーニン的な意味の制度、つまり抑圧の装置としての国家だったのだろうし、自分や自分の行為のリアリティを感じられないといった、アイデンティティの喪失や想像力の問題(個が自身や社会とつながっていく)も問われていた。もう一歩で、国家も観念の、関係性の集中的な現れなのだというところまで近づいていたのだろうけれど、でもそう言いきってしまうと、自分たち自身の組織論が成り立たなくなることもあって、そのへんは六〇年代末の行動主義というか代理正義主義の大波に呑込まれていって見えなくなってしまう。
 それは別にして、映画というのが゛芸術゛なんだということの驚きと、なにかの物語や雰囲気を創りだすために用意されてでき上がっている台詞や仕草でないのだな、という漠然とした確認を自分なりにしたようだった。いわゆる顔面演技のようなことからは何も、それが示そうとしている決まりきった感情さえ伝えられないのだという確認。人というのはもっと単純で、だからこそ類型化できない一回限りの深い表情や仕草をする=しない、のだということも含めて。・・・・・・・・

 

菜園便り六六
八月五日

 いつもとちがう道を散歩していて、鵲(カササギ)にであった。天然記念物で、佐賀平野あたりにしか生息していないらしいけれど、このあたりでもたまに見かける。必ずと言っていいほど対でいるようで、この日も二羽だった。この町にも二組くらいいるのだろう。名前も魅力的だし(「鵲の渡せる橋におく霜の・・・」といった古典なんかをすぐに思いだす人もいるだろう)、遠めにはあでやかにも見えるけれど、実際はカチガラスという別名からもわかるように、鳴き声も鴉に近い。黒いなかにくっきり塗り分けられた白が入っているのだけれど、勝手な審美感で、頭が大きすぎるし羽が短すぎる、などと思ってしまう。もちろん鴉よりは千倍美しいし、好感も持てるけれど。
 買い物に行くいつもの田圃の道には、もう色づいて頭を垂れ始めた稲穂が続いている。先日は極早稲(ゴクワセ)の刈り取りのニュースが新聞紙面にあった、そういう季節。紙面には二期作(ニキサク)だからこれからまた田植えをして一〇月頃の刈り取りになるとでていた。たいへんだろう、暑さの盛りでの稲刈り、再びの田植え。でも二期作ということばは、ぼくには子供の頃からずいぶんとエキゾティックに響いていた。何か決定的にちがう気候や風土の象徴のようなものとして。そしてそれがここからそう遠くはない日本の農村で行われることに。たぶん、未知のことがらへの憧れと、自分の見知っている風景が、ちがう季節のなかに広がることの不思議に、めくるめく様な思いをしてみたいというようなものだったのかもしれない。総じて、少年の持つ、ここより他の場所への憧憬みたいなもの。そういった意味で、まったくネガティブなものとして、冷害ということばも長くぼくのなかに残っていた、教科書に載っていた打ちひしがれた人の写真と共に。そういう不思議、残酷さ、それは見たこともない、もちろん体感したこともない、とても遠いものに思われた。
 この近辺ではかつては二期作はできなかったし(たぶん極早稲なら今はできるだろう)、二毛作(ニモウサク)という稲が終わった後に別の作物を育てるやり方での裏作(ウラサク)には、主に菜種がつくられていた。それはそれで春は文字通り「一面の菜の花」だったし、収穫後の乾燥した茎を田圃に積み上げて焼く風景は子供にもみごとに映っていた。どんな所でも何かを育て収穫するのはたいへんなことだけれど、でもやっぱり干害や冷害なんてことが起こる地域のたいへんさは想像すら超えてしまう。すぐにインドとかアイルランドとか気持ちは飛ぶけれど、日本の真夏と真冬の気候も充分に酷だとも思う。
 そういった稲穂の続く一帯の所々にある休耕地に、見慣れない鳥がいるのでしばらく見ていたら、なんと鴎だった。海の鳥がこんなところにと驚いたけれど、もしかして海岸に進出してきた鴉に対抗して、内陸への偵察を始めたのかもしれない、全面戦争はもう目の前、鴎の勝利を願おう、というようなことはすぐには起きないだろう。それに鴎は大きな河ではかなり上流までやってくるらしい。この日は一羽だけで鳴きながらゆっくり旋回していて、少し離れて上になり下になり、白鷺がやっぱり鳴きながら旋回していた。縄張りを巡っての死活を賭けた戦いなのかもしれないけれど、遠めにはのんびりとした田園風景の一部にしか見えない。鷺が鳴いて高く旋回するのは初めて見た気もするから、やっぱり特別のことかもしれない。そうやって廻りながら2羽ともさらにさらに高くなって、いつの間にか、真夏のくすんだ青空の頂あたりに消えて見えなくなった。

 

菜園便り六七
八月一七日

 お盆も終わった。一年の半分が過ぎたという思い、夏が峠を越したという安堵と寂しさ、そうして何やかやと忙しい三日間がすんで、ほっと一息。
 いつものように提灯を二対仏前に組み立て、仏壇を拡張して(いろんな所に引き出しや飾り台がしまい込まれている)、供物皿を並べ、菓子や果物、そうめん、野菜などを供える。姉や兄からの花を飾り、いただいたお供えも積み上げる。
 そうして三日間精進料理をつくっては供え、自分たちも食べる。それがいちばんたいへんだ。手間と時間がかかる、見栄えしない、正直言ってあまりおいしくない(下手だということもある)から、つくるのも食べるのもいまいち気合いが入らない。でもとにかく3から5品をやっつけて、ご飯や団子も供える。精進の定番の、がめ煮、野菜の素揚げ、葛ごま豆腐、夏野菜のトマト煮など。今年挑戦してみようと予定していた、アチャラ漬けと空豆よせ、再挑戦の飛竜頭はできないままになった。
 白玉団子は一三日は白砂糖をかけ、一五日は餡をかけて(千鶴子さんにいただいた最後の小豆を使った)供える。一五日には兄たち一家も来て夕食をいっしょにした。賑やかになるし、楽しいことだけれど、それはそれで準備や面倒も多い。「愛」が十全に満ちてないとうまく廻らない。
 でもとにかく終わった。
 久しぶりに買い物にでるともうあちこちで稲刈りがすすんでいる。切断された植物の青い匂いがあたりに満ちている。青柳さんが言った、いちばん暑い時期の収穫。以前の早稲でない稲は、十月に近い時期だったと思う。稲刈りが終わって秋祭り、小学校での地域ぐるみの運動会と続いていたんじゃなかっただろうか。ほんとに猛暑のなか炎天の下での作業は想像しただけでもクラッとする。
 年ごとに客が減り静かになっていく海も、またいちだんと閑散としている。真っ青な空に真っ白な入道雲、といった天気は、ここでは真夏でも少ない。少し濁って霞んだ空を映して、海もぼんやりと広がり、昼を過ぎても残っている釣り人の小舟をぽつんと浮かべている。かすかな緑や藍色が混じって、穏やかな波が小さく陽光を反射している。小さく、小さく、列をなした波がきらめく。

 

菜園便り六八
八月一八日

 玉乃井の二階を使って行われていた原田俊宏さんの個展『氏名』が終了した。会期中、久しぶりに開け放ったガラス戸の向こうには海が広がり、岬や島が連なり、空から直接吹き込んでくるような風が畳の上を抜けていっていた。「原田俊宏」と書いた色紙が百数十枚、広間の鴨居の上にずらりと並べられていて、それぞれの字体がちがうのは、原田さんの所にきた手紙やはがきの、送り主が書いた宛名(原田俊宏)を、彼がまねたものだから。即座に、アイデンティティーとか、自他の境界や意味とかいうことが浮き上がってもくる。彼が続けている、「美術」と呼ばれる表現のなかで「美術」という概念そのものを(その他のことごとも)とらえ返す試みの流れのなかにあるのだろう。色紙とかサインとかいうことの不思議さや滑稽さも取り込まれているのだろうし、この日本間の空間に即してしっかりと゛視覚的な美゛も放たれている。
 美術作家には珍しく、ことばにも強い原田さんが自身で書いたコンセプトノートも添えられている、こんなふうに。

「   氏     名
 氏名とはそもそも、集団社会において固体どうしを区別するための識別情報であります。ゆえに、氏名には固体の個性に関るアイデンティティーがイメージとして付与されるものです。それで、氏名とは単なる区別のためとしての記号的な意味以上に、そのひとそのものをあらかた表してしまい、そのひとそのものの存在代用として流通していきます。
 しかし昔の人は、そんなふうに氏名が流通してしまうと、流通している氏名のほうを本人の存在代用として呪いに利用されたりすると困るので、氏名を秘密にしていました(これを諱といいます)。しかし氏名が秘密だと識別情報もなくなって困るので、仮のにせの氏名のようなものを通常はつかっていました(これを字といいます)。
 けれども近代の合理主義では呪いなどあまり重視しないせいか、現代では氏名が堂々と、ある意味で無防備に流通しています。我々は他人の氏名を知ることはもちろん、他人の氏名を自由に書いたりもできます。考えてみれば私の氏名も、実にたくさんのひとの手によって書かれてきました。
 他人が書いた私の氏名というものは、他人のアイデンティティーと私のアイデンティティーが拮抗したり融和したりしているようにみえて、興味深いものがあります。侵されているような、繋がっているような。
 そういうことから私は、他人が書いた私の名前を、郵便物の宛名などから採取し、模写したものをコレクションしていきました。私のアイデンティティーの痕跡をとらえた他人のアイデンティティーの痕跡を私のアイデンティティーでとらえかえすというか。要するに、侵しかえすような、繋がりかえすような。」

 「美術」表現について語ること、例えば「批評」は、印象の羅列や解説に落ち込むのではなく、その「美術」表現が試みようとしていたことを、あらためてことばとして文字としてやることが「批評」であると考える彼にとって、この文そのものも、自分自身や「作品」の解説ではなく、現在世界に流通していて共有されていると思われている概念や発想、その型そのものを、なんとか少しでもずらしてみようとする試みの一環なのだろう。
 「美術」とは何かと問うと、必ず出てきてしまう「美術」の゛再定義゛といった袋小路に迷い込まないよう、その「美術」という概念そのもの、立っていると思っている足場そのものを根元的に問うことだろう。それはそのまま、「芸術(嫌なことばだ)」とは?「文化」呼ばれているものとは?そもそもことばとは何なのか?人とはいったいどんな現象なのか? といった抜き差しならない問いへとひとつながりに続いていくしかない。今までのような答えを前提として立てられる問いでなく(近代の「自然科学」のように)、問いそのものとしてあるしかない問いとしての。

 

菜園便り七〇 ??????
八月二九日

 夏も終わりに近いせいか、思わず「懐かしい」と口するようなことが続いた。
 ひとつは、斎藤さん、それに斎藤さんの友だちと三人で見た『カンディンスキー展』で。見終わっての出口で、「いいですなあ」としみじみおっしゃる斎藤さんに「いいですね、なんかすごく懐かしかったですね」と答えて、共に「いかにもカンディンスキーの色と形でしたね」とこもごも頷いた。
 カンディンスキーはその歴史的語られ方(抽象絵画の出発)にも関わらず、教科書なんかでの取り上げ方はぼくらの頃は小さかった。名指しやすい゛代表作゛がないことや大画面でぎっしりつまっているから小さな写真版にはなじみにくいということもあったのだろうか。ぼくも初めてきちんと見たのは学校も終えた後になって、ニューヨーク近代美術館(いわゆるMoMAだ)でだった。その時の作品やかかっていた場所の力もあったのだろう、とにかく新鮮だったし、うっとりするように美しく、すっかり好きになった。でも今思うとその時点ですでに、新鮮に驚きつつもどこかに懐かしさを感じていたのは、彼を通して表現を始めたその後の作家や作品をすでに見ていたからかもしれないし、カンディンスキーがもつ本質的なもののひとつに、そういうことばにつながってしまうものがあるのかもしれない。
 あの滲んだようなでも曖昧でない形、きわめて独特な色。具体的な形そのものであるようででも抽象というある普遍化(単純化=根源化)を伴っていて。当時買ったごくごく小さい画集のなかの、縮小されて掴みやすくなった、でもきわどい曖昧な魅力はあらかた消えてしまう、ほとんど図像の記号になったもので繰り返しなぞったりしていたけれど、でも結局今まできちんとした画集は買わないままだったのは、最後の最後に、どっか中途半端だ、下手だ、などと傲慢にも思ったりしたからだったのかもしれない、不遜というさえ愚かしい反応だけれど。あり得ないものを後から望んで、批評する視線といったもの。
 そんなことを思っていると、たちまち当時のMoMA、そこで見たマティスピカソだけでなくポロックとベンシャーン、それに同じ頃グッゲンハイムでみたエルンストと゛思いで゛は懐かしさに薄められて無限に引き延ばされていきそうになる。誰かに、「旧懐の情とは、緊張を喪失した脆弱な心性がたどり着く、メランコリックな愁いが呼び寄せる感傷であり、淋しいノスタルジアであり、底なしの自己憐微の始まりなのだ」などと賢しらに言われそうだ。
 もうひとつは、これはほんとに懐かしの六〇年代、思いでのフリージャズの、セシル・テイラー。六〇年代後期にあんなに騒がれた人で、八〇年代にまだ生きていることを知った時はほんとに驚愕したけれど(フリージャスに関わった人たちは当然みんな死んだとばかり思っていた、アルバート・アイラーのように、だれだってそう思っただろう。抽象表現主義の、あっという間に死んだポロックと残骸として最後まで生きのびたデ・クーニンもつい思い起こさせられたりする)。
 情報誌の特集で知って、ジャズのレコード店(CD店と言った方がいいのか)゛キャットフィッシュ゛に初めて行ってみて、そこであまりの懐かしさについセシルテイラーのLPを買った、『CECIL TAYLOR Solo(七三年、東京での録音)』(すごく安かったし。思いでも生活の実相にあわせて矮小に切り縮められ、小心に選択される、か)。ほんとは昔唯一持っていたアイラーのLP『マイネーム・イズ・アルバート・アイラー』でも見れたらいいなぐらいの気分だったのだけれど。
 結局、アイラーのLPはなかった。彼のCDがけっこうたくさん出ていて驚かされたのと、お店の人が(当然すごく詳しい)『マイネーム・・・』は会社間の版権の問題で、CDが再版されてないということだった、どこまでも運のない人。
 帰宅して久しぶりにプレイヤーにのせてみると、以前のように極端な音や流れに過剰反応してしまうこともなくてじっと聴いていられた。ピアノソロということもあるけれど、わりにモノトーンで小さい幅のなかで上下を繰り返す、ヒステリックでもなく、とんでもなく遠くまでいくこともなくて、といったような。懐かしさにかられてほんの少しある他のフリー系のCDでドルフィーを聴いたり、コルトレーンを聴いたりして、でも夜中にはまたいつものように静かななじみのあるCDに戻った。
 自嘲や方向のない怒りがせり出してくるのは、中途な懐旧の罰なのか、こみ上げる苦い苦いものはまっとうに愚かしかった若さへのいたたまれなさと哀惜だろうか。そういう思いそのもの、発想の型そのものが、センティメントであり、若さや時代への定型化したおざなりの無意味なことばであり、現在として全体として受け止める力を欠いた、弱々しい拒絶とその裏の生々しい執着、なのだろうか。

 

菜園便り七二
九月二七日

 暑さが、ささっと刷毛でぬぐわれていくように消えていき、日照りで絶えていた雨がときおり落ちてくるようになり、戸外で太陽にくらくらすることもなくなった。いよいよ秋蒔きの野菜の季節。我が家の菜園は先日の台風の余波で絶えてしまっていたので、まさに、再出発といったかんじ。
 父が片づけと下ごしらえを続けてくれて、今日はいよいよ種まき。ぼくも手伝う。大根三種、春菊三種、ほうれん草三種、詳しく書くと、大根は青首宮重長太、理想大根、ビタミン大根、サンクストと次郎丸などがほうれん草、春菊は中葉しゅんぎくなど。他にはさやエンドウ、黒田五寸(人参)、レッドチャイムと赤丸二十日(ラディッシュ)、博多かぶ、紅心大根(中国菜)、べんり菜、四季どり小松菜、タイム、ルッコラ、ガーデンクレス(こしょうそう)。不思議な名前がいろいろあるし、袋を見ていると輸入された種子も多いことがわかる。去年の種が残っていた野菜も多く、こういった奇妙な取り合わせになる。すぐに食べれるようにとレタスとパセリはすでに昨日、苗で植えてあるから、食卓に上がるのもじきだ。
 畝を平たくならして湿らせ、穴やすじをつけて種を蒔き、そっとうすく土をかぶせ、じょうろでやさしく水まきしていると、おあつらえ向きに細かい雨が降り始めた。少しは種が流されるかもしれないけれど、まさに慈雨といったおもむきだ。
 潮の被害で終わってしまって、葉も根も枯れ果てたように見えたミントが思いもかけない所から小さな双葉を出している。水まきを止めなかったことへのささやかな返礼。ルッコラも、イタリアからの種から育った唯一の五年生が、太く深い根を残していてまた葉を広げ始めた、これもすごい。今回撒いたルッコラの種は今年はじめに採っていたもので、春に蒔いた種の残りだから、イタリアのと日本のが混じり合っていて、どちらのかはしかとはわからないけれど。
 立ち枯れた向日葵の太い茎があっけなくぽきりと折れる。黒ずみ乾涸らびた花芯からまたいくつもの種がこぼれ、来年の発芽と開花に向けて静かに地面に散らばったのだろう。風が運ぶ枯れ葉や土に隠れて静かに季節を送っていく。大半は腐敗したり、蟻に運ばれて消えていきながら、その果てていく種子たちの、その下の下の下にかろうじてひとつが生き延びて、また何十、何百という新たな種子を育み放って死んでいく。ぼくらはとりあえず自分たちの死生観で、生とか死とか呼んでいるわけだけれど、でも、どこからが死なのか、生はどこで始まるのか、それはだれにもしかとは名指せない。そもそも「個体」をどうとらえるのか、種とはなにか、だけを考えても、答えなどないのはわかりきっている。
 雨は少し強くなって続いている、大丈夫かなと気にはなるけれど、流れた種は思いもよらぬ所から忘れた頃に芽を吹いて、また驚きと喜びを与えてくれるのだろう。

 

菜園便り七三
一〇月五日

 川上弘美が書評のなかで、いい作品というのは読み終わったときまたすぐに読みたくなる作品だ、というようなことを言っていて、それはとてもよくわかるけれど、もっとはっきり言えば、読み終わったとたん息つく間もなくもう読み返し始めている作品だろう。好きな作品、といったほうがより正確だろうけれど。
 そういうときぼくの場合はだいたい二回半繰り返すことになる。読み終えてそのまままた読み始めて、読み終えて、また読み始めて、でも三回目はいつも半分くらいで立ち消えてしまう。心身の体力が尽きるのかもしれない。それは長い作品、重い内容だからということでもなく、例えば短い奥泉光の『石の来歴』でも、長い村上春樹の『海辺のカフカ』でも同じだ。
 手にした本を開くときのときめきとかすかな不安のあと、異様に明晰になるかのようにぴりぴりと神経がとがっていきつつ、どこかで呆となってしまってずんと引きずり込まれて、たちまち読み耽り始める。始まりの歓喜に幻惑され、ただただ読み進むことだけに引きずられ、がつがつと味さえ確かめえないまま食べ尽くそうとする。噛み砕く快感と口のなかを飛び回るひきちぎれたことばの刺激にかまけながら、ひたすら先へ先へと、後には嚥下することすらまどろこしく、だらだらと口から流れこぼし果ては食らいついた塊のまま皿へと吐き落としてやみくもに進ばかり、どこかに聞こえる後悔するぞするぞという声を押しつぶしつつ、でも悔やんでも、いつも後の祭り。
 どんなに落ち着け落ち着けと念じても、圧倒的な物語の誘惑にはけして勝てはしない、冷静さなどありもしないものとしてかなぐり捨てて、ことばを取り落としセンテンスを跳び越え、段落を横滑りし、章から章への過激な雪崩を繰り返し、握りしめてけして離してはならないいくつもの絡み合った細い糸を引きちぎり投げ捨て、ただただ圧倒的な物語の怒濤へと巨大な渦のなかに身を捨てるように投げ込み幻惑され、一息に魔の淵に歓喜の極みに、つまり物語の絶頂へと足掻くように駆けながら、一方では見え始めたその終わりの予兆に怯え足を止めようと虚しいあがきで爪を立て必死のひっかき傷をつけながら、でも当然にも轟き濁って泡立つ圧倒的な流れに棹さすことなどできるわけはなく、既視感のようにすでに知っている気すらする終わりへと後ろ向きに打ち上げられる。
 そうしてついにはおとずれてしまう最後の一行。いやでもわき起こる、読み終えるという生理的な喜びと、そして終わってしまうことへの無念と。物語の楽園からの追放。
 最後は、ぎらぎらと欲望でよだれさえ垂らしながら最後のセンテンスにむしゃぶりつきつつ、しかし半身は体をねじ切るように背けられて、終わりを見るまい、見る時間を遅らせようと、息せききって駆け抜けてきて見落とした全てをもう一度振り返り手にとり確認し懐かしみ、それから最後へと向かうべきだと、虚しく抗って、でもすでに全ては終えられているのであって、それがあまりにも理不尽で納得できなくて、あり得ないことにしか思えなくて、物語は続くのだと最後のセンテンスをそのまま始まりの一言へとつないでいくのだろうか。
 しかし、当然にも最後のセンテンスの後にくるあまりにも大きな愉悦と虚脱は、初まりのことばへと疾走していく半身に着いてていくことができなくて、死体よりも重くただひきづられていくのみで、それが二度目の読むスピードに落ち着きを与えるという、冗談のような理由でもあるのかもしれなくて、けれども、あれだけの長い、喜びではあったけれどたいへんだった旅をまた繰り返すことへのおののきもとうぜんにもあって、腰を半分引いたまま、でもたちまちにつかみかかってくる物語のいくつもの糸にからみつかれ溺れさせられ、それでも今度こそは握るべきは握り、見るべきは見てと呪文のように繰り返しながら、また遠く果てのない物語のことばの文字の海へと流れ出ていく泳ぎだす放りだされるしかない。
 振り返ればそれはいつも、少なくとも本という形でそこにあるのだし、いつもありつづけたのだけれど、でもそれは安堵よりなにかしらの不穏であるしかないものでもあるかのようだ。
 始まりのときめきと不安(うまくいってなかったらどうしよう、とか、これでこの作家との長かった蜜月が終わりになったら残念だとか、意味のない老婆心のような心配なんかも含めて)だけが、二度目にはないけれど、やはりどこか呆となっていくように引き込まれて読み耽る。大切なことばはひとつひとつ拾い集めゆっくりと眺め、何度か裏返してみてはちょっと囓ってみたりもしながら、同時に物語を押し進めているいくつもの重なり合い絡みあう小さな流れを確かめつつ、全体を貫く大きなうねりに乗って流されながら、でも作品を貫く作家の視線やその視線を生み出す彼らの考えや感じ方に思いをはせ、いやでも浮き上がってくるいろんな響きや変奏、意識的無意識的な、時代や地域や彼自身の、さまざまな木霊や影に耳を澄ませて。
 読み返す喜びが見いだす、味蕾にふいに襲いかかるおぞましい苦みや痛いまでの辛味といった小さな新しい発見も含みつつ、どこか安心してすべてを舌の上でもう一度繰り返し味わい尽くす放心のような恍惚に浸りつつも、でもあらゆる物語が原初にもつ、まだ手にしていないという、なによりも大きく深いのかもしれない、未知への不安と喜悦は再びは戻らない、あたりまえのことだけれど。自分のなかで世界のなかで百の千の手に指に触られいじられつくし、季節が、奇蹟の一瞬だけが生む鮮かな香りはかき消え、あんなにも芳醇だった味わいもどこか薄暗いかげりを産み始め、かすかな異臭が混じり始め、重く濁った澱みにと滑り落ちていく。精緻であざといまでに巧妙な切片も色合いも、清冽に初々しかった驚きもすでに遠く消えて。儚く消え失せてしまうものなのに、でも深々となじんでしまった粘つく空気はぴったりと肌にまとわりついて、くすんだその温かみすらが手放すにはあまりにも愛おしい。
 でもすでに全ては終えられているのであって、それがあまりにも理不尽で納得できなくて、あり得ないことにしか思えなくて、大きな物語は永遠に続くのだと最後のセンテンスをそのまま始まりの一言へとつないでいくのだろうか。しかしとうぜんにも最後のセンテンスの後にくるあまりにも大きな愉悦と虚脱は、初まりのことばへと疾走していく半身に着いていくことができなくて、死体よりも重くただひきづられていくのみで、それが二度目の読むスピードに落ち着きを与える、冗談のような理由でもあるのかもしれなくて、けれどもあれだけの長い、喜びではあったけれどたいへんな旅をまた繰り返すことへのおののきもとうぜんにもあって、腰を半分引いたまま、でもたちまちにつかみかかってくる物語のいくつもの糸にからみつかれ溺れさせられ、でも握るべきは握り、見るべきは見てと呪文のように繰り返しながら、また遠く果てのない物語のことばの文字の海へと流れ出ていく泳ぎだす放りだされる。
ああ、疲れる。

 

菜園便り七四
一〇月三一日

 先日、本村さんが運転してくれる車で黒川に行き、小国にも寄ることができた。小国ドームもまた見ることができたし(木魂館は残念ながら休み)、初めて北里記念館も訪れることができた。丁寧につくられた木造建築、とくに人が住んでいた建物は、ちょうどわたしたちの身体や呼吸のリズムにもあっているのだろう、じんとするくらい懐かしく馴染んだ気配に満ちている。毅然とした柱や梁や根太といった土台の強さもだけれど、建具の堅牢さにも驚かされる。だから今もそのまま残っていて、障子も少し重苦しいほどがっちとした線で垂直に立っている。我が家のような、敷居や桟に支えられてかろうじてふわりと立っているという華奢なかんじがなく、周りがなくなってもそのまま自立し続けるようにみえる。「繊細なやさしさがない、質実に過ぎる」といえばそう言えるかもしれないほどに。色も欅などの濃い色が多い。柱も建具も、その角は使い込まれて冷たい鋭さを隠し、すべすべとやさしいけれど、でもきりっとしたエッジは永遠に失われることがないとわかる。すべてにめりはりがありつつ互いに調和しあい、くっきりとした全体を、これ見よがしにでなく示して、生活の生の現場を支えきっている。
 豪壮で資財がつぎ込まれたからというのではなく、過剰なものを廃しながら、でもさり気ない贅が生活に使われるものとしてそこここに取り入れられている。それはとうぜんにも質素な苫屋にも通じることで、その目的と、つまりそこで生きることと、それを支えることがきちんと造るものと使うものの間で了解されているときに産みだされるのだろう。
 温泉にはいり、そばを食べ、帰りにはいろんな野菜や乾物をどっさりそろえた販売所であれこれを買っていく、明日の夕食のため、山の幸を海辺に届けるべく。
 そういうお店にみえているのはやっぱりそこそこの年輩の婦人客が多い。積み上げられた野菜、幾種類もの豆。乾燥物のなかには胡瓜や冬瓜や月桂樹の葉なんかもある。不思議なようすのものを手にとって眺めていると、それは乾燥させた茸で、水で戻して(すごくふくらむ)煮るといいと教えてくれ、下にある小ぶりの南瓜を取って、これは畑でないところで育てた昔からの品種でとてもおいしいと、近寄ってきたこれも買い物客の婦人が教えてくれる。干した栗を「カチグリ」と呼んでいて、そのまま口に含んで時間をかけて囓ってもいいし、戻して料理に使っても大丈夫とも。
 そういうことばに導かれて、あれこれ買い込む、具体的になにをつくるか、いつ食べるかもしっかり考えつつ。思いがけずゴーヤもでていてこれはもう今年最後だろうとしっかり手に入れる。幸枝さんに白い空豆を半分譲ってもらい、レシピも確認する。千鶴子さんはハヤトウリを分けてくれた。
 それらは、おおげさに言えば極上の(ちょっとぼくには甘すぎる)煮豆になったし、来年までもつゴーヤ・カリカリ漬けになり、今年最初で最後のハヤトウリは、昨年から残してあった付け汁に収まって焼酎漬けになった。一袋のカチグリは何度かの栗ご飯になって食卓に上り、それでもまだ残っている。椎茸はその都度都度、出汁や煮物や鍋とあれこれに活躍してくれている。
 小国では他にもあれこれあって、閉鎖された銀行の建物を通りがかりにのぞきに行くと、知り合いの彫刻家、新庄さんがいて驚かされた。いっしょにおられたのはやはり彫刻の豊福さん。集落の人がお金を出し合って伐採から守ってきた千年杉が倒れたので、それを作品にして残そうというプロジェクトが始まったとのこと。銀行跡が制作の現場になっていて、枝や皮落としがちょうどすんだ杉の大きな塊がごろんと横たわっていた。なにも知らずに行ったので、先方も突然の来訪者にびっくりしつつもあれこれ話を聞かせてくれた。千三百年たつという杉は緻密な材をさらにぎゅっと凝縮したかのようで、威圧でなくどこか枯淡のふうさえ漂わせている。でも説明を聞くまでもなくその重みと扱いづらさは伝わってくる。これからの格闘を想像するだけで身体が軋む、ため息がでる。こっそりいただいた小さな木片は、部屋のなかに今も強い香りを放ちながらひっそりと静まっている。

 

菜園便り七五
一一月四日

 今年初めてのラディッシュ(二十日大根)が採れた。間引きの時に、小指の先ほどの紅い玉がもうついているなと思っていたら、いつの間にかすっかり大きくなっている。慌ただしくまとめて収穫して、食べたり配ったり。少し毛羽立った緑みどりした葉と丸く紅い実のコントラストは愛らしくもありつい手に取りたくなる。
 冬野菜はどれもぐんぐん成長している。春菊やほうれん草はもうときどき摘んでは使っているし、べんり菜も初めて炒め物にした。大根や人参蕪は間引きしては父がみそ汁に入れている。どっさりした一山が全部みそ汁のなかに消える、魔法みたいだ。台風を生き延びたセロリは細いけれど何本も茎を広げている。炒めてもスープにしても強い香を放つ。三種のそれぞれ味も色も形も異なるレタス、それにルッコラも充分に収穫できる。毎日、朝と夜とサラダにしても飽きない。今はそのサラダにラディッシュも加わった。
 春に向けて植えられたエンドウも芽を出して、父が建てた支柱に向かおうとしている。空豆も暖かさの残るうちに、明日くらいには植えなければ。庭の忘れられたようなすみには、分葱やニラが少しひねこびながら育っている。土や日当たりの条件、それになにより肥料や愛情の多い少ないが、みごとなまでに野菜に、その生長に反映している。
 ほとんどプロといって父の技と力で(要点はしっかり押さえて、後は手をかけすぎずに放置するといったような基本姿勢を始め)野菜たちはそれぞれ微妙に色も形もちがう柔らかい緑を伸ばして広げている。
 海岸のここは冬でも太陽の陽射しは強い。晴れた日には真っ直ぐな光が射るように落ちてきて、むきだしの肌には痛いほどだ。常緑の椿の厚い葉の上に光は溢れ、空を映しこんだ海の上にもまぶしく乱反射している。風も強いから、真冬も霜はほとんど降りない。乾燥してそれなりに暖かさの残る気候があうのか、去年もルッコラやレタスは春近くまで続いていたし、きちんと種も取れて、それが今年につながっている。
 台風の潮で一度枯れ果てた菊が再び葉を広げ、小さな花も開き始めた。いただいていた鉢植えのホトトギス草は繰り返し花を咲かせた後ひっそりと植木の陰に引きこもり、夏萩や水引草、吾亦紅は生き生きした黄色の石蕗の花にとってかわられている。終わりの芙蓉と銀杏の陰でひとつだけ咲いた薔薇が、冷たくなってきた風に頭を揺らしている。

 

菜園便り七七
一一月八日

 一一月三日に友人たちといっしょに門司港にいろいろな建物を見に行った。「町屋を遊ぶ」と名づけられた企画で、岩田酒店や旭湯といったすでに営業を止めていて建て壊しも含めた危うい立場にある建物を再び活用させようといったことも、その目的には入っているようだった。この企画のことは千草ホテルの小嶋さんがパンフレットを送ってくれて詳細を知らせてくれたのだけれど、最初に知ったのは津屋崎で個人住宅を完成させた建築家の矢作さんのオープンハウスで小嶋さんにばったりあって、帰りに初めて玉乃井に寄ってもらったときだった。始まりから「建築」と「歴史」がついてまわっている。
 「ひろせ」という料亭での豪華昼食がついたツアーもあったけれど、あれこれの事情で参加できずに、自分たちだけで歩いてまわる。門司港駅前に集まって出発。朱塗りの階段もあるチャンポンで知られた萬龍で昼食を取ってから近くの三喜(宜)楼、と予定を立てたけれど、萬龍はお休み(入り口の金魚だけ見て)。三喜楼周辺の高台を歩いてあれこれ見た後、錦町公民館へ。ここはもと検番だった所で、往時は二百人を超す芸者さんをかかえていたらしい。それを戦後官庁関係のあれこれに分割して使った後現在の公民館に。改造修復が重ねられていて、その時代時代の残骸ともいえるような部分がつぎはぎに残り、痛ましいような、ふてぶてしいような、不思議な、少なくともある審美的で統一され守られてきたものではない、重厚さとはすっぱさが、キッチュや安っぽさも身にまといつつ生き延びてきた逞しさがあり、案内してくれた管理人さんその人のような魅力をもっている。でも、もう終わるしかない、といった潔い諦念もかんじられて哀しくもある。
 栄町商店街の「平民食堂」の名前に感嘆しつつ、路地裏に見つけたその裏口はうち捨てられぽっかりと黒くあいたちがう時、場のようでさえあって、表面を糊塗しつつ絶えず造り替えられてきた、いつも張りぼての表をもつ「商店街」の歴史のついにつじつま合わせができなかった結節点、結界でもあるのだろうか。
 「レトロ地区」と呼ばれる区画で食事したり、今は亡きアルドロッシ設計のホテルをのぞいたりした後、主たる目的である岩田酒店へ。以前に見学に来て話も聞いていた渡辺さんが、岩田さんに紹介してくれ、話をうかがう。堅牢な建築であり、細部には様々な嗜好が施され、贅が尽くされ、建具やガラス、灯りなども残されていて、その保存状態も異常なまでによくて驚かされる。黒檀の床の間縁、そこが傷つかないようにかけられた檜の覆い、花形の乳白色の電球の傘、欄間にも工夫が凝らされている。比較にもならないのについ玉乃井のことも思いだされるし、また維持管理のたいへんさがすごく切実に感じられ身につまされてしばらくぼんやり座り込んでしまった。おまけに見覚えのある東郷平八郎の額も掛かっていたりするし。
 まあ、だだっ広くて夏は快適で、2階から目の前にバッと広がる海が見えるすばらしさは何ものにもかえがたいとかぼんやり思って、でもそれじゃまるで嫉んでいるみたいじゃないか、貧しい対抗意識でもあるのかと、ちょっと淋しくもなる。とにかくはっきりしているのはどこも青息吐息で必死に建物や生活を護っていることで、そういった小さな愛着がかろうじて、「芸術」や歴史文化財でない、ありふれて多くの人に使われ晒されてきた建物を今に残しているということだろう。
 新しさが美であり、正しさであり、壊しては造ることで、虚妄な「富」が増殖していくといった幻想が広まり、すべては表層と単直なわかりやすさとに塗り込められていく。こういう思いはけして歴史へのセンティメントや特権ではなく、多様なものがあたりまえに混じり合ってあることの確認であり、なにか特定のものが絶対なのだと、ひとつの価値観に統一されてしまうことの異様さヘのささやかな反措定でもあるだろう。
 木造3階建ての待合い、路地裏の「バー」、ちょっと珈琲をのみに立ち寄ったそれほど古くはないかつての料亭でも、ついあれこれ見てしまい、感じ考えてしまい、ほんとにぐったりする。諦めた瞬間からたちまち木造建築は崩壊を始める、手入れが、雨戸や窓の開け閉てが間遠になり、空気の入れ換えが滞り、湿度や温度の偏りが全体の傾きを加速し、風や雨がたちまちに屋根から壁から、床から吹き込みはじめ、漆喰の表面がひび割れ滑り落ち、土壁がどさりと崩れ、屋根の瓦下の土が薄い天井板に落ちてつもり間をおかずに板を破って床の間に畳にさらさらと吹き積もる。人の歩かなくなった床は均衡を失ってゆっくりと奇妙にそり始め、耐えかねた部分からぴしりぴしりとはじけていく。柱にねじれが生まれ、根太が、梁が静かに発狂し始める。いちばん弱い部分に全ての悪意が集中する。羽虫が鼠が、鼬までもが跋扈し、屋根裏の主であった青大将も終の棲家を追われていく。行く宛などもうどこにもないことは、彼こそがいちばんよく知っている。

 

菜園便り七八
一二月二三日

 「水平塾ノート一六号」を発刊。発行日は〇二年一一月一一日、だから、〇〇年一二月一一日発行の一五号から、ちょうど二年ぶりということになる。それまでは年に一〇回くらいのペースででていたから、ほんとに長いお休みだった。どうしてだろうか。
 もちろんいくつかの理由や時の速さや、あれこれあるだろうけれど、結局、それですんでしまった、ということだろう。なんとか是非だそうという気持ちが、だれのなかにも、ぼくのなかにも生まれなかったということだろう。水平塾の現在をくっきりと現している。もちろんぼくの現在でもある。
 一一月一一日に発行された森崎さんの『Guan02』の「創刊にあたって」を紹介をかねて掲載させてもらっての全八ページ。1ページめのいつもの巻頭の文と八ページめのnote(後書きのような)だけをやっと書いて、形を整えたことになる。
 そうやってかなり頑張ってだしたノート一六号だったけれど、反応はいたってクールだった。唯一、水平塾で浴口さんが「すごくうれしかった」といってくれて、それでもう充分、また新たに、元気に始まると思いこみたかったけれど、でもやはり幾ばくかの寂しさも残る。
 ノートがでてうれしいと語り、これで一七号もでると口にしたけれど、でも、ふいにいろんなことが喪われる可能性は、とうぜんだけれどいつもどこにもあるのだということも、あらためて感じたりもする。それは、ぼくの感傷や屈折、いらだちや諦めといったことなのだろうけれど、でもぼくにもささやかな慈しみもある、と思いたい。
 そのnoteに書いたのは「該当者性」「当事者性」という、今いちばん気にかかっていることで、それはこういうことば自体も含めてうまく語るのが難しい。ようするに、自分のほんとに大切なこと、つまり嫌でも感じ考え続けてしまうことだけを、もし語る必要があるときには語りたいということ。「痛くもかゆくもない」ことや、「知識」として学んだことや考えたことを語るのは止めよう、そもそもそういうことが語れてしまうという事態は異様ではないのだろうか、ということ。
 書き始めると長くなるし、混乱が深まる気もするので、とりあえずnoteを読んでもらおうと思う。落ち着いてじっくりという、今いちばん必要なことができなくてつらい。

<水平塾ノート一六号より>

note:一五号からずいぶん時間が経ってしまいましたが、みなさんお元気でしょうか。
 季節は冬へとなだれ込んでいきます。暴力的なまでに激しかった夏が翳り始め、瞬く間に草木は花をつけ受粉し結実し色を変え葉を落とし、そして眠りに入っていきます。そうやってじっと冷たく荒んだ空の下でふるえながら寒さをしのいでやり過ごし、春の再生を期します。光がふくらみ波長を変えゆっくりと大気を温め雨を呼び発芽を誘う、そういう季節を。
 水平塾でも、いま考えなければならないのは「当事者性」ということではないでしょうか。なかなかにやっかいな問題で、これまでも考え討議してきたことですが、きちんとまとまるには到っていません。ぼくも「セクシュアリティ」を語るなかでそのことを痛感し、自分なりに<該当者>と<当事者>というふたつのことばを使うことで考えを進めてみました。
 「該当者」というのは、今まで使われてきた当事者に近いもので、この社会(共同体)で生きるなかである特別な、具体的なことがらに遭遇してしまった人、特に差別や偏見の対象に擬されている人などのことです。「在日」「部落」「女性」「障害」「性(セクシュアリティ)」といったことばがすぐに浮かんでくる人も多いと思います。観念的につくられたものでしかない民族、国家、宗教、「科学」など、つまり幻想に組み込まれ、受け入れることでその囚われとなり、差別したり差別されたりしてしまうこと。差別は、何かを他とちがうと感じ考えること、そうしてそれをある特定の価値観で比較し排除する結果として生まれ、つくられます。差別する者には当然ですが、差別される者にも、劣っているとか醜いとかいうことが実体としてあるかのように思いこまされています。差別が内面化されてしまい、自分を否定したり、やみくもに世界を憎悪したりすることにもなります。その時、人は差別をする社会(幻想をつくりあげた共同体)とその幻想自体を認めていて、結果として実体として肯定し受け入れているわけです。もちろんそこには共同体の強い強制があり、無意識の感覚や感受も含め、教育や「常識」や倫理といったものが人々を包み込み縛っていて、それにすっぽり取り込まれているからでもあります。そのなかにいる限り、そこから自由になる、つまり差別から抜けるのは不可能です。差別の現象は時代や国(地域)などでかわりますから、遠くへ去ったり、時が移ればなくなったように思えたりはします。でも結局そういう発想自体はいつも在り続けちがう形として再生され続けるでしょう。ですから、そういう発想の型、考え方の型そのもの(感じ方も)をかえていくしかありません。そういうものがつくられたものでしかなく、意識下をも縛ってまるで永遠の本質のように見えるけれど、ある時代の幻想でしかないと認識し相対化し、自身にさえも内面化されてしまっている差別や憎悪を開いていくこと。
 それには、今までのような差別の告発と闘い、不平等の是正、権利の獲得といった社会的活動では不可能です。差別そのものや差別を産みだすものを実体とし前提とした考え方、結果として差別を再生産させ続けさせるかたちでなく(現在の社会の在り方を丸ごと前提とした否定や改革でなく)、差別する者とされる者の両方が幻想の囚われから抜け出ていく、無化できる方向を探るという困難な方向にしか、もう何も生まれないのではないでしょうか。
 全ての人が何らかの該当者であるのだけれど、そういう「該当者性」から抜けていこうとし、自分も人も同じ幻想に囚われているが、でもそれは観念にすぎず、相対化が可能であると確認できれば、その人は「該当者」であることを超えて、自身の切実な問題の「当事者」としてのみ現れてくるはずです。自分にとって痛くも痒くもない問題を外から゛誠実に゛解析、批評したり、誰かを゛正義で゛代理、擁護したりすることなく、誰もが自身の該当者としての問題それだけを真摯に考えぬけば、ついには誰もが同じ場所に行き着くのではないでしょうか。そこが<当事者>の場です。個別の差別を考えるのでない、「差別」という概念それ自体を対象化し、無化する場。だからそこは該当者にとっても、痛みを叫ぶだけでない(それは差別の根源を実体化させ持続させます)もっと開かれた場となるはずです。(F)

 

菜園便り七九
二〇〇三年一月二三日

 二〇〇二年も終わった。恣意的に区切られた時間の単位だけれど、季節ということのリアルはまだこの身体にも残っていて、だから新年は、新鮮な冷たさ、きりりとした空気の肌触りに感応したりもする。
 そうやって始まった新しい年も、たちまちに生活の有象無象のなかにとうぜんのことだけれど融け込んでいく。父がまだ注連飾りを片づけないのは、今年は二月一日にやってくる旧正月のためだ。アジアの多くの地域が旧暦のお祝いを中心に据えているように、ここにも旧暦やひと月遅れのお祝いが多い。典型的なのはお盆で、これは関東以外は全国だろうし、七夕も、マスメディア、集中テレビが世界を席巻にしてしまうまでは八月だった。ひな祭り、お節句・・・旧暦だと立春立冬もぴったりくる、もちろんそれらも後から名づけられてきたものだ。
 旧正月にもあらためて、数の子や黒豆はつくるけれど、お雑煮を食べるのは一日だけになるだろう、つまり元旦だけ。父もそのへんの簡略化というか妥協を受け入れている、自身の労働の軽減も含めて。
 昨年も菜園便りを読んでくれてありがとう。ホームページを訪れてもらって読んでもらうより、手紙のようにこちらから送り届けて読んでもらうことに小さなこだわりもあって、この形はしばらく続けたいと思っています(ホームページがつくれないこともあるし)。ただ「菜園便り」そのものの予測がちょっとつかなくなってきているので、少しずつなかみややり方もかわっていくとは思いますが。
 何かに集中すること、そのなかには書くことも含まれるけれど、それがひどく衰えている気がするし、それにつれて、内容もやせ細っていっていく。年齢や季節や生活のリズムや何やかやが相乗しているのだろうけれど、ひどく落ち着かなくて、でも(だから)動くことも億劫になってしまってもいて、困ったことだ。たしかに一月、二月は、寒さと木の芽時の始まりとで心も身体も共に動揺しつつ非活動の時期だけれど。
 この季節、いつものように光は溢れている。低い太陽が部屋の奥まで深々と陽光を送り届けてくる。大気が乾燥しているから光は透明で白熱し、だから白い紙や布の上で鋭く反射して目を射る、まぶしくて顔を背けるほどに。用心しつつも少しずつ芽を伸ばし葉を広げ始めた草木の新しい緑の上にも光線は反射し横溢する。ときおり内の翡翠色をかいま見せながらも濁って暗い海も陽が射すとさっと白金色に染め上げられ、小さな波はどこまでもきらめいて輝き、鈍色の雲のそこかしこがうすくなり途切れて青い空がのぞき、光はそこにも溢れ、帯となってなだれ落ちてくる。
 ゆっくりと庭を横切っていく父が大根や蕪を抜き、草を取り、垣根の修理をする。そういた仕草のひとつひとつのうえにも光が溢れる。キジバトがとことこと歩き、鵯が一声ないて飛び立つ。菜園の野菜たちも、つぎに来る寒波をしっかりと目の端に据えつつも、光りに押されるようにまた少し伸び上がる。

 

菜園便り八〇
一月二五日

 突き刺さってくる光はもう夏だ、というのはおおげさにしても、この強くて鋭いエッジのある陽射し、澄んだ冬の大気のなか、すでに春分へと傾きつつある太陽の増大していく光量が、くすんだ日本海の空を真っ直ぐに割って落ちてくるから、その新鮮さがまぶしさがいっそう強く感受されるのだろう。吹き募る風に砂が飛ぶ、打ちつける波が砕けて舞い上がり、海岸道路を走り抜ける車へと降りかかる、それさえも何かの祝祭のように見える。悲鳴を上げながら、毒づきながら、でもドライバーたちは海辺の道を選んで走る、くそっ、またかかった!
 論(あげつら)うことでの否定は、論うことで否定されるだけだろう。「事実」の羅列、分析、これからの「方針」を述べ続けることがなりたつ場、つまりこの共同体内での約束事の共有を前提としての批評、否定。「ことば」それ自体はそういう場でしかなりたたないのだろう。「ことば」にすることで、語ることで、あげつらうことで、それは処理され、解決なりペンディングなりのラベルが貼られてしまい込まれる、意識的、無意識的な操作のなかで。
 先日、本村さん、萩原幸枝さん、近藤さんと、チョムスキーの講演とインタビューを撮ったドキュメントフィルムを見に行った。辺見庸のときのようにやっぱり動揺するだろうかと思っていたけれど、本人がそこにいないことや、会場の直接的な思いや声がないこともあるのだろうけれど、最後の「Can you hear me?」が文字どおりとってつけたとしかきこえなかった。
 現在、米国大統領をよく言うことより、辺見やチョムスキーに問いを投げかけることのほうが、難しい。すごく大切なことだけれど、誤解を招かずにきちんと語ることが困難なことがら、ほんのちょっとのでも決定的なちがい。しかしそこをこそ踏み抜きたいために、「現実はこうだから」と、「とりあえず今はその点は先延ばしに」したり、「できることから対処」したりしないためにこそ、回らない頭で、軟弱な手足でどうにかしのいできたのではなかったのだろうか。果てのないように続く戦争や暴力も、連合赤軍やオウムも、そうして自分のなかにある過剰さや冷酷さも、くり返し問い返し考えるしかないことだ。答えがないからこそ、答えをだすための問いとしてでなく、ただ問うための、相対化するための問いを絶やすことなく繰り返すことしかない。
 様々な、説得力のある、人を撃つ力のあることばが論旨が続く。でもそれらはチョムスキーにとってどうしようもなく切実で、もうことばにすらできないことがらだとは聞こえてこない。ヴェトナムも南米も、中東も、アフガンも、それらのおぞましく理不尽きわまりないことが、まるでひとつの素材でしかないように響いてしまう。彼自身の出自や民族の自認、「知識人」としての自覚、誠実さ、倫理や正義感、悪への憎悪、無知への怒り、底の浅さへの嫌悪、そういったものには溢れているけれど。
 「行動」する=しないことの是非や「知」の尺度への疑問ではなく(そんな問いはもう成り立たないことははっきりしている)、そもそもそういう分け方、そういう発想そのものが、否定したいおぞましさと表裏になっているのではないか、という抜きがたい思い。根元的で無限に遠そうで、でも実は生のなかにありふれてあること、そういう発想の型を取り出すこと、ただそれだけが、「悪」と「善」と二項にして呼ばれるものの終わりのない反復を無化するのではないだろうか。
 それなしには自分がもうなりたたないようなもの、それだけが語るべきことであり、ことばにならなくても確実に誰かへと伝わっていく。論理の、つまり知による批評、否定はそこにけしてたどり着けない。そもそもそういう方向を向いてないし、そういう方向があることを思ってもみない、それを切り捨てるから成り立つ場なのだろうから。瞬く間に答えがでること、現在の文脈ですらすらと語れてしまうこと、それが問題なのだろう。答えがあると思うから、それに見合った問いが出てくる。答えを、どこかに期待しているから、しかもことばとして。それは受け入れるための(「否定」も含めた)、問いと答えだろう、そして、とりあえずの現時点での終了。
 ほんとに自分にとって切実きわまりないこと(それはすごく多様だし、数え上げることも比較することもできない、そしてだれもにあること)、それなしには自分があれないこと、それは該当者性といってもいいのだろうけれど、それだけを考えること、語ることから始めるしかない。ささやかで、でもわたくしにとっては絶対的なまでに大きなそのことだけを。そうしてその先に、初めて他の該当者性と重なり合う場、当事者性が生まれてくるのだろう。

 

菜園便り八一
一月三一日

 ふいの雪さえ、そのきらきらビームで、地面に着く前に瞬時に溶かしてしまう陽光も溢れて、菜園の野菜たちはべたりと地面に放射状に張りついていた姿勢から、徐々に頭をもたげ、肩を上げ、半身を起こそうとしている。しばらく見に行かなかった庭のすみの春菊が群生したまま(間引きをきちんとやらなかったから)、並んで真っ直ぐ立ち上がって葉を伸ばしている。鍋の時だけでなく、みそ汁に、おひたしにとせっせと摘む。
 まだ残っているラディッシュを驚きつつ収穫し、それでもまだ幾本か残っていて、あの愛らしいおいしさへの喜びは尽きない、すごい。中央に赤い模様のはいる蕪くらいの大きさの丸い大根も続いている。輪切りにしてサラダに入れる度に、「不思議だ、不思議だ」と父が言う。間引きを途中で止めてしまった大根や人参は密生したまま押しくらしあって、葉っぱはこんもり山になっている。きっとすごく細いのや小さいのがひしめいているのだろう。今からでもと思いつつ、でもどこから手をつけたらいいのかとまどううちにも時はたつ。
 ルッコラ、セロリはあいかわらず繁茂し、パセリも立ち上がり始め組。すっかり縮こまったレタスのなかに父がまた新しい苗を二本植えてくれた、これで、塩梅しつつ摘めば(食べれば)春の初めまではなんとか持つだろう。五月に向けてエンドウはもう子供の背丈、空豆はじっと機会を待つように一〇センチほどで踏みとどまっている。今、雪が積もったら、たぶんエンドウはおしゃかだ、解説本にあったように早蒔きすぎると苗が伸びすぎて越冬ができません、の警告そのままに。ひねこびた分葱や韮も庭のすみで待機している、青梗菜や便利菜はどんどん伸びる繁る。もうじき花芽が出てくる、そうしたらそれも摘んでおひたしにできる(芥子醤油かなんかだ)。
 一本だけ遅く咲き始めた菊が菜園の端でまだ小さな黄色い花弁を開き続けている。あちこちで水仙が匂いを放つし、朱の奇怪なアロエの花も盛りで、目白につつかれていている。
 鉢のなかでかろうじて生き延びたミント、ローズマリー、夏萩も葉の色に瑞々しさが戻ってきた、じきに山茶花や藪椿や開くだろうし、ゼラニウムもまた花をつけ始め、賑やかさはまし、雑ぱくな草ぐさもいっせいに伸び始め、またすさまじい生命力に溢れる庭になるのだろう(だれかが、藪だ、と陰口をついていたけれど、ぼくはジャングル状態といいたい)。
 芝生も緑を取りかえしつつある。ふいに陰った空からの静かな柔らかい雨が全体をゆっくりと濡らしていく。

 

菜園便り八二
二月六日

 二〇年来の友人であり今も東京に住む森さんの心遣いの提案、助力で、彼と直江真砂さんと三人で岡山で会うことができた。雨模様の空の下、北と南から瀬戸内の街へ向かう。
 直江さんとは一〇年ぶりだったけれど、会った途端、以前のように「マーゴ」という呼び名が口をつく。互いの上に積もった少なくない時間や、軽くはない生活の重さを確認しつつも、その下からくっきりと現れる懐かしい姿を見つめる。
 森さんは、親族の集まりや同窓会も意味するreunionということばを使う、再会の時。思いでというのはうっとりとするほど甘くて、せつないほど懐かしく、それはそういうものだけを用心深く丁寧に取りだすからだろうし、今の生活のあれこれを、淡い光のなかに包んで隠してしまうからでもあるけれど、でもどうしてこうも、かつての日々、あの頃の人たちは、過剰にまで輝いて浮き上がってくるのだろう。そんなにも今がくすんで淋しいわけではない。「若さ」という愚かな、でもいっとさが生むかけがえのなさ、だろうか。もちろん、けして思いだしたくないこと、大声で叫びだしたくなること、恥ずかしさにいたたまれないこと、色あせない憎悪、死ぬまで抱えていくこと、掃いて捨てるほどのそんなことごとは「思いで」ではないのだろうし。
 直江さんとはその友人たちも含めて七〇年代の前半と、一〇年ほどの空白の後八〇年代の後半に(その時は森さんも交えて)会っていたけれど、その頃はまだご主人も健在だった。画家でもあった彼のことをムッシューと呼んでいたことも懐かしい(マーゴは今も描き続けている)。出会いのきっかけになったのは、要町にあったバラードというバーだった。それも今はない。
 そういう三人での集まりだったから、話は楽しかったかつての日々のことの後、少なくはないすでに亡い人たちにどうしても傾いていく。田中さん、ムッシュー・直江さん、原田さん、中井さん・・・・。会話は穏やかにゆっくりと進むから、ぼくはぼくの思いでのなかにも入り込んでいき、呼びかけられてはまた親密な空気のなかに戻っていく。相川先生、フェルディナンド・マウザーさん、檜垣先生・・・。
 二〇代だったのはほんの昨日のことさ、とはとても思えない遙か彼方なのに、いくつかのことがらはまるで今ここにあるようにヴィヴィッドに蘇り、胸は締めつけられ、漠とした不安が広がり始め、そうしてシンと身体を浸し甘苦くしみ渡っていく。圧倒的な喜びでも苦痛でもなく、足掻くような後悔でも冷たい諦念でもなく。そうであった、そうでしかなかった、そうしてどんなふうにやっても結局はこうなっただろう、自分の生とその軌跡を少し遠い目で穏やかに見送る。近いけれど、でもぴったり重なっていたのでない3人だから、こうやって静かにいられるのだろう。
 降りだした細かな雨の下、まるで二〇年前のように夜更けまでバーを巡り、肩寄せ合って、ふらつきながら路地を抜ける、再びは巡ってこない時を踏みしめる。

 

菜園便り八四
二月一〇日

 大分の二宮君が、亀井君に託して「小さな肖像」のヴィデオを届けてくれた。NHK大分で放送している、彼がインタビュアーの番組を四八回までまとめたもの。街で出会った人、偶然見いだした場所で、彼が訥々と質問し、その人の肖像画を描く。最後にだされる核になる質問は「あなたが今まででいちばんうれしかったことはなんですか?」。各回五分間の短いものだけれど、見ているときはもっとずっと長く感じてしまう。いろんな映像が差し挟まれるし、時間をかけてつくられているからだろう。それからインタビューする人とされる人の互いのぎくしゃくした、日常にはありふれた関係がそのままでていて、見ているぼくらもその場の人たちのように緊張したり、しどろもどろになって身の置き所がなかったり、目のやり場に迷ったり、あれこれ自分のことのように困ったしまうから、後で時間が塊としてどっと落ちてくるのかもしれない。そうして、最後は生のやさしさ、あたりまえさのなかで穏やかに閉じられていく。
 二宮君の人がらが表面の映像の下にしっかり見える。これはぼくが知りあいだからというのではなく、見る人誰もがストレートに感じとることだろう。彼自身のコメントは少なく、でも聞くことに徹して無理にことばを引き出すこともなく、「そうですか」「えー」「なるほど」といったおかしみもある返答。
慣れない取材でのすれ違いや滞りが、下手さがあり、それは、でもたちまちに習熟し、洗練されていくといったことを予感させない。ちょっと大げさに言えば、マスメディアとか、取材するとかいったことが必ず向かってしまうそういう方向を拒むことで、「制度」に取り込まれるの逸れるという、メディア論にもなっている。それはまた彼の「美術」論(文化論といっても同じだろうけれど)に関する持論にもつながっていく。ある時代や地域(地球規模としても)のなかでの約束ごとでしかない、「美術」や「絵画」といった創られた(今は近代のということだろうけれど)概念を前提にしないということ。そういった概念やことばのずっと以前(ずっと後で、といっても同じことだけれど)の、表現そのものを掬いだしたいということなのだろう。
 トレンディーな事象や、「地方」での成功、「実力者」といった相手はもちろんでてこないけれど、「苦労した」人や、話し上手(期待されたように上手に質問に答える人)、「絵になる」人もでてこない。もちろん彼が引きつけられやすい傾向はあって、だから静かな山間、豊かな棚田、海辺、町中のひっそりしたたたずまい、ちょっと不思議な場所が多く選ばれている。
 だれもが、とうぜんだけれど、短くはない時間いろんな生を抱えてきて、深い人間関係のただ中にいる、あたりまえの生活者として。「市井(しせい)の人」といった、藤沢修平の作品のコピーのようなことばがすぐに貼りつけられてしまいそうだ。でも、そういう「市井の人」なんてない、だからこそだれもが無名ですばらしいのだということも伝わってくる。そんななかでも、やっぱり長く生きてきた人の力(表現力)はすごい。表情、声、仕草だけでなく、語られる内容もさすがにすごい。戦争のこと、シベリアのこと、嫁いだ家のこと、仕事のこと。そういうなかでかろうじて生き延びてきたことは、でも特別な大仰なことばにはならないし、それへの過剰な否定もない。誰かが生き延びたように自分が生き延び、誰かが死んだように、自分が死んでもおなじだったのだ、と。もちろん生きてあることの喜びは大きく、でもそれはあらためて書き記す、具体としての「喜び」「楽しみ」とはちがって、穏やかでだから遠くまで届く、タイの奥深い農村にも、荒んだニューヨークの通りにも(生の謙虚と受け止める力があればどこにでも)届く「喜び」と呼ばれもする、自他への慈しみにまつわる何か、だろう。
 自力で、それは俺ひとりでやるという過剰な「独立独歩」ではなく、そういう過剰さもきちんと押さえつつ(それは自分がいちばんとか自分にしかできないとかにつながってしまうし)、生きることの単純さと難しさの両方を生活としてじっと見つめ、人々との抜きさしならない、とうぜんでもある関わりを続けながら、毎日はせっせと人生はゆっくりと生きる人たち。だから多くの人がその「いちばんうれしかったこと」に家族をあげることの、あたりまえさ、驚き。それは、路地の奥で四〇年続けてきたほんとに小さな八百屋の前で、ご主人と奥さんが、結婚できたこと、そうして今も仕事が続けられることを喜ぶ、拾ってきた犬と共に過ごす毎日に溢れているし、いちばんうれしかったことを「かあちゃんといっしょになったことだね」とぶっきらぼうに語る魚屋の大将のリアルさでもある。おばあちゃんのことを語り続ける高校生の女の子、お母さんのことしか頭になかったしお母さんを喜ばせたいとだけ思ってたと話す、今は自分が母の元乙女、子供が全てだったし、みんな結婚して幸せでうれしいけれど、今も長女の結婚式の時のことを思いだすだけで声が詰まる母、彼女は古い精米所をひとりで切り盛りしている、天井のいくつもの滑車が長い少したわんだ布のベルトでつながりあい唸りながら回されている、細かい粉と匂いに満ちたあの空間で。うっとりした蜜の時間だったと親族旅行を今も思い返す青年、防衛大学を出た後医大に入り直し、研修の時の感動を手放さず、産科医として病院勤めを続ける人の静かな勁さ・・・。それらは、目や声やことばのわずかな響きをとおして、こちらへゆっくりと伝わってくる、ぼく自身のまだわずかに残っている感受の柔らかさをとおして。
 作り置いてあるのだろう柚子の皮のお菓子がお茶請けにだされる、ふいの闖入者にもお茶や珈琲がふるまわれる、日常のしぐさとして、縁側で玄関の上がり口で、座布団一枚で応接間になる場で。そういう細部の尽きない魅惑に引き込まれながら、たぶん誰もが同じことを自問するのだろう、自分にとっていちばんうれしかったことはなんだったんだろう?と。ぼくもそうだ。「そんなものはなかったさ」なんて子供じみた反発をする気もないけれど、でも答えるのは難しい。すばらしかったこと、感動したこと、それはいつもその正反対のことがらに裏打ちされていて、だから喜びと苦痛はセットになってしまっている。手放しにうれしかったこと、それは無垢な、問うということのない時代にしかないことかもしれない。全てが自分を中心に廻っているようにあれた頃、家族の、集中母親の愛情のなかでことばさえなくてたゆたっていただろう時にしか。
 でもそんなに解析的なことばがでてくる方向で考えてしまうことが出発の躓きなのだろう。ただ静かに思い起こせば、ありふれて、溢れるまでのできごとのただなかに人は連れ出されていくはずだ。生きることの耐え難いまでの困難と、あまりのあっけないまでの単純さとのなかの。
 窓際の溢れる陽射しの下に座って、ぼくは本を読んでいた。光が、熱が衣服を通して全身を包みその温かさ穏やかさがしみ渡ってくる。ありふれた午後の、静かなその時、ぼくはただただ心地ちよくて、そうしてそれを誰かに伝えたくて、そばのソファで横になって書き物をしていたマウザーさんに「I'm so happy」とことばにしたのだけれど、もちろん相手は、何いってんだへんな奴だと思って、でもにこっと笑って書斎へタイプを打ちに行ってしまったけれど、あのときの幸福感が、いちばんうれしかったことかもしれない。少なくとも限りなく穏やかで幸せに感じられた時だった。
 初めて外国の地に下り立ったときや、ついに思いの人と愛しあえたときとか、何かを達成したときというのは、うれしいのは当然だけれど、のしかかっている不安も大きいし、よく語られるように、喜びや快感は大きすぎると刺激も強すぎて痛みに近くなってしまうから、うれしいとだけはいえなくなってしまう。そういった不安や刺激を、意識することさえなく捨象できたり、全部受け止めてのみ込んでしまえるような「度量の大きさ」みたいなものが無い人には。
 ささやかなでも底知れぬこと、人や生と同じように、単純ででも限りなく豊かなもの、それがだれものほんとうの、いちばんうれしかったことなのだろう。だからこそ「愛」とか「家族」とかいうことばでよばれている、慈しみ、みたいなものが、だれものなかに答えとしてすぐに浮かび上がってくるのだろう。