2016年-2919年
菜園便り327 
2016年10月4日

 お彼岸も過ぎ、月の光の冴え冴えとした冷たさも伝わってくる季節だというのに、日中は肌を焼く強烈な陽射し、長雨の湿気が一気に蒸発してのひどい湿度だ。この温気のなか、さすがに歌は生まれない、と思ったりもする。「歌」?
 小さな蚊が最後の使命とブンブン飛び交っている。二酸化炭素が目標になるらしくしゃにむに顔に向かってくるから五月蠅いし、そんなことをしたらたちまち叩きつぶされてしまうだろうにと老婆心も生まれる。そういう危険を学習する間もなく、生まれたらすぐに正面から飛びかかるように洗脳されているのだろうか、哀れだなあ、と思ったりもするけれど、煩わしさから反射的に手は動き、幼い蚊はもう潰えている。
 台風前夜でなんだかしんとしている。気圧の変化を感じるからだろうか、奇妙な夢ばかり見る。旧い公団アパートのようなビル、でもエレベーターはあるらしい。外に面したとても狭い通路、部屋のなかの床が濡れているのは、どこからかこの建物に水がなだれ込んできていて、それが少しずつその部屋にもきているかららしい。監禁されているのか、たてこもっているのか、どちらにしろ静かで冷たい。たくさんいた女性が全部消えているのは、先日みた映画の影響だろうか。戦いのなかであっけなく失われていく命。
 海側の庭にある銀杏はまだ緑色のまま、半分ほど変色した葉を散らしている。もうおおかたは散ってしまった、「金色の小さな鳥」になる前に。毎年のことだからこの夏の猛暑のせいでなく、木の樹精が弱いのだろう。海からの潮に曝され、枝を切りつめられ、肥料どころかかまってももらえず、さみしいのだ。その脇で松が1本枯れて倒れたけれど、新しく2本が生えてきた。摂理、だろう。そうやってこの庭が覆われていくのかもしれない。強いものが残っていくのだろうけれど、強さは、ということは弱さはということだけれど相対的なものだから、なにが残るのかはだれにもわからない。
 プランターの植物が潰えた責任ははっきりしている。肥料だとかなんだとかいう前に、水がなければ生きていけないのだから。人は外部からタンパク質を摂らないと存在し続けられないというけれど、タンパク質、つまりアミノ酸の大半を動物も体内でつくっていると、昨晩からのテレビが声高にいっている。
 そうなのだろうか。
 晩年の父の食事はタンパク質をかなり減らさなければいけなかったので、あれこれ調べていると、お米にもずいぶん含まれていることがわかって驚かされた。それで市販されていた、表面の蛋白の部分を大きく削って芯だけになった米にかえたのだけれど、つらくなるほどまずいものだった。ああいったものを目くじらたてて計量して食べさせる必要なんかなかったんだと、昨日の夢を反芻していてあらためて思わされた。今さらせんないことだけれど。

 

菜園便り328
11月1日

 先日、幼稚園横のなだらかな坂を日陰をぬってゆっくり歩いているとふいに強い香りにぶつかった。今年最初の金木犀、<初香>だ。晩秋、初冬の香りだという思いこみがあるから、こんな夏日の強い陽の下じゃなければもっとよかったとちょっと残念な気もした。一度気づくとその後は原付きで走っていてもはっとするときが何度もある。
 金木犀は昔はこんなにあちこちになかった気がする。マスメディアというかテレビドラマの影響だろうし、少し前の新築造園の流行りだったのかもしれない。我が家の庭にはない。子どもの頃は庭にぶら下がれるほど大きな銀木犀があったけれど、香りはなかった。実のなる木や香りの強い灌木は敬遠されていた時代なのだろう。
 母は最後まで、ハーブの香りは酔ったような気持ち悪さになると避けていたし、ジャスミンティーも含めてハーブティーを文字どおり遠ざけていた。たしかに体調のよくないときには香草の強い香りは避けたくなる。病気の時は頭や胃に響いて吐き気を誘う。生まれたときから周りにあって馴染んだものでないし、強い嗜好性がある香りや味だからだろうか。母は山椒の葉も使いたがらなかったから、伝統的なものでもだめだったのだろう。それに山椒が若竹煮に必ずのっているなんてことは、以前は普通の家庭ではなかったことだ。でもぬか漬けは古くなっても平気だったし、漬かりすぎた高菜もいろいろ工夫して食べていた。
 青臭くてかすかな甘みがある香りのハーブや野菜がだめだったのだろう。香水はもちろんつけてなくて、匂い袋の移り香を着物に染みこませていた。なんだか源氏物語のような大昔にきこえるけれど、そういうことが20年前にはふつうの生活として残っていた。

 

菜園便り329
12月5日

 真っ白でモコモコした雲が浮いていることもあってか今日の空はやけに青く見える。頂きはさすがに日本海的に少し濁っているけれど、全体はちょっと突き抜けた感じさえある。それもあってか低く続く遠い山の連なりはくっきりと緑に縁取られて、近景の冬枯れの田んぼともわかたっている。空と山と田が一度に目に入ってくるから、遠近がなりたたずに奇妙な空間感が生まれる。不思議な浮遊感。
 田は冬枯れといっても、8月に刈られた稲からのひこばえが短いながら濃い黄色の穂をつけてたれているし、植えられたカリフラワーも濃い緑の苗をのばしている。やっぱり暖地の初冬の光景だ。
 海もおだやかで空を映して澄んだ水色。表面は強い陽射しに輝いて銀色に光り、戻ってきた鴎をあちこちに浮かべている。
 落ち葉は樫も山桃も終わって、今は松葉が毎日どっさり散ってくる、種も小さな1枚プロペラをつけて落ちてくる。透きとおるように薄い、光によっては桃色にも見える羽根。
 さみしくひっそりとした庭にも、プランターの野菜はまだ元気でいる。レタス、イタリアンパセリ、セロリ、エンダイブは今も葉を広げて食卓へとその香りを届けてくる。どうにかあたたかいうちに発芽に間にあったルッコラもわずかずつだけれど伸びている。間引きした柔らかい葉のかすかなナッツの味は今朝のサラダで楽しんだ。空豆も順調に芽を出し、来年の初夏の喜びを予感させる。
 静かにでも確実に時は移っていき、季節は巡る。今まで厭でもくり返しやってくるものだとばかり思っていたけれど、もうそういう時期は終わった。同級生の訃報も届く。   

 

菜園便り330 12月25日

 鵲(カササギ)が庭に来た、初めてのことかもしれない。
仕事机から海の方を見ていたら、庭をゆっくり横切っていった。白い部分と黒い部分がくっきりとわかたっていて美しい。常につがいでいるはずだからと目をこらすけれどもう一羽は見えない。もしかしてどこかに営巣するつもりだろうかと、そんな期待も生まれれたりする。
 いつ見てもハッとさせられる。わりに大型だし、その色合いのコントラストの鮮やかさもあるし、「天然記念物」の希少種といった思い入れも加わっているだろうし、古くから歌にも詠まれていることへの憧憬といったものもあるかもしれない。「鵲の渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける」、少々間違っているかもしれないけれどすらすら書ける。優美だ、といつも思う。
 でも声はひどい。「かちがらす」という別名がすんなりくるような、ああいった鴉声系だ。白鷺ほどではないけれど、優美な姿とおそろしいまでの悪声との落差にもそのつど驚かされる。大げさにいうと気がふさぐ。韓国には掃いて捨てるほどいますよ、といわれたりすると、ちょっとむっとしつつも、そうだねこの国では少ないというだけなんだね、とも思う。ブリューゲルの絵にもでてきたような気がする、たしか不吉な鳥だった。
 庭は今は目白とジョウビタキ、時々鵯(ヒヨドリ)も混じる。雉鳩(キジバト)や雀もおなじみだ。鴉や鳩はぼくに嫌われているのを知ってか、目につくときには来ない。近所の猫もしょっちゅう来るなかでこれだけのラインアップはうれしい。椋鳥(ムクドリ)、鶺鴒(セキレイ)、百舌(モズ)なども来ているのだろうけれど、住人からシカトとされている。なぜだろう。
 鶫ももっと寒くなると頻繁に来るだろう、赤い実を食べる、まるで童謡そのままだ。鳶はすぐそばの電柱が止まり木になっている、鴎は道路際の岸壁に等間隔でずらっと並ぶ。
 さみしいけれど部屋のなかまで入ってくるのはいない。昔住んでた集合住宅ではベランダに餌を置いていたから鳥が集まり、雉鳩は部屋に入ってくるようにもなった。最初に見つけたときのマウザーさんの喜びようは、まるで50年代のアメリカンホームドラマそのものだった。ああ、ほんとにこういうしぐさや表情をするんだ、米国人なんだなあ、と、雉鳩に感動しつつそう思ったことを覚えている。ベランダに面したりリビングのなかをひょこひょこといった感じでのんびり歩いて出ていった。それからは硝子戸を開けていると時々入ってくるようになった。けして粗相しなかったから、部屋のなかに水や餌も置いたりして愛していたけれど、さすがにそれだと水が飛び散ってカーペットが染みになったので、水は外だけになった。
 ベランダの斜め下に有栖川公園という大きな公園があったので鳥も多かったのだろう。冬を越して生き延びるようになったインコたちがその派手な色合いで群れて飛ぶのを見たときもほんとに驚いた、なんでもあるんだなあと。
 公園は3千坪もあり高低もあって水も流れ鬱蒼としていたけれど、女子高校生相手の露出おじさんがでるくらいで怖い事件などもなかったから、夜も散歩できた。珍しく雪の積もった夜おそく、南部坂を登って帰ってくると、公園横の公衆電話ボックスの電話が鳴っていた。しんとしたなか妙にドキドキしてしまって、取ろうか取るまいかと本気で悩んだりもした。あの時雪のなかで受話器を取っていたら、人生がまるっきりかわっていたかもしれない、そういうことはペーパーバックの探偵小説のなかだけだとはいえない。
 公園には捨てられた鶏が池の中島の木に止まって生き延びていた、木の上までのちょとした距離を飛んでいた。必要に迫られると、鶏だって飛ぶ、亀も空を飛ぶ

 

菜園便り331
2017年1月14日

 先日、ある集まりで話す機会があって、「<風景>としてみえてくるもの 美しさや抒情を巡って」というタイトルで1時間半ほどしゃべった。女性だけ50人ほど。これは外から与えられた機会で、仕事といえば仕事といえるのかもしれない。テーマも先方からの提案で、そこに今の自分の関心事を流し込んでいくといったふうだった。以前は人前にでるのは厭だったし、対面してしゃべるのは苦痛だったけれど、この仕事を頂いて一昨年に初めてやったときにはずいぶんちがって感じた。テーマが小津安二郎と彼の映画だったこともあってか、喋るのが楽しかったし、あれもこれも語りたいみたいな気持になって、自分でもびっくりした。
 今の時代の慌ただしさに巻き込まれ引きずられて終わらないよう、時としてしっかり目をつむって外界を遠ざけ、自分のなかに目を向けることもたいせつではないだろうか、また、現在世界に流通していて自分のなかにもできあがっている価値観は相対的なものでしかないと、たえずとらえ返すことがだいじだろうということを前提に置いて進めた。
 外界、対象から受ける刺激が、自分のなかのなにかを撃ち、膨らんで美しさとして抒情としてたちあがり詩を生み残っていく、そういうささやかなものをだいじにしたいといったようなことを話していく、具体的な例として自分のことをひき、子どもの頃教科書でであって今も残っている短歌、詩、散文、音楽や映像などの断片を資料としてプリントしたもので紹介しながら。
 釈超空の「葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」から始まり、宮内卿「思うことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ」等の古典もいれ、啄木にちょっと触れて(いまだに苦手な人だ)、後は現代。いつもどこかで気にかかっている石川不二子の「ただ淡くとりとめもなき曇り日に何処ゆきても木犀匂ふ」、「茴香のみどりの如く柔きもの忘れてながき月日過ぎゐし」、そして寺山修司「すでに亡き父への葉書1枚もち冬田を超えて来し郵便夫」、そこから郷里ということに広がって「故郷の訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」も。岡井隆、春日井健をその場で名前だけは挙げ、塚本邦雄は口頭で「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋わば人あやむるこころ」「カクメイカサクシカニヨリカカラレテスコシヅツエキカシテユクピアノ(革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ)」をあげたけれど、文字でならもう少し伝わるものだったろう。
 一時期は難解の代名詞みたいにいわれていた現代詩からも、荒川洋治のあの「キルギス錐情」の「方法の午後 ひとは、視えるものを視ることはできない」や「キルギスの平原に立つひとよ/君のありかは美しくとも/再び ひとよ/単に/君の死は高低だ」といった友人に教えられた詩句を、ただただ格好いいすごいと感嘆させられ惹きつけられたと話して。他には三橋聡の「木の肖像」の冒頭「木のなかでめざめる木 その単純な家系/港で溺死している船 その水浸しの生涯」を。準備しているときパッと浮かんだものを中心に集めたのだけれど、「時代は感受性に運命をもたらす」(堀川正美)や「きみの物語はおわった」「あなたひとりが死んだって/譬えばなしにもなりはしない」(富岡多恵子)はすぐに浮かんでこなかったのだろうか。
 散文、主には小説からは、風景に引きつけやすい川端康成黒島伝治、どさくさに紛れて自分の作品(「道北にて」)、文体を真似たりもした小川国夫の「エリコへ下る道」など。少し長く引用したのは村上春樹の「めくらやなぎと、眠る女」の「目を閉じると、風の匂いがした。果実のようなふくらみを持った五月の風だ。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子の粒だちがあった。果肉が空中で砕けると、種子は柔らかな散弾となって、ぼくの裸の腕にのめりこんだ。微かな痛みだけがあとに残った。」と「わたしたちは氷砂糖をほしいくらゐもたないでも・・」で始まる宮澤賢治の「注文の多い料理店・序」。
 会場のほとんどの人が知っているだろう唱歌として「故郷」を聴き、歌詞を追いながらその内容が自分たちの世代にはまだリアルなものとしてあったことや、田園を遠く離れてふり返っての詠嘆であり、家族や友といった必要なことが少ないことばで過不足なく描かれていることにもふれる。引用の最後は歌謡曲で、その正統的な嫡子である桑田佳祐の「真夏の果実」の「砂に書いた名前消して 波はどこへ帰るのか」。その感傷や甘さや普遍性、つけ加え得られたほんのわずかだけれど大切な新しい視点をあげながら。      
 こういったことばをあげながら、今も自分のなかに巻き起こされるものが小さくないことに驚かされたし、当時の子どもらしい賞賛や具体性を伴った憧れ、淡い諦めなどもくっきりと甦ってくる。
 人はほんとに様々な思いもかけないことを経験しながら、でもいつのまにか最初の場で、ありふれたことばの重みを量りかねて呆然と佇んでいるのだろう。手のなかにあるのはなんだろう。世界への認識としての諦めみたいなものだったこともあるけれど、そういう幼いロマンティシズムも消えて今はただ静かな無があるだけだ、と小津なら言うだろうか。そうして「無」なんて気恥ずかしいしなんだかわざとらしいと思ってしまえば、もう表現などということは意味をなくしてしまうのだろうか。
 ながびいた話の最後は小津安二郎の「晩春」から抜きだしてきた風景を短くまとめたものを流した。エンディングシーンもはいっていたから、寄せる波の光景の後「終」マークで終わった。


菜園便り332
2017年1月16日

 硬いまっすぐな陽射し、空はくっきりと青く、塊になった雲がエッジを白金に輝かせて浮かんでいる。空は高価な顔料を惜しみなく掃いたような薄い水色、これほどの色彩はもうこの世のものではないのかもしれない。山並みはこの季節にも緑濃く、鮮やかに空とわかたっている。点在する褐色は立ち枯れ屹立する大木だろうか、百年をかけて枝を広げ、今、百年をかけてゆっくりと傾いていこうとし、頂きから順次茶褐色へと変わっていき灰色になり崩れるように倒れ潰えていくのだろうか。
 この寒さのなか道ばたにはもうオオイヌノフグリの鮮やかな青と白のカップが散らばっている。その周りにはいつも目にする仏の座の薄い臙脂色の花があるし、先日高山君が教えてくれたミゾソバの白い花もある。薄汚れて貧相に見えるのはもうずっと咲いたままのぺんぺん草の白い花。
 不意打ちのように空が翳り降りだした冷たい雨に打たれながら、これが霙になり雪にかわるのかと悲壮観に拳を握るけれど、黒雲は低く薄くかかっているだけだから、じきにまた陽が射すのだろうと身をかがめて歩く。そういえば落ち穂拾いはこうやって地面を見ながら腰を低くし、卑屈なほど周りの目を気にしながらのことになるのだろうかと、そんなことも思ってしまう。膝を折ってなにかを哀願することもついになかったとあらためて思ったりもする。夏の稲刈りの後放置された切り株から伸びたひこばえの稲が穂をつけ実り、そのまま枯れて風にふかれ雨にうたれているのが視界にはいっているからだろう。
 家まで戻ってくると、空を映して灰色にくすんだ海も沖では陽光を反射して輝き、深みの緑色と混ざりあったやさしい青さをみせている。庭を半分以上覆っている茅は枯れて微かに揺れているけれど、彼らに追われる低い草々は緑を保って健気に肩を張り境界を死守しようとしている。ラベンダーはとっくに植木鉢からはみだして地面に深く根を張り香りを放っている、山椒も小さな葉をびっしりとつけて一気に伸びる機会をうかがっている。冬の初めまで伸び続けたパセリやセロリは縮こまりつつも青さを保ち、レタスとルッコラは陽射しやあたたかさをしっかりと拾い集め身にまといわずかずつでもと葉を広げている。なんというか、すごい。

 

 

菜園便り???
2月22日

 時間が早く流れる、週から週へまたたくまに移っている、え、このテレビ番組は2、3日前にみたはずではと信じかねたりもする。日々は週で区切られているから、その間にポツンポツンと置かれる記憶の標識は、先日のおはなし会のような自分も関わる行事だったり、テレビの番組だったり、思いがけない懐かしい人の訪れだったり・・・はないか・・・、ふいの強い雨での雨漏りだったりと、特別なことのないありふれた日々のささやかなできごとだ。1週間がほとんどなにもないままに過ぎるのもよくあることで、だからすがりつく記憶の飛び石もないまま気がつけばすでに週末、カレーを仕込みカフェの準備にあたふたしているともう翌週のとりとめのない時間のなかにいる。今週は土曜も日曜もお客さんがあって、カレーもお菓子も楽しんでくれたのではなかったろうか、丁寧に挨拶しあれこれことばも交わしたのではなかったろうか・・・不思議なほど全ては平板でそそくさと過ぎていき、小さな記憶のよりどころさえおぼつかない。
 正直にいうと、65を過ぎて生きているとは思っていなかった。若い時は、「30過ぎた自分なんて想像もできない」なんて誰もが口にはしていても、なんの現実味もないただのことばでしかなかった。そうやって、とうとう超えがたかった40の急峻を超えてしまうと、後はもうなるようにしかならないとわかって、そうやってどうにか生きてきたのだろう。
 年金の手続きなどでも、65以上のことなど生活設計も含めてまったく頭に浮かばなかったし、そういうふうになるものだと信じ込んでいた、しぜんな流れでうまくなるようになるだろうと。それが今や66だ、びっくりしてしまう。こんなことだといつのまにか70になるのだろうか、まったく生きていくというのは怖いことだ、なにが起きるかわかりゃあしない。

 

菜園便り333
2月18日

 一度開きかけながら戻った寒さでしっかり閉じたせいか、沈丁花がなかなか咲きださなかったけれど、このあたたかさでゆっくり開き始めた。もう二部咲きほどになって、辺りに微かな香りをただよわせている。お客さん用にと切り花にして応接室に置くとゆっくりと部屋いっぱいに香りが広がっていく。ちょうどカレーの仕込みもやっていたから台所からの強い匂いに玄関の廊下のあたりでぶつかってたちまちに呑みこまれていく。香辛料の匂いはすごい。カレーは何もかもを覆い尽くしてしまい珈琲の香りさえもとんでしまう。玉乃井でもできるだけ距離を取って分けておくようにしているけれど、皿によそっているだけで世界は制覇されてしまう。
 朝は体もまだまっさらなままなのかいろんな香りが鼻をついてくる。朝起き抜けの竈の薪の匂い、そこに屈んで朝の一服を楽しむ父の煙草の香り、というのはとうに消えたことだけれど、東向きでしっかり日が射しこむ板場(炊事場)は朝をしっかり保っている。泊まったお客さんが、美術系の人が多いからか、ここをすごく気にいってしきりに写真を撮ったりしている。荒れてひどい状態で窓もよごれたままだけれど、広い硝子から射し込む低い陽光は床の砂粒さえ際だたせ、全てにくっきりと陰影をつけ、全体をオレンジがかったバラ色に染める、大げさにいうと、というかトーマス・マンふうに言うと、だけど。
 そんな光のなかで朝の最初のお湯を沸かす、やかんは水道水だから微かにカルキの臭いがしたりもするけれどそういうことも気づかないふりで沸かせば、じきに湿り気のあるあたたかなお湯の匂いがただよってくる。
 すすいだ急須に緑茶をいれ湯冷ましからのお湯を注いでしばらく待つと鼻に届くほどの茶の香りもたつ。ゆっくりと仏壇用の湯のみと、その朝の人数分の湯のみに注ぎ分けながら香りだけを味わってから急いでお供えする。蝋燭をつけ線香を立て鈴をならし、いつものように感謝とこの建物への加護を祈念する。毎朝のルーティーンでしかないのだけれど、そのつどことばにすると気持もあらたまる。この祈ることばはだれにどんなふうに届いているのだろうと、仏壇周りのいくつもの写真に目をやったりもする。両親、家族、中村さん、鴨居には祖父母、もちろん仏壇のなかには重なりあって戒名が並んでいる。ことばを交わしたこともない曾祖父母、さらに遡る人たち。
 生々しいほどの交歓、または澄みきった了解、祈念とはそういうものだろうか。その線香の香りはしばらくは仏間にこもり家いっぱいに広がって、思いがけない場所でまた出会ったりぶつかったりもする。どこか香料的な甘さが含まれているのは今の時代のものだからだろう。
 そうして朝食。あたためた牛乳や焼いたパンの香り、割られた林檎、厚い皮の柑橘類、そういったものがまき起こす匂いが充満し味覚や食欲が前面に押しだされでて、他にはなにも感じられなくなる。だから口のなかでだけふいに鋭く香りがたちあがったりもする。焦げすぎたトーストの表面、少し早すぎたみかんのきつい酸味、やけに気になる牛乳の獣臭さ、今朝はオリーブオイルをいれすぎて、野菜はなにもかも油まみれだ。
 どこからか流れ込んでくる焼けた油の臭いは近所の食卓の目玉焼きかもしれない、焼きすぎて白身は縁が黒くカリカリになり、黄身も厚ぼったい白い皮膜に覆われすっかりかたくなってご主人を小さく嘆息させているかもしれない、ことばにはださないだろうけれど。
 その頃には外ではもう車の行き交う音が響き、みんなは急ぎ足になり、鼻腔をよぎる微かな香りや味蕾をかすめる味わいに気を止めるゆとりは捨てられ吹き飛び、生きるための生活の糧を求めて誰もが世界に飛び込んでいく。
 香りはひとまず台所の高い棚の上、庭の隅のひっそりした暗がりに取り残される。忘れられたわけでない、また次の朝に取りだされだいじそうに手のひらに乗せられ吟味され、生きる喜びとしてふくらみ輝く。そのまた次の日も。


菜園便り335

 ときおり古典に思いをはせたりすることは誰にもあることだろうけれど、なかなかひもといてみるところまではいかない。今年の新年の講演に、古典も含めあれこれ短歌を取りこんだ流れで、図書館から新古今集を借りだしてきたけれど、あまりの作品数の多さにぱたんと閉じたままになってしまった。藤原定家や式士内親王のをいくつか確認しただけでもよしとするか、なんてことになってしまう。そんなことに自分でもあきれたのか、新刊紹介の棚にあった古事記に関する本を手に取ってみた。著者名には馴染みがなかったけれど、なかみはとてもおもしろくて、その繋がりで同じ著者の「口語訳 古事記」にたどり着いた。
 おそらく去年読んだ長谷川宏の「日本精神史」のことも気になっていたのだろう。そこにも万葉集古事記から始まる流れがあり、宗教や思想だけでなく詩(長歌、短歌)や仏教彫刻、絵画といったものの美意識の繋がりも取りこまれていた。人柄を思わせるとても好感のもてる平易な語り口だし、上手にまとめられていてすらすら読んでいけるのだけれど、例えば仏像などは、高度な技術的成熟で洗練の極みにあり高い精神性を表しているというような表現がくり返されるのは気になってしまった。この著者の世代に顕著な、根源まで、徹底して問い返すラディカルさは「美術」のまえで影を潜めているようにも思える。
 同時代者に顕著だった、歯に衣着せぬ攻撃や罵倒としか思えない対応からすると牧歌的にさえみえるような穏やかさで、それはエッセイなどに顕著な著者の一面、時代や「業界」の流れからも自由な面が見えてほっとさせられるものだった。「精神性」ということばそれ自体の検証や「美」や「美術」そのものへの終わりのない問い、語ると同時に問うている構造がないままに、決定的ともいえる評価の軸を据えてしまうことの危うさを感じつつ、でもそういうことばでしかうまく語れないものも、文章の向こうに見える。観念の袋小路に迷い込まずに、抽象的な空回りでない、全体を動的なまま丸ごと捉えたいという、かなわない願いでもあるのだろう。
 古事記に記されている名前の連なりそれ自体が詩だと思ったりもする。オオヤマトタラシヒコクニオシヒト、ハタノヤシロノスクネ、ソガノイシカワノスクネ、ヘグリノツクノスクネ、カヅラキノナガエノソツビコ、サホノオクラヒトメなんて名前がずらずらとでてくる。最初は面くらう。それぞれのことばにはもちろん意味があって、地名や出自、性別、父親の名、姉弟のなかでの順位などなどを表してはいる。でもひとつひとつ声にだすような感じで読んでいると音の響きや連なりが歌のようにも祝詞のようにも聞こえてくる。
 子どもの頃、教科書で知ったものもでてくる。
やくも立つ いづもやへがき
妻ごみに やへがきつくる
そのやへがきを
 そういう歌の前で立ち止まる。授業の記憶だけではないもの、喚起させられるものがたしかにある。 
 なにもできなくてただ遠い山並みに手を振る、そういう詩をふいに思いだす。

 

菜園便り336
5月19日

 遅れに遅れた夏野菜の植えつけを、といってもほとんどトマトの苗だけだけれど、5月も半ばを過ぎてやっていると、鉢の土のなかなから玉虫がでてきた。輝きのある部分だけの、甲冑の形そのままの抜け殻といった姿だった。背の側は突端の頭の部分をのぞいた胸と、腹を覆う羽根の全体が暗緑の深い翡翠色と微かに紅の混じる柿茶色のストライプで彩られ金色に輝いている。腹側は胸の部分の甲冑状の部分だけが1本の足と共に残っている。足も暗緑色で輝きがある。
 腹はすっかりなくなっているので、硬い羽根の内側に腹の外皮だけが中身をくりぬいたようにきれいに半分だけ残り、暗くくすんでいるのがみえる。金属的な輝きがないから、この部分はもうじき腐食が進んでぼろぼろと壊れて消えていくのかもしれない。
 それにしても土のなかに埋もれていっそう腐敗が進んだろうに、こんな形できちんと残っていることに驚かされる。玉虫厨子などのレプリカは見ていたけれど、特別な処理をせずともこの甲虫の外殻は長く残っていくもののようだ。蝉の抜け殻も乾燥させてさえおけばずっと同じ状態を保っている。こういった薄いもの壊れそうなものがと、不思議や驚きにうたれる。
 玉虫は子どもの頃はこの辺にもたくさんいたからよく採っていた。それは日常的でおもしろみがない蝉ほどではないけれど、カミキリムシと同じくらいの、ちょっと好奇心をそそられる珍しい色や輝きといったていどだった。蝶のようにうっとりとみつめ、緊張して震える指で展翅して長くとどめておくほどの気持にはなれなかった。甲虫類は防腐処理がめんどくさかったし、捕らえている箱のなかが臭くなるのも厭だったのだろう。
 今は蝶の大型で鱗粉に覆われた、優雅というよりデコラティブな派手さをどこかで忌避する気持もある。甲虫の硬質感や輝きや金属的ゆえの脆さみたいなものに惹かれるのかもしれない。カブトムシなどの大型の甲虫の持つ厚ぼったさや威圧的でどこか鈍重な感じも、今は厭になっている。あまりにもありふれていて、光にすぐに集まってきてうるさいだけだった黄金虫は、あの銀緑色の輝きに惹きつけられるようになった。こういう嗜好も時代の変化や流れなのか、長く生きてあれこれ見てきた結果なのだろうか。
 他に夏野菜で植えたのは紫蘇とバジルだけ。胡瓜もゴーヤも茄子もオクラもない。今も伸びているルッコラやレタスを加えても、今年の夏野菜はさみしいかぎりだ。

 

菜園便り337 6月6日
鳥の骸、雀の死

 裏玄関の横にある、雨水をためる水瓶のなかに雀が浮かんでいた。濡れて黒ずんで縞模様もはっきりとはわからない。下を向いていたので顔は見ないですんだ。水をのみに来て落ちたのかとも思ったけれど、いくらなんでも飛ぶ鳥がそんな滑稽な失敗は犯さないだろうから、屋根か庇に死んで横たわっていたのが強かった雨で流され樋を伝ってきたのだろう。小さな死。
 荒れ放題の庭だし、毎日猫もくるけれど、訪れる鳥の数は少なくない。敬遠している鴉や鳩は別にして、いろんな小さな鳥がやってきて楽しませてくれる。ルリビタキや鵯が死んでいたのはこの季節だったかと記憶をたどっていて、あれらの骸を庭の隅に埋めたことを思いだした。それで、ちょっと気味悪く感じていた水に浮かぶ小鳥も、おだやかに見つめ、取りだして埋める気持になれた。
 古代エジプトの墓に花が飾ってあったことがメディアに大きく取りあげられたことも思いだしたので、盛りあがった土の上に庭の花を3つほど置いた。「人類」の形成と共に先ず死を、つまり死骸を遠ざけること、そして埋葬すること、その後に悼むことがでてくる、とその記事にはあった気がする。なにを悼むのだろうか。消えた生、だろうか。死そのものを哀れに思うのだろうか。なくなったこと、つまり喪失を悲しむのだろうか。
 季節毎にきちんと木々は葉を散らす。落葉樹は秋の終わり、常緑樹は晩春に大量の葉を散らし新しい芽吹きに備え、次の世代へと託していく。動物にも死の季節はあるのだろうか。種の保存の為の、産卵、出産という生の再生産の後に死ぬことは多い。鮭は産卵とともに力尽きて川を流されていく、カマキリは産卵のための蛋白源として食べられる、といわれる。いつ死ぬのか、どこで死ぬのか、そいう問いは神話的なまでの物語をうみ、象の墓場を巡るおとぎ話も少なくなかった。
 雀を埋葬して悼んだあと、あれこれをすませて買い物にでると、すでに青々と30センチほどにも伸びた稲が続く田んぼの端、幾棟もの家が新しく建った角に雀の死骸が横たわっていた。もう数日は経っているようで、半分ひからびていた。なんだかうっかり間違った時期に死んでしまってほうっておかれている、そんな気配さえある。雀の死の季節なのだろうかと、たったふたつの骸でそう思ったりもする。
 梅雨ももうすぐだ。


菜園便り338 
8月8日

 季節の移りかわりをよく伝えてくるのは風だけれど、植物、特に稲はぐいと突きつけるほどにも存在を主張して時が動いていくのを押しつけてくる。水田は見渡すほどに広がって視覚を占領しているし、ぼくらくらいの世代までは、お米は貴重な民族の主食、という思いもあるからなのだろう。あれこれ思うことも少なくないし、そういう水田や畑の広がる場では、なにかしら敬虔な気持ちにもなったりする。厳しい労働、という思いも世代的に抜きがたくある。
 そばを通るたびに驚かされるのは、その変化が早い、つまり成長の勢いがすごいということだ。2寸にも満たないような小さくひょろりとした、色もうす黄緑色の華奢な苗が箱詰めされ小型のトラクターに斜めに差し込まれてカチャンカチャンと植えられていくさまはなんだか滑稽でもある。おいおいだいじょうぶか、なんて声をかけてしまいそうになる。極早稲種なのだろう4月半ばにはもう田植えが終わっている。そうしてまたたくまに伸びて濃い緑の堅くたくましい茎となり、穂をつけ小さな白い花を一瞬だけ開いて受粉し一気に実りへと向かっていく。
 昔のままの種の田植えは6月も後半だったりするから植えられたばかりのほっそりとした苗の隣に猛々しいまでの、開花した穂が茂っていたりする。そんな不思議な光景も今ではありきたりのものになった。なにもかもがかわっていく。生の根幹を支えるのだろう食の生産もその現場もたちまちに移っていく。いろいろなものをその場の効率や損得だけでないがしろにし切り捨ててなにが残るのだろう。食べること、つまり生体の代謝を行わない個体という単純な細胞という生の形を再び選ぶのだろうか。
 散歩の途中でつらつらと思うそういうことを書きかけて、でも一昨年にも全く同じことを書いていたんじゃなかったろうかと、そのままパソコンの納戸の棚に放置され・・・書きかけの菜園便りはそういうものが多い。
 だから田植えのもっと前の、冬の作物が終わった時のこと、つまり二毛作で植えられていた麦の収穫のこともメモが残っていたりする。このあたりで菜種の栽培をみることはもう完全になくなった。麦もごく一部でだけ続けられている。農政のことや農協のことなどの生々しい「経済」はあずかり知らぬことだからみえないままに通り過ぎるとしても、たった4、50年での激変のつけはいつどのような形で襲ってくるのだろうかと怖くなる。
 稲は4月に田植えの極早稲が主流になっているから、5、6月の麦秋、収穫をのんびり待つ麦の栽培はごく少数派になっている。すでに青々と育った稲の横で、乾いた音を立てて風に揺れている麦の黄金色は強いコントラストを描く。
収穫用のトラクターは稲作のと違ってなんだか甲虫を、それもぎくしゃくした不器用な動きしかできない甲虫を思わせる。ちょっと滑稽な奇妙なかわいさもある、いびつ小形装甲車みたいでもある。黄金色の麦畑の、そういう甲虫みたいなトラクターということになればいやでも「風の谷のナウシカ」が浮かんだりもする。
 ぎくしゃくとでもかなりのスピードで強引に狭い畑を走り回るトラクターは中途半端な長さで麦を刈り取り、取り込み、でも実だけを選別収穫し、道路に止まっているトラックにクレーンのようなパイプを通して流し込んでいく。切り刻まれた茎や葉は畑にまき散らされていく。紛れ込んだ長いままの穂をぶるんぶるんと振り払ったりもする、まるで犬が水を振り払うような仕草で。道に吹き飛ばされてきたそういう穂を何本か拾う。
 かつての、根本から刈られ一握りほどの束にされて整然と並んで横たえられていた稲穂が思いおこされる。なめらかな一連の動作、どこにもある稲わらを使ってくるくるっと巻いて折り込むだけ、それでもうしっかり縛られている。後の作業を楽にし、材料も同じものだから処理も簡単、なんという創意、長い時間のなかで培われた文化、そうしてそういったものが瞬く間に姿を消していく。そもそもの田んぼ自体が売り払われ宅地になっていく。長い時間のなかで一握りでも多い収穫を、強い米をと改良されて培われてきた土壌の構造が、土そのものが圃場整備やトラクターの使用で徐々に劣化していく。もうもとには戻れんなあ、と誰もが口にしているのだろう。「落ち穂拾い」という映画がまた思いだされる、膝を折って落ち穂拾いをさせてくれと乞おうにも、もう作物が、場そのものが消えてしまっているのだ。


菜園だより339
8月31日

 日が短くなり季節が移ってゆく。昼間の渦巻いているような熱気の底に、かすかなひんやりとした塊が感じられる。もうじきそこから静かに風が吹き始めるのだろう。
 植物も動物も寒さへの準備を始めている。
 生き延びるのはたいへんなことだとあらためて思わせられる
 羽が短く、細くて小さな蚊がぶんぶん飛び回る、真正面から一直線に顔に飛びかかってくるからすばしこいのに一瞬で払われてしまう。最も二酸化炭素の濃度が高い方にと闇雲に向かっているのだろうか。羽音も高音で耳障りだからたちまち警戒され、身構えられてしまう。とにかく吸血、産卵、次世代を残す、という植え込まれたプログラムで焦っているのだろう。日照時間も暑さも獲物もたっぷりとあってのんびりしていた先行世代から、静かに足下から人を襲う、といった技術を受け取る間もなかったのかもしれない。それとも「大人」を鬱陶しく思って、貴重な忠告を聞き捨ててきたのだろうか。嫌でも季節の、時間のつけが回ってくる。大きな水源ではもう孵化するまでに水温が上がらなくなってきた、草のなかの小さな水たまりに産卵してがんばるしかない。でも熱がこもりすぎると蒸発してしまって元も子もなくなる、悩ましい。
 あちらもこちらもどこにでも張られる蜘蛛の巣、それも季節を告げる。今までは一度か二度破られるとそこは避けて張っていたのが、なりふり構わず張り続ける。通り道だからその度に払うしかない。それでも張っている。人が通る道筋はそれなりに開けているから、虫たちもより多く飛び交うのだろう。蚊よりはずっと長い命を持つ彼らも、次世代のこと、短くなる日射しのこと、気温のこと、越冬のことを考えているのだろう。ここは大きなぼろ屋だから様々な隠れる隅っこはあるけれど、九州とはいえ、冬はつらいだろう。
 蟻もどこにでも現れて人を驚かす。思いもかけない、たとえば食べ物などかけらもないパソコンまわりにも出没したりする。今年はいったいに蟻を見かけることが少なかった。何匹もが台所のテーブルの上を右往左往している、なんてことはなかった。強い雨で巣が水浸しになり、流されのかもしれない。あまりにも古くなり動きのなくなった家は魅力がないのかもしれない。それとも強い外来種に押されてテリトリーを失いつつあるのだろうか。世界はいずれカラスとカモメの最終決戦になるいわれてるけれど、どちらが勝っても小さな生き物には関係のないことだろう。
 水田ではもう稲刈りが終わっていた。しばらくぶりに歩いていて最初は気づかなかった。刈り取られた後の株から生えたひこばえがもう20センチほども伸びて青々と一面に広がっているから、なんだか妙な気はしつつも、すでに刈り取られているのがわからなかった。極早稲種は、稲穂はそれなりに黄色くなるけれど、茎や葉は最後までかなり緑の色を残しているから、素人には収穫時期だと気づけなかったのだろう。おまけに隣りあった田んぼにはかつてと同じ種が植えられていて、そこはやっと開花した青い稲穂が揺れているから、まだまだどこも稲が青々と広がっているように見えてしまったのだろう。
 庭のテイカカヅラが咲き始めた。短く切ってコップにさすと盛り上がり溢れこぼれるような形におさまって美しい。名前の「テイカ」は定家、つまり藤原定家からきているのだろうか。先日の前崎さんの話にもでてきた名前なので、ついそう思ったりもする。東アジア原産らしいから、定家の小倉山荘のまわりに静かに咲いていたこともありえなくはない。まさか「定価」ではないだろうし、「低花」だろうか。
 海も沖の方は深い群青色を見せている。時々しんとする空がある。

 

菜園便り340
11月7日

 夕暮れになり陽が落ちていくとたちまちひんやりとした空気に足首を捕まれてちょっと立ちすくんでしまう。空も澄み海も濃く、季節が確実に移っていくのがみえる。これからなにもかもが冷たさに覆われていくのかと思うと、荒れた庭に生い茂って枯れ始めた茅にさえ親しみがわく。乾いて色をかえたものは軽くそうしてあたたかく見える。ずっと昔、青函連絡船で北海道に渡ったとき、そこから急に雪に覆われ凍りついた地面が始まったように感じられ、直前の青森が雪もあり寒いけれどなんだか乾いて湿っていない地表として意識されたことを思いだしたりした。
 この季節、樫が毎日どっさりと青い葉を散らし、もう茶色に色づいた堅いどんぐりを落とす。松もつやつやと光る黄色い葉をまき散らし、プロペラのついたはかなげなベージュ色の種を風に乗せている。玄関前にも勝手口横の海へ抜ける路地にも落ち葉が吹きたまる。
 毎年同じことを書いているようだけれど、季節をとてもリアルに感じるいちばんのできごとだからだろう。寒いといっても九州の冬だから、そこかしこに常緑樹の緑が溢れていて、枯れるもの散っていくものが際だつのかもしれない。
 雪も積もらない庭の芝生はどこかに緑色の反映を残したまま冬を越しいつの間にかまたもと青々とした広がりに戻っていくのだろうし、その芝に置かれたプランターのレタスやパセリは冬の間も少しずつでも葉を伸ばし続ける。ラベンダーも生い茂って香りを放ちつつまた春を迎えるだろう。
 庭を占拠しつつある茅に唯一拮抗しながら陣地を死守しているマツバギクは、地表を這うようなその厚い葉肉の広がりのそこかしこに濃いピンクの花をつけている。冬の間もずっと続いて応接間のカフェのテーブルを飾ってくれるだろう。陽の当たる側では石蕗が鮮やかな黄色の花を開き、その側には白いミゾソバが連なっている。春にいただいた鉢植えのオリーブも少しくすんだ銀色の葉裏をみせている。
 冷たさは痛い、寒さは恐い、心も体もちぢこまりこわばって動けなくなる、自由をうしなう。

 

菜園便り341
11月22日

 数年ぶりに玄関脇の庭木の枝落としをやってもらった。シルバー人材センターというところにやってもらったのだけれど、以前依頼した時に、「剪定はできません、あくまで枝落としです」といわれて、そういうものかと納得していたので、今回は最初から枝落としお願いしますと頼んだ。伸びすぎて電線にも触れそうになっている枝々を落としてもらいたいと見積もりにみえた人に頼む。注文が多くて忙しいらしく、申し込みからふた月ほどたった先週、6人の大所帯でみえた。切る人、片づける人、トラックに積み込む人と、てきぱきあっという間に2時間たらずで終わった。12尺と呼ばれている高い脚立も使われていて、みているだけでも怖くなる。「枝落とし」でなく「枝払い」ということばを使う人もあった。切り落とした枝はもちろん廃棄してくれる。
 始める前に、玄関わきに小さな恵比須様を祀った祠があるのをみて、周りの木々を刈るので、さわりがあるといけないのでオシオイをお願いしますといわれ、酒や塩を振ったり供えたりしたけれど、彼らとしては玄関わきに下げてある御潮斎(オシオイ)をぱっと振りたいだけのことだったのかもしれない。御潮斎のことはすっかり失念していた。父がいるときは毎年箱崎宮の浜まで御潮斎を取りに行って玄関わきの竹で編んタボに入れて下げ、出かけるときには必ず自分に振りかけていた。そういうちょっとした厄払いの祈りももう大方の人がやらなくなって久しい。
 たまたま県の文化財調査の時期に重なったので、少しは見栄えよくしようと荒れた庭の茅の草刈りもやった。物置にしまいっぱなしの草刈り機も引っ張り出しての作業。玉乃井保存プロジェクトの面々も手伝いに来てくれた。思いきってもう一歩踏み込む、もっと深く切り込むといった意気込みで進め、枯草や落とした枝の山がいくつもできた。庭はちょっと寒々しいほどまで刈りこまれ、見違えるようだ。
 やったことのある人はわかるけれど、ちょっと枝落とししただけでも驚くほどの枝の山ができ、「ええこんなんに!」ということになる。それと同じことでもあるけれど「こんなに山ができたのに、どの木の枝が切られたの?庭のどこがすっきりしたの?」ということにもなる。そうして後片づけでそれらを市の指定場所に捨てに行かなくてはならず、それにはトラックが必要で、とうぜん手伝ってくれ人が必要で・・・悩ましいことばかりだ。ちょっと草を刈る、枝を落とすということも簡単にはすまない。父のころはそこらに放置して枯れたころを見計らって庭で盛大に燃していたけれど。
 7年前に亡くなられた中村さんが玉乃井に下宿されている頃は草刈りやちょっとした修理をやってくれた。農家の出身だから鎌は使い慣れてあったし、当時の仕事柄地面を扱うのにも慣れてあっていろんなことをやってもらった。海側の板塀は山本さんが作ってくれたけれど、しっかりした基礎は中村さんが工事して設えてくれた。
 それもこれも遠いことだ。

 

菜園便り342
11月25日

 黄昏時はなにもかもがシンとして美しい。
 大きな椅子に埋まるようにして座っていた図書館のカフェもいつのまにかどこか遠い果てに流されている。大きな窓の向こうには芝生をはさんで広い駐車場がみえる。建物のファサードハザードランプを点滅している灰色のセダンは、永遠になにかを待ち続けて蹲っているかのようだ。真正面からヘッドライトを一瞬投じて方向をかえ、ゆっくりとカーブしながら現れたのは深い群青色の旧いフォルクスワーゲン。名残惜しげにテールランプを光らせて出ていき濃くなった夕闇にたちまちとけこんでその姿を消していく。通りには車の姿もなく歩く人もひとりとして見えない。誰もが遠くへと去ったのだ。
 桜の季節の図書館のロビーはいつのまにか次元がずれてしまう。天井までの大きなガラス窓がゆったりとスクリーンのように湾曲しているから、その向こうの桜の重なりが窓いっぱいに溢れる。開口部が多いつくりだから、どこからも桜と空がのぞいてロビー全体が浮かんでいるようだ。ちょっとした高所恐怖で足もすくんでしまう。
 空に浮かび桜色に包まれる恍惚。
 どこにも黄昏時があり逢魔ヶ辻があるように、ふいに建物も人も浮遊し、どこかへ流されてそうして消えていく。  

 

菜園だより343
2018年2月1日

 障子張りは家事のひとつだけれど、どこか季節の行事めいていて、作業じたいもなにかしら儀式的な仕草にも思えたりする。どこでも年の暮れにやるのがいちばん多いのだろう。我が家では、新しい紙をとおした白い光のなかで新年をということがなくなってからは、必要に迫られてという、散文的な事情での張替えになってしまった。でもどこかに少し特別な気持ちも残っていて、なにかがあらたまる、そういう思いにもなる。
 いつも思うけれど、ふたりでやるとすごくやりやすいだろう。誰れかが向こうで紙を押さえてくれれば一回でぴっと障子面に乗せられ、すっきり張れる、と。ないものねだりであれこれいってもしょうがない、とにかくやらなくては、年末に一気に紙をはいで洗うまでいったのにそのあと止まったまで1月も過ぎようとしている、こんなことでは冬も終わってしまう。
 気持ちに余裕もなにもないせいで、今回も音楽はなかった。頭のなかで勝手に鳴っていたのはプラターズの「煙が目にしみる」で、これは出典もわかっていて、「さざなみ」のシャーロット・ランプリングだ。でもほんとに耳に響いていたのはは「Only you」のほうだった(こういう屈折だか抑圧だかはいつだって奇妙で滑稽だけれど)。同じプラターズの、すごくシンプルで直接的なフレーズ、子供にもわかりやすい英語だったから、昔からずっと頭に貼りついて離れない、ほとんど歌謡曲だ、でも嫌じゃない。誰れのなかにも一度はあふれ、惜しげもなく解き放たれ投げられ注がれたことばだろう。
 ばたばたと2枚を午前中にはって、糊がきれて買いだしの後、午後に2枚。やり始めるとあっという間だけれど、取りかかってからはひと月以上。今までになくひどい仕上がりだけれど、それもまた味だと思って、やり直そうなんて無謀な気持ちは抑え込む。ビリー・ホリデイモーツァルトを聴きながらやったらもう少しうまくいっただろうか。
 誰れかが、家事とか地域の「誰かがやらなくてはならないこと」をやってくれている。そういった人がいるから日常は保たれ、美しさや秩序(制度ではなく)が再び生みだされ、生活や世界が混とんのなかに落ち込んでしまうのをぎりぎりで防いでくれている。そういうことにも思いを馳せる。自分にはとうていできないことだけれど、せめてはそうい人たへの尊敬と感謝だけは持ち続けたいと念じる。日常のなかで、あるいは突然の大凶事の前でたちまちに失われてしまいそうになることだけれど。


菜園だより344
2月12日

 廊下の温度計が零下2度を指している。家のなかが零下、あまりのことに、他の寒暖計も見てまわると応接室のがちょうど零度、台所のが2度だった。温度計がいくつもあることもなんだかおかしいけれど、それぞれがバラバラなのも滑稽だ。でもそれほど気にならない。デジタルな数字でないからというわけでもない。家のなかあちこちに置いている時計もけっこうバラバラな時間をさしている。一度はどれも同じ時刻、つまり実時間より5分早めた時刻に設定したのだけれど、時の流れは静かにでも確実にそれぞれの時計事情を映しだし、かすかに遅れ大幅に進みとさまざまだ。


 そんなことを書き始めたら大寒波、指も心も、ついでに庭の水がめも凍って固まってしまった。
 底冷えの日は続いているけれど、なにがなんでも洗濯をしなくてはと曇り日に決死の思いで始めると雪、かなり舞っているから外には干せないなあと庭を眺めていると、そんななか爽やかに空をきって飛ぶ鳥もいる。鋭い鳴き声から鵯と知れたけれど、冬はどこもこの騒がしい鳥ばかりだ。あきれてヤックヤックバードと名づけた人もいたけれど、どう綴るのかも聞かないままに終わった。人懐こくてかわいかったあのオレンジのジョウビタキはもう春の故郷へ帰ってしまったのだろうか。
 返却が大幅に遅れている本を抱えて図書館への道、小さな川に沿って歩いていると鮮やかなコバルト色、なんとカワセミだ。水面すれすれにスッと抜けていく。慌てて追いかけると、少し先の護岸に止まっている、近づくとまたスッと先へと飛び去る。まるで誘かれているようだ、なんて思う。今度は対岸に止まってじっとこっちを見て動かない。正面から見つめると、体の大きさの割に頭が大きいし、そしてなによりくちばしが長すぎる、なんて思ってしまう。色もサファイアにもたとえられるあのまばゆいほどの輝きはなく全体にくすんで見える。彼らも冬はつらいのだろうか。飛んでいるときのあの惜しげもなく放たれる豪奢はない。あの澄みきった空色の光だけでつくられて乱反射する輝きはない。キッチュなまでの蛍光色系の、どこか鱗粉を思わせるギラリとした光、はみえない。
 河口も近く海水が上がってくるあたりだから餌も多いのか、いろんな鳥がいる。どこにもいるセキレイ、雀、もちろん鵯もいる、そうしてなんとカササギも来ていた。お決まりどうりすぐそばに対のもう一羽がいる。川沿いのみごとにつくられたイギリス風の庭にはジョウビタキがいた。
 レモンが実り、まだ茎葉だけの猛々しいバードインパラダイスもある。極楽鳥花とよぶのだろうか、いかにも、熱帯の鳥を模した熱帯の花といった姿と色だ。でもヒクイドリという名前がふいに立ちあがってきたのはなぜだろう、初めて見た時らしいがっかりした思いまでよみがえってくる。でもその瞬間だけの記憶しかないから、いつのことかも自分でもよくはわからないけれど。
 いく羽もの鳥を見てなんだかあたたかい気持ちになって図書館で本を返し、お茶をのんでまた帰ってくると、薄暗くなりかけた川のなかを白鷺が一羽ゆっくりと歩いていた。


菜園便り345
3月20日

 久しぶりの奥泉光、しかも久しぶりの純粋推理小説、「雪の階」。とってもおもしろい。厚い本だけれどずんずん進んで、たちまちにページが減っていくのが残念だった。得意とする戦中もので、まあ思わせぶりに引きつけてはぐいぐい引っ張っていく、あれよあれよというまに読者は昭和11年の雪の東京まで行きついてしまう、さあ、何が起こるのか、起こったのか、謎は謎をよんで・・・堂上華族の娘を中心に陸軍の将校や近衛兵、有象無象の政治家、国士、財界人、葛藤、滑稽、渾沌、諧謔、諦念・・・。
 一方ではひどく平板な日常の細部の穏やかさも描かれる、平凡がいちばん輝いているのだ、凡庸こそが力だと。あっけらかんとした健康さ、ほどほどの幸せ、生きることの喜びと苦しさもひろげられている。
 どうなろうと(どうなったかは歴史の今にいる読者は知っているのだけれど)、そこにはいつもふてぶてしいまでに傲岸な父も、虚弱で気鬱の息子も、怠惰で美しい娘も、勤勉で辛辣な伯母もいるし、やさしく支えてくれる叔父も必ずいる、神話そのままに。母は、でもここには現れない。娘がすでにして母なのかもしれない・・・かなあ・・・。
 創られる虚構のあまりのみごとさに、これからどうなるんだろうと、「歴史」小説にもかかわらずあらぬ期待も起こる。どこかでこれこそがほんとは起こったことなんだとも思う、というか、これも起こったことなんだと思う。描かれる事件、「実際に」起こったことよりもその産みだされた時代の空気に取り込まれ呑みこまれていく、あってほしかった、あるべき世界。
 そうだろうか。
 時間軸の揺れ、行きつ戻りつが全くないのは残念だ。ふいに現在と過去が暗がりでスルリとつながって、かつてのまたは逆に今の誰かが闇の向こうに見え隠れするといった、奥泉作品定番の時間ループが起こらない。ああ、あの時自分が見た不思議な影は今のこの自分だったのだと、驚愕しながらもどこか既読の事実としてわかっていたと感じる、あの不思議ででも安穏に包まれていくような設定がなかったのは少し淋しかったけれど、でもそれでも十分にミステリアスというか猟奇的というか不安ゾクゾクわくわくの世界が展開されていて、いつのまにか終わっていたことにも気づかずにぼんやりと夕暮れの中にたたずんでいる自分をどこかの自分が見ていて、夕焼けに染まる影はここでありそうしてそこでもあるのだと自身で説得しながらも、でもそうではないのだろうと確信しているのもまた自分である。


菜園便り346 2018年3月31日
「受けいれる勁さ」①

 「受けいれる勁さ」というものがあることを、映画「亀も空を飛ぶ」でまるで初めてのように知らされた。その時はどういうことなのかよくわからなかったし、なんと呼んでいいのかもわからなかった。今までも、いろんな人がいろんなことばで呼んできたのだろう。<でくのぼう>と名づけた人もいる、ホロコーストを受けいれよう、と呼びかける人もいる。
 そのときは映画のことをこんな風に書いている。
亀も空を飛ぶ - 深みへと届く力」
 どことは名ざせない自分の内の深みを、静かにでも思いがけないほど強く強くうつ映画だ。子供たちをとおして世界が描かれるから、いろんなことが痛いほど剥きだしになる。・・・
 戦争や悲惨といった素材やエピソードによってではなく、表現の地鳴りのようなものでみている者を大きな力で揺するから、そこにことばでない共振が生まれる。・・・
 映画のなかで悲劇的な結末を迎える少女の底なしの絶望を前に誰もがことばを失うしかない。けれども不思議なことに、こんなにも深い絶望と共に、それを受け止める力も映画はそっと差し出していて、わたくしたちは知らないままにそれを受けとっている。終わった後に、勁さや明るさの印象さえ持つのはそういう力ゆえだろう。世界はこんなにもでたらめで酷たらしいけれど、そこにはわずかであれ喜びも美しさもある、その両方で成り立っている以上、今は両方を取るしかないんだと穏やかに諭すかのように。
 亀も空を飛ぶ、わたくしたちも冷たい水をくぐっていく。希望とか未来とかいう期限切れのことばでなく、まだ見えぬ知らぬ、でも誰もが持っている新鮮であたたかなものに支えられて。世界は生きるに値するんだよとなにかがそっと囁く。
                       映画評(「文さんの映画をみた日」より)
 ここでは「受け止める力」ということばを使っている。「誰かがやらなくてはならない仕事があるとき、じゃあ誰かがやるだろうと思う人と、じゃあやりましょうと始める人といる」と書いた人もいる。ぼくはそういうあり方に驚き、まるでそういうことを初めて知ったように感じて畏敬の念を持ったのかもしれない。
 「受けいれる」ということばは受け身的な表現に聞こえるけれど、もっと無意識的で生きる姿勢そのもののことだろう。例えば地域での溝掃除といった、やらないと溝が溢れて生活ができなくなってしまうというようなときに、すでにしてやり始めているような人のことだ。論理的に考えた結果や、奉仕の精神でやらねばならないからやるのでなく、いつの間にか自然にそういうことを始めている人、そのありかた。まわりからは特別な尊敬もうけず、時にはいいように使われて、でもそういうことすらも気にすることなくまた次の「誰かがやらなければならない仕事」を手に取っている、体がそんなふうに動いている。つまり今でなく先を感じている、自然にそういう方を向いている、前を、そういう人。
 ぼく自身が権利意識の強い世代に属しているから、そういことがいっそう新鮮に映ったのだろう。若いころは「地獄への道は善意でうずめられている」が金科玉条だった。貧しいヒロイズムとその裏の世界や人へのもたれかかるまでの依存と期待があった。
 霊長目ヒト科ヒトはどうしようもない種だ。膨れあがる欲望を押さえられず、争いは絶えない。自分たちがそういう存在だと感じて危機感を持った者たちが道徳や倫理を思い宗教をつくり掟や法や制度を築きながら、でも一方では善き「受けいれる人」を待ち望み、それでかろうじて社会は維持されてきたのだろうか。制度は回り道でしかない。
 「うけいれる勁さ」は生来のものだろうけれど、でも家族や近隣に丁寧にかかわり、日常をこそだいじにし、家事を継続してきちんとこなしていくことで少しずつ培われるものかもしれない。家事は地域での溝掃除と同じで、誰かがいつもやらないと家のなかが混乱し住めなくなってしまう。外での、<都市>の仕事に力を使い果たすのではなく、生きることに生活にきちんと向きあって、慈しむことをめざしていくことだろう。

 

暑中お見舞い!
気がつけばもう一部地域ではお盆も終わっていますが、暑さはこれから本番です。玉乃井も台風や豪雨の修理はこれから、心身ともにアツイ日が続きそうです。
みなさんも無理のないように、しのぎしのぎこの夏を過ごしてください。
プランターだけの菜園にもトマトは実り、ひとりの食卓に毎日彩りと喜びを届けてくれます。なにかに、おおいなるものにではなく、ささやかなでもたいせつなものに感謝をささげたくなります。単純でそうして限りなく深いものの前に、ひざを折り頭をたれて。


菜園便り347

  なぜ考えるのだろう、なぜことばにして語ったり書いたりするのだろう。
 「受けいれる勁さ」とでもよぶしかないことを、最初で最後の一回限りの「玉乃井塾」で松井さんと語ろうとしてみたけれど、なかなかに難しい。世界には論理化したり整合的に語ったりできないことが当然のようにあるのだと、あらためて思わせられる。松井さんとは水平塾からの長いつきあいで、「9月の会」という研鑽会も松井さんが続けてくれていて、もう60回ほどになるし、関心の傾向も似ているけれど、それでも難しいということは、もう不可能だということかもしれない。
 例えば生死といったこと。脳死などの判断に顕著な、どこからが死なのかという境界の曖昧さへの疑問から、そもそも生きているとはどんな状態なのか、生命とはなんなのか、そうして人の生死そのものを問い返しても答えはない。その都度の、時代ごとの仮の定義があるだけだ。
 個体識別を含めた「自・他」の認識への疑問も同じだろう。どこからが他者なのか、そもそも自分とはなんなのか。もちろん答えはないし、そういう問い自体が過剰に「概念」に傾いた今の時代の異様な思考の型なのだろう、とも思う。
 「雌雄という性別」も生物学的で絶対的に思えるけれど、それらも現在流通している認識かのなかで同時的に組み立てらえた考え方でしかない。そういう枠組みの世界のなかにいる以上、そうとしか思えないだけであるという発想は、ものごとを相対化し、差別などへの対抗にもなりうるけれど、そういう「根源的」に考えようとする発想そのものが、特定の時代のなかのひとつの極端な整合化でもあるのだろう。
 直感的にとでもいうしかない感受で、そういった「現実」への強い異和を持ちつつも、でも先ず、「現状」を「事実」を冷静に受け止めることが先決なのだろうけど、一気に発想を突き詰めて<生の常識>からも大きく逸脱してしまうのは、結局、世界がこんなふうになってしまっていることの要因と同根の、同じ発想の裏表でしかないのだろう。「批評」は近代の業病でしかない。
 でもそういう極端さ、つまり根源主義みたいなことにどうしても惹きつけられてしまうのはなぜだろう。60年代世代(シクスティーズ)、団塊世代全共闘世代などと呼ばれた世代はラディカリズムを標榜し、それは当時は、議会主義への反発としての<暴力的>という発想が強かったのが、少し冷静な場では<徹底的>、つまり根源的という意味にとらえられ、だから考えるということも徹底する、現在の思考の前提や枠組みも完全に取っ払うという極端さ、不可能さへ突き進んでしまう。この時代では考え得ないことを、思考のなかで現在の枠組みを乗り越えられると過信してしまう。例えばセクシュアリティのことを考えるとき、どうしても立ちはだかる最大の壁が「性別」であり、そこからすべての問題が発している以上、そこまで捉え返し、取り払ってしまうといったこと。もちろん考えの方向は正しいし、試みとしては必要なことだけれど、でも一気に極端へと傾いてしまう。
 なにかに囚われてしまうのは、時代や場所を限定した狭い考えでしかないからだ、といった、たとえ正解であっても無意味にしかなりえない発想で、現在を全否定しようとするような「徹底性」には、おそらくたどりつける場はない。そういう超観念的なものこそが、束縛されない、自由で根源的で徹底した思考だと思いこむことも、この世代に過剰な権利意識の故なのかもしれない。その厄介な権利意識もまた、根源的な「平等でなくてはいけない」という人への慈しみの現れでもあるから、いっそう絡まりあってしまうのだろう。


菜園便り348

 先日、友人から絵画作品を落札したというメールが届いた。うーーーんまあまあだね、といった抑えたニュアンスだったからいっそうその喜びや興奮が伝わってくる。ぼく自身はオークションで手に入れたことはないけれど、好きな作家のいい作品を手に入れることができた時の喜びはよくわかる。見つけた時の興奮がもしかしたらいちばん大きいのかもしれない。
 気にいった作品を手に入れたい間近でみたい、そんな夢が高じて「空想美術館」なんてことを語る人もいる。あの名作とこの傑作と、それとこれを集めまとめて、そうしてそれだけを展示して親しい人に紹介する、またはひっそりと自分だけで鑑賞する、そんなことを。
 そういう豪華主義はないけれど、昔、主には1970、80年代に購入した作品をその後手放したものも含めて、全部まとめて飾ってみたい、時には興味のある人とあれこれ語ってみたい、そういう気持ちにはなったりする。そういう時は、グラス片手に話すのは、作品や表現としてのあれこれでなく、いつどこでどんなふうに出あったか、そうしてどんな苦労をして手に入れたか・・・・などなど虚実交えての話になるのだろう。
 当時は貧しいサラリーマンだったから買うのは版画が多かった。そもそも画廊に行くようになったのは無料で個展が見れるからだった。だから今思うと噴飯ものだけれど、画廊が絵の商いをやっているところだとも気づかなかった。ちょっと信じがたいけれど「ただで見れてラッキー」でしかなかった。そのうち、有元利夫の版画作品集を欲しいと思って、当時から有元の画廊だった弥生画廊に行ったら、その画集はあのギャラリーにあるだろうと教えてもらって、そこに行くと、それはもうないけれど別の有本の版画がある、ということでそれを買うことになり、それが購入の最初になった。
 画廊が商品を売り買いしているところだとわかってきて、残念ながら見る目がかわったのは事実だ、しょうがない。欲しいと思うときはすごくシビアになる。もちろん値段は気になるし作品もただ「好き」とはいってられなくて、「客観的な評価」を考えたりしてしまう。とても好きになるものは、一瞬で好きになるというのが多いから迷わないけれど、わりと好き・・・どうしようか・・・といったときが困る。そういう時に限って画廊や人はあれこれいって惑わせるし、押しつけてくる、見栄、みたいなこともでてくる、やれやれだ。でもぼくが行っていたところは有名高額作家的なものを扱う画廊じゃないから、値段も含めフランクでのんびりしていた。お茶をいただきながらあれこれしゃべって、分割にした作品の代金を1万くらい払って、そのうち自分の手元に来るだろう作品をながめたりしていた。
 今も残っているのはそう多くはない。お決まりどうり生活に困って少しずつ手放してきた。そういう作品のことを、死んだ子の年を数えるみたいに思い続けたり、後悔が膨れあがって夜寝れなくなる・・・なんてことは幸いにもなかった、それほどの大傑作は当然だけれどお金がなくて手に入れられなかった。貧しさが助けになることもある。


菜園便り349 2018年9月7日
フルニエと海辺のカフカ

 十年以上、毎日毎日聴いていたモーツァルトクラリネット協奏曲』をいつのまにか聴かなくなっていた。そのことに気づくのにもずいぶん時間がかかった。こんなに毎日聴いていて嫌にならないんだろうかなんて思いながら、毎朝毎朝、新鮮な気持ちで口ずさんだりしながら聴いていた。聴いてないことに気がついたときはびっくりしたけれど、いろんなことがおっくうになってしまった時だったから、ああそんなもんかと納得したような、諦めたような。不思議なのはまた聴き始めなかったことだ。飽きたとか嫌になったとかいうことはまったくなかったのに。
 それから特に決まって朝に聴く曲というのはなくなった。プレイヤーに入ったままのをそのままスイッチを入れて聴く、といったことになっている。よく入っているのはバッハ『無伴奏チェロ』で、これは去年の古本市の後にもらったもの。「フルニエですが」といわれて渡された。フルニエですが、知ってますか?フルニエですが、いいですか?そういったニュアンスだったのだろうか。無伴奏はこの演奏家、と決めている人は少なくない。「『海辺のカフカ』を読んだ人はみんなフルニエを知っています」と答えたような、答えなかったような。とにかくその時そう思ったから記憶に残ったのだろう。あの小説のなか、喫茶店でかかっている曲、「ハイドンの協奏曲、1番。ピエール・フルニエのチェロです」としてでてくる。
 『海辺のカフカ』のなかで、音楽を聴いて、また音楽の喜びや力を語る店主の話を聞いて、青年が(星野くんだ)、後にCDを買ってじっくり聴く展開になるのは『ピアノ・トリオ(大公トリオ)』。演奏はルービンシュタインハイフェッツ=フォイアマン。店主は国家公務員を退職してから80年代以降に喫茶店を開いたという設定らしく、どこか時代からも世界からも降りている人で、店も古風な純喫茶然として商店街の奥にひっそりと開いている。
 音やそれを連ねた音楽は、人をどこかへ連れていく。そんな大げさなことをいわなくても、喜びや感傷が、時には感動や哀しみが突き刺さるほどにも迫ってくるのを誰もが知っている。嫋々としてとか、惑溺するとか、そんなどこか怪しげな気配も漂う、ひとりで深夜に聴いている、そんなときに。大きなホールでとか、まして野外でマーチやシンフォニーを聴いて勇気凛々、さあ敵を倒すぞ、なんてことではなくて。
 星野くんに問われて、もうひとり答える人がいる、図書館の大島さんだ。音楽は人をがらっとかえてしまう、まるで組成がかえられてしまうように、と断言する。喫茶店の店長よりずっと若い人として、まだまだ様々な問題のまんなかに放り込まれて振り回されている人として。
 あれから高松を脱出して(脱出できたのだろうか)星野くんはどこへいったのだろう、それよりなによりあのナカタさんはどうしているのだろう。猫と話せなくなった老人に未来はあるのだろうか。そもそも未来ということばは、どこを指しているのだろう。

 

菜園便り349特番 9月7日
フルニエと海辺のカフカ

 十年以上、毎日毎日聴いていたモーツァルトクラリネット協奏曲』をいつのまにか聴かなくなっていた。そのことに気づくのにもずいぶん時間がかかった。こんなに毎日聴いていて嫌にならないんだろうかなんて思いながら、毎朝毎朝、新鮮な気持ちで口ずさんだりしながら聴いていた。聴いてないことに気がついたときはびっくりしたけれど、いろんなことがおっくうになってしまった時だったから、ああそんなもんかと納得したような、諦めたような。不思議なのはまた聴き始めなかったことだ。飽きたとか嫌になったとかいうことはまったくなかったのに。
 それから特に決まって朝に聴く曲というのはなくなった。プレイヤーに入ったままのをそのままスイッチを入れて聴く、といったことになっている。よく入っているのはバッハ『無伴奏チェロ』で、これは去年の古本市の後にもらったもの。「フルニエですが」といわれて渡された。フルニエですが、知ってますか?フルニエですが、いいですか?そういったニュアンスだったのだろうか。無伴奏はこの演奏家、と決めている人は少なくない。「『海辺のカフカ』を読んだ人はみんなフルニエを知っています」と答えたような、答えなかったような。とにかくその時そう思ったから記憶に残ったのだろう。あの小説のなか、喫茶店でかかっている曲、「ハイドンの協奏曲、1番。ピエール・フルニエのチェロです」としてでてくる。
 『海辺のカフカ』のなかで、音楽を聴いて、また音楽の喜びや力を語る店主の話を聞いて、青年が(星野くんだ)、後にCDを買ってじっくり聴く展開になるのはベートーヴェン『ピアノ・トリオ(大公トリオ)』。演奏はルービンシュタインハイフェッツ=フォイアマン。店主は国家公務員を退職してから80年代以降に喫茶店を開いたという設定らしく、どこか時代からも世界からも降りている人で、店も古風な純喫茶然として商店街の奥にひっそりと開いている。
 音やそれを連ねた音楽は、人をどこかへ連れていく。そんな大げさなことをいわなくても、喜びや感傷が、時には感動や哀しみが突き刺さるほどにも迫ってくるのを誰もが知っている。嫋々としてとか、惑溺するとか、そんなどこか怪しげな気配も漂う、ひとりで深夜に聴いている、そんなときに。大きなホールでとか、まして野外でマーチやシンフォニーを聴いて勇気凛々、さあ敵を倒すぞ、なんてことではなくて。
 星野くんに問われて、もうひとり答える人がいる、図書館の大島さんだ。音楽は人をがらっとかえてしまう、まるで組成がかえられてしまうように、と断言する。喫茶店の店長よりずっと若い人として、まだまだ様々な問題のまんなかに放り込まれて振り回されている人として。
 あれから高松を脱出して(脱出できたのだろうか)星野くんはどこへいったのだろう、それよりなによりあのナカタさんはどうしているのだろう。猫と話せなくなった老人に未来はあるのだろうか。ふたりは名古屋近郊で祖父と孫として暮らしながら、時々は映画館や水族館にも行っているのかもしれない。


2018年
菜園便り350 
10月1日

 先月号の「芸術新潮」の特集が「新しい三十六歌仙」だったので、気になって開いてみると、額田王から始まった36人の最後がなんと塚本邦雄だった。そうか、彼の人ももう歴史上の人物なのかと驚きつつ、「超前衛」も半世紀たって誰もの愛唱歌になったのかとも思ったりする。
 そうだろうか。
 最初に出会ったのは1971年、それは友人の部屋のドアに貼りつけて残されていたという
ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春 <日本人霊歌>だった。
 とにかくかっこよかった。伝統的定型詩つまり保守的で画一的としか思っていなかった短歌に***(アステリスク)が入っているし、通俗の極みみたいな「さらば青春」なんてことばを平気で使い、しかもきちんと抒情を成立させ、どこかしら強く惹きつける力もあって驚かされた。なんというか哀しみとでもいうものすらにじんでいた。小さな店頭、明るい色の軽やかな生地、まだまだきちんとした服は仕立てる時代であり、夏物冬物間物と揃えていた時代だったのだ。
 それから折にふれ読んでいった。
革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ  <水葬物語>
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋わば人あやむるこころ <感幻楽> 
固きカラーに擦れし咽喉輪のくれないのさらばとは永久に男のことば  <感幻楽>
シェパードと駆けつつわれに微笑みし青年に爽やけき凶事あれ  <水銀伝説>
蕗煮詰めたましいの贄つくる妻、婚姻の後千一夜経つ <緑色研究>
あれこれ愛唱するようになった。読み解くようになった、というほうがあたっているかもしれないけれど。
 久しぶりに引っ張り出してきた歌集などをめくっていると、こんな歌にぶつかった。ああ、塚本もこういうことも歌っていたのかと納得させられる。
屠殺者の皮の上着に春の雪にじめり重き慈愛のごとく  <装飾楽句>
 特集にとりあげられて載っていたのは、<日本人霊歌>のなかの    
日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも   
 短歌には調べがあり、歌謡曲にはメロディーと感傷的な歌詞があるから、人の心にくいこんでくるのだろうか。


菜園便り351
2019年2月15日
 今年は旧の正月が2月5日だった。父が必ず祝っていたので、ぼくも旧正月の元旦だけはお雑煮をつくる。父が正月や盆のあれこれにうるさかったのは、自分の出自である東郷の実家が季節の行事をきちんと祝っていたからだろう。それを引き継ぐ気持ちがあり、それは養子に来た安部家に新しい伝統をつなぐことであり、どこかに対抗意識もあったのかもしれない。それはずいぶんと父の手が入れられた、父の様式になっているものなのだろう。ぼくは儀式や家庭内の行事にどこかでうっとりするところがあって、それで正月や盆は父の流れを受け継いだのかもしれない。
 餅が好きなこともあって正月3が日は必ずみんなで雑煮を食べるという習慣は、先ず、父だけは3ヶ日食べる、になり、父なき後はぼくは元旦だけいただく、になった。おせち料理の数もだんだん少なくなり、今年は黒豆といただいた数の子だけになった。雑煮も、当日に出汁をとり、具材も鶏肉と大根、人参だけだった。
 1月に、認知症の妻とそれを看る95歳の夫を撮ったドキュメンタリー映画に感動しせつなくなったせいか、いろいろに父のこと、介護のことなどが思いだされてしまう。ほんとはどこかにしまい込まれたままだんだん消えていってほしいことだけれど、やっぱり大きなできごとだったのだろう、いつもどこかに見え隠れしていて、こういう時にどっと溢れてくる。
 なにをどうやっていいのかもわからず、行政のやる講座などにも通ったけれど、先ずいわれたのは「完璧な介護などはないし、そういったことを目指さないでください、介護する側が倒れてしまいます」というものだった。それはストンと納得できた、ああ、そういうふうに考え対応するのか、と。でも結局どうやっても後悔は残ってしまう。愛が深すぎても足りなくても、十分な介護をしなかった、できなかった、と。もっとやさしくできただろうに、もっとなんでもやらせてあげればよかった、と。1グラム単位でタンパク質を計量して食事を作るより、好きなものをだせばよかった、と。まるで懺悔するように悔い、罪の意識に囚われる、そういうことは介護だけでなく人が生のあらゆる場面ででくわすことだ。愛にも死にも、人が心から納得できることはないのだろう。
 いつのまにか沈丁花が開いて、縁側に甘い香を送ってきている。一瞬も止まらずに時は動き、季節は巡っていく。


菜園便り352
2019年3月27日 

海側の庭に次々と小さな松が芽を出して伸びている。中心にあったいちばん大きな松が1昨年に倒れたこともあるのだろうか。残り2本の50年をこす松も元気とはいえない状態だ。以前は海だったこんな砂地に芽吹き育っていくと思うと、感動すら生まれる。数センチの小さなものからひょろりと人の背丈くらいのものまでが古い松の周りに伸びている。
 直接降りかかる海からの潮に赤茶けながらも、葉を落としてはまた少しずつ大きくなっていく。駐車場のすぐそばでもあり、以前、人の出入りの多い時に赤いリボンをそれぞれの松に結び付けて注意を促した。気をつけてくださいね、踏んだり折ったりしないようにお願いしますよ、そんな気持ちだった。そういうのはなんだか過剰な愛情にもみえるようで、友人たちの微苦笑を誘ったようだ。
 古い松が松くい虫にやられているようだから、次の世代への交代が始まっているのかもしれない。蝕まれ枯れていく世代の真下、新しい世代も不安定な弱々しさのなかに放りだされつつ、でも今後を担っていく力もみせている、健気さや小さなエネルギーの放射も感じられる。
 松林などでも小さな芽が一面に出ているから、ここでも今まで気づかなかっただけなのかもしれない。長かった3本松体制の安定が壊れ、慌てて次が発芽しているのだろうし、1本が欠けて陽あたりがよくなり伸び始めたのだろう。
 陽が陰ったり、陽が当たるようになったりで、がらりと植生はかわっていく。海側の大屋根と接するくらい近くにあるカイヅカイブキは、離れが解体されると一気に伸びて幹も太くなり、すぐ横の楓を陰に追んでとうとう殺してしまった。根元の沈丁花は1メートル以上も海側に枝を伸ばして光を受け止め、どうにか生き残ろうとしている。
 強風や台風の時に舞い上がり吹きつける潮に柔らか野菜や花、木々の葉ははたちまちに黒ずんで朽ちていく。新しい植木は風や潮を避けるよう大きめの木々の陰に植えるのだけれど、そうすると陽があまりあたらなくなる。そのせいか、試みた数種の柑橘系も?梅も育たなかった。かろうじて生きている柿は植えてからもう十年以上同じ大きさのままだ。建物ぎりぎりに植えて潮に対処した桜やビワも、結局は3年ほどで大きな台風の時の潮で潰えてしまった。
 大きめの雑木の陰に植えた楠はびっくりするほどぐんぐん伸び続けたけれど風よけになっていた木々の高さに達するとぴたりと伸びが止まって驚かされた。みんな必死に周りの環境を感知し、対応しながら生き続けている。荒れたままの庭にもささやかな栄華盛衰があり、諸行無常がくり広げられている。