菜園便り一六一
一一月二〇日

強くなった風に鴎がくるくるとまわり、山茶花も開いて、季節がおおいそぎで移っていく。この建物を巡って、人も家族もかわっていく。関係が途絶え、そして生まれる。

 

菜園便り一六四
一二月半ば 杉野さんのこと

 玉乃井の片づけを進めながら、そこから出てきたものを手に取ったり、並べて展示したりしていると思いもかけないものに出会う。祖父は活動的でつながりも多く、しかも何でもとっておく人だったから、実にいろんなものが残っていた。以前はまとめてそのまま処分していたけれど、玉乃井プロジェクトを始めてから、とにかく一度は開いてみる、一呼吸置いてどうするか決めることにしたので、手紙類の間から帝国ホテル旧館のパンフがでてきたり、破れた封筒に祖母の死亡診断書が入っていたりして驚かされた。
 先日もちょっと不思議なことがあった。玉乃井の集まりでも語ったけれど、人がみえると必ず話題になるものに、2階の広間の大きな座敷テーブルがある。日田杉(実は松だと後でわかった)の一枚板で、幅一メートル、長さ四メートル近くあるのに足も四本だけでしっかりしている、といったことをいつも説明したりしていた。作ってくれたのは以前祖父の所にいて、日田に戻られた杉野さん、もう一台の短いテーブルも同じ杉(松)からのもの。祖父のもとで書生さんみたいにして装蹄士の免許(当時は国家試験だった)を取るために勉強していた人だけれど、今回の片づけのなかで、彼の結婚写真が出てきてびっくりした(身内でない人の結婚写真などもけっこうあるのは配ったりしていたからだろうか)。たぶん祖父に恩義を感じておられ、律儀な方だったようだから、結婚の報告に来られたのかもしれない。
 一二月半ば、その杉野さんの息子さんが突然、近所に来たからお仏壇を拝ませてほしいとみえた。ぼくは初めて会う人で、ちょっとポカンとする感じだったけれど、片づけのなかで少し意識化されていたこともあって、すぐに対応はできた。息子さんもぼくの「日田の杉野さんですか」という問いに驚かれて、互いに感無量とでも言った雰囲気だった。
 父に引き合わせ仏間に通し、お茶を出して挨拶をくり返しながら、写真のことやテーブルのことを話すとびっくりされつつ喜ばれ、すぐにも席を立って見に行きたいといったふうだった。バザー会場のままの雑然とした2階に案内し、その結婚写真や玉乃井や祖父の資料を見せたり、テーブルを見てもらったりしながらまた話す。「結婚写真、それは再婚の時のでしょう」と即座に言われたとおり、それは杉野さんの再婚の時のものだった。自分たちの母親ではないということをはっきりと言われる息子さんに、どこにもあるのだろう家庭のあれこれも思ってしまう。杉野さんが家庭をもたれていたことすら、子供のぼくには知るよしもなかったし。
 彼はテーブルを見るのは初めてだったようで、「話には聞いていたけれどもっと小さい細長いものだろう」と思っていたとのことで、すごいすごいを連発される。建築関係の仕事を続けられていて、そういった話にもつなげながら、父親の仕事をしっかりと評価し、そのすばらしさをぼくらにももう一度伝えたいと言ったように。これだけの大きさと厚さなのになんのそりも歪みもない、屋久杉ならともかく、日田杉でこの大きさはすごい、と。
 1階の海側入り口に展示している装蹄の道具や、獣医の器具なども案内しつつ、話しも広がっていく。蹄鉄の釘を家の工場でつくっていたこともご存知だった。祖父が獣医として、南公園と呼ばれていた福岡市の動物園にも時々行っていたということは初めて知った。虎やライオンは板に挿むようにして診るからいいが、象はそういうわけにないかず怖かったと親父から聞いたととのこと。おそらく祖父の助手としていっしょに行かれたのだろう。
 杉野さんは装蹄士になった後も長い時間かけて勉強し、獣医の資格をとられたということも、この日知った。ぼくは、祖父のもとにおられた頃は、生まれてもいなくて知るよしもなかったけれど、その後時々見えた時に会ったのはかすかに覚えている。とにかく大柄で声も大きく、子供にはなじみやすい楽しい人という印象だった。最後にお会いしたのは、祖母のお通夜の時で、「誰も添い寝しないのか」といったようなことを言われて、祖母の棺の前に横になられたのを覚えている。おそらく彼にはぼくのことは、何人もいた子供たち(従姉妹も当時はいた)のひとりととしてしか記憶にはなかったと思うけれど。
 「旧玉乃井旅館<解体と再生>プロジェクト」を立ち上げ、片づけと展示を始めたことで、様々なひろがりが生まれつながり、いろんなことが現れてくる。でも杉野さんまでたどり着くとは思わなかった。かつての仲居さんにはどこかでつながっていくんじゃないかと、ちょっと期待しつつ、できれば避けたいと思ったりもしていたけれど。もうひとりの装蹄士の丹部さんにつながるのは、とうに亡くなられているし、もう不可能なのだろうけれど、以前「菜園便り」に書いたこともあってどこかで息子さんになりと関われたらと思ったりもする。ぼくの子供の頃の思い出にかなり色濃く残っている人だ。会ったところで話すことも何もないのだけれど、でも顔を見てみたい、そこに丹部さんの面影を見つけてみたいと思ったりもする。杉野さんの息子さんは全くと言っていいほどお父さんには似ておられなかった。

 

菜園便り一六三 ???????
一二月二三日

気がつくと冬至、そんな追いまくられるような日々です。年が早く巡ってくる気がす
るのは、年齢的には、たぶんいろんなことが痕跡さえ残さずに過ぎていくからであ
り、記憶の鈍化がそれに拍車をかけるのだろうし、季節や暑さ寒さの体感さえしっか
りした印象を与えなくなっているから、つまり受けとめる感受が鈍磨しているから、
でしょうか。それにしても、もう大晦日が目の前とは。
どこかですっぽり記憶が抜かれたのか、時間がまるごと切り取られてしまったのか、
ちょと寝てる間に季節が早送りされたのかと、本気で思ってしまいます。
「旧玉乃井旅館「解体と再生」プロジェクト」でももちろんですが、「九月の会」で
も「記憶」がテーマになって、あれこれ考えたりもしますが、なかなかに曲者でとら
えどころがないのは時間を考えることとと重なっているし、おまけに身体や心性とも
抜きがたく絡み合っているからでしょうか。あの、思い出を語ることの、淫するほど
の快感はなんだろうかと考えこんでしまったりもします。またぞろ、六〇年代が語ら
れたりもしているようですが。なぞるだけでなく、どこかできちんと掴みたいと足掻
くように思ったりもします。
「文さんの映画をみた日」も今年は終了、次の締め切りも来年に入ってからなので一
段落です。隔週といっても、追いまくられる時も多く、なにより書きたい映画(とい
うより書ける映画)を追いかけて1年が終わった気もします。今年は最後の最後に蔡
明亮を2本みることができたのがいちばんでした。
「菜園便り」もなかなか落ち着いて書けなくて残念です。来年は・・・・という常套
句でことしてもしょうがないですが、もう少しなんとかとは思わずにはいられませ
ん。書く喜びが、つかみ取る対象への感動がそのまま受けとられる喜びにつながって
いくような。
そんなことを願いつつ、今年最後の「菜園便り」を送ります。
よいお年を!

 

菜園便り一六五
二〇〇七年一月一七日

 冬至が過ぎて三週間、日が長くなってくるのがかすかに感じられる。寒さのほうがいよいよつのってくるから陽射しの現実感はうすいけれど、夕暮れの心づもりが少しかわってくる。夕飯の準備への心づもり、といってもいいだろうけれど。
 先日、札幌からのお客さんがあった。学校時代の友人だから、三五年ぶりぐらいになる。「ほんとに?」とつい思ってしまう。そんなに時が経ったことが、自分のことで三〇数年なんてことばが使えることが。会った途端、以前とかわらずにさらさらとことばはでることに。
 でもあたりまえのことだけれど互いのその間の生活が影を落としていて、基本的な部分はほとんど同じに感じられるのに、ときおりの相手への思いやりなどに、毎日の暮らしの丁寧さなんかがのぞく。年を重ね、人への、世界へのやさしさが厚みを増すと共に、もうこれ以上はけして受け入れないという見切りみたいなものもできあがって、固い口調での反発や抗議としてでなく、生のなかの穏やかででもきっぱりとした拒絶が育ってくる、そんなふうにも思える。人は寛容になるのか、偏狭になるのか。それは同じことの裏表なんだろうけれど。
 進行中の「旧玉乃井プロジェクト」で記憶や思い出、記録なんてことをあれこれ弄りまわしているせいか、あまり昔のこと、楽しかった思いで、つらいことば、なんてことは話題にあがってこない。そんなふうに自分で制御しているのかもしれない。感傷や甘苦さを避けようとしていたのだろうか。
 でも不思議だ。「やあ、元気」みたいに始まって、「またおいでよ」で終わるまで、二、三年ぶりに会った、そんなふうだった。生活やその現場を見られることへのためらいがないのは、取り繕うための体力や「美学」も、やっとしぼんだということだろうか。今回のプロジェクトで、生活の場で表現することを選んだ以上、しかも歴史や家族をテーマにした以上、それはそうするしかないし、それをやり抜けたら少しは何かが拡がり、太くなる気もする、ささやかな期待として。
 少し無理しながらも、さらさらと父と一緒に台所で鍋を囲んでしゃべり、洗い物をしてくれる姿にいろいろなことを感じ、感謝し、そうして少し淋しくもなる。そういうことができるようになるのに三〇年を費やしたということであり、でもそうしてやっと手に入れることができたたいせつなものでもある。スタイリッシュな「反日常」的美学や傲岸な生活軽視、つまり生きるための家事やごたごたを軽んじることからも少し自由になれたということだろうか。
 小さなバッグひとつ、といった旅慣れた軽装の友が手を振る。あたたかい陽の射す海岸通りをバスはたちまち走り抜けていく。北海道、ほんとに遠いところだ。

 

菜園便り166 ???????
2月12日

もう10センチほどにも伸びた麦がゆっくりと風に揺れている。ほんとに柔らかで濃い緑の葉。収穫の始まったカリフラワーの間に、そうやって麦や秋以降放置されているひこばえの稲が続く。休耕田には雑草が短くびっしりと生えている。そろそろ稲作のための田圃の準備が始まるだろう。黒々と耕された畝に白い鷺が虫を求めて降りてくるだろうし、鳶も群れながら上空で舞うだろう。暖冬だから寒さの実感がうすいけれど、今がいちばん寒い季節。でも光がこんなにも真っ直ぐで強いから、もう春と思う気持ちは堰き止められない。


 1月の集まりの時、大半が帰られた後、残った数人で珈琲を飲みながらあれこれ話していても、やっぱり記憶や思い出なんかが中心になった。音楽に関しての、どんな作品が自分に焼きついているか、「数曲をあげて、そのなかでいちばんのものをひとつ。できれば理由も」といった問いには、誰もがなかなか答えられない。すぐに数曲あげたり、たった1曲を選ぶことの難しさもあるけれど、ひとつには自分のずいぶんと深い部分をさらけ出すようでためらいがあったのだろう。
 以前、映画について同じようなことをやったけれど、その時はわりと楽に答えられた。距離がとりやすく、視覚的なものはどこか抽象的というか理性的、なのだろうか。音楽は生理に深く絡みつき、情動や感傷、性的なものにも結びつき、一瞬にして人を連れ去ってしまうところがあるから、なかなかに難しい。底なし、みたいなところがある。そんなに大げさにでなく、と思っても、やっぱりうまくことばにもできないから、説明したり観念的にしたりして、曖昧にできづらいからだろう。
 年齢が近いと好みも嫌でも似てくるから、世代を暴かれたり、世代との関係をみられる(と思ってしまう)ことを避けようとする気持もあるのだろうか。なかなか正直に、すっとはできない。その時もちょっとでたけれど、「カーペンターズを唾棄するほど嫌悪した」とかいうのももろに世代的なことなんだろう。つまりどこか学習したこと。あれだけ流行ったからつい口をついたりするから、よけい片腹痛いというか苛立つのだろう。あの甘ったるさと徹底したノーテンキな軽さ。清潔な澄みきった声!?
 ぼくは中学、高校時代は怒濤のグループサウンズだから、嫌でもそこからは抜けられない。ずいぶんたくさんの歌を空で歌える、しかも3コーラスまで。そういうことはやっぱり言いづらい。世代的にずれるから、山口百恵は全部歌えるなんてことは、平気で言える。どこまで本気だか、と思わせられるし、自分でもそう思ってしまえる。でもタイガースやテンプターズ、カーナビーツ、ビレッジシンガーズ、スパイダース、ジャガーズなんてなってくると、自分でもおいおいと言いたくなる。
 思い出を語るあの甘さはどこからくるのだろうか。<青春>を回想する感傷の甘さ、それに乳幼児期の家族、集中母とのつながりの記憶、甘さ、あたたかさなのだろうか。ほんとはもっと濃く熱いどろりとしてくるまれるものか。そうして苦いもの痛いものは、巧みに無意識のフィルターで濾過され不透過にされて表面に浮上しないようになっているからだろうか。
 60年代は政治や文学、ポップカルチャーとしての音楽、美術、演劇等などの--ビートルズサイケデリックアンダーグラウンド、ミニスカートの全盛であり(ほとんど全てが外国からだ)、愛や貧乏すらもが社会的で具体的で語りやすいし、身体的でもあったから、思い出にされるには最適だった。直後に「根暗な」70年代がはいり、「豊かな」狂騒のバブルが後に続いたから、80年代の初めにはもう60年代は回顧され、ある「郷愁}(ノスタルジー)を誘うものとして、もちろん商品として、語られ歌われ始めた。例えば、「苺白書をもう一度」といったような作品。だから当時は吐き気がするほどにも嫌悪していたし、酒場で「インターナショナル」を歌うような傲慢な感傷と共に、心底うんざりさせられていた(本気で聴くと泣かずにはいられなかったのかもしれない)。しっかりと口を閉じ身を屈めて、ただじっとうずくまってやり過ごそうとしていたのだろうか。でも何を? 時の過ぎゆくのに身を任せて? それこそ歌謡曲だったろうに。
 喪われたもの、どんなに足掻いても二度と手に入らないもの、一過性でしかありえないもの、痛くて辛くてしんどくて2度とやりたくはないけど、もうやらなくていいから思い出せる甘苦いもの。人に、世界に語ってみたいもの、ある評価の軸がありなんらかの「価値」(マイナスの無価値も含めて)ができているもの、身をもって贖ったものだから「売っても」いい自身のものとして、と思うもの、そんなこともあるのだろうか。
 語れるから、つまり誰かに聞いてもらえるから、誰かに読んでもらえるから、人は語り書き続けるのだろうか。語るとか書くとかは、直接の対象が無くてもなりたつ、つまり先ず「わたくし」に語りかけられているのだから。それがほんとうはいちばん大きな理由かもしれない。自分で再現し解釈し、どうにか否定的であれ確認しできれば納得し受け入れるために。
 記憶というのはその人自身と等価なほどにも大きくて大切なものだ。だからたいせつにして、宴会の座興などで雑ぱくな感傷と共に流し去ったり放りだして捨てたりしてはいけないものだ。そうしてそういった切実なものならば誰もが聞き捨ててしまったりはしない、どんなささやかなことであれ、うまく語ったり表現できないものであれ。

 

菜園便り一六七
二月二四日

 吹き荒れた春の嵐もおさまり、暖冬のまま春になりそうです。海の色も心もち緑が濃くなり、少し温んでたゆたっています。真っ直ぐな陽射しは顔にいたいほどで、海岸の散歩では、波打ち際の透明な水に思わず手をつけたくなります。そうして慌てて手を引きます。やっぱり水はまだまだ冷たく、濡れた手に風はしっかりと吹きつけて痺れさせます。それでももう春の訪れはまぎれようもなく、光はあらゆる所に満ちて溢れ、次々に花が開き麦が伸び、そこここの目につく鳥もかわっていきます。
 冬の酷寒がなかったから、冬を越して春になったという合図がうまくいかないのではないか、植物はが春を感知しないで、桜もうまく咲かないかもしれないという予想もでたりしています。冬に、特にクリスマスや正月に苺を結実させるために、夏の終わりに苗を冷蔵し、冬を越したと錯覚させて育てるのと逆のことが起こっているわけです。年末の苺も以前はとても不思議に感じていましたが、他の夏野菜と同じで、もうすっかり馴染んでしまいました。そうやっていろんなことのリアルさや切実さがうすれていくのでしょうか、味気なくなった野菜のように。
 「旧玉乃井プロジェクト」(第一期)もいよいよ会場での設置も始まり、参加者のプランもかたまってきました。楽しみですが、かなりたいへんになりそうで心身共にちょっと心配でもあります。やっぱり一〇年前とはまるでちがいます。自覚すらないまま、いろんなことをむざむざと振り捨ててきたのか、惜しげもなく、そうしていつのまにかひっそりと全ては忘れ去られてしまった、といった芝居の台詞が聞こえてきそうです。片づけなどの現場のことだけでなく、ハガキDM作成や広報の準備も遅れていてあたふたしている状態です。
 「文さんの映画をみた日」に「蟲師」(大友克洋監督)を書くので、彼の以前のマンガを資料として読み始めたら止められなくなり、六巻の「AKIRA」も読んで、まだ持っていなかった「気分はもう戦争」と「Memories」も買ってきて、といったことになってしまいました。この映画の監督は仕事としてやったんだろうけれど、でもやっぱり自分の作品を書いてほしいと思います。九六年の「SOS東京大探検」以来、単行本は出ていない!のだから。「文さんの・・」はこんなふうです。

 ・・・・・・「大友克洋の新作」というコピーに、ついに新作マンガが出たかと思う人も多いだろうけれど、そうではなくて監督映画作品、しかもアニメーションでなく実際の場や人を使って撮った「実写」。そうして原作自体も自分のではなく、漆原友紀の「蟲師」。待ち望まれている大友のマンガ作品は、初期の傑作の「ハイウェイスター」「ショートピース」・・・・・・・大友自身が、マンガが表現の重要な媒体のひとつになっていくのを体験しつつ体現してきた世代でもある。大友やつげ義春だけでなく、高野文子諸星大二郎などがいなかったら、世界はずいぶんと淋しいものになっていただろう。・・・・・」

 

菜園便り一六九 ?????
四月一三日

桜も散り、黄砂がまい、春も深まってきました。菜園は今になってルッコラや春菊が
芽を出し始めましたが、手前の小さい方は芳しくないまま撤去し、庭の奥に新しく作
り始めました。砂地の上の貴重な土はそこに移したので、いってみれば<解体と再
生>でしょうか。青梗菜の菜の花がみごとです。たった一株だったのずいぶんとはっ
て黄色い花を満開にしています。蕾は摘んでおひたしやみそ汁にも。玉乃井プロジェ
クトの慌ただしさのなか、それでも季節はゆっくりと移りながら、しっかりとたくさ
んの楽しみを贈ってくれます。

 

菜園便り一七〇
五月一四日

 なにもかもが美しい。庭の木々も風景も海も、時には人も美しい。心は、どうだろう。こんなにも爽やかで輝くようには、風は吹き抜けていかない。裏返り、躓き、澱み、それでも季節の巡りのなかで、なにかしらを拠り所にこの茫漠とした世界を漂っている。なんて速い流れなんだろうと呟きながら。
 「旧玉乃井プロジェクト」第一期の終わりに予定した「美術展」の準備で忙殺され諦めかけていた夏野菜を、中村さんの手助けで会期直前に植えることができた。胡瓜、トマト、ゴーヤ、茄子、ピーマン、青紫蘇、ズッキーニ。少し前に植えておいた蔓なしエンドウも芽をだし、ルッコラもまだ伸びている。何ヶ月もかかって芽吹いた春菊もやっと食べられる。カツオ菜の菜の花や若葉、最後のレタス、どっさりのパセリ、みずぼらしい眺めにもかかわらずけっこういろんなものが採れる。コリアンダーも花をつけつつまだ広がっているし、春になって蒔いた蕪もときおり収穫できる。柔らかくて葉も食べられる。
 苗はいつもの花田種物店。胡瓜は直後に潮がかかったり、強風で揺さぶられて二本が潰えたけれど、他はどうにか伸びてくれ、昨日姉にも手伝ってもらって三畝に支柱を立てた。ズッキーニはあの大きな花を幾つもつけ、トマトやピーマンにもちょっと早すぎる花がつき始めた。青紫蘇にもう花がついたのはがっかりだったけれど。
 終わった大根も何本かはそのままにしているので、満開になっている。すごく薄い藤色。人参も青々と伸ばした葉がみごとで硝子の花瓶に根ごといけてある。珍しさもあるのだろう、いろんな人がなんですかと聞いてくる。
 庭の一角のジャーマンアイリスは咲きに咲いて終わった。大きいし派手な色だし、求められて何人もに切り花で渡した。ハランを求めにみえた人もあったし、石蕗を根付きで持っていかれた人もある。何も手入れしてないようなこんな庭が懐かしいとか、昔風の草木が植わってますねと言われる方も多い。いい加減さの結果の不思議な混淆と調和。ぼくも好きだ。整然としたものが一方で持つ威圧もない。あれこれの、勝手に飛んできた野の花も大げさにでなく咲き乱れている。沖縄月見草、ポピー、かたばみ。他にも君子蘭、アイリス、フリージア等など。切り花でいただいていた何種かの百合も元気だ。カーネーションやかすみ草、アザミもまだまだ。
 四月は心身共に全くゆとりがなかったから、五月は少しゆっくりと庭や菜園を味わいたい。別館の解体やあれこれ憂鬱なことがらは山積みしているけれど、蔡明亮の映画「黒い眼のオペラ」をもうみることもできたし、楽しいこともまた少しずつ増えていくだろう。心穏やかに、美しい季節にしばしたゆたってみよう。

 

菜園便り一七一
五月二七日

 新聞のテレビ欄に菊池怜次の名前を見つけて驚いた。何年ぶりだろう、その名前を目にするのは。美術番組の特集で、版画家として紹介されていた。
 彼の銅版画にあったのは一九八〇年代半ば、ギャラリー・ユマニテでだった。二枚の版画を、無名だけれどいいものがありますというような紹介で見せられた。美大出身ではないということも強調されていて、それはそういったマイナスにもかかわらず、珍しくいい作品を創るというような言い方だった。既に亡くなっていることも、もうその時に知らされていたけれど、早稲田の理工系ということだった(ほんとは上智の経済だった)。
 その二枚は「オブザーバー1」(「observer1」と欄外に手書きで入れてある)と「クロコダイル・メッセージ」。後で刷った三〇枚の内の一枚だから、サインはない。ぼくにはなによりも先ず、加納光於が思い起こされた。細胞や微生物といったミクロ的なイメージと宇宙的な無限なものの混淆。そうして生物的で生理的ななかに文字や図形がクールに多用された不思議なバランス。でもとうぜんだけれど加納の持つ臓器的な生々しさや病的なまでの繊細さ、不可解さはなく、線も固く、無駄なイメジも散乱し、イラストレーションそのままに説明的思わせぶりなしぐさや大仰な身振りを隠しきれない。でもそういった緻密になりきれない大雑把さやずさんさが、大らかさや勁さででもあり、若々しい潔さとか、ふりしぼられる蛮勇といったものもでもあることも感じさせられた。今思うと、そんなことだったんじゃないだろうか。加納の「星反芻学」と比べても意味がない。ちがう位相にあるものなのだから。
 銅版画が好きなのはその線の持ち抱える深み、雑ぱくさも含めた奥行きや複雑さがあるのだろう。儚いほど細くて頼りなげなのに、パセティクな荒々しさや、線そのものの肉感とでもいったものさえ含み込んでいる。メゾチントをだすまでもなく、その黒、暗さの深みはとてつもない。腺病質で、誠実で、生真面目で、一方にヒステリックなまでの破壊や大胆さがあり、そうして穏やかな暖かさや弱さ、不気味な底知れなさまで。加納やリ・ウーハン、ヴォルス、有元利夫、吉田勝彦、そうして長谷川潔や初期の池田満寿夫等など。
 特集は、町田版画美術館での没後四〇年展にあわせてのものだった。会場で、かなり高齢のお母さんへのインタビューがあったけれど、今後のことを考えて作品を一括して寄贈されたのかもしれない。版も作品も全点収蔵されているとのことだった。周りにいた人たちが功なり名を遂げ、思い出を懐かしめる年齢となり、こういった企画を何らかの形で実現できる立場になったということでもあるのだろうか。夭折した異才の友人であるわたくし。
 紹介されたのは、初期の自画像や受賞作品などの具象的なもの以外は、テーマが確定した後の同じ傾向のものだった。インタビューの背景に写っていた、色つきのものなんかもさっとでいいから見てみたかった。もっと、直截に甘い部分、柔らかくやさしいものもあったのだろうに。
 小さい時からの病、二〇代前半での死、その直前の短い、異様なまでに充実した制作。そういったありふれた神話やエピソードにまとめられてしまって可哀想にも思えたけれど、でもそういったまとめ方ができるからメディアにも登場し、回顧展も開かれるということでもあるのだろう。
 しまいこんでいた版画二点を久しぶりに出してきた。かろうじて黴の襲撃を免れていたけれど、額の裏板まで白い黴が浸透していた。たまには出して見ていたつもりだったけれど、ついこの前が10年前だったりする今日この頃だから、前回出したのはいったいいつのことだったか。こんなふうに、忘れ去っているわけではないのに、いつのまにか遠ざかり、黴や汚れに覆われ、いつしか嫌悪され見捨てられるのだろうか。ましてや関心のない人には「美しく」さえない奇妙なものでしかないのだろうから。


菜園便り一七三
六月三日

 いんげんが採れた、今年の初物だ。わずかだけれど、唯一の豆類だからうれしい。空豆やキヌザヤ、豌豆の種まき時期だった去年の一〇月頃は気持に全くゆとりがなくて種まきができなかった。最初さえきちんとやっておけば、後はあまり手をかけなくても毎年楽しめた空豆がない初夏はさびしい。ほんとはもっと大きな感情だけれど、そこにはどこかしら損したなあ、といったなにやら効率的な判断からくる吝嗇の気持もあるようで惨めになるから言うのは控えるけれど。
 今日採れたいんげんは、蔓なしいんげん。延びないから巻きつく柵を作ったりしなくていいし、蒔き時が春の初めでもよくて、夏野菜と同時期に手当てできたからだった。豆類はだいたいそうだけれど種子の豆そのものを2個ずつ蒔いていく。発芽したのは4本、潮に負けて2本だけが育ってくれた。新しい菜園は以前より潮がかかりやすい場所でもあるから心配していたけれど、この春は風の強い日が多くてはらはらさせられた。
 さっと茹でてそのまま食べてもその野菜唯一の独特の味とほのかな甘みがある。若いし取り立てだから筋もない。しっかりした歯ごたえと瑞々しい柔らかさがある。これは採れたてのどの野菜にも言えることだ。パリッとして、じわりと柔らかい。
 胡瓜は茎も葉も色濃くしっかりとしていて重く、今日もずり落ちたのを柵の上に引き上げたり軽く縛ったりした。ずいぶん低い位置から枝が伸びてしまい、地面に実がついてしまうのも多い。早めに収穫し、おやつ代わりに、朝夕のサラダに、パリパリと食べていく。
 晴天が続き、暑さもつのってきた。冬物のセーターやコートを洗ってしまいこむ。またひとつ季節を跨ぐ。


菜園便り一七四
八月一五日

 もうお盆だ。毎年のことだけれど、仏壇の飾りつけや精進料理の準備などに忙殺される。墓(近所のお寺の納骨堂)に参ってのお迎えをすませ、お供えの料理と素麺、団子をだすとほんとにほっとする。どうにか間にあったし、きちんとだすことができた、しみじみそう思ったりする。正月に次ぐだいじな年中行事、ということになるのだろう。
 いつのまにか立秋が過ぎたけれど、暑さはこれからが本番、九月いっぱいは暑さの覚悟がいる。陽が傾き始めたから、軒を潜って強い陽射しが家の中へ射し込んでくる、夕方以降はちょっとつらい。
 ずっと書けなかった「菜園便り」だけれど、ファイルにはメモが残っていて、 「梅干し/解体/植木」 となっていた。従兄弟の奥さんが千葉から送ってくれた自宅の梅で、今年も梅干しを漬けることができたこと、その間も続いていた解体の作業のこと、船の部屋の前を中心とした植木が根こそぎされたこと、などを書く予定だったのだろうか。
 建物の解体の後遺症がひどいし、その後の壁や屋根の修理が進まず、台風が2度も来て、胃に穴があきそうだった。今もそれは続いていて、とうとう蕁麻疹がでた、何十年ぶりかだ。こういうことはほんとに難しい。交渉が苦手というだけでなく、現場作業がたいへんだから、どうしても気後れしてしまう。一方で、彼らが(法人としてであれ)引き受けた仕事なんだからちゃんとやってくれ、という気持の間で右往左往してしまう。極端に言えばもうしわけなさと怒りとの間をうろうろしてしまう。
 そんななか、今年の菜園はほんとに元気でどっさりのものを届けてくれた。新しい場所になったからだろうか、胡瓜が早い時期からどんどんなり、トマトといんげんが続き、今はゴーヤの収穫。茄子やピーマンも採れた。水道の蛇口がなくなり、バケツや如雨露で運んでの水やりはたいへんだったけれど、収穫の悦びはそれに数倍する。
 繁茂しているゴーヤからギラギラするほどのアクの強さみたいなものがなくなったら、夏は終わる。強烈な陽射し、渇水、でもそんな悪条件を逆手にとって繁り実をつける植物のすさまじいほどのエネルギー。追肥が二度で途絶えても次々に実をつけていく力。ここでパタンと何かが、例えばヒトが倒れても、そこから栄養を吸い上げ芽吹き、次々に花が開くのだろう。白熱しきった地平にどこまでも続く花、そうして奇怪な形の莢で護りながら遠くへ遠くへと種子を飛ばし続ける。瞬く間に世界は一色に染められ、その端からまた別の色が急速にひろがり始め、取って代わっていく。

 

菜園便り一七五
九月八日

 佐藤真が亡くなった。四九歳。自死。とても残念だ。ぼくにとっては今の日本の映像作家で最高の人だった。だからつい「早く『阿賀に生きる』を超える作品を撮ってくれ」と、勝手な大きすぎる願いをかけていたけれど、周りからのそういった無言の「善意」の圧力が過剰だったのかもしれない。『阿賀に生きる』のように、人を、つまり世界を、生活の場のなかで風景も取りこみながらあたたかいままでまるごとすくい上げた人は他にはいない。
 そういったことができたのは新潟の阿賀野川流域に住みこみ、そこで暮らしながら時間をかけて関係を築きながら撮っていったからだろうし、そこでの生活や人々にとけ込める生来のものを持っていたのだろう。初めての自分の映画、弱冠三五歳、恐れや限界なんて思いもつかない蛮勇と共にとてつもない不安。優秀さや明晰さだけでなく、鷹揚さや鈍重さも含めた生の力や勁さを持ち得ていたからだろう。
 一九九五年に当時出ていた小冊子に書いていた「映画を生きる」にも佐藤真について少し触れたことがあって、それはやっぱり『阿賀に生きる』のことだった。「・・・・阿賀は新潟水俣病が起こった現場で、だから当然のように昭和電工はひどいということはでてくるし、それに対してきちんと対応しつつも、映画はたちまちもっと辛辣で深い、生きることそのもの、世界そのものへと入っていく。積み重なる暗い、難しいことがらは、でも結局生きる肯定へとつながっていく。その奥に重なる長い時間の上に(端に)今があるのではなくそれと一体となって重層的に混じり合って現在もあるということをリアルにわからせてくれる。だからそれはぼくらの物語でもあり、今そのものでもある・・・・」。
 『阿賀に生きる』は世界を瑞々しく柔らかなまま全体として取りだしている希有な作品だった。自由でやさしくおかしくそうしてせつせつと哀しくて、でもどこまでも元気で明るい映画だった。生きることの、世界の、畏怖するほどの底深さ、人の慈しむ力の大きさ、そういったものを無造作なまでにどさりと手渡してくる。こういうことができるんだと、あっけにとられるほどだったことも思いだす。
 とにもかくにも早くいい映画を撮ってほしい、みせてほしいと一方的に願ってきた。もちろん生活もあるのだろうけれど、本を書いたり、講演したりすることよりも映画を、と。そうしてその映画も、自分の企画でないといいわけしたり(『まひるのほし』)、カメラマン田村正毅の撮影の美しさに負うところが大きかった(『Self and Others』)ものではない、自身のことばで語ったものを、と。遠い高い存在として全部相手に押しつけてのずいぶんと勝手な思いこみだったけれど、それくらいつい期待してしまった、もうしわけないと少しは思いつつ。遺作になってしまうのかもしれない、サイードを撮った『エドワード・サイード Out of Place』は敬遠してみそびれてしまっているけれど。
 ドキュメンタリーということに関しての考え方がすごく近いところにあって、それもうれしかった。ぼくなんかとちがって生真面目にきちんと映画を引用しながら丁寧に書かれた彼のドキュメンタリー論からの引用を最後に。「ドキュメンタリーとは、映像でとらえられた事実の断片を集積し、その事実がもともともっていた意味を再構成することによって別の意味が派生し、その結果産みだされる一つの<虚構=フィクション>である」。そうして映像の不思議さと力をこんなふうに書いている、「映像には常に、撮影者の意図を超えた、得体の知れなぬ何かが映り込んでくる。撮影中には気づかなかった、ザラリとした何ものかである」(出典は、たぶん上下巻に分かれていた『ドキュメンタリー映画の地平』だと思う)。

 

菜園便り一七六
九月二七日

 春からこっち、「玉乃井旅館「解体と再生」プロジェクト」とその美術展、父の入院、別館の解体とことの多い日々だったけれど、とうとうぼく自身の入院にまでなってしまった。悲喜劇というか、久しぶりのドタバタ劇だ。
 アジアフォーカス福岡国際映画祭が始まり、気合いをいれてみに行った初日。「陸に上がった軍艦」「風と砂の女」(不思議な文体、すごくいい)をみて、七時からの三本目の「ここに陽はのぼる-東ティモール独立への道」をみている最中に急に体がだるくなり吐き気や頭痛が始まり、姿勢を変えたり、額のマッサージをしたりしていたけれど、どうしようもなくなっていったんお手洗いに行き、顔も洗い、ちょっと落ち着いてまた戻り、どうにか最後までみて出てきたけれど、全然力が出なくて、それが大丸のエルガーラだったので、福岡を知ってる人にはわかるだろうけれど、あの広場のカバの彫刻の横に座って、いざとなればこの石の台座に横になれば涼しいか、などと思いつつ吐き気や悪寒に堪えていたけれど、でもとにかく帰らなくてはとタクシーで博多駅に・・・・といった感じで、這うようにして帰宅したけれど、熱帯夜の暑さと気分の悪さで眠れないし、妄想は膨らむしでバタンバタン寝返りだけで、でも朝になってもっと暑くなると、とろとろして汗みどろになり・・・といった感じで、昨晩から何も食べてないのに昼過ぎから嘔吐が始まり、苦しいし、腹部や胸部の不快さは耐え難くて、とうとう近所の医院に往診を頼み、すぐに来てくれた小島医師が救急車と病院を手配してくれ、担ぎ込まれ、ということになった。
 四月に父が急におかしくなった時とほとんど同じ状況で、ただあの時はぼくは介添えでついて行って、救急車に乗るのは初めてでちょっと興奮してしっかり観察しなければと思ったりしたけれど、今回はとにかくあれこれ聞かれるのに答えるのが精一杯だった。目をつぶると、どうしたんですか目を開けてくださいといわれるし。すぐにも痛み止めとか、楽になる処置をしてくれると思っていたけれど、小島医師も、救急車も(結局病院でも)そういう処置はされないままだった。病院に着くと、小島医師からの電話がいった妹が、ちょうど父のお見舞いに来ていたので(ややこしいけれど、父がその病院に入院している)、彼女の立ち会いで緊急手術が決定された。ヘルニアで腸閉塞を起こしているからすぐにしないと命の危険もある、なんて脅されて、「明日ですか」と、とぼけた返事をしていると、すぐです、という当然の返事で、手術になった。
 あれこれ、事前に煩雑なことがあって(その時は苦しくて半分くらいしか意識がないからたちまち手術だった気がするけれど)、腰に注射しての半身麻酔で、これはつらかった。痛みやだるさや吐き気はそのままなのに手術台に文字どおり縛りつけられるから、その気分の悪さと不快感はつのって、しかも二時間も我慢しなければと思うともうヒステリーを起こしそうだった。彼らからみたら、すでに起こしていたのだろう。眠らせてくれ、とか、足がだるいとか頻りに言っていたし、急にカッと暑くなったり、悪寒で震えたりをくり返していた。「麻酔でだるいんです、小学生でも我慢しますよ」と仕切の向こうの執刀医のひとりに言われたのは覚えている。ほんとにやれやれだが、いちばんの苦しみは鼻から胃に突っ込まれた管で、それが喉を刺激してえずく(例のオエッてやつ)ことになったから。
 だから終わった時はほっとするよりなにより疲れ果てて、執刀医たちは覆いの向こうだし、ろくにお礼も言わないままだった。さすがにすぐそばであれこれ気を使って暖房を入れたり切ったり、温め器を脇の下や首筋にあたたり外したりしてくれた看護士たちにはお礼を言う気力も残っていたけれど。
 そんなこんなで、全身麻酔の恍惚と、半身麻酔(頭は覚醒状態)の苦役は天地以上の開きがあることがわかった。今後は絶対全身麻酔しかしない。これで、彼らが脅したみたいに腸に穴があいていたり壊死したりして、数時間かかっていたらどうなっていただろうとかと思うと、それだけで気が変になりそうになる。
 とにかく終われば先ず管を外してもらえるとそれだけが頼みだったのに、看護士がもうしわけなさそうに、今晩一晩は外せないんです、腸からの逆流があるのでそれを出さないといけないんですという恐ろしい宣告だった。全くなんてことだ。
 でも結局は何もかも終わった、ということになるんだけれど、それはあらゆることがそうであって、例えば死に至る苦痛とか、戦争とかいったことでも同じなんだろうけれど、時間の流れの感覚が歪んで、奇妙な速さ遅さのなかにあるから(心や身体が拘禁状態とかいう時にそうなりやすいのだろうけれど)だろうし、あまりにもリアルな心身の苦痛と、全体としての曖昧さ、というかとりとめのなさもあるのだろうし、きっと心理的な、直視したくないとか、表層だけを触ってできるだけ記憶に刻まれないようにしたいといった思いもあったのだろう。
 四日目の院長回診の時に「もう退院できそうだね」なんていわれて、つい「一日も早く出たいです」なんて口走ったので、一週間くらいの予定が、五日で抜糸もせずに放免というか、帰されてしまった。
 そんなこんなで、後日、暑いなかを抜糸にいって、その時は駅から病院までずっと歩いてみて、大丈夫だと確認もでき、いよいよ父も退院することになり、とにかく三度の食事の準備だけはどうにかこなせそうだ。
 入院にした直後はちょうど「文さんの映画をみた日」の締め切りにひっかかっていて慌てたけれど、妹にパソコンや資料を届けてもらったり、病棟から電話をかけまくったりしてどうにか間にあわせることもできた。体調がおかしくなった日にみた「風と砂の女」が中心だったのもなんかおかしい。予定していた荷物運びを兼ねた糸島行きもできなくて残念だった(その件でもあちこち迷惑をかけたけれど)。
 病院の食事がまずい、というのはいわなければならないクリシェ、みたいなもので、実際はきちんと考えてあって、なかなかおいしかった。もちろん大量につくるから、どれも味が同じに近づいたり、口当たりよく甘くしてあったり、全て柔らかすぎたりするけれど、触感や刺激のある味にも充分気を使ってあった。キャベツとシメジのマスタード味のサラダとか、納豆と大根おろしを和えたものとかは初めてでもありおいしかった。温かいもの冷たいものもはっきりしている。長くいると均一化した同じ味に感じられてしまうのかもしれないけれど。後日見舞いにいった父の昼食はカツカレーとフルーツサラダで、いかにも家庭の夕食といったちまちました感じもあって、ああいうのはよさそうだったし。
 短い入院にもかかわらず、いろんな人が気遣って様子を見に来てくれたり、お見舞いを送ってくれたりして、ほんとにありがたかった。心身共に弱っているし、ついあれこれ考えてそれなりにつらい気分の時だから、そういったやさしさは身に染みる。
 ヘルニアというのは、ことば自体にもあまりなじみがなかったけれど、問題を抱えている人はけっこう多いようで、わかっただけでも同じ病棟に、手術後の人(ぼくの直前)がひとり、同じ病室にこれから手術の人がひとりいた。でもみんなぼくのように単純なことでなく、他にシビアな問題、例えば肝硬変とかいろいろ抱えたうえでのヘルニア手術で、だから落ち着くまで待たされているといったふうだった。その他のことでもやっぱり病院はすごいところで、詳しく知るのが恐い劇的なことばかりだと、改めて思わされた。


菜園便り一七七 ??????
一一月一日

 もう2度と口にできない、というのはあまりに残念で寂しすぎるけれど、もうしばらく、例えば5、6年間は食べられないぐらいなら我慢できる、そういったものは、季節の食べ物なんかに多くて、ぼくにとってのあけびなんかはそうだろう。
 子供の頃そんなになじんだわけではないから、焦がれるほど恋しかったりはしないけれど、文字どおり故郷の味そのもの、幼い時代そのもののように感じている人も少なくなく、だから時折、極上の笑顔で、自慢そうに届けてくれたりする。そういう時はこちらも満点の笑顔になれる。今年は大阪から帰省していた中学時代からの友人が、実家の野菜や柿と共に届けてくれた。
 淡い紫の彩りがみごとだし、蔓になった風情、それに熟して割れた形が愛でられて、絵画の題材にもよくみかける。さらりとした水彩や簡潔なスケッチが多いのは、どこか粘液質の果肉をやり過ごそうとする気持が無意識にも働いているのかもしれない。実物を見たことがなくても、そういった作品で知っている人も多いだろう。生け花の材料にもときおり見かける。
 もうこれで一生食べられない、聴けない、見られない、といったものについても、つい暇に任せて考えたりする。モーツァルトが今後一生聴けないというのは耐えられないだろうけれど、チャイコフスキードビュッシーが聴けなくても、だいじょうぶだと思う。ずいぶん手前勝手ないい方だけれど、そういったものは誰にもあると思う。
 モーツァルトということで言えば、先日「魔笛」という映画をみて、英語版になっていて驚嘆したけれど、でも大きな音でほぼ全曲をじっくり聴けて堪能できたから、後10年くらいは聴けなくなっても我慢できるなんて思ったりもしたけれど、実際は、帰宅してすぐに、自分の盤を聴いて比較したりしたから、なんというか・・・。
 沖縄の料理で、スクガラスとかいったと思うけれど、豆腐の上に塩漬けの小魚が乗っているのは、もう一生食べられなくていい、と思ったりする。でもソーキブニやラフテージーマミドーフ、それにトウフヨウなんかは少なくとも何年かに一回は口にしたいし、ゴーヤチャンプルーはもちろんそれでは足りない。自分でもよくつくる。
 両手で抱えるほどもあった、ヒラマツの桃のコンポートは、もう二度と食べる機会はないだろうけれど、でもそう思うとすごく淋しい。
 あれこれあって、なんか元気もなくなって、菜園は放ったままだ。新しい区画に土を入れてなんてことも春から考えていたけれど手つかずのまま。冬野菜も豆もまだ蒔いていない。せめてルッコラと春菊だけは寒くなる前に、今年出来なかった空豆は是非に、と思いは募るけれど。

 

菜園便り178 ????????
11月22日

 もうじき12月と思うと、ついあれこれふり返る気持になる。今年もたくさん映画をみることができたけれど、映画館で腸閉塞を起こしたなんてこともあって、なんかバタバタした年になった。つらい残念なこともあった。
 今年最初に見たのは黒沢清監督の「叫び」。みた人は少ないと思う、ぼくも試写会でみただけだ。2本目は、なくなったアルトマンの最後の作品「今宵、フィツジェラルド劇場で」だった。今年最後にみるのはなんだろうか。12月に、溝口健二特集があるから総合図書館のホールあたりが最終場所かもしれない。来年は、日本名作特集が1月にあるから、年始めもこのホールになるのだろうか。ここでもすいぶんみたし、「文さんの映画をみた日」に書いたものも多い。3月に新藤兼人「裸の島」、6月にイメージフォーラムフェスティバルの「セブン・イージー・ピーセス」、10月のインド映画特集、サタジット・レイの「大地のうた」、11月のぴあフィルムフェスティバルでの、森田芳光の「劇的ドキュメンタリー'78~'79」。
 今年すばらしかったのは、やっぱり蔡明亮の「黒い眼のオペラ」で、これは大ファンだからということもあるけれど、でも切々としてすごくいい映画だった。映像としても美しく、そうしていつものように深々としていて、心に染みいってくる。とても哀しいんだけれど、でも世界や生に対してすごく肯定的で、あたたかいものが残る。静かに激しい、不思議な作品だ、いつものように。こういう人と同時代に生きられてほんとにうれしいし、自分の僥倖を寿ぎたくなる、大げさにではなく。そうしてそういうことをこうやって語れることもうれしい。
 ぼくよりずっと若い中国のジャ・ジャンクー賈樟柯)監督の「長江哀歌(エレジー)」もよかった。彼の「プラットフォーム」をずっと前にみたけれど、そのなかに、僻地の極貧の炭鉱で働く兄が、ない金をかき集め、せめてお前だけはここから出て行け、二度と戻ってくるなと妹を送り出す、もっとも美しく哀しいシーンに出てきていた人(ジャクー監督の従兄弟になるらしい)が、この「長江哀歌」の主人公の一人で、だから内容も、その男を膨らませたようなつらい内容になっている。でも、勁い。これは今の中国の映画全般に言えることかもしれない。第6世代と呼ばれる監督たちはどこまでもしっかりと自分たちの小さな現実に立ち、そこから出発していく。現在の中国も、世界も、激変し、混乱し、どうしようもないけれど、でもそこをきちんと見つめつつ、そこから始めるしかないというあたりまえのことをやり抜こうとする。だから厳しい否定を並べつつも、一方にはいつも生そのものを肯定する勁さがある。それにこの「長江哀歌」はなんといっても美しい。長江(以前は揚子江といっていたけれど)上流、遠くまで重なる山並み、小雨や靄に霞んだ三狭の大河の風景はすばらしいし、映画の語ろうとするものとぴったりと重なって、哀切きわまりない。
 内容が多岐にわたりすぎていて「文さんの映画をみた日」には書けなかったけれど、台湾の先住民の歌を描いたドキュメンタリー「草出の歌」も登場する人たちと彼らの音楽、歌、声はすばらしかったし、その勁さとはにかみが混じった、人々の表情にもうっとりさせられた。サウンドトラックではないけれど会場で売られていたCDを買ったから、映画のなかのいくつかの歌は聴くことができる、でもそれは映画のなかのとはかなりちがっていて、残念だった。
 今年も東京での映画祭に行けたし、そこでお世話になった友人がいつも送ってくれるたくさんのDVDのなかの「シネマニア」という映画についても書くことができたけれど、これは、ニューヨークのシネマフリークの4人を描いたドキュメンタリーで、滑稽で哀しくて、身につまされる。同じようなことをずっと小さい規模でぼくもくり返している。とにかく、父のことで家を簡単に空けられなくなったので、しっかり予定を立てる。情報誌やチラシをかき集め、目配りし、準備する。チラシは友人が東京からまとめて送ってくれるのでそれもしっかり確認しつつ(福岡に来ない映画にがっかりしたりもする)。上映会場に国鉄や地下鉄、バスを乗り継いで走っていき、事前の食事やトイレに神経質になり、急ぐ時はマクドナルドも厭わない。
 つらいこともあった。この6月に、30年間FMF(フィルム・メーカーズ・フィールド)を運営し、今年で20回目になる3分間の8㎜フィルム作品上映「パーソナルフォーカス」を続けてきた、映像作家の福間さんが亡くなられた。突然のことでただ呆然としてしまったけれど、やはり中心人物のひとりで映像作家でもある奥さんの宮田さんがしっかりと山形国際ドキュメンタリー映画祭での回顧上映やパーソナルフォーカス8㎜フィルム上映をやり、さらに8㎜フィルムに関するシンポジウムにもパネラーとして出席もされた。悲痛でたいへんな時期の、努力と活動に頭が下がる。ほんとに残念だし思いだすことは少なくないけれど、語れることばはみつからない。
 赤坂に開いてあったスペース、「リールアウト」で上映された映画のいくつかは「文さんの映画をみた日」で書くことができたし、なにより福間さんの薦めで図書館ホールの特集「カメラマン田村正毅」(2001年)のパンフレットに文章を寄せることができたのは、企画にも関わった彼の推薦があったからだった。ぼくの公の場での初めての映画評でもあって、原稿として送った段階ですぐに福間さんが電話をくれ、出だしの「木の葉が震え、枝がたわみ、樹々は大きくしなる、森が揺れ、山全体が動き出す、世界が異様な相貌で現れる」がいいねと、いつものようにことば少なくでもしっかりと誉めてくれたのが忘れられない。
 最後に会ったのも図書館ホールでの上映の合間だった。みたばかりの映画がひどかったと怒っていたのも、いかにも福間さんらしかったけれど、でもそれでぷいとどこかへ行ってしまい、ゆっくり話すことができなくて心残りのままになってしまった。その時は、また今度と思ったのだけれど。「阿賀に生きる」をふたりして絶讃したことも忘れがたいけれど、もっと聞いておきたかったこと、話しておきたかったことは、どっかに引っかかったままになってしまった。いつもそんなふうに人は、特に大切な人はふいに姿を消してしまう。


菜園便り一七九
一二月五日

 「文さんの映画をみた日」では新聞編集部の事情とかで掲載できなかったり、ぼくの方が下ろしたのもあって、そのなかにカウリスマキの「街のあかり(二〇〇六年)」もあります。彼の映画について書いたのは初めてだったからちょっと残念で、それでここで改めて書きます。

おかしさと哀しみと
 ユーモアの感覚というのは時代や地域によってずいぶんとちがってくるし、宗教や民族がちがえば激変する。この映画の監督、カウリスマキの表すおかしみは時々すごく不思議に感じられる。そうしてその対極にある哀しみも、馴染みのない姿をしている。
 おかしさの受け止め方は人や状況によってもずいぶんと異なる。あまりにつらくてやりきれなくて笑ってやり過ごすしかないことも、生きていくなかにはあるし、極度の緊張が生んでしまう笑いを、母親の死の際に笑ってしまう息子と尼僧たちとして描いたローレンスの小説もあった。
 この「街のあかり」のなかにロシア文学についての短い会話が出てくるけれど、そこで語られていたチェーホフゴーゴリのユーモアも、おそらくわたくしたちにはぴったりとは伝わってきてはいないのだろう。地理的歴史的にロシアと抜きがたい関係にあるフィンランドでは、チェーホフが「桜の園」などの戯曲にコメディーと但し書きしたことが当然のこととして納得できているのかもしれない。
 映画では北欧の寂しげな都市にひとり暮らす警備員の切々とした日常と、彼が美女に惑って強盗団に利用されるという突拍子もないできごとが、戯画化された無表情のなかで描かれる。とげとげしさや悪意にばかり曝され、わずかなりとも心を通わせあえたのは動物と子供だけだった不幸続きの男は、暴力的にも徹底して痛めつけられる。そうして最後の最後に、いつも彼を見守っていたソーセージ売りの女が助けに駆けつけ、手を握りあうシーンで終わる。哀切で美しいけれど、やっぱりどこかおかしくて、奇妙で、感動したらいいのか、笑っていいのか、とにもかくにもほっとさせられるけれど、淡い哀しみが残り続ける。誰も、楽しいとも哀しいとも明解には答えられない、この世界、人生そのものだ。皮膜を通してのリアリティしか持てず、全てを鈍くしかも少し遅れてしか感じられない今のわたくしたちのあり方が、こういった独特の形ですくい上げられているのだろうか。
 アジア映画祭の、モンゴルを舞台にした映画「風と砂の女」の舞台挨拶でチャン・リュル監督(「キムチを売る女」を撮った人で韓国籍)が「自分の作品は風景がよくでてくるけれど、青空は哀しいですね」と言って会場を微笑ませていたけれど、好きな監督として小津安二郎と成瀬美喜男の名前をあげていたけれど、カウリスマキもなにかのインタビューのなかで小津と成瀬について語っていた。特に愛の葛藤や滑稽を取り上げた成瀬に牽かれるのはみていてわかる気もする。
 でもカウリスマキの映画では、いつもこれはなんだろう?ユーモアなんだろうか?それともくそまじめな倫理なのか?と困惑させられる。すごく生真面目な人だろうから、斜に構えたシニシズムでないのはわかるけれど。
 ユーモアということでいえば、バスターキートンを含め多々ある無表情なスラプスティックなドタバタをほんとに面白いと思う人はいるのだろうか。どこかに、笑わなくてはいけないものだ、という強制があるだけだという気もしてしまう。もちろん時代や地域のなかで共有される感受や考えはいつも自覚されない強制を持って血肉化しているのだろうけれど、もう少し柔らかな私的な部分のなかではどうなのだろう。日常のリズムの破綻が生む笑いが奇妙な捻れを生んで、思いもかけない場所に連れて行かれる気もする、ちょっと大げさにいえば。誰かにいわせれば、性に似ている、ということだろうか。


菜園便り一八〇
一二月八日 トスカの接吻

 ダニエル・シュミットの名前を最近はあまり聞かない。八〇年代始めに、アテネフランセユーロスペースの企画で初めて知って熱心なファンになった人も少なくなかったろうし、「ラ・パロマ」(制作は74年)に衝撃を受けた人も多かったはずだ。なかでも八四年のドキュメンタリー「トスカの接吻」がぼくにはいちばん忘れられない好きな作品だった。森さんがシュミット特集を録画してまとめて送ってくれたので、ほんとに久しぶりにみることができた。やっぱりすばらしかったけれど、ほぼ二〇年ぶりだから以前とはちがったように見えているのだろうか。
 ずいぶんと細かく、それぞれの人たちの生活や生のディテイルが描いてあることに気づかされる。以前は各自の表情やことばに関心がゆき過ぎていたのだろうし、当然、年齢的に受けとめる力もなかったのだろう。辛辣さとか哀しみ、そういったことを凌駕してしまうまでの圧倒的な自負というか、それがあたりまえだからそういうことに関しての思いわずらいはないというような、傲慢にも似た、自己中心性にも感嘆する。国や世代の特徴だけでなく、身体を使い大勢を対象にした表現を行う人に共通の、ある種の人工性、芸を(芸術と言ってもいいけれど)提供する者としての役割分担でもあるのだろう特異さも感じる。高みに立つ人を、受けとる側が求めることからディーバは生まれる(あらゆる対のものがそうであるように)。
 イタリア、ミラノにある、音楽界から引退した人のための「ヴェルディの家」を舞台に撮ったもので、往年のオペラ歌手、演奏家、教授等などが住んでいる。ヴェルディ、その人が一九〇二年に建てた、老人ホームというようなものだろうけれど、ヴェルディ著作権で運営されていたのが、それも切れて、運営はたいへんだという事務局の話もでてくる。
 老いて自由にならない体、鈍い足、指は震え、手はぎくしゃくし、唇は勝手にモゴモゴする。杖に縋り、でも、意固地な、尊大なほどのプライドの屈折があるかと思うと、人を人とも思わないでいられる開けっぴろげなおおらかさで自由闊達に振る舞う。建物のなかに、まるで昔の名声に準じたランクづけがあるかのように、見えない階梯や順番があるあるようにも思える。かつて大喝采を受け、それを当然の環境と感じた感受が残り、また今もその役割を受け入れる度量を維持してもいる、ということかもしれない。  
 食事中の、九〇歳にならんとする強い視線の女性への、「パートは?」という問いへの「コーラスよ。オペラは合唱よ、合唱の上になりたっているのよ」という答えも卑屈には響かないけれど、どことなく遠い空砲に聞こえる。
 でも、なんであれ、歌う喜び、音楽する喜びに満ちているのに驚かされる。彼らはしょっちゅう歌い、奏で、そうしてしゃべり続ける。誰もが、人を押しのけても出てこようとし、歌おうとし、でも一方ではピアノの伴奏に気づかず、歌うことにすら気づかずにざわめいて、戸惑いながら笑ってもいる。でもまたすぐに誰かがはっしと歌い出し、みんなが唱和していく。独り言のような、聞こえるような聞こえないような伴奏家の辛辣なことばもマイクは拾っていく。
 踊り場ホールの電話室から家族との寂しげな通話の後出てきたバリトン歌手が、通りかかったかつてのディーバに「トスカ、トスカ」と襲いかかる。すぐさま巧みに受け答えて彼を短剣で刺すトスカ。横たわった男の横で続く台詞、アリア。場面が変わるとふたりでリゴレットを歌っている。この曲は映画のなかでも、思い入れの深いいろいろのエピソードがからみついている。だからこの唐突でおかしみもあるふたりの歌も、不思議な色合いを帯びる、たぶんみているぼくらの視線の色合いに応じて。
 ディーバは自身のレコードを聴き涙ぐみ、医者に止められているのもなんのその、アリアを歌い終える。みんなで集まって「サンタルチア」を合唱する。声を張り上げるバリトンを手を振って制しつつ、でもおかしそうにみんなが楽しんでいる。気がつくと、歌われるどの曲も人口に敷延したものばかり。ポピュラリティということの秘密を解き明かす鍵のひとつだと思ったりもする。自分たちがなじんできた、求められてきた、というだけでなく、心身にとって歌いやすく、唇や口にも乗せやすく、無理がなく、楽しく、人ともあわせやすいし、喜びが生まれるといったようなことがあるのだろう、曲としても詞としても。
 歌声は続く、微かなハミングも、どこへと向けられるわけでもなく大空へ空虚へ投げ出される朗唱も続く、悩みや嘆き、諫める声も続く、笑いが、そうしてまた歌が響く。


菜園便り181 ????????
12月19日 「文さんの映画をみた日」

映画の現在、映像の未来   
 すでに12月半ば、21世紀も7年が過ぎようとしています。この「文さんの映画をみた日」もソクーロフから書き始めて4年、これが最後になります。
 今年もたくさんの映像、映画に、様々な場所や媒体で接することができました。賈樟柯監督「長江哀歌」の感銘もありましたが、なんといっても蔡明亮監督作品を昨年暮れに2本、6月に「黒い眼のオペラ」とたてつづけにみることができ、大げさにでなく、こういう表現者と同時代にいられる僥倖を噛みしめています。人と人とのつながりのなかでだけ生みだされる名づけられない波動が、人のなかの深いひっそりとした場所を強く揺すります。厳しくて哀しみもに溢れているけれど、いつもあたたかさが残ります。人や世界が肯定され穏やかな勁さが信じられているからでしょう。
 様々な特集も組まれましたが、そのなかにセクシュアリティを考えるものもありました。生物学的にも絶対的と言われる性別すらひとつの社会的な約束ごとでしかないと問い返す視点は、<生死>といった根源的な概念をも再考する動きにつながっていきます。その他の特集で、中東の複雑さを内から描いた作品や、現代の錯綜の源に常に見え隠れする偏見や差別への問いに触れることもできました。小津安二郎タルコフスキーの作品にも。「名画座」がない今、旧作をスクリーンでみれる喜びは小さくありません。
 残念なこともありました。福岡で「パーソナルフォーカス」という3分間の8㎜フィルム作品無審査コンペを20年間続けてきた福間良夫の突然の死は無念ですが、その遺志は引き継がれ、山形国際ドキュメンタリー映画祭、各地での上映として継続されています。あの名作「阿賀に生きる」(1992年)を撮った佐藤真も亡くなりました。ファンとしても辛いけれど、ドキュメンタリーと呼ばれている分野での埋めようのない喪失です。
 映像の力は枯渇してないし、簡便な映像機器で制作を始める人の数も増えています。暗がりでひっそり抱きしめられる映画もあれば、場所や技術を選ばない、噴きだす思いだけで撮られた作品の持つ切迫感や激しさもあります。愛や性の恍惚も、世界の苦渋に満ちた痛みも、未来を拓く新鮮な試みもあります。人を包みこみ心に身体に直に雪崩れ込んでくる光の像の力にこれからもふれ続けていきましょう。


菜園便り182 ??????
12月20日

 誰もそうだろうけれど、いちばん好きな映画は? とか、いちばん感動した映画は? というような問いに答えるのは難しい。映画でのそういう問いには、つい「3つ言ってもいいかな?」なんて気弱に応えてしまう。「『文さんの映画をみた日』に書いたもののなかでは?」という問いにもやっぱり、3つ・・・と応えて、でもしばらく考えなくてはならない。すぐに蔡明亮(ツァイミンリャン)は上がってくる、もちろん。どの映画かとなると・・・難しい・・・でも今年で選ぶなら、1本しか公開されなかったから『黒い眼のオペラ』になるけれど、『楽日』も去年の年末だから、そうむげにもできない・・・。<*注1>
 忘れられないのはバフマン・ゴバディ監督の『亀も空を飛ぶ』(2004年)で、終わった後ちょっと動けなかった。苦しくてつらい、でもなんというかズンとのしかかった圧倒的な哀しいものに温められてもいるというような不思議な感じだった。あの時は2度書いたし、いろんな所でしゃべったから覚えている人もあると思う。
 基本的に映画館やホールの大型スクリーンでみたものを書く対象にしたけれど、DVDやヴィデオでみた作品で驚かされたものもあって、森さんにもらったアニエス・ヴェルダ『落ち穂拾い』や、宮田さんに借りた『略称 連続射殺魔』足立正生監督、はそうだった。滑稽ででも愛おしい人たちが右往左往する『シネマニア』とかダニエル・シュミットの『トスカの接吻』(これは掲載にはまにあわなくて番外-つまりこの「菜園便り」-になった)もそう。それと誤解を招きそうだけれどやれたらいいなと思っていた大島渚『絞死刑』(1968年)も(写真は手に入らず、唯一の写真無しの掲載になった)DVDだった。
 作品がよいと、そうして好きだと、思いもかけずいい文章ができて、うれしくなることも多い。侯孝賢(ホウシャオシェン)は好きな作家だし、頑張って書いたから、『珈琲時光』は特に好きな文章だけれど、映画自体はほんとのことを言うとあまりうまくいってなかったし、好きにはなれなかった。ただ神保町が出てきてお茶の水駅が出てきて、聖橋も見えて、おまけに、天ぷらの「いもや」と喫茶店「エリカ」と古本の「誠志堂」が舞台の一つにもなっていて驚倒してしまい、半ば呆然というか、映画と関係ないことで興奮して、その印象ばかりが残った。出前される珈琲や出前する人の白い服なんてことにもいちいち気をとられてしまう。
 セクシュアリティに関してはかなり意識的になって、積極的に書こうと思っていたけれど、そういうことにきちんと関わる映画は多くはなかった。そんななか、1週間以上も滞在させてくれた友人たちの好意に助けられて「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」に毎年行くことができたのは個人的にも大きな成果だった。この映画祭について最初に書いたのが『オール・アバウト・マイ・ファーザー』。ダムタイプの公演記録の『S/N』(2005年)は映像であれだけの感動があるから、オリジナルの舞台ではすごかったろうなと思わせられたし、とてもいいものができてうれしかった。
 「差別」とか「偏見」といったことを丁寧に考えたいとも願っていたから、特にドキュメンタリーは積極的にみに行った。社会学的な解析や、感情的な応答でなく、もっと内在的な、あらゆる人に関わることとして、徹底して個人的で深いけれど、同時にありふれてシンプルなこととして捉えられないかと探ってもみた。差別というのは、される側とする側とが(その発生がそうであるように)両方で創りあげているものであり、それが社会的に共有された集団の思いこみになっていく。それに同じ社会に育ち生きている以上、差別される人のなかにも、その差別的な発想、感覚は教え込まれ、染みついているから、被差別の側にも差別のことがらそのものへの、つまり自分自身への嫌悪や憎しみが育ってしまっている。そこをきちんとみていかないと、差別の中身はそのままでただ「差別してはいけない」という倫理の問題にすりかわっていき、差別を生みだしている発想そのものは残り続ける。そうしてそういう発想が別の差別を生み、別の差別に関しては、あることがらの被差別者がたやすく差別者にかわっていく、といったことにも自覚的にならないといけないだろう。
 「性同一性障害」と名づけられたことがらを扱う映画は多くなった(エイズが死の病でなくなり、悲劇性や話題性を喪った後、もっとトレンディーなもの、というわけだろう)。恋愛や結婚を扱うものでは、現在の社会の、異性愛という枠組みをそのままなぞって焼き替えただけの、同性カップルによる恋愛、結婚が描かれる。出自の家族との葛藤、カミングアウトのドタバタ悲喜劇、みんなに祝福されて結婚式・指輪、新しい家庭、といった内容(同性婚精子提供や養子縁組といったテーマもある)。そこには恋愛も性も、さらには性別も社会の性の制度である、という視点はいっさいみえてこない。中心にある、絶対的と思える生物学的性別が問い返されていることなど、想像もできない。まるで今の社会の家族制度が壊れかかっているから、別の角度から、新しい「血」を導入して制度を維持しよう、といったようにさえみえる。新しい「家族」やつながりの形はいろんな所で様々な形で現れてきているはずだろうし、すでに見えない部分で大きく変わっていっているのだろう。
 いちばん最初に「文さんの映画をみた日」に書いたのはソクーロフの『孤独な声』(1978年)。これは初めてみた作品だったし、彼の最初期のまだ混沌とした部分の残るものだったから印象深い。ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の厳しも哀しい『息子のまなざし』のことはいろんな人に話しもした。圧倒的なドキュメンタリー、王兵監督『鉄西区』はなにしろ9時間だからかなり気あいをいれておそるおそるみにいったけれど、9時間なくてはならないことがよくわかり、説得され、最後は終わるのが残念なほどだった。『白百合クラブ』(2003年)も最後にはなんだか懐かしささえあって、消えてゆく画面に手を振るような気持だった。芝居仕立てのドキュメンタリー『らくだの涙』。久しぶりに『三里塚 辺田部落』(1973年)小川伸介監督をみて、ぼくの「青春」と重なった時代だしやっぱりあれこれ考えさせられた。この作品については以前、総合図書館の特集「カメラマン田村正毅』の時にもしっかり書いていたので、いっそうそうだった。『東京物語』(1953年)小津安二郎、『小原庄助さん』(1949年)清水宏監督といった旧作名作も、主に福岡市総合図書館ホール(シネラ)やパヴェリア(閉館してしまった、残念だけれど)でみることができた。タルコフスキーの『惑星ソラリス』や成瀬巳喜男特集もみた。何だかなんだいってもこのホールでの上映にはずいぶん通ったし、いい映画にも会え、楽しめたし、書くこともでき、助かった。
 『ぼくの好きな先生』(2002年)ニコラ・フィリベール監督はずっと気にかかっていたのをDVDをもらったのを機に書いた。全く知らなかった韓国のキム・ドンウォン監督『送還日記』(2003年)は衝撃的で、「菜園便り」にも長いのを書いたから覚えている人もあると思う。10月の北九州ビエンナーレで行われた映画上映の一つになっていて驚ろかされつつうれしかった(『略称 連続射殺魔』もそのうちのひとつでこれは足立監督の新作『テロリスト』にあわせたもの)。他にも、映画祭での関連上映などとして田壮壮監督の『盗馬賦』(1985年)、第28回ぴあフィルムフェスティバルでの森田芳光『水蒸気急行』(1976年)、インドのサタジット・レイ監督『大地のうた』(1955年)、イランのアッバス・キアロスタミ監督の『そして人生は続く』も改めてしみじみみつめた。このあたりは、その監督を取り上げたくて、ずっと待っていたからどの作品にするかはあまり拘らなかった。フェリーニは最愛の『アマルコルド』(1974年)で、これは「あまねやシアター」での上映を機に書いたものだけれど、添える写真がなくて(なんとDVDがないどころか、ヴィデオもすでに生産中止だった)特別に有料で借りてもらった。なんか理不尽な気がしてしまう。
 現在の日本人監督で最もすばらしいと思う佐藤真の『阿賀に生きる』(1992年)は、とうとう書けないままに終わった。あれだけの名作さえほとんど上映機会がないということでショックだ。最後の回に自死した佐藤監督へのわずかな追悼文を書き加えることしかできなかった。同じ回に少しだけ触れた、福間さんのことも、「文さんの映画をみた日」では赤坂の上映室リールアウトの企画をいくつか取り上げることぐらいしかできなかった。
 中国で第6世代といわれる賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の『世界』(2004年)』は感嘆させられたけれど「長江哀歌』(2006年)はもっとすばらしかった。映画そのものも視覚的にも美しいし、がっちりとした構造を持っているけれど、いちばん牽かれるのはやっぱりでてくる具体的な人々だ。実際にその街にいる人、働いている人が登場するし、以前の『プラットフォーム』にちょっとだけでてきてものすごく強い印象を残した炭鉱労働者役の人(実際にそこの労働者)が今回は中心人物だった。そいった人たちや表情をみているだけでも豊かな気持になれる。
 こういうことは書き続けるときりがないので、ここらで止めます。新聞に掲載した映画のリストもつけておきます。正直言うと、2週に一回掲載というルーティーンを護りたくて、仕事を落としたくなくて、気の進まない映画についても書いたこともあったけれど、少なくとも嫌いな映画のことは書かなかったし、書こうと思っても無理だった。最初の頃は大型話題映画にもせっせと足を運んだけれど、でもすぐダメになった。とにかく心も体もぜんぜん反応してくれなくて自分でもちょっと驚いた。そんなふうだからうち切られちゃうんだという声が聞こえてきそうですが。

<*注1>  これはぼくのヘルニア手術騒動の際の執刀医、桜井医師が、術後、日を経ずに、ベッドでパソコンを使って締め切りに遅れていた「文さんの映画をみた日」の原稿を焦って書いていた時の会話に実際出てきたもので、たぶん彼は術後5日で、抜糸も済まないまま退院させるのを恐縮に思って話しかけてきたのだろうと思う。通常はルーティーンの超短縮会話以外に患者と医師との間に会話は全くないから。


2004年
1月16日(金) ソクーロフ『孤独な声』(1978年)
1月30日(金)『テン・ミニッツ・オールダー』エリセ、ヘルツゥーク、ジャームッシュカウリスマキ
2月13日(金)映写室「リールアウト」『815』中国正一監督
2月27日(金)『ラブストーリー』(クァク・ジョエン監督韓国)『ムアンとリット』(チュート・ソンスィー監督タイ)
3月12日(金)『飛ぶ教室エーリッヒ・ケストナー原作 トミー・ヴィガント監督
3月26日(金)『息子のまなざし』ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督
4月14日(水)『チュンと家族』(1996年)チャン・ツォチー監督、台湾
4月28日(水)『絞死刑』大島渚(1968年)
5月19日(水)『エレファント』
6月2日(水)『ヒノサト』飯岡幸子 映画美学校卒業作品特集
6月16日(水)ドキュメンタリーの現在 『ふつうの家』写真
6月30日『白いカラス
7月14日王兵監督『鉄西区
7月28日東京国際レズビアン&ゲイ映画祭 『オール・アバウト・マイ・ファーザー』
8月11日東京国際レズビアン&ゲイ映画祭 『ロードムービー
8月25日『自転車でいこう』杉本信昭監督
9月8日『誰も知らない』是枝裕和監督
9月22日アジアフォーカス福岡映画祭2004『ビッグ・ドリアン』アミール・ムハマド監督
10月6日第49回アジア太平洋映画祭 『私は子供の頃に死んだ』
10月20日第26回ぴあフィルムフェスティバル『さよなら さよなら』『ある朝スウプは』
11月10日『珈琲時光侯孝賢
11月24日『らくだの涙
12月8日『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国国防長官の告白』
12月22日『東京物語』(1953年)小津安二郎

2005年
1月26日(水)『ベルリンフィルと子どもたち』
2月9日(水)『スーパーサイズ・ミーモーガン・スパーロック
2月23日『三里塚 辺田部落』(1973年)小川伸介監督
3月9日『落穂拾い』アニエス・ヴェルダ監督
3月24日『カナリア
4月6日『白百合クラブ東京へ行く』(2003年)
4月20日『トニー滝谷
5月11日『海を飛ぶ夢アレハンドロ・アメナーバル監督
5月25日『小原庄助さん』(1949年)清水宏監督
6月8日『エレニの旅』(2004年)テオ・アンゲロプロス監督
6月22日『牛皮』(2005年)リュウ・ジャイン監督
7月6日『アマルコルド』(1974年)フェディリコ・フェリーニ監督
7月20日『生命-希望の贈り物』(2003年)呉乙峰監督
8月3日第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭<上>
                    『誓いますか/誓います』(2004年)
8月17日     〃    <下>『マイファーストカミングアウト』8月31日
『ウィスキー』(2004年)フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・フトール監督
9月14日アジアフォーカス福岡映画祭『ジャンプ!ボーイズ』(2004年)
9月28日   〃   『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)熊谷博子監督
10月22日アジア美術館トリエンナーレ『Riau2003』ザイ・クーニン監督
10月26日『亀も空を飛ぶバフマン・ゴバディ監督
11月9日『輝ける青春』(2003年)
11月30日『モンドヴィーノ』(2004年)
12月14日『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)ヴィム・ヴェンダース監督
12月28日 「2005年 クルドという視点が開くもの」


2006年
1月11日成瀬巳喜男特集『流れる』など
1月25日『ぼくの好きな先生』(2002年)ニコラ・フィリベール監督
2月8日『炭鉱に生きる』(2004年)
2月22日『世界』(2004年)賈樟柯監督
3月8日『ある子供』(2005年)ダルデンヌ兄弟監督
3月22日「名画座」『王将』
4月5日『略称 連続射殺魔』(1969年)足立正生監督
4月19日『アメリカ 家族のいる風景』(2005年)ヴィム・ヴェンダース監督
5月10日『送還日記』(2003年)キム・ドンウォン監督
5月24日『荷馬車』(1961年)
6月7日『レフトアローン』(2004年)井上紀州
6月21日『マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して』(2003年)
7月5日『ホワイト・プラネット』(2006年)
7月19日第20回福岡アジア映画祭『中国之夜』(2006年)
8月2日第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(上)『LuLuLu』他
8月16日第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(下)『S/N』(2005年)
8月30日『夜よ、こんにちわ』(2003年)
9月13日アジアフォーカス福岡映画祭2006『胡同の理髪師』(2006年)
9月27日     〃    『4:30』(2005年)ロイストン・タン監督
10月1日『盗馬賦』(1985年)田壮壮監督
10月25日『カポーティ』(2005年)
11月8日第28回ぴあフィルムフェスティバル『水蒸気急行』(1976年)森田芳光
11月22日『ファーザー、サン』(2003年)アレクサンドル・ソクーロフ監督
12月6日蔡明亮特集『西瓜』(2005年)『迷子』(2003年)
12月20日『楽日』(2003年)


2007年
1月10日『百年恋歌』(2005年)侯孝賢
1月24日『蟻の兵隊』(2005年)
2月7日「タルコフスキー特集」『惑星ソラリス』(1972年)他
2月21日『蟲師』(2006年)大友克洋監督
3月7日『明日へのチケット』(2005年)エルマンノ・オルミ監督他
3月28日『裸の島』(1960年)新藤兼人
4月11日『バベル』(2006年)
4月25日『MORIYAMA』(2007年)宮川敬一監督
5月9日『そして人生は続く』(1992年)アッバス・キアロスタミ監督
5月23日『歌謡曲だよ、人生は』(2007年)
6月6日『黒い眼のオペラ』(2006年)蔡明亮
6月20日『マリナ・アブラモビッチのセブンイージーピーセズ』(2007年)
7月4日『  (モガリ)の森』(2007年)河瀬直美監督
7月18日『それでも生きる子供たちへ』(2005年)
8月1日『ブリッジ』(2006年)
8月15日第19回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭『ロージーと行くレインボー・クルーズ』(2006年)
8月29日『シネマニア』(2002年)アンジェラ・クリストリープ、スティーブン・キャク監督
9月12日アジアン・クイア・フィルム&ヴィデオ・フェスティバル
                           『女たち』(2004年)
9月26日アジアフォーカス福岡国際2007『風と砂の女』(2006年)
                       『トゥーヤの結婚』(2007年)
10月10日『ショートバス』(2006年)
10月24日『大地のうた』(1955年)サタジット・レイ監督
11月7日『長江哀歌』2006年)賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督
11月21日第29回ぴあフィルムフェスティバル
       『劇的ドキュメントレポート’78~’79』(1979年)森田芳光
12月5日『忘却のバグダッド』(2002年)『ミリキタニの猫』(2006年)
12月19日「2007年 混沌のなかから 映画の現在、映像の未来」 福間良夫他

 

菜園便り183 ??????

 「混沌のなかの萌芽」。ちょっと大げさなタイトルですが、最後の「文さんの映画をみた日」に使おうとしたものです。通常は映画のタイトル名が入る箇所に、今回は特定の映画でなく回顧的なものなので、こういったタイトルを入れたのですが、しごくあっさりと削除されてしまいました。
 でも、かすかな期待とささやかな実感として、何かの萌芽の予感を感じ続けているのはぼくだけではないと思います。そうして今、それがひどく苦いものにしか感じられないのは、変化というものはいつだって馴染みのない辛いものを伴ってくるからと言うだけでなく、このちょっと得体の知れない、不安を呼び起こすものが、けして喜びのための小さな苦役ではないからでしょう。もちろん幸不幸も悲惨も相対的なものですが、嫌な世の中になるのはやっぱりつらいことです。
 小津安二郎の映画『彼岸花』に、「(戦争中は)嫌な時代だった、つまらん奴がいばっていて・・・」という会話が出てきます。しゃべっているのは佐分利信、今は重役で家父長そのものみたいな人物になっていて、彼の方がよっぽど嫌な奴だという人もいるかもしれませんが(実際、ある米国人はこの映画をみて、平凡ででも温かいといった印象は全く持たず、佐分利信扮する男が列車の一等車のなかで「おい、君」と車掌に呼びかける箇所に耐えられないほどの怒りを感じたようです。同じ箇所でぼくは暢気に「そうだ、昔は車掌さんに頼めば電報だって打ってもらえたし、あれこれの変更や次の列車の予約もできたんだ」と思ったりしていたけれど)。でも威張るとか-威張られる、差別する-されるとかいったことは、誤解を恐れずに言えば双方で創りあげるものです。「戦争中は酒屋や八百屋まで配給で威張っていて、ヘイコラさせられた」というような台詞がテレビドラマなどにでてきますが、それはヘイコラする人と、威張る奴の両方で創りだし支えあう関係田と言えます。
 世の中の雰囲気が少しでもある傾向を見せ始め、メディアを初めとしてそういった言説が流布し始めるとたちまち雪崩を打ったように誰もがそのなかに巻き込まれて、自ら飛びこんでいきます。偏見や差別も同じです。はっきりした根拠や確信など欠片もないまま、漠とした、好悪を核に据えたようなムードのなかで、そういう世相に浸って誰もが当然のことのように、差別される側が悪い、当然の欠陥を持っているという暗黙の了解を抱え込み、自分が何かを信じ込んでいきつつあるとさえ思うこと無しに、まったきに受け入れていくわけです。難しいのは、被差別の側も同じ社会のなかで生きているから、そういう感受が染みついていて、被差別にはそれなりの理由がある、自分が悪いのだ、欠陥があるんだなどと思ってしまい、自身が、自分も含めた被差別者を無意識にも差別してしまうことです。
このこみいった難しさをきちんとみつめ丁寧にほぐしていかないと、差別はぐるぐると回っていく、次の差別へと形を変えていくだけになります。今日の被差別者が明日の差別者になるといった、つらい在り方になります。だから差別を考える時いちばんだいじなのは、倫理や道徳で(正義で)差別はいけないとか、かわいそうだとかいった、外からの視線で捉える、つまり差別と被差別の二項対立があるかのように考え、受け入れ、差別それ自体を実体としてとらえてしまわないようにすることです。
 丁寧に考えると差別を支える「ちがい」は成立しなくなります。どこからが偏見の対象になるか、その境界は曖昧です(異常にくっきりしているかのように思えますが)。人種や民族はまずそうです。肌の色も境は曖昧だし、「色」という概念自体が時代や地域で変わります。たんに自分たちとちがうように感じられる、見えるだけです。

 

菜園便り一八四
二〇〇八年一月六日

 「文さんの映画をみた日」が打ち切りになったこともあって、映画の話ばかりしていますが、もちろん本もたくさん読みました。すぐに浮かんでくるのは内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』です。いつもそうですが、彼の書くものはどこかハイ・プラグマティズムといった感じがつきまとって、掴み出される真摯な思想や的確なことばが軽く思われてしまうけれど、レヴィナスを、ちゃんと読める日本語にできるほどの思索の結果であるんですよね。軽さを戦略にした反「団塊」的なところが残ってしまっているのでしょうか。本人の冗談が機能してないというか、受けとる側の屈折の度合いによっては、すごく嫌みにしか響かないこともあるのでしょう。いずれにしろ中身をきちんと受けとることがだいじですね。ただ、すごく平静な対応を心がけているなかにまだロマンティシズムの残照みたいなものがあり、「文学」への特別な対応、というか甘さというか遠慮には少し驚かされます。好きな作家だったらしいけれど、矢作俊彦が心をん込めて語られるのも不思議な気がします。
 映画のように記録をとらないし、最近は図書館で借りるばかりだから手元にも残ってないし、しばらく考えないと誰を、どんな作品を読んだか出てこないのは、つらい。「あれだよ、あれ」(ほんとはしばらく考えてもぜんぜん出てこない。みんなどこへ消えてしまったのだろうか、微かな痕跡さえ残さず)。
 一昨年は奥田英雄をずいぶん読みましたが、去年は姉がおいていった『地下鉄に乗って』から始まって浅田次郎をたくさん読みました。最初の『鉄道員』の印象が悪くてほとんど読んだことがなかった人ですが、幻想文学そうして青春文学でもあったんですね。感傷とロマンティシズムとに満ち満ちて、わりと俗っぽいというか常識的な世代論、時代論が背景にあります。幼年時代というか思春期を描いたものは初めて読んだ時には驚かされましたが、とにかく上手ですね。どこか悪っぽく見せようというのもあって、ハードも売りになっています、それから東京性も。だから麻布や浅草が頻繁にでてきます。東京でも今時の東京じゃないよ、というところでしょうか。旧い地名も、もちろん。『深夜の刺客』というのが好きです、想像どおりヤクザもので人がたくさん殺されるし、しかも『沙高楼奇譚』という際物を集めたシリーズのなかのひとつであまり誰にも薦められるものではないけれど。「鉄道員(ポッポヤ)」などのようにかなり私的な思い入れのあるルビがタイトルなどに振ってあるのもちょっとしんどいところです。
 仕事で金井美恵子の昔の作品『単語集』を読んでますが苦痛です。ぼくは金井は『兎』あたりから読み始め、目白三部作も含めて『文章教室』『軽いめまい』までは熱心に読みました、正直すごいなと思いもしました。でもその肉声にはうんざりしていましたから、エッセイは全く手を触れませんでした。この『単語集』は初期のペダンティズムや饒舌さ、ヌーボーロマン的な無機質さが意図されていて、どうして海外向けの公的な翻訳・紹介の一冊に選ばれたのか、作家もこの作品に賛成したのかわかりかねるほどです。
 村上春樹中沢新一高橋源一郎吉田修一、小川国夫、古井由吉は去年もしっかり読みました。出版されるとすぐに買って読む作家はほとんどなくなりましたが(経済的な逼迫もあって)、ひとりだけはかわらずに手に取り続けています。高橋源一郎が続ける、柔軟に見えて硬派の果敢な実験と試みには頭が下がります。こんなことをいうといけないでしょうが、でもこういった文体も含めた真摯な実験に未来はないと思います。天才的な彼だからやっと成立しているし、今の時代のわずかな特定の層をどうにかあてにして、という気がします。でも文体としても作品としてもすぐれていて読んで楽しいし、いつまでも頑張ってほしいと、個人的には思います。『官能小説家』や『日本文学盛衰記』はすごいですよ。
 少年少女文学と呼ばれるものもけっこう読みました。『秘密の花園』とか『真夜中にトムは』なども。ミステリーやSFは新訳の『ロング・グッド・バイ』くらいしか思い出せないからあまり読まなかったのかもしれない。
 今年こそは、というような気持で向かうものは特にないし、誰かをまとまって読んでみようという気合いもないけれど、また活字に、書籍に大いに関わっていくことはたしかでしょう。三月二〇日からアジア美術館内の交流ギャラリーで個展を開かれる斎藤秀三郎さんにも、「ことば」での協力を約束しました。
 しみじみしんどいというか、なんかがっくりしてしまうような寒々しい時代ですが、でもそういう思いそのものが時代に色づけられているんでしょう。「たしかに僕はいろんなものを失ってきたけれど、失ってきたものの記憶が、今となっては逆に僕という人間を底から温めていてくれるからだと思う。」そいう声も聞こえます。


菜園便り一八五
二月一九日

雪の月、底冷えの月、かじかむ月、真っ直ぐな光の月、蕗薹の月、酢漿草(カタバミ)の月、銀に凍る月の月、鱸(スズキ)の月、ぜんざいの月、泉鏡花の月、水仙月、海獺(ラッコ)の月、海月(クラゲ)の月、縞栗鼠の月、水炊きの月、布刈りの月、チョコレート月・・・・
寒いから人は縮こまり動くのも億劫になり視線さえ動かさず口も閉じて黙ってやり過ごそうとしているけれど、透明で澄んだ空気のなかを光はなにものにも遮られずに真っ直ぐに突き刺さってきて庭の常葉樹の厚い葉に反射し芽吹いたばかりのほっそりと柔らかな新芽で輝きそんなもの全ての反映がぼくらの瞳にも映ってだからじっとしていられなくなる、雪国では雪の上を何かを嗅ぎ取るように転がり、南の乾いた寒風の中では、耳を押さえて海へと走って何かを聴き取ろうとする。
菜園の黒い土の上からかつお菜が消えていき、菜の花やルッコラが広がり、去年蒔いたえんどう豆、空豆が伸び始め、地面に貼りつくようだったパセリが体を起こし、春菊も伸び伸びと葉を広げ、大根や蕪も最後の力をふりしぼる。
陽光の下で水仙は群がって咲き、ひとつ残っていた山茶花が花びらを落とし、遅れがちだったピンクの薔薇椿がやっと固い蕾を膨らませ始め、指ほどになって生き延びたミントが一気に伸び上がる機会を待っている。
人も光の力に翻弄され、眠っていた情動が爆発しそうになってくる、木の芽時とは今なんだと、4月はその残照でしかないとわかる。抑えて抑えて、少しずつ放電していかないと取り返しのないことになる、それもまたよしとするにはもう若い暴力はない、なんとか手のなかのものでやり繰りしていくしかない、少なくともこれだけは残ったんだ、創ったんだ、やっとの思いでそういい聞かせて、そっと開いてみる手のひらの乾いて細かな皺に覆われた淋しさ、でも微かな潤いと温かみは感じられる、どこかに。そうして遠くからの響きが、聾する音にはならない地鳴りと、小さな声が、歌声とはもう言えなくても、でも聴こえてくる。
愛の月、水瓶座の月、ぼくの誕生月。


菜園便り一八六 ??????
三月七日

 図書館の新刊本紹介の棚に、北原白秋の「フレップ・トリップ」という文庫本が載っていた。黄色い表紙に、恩地孝四郎らしい版画が刷ってある。読みとおせないだろうなと思いつつも、散文で、紀行文らしいし、と借りてきた。忙しさにかまけて何日も手を触れないままだったのをやっと開いてみたのは、あきれるほどの雷雨が続いた後の、3月にしてはずいぶんと寒い朝だった。
 樺太への船旅から書きはじめられたそれは、するすると帆船がすべるように始まったけれど、でもその旅のために贖った物が、「洋杖蝙蝠傘、藤色皮の紙幣入、銀鎖製の蟇口、毛糸の腹巻き、魔法瓶、白の運動帽、鼠色のバンド、爽やかな麦藁帽、ソフトカラーにハンカチーフに絹の靴下、白麻のシャツに青玉まがいのカフス釦」などと書き連ねてあって、そこに2、3のネクタイというのもあった。はっきりと何本書いてないのは自分で買ったからでないというわけでなく、三越高島屋あたりで適当に見繕って買ったからだろうか、これとあれ、それからそれもあのジャケットにあいそうだから買っとくかな、どうだろう、そうなさいよ、そうだね、といったふうに。
 この20年間、ネクタイ1本買えなかった身としては、いちいち値段や本数を意識することもなく買い物のついでにいくつかまとめて、といったぐあいに買えるそんなありかたに、小さく動揺してしまう。ネクタイはプレゼントや土産にもらうことも多いもので、ぼくも自分で選んだ物は気に入ったためしがなかったり、すごく好きでそればかり使って飽きてしまうといったことが多くて、なんとなく買えなくなってしまったこともある。
 勤めていた頃は毎日使う制服のようなものだからあまり考えずにこのスーツにはこのネクタイ、みたいに決めていて機械的にあわせていた。3組もあれば充分だった。締めつけられることや体の前にぶら下げていることへの嫌悪や悲哀、抑圧の比喩と考えたりすることもなかったし、これ1本でずいぶんと気分がシャキッとするものだと感心したこともある。特別な日、例えば葬儀には黒いネクタイをすれば、それでお通夜は十分で、少し派手なものにすれば、会社帰りのスーツのままでちょっとしたパーティにも気後れせずに出かけられた。便利で楽しかった。
 使わなくなったから買わないのはあたりまえで、でもそういう無駄な買い物、身につける虚栄といえばいえるそういったものを贖うことを思いつきもしない日々は、歪なほど堅実で逼塞しているとつい大仰に思ったりもする。
 先日、友人の個展のオープニングパーティでの「コスプレ」で久しぶりにボウタイ(蝶ネクタイ)をしたけれど、このタイを締めること自体が10数年ぶりだと思い当たって唖然としてしまう。ずっと前に遊び半分に聖愛幼稚園のバザーで100円!で買った旧いモーニングを着るので、祖父のボウタイをつけてみようかとひっぱり出してみると、ちょうどぴったりの長さで、ぼくよりかなり太っていたのに、首のサイズが同じだとわかって驚かされた。当時のボウタイは調節が着いてなくて、それぞれ自分にあった長さを最初から選ぶもので、祖父の場合は29/74というサイズの数字が着いていた。丁寧につくってあったけれど、シルクだし、やっぱり弱くなっていたらしい。少し慌てて結んでいて、久しぶりでうまくいかなかったこともあり、苛立ってついぎゅっと引っぱったらちょうど羽の根本からちぎれてしまった。びっくりするよりおかしくなったけれど、祖父が亡くなってからでももう30年以上、使っていたころからすれば50年が経っているのだから、きちんと残っていたことの方が驚きなのだろう。今回の解体のさいの片づけで出てきたもので、どこからだったか、もう細かな経緯は思い出せないけれどたぶん母が整理してとってのだろう。
 そのパーティには紳士服の仕立てを長く続けてこられた方もみえていて、ぼくのモーニングを見ながら、それはおそらく戦前のですね、ボタンがふたつ付いていますから、戦後はほとんどひとつボタンでした、という話がでた。以前は、つまり仕立てで活躍されていた頃は、結婚する時に1着(もちろん黒で)、それなりの地位について体型も変わった時にまた1枚、そんなふうにふうにつくったものです、とも。小津の映画なんかみると、葬儀も結婚式も、佐分利信も中村伸夫も笠智衆もみんなモーニングだ。校長先生が着てたのを覚えていますと話していると、今はもう政治家ぐらいですねえ、結婚式の花婿も赤いタキシードなんか着てますから、貸衣装でと、淋しげな返事がきた。
 出かける前に贖ったもののリストを読むだけで、当時の旅行への気構えや出発前の高揚感がわかるし、子供のように弾む白秋の気持ちも伝わってくる。着ていったのはアルパカの黒背広、とも書いてある。私生活でもずいぶんいろいろあった白秋も時々にモーニングを着たりしていたのだろうか。

 

菜園便り一八七
三月二八日

 いつも通っていた散髪屋さんで、三月いっぱいで閉めることになったと告げられた。
 偶然入った天神のビルの理髪店で働いていた若い人が上手で、サバサバしていて気楽だったのでいつも頼んでいたら、結婚されることになった。仕事は続けますからということで、住所を教えてもらった。嫁ぎ先は友丘の散髪屋さんで、旦那さんも義母さんも理髪師。髪を切りに行ってあれこれ説明するのはとても苦手なので、そこに通うようになった。六本松からそう離れてないけれど、そういうことでもない限り、きっと知らない町だったろう。
 「もう二〇年近くなりますね、遠くからありがとうございました」としんみりと言われて、びっくりした。彼女が結婚し、一時危篤状態になり、回復して出産、その子ももう六年生なのだから、たしかにそうなるのだろう。何も知らずに行った最後の日に偶然その子にあって挨拶されたのも不思議な気がする。「ずっと野球をやっていて、チームがけっこう厳しいから、挨拶だけはよくしますね」とは聞いていたけれど。
 天神からでも三〇分はかかる所に、十数年通ったことになる。つくづく変化が苦手なのだとわかる。保身的、ということだろうか、いやなことばだけれど(その反動で極端になって全部を一息に振り捨てたりするのだろうか)。人と人の関係も、何かのきっかけで知りあったらできるだけ続けたいと思ってしまうことが多い。せっかくであったのにそれっきりではもったいないなあ、みたいなちょっとおかしな心根もある。それは自分も丁寧に扱われたいという願望の裏返しかもしれない。もちろん、長く続く関係はそうそうは生まれないし、年齢と共にだんだん難しくなる。
 誰もそうだろうけれど、仕事や利害関係以外の、表層だけでないつながりはいったいどれくらいあるのだろうか。あたたかく厳しく、穏やかででも真摯な、時間が経てば経つほど成熟し発酵するような関係、そういったものを求めているのかもしれないけれど、それは無理というものだ。自分を全きに開き外へ曝し、表面を傷つけ溶かしてから、外液で腐敗させつつ発酵させる、とでもいったようにしないとできっこない。おまけにその時と場所によってまったくちがった変化が現れてしまうのだろうし。漬け物やチーズ、酒造りといっしょだ。
 ざっくばらんできつい冗談も言いあっている人たちが、ちょっと急を要することがらで、互いに電話でなく、メールで連絡を取りあっているのを見て驚かされた。今は誰もがそういうことなのだろう。そうしてそれをごくあたりまえのこととして受けとめてもいる。たしかにぼくもメールですませられる所は限りなくメールになっている。でも、そういったそれなりの年齢で、例外的だと思っていた人たちもすでにしてそうなのかと、小さなショックは続いている。手紙の丁寧さと(堅苦しさも)、電話の直接性(暴力的だ)の中間にあり、その利便性と直に(声ででも)対面しない安心が、この媒体に人を惹きつけそうして同時に疎ましく、胡散臭く感じさせるのだろうか。
 今もごくたまにもらう手紙やハガキの喜びはますます大きくなる。そうしてそれに比例するように自分で書く回数は減っていく。なにかを伝えるのに、語るのに、心を込めて心血を注いで、といったことを大仰で格好良くないことだと薄く笑っているうちに、あっという間にぼくらはここまで押し流されてきてしまったのだろうか。


菜園便り188 ??????
3月29日

 もう3月も終わり。「えええええっ!」と叫ぶ人もいるかも知れない。でもほんとに速いし、早い。4月はあれこれあるからもっとバタバタするのだろうか。
 楽しみに待ちつつ気がかりでもあった、斎藤秀三郎さんの大がかりな個展も無事、成功裏に終了。会期中毎日会場に詰められ、来る人ごとに丁寧に話される姿は作品以上に感動的でしたが、持病の腰痛がひどいようで、ちょっと痛々しくもかんじられました。
 この個展のことは「玉乃井通信」では何度か知らせましたが、この「菜園便り」にもそれを転用する形で、紹介します。リーフレットやハガキと共に送られた紹介文を書いたのですが、その後、会場に貼る文章も頼まれて書きました。これは斎藤さんと直接関わらない、ぼくが今いちばん語りたいことを書いてくれという要請で、「自分の作品や表現と「対話する」もの、もしかしたら響きあったり、対立したりするものがほしい」とのことで、書きました。森崎茂さんも書かれています。
 個展や会期中の企画のことを、先ずは「お知らせ」の再録から。

*     *     *
「玉乃井通信」お知らせ
前回のお知らせにも入れましたが、斎藤秀三郎さんの個展はすごいですよ。アジア美術館の交流ギャラリー3室を使っての、大がかりな充実した展示。85歳、今も矍鑠とされ、制作を持続されてきた結果の規模と力です。
昨日の、会場内での斎藤さんのギャラリートークも大成功でした。予定の40人を大きく上回って立ち見の人もおられたようです。「玉乃井プロジェクト」の面々をも多数駆けつけてくれました。ぼくもうれしかったです。
進行役をやりましたが、斎藤さんとは長いつきあいですから互いによくわかっているし、斎藤さんは穏やかな人ですから、無理も言えるし、ほとんど準備も無しでなりましたが、とても真摯に詳しく語ってもらえ、みんな驚いて感動してました。
映像関係はぼくは自分でできないので、原田君に無理を言って編集してもらい、当日もプロジェクター持参で上映してもらいました。大感謝です。やっぱり映像があったので、興味がつなげてだれなくてすむし、わかりやすかったし、大助かりでした。
ぼくも知らなかったことや、今までちょっともの足りなく思っていたことをずいぶんと斎藤さん自身の口から聞いて、その場でぼくも驚き楽しみながらできました。あとのお茶や呑み会でもすごい評判でした。やっぱり斎藤さんはすごい。
もちろん今回の力のこもった展示があり、その作品の前での会だったことも、大きかったと思います。それに長年きちんといろいろのつきあいを大事にされてきた人柄も、集まった人の多様さに現れていました。
会期もいよいよ25日(火)まで。見逃したら、きっと後悔しますよ!
今晩は6時半から松岡涼子さんが会場内で舞踏を行われます。安部


旧玉乃井旅館<解体と再生>プロジェクト <家>-最後の家族の物語
玉乃井通信31
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    4月 19、20カフェ/27上映会
  
4月19(土)、20(日)は前にも知らせましたが、玉乃井の建物の開放(見学など)とカフェをやります(玉乃井で何かやりたい人が出てきたら、その会期は延長します)。
それでカフェのお手伝いを、時間のある方にお願いしたいのですが・・・・。珈琲、紅茶とお菓子です。
今回は前とちがって大がかりな美術展ではなく、町の行事も小さめなので、そんなに人はみえないと思います。受けつけも、玄関に貼りついている必要はないと思っています。ちなみに、今回は入り口を表側(海側でなく)にします。
手伝ってもらえる方は、日にちとだいたいの時間を知らせて下さい。

それから、27日(日)は、玉乃井プロジェクトの4月の集まりです。以前から言っていた、戦前の福岡を撮した家庭フィルム(16㎜フィルム)の上映会を行います。宮田靖子さんの友人で、パーソナルフォーカスにも関わってある、香月さんが5本のフィルムに手を入れ、上映可能な状態にしてくれました(1本は傷みがひどくて不可能)。福岡市のある一家の家庭フィルムで、古美術商の西藤さんの手に入ったのを、しばらく借りているものです。興味深い当時の風俗(服や髪型も含め)や建物の様子が撮されています。なんと津屋崎もでてきます。そこには・・・・!見てのお楽しみ。
開始はいつものように2時から。珈琲とおかしですが、夕方からは持ち寄ったものなどで春の宴になります。会費は千円。

前にもお知らせしましたが、斎藤秀三郎さんの大がかりで力の入った個展は成功裏に終了しました。聞くところによると、6日間の会期で、800人を超す入場者があったようです。それもまた斎藤さんの人がらのたまものだと思います。見れなかった人のために会場写真を添付します。4168が作品写真。4155は会場内でのギャラリートーク
紹介文以外に頼まれたぼくの<私的な>文章も、会場に貼られていました。その文章は手元にあるのでここに転載します。
    *      *      *
「語りたいことなんてないですよ」と言うことすらが、そらぞらしく無意味にしか響かないほどにも、今、ことばは力を失ってしまっている。日々の生活は滞りなくくり返され、味蕾や性器末端の快感すらあるけれど、それらは瞬時に消費されて、全てがぼんやりとして厚ぼったい重なりのなかに遠ざかり、生きることのリアルは指の間から抜け落ちてしまう。決定なこととしてのしかかり、人を、世界を圧倒していたはずの自他の死も、重みを失って久しい。それでもわずかに残っている、この、生きているということの不思議な生々しさはなんだろう。清々しい風に吹かれたような新鮮さ、いつもどこかに感じられるあたたかみ、そういった小さな、でも溢れるように尽きない、この瑞々しさを持った感覚。身体を含みこんだ深い深い根を持つ感情。慈しみとしか呼べないような、単純ででも限りなく深い、愛とも呼ばれたことのあるものにも満たされている。「手を伸ばす、もう自分にも届かない」そんな哀しいことばをもう一度のみこんで、再びおずおずとではあれさしだされる指が触れるもの、つかみ取ろうとするもの、希望とか未来とかいった虚ろなことばでなく、まだ名づけられない、ことば以前の、ことば以後のなにか。誰ものなかに確かに存在し、でも気づかれないまま忘れられているものの響きが、遠くにかすかに聴こえる。

ホームページアドレス:http://g-soap.jp/TAMANOI/
発 行:現・在の会
発行日:2008年3月27日
連絡先:現・在の会(安部) 811-3304 福岡県福津市津屋崎1023-1
              phone & fax:0940-52-4608
              e-mail:fumiferd@mta.biglobe.ne.jp

 

菜園便り一八九  ??????
四月一日

 菜園は草ぼうぼうで、その隙間に春菊がひしめき、大根が花茎を伸ばしている。レタスやパセリのある方はかろうじて雑草と半々くらいに拮抗している。父が草取りをやってくれたからで、それはありがたかったのだけれど、冬を越して楽しませてくれ、やっと広がりだしたルッコラの大半が抜かれてしまった。間引きしなくては、とぼくでも思ってたぐらいだから、ただ雑草がかたまっていると思われてしまったのだろう。かろうじて、3、4本は残ったので、それをだいじにして、少しずつ大きな葉から掻き取って食べている。
 ルッコラのあの独特の味と香りに馴染んでしまうと、入ってないサラダはもの足りなくなる。冬にはいる直前に種まきするとちゃんと発芽してくれ、しかも急速に伸びて花をつけたりせずに(まだ暖かいと次世代をつくろうと寒くなる前に開花し種まで作ってしまう)ゆっくりと成長し、寒い間も少しずつ葉を広げ、食卓にその恵みを与えてくれる。今年はうまくいった、きちんと計画したからでなく、ただ思いだしてあわてて種を蒔いた時期が幸運にもちょうどよかっただけだけれど。
 レタスも、苦みのある紫キャベツの子どもみたいなのも、パセリも、雪もなかったし、冬中続いた。一〇月に蒔いた空豆(夏豆)もいんげんも、もう三〇センチくらいに伸びて花をつけ始めている。支柱を、と思いつつ・・・・・塊のまま自分たちで支えあって、雨に打たれている。なんとかしなくては・・・・・と、レタスやルッコラを摘むたびに思うのだけれど・・・・。解体で、支柱の竹やなんかはなくなったし、道具類もどこに押し込んだかわからないし・・・・。どうして全部を支柱のいらない、花も独特できれいというか魅力のある空豆にしなかったんだろうと悔やんだりしつつ・・・・今日の穏やかな春の雨を眺めている。
 四月の後半には、何が何でも夏野菜の苗を植えなくてはいけない。菜園の勝負の時期、いちばんの稼ぎ時、最も賑やかな季節。いつもの花田種物店にはしって、胡瓜、トマト、ゴーヤ(苦瓜)、茄子、ズッキーニ、それにまたレタスも苗を買ってこなくては、ルッコラも種がまだ取れないようだから、買ってきて蒔いておいた方が途切れなくていいだろう、今年は去年より多めに、それからあまりすし詰めにならないように、でも気持がなんだか弾むようにたっぷり豊かに見えるように畝をつくりたい、支柱や棚も早めにしっかりとつくってやろう、そうして大いなる実りを期待しよう、そうだ有機肥料も準備しておかないと、いや肥料より、肥沃な土を入れた方がいいだろう、残っている油かすを植える時に添えよう、期待は膨らむ、そうして、やることさえやって、そこそこの愛情を示せば(たっぷりの愛はできないことを自覚して)、しっかりとそれ以上のものを返してくれる(ちょっと心苦しいけれど)、きっと、豊かな実り、夏中の楽しみとして。
 胡瓜はほぼ一月間に集中するから、また人にあげたりと大騒ぎになるだろうか、トマトもまた3種類ほど買ってきても、どれもが同じような大きさになってしまうだろうか、「なりすぎて困る」ことが一度もなかったゴーヤも、今年は次々に結実するだろうか「困ったなああ」と哄笑させられるように、そうだ、ピーマンを忘れていた、この優等生を植えておけば、秋まで次々に実をつけてくれるし、忘れて放っておいても赤くなって知らせてくれる、茄子は期待しない、五、六個も採れたら御の字だと思おう。
 あのかりかりの胡瓜、青臭いでもしっかり甘いトマト、飽きずにチャンプルーにできるゴーヤ、ズッキーニはたぶん最初の3週間であまり大きくないままに終わってもしっかりあの苦うまさの喜びを味わえる、花もきれいだ、オクラの花はもっときれいだけれど、この土にあわないようでうまくいった試しがないから、諦めている、南瓜とか西瓜もだめなようで、もう試みない、一度、薩摩芋をやってみたい、砂地だからきっとうまくいくと思うのだけれど・・・・思いは尽きない、そうして野菜たちはいつもその思い以上に、大きすぎる期待をさらに上回って喜びを具体的な形で与えてくれる。
 そんなことを思いつつ、花冷えでひいた春の風邪で鼻をぐずぐずさせつつ、あたたかみのある静かな春の雨の音を聞いている。

 

菜園便り一九二
四月二九日

 やっと、夏野菜の苗を植えることができた。早く早くと思いつつずるずると先延ばしになってしまうのは心身にもほんとによくない。
 菜園は今やトマト(二種六本)、胡瓜(三種六本)、ゴーヤ(二種六本)、茄子(二種三本)、ピーマン(二種三本)、ズッキーニ二本がしっかと立っているし、薄緑色のレタスとバジルも加わった。ルッコラの種まきもすんだ、すごい。強い日射しの下での作業で汗をかいたのも久しぶり、ついにこの暗く寒々しいあばら屋にも初夏の光が届いたのだろうかと、うれしくなる。
 昨年夏の離れの解体にあわせて場所をかえたから、この冬の野菜は順調だったし、秋の終わりに植えた豆類がみごとに繁っている。絹ざやは毎日どっさりと言えるほど採れるし、ピースも膨らみつつある。いちばんの楽しみの空豆(夏豆)も来週には収穫できそうな大きさでぐいっと空を向いている。バタバタしつつもどうにか種まきをした返礼がここに来てこんなにもどっさりとある。
 「返礼」なんて言うのはおこがましいのだろう。場所を作り肥料を入れ、種をまく、それだけのことだったのだから。時々の水やりも、そこそこに大きくなったらもう空まかせ。吹きつのる強い風や飛んでくる潮にもめげず、みぞれの冷たさにも耐えて、花を咲かせ、そうしていい加減な植え方だったから込み合って団子状の悪環境にもめげずに次々と実をつけて、我が家の友人宅の食卓にその柔らかくみずみずしい青い甘さを届けてくれている。こちらが、ただただ平身低頭でお礼を述べるしかない。
 という舌の根も乾かないうちに絹ざやの収穫を忘れ、少し固くなっただけでもう無視して捨ておいたり、込み合った枝葉を美しくないなあ、ちょっとうっとうしいなあと傲然とみていたりする。ほんとにどこまでも凡人は救いがない。
 でも、救いはある。そんなこちらの愚かしさなど歯牙にもかけず野菜たちは無限とも思える愛を振りまく。冬から続いている片隅の赤いサニーレタスと苦キャベツはまだまだ花茎もつけずに開き続けているし、思いもかけない所からこぼれ種のパセリが伸びてきている。父に抜かれてしまったルッコラも隠れるように残った一本がわずかだけれど貴著な薫り高い葉をつけている。
 採れたての若い絹ざやは筋をとる必要もない柔らかさで、さっと茹でてサラダにもいいし、みそ汁やお吸い物にもぴったりだ。ちょっと大きくなったのは筋をとってさっと煮つけて、竹の子に添えると彩りもいい。竹の子ご飯に乗せてもきれいだ。
 今年のどっさりいただいた竹の子のおいしさも、冷凍庫という利器のおかげでまだまだ楽しめる。いただいた粕につけてみた野菜もうまくいっている。夏野菜の準備に抜いた雑草に紛れていた大根は、まだとうが立っていなかったから大根下ろしや煮物にできたし、最後のかつお菜の葉は茹でて冷凍にしてある。姉が3月の滞在中に作ってくれた大根葉と同じように手軽に使えるだろう。春菊はどっさりの花を大きな花瓶に押し込んで飾ってある。庭で採れたり、誰かにいただいたりした野菜は、むげに捨てる気になれなくて、あれこれない知恵を絞って使う。それもまた楽しい。思いがけないときに届く、庭で採れた夏みかんや草花、そういったものの単純で見飽きない形や色の美しさへの喜びもふくらむ。
 松も盛大に花粉を散らして花を終え、菜園の奥のジャーマンアイリスの群生がいっせいに開き始めた。一日ごとにぐいぐいっと季節が移っていく。

 

菜園便り一九三
五月二二日

 三月に開催された斎藤秀三郎展は、その規模にも入場者数にも驚かされたけれど、なんといっても斎藤さんの八五歳という年齢に感嘆させられる。こんなにも大がかりな作品展を、その作品制作だけでなく全部、会場の申し込みややりとりから、パンフのデザイン、注文、校正、はがきや案内状を書いて発送、搬入や搬出の手配と作業、会期中の挨拶や対応、細々とした雑務、とにかくいろいろの交渉や実労働を時間をかけて全部一人でこなされて、ほんとにすごいなあと思う。もっといろんなことを手伝わなければならなかったけれど、父のこともありわずかなことしかできなかった。斎藤さん自身にも、「今回は全部自分でやる」、ということにかなりの比重があったようだ。
 それでぼくには案内状に載せる文章と、作品やコンセプトと「対話」するべく会場内にはられる文章の依頼があって、それだけはなんとかこなすことができた(両方とも森崎茂さんと共に)。多くの人の眼に触れたこともあって、珍しくいろんな反応があった。うれしいことだし、あれこれ考えさせられもする。ここに採録しておきます。
*  *  *  *  *

「案内状」       
斎藤秀三郎-静かにうねる日々
 その表現としての作品も、斎藤秀三郎さんという具体的な人と、頑ななまでに重なりあっている。その表情しぐさから、頑固さとあっけにとられるほどの柔軟さまで、独自の一体感を持ちつつぎくしゃくとつながっていく。それが人が長く生き、何かを考え続け求め続け、そうして形として表現しようと試み続けた痕跡なのだろう。憧憬のように求められ、求道のようにつきつめられ、蛮勇をふるって叩き拓かれた、ささやかなでも貴重な沃野。そこに何を種蒔くかは、平板に続く日常の、退屈で貧相にさえみえる細々とした連鎖のなかにしか見えてこない。ロマンティシズムから遠く離れた、時の蓄積によってのみ生みだされる叡智だろうか。  
 時代のままに、絵画、公募展と励み、二科展の入選を含め貧しき人々を描くなかから、「思想」への共鳴を軸に九州派に加わり、そこでの「何を表現するのか?お前の立場は?」という、それも時代の強いる問いを全身で受けとめる。そうしてグループ西日本などでの、再度の絵画という枠組みの中での葛藤の後、新しい場であるメゾチント版画へと突入、圧倒的なまでの巨大なメゾチントに込められた深々とした闇とどろどろと滾る血や漿液。さらに現代美術の自由さへと、なんであれ徹底してしまう性癖で、立体へ、インスタレーションへ、変わらぬモチーフであるキャベツをしっかと掴んで、斎藤さんの終わりのない旅は続く。八五歳、達観や諦念から遙かに遠い地平で、その底を奔る過剰と共に透明な光が微かに射し込んでくるのが見える。乾ききって荒んだ皮膚にほのかに感じられるあたたかみ。あくなき歩みと人としてのやさしさ、いつも共にあったユーモアがここにきて生の核としての姿を現しているのだろうか。まだまだ先は長く、たどり着く先は見えないけれど。
 求めることを求める、という空回りからほんのわずか、でも決定的にちがう位相へと踏み出したなかで、斎藤さんは足掻くように求める。どこでその決定的な飛躍がなされたのだろう。ことばに、社会性に、時代の要請に、世界の騒ぐ声に容易く感応してしまう己を自覚しつつ、振り払えない自身の赤い野心やにこごって暗い欲望を意識し、だからこそ、潔癖なまでに、律儀なまでにそこから出立しようとするその姿勢の傾きのなかに唯一の可能を信じて、無音の悲鳴をあげながら、真っ逆様に墜落するようにして、閾を超える。傍目にはいつもの日常が淡々とくり返され、稚拙な冗談と肯きが積み重ねられるだけにしか見えないなかで。ヒロイズムを避け、でもニヒリズムへと落ち込まないために、斎藤さんは穏やかであたたかい冷笑を自身へも世界へも均しく投げかけていく。
 祈ることのわずかな高みで何かが成就する、捨てることの痛みの向こうでだけ探りだされるものがある、そんなふうにしてしか日をつないでいけない生き方。通俗とぴったり重なっただけでしかない反通俗の克服であり、時代のイデーを抜け出る、曖昧にさえ見える柔軟さであり、生活に結びついた存在の根に残る、当事者としての慈しみであり痛みの共有でもあるのだろう。
 哀しみを我がこととして受けとめる勁さ。強い人は弱い。弱さを受けとめうる人だけが勁くなれる。哀しみは無色だからその色を知ることはできない。不幸があまりにも極彩色だから、哀しみは時として幸福の穏やかな平凡さにも似てしまう、斎藤さんの静かな日々のように。

「会場の文章」
「語りたいことなんてないですよ」と言うことすらが、そらぞらしく無意味にしか響かないほどにも、今、ことばは力を失ってしまっている。日々の生活は滞りなくくり返され、味蕾や性器末端の快感すらあるけれど、それらは瞬時に消費されて、全てがぼんやりとして厚ぼったい重なりのなかに遠ざかり、生きることのリアルは指の間から抜け落ちてしまう。決定なこととしてのしかかり、人を、世界を圧倒していたはずの自他の死も、重みを失って久しい。それでもわずかに残っている、この、生きているということの不思議な生々しさはなんだろう。清々しい風に吹かれたような新鮮さ、いつもどこかに感じられるあたたかみ、そういった小さな、でも溢れるように尽きない、この瑞々しさを持った感覚。身体を含みこんだ深い深い根を持つ感情。慈しみとしか呼べないような、単純ででも限りなく深い、愛とも呼ばれたことのあるものにも満たされている。「手を伸ばす、もう自分にも届かない」そんな哀しいことばをもう一度のみこんで、再びおずおずとではあれさしだされる指が触れるもの、つかみ取ろうとするもの、希望とか未来とかいった虚ろなことばでなく、まだ名づけられない、ことば以前の、ことば以後のなにか。誰ものなかに確かに存在し、でも気づかれないまま忘れられているものの響きが、遠くにかすかに聴こえる。
        *  *  *  *  *

 斎藤さんの年齢のこともあり、「集大成」というように言われる方も多かったけれど、彼自身は「いえいえ、これからです」と今後のことだけを語られる。油彩やアクリルの平面作品や版画で2年に一回くらいは個展を、と積極的だ。人との丁寧なつながり、表現への大胆さもこれからもまだまだ続いていくようで、すごい。

 

菜園便り一九四
五月二二日

 昨日、今年初めてのアオスジアゲハを見た。庭の松と椿の間を例によってせわしなくパタパタと羽を動かして上下しながら海の方へ飛んでいった。大きな蝶なのに優雅とかおっとりとかいったことばとまるでかけ離れている蝶だ。せっかくの透きとおって蛍光しているようにさえ見える水色のすじ、輝く羽なのに、いつもなんだかピョンピョン跳ねている感じがする。子供の頃から、見るたびにはっとさせられる、それくらい印象的な美しさとはちぐはぐに思える動き。
 庭もすっかり初夏のようす。野生の、といったらいいのかしぜんに生えてきた小さなオレンジ色のポピーが群がって咲いた後には、薄桃色の沖縄月見草があちこちに開いている。まとまると霞んだ淡い色の固まりになって、夕暮れ時などはぼんやりと浮かび上がりちょっと誘われるようだ。
 菜園も今年初めての胡瓜が採れた、みずみずしくカリカリとおいしい。ズッキーニにいくつもカボチャのようなオレンジの花がついているし、小さな実をつけ始めた。トマトも丈が低いままに花が咲き始め、青い実をつけていて、早すぎないかとちょっと心配させられる。豆類は、絹ざやとグリンピースが終わり、空豆が全盛を誇っていてうれしくなる。明日あたりにはかなりまとまって摘まないとかたくなりそうだ。茎も四方に広がって、辺りかまわず倒れそうなのをかろうじて紐でしばってまとめているけれど、それでも茄子やパセリの上に覆い被さっていく。
 ぐんぐん伸びているルッコラの上にはズッキーニの大きな葉が広がり始めて、こういったのをなんとかしないと他の野菜が日陰の身になってしまって、かわいそうだ、とも思ってしまうけれど、葉を切り取るわけにはいかないだろうし・・・・・。
 レタスや苦キャベツはびっくりするくらい勢いがあるし、そのそばの1本だけのバジルも、彼らの勢いに引きずられるように元気だ。夏の先駆けとして、モッツァレラチーズを買ってきて、トマトといっしょに食べよう。ゴーヤは葉っぱが黄色っぽくなってなにやらひ弱に見える。栄養が足りないのか、まだ暑さがきてないからか、ちょっと心配になる。
 でも、だいじょうぶ。お隣の畝のキュウリは順調で、早々と今年初めての収穫もあったし、来月には全体への追肥の予定もある(忘れないようにしないと)。獲るだけ獲って、何もしないなんてことはいけない、心して、おいしい野菜を食べるたびに思いだそう。
 どこも緑が広がり深まる。でも昨年、離れと風呂を解体した後はむき出しの土のままだ。雑草がすぐにはびこるだろうと思っていたけれど、車の駐車があるのと、父がまめに抜いてしまうのとで寒々としている。少し土地が傾いていて、雨の度に流されるのも理由の一つかもしれない。
 海側の道路に面した低い塀沿いに目隠しの低い木々を移植しようと思い始めてからあっという間に数年がたってしまった。母屋が素通しになった今年こそは梅雨の晴れ間に必ずやってしまわないと、と何度目かの決意をかためる。さあ、あまりひどくない梅雨と、少ない台風でこの夏が終わってくれることを祈ろう。野菜のためにも、なにより、この百年近い老いた、でも毅然として暖かみさえある、でもあちこちの痛みで青息吐息のこの旅館建築の無事のために。

 

菜園便り一九六
六月八日

 一昨日、ざぼん、無花果、柿、サツキの苗を買ってきて庭のあちこちに植えたけれど、柿は場所を決めかねて、まだポットに入ったままでつったっている。桜もほしいと思うけれど、そういうのはこの時期には売ってないようで、誰かに教えてもらってどこかいいところで探してこなくてはいけない。
 以前は父がいろいろ買ったり植えたりしていたけれど、どこでだったかとあれこれ考えていて思い出したのは、「タキイの種」だった。父のお気に入りは、種や苗の専門店のタキイから取り寄せることで、そういえば二、三年前まではカタログが季節ごとに届いていて、眺めるだけでも楽しかったのを思いだした。どうしてこなくなったんだろう。しばらく買わないと送らなくなるのだろうか?どうしようもない通販のカタログにうんざりして、取り消しの連絡を送りまくった時に、いっしょに通知してしまったんだろうか。野菜や果実は特に楽しく見ていたけれど。
 子供の頃すんでいた蔵屋敷の家で、父がそうやって取り寄せたポポーは、植えたばかりで引っ越しになり、それだけは今の家に持ってきた。数年してぼくが家を出る頃まで、かわいそうなくらい小さかったけれど、いつのまにか大きく伸びて驚かされた。一本ではなかなか実をつけないようで、一度二個ほど実をつけ、でも熟さないままで終わったようだ。栄養価の高い南国的な果実らしいけれど、誰も味わうことはなかった。大きくなりすぎたのか、自滅するようにしていつの間にか潰えてしまった。倒れて腐ったのだろう、放りっぱなしで、めったにはいらない庭だったからその経過もほとんど知られないままに終わった。そうやって枇杷もなくなり、でも渋柿はひさしより高くのびてしぶとく葉を茂らせている。狭い庭にも栄華盛衰というか、淘汰がある。
 そういったことはみんな前の家の裏庭でのできごとで、通りからも見えないし、すっとは入っていけないのでそんなことになってしまう。気がつくと一年以上足も踏み入れてないなんてことはざらだ。さすが海側の庭はそんなわけにはいかず、解体後の空き地のことも考えないといけないし、というわけで、雑木の移動を機にあれこれやってみることになった。道路側の入り口に桜を、というのが理想だけれどそこは海風が強く潮も直接かかるところですぐにだめになるだろうから、もっと内側の木の陰で窓からも見えるあたりに落ち着きそうだ。柿はぼくの部屋のすぐ外にスペースを造って植えるのがいちばんかもしれない。
 妙な入り組み方をしていて、樹木も軒を接している隣家との境界もなんとかしないといけないし、がらんとした別館の跡地はバラスを敷いてかためてあるから雑草も生えない。ここに小さな果樹園も悪くはないだろう。砂地だから、芋畑にしよう、と思ったりもしていたけれど、どうなることやら。こういった悩みはなんというか、身体的というか、具体的だし、自由のきかないぶん、精密さも求められないから、どこか穏やかになれて、時間をかけてのんびりつきあえる。心のどこかがゆっくりとストレッチされていく、そんな気もする。

 

菜園便り197 ????
6月19日

 珍しく関東より遅く梅雨入りしたけれど、入梅直前に千葉の従兄弟の奥さんから庭の梅をいただいた。事前にわざわざ電話で、使いますか、使うなら送るけれど、と問い合わせてくれた。今年はいまいち元気が出なくて、梅干しを漬けるのはパスしようと思っていたけれど、これを断るなんてと気合いを入れて、お願いした。「無農薬のいい梅ですよね」というと「無農薬、無肥料よ」と笑って、送ってくれた。
 昨年ももらって漬けたけれど、その時に「できたら送りますよ」なんて、軽々しく言っていた気がして、つまり今回もそういったので思いだしたというか、言ったような気がするのだけれど、昨年はあまりうまくできなかったこともあって誰にもあげなかったから、もちろん送ってもいない。それでもまた梅を届けてくれて、頭が下がる。
 今年は簡単にできる小梅漬けだけのつもりだったから、それはもう漬けてあって、だから頂いた4キロ近い梅は全くのおまけということになる。それもすごい。
 ここ数年やっているフリーザーパックでの簡易漬けでやるから、簡単で黴の心配もない。塩が14%と少し多めだが、はらはらしたり、いらいらとやり直したりしなくてすむ。小梅があったから今年は早々と赤紫蘇も買って漬けていたから、再度多めに買って準備する。来週あたりに本漬け、梅雨明けの晴れの日々に干せば秋にはおいしい梅干しができる。今年は忘れずに送らないと。
 季節のものというのはほんとにうれしい。先日もSmallValleyから父の誕生日にと、杏のタルトをいただいた。毎年、その年の杏を文字どおり山のようにシロップ漬けとジャムにしながらつくられるタルトは思わず声がでるほど酸っぱみがあって、いかにも果実のお菓子の本道。時々聞く、杏を手に入れるまでのあれこれも楽しい、大げさに言えば悲喜劇も。今年はとにかくどっさり手に入ったとのこと、人ごとながらうれしい。
 我が家にも実は梅があるのだけれど、ほったらかしでかろうじて花を2、3個つけるくらいで、もう長いこと実はならない。ずっと昔は父が魚の臓物なんかを埋め込んでいたことを思いだす。ああいった、生の、動物系のものも時間がたてば栄養になるのだろうし、必須だという人もいる。とにもかくにも、愛情、手間暇かける気持ちと、具体的なふれあいがほんとにだいじだとわかる。対象がなんであれ、触ること、手で、息で、体温で、ことばで、ふれることの、つながることの大きさを、ぼくらがすっかり忘れ去ってからでも、もうずいぶんとたってしまった。

 

菜園便り一九八
六月二五日

 バイクに乗るようになって行動範囲が広がった。「バイク」なんていうと驚かれたりするけれど、もちろん五〇cc原付。カブと同じタイプのスズキ・バーディー、色は深緑。鳥のイラストがついている。もらってすぐは、買い物の途中でカーブを曲がりきれずに田んぼにつっこんだり、夜中にパンクしたりとドタバタしたけれど、それ以後は不思議なほど順調。買い物と図書館を行き来するだけみたいなものだけれど、とにかく楽になった。どっさりの重い野菜や酒瓶を抱えてのバスはちょっとつらい。
 そんなふうに、少し遠い産直(産地(人)直搬入販売所)にも行ったりしている時に道路沿いの新しいお店を見つけた、「カレーとビートルズの店」。後でわかったけれど、お店の名前は「アップル」、ふんふん、そうか。素人っぽくつくったのか、予算のつごうか、ざっくばらんなつくり、あり合わせの家具。メニューはカレーと飲み物だけという潔さ。もちろんビートルズがかかっている。壁にはLPレコードのアルバム。ただしオリジナルではなく後でまとめて発売されたセットもののようだ。東芝が売り上げが不調になるとだすといわれた、ボール箱だったり、木箱だったりの、あれこれおまけがついた、復刻した゛オリジナル゛アルバム。ぼくも濃紺の"Rarities"というアルバムがおまけについた紙箱詰めを持っている。七〇年代の終わりに買ったから、もう三〇年近い。そう思うとなんというか、隔世の感というか、唖然として立ち竦んでしまう。
 いったいいつ時間がたったのか、どこで不意に今に移ったのか、「さあこれから」なんて、何の根拠もなく、仕事もしないままずっと思いこんでいた間に。「むざむざとどぶに捨てるように若さと時間を費やし」なんて、しょっちゅう小説のなかで読んで、滑稽にさえ思っていたけれど、まるっきりそのまま自分が思うことになったわけだ。笑いも生まれない。あっけにとられ、呆然とした後、いったいどうなってんだろうといぶかしんでいる、とでもいうのが偽りのない気持ちだろうか。それなりにいろいろあって、しのいできて、ちっとは成熟して、やっと今だ、そんなふうにはすなおに肯えないことで、また小さな棘が生まれてくる。
 とにもかくにもそういうことであり、そうして菜園には夏野菜が猛々しいまでにも繁っている。そうして次々に花を開き実をつけている。「これからも」といったような中途なことばがまたどこかから聞こえてくる。かくてありなん。

 

菜園便り一九九
七月七日  声

 昔、ブルチュラーゼという人の歌唱を聴いたことがある。男性低音部、バスだった。もうずっと昔だ。今も元気なのかどうかも全く知らない。演奏会には行かなくなったし、音楽家のことを知る手だてもほとんどない。あの頃、たぶん二度聴いたと思う。一度目は、つまり最初の時は、彼の独唱会で人見記念講堂だった。前から十列目くらいの、通路側だった。当時は音楽関係の仕事をもらっていたこともあって、とてもいい招待席だった。
 生まれて初めて、音が波動だと、空気の動きだと知らされた。彼が声を張り上げた時、どんと衝撃が来た。もちろん心理的なことでなく、具体的に。ほんとにびっくりした。人の声の大きさというか、物理量に、その塊の強さに。
 バスの独唱曲は多くはない。ロシア人だし、日本でのロシアの歌の人気もあってだろう、ボルガの舟歌とかも唱った。バリトンのアリアも唱った。もしかしたら、「魔笛」のザラストロのアリアもあったかもしれない。だからいっそう身にしみたのだろうか。
 声というか響きというか、身体や生理といったことがとてもリアルだった。何かが、生命力とでもいうか生の本質がむき出しで密集してそこにある。存在が、実態としてでさえないエネルギーの塊りがマグマのようなあり方で、ある、そんなふうだった。
 演奏会というのは、だいたいいくつか唱ったり演奏したりして、インターミッションがあって、ちょっと歩いて知り合いと挨拶やおしゃべりをしたりお酒や珈琲をのんでまた聴いて、お終いになるものだけれど、彼はずっと大音量で唱って、素人のぼくにもだいじょうぶなのだろうか、と不安にさせるほどだった。そんな当時の心持ちも思いだした。
 最後にアンコールがあって、きっとあったと思う、バスの独唱会に来る人はすごく好きな人か、なんらかの形での業界の関係者だろうから、しっかり拍手したはずだ。おそらくロシア民謡を歌ったのだろう。そうして花束贈呈。ひどく驚かされたのは、中年過ぎたやせた男性がひとりだけ、大きな花束を抱えて演台の下から差しだしたことだった。長い白い花だけの束を演劇的なまでにゆっくりと振り上げるように高く差し上げ、そうして端まで出てきたブルチュラーゼに手渡した。あの時、異様な印象は持たなかったから、会場の多くがありふれた光景としてみていたのだろう。バスには男性ファンの方が多いと、後で聞かされた。
 声、なんだろう、どんな現象なのだろう、どこで生まれ、どこに届こうとするのだろう、何のために、または誰のために。


菜園便り二〇〇
二〇〇八年九月三十一日
始まりと終わり、そしてまた始まり

古いフロッピーディスクで探してみると、菜園便りの一回目は二〇〇一年の六月二〇日だった。もっと以前からだと思っていた。母が亡くなって三年も後だ。母の死の直後から書いていたような気がしていたから、少し驚いた。
「菜園便り」のきっかけになったのは、セカンドプラネットのプロジェクトのひとつ、「お昼の一二時に何をしてましたか?」といったeメールでの問いだった。北九州美術館ビエンナーレでの一環。その問いにいくつか返信を書いたのが始まりだ。気負わずに書けて、とても楽しかった。今読み返すと、ずいぶん明るいし、文体も生き生きしていて、しかも若ぶっているふうもない。のむ機会が多かった頃だから、酔った勢いで書いていたからじゃないだろうか、と思ったりもする。
酔って書いたものは百パーセントだめだとはよく言われるけれど、ちょっとハイになっている時の小さな高揚や開かれ方は、捨てたものではないかもしれない。もちろん、「酔い加減」によるのだろうけれど。
とにかく、そうやって日常のことを、庭の菜園に託して書くことの喜びが始まった。当時はほとんど父がやっていた菜園も、半分ぼくがやるようになり、場所も変わり、今は父はトマトを時たま摘むくらいしかできなくなった。退院して一年、体力も気力も、もう元に戻ることはなく、ゆっくりと時を送っていくだけになった。いっしょにやっている頃は面積も広くびっしりと繁るほどで、新聞紙上の「我が家の料理」というページに、菜園の野菜を使った料理として紹介され、父とふたりの胡瓜や茄子に囲まれた写真が載った。
その菜園で、あまりいいできとは言えないまでも何種類もの夏野菜が今年も育ってどっっさりと食卓にのった。
「菜園便り」も今回で二〇〇回。一度全部きちんと縦書きの形で一回ずつまとめてみようと思いつつ実現していない。初めの頃は勢いに任せて長くなったり、感情の爆発があったりもしたけれど、一〇〇回を過ぎてからは一枚(一六〇〇字)以内のまとまったものを基本にするようになった。よくも悪くもおさまりがいいというか、終わりがあるもの、作品っぽいものになっている。仕事以外で書くものは、もうこれだけになってしまっていてそれもふがいないけれど、でも少なくともこれだけはあるということだろうか。自分でも気に入っているのはフィクションとして書いた「夏豆」で、それなりに書けたのだろうか、いくつかの返信があった。

きっかけになった返信と、「菜園便り」の最初の回を添付します。


  『 「セカンド・プラネットがお昼をお知らせします。
  北九州ビエンナーレ展で、メールネットワークを使ったプロジェクトを開始致します。
  このメールでテストを行いたいので、メッセージを返信してください。
  「今、あなたはどこにいますか?」
                           second planet 』
元気ですか?
メール受け取りました。
メッセージを返信して下さい、というのがどのことかよくわかりませんが、とりあえ
ず、「今、あなたはどこにいますか?」への返信だと考えて、答えます。
今、日本の福岡県の津屋崎町にある海のそばの自宅の、自室の机についているところ
です。ちなみにこの部屋から海が見えます。今日は日射しも強く暖かい一日で、海も
穏やかに、見える限り光を反射して輝いています。もう陽光は春です。

初めて、映画について書く仕事が来たので、ヴィデオをあれこれ見ているし、あまり
うまくいってなくて、ちょっと疲れていらいらしています。でも、映画について語れ
るのはうれしいことです。

「お昼をおしらせします」という時点での「どこにいますか?」だと返事は変わるは
ずでしょうが、実はぼくは同じです。12時の時点でも、この机について、あれこれ
書いたり削ったりしていました。ちなみに昼食はいつも2時半ころです。今日はも
らったまま忘れていて熟成しすぎたカマンベールチーズと胡瓜(これは熟成していま
せん、あたりまえですが)のサンドイッチと牛乳でした。あとポンカンを食べまし
た。今日はがまんしてコーヒーをのんでいません、胃の具合が悪いので。ちょっとつ
らい。

さてもう2本ヴィデオを見て最後の仕上げをします。うまくいってほしい!
セカンドプラネットもうまくいって下さい。楽しみにしています。

じゃあ、また。           2月20日


セカンド・プラネットが2001年2月23日のお昼をお知らせします。
-------------今、あなたが聞いている音は???---------

今日は珍しく仕事で外に出ていたので、12時は電車の中だった。西鉄宮地嶽線だか
らのんびり走っていたし、乗った時間から推し量って、新宮か三苫あたりじゃないだ
ろうか。いずれにしろ、聞こえていたのは電車のがたごという音が中心だったと思
う。あれこれ打ち合わせの準備のメモを取ったりしていて、やけに揺れるなと思った
から、ふだんよりその音は大きかった気もする。人もほとんど乗ってないし、3両編
成だったから、がらんとしていて、人の声もなかったように思う。遠くで汽笛が、とい
うほど牧歌的でもないし。でもふと見上げて正面を見ると運転席をとおして、緑に
覆われた切り通しが見えたり、さっと風景が広がったりすると、もう宮沢賢治も負けそ
うになるような、それくらいのとこもある。
この電車は、以前は福岡市の市内電車(路面電車)の延長というかんじで、同じよう
な車両が走っていて、もっとよかった。床も壁も木の内装で、木の日よけまであっ
た。今も江ノ電みたいで、松林や家々の間を抜けていくようで、とてもいい。津屋崎
からちょうど45分で貝塚に着く。本を読んだり、仕事の準備をしたりにちょうどい
い。終着駅だから、帰りは飲んで帰っても、心配はない。ただ最終が貝塚を11時1
2,3分(天神の地下鉄が11時4分)なのはちょっと早すぎる。と思う。貝塚駅
(昔は競輪場前といった。もちろん競輪場があったからだ。玉ノ井旅館のタコの絵の
広告があった)から地下鉄に乗り換えて天神まで12分。
静かで美しい町に住んでいて、1時間くらいでだいたい何でも揃う、映画もいろいろ
見れる博多まで行けるのはほんとにうれしい。
ちなみに昼食は久しぶりに川端うどんを食べにいった。いつもとちがってすぐにでて
きたのでちょっと胡散臭い気がしたが、隣の常連客にもすぐでたので、昼食時の手抜
きかもしれない。待つことがいやな人は多いし。そういえば、2分まつ因幡うどん
遅すぎると、30秒で出るミヤケうどんに走る人もいる。世の中はすごい。
余談がいっぱいだったけれど。

じゃあ、また。                2月23日


『セカンド・プラネットが2001年3月2日のお昼をお知らせします。
----------あなたのお昼の風景をお知らせください。---------』

ずっと以前、ベルイマンの映画に「ある結婚の情景」というのがあった。甘やかさと
いっさい無縁の、しかも身体的にも(演技的にも)ごつごつしたしんどい映画だっ
た。
昼の風景というと、お昼ご飯の風景だろうか、それもふくんだ穏やかであたたかい午
後の情景だろうか、いずれにしろ、そこには生活の単純な力や匂い、喜び、平凡な
くりかえしであることの退屈と安心とがあるのだろう。ありふれたでもかけがえの
ないもの、つまり人そのもの、人生そのもの。遠い子どもの声、開封されない手紙、
開いたままの本のページ、畳の上をするすると伸びる日射し、めっきり口数が減った
家族への不安。
そういう風景の中に自分もいると、なかなか思えない。特別疎外されているとか、貧
しいとか、苦しんでいるとかではないけれど、幸福とか満足とかの定義が自分のなか
で壊れてしまった以上、なにもかも幸せでも不幸せでもないということだろう。もち
ろんささやかな喜びや苦々しさは溢れるようにある。
昼食もそうだけれど午後はなんかうっすらと貧相だ。一人での手早い昼食。ひとりぶ
んの珈琲は豆を挽いていれてもどこかおいしさが薄い。香りが部屋を満たすことがな
いからかもしれない。仕事も、夕食のことなど考えてしまうから、そんなに集中でき
ないし、集金や勧誘がやってきたりもする。電話も鳴る。無限に続くように思われる
なにもなさ。
ふいに、昨年の秋のできごとが怒りと共に思い返され、どうしようもないほどドンと
戻ってきて、どうにかおさめようと手紙を書いたけれど、結局それは投函されること
はないだろうし、怒りや屈折や哀しみは、いっそう深まってしまう。ことばにするこ
と、具体的に書いたりしゃべったりすることで何かが整理されたり、解消されたりす
るというようなオプティミズムはないつもりだけれど、でもじゃあ、どうやってこう
いう自分のいらだちと折り合いをつけていけばいいのか、思いあぐねてしまう。
久しぶりに晴れたうららかな早春の午後、鬱々と日はめぐっていく。静かななにもな
い情景、透明で突き抜けしまう風景。           3月2日


-------あなた以外の誰かが見た風景 [fri, 2 march 2001]------』

風が吹き荒れ、雨が横殴り。でも風のなかにも、もう鋭さがない。雨も冷たさより、
柔らかさが先に感じれる。そんななかでの新鮮な風景。
人を憎むことは哀しい。でも憎むという激しい情熱のエネルギーが世界を豊に深くし
ている、そういうこともある。その不思議、おもしろさ。でも人を憎むことは寂し
い。人を憎むことは、自分を憎んでいることの裏返しでしかないから。どんなに不毛
に思えても、どんなに貧しく陳腐に思えても、「愛」ということばに、こめられるも
のを手に取りたい。そのことばの前にひれ伏すことさえいとわない、勇気と力をもち
たい。
お昼には、そんな過激で、しんとした、世界そのもののような、絶対値の深度がふい
に現れることもある。
喪われたことを喪われたものをして葬りさせよ。傲慢にでも卑屈にでもなく、今、そ
ういうことばを交わした、あなたとの間で。        3月3日

追伸 いろんなことは喪われる、ぼくも喪った、もっと喪った人もたくさんいた。そうしてそういう人ほど、黙ってほほえんでいた。

 

菜園便り二〇一
一〇月七日
パヴェーゼ久生十蘭

新聞に岩波の『パヴェーゼ全集』の案内広告が出ていた。ついに、というか、今さら、というか。長生きはするもんだね、と長屋の大家さんが縁側で眼鏡を上げつつ言いそうな気もする。
晶文社の全集が出始めたのはたしか70年代だった。最初の2、3冊が出て、「月とかがり火」や「丘の上の家」だったか、そうして刊行が滞るようになり、待ち人をやきもきさせて、結局、うやむやなままになってしまったんじゃないだろうか。それともずっと後に予定のぶんだけは出たのだろうか。
はっきりと覚えてないのは、ぼくはやきもきして待ったほうでなかったからだろう。パヴェーゼに夢中の友人がひとりいて、ゴールデン街で始めた酒場の名前も、彼の作品のなかの娘の名前にしていたほどだった。たしか、コンチア、だったと思う。そのお店ももうとっくにない。
戦後のイタリアを代表する作家だったのはたしかだけれど、大作家で有名で、というのではなかった。「青春文学」なんて切って捨てる人もいて、あまり丁寧な扱いは受けてなかった。ファシズムの時代で、自殺して、といったことが伝説をつくるより、煙たがられる方へ動いたのかもしれない。ぼくにとっては哀しみと焦燥感だけがくっきり浮き上がり、時代や地域がひどく限定的な印象が強かった。
そんなことをあれこれ思いだしていると、今度は、久生十蘭全集刊行の広告が新聞に載った。国書刊行会だ。思わず、ワーオ、と声がでる。そうして、うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん、と。うれしくなくはない、もちろん。でも買うかというと、たぶん買わないと思う(じっさい、すごく高い)。一時期は、何より好きな十蘭、だった。当時すでに出ていた三一書房の全集を買い、いくつかの小出版社、出帆社薔薇十字社とかからでていた単行本、「紀ノ上一族」とか「美国横断鉄道(?)」とかを集め、教養文庫になった作品集(5巻)をもとめ、予告だけで刊行されなかった戯曲集以外はかなり揃っていたのではないだろうか。もちろん「いろんな事情」から今は手元にはほとんど残ってない。ハワイの古本屋で見つけた「平賀源内捕物帖」や「だいこん」もない。
とにかく巧みで、物語の奔流に翻弄される恍惚と、でも底をずっと流れる諦念というかうっすらとした虚ろさに引きこまれたのだろう。乾いていて、おかしみもしっかり用意されていたけれど、全ては、基本的に悲劇、だったはずだ。チェーホフが自分の作品を喜劇と呼んだような意味で。
やはり巧緻な短編が好きだったけれど、長編のどうしようもなく全てが無駄に終わっていくような結末をよく覚えていたりもする。今はもう、きついというかつらすぎて読めないかもしれない。
橋本治の「桃尻娘」は久生の作品からとったタイトルだと知って(タイトルは思いだせないけれど、麻布のお屋敷が進駐軍に接収されて、広尾の雑ぱくな貸家に間借りしている時に、七輪をおこして・・・・という箇所からきていた)、複雑な気持ちになったりもしたけれど、でも、中井英夫以降、久生を語る人はいなかったから、うれしかったのはたしかだ(吉行淳之介が否定的な形で言及したことはある)。橋本は後に作品論も書いていて、そこには「奥の海」もあって、あの作品ををこんなふうに読む人もいるのかとびっくりさせられたりもした。ぼくも大好きな作品で、そのなかの、やさしさが人を傷つけることもある、そんな、単純な世の理すらわからなくなるほど世間から切れてしまっていた、といった箇所は、その理そのものへの感嘆と、そうなってしまうことへの哀切とがずっと残っていた。作品のなかでは、当然のように最後まで失敗は繰り返され、不運が重なり、あっけない、無意味な死で終わる。それはほとんど爽やかなほどで、だからとても、つらい。


菜園便り202
12月30日

 かろうじて大晦日前、ぎりぎりセーフの今年です。菜園便り201が10月だったから、もう2ヶ月以上になります。時が速い、というか、ぼくが遅いというか。
 たしかに玉乃井のこと(個展など)や父のことがあって慌ただしかったのは事実だけれど、でも分刻みで何かをしたり、締め切りに終われたりしていたわけでもない。借りてきたDVDを2度立て続けにみたりしてもいたから、そこそこの時間はあったし、机に向かってあれこれ、主には仕事をやる時間もそれなりにあったし、その流れで、いつものように誰かに向かって語るように書き始めればいいのだろうけれど。とにかく菜園のことだけでも最後に書いておかないと。後のことは、なんとかそれなりにでもできなくもないのではなかろうか、と、思う、希望的に。
 11月半ばに2月の寒さになり雪まで降って震えあがったけれど、また落ち着いて穏やかになり、日射しの強いあたたかな日が続きました。そうして柔らかな、まだ冷たくない雨が降った翌日、菜園にやっと空豆と絹ざや、グリンピースを蒔きました。十月からずっと気になっていたので、ひと安心しました。かなり遅すぎた気もするけれど(暖地でも11月末までにと、どの種の袋にも明記してある)、でもあたたかい日が続いたから、と期待しよう。他には蕪だけ。大根やラディッシュ、人参もほうれん草も今年は無し。少し前に苗で植えた、春菊、レタス、ネギ、パセリ、カツオ菜は順調(といっても2、3株だけだけれど)。
 空豆のかすかに青いあの得難い味だけでなく、春の藤色の花、初夏の収穫の喜びもなんとか味わいたいと願っています。蒔くのが遅かっただけでなく、種自体も花田種物店の一粒ずつ買ういいものでなかったから、発芽もよくて3分の2くらいかもしれない。芽が出てしまえば、強いし、この土地にあってるようだから、きっとどっさりと実をつけてくれるだろう。
 旅館の解体で離れと浴場がなくなり、1階の仏間廊下のガラス戸をとおして海が見渡せるようになった。ときどきふっと見入ってしまうくらい、ほんとに美しいと思う。解体はいろいろたいへんだったし、いまも修理は続いているけれど、こういう風景が生活のまにまに直に飛び込んでくるようになったことは、ただただうれしい。2年以上かかった屋根の緊急修理も終わった。しばらくはもう何もできないので、これで十年はもってもらわなくてはと、祈るような気持ちになります。
 雨も止んだ、さあ、出かけよう。
だれにも、あなたにも新しいあたたかな年を。


菜園便り203
2009年1月5日 

 去年最後にみた映画は(なんかいつもいつもこういうことばかりをいってる気がするけれど、でもまあ、そういうことが好きなんだからしょうがない)、大画面でみた、つまりシネマコンプレックスとかいうことだけれど、マーティン・スコセッシ監督の「ローリングストーンズShine the light(?)」。これは彼らのヒットソングのタイトルで、たしかビートルズの何かの曲名にひっかけてつくられたものだったと思う。久しぶりのスコセッシだし、ザ・バンドの解散コンサートを撮ったあの名作「ラストワルツ」を思いうかべて期待したけれど、正直あまりうまくいってなかった。スコセッシ本人が出てきて、そこは楽しかったけれど、なんというか、大会社のエグゼクティブ・プロデューサーみたいだった。悪印象はローリングストーンズの面々に度肝を抜かれたからかもしれない。60を超して異様に元気で、ちょっとすごい雰囲気だった。口では言えないけれど、ついゾンビということばが浮かんできてしまった。やばいやばい。
 そのひとつ前は、やはり大画面でのスティーブン・キング原作「1408」。大仰なこけおどしで驚かすタイプのもので、あまり心理的に怖いというのでなかったから、大半は忘れてしまった。「キャリー」とか「シャイニング」みたいにずっと語られるものにはならないだろう。「ペットセマタリー」のラストにちょっと似ていて、永遠に循環するともとれるところがあって、そこはやはり怖いというか惹きつけられるところだろうけれど、でもそれも深読みしての好意的すぎる解釈でしかないという気もする。
小さめのスクリーンでしみじみとみた映画は、なんだったろう?そもそも昨年、そういう映画があっただろうか?2月に図書館ホールのドキュメンタリー特集で佐藤真の「阿賀に生きる」をみて、2月にソラリアの再映でジャ・ジャンックーの「長江哀歌」をみたのがいちばんだった、というのは少し淋しい。どちらも去年の映画でも、去年封切られた映画でもなかった。
 今年はまだ映画館で1本もみていない。去年はたくさんDVDをもらったし、あまり家を空けられないので、年末年始にまとめてみ続けている。佐藤真ボックス(!)とか「小さなツグミがおりました」とか「トスカの接吻」、「草原の輝き」、「アメリカン・グラフィティ」、「中国の小さなお針子」などなど。
 この「中国の小さなお針子」は原作を読んでいたので気になってみたけれど、とにかく最近の中国辺境ものの定石通り極めつけに美しい、珍しい風景のなかで撮られている。たぶんフランス映画だと思うけれど、ちゃんと中国語だ。こういうのはあたりまえに思えるけれど、米国映画だと、平気で中国なまりの米語になっている、信じられないけれど。最後の部分が原作とちがっていて(たぶん。読んでから時間がたって正確には断言できないけれど)、舞台になった村が長江の山峡ダムに沈む設定になっていた。だから「長江哀歌」で繰りかえしみた風景も出てきたし、フランス香水の瓶や、印象深い思いでの場面が水の底に沈んだなかで二重写しになって終わった。過剰に美しくて感傷過多でちょっとやりきれない気もする。
 そんなふうにあれこれみていて、小津安二郎の「お茶漬けの味」もまたみた。佐分利信が弱気な夫を演じるちょっとコミカルな軽い映画だと思っていたし、こういう佐分利信はやめてほしい、なんていったりもしていたけれど、あらためてきちんとみて、というか、こういう年齢になってみて、やっぱりいろいろに考えさせられる。夫婦のすれ違いと諍いの後の明るい再出発、みたいなことではすまない映画になっている。画面がどこもがっちり構成されているから、軽みや滑稽感はなかなか浮き上がってこない。小津の笑いがしばしば上っ滑りしたりシニカルになるのはそういう理由もあるのだろう。小津が子供たちから引き出す笑いは天才的ですごいけれど。
 何度も、ひとりじっと座っている男や女たちが描かれる。映画内の明かりとして(街のネオンとか、部屋の明かりとか)照明が多様されていて、わざとらしいほど、光がある無いのメリハリがあり、池の水や窓ガラスの反映があったり、影のなかへ入っていく、明るさの方へ出てくるといった、象徴的とさえ思える画面も少なくない。
 この映画は1952年の制作で、「晩春」「麦秋」の後、53年の「東京物語」の前に撮られている。小津のあまりにも有名な不動の3部作の間に挟まってあまり顧みられることのない作品だけれど、不思議な甘い余韻も残していく。笠智衆三宅邦子も出ているけれど、鶴田浩二佐分利信の戦死した親友の弟として貧乏就職浪人(もしかして学生!?)ででていて、最初みたときは大げさにでなく驚倒してしまったけれど、でももちろん彼も初めからやくざの親分ではなかったのだ。

 

菜園便り204
1月26日

 今年は1月26日が旧正月だった。いつもよりずいぶんと早い気がする。そのせいもあったのか、すっかり忘れていたけれど、友人が「Chinese New Year's」に招待されたとメールをくれてわかった。慌てて昼食に雑煮をつくり、残っていた数の子干し柿するめでお祝いした。買い置きの大根、人参、鶏肉、それに冷凍してあった餅とカツオ菜、なんとかなるものだ。去年までは少なくとも黒豆をつくったりはしていたけれど、当日わかったんじゃできるわけもない。
 暦の上で、というときに、旧暦だとぴったりする。特に立春なんかは2月のはじめにいわれても、ぴんとこない。北海道と沖縄のちがいをもちだすまでもなく、関西や関東の基準とちがう所のほうが多いだろう。お向かいの庭にはもう梅が八分咲きになっている。手入れのいい枝振りもみごとな梅が、玄関を開けるたびに垣根越しにみえる。我が家の梅が咲かなくなってからでも、もう何年もたつ。
 12月にシルバーセンターに申し込んでいた、玄関周りの剪定もやっと先週すんだ。雨風のたびに一面に散っていた松の落ち葉も減った。寒くてもいろんなことは起こるし続く。菜園の小さな野菜もかじかみつつ生き延びて、ときおりの陽射しや雨を取り込んで少しずつ広がっている。木々の新芽も着実に伸び、椿ももうじきと思えるまでにつぼみもふくらんだ。梅が咲かなくなった今、蝋梅が低い背丈のままいくつも花をつけ、細工物のような花から、香りが立つ。
 珍しく雪まで積もったこの時期、寒さで萎縮するのは人も同じで、心も体もとんと動かなくなる。自分でも哀しくなるほどに何も頭に浮かんでこないし、回転してくれない。でも植物と同じようにもう春の、活動の準備は進んでいるようで、奇妙な情動の顫動がかすかに感じられる。木の芽時は今なんだと、また今年も思い至る。父の心身の動揺もそれと無縁ではないのだろう。トイレがまにあわないことや箸が自在に操れないこと、混濁しはじめ混乱している記憶や判断力に自分で苛立ち怒り、でも直視して認めることはがんとしてしようとしない。その意固地さもまた人の力なのだろうか。強さは弱さでしかないと、改めて思ってしまう。
 新年も迎えた、雪も消えた、さあまた出かけよう。
 


菜園便り205
3月13日

 庭の一角にカタバミが群生している。従来のに比べてかなり大きな黄色い花で、栽培種が野生化したものだろうとにらんでいる。美しいしつよい。どこに行っても群れていて、先日訪れた星野村でも群生していた。今や日本中を席巻したのだろう。我が家の庭も例外でなく、こうやって咲き乱れている。小ぶりの花が集まっているのは好きだからいいのだけれど、そこが菜園と重なっているとやっぱりまずいかなあと思ってしまう。それなりに元肥をおき、追肥もするから他よりは肥沃だろうし、掘り起こした土は軟らかくて空気も多く含んでいるだろう。とうぜん「雑草」にもいい環境だ。もうちょっと庭全体に広がっていればいいのだけれど、いかにもといった形で、つまり菜園の四角い形そのままに咲くのはやめてほしい、と思ったりもする。
 もちろんまめに抜いていけば問題ないのだけれど、ついついなおざりになってしまった結果を見せつけられるようだ。最後に草取りしたのは空豆を蒔いたときだから、去年の11月だ。ほんとにあっというまに冬が来て、もう終わろうとしている。カタバミも次世代を残すのにおおいそぎだったのだろう。しかたないか。
 そんななかに埋もれるようにしつつもでもしっかりと空豆とエンドウが芽を出して伸びている。ほんとにえらいなあと思う。親はなくても子は育つ、だ。もっと言えば親ぐらいあったって子は育つんだ、ともいえる。初夏のあの薄緑の美しさとほのかに青くさいおいしさがよみがえる。海岸のやせた土地て潮風も直接かかる悪条件のなか、空豆はいつもきっちりと育ってたくさんの豆を届けてくれる。あの臙脂や紫の花の色や形はいまいちだなあ、なんて思ってはいけない。
 あれだけ蒔いたのに時期が悪くてとうとう1本も収穫できなかったラディッシュや蕪を思いだそう。その反対に驚くほどうまくいったのがルッコラ。ちょうど寒くなる直前に芽が出たようで、しっかり茂って冬を越した。これが少し早すぎると冬前に大急ぎで花を咲かせて終わってしまうし、遅すぎると、寒くて芽を出すのを春まで待ってしまう。さすがに3月に入ると花茎を伸ばし花をつけ始めたけれど、まだまだ食べられるしおいしい。
空豆を夏豆と呼ぶと教わってから、もう4年はたつ。くっきりとしていてとても美しいことばだと、今も思う。


菜園便り206
3月28日
 「ハリーとトント」。ほんとに久しぶりだ。これで4度目だろうか。でもたいはんは忘れていた。たぶん2度は映画館でみたはずだ。最初に公開された時にみて、それからずいぶんとたって、友人に「ハリーとマウザーさんが似ている」と言われて、それでまたみたんじゃなかっただろうか。まだヴィデオは簡単に手に入らない頃で、どこかの名画座、たぶんパール座とか銀嶺ホールあたりでみた気がする。
 マウザーさんというのは当時いっしょに住んでいた人で、シカゴ生まれのドイツ系米国人で日本と米国の大学で教えていた。もちろん映画スターじゃないからハリーのようにはいかない。体重もずっと重いし、年齢も上だった。愛と好奇心に満ちていて率直で賢明、ではなく、思いこみが激しくて気むずかしいところもあった。でもちょっと離れたところから撮られた画面だとか、屈むシーンだとかははっとするほど似ていた。年をとると誰もが同じようなしぐさをするのだろうし、シルエットは重なってくるのだろうけれど。それになにより当時はまだ米国人的なおおらかさ、といったものが誰にも残っていた。
 もう少し暗くて辛辣な映画だった気がしていたけれど、あらためてみると、勁い明るい映画だった。年老いて頑固な父親、ハリーがニューヨークから猫といっしょに子供たちを訪ねながらカリフォルニアに向かい、そこに住むようになるというストーリー。もちろん途中でいろんなことがある。ニューヨークでは住んでいたアパートメントが強制立ち退きにあい反対して引っ越さない彼は警官に放り出される。いつも会っていた友人の死亡確認は滑稽で哀切だ。家族でなくてはだめだとか、細かいデータをチェックしようとする係官に「ただ友人を葬りたいだけなんだよ」と言うときは、つらくて涙がでる。映画のなかのハリーもさすがに壁にすがって泣く。身寄りのない友。過ぎていった時代。いつの間にか、あっという間に消えていく何もかもが。もちろんハリーは「いい人生だった」と断言する。そういう人だ。
 時代が時代だから-制作は74年-ヒッピーとかドラッグとか、コミューンとかいうことばがでてくる。そういったことばが今はどんなふうに響くのか、うまく想像もできない。教師だったハリーの、コミューンと聞いたときの最初の反応は、「ドラッグ、セックス、乱交」だった。この「乱交」はなじみのないことばだったから、聞き取れなかった。瞑想、自然、協力、なんてことばを思いうかべた人もいたかもしれない。コミューンということばは、もっと思想的というか政治的でもある、歴史的な重みを持った、自由と解放の究極の理想の形態と考えられた時もあった。それも遠い。
 マウザーさんももう10年以上前に亡くなった。第2の故郷だったデトロイトで死んで、火葬された。お骨の一部は運んできて、今もそばにある。アッシュと彼らは呼ぶけれど、そのとおりに粉にちかい灰色のかけらを蝋梅の根元に蒔いた。薔薇の根元に、と思っていたけれど、庭に薔薇はなかった。
 カリフォルニアでトントは死に、映画のなかのハリーは高校で時々教えつつ、たまに子供たちや孫に会ったりしながら、明るい街で暮らしている。自足を知りながらも時々どこか遠いところを眺めたりする。ハリーに痛みのないおだやかな死を、と思ったりする。