映画を生きる

映画を生きる 0
 福岡で行われている現代美術の講座があって、その特別会員のための機関誌として発行されているのが、「IAF Paper」。不思議なことに美術関係の記事はあまり多くなくて、投稿のエッセイがなかなかおもしろくて楽しい。ぼくも映画に関するエッセイを投稿したのがかなりかたまったのでまとめてみた。
 映画はずっと好きで、だから一度はしっかりした長い評論を小津安二郎とかタルコフスキーとかの作家論や作品論でガチッと決めようなどと思っていたけれど、そういう志向はもう止めて、自分の好きな映画や監督のことと、自分の事を絡めながらさらっとかけたらいいなと思って始めてみた。文化の、もう見えないぐらい深い根幹をなしていることばをさらに構築した論理、とくに近代における合理発想の枠組みをなんとかずらしていく、または抜けていくには、ことばや論理によって論理を打ち砕くということではなく、そういったやり方から少しでも身をひきはがしていく方向にしかないのだろう。ぼくが現代美術に関心をもつのも、ひとつにはことば以外というか、ことば以前のことがらとその表出、表現に賭けていく、すがるしかないということもある。だから話は少しそれるけれど、現在から見て再度作り上げたものでしかない歴史、そのなかの美術史に固執したり捕らわれたりするのは止めたい。まして現代の美術マーケットの中心の言説とか、中央と周辺とか、ヒエラルキーなんかが何の意味もないことをはっきり自覚して欲しいとも思う。何故東京とかニューヨークとか語られてしまうのか、冷静に考えてほしい。また美術を素材や概念やで際限なく細かく分析し閉じ込めていくといった近代そのままの異様さも止めてほしい。そうではなく美術とか音楽とか文学とかいった区分けが時代的なものでしかなく、その枠組みを今また取り払われようとしていることを確認してほしい。表現は何かの特権的なジャンルでもなくまた特権的な作家や方法だけのものでないのははっきりしている。その方向を目指さない限り永久に狭い時代の傾向に振り回され上昇志向で努力し結果無惨なけいがいだけが残ることになる、今までのように。
ぼくにとっての現代美術というのは、
具象や絵画が嫌いなのではなく、閉じた、既成の絵画という概念につかったままの、だから結果として表現にならない絵画゛的゛なものでしかないものに嫌悪がある。しかもそのほうが作品としても流通していくのが今の美術界でありアートマーケットだから。
 
映画を生きる 2 
阿賀に生きる』を求めて生きて
 タイトルの「映画を生きる」というのは、ちょっとおおげさすぎたけれど、でも表現というか作品をもう一度くぐる、生きるというのはやっぱりすばらしいことで、そんな体験を求めて旅はつづくのだろうから、そういったものと出会いたいという願望も含まれていたのだろう。もちろん、再度生きるというのは作品のプロットや作中人物をなぞっていくことや感情移入していくことではなく、作品内の時間とその外にある自分の時間との両方を同時にリアルに抜けていく、つまり読む=観ることで表現する(作品をつくる)ことです。
 このタイトルは、たんに今までの映画の題名に添ったものにしたいと思っていて(例えばよくある『映画について知っている2、3のことがら』とか、『映画から遠くはなれて』とか)、でも時間もなく、とりあえず好きな作品をいろいろ思い浮かべて、佐藤真監督のドキュメンタリー映画阿賀に生きる』からとったものです。あの映画のラスト・シーンは老人たちが重なり合うようにこちらを(つまりカメラの方を)見ているところで、そこは誰でも思わず胸がつまるような美しいシーンで、光のなかで笑っている彼らとそれをこちらからなんとなく恐縮しながらでもしっかり撮っている人たち、その全部が存在しているのが感じられた。不思議なことに、この時思わず涙しそうになりながら思いだしたのは、ダニエル・シュミットハワード・ホークスのインタヴューを撮ったドキュメントのシーンで、ホークスが玄関から出てきてゆっくりと(たぶん)こちら向きに歩いてくる所だった。たぶんそこでも胸がつまったから思いだしたのかも知れないけれど、でもやはり映画そのもののトーンがどこかでつながっていたのかもしれない。
 『阿賀に生きる』は4年ちかくその村に住んで田圃や畑の仕事をしながら、ゆっくりと風景や人々と馴染んでいき、フィルムに納めていった作品で、そういうと、ああ小川紳介ねとすぐ声が返ってきそうだけれど、作り方というか考え方はずいぶんとちがうと思う。阿賀というのは新潟水俣病が起こった現場で、だから当然のように水銀を流し続けた昭和電工はひどいということはでてくるし、それにきちんと対面しつつも、映画はもっと辛辣で深い、生きることそのもの、世界そのものへと入っていく。積み重なる暗い、難しい事がらは、でも結局は生きる肯定へとつながっていく。線的につながってきた長い時間の上に(端に)今があるのではなく、それと一体となって、重層的に混じり合って現在もあるということをリアルにわからせてくれる。「歴史」とよばれるものが現在から、今の価値基準を前提にして見通した、ひとつのフィクションでしかないことも。だからこの阿賀はぼくらの物語でもあり、今そのものでもある。と思う。「と思う」と付け加えるのは「そうじゃない、すべては終ってしまった、もうどこにもそんなものはない、あると言うのは郷愁だ幻想だ、歴史的反動だ」と、歴史を線的に、一方向の流れとしてしかみない近代的な考え方の人もあって、ずいぶんきつい口論になってしまい、それやこれやで友情もいく分か損なわれてしまったりしたこともあったからだけど。
  前回、気になる作家の名前をかなりあげたのだけど、何故かデレク・ジャーマンファスビンダーがでてきてなくて、それでちょっと気を悪くした人もいたかもしれないけれど、ぼくはこのふたりは作家自身がすごく気になって好きで、とくにファスビンダーの何かを(とりあえず映画と呼ばれているもの)をつくろうとする情熱というのには圧倒されてたくさん見たけれど、作品自身はすごくおおざっぱで、とにかくつくること、そしてまたつくることしか見えてこないところもある。作品の完成を気にしてないようなところがあり、平気でディテイルが放棄されてしまったりする。もちろんだからこそすごい力や映像がでてくる面もあるけれど。ドキュメンタリーでオムニバスの一篇でしかない『秋のドイツ』がいちばんいい、と言おうとして、でもそれじゃ誉めているのかけなしているのかわからなくなってしまう。同じように『エンジェリック・カンヴァセーション』以降のデレク・ジャーマンも伝わるように語るのは難しいし、だいじなことだからもっと時間をかけてゆっくり語りたい。
 今回はホウ・シャオ・センのことです。彼の今までの作品のなかで、いちばん密度の高い『悲情城市』は、内容を要約しようとすると、なんか大ぎょうでとんでもない映画に聞こえてしまう嫌いがあって、だから、簡単に言うと、第二次世界大戦が終って、やっと日本の植民地から解放されたと思ったら、中華人民共和国の成立の影響で政治的な大混乱に・・・やっぱりこういう言い方だと上手くない。戦争が終った時を中心としたキールン市のある一家の物語、とでも言うしかない。誕生、死、結婚、それにまつわる冠婚葬祭があり、食事があり喧嘩があり、やくざの出入り(!)があり、共産主義革命の根拠地があり、もっといろんなことがあり、でもそういったことが生活のあたりまえの背景としてずっとつながり、続き、人々はまた泣いて、ご飯を食べ、優しい聾唖の写真技師がいて、気の狂った上海帰りの兄がいて、根拠地をめざした男たちは軍事政府に銃殺され・・・こんなふうに書くとまるで「全体小説」みたいにしか響かない。ほんとはもっと柔軟で、そして厳しい、この世界がそうであるように。いわゆる写実主義とか自然主義とかが、世界を(彼らは゛社会゛をだったんだろうけど、それなら、成功しているのかもしれないが)リアルに描こうとして逆に観念的なフィクションに陥ってしまったのと反対に、既成の概念をなぞることなく、在るがままの世界を(概念に染まった視線で゛在るがままに゛見た自然主義の倒錯とはちがって)静かに確固としてすくいあげている。ぼくらは台湾で起こったいくつもの歴史的な出来事や事件さえ教えられつつ、台湾の人と大陸から渡ってきた人(特に゛亡命゛政府)との関係やあつれき、三つの中国語が通訳を介して話されたりすることやサヤエンドウのすじの取り方のちがいまで知ることになる。植民地として支配した国への怒りと、でも自分たちが身につけさせられてしまった音楽や言葉や感じ方への屈折した思いの全体が示される、もちろん平易な言葉として。ほんとうのことというのは生活がそうであるように単純で深く、大切なことはいつも静かな簡単なことばでこそ語られる、といったように。
 答えをだすために問いをたて、合理や整合性で論理を組み立てて抽象し概念化してできるだけ遠くまで届く回答をだす、といったことを信じるのはもう止めにしたい。答えがないということだけが真理だと、諦めに似て納得することぐらいしかないことを了解しあいたい。
 ホウ・シャオ・センはいい、残念だけど結局そういうふうにしか言えない。なんか切なくて、でもだからうれしい。 
IAF Paper No.4  1995 11 20

映画を生きる 3
蔡明亮(ツァイ・ミン・リャン)の悦びと哀しみと
 「ホウ・シャオセンはいい、残念だけど結局そういうふうにしか言えない。なんか切なくて、でもだからうれしい」と前回締めくくってしまったけれど、そう言ってしまったらほんとにそれで終わりになってしまうから、そのひとつ手前で、ことばにならないものをなんとか指し示すということに賭けていく努力を続けなければいけないと反省している。堪え性のないぼくは、答えはない求めてもいけない問いしかないんだと騒ぎつつも、自分は勝手にすぐに終ってしまおうとしている、いけない。
 『愛情万歳』を観た人から「ヒトの生が愛しい、無性に愛しい」というハガキをもらって、ぼくもそう思ったしそれがすべてなのだろうけれど、でもこの映画も語るのは難しい。プロットはすごく単純で、わざとのように、実際そうなのだろうけれど、図式的につくられていて、音楽は背景としてもいっさいない。うっかりすると、俳優のいわゆる上手さを見せようとしているのかとも思えてしまう。つまりそのくらい登場人物そのものに目がいくし、そこで視線が止められてしまうようになっている。それはもちろん監督がそこで止まって内的に彼らのことを考えてほしいと言っているからで、この作品はかなり監督自身の私的な内側と直結しているように感じられるし、おそらくそうなのだろう(こういうふうに断言的に言ってしまうのは、実は一度ツァイ・ミンリャンの映画館での舞台挨拶を聞く機会があり、その時受けた強い印象があるからなのだけれど)。
 台北、偶然空きマンションの鍵を手にいれた若い男性営業マン、シャオ・カン(彼の職種の設定は卓抜だ)と、そのマンションをゆきずりの逢引に使う不動産会社の若い女性社員メイとその相手になる、路上で衣類を売る若い男性アーロンの奇妙な関係の数日間。シャオカンとメイが徹底してその表面だけをとうして語られる、体とか顔とか眼とか。仕草は、記号化された情感を生まないようルーティーンで無熱であり、ことばはとうに捨てられている。ほんとに喋らない映画だ。誰もが孤立していて、乾いていて、水を飲み続け、性も一方向的なものでしかない。メイとアーロンには体の交わりがあるのだけれど、そこには一体感すら生まれない。性の描写も、リアルに感じられるのは一方的な愛の仕草でしかない。メイがアーロンの乳首を嘗めまわす時に顕著なように、そこには彼女によるその時間や行為の支配だけが、快感へのあがくようなにじみ寄りが(もちろん届かないものとして)あるだけだし、ホモセクシュアルであるシャオ・カンのマスタベーションには悦びのかけらもなく苦行のようですらあり、ただそうするしかないからするのだという、始まる前に諦めてしまわざるをえない存りかたしかない。
 ベッドの上で眠っているアーロンにそっとよりそうシャオ・カンの社会的な孤立(それはだから逆に社会に対する力にもなり得る可能性もあるのだけど、それはたちまち個的な孤絶につながっていくしかない)とメイの個的な孤絶、そのどうしようもない、でもどこにでもあるあまりにもありふれた哀しみでしかありえないもの。種火が消えて漏れていたガスを慌てて止める時に少しガスを吸い込んでしまった彼女の一瞬の恍惚と強い嫌悪(それは死への恐怖ではなく、自死への気恥ずかしさであり、ある種の弱さへの拒否なのだろう)。
 明けていく新興開発地をカッカッカッカッと歩く女は、過去の映画のいろんなシーンや物語を直接的に思い出させてしまうけれど、でも最後にやっぱり泣いて、鼻をかんで、でも強い、やっぱり弱い、で強い・・・女であり、都市といつものようにありふれた朝とがあって、ついに、というか当然にというか、彼らにはたどり着く場所はない。(ぼくらには「こんなにも遠くまで来た、ただうちのめされるためだけに」とか「手をのばす、もう自分にも届かない」とか言ったりするセンティメントが残されていたけれど。) 
 いろんな人がいていろんな考え方があるから世界は楽しいのかもしれないけれど、「皮膚の色よりも、生殖器のちがいより、もっと深い考え方のちがいがある」こと、それはやはり淋しいことなのだろう。ちがいがあることが、ではなくちがいを受け入れられないことが、だけれど。
 どうしてぼくらはこうもちがいをあげつらうことことに熱心なのだろうか。それがその人の優越を証すからなのか、同じであることがどうしようもなくがまんできないのか、それしか進んで行く、いわゆる゛発展゛して行く道を見いだせなかったからなのか。全てを一元化し続け、だから当然のように差異をつくりだしていこうとする近代のあり方そのままに。
 ぼくらはすごく否定のことばに弱い、口では強がって平気そうに反論しても、家に帰って怒り狂ったり泣いたりしてしまう。だから、先に否定した方が勝ちということになりやすい。肯定して、それを他人に説得するのはなかなか難しいし、曖昧で賢く聞こえないと思われやすい、困ったことに。
 小津の映画を悪く言う人は少ない、というかよくも悪くも関係ない、と言うことかもしれない。小津が好きなぼくだって、正直いって気恥ずかしくて顔をあげられないところもあったりするけれど、そんな時はちょっと下でも向いていればそれですんでしまう。タルコフスキーだってそんなところがいくつかあったりするし、それでいいのだと思う。完璧さは強制力を持ってしまうし、だいいち完璧さとか整合性とかは近代の悪しき一面でしかないのだろうし。
 ツァイ・ミン・リャンの映画は「青春神話」から観た方が、柔らかい部分がたくさん残してあって甘いし、僅かに使われるテーマ曲も心に残るし、いいのだろうけど、でも、だれも生まれる時代を自分で選べないように、どの作品から観始めるかは、もう運命でしかなく、例えばイランの監督キアロスタミに関して言えば、もし『クローズ・アップ』を最初に観ていたら、確かにドキュメンタリーとかの方法論としての衝撃は大きかっただろうけれど、その後の『友だちの家はどこ』や『そして人生は続く』『オリーブの林を抜けて』までの全てを観たいと思うような気持ちが生まれたとは思えない。
IAF Paper No.5  1995 12 28
 
映画を生きる 4 
エドワード・ヤンの観念「性」と具体「性」
 もうずっと前に、「あなたにとっての映画ベスト10は?」ときかれたことがあって、ちょうど蓮實重彦が元気に映画について語り始めた頃で、そういうこともやっていたりしたので、ぼくらも彼女に言われるままに書いてみた。それはやったことのある人はわかると思うけどけっこう難しいことで、のみ会のオチャラケでなくなってしまって、結局、誰も書き終えれなかった。ぼくの場合は10本あがってこなくて、多すぎてどうしようかなんて最初の杞憂はふっ飛んでしまった。でもその時知ったのは、やっぱり世代によっての特別な゛ある゛映画があったことで、それは例えばクラスの半分以上の子が見に行った、とかいった映画だ。『イージーライダー』とか『2001年宇宙の旅』とか『転校生』または『灰とダイヤモンド』とか。もちろん『E.T.』とかになるとだれもかれもが嫌でも見させられたのだろうし、『スター・ウォーズ』を一本も観ていない人というのはたぶんいないだろう。それとひとつ驚いたのは、「あの映画を観た観ない」という話をしていて、それがヴィデオで観たことも含んで言う若い人がいて、あれはちょっとショックだった。映画は映画館とかホールとかで観るもので、TVのモニターで観るのは、あくまでそれでしかない、いいとか悪いとかいうことではなしに。もちろんぼくもヴィデオやTVでも観るけど「映画を観る」というのはそれとはちがう。だいいち小さくなると見えない部分がいっぱいでてくるし、字幕とスクリーンの大きさのバランスなんかはずいぶんちがう。だからそんなに集中して観ない方がいい映画はかえって小さいTVスクリーンの方が落ち着くといったこともある。また昔の白黒の映画はTVモニターだと縮小されているので粒子の荒れも小さくなっていて、すごくきれいな画面に感じられ、一度なんか山中貞雄の『人情紙風船』の新しいプリントが発見されたのかと驚かされたこともあった。
 昔のはなしになったのでついでに、というのもへんだけれど、人が映画にどう出会うかとういのは、それはもう当然にも、「誰も自分の生まれる時代を選べない」、ということで、ぼくは1951年に福岡の津屋崎に生まれて育ったので、スポーツ・センターの゛センター・シネマ゛とか東宝会館にあった゛ATG゛とかがそういった出会いの場所で、とても強い印象を残した2本の映画ともそこで出会った。ぼんやりとブンガクっていいなあ、とか思っている高校生にとっては、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望('Blow up')』はまさに晴天の霹靂、とでもいった感じであり、そのモッズ的な風俗、「不条理を語る」的な文学っぽいことへのスノッブなしたり顔のうなずきとかに始まって、でも最後の、見えないテニス・ボールを投げ返すシーンでは熱いものと、何か理不尽な怒りと、でも甘ーい安堵みたいなものが重なりあって、そうか、映画というのはショーン・コネリーの007だけでないのだと震えてしまった。
 そうしてもう一本、これは今では口にするのが、誤解を生みそうだからだけでなく、すごく言いづらいのだけれど、『絞死刑』で、これはもちろん、あの、大島渚監督で、ほんとに彼の名前をだすのはつらい(『太陽の墓場』も長くぼくのなかに残っていた映画で、最近、といっても5年ほど前にまた見て、クローズアップの多い、それまでの映画の文体によりかかった部分の多いものだったけれどやっぱりあの炎加世子はすごくて、具体的な人や体がでてくる映画のそれが魅力や強さの一つかと思わせられたけど)。
 こういった2本の名前をだすと、もうすっかり'60年代で、その観念性と、それにぴっり重なる直接的な肉体性とか暴力性、それにいわゆる作品としての完成度みたいなことを放棄することで自由さを得る、というか曖昧なゆえに遠くまで届く声やスタイルを取るといった方法、そういったものは今観みたらどう見えるのかは見当もつかないけれど、こういった2本にしびれる高校生というのはまさにというか、やっぱりというか絵にかいたようで、時代は60年代末期でもあり、彼は次の年に当然のように゛東京゛に出て行くのでした、ということになってしまう。映画のなかには「世界」の怖さと同時にその魅惑も(こういった「世界」ではいけないといった直さいな否定も含めて)あって、つまり、ヨシ、ボクモせかいニサンカスル、といった気持ちにさせられてしまったのは事実だ(当時はまだアンガージュマンとかいったことばも残っていて)。
 『絞死刑』というのは実際に起こった「小松川女子高生殺害事件」を直接題材にとっており、その犯人とされ処刑された在日二世の青年、李珍宇(映画のなかでは「R]となっている。アルファベットのイニシアルは文学で使われた時ほどではないにしても、やっぱり60年代的で気恥ずかしいが、でもこの時の、リ・チンウの記号化による抽象化、普遍化には説得力があった)が刑の執行後も死なないという卓抜な設定で始まり、生き返った、というか死なないRに、全員が事件をグロテスクに再演してみせて、再び罪を感じ罰を受ける決心をさせ、改めて処刑=殺害しようとする。国、民族、家族それに個としてのアイデンティティを総動員して、歴史を政治を愛を性を吹きつけて、彼に殺人と死刑を納得させようとする。観ているのがつらいほどの、酷いまでの喜劇と冷徹な展開のなかで、当然のように国家や法律や死刑や殺人といったことが何度も問い返される。神とか愛とか信じるとか生きるとかいったことも。映画の最後ちかく、「国家をほんとに感じないのなら、君は出ていける」ということばのままに、処刑場を出ていこうとドアを開けるRに外からどっと強い光が雪崩かかり、彼は出ていけないのだけれど、(「君はでていけない、なぜなら今、君は国家を感じたからだ」という検事役の小松方正のことばは耳に残っている)そこでウッとこみ上げたのは、怒りでなく鳴咽みたいなものだったのは、やっぱり今にして思えばぼくらしい反応だったのだろう(でも涙ぐんでなんかいられない忙しい時代だった)。
 そこで語られた国家とはレーニン的な意味の制度、つまり抑圧の装置としての国家だったのだろうし、自分や自分の行為のリアリティを感じられないといった、アイデンティティの喪失や想像力の問題(個が自身や社会とつながっていく)も問われていた。もう一歩で、国家も観念の、関係性の集中的な現れなのだというところまで近づいていたのだろうけれど、でもそう言いきってしまうと、自分たち自身の組織論が成り立たなくなることもあって、そのへんは60年代末の行動主義というか代理正義主義の大波に呑込まれていって見えなくなってしまう。
 それは別にして、映画というのが゛芸術゛なんだということの驚きと、なにかの物語や雰囲気を創りだすために用意されてでき上がっている台詞や仕草でないのだな、という漠然とした確認を自分なりにしたようだった。いわゆる顔面演技のようなことからは何も、それが示そうとしている決まりきった感情さえ伝えられないのだという確認。人というのはもっと単純で、だからこそ類型化できない一回限りの深い表情や仕草をする=しない、のだということも含めて。
 だからエドワード・ヤンの『恋愛時代』が類型的な素材と当然のようにスラプスティックなまでの喜劇で、台北の人々の今の具体を゛描く゛ことで、抽象の度合を強め、観念化して類型や通俗をすり抜けようと試みるのは解る。解るけれどその操作そのものが観念的で類型的になってしまうのは、たぶん、誰にも避けられないことなのかもしれないけれど、残念な気もする。
 映画の最後に、関係が壊れてしまった恋人たちが「フライデー」で会おうと約束する時のそのタイペイふうの発音は、ぼくらが律儀に「まくどなるど」とか「みすたー・どーなっつ」と言ったりすることに似てとてもキュートでリアルで切ないくらいいとおしい。都市の表層を覆う輝いた建築物や流りの事柄にぴったり寄り添っている生活のリアル。それはお互いに別の恋人をもつ若いふたりがかりそめの関係を持つ時には、当然のようにくすんだ生活の臭いのある場所でしか体を重ねられないことでもある。
 病院の一階のエレベーター前で、「もう全ては終ってしまったけれど、落ち着いたら今度゛フライデー゛ででもちょっと会おうか、友だちとして」そう言ってお互いに十分納得した微笑みを交わし、彼はなかなか閉められないエレベーターのドアをやっと閉じて、父の病室の階のボタンを押そうとするけれど、当然にもその最後の機会が失われていくことに苦しくて耐え難くて、ボタンは押せない。結局、当然のことだけれど彼は彼女を追いかけるべくエレベーターのドアを開けて飛び出そうとする。そうして、当然のことだけれど、そこには彼女がためらいながら立ちすくんでいて、「今日じゃだめ、゛フライデー゛」と精いっぱいの声で語りかけて、今までもそうだったようにこれからもいろいろたいへんな人と人との関係は続いていく(ちょっと象徴的なのはこの時点で二人とも人間関係のごたごたから、失業したばかりであるということ、でもそれが何ら生活や生に不安の影さえ射さない要素でしかないこと。それはこの映画がすくいとろうとする現代の都市の薄さや酷さに正確に対比している)。
IAF Paper No.6  1996 02 08
 
映画を生きる 6
ゴダールも武満も死んでしまった
 先日、市内某喫茶店でコーヒーをのみながら映画のはなしをしていたら、「え、ゴダールって去年死にましたよ」と言われてびっくりしてしまった。全然知らなかった。当然新聞にも載ったのだろうけれど、気がつかなかった。小さな扱いだったのかもしれない。ゴダールのことは最近よく語られたり雑誌に載ったりしていたので、再評価が高まったのかと思っていたけれど、それだけでなく、追悼とか回顧とかの意味もあったのかと思い知らされた。ヌーベルバーグなんかが話題になることがここ2、3年多かったから、これからまた若い人をたぶらかすのかと少し皮肉な目でみられたりしていたし、ずいぶん損な役まわりの人だった気がする。これからは存命する20世紀の゛巨匠゛として語られるようになったのかもしれないのに。しかし、ゴダールと゛巨匠゛なんてことばはほんとに似合わない。ヌーベルバーグの再評価といったこと自体が現在の貧しさを語っているのかもしれない。
 この゛映画を生きる゛では一度も彼の名前さえあげたことがなかったから、変に思ったり怒っていたりした人もいたかもしれない。あの衝撃的な出現は60年代の時点で既にもう伝説だったし、スクリーンのなかの元気さと映画そのものの元気さが相乗して全く新しい目の眩むような映像として現前していた。ブニュエルのような一種しりとり的に論理とか言葉が転がっていくおかしさや不思議(不条理)でなく、論理そのものことばそのものが限りなくずらされていく、しかも滑稽でリリカルに、といった感じだった。スクリーンをよぎっていく男や女もすごくかっこよかったし、チープな豪奢といったものが溢れていた。そうしてやすやすと政治の季節に身を売り渡していくのも潔いというか、当然というか、解りやすかった。突然の寸断、不意のアジテーション、けして届かない思い、初めからすれ違う体。そうしていつのまにか誰もゴダールを観なくなってしまった。何故だったんだろう。
 「パッション」が公開されたのは83年の11月だった。シネマ・ヴィヴァンの柿落しで、西武の戦略というか、営業の上手さというか、あざとさにも感心してしまった、こんなふうにして゛文化゛とか゛情報゛がつくられていくのかと。第4回が『ノスタルジア』、第5回がまたゴダールの『カルメンという名の女』。あの頃は、そして今もだろうけど、それだけで十二分に成功は保証されていて、六本木の西武の映画館は話題になって、スノッブな人種が(ぼくも含めてと言わなければいけないのだろうが)集まった。プログラムは蓮實重彦武満徹のシビアで愛に満ちた対談や採録シナリオが載って充実していて、それも驚きだった(第2回の『コヤニスカッティ』ではふたりがこの映画を徹底してこき下ろしていた)。あれから後期ゴダールがまた日本でも公開され評価されるようになって、いくつかは観たけれど、ほとんど何も覚えていない。すごく残念というより、とても哀しい気分だった。探しても「パッション」のパンフも見つからない。
 それは別にして、このシネ・ヴィヴァンにはずいぶん通った。歩いて行ける距離に映画館がある喜びもあったし。タルコフスキーの『ノスタルジア』、アンゲロプロスの『シテール島への船出』、侯孝賢の『童年往事』、エリック・ロメールの『緑の光線』、ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』、ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』『トスカの接吻』それに小川プロの『日本古屋敷村』なんかはみんなここで観た。レイトショーもあって、あのアニメーション『ストリート・オブ・クロコダイル』に驚いたのもここだった。他にもベルトリッチの『暗殺の森』とかフレディ・ムーラーの『山の焚火』等等など。
  映画そのものに言及しつつ(それはもう今の時代には芸術だけでなくあらゆる分野で避けられないことなのだから)喜びというか直接性をリアルを生みだす力を探っていく果敢さは、たぶん最後までゴダールが失わなかったものだろう。映画についての映画という、どうしても自己言及的で観念的になっていかざるをえない場にかろうじて踏みとどまり、映像が「動くもの」だったんだとまるで初めてそのことを発見するかのような感覚を観るものにも共有されるかたちで提示する。つまり開かれていく。そういった不思議なまでの新鮮さが、それぞれの画面そのものの感嘆するようなうっとりする映像色彩の美しさとして現れていた。自然光で撮ることにこだわることが、当然の事として誰もに了解された。ぼくにとっては、メタファーやことばが散乱しすぎて引き回され、撹乱されきってしまい、全体から弾き飛ばされてしまう苛立ちが大きすぎた。
 自由。生理が、もっといえば細胞のひとつひとつが感応するような自由の、つまりリアルな感覚、それがゴダールのすべてだった気がする。最後まで好きになれなかったけれど、尊敬しつつ、今やっぱり寂しい。時代の制約も含めて、こういっためんどくさい、でも今こそ切実なことを滑稽なまでに律儀に考え抜く、行為し続ける人はもう現れないかもしれない。
IAF Paper No.8  1996 05 14
 
映画を生きる 7
タルコフスキー衝撃
                安部文範
 「惑星ソラリス」のLPサイズのジャケットを本棚に飾っているので、サウンド・トラックのレコードかと驚かれたりする。でも残念ながらそうではなくてLD。レイザー・ディスク・プレイヤーを持ってないので当然だけど観ることはできない。そのことがひどく不思議に思えてしまう時があり、ジャケットを手に取ってじっと見たりする。本といっしょに置いてあるせいか、中身が全然分からないことが理不尽なことのような気がしたりする。せめて動かなくても、静止した写真としてでもいいから無性に見たくなる。でも、見れない。あの水のなかで不気味なまでに揺れる水草や藻や、すごくリアルに空中を浮遊する体、思い詰めて一種虚脱的になった表情、胸を締め付けるようなふいのことばも、奇妙な非未来的なメッシュのシャツもおおぶりの白い水差しも見ることはできない。ソラリスと呼ばれる惑星そのものが、宇宙船のなかの地球人の意識下を実体化させていく過程の、過去として未来をみているような既視観、とでもいったスリリングな展開のなかで少しずつ増殖するように増えていく思い出や郷愁そのもの、は見れない。再生された、かつて自殺した妻と「わたし」の両親、特に母親との関係がどうだったか、僅かなことばで表されていたはずだけど、それを確かめることはできない。一度は拒否した(宇宙船から小型ロケットで外へ放り出してしまう)彼女を受け入れてゆっくりと過ごす客室内に掛かっていたのはブリューゲルの作品だったけれど、なぜブリューゲルなのかどこかでほのめかされていたかどうかも確かめられない。
 「惑星ソラリス」の最後、ゆっくりと歩きながら水のなかの植物や庭を眺めながら家へ近づいていく「わたし」はついに家のなかをのぞきこみ、そこに室内に降る雨、書棚、父親を見いだす。玄関で父の前に膝まづく「わたし」、それだけでもぞくぞくしているのに、だめ押しのようにぐんぐん退いていくカメラが俯瞰でとらえる惑星の海に浮かんだ小島(あまりのちゃちさには驚いたけれども)。強められた「わたし」の思いはついにはこの不思議な惑星の上に、故郷そのものを創りだしていたことを、つまり゛故郷゛なしには人が生きていけないことを語る。
 この映画にも顕著な、タルコフスキーの作品のもつ一種のあざとさみたいなことは、時々語られたりもする。そしてその、こけ脅しにも似た映像による驚かせかた、というか衝撃は、映画という表現のもつ力の大きな部分でもあることをいつもいつも、改めてのように思いださせる。
 「ストーカー」の最後では歩けない娘がじっと見つめると、テーブルの上のコップがカタカタと揺れ、すっと滑って落ちるし、「ぼくの村は戦場だった」の少年の指先から樹液のように液体が滴る。「鏡」では合わせ鏡のように語られてきた現在と過去、いく層かの時間が、ひとつの画面にねじ合わされ閉じ込められて出現する。そして何より「ノスタルジア」の最後、ロシア(故郷)の風景のなかにうずくまるように座る男と犬、カメラが退いていくと、それがイタリアの遺跡のなかにしつらえられたものだとわからされる、あの衝撃。そしてさらにその上に降る雪、それはもうただただ涙を流して見つめるしかない。
 タルコフスキーの映画では人は覚めている時は、限りなく明晰にあろうとするが、そうでない時は激しく意識を放棄した状態をとろうとする。だから、眠りや夢、精神の歪みが頻繁に出現し、また語られる。人は必ず浮遊し、光と闇の強められたコントラストのなかに出入りし、ふいに目覚めたその瞳は遠い背後にしか焦点を結ばない。視覚や音の遠近は巧みに強められ弱められて、知覚を揺らし惑わせてどこかへ(どこでもない所へ)連れていく。当然のことなのだろうけれどそのふたつの状態、喪失と覚醒は入れ子のように組みあわさっており、どこまでがそれなのかは誰にも定め難い。詩や宗教とでも呼ぶしかないものが、論理的なもの、「知」と侵食しあう、この現実の世界のありようのままに。そもそもそういったことを名づけたりことばに置き換えて、いくつかの概念にわけていくこと、整理していく現代こそが特殊で異様なのだろうけれど。そしていつもいつも、民族の故郷の時代の少年期の母へのノスタルジアを通して、未来の起源の宇宙の無の全のノスタルジアが探され求め続けられる。けして純粋な形ではどこにも存在せず、でもあらゆる所に形を変えて存り続ける、存らしめられてしまうものとしての。
 世界を対象化され、分解され分析されたものとしてでなく(それは先ず「自己」や生の固定化=対象化という異様さとしてあるのだし)、全体のまま動的なままで見ていく受け入れていく力。だから当然のように均一化と差異化の終わりのない繰り返しに陥ることのないあり方。そういったものへの視覚をとうしての直接的な働きかけ、というか提示がある。(少し話がかわるけれど、フィルム上の形や色の影である映画と光の記号であるヴィデオとでは映像の質だけでなく、大脳も含めて知覚に与える影響、というか刺激の与え方は質的にちがうんじゃないだろうか。)
 イタリアの遺跡のなかに作られたロシアの風景は互いに入れ子状であることさえ越えて、同時にそこに存在する、なんの注釈もなしに。それは空間的なことだけでなく、あらゆる時間的なものも存在するということで、私的なささやかな感覚と無限的に思える宇宙がひとつながりに存る、あらゆる細部は際だちながら、全体のなかに調和しているといった存りかた、だろう。
 映画のなかで作家自身が変貌をとげていく、つまり自分を固定せず開いていくことでそこに大げさに言えばあらゆるものを、全ての人をひきこんでいく力をもつ、そういった希有な地点に『ノスタルジア』は立ち、ぼくらもまたその前にたつことで既成の知性を一瞬にして抜けでていく視覚を通した力を感受できる。そしてそれがすばらしいのは、もう一度ことばや知に還元したりできない地点にまで至っていることが了解できることだろう(ことばを越えたもの、ことば以前のものと言ってもいいが、をことばにしようとしていつもぼくらは失敗してしまったのだろうから)。
IAF Paper No.9  1996 07 13

映画を生きる 8
1996年7月24日                                   
 1996年の7月は映画を好きな人にとってはたいへんな時だった。福岡市図書館がオープンし、その記念のシネマ・パラダイスと名うった名作映画特集を始めたのが6月29日。小津安二郎から内田吐夢マキノ雅弘、アジアのザッリーンダスト(「サイクリスト」)、アン・リー(「ウェディング・バンケット」)など20本ほど上映された。その直後の13日から、今度は韓国映画祭が始まった。これは4期に分かれていて、その第1期『黄金の80年代』として19本が上映された。この映画祭はとびとびに1997年の9月まで行われ、韓国映画のほぼ全貌を見渡すことができることになる。チラシに「知られざる映画大国」とあるようにぼくにとっても未知の世界であり、すごい数の多彩な作品が並んでいる。全部は無理でも半分でもと思っていても、いろいろの事情でそうはいかない。あれこれ算段して6、7本を選び出して予定をたてていると、14日から『福岡アジア映画祭』が始まった。これも最低2本は観たいのがある、ああどうしよう、しかもまだ観ていない「アンダーグラウンド」も早く行かなければ終ってしまうし、新しい映画館゛パヴェリア゛も20日にオープンする。どうなることやらと考え込むその上に、福岡市美術館で『アンディ・ウォーホル』展の一環として彼の映画作品の上映も始まった、しかも無料で。これを観ないですませられようか。
 でも当然のように1日に3本も観るなんてことはできるわけがなく(1本を間においてやっと2本だろう)、他の予定やお金のことも考え考え、スケジュールは組まれ変更されていく。そうしてほとんど初めてといっていい韓国映画を6本も観ることができた。
 パンフレットに゛韓国ニューウェーヴ゛の始まりを告げる作品とあったので、じゃ時間的な順番も追ってみようとイ・チャンホ監督の『風吹く良き日』から始めた。これは映画祭の皮切りでもあり、監督の舞台挨拶があってすごくうれしかった。それはファンとしての喜びでもあるし、また実際にその人を見たり声を聴いたりすることで感じ了解できることが小さくないと思えるからだ。その言葉とか喋る内容とかよりも、人が発する具体的なものが、作品のより丁寧な理解につながっていく。
 60年代的というか゛ぼく自身の若い頃゛的な映画で、だからただじっと観ているしかない。大都市ソウルにでてきた3人の若者の友情と社会との軋れき。激変する都市、社会が生み出す矛盾、貧富の差、早くなる風俗の流れ(ついこういった紋切り型の説明になってしまう)等などが若者の過剰なまでの愛や性、正義、挫折、再生として、そして当然にもナイフ物語としてのクライマックスをもって描かれる。映画への思いいれや好感が、自分や自分の世代への思いいれにスライドしていきそうで、食い止められてしまう、自分のなかで。もちろんきちんとつくられた作品でしっかりした構造ももっているし、いろんな読みといていく要素も含まれていて考えさせられる。困るのはこの映画それ自体や、内容を(それぞれの人物やできごとを含め)ついつい社会学的な視点で、つまり世界がこういった形で作品化されることを、韓国という社会やその精神の構図として観てしまおうとする視点になっていきやすいことだ。それはそれで(好きではないが)作品に対するひとつの接し方だろうが、作品をとうして作家も含めた社会を見、さらに世界にいたる、といったことができなくなる。つまり、作品があくまで外的なものとしてあり続けてしまう。現在の、゛ある時代の限定された社会゛にいたるための過程としてのみ作品が倒立させられてしまう。作品への関心と理解が(1)作品内の関係性(共同体、家族、男女等のタームとしての)と(2)作品と作家(監督)の関係だけに終始してしまい、作品と観る者との固定化されていない動的な関係(観ることによって変わっていき、作品も観られる視点の動きのなかで変化していき、それがまた観るものをかえていくという静的でない関係、存りかた)でなくなってしまう。つまり開かれているということがなくなってしまう。この作品が1980年の制作であることが、いろいろに意味を帯び過ぎたりして、なかなか直に作品と向き会えなくなったりする。
 ニューウェイヴェのもうひとり、ペ・チャンホ監督の『ディープ・ブルー・ナイト』が次に観た映画。これも監督の挨拶があった。現実的な能動性の強さとか、現実的な諦めの濃さ、とでもいったものに溢れていて、これも視点のとり方が難しかった。特にアジア人としてアメリカにあることの屈折は、ほとんど身体的な痛みや嫌悪を伴ってくる。この映画はどこまでそういった社会性、というか具体的なことがら、例えばグリーン・カードやアメリカの都市の問題を知っているか、関心があるかによって作品の了解(伝わってくるもの)がちがってくる部分が大きい。そのことでいわゆる作品の゛奥行き゛が深まり男と女の愛情や関係の問題だけでなくなる(またはその逆だって同じだが)かのような気にさせられてしまう。それも少し困る。アメリカ合衆国への永住証明書であるグリーンカードをとるために惨いことをやったりやられたりしながら、結局はそういうことをやり始めた理由であった、アメリカに呼び寄せようとしていた故国(韓国)の妻や子供も失い、決定的に傷つけてしまった偽装結婚の相手の韓国女性との悲劇へと至ってしまう。こういうまるで文字に書いたような内容を、主演の安聖基(アン・ソンギ)の異様なまでの集中力で大画面の映画としてのリアリティを支えているのはすごい。(彼は韓国映画界のスーパースター的な人で、すごいと思うのだけれど、こういう映画週間とかではほとんど全ての映画にでてくるので困ってしまう。)
 他にはイム・グォンテク監督の作品などを観た(「風の丘を越えて」で話題になった監督)。映画のなかで語られる具体的なことと、映画全体の構造とを両方おさえながら観ていくことはひどく難しい。愛情や憎悪がそのままで成立した幸福な(不幸な)時代なんて、ほんとはどこにもなかったはずなのだろうし。それにしても、彼らの(映画のなかの、そしてその外の)思いがこんなにわかってしまうのは何故だろう。同じ極東のアジア人だから、などとノーテンキなことを言うつもりはないが、と言いかけて、でもそれこそがわかることの始まりだろうとも思い直す。ヨーロッパ的近代を、必ず先ず頭を使って理解しようとする、してきたことに慣れてしまって、思考の流れや型がそういうふうに偏っているにすぎない。
 韓国の映画の特徴は何といってもその強さ、だろう。粘り強さといってもいい。沈黙も含めて全てが饒舌で、悲しみすらが(アジアの映画の特徴として実にみんなよく悲しむし、泣く、ヴェトナムでもタイでも)すごく積極的で説得的な語法を持っている。そういった直さいさに正面から向き合い続けるのがしんどいと、ぼくは台湾の映画ファンになったわけではないけれど、韓国派、台湾派といった安直な分け方をつい思ったりもしてしまう。
IAF Paper (PAT Papper) 特別臨時増刊号Ⅰ 1996 09 17
 
映画を生きる 9
アンダーグラウンド』を悪く言う奴は友だちじゃない
のだろうけれど、それはつまり、これがあの、『パパは出張中』のエミール・クストリッツァ監督の作品であるからで、でもあの映画に感動し、しかもじんとしてしまったぼくとしてはこの『アンダーグラウンド』はいかにも辛い。映画をすごく愛していて、ずっと観続けている友人からあんなにも熱烈なはがきがこなかったなら、ぼくだってもう少し冷静な気持ちで、つまり少しくらい悪いところもあるかもしれないとか、『パパは・・』ほどの作品はそんなにしょっちゅう作れるはずがないとか、それ以降全く観ていないから、変わっているかもしれないとか、題材が題材だからうまくいってないかもしれないとか、幾ばくかの警戒心をもって行けたかもしれなかったが、彼女の「・・狂躁と猥雑さと複雑さとに満ちあふれて、いかようにも解釈できるすばらしい映画・・悲劇的な祖国の運命にあっても絶望のなかにもユーモアを失わず、フェリーニのサーカスのようでもあり、ビスコンティの『地獄に落ちた勇者ども』にも似ているようであり、アンジェイ・ワイダの映画をもほうふつとさせ、水中シーンやその他タルコフスキーのようでもあり、地上、地下、水中と、時間と空間とか圧倒的な過剰さでもってあり、笑い、最後は泣きながらみました。」という文面にいっそう気持ちを煽られ、自分でも煽り、超過大な期待を、人が抱いてはいけないほどの期待を抱いて映画館に、KBCキネマ北天神に出かけてしまったぼくが悪いのはわかっている。だから、もし、もう少し控え目な気持ちで出かけていたら、もっと上手く観ることができたかもしれないと残念な気持ちだ。映画って困ったもんだ。
  その友人が言うように、他の映画を含め実にいろんなことを思い起こさせる。コピーとか引用とかいったことでなく、この映画の持っている濃密さみたいなものや、時代や民族が当然にもってしまう色合いや匂いが、他のいろんなものをかなり直裁に思い起こさせるのだろう。そうして、ほんらい豊かさやディテイルの綿密さとしてあるそういうことが、思ったほど人をうたないことに逆に唖然としたしまったりする。冗長さや観念的な饒舌さ。いわゆる゛わかりやすさ゛とは、超観念的とでもいうしかない概念を(実際はありもしない概念を)なぞるだけであり、わかりやすさ=おかしさといったことが記号化されていて、ここは笑うところです、みたいなことになってしまう。人が、ありふれた生活のなかで示す単純でだから深いしぐさは、どこまで待っても現れない。生きるということは、あまりにも単純なのだし、だからどこまでいってもわかりきれない、答えのない複雑さをもっている。(近代とそれに至るヨーロッパ文明の悪癖のひとつは、いつもいつも答えを求めて問いをたて、それをいかに効率的に解いていくかに汲々とすることで、そういったことはもうそろそろ終わりにしたい。)そういう深い複雑さを捨象して、歴史大河ドラマ的にエピソードをいかにもありそうにつなげていって長い映像時間をつぶしていく。だから、視覚的にも胸を撃つ映像も現れない。全ては決まりきった約束ごとの連鎖でしかなくなる。ポスターやチラシに使われた民族衣装の花嫁が宙を泳ぐシーンも、上手につくられたエピソードとしてしか伝わってこない。あの、細かい細工の重そうなレースが、いかにも伝統や歴史、民族そのものの重さや美しさとして、幾重にも厚く重なり合っていることも、うまく伝わってこない。映画内の、そしてその外の時間にもつながっていくはずのものが、そこだけ浮き上がった゛美しい゛シーンとして終っていく、「あの、映画史上に残る不滅のシーン」とでもいったコピーをつけて。ああ、残念だ、はがゆい。
 物語は、複雑な歴史をもつ東欧(こういった言い方そのものヨーロッパ中心主義)のユーゴスラビア、第2次世界大戦のナチス・ドイツの侵攻から始まり、現在の戦争まで。大戦中に反ナチ・レジスタンスとして地下に隠れて武器の製造を行っていた人たちがその後も終戦を知らされないままそこに住んで武器をつくり続け、我慢できずにとうとうでてきたら、そこはまた現代の戦争の最中であり、かつてそのために闘った祖国すら無くなっていて、今まで地下で維持されていた家族を中心とする絆もたちまちずたずたにちぎれてばらばらになっていく(こういったことが、地下=周辺の歴史的変遷のアナロジーとしてみられてしまうのは、作家にもそういう視点があるからだろうか)。
 思想は現実の゛政治゛としてだけ取り出される。チトーやスターリンなどの政治的な人物はもとより、他の人物もリアリティをもつまでに造形されないまま類型化され断片的なカリカチュアとしてだけ現れてくる。そして頻繁にチンパンジー(動物)とか幼児とかの無垢性によりかかってしまうので、複雑で深くておぞましくて、でもだからこそ喜びも大きかった、つまりどこにでもありふれていて、だからこそ救いがなく、でも素晴らしい゛この世界゛はついに姿を見せないまま、いかにもヨーロッパ的な船出、として締めくくられていく。最後に、岬から切り離された浮き島の上で、水をくぐって(死をくぐって)たどり着いて再会した登場人物たちがいっしょに歌い、踊り、島はまるでシテール島を目指すように彼方へと流れていく。だから最後のシーンが美しければ美しいほど、それはあまりにも無惨なまでに平板なものとしてしか見えてこない、すごく残念だけれど。(ヴェンダースの「ベルリン・・2」の最後も感傷的で観念的な船出のシーンで、あの映画そのものの象徴のようで残念だったけれど)。それにしても水をくぐって再生するというのは、いつでもどこでも、あまりにもといっていいほど、美しい。水のなかで全ては溶解し、あらゆる場所へとつながっていく、抱きかかえられたまま。
 いつもいつも、リアリズムということは誤解され続ける。写実とか技術の問題だと考えられてしまう。それはあくまで思想の、表現の出発の問題であり、あらゆる表現(作品といってもいいが)内部の現実や時間のリアリズムが、当然にも先ず成立していなくてならないのは原則だろう。ごくあたりまえの作品内の整合性のこと(非整合という整合も含めて)。それが、ありもしない概念的な記号にすりかえられて、いかにもありそうな、その実、けしてありえない゛リアリズム的゛なものにすり替えられていっている。
 作品内のリアリズムが成立した上で初めて、それを越えるもの、つまり生活の実相のなかではみえづらい、゛リアル゛がやっとその存在の気配をみせる。そこまでたどり着こうと努める、入っていこうと試みるのが、たぶん表現とよばれる営為なのだろう。
IAF Paper No.10  1996 09 23
 
映画を生きる 10
観たい映画がなかったのか、家族を考えたかったのか
 9月、10月がものすごく忙しかったこともあるだろうし、7月に映画に集中し過ぎたこともあるのだろうけれど、映画のことを語りた気持ちがぜんぜん湧いてこない。どうしよう。
 映画を観ていないせいだけではないだろう。今までにあんなにたくさんいい映画を観ているのだから、語ることなんか限りなくあるだろう、例えば、と言いかけてそれ以上ことばがでてこなくなる。どうしよう。
 11月1日の映画の日にはいろいろ観ようと予定を立てて、とりあえずとアレクサンドル・ソクーロフの『ロシアン・エレジー』と岩井俊二の『スワロウテイル』から始めようと思っていたけれど、いつものように映画の日には他の用事が、つまり仕事がはいって観れなかった。でもそのことがそんなに残念に感じられなかったのは、どうしても観たい映画がないからかもしれないと思ったりしてちょっと淋しい。
 以前に観た(福岡市美術館のレン・フィルム特集。これはたいへん充実した量的にもすごいものだった)ソクーロフの『ソビエト・エレジー』ではまだ大統領になる前のエリツィンが長い時間、苦しげなまでに考え込んでいるのが少し離れた距離からずっと撮られていた。傲慢にも見える鈍重な様子や、まるで悦楽に放心したかのような表情は忘れ難い。(現在において何かを集中して、つまり論理の脈絡のなかで考えるということが、広告代理店のすごく明解で皮相な現状分析とどうちがうのかは、たぶん誰にも語れないだろう。そういう思考の回路それ自体を無化しつつ、同時にことばに文節化しないままで、全体として、動いているものとして受け取る=伝えようとする方向にしか、もう期待できるものなんてないのだろう。そこからしか何も見えてこないし、何も生みだせないと思う。)
                                 ・・・・・・
 そんなことをぼんやり思っていると、もう12月になってしまった。今年の日本映画の回顧が新聞に載ったりする。5人の選者が5作品ずつ選んでいるのだけれど、そのなかの一作品も観ていないことに驚かされた。『絵のなかのぼくの村』は観たいと思っていたし、ほとんど観るところまでいっていたから、そういう意味ではゼロではなかったのかもしれないけれど。(8月に観た日本映画『初国知所之天皇』『百代の過客』は原将人監督が来ていて、機械の故障というアクシデントもあって2時間以上本人の話しがあり、だから作品も含めて密度が濃かったので、じっくり語りたい。)
 結局この4カ月の間に観た映画は『忘れられた子供たち』だけということになった。フィリピンのマニラにあるゴミの山゛スモーキー・マウンテン゛に住む人々を子供たち(18才くらいまで含め)を中心に撮ったドキュメント・フィルム。四ノ宮浩監督。ストリート・チルドレンを描いたドキュメントにはシアトルの子供たちを描いたマーアティン・ベル監督の『子供たちをよろしく』というのがあって、あれは観ているのが辛かった。自分でなにひとつ選べないまま、家族とか社会とかの複雑な力の前で文字どうり翻弄され、路上の新聞紙のように吹き払われちりじりに消えていくしかない少年少女たち。ごみを漁ったり、物乞いしたり、盗みをしたり、売春したりしながらほんの一時を、一日を生き延びるだけの存り方。状況を丸ごと受け入れているから、表層だけを滑っていくから、元気に楽しくやってるようにさえ見えて無惨だ。お決まりの「崩壊した」ということばさえ成立しないような家庭から追放されたり、逃れたりした結果としてそこにかたまりあって、優しさとか安心とかに餓えていて。
 やはりそういう子供たちをあつかったロシアのヴィターリ・カネフスキー監督の『ぼくら、20世紀の子供たち』には悪をやっても何しても、とにかく生きていく、生き延びていくことが至上命題であり、ぞっとするほど厳しいけれどでもどこか明るさ、というか希望(なんてことばだろう!)があったし、監督との関係も見えてくる(実際監督がでてきて、彼らにインタビューしたり喋ったりする)し、どこか安心が、つまりそこにはまだ関係性とか、なんというか共同体の余熱みたいなものがあって、最後の部分では護られている=内側にいる、それはつまり殺されるという非情も含めてだけれど、残っていることが感じられた。でも『子供たちをよろしく』では家族とまだ一緒に住んでいる(そのこと自体が不思議だけれど)ストリートチルドレンでさえ、関係が零度の熱もない無惨さがあった。そうしてこの映画のつくり方とも大きく関わってくるのだけれど、誰もがカメラの前だけでなく、演ずる、というか振舞うことから逃れられず、リアルのなさ、空虚さが際だっていた。
 『忘れられた子供たち』では家族や、スラム居住者たちの共同体のなかに子供たちは生きていて、生き延びるのは半分以上は健康さというか体力にかかっているようにちょっとみえたりもする。もちろん生活の困窮や悲惨は覆うべくもないのだけれど、家族や親族がつながっている。生き続けることが当然にも目指され、明日も信じられている。誰もがここを出て行くことを第一に語るけれど、この共同体がもつ力、抱擁力に(それは妬みあい、殺しあうといったことも含めてだけれど)に引き付けられて、また、それが圧倒的なのだけれど、外の社会の悪意や競争、階層の落差に疲弊して戻って来る、こざるをえない。社会の仕組みがそうなっているし、その役割を彼らに押し付けている以上そうならざるをえないのだろうから。だからこれは子供がたくさんでてくるけれど、もちろん家族の物語であって、だから最後には新しい若い家族の、こわいくらい危ういあり方を見せて終る。このスラムで逞しく生き抜いていく力に溢れてもいず、強い家族や関係の後ろだてもなく、でもここで生きて行くことを選んだ(諦めてというのとは少しちがう)、納得した若い夫婦とその赤ん坊と。
IAF Paper No.11  1996 12 27
 
映画を生きる 12
映画:好きとか嫌いとか恐いとか
                                          安部文範
 映画にはいろいろな魅力があって、深く考え込まされながら何回も観たり、シナリオを丁寧に読んだりするものの他に、あの、いかにも゛映画゛といった、わくわくする動きや進行そのものにに引きずられ、あれよあれよという間に観終ってしまう、といったものもあり、そういったものは何度も観るけれどシナリオを読んだりすることない(パンフにもシナリオなんて付いてない)。このふたつはみごとなくらいはっきりと別れていて、中間領域もまったくない。後者の代表は『エイリアン』で、もちろん最初のもの。他に『ターミネーター』の1、『時をかける少女』などがある。何回も観ているし、全然飽きない。(こうやって並べてみると全部SFで、どれにも異星人とかレプリカント等がでてくる、と初め
て気づいた。それに゛時間゛の円還するような流れも。あとひとつ、メロウドラマの枠組みということ。「エイリアン」でのその枠組みを考えるのは、かなり倒錯的で怖いけれど。)
 いちばん多く観た映画は、ヴィデオでの回数もいれると、『エイリアン』かもしれない。あの映画は今でこそみんなよく知っているけれど、公開当時はTVでまでコマーシャルを流したのに(「宇宙ではあなたの悲鳴はだれにも届かない」というやつ)あまり興行成績はよくなくて、というかコケて、そのへんは『2001年宇宙の旅』と似ている。恐い映画が流行っている時で、ぼくの友だちもいやがる旦那を口説き落として観にいって、その手前もあったのか、「ふいちゃったわよ」とバカにしていた。確かにエイリアンそのものがでてきた時はぼくも観てはいけないものを観てしまった気がして、思わず目を背けてしまったけれど。他のシーンでのおもわせぶりな雰囲気や奇怪で性器的なギーガーの装置や美術はすごかったから、残念というか腹だたしいというか。しかしでてくる俳優たちも、いかにもといったかんじでなしに、しっかりクセがあって楽しい。いちばんあっさりしていた(どっか眠そうな)艦長がやっぱり早く死んでしまうのだけれど(少し残念だった)、彼がマザー・コンピューターと話す時に背景にちょっとモーツァルトがながれたりする。
 少し話がかわるけれど、恐い映画というのも、当然、人によってずいぶんちがうだろうし、これもやっぱりコケたキューブリックの『シャイニング』はぼくも期待して封切りで見に行ってあのコーコツとなるぐらい美しかったトイレのシーン以外はただただがっかりしてしまって、確かに双子の女の子というのは卓抜で、洪水のような赤い血も迫力はあったにしても、何もキューブリックがやるほどのことか、と苦々しく思ってしまったけれど、あの映画をほんとに恐がった人もやはりいて、ぼくの友だちが、彼女はひとりで観に行ったのだけれど、やっぱり「フン」と半分怒ってでてきたところ、ロビーに女の子がひとりで立っていて(ガラガラだったし特に女性の数はすごく少なくて)、「トイレに行きたいんだけれど、恐いからいっしょについてきてほしい」と真剣に頼んだらしい。こういうのは、おかしいというよりなんかついしみじみしてしまう。だいいちこういうことは女の子の間でしか起こりっこない。ついでだけど、彼女は映画が好きだからよく観に行っていて実はもうひとつ、これはすごく美しい、トイレ(というよりバスルームとでも言った方がいいかもしれないけれど)エピソードがあって『ノスタルジア』の時、やっぱり終わりちかくのあの二シーンにさめざめと泣いてしまって、だからまだ暗いうちに席をたってバスルームにいくと、すでに来ていた人がいて、その外国人の女の子と鏡ごしに濡れた目があって、お互いにうなずきあってまた泣いたらしい。こういうことも、当然だが男の場合は絶対に起こらない。ヘミングウェイあたりが、バーのカウンターで、マッチョな感じで、ならでっちあげるかもしれないけれど。
 話がそれたついでだけれど、いちばん恐い映画は何かというと(もちろん恐くて嫌な映画は論外として)、たぶんもう二度と観れないと思うけれど、トビー・フーパーの『テキサス・チェーンソー・マサカリ』という映画で、邦題はたぶん「死霊のいけにえ」とかいったようなものだったと思う。これは、チェーンソー(電気のこぎり)からもわかるように、いちおうスプラッタ的なものなのだけれど、あんまり切ったり、血がでたりということはなくて、でも恐い。ぼくの刃物恐怖も大きく影響しているだろうけれど、映画としてもしっかり恐い。バックスキンのお面のようなマスクを被った男がチェーンソウを振り回しているシーンはけっこう有名になったから知っている人もいると思う。(詳しく説明しない、できない。)
 ついでだからどんどん脱線していくと、恐さにも当然いろいろあって、ただただたまらなくなって飛び出してきた映画というのがひとつだけある。せっかくお金を払っているから、途中で出て来ることなんてほとんどないのだけれど、原一男の『ゆきゆきて神軍』は思わず叫びだしそうになって、満員の客席から走るようにでてきてしまった。その時はとりあえずロビーにでて、落ち着こう、あの声さえやり過ごせば、とか思っていたけれど、狭い所(ユーロスペース)だったので音も全部ロビーにまで聞こえていて、それで諦めて帰ってきた。だからあの映画は途中までしか知らない。彼の作品はたくさん観ていて、もしかしたら全部観ているのかもしれないけれど、屈折を語るのに屈折をもってしなくてはいけないようなところがあって、上手くできそうにないし、どこかですごく突き放してしまいたくなり、愛情をもって語れなくなる。('60年代の嫌な一面をあまりにみごとに切りっとってみせていて、正視できなくなったりもする。)ドキュメントという概念に含まれている単純な嘘を、本気な顔でスラスラとついてみせる人だ。つまりドキュメントを、しつこくやり続けるなかで、どこかで相対化しぬいた、というかそこまで対象から目を離せなかった、というか。だからどこまでいっても原一男の揺れ、というか彼が自分のなかで振り切ってしまった(それもひとつの演技=演出なのだろうけれど)本気さと嘘さの振子の振幅、みたいなものが前面にでてくる。ノンフィクションというフィクション、ということが、裏側からみえてくる。だから正面からそういうことを切ってみせる、裏切ってみせようとすると、逆にすごく見え透いてしまう。『全身小説家』はそういう面ばかりがでてきてしまっていた。でもあの『さようならPC』の最後のシーンの、延々と続いた果てに、奇跡のようにカメラがすくいとった美しさは、まさに奇跡だとしかいいようがない。でもそれを原一男の力だ、と言うことも言わないこともどちらもちがっている気がする。
IAF Paper 臨時特別増刊号Ⅱ(1997年1月発行予定)
 

映画を生きる 13
船酔の苦しみの中で観る感傷と残酷と
                                        安部文範
 うらうらと穏やかな春の日には、かかえこむまでの頭の痛みもどこか甘酸っぱくて、微熱のやさしさと高熱の放心との間をたゆたってしまう。
 この頭の痛みのほうには原因があって、それはまあ、言ってみれば劇場での船酔とでもいえるのかもしれない。ジョナス・メカスあたりから始まった゛私映像゛的なものは小型カメラを抱えて自在に軽やかに動いていくので、撮影時の手ぶれや揺れとその結果である映写時の画面の細部のぴくぴくした動きや波のような腹にズンと応えるような大揺れは当然のこととなり、しかもそれが映像の力や自由さ、さらには美しさとなっていく。判読不可能なまでに早く流れる映像や、撮す人の動きのままに上下左右に揺れて飛び跳ねる映像は確かに現在をとてもうまく切り取っていくし、かすれたようなタッチも繊細ですごく好きなのだけれど、もろに船酔状態になってしまう。自分が揺れても対象が揺れても結果は同じらしく、吐き気とひどい頭痛、めまいの持続のような不快感が襲ってくる。目を閉じたり下を向いたりしてやり過ごしながらなだめながら、音声だけを聞いてときどき目を上げてちらりと確認したりするしかなくなる。そうして、やっぱり最後は諦めて出てくるしかない。ふつうの船酔とちょっとちがうのは、会場をでても陸にあがった時のようには目まいや吐き気がすぐには収まらないことだろう。つらい。胃のあたりのむかむかはずっと続いてしまうし、頭の痛みはこうやって次の日まで残ってしまうときもある、困ったもんだ。
 その時の映像は、「Japanese Independent Films For Cinema Freaks」という英文のタイトルの企画で、ようするにぴあフルムフェスティバルなんかにでてきた映像作品を紹介しようというもので、'95にグランプリをとった大月奈都子の『さようなら映画』もプログラムにはいっていてそれを観るのが目的でもあった。せっかく津屋崎から出てきて観るのだからついでに他のものも、とか思ってしまうこころ根の貧しさもあるのだけれど、でもそれで河瀬直美という人の『につつまれて』も観ることができた。これも以前からタイトルはあちこちで見かけていたのでうれしかったし、中身もしっかりしていて作品のことも方法の事も彼女自身のことも、それからもっと広がって少女性や家族や感傷や強さや弱さややさしさや、生きるいったことまでもしっかり考えさせられた。そして「男っちゅうのはなんて勝手でずるいんや」とも改めて思わされて、でもそれがチカラでもあることは誰もがいやおうなく識らされていることでもあるのだろう。映像のつなぎ方や処理の仕方が上手すぎるほどで、あざといまでの最後のもってき方にはうーんとうなってしまった。濃い中身の長編を短編の技法で中編にまとめたといえなくもない。とにかく大月さんもそうだけれど若い女性作家の甘やかさと大胆さと柔軟さと弱さ=やさしさにはただただ感心してしまう、ほとんど過激さと紙一重だ。彼女たちをとうして映像の力や未来に希望が見える気すらする。(両方とも関西で撮られ、関西語だったけれどそれも力にみえてしまう。たぶんズレとか自由さとかを感じさせるからだろうか。)
 そんなにも感動しながらもでもこの『につつまれて』も途中から苦しくてちゃんと観続けていられなかった。オリジナルの8ミリビデオでの上映で、方法論的にいろんな映像処理がしてあるから当然画面は揺れるし、頻繁に静止画面が挟みこまれて時間的にもぎくしゃくさせられていて苦しみは倍加される。事情があって(なんて都合のいい言い方だ)祖父母に育てられた作家の自分探し=父探しの物語でもある。すごく元気であいまいさなくはっきり語るおばあさんの魅力でぐいぐいひっぱっていき、だから作家のクルシミとかアマサがうまく中和される。この世代の特徴だろうけれど電話が多用されていて、あのふいの呼び出し音や、相手が受話器を取り上げた時に聞こえてくる機械音にはドキリとさせられる。(自分の日常であれ人の生活のなかであれ、あの響きのほとんど暴力的なまでの威圧を改めて思ってしまう。けして慣れることはできない。)フィルムには植物、特に花や昆虫がところどころに挟み込まれて奥行きをふかめているし、映像的な刺激や安堵感を与えてもいる(象徴としては使われていない、当然にも。そのへんはもう安心していいと思う)。そういったつなぎ方はものすごく上手だし、たぶんそれ以上にいろいろ読み取れるようにつくってあるのだろうけれど、なにせ半分くらいは下を向いたりうんうんうなったりしているので、おおざっぱな見方しかできなくて残念だった。
 それがプログラムの①で、②はとばして(折尾から観にきていた現代美術の作家で生物の先生をしている鈴木君と、ギャラリー゛とわーる゛の「西村光二郎展」を観て貘で食事した。彼はあんまり自主企画映像とか関係なさそうにみえるけれど、実は演劇も好きで、ジャズ、特にコルトレーンに詳しい。)、③で大月奈都子『さようなら映画』を観たのだけれどその前の『超愛人』(歌川恵子)という作品ですでに酔いが始まってしまい、しかも大月さんのはもっと過激に揺れるし跳ぶし、かすれるし、ほんとにつらかった。なかの会話にもデジャブという言葉がでてくるけれど、時間の流れも過剰に波うたせてありすごいなと思うのだけれど観る苦しみはしっかり倍加される。作家の生理の流れともちかそうなあの時間のゆきつ戻りつはちゃんと確認したい。撮影する主体が(被写体がといっても同じだけれど)いれかわったり、重なったりする。そうなるとわかっていても、すごく新鮮で説得力がある。さりげなく挟み込まれた映像が意味を持ったものであることが後でわかったりする。ここでも家族の物語が中心にある。当人にとっては絶対的で絶望でもうどうしようもないのに、でも世の中のどこにでもあるありふれたできごとでしかないといった、目の眩むような落差のなかに放り込まれる、つまり、死とか愛する大切な人を喪うとかいうこととして。癌の母親を一方に、それと対応する極端に不安定になった若い女性(作家本人)との間を、日常の風景と会話でつまり仕草で埋めていこうとすると、いうか背景の細部の全てに進行する物語を埋めていこう、記憶させていこうとする。だから繰り返される、揺れて流れ、かすれる風景そのものがそのつなぎ方も含めてとても大事なのに、頭の痛みと不快感は頂点にたっして、母親の死の前後すらちゃんと観れない、ものすごく残念だ。音だけ聞いていると父親からの死を告げる留守番電話の伝言が、虚実のはざまでいっそうリアルに聞こえたりもする。でもそのあたりは、家族の、母親の死という現実の前に謙虚に身をゆだねたいという観る者の思いが(そうあってほしいという小市民的な願いが)この作品のきわどいまでに虚構された残酷な構造を観ないようにさせてもいる、とくに船酔ですっかり弱気になった観客には。(一説によると頭の苦しみは映像によるめまいや酔いなどではなく、たんなる中年化による老眼のためだという人もいて、あまりにも散文的でがっかりする。現実というのはいつもいつも雑駁で、でもどっかおかしくて楽しい。)
IAF Paper No.13  1997 4 22

続・文さんの映画を見た日

 

続・文さんの映画を見た日①
2009年を顧みよう
 新聞に書いていた「文さんの映画を見た日」がうちきりになってから、映画をみる回数は確実に減った。いちばん通っていた映画館、シネテリエ天神がなくなり、百道の福岡市総合図書館ホールでの企画も刺激的でなくなり、なにより是非みておかねば、書けるものをみつけねば、といった切迫がなくなったからだろう。新しいメディア(YANYA’)にまた再連載ができるようになって、すなおにうれしい。
 先ずは、忙しさにかまけて顧みれなかった昨年の映画のことから始めよう。
 少なくなったとはいえ短編もいれると80本くらいは昨年もみていた。でも全体の印象は淡い。圧倒的ななにかを残していったものがないからだろうか(もちろん無い物ねだりしてはいけない、そんなにすごい映画、例えばジャ・ジャンクーの「長江哀歌」とか蔡明亮の「黒い瞳のオペラ」とかがそうそうあるわけがない)。周りに薦めたのは「レスラー」だったけれど、これは主演したミッキーロークの変貌と挑戦に、そのあまりのおぞましさというか、痛々しさにうたれたからで、映画としては通俗的でちょっとずつエピソードを重ねてつないでいくというものだった。登場するレスラーたちがすごくリアルだったけれど、それもそのはず現役のプロレスラー。ファンなら誰でも知っているのだろう、ガラス割り、鉄条網、蛍光灯殴打(当然にも音をたてて割れる)、ガンタッカー撃ち(もちろん体に)などなど正視が難しいものも多い。そういう「痛み」もぼくにはきっとリアルだったのだろう。
 かつてのプロレス界の大スターが落ちぶれて、家族もなくし、スーパー・マーケットの裏仕事をしながらトレーラー(これは米国では貧しさの象徴)に住んでいる。でもレスリングは続けていて、週末ごとに小さなリングに出演している(つまり闘っている)。失敗ばかりの駄目親父の恋、娘との再会、新しい生活への希望、そんなときに心臓の発作を起こし、レスリングを禁止される。いったんは生のためにと受け入れるが、生活の惨めさも加わり再度のちょっと大きめのリングでの挑戦にすべてを投げうってでていく。ボロボロの体で、最後のファイト、得意技のロープから飛び降りてのエルボーキック、死への果敢なダイブへと向かう。映画はロープからダイブした瞬間でフリーズする。こういったストップ・モーションのエンディングは、監督もずいぶん考えて、何度もやり直したんじゃないだろうかと思ってしまう。正直言ってうまくいっているのかどうかわからない、思い入れしたぼくのように判断停止していれば問題はないのだろうけれど。滑稽さやあざとさばかり目についてしまった人もいるだろう。
 でも、その最後の、パセティクでヒロイックに終わるしかない、消え去っていくあり方に感動させられもするのだろう。クールな2枚目で売ったあのミッキーロークが醜くなった顔とぶくぶくの体を曝して映画のなかで暴れるのはすごい。「警官は豚されど若き警官は猛きイルカかジャンプせよ死へ」という歌も浮かんでくる。
 ソクーロフ監督の「チェチェンへの旅」、王兵(ワンピン)監督の「鳳鳴 中国の記憶」はみることができてもちろんれしかったけれど、彼らの他の作品と較べると色褪せて見える。だからけっきょく、今の映画業界そのままに過去の映画の特集とか映画祭の企画での上映などがいちばん心に残ることになる。川島雄三監督特集の「洲崎パラダイス 赤信号」もそのひとつだった。かつての映画人や俳優への、どこかしら郷愁に似た懐かしさを感じ、その顔や表情そのものに今はない時代や生活のリアルを生々しく探してしまう。声の響きや今は聞かなくなったことばの魅力も大きい。手間暇かけたセットへの感嘆、贅沢な衣装、そしてすでにない風景、映画のなかに写し撮られかろうじて残った故に、いっそういとおしくて心震えたりもする。
 田中絹代の特集もあり、「おかあさん」とか「銀座化粧」とかのなかに「月は東に」という映画が、彼女の監督作品として入っていた(地味でないがしろにされる女中役で出演してもいて、そういうことができるのはすごいなと感心させられる)。脚本に小津安二郎が加わっているせいだろうかかなり小津的なつくりになっていて、関係のない静的なシーンが頻繁に挿みこまれる。喋り方や仕草もちょっとぎくしゃくしている。こういった軽い恋愛喜劇のなかで、家族や人生が「ディスカッション」ふうにきまじめに語られたりするのは面はゆいけれど、そういう形の真摯さへの憧れと諦めは多くの人が共有するのではないだろうか。偽善だとののしったり、鼻の先で嘲笑ったりすることなく、でももうそういう関係は喪われているんだ、違う形でしか人の慈しみやつながりは見いだせないんだという、胸かきむしるほどの後悔とあっけらかんとした諦めが同時に生まれるような心持ちのなかに放りだされる気もする。そうしてそれはけして嫌な感情じゃないからやっかいでもある。
  チャン・リュル監督の「キムチを売る女」と「イリ」を偶然続けてみることもできた。映画祭で監督本人のことばを聞いたこともあって、うまく映画のことを語るのがいっそう難かしくなった。出演している役者本人やその仕草に大きなウエイトがあるようにつくられているし、まだ整理されたことばにはできそうにない。自分の何がこんなにも彼の映画に刺激されて反応してしまうのかも、うまくつかめない。
 そうしてやっぱりドキュメンタリーの直接的で素手で何かに触れるような力には、また惹きつけられた。今、誰もがそういうリアリティを怖れつつ憧れているのだろう。中国の今をすくいとる「排骨」、60年代の米国のセクシュアリティを巡る「ハーヴェイ・ミルク」、これも中国の「長江に生きる」などなど。同じドキュメンタリーでも想田和弘監督の「精神」はたしかに宣伝コピーのままに゛衝撃的゛だったけれど、こういった問題を撮ることにどのくらい自覚的なんだろうと、そればかり気になるようなところがあった。どんなことでも考え問い返し続けるほどの力をぼくらは持っているわけがなく、自分ができるわずかなことを誠実に一生かけてやっていくしかない。心を病むというぎりぎりのエッジに立って生き延びようとする人たちを、どういう視線でみる=みないことができるのか、先ずそれから真摯に考え始めることがだいじなのだろう。対象や素材としてでなく、そこを再度自分も、みる人も生きることのできるものにできるかどうか。フィクションであれノンフィクションであれ、表現する人の考え方の反映であり、そういう意味ではドキュメンタリーというのは、「現実」を使ってのフィクションである、ということも再考させられる。原一男監督のこと、彼の一連のドキュメンタリーがいやでも思い返される。
 他には「青べか物語」「春天」「鈍獣」「高田渡的」「グラントリノ」「懺悔」「里山」「ミルク」「あなたのなかのわたし」「小梅姉さん」「ターミネーターⅣ」「空気人形」「キャピタリズム」「Dr.パルナソスの鏡」「アバター」などをみることができた。
 そうやって2009年は終わり、2010年の初映画も2月になってやっとみることができた。なにやらおぼつかない年始めだけれど、こんなふうにまた映画のことを語り始められることを喜ぼう。 
 
続・文さんの映画をみた日②
牛と共にたどり着く場所
 農耕用の牛を最後にみたのはいつだったろうか。近所には農耕馬が多かったから、最後に牛馬を目にしたのは、がらがらと大きな音のする荷馬車に山積みのわら束や農具、それに人を乗せてゆっくりと歩く馬だったかもしれない。中学に入ってからは目にした記憶がないから、60年代初頭あたりが最後だったのだろう。
 祖父が獣医をしていたから(当時はもちろんペットなどでなく、農耕用や家畜としての牛馬や豚が対象だった)、敷地の一角に蹄鉄直しの小屋があった。すり減った蹄鉄を取り外し、爪を削り、新しい蹄鉄をつける作業は子供たちに人気で、ぼくもみんなに混じってよくみていた。丹部さんといういがぐり頭でずんぐりした、いかにも馬と関係あるなあと思わせる人が蹄鉄士だった。酒飲みで、酔っぱらって落ちたドブから這い上がるのに手を貸したこともある。もちろんやせっぽちの小学生が助けになったとは思わないけれど。
 気性の荒い馬はロープに轡(クツワ)を繋がれるだけで前足を高くあげて暴れ、後ろ足の踵で床を蹴り続け、作業にはいるまでにずいぶんと時間がかかっていた。持ち主や丹部さんが時には殴りつけながらドヤしたりしていたこともある。ぎょろりと斜めに見る馬の眼は、なにやら必死なようすで怖かった。
 鞴(ふいご)、真っ赤なコークス、焼けた鉄を金床で打ち、ジュッと水につけて走る湯玉、といった心躍ることについてはまた別の機会に落ちついて書きたい。
 そうやって馬そのものはよく見ていたけれど、実際の農作業を見た記憶ははっきりしなくなる。後ろに人が支える鋤(スキ)をつけて田んぼをまっすぐに進んでいたこと、鋤から黒々とした土がナイフですくい取られるようにシャープな切り口で光りながらぐるり、ぐるりと弧を描いて掻き出されていたこと。ずらり並んだ小さな巴型の刃が回転する攪拌機を引きずって歩くのは、たしか田植え前の水を張った田で、やっぱり後ろから人が支えながら、馬の首から続く細い綱で体側をぴしゃぴしゃ打ちながら進めていた。「どうどう」といったかけ声。そういった光景は、ほんとにどこまでも続くと思えた田んぼのなかにぽつんとあった小学校に通う途中で見ていた気がする。春は文字どおりいちめんの菜の花のなかを歩いて行きながら、幼いなりに小さく感動していた。
 そばでみる機会は多かったけれど、馬はやっぱり大きいいし、張りのある光った筋肉や強い足はもちろん恐くて、さわるどころかすぐ近くに寄るのもおぼつかなかった。突然ジャアと迸ってはねる小便も厄災だ。だから愛馬をなでさすったり、売られる牛に泣いてすがる、といったこともなかったし目にすることもなかった。やけに大きくて荒い毛を梳くブラシがあったのと、焼けた蹄鉄が爪に押しつけられるときの焦げた臭いは今も覚えている。
 そんなふうだったから、牛ということでまっさきに思いだすのは、子供の頃深夜のテレビでやっていた西部劇「ローハイド」、ではなく、ドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」(ニコライ・フィリベール監督)の冒頭に現れる降りしきる雪のなかのごつごつとして頑固な牛の群れだ。映画の全体を象徴するような素朴さ頑迷さ美しさ哀しみ、そして小さなおかしみ。
 「牛の鈴音(すずおと)」(イ・チョンニョル監督)は韓国でドキュメンタリーには珍しく大勢の人がつめかけた映画で、そのことが先ず話題になっていた。農村のドキュメンタリーだから地味で暗く、単館上映でやっと2週間、といったところがふつうだからだろう。 
 韓国も極端な効率化、「近代」化で激変していくなか、美しい田舎風景、牧歌的な農村、懐かしい人々、強い人間関係といったことが郷愁を生み、一方でのヨーロッパからきたばかりのゆっくりした生活や生き方なんて流行もあって、この映画が人を惹きつけたのだろうか。老人、古いことばや習慣、老牛が、一見のんびりと実は必死に生き延びていることへの、離れたところからの感動といったことだろう。機械を使わない農作業、田植え、稲刈り、草刈り、農薬を使わない昔のままの作物作りも共感を呼ぶのか。典型的な頑固爺さん、でも根は気弱、しっかりもので強いオモニ、でも根は優しい、そんな類型化に安心して身をゆだねられるからだろう。映像も奥行きのないように手前(表面)の構図ががっちりとつくられて、絵はがきのように美しい。夕陽のなかを帰る牛車老人という定番も挿まれる。ちょっとあくどくみえる壮年の牛飼い、理解のない子供たち、暴れてなかなか馴染まない新しい牛といった適度な負の要素も加えてある。画面がつなぎ合わされ擬人化され、人と牛が、牛と牛が、生きものと自然が目配せしたりいがみあったりするようにみえる。懐かしく美しくちょっと悲しくでもほほえましい、そんなふうにまとまっている。
 荒れた手、しわだらけの顔、最後の最後に涙のにじむしょぼしょぼした目。よろけながらも必死に坂を上り降りし、進みかねて何度も足をあがかせる老牛、でも牛車を降りない老人。声を荒げ鞭打つことと、牛の餌になるから草にも農薬は使わないと言い張って、よろけながら毎日大量の草を刈り取って与えるやさしさが同居する。働くこと、生き延びること、子供たちを育てることは、ペットの犬に服を着せ靴をはかせて撫でまわすこととはちがう。共同体のなかで一人前にやっていくこと、なめられずに家畜を扱うこと、それはそのまま仕事に収穫に反映するのだろう。
 老牛はついに暗い牛小屋のなかで倒れ、苦しさにもがいて壁を突き破り、頭だけ外に出し横たわって最後を迎える。太りじしの意地悪な嫁、といったふうだった新しい牛が不安げにそわそわと周りをうろついている。埋められ盛られた土のそばの老人。「悲痛」な表情や仕草はなく、なんだか気が抜けてしまって呆としている。
 思わせぶりなナレーションはないし、誠実に時間をかけてつくられ対象への思い入れが溢れるのだけれど、風景のさりげなさあたりまえさ、生きることの汚さ難しさが背景に見えてこないから、前面には了解済みのことば化された光景だけが並んでいってしまう。そのほんのわずかな皮膜の下の苦さと輝き、胸震えるほどの畏れややさしさは浮かび上がってこない。みているぼくらは小さく傷つくこともなく、感傷的になり、現代社会を批判し、そうしてドアを押して「現実」に戻っていく。映画も映像も消費尽くされているからどこかでふいに鈴音が響くことはない。それはちょっとさびしい。
 
<続>文さんの映画をみた日③
記録されるものの向こうへ(1)
 どんなものでもドキュメンタリーはやっぱりすごいなあといつも思うけれど、それは漫然と撮られたものにもなにかしら「事実」のもつリアリティがにじみ出てくるからだろうか。そこに人の無防備な表情やしぐさをみる喜びもあるのだとしたら、どこか覗き見るといった視線がないとは言えない。
 ありふれてでも深い胸をうつ表情や動きを最初にスクリーンの上で感じとったのは柳町光男監督の「ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR」をみた時だった。たぶん肩に乗せたカメラで撮っているんだろうけれど、時間をかけて対象とつきあいながら、訪れた家の居間や台所で撮られた映像や音声。馴染んでしまって、誰もカメラを気にしなくなっているのだろう、暴走族の若者やその家族、特にお母さんの表情やことばがあまりにもふつうで辛辣でびっくりしてしまった。典型的な表情を「描きだす」ために、例えば感極まって潤む瞳へカメラがぐぐっと寄っていく、といったことでなく、生活のなか、人が生きるなかで生まれ続けるものをその場であたりまえのこととしてすくい取っていく、そんなふうだった。それは柳町監督が台湾で撮ったドキュメンタリー「旅するパオジャンフー」にもっと激しい形で現れていて、登場する人たちひとりひとりが今も忘れがたい。同じような思いは王兵監督の「鉄西区」とそのなかの人々にもある。
 ドキュメンタリーは、以前は「記録映画」と呼ばれていたように、子供の頃は学校でみる自然科学的だったり社会勉強的だったりする記録映像がほとんどだった。新しい工場、開発された機械、様々な施設や団体とその活動、探検や珍しい自然動物、そういった、ふだんの生活のなかでは眼にすることのできないものを学ぶための教育や啓蒙の手段として使われていた。だから癌の手術の映像が子供会で上映されたり、「秘境の部族の奇妙な風習」といった、どこかしら猟奇的な雰囲気もするものをみせられたりすることも少なくなかった。「世界残酷物語」をだすまでもなく、人はそういったものを目を背けつつ凝視してしまう。好奇心や過剰なものへの興味は誰にも押さえがたいのだろうか。
 60年代半ばからは、ニュースやその延長としての時事解説などでなく、社会問題などを「中立の報道」でない、自分たちの視点から描いていくことが始まる。大学闘争、三里塚に代表される農民闘争、そうして水俣病などの公害闘争などとして、映像が記録し告知するものとしてでなく、それ自体が表現であり、社会的な立場や闘う主体としての力を持ち始めたということだった。だからそこでは、客観的立場で冷静に外側からみていくといったことでなく(そもそも客観的な視点なんてないんだ、外からというのは撮る側の視点を持たないことだとして)自身の視点、世界観をはっきりと持ったうえで対象を捉え描いていく、つまりフィルム上に映像それ自身の力で生きさせることで、撮る側も撮られ側も、みる者も、映像をくぐって再度生きることのできるものがめざされた。
 切迫した時代だったこともあって、すぐに主体の主張を全面に押しだした、「正義」の視点の、政治的にも過剰なものになっていく。しかしそれがかつてのプロパガンダに堕ちていかなかったのは、走りながら考え創っていかざるを得なかったら、「高み」に立つゆとりすらなかったこと、それ以上に<当事者性>を基本に据え、世界の、自他の硬直した関係を問い直そうとする希求があったからだろう。みる-みられる関係すらまったく新しく作り直そうとする勇気。「圧殺の森」とか「死者よ来たりて我が退路を断て」といった直截なタイトルもあった。
 「三里塚 第2砦の人々」「三里塚 辺田部落」など三里塚を撮り続けた小川伸介はその軌跡を愚直なまでにまっすぐにたどり、そうして農村そのもの、農村に生きる人そのものへの好奇心を肥大させながら山形に移り住んでの映像表現へと走っていく(「日本古屋敷村」など)。そうして同じような方法論をとりつつ、共同体そのものよりもさらにその内の人そのもの、その奥に積み重なった時間へと向かい、でもなにかしらの距離を保ちながら共に生活し、映像としてはけしてクローズアップしない控えめさで、佐藤真の傑作「阿賀に生きる」が誕生する。この日本のドキュメンタリー映像の最高の作品を今もみることができる喜びと、でもほんの数本の作品を残して果てた監督への哀悼の念や無念さが起こってくる(「Self & Others」「花子」「エドワード・サイード」など)。
 その時代のなかで最も中心的となるテーマに沿ったドキュメンタリーもつくられ、原一男監督の「さよならCP」や「極私的エロス-恋歌1974」は衝撃的だった。でもその激しさは、みつめ続けてしまい、対象から目を背けないというのではない、対象が何かやるまでカメラをまわすといったような、どこか消極的な無言の挑発にも似たものだった。最近のインタビューの常道である、クールに突き放して動揺させたり、居丈高なことばや態度で怒らせて撮るほどひどくはないし、その後多く語られたほど、相手に行為(演技)を強要するものではなかったけれど、どこかしら不健康に思えた。煽ったり挑発したりというよりも、カメラを止められない、その場を去れないといったある種の優柔不断さや弱さの表れだったのかもしれない。いずれにしろ撮られてフィルムに定着された映像は世界に向けて剥きだしで投げつけられて予想できない反応を引き起こす。それが後の「ゆきゆきて、神軍」の酷たらしいまでの映像へとつながっていったのだろう。
 人は誰もカメラの前で威圧され気後れし萎縮させられるか、異様に高揚してハイな状態になってしまうかで、常態を保てるのはよほどの人だけだ。そこにある高慢と卑屈、おもねりや優越、屈折は、でも描く側が思う以上に映像として現れてきて、その背景や関係をあぶりだしてしまう。
 そうしてフェミニズムセクシュアリティの問題が「政治」としてでなく浮上してくる。いまや近代の一制度として喪われていく「家族」の問題も多く撮られるようになる。そのなかで、社会問題としてでない、個や世界、そのつながりを考えるものとして差別を丁寧にでも新しい視点でみていこうとする映像も撮られ始め、「大阪物語(ストーリー)」のような真摯な作品も生まれ始める。(続く)
 
続・文さんの映画をみた日④
ゾンビはくりかえし甦り
 米国ではまたぞろ終末論的な映画というか、近未来の大惨事(おおかたは致命的な戦争)後の、荒涼たる地の果てでのおぞましい物語が流行っている。こういった終末観はキリスト教圏では繰り返し現れるものだろうけれど、米国では自国の初めてともいえる、孤立を伴うゆきづまり感がひろがっている。今までにない体験だからなんのことだかわからずに不安や怯えが昂進し、でも結局いつものように独善的でかつひどく単純化されたお話が繰り返されることになる。そうしてますます疲弊も荒廃も進行する、取り返しのつかないまでに。
 「ザ・ウォーカー」という世界戦争後を舞台とした映画をみたけれど、直裁に「西部劇」を模しつつというもので、全体の流れは、神がかった男が何故か知らないけれど引き寄せられるように西を目指すかたちになっている。彼は世界に唯一残ったある本を持っていて、それを運ぶ、届けるのを使命と信じている。こうやって<西>はいつも永遠のどこか、ここより他の救いの地としていつまでも何かを慰撫する郷愁としてあり続けるのだろうか。
 西部開拓史は文字通りの殺戮史であって、先住民を根絶やしにしながら、動物も、樹木もあらゆるものをなぎ倒し根こそぎにしながらの西進であり、それがこの国の根幹に、つまり深層の無意識のなかにけして癒えることのない深く巨大な傷口となって残っている。それをけして認めず、かつての、今の、自分たちの正義を振りかざすとき、人は集団としても精神に異常をきたすしかないのだろう。とうぜんにも起こってくる罪の意識や懺悔を塗り固め封印し消し去ることで、認めて引き受けることによる贖罪とそこからの解放の道も完全に閉ざされるしかない。そういう幼児的な愚かしさ、彼らのいう強さを選んだ以上、不安や恐怖からのヒステリックな攻撃性は永遠についてまわる。
 今も繰り返される他国への侵攻、殺戮行為がきりなく続き、さらにそれを常に正義だと思いこみたい、けして批判を認めない心性が全てを補完し続けてしまう。ヴェトナムではさんざんの酷たらしい攻撃の後、「負けた」ことすら国として(共同体として)引き受けようとはしない。隠蔽につぐ隠蔽、虚飾の上塗りの繰り返し、無意識はますます厚い壁に閉じこめられていき、ときおり個や小さな集団の暴力的で異様な狂気として噴出する。
 国家として疲弊し、溢れる資源の枯渇が見え始めた今、強迫観念に浸された極端な行動が繰り返され、それはますますひどくなるのだろう。そういう国や集団が、今の世界のゲームの規則をつくってしまい、全ての人を引きずりながら滑り落ちていっている。無意識のなかに押しとどめ、けしてことば(意識)にすることなく、でも深層では不安にびっしりと取り囲まれ、恐怖で絶叫し続け、それを憎悪へ転化して、暴力行為を続けているのが、彼の国だろう。わたしたちも一蓮托生、引きずられていつか最後の巨大な滝を落ちるしかない。未来なんて、ない、ついそう断言してしまいそうになる、彼らがチープな映画のなかで何度も語るように。
 米国映画のなかでゾンビは復活し続ける。今までどうしてあんな映画が繰り返されるのか不思議な気もしていたけれど、こんなふうに「西部劇」の郷愁とセットで語られるとよくわかる。先住民の徹底した殲滅、「開拓者」どうしの血みどろの闘い、その記憶、それは底知れぬ恐怖でありそれから反転しての暴力、攻撃、そうしてそこで生まれてしまった歪んだ快楽もあるのだろうか。破壊すること、殺すことへの何重にも屈折した底知れぬ後悔と恍惚。しかもそうやってマサカリ(虐殺)の上に築かれた今の繁栄は、ごく一部の虚栄でしかなく大半はかろうじて「中流生活」を保つことに汲々とし、またはそこから転落した「悲惨な」と自身で思いこむ貧しい生活のなかに放りだされている。だからその屈折が単純だけれどすごく大きいのはわかりやすい。
 もう一つの伏流としてのテーマとして、「カニバリズム(人肉食)」もある。これもキリスト教圏では繰り返される罪のテーマだ。こんなふうにいうと身も蓋もないけれど、食べることも食べないこともその時代や社会の共同体の掟以上でも以下でもない。脳死判定にみられるように、臓器利用(摘出)のための新たな合意が、法的にも、つまり公的な掟としても次々にかわっていくように。より生きのいい臓器を使うには、身体(心臓)が動いている(生きている)死、を仮構するしかない。70年代初期の近未来映画「ソイレント・グリーン」では「食べる」ことは死とセットで高度にシステム化されたものとして描かれていた。食べる、食べないがへいぜんと語られるときは、そのことに関しての論理や倫理が揺れている、堅固なものでなくなっているからで、安定した社会ではこんな文字どおり生死を分かつ重大なことが揺らぐことはけしてありえないだろう。いずれにしろ、本能が壊れたといわれても、種の保存が最優先課題としてあるのは微動だにしない要件だろうから、そこから意識下も含めて全ての決定はなされていくのだろう。
 現行の映画ではもちろん「食べない」派が正義であり、唯一の正常さの証であり、そこから徹底した露骨な差別、排除、殺戮も生まれる(でもどうしてこうも単直な二元論、正負論として問題がたてられるのだろう、いくら単直な正しい答をだすためだとはいえ)。手が震える奴、光る奴、黄色い奴等々は食べてる奴だ、殺せ!になる。やられる前にやれ、食われる前に食え!ということだろうか。もちろんゾンビは「人肉食」派だ。君はヴェジタリアン?
 
続・文さんの映画をみた日⑤
死にぬく力
 ことのほか暑い夏だった。
 父が6月に逝ってしまい、8月に下宿されていた中村さんが亡くなられた。
 家はがらんどう、ゴーゴーと風が吹き抜け、心はボウボウの曠野、深淵がのぞいている。
 それでも飯を食い誘われれば酒も飲み、そうして映画もみる。
 まことに人は救われがたい、ではなく、だから人に救いはある、ということだろうか。
 そんなふうに世界は、映画は、人を魅惑する、誑しこむ。
 そう?
 そうだろうか。
 病室のなかで唯一動いている計器にばかりつい目がいってしまい、規則的に繰り返される心臓のグラフ、数値化された血圧や酸素飽和度に意識がとられてしまう。だから個室に移って5日目、ベッドに横たわっている人が荒い音の呼吸を止めてグラフが乱れたときはとても異様に感じられて、反射的にナースコールを押してしまう。すぐにとんできて「そんなことでよばないで下さい」なんて言わず、丁寧に対応しつつも強く肩が揺すられて呼吸が回復する。そんなことを見ていたからだろうか、次の時は頬を叩いたり腕を揺すった後、ガクンガクンと音がするほど強く肩を揺する。「息をして、息をして」と、息することを忘れてるよ、ときつく注意するように。呼吸は再開される。でも。
 昇圧剤はまだ半分以上残っていて血圧もかろうじて80前後にある、酸素飽和度もしっかり93を越し、心拍は120。でも中村さんはまた呼吸をしなくなった。口を開いたまま続いていた荒い息が不意に止まる、2秒、3秒、10秒、「中村さん、中村さん息をして、息を」、耳元で怒鳴り、それでも駄目なときは肩を掴んで強く揺する、周りの誰も手助けしてくれない。呼吸が再開される。ほっとしつつも動揺はます。どうすればいいのか、なにをしたらいいのか。
 頭をなで、腕をさすり、頬を軽く叩き続ける。連絡の取れない担当でなく若い医師がよばれてきてそばに立ち、身構えている。これ以上無理に息をさせて苦しさを長引かせない方がいいと思いつつ、それは見殺しにすることじゃないかと拒んで、でももう声を荒げても身体を揺すっても呼吸が再開することはなかった。TVドラマのように看護婦がやさしく腕を押さえて止めさせるというようなこともなく、ただ受けいれるしかない。
 病室の壁にかかった時計をちらりと見て医師が時間を告げる。「計測器のグラフでは心音のパターンがあるようにみえますがこれは身体のなかに残るある種の電気的な反応で、心臓は動いていません」。若い医師は緊張し声も少しうわずっている。
 嗚咽しながら、お世話になりましたとだけ言おうとして「ありがとうございました」ということばになってしまう。誰にたいして、誰が言ったのだろう。
 「ハリーとトント」の映画評を新聞に載せたとき、「せめてハリーには穏やかな死を、と思わずにはいられない」と書いたけれど、でも自分が直面してしまうと死を思いたくないし、遠ざけたいから、死を考えなくなってしまう。人工呼吸器は使わない、極端な延命策や心臓マッサージはしないでほしいと冷静に頼んで記録してもらっても、いざというときには肩を揺すり、頬を打って「息をして、息を」を叫んでしまう。無理に身体にだけ息させる、そういうことが何を意味するのか考えられない、意識もなく荒い呼吸で最後の力を振り絞っている人の苦しみを引き延ばしていることも思いつけない。でも誰も手をかさないことが、病室のシンと張りつめた静かさがそっとなにかを押しとどめる。
 こんなんにも力をふりしぼらなければ人は死ねないという不可解なまでの逆説。生きぬくということばを人は時にヒロイックにも使うけれど、死ぬために生きぬく、というか、死ぬために死にぬくのにはほんとにすごい力がいる。生きることで力を使い果たしたら人はどうやって死ねるのだろう。
 ティム・バートン監督の映画「ビッグ・フィッシュ」ではベッドの上でのわざとらしいしぐさや死の間際の劇的な覚醒やことば、達観したような表情もなく、見まもる息子とつくりあげたファンタジーのなかで静かに息を引きとる。鼻へ酸素を送る細いチューブがいつも頬に食い込んでいるのは映像的な解説なんだろうか、それとも米国ではあいかわらずの効率性から、ずれないようにきつく止めるのだろうか、なんだか嘘くさいなあと思ったことも遠ざかる。
 この映画のなかで、服を着たままバスタブに沈んでいるアルバート・フィーニーがすっと浮き上がってきて、見つめていたジェシカ・ラングがやっぱり服のままバスタブに入って、静かにフィーニーを抱きしめる場面ははっとするほど美しく、20世紀の名ラブシーンのひとつだと思ったことも、小さな気泡になって部屋のなかに消えていく。
 水をくぐって、人はどこへ行くのだろう。「アンダーグラウンド」での水をくぐってシテール島(桃源郷)へと渡っていくシーンは美しかったし、「亀も空を飛ぶ」の池に捨てられた子供が水のなかで沈みながら動く姿は、悲痛きわまりないけれど、でもやっぱり異様な力に満ちていて美しかった。
 中村さんは死という水をくぐってどこへ行ったのだろう。無、ではない気がする。あれほどのエネルギーがぽんとゼロになることはないだろう、きっと。神秘主義的にではなくそう思う。生はもっと曖昧でかつ自由というかいいかげんなはずだ。厳格なまでに確固としているようにみえる個体の心身の区切りは、そう思いこんでいるこの時代での区切りでしかない。
 天国とか甘くあたたかい夢の王国といったことでなく、そういったこの世界の貧しい想像力の延長にあるディズニーランドでなく、ことばでいうとお決まりになってしまうけれど、なにもなくてでも全てがある、そういう世界というか存り方。もちろんそういう言い方そのものが現在というか現感覚的だけれど、そういったふうにしかいえない存りようみたいなことだろう。
 <神様>わたくしにも穏やかな死を。
 
続・文さんの映画をみた日⑥
笠智衆の林檎
 荒れ果てた菜園の一部を整えて空豆を植えた。中村さんが夏豆という名を教えてくれた野菜。11月第3週の終わりまでにすませることができたし、花田種物店のいい種だから来年の6月にはおいしい大きな豆をどっさり届けてくれるだろう、きっと。土を起こして石灰も蒔いたし、下肥もほどこした。前後にたっぷりの水を撒き、祈りも捧げた。
 翌日には祝福するように柔らかい雨が降った。
 薄曇りの空の下、海も鈍い色に光っている。いつものように鴎が波よけのコンクリートの上に並んでじっとしている。車が走っても、水産高校の生徒たちが怒鳴りあっても、知らん顔だ。
 夕暮れにはまだ少し水色の残った空の端がうすあかく染まり、いくつかの光の筋が金色に射すだろう。海岸のどこかでは散歩中の初老の夫婦がうっとりと水平線をみているだろう、きっと。冷たくなった風に襟を立て、ちょっとふたりで顔を見あわせてまた視線を戻すのだろうか。夫は夕飯のおでんに熱燗がつくといいなあ、お母さんもちょっとのむといいのになあと、そんなことを思っているかもしれない。わかってるわよそんなこと、武さん、と奥さんは胸のうちで夫を名前で呼びながら、単純でかわいいわと思ったりしている。もう゛お母さん゛は止めてとも思いながら・・・・・。
 そんなたわいもないことをわたくしが思ってしまうのは、そういう生活やあり方に憧れていたからだろうかと、ふと内省的になったりもする。なんでもつい深読みしたり分析したりするのはわたくしたちと時代の悪い癖だ。この社会に生きるなかで育まれた想像力がそういうあり方をなにかの典型として引き寄せているだけのことだ。でもなかなかにあたたかみのある空想だ、おでんとぬくまった布団と。少し酔って、甘えてくれたらいいなあ、俺も甘えられるし・・・・・といったことだろう。
 そうだろうか。
 きっとそうだ。
 埒もなくそんなことを思っていたら、いつのまにか空は群青に塗り込められ、微かな水平線の輝きは、とうとう桃色にも染まらずに消えるところだ。夕焼けもなく、一番星もなかった。
 風が庭を抜け、黄色い菊の群を揺すっていく。一枝折って、夕食前の彼らに届けよう。先週買った純米酒を抱えていこう。おでんとあたたかみのお相伴にあずかって、ふたりの気持ちをちょっとかき乱してあげて、そうして早めに戻ってこよう。珈琲は自分で淹れよう。ひとりのむ珈琲はさみしいだろうか、笠智衆の林檎のように。いいやそんなことはない、あたたかさもやさしさの移り香もまだ残っているし、なんというか、かすかな愛や性の残照もわたくしをほの朱くしている。世界は美しい、人はやさしい、きっとそう思えるだろう。
 明日はまた早起きして海岸を散歩して、打ち寄せられた烏賊や若布を拾って夕食のご馳走にしよう。残ったら保存しておいて、時には彼らを(誰のことやら)招いてもいい。たぶんボルドーのワインがくるだろうから、メインはあれで、サラダはこれで、デザートは・・・・・あれもこれも、思うことは楽しくそしてせつない。
 おだやかな喜びはどこかで哀しみに通底していく、わたくしたちのあり方、つまり世界のあり方そのものが哀しいからだ。暴力や快楽は苦しく痛く濃密だけれど、どこかあっけらかんとしていて限定的であり深みにかけるから哀しくはない。
 そうだろうか。
 
続・文さんの映画をみた日⑦
松の内も映画も終わった
 さあ、松の内も過ぎた、粥も食べたし、注連飾りも下ろした、節分の豆も蒔いたし、菱餅も食べた、そろそろ雛人形も下ろさなくては、はちょっと早すぎるかもしれない。でもいつのまにか世界も終わったようだし、去年みた映画のことも忘れないうちに書いておかなくては。
 昨年は40本ほどの映画をみた。我が家で、他所でたいせつな人がたてつづけに亡くなってたいへんな年だったけれど、思ったよりたくさんみていたのは「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」や、偶然東京で遭遇したユーロスペースの「山形国際ドキュメンタリー映画祭特集」などでまとめてみたからだろう。家族同様にしていて最後は我が家にいっしょに住んでいた中村さんは、3月の最初の入院から半年もたたずに逝ってしまった。介護の迷惑をかけたくないとそんなふうにどこかで感じていたのかもしれない、と思ったりするとまた涙がでる。
  福岡市にはアジア映画祭がふたつもあるし、図書館がアジア映画中心のアーカイブを持っていて、頻繁に上映もやっている。そういう恵まれた所にいるからアジアの映画を数多くみることができる。
 今年のアジアフォーカス福岡国際映画祭でのチャン・リュル監督「豆満江」はやっぱりいつものように激しくて哀切だったけれど、今までの「キムチを売る女」や「イリ」よりは穏やかになっている。今回も監督本人が舞台挨拶にみえたけれど、そのどこか益荒男感傷派とでもいったことばや雰囲気はいつもとかわらず、なんだかうれしいような残念なような気持ちにさせられる。トルコのベリン・エスメル監督の「11時10分前(10to11)」は主演の男性が生みだすリアリティに圧倒されるけれど、職業俳優でないゆえの力や雰囲気がそのまま現れてきていてすばらしかったけれど、彼が監督の叔父さんにあたる人だときかされて、だからあんなにも自由にできるのかと納得させられた。そういうことも映画の上映後の解説や質疑応答のなかででてき、感じられることで、そういうことがあるのも楽しい。フィリピンのメンドーサ監督の「ばあさん」が描く雨期に水没した街の街路を交通手段としての舟がゆく映像には驚かされる。異様でそして美しい、なにもかも終わった後のような光景。そういった作品をみ、観客賞を受けた台湾の「お父ちゃんの初七日」などもみたけれど、なんだか淡い印象しか残ってない。それはみる側、つまりわたくしの問題であるらしく、山形映画祭にもうまくコミットできなかったようだった。
映画祭はあるテーマに沿ったたくさんの映画がまとめて上映されるし監督などの関係者も来て通常では考えられないほどの情報を得られたりするし、感激も大きい。でも経済的にも心身的にも全部みるなんてことはほぼ不可能だし、難しい。1日に60分以上の映像を5本以上みることができる人はそうそういない。わたくしも体調のいいときで間をあけつつ3本がいいとこだろう。短いのが混じったり、かなり無理しても4、5本。
 山形映画祭特集は山形で開催されているドキュメンタリー映画祭を、特別にまとめてユーロスペースで上映したものだから、中心になる2009年の作品だけでなく過去の作品も上映されてうれしい企画だった。「ぼくの好きな先生」のフリューベック監督の「音のない世界」、も過去に上映された作品としプログラムに入っている。
 
続・文さんの映画をみた日⑫
王兵監督「無言歌」 - 声のない叫び
 王兵監督の「無言歌」をみてきました。彼の作品は、それぞれのシーンのなかではあたたかな安堵に包まれつつ、全体では緊張して居住まいを正させられる、そういった気持ちにさせられます。でもそれはテーマの厳しさに竦ませられてといった威圧的なことでは全くありません。つらく無惨な、おそらく解決不可能な人の犯す罪を暴きながらけして映像も映画自身も居丈高でもなく懺悔を強いるものでもありません。だからいっそう深々と、遠くまで届いていきます。小さなでもしっかりとした声が濃い闇を抜け争いの喧噪をくぐってかすかにでもはっきりと届くかのようです。
 この「無言歌」でも、あまりにもつらいことがみごとな映像で真摯に描かれていて、ただただ呆然とさせられてしまいます。王兵監督の初めての非ドキュメンタリー映画です。劇映画とかフィクションというと少しちがってしまう気がして、非ドキュメンタリーといったへんなことばになってしまいます。直裁に「映画」といえばいちばんいいのでしょう。
 あの「鉄西区」の自由さ、例えば浴槽のなかにまで踏み込んでいくような、めまぐるしいまでの自在さと異なり、カメラを固定し静かにじっと撮っていきます。ですからみているわたくしたちもこちら側の一点から対象を凝視することになります。存在感溢れる人たちの顔や手、纏った襤褸、剥きだしの砂岩の上に敷かれた砂まみれの布団がこわいほどリアルに迫ってきます。臭いや淀みきった空気も感じられるほどですが、でも息苦しさはなく、荒涼とした広さや虚ろさが浮きあがってきます。
 わずかな台詞、変化のない表情、決まりきった動き、それらの積み重なりのなかから時代の悲惨が吐きだされてきます。誰も生まれる場所も時代も選べない、ということの哀しみが全部を覆っていきます。戦争はどうしようもなく酷たらしく悲惨です。しかしそこには圧倒的な暴力と剥きだしの死がひしめいていて、妙な言い方ですが速度と彩りがあります。この「無言歌」で描かれる中国の1950年代後半の反「右派」闘争とよばれた政治闘争と強制労働キャンプには、止まったままの時間とその底のどろりと淀んだ暗がりがあるばかりです。
 反体制派として「右派」と断罪され、蔑まれて最果てのキャンプに追放された人々は、荒れて乾いた北の地で寒さに震えながら石に爪を立てるように開墾をしています。地下に掘られた剥きだしの宿舎。国全体の飢饉が重なり食料は途絶え、次々に死んでいきます。飢えの苦しみからの様々な悲惨な逸話が描かれ、死体の衣服を引きはがして売ることから人肉食までもが語られます。上海から何日もかけて医者だった夫に会いに来た妻が、衣類もはぎ取られ野ざらしにされた死体と向きあう無惨なシーンもあります。
 こういった全ては、でも、中国という限定や、ある特別な時代ということからはみ出し続け、わたくしたち自身の上にも覆い被さってきます。生理的な痛みさえ生まれ、悲しみが胸をふたぎ、痺れたように無感動な状態に放り込まれます。世界の不平等も社会の不穏もいつの時代にもどこにもありふれてあったのであり、そういう恐怖や暴力の圧倒は今も酷たらしいほどに人を襲い続けています、この平板に思える日常のなかでも。
 そうして結局人は呆気なく死んでいきます。こづきまわされ、尊厳のかけらすら喪って縮みあがって死ぬのも、最後の力をふりしぼって<どこか>へ向かって走りだして死ぬのも、でも死にちがいがあるのだろうかと、つい自分に問いかけてしまいます。死として具現されることになにかのちがいがあるのだろうかと思わせられてしまいます。
 家族に手をとられ清潔な夜具の上でこときれるのと、酷寒の曠野で汚穢の泥濘のなかに溺れ死ぬのと、のたれ死に吹き曝され狼に食いちぎられて果てるのと、どうちがうのだろうか。痛みや恐怖や絶望、さらにそれらへの予感の怯えを思おうと息もできなくなるほどで背筋も凍りますが、でもそのほんのわずか先では感覚さえ消えたただの空白が広がっているばかりでなないのでしょうか。
 歴史の残酷な滑稽さとでもいうように、不意に終止符が打たれます。始まりと同じような当局の場当たり的な一時しのぎです。収容者のあまりの死亡率の高さに、健康なもの、つまり死なずに家まで帰れるものは、帰還させられることになります。食料を「自給させよう」ということでしょうか。離婚させられた者や家族からも放棄された者はどこへ向かったのでしょう。
 右派として、罪人としてキャンプに送られ、そこで班長のようなことをしていた男に、隊長が「ここにとどまって次期も手伝わないか」ともちかけます。「故郷に帰ってもお前はいつまでも「右派」なんだ。今は釈放されてもこの先どうなるか誰もわからない」と。
 最後、男はみんなの去ったガランとした地下壕のなかでひとり汚れた布団にくるまって横たわります。誰も、20世紀中葉という時代からも、中国からも、さらには人であることからも逃れることはできません。死という最後通牒だけがあるだけです。
 叫びだしたくなるような怒りや哀しみから、涙も溢れてしまいますが、それがある種のカタルシスとしてなにかを昇華し、浄化し、ささやかな安逸をもたらすことはありません。流れた涙の分だけ、もう一段暗い方へ傾きます。もちろん勁い作品ですからそれと気づかないうちに、なにかの力も渡されていて、どこかに毅然としたものも生まれはします。でもそれは希望とか前へと向かう力とかではありません、そういった現世的な効能は生みません。人は誕生させられ、そして死なされるということを四の五の言わずに棒で殴るように納得させられるのです。凍った映像がみごとなだけにそれはいっそうつらいほど腑に落ちます。
 美しい映画です。
 
続・文さんの映画をみた日⑭
タヒミック再び:映画祭のフィリピンとタイ
 キドラット・タヒミックの名は福岡の人には特別なものがあるかもしれない。90年代にはアジア展やミュージアムシティ天神などで何度も来福し美術展やパフォーマンスを展開していた。人なつっこく、不思議な暗い深さもあって、人を惹きつけて止まなかった。1942年の生まれだからもう70だ。
 今年、福岡市がだしているアジア賞を受賞したのでその記念に来福し、彼のもう一方の表現である映画の上映と講演も行われた。6時間に及ぶ上映、講演、パフォーマンスに魅了された人も多かっただろう。会場のエルガーラはいっぱいだった。最後は彼らしく家族や演奏家全員を舞台によんで踊って、喝采のあたたかい拍手を浴びていた。
 そこでは最初期の「悪夢の香り」(1977年)、「虹のアルバム 僕は怒れる黄色'94」(94年)、それに制作中の「マゼラン」が上映された。制作中といっても、創りつつ上映しつつ絶えず変更していくのも彼のスタイルだから、完成ということはないのかもしれないけれど。
 同時期に開催されていたアジアフォーカス福岡映画祭でも「月でヨーヨー」(81年)と「トゥルンバ祭り」(83年)が特別無料上映された。「トゥルンバ祭り」は彼としては珍しく整ったまとまりのある作品で人気も高い。破天荒なまでの自由さや強さがないという声もあるけれど、わたくしはいちばん好きな映画だ。
 あまやかなほどのせつなさ、息苦しいほどのいとしさ、森や村の暗さ深さ。それは喪われていくものへの、無垢の子ども時代への、無償の愛や慈しみへの、そうして映像のなかの共同体が壊れていくことへの哀しみであり、「近代」に陵辱され続けたアジアへの哀しみでもある。いったいどれだけのたいせつなものがむざむざと破壊され喪われたのだろう。
 家族を父を愛し、隣人を愛し、村を愛し、祭りにも興じる男の子が、時代の大きなうねりに巻き込まれ、それを拒みつつもでも受けいれざるを得ないなかで、何重にも屈折し、世界からはね返され、でもどこかで世界を生を愛し信頼し続けていく。そんなふうにもいえる。
 フィリピンの村。スペインや米国からの大きすぎる影響のなかでもかろうじて保たれていたつながりは寸断され、都市が、世界が一気になだれ込んできて、村落の親密な共同性はたちまち崩壊していく。頑固で保守的な父に反抗し都市へと出ていく息子、という形でなく、父の近代的な市場経済への没入と成功を嫌悪し、どうにか続いている村の祭りや関係をみんなと共になんとか維持していきたいと願っている息子というあり方。近代化の脅威、「文明」との対立や憎悪、親族・地域共同体の崩壊といった図式的なまでの構図の上に、ドキュメントとしての村の祭りが丁寧に描かれて映画は始まる。混乱しつつもどこかにまだ根を残している息子や家族の生活の活き活きとしたありかたが、映画としてのリアリティも底支えする。
 強権的な父と優しい叔父という、世界共通の神話のヴァリエーションが、ここでも形を変えながら展開し、普遍性を与えていく。それがタヒミック作品にしてはこじんまりとまとまってみえるこの映画に強さと深さを与えているのだろう。すごくシンプルでそうしてどこまでも限りがないような物語になっている。
 祖母を中心にして手作りで行われていた小さな張り子人形作りが、外部(西洋)からの注文で一気に拡大し、市場経済、世界事情に巻き込まれ何もかもが急速にかわっていく。購入されるテレビや扇風機に嫌悪を示し、息子が商売にのめり込んでいくのを、なによりつくる人形が乱雑になっていくことを嘆き怒る祖母とそれに寄り添う主人公の少年。その少年にやさしく寄り添う、父と同世代のおじさん。彼は今も手作業で鉈をつくる鍛冶屋さんだ。戦争で放棄さたトラックの部品を材料に使い、拾ってきた看板も利用している。少年は時間さえあれば彼の所に行っては手伝っている。
 でも確実に全ては動いていき、流れていき、よどみのなかに残されたものはそこにじっと沈んだまま少しずつくすんでいくしかないかにみえる。
 アジアの、世界のどこにでもあった避けがたかったできごと。でもほんとに避けられないことだったのだろうか。今もどこかに、近代の喧噪から離れて静かな生活を送っている共同体はないのだろうか。おそらく空間的にでなく時間的にだろうけれど、自身の生き方として巻き込まれない、というあり方を集団で維持していくというようなことはあるのかもしれない。
 映画は生活の具体をとおして語られる。子供のどうやっていいのかわからない混乱と怒り、祖母の何もかもが喪われていくことへの不安や哀しみ小さな爆発があり、でも結局全ては黙って過ぎていくしかないと諭すかのように続けられていく。尊敬し自慢していた父の変貌に少年は動揺し、かわらずに森や村とつながっているおじさんの生き方に寄り添いつつも、どこかでそれにも限界でもあると感じてしまうことも描かれていく。
 タヒミックの他の映画にも通じるユーモアが溢れ、諧謔も重ねられるけれど、みているわたくしたちに満ちてくるのは悲哀であり、でもそれはパセティクな否定には傾かない。「ブンミおじさんの森」のようにどろりと暗い底なしの深みや怖さは生まれない。彼らがつくる新聞紙の張り子の人形の軽さにどこかでつながっているかのようだ。深刻には語らないし語れないけれど、でも、だから、まだ親から離れられない従うしかない子どものもつ苦しみや哀しみがそのまま丸ごとさしだされてもいる。それは誰もの胸をうつ。

 アジアフォーカス福岡国際映画祭は少し装いを変えたようで、カタログもこじんまりとした判形になった。トルコの「未来へつづく声」(オズジャン・アルペル監督 2011年)は深刻な内容を小さな声で語っていく。タルコフスキーを思わせる映像で描かれる風景や教会はどこも静かな抒情に満たされていた。
 タイのウイチャノン・ソムウムジャーン監督の「4月の終わりに霧雨が降る」( 2012年)は、そういうことばを使って言うとすれば、インディーズ、独立系の映画。なぜこういうことをいうかというとそういったことが映画の成りたちにも関わっているし、映画のなかでも語られるから。
 バンコクで暮らす若者が失業し故郷に帰って家族や友人に会うという流れの映画で、所々に監督が自分の家族をインタビューした映像が挿まれる。その構造はわかりやすそうでそうでもない。実験映画的な難解複雑さではないけれど、でも単純に、撮られている映画そのものとそれを撮っている現実が交互に、というのでもない。映画についての映画だとか、映画のなかに私的な視点を家族をインタビューをとおして貫くということでもない。そういった非整合的整合性はどこかで放棄されている。巧みに隠されてとか複雑な構造によってというのでなく。
 抒情と冷静な相対化の視点が滑らかにつながっていく。つながりが滑らかだから違和感が生まれないし、納得させられる。おそらく監督(表現者)の思いの流れに乗っているのだろう。丁寧な、長すぎるほどの描写が退屈でなくここちよいのはそういう流れに乗せられているからだろうか。こけおどしや「知的」な操作に傾かずに、静かに語りかけてくる。「でも何を語りかけているのだろうか?」という問いが、生まれるかも知れない。
 「何を・・・?」という問いに答えるように、一度だけベッドに横たわる女性の短いシーンがある。とうに喪われた母、だろうか、そうしてそばにいのは誰だろう。
 社会的なできごと、おそらく学生時代の政治闘争といったようなできごとが挿入される。たぶん実兄が深く関わったのだろう。彼はそのことを今も背負って生きており、解決できずにいるようで、インタビューのなかで硬いことばを弟に向ける。
 若い女性、かつての恋人との対話のなかに、唐突にカミュの名がでてくる。青春の記憶や若さの饒舌としてでなく、おそらく、今、いろいろな人が世界中の様々な場所で改めてカミュのことを彼の著作を問い返そうとしているのだろう。
 バンコクの路上の撮影現場で、こんなふうな楽しいやりとりがある。撮影に興味を持って「どんな映画なんだいと」問いかける青年に、「インディーズ映画さ」現場担当者が答える。そこで彼はもう一度問いかける。
「インディーズ、ってなんだい?」 
「低予算映画ってみたいなことだな」
「じゃあ『ブンミおじさんの森』みたいなものかい」。
思わず笑った人も多かっただろう。
 タイの映画だからというだけでなく、多くの人がその「ブンミおじさんの森」の監督、ウィーラセタクンの名を口にしたがっている、自分にちかい名前として。わたくしもそうだ。彼の表現が、ほんとうに必要とされている。この生きがたい時代に、何をどう考えたらいいのかまるでわからなくなってしまった今の世界に、明快な答えを求めるのではなく、問いそのものを問い返し、答がないことを受けいれる力を持つこと。近代にまみれた狭い考え方の枠組み自体を取り払うことで、いろいろのことがすごくシンプルでそうして限りなく深いと知ること。そういったことが彼の名をとおして、ブンミおじさんの森をとおして伝わってきているのだろうから、今。
 
続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。当時書いたものはずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もある。
 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。

続・文さんの映画を見た日①
2009年を顧みよう
 新聞に書いていた「文さんの映画を見た日」がうちきりになってから、映画をみる回数は確実に減った。いちばん通っていた映画館、シネテリエ天神がなくなり、百道の福岡市総合図書館ホールでの企画も刺激的でなくなり、なにより是非みておかねば、書けるものをみつけねば、といった切迫がなくなったからだろう。新しいメディア(YANYA’)にまた再連載ができるようになって、すなおにうれしい。
 先ずは、忙しさにかまけて顧みれなかった昨年の映画のことから始めよう。
 少なくなったとはいえ短編もいれると80本くらいは昨年もみていた。でも全体の印象は淡い。圧倒的ななにかを残していったものがないからだろうか(もちろん無い物ねだりしてはいけない、そんなにすごい映画、例えばジャ・ジャンクーの「長江哀歌」とか蔡明亮の「黒い瞳のオペラ」とかがそうそうあるわけがない)。周りに薦めたのは「レスラー」だったけれど、これは主演したミッキーロークの変貌と挑戦に、そのあまりのおぞましさというか、痛々しさにうたれたからで、映画としては通俗的でちょっとずつエピソードを重ねてつないでいくというものだった。登場するレスラーたちがすごくリアルだったけれど、それもそのはず現役のプロレスラー。ファンなら誰でも知っているのだろう、ガラス割り、鉄条網、蛍光灯殴打(当然にも音をたてて割れる)、ガンタッカー撃ち(もちろん体に)などなど正視が難しいものも多い。そういう「痛み」もぼくにはきっとリアルだったのだろう。
 かつてのプロレス界の大スターが落ちぶれて、家族もなくし、スーパー・マーケットの裏仕事をしながらトレーラー(これは米国では貧しさの象徴)に住んでいる。でもレスリングは続けていて、週末ごとに小さなリングに出演している(つまり闘っている)。失敗ばかりの駄目親父の恋、娘との再会、新しい生活への希望、そんなときに心臓の発作を起こし、レスリングを禁止される。いったんは生のためにと受け入れるが、生活の惨めさも加わり再度のちょっと大きめのリングでの挑戦にすべてを投げうってでていく。ボロボロの体で、最後のファイト、得意技のロープから飛び降りてのエルボーキック、死への果敢なダイブへと向かう。映画はロープからダイブした瞬間でフリーズする。こういったストップ・モーションのエンディングは、監督もずいぶん考えて、何度もやり直したんじゃないだろうかと思ってしまう。正直言ってうまくいっているのかどうかわからない、思い入れしたぼくのように判断停止していれば問題はないのだろうけれど。滑稽さやあざとさばかり目についてしまった人もいるだろう。
 でも、その最後の、パセティクでヒロイックに終わるしかない、消え去っていくあり方に感動させられもするのだろう。クールな2枚目で売ったあのミッキーロークが醜くなった顔とぶくぶくの体を曝して映画のなかで暴れるのはすごい。「警官は豚されど若き警官は猛きイルカかジャンプせよ死へ」という歌も浮かんでくる。
 ソクーロフ監督の「チェチェンへの旅」、王兵(ワンピン)監督の「鳳鳴 中国の記憶」はみることができてもちろんれしかったけれど、彼らの他の作品と較べると色褪せて見える。だからけっきょく、今の映画業界そのままに過去の映画の特集とか映画祭の企画での上映などがいちばん心に残ることになる。川島雄三監督特集の「洲崎パラダイス 赤信号」もそのひとつだった。かつての映画人や俳優への、どこかしら郷愁に似た懐かしさを感じ、その顔や表情そのものに今はない時代や生活のリアルを生々しく探してしまう。声の響きや今は聞かなくなったことばの魅力も大きい。手間暇かけたセットへの感嘆、贅沢な衣装、そしてすでにない風景、映画のなかに写し撮られかろうじて残った故に、いっそういとおしくて心震えたりもする。
 田中絹代の特集もあり、「おかあさん」とか「銀座化粧」とかのなかに「月は東に」という映画が、彼女の監督作品として入っていた(地味でないがしろにされる女中役で出演してもいて、そういうことができるのはすごいなと感心させられる)。脚本に小津安二郎が加わっているせいだろうかかなり小津的なつくりになっていて、関係のない静的なシーンが頻繁に挿みこまれる。喋り方や仕草もちょっとぎくしゃくしている。こういった軽い恋愛喜劇のなかで、家族や人生が「ディスカッション」ふうにきまじめに語られたりするのは面はゆいけれど、そういう形の真摯さへの憧れと諦めは多くの人が共有するのではないだろうか。偽善だとののしったり、鼻の先で嘲笑ったりすることなく、でももうそういう関係は喪われているんだ、違う形でしか人の慈しみやつながりは見いだせないんだという、胸かきむしるほどの後悔とあっけらかんとした諦めが同時に生まれるような心持ちのなかに放りだされる気もする。そうしてそれはけして嫌な感情じゃないからやっかいでもある。
  チャン・リュル監督の「キムチを売る女」と「イリ」を偶然続けてみることもできた。映画祭で監督本人のことばを聞いたこともあって、うまく映画のことを語るのがいっそう難かしくなった。出演している役者本人やその仕草に大きなウエイトがあるようにつくられているし、まだ整理されたことばにはできそうにない。自分の何がこんなにも彼の映画に刺激されて反応してしまうのかも、うまくつかめない。
 そうしてやっぱりドキュメンタリーの直接的で素手で何かに触れるような力には、また惹きつけられた。今、誰もがそういうリアリティを怖れつつ憧れているのだろう。中国の今をすくいとる「排骨」、60年代の米国のセクシュアリティを巡る「ハーヴェイ・ミルク」、これも中国の「長江に生きる」などなど。同じドキュメンタリーでも想田和弘監督の「精神」はたしかに宣伝コピーのままに゛衝撃的゛だったけれど、こういった問題を撮ることにどのくらい自覚的なんだろうと、そればかり気になるようなところがあった。どんなことでも考え問い返し続けるほどの力をぼくらは持っているわけがなく、自分ができるわずかなことを誠実に一生かけてやっていくしかない。心を病むというぎりぎりのエッジに立って生き延びようとする人たちを、どういう視線でみる=みないことができるのか、先ずそれから真摯に考え始めることがだいじなのだろう。対象や素材としてでなく、そこを再度自分も、みる人も生きることのできるものにできるかどうか。フィクションであれノンフィクションであれ、表現する人の考え方の反映であり、そういう意味ではドキュメンタリーというのは、「現実」を使ってのフィクションである、ということも再考させられる。原一男監督のこと、彼の一連のドキュメンタリーがいやでも思い返される。
 他には「青べか物語」「春天」「鈍獣」「高田渡的」「グラントリノ」「懺悔」「里山」「ミルク」「あなたのなかのわたし」「小梅姉さん」「ターミネーターⅣ」「空気人形」「キャピタリズム」「Dr.パルナソスの鏡」「アバター」などをみることができた。
 そうやって2009年は終わり、2010年の初映画も2月になってやっとみることができた。なにやらおぼつかない年始めだけれど、こんなふうにまた映画のことを語り始められることを喜ぼう。 
 
続・文さんの映画をみた日②
牛と共にたどり着く場所
 農耕用の牛を最後にみたのはいつだったろうか。近所には農耕馬が多かったから、最後に牛馬を目にしたのは、がらがらと大きな音のする荷馬車に山積みのわら束や農具、それに人を乗せてゆっくりと歩く馬だったかもしれない。中学に入ってからは目にした記憶がないから、60年代初頭あたりが最後だったのだろう。
 祖父が獣医をしていたから(当時はもちろんペットなどでなく、農耕用や家畜としての牛馬や豚が対象だった)、敷地の一角に蹄鉄直しの小屋があった。すり減った蹄鉄を取り外し、爪を削り、新しい蹄鉄をつける作業は子供たちに人気で、ぼくもみんなに混じってよくみていた。丹部さんといういがぐり頭でずんぐりした、いかにも馬と関係あるなあと思わせる人が蹄鉄士だった。酒飲みで、酔っぱらって落ちたドブから這い上がるのに手を貸したこともある。もちろんやせっぽちの小学生が助けになったとは思わないけれど。
 気性の荒い馬はロープに轡(クツワ)を繋がれるだけで前足を高くあげて暴れ、後ろ足の踵で床を蹴り続け、作業にはいるまでにずいぶんと時間がかかっていた。持ち主や丹部さんが時には殴りつけながらドヤしたりしていたこともある。ぎょろりと斜めに見る馬の眼は、なにやら必死なようすで怖かった。
 鞴(ふいご)、真っ赤なコークス、焼けた鉄を金床で打ち、ジュッと水につけて走る湯玉、といった心躍ることについてはまた別の機会に落ちついて書きたい。
 そうやって馬そのものはよく見ていたけれど、実際の農作業を見た記憶ははっきりしなくなる。後ろに人が支える鋤(スキ)をつけて田んぼをまっすぐに進んでいたこと、鋤から黒々とした土がナイフですくい取られるようにシャープな切り口で光りながらぐるり、ぐるりと弧を描いて掻き出されていたこと。ずらり並んだ小さな巴型の刃が回転する攪拌機を引きずって歩くのは、たしか田植え前の水を張った田で、やっぱり後ろから人が支えながら、馬の首から続く細い綱で体側をぴしゃぴしゃ打ちながら進めていた。「どうどう」といったかけ声。そういった光景は、ほんとにどこまでも続くと思えた田んぼのなかにぽつんとあった小学校に通う途中で見ていた気がする。春は文字どおりいちめんの菜の花のなかを歩いて行きながら、幼いなりに小さく感動していた。
 そばでみる機会は多かったけれど、馬はやっぱり大きいいし、張りのある光った筋肉や強い足はもちろん恐くて、さわるどころかすぐ近くに寄るのもおぼつかなかった。突然ジャアと迸ってはねる小便も厄災だ。だから愛馬をなでさすったり、売られる牛に泣いてすがる、といったこともなかったし目にすることもなかった。やけに大きくて荒い毛を梳くブラシがあったのと、焼けた蹄鉄が爪に押しつけられるときの焦げた臭いは今も覚えている。
 そんなふうだったから、牛ということでまっさきに思いだすのは、子供の頃深夜のテレビでやっていた西部劇「ローハイド」、ではなく、ドキュメンタリー映画「ぼくの好きな先生」(ニコライ・フィリベール監督)の冒頭に現れる降りしきる雪のなかのごつごつとして頑固な牛の群れだ。映画の全体を象徴するような素朴さ頑迷さ美しさ哀しみ、そして小さなおかしみ。
 「牛の鈴音(すずおと)」(イ・チョンニョル監督)は韓国でドキュメンタリーには珍しく大勢の人がつめかけた映画で、そのことが先ず話題になっていた。農村のドキュメンタリーだから地味で暗く、単館上映でやっと2週間、といったところがふつうだからだろう。 
 韓国も極端な効率化、「近代」化で激変していくなか、美しい田舎風景、牧歌的な農村、懐かしい人々、強い人間関係といったことが郷愁を生み、一方でのヨーロッパからきたばかりのゆっくりした生活や生き方なんて流行もあって、この映画が人を惹きつけたのだろうか。老人、古いことばや習慣、老牛が、一見のんびりと実は必死に生き延びていることへの、離れたところからの感動といったことだろう。機械を使わない農作業、田植え、稲刈り、草刈り、農薬を使わない昔のままの作物作りも共感を呼ぶのか。典型的な頑固爺さん、でも根は気弱、しっかりもので強いオモニ、でも根は優しい、そんな類型化に安心して身をゆだねられるからだろう。映像も奥行きのないように手前(表面)の構図ががっちりとつくられて、絵はがきのように美しい。夕陽のなかを帰る牛車老人という定番も挿まれる。ちょっとあくどくみえる壮年の牛飼い、理解のない子供たち、暴れてなかなか馴染まない新しい牛といった適度な負の要素も加えてある。画面がつなぎ合わされ擬人化され、人と牛が、牛と牛が、生きものと自然が目配せしたりいがみあったりするようにみえる。懐かしく美しくちょっと悲しくでもほほえましい、そんなふうにまとまっている。
 荒れた手、しわだらけの顔、最後の最後に涙のにじむしょぼしょぼした目。よろけながらも必死に坂を上り降りし、進みかねて何度も足をあがかせる老牛、でも牛車を降りない老人。声を荒げ鞭打つことと、牛の餌になるから草にも農薬は使わないと言い張って、よろけながら毎日大量の草を刈り取って与えるやさしさが同居する。働くこと、生き延びること、子供たちを育てることは、ペットの犬に服を着せ靴をはかせて撫でまわすこととはちがう。共同体のなかで一人前にやっていくこと、なめられずに家畜を扱うこと、それはそのまま仕事に収穫に反映するのだろう。
 老牛はついに暗い牛小屋のなかで倒れ、苦しさにもがいて壁を突き破り、頭だけ外に出し横たわって最後を迎える。太りじしの意地悪な嫁、といったふうだった新しい牛が不安げにそわそわと周りをうろついている。埋められ盛られた土のそばの老人。「悲痛」な表情や仕草はなく、なんだか気が抜けてしまって呆としている。
 思わせぶりなナレーションはないし、誠実に時間をかけてつくられ対象への思い入れが溢れるのだけれど、風景のさりげなさあたりまえさ、生きることの汚さ難しさが背景に見えてこないから、前面には了解済みのことば化された光景だけが並んでいってしまう。そのほんのわずかな皮膜の下の苦さと輝き、胸震えるほどの畏れややさしさは浮かび上がってこない。みているぼくらは小さく傷つくこともなく、感傷的になり、現代社会を批判し、そうしてドアを押して「現実」に戻っていく。映画も映像も消費尽くされているからどこかでふいに鈴音が響くことはない。それはちょっとさびしい。
 
<続>文さんの映画をみた日③
記録されるものの向こうへ(1)
 どんなものでもドキュメンタリーはやっぱりすごいなあといつも思うけれど、それは漫然と撮られたものにもなにかしら「事実」のもつリアリティがにじみ出てくるからだろうか。そこに人の無防備な表情やしぐさをみる喜びもあるのだとしたら、どこか覗き見るといった視線がないとは言えない。
 ありふれてでも深い胸をうつ表情や動きを最初にスクリーンの上で感じとったのは柳町光男監督の「ゴッド・スピード・ユー!BLACK EMPEROR」をみた時だった。たぶん肩に乗せたカメラで撮っているんだろうけれど、時間をかけて対象とつきあいながら、訪れた家の居間や台所で撮られた映像や音声。馴染んでしまって、誰もカメラを気にしなくなっているのだろう、暴走族の若者やその家族、特にお母さんの表情やことばがあまりにもふつうで辛辣でびっくりしてしまった。典型的な表情を「描きだす」ために、例えば感極まって潤む瞳へカメラがぐぐっと寄っていく、といったことでなく、生活のなか、人が生きるなかで生まれ続けるものをその場であたりまえのこととしてすくい取っていく、そんなふうだった。それは柳町監督が台湾で撮ったドキュメンタリー「旅するパオジャンフー」にもっと激しい形で現れていて、登場する人たちひとりひとりが今も忘れがたい。同じような思いは王兵監督の「鉄西区」とそのなかの人々にもある。
 ドキュメンタリーは、以前は「記録映画」と呼ばれていたように、子供の頃は学校でみる自然科学的だったり社会勉強的だったりする記録映像がほとんどだった。新しい工場、開発された機械、様々な施設や団体とその活動、探検や珍しい自然動物、そういった、ふだんの生活のなかでは眼にすることのできないものを学ぶための教育や啓蒙の手段として使われていた。だから癌の手術の映像が子供会で上映されたり、「秘境の部族の奇妙な風習」といった、どこかしら猟奇的な雰囲気もするものをみせられたりすることも少なくなかった。「世界残酷物語」をだすまでもなく、人はそういったものを目を背けつつ凝視してしまう。好奇心や過剰なものへの興味は誰にも押さえがたいのだろうか。
 60年代半ばからは、ニュースやその延長としての時事解説などでなく、社会問題などを「中立の報道」でない、自分たちの視点から描いていくことが始まる。大学闘争、三里塚に代表される農民闘争、そうして水俣病などの公害闘争などとして、映像が記録し告知するものとしてでなく、それ自体が表現であり、社会的な立場や闘う主体としての力を持ち始めたということだった。だからそこでは、客観的立場で冷静に外側からみていくといったことでなく(そもそも客観的な視点なんてないんだ、外からというのは撮る側の視点を持たないことだとして)自身の視点、世界観をはっきりと持ったうえで対象を捉え描いていく、つまりフィルム上に映像それ自身の力で生きさせることで、撮る側も撮られ側も、みる者も、映像をくぐって再度生きることのできるものがめざされた。
 切迫した時代だったこともあって、すぐに主体の主張を全面に押しだした、「正義」の視点の、政治的にも過剰なものになっていく。しかしそれがかつてのプロパガンダに堕ちていかなかったのは、走りながら考え創っていかざるを得なかったら、「高み」に立つゆとりすらなかったこと、それ以上に<当事者性>を基本に据え、世界の、自他の硬直した関係を問い直そうとする希求があったからだろう。みる-みられる関係すらまったく新しく作り直そうとする勇気。「圧殺の森」とか「死者よ来たりて我が退路を断て」といった直截なタイトルもあった。
 「三里塚 第2砦の人々」「三里塚 辺田部落」など三里塚を撮り続けた小川伸介はその軌跡を愚直なまでにまっすぐにたどり、そうして農村そのもの、農村に生きる人そのものへの好奇心を肥大させながら山形に移り住んでの映像表現へと走っていく(「日本古屋敷村」など)。そうして同じような方法論をとりつつ、共同体そのものよりもさらにその内の人そのもの、その奥に積み重なった時間へと向かい、でもなにかしらの距離を保ちながら共に生活し、映像としてはけしてクローズアップしない控えめさで、佐藤真の傑作「阿賀に生きる」が誕生する。この日本のドキュメンタリー映像の最高の作品を今もみることができる喜びと、でもほんの数本の作品を残して果てた監督への哀悼の念や無念さが起こってくる(「Self & Others」「花子」「エドワード・サイード」など)。
 その時代のなかで最も中心的となるテーマに沿ったドキュメンタリーもつくられ、原一男監督の「さよならCP」や「極私的エロス-恋歌1974」は衝撃的だった。でもその激しさは、みつめ続けてしまい、対象から目を背けないというのではない、対象が何かやるまでカメラをまわすといったような、どこか消極的な無言の挑発にも似たものだった。最近のインタビューの常道である、クールに突き放して動揺させたり、居丈高なことばや態度で怒らせて撮るほどひどくはないし、その後多く語られたほど、相手に行為(演技)を強要するものではなかったけれど、どこかしら不健康に思えた。煽ったり挑発したりというよりも、カメラを止められない、その場を去れないといったある種の優柔不断さや弱さの表れだったのかもしれない。いずれにしろ撮られてフィルムに定着された映像は世界に向けて剥きだしで投げつけられて予想できない反応を引き起こす。それが後の「ゆきゆきて、神軍」の酷たらしいまでの映像へとつながっていったのだろう。
 人は誰もカメラの前で威圧され気後れし萎縮させられるか、異様に高揚してハイな状態になってしまうかで、常態を保てるのはよほどの人だけだ。そこにある高慢と卑屈、おもねりや優越、屈折は、でも描く側が思う以上に映像として現れてきて、その背景や関係をあぶりだしてしまう。
 そうしてフェミニズムセクシュアリティの問題が「政治」としてでなく浮上してくる。いまや近代の一制度として喪われていく「家族」の問題も多く撮られるようになる。そのなかで、社会問題としてでない、個や世界、そのつながりを考えるものとして差別を丁寧にでも新しい視点でみていこうとする映像も撮られ始め、「大阪物語(ストーリー)」のような真摯な作品も生まれ始める。(続く)
 
続・文さんの映画をみた日④
ゾンビはくりかえし甦り
 米国ではまたぞろ終末論的な映画というか、近未来の大惨事(おおかたは致命的な戦争)後の、荒涼たる地の果てでのおぞましい物語が流行っている。こういった終末観はキリスト教圏では繰り返し現れるものだろうけれど、米国では自国の初めてともいえる、孤立を伴うゆきづまり感がひろがっている。今までにない体験だからなんのことだかわからずに不安や怯えが昂進し、でも結局いつものように独善的でかつひどく単純化されたお話が繰り返されることになる。そうしてますます疲弊も荒廃も進行する、取り返しのつかないまでに。
 「ザ・ウォーカー」という世界戦争後を舞台とした映画をみたけれど、直裁に「西部劇」を模しつつというもので、全体の流れは、神がかった男が何故か知らないけれど引き寄せられるように西を目指すかたちになっている。彼は世界に唯一残ったある本を持っていて、それを運ぶ、届けるのを使命と信じている。こうやって<西>はいつも永遠のどこか、ここより他の救いの地としていつまでも何かを慰撫する郷愁としてあり続けるのだろうか。
 西部開拓史は文字通りの殺戮史であって、先住民を根絶やしにしながら、動物も、樹木もあらゆるものをなぎ倒し根こそぎにしながらの西進であり、それがこの国の根幹に、つまり深層の無意識のなかにけして癒えることのない深く巨大な傷口となって残っている。それをけして認めず、かつての、今の、自分たちの正義を振りかざすとき、人は集団としても精神に異常をきたすしかないのだろう。とうぜんにも起こってくる罪の意識や懺悔を塗り固め封印し消し去ることで、認めて引き受けることによる贖罪とそこからの解放の道も完全に閉ざされるしかない。そういう幼児的な愚かしさ、彼らのいう強さを選んだ以上、不安や恐怖からのヒステリックな攻撃性は永遠についてまわる。
 今も繰り返される他国への侵攻、殺戮行為がきりなく続き、さらにそれを常に正義だと思いこみたい、けして批判を認めない心性が全てを補完し続けてしまう。ヴェトナムではさんざんの酷たらしい攻撃の後、「負けた」ことすら国として(共同体として)引き受けようとはしない。隠蔽につぐ隠蔽、虚飾の上塗りの繰り返し、無意識はますます厚い壁に閉じこめられていき、ときおり個や小さな集団の暴力的で異様な狂気として噴出する。
 国家として疲弊し、溢れる資源の枯渇が見え始めた今、強迫観念に浸された極端な行動が繰り返され、それはますますひどくなるのだろう。そういう国や集団が、今の世界のゲームの規則をつくってしまい、全ての人を引きずりながら滑り落ちていっている。無意識のなかに押しとどめ、けしてことば(意識)にすることなく、でも深層では不安にびっしりと取り囲まれ、恐怖で絶叫し続け、それを憎悪へ転化して、暴力行為を続けているのが、彼の国だろう。わたしたちも一蓮托生、引きずられていつか最後の巨大な滝を落ちるしかない。未来なんて、ない、ついそう断言してしまいそうになる、彼らがチープな映画のなかで何度も語るように。
 米国映画のなかでゾンビは復活し続ける。今までどうしてあんな映画が繰り返されるのか不思議な気もしていたけれど、こんなふうに「西部劇」の郷愁とセットで語られるとよくわかる。先住民の徹底した殲滅、「開拓者」どうしの血みどろの闘い、その記憶、それは底知れぬ恐怖でありそれから反転しての暴力、攻撃、そうしてそこで生まれてしまった歪んだ快楽もあるのだろうか。破壊すること、殺すことへの何重にも屈折した底知れぬ後悔と恍惚。しかもそうやってマサカリ(虐殺)の上に築かれた今の繁栄は、ごく一部の虚栄でしかなく大半はかろうじて「中流生活」を保つことに汲々とし、またはそこから転落した「悲惨な」と自身で思いこむ貧しい生活のなかに放りだされている。だからその屈折が単純だけれどすごく大きいのはわかりやすい。
 もう一つの伏流としてのテーマとして、「カニバリズム(人肉食)」もある。これもキリスト教圏では繰り返される罪のテーマだ。こんなふうにいうと身も蓋もないけれど、食べることも食べないこともその時代や社会の共同体の掟以上でも以下でもない。脳死判定にみられるように、臓器利用(摘出)のための新たな合意が、法的にも、つまり公的な掟としても次々にかわっていくように。より生きのいい臓器を使うには、身体(心臓)が動いている(生きている)死、を仮構するしかない。70年代初期の近未来映画「ソイレント・グリーン」では「食べる」ことは死とセットで高度にシステム化されたものとして描かれていた。食べる、食べないがへいぜんと語られるときは、そのことに関しての論理や倫理が揺れている、堅固なものでなくなっているからで、安定した社会ではこんな文字どおり生死を分かつ重大なことが揺らぐことはけしてありえないだろう。いずれにしろ、本能が壊れたといわれても、種の保存が最優先課題としてあるのは微動だにしない要件だろうから、そこから意識下も含めて全ての決定はなされていくのだろう。
 現行の映画ではもちろん「食べない」派が正義であり、唯一の正常さの証であり、そこから徹底した露骨な差別、排除、殺戮も生まれる(でもどうしてこうも単直な二元論、正負論として問題がたてられるのだろう、いくら単直な正しい答をだすためだとはいえ)。手が震える奴、光る奴、黄色い奴等々は食べてる奴だ、殺せ!になる。やられる前にやれ、食われる前に食え!ということだろうか。もちろんゾンビは「人肉食」派だ。君はヴェジタリアン?
 
続・文さんの映画をみた日⑤
死にぬく力
 ことのほか暑い夏だった。
 父が6月に逝ってしまい、8月に下宿されていた中村さんが亡くなられた。
 家はがらんどう、ゴーゴーと風が吹き抜け、心はボウボウの曠野、深淵がのぞいている。
 それでも飯を食い誘われれば酒も飲み、そうして映画もみる。
 まことに人は救われがたい、ではなく、だから人に救いはある、ということだろうか。
 そんなふうに世界は、映画は、人を魅惑する、誑しこむ。
 そう?
 そうだろうか。
 病室のなかで唯一動いている計器にばかりつい目がいってしまい、規則的に繰り返される心臓のグラフ、数値化された血圧や酸素飽和度に意識がとられてしまう。だから個室に移って5日目、ベッドに横たわっている人が荒い音の呼吸を止めてグラフが乱れたときはとても異様に感じられて、反射的にナースコールを押してしまう。すぐにとんできて「そんなことでよばないで下さい」なんて言わず、丁寧に対応しつつも強く肩が揺すられて呼吸が回復する。そんなことを見ていたからだろうか、次の時は頬を叩いたり腕を揺すった後、ガクンガクンと音がするほど強く肩を揺する。「息をして、息をして」と、息することを忘れてるよ、ときつく注意するように。呼吸は再開される。でも。
 昇圧剤はまだ半分以上残っていて血圧もかろうじて80前後にある、酸素飽和度もしっかり93を越し、心拍は120。でも中村さんはまた呼吸をしなくなった。口を開いたまま続いていた荒い息が不意に止まる、2秒、3秒、10秒、「中村さん、中村さん息をして、息を」、耳元で怒鳴り、それでも駄目なときは肩を掴んで強く揺する、周りの誰も手助けしてくれない。呼吸が再開される。ほっとしつつも動揺はます。どうすればいいのか、なにをしたらいいのか。
 頭をなで、腕をさすり、頬を軽く叩き続ける。連絡の取れない担当でなく若い医師がよばれてきてそばに立ち、身構えている。これ以上無理に息をさせて苦しさを長引かせない方がいいと思いつつ、それは見殺しにすることじゃないかと拒んで、でももう声を荒げても身体を揺すっても呼吸が再開することはなかった。TVドラマのように看護婦がやさしく腕を押さえて止めさせるというようなこともなく、ただ受けいれるしかない。
 病室の壁にかかった時計をちらりと見て医師が時間を告げる。「計測器のグラフでは心音のパターンがあるようにみえますがこれは身体のなかに残るある種の電気的な反応で、心臓は動いていません」。若い医師は緊張し声も少しうわずっている。
 嗚咽しながら、お世話になりましたとだけ言おうとして「ありがとうございました」ということばになってしまう。誰にたいして、誰が言ったのだろう。
 「ハリーとトント」の映画評を新聞に載せたとき、「せめてハリーには穏やかな死を、と思わずにはいられない」と書いたけれど、でも自分が直面してしまうと死を思いたくないし、遠ざけたいから、死を考えなくなってしまう。人工呼吸器は使わない、極端な延命策や心臓マッサージはしないでほしいと冷静に頼んで記録してもらっても、いざというときには肩を揺すり、頬を打って「息をして、息を」を叫んでしまう。無理に身体にだけ息させる、そういうことが何を意味するのか考えられない、意識もなく荒い呼吸で最後の力を振り絞っている人の苦しみを引き延ばしていることも思いつけない。でも誰も手をかさないことが、病室のシンと張りつめた静かさがそっとなにかを押しとどめる。
 こんなんにも力をふりしぼらなければ人は死ねないという不可解なまでの逆説。生きぬくということばを人は時にヒロイックにも使うけれど、死ぬために生きぬく、というか、死ぬために死にぬくのにはほんとにすごい力がいる。生きることで力を使い果たしたら人はどうやって死ねるのだろう。
 ティム・バートン監督の映画「ビッグ・フィッシュ」ではベッドの上でのわざとらしいしぐさや死の間際の劇的な覚醒やことば、達観したような表情もなく、見まもる息子とつくりあげたファンタジーのなかで静かに息を引きとる。鼻へ酸素を送る細いチューブがいつも頬に食い込んでいるのは映像的な解説なんだろうか、それとも米国ではあいかわらずの効率性から、ずれないようにきつく止めるのだろうか、なんだか嘘くさいなあと思ったことも遠ざかる。
 この映画のなかで、服を着たままバスタブに沈んでいるアルバート・フィーニーがすっと浮き上がってきて、見つめていたジェシカ・ラングがやっぱり服のままバスタブに入って、静かにフィーニーを抱きしめる場面ははっとするほど美しく、20世紀の名ラブシーンのひとつだと思ったことも、小さな気泡になって部屋のなかに消えていく。
 水をくぐって、人はどこへ行くのだろう。「アンダーグラウンド」での水をくぐってシテール島(桃源郷)へと渡っていくシーンは美しかったし、「亀も空を飛ぶ」の池に捨てられた子供が水のなかで沈みながら動く姿は、悲痛きわまりないけれど、でもやっぱり異様な力に満ちていて美しかった。
 中村さんは死という水をくぐってどこへ行ったのだろう。無、ではない気がする。あれほどのエネルギーがぽんとゼロになることはないだろう、きっと。神秘主義的にではなくそう思う。生はもっと曖昧でかつ自由というかいいかげんなはずだ。厳格なまでに確固としているようにみえる個体の心身の区切りは、そう思いこんでいるこの時代での区切りでしかない。
 天国とか甘くあたたかい夢の王国といったことでなく、そういったこの世界の貧しい想像力の延長にあるディズニーランドでなく、ことばでいうとお決まりになってしまうけれど、なにもなくてでも全てがある、そういう世界というか存り方。もちろんそういう言い方そのものが現在というか現感覚的だけれど、そういったふうにしかいえない存りようみたいなことだろう。
 <神様>わたくしにも穏やかな死を。
 
続・文さんの映画をみた日⑥
笠智衆の林檎
 荒れ果てた菜園の一部を整えて空豆を植えた。中村さんが夏豆という名を教えてくれた野菜。11月第3週の終わりまでにすませることができたし、花田種物店のいい種だから来年の6月にはおいしい大きな豆をどっさり届けてくれるだろう、きっと。土を起こして石灰も蒔いたし、下肥もほどこした。前後にたっぷりの水を撒き、祈りも捧げた。
 翌日には祝福するように柔らかい雨が降った。
 薄曇りの空の下、海も鈍い色に光っている。いつものように鴎が波よけのコンクリートの上に並んでじっとしている。車が走っても、水産高校の生徒たちが怒鳴りあっても、知らん顔だ。
 夕暮れにはまだ少し水色の残った空の端がうすあかく染まり、いくつかの光の筋が金色に射すだろう。海岸のどこかでは散歩中の初老の夫婦がうっとりと水平線をみているだろう、きっと。冷たくなった風に襟を立て、ちょっとふたりで顔を見あわせてまた視線を戻すのだろうか。夫は夕飯のおでんに熱燗がつくといいなあ、お母さんもちょっとのむといいのになあと、そんなことを思っているかもしれない。わかってるわよそんなこと、武さん、と奥さんは胸のうちで夫を名前で呼びながら、単純でかわいいわと思ったりしている。もう゛お母さん゛は止めてとも思いながら・・・・・。
 そんなたわいもないことをわたくしが思ってしまうのは、そういう生活やあり方に憧れていたからだろうかと、ふと内省的になったりもする。なんでもつい深読みしたり分析したりするのはわたくしたちと時代の悪い癖だ。この社会に生きるなかで育まれた想像力がそういうあり方をなにかの典型として引き寄せているだけのことだ。でもなかなかにあたたかみのある空想だ、おでんとぬくまった布団と。少し酔って、甘えてくれたらいいなあ、俺も甘えられるし・・・・・といったことだろう。
 そうだろうか。
 きっとそうだ。
 埒もなくそんなことを思っていたら、いつのまにか空は群青に塗り込められ、微かな水平線の輝きは、とうとう桃色にも染まらずに消えるところだ。夕焼けもなく、一番星もなかった。
 風が庭を抜け、黄色い菊の群を揺すっていく。一枝折って、夕食前の彼らに届けよう。先週買った純米酒を抱えていこう。おでんとあたたかみのお相伴にあずかって、ふたりの気持ちをちょっとかき乱してあげて、そうして早めに戻ってこよう。珈琲は自分で淹れよう。ひとりのむ珈琲はさみしいだろうか、笠智衆の林檎のように。いいやそんなことはない、あたたかさもやさしさの移り香もまだ残っているし、なんというか、かすかな愛や性の残照もわたくしをほの朱くしている。世界は美しい、人はやさしい、きっとそう思えるだろう。
 明日はまた早起きして海岸を散歩して、打ち寄せられた烏賊や若布を拾って夕食のご馳走にしよう。残ったら保存しておいて、時には彼らを(誰のことやら)招いてもいい。たぶんボルドーのワインがくるだろうから、メインはあれで、サラダはこれで、デザートは・・・・・あれもこれも、思うことは楽しくそしてせつない。
 おだやかな喜びはどこかで哀しみに通底していく、わたくしたちのあり方、つまり世界のあり方そのものが哀しいからだ。暴力や快楽は苦しく痛く濃密だけれど、どこかあっけらかんとしていて限定的であり深みにかけるから哀しくはない。
 そうだろうか。
 
続・文さんの映画をみた日⑦
松の内も映画も終わった
 さあ、松の内も過ぎた、粥も食べたし、注連飾りも下ろした、節分の豆も蒔いたし、菱餅も食べた、そろそろ雛人形も下ろさなくては、はちょっと早すぎるかもしれない。でもいつのまにか世界も終わったようだし、去年みた映画のことも忘れないうちに書いておかなくては。
 昨年は40本ほどの映画をみた。我が家で、他所でたいせつな人がたてつづけに亡くなってたいへんな年だったけれど、思ったよりたくさんみていたのは「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」や、偶然東京で遭遇したユーロスペースの「山形国際ドキュメンタリー映画祭特集」などでまとめてみたからだろう。家族同様にしていて最後は我が家にいっしょに住んでいた中村さんは、3月の最初の入院から半年もたたずに逝ってしまった。介護の迷惑をかけたくないとそんなふうにどこかで感じていたのかもしれない、と思ったりするとまた涙がでる。
  福岡市にはアジア映画祭がふたつもあるし、図書館がアジア映画中心のアーカイブを持っていて、頻繁に上映もやっている。そういう恵まれた所にいるからアジアの映画を数多くみることができる。
 今年のアジアフォーカス福岡国際映画祭でのチャン・リュル監督「豆満江」はやっぱりいつものように激しくて哀切だったけれど、今までの「キムチを売る女」や「イリ」よりは穏やかになっている。今回も監督本人が舞台挨拶にみえたけれど、そのどこか益荒男感傷派とでもいったことばや雰囲気はいつもとかわらず、なんだかうれしいような残念なような気持ちにさせられる。トルコのベリン・エスメル監督の「11時10分前(10to11)」は主演の男性が生みだすリアリティに圧倒されるけれど、職業俳優でないゆえの力や雰囲気がそのまま現れてきていてすばらしかったけれど、彼が監督の叔父さんにあたる人だときかされて、だからあんなにも自由にできるのかと納得させられた。そういうことも映画の上映後の解説や質疑応答のなかででてき、感じられることで、そういうことがあるのも楽しい。フィリピンのメンドーサ監督の「ばあさん」が描く雨期に水没した街の街路を交通手段としての舟がゆく映像には驚かされる。異様でそして美しい、なにもかも終わった後のような光景。そういった作品をみ、観客賞を受けた台湾の「お父ちゃんの初七日」などもみたけれど、なんだか淡い印象しか残ってない。それはみる側、つまりわたくしの問題であるらしく、山形映画祭にもうまくコミットできなかったようだった。
映画祭はあるテーマに沿ったたくさんの映画がまとめて上映されるし監督などの関係者も来て通常では考えられないほどの情報を得られたりするし、感激も大きい。でも経済的にも心身的にも全部みるなんてことはほぼ不可能だし、難しい。1日に60分以上の映像を5本以上みることができる人はそうそういない。わたくしも体調のいいときで間をあけつつ3本がいいとこだろう。短いのが混じったり、かなり無理しても4、5本。
 山形映画祭特集は山形で開催されているドキュメンタリー映画祭を、特別にまとめてユーロスペースで上映したものだから、中心になる2009年の作品だけでなく過去の作品も上映されてうれしい企画だった。「ぼくの好きな先生」のフリューベック監督の「音のない世界」、も過去に上映された作品としプログラムに入っている。
 
続・文さんの映画をみた日⑫
王兵監督「無言歌」 - 声のない叫び
 王兵監督の「無言歌」をみてきました。彼の作品は、それぞれのシーンのなかではあたたかな安堵に包まれつつ、全体では緊張して居住まいを正させられる、そういった気持ちにさせられます。でもそれはテーマの厳しさに竦ませられてといった威圧的なことでは全くありません。つらく無惨な、おそらく解決不可能な人の犯す罪を暴きながらけして映像も映画自身も居丈高でもなく懺悔を強いるものでもありません。だからいっそう深々と、遠くまで届いていきます。小さなでもしっかりとした声が濃い闇を抜け争いの喧噪をくぐってかすかにでもはっきりと届くかのようです。
 この「無言歌」でも、あまりにもつらいことがみごとな映像で真摯に描かれていて、ただただ呆然とさせられてしまいます。王兵監督の初めての非ドキュメンタリー映画です。劇映画とかフィクションというと少しちがってしまう気がして、非ドキュメンタリーといったへんなことばになってしまいます。直裁に「映画」といえばいちばんいいのでしょう。
 あの「鉄西区」の自由さ、例えば浴槽のなかにまで踏み込んでいくような、めまぐるしいまでの自在さと異なり、カメラを固定し静かにじっと撮っていきます。ですからみているわたくしたちもこちら側の一点から対象を凝視することになります。存在感溢れる人たちの顔や手、纏った襤褸、剥きだしの砂岩の上に敷かれた砂まみれの布団がこわいほどリアルに迫ってきます。臭いや淀みきった空気も感じられるほどですが、でも息苦しさはなく、荒涼とした広さや虚ろさが浮きあがってきます。
 わずかな台詞、変化のない表情、決まりきった動き、それらの積み重なりのなかから時代の悲惨が吐きだされてきます。誰も生まれる場所も時代も選べない、ということの哀しみが全部を覆っていきます。戦争はどうしようもなく酷たらしく悲惨です。しかしそこには圧倒的な暴力と剥きだしの死がひしめいていて、妙な言い方ですが速度と彩りがあります。この「無言歌」で描かれる中国の1950年代後半の反「右派」闘争とよばれた政治闘争と強制労働キャンプには、止まったままの時間とその底のどろりと淀んだ暗がりがあるばかりです。
 反体制派として「右派」と断罪され、蔑まれて最果てのキャンプに追放された人々は、荒れて乾いた北の地で寒さに震えながら石に爪を立てるように開墾をしています。地下に掘られた剥きだしの宿舎。国全体の飢饉が重なり食料は途絶え、次々に死んでいきます。飢えの苦しみからの様々な悲惨な逸話が描かれ、死体の衣服を引きはがして売ることから人肉食までもが語られます。上海から何日もかけて医者だった夫に会いに来た妻が、衣類もはぎ取られ野ざらしにされた死体と向きあう無惨なシーンもあります。
 こういった全ては、でも、中国という限定や、ある特別な時代ということからはみ出し続け、わたくしたち自身の上にも覆い被さってきます。生理的な痛みさえ生まれ、悲しみが胸をふたぎ、痺れたように無感動な状態に放り込まれます。世界の不平等も社会の不穏もいつの時代にもどこにもありふれてあったのであり、そういう恐怖や暴力の圧倒は今も酷たらしいほどに人を襲い続けています、この平板に思える日常のなかでも。
 そうして結局人は呆気なく死んでいきます。こづきまわされ、尊厳のかけらすら喪って縮みあがって死ぬのも、最後の力をふりしぼって<どこか>へ向かって走りだして死ぬのも、でも死にちがいがあるのだろうかと、つい自分に問いかけてしまいます。死として具現されることになにかのちがいがあるのだろうかと思わせられてしまいます。
 家族に手をとられ清潔な夜具の上でこときれるのと、酷寒の曠野で汚穢の泥濘のなかに溺れ死ぬのと、のたれ死に吹き曝され狼に食いちぎられて果てるのと、どうちがうのだろうか。痛みや恐怖や絶望、さらにそれらへの予感の怯えを思おうと息もできなくなるほどで背筋も凍りますが、でもそのほんのわずか先では感覚さえ消えたただの空白が広がっているばかりでなないのでしょうか。
 歴史の残酷な滑稽さとでもいうように、不意に終止符が打たれます。始まりと同じような当局の場当たり的な一時しのぎです。収容者のあまりの死亡率の高さに、健康なもの、つまり死なずに家まで帰れるものは、帰還させられることになります。食料を「自給させよう」ということでしょうか。離婚させられた者や家族からも放棄された者はどこへ向かったのでしょう。
 右派として、罪人としてキャンプに送られ、そこで班長のようなことをしていた男に、隊長が「ここにとどまって次期も手伝わないか」ともちかけます。「故郷に帰ってもお前はいつまでも「右派」なんだ。今は釈放されてもこの先どうなるか誰もわからない」と。
 最後、男はみんなの去ったガランとした地下壕のなかでひとり汚れた布団にくるまって横たわります。誰も、20世紀中葉という時代からも、中国からも、さらには人であることからも逃れることはできません。死という最後通牒だけがあるだけです。
 叫びだしたくなるような怒りや哀しみから、涙も溢れてしまいますが、それがある種のカタルシスとしてなにかを昇華し、浄化し、ささやかな安逸をもたらすことはありません。流れた涙の分だけ、もう一段暗い方へ傾きます。もちろん勁い作品ですからそれと気づかないうちに、なにかの力も渡されていて、どこかに毅然としたものも生まれはします。でもそれは希望とか前へと向かう力とかではありません、そういった現世的な効能は生みません。人は誕生させられ、そして死なされるということを四の五の言わずに棒で殴るように納得させられるのです。凍った映像がみごとなだけにそれはいっそうつらいほど腑に落ちます。
 美しい映画です。
 
続・文さんの映画をみた日⑭
タヒミック再び:映画祭のフィリピンとタイ
 キドラット・タヒミックの名は福岡の人には特別なものがあるかもしれない。90年代にはアジア展やミュージアムシティ天神などで何度も来福し美術展やパフォーマンスを展開していた。人なつっこく、不思議な暗い深さもあって、人を惹きつけて止まなかった。1942年の生まれだからもう70だ。
 今年、福岡市がだしているアジア賞を受賞したのでその記念に来福し、彼のもう一方の表現である映画の上映と講演も行われた。6時間に及ぶ上映、講演、パフォーマンスに魅了された人も多かっただろう。会場のエルガーラはいっぱいだった。最後は彼らしく家族や演奏家全員を舞台によんで踊って、喝采のあたたかい拍手を浴びていた。
 そこでは最初期の「悪夢の香り」(1977年)、「虹のアルバム 僕は怒れる黄色'94」(94年)、それに制作中の「マゼラン」が上映された。制作中といっても、創りつつ上映しつつ絶えず変更していくのも彼のスタイルだから、完成ということはないのかもしれないけれど。
 同時期に開催されていたアジアフォーカス福岡映画祭でも「月でヨーヨー」(81年)と「トゥルンバ祭り」(83年)が特別無料上映された。「トゥルンバ祭り」は彼としては珍しく整ったまとまりのある作品で人気も高い。破天荒なまでの自由さや強さがないという声もあるけれど、わたくしはいちばん好きな映画だ。
 あまやかなほどのせつなさ、息苦しいほどのいとしさ、森や村の暗さ深さ。それは喪われていくものへの、無垢の子ども時代への、無償の愛や慈しみへの、そうして映像のなかの共同体が壊れていくことへの哀しみであり、「近代」に陵辱され続けたアジアへの哀しみでもある。いったいどれだけのたいせつなものがむざむざと破壊され喪われたのだろう。
 家族を父を愛し、隣人を愛し、村を愛し、祭りにも興じる男の子が、時代の大きなうねりに巻き込まれ、それを拒みつつもでも受けいれざるを得ないなかで、何重にも屈折し、世界からはね返され、でもどこかで世界を生を愛し信頼し続けていく。そんなふうにもいえる。
 フィリピンの村。スペインや米国からの大きすぎる影響のなかでもかろうじて保たれていたつながりは寸断され、都市が、世界が一気になだれ込んできて、村落の親密な共同性はたちまち崩壊していく。頑固で保守的な父に反抗し都市へと出ていく息子、という形でなく、父の近代的な市場経済への没入と成功を嫌悪し、どうにか続いている村の祭りや関係をみんなと共になんとか維持していきたいと願っている息子というあり方。近代化の脅威、「文明」との対立や憎悪、親族・地域共同体の崩壊といった図式的なまでの構図の上に、ドキュメントとしての村の祭りが丁寧に描かれて映画は始まる。混乱しつつもどこかにまだ根を残している息子や家族の生活の活き活きとしたありかたが、映画としてのリアリティも底支えする。
 強権的な父と優しい叔父という、世界共通の神話のヴァリエーションが、ここでも形を変えながら展開し、普遍性を与えていく。それがタヒミック作品にしてはこじんまりとまとまってみえるこの映画に強さと深さを与えているのだろう。すごくシンプルでそうしてどこまでも限りがないような物語になっている。
 祖母を中心にして手作りで行われていた小さな張り子人形作りが、外部(西洋)からの注文で一気に拡大し、市場経済、世界事情に巻き込まれ何もかもが急速にかわっていく。購入されるテレビや扇風機に嫌悪を示し、息子が商売にのめり込んでいくのを、なによりつくる人形が乱雑になっていくことを嘆き怒る祖母とそれに寄り添う主人公の少年。その少年にやさしく寄り添う、父と同世代のおじさん。彼は今も手作業で鉈をつくる鍛冶屋さんだ。戦争で放棄さたトラックの部品を材料に使い、拾ってきた看板も利用している。少年は時間さえあれば彼の所に行っては手伝っている。
 でも確実に全ては動いていき、流れていき、よどみのなかに残されたものはそこにじっと沈んだまま少しずつくすんでいくしかないかにみえる。
 アジアの、世界のどこにでもあった避けがたかったできごと。でもほんとに避けられないことだったのだろうか。今もどこかに、近代の喧噪から離れて静かな生活を送っている共同体はないのだろうか。おそらく空間的にでなく時間的にだろうけれど、自身の生き方として巻き込まれない、というあり方を集団で維持していくというようなことはあるのかもしれない。
 映画は生活の具体をとおして語られる。子供のどうやっていいのかわからない混乱と怒り、祖母の何もかもが喪われていくことへの不安や哀しみ小さな爆発があり、でも結局全ては黙って過ぎていくしかないと諭すかのように続けられていく。尊敬し自慢していた父の変貌に少年は動揺し、かわらずに森や村とつながっているおじさんの生き方に寄り添いつつも、どこかでそれにも限界でもあると感じてしまうことも描かれていく。
 タヒミックの他の映画にも通じるユーモアが溢れ、諧謔も重ねられるけれど、みているわたくしたちに満ちてくるのは悲哀であり、でもそれはパセティクな否定には傾かない。「ブンミおじさんの森」のようにどろりと暗い底なしの深みや怖さは生まれない。彼らがつくる新聞紙の張り子の人形の軽さにどこかでつながっているかのようだ。深刻には語らないし語れないけれど、でも、だから、まだ親から離れられない従うしかない子どものもつ苦しみや哀しみがそのまま丸ごとさしだされてもいる。それは誰もの胸をうつ。

 アジアフォーカス福岡国際映画祭は少し装いを変えたようで、カタログもこじんまりとした判形になった。トルコの「未来へつづく声」(オズジャン・アルペル監督 2011年)は深刻な内容を小さな声で語っていく。タルコフスキーを思わせる映像で描かれる風景や教会はどこも静かな抒情に満たされていた。
 タイのウイチャノン・ソムウムジャーン監督の「4月の終わりに霧雨が降る」( 2012年)は、そういうことばを使って言うとすれば、インディーズ、独立系の映画。なぜこういうことをいうかというとそういったことが映画の成りたちにも関わっているし、映画のなかでも語られるから。
 バンコクで暮らす若者が失業し故郷に帰って家族や友人に会うという流れの映画で、所々に監督が自分の家族をインタビューした映像が挿まれる。その構造はわかりやすそうでそうでもない。実験映画的な難解複雑さではないけれど、でも単純に、撮られている映画そのものとそれを撮っている現実が交互に、というのでもない。映画についての映画だとか、映画のなかに私的な視点を家族をインタビューをとおして貫くということでもない。そういった非整合的整合性はどこかで放棄されている。巧みに隠されてとか複雑な構造によってというのでなく。
 抒情と冷静な相対化の視点が滑らかにつながっていく。つながりが滑らかだから違和感が生まれないし、納得させられる。おそらく監督(表現者)の思いの流れに乗っているのだろう。丁寧な、長すぎるほどの描写が退屈でなくここちよいのはそういう流れに乗せられているからだろうか。こけおどしや「知的」な操作に傾かずに、静かに語りかけてくる。「でも何を語りかけているのだろうか?」という問いが、生まれるかも知れない。
 「何を・・・?」という問いに答えるように、一度だけベッドに横たわる女性の短いシーンがある。とうに喪われた母、だろうか、そうしてそばにいのは誰だろう。
 社会的なできごと、おそらく学生時代の政治闘争といったようなできごとが挿入される。たぶん実兄が深く関わったのだろう。彼はそのことを今も背負って生きており、解決できずにいるようで、インタビューのなかで硬いことばを弟に向ける。
 若い女性、かつての恋人との対話のなかに、唐突にカミュの名がでてくる。青春の記憶や若さの饒舌としてでなく、おそらく、今、いろいろな人が世界中の様々な場所で改めてカミュのことを彼の著作を問い返そうとしているのだろう。
 バンコクの路上の撮影現場で、こんなふうな楽しいやりとりがある。撮影に興味を持って「どんな映画なんだいと」問いかける青年に、「インディーズ映画さ」現場担当者が答える。そこで彼はもう一度問いかける。
「インディーズ、ってなんだい?」 
「低予算映画ってみたいなことだな」
「じゃあ『ブンミおじさんの森』みたいなものかい」。
思わず笑った人も多かっただろう。
 タイの映画だからというだけでなく、多くの人がその「ブンミおじさんの森」の監督、ウィーラセタクンの名を口にしたがっている、自分にちかい名前として。わたくしもそうだ。彼の表現が、ほんとうに必要とされている。この生きがたい時代に、何をどう考えたらいいのかまるでわからなくなってしまった今の世界に、明快な答えを求めるのではなく、問いそのものを問い返し、答がないことを受けいれる力を持つこと。近代にまみれた狭い考え方の枠組み自体を取り払うことで、いろいろのことがすごくシンプルでそうして限りなく深いと知ること。そういったことが彼の名をとおして、ブンミおじさんの森をとおして伝わってきているのだろうから、今。
 
続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。当時書いたものはずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もある。
 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。
 
 

文さんの映画をみた日 Ⅱ

 

ソクーロフ『孤独な声』
呼び起こされるもの、生まれるもの

 だれもがいろんな形で映画と出会い、喜びを、興味を育てていくのだろうけれど、それは途切れることなく続いていて今もわたしたちを誘い楽しませ、豊かにしてくれる。年の終わりに一年を振り返り、最も心に残った映画といったことに思いを馳せた人もいただろうか。ぼくにとってはフランスの奥まった村落と小さな学校を描いた『ぼくの好きな先生』(ニコラ・フィリベール監督)だなとひとりごちていたけれど、12月の終わりに福岡市図書館ホールで、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の『孤独な声』(1978年)を観て、その深さにもうたれた。  
 99年に奄美島尾ミホを撮った作品『ドルチェ-優しく』もあるソクーロフの20代の卒業制作作品であり、長編第1作。同じロシアの故タルコフスキー監督に捧げられていて、圧倒的なその影響下にある。繰り返し挟まれるモノクローム映像、スローモーション、鏡、流れの下で揺れる植物、火、風、それが揺らす木々、草原。でもどこまでいってもそれはソクーロフの映像そのものだ。どこか厳しさを含んだ映像には一瞬一瞬を凝視させるような力があり、その流れとふいの中断にも引きつけられ魅了される。
 戦場から戻った若者とその恋人、父親、僧侶が描かれていて、下敷きになった小説があるのだろうけれど、その内容は詳しくは語られず、時間的にも飛躍し、複雑な歴史の流れ(17年の革命後の混乱期)や宗教もからんでいて、観ているわたしたちは小説的な物語の文脈からは振り落とされていく。でも最後まで映像・映画の内側に留まり続け、その暗さや激しさにもかかわらず全編に溢れる初々しさにも助けられ連れられ、愛や生の再生と復活にたどり着く、映画のなかでたどり着いた人々や、映画をつくることでたどり着いた人たちと同じように。たぶん物語を語る映像の力というのはそういうことなのだろう。
 そうしてまた不思議さはつのる。時代も民族もまったくちがい、歴史も重ねようもないほどに遠いのに、あまりにも人は人であり、やすやすとわたしたちのなかに忍び込み重なりあっていくことに驚かされる。一瞬の映像が、ひとつのことばが呼び覚ますものの広さ深さにも。
 今年もまたいくつもの喜びに出会えますように。

 

愛、季節、時代 - 移ろっていくもの、残り続けるもの

 大気はまだまだその底に冷たさを抱えたままだけれど、透明な陽光は真っ直ぐに落ちてきてあたりを満たし、小さく波立つ海の上を輝きながらずっと続いている。こうやって季節は、後戻りできない堰をひとつひとつ越すように移っていく。そんな光の溢れる津屋崎の海辺に立つと、がらにもなく愛とか時代とか移ろっていくもののことを考えたりしてしまう。そんななか、愛を巡るアジアの映画を2本みることができた。
 ひとつは2003年の韓国映画『ラブストーリー』。若い女性の現在進行中の愛と、彼女の母親の1970年前後の悲恋とが交互に語られる。朴独裁政権そしてヴェトナム戦争の時代。強圧的社会、絶対者の父、階層のちがいという背景、親友との三角関係、自殺未遂や雨のなかの逢い引きや列車での別れ、失明という悲劇もある。ヴェトナムの戦闘シーンが挿まれ、それを当事者として描く国だったことを改めて思いださせられるけれど、その戦争も独裁も、抗議のデモンストレーションも、ささいなエピソードのひとつになっていることに驚愕してしまう。30年が経ち、飛躍的な発展と変化があったということだろうか。そうして過去の悲恋が子供たちの世代の愛としてあっけらかんと成就することも、今という時代の要請なのだろうか。
 もう一本はタイの『ムアンとリット』。94年の映画だけれど、描かれた時代は1860年代。豊かな水と緑のなか、僧侶へのかない難い思い、女性が虐げられた時代の理不尽さと抵抗、その全てを超えて成就する愛の物語。
 過去が描かれるとき、往々にして現在の感じ方考え方でかつてのことをみていくから、単純な過去の批判や称讃になってしまい、愛や人の持っている深みみたいなものはなかなか浮かび上がってこない。個と個の近代の恋愛も、結婚や家族ということと同様、歴史のなかの性の制度のひとつにすぎないことも巧みに隠れてしまう。
 時代や屈折した関係のなかで、やっとの思いで手に入れたもの、そして喪ったもの。その流れのたどり着いた波打ち際に今わたしたちは佇んでいる。愛、はあるか?

 

息子のまなざし」- 求めること拒むこと
                 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 ドキュメンタリーのようなカメラの動きのなか、じっと何かを視続けている職業訓練校の木工教師の後ろ姿から映画は始まる(それをわたしたちはスクリーンのこちら側からみている。視つめるということは対象を愛することであり、また何かを奪いとってしまうことかもしれない)。視られているのはその日受け入れたばかりの少年院を出た生徒で、彼は家族ともうまくいかず木工を習いに来たのだが、実は少年が5年前、11歳の時に絞殺したのはその先生の幼い息子だった。もちろん少年はそれを知らないまま、映画は進む。
 事件の後離婚した先生は教えることに熱心で、厳しいが面倒見もよく、生徒たちの信頼も厚いけれど、事件や犯人のことをどう考え対処していいのか動揺してもいる。でも人は、そういったできごと自体を、相手を、じっと視つめることができるのだろうか、考えぬくことは可能なのだろうか。そうして、例えば相手を殺すとか赦すとかできるのだろうか。現実の様々な事件を思い起こしつつ、誰れもが目をそらすしかない気持になる。
 終盤近く、先生の詰問に応えて、徐々に自分の行った殺人と5年間の院生活を少年が材木置き場で語り始めたとき、不意に殺されたのは自分たちの息子だったと先生に告げられて少年は逃げだす。「何もしない、責めてるんじゃない」と叫びつつ追う先生が、屋外に追いつめた少年の首に手をかけ、そうして手を離して作業に戻った後、少年がもう一度作業場に姿を現す。凍えるほど孤絶して立ち竦み、混乱し、でも必死に何かを求め、震える体を押さえ、祈るように先生を視つめるとき、わたしたち誰もが少年であり、先生である。
 映画はぎくしゃくとしてゆっくり進み、ふたりの表情もしぐさも明確に何かを示さなくなる。拒絶と憎しみと愛と希求と受容とが一瞬毎に交錯しつつ、微かに揺れ、唐突に暗くなって映画は終わる。そういう曖昧で不安定な関係のなかにいること、そうしてそこから始めるしかないことを痛みのように告げながら。ひたひたと満ちてくるある思い、しかとは名指せない、何かへの慈しみ(愛といってもいいのだろうけれど)を予感しつつ。

 

エレファント
人が人を殺すこととは

 コロンバイン高校乱射事件を題材にとった映画。米国地方都市郊外の裕福な高校、校舎も生徒も荒んでなくてクリーンな、そういう意味では今でもまだ「アメリカ的な」という神話の残る場所。家族や地域、学校といった共同性もまだ形を保ち、だから制度や管理も弱くはないだろう。
 高校の日常が様々な生徒を通して描かれていく。悪意のあることば、虐め、おもいやり、食事、愛や性、ありふれたでも各自にとっては切実なことだ。時間が戻ったり、同じシーンが繰り返されて奇妙な揺れが生まれ、不安が影をさす。不意に人影の消えた体育館、長い廊下、誰もが経験のある、学校の思いもかけない暗がりを、意識すらせずに抜けていく生徒たち。明るい屋外でもカメラは距離を置いて対象を写しとる。距離は冷静さややさしさであり、また突き放す冷たさでもある。それが静かなトーンを生みだし、また冷え冷えとした皮膜をつくりだす。レンズが追う生徒たちの無防備な背中。
 殺戮シーンが手足が痺れるまでの恐怖をよぶのは何故だろう。静かに時間をかけてつくられた、緻密で説得力のあるものだからだろうか。撃つこと、弾が真直ぐに空気を引き裂いて具体的な誰かに突き刺さり、傷つけ、殺すことのリアルがわたしたちのなかのどこかに一息に繋がってくるからか。あまりの単純さへの深い恐怖もあるのだろう。
 それほど遠くない時代、圧倒的な銃器で先住民を殺戮することで始まった社会に残るけして癒えることのない傷。その傷は社会の無意識にも現れないほど深く隠されてしまっているからこそ、消えようもなく在り続けてしまう。武器や力へのさらなる傾倒と過信、それ故の力への過剰な怯えと反発が今も絶え間なく繰り返され続ける。
 異様さを察して動揺しつつも校舎に入らない方がいいとみんなを押し止どめる少年や、死んだ友人を捨てたまま離れられない少女を描き始めつつも、映画は家族の物語に収束していこうとする、銃声も炎も遙かに遠い場所へと。でも人の持つ慈しむ力が、家族という形ではもうすくい取れない時代にわたしたちは入ってしまっているのだろう。

 

鉄西区王兵監督
働くこと生きること、ただ巡り続けるように

 第18回福岡アジア映画祭で『鉄西区』が上映された。9時間に及ぶドキュメンタリー作品だけれど、三部構成で休憩もあるから休み休みみることができた。確かにとんでもなく長い、でも人生に比べたらあっという間もない、でも、世界そのものがずっしりと詰まっている。
 一九三〇年代から続いてきた中国東北部瀋陽鉄西区と呼ばれる工業地帯の崩壊と、その混乱のなかで働き生きる人々が、3年間に渡ってデジタルヴィデオに収められている。撮影もひとりでこなした王兵(ワン・ピン)監督との関係を反映しているのだろう、人々はカメラに全く動じないし、過剰な反応もない。カメラも過酷な現実にたじろぐことも媚びることもなく、とにかく前へ前へと力の限り走り続ける、爆発現場へ、立ったまますまされる食事のお椀の中へ、濁った風呂のなかへも突き進む。でもけして居丈高な暴力的な威圧や侵犯、高みからの解析はない。だから世界が、正視するのが辛いほどにもあるがままに取り出される、そうしてそれは人をうつ。
 官僚主義の無策、文化革命の影響、現在吹き荒れている世界経済と直結した嵐の下で、人々はしゃべり、働き、食べてのんで、喧嘩し、唾を吐き、風呂に入り、歌い、手鼻をかみ、反抗し、煙草を吸い続ける。映画のなかに繰り返し現れる、工場地域内の貨物車が走る軌道のように、人々は世界はただ同じ回路を巡り続けるだけだ、それが人生だというように。
 多くの工場が倒産し閉鎖し、鉛中毒さえ抱えた労働者たちは失業し、家族ごと居住区を強制的に立ち退かされる。雑然とした休憩室で繰り返される賭け事、そこかしこに暗く重い澱みがあり、それは労働者自身の皮膚にも目にも薄い皮膜として、投げやりな諦めや疲れとして貼りつき染みこんでいる。そうしてあっけらかんと勁い。
 職も家もなく、線路域での不法なこともやりつつ男手ひとつで息子ふたりを育ててきた老人は「人生は厳しい、食べていくのはたいへんだ」と嘆息しながらこうつけ加える。「結婚すらできないと諦めていたのに、ふたりもの息子に恵まれたんだ」と。7日間拘置されて出てきた父の前で酔っぱらって泣きつぶれた息子を背負い、凍った暗い夜道を老父はふらつきながら帰っていく。そんなふうに、そんなふうにして人は生きていく、そうして死んでいく。わたしたち一人ひとりに長い長い余韻を残して、人々はスクリーンから消えていく、溶暗して映画は終わる、そうしてまた巡り始める。

 

セクシュアリティを巡って ①
「オール・アバウト・マイ・ファーザー」エーヴェン・ベーネスター監督

 「第十三回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」が開催され、公募で選ばれた三作品を含む国内外の二十九作品が上映された。唯一のドキュメンタリーである『オール・アバウト・マイ・ファーザー』はノルウェーの小さな町に住む医者でトランス・ヴェスタイト(異性装)の父親を息子がインタビューしたもの。性同一性障害等と名づけられている、自己の性別に強い違和を持ち、他の性別に変わりたいという欲求を抱えている人たちの、家族や社会との軋轢は大きい。
 八歳の頃から始まった異性装への興味、結婚、ふたりの子供、異性装を否定する妻との離婚、理解してくれた現在の妻との再婚などを振り返り、「女性」でありたいと願う自分を分析し、社会的な意味での女性といったことも丁寧に考え、カメラの前でも異性装する父親。その説明に頷きつつも、どうしても家族として見てしまう息子は、「女性であり、お前の父親だ」ということばに動揺し、感情的には受け入れられない。父親は自分の内の欲求を冷静に認め、対社会的にもカミングアウトし、偏見と闘い、本を書き、積極的に行動しており、整然とした論旨は真摯だけれど、どこかで空回りし始める。たぶんそれは、現在の社会で流通している「性別」を大前提とした性に関する見方に則り、今ある家族という形を前提にして考えるかぎり行き着いてしまう地点なのだろう。彼に、変わりたいというほど激しい違和を起こさせる「性別」という発想そのものを変えない限り、「男性」「女性」という閉じられた二元論の間を揺れ続けるしかなくなる。
 何かを「非正常」と規定し、異性装や同性愛、性同一性障害と名づけて隔離する現在の社会の考え方は、異性愛を「本質」であると規定しての発想であり、その根本には雌雄(男性-女性)という性別概念が、生物学的な本質として置かれている。そうである以上、概念そのものを問わない限り、性にまつわることがらは開かれていかない。どんなに非現実的な観念論に響くとしても、「性別」というものが絶対的なものではなく、ある時代の、限定された地域(地球規模に見えるとしても)で流通している、共同体として選ばれた観念、見方であると考えてみることから、改めて始めるしかないのだろう。
 インタビューの最後に父親は、それまでの冷静さや強さを放棄するように、「いつ死ぬかわからないけれど、自分が父親を覚えているように、お前にずっと父親として記憶されたい」と涙ぐむ。ユーモアも交えた父親のことばやふるまいに笑わされつつも、息を殺すようにしてじっとみてきたわたしたちも、そこで立ち止まるしかない。残念で寂しくもあるけれど、それが現在であり、今の限界なのだろう。 

 

『自転車でいこう』 杉本信昭監督
世界の速度をすり抜け

 路地をすいすい抜けていく自転車、それを追うカメラ。このドキュメンタリーが始まると、少年のしゃべり続ける声と不思議なことばに先ず耳がいく。映像の軽快さとその自在な撮影にも興味がわく。
 自転車に乗っているのが、プーミョンと呼ばれている「自閉症」の二十歳の少年であり、李復明という名だとわかってくる。大阪生野区の福祉作業所「ちっぷり作業所」に勤め、仕事帰りに近所の「障害者」も混じる学童保育所「じゃがいもこどもの家」に寄り、あれこれもめごとを起こしつつも、愛されていることも。
 生野区にはいくつもの作業所があり、保育所があり、韓国語の教会がある。つまりそういう人たちがたくさん住んでいるということ、そういう生き方が可能だということ。そんなことを見聞きしつつ、わたしたちも考え始める。
 『「障害」とは何か』という問い、「障害」を再定義するのではなく、「障害」というものがそもそも存在するのかという根源的な問いに、わたしたちが向き合えないのは、様々な「障害」と呼ばれていることがらの「具体性」「現実」に圧倒されてしまうからだろうか。「病気」や「障害」として名づけられることで社会的な了解を受け、本人も一時的安定を得るとしても、それはあくまで隔離されることだ。
 本人自身が、名づけられることを拒み、自身の<ことば>で語り始めるしかない。それが可能かどうかは、ことばでないことばを、声にすらならない声を聴き取る力をわたしたちが持てるかどうか、取り戻すことができるかどうかにかかっているのだろう。
 それはとても難しいが、ご飯をよそえない子にやってあげるのでなく、本人にやらせようと繰り返し手伝う子のおおらかさに、すり寄るプーミョンの笑顔に応える赤ん坊の微笑みに、その可能性を信じることができる。そうでない限り、「障害者」は「知」や「身体」や「能力」の威圧の前で立ち竦まされ、そういう彼らの前で「非障害者」も立ち竦むという関係のなかに閉じられてしまい、「障害」とか「できない」とかの前提をとらえ返し、考えることができなくなる。
 撮影も自転車でだった。異様な速さで動いていく今の世界へのささやかなでもしぶとい異議申し立てでもあるだろう。(福岡市天神、シネテリエ天神で26日まで上映中。)

 

アジアフォーカス・福岡映画祭

みえない<事実>、曖昧な<真実>
 「アジアフォーカス・福岡映画祭2004」が福岡市で開催されアジアの14ヶ国27作品と、関連企画の27本が集中して上映された。低予算で制作でき、リアルな今を感じ取れるドキュメンタリーが少ないのは意外な気もするけれど、それでもマレーシア、アミール・ムハマド監督『ビッグ・ドリアン』、今田哲史監督『熊笹の遺言』などをみることができた。
 『ビッグ・ドリアン』は1987年にクアラルンプールで起こった、軍人によるライフル乱射事件を現在から語ってもらうという構成になっている。この事件は、マレーシアの民族や宗教の複雑さを反映して、極端に政治的な色合いを帯びさせられ、都市での異様だけれど突発的な個人的な事件で終わらず、一気に政府による国家統制へと繋がるきっかけにもなっていった。
 アジアの現状が語られるとき、植民地化されたことの影響が必ず語られる。圧倒的なヨーロッパ的近代の侵入の中で翻弄され、さらには国家自体が植民地にされていった歴史は、その後のほとんど全てと言っていいことがらに大きな影響を与えているのだろう。それらをリアルに感じ取ることはできないけれど、アジアの日本以外の大半の国では、オペラ『蝶々夫人』が嫌われているということすら知らずに育つわたしたちの日常と大きく隔たっていることはわかる。
 歴史を語るときの「真実」の問題や、映画にもでてくる「マレーシアでは全てが曖昧にされてしまう」といった「マレーシア(国民)性」とでもいえる地域性の問題、それに記録や映像の「事実性」への問いかけとして、インタビューのなかにプロの俳優による演技を紛れ込ませてある。それはこの映画自体とも距離をとることであり、ドキュメンタリーという概念そのものを相対化させようとする方法でもあるだろう。劇化され戯画化され、速度感やおかしみも増す。
 「籠の中の自由」ということばが何度かでてくるけれど、近代とか、国家や民族、宗教といった大きな枠組みや、政党政治や法律、さらには映画やことば、メディアといった籠にしっかりと閉じこめられてしまっているわたしたちを冷静に見つめ、解き放つ道を探る試みのひとつでもある。

 

ヴァイブレータ」/「赤目四十八瀧心中未遂
既視感、未視感の間で

 福岡市天神の同じ映画館で、主演女優が同じ寺島しのぶで、主演男優も両方に出ている映画をたてつづけにみ、しかも両方とも話題になった小説を原作にしていたこともあり、不思議な既視感や未視感に包まれた。「ヴァイブレータ」(廣木隆一監督、赤坂真理原作)と「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督、車谷長吉原作)。
 数年前に読んだ小説世界が創りだし、自分のなかに映像化し記憶として蓄えていたものとまるで同じ路地が出てくることに驚かされ、そうしてその見知った場所が、ひとつ角を曲がると見も知らぬ世界にずれ込んでしまう、すでに映像として目の当たりに見せられているにもかかわらず、まだ一度も見ていないものに思えてしまう、とでもいうような。
 小説がことばで表現しようと試みたもの(それはもちろんことばとしても明確にそれと名指せないからこそことばを積み重ねるのだけれど)、それを映像として表現しようとする映画、そのふたつの重なりと落差。すでにことばとして、概念としても成立しきっているものを、改めて視覚的な形に焼き直す、解説するといったことでなく、映像としてしか現せないものとして、新しく開いてみせる試み。
 どちらの映画も原作が紡ぎ出す物語を変奏しながら追っていく。「ヴァイブレータ」ではことばが文字としてもスクリーンの上に映しだされる。ちがう様式の表現、その間のたどり着けない距離を、ことばを直截に共有することで一息に埋めていこうとし、そのことでそれぞれの固有の力を立ち上がらせようとする。心象風景を超えて世界そのものの変容を出現させようとする映像や無化される時間軸の出現の予感が生まれ、でも映画はまるでそれ自体の生理に従うように上映時間のなかに巻き取られてしまい、結語を持つ表現として円環のなかに閉じられる。明るくなる映画館のなかに残されるわたしたちは、既視感も未視感もないこの<現実>に再び滑り落ち取り込まれていく。そこからまた始まる。

天神シネテリエで「ヴァイブレータ」は 日まで、「赤目四十八瀧心中未遂」は 日までの予定。

 

終わりと始まりと--映画との遭遇

 4月、いろんなことが終わり、始まる季節。そんな様々な出会いや別れのように、誰にも映画との遭遇や決別がある。わたしにとっての始まりの映画のひとつは「絞死刑」(大島渚監督、1968年)で、映画というのは表現なんだ(当時は「芸術」ということばだったが)と知らされた。
 小松川高校事件と呼ばれた実在の事件で逮捕され処刑された青年を題材に、彼が絞首刑後も死なず、記憶もなくしたという卓抜な設定の下、彼(映画のなかではRと呼ばれる)を再度処刑するために、教務官、所長、牧師、検事などが一体となって彼に事件を思いださせ、罪を認めさせ、死刑を受け入れさせようとする。酷いほどのドタバタ喜劇のなかでこづき回され、国家の概念を吹き込まれ、民族、宗教や性(愛)を押しつけられるが、<現実>と想像との乖離にも落ち込んでいるRには自分自身も罪もリアルには感じれない。
 終盤、「国家をほんとに感じられないなら、君は自由だ、この処刑場から出ていっていい」といった検事のことばにRはドアを開けるが、強い外光が雪崩れかかり彼は出ていけない。君は今国家を感じた、感じた以上(国家の決定した)罪は存在する、という検事のことばを受けて、Rは全てを否定しつつも再度の処刑を受け入れる。
 国家や民族や宗教はつきつめると実体のない、ある時代や地域のなかでつくられる観念的な仕組みでしかないのに、徹底して人を縛り、心にも食い入って支配することが、恐いほどリアルに映像化されていた。しかし当時はそれへの否定も対抗的な、同じ土台で反対するというようにしか考えられず、だから国家を幻想だと言いきろうとしても、そう断言する立場をどこにおくか(おけないか)は映画としても見えてこなかった。自分の足場を突き崩しては対抗はできないだろうから。
 それから40年ちかく、悲惨なことがらが積み重なるなか、ささやかであっても生きるなかで考えることを進めてきた人も少なくはないが、Rは今も処刑台のなかに閉じられたままだろうか。国家や民族の軛はますます強まるようにみえるけれど、それは外的な強圧的な力で枠組みが維持されているということでもある。バラバラになることや孤絶することも恐れず、人々はこれまでとまったく違うように「歴史」や他者(つまり世界)を引き受ける方へと抜け出ていこうとしている。長く苦い時間のなかでだけやっと掴めるもの、体に染みこみことばさえ超えるもの。

 

『チュンと家族』

 福岡市総合図書館映像ホールで、収蔵フィルムによる現代台湾映画特集が行われ、チャン・ツォチー監督の『チュンと家族』(一九九六年)が上映された。
 台湾の小さな町、別居した両親、複雑で荒んでいるが、まだ家族としての繋がりを祖父を中心にかろうじて残している一家。その長男で、まさに青年期へと入っていこうとするチュンを中心に映画は進む。大道芸の舞台に立つ母に強いられての、刀による自傷も含む宗教儀式的な集団「八家将」への参加。そこで繰り返されるもめ事や、ヤクザの義理の兄との関係のなかで、チュンは体の内にじりじりと積もっていく鬱屈、噴きだしてくる粗暴さをもてあまし振り回され、怒鳴り喧嘩し、暴力や殺傷に否応なく引き込まれていく。
 静かな川や山、祖父や弟と過ごす無垢な時間も、距離をおいた落ち着いた映像で挿まれる。観念(ことば)でなく、体として生きていた時代や年代だろうから、痛みや死も含んだ暴力があたりまえのこととして受け入れられていく。血や死は、聖や生の対極にあるのではなく、そのなかに含み込まれて在るのだということが、掴み出され剥き出しにされる。そういうなかで人は生きて死んでいったのだろう、今は「近代」に席巻され、「都市」での平板で安定した生が全ての表面を覆っているようにしか見えないとしても。
 個が抱え続ける思い出とか、世代や社会の郷愁としてだけでなく、若さの持つ世界への畏れや身体的なまでの違和と、急激に変貌した台湾の現在への怯えや底深い違和が、若者の滲みでるような鬱屈と共同体の底の澱みとの重なりとして描かれる。全編に溢れる生々しいまでの身体性や、生活そのままの息づかいといったリアリティは、職業俳優を使わないことがもたらしたものでもあるのだろう。
 人は鬱々と這いずるように、そうして実に暢気に楽々と生きていくのだろうし、誰もが休むことなく力をふりしぼりつつも、何もかもいつのまにか過ぎていってしまうものでもある。痛みとか感動とかいうことばからずっと遠いところで、わたしたちはつましい人の生に、ありふれていてそうして底抜けに深いものに揺り動かされる。

 

息子のまなざし」- 求めること拒むこと
                 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 ドキュメンタリーのようなカメラの動きのなか、じっと何かを視続けている職業訓練校の木工教師の後ろ姿から映画は始まる(それをわたしたちはスクリーンのこちら側からみている。視つめるということは対象を愛することであり、また何かを奪いとってしまうことかもしれない)。視られているのはその日受け入れたばかりの少年院を出た生徒で、彼は家族ともうまくいかず木工を習いに来たのだが、実は少年が5年前、11歳の時に絞殺したのはその先生の幼い息子だった。もちろん少年はそれを知らないまま、映画は進む。
 事件の後離婚した先生は教えることに熱心で、厳しいが面倒見もよく、生徒たちの信頼も厚いけれど、事件や犯人のことをどう考え対処していいのか動揺してもいる。でも人は、そういったできごと自体を、相手を、じっと視つめることができるのだろうか、考えぬくことは可能なのだろうか。そうして、例えば相手を殺すとか赦すとかできるのだろうか。現実の様々な事件を思い起こしつつ、誰れもが目をそらすしかない気持になる。
 終盤近く、先生の詰問に応えて、徐々に自分の行った殺人と5年間の院生活を少年が材木置き場で語り始めたとき、不意に殺されたのは自分たちの息子だったと先生に告げられて少年は逃げだす。「何もしない、責めてるんじゃない」と叫びつつ追う先生が、屋外に追いつめた少年の首に手をかけ、そうして手を離して作業に戻った後、少年がもう一度作業場に姿を現す。凍えるほど孤絶して立ち竦み、混乱し、でも必死に何かを求め、震える体を押さえ、祈るように先生を視つめるとき、わたしたち誰もが少年であり、先生である。
 映画はぎくしゃくとしてゆっくり進み、ふたりの表情もしぐさも明確に何かを示さなくなる。拒絶と憎しみと愛と希求と受容とが一瞬毎に交錯しつつ、微かに揺れ、唐突に暗くなって映画は終わる。そういう曖昧で不安定な関係のなかにいること、そうしてそこから始めるしかないことを痛みのように告げながら。ひたひたと満ちてくるある思い、しかとは名指せない、何かへの慈しみ(愛といってもいいのだろうけれど)を予感しつつ。

 

エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室

 あのケストナーの、あの『飛ぶ教室』が映画化された。トミー・ヴィガント監督。東西への分割と再統一というドイツの戦後史を取り込んだ卓抜な設定で、舞台は現代のライプチヒに移してある(ドイツの戦後の混乱と今もまだ続く深い傷は、映画『グッバイ、レーニン』=ヴォルフガング・ベッカー監督=でも家族の悲喜劇として描かれている)。正義先生も禁煙先生もいるけれど、生徒たちの劇はラップ・ミュージカル仕立て。懐かしさが先だつオールドファンにはちょっとつらい。
 たぶんケストナーを子供の頃に読んで、エミールや点子ちゃんやロッテを好きになり、『飛ぶ教室』に泣いた人は少なくはないだろう。もちろんわたしも何度も読んで何度も泣いたくちだ。まだ、泣くことは恥ずかしいことではなく、またうっとりと浸ることでもなかった。ただそうあるだけだった。だから十代半ばからは読まなくなった。感傷を憎み、社会と対峙することが正義だと思っていたのかもしれない(そういう意味では正統的なケストナー派だったのだろうか)。年つきが流れ、誰もがそうであるようにそれなりにいろいろあって、生き延びて、読み返してやっぱり同じ所で泣いていた。こんなにつらいことが12才くらいで起こるなんて、そしてそれに耐えているなんて。でも今はわかる、誰もが12才の頃に同じように寂しさをつらさをくぐっていたのだと。そうしてそれに気づくことさえできないほどにそのことの渦巻きのなかに囚われていたのだと。
 「どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にはずいぶん悲しくて不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?・・・・みなさんの子どものころをけっして忘れないように!・・・(岩波書店高橋健二訳)」とケストナーは語る。映画の冒頭にも同じことばがでてくる。
 人は、わたしたちは、いったいどこへ向かっているのだろう。自分たちのあんなにも寂しくてつらかった心さえ、まるでなかったもののようにすっかり振り捨てて。

 

文さんの映画をみた日・3

自分のことを省みて「若さは愚かさだ」などと傲慢に嘯いていたけれど、もちろんそんなことはなく、若さは、というより人は、あれこれありながらしのぎながら勁くそして穏やかに生きている。映画をみた日はそういうこともつい生真面目に思ってしまう。
 福岡市赤坂にREEL OUT(リールアウト)という定員30名の自主上映の場があり、商業施設ではみることのできない映像などの企画上映が熱心に行われていて、清水宏やブラッケージなどの特集も行われた。昨年の12月には、佐賀の映像グループ「東風」の中国正一監督が北部九州を舞台に撮った『815』の上映があり、監督の挨拶も聞けた。バンクーバー映画祭で受賞し、ロンドン映画祭や東京フィルメックスなど各地の映画祭にも出品された作品で、スクリーンから飛び散ってくる汗や唾を思わず手で払いのけようとするほどのエネルギーの噴出。馴染みのあることばや抑揚、風景にも溢れている。タイトルからも察っせられるように時代の避けがたい荒波と悲劇と、でも膂力で乗り切っていく人々とが、神話や歴史に寄せて過剰なことばや身ぶりで語られていた。
 1月には、中心を担う一人である明石アキラ氏企画の浜松の映像集団「ヴァリエテ」の特集、浜松から袴田浩之氏など映像作家たちも駆けつけた。実験映画とか自主制作とかいった社会的区分けから抜けてみていくと、当然のように世界や生の多様さが開けてくる。常套的なまでに、反抗し暴発し黙し歌い引きこもり、そうやって誰もが家族を含めた共同体との距離を測り、様々の形で自他を慈しんできたのだろう、それぞれの今のなかで。
 映画をつくる人も、それを上映する人も、そうして観る人も、誰もがその現場で表現者だろう。映像であれことばであれ、制作することだけが特権的に表現なのではなく、だからある種のスケープゴートとして矢面に立たされる<責任>もない。また受け取るものが自身を特権化すると、表現者であることを放棄し受動的なものに自分を貶めてしまい、受け取る楽しみだけを強要し消費するだけになってしまうのだろう。(REEL OUTでは2月21、22日にF.ムルナウ、R.フラハティ作品上映。連絡先:843-7864(夜間))

 

文さんの映画をみた日・2
流れ去る時間、残り続ける映像

 珍しく雪になり、一月二二日の旧正月は一面の雪景色の元旦。新鮮で光のみなぎる新年、街の喧噪もいつもとちがって響くなか、博多駅近くの映画館へと急ぐ。
 『テン・ミニッツ・オールダー』、すてきなタイトルだ。生まれたての赤ん坊は一〇分間で体もきっと成長しているだろうし、若者にとってはがらりと世界観が変わるのに十分な時間だ、ましてや恋愛では。成熟した世代はどうだろう。さらに賢者になり晴朗になり、確実に一〇分だけ死へ近づく、のだろうか。時間を線的で不可逆な一方向のものと確信していればそうだろう。そうしてそんなふうに平板に時間をとらえるとき、この空間も世界もかたい閉ざされたものとして現われてくるしかない。「時」は姿をみせるだろうか。
 一五人の監督による一〇分間ずつの映画、その第一部『人生のメビウス』。久しぶりのヴィクトル・エリセ監督(『ミツバチのささやき』)の名前もあってうれしい。彼の『ライフライン』ではモノクロームの画面のなかにまどろむ赤ん坊と母親の、蜜のような甘い眠りに直に触れ、引き込まれていく、背景の時代は危機に満ちているのだけれど。カウリスマキの『結婚は一〇分で決める』にはいつものカティ・オウティネンの姿がある。ジャームッシュは撮影中の女優の一〇分間の休憩をバッハを流しながら切り取り、ヘルツォークはドキュメンタリーとして、アマゾンの奥地で「発見」された「石器時代」のままだったウルイウ族の今を硬質な画面に納めていく、『失われた一万年』というタイトルの下に。ヴェンダースはお手本のような短編『トローナからの一二マイル』。広大な米国中西部を舞台に、速度のなかに恐怖、幻覚、感動、おまけに涙まであり、音楽や効果音も溢れる。
 そんなふうに七人がそれぞれの様式でつくる一〇分の映画。時計や古い写真、記憶が駆使されて時間的な奥行きが取り込もうとされ、音楽も多用されて広がりを生もうとする。でもこの長さはやっぱり難しそうだ。時間はその片鱗も見せずに、それぞれの映画をつなぐ水の流れの映像やトランペットの響きのように、掴む手の先からするりとどこかへ消え去ってしまう。蠱惑的なまでに鮮やかな印象だけがくっきりと刻まれて残る。(第二部『イデアの森』も共にシネ・リーブル博多駅で上映中)

 

『誰もしらない』是枝裕和監督
存るのにみえない  
 光り溢れる柔らかい空気をとおしてきりとられる街、子どもたち。距離がとられ穏やかに描かれているので、子どもたちの気持のぶれや深さも静かに伝わってくる。
 過去に実際に起こり、今もどこかで起こっているだろうできごと。母親に遺棄された、たぶん戸籍もないだろう4人の子どもたちの、かろうじて続けられる生活。比較する軸がないから、彼らのなかでは貧しさや不自由さ、不潔さすら相対化される。電気も水道も止められての、公園での水浴びや洗濯は楽しげにさえ見える。子どもの脆さと勁さが重なりあう。
 家族が夫婦を基盤とした次世代育成のための共同体でもある、という考えやあり方からは嫌でもずれてしまう現在、どういう生活の形が可能なのかにも思いがいく。扶養してくれる親がなく、社会的な存在証明の戸籍や近隣の認知もなく、次世代としての役割分担を学ぶ(強いられる)学校や教育にも関わらす、でもほんとにいっしょにいたい人たちと離れずに生きていく方法を子どもの場から必死に探す物語でもある。
 公としての「社会性」からは抹殺され(それは一面では自由ということ)、ある閉じられた関係のなかでだけ生存できるあり方、例えば、無国籍、無戸籍を選択したとしたら、わたしたちはそういう世界に放りだされるのだろうか。その時、「存る」とか「生きている」といった生の意味はどうみえてくるのだろう。
 「学校に行きたい」が象徴的なことばとして何度か繰り返される。学校があがくほどにも求められるもの、ここより他の憧れの場所として語られる。そうしてその学校が苦痛でしかない、抗うことすらも諦めた少女とのせつなくアイロニカルな出会いもある。
 侵入してくる外部、自壊し始める内部、そういうきわどさのなかを、彼らは、映画は、結論を急がずゆっくりと歩いていく。たどり着ける先はあるのだろうか。(福岡市、「シネ・リーブル博多駅」などで上映中)

 

セクシュアリティを巡って②『ロードムービー

貫かれる愛と死
 「第13回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」で上映された唯一のアジアからの作品は、韓国の『ロードムービー』。韓国の映画には、やみくもなまでに激しく徹底していく傾向が一部にある。この映画では、「同性愛」と呼ばれていることがらに関して、それに囚われ、アイデンティティーを探り確認するといった堂々巡りでなく、愛や自分自身の思いを貫くといった直截な方向で突き進む。性別としてではなく、誰かが誰かを愛するというだけだ、といった単純な勁さ。
 元登山家のデシクは家族と離れソウルでホームレスになっている。株の暴落で失敗したブローカーのソグォンは妻からも見放され、自死を試みてデシクに助けられる。新しい場所をめざしてふたりはソウルを出、途中で出会った若い女性、イルジュとともに南へ向かう。デシクからの愛を否定し拒絶するソグォン、デシクを求めるイルジュ、絡み合った関係のなか、たどり着いた街で再生をかけてデシクは肉体労働を続ける。
 経済の激変、都市の変質、ネット網やバーチャルな取引といった実体を持たないものが席巻していく社会での愚直な身体の没落といったことも重なる。自身の気持ちに忠実であろうとして息子も妻も捨てた男、デシクの頑なな一途さは、そういう不器用な生しか選べないということでもある。
 性行為の描写がずいぶんと激しく、彫刻的な硬さや強さで劇化されているのは、男性性への傾きや美学だけでなく、過剰すぎる思いと、ぎりぎりと絞られた緊張の比喩だろう。永遠、つまり死の形象化。だから物語はひたすら破局へと突き進む、まるでそれが目的であるかのように。悲劇や悲恋が官能的でもあるのは、その皮膜の下に、いつも不可能性(その究極の死)をぴったりと貼りつけているからだろう。
 幾人もが死んでいき、そうして最後に、酷いことばを残して去ったソグォンを思いつつ、デシクが死をけっして石切場の発破作業のなかに入っていく。もちろんそこで映画は終わらず、彼は死なず、引き返してきたソグォンの裸の腕のなかで息絶える。
 HIV感染症エイズ)が、治療が進んで「死の病」でなくなったとたんに芸術のテーマから振り落とされ、こんどは純愛が不可能性のメタファーとしてもまた現れてくる。

 

白いカラス

 現代の、そしてアメリカ合衆国の様々な問題が取り込まれている。人種・民族、肌の色、性的虐待、D.V.、ヴェトナム戦争後遺症、ポリティカル・コレクトネス、差別発言糾弾、そして当然のこととして家族、結婚、仕事、誇り、愛、性などなどの問題。
 人種差別発言問題で退職に追い込まれた老教授と彼の若い恋人、それを端で見ている作家との関係を軸に映画は進む。教授の抱える人種に関する秘密、恋人の混乱した過去がだんだん明らかになり、ふたりの親密さは増し、それに伴って精神的に壊れた彼女の前夫がからんできて危機は増していく。愛、そして悲劇。フィリップ・ロスの小説が原作だけれど、辛辣さやユーモアは影を潜めている。
 差別とそれ故の矜持を生む「人種」とか「肌の色」という概念の曖昧さは映画のなかでも少しは見えてくるけれど、それが人や社会を縛っている計りがたい強さもまた浮き上がってくる。
 歴史的に、ある中心になる側(例えば「白人」)を成立させるために、別の中心でない周辺的な側(「黒人」など)が創りだされてきた。「異常」という概念を創りだすことで初めて「正常」という概念が成立し存在し始めるように。こういった、差別や偏見を伴う概念は、創りだす側の特権に関わっているから、一方の側はマイナーで負のイメージとして生みだされることになる。人種という考え方(区分け)を創りだすことで、優れた側としてその優位性の下に一方の隷属化を推し進める(植民化とか、社会内での隔離として)。そのために肌の色という概念も創られ持ち込まれるから、そこには優位の色とそうでない色とが生みだされることになる。そもそも色ということ自体も普遍的なものとしてあるのではなく、それぞれの時代や社会で全くちがうものとして現れてくるものだろう。そうしてこの映画のなかで顕著になるけれど、どこからが黒い肌の色でどこからが白いか境界線を引くことは不可能だ。
 人種という概念にも重なる、「血」ということでも同じだろう。五十、一%ならA種であり、それ以下なら非A種であるというような区分けは滑稽なだけでなく意味すらなさない。辿っていけば全ては繋がりあうし、ただ無限の中間部分だけがあるだけだ。でもこの社会では、当事者本人もまわりの人々も、つまりわたしたち自身もそういう考え方に身動きできないほど絡め取られ、囚われてしまっている。
福岡市天神のソラリアプラザで上映中。

 

映画美学校in福岡
飯岡幸子『ヒノサト』他

 映画美学校出身者のドキュメンタリー作品の特集が、REEL OUT(リールアウト)で行われた。宗像市出身の飯岡幸子を含む六作品で、参考上映という形で是枝裕和監督の『彼のいない八月が』も上映。
 最近の若い作家のドキュメンタリーの多くと同じように、ここでも家族などの身近なものが対象に選ばれている。カメラを向けやすいというだけでなく、自分にとってリアルでありきちんと感じ取れる場でもあるからだろう。そうしてそこから入っていって、今という時代を掴みたい、世界を理解したいという切実な思いに貫かれている。
 『ヒノサト』は、画家であり教師であった祖父の作品が残されている場所を巡りながら、彼の暮らした町、見ていただろう山や田園を撮しとっていく。差し挟まれる日記の断片がその人と時代も浮き上がらせる。静止した絵画的な構図のなかにおさまる風景、でもそこを今を生きる人が横切っていき、光は差し込んでくる。親密さに満ち、緑の樹々なかを吹き抜ける風が皮膚に感じられるほどなのは、祖父の残したタブローのなかにいた少女もまたその風と光を抜けて今に至っていることが重なっているからだろう。
 長谷川多実『ふつうの家』は解放運動に邁進してきた両親、特に父親との、カメラをとおしてのシビアで愛情溢れる対話になっている。あまりにも違う時代や環境を生きてきた親子は、時には涙でことばにつまりながら、とまどい打ちひしがれながらも父と娘として会話を続ける。「フツー」なんてどこにもないこともみえてくる。
 「新しい教科書を作る会」会員の父親とのやりとりをコミカルに辛辣に描いた清水浩之の『GO!GO!fanta-G』も家族の窓を通して広がっていこうとする。
 積極的な自主上映活動を続けてきたREEL OUTは、残念ながら六月十二、十三日の杉本信昭特集が最後の上映となる。 

 

ドキュメンタリーの現在--ありふれたことがらのなかから

 先日の福岡市総合図書館ホールでのイメージフォーラム・フェスティバルの上映作品にも含まれていたし、映像教育機関の卒業制作などでもドキュメンタリー映像をみる機会は多く、その生々しいまでの力に引きつけられるけれど、いったどこからその力は生まれてくるのだろうか。これまでの、社会の現実を見据える、真実をニュートラルな視点で切り取る記録映画といったものとはかなりちがっている。
 ヴィデオやDVDの機材が簡単に手にはいるようになって、映像による表現のすそ野は急速に広がっている。フィルム映像と比較にならない低予算で、多様な試みができる。手軽だから自在に扱えるし、長々と撮り続けることができる、それが凝縮力を欠かせることがあるにしても。中国にもみられるように実に様々な人が、今まで考えられなかったような対象を撮り始めている。ドキュメンタリーという概念それ自体も変化していく。
 そういうなかで、自分を表現しようとする、「自分探し」とも言われた、自身のアイデンティティー確認に向かった若い表現者も少なくはなかった。『につつまれて』(河瀬直美)、『ファザーレス』(村上雅也・茂野良弥)、『アンニョンキムチ』(松江哲明)、『ふつうの家』(長谷川多実)=写真、などでも、身近な関係から出発し、肉親や出自を探り、それらを問い返す形で始められている。撮る側の甘えや怒りも含んだ激しい肉声をカメラの側から直に投げかけていくから、撮る側の存在も剥き出しになり、画面のなかに取り込まれていく。撮られている対象も、身近な場からの追求にあたふたしつつも、既成のことばでのおざなりな対応でなく、嫌でも真摯に受け止めて共に考える姿勢になっていき、驚くほど率直な表情や声が返ってくる。撮り始めた側が自分も振り回されながら、表現するという立場すら捨てて対象に迫りのしかかり抱きついていく、そんな噴きだすような切迫感によって掴み取られたものなのだろう。
 方法論がないとか、私的に過ぎ社会性を持たないといった批判もあるけれど、わたしたちがほんとに自分の抜き差しならないこととして感じ、持続して考え続けられることがらは限られている。そこから始めて手放さず、少しずつ進めていくしかない。
 七月二日から始まる第一八回アジア映画祭でも各国のドキュメンタリーが上映される。

 

三里塚 辺田部落』 小川紳介監督

新しい共同性へ
 ドキュメンタリー映画特集が福岡市総合図書館ホールで開催され、小川プロが撮り続けた一連の三里塚農民による成田空港建設反対闘争の映画のひとつ『三里塚 辺田部落』(一九七三年)も上映された。強制執行の後、闘争は長期化し、牧歌的な農村風景のなかに展開される非日常的なことがらの連続のなか、でも日々の農作業、西瓜の収穫、季節の催しごとや祭り、稲刈りなどは維持され、くり返される。
 激しい闘争と人々を追い続けていた映画は、ここでは村落内の会合の長い沈黙や気づかいも写し撮りながら、次第に地域の行事も含めた農村の生活そのもの、個々の人たちをみつめ始める。それは政治的なラディカリズムを映画としても担ってきた小川プロのまなざしが、温かい懐でもありまた厳しい軛でもありうる地域共同体そのものへと向けられていくことに重なっていて、後に小川プロが山形へと移り、「闘争」的でない作品を撮り始めることにもつながっていく。
 地域共同体や家族が崩壊し、<個>という概念が異様に肥大し、今や体(性)も命も個の可処分物だと言いつのるところまで来てしまったようにみえる。しかし人がバラバラの個として、他者を排しつつ生きえるわけはなく、<個>という概念も含めた近代の創りあげた考え方が大きく変わりつつあることの表れでしかないだろう。
 共同で生きていくしかない人が持ち続けてきた愛とか慈しみといったものが、今までの家族や共同体といった形としてでなく、ちがうものとして現われてこようとしている。この映画の人たちのように、わたくしたちも絶えずいろいろなことを選びとりつつ生きていくわけだけれど、その選択の幅は思っている以上にずっと自由で広く可能性に満ちていると思う。楽天的にすぎるのかもしれないけれど、フィルムに定着された人たちをみていると、この勁さや豊かさを人は生みだしてきたんだ、今もその力はどこかに保たれているはずだと思える。
 他にも『不知火海』、『旅するパオジャンフー』、『老いて生きるために』等を上映。

 

スーパーサイズ・ミー

巨悪に立ち向かう正義の騎士たち
 マイケル・ムーア監督がジョージ・ブッシュを攻撃するように、この映画の監督モーガン・スパーロックはファーストフードの巨大カンパニー、マクドナルドに立ち向かう。彼らは命を賭け、体を張って、データや数字、インタビューや記録映像を駆使して闘い続ける。そういう率直で強い対抗が存在することが、アメリカ合衆国の健全さを示すとも言われてきたが、ついてまわるこの違和感はなんだろうか。
 肥満の原因としてマクドナルドを提訴して棄却された少女たちへの裁判所の文書内にある、食べ続けることの影響は証明されていないという部分に刺激され、監督は三十日間、毎日三食、マクドナルドで買えるものだけを食べ続ける実験を始める、実験台は彼自身。過食、極端な肥満、食べ物への敬意や愛を全く失った現代が剥き出しになる。
 三人の医者の監視の下、一日五〇〇〇カロリーにもなる高脂肪食によって、体重の急増、肝臓の異常、コレステロール値の高騰、精神的不安定などが起こるなか、果敢に挑戦し続ける監督。医師や教授、社会活動家による否定的インタビューが挿まれ、学校や給食にも進出して、子どもたちに圧倒的な影響を与えているファーストフードや甘い清涼ドリンクなどの巨大食品会社が攻撃される。
 音楽をつけ、ユーモアと真摯さを交互に繰り返して刺激し飽きさせない構成をとり、わかりやすい批判や攻撃、専門家による統計数値を使った解説、普通の人々の本音、無垢で無知な子どもたちなどが、編集によってひとつながりに効率よくまとめられていく。しかしその向こうにある生活、望ましい食事や栄養、ましてや良質のタンパク質や新鮮な野菜なんて考慮もできない貧しさや環境、テレビも含めた圧倒的なメディアの影響に曝された自立できようもない生活は取り出されない。
 巨悪に対抗し、抗議の声を上げ力を組織して攻撃し闘い続けることが、社会をよくしていくという信念が常に底にあり、それは正しくみえるし、それ以外の方法を誰も即答できない。しかし、緻密に分析し数値を掲げ効率よく、<正義>を掲げ、強さで押しとおそうとする発想そのものは、彼らが対抗している相手と全く同じであり、そういった考え方が米国や世界を今のような場所に連れてきたのではないだろうか。現在の在り方をほんとに考え直すのなら、わたくしたちは血肉化してしまっているそういった発想の型そのものを徹底して問い返し、そこから抜け出ていくおぼつかない闘いを、方向すら見えないまま自分ひとりで始めるしかない。福岡市、シネテリエ天神で上映中。

 

ベルリン・フィルと子どもたち

弱さへと集中する世界の歪み
 二〇〇三年に行われた、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による、音楽と二百人を超す子どもたちのダンスからなる教育プロジェクトのドキュメント。芸術監督サイモン・ラトル指揮によるストラヴィンスキーのバレー音楽『春の祭典』のリハーサルや、共演した8才から20才くらいまでの約240人もの年少者によるダンスの練習風景が続き、間にそれに関わった人々への長いインタビューが挿まれている。緊迫感やおかしみもある生き生きとした練習過程そのものや、成功した公演の力強さも刺激的だが、そこに浮きあがって見えてくるのは、この困難な時代をやっとの思いで生き延びていく子どもたちの、そしてそれをとりまく大人たちのささやかな、でも諦めることのない物語でもある。
 内戦で両親も親族もなくしアルジェリアから奨学金を頼りにひとりでドイツに来た聡明で孤独な少年、シニカルなことばやふざけた態度で自分をガードしつつ、すがるような目でまっすぐに見つめる少女、貧しく複雑な家庭に育ち今も劣悪な環境に放り込まれ、心身共に問題を抱え込んでいる子どもたち、なんとかしてそういった子どもたちの側に立とうとする教師、大人たち。映画のなかでも、誰もが傷ついたり挫折したりしながらも諦めずに何かを求め、でも多くは望まず、ささやかな自分と世界の幸せを夢想している。
 いつの社会でも最も脆い部分に重圧がかかっていく。世界の悪意や憎悪が柔らかい部分に向けられるというだけでなく、人々の無意識の圧力も、世界の構造の仕組みとしてどうしても弱い環へと集中してしまうからだろう。これまでもそういう在り方だったけれど、全体でバランスをとる力を内に持ち得てきた。今、多様な役割を持つはずの<弱さ>や<異質さ>が全くの負の要素として否定され、隔離・排除され、社会の構造それ自体が悪意に拮抗してバランスを取れないまでに歪んでしまっている。そういうなかで生きていかなければならない子どもたちのつらさだけでなく、その他の障害者、貧困層、女性、マイノリティ等々の難しい状況にある人々にも思いはつながっていく。

 

新たな映画との出会い2005
生きることを見つめて
 二〇〇四年は実験映像などの上映会場REEL OUT(残念ながら活動停止)でみた映画から始まり、『珈琲時光』、『息子のまなざし』などの作品と出会うことができたが、なんといっても、九時間のドキュメンタリー『鉄西区』(王兵監督)は圧倒的だった。中国の現在と人々が、きっちりとした細部とがっちりした全体として描き抜かれていて、小さなデジタルビデオカメラ一個で、世界が丸ごと掴めるのだと教えられた。
 映画学校の卒業制作や「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」等のフェスティバルでのドキュメンタリー作品の力にも惹きつけられた。家族や地域へのささやかな視点から出発することだけが、<弱さ>とか狭さこそが、世界を掴むための唯一の可能性ではないかとさえ思わせられた。わたしたちが持ってしまっている、よりよくしなければという発想や向上心そのものが、世界をこんなふうにしてしまったのではないか、<善>や<正しさ>の追求でなく、先ずそういった概念それ自体を問い直すことから始めなければならないのではないか。
 DVDなどでみたものも多く、アニエス・ヴァルダ監督『落穂拾い』(二〇〇〇年)もそのひとつ。フランスでの、田園の落ち穂拾いから、都市で生ゴミも含めた捨てられたものを拾い食べる人までが撮られ、人の勁さ・弱さ、頑なさ・柔軟さ、そしておかしさや哀しさが重層的に見えてくる。
 年の最後にみたのは、布団の打直し、下駄の鼻緒といった日常生活の描写に満ちた小津安二郎の『麦秋』(一九五一年)。『東京物語』と対をなしていて、バラバラになっていく家族を都市部の息子夫婦世代の視点から描いている。戦後六年、帰還しない息子・兄を慕う母と妹はラジオの帰国者情報゛尋ね人の時間゛をかすかな期待でまだ聞いている。
 戦争というものがその過酷で悲惨な現場だけでなく、何世代にもわたる深い傷を与えることも、もっと真摯に考えられるべきだろう。戦争や闘い、競うといったことそのものをもっとリアルに感じ考え、生きることを、人を、改めて丁寧に見つめ直すことから始め、そうしてその地点に繰り返し立ち戻らなければならないことを、映画も静かなことばで語り続ける。

 

東京物語小津安二郎監督


ありふれて深い生のかたち
 今年も暮れようとしている。人為的な区切りだけれど、人々の培ってきたこういう知恵に救われることもある。年を忘れるという形で、抱えていくにはあまりにも難しい辛いことがらを、力を再び取り戻せるまで、去年へとそっと押しやり折り畳み、巡ってくる新しい年へと思いを馳せる。二〇〇四年の師走、小津安二郎の常に新しい「旧い物語」のひとつ『東京物語』(一九五三年)が上映された。
 戦争が終わって8年、帰還しない息子を、夫を、思い続ける母と妻。それは強引に死者を忘れ今を生きることで突き進む戦後という時代への哀しみとささやかな抵抗でもあるのだろう。過酷な戦争のなか、生と死の分水嶺はどこにあったのか、今ここにいる自分と、喪われてしまった人とを分かつものはなんだったのか。そういう問いを繰り返しつつ、生き延びた自分が負わなければならない死者への責務を誰もがまだ考えようとしていた頃。
 自分にとってもっとも切実であり、より明確に感じ考えられることだけを、愚直なまでに真摯に掴み描き続けた小津の、新しい時代への決意と諦めが正面からはっきりと語られた映画だろう。老夫婦が訪ねる、東京で「成功」した子どもたち、そこでの齟齬や寂しさ、喜び。帰郷直後に老妻は亡くなり、葬儀でもう一度家族は顔を会わせる。生きていくのはたいへんだから、丁寧に時間をかけてつながりをつくりあげることはしたくてもできないんだと、そそくさと席を立つ人々。穏やかな尾道の港の風景から始まった映画は、静かな光り溢れる港の情景で終わる。
 もう半世紀以上も前の映画であり、実に綿密に描かれている生活の細部のなか、例えば水枕や氷嚢とかのように消えていったものも多いけれど、でも生そのものは全く同じままにしか見えない。古き良き時代とか、自然への回帰といったことでなく、人の営みがありふれていてそしてかけがえのないこと、あたりまえでそうして恐いほど深いことが、平板なことばでさらさらと語られていて、呆然とさせられてしまう。

 

フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元国防長官の告白』

ことばの無力
 自分がいちばん強いとか、いちばん賢いとか、誰よりも成功しているとか思うことに、痺れるほどの快感を感じる人が確かにいる。そういった価値観は時代や状況、つまり考え方や見方によってまるで変わるものだという相対的な冷静な視点を持たないと、例えば国家予算に関わる人間が自分が国家をつくっていると錯覚してしまう滑稽さに落ち込んでいく。巨大であればあるほど、それを動かしている自分という思いこみも巨大化する。わたしたち誰もが、そういった思いこみに巻きこまれてもいる。
 アメリカ合衆国は異様に見えるけれど、今の世界を貫いている考え方のひとつの凝縮された形であり、現在の世界のシステムの原形となってしまっている。誰もがそこからうまく抜け出せなく感じてしまうのは、その強引なシステムの強制に抗うことの困難を思い、効率性や即効性の魔力に引きずられるからだろう。そういったこともまた相対的なこと、しかもかなり短いタームのことだと思いつつも、眼前に瞬く間に広がる富や力の進行に同調し取り込まれてしまう。とり残されることの不利益だけでなく、もっと根源的な、ひとりになる恐怖が人を駆り立てる、どこまでも際限なく。
 『フォッグ・オブ・・・』はケネディ、ジョンソン大統領の下、ヴェトナム戦争時の国防長官だった、ロバート・マクナマラへのインタビューを中心に構成されたドキュメンタリー映画。嫌になるぐらいあくの強い人間ばかりでてくるのに、社会的役割(役職)を剥ぎ取った後の顔が漠としていて、どこにも個としての、誰かが誰かに向かって発するほんとに切実な、生のなかで掴まれた唯一のことばや表情がみえない。
 頻発される理性(rationality)ということばは、人が歴史のなかで培った生きる知恵のことでなく、システムのなかでいかに的確に分析判断しいかに効率的に説得、獲得するかの能力のこととしか聞こえてこない。だから、マクナマラノ言う、人は何度も同じ過ちを犯し、過去からすらけして学ばない、人の本質は変えられない、好戦的で常軌も逸脱してしまう、戦争がなくなると信じるほどわたしはナイーブではない、といったことばも、何かの引用みたいにしか響かず、長い時と苦悩、諦念が生んだ、かろうじて個から個へとだけ届く声には聞こえない。

 

らくだの涙
平原を渡る風 喪われていくもの
 モンゴルが描かれた映画としては、広大な平原、ゆっくりと移っていく太陽、その下をひとり機材と共にらくだで巡回する、映画と観客を愛する移動上映技師を撮った『ゴビを渡るフィルム』が思い起こされる。
 今回の『らくだの涙』は平原でらくだを飼い羊を育て、パオに4世代で暮らす家族が中心になっている。あたたかで強いつながり、平原での厳しい生活が生む生気に満ちた表情。薪を集める曾お祖父さんがらくだにまつわる神話をひとつ語って映画は始まる。できごとをそのまま記録したフィルムと、本人たちに再度演技してもらったフィルムとで編集してある。
 かけがえのないものとしてどんなに残念に思っても、過ぎて去ってしまうしかない、永遠に懐かしいおとぎ話にも見えてしまう世界だけれど、そこにある動物やミルク、子どもの匂い、毛皮の感触、砂、日々の暮らしの細部、そうしてその重なりがつくりだす時間の厚みはくっきりと写しとられている。
 その年の最後に生まれたのは白いらくだで、難産だった母らくだは子どもを疎み、乳も与えなくなる。時として起こるらしいそのできごとに、一家は音楽による治療で対処しようとする。街までらくだを駆って馬頭琴の先生を呼びに行くのは子どもたち。無口でしっかりした兄、やんちゃで歌も歌う弟、まるで童話の世界そのままに。
 そこにも「新しい」時代の荒波は押し寄せ、牧歌的なきずなは消えつつある。最後に、弟に一家全員が押し切られたのだろう、とうとうテレビがパオにやってくる。体ほども大きなアンテナを調節している兄に、なかから「きれいに写ったよ」と弟が叫ぶシーンで映画は終わる。どうなるのだろう。喪われたら二度と手に入らないだろう、過不足のない完結したある生の形は消える。そうして「グローバル」に蔓延し続ける、人をけして満足させない飢渇感やさっと取り替えのきく表情、つまり無表情に、全てはたちまちに覆われていく、のだろうか。わたしたちはもう映らなくなった鏡にただ問いかけるしかない、「鏡よ鏡・・・・」。

 

『落穂拾い』(DVD) アニエス・ヴァルダ監督

身を屈めてつかむもの
 美術作品と図録の写真とのちがいほどではないにしても、映画とビデオやDVDもずいぶんとちがうし、映画としてつくられたものは当然にも大きなスクリーンでみられるべきだろう。でも時代や地域的な制約も小さくはないし、簡便さや繰り返しみることができるよさも捨てがたく、つい手に取ってしまう。
 ミレーの絵画『落穂拾い』から始まるこのドキュメンタリーは、畑での果実や野菜などの収穫物の摘み残し、規格外で山と捨てられた馬鈴薯、都市での家具や家電の廃棄物、さらに市場での野菜や魚肉、パンなどの食品までも拾う人たちを撮しとっていく。拾う理由や目的も様々で、生きていくためにゴミ箱を開いて拾う人、主義として、今の社会への抗議行動として拾ったものを食べて生活する人、楽しみで田園の果実を拾う人、仕事として拾って料理したり売ったりする人、海岸の養殖網から落ちた牡蠣を拾う人など多様だ。
 そうしてそういう人やできごとを丹念にカメラで拾い集める監督。彼女は老いた自分の生活や皺だらけの手のクローズアップを挟み込むことで、撮している側も映画のなかに取り込んでいく。その手に、衰退し疲弊しつつも、まだ生の勁さや喜びを抱えている今の世界の比喩を読みとる人もいるだろうか。
 カメラのぶしつけな視線にはたじろがない人たちが、でも隠しようもなくみせる、痛めつけられた者としてのつらい表情や仕草も多くを語る。この映画に、「人は狩猟動物なんだ、自分の食い扶持をそうやって手に入れているんだ」という感想を持った人もいたように、そのなかには強さや大胆さも確かにある。
 生きることはほんとにたいへんなことだけれど、でも同じくらい楽しさも喜びもある、そんなふうにもみえる。子どもの頃の「創意工夫しなさい」を思いださせられたりもする。それぞれが工夫し自助努力しつつ、大地そのものの恵み、収穫物を受けとり、都市を流動するものを拾って受け継ぎ、世界を画一化して覆い尽くすようにみえる大波に抗い弾かれ、助けあって生き延びていく、時にはほくそ笑みつつ。スクリーンに時として広がる痛々しさや怒りを覆すほどの、登場する人たちのみせるユーモアや皮肉、肯定的な姿勢や積極性、人なつっこさは、どこかで自由や希望ということばさえ思い起こさせる。だからまたみてしまう。

文さんの映画をみた日

 

亀も空を飛ぶ」(2004年バフマン・ゴバディ監督)

深みへと届く力
 どことは名ざせない自分の内の深みを、静かにでも思いがけないほど強く強くうつ映画だ。子供たちをとおして世界が描かれるから、いろんなことが痛いほど剥きだしになる。心臓が鷲掴みされ叫びだしそうになる。錯綜する中東、絡まりあった民族や国家の軋み、そこに介入し侵攻する米国。翻弄され痛めつけられて暮らさなければならない子供たちの、人々の、それでも生きていく現在が描かれる。
 戦争や悲惨といった素材やエピソードによってではなく、表現の地鳴りのようなものでみている者を大きな力で揺するから、そこにことばでない共振が生まれる。ドキュメンタリーという形を取らずにこんなにもあるがままに人々を描けるのは、登場する人々が当事者であり、その眼差しや身体、しぐさにも深く染みついた哀しみと怒りがあるからだろう。もちろんそれを引き出し結実させる製作する側の力も大きい。でもそれは技術や才能などの問題でなく、世界をどう捉えるかといった根源的な、考え方や生きる態度の問題であり、ドキュメンタリーとフィクションの違いというようなことが様式や<現実>の違いでないことも知らされる。既成のことばや考えをなぞる限り、たどり着く先は同じだ。
 抑圧され続けるクルド人、イラン-イラク戦争での悲劇、今も続くイラク戦争。そういったことを前提にし、個々のことがらも語りつつ、映画は事象を超えた場へといつの間にかわたくしたちを連れて行く。世界をまるで初めてのように、直に見ているかのように。自由というのはそういうことなのかもしれない。
 映画のなかで悲劇的な結末を迎える少女の底なしの絶望を前に誰もがことばを失うしかない。けれども不思議なことに、こんなにも深い絶望と共に、それを受け止める力も映画はそっと差し出していて、わたくしたちは知らないまにそれを受けとっている。終わった後に、勁さや明
るさの印象さえ持つのはそういう力ゆえだろう。世界はこんなにもでたらめで酷たらしいけれど、そこにはわずかであれ喜びも美しさもある、その両方で成り立っている以上、今は両方を取るしかないんだと穏やかに諭すかのように。
 亀も空を飛ぶ、わたくしたちも冷たい水をくぐっていく。希望とか未来とかいう期限切れのことばでなく、まだ見えぬ知らぬ、でも誰もが持っている新鮮であたたかなものに支えられて。世界は生きるに値するんだよと何かがそっと囁く。

 

成瀬巳喜男監督映画祭

制度としての恋愛、結婚
 生誕100年記念ということで清水宏監督に続いて成瀬巳喜男監督を取り上げる企画や特集があちこちで組まれている。福岡市総合図書館ホールでも昨年の12月に第1部があり、今年3月に第2部が予定されている。誰もが先ず名をあげる彼の代表作『浮雲』の他にも『妻よ薔薇のやうに』『鶴八鶴次郎』『めし』『流れる』『女が階段を上る時』『放浪記』等など。そうそうたる俳優陣であり、衣装や日常の小道具の細部が豊で、当時の建物や路地も丁寧に写しとられている。往年を懐かしむ年輩の方々が観客席に多いのも頷ける。
 小津安二郎ホームドラマ、成瀬のメロドラマという言い方もされたりする。極端な言い方をすれば、生活というのはそれで全てなのかもしれない。誕生と死の間にある、恋愛、結婚、新しい家族。そうやって近代は生の再生産と社会的個人をつくりあげる仕組みを、各個人にはそうと自覚できないまでに実に精緻に、圧倒的な力と構造で組みあげてきたのだろう。そうしてその仕組みの耐用年数が切れつつある現在、恋愛や結婚という性の制度もその限界から自由ではない。
 男とか女という概念が本質的にあるものではなく社会的文化的につくられるものであり、性別さえ生物学的で絶対的なものではないだろうということもすでに語られ始めている。効率的な次世代の確保を保証してきた一組の男女による生殖と養育の家庭という形が揺れる時、恋愛-結婚だけでなくそれからはみ出す性も含めたシステム全体が揺れる。かつての映画のなかの、平凡で安定したあたたかい家庭や金銭さえ絡む打算や出口のない愛憎と、最近のそれに拮抗するかのような純愛も、同じ制度の違う面でしかない。
 制度のなかみは絶えず変遷するだろうけれど、その底にある、現代では恋愛や家族愛として現れている、他を愛したり慈しんだりする思いは、絶えることなく人のなかに脈々と流れ続けていく。些細な特権や怯えを捨て、制度そのものにしがみつくことを止めた時、初めて新しいつながりの形が感じ始められるのだろう、愛にも性にも。

 

2005年『亀も空を飛ぶ』の勁さ

クルドという視点が開くもの
 2005年、今年も多くの映画が上映され、世界の、人と人のつながりの、喜びや哀しみを描きだした。福岡でも単独上映館を中心に積極的なプログラムが組まれ、映画の収集も行っている福岡市総合図書館の映像ホールでは様々な特集の上映を続け、各地で映画祭が開催された。
 なかでも、イラククルド地方の現在を描きしたバフマン・ゴバディ監督『亀も空を飛ぶ』は、衝撃的なまでの強い印象と長く消えない余韻を多くの人に刻みこんで圧倒的だった。フィクションでありながらドキュメンタリーを超えてリアルな今を、その下に重なる歴史や無意識も含めて描いていき、不思議な明るさやあたたかみさえも生みだしていく。映画のなかの悲惨を生き抜く子供たちが、人々が、スクリーンのこちら側も巻き込むほどの骨太さを持っている。思いもかけない深みでなにかが突き動かされ共振し、そうしてそんな穏やかな勁さが自分のなかにもあることを感じとらされる。
 生きるなかで人が持ちうる慈しみとか智恵、力といったものへの信頼があり、性急に答を求めないし創らない静かな持続や、痛みや死を受け入れる強靱さがあり、それが映像という表現のなかに浮かび上がってくる。
 国々を、人々を、自国の生きづらい人たちをも容赦なく攻撃し続ける、傲岸でかつ神経症的な「アメリカ」に対しての、おそらく初めての、対米国といった狭い枠のなかに閉じない、そこを突き抜けて、世界や生の希望をみる可能性を開こうとする映画だろう。頑なに閉じてしまっている米国、そこでの内側からの対抗や相対化の動きは、自身の弱さを正面からみられない、負けることを受け入れられない集団ヒステリーの前に無力なままだ。耐えられずに、なんとか答をだそうと探る誠実な試みは、ヴィム・ヴェンダース監督の『ランド・オブ・プレンティ』等のように、神や無垢といった今までも語られてきた概念のなかに収束されてしまうかのようにみえてしまう。
 この冷え冷えとして薄い空気のなかを喘ぎながら、でも誰をも踏みつけずに生きていくことはもちろん可能だと映画は語る。<生>という現象はもっともっと開いていけるし、どこまでも広く深いし、とても単純なのだからと。

 

ランド・オブ・プレンティ』(2004年 ヴィム・ヴェンダース監督)

憎しみを捨てる勁さ    
 ヴェンダースは答のでないことがらを、静止しない動き続けるなかに、つまり生きた現在のなかに、人と人の愛とか友情とかいったつながりとして浮きあがらせようとする。いつものようにどこかミステリアスな雰囲気のなか、少しパセティクで感傷的な色合いに染めて。今回は信仰、民族、9/11、ヴェトナム戦争といったことがらをとおして「アメリカ」を語ろうとする。そうすることで現在を、自分の位置を測り確認し、そうして未来への希望を築こうとする。それは誰かへの、世界へのメッセージとしても届けられるはずだ、そんなふうに。
 そういったことは、例えばアメリカを定義するとか叙述するという発想を捨てなければ始まらない。国家とか国民とかいうことが、特定の民族や人種の集まりでさえない、恣意的なものだということは近年の東欧などの争いで変わっていく国境をみるまでもなくはっきりしている。そうして殺しあうほどにもつのってしまうその呪縛の大きさも。もちろん今の日本とか日本人とかいう概念も同じだ。以前、日米の首長会談を見ていた人が「この人たちは国をまるで自分のもののように語る」と評していたが、わたくしたちも自分を「・・人」「・・族」と規定することで、そういう代理する(代表する)という発想を裏から支えているのだろう。誰かを(例えば国民や民族を)代理することから虚が始まる。
 アメリカで生まれ10歳まで育った後、アフリカ、中東に暮らし母を亡くした人が、二十になってロサンジェルスに戻ってくるところから映画は始まる。喜びや安堵感の後の驚愕。彼女のなかの、かつてのアメリカはもう存在しない。ロサンジェルスの貧民地区での伝道・救援活動で知る貧困、差別、ドラッグ、銃、殺人。探していた、かつてヴェトナムにいた叔父は戦争の後遺症で異様な行動にはしっている。そういったことを激しい痛みと共に受け入れていく素直さや穏やかな勁さを持つ人として、ほとんど無垢な存在として彼女は描かれる。永遠のやさしさ、だろうか。
 病んだ叔父をとおして、「ヴェトナム戦争に勝利した」ということばが唐突にでてくる。「冷戦全体としては」という注釈が後で着くが、それがアメリカの本音でもあるだろう。負けることを受け入れるあたりまえさを持てない脆弱さや怯えが、どこまでも歪な強さを求めてしまい、肥大し続ける自我、自負。<弱さ>という勁さがあるということすら思いつかないあり方。そうしてそれは彼国だけでなく世界中を、全ての人を覆っていくかに見える。でもそうでないと、映画のなかで語りかける。9/11の犠牲者は酷いめにあったけれど復習を望んではいない、と。映画のなかで、神や信仰は特定の宗教ではない、神と呼ばれてきた、ある大いなる存在みたになものとして語られ始めようとしている。


「モンドヴィーノ」(2004年)

味覚の政治性、馥郁たる錬金術
 ワインにまつわるドキュメンタリー。先ず語られるのはワインのテイストやスノッブな蘊蓄ではなく、現在世界を席巻しているかに見えるワイン業界のマーケティング戦略醸造元の経営学とでもいうもの。いかに米国型のグローバリゼーションに巻き込まれ、操作されているかがみえる構成になっている。
 米国で百点満点評価のワイン評がでてから業界は激変、売上に直結するその評価に誰もが振り回され始め、醸造コンサルタントがその味や好みのワインを、極端なまでに手をかけて創りだす。長い伝統の著名なフランスやイタリアの醸造元も素早く変身し、大成功した米国の会社と合弁し売上は鰻登り。
 味覚に関する手っ取り早い解答やセンスがほしい、美味いものをのみたいという人々の欲望を利用し、味を「客観的」数値に換算し単純化するのが、ワインに関する今までの空疎な言説をうち破る革命であり、消費者の民主主義だと米国で豪語される。「帝国」フランスの反論者は皮肉に満ちて傲岸なまでに辛辣だ。でもその鋭い舌鋒が共感を呼びにくいのは、そもそもワインというヨーロッパで創りあげられた特異な酒とその味が植民化と共に世界化され一元化された上で、現在小さな違いが競われているに過ぎないからだろう。ワインや味覚の一元化が多くのものを押しつぶした歴史を抜きにしては、「どんな地域にも固有の食や酒の文化がある」という地域性や個性強調のことばの説得力は弱い。
 驚かされるのは、かなりの有名なワインや醸造元がごく新しいこと。土地や長い伝統と経験だけが創りあげる微妙ででも確固としたワインといった幻想は吹き飛ぶ。味や香りといったものもあくまで時代や地域のなかで創られ、メディアによって増幅され流布され、一時的な共同の思いこみになっていくということ。流行と同じで味覚も移ろっていくというだけでなく、身体に直結し生理そのものだと思われている<味覚>も、そう呼ばれている観念でしかないということだろう。
 でも饒舌や口論だけでなく、全ての源である大地の営みとそれが産むもの、わたくしたちを生かしめているものへの愛おしみも撮しとられていて、こつこつと積み上げるように作る情熱や、労を惜しまず多くを求めないあり方もみえ、効率主義やグローバリゼーションの悪酔いを微かに晴らしてくれる。


輝ける青春

慈しみと憎しみと
 イタリアの、60年代後半から70年代半ばにかけて青春を謳歌した世代の、その家族を含めた物語。6時間の上映で、ローマから始まりシチリアからトスカーナまで、当時の若者の聖地でもあったノルウェーも含んで、美しい自然を盛り込みながら、激変する社会のなかの愛や友情や死が描かれる。美しく達者な俳優陣、飽きさせない脚本、過剰にならないでもしっかり笑いも涙も誘う演出、小さな刺激を与え続けながらよどみなく滑らかに物語は進み、魅力的で強い人々の成功と寛容と愛とで締めくくられる。
 60年代末の大学や街頭での闘争、さらに世界を震撼させた「赤い旅団」もでてくるのだけれど、それは時代のエピソードのひとつでしかなく、映画のなかにごつごつした歪みを起こさない。理解不能な、しかし誰ものなかにあるかもしれない異様なものを探る試みの方へは向かわず、正義感や自負から赤い旅団に参加してしまう主人公の「連れあい」も、最後には温かく寛容な家族の物語に取り込まれていく。人にとって最も大切なもの、慈しみとしか言いようのないものが語られようとするのだけれど、それは<家族愛>とか<恋愛>とか<友愛>だとかに切り縮められ、変容してしまう。
 今わたくしたちがいちばん知りたいこと、人は何故人を虐めたり憎んだり殺したりできるのか、ちがう生き方は不可能なのかといった切迫した問いは丁寧に避けられる。この映画の登場人物や日本の同世代の異議申し立てや理想が、何故「純化」され過激化して爆破や暗殺へとつながってしまったのかには目が向けられない。いつの時代にも、何かを性急に求める人の心を鷲掴みし閉ざさせてしまうもの、すでに記憶からも薄らぎかけているオウム真理教の殺戮行為にもつながったなにか。そしてそれが<愛>と地続きであるかもしれないという畏れにも触れられない。
 もちろん誰にも即答できる答などない。できるのは、ことばを溢れさせ論理化して性急に正解を得ようとすることを止め、噴きだしてくる情動に身を任せることなく、それぞれの生きている場で常に問いを持ち続けることぐらいだろう。でも人が必ず持つ他者を慈しむ気持、そういうありふれた思いを、例えば<愛>だとか簡単に名づけてしまわずに、そっとでもしっかりと持ち抱え続けることは今も、誰にも可能なはずだ。

 


『エレニの旅』2004年 テオ・アンゲロプロス監督

悲劇を超えていくもの
 骨太な構造、常に広がりを持ちつつとよどみなく流れる画面、圧倒的な印象を与えた『旅芸人の記録』(一九七五年)で劇的に登場したギリシャアンゲロプロス監督の新作。エレニと呼ばれる女性の半生をとおして、バルカン地方ひいては世界の、近現代の錯綜した民族や国家、政治の悲劇が、左右対称、深々と強調された奥行き、今までよりさらに極まった様式美のなかで演劇的に描かれている。
 二十世紀初頭のロシア革命後、ギリシア人の街オデッサを出て難民としてたどり着いた故国で、バルカン戦争、第一次世界大戦、軍事政権、第二次世界大戦、ドイツの侵攻、抵抗、解放そして激しい内戦に巻き込まれる。バラバラになっていく家族は、アメリカから沖縄まで広がっていきながら次々に亡くなっていく。大きな枠組みとしての国家や政治の軋みと、その下での個々の苦しみ悲しみが、瑞々しくそれ故にいっそう無惨なものとして積み重ねられている。
 それらの苛酷なできごとの間を抒情的、情動的な音楽が埋める、世界と人々の痛みを慰撫するかのように。大枠としての社会的制度と、それに拮抗する勁ささえ持つ人の豊かな内面、情感。相反するこのふたつが、でも奇妙なことに互いに入れ子状になり補完しあっているように見えてくる。個の愛や哀しみが、対立しているようで実は枠組みを支えているではないかという戦慄すべき思いに囚われる。
 それはわたくしたちが歴史と呼ばれるものを現在の視点から、現在の考え方で再構成しながらみているからだけでなく、そもそも歴史(時間)を、ほとんどの人に共有されているかにみえる今の考え方で、つまり不可逆で一方向的な線的なものとしてみる時にどうしても起こってしまうことだろう。でもそういう固定化された世界観から自由になっていけるのだろうか。
 翻弄されうちのめされつつも、この映画のなかのエレニがそうであったように、人はけして他者への思いやりや自分を支える勁さを失うことはない。大きな枠組みと対になった、ことばになり社会化された「愛」ではなく、かつても今もあらゆる場所に在り続けている、慈しみ、みたいなものを改めて信頼し掴むことから悲劇を超える模索が始まる、きっと。

 

時には<美術>の映像で

刺激的な視点や発想
 今回は映画というより、映像と呼ばれている表現から。福岡市アジア美術館で開催されているトリエンナーレ(3年に一度の国際展)では、映像が多用される現代美術界の動向もあって、多くの映像作品が展示されている。様々なサイズのモニター上にヴィデオやDVDで上映されるもの、スクリーンに映写されるもの。美術作家の表現としてつくられているから通常の映画の約束ごとから自由、時にはとりつく島もないものもあるけれど、思いがけない視点に出会えたりもする。映画の文脈だけでなく、「芸術」の制約からも自由になろうとしているから、新鮮で真摯な輝きが放たれる瞬間がある。
 台湾のゼン・ユーチン(曽御欽)は、3つに区切られたそれぞれのブースの中、たった3枚の静止画像でユーモアもある家庭内の物語を創りあげるが、そこには本人や世代、さらには台湾の歴史が挟み込まれているだろうことも思わせられる。私的でかつ社会的でもある回想と、現在の家族のあり方への問いとが、暗い中でみる人のなかに広がっていく。
 シンガポールのザイ・クーニンはマレーシアからインドネシアにかけての海で暮らす人々を尋ね、記録としてでなく自分との関わりとして、個の視点から撮していく。体の前で交叉させる2本の櫂で自在に船を操る彼らの闊達な動きが、青く広々とした海を背景に生活のにおいも含めて映しだされる。複雑な民族の歴史やアイデンティティーの在処にも思いは向けられているのだろう。
 中国のツァオ・フェイ(曹斐)は舗道で毎朝、歩く人に向かってダンスをくり返す中年男性を撮っているが、それを自身のテーマであるコスプレという文脈で捉え直す発想そのもの先ず驚かされる。「変身」願望だけでなく、実際にコスプレや異性装が欠かせないものになってもいる現代。楽しげに腰や腕を使って踊りつつ手を伸ばす人、つながろうとするように、祝福するように。それは作家が語るように一時的な変身による疎外からの逃避や慰安であり、また遠く隔たってしまった他者に近づきたいという願望なのだろうか。
 他にも黒潮を追って志賀島能古島を訪ねた記録なども含め、実に様々な映像が繰り広げられている。全く別の視点や発想に触れることで、今までと違う世界との関わり方の可能性を感じ始めることができるかもしれない。

 

『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)

地の底の声は届くのか
 大牟田市大牟田市石炭産業科学館の企画製作によるドキュメンタリー映画。1997年に三井三池鉱が閉鎖され、かつては日本最大規模を誇った大牟田の炭鉱は全てなくなった。しかし様々な関連施設、建物はまだ残っているし、そこで働いた人々とその思いはスイッチを切るように消えていくわけはなく、今も怒りや苦しみ、誇りや懐かしさが続いている。
 映画では、三池炭鉱の概括や歴史が、囚人労働、朝鮮、中国からの強制連行、三池闘争、大爆発事故、CO中毒等も含みつつ、記録フィルムや人々の証言を積み重ねながら、そこで働き生きた人々、特に女性たちからの視点に重点を置いて描かれている。いかに地の底深い闇のなかでの労働だったかもかすかに窺い知れる。上映時の熊谷博子監督の挨拶どおり、三池も炭鉱も知らない人を対象にした映画として手際よくまとめられている。
 激烈だったあの三池闘争からでさえ40数年が経ち、当時の組合分裂工作などの裏話も出てきて驚かされる。時代が動いて、歴史のなかのこと、当然のこととして語れるようになったということか、死ぬ前に語っておこうということか。実際、多くの人がすでに亡くなっている、のみこんだことばと共に。
 上映会場には当時を生き抜いた人たちの姿もあり、あの闘争時に炭労が全てを中央に白紙委任するという過ちさえ犯していなかったなら、もっと実りある結果になったろうし先へと進めただろうという発言がでる、まるで昨日のことを振り返るように。
 あまりにも多くの命や心が、石炭が、野放図なまでにまき散らされ使い捨てられたこの近代という時代。そうして今も、方向さえないままやみくもに突っ走っているわたくしたち。映像やことばの奥から、声にも形にもできないものとして静かに立ち上がってくるものに耳を澄ませ、目を凝らすしかない。響きは届いてくるだろうか。

 

ジャンプ!ボーイズ(2004年)

超絶技巧の遊戯で
 9月16日から始まる「アジアフォーカス・福岡映画祭2005」で上映される、台湾のドキュメンタリー作品。体操選手だった監督の兄がコーチする小学校1、2年生の体操チームの、全国大会をめざす練習の日々を描いている。体を動かし、転がり、跳び回る子供たちは、まだ幼くて華奢な体で、お遊戯の延長にしか見えない、鞍馬や鉄棒、吊り輪とすごい技をやっているのだけれど。痛くて悔しくてすぐ泣くけれど、全然深刻にはみえない、「今ないた烏がもう笑った」だ。
 誰よりも張りきっているのは鋭い目のコーチ。体操を捨ててバイクを乗り回したワルの時代も語られる、復帰して成功し、一族で初めて国立大学へ入学した名誉と共に。金魚のフンのように兄についてまわって疎んじられた弟の屈折と尊敬はナレーションで。かつての教師が栄光の日々の写真を指しつつ語る体操チームのその後は、教師、コーチ、フライドチキンの販売、服役中(?!)と様々だ。
 公立学校のチームだけれど、教育とか学校の制度への問いかけなどは出てこない。「国家のためにもオリンピックをめざして子供たちの技術を向上させる」と生真面目に話すコーチの向こうで、じゃれ合い喧嘩しては泣く子供たち。模擬試合には必ずお菓子の賞品があり、文字どおり飴と鞭だ。壊れそうな体を駆使しての大胆な演技、弾んだ動きの柔らかさ軽やかさ、体の内から溢れ飛び出してくる力の魅力はすばらしい。
 コーチがくり返す、試合で上手くできなきゃ意味がない、採点のことを先ず考えてやれといったことばに象徴的なように、その自由でのびのびとした動きは、競技スポーツに特有の定められた道具や場所といった枠内での、審査(採点やタイム)だけを目的とする型にはまりきったものへと切りつめられ、鋳型にがっしりと組み込まれていくのだろうか。そうしてオリンピックの体操競技等での、あの異様な堅苦しさや緊張感につながるのだろうか、超絶技巧と共に。まだ世界のなかに抱かれたままの、技術や精進や栄誉や孤独や苦悩や絶望やに取り憑かれる前の、威圧的な筋肉に鎧われる前のしなやかな体と底抜けの表情はどこへ喪われるのだろうか、そんなこともつい思わせられる。

 

「ウィスキー」(2004年)

ひっそりとしたおかしみ、ささやかな嘘
 激しかった夏も翳りをみせ、まだ終わりはみえなくてもでもどこかにひんやりとした空気の塊が感じられる、そんな季節。そこにも思いがけない波風は不意に立ったりもする。人や人生もそんなふうに巡っていくのだろうか。「ウィスキー」というウルグアイの映画がひっそりと公開されている。まだ30代はじめのフアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール監督。淡々と無表情な、でもどこかおかしみもあり微かな甘さも挿まれている、まるでこの世界のどこか目立たない片隅でくり返されていることそのままに、そんな映画。
 固定されたカメラの前、くっきりとした構図のなかで、登場人物たちはことば少なに行き来する。決まりきった地味な日常を、倦んでしまったことさえとうに忘れてしまうまでくり返してきたけれど、まだ仕事からも人生からも退場するには早すぎる年齢。父から受け継いだ、今は3人しかいない旧い靴下工場を細々と経営し、母の介護で結婚もしなかった頑固で不器用な兄、その工場で長く働いてきた地味な上にも地味なマルタ、そこに母の墓のことで帰ってきたブラジルで成功している如才ない明るい弟。兄を慕っていて弟にも好感を持つマルタを中心に、今までの生活からすれば破天荒ともいえる、嘘や非日常で彩られた数日が描かれる。
 ラテンアメリカ的な要素が強調されることはなく、どこにでもありそうな風景や街、ホテルや住まいのなかで映画は進む。カウリスマキ監督を彷彿とさせるむっつりしたユーモア、黙りこくった喧噪とでもいうような不思議な雰囲気もある。
 耐用年数をとうに過ぎた機械、商品、人々、人生。劇的な展開はもうありえないが、強引に断ち切ることなく、多くの人々がそうであるように、決まりきった挨拶と食事を繰り返し、時に些細な嘘をつき、新しい歌を覚え、お決まりの約束ごとのメロドラマをみる日々。特別に大きな喜びではなくても、他人を傷つけることのない生、見えない所でゆっくりと何かが熟し、知られずに産まれる、そんな場や時間なのかもしれない。
 マルタの思いは成就するのか、小さな秘密にも彩られた3人の関係はどうなっていくのか。あれこれあっても全ては続いていくしなるようになるというかのように、そしてそれは祝福であるというように、映画も答をいそがない。

 

第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(下)

カミングアウトを巡って
 アイスランドのドキュメンタリー『マイ・ファースト・カミングアウト』(2003年)はセクシュアリティに関してカミングアウトした十代の若者たちへのインタビュー。自分がまわりと「ちがう」ことへの戸惑いや驚きからの混乱、恐怖に始まり、名乗らないことは嘘をついているとか隠していることだと、いつの間にか思いこまされているマイノリティーたちの苦悩を、彼らもそっくりなぞっていき、家庭や学校でカミングアウトを始める。窒息しそうな閉塞感に押しつぶされそうになり、家出したり反抗したりしつつ、痛々しいまでの生真面目さで勇気をふるって「クローゼットの中」から出ていくことは、当人を重荷から解き放ち自由にさせる面も確かに持っている。映画のなかでも、自殺にも至る絶望の直前での捨て身なまでの蛮勇や居直りでカミングアウトし、自分を立ち直らせ、家族や友人にあたたかく受け入れられる喜びも描かれている。もちろん他方ではあいかわらずの差別や攻撃を結果として生みだしてもいく。
 しかしこういう偏見や差別の基になっている異性愛-同性愛といった区分けは、あくまで社会が「正常」を創りあげるために「非正常=異常」と名づけて境界を引き、隔離しようとすることでしかないのに、その社会で育ち同じ価値観に染められ、彼ら自身も、自分がまちがっているとか「異常」だとか否定的にしか捉えられなくなっている面もある。
 自分にとってほんとに切実なことだけを真摯に考える、痛くも痒くもないことをあれこれ外から語ったりしないことを大前提に、当事者ということの重さをしっかりと掴み受け止めつつも、でもそれは今の時代に自分がたまたま遭遇した偏見のひとつでしかないという視点を、少なくとも「カミングアウト」の後に持つことは大切だろう。おおらかさや勁さの方へ向かうこと。つまりそういった、区分けし境界を引くといった考え方自体から自由になること。そうでないと、他のマイノリティの問題にも通底するけれど、自身が当事者にさせられていることを確認する=確認させられるカミングアウトが、結果が肯定的であれ否定的であれ、同情や奇妙な英雄視も含めて、その人をその属性の枠組み(今現在の、ある特定の地域での概念でしかない枠組み)に、自他の力で永久に閉じこめかねないことは忘れられてはならないだろう。

 

第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭①

性の制度
 今年もセクシュアリティをテーマにした映画祭がボランティアの力で5日間に渡って開催された。接する機会の少ない表現を公開し共に考えようというだけでなく、映画祭自体が祝祭的な楽しさを持ち、日頃はバラバラで孤立してもいる同じような立場にいる人たちとの出会いやつながりを確認する場にもなっている。
 公募の4作品も公開。大阪の○○監督を中心にした「ヘテロ薬」制作実行委員会の『ヘテロ薬』(2005年)は、多様な視点からのセクシュアリティに関わる困難や疎外感、カミングアウトのことなど。とにかく語りたいという切迫感と共にユーモアも含まれていて、今の状況は正直しんどいけれどなんとか距離を取ろうと試みられている。上映後に監督などの挨拶があり、そこでもセクシュアリティの問題を当事者として社会に向かって積極的に語りつつもなんとか相対化していきたいという思いが感じられる。誰もが、「みんなも「社会問題」としてもきちっと考えてほしい、でも当事者はそこに留まってしまわないで、閉じないで」と願っているのが伝わってくる。マイノリティー問題とか差別問題のなかで終始せずに、当事者というあり方そのものを開いていき、あらゆることがらについてまわる当事者性ということそのものを相対化できる視点も問われ始めている。
 別会場でドキュメンタリー上映とティーチインも開催され、セクシュアリティの問題に関してだけでなく、もっと広く、社会と個が絡みあった性の制度としての愛や結婚、家族も討議。『誓いますか/誓います』(ジム・デ・セブ、監督2004年)では、「同性婚」が大統領選の焦点のひとつにもなった米国での、現在の揺り戻しの動きを追いつつ、法的権利がない故に、伴侶を喪った後に住み慣れた家から追い出され、「遺族」から家賃まで請求されるといった生々しいできごとも描かれる。法律で規定される結婚という性の制度をどう考えるかは様々だし、同性婚を求めることの否定的側面も忘れてはならないが、先ず、相続や病院の面会といったことがらから「当事者」をはじき出さないシステムが考えられなければならない。その戦略としての「結婚」ということもあるのだろうが、映される結婚するカップルの喜びに溢れた表情は特別に輝いてもみえ、心うたれる。

 

アメリカ 家族のいる風景」(2005年)

喪失と家族の物語、再び
 ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」(1987年)は彼自身の最良の作品いうだけでなく、多くの人に称讃され長く愛され続ける映画だろう。空を見上げたり風を感じたり、子供を抱いたり、手を水に浸したり、横顔に見とれたり、真っ赤な嘘をついたり・・・そんな人間界に憧れ、女性に恋をして地上に堕りてくる天使。
 抒情に溢れユーモアもあり、なにより人の思いや慈しみ、勇気ややさしい怠惰に満ちていた。子供の無垢を語る冒頭から、のびやかで自在な俯瞰シーンが続き、人々や家族のうちに秘められたささやかな喜びや哀しみを、天使の視線で捉えながらゆっくりと巡ってい
くシーンは、多くの人に今も焼きついているだろう。
 屈折し錯綜した家族の関係や愛を描いた「パリ、テキサス」(1984年)を最も印象深く覚えている人もいるだろう。そうやって友情、恋愛、家族といった人と人のつながりの貴重さと難しさを描き続けてきたヴェンダースの新作「アメリカ、家族のいる風景」。感傷的なまでに胸に迫る音楽、あざといほどにもみごとに切り取られた西部の乾いた光景、エドワード・ホッパーの絵画を具現化したような街。そんな背景のなかを、自分の子供の存在を初めて知らされた、今は落ちぶれたかつての西部劇映画のスターが、家族の物語を取り戻そうと彷徨する。
 初老の男の、人生そのものに感じる虚ろさや深い喪失感、ひとりで息子を育て生き抜いてきたかつての恋人の勁さはリアルだけれど、家族というあり方はうまく浮きあがってこない。ひとつには舞台に選ばれた米国の現実がそうであり、世界がそうあるからだろう。家族を考えるときにわたくしたちはどうしてもこれまでの「家族」と呼ばれた関係から始めてしまう。それ以外に知らないからあまりにも今の家族に囚われてしまう、血縁による最も深いつながりといったように。それが近代の「個」というエゴの核と重なり合って、私の家族、私の国・・・と固定化され続けていく。子供という絶対的なまでの無垢な存在に注がれる無償の慈しみは、私の子供とか私の家族といった回路に閉じこめられることなく遍在しているはずだ。家族という形で表わされていた人と人のつながりや愛は、今、ちがう形で現れ出ようとしている。福岡市シネテリエ天神などで上映中。

 

セルゲイ・パラジャーノフ(1924-90)

<時代>の底を潜って
 ゆきづまると人は急に懐古的になる、今を直視したくないから。その気持はよくわかるけれど、それがたかだか百年くらいの、しかも近代の底の浅い効率主義にまつわること、例えば明治時代やそれ以降の「文明」開花とか「近代化」、そこで創りだされ「伝統」になったものの讃美だったりすると、聞いていて哀しくなる。ほとんど絶対的とも言える規範になっていた「欧米」ということに関しても、もっと多様で自由な捉え方ができることはすでに自明なことだ。現代が新しいものを創りだす能力を枯渇させ喪ったのでなく、「新しい」というような発想の貧しさにやっとわたくしたちが気づいたということだろう。
 グルジア(当時はソ連邦)の映像作家、セルゲイ・パラジャーノフ(一九二四年-九十年)を時々無性にみたくなる、何よりその激しいまでに鮮やかな色彩と不思議さに惹きつけられて。豪奢な美しさに満ちながら、滑稽で暴力的で質朴でもある映像。ソ連邦時代には難しい生き方を強いられ、逮捕、投獄等で長編は4本しか残していない。そのひとつ『ざくろの色』は18世紀アルメニアの詩人の生涯を辿りながらも、そこから遠く離れた所へみる人を運んでいく。ことばや論理による解釈を拒み、整合性を踏み抜いていくその奔放でめくるめく映像にただ身を委ねてしまうしかない。生みだされる力が生き生きとしているのは、撮されている大地や建物、人々の表情や仕草が、長い時間の堆積のうえに、近代ヨーロッパなどよりずっと遠い歴史や文化の重なりの上にあるからだろう。些細な文様ひとつにも<神>も大地も人の思いも閉じこめられており、それをことばに翻訳せずに、おぞましさと共に引き出してこようとする、乾いた陽光の下で。
 歴史を恣意的に解釈して今につなげたり、異質な文化から活力を奪ってくるようなことではなく、わたくしたちが持たされているちっぽけな合理よりずっと深い所にあり、かつ現代の日々の生活にも溢れているはずの、まだ喪われずに残っている豊かさや力を探り、手に取る試みを再度始めるしかない。彼の作品はDVD等でしか接する機会がないが、総合図書館ホールが収蔵しているパラジャーノフに関する記録映画『私は子供の頃に死んだ』で断片的だが引用されている。

 

「略称 連続射殺魔」(1969年)

若松孝二足立正生、一九六十年代の風景
 若松孝二監督の新作「17歳の風景」のパンフに足立正生監督が真摯で辛辣な一文を寄せ、そこで永山則夫を描いた彼自身のかつての映画に触れながら風景について語っている。どんな映画だったのだろうと思っていると、「17歳・・」をみた友人からそのビデオが送られてきた。「去年の秋、四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった。今年の春、一九歳の少年が逮捕された。彼は連続射殺魔とよばれた」が正式タイトル。それもまたとても60年代的だ。
 徹底して連続殺人を犯した少年の視点を辿ろうとすることから始まる映像。無音で、わずかなナレーションとフリージャズだけを背景に、まるごと時代を掬い取ろうとするかのように延々と風景が映し続けられる。つましい家々、祭、通過し続ける列車、港、停泊する船、都市、街路、群れる人々、疾駆する車、駆け抜ける自転車、牛乳配達、自衛隊、米軍基地、ホテル、神社、タクシー、路地。そういった風景を見、そのなかで生きていた少年。彼に突然殺害された人たちも同じように見、そしてそのなかで暮らしていた風景。距離をおいて撮られていても、積み重なった時間が剥き出しになってきて、重たく存在のある風景として立ち上がってくる。
 外側からの殺人者の分析や時代・社会の解析でなく、自身の過剰に引きずられ流され続けた少年のあり方を内在的に探り、常に外に立ちはだかり彼を閉じこめた風景を浮かびあがらせる試みでもあったのだろう。そこで掴めるもので時代や社会を斬り返そうとでもいうように。
 家出や密航、どこにも留まれず移動や転職をくり返す不可視の少年の視線を、彼を捉えていた視線を、執拗に追い続けるカメラ。凝視していると、自分が見られているような奇妙な感覚に入り込んでいく。見ることと見られること、映画と現在が地続きになっていく。視線の先で起こること、例えば殺すのも、殺されるのも自分である、放り込まれた風景のなかでそんな地点まで辿ってしまう。この映画からでも37年が経ち、97年に永山則夫は死刑執行された。風景は積み重なり重層化していったのか、バラバラに風化し続けたのか。「略称 連続射殺魔」はタゲレオ出版からビデオで発売中。

 

再び出会う映画のなかの日々

名画座とよばれた映画館があった
 時代の変化や技術の発達、次々と新しい映画がつくられる。そういった表現が生む新鮮な驚きや発見もあるが、今までつくられてきた映画で繰り返しみたいものも少なくはない。ヴィデオやDVDでなく大きなスクリーンがいいけれど、なかなかその機会がない。
 以前は名画座とよばれる映画館が大きめの街には必ずあった。福岡にもセンターシネマ、ステーションシネマ、東宝名画座、中央映劇、天神映劇、冨士映劇、キノ、小倉の有楽、昭和館等など。封切りの後の再上映や古今の名画の特集、安くて入れ替えもないから何度でもみれた。貧乏性のせいだろうか、そういう場所でみると落ち着く。美術業界には「目垢が着く」というような言い方があるが、映画はより多くの食い入るような視線に曝されることでいっそう豊になっていく。複数の人に同時に共有される表現であり、それによってさらに力を発揮していく。時間が余ったから映画でもみるか、といった時間のつぶし方もあった。「古典」を勉強しようという若者や、見逃した映画を押さえようというマニアックなファンはまだいるだろう。
 かつての時を瞬時に蘇らせる力も映画にはある。生理にさえ食い込むほどにも映像と音が焼きつき、時のなかで発酵し変容し、その人にぴったりとあう形となって長く保存されるからだろう。新しい芸術の形式には新しい果実が惜しげもなく盛られ、その果肉を食べ尽くすのもまた若く柔らかい感受性だった。そうして相応の年齢になって、吐き捨てられた種子の固い殻の内に秘められていたものを初めて感じとり、わかることができることも多い。往年の心ときめかした俳優や彼らの演じた愛の諸相に、心ざわつかせた活劇や任侠映画にも、人は今また同じように感応してしまう。
 福岡市総合図書館ホールでは多様な映画の特集も多く、4月の「大映映画史」で「王将」「羅生門」「雁の寺」「おとうと」などが上映予定。一昨年の勝新太郎映画祭には「悪名」や「座頭市物語」がかかって、珍しく座席が埋まっていた。馴染みがなくて初めて訪れた人も多かったのだろう、映画が始まってからも厚いドアをバンと開けて入ってくる人をみていると、そうだった、映画はそんなふうにもみられて愛されていたんだと、キャラメルの味までも甘酸っぱく蘇ってくる。

 

「ある子供」(2005年 監督:ダルデンヌ兄弟

痛ましいまでの幼さ
 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の前作「息子のまなざし」は、ほとんどそれと意識さえしないまま子供が子供を殺してしまう悲惨を、殺された側の家族と罪を犯した子供のその後として描いて衝撃的だった。誰もが直視できない、もう裁くことも許すことも意味がない悲劇をそのままに掬い上げていて、みる者は、投げかけられた問いだけが反響し続ける答のなさのなかにとり残された。
 今回も、対象から距離を取りつつも執拗に追い続けるドキュメンタリー的な視点で撮られていて、人も建物も都市も息苦しいまでに生々しい。働くことを厭い、ひったくり等でその日暮らしをしている二十歳のブリュノ。恋人のソニアが産まれた子供と共に病院から帰って来るところから映画は始まる。本人自身がまだ子供でもあるブリュノにとっては、恋人も生活も子供もきちんと向き合う切実なものには感じられていない。次々と関心が移っていって、結果として全てに無関心になってしまうように。言われるままに出生を市役所に届け、そうして翌日には子供を売り飛ばしてしまう、「またつくればいい」。それを知った衝撃で失神するソニアを前に、初めて事の重大さに気づいて取り返しに走る。
 誰もが「子供」のままだ。子供のまま反抗し社会に関わり子供としてあしらわれ、子供のまま子供を産み、必要な時だけ責任ある「大人」として利用される。しかし大人になりきれないのは映画のなかの彼らだけではない。今は誰もが成熟できず大人になれないと言われる。確かにそうだろう。わたくしもそうだ。大人になれないのではなく、「大人」という意味(役割)が時代のなかで変質しただけでなく、そういった「大人-子供」といった概念自体が成立しなくなっているのだろう。「家族」が成り立たないのと同じように。
 この映画のなかでも描かれる、恋人への、赤ん坊への、年少の相棒への思いやりや慈しみは、名づけられないまま、「家族」や「愛」といった概念の内にも閉ざされることなく様々な形で今もどこにでもある。誰かが誰かに赤子のようにしがみつくこと、つまり受け止め受け止められるものがあるのを知ることから、また生まれ育つものもある。そういった希望を語って、映画は前作よりもやさしく勁い場へと抜けていこうとする。

 

「世界」(2005年 ジャ・ジャンクー監督)

回り続ける舞台の上で
 2000年、山西省を舞台に中国の今、今の若者たちを、その屈折や哀しみ、ささやかな喜びや憧れと共にみごとに掬い上げた映画『プラットフォーム』。そのジャ・ジャンクー賈樟柯)監督の新しい作品は、世界全体が急変するなか、さらに速い流れに放り込まれ異様なスピードで変わっていく北京が舞台に選ばれている。他の国々と同じようになりふりかまわず驀進し続ける中国、その象徴のような大都市のなかの人々が描かれる、さり気なく取り込まれた過去の映画と共に。
 世界の名所、建築などを縮小再現して寄せ集めたテーマパーク「世界公園」で、ショーのダンサーや警備員として働く地方出身の若者たち。慎ましい望みや壮大な夢想、愚かさと初々しさ、感傷や打算の渦のなかを必死に走り続けながらもどこか虚ろで、すでに倦怠や諦念の淡い皮膜にも覆われている。
 圧倒的な社会の力を前に、表層だけの衣装や制服を着けて軽やかに踊り、うまく立ち回ってみても、所詮使い捨てられるだけの役割からも、その階層からも抜けらない。出稼ぎに来た朴訥とした同郷の若者の、建築工事現場でのあっけない死としてあからさまに語られるように。かつて切々と描かれた、生きていくうえで時として持ってしまう粗野な暴力や卑劣さと表裏にあった底深い無償の思いやりや慈しみは喪われてしまって、もう現れえないのだろうか。
 一日で世界がみて回れる公園という卓抜な設定。憧れながら諦めながら、役割を取り替えつつ日々くるくると回り続けるだけだ。空っぽでチープな張りぼての世界からの出発は永遠にない。時代や世代のそんなストレートな比喩は、でも彼らだけでなく、わたくしたちの世界や生そのものの喩えでもある。
 <世界>に溢れているのは、どこにでもある大型建築であり都市であり人であり掻きたてられる欲望でしかない。そしてまた、ありふれているのにその度毎にあまりにも新鮮で心ふるわせる愛やつながりであり、そうしてくり返され続けわかりきっているのに、けして慣れることのできない死の唐突さと痛みでもある。

 

「炭鉱に生きる」(2004年)

山本作兵衛が描いた炭坑
 一八九二年(明治二五年)に飯塚に生まれ、炭坑での仕事を続けた山本作兵衛さんの絵画をもとにしたドキュメンタリー。63歳で解雇された後、警備員となった頃から92歳で亡くなられるまで、一千点とも言われる膨大な作品が驚異的な記憶力をもとに描かれた。残されたノートと絵画で彼の半生を辿りながら、当時の炭坑の様子、仕事や機械、長屋住宅(炭住)での生活と現在の炭坑跡や人々が撮されている。
 とにかく炭坑や坑夫の生活を語りたい、伝えたい、残したいという作兵衛さんの思いに満ちた、説明の文字も溢れる独特の作品がスクリーンに映しだされる。彼の地元である飯塚を中心に据え、時代も彼が従事した時代、五十年代半ばまでに限定することで、まとまりのあるものにおさまっている。だから炭坑が崩壊させられていく過程や、そのなかでの三池闘争やガス爆発とその後遺などは、具体的な形では描かれない。
 関連の施設などが次々に取り壊されるなか、各地の資料館に様々な形で資料が残されていることも知らされる。それらを説明する、炭坑に関わってきた人々の今も生き生きとした、時には生々しいことばや表情。絵画のなかにも丁寧に描かれた当時の生活の様子は、炭住独自のものも含みつつ、時代そのものの記録でもある。描き終える毎、慈しむようにそっと画面を撫でたという作兵衛さんの思いもこもっている。それは映画のなかの今の人々の生活とも重なりつつ、様々なことを伝えてくる。違いはありつつもそういったものはどこにもあったし、見えなくなりつつも形をかえ今に続いている。労働や生活が厳しければ厳しいほど、人がとてつもなくやさしくなりうること、助け合うことも。そうして一方にはそういったささやかな生の上で繰り広げられる経済や政治の底なしのゲームや闘いがあり、現在もますます拡大され続いている。
 上映会場の福岡市総合図書館ホールはいつになく大勢の人で埋まり活気に満ちている。多くは炭坑やこの映画をつくるのに関わりのあった人たちだろうか。それは映画のなかの、すでにない炭坑や炭住、かつての生活を懐かしむ集まりの雰囲気にも似ている。苛酷な現場を生き抜いて退職した人、今は全くちがう仕事で暮らしている人、懐かしさだけではないどうしても混ざる苦いもの、こみあげてくるものもまたある。

 

送還日記(2003年 キム・ドンウォン監督)

信念、愛、憎、つながり
 私的な思いを語る形をとった監督自身のナレーションから映画は始まる。そういう、個的な距離の取り方でしか、この複雑に錯綜し捻れ積み重なったことがらを語りとおす方法はないのだろう。今も南北に分かたれ、冷戦、朝鮮戦争独裁政権の深い生傷を負い、日本の植民地時代の傷も残る韓国の「非転向長期囚」とその送還を描いたドキュメンタリー。
 戦争捕虜やスパイとして逮捕拘留され、90年代に入って特赦により釈放され始めた人たちの服役年数、29年、34年さらには45年といった数字に、ただ呆然としてしまう。その長さにだけでなく、その間の暴力的な拷問や懐柔に耐えて「非転向」が貫かれるということにも。何が人をそんなにも強くまた頑なにさせるのだろうか。それはこの映画の底を流れ続けるもうひとつの問いでもある。
 釈放される先は南の「敵地」だ。老いて、当座の帰還のあてもなく、「アカ」の悪罵に曝され、近所の人や市民運動に助けられて貧しい生活を続けつつ、でも希望を捨てず、「祖国と人民のため」に闘うという志は揺るがない。今の社会では希有な「純粋さ」、毅然とした姿勢、尽くす生き方に多くの人が惹きつけられもする。今も「無謬の党」が中心に存在し、送還前の親族との最後の宴で主義を蕩々と説き始める人もいる。一方には、南出身で北の軍に加わった兄弟を徹底して拒絶する家族。獄中で「転向」させられた元服役囚は、尊厳も踏みにじられ帰還すらできず、しかもそれを自分ひとりで引き受けるしかない。
 スクリーンに現れる人々の背後にはもっと多くの服役囚がいるし、北にも多数の囚われ帰還できない人がいる。まして戦争で亡くなった人の数の膨大さ、誰もが暗澹たる思いに胸塞がれる。でもこの映画のトーンは明るい。同じ顔、同じことば、同じ苦しみを受けた人たちが、ここまで遠ざかり、憎みあってしまうことの無惨さと共に、しかし「敵地」のなかで同じ顔、同じことばで市井の生活を送っていける不思議とあたりまえさを掬いとる。そういう場、あり方をじっと見つめ、一人ひとりを、そのつながりを時間をかけて写しとろうとすることで産みだされるものが、確かにある。福岡市シネサロン・パヴェリアで上映中。

 

馬賊(1985年)

生きることと死ぬことと
 アジア美術館ホールで開催された「中国映画フェスタ2006」での田壮壮監督作品。山並みが続くチベットの高原。荒々しい鈎型の嘴の猛禽が羽を広げ空を舞うシーンから始まる。ラマ僧たちが座って読経し、群がった鳥が啄む向こうに、血の色が見え隠れし骨が散らばる。弱いものは押しのけられ、激しく嘴や首を動かして肉が引きちぎられる。
 雄渾な映像の力で、鳥葬という異様に思える光景もみる者に静かに受けとめられていく。人が死に向きあう形をとおして生の形も浮かびあがってくる。畏れや汚れとして死を彼岸に押し隠すとき、生もどこかで切り断たれ歪み捻れていく。現在、生と死の境界線が恣意的に決定されることでかえって生も死も曖昧になり、命の深い不思議は遠くなってしまう。
 インドやネパールでは、死者は人々の眼前で焼かれ砕かれ河へと遺棄される。木の上で風に曝すのも、電気炉で焼却するのも、棺に入れて埋めて腐敗に任せるのも、その地域や時代やの決まり事のひとつでしかない。そういう営みが、風景や世界観の違いを越えてあたりまえのこととして受け入れられるのは、積み重なる時間の厚みと人の持つ生きる勁さのゆえだろうか。
 映画のなか、子供をかわいがり寺へ参り、寄進もまめにし、荒い毛皮を着て馬を巧みに操る男は盗人であり、奪い傷つけお上の寄進にまでも手をつけ、ついに村から追放され息子も失う。苛酷な自然、ヤクと羊の群れ、寺院、儀式。再び子を授かり、そうして河餓鬼の仕事に就き、穢れたと蔑まれ、母も死に、再び馬泥棒をして殺される。大きな鳥が空を旋回する。
 長大な叙事詩のように、ゆったりと雲は流れ、雷が轟き、そうして雪は斜めに吹きつける。疫病が流行れば家畜たちはバタバタと倒れ、人は山を下りる。高地に短い夏が来、川は流れ草が芽吹き、慌ただしく季節はくり返され、祭事は祈りをこめて執り行われる。人は生活の、生の難しさを宗教の教えや共同体のしきたりに従うことでかろうじて乗りきろうとし、次世代へ希望を託していく。誰の、何のための、どこへ向かう希望かは問わずに。生活のなかで、温かい一杯の茶、うまいバター、流れを受け継いでいく子、愛しい家族といったささやかな喜びに満たされつつ。

 

第28回ぴあフィルムフェスティバル 「水蒸気急行」(1976年)

疾走するリリシズム
 新人を対象にした公募による映画祭、ぴあフィルムフェスティバルが北九州、大分、福岡でも開催され、入賞作品だけでなく、特別企画で衣笠貞之助監督の「狂った一頁」やこの8ミリ映画「水蒸気急行」も上映された(上映はDVDによる)。
 電車を撮るだけで映画になってしまう驚き。ただただ電車とそこから見える風景が写し撮られ、編集され、ラジオから録られたニュースや音楽だけが重ねられているだけなのに、疾走する快感や喜びから、緊張や不安、そうして感傷やリリシズムさえ生まれてくる。時代的な背景をいっさい振り捨て、社会性や政治性をみじんも取り込まないよう、軽やかでポップに、一瞬も止まらずに走り続けるのに、すごく時代的で、世代的なものが透けてみえてくる(もちろんそういう見方そのものが「世代的」なのだけれど)。
 撮ったのは当時26歳の森田芳光。まだ「家族ゲーム」も監督していない。全くの無名で、学校を終えたのに仕事もなく、ただ撮りたいという抑えがたい思いだけ。
 撮られたのは70年代半ば。エネルギーが噴出した60年代がもう遙か遠いことに思われ、連合赤軍の衝撃が、残っていた政治的過激さの残滓を一掃するだけでなく、どこかにあったあっけらかんとした元気さも消し去ってしまった、奇妙な空白の時。焦燥感がつのってじっとしていられないのに、何をするか、どこへ行くかは全く見えてこない。
 無色にしようとしても、国電や地下鉄、その駅舎にはまだしっかりと近い過去の記憶が焼きついている。羽田、新宿騒乱、東大-お茶の水、日比谷。大きなデモンストレーションの度に電車はストップし、駅舎は閉鎖され、そこに群衆が雪崩れ込み、機動隊が追撃する。もちろん、小津安二郎をだすまでもなく、映画のなかには電車や駅舎、そして行き交う人々の記憶が積み重なり、溢れている。
 そうやってその時点で8ミリフィルムに定着された風景が、記憶に直に働きかけて思いがけないものを蘇生させるかのようにいろんなものが立ち上がってくる。受けとる側はその年齢や生活の場のちがいから様々に解釈しつつも、色褪せないもの、核にある混沌や情熱とでもいったものの全部を、生真面目さからいい加減さまで、凛々しさ粗暴さ繊細さ初々しさ弱さ甘さをも、まるごと受けとることになる。

 

カポーティ(2005年)

嘘や弱さをも引き受ける勁さ
 米国の作家、トルーマン・カポーティの作品はすぐれた表現がそうであるように、多面的で深い奥行きを持っている。卓越した文体、きっちりと構成され破綻がなくシンプルにさえみえるのに、複雑なひろがりがあり、奇妙な暗い翳りがまとわりついている。「ミリアム」や「夜の樹」といった心の底の不安が結晶したような作品から、「草の竪琴」や「クリスマスの思い出」の無垢さまでの幅広さも持っている。
 映画の始まりに、嘘とか愛とかいったことが、パーティの虚ろな喧噪のなかで語られる。ことばにすること、創作することといった意味合いも絡めつつ、真実とは、愛とは、人と人のつながりとは、といった問いが見え隠れしつつ最後まで続く。
 カポーティが深く関わり「冷血」という作品に結実させたカンザス州の殺人事件、その事件の犯人と関わる数年間。不幸な生い立ちや母親との愛憎という、似たような境遇のふたりの人間が、今や牢獄とニューヨークでの成功というあまりにも遠くかけ離れた場所にいることの痛みや不思議さも込められた交流。
 関わりのなかで生まれた犯人への愛情と、早く決着を迎え最期を見届け、ノンフィクション・ノベルという新しい形式の作品を書き終えたい、成功したいという欲望の間で揺れ、湧きでてくる慈しみと冷たく突き放す冷酷さ、嘘や駆け引きとが同居する。あまりにも作家の創作の苦悩といった常套句に傾き過ぎるけれど、葛藤のなかで、カポーティが刑の執行に立ちあうに至る必然も描かれる。絞首刑を見据える蛮勇と、でもそのことに叩きのめされてしまう脆弱さの両方を抱え持ち、平凡だけれど安定したバランスを持ち得ないあり方もみえてくる。自身を自壊させてしまう背負えない荷物を、時代や社会の要請と甘言のままに引き受ける、引き受けさせられることの目も眩むような報酬と悲劇。
 若さや未成熟さ、新しさが抜きんでた価値のひとつになってしまった米国と、それを後追いし、なぞり続ける今のこの世界のあり方が思い起こされる。若さや未熟さが否定されなくてはということでなく、それに伴う弱さ、貧しさを認め引き受ける勁さを持てないことが、世界を現在のような混乱のなかに放りだしている原因のひとつだということだ。誰もが何も引き受けずに、ただヒステリックな反応とやみくもな攻撃で自分を守ろうとし、ますます疲弊し乾ききっていくかのようにみえる。

 

アジアフォーカス福岡映画祭 「4:30(フォーサーティ)」

うす藍色の<記憶>のなかで
 映画制作が始まってまだ間もないシンガポールの、この作品が長編2作目になるロイストン・タン監督。上映後会場での交流が行われ、そのなかの質問に答える形で尊敬する映像作家として台湾の蔡明亮の名があがった。「愛情万歳」や「河」などの蔡の映画では、剥きだしの孤絶とそれでもつながっていく人と人の関係の勁さや不思議さが哀しみと共に驚くほど烈しく深く描かれて、みる者をほとんど打ちのめすほどだったけれども、そこには受容の力や厚みのある慈しみもまた描かれていて、圧倒させられた。
 この「4:30」のトーンは夜明けのうす藍色。その淡さと静けさは、描かれているのが少年の現在形の<記憶>を通した物語でもあり、見えていると思われている<現実>とはずれた位相で語られているからだろう。もしかしたら全ては、少年が飲み続ける咳止めシロップのなかの幻想かもしれない、そんなふうに思うことも可能だ。少年の皮膚や感受のようにまだ幼くて柔らかくてとりとめがないのにでもどこか切迫した思い。
 父親のいない家庭、不在の母、ひとりで留守をする中国系の少年と隣室のことばも通じない韓国人青年との数日。海の底のようなブルーに染まったしんとした室内の午前4時半。明け方に帰宅し睡眠薬で眠る青年の部屋に忍び込む少年の寂しさ退屈、大人や父親への憧れ、性への好奇心がわずかな仕草で語られる。それは、鬱屈し自死すら思う青年の孤独や倦怠、哀しみとも重なっていく。蔡明亮の映画のなかの、ベッドの下に忍び込む形で描かれた痛々しいほどにも激しい性や、計りようもないほどに遠い始まる前に断たれている関係とは少しちがうあり方。人工的な眠りのなかにある青年に寄り添うように横たわる少年、それは拡大された家族のつながりにも似ていて、不思議な性の気配も漂う、愛というよりもっと身体的なふれあいの感覚といったような。そうしてささやかなユーモア。
 かすかに通い始めたふたりのつながりはある日黙ったまま青年が出ていって唐突に断たれる。またひとりになってぽつねんと座り込む少年に何かがそっと触れる。それは生の、善や歓びの証しであり、同時に死の、悪や苦しみの翳りでもある。わたくしたちの生がその深みで、光りもない暗がりでも実っていくように、孤独や愛や憎しみさえもが人や世界を豊饒にするという理を少年も受け入れていく、のだろうか。

 

胡同の理髪師(2006年)

飄々として逞しく
 9月15日から始まる「アジアフォーカス福岡映画祭2006」には20数本の各国からの映画が予定されている。そのひとつ、中国の「胡同の理髪師」は、熱いタオルに蒸され、耳たぶやまぶた、それに鼻梁まで西洋剃刀でぞりぞりと剃られる気持ちよさから始まる。再開発で失われゆく北京の路地、ひとり暮らしの92歳の老理髪師、近所づきあい、次々と亡くなっていく友人たち、猫、季節の移ろい、穏やかな滑稽さ、そういった既視感のある素材で、限られた場所のなかで、誰もが予想する淡々とした展開で進行する。
 格別なできごともなく、親子の愛と葛藤、世代間のずれ、激変する都市を写しとりながら、でも過剰な感傷や詠嘆、時代への回顧や郷愁、美しすぎる風景は避けられている。だからそこに、映像やことばの外のこと、語られない様々なことが、曖昧な輪郭のまま静かに浮かびあがってくる。まだるっこしい、あちこちにとんでズレもあるけれど耳に残る老人たちの会話のように。主人公の靖(チン)老人を演じているのは、実際に今も現役で仕事をしている理髪師であり、ドキュメンタリーのように撮られた日常、その表情やしぐさのリアリティによって、大仰さや人情悲喜劇的要素は薄められる。諦念といったことからは遠い充足した勁さは、難しい時代を生き抜いてきた頑固さ、柔軟さ、偏屈さ、弱さ、幸運、受け入れる力などからくるものだろうか。
 それにしても西太后の名がで、中華民国成立2年後に生まれたと語られるとき、改めて中国のこの百年とその激動を思わざるをえない。西洋からの収奪、阿片戦争日清戦争中華民国成立、日本の侵略、国共内戦中華人民共和国成立、朝鮮戦争文化大革命ヴェトナム戦争市場経済、オリンピック・・・。アジアの多くの国がそうだったように複雑で困難な時代。
 理髪師のひとり息子も既に退職し、ひ孫も生まれた。遺影と新しく誂えた人民服の死装束を用意し、自分のこれまでをテープレコーダーにふき込んでいく。そこには戦争も文革も出てこない。飄々として逞しい人生はまだまだ続いていく。何が起きても、また越えていく。

 

夜よ、こんにちは

集団に溺れる快楽 
 これほどにも戦争や武力紛争が続くと、いったい何故だろうと誰もが考えこまざるをえない。何が人を憎悪や狂気、そして闘いへと駆り立ててしまうのだろう。この映画ではイタリアで1978年に起こった、急進的政治組織「紅い旅団」によるモロ首相誘拐から殺害までの55日が、監禁した組織メンバーを軸に描かれる。政府が取引を拒み、1国の首相が殺されること自体異様だが、利害が錯綜した議会政治党派等政財界のパワーゲームや宗教も含む社会的葛藤には直接言及されない。
 「旅団」の信条や戦略、メンバー個々の思想や内面などを通して、テロルへ傾いていく人の心の経緯や飛躍を描くのでもなく、事件や時代の解析も避けられている。答はもちろん無い。みているわたくしたちは自分たちの周りの数々の事件やできごとを思い起こし、また自分が関わった政治やスポーツも含めた熱狂と没入を思いだし問い返すしかない。ことばや論理での整合性はどこで放棄されたのか、何が極端なまでの飛躍を遂げさせるのか。「思想」が強引に外から人を引きずり込むことは思われているほど多くない。
 圧倒的なものに身を委ねることの底知れない喜悦、かもしれない、特に時代が変化し、不安定な時には。考えることも、時には感じることさえ放棄して全体と合一する、そこでは全体=私であり、私の正義は世界の正義であり、殺し殺されることも厭わず、絶対的なものに属し尽くすことの快楽に溺れられる。蔑まれたり否定されたり、誇りが傷つけられたりする不安や怯えが消え去る。ある閉ざされた枠組みのなかで、十全に解放され伸びやかに開花し、生き生きと全身で働き役割を全うし続ける、殺す役割も含めて。離れた所からは、乾涸らび強張って表情さえ失われたあり方にしか見えないにしても。
 そういうことから距離をとり、冷静な場を確保できるのか。今まで問われ続けた問いに、映画は直截には答えない。ただ、監禁する側の女性が想像する別のあり方、例えば束縛を抜けた首相が室内や街路を歩く姿の、はっとするほどの身体的な自由さのなかに、かすかに感じとれるものもある。それは日常の、くり返される生活のなかでのみ生まれるささやかなでも奥深い感受や、そこから膨らむ想像力が、この酷いまでに錯綜した世界を静かに抜けていく可能性を持つということかもしれない。

 

「中国之夜」(ジュー・アンキ監督 2006年)

猥雑さと空虚さと
第20回福岡アジア映画祭が開催された。1999年台湾大地震のその後を追ったドキュメンタリーや、カンボジアの難しい時代を生き抜いた人たち、アンコールワット近辺の生活を描いた「アンコールの人々」なども上映された。
ドキュメント「中国之夜」では、猥雑なまでのエネルギーに溢れた、ありふれた人々の驚くほど多様で奇妙でもある生活が、生が、感傷やロマンティシズムを排し、全てを均一に見つめる視線で掬い取られた、奥行きを取り払った平板な画面として映しだされる。
夜。百匹もの猫を飼う老婦人の孤独が、辺境からやってきた娼婦と客のことばさえうまく通じない寄る辺ない性が、きりなく豚を解体し続ける陽気な男たちが、冷たくはないけれど揺るがない距離を保ちつつ写し撮られている。深夜のマンホール地下作業、ディスコで熱狂する若者たち、伝統の京劇を教わる人、延々と続く地下鉄の階段、英会話教室のウェルカムの斉唱、うす暗い産院で誕生に立ち会う父親、ひよこの孵化と選別、雑技団のアクロバット練習、キリスト教イスラム教の礼拝、軍歌が高唱される中高年世代の宴会、重量挙げの特訓教室、それに強盗を語るタクシー運転手も、同じように感情を抑えた零度の視線で掬い取られている。
経済の激変が進み、オリンピックを間近に控えてさらに解体が加速する中国の今。人々は澱のように溜まっていく負のエネルギーを、まるで追い立てられてでもいるかのように、暴力的に夜の闇の中へ解き放っていく。時代の変化さえ巧みに取り込み逞しく乗りこなしていくようにみえつつも、その底では何一つ信じてさえいないように。ユーモアや諧謔の向こうに浮かび上がる深々とした闇。おそろしいまでに深いぽっかりと空いた淵、全くの虚ろさ、そんなふうにもみえてしまう。そうしてそれは、異様なまでの力で突っ走る現在の中国の小さくはない一面であるのだろう。
日が昇り始める。夜を徹して驀進し続けたトラックがスクリーンの中央でふいにストップモーションで釘付けにされ、<完>の文字が現われる。夜の扉が閉められた、そうしてまた次の夜への長い助走が始められる。

 

 

第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(下)

願うということの深さと翳り
 「S/N」(2005年)は、エイズで亡くなった古橋悌二を中心としたパフォーマンス集団ダムタイプの1995年公演をもとに映像化されている。性や身体、それに感覚や心も時代や社会のなかで創りあげられるものだということを、HIVウイルスを比喩の核としながら、新しい考え方の枠組みも援用しつつ語っていく。簡潔でシルエットを多用したクールなシーンを重ねながらも、生身の、生の切迫感に溢れユーモアや抒情にも満ちている。上映後、この作品やダムタイプに影響を受けた人たちによるパネルディスカッションも行われた。
 障害といったことと結びつけて語られる、話すとか聞くといった身体的能力や、生物学的とされる性別、社会的文化的な性の区分け(性差)、さらには人種や民族や国籍や身分や仕事やといった様々な属性を突き抜けた場で人と出逢いたい、さらには、そこで<あなた>と交わりたいという願いが感傷を排しつつも切々と演じられる。生のただなかでいく度も倒れ、廃棄され続けても、自身がまたは誰かが立ち上がり、そうしてまた走り始めるといったどこか寂しくでも凛々しさもある姿も繰り返される。響かない声をあげ届かない腕を伸ばし、ここより他のどこかや遠い未来でではなく、今ここで、生きるこの体としてあたたかいものをかよわせたい、熱い思いを届けたいという望みが充満する。
 差別や偏見もある現在の世界のあり方を冷静にみつめ、時代や社会の枠組みにどうしようもなく囚われている自分たちを確認しつつも、それは絶望でなく希望なのだと、そこからこそ全ては始まるのだという思いを持ち抱えて捨てず、そのささやかな夢にすがるようにしてでもやっていくんだと意志するかのように。
 生きていくのにちょっと辛い負の条件を背負わされた者だからこそ見えることも掴めるものもあるのだ、だから他への想像力や思いやりも膨らむのだと信じること。確かにそういう場でだけ深まるものもあったのだし、だからこそここまで来れたのだ、そういった世界の果実の受け取り方がありそれを選びとったのだと。そうしてそういうあり方を祝福し他へも手渡していくんだといった、シンプルで切実な思いもまた語られる。とてもたいせつな、柔らかで「弱い」勁さとして。


第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(上)

愛と家族の<幻想>は超えられるのか
 第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭が、多様なボランティアの力に支えられて開催され、公募の5作品(安藤佳寿哉「虹の心」、Pakurane「LuLuLu」-写真-、松本ららら「Live」、タテナイケンタ「東京のどこかで」、izmoo&Mia「chew it up#0」)を含めた長短35篇ほどの映画が上映された。フェスティバルとしての面にあわせたコミカルな映画や啓蒙を兼ねたものも多かったが、セクシュアルマイノリティ性同一性障害セックスワーカーHIVエイズ)問題などを考える作品もあり、上映後のティーチイン、監督や制作者の挨拶も行われた。ドキュメンタリーやアニメーションもあり、テーマも多様だけれど、やっぱりというか、愛や家族に題材をとったものが多い。それが性と生の制度であり、今もまだ誰もの生活の細部に深く染みついているからだろう。
 役割モデルが他に見つからないためか、どうしても現在見えている家族や愛(異性愛)の物語のなかに収束していってしまう。まだ見えないでもかすかには感じられている新しい関係や、生活を伴った恒常的なつながりの形は探られ始める前に終わってしまう。
 両親(家族)とのぎくしゃくした、主には結婚を巡るごたごたが、カミングアウトの悲喜劇の激震の後一気に解決し、みんなに認められあたたかく迎えられるといったプロットの作品が多い。これでは少子化のなかでまた語られ始めた、今や観念的にしかありえない女/男らしさの大切さや「家族」といった形での性の再編成の動きのなかに取り込まれていきかねない。辛い生のなかであたたかいものを求めすぎて、現実にある自他への偏見や抑圧に目をつぶるのではなく、これほどにも人を縛っている性別という概念を丁寧に遠くまで遡って考え直すことでしか、新たな関係もあり方も生まれてこないのだろう。
 それは愛についても同じだ。現在の自分たちの関係を安定させたい、社会的にも認めさせたいという性急な願いが、近代の一対の愛、ロマン的な愛(すでに成立さえしなくなっている)といった異性愛の形を模倣する方に向かってしまう。結婚を再考することと同性婚の要求が分裂してしまう。カミングアウトや社会問題化して闘う、というせっぱ詰まった思いを、性別やセクシュアリティがまるで普遍の実体としてあるかのような前提に立たずに語る語法も、まだ姿を現す途上にとどまっている。

 

ホワイト・プラネット(2006年)

凍える大地の終りのない旅
 果てなく白い氷に覆われた大地、深々とした暗く凍える海、そこに群れる多様な動物たち。北極熊、ザトウクジラ、イッカク、海豹、海象、ジャコウウシ、狐、海ガラス、蛸や蚊もいる。多くは母子が中心であり、誰もが擬人化して家族としてみるから、愛に満ちていて、愛くるしくて、ちょっと哀しくもあるドキュメンタリー。時間をかけて撮られ、つなぎあわされた象徴的なシーンが続き、メッセージも添えられている。
 季節の巡り、それに添ったカリブーの百日を超す長い長い旅や鳥の渡り、その行程の力強さに感嘆し、不思議さにうたれる。でもみているうちに、次第に茫漠としたとりとめのなさに取り込まれていく。ずらりとそびえ立つビルの下、大きな交差点に立ち、きりなく走り抜ける車や人の流れを見ているときの、気の遠くなるような思い、「いったいわたくしたちは何をしてるんだろう、どこへ行こうとしているのだろう」という怯えにも似た思いに、どこかでつながっていく。
 文字どおり北の果てまで、ぼろぼろになりながら旅してきた動物や鳥の巨大な群れ、南の海からこの海までやっとたどり着いた鯨。それは豊富な餌を求めてであり、繁殖のためでもある。個体の保存と種の保存。そこには他種へ自分たちを食べさせる、捧げものにも似た形での個体数の制御や、自然界全体としてのバランスの維持も含まれているのだろう。彼らが元の場所に戻るのを知り、また翌年も同じ旅をくり返すことを思う時、崇高さと同時に、苦役への忍従すら感じてしまう。そういうあり方を、生き方を種として選択したとき、彼らは何を得、何を喪ったのだろう。霊長類ヒト科ヒトは、自身も含めて<自然>を対象化し、働きかけることで自由になり、その苦役から、捧げることから、ひとり逃れようとしたのだろうか。そうして止どめようもない傲岸さが個体数の爆発的膨張を招き、他種による制御すら失い、同じ種の間での殺戮が開始されてしまったのか。
 異様なまでの、遠く長い移動をくり返す群れに問いかけたくなる、「君たちはいったい何を求めているんだい」と。もちろん答はない、わたくしたちへの同じ問いに答がないように。

 

マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して(2003年)

もう一度父の腕のなかに
 フランク・ロイド・ライトル・コルビュジェと並んで語られる著名な建築家ルイス・カーン(1901-74エストニア出身)を、映像作家である息子、ナサニエルが没後25年に撮ったドキュメンタリー映画表現者としてのカーンを作品を丹念に辿りながら再現するとか、残されたフィルムやことばからその哲学や理想を探るというのではない。
 もっと私的な感情、愛憎や哀しみ、とにもかくにも、時々しか会えないまま、11歳で死に別れた父のことを感じたいわかりたいという思いに貫かれている。それは喪われた日々や、実現することのなかった一体感を取り返したい、創りだしたいという思いでもあるのだろう。代表作のひとつ、ソーク生物学研究所の石畳の中庭でローラースケートする30代後半の監督自身の姿や、バングラディシュ国会議事堂の前に幼い男の子を佇ませた映像といった感傷の吐露もある。現代に於ける父性の希求が、特異な父権社会である米国ではさらに複雑な屈折と切迫さを持ってしまうことも浮きあがる。
 著名人の「隠された」子供というあり方を受け入れ、カーンとは結婚できなかった母親との、父-夫を巡っての葛藤を対象化したいという願いもあるのだろうか。法的な結婚も含めた3家族のカーンへの愛憎や、それぞれの妻や子供たちの間の軋轢も挿入される。異母3姉弟が作品のひとつ、ノーマン・フィッシャー邸で語りあう時、「この3人って家族なの」ということばも出てくる。
 建築家をはじめ様々な人に会い、好意的なことばや思いがけない反応を引き出し、それへの自分の反応も写しとりながら、バングラディシュを含む各地の建築作品(船もある)を足早に巡っていく。古典や歴史を受け止めつつ、近代の単直さのなかに光を軸に荒々しい野生と聖性を投げ込み、厳しいほど整然とした秩序に収めた、あたりに静寂をたちこめさせる作品群。多くの知人が、作品やカーン自身のスピリチュアルな側面を強調するのは、後からの評価をなぞる面もあるけれど説得力を持つ。インドの友人、ドーシの語る、カーン自身がヨガ的とも言えるまでの霊性の持ち主であり、まだ゛再来゛はしてないけれど、息子であるあなたの側にいて祝福しているのが感じられるでしょう、ということばのなかに、息子は旅の終着点を感じ、受け入れていこうとする。福岡市シネテリエ天神で公開中。

 

LEFT ALONE レフトアローン1部・2部(2004年)

<歴史>として語られるもの
 どこか感傷的でアイロニカルにも響くタイトルのこのドキュメンタリーは、ニューレフト(新左翼)史といったものを、インタビューでの具体的な人のことばで紡ぐ試みとして始められる。監督、井土紀州
 エネルギッシュで饒舌を極めるインタビュアー、○秀実に応える、松田政男西部邁柄谷行人津村喬など。ことばが渦巻き固有名詞が溢れる。人名、できごと、年号、書物・・・。それは例えばこんなふうだ。レーニントロツキースターリン批判、コミンフォルム日本共産党神山派、朝鮮戦争山村工作隊六全協、査問、初期マルクス、ウニタ、経哲草稿、ハンガリー革命、黒田寛一埴谷雄高キューバ革命花田清輝吉本隆明廣松渉全学連革共同、ブント、三池闘争、谷川雁、60年安保、アルジェの戦い、映画評論、日韓闘争、早稲田闘争、毛沢東ヴェトナム戦争、67年10・8、大学解体、入管闘争、連合赤軍・・・。
 インタビューの応答で映される表情やしぐさの、彼らの著作のなかに浮かんでいた風貌との違いに驚かされる。カメラの前の緊張や○との齟齬もあるのだろうか、ひどく魅力を欠いた姿として写しとられている。時間をかけて生みだされるものが積み重なり現れてくる、といったことは起こらない。その場の対応にエネルギーを使い果たしたかのようにぷつんと途切れていく。
 みているわたくしたちは、絶えず自分を振り返りながら、肯定や否定といった発想から離れて、スクリーンとの距離をみつめる。誰にもあるささやかな当事者性から出発し、自分にとってほんとに切実なことがら、それなしには生きる意味が失われてしまうことだけを真摯に持ち抱え考え続けていくぐらいしか、人にはできないのだろうし、それはとてもたいせつなことだ。そうして、その先で初めて他者と出会い、つながっていける可能性が開けてくるし、<世界>がたちあがり、見えてくるのだろう。

 

「荷馬車」(1961年)

先送りされ、託され続ける夢
 韓国映画が盛んに上映されている。突然生みだされアジアを席巻しているようにもみえるけれど、もちろん長い積み重ねの上にある。朝鮮戦争後の疲弊から立ち直り、社会派リアリズムや歴史劇による隆盛の後、朴政権の1960年代には家庭劇、文芸映画、メロドラマが多くつくられた。その後若い世代を描く70年代の新しい波が起こり、イム・グォンテク、イ・チャンホ、ペ・チャンホといった監督に続いていく。
 福岡市総合図書館映像ホールで開催中の「60年代韓国映画特集」ではそういった流れの一環を知ることができる。「誤発弾」「金薬局の娘たち」「米」「修学旅行」など社会的なものから子供を中心に描いたものまで。そのなかのひとつ「荷馬車」は61年制作の、貧しい荷馬車ひき一家の物語。借りた馬で運送業をしつつ、男手ひとつで4人の子供を育てている気のいい父親、嫁ぎ先で苦労し自死してしまう口のきけない長女、司法試験に挑戦しつつ父親を助ける長男、ぐれかかっている弟などが時代の変わり目の都市で生きていく姿が、屋外の撮影を多用しつつ描かれている。今はもう喪われただろう風景があり、ソウルの雪の大通りを荷馬車が行く心ゆすられるシーンもある。
 物語は当時の定石どおり、不幸なできごとの後、息子の合格、家族の新たな結びつきで終わる。では息子は、家族は、そうしてこの結末を要請した観客は、その後幸せになったのだろうか。もちろん幸福といったことは相対的なものでしかないとしても。
 日本の植民地時代に旧満州で苦労した祖父の夢も映画のなかで語られるし、今は父が息子に全ての希望を託している。祖父から父へ、父から子へと先送りされ託されていく夢。どの民族でもいつの時代でも、彼岸や社会体制や次世代へと形は様々に、ここより他の場所への期待が紡がれ続ける。それはあまりにも苛酷だったり複雑すぎる現在への諦めが生むものなのだろうか。そういった夢や希望は、わたくしたちをいったいどこへと連れてきたのだろう。例えばこの映画からでも半世紀ちかく、この息子ももう60代の終わり、彼もまた不全感や失意のうちに取り残されているのだろうか、彼の子供たちは今何を望んでいるのだろうか。

 

小原庄助さん』(1949年)清水宏監督

雨にけむる時代の向こう
 福岡市総合図書館ホールで、清水宏の生誕百年記念特集が開催され、『有りがたうさん』『風の中の子供』『しいのみ学園』なども上映された。平日の午後の会場にも年輩の方を中心にかなりの観客。
 『小原庄助さん』は、歌のままに朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、身上を潰していく旧地主が描かれている。清水監督の得意としたユーモアや皮肉、そして穏やかな勁さと哀感で綴られたコメディ。人がよくて滑稽で、でも恰幅のいい深みのある人物を演じるのは、あの時代劇の大スター大河内伝次郎で、その卓抜なキャスティングも楽しさをます。
 わかりやすくおかしみあるエピソードを重ねながら、彼の映画に往々にして現れる短い胸をうつシーンもやっぱり挿まれる(『有りがたうさん』での歩いていく道路工事の人たちの一群を遠くから撮ったショットのように)。カッチリと切り取られた田園風景をお屋敷の門の向こうに映しながら、雨傘をさして佇む庄助さんの姿。彼をとおしてわたくしたちが見るのは、季節や時代、過ぎていくものの、人や命の、ありふれてでも深い悲哀みたいなものだろうか。モノクロのスクリーン、雨にけむったくすんだ遠景、近景、幾重にも連なる灰色の階調が生む叙情と重なりあい、誰にもどうしようもない、なんの力にもなってやれない、生きることにまつわるつらさみたいなものが浮きあがってくる。夏の絽の羽織姿で、家紋の入った古びたから傘をさして立つ人、しのつくほどでないから、いっそう雨はその人に吹きつけ、足もとを洗い、何もかも流し去っていく、最後の最後の矜持や家財道具までも。
 戦後の復興期。農地改革で没落し、才覚もなく、手を汚すことを肯んぜないまま、家名や伝統の重圧のなかで、一気に傾いていく家。寄附、選挙、借金取り、青年団、村の改革、ミシン、ダンスなどの時代の風俗も取り込んで点描しつつ、最後に、全てを売り払って一番列車で逃げるように、解放されるように去っていく、サバサバした表情の庄助さん夫婦を見送って映画は終わる。消えるもの喪われるもの、消ええないもの、生まれるもの。でも全てはあのモノトーンの遠景のなかに降りこめられたままだ。

 

第19回福岡アジア映画祭 『生命-希望の贈り物』(2003年)

生きる困難と喜びと
 昨年、あのすばらしい『鉄西区』(九時間)を果敢に一挙上映した福岡アジア映画祭。今年は台湾の呉乙峰監督の一九九九年台湾大震災を描いたドキュメンタリー『生命(いのち)-希望の贈り物』などが上映された。
 闇のなかから映画は始まる。徐々に列車内だということがわかってくる。トンネルを抜けると雨。撮っている側(監督)の親友への手紙、半身不随になり入院している監督の父親の姿が続く。激烈だった地震そのものの被害より、生き延びた人たちのその後が三年をかけて丁寧に取材され、当然のようにその影響を今に引きずっている地震の現在が描かれる。そこでは撮る側の今も否応なく問われるし、現われてくる。撮る-撮られるという関係やその距離の取り方は単純ではありえず、だからドキュメンタリーとは何かという問いも浮上してくる。
 不随になり、絶望している父親の「死んでしまいたい、地震がここで起こればよかった」というショッキングなことばと、その地震で家族を失って悲嘆にくれつつも生きていこうとする姉妹、夫婦などの4組が対照的に描かれている。災害そのもの衝撃、亡くなった親や幼い我が子への悲しみ、遺体も見つからない家族への悲痛な思いのなかで、崩壊しそうになる精神。生きる目的が瞬時に喪われ、毎日の意味すら見いだせず、心も体もとめどなく漂い始める。
 そんななか、でも生きる力は再び巡ってくる。新しい命を育むこと、体を使う具体的な労働に没頭すること、日常を懸命にくり返すこと、新しい地へ旅立つこと、などとしても。
 生きるということがありふれた日々の連なりのなかにあること、そうして死もそういう日常のなかにいつもあることが静かにでも圧倒的なリアルさで伝わってくる。世界に、生活のなかに起こる突然の災害、不治の病、死。そんななかで新しい命や関係もまた生まれ、始まり、続いていく。死を拒むことはできない、生きる以上。でもそのなかで自分の生き方を選ぶことはできる。それが「運命に従う」というように呼ばれるにしても、それはその人が様々な関係や行為の結果として選びとり掴んだ切実なものなのだから。

 

「アマルコルド」(1974年・ビデオ) フェデリコ・フェリーニ監督

季節を巡る綿毛と共に
 知人といっしょに、プロジェクターで少し大きめにみる、久しぶりのフェリーニ。わくわくと楽しくて、そうしてやっぱり少し哀しい。盛りだくさんのことを、戯画化し、やさしい視線で描き続ける2時間。監督自身の、あらゆる人の郷愁や憧れがぎっしりと詰め込まれていて、わたくしたちにも直に伝わってくる。
 冬の終わりを告げる綿毛を掴もうと街頭に溢れてくる人々の喜びから始まり、翌年の再びの綿毛で締めくくられる季節の移ろいが、ひとつの家族を中心に、彼らの街をとおして描かれる。様々なエピソードが羅列に終わらず、重層化されて世界を浮きあがらせるのは、挿話の質だけでなく、その長さの的確さにもある。冗長にならず、でもみるものにきちんと届く長さを持ち、といったこと。
 それぞれのできごとは一度ずつ描かれる、政治やファシズム、戦争も含めて。一年という枠だからだけでなく、あらゆることは永遠に新しくそして古い、つまりくり返されつつ、かつそのひとつひとつがけして同じでないということだろう。あっけないほどに単純でそうして限りなく深い、人であり生であり。
 こんなふうに膝つきあわせていっしょにみると、新しくみえてくるものもある。女性とか性の扱い方に少し驚かされ、改めて考えさせられもする。ある枠組みをわたくしたちはすでに超えてしまっているのかもしれない。そうして、そういうことを考えずにイタリアのおおらかな女性像、母親像を前提にできた世代が持っていたもの、わたくしたちが喪っているものを、感傷としてでなく思ったりもする。
 映画と共に巡っていく。少年時代を終えつつある腕白坊主が、母の死、憧れの人とのすれ違いを超えて成長するのを喜びつつも、その永遠に喪われてしまうアドレッセンス(思春期)を、憧憬するように、遠くから手を振るように懐かしんだりもする。永遠に還らないもの。花嫁の去った結婚式、綿毛の舞う北イタリアの野を散らばりながら帰っていく人々、映画、感傷、思いで。わたくしたちも自分の世界へ、かけがえのない、退屈ででもあたたかい世界へ戻っていく。少しだけ心豊かに、賢くなって。

 

『牛皮』(2005年)

家族を「演じる」家族  
 イメージフォーラム・フェスティバル2005が福岡市総合図書館映像ホールで開催され、公募入賞作品、内外からの招待作品などがドキュメンタリーやアニメーションも含んで上映された。近年ドキュメンタリーの秀作を次々に生みだしている中国からは『牛皮』(リュウ・ジャイン監督)。
 今の中国では典型的なのだろう三人家族の現在がそう広くはない家の中だけの、閉じられた空間で撮られている。暗く押さえた画面だから、外の電車の音や人声が際だち、時たま写る窓や入ってくる外光が眩しいまでの印象を与えるようにつくられている。そういった方法論も駆使しつつ始められた撮影は、でも、生きることがそうであるようにたちまち枠組みを踏み超えて膨らんでいき、計算外の計算すらはみだして、思いやりと従順さは、怒鳴り声と口論へとつながっていく。父親が父親を演じ、親子が親子を演じ、自分たちの生活をなぞることからはみ出していく。重ねた半透明の紙にトレースしてく線が、滲んだり太まったりして輪郭を喪うかに見えて、ふいに現実以上の鋭いエッジのリアルな線になって浮きあがるかのように。カメラの前で演じることで、逆に誰もが生活のなかでいろんな形で演じつつ役割分担して生きていることが見えてくる。当然のようにドキュメンタリーとは何だろうという問いも生まれる。
 革製品を作る職人気質の怒りっぽい父親、経済的にも苦しく、突然ヒステリックになる工場労働者の母、そうして信じられないほどに従順に見える20代前半の娘(この映画の作者)。くり返される口論の向こうにみえるのは、でも抜き差しならないほど濃密な三人の関係であり、「家族愛」であり、ひとりが欠けたらなんてことすら想像すらできない絡まりあったつながり。
 狭く閉じた空間は彼らの関係のメタファーでもあり、最後の眠るシーンの夢うつつのおしゃべりは甘くかつ不気味で、彼らの関係が夢のなかにまでも溶け込みつながっているようで、みているわたくしたちは圧倒される。並んで寝ているのだろう彼らは、たぶん夢は見ない、あまりにも全てがリアルでそしてファンタジーに満ち満ちているから。

 

海を飛ぶ夢』(2004年)

「尊厳」ある生とは
 疑うことすら思いつかなかった、世界の根源的な前提さえも問い返され始めた時代だからだろう、<死>や<性>、人と人のつながりを再考させられる映画が続いている。死を求めたり、自分の体を売ったり傷つけたりすることが、権利として語られる現在。
 『海を飛ぶ夢』(アレハンドロ・アメナーバル監督)は、スペインでの実際のできごとを基にしていて、首を骨折し二十数年寝たきりの人が「尊厳死」を求めて裁判を起こすところから始まる。映画のなかでは、肢体不自由であること自体が惨めとは言っていないとか、生きることは義務でなく権利なんだといったことばが頻出する。あくまで個人のプライドや不全感からの、しかも長い時間をかけたうえでの結論であり、一般化もできないとくり返される。だから訴訟社会の米国のような、徹底した個の拡張、自分の体を自分で処分する当然の権利といった考え方から遠いということだろう、真摯に生を考え、死を求めるといった。しかし現在流通している様々な社会的な概念や関係の形を前提にしてしまう時、「障害」は可哀想だと代理して決めつけ、遺伝子や胎児の段階で処分するといった異様な「合理」の発想からどこまで自由になれるのだろうか。
 教育や労働を持ち出すまでもなく、権利とは義務を別のことばで言ったものでしかない。社会の暗黙の強制を、人が積極的に受け入れてしかもそれを自発的な内的な発露とみなすことで自他を納得させる面を持っている。映画は事実に基づいているからだろう、教会(宗教)や裁判(国家)といった社会的な制度の問題が突出してしまうけれど、今、わたくしたちが最も知りたいのはその先のことだろう。権利としての死の裏側には義務としての死も貼りついてみえる。「尊厳死」なんて発想が生まれない人と人の関係や社会がありえるのなら、その方が誰にとってもすばらしいはずだ。
 今は、生と死の境界すら、脳死問題でも顕わになったように全く曖昧なままだが、映画には<死>とはそもそも何かという問い、そうしてそれと切り離せない<個>とは何かという問いも現れてこない。裁判で否定された死を、秘密裏な形で成就させるところでこの映画は終わる、何度も繰り返された愛ということばと重ねながら。福岡市ソラリアシネマなどで上映中。

 

トニー滝谷』(2004年)

スタティクな映像と翳り
 村上春樹の同名の短編小説の映画化。短編集『神の子どもたちはみな踊る』が彼の作品集で最もすばらしいと言う人もいるように、その短編はかっちりした構成をもち、ことばでは直截に表せないことを、不思議を、奇妙なおかしみやざらりとした酷薄さと共に描き出す。がっちりと揺るぎがないのに緩やかな広がりがあり、さらさらと読めてしかも消えない深い印象を残す。寓話とか比喩としてでなく、まさにそうとしか表せない世界、滑稽で真摯で無惨であたたかい、つまり単純で深いこの世界そのものの物語が掴みだされる。
 だから別の媒体に移そうとするとき、その語られ表わされようとすることを再度別の形で表現するしかなく、全くちがうアプローチが求められるのだろう。今回の、小説をほとんどそのまま丁寧になぞった、軽やかに風の吹き抜けていくスタティクな映像は息をのむほどにも美しいけれど、どこかことばの影のように儚くみえてしまう。書かれたものや、作家の感触との共有を大切にしすぎると、小説作品や<村上春樹>を追うしかなくなる。
 滝谷トニーというちょっとかわった名前とジャズ・ミュージシャンの父親とを持つ男の半生。一人二役という卓抜した形で、村上作品に頻出するふたり組、双子も造形されている。後半、服に異様に執着してしまう妻の死後、映画は小説を離陸して不意に膨らみ始める。映像として生き生きとした表情やことばが生まれ立ち上がりかけて、でも自制するようにひっそりとモノトーンな風景のなかに閉じられていく、燃え残ったメモを手にもう一度世界とのつながりを探り始める男を余韻として残して。
 孤独とか喪失とかいうことばから抜け落ちるもの、生きているということはこんなにも多様で豊に溢れているのに、どうして現実は冷たく乾き人を閉じさせ、全てが終わってしまった遠いものに感じられてしまうのか。村上の作品のなかでは個の存在的なまでの寂しさや虚ろさがさり気なく語られるが、それが冷たく孤絶した印象を残さないのは、他者やつながりがどこかで信じられているというより、おそらく<個>とか<人>とかいった概念が基層部でもっと広がっている、変化しているからだろう。もう今までのようには感じられない、捉えられないものだという前提にたって。

 

『白百合クラブ東京へ行く』(2003年)

場のなかで共有されるもの
 福岡映画サークル協議会の例会での上映。こういう会や企画は上映前後がたいへんでかつ充実するのだろうし、継続のなかで映画への愛や厳しさも育っていくのだろうか。慣れない役割に緊張のある、でも和気藹々な受付から映画はもう始まっていたと、場のなかで何かを共有するつながりがあると、見終わってから気づかされる。
 第二次大戦直後に沖縄石垣島で発足しずっと続いているバンドを撮ったドキュメンタリー。東京での公演とその準備も含まれている。今も創立メンバーが中心で、だから平均年齢は七十歳ちかい。「沖縄、音楽、おばぁ」の三点セットだし、美しい海、バナナ園、オクラ畑、それに宴会も頻繁に登場する。
 現在沖縄が描かれる時の明るさは、その南(ラテン)の明るさだとか、長い苦渋の歴史をくぐり抜けてきた勁さだとかとも語られる。この映画の人を惹きつけ巻き込む力は、もちろんメンバーの魅力と力に拠るけれど、それを撮る側が対象との距離を失うくらい近くにいるからでもあるだろう。カメラ自身が踊ったりちょっと気取ったり、似合わない屈折を見せたり。
 親族や地域の強い絆があるということは、その重圧も大きいということで、バンド創設者の弟さんのすでに亡いお兄さんへの感動的なまでの思慕には、目上の者への絶対尊敬も含まれ、今も彼を縛っている。そういう共同性がいいとか悪いとかでなく、わたくしたちはそういう力や愛がもう今までのような形では成り立たないことを確認し、それに替わるつながりを探るしかないということだ。
 情報が溢れ急速に消費される東京での公演に注がれる視線は、西欧が自分たちの新しいエネルギーのために異文化を取り込んでいった視線を相も変わらず忠実に学習し踏襲したものであり、今のわたくしたちの多くが持ってしまっているものだ。しかしそんな圧倒的な消費にも呑みつくされずに、バンドメンバーは帰還する。だから映画の終わりは、観客も混じって踊る歓喜の公演フィナーレでなく、石垣に戻り自分たちの場でまたバンド活動を始めるという形になっている。かつての青春の地、白百合が咲き誇ったという海岸での演奏をスクリーン上にゆっくりと映しながら、映画はみているわたくしたちに手を振る。わたくしたちも手を振る、喪われたかけがえのないものに、ではなく、ここではないどこかの夢の地へ、でもなく、見えづらいけれどそこにもここにもあるものに向かって、つまりわたくしたち自身に向かっても。

 

「ぼくの好きな先生」ニコラ・フィリベール監督(2002年)

移っていく季節のなかで
 フランスの奥まった地方、オーベールニューの十数人一クラスだけの学校(四才ぐらいから十一才くらいまで)を描いたドキュメンタリー。子供たち、先生、そしてそのつながりが、家族を含めつつ穏やかに描かれる。周囲にはなだらかに続く牧草地、田畑、森、小さな集落、遠い高い山並み。それらは心震えるほど美しく、そうしてありふれた生活の汚れにも満ちている、当たり前のこととして。それは例えばわたくしの住む小さな海辺の町でも同じことだ。見るたびに小さな感動が生まれる海や空、田園や山並みに囲まれつつも、どこにでもある日々の細々とした問題も様々な形である。
 雪のなか、てこでも動かないといった風情の牛たちに手を焼くシーンから映画は始まる。そうして春の訪れ、戻り雪、そり遊び、木々の芽生え、花、夏の戸外での授業、ピクニック、不意の雨そして虹。花は散り、木々はそよぎ、畑で穀物は乾いた音を立ててゆったりと揺れる。
 気の強い子がいる、おしゃまな子がいる、すぐに泣いてでももうけろっとしている。先生や撮影隊の気を惹こうとまといつくかと思えば、あっという間にそっぽを向いている。上級生は少し屈折する、世界を知り始めたから。もうじき中学に移っていく時期が近づく。もっと遠くてずっと規模の大きな学校だ。先生は彼らひとりひとりとこれからのことを話す。難しい病気での手術や入退院を繰り返す父親のことを話しつつ、ついに泣きだすしかない子供を、先生は抱きしめたり過剰に慰めたりすることなく、「病気も世界の一部なんだよ、それといっしょに生きていかなければならないんだよ」と静かに諭す。抱きしめるにしろ諭すにしろ、人ができることはそう多くはない。でもそんな時にそんなふうに語れることに驚かされる。世界観というより、頭蓋骨や骨盤の形さえもまるでちがう人のように思えるくらいに。ぼくらはついにそういう共同体もそういう先生も持たなかったけれど、それはどちらがいいとか正しいとかいうことはでなく、ある時代や場所には、ある種の勁さとやさしさがあり、突き放す厳しさとそれを受け入れる力といったことを、共同体の掟として了解せざるを得ないことが、誰にも無意識のうちに納得されていたということなのだろう。
 別れの季節がやってくる。学年の終わりだ。子供たちひとりひとりの頬にキスしつつお別れをいう先生の目が潤む。学校の門は閉じられる。季節がそっと秋へと移りはじめる。はぐれた牛のカウベルが夕暮れの丘に響く。繰り返され、これからも繰り返される移ろい。いくどもいくども、そうして子供たちもわたくしたちも移ろっていく、次へと、そしてまた次へと。

 

カナリア

アイデンティティという制度の向こうへ 
 映画は、母親に連れられて妹と共にある宗教集団に入った少年が、集団が起こした異様な事件の後、保護されていた施設から逃げだし、妹に会いに行こうとするところから始まる。
 母親の権威的な父(少年の祖父)や途中で出会って道連れになる少女の家族のことが頻繁に語られるように、現代の家族の問題とも重ねて描かれている。こういう時代のなかで、家族も壊れてしまったとき、どうやって他者と関わりつつ生きのびていけるのかという問いでもあるのだろう。
 宗教集団の拡大された家族としての面、同性の間での愛、援助交際などにもふれつつ、新しいつながりのあり方が探られるが、現在ある関係の形に引きずられ、その延長として発想されてしまい、焼き直された、擬似的な家族や愛になってしまう。
 映画のなかに、出自としての家族を捨てて入った宗教集団からも抜け、元信者たちと新たにつくった疑似家族集団のなかで働いているという設定の青年が出てくる。彼の「自分が自分であることから逃げるな」という、自己のアイデンティティを最後の拠り所にし、そこから再度出発しようとすることば。それは誠実ではあっても、どこまでも自己-社会という創られた二項対立のなかを激しく揺れ動くだけで、けしてその向こうへと抜け出ていく自由さを生みだせない。少なくはない人のなかにどうしようもなく育ってしまった、周りを憎悪するほどまでの違和は、現在ある「個」という考え方、その上に積み上げられた家族という関係からも生まれてきているはずだ。そもそも「宗教」というものはそういう個といった発想を超えた(発想以前のといっても同じだろうけれど)あり方や場を探るものだし、そこに、無意識にであれ人は惹きつけられるのだろうから。
 わたくしたちが持つ個という考え方と、それを基に組み立てられている様々な関係は、もう成り立たなくなっているのだろう(耐用年数が切れたという言い方をする人もいる)。他の多くの絶対的で強固にみえる制度と同じように、アイデンティティもひとつの制度でしかないのだと考える地点から改めてみつめなおしていけば、世界は次第にちがった様相をみせ始める。

 

珈琲時光』 侯孝賢 監督

流れのなかに佇みながら
 つい、あの名作『悲情城市』の監督、と言ってしまいたくなる台湾の侯孝賢。『悲情城市』では大戦後の台湾の複雑で困難な歴史の全体が、みごとな簡潔さで描きぬかれていた。しかもけしてエピソードの羅列に陥ることなく、できごとや人々がその厚みや深みを抱え持ちながら、動的に撮られていて、ほとんど奇跡的だとさえ思われた。
 新作『珈琲時光』ではすごく単純なものの内にある複雑さ、ありふれた生の奥行きや重層性が丁寧に描かれている。少し距離を置いて、でも突き放すのでなく、そっと掬い上げるように撮られている人々、できごと。特別なことは何も起こらない。
 古書店の若い主人は、日々ちがう電車やホームの音を録音し続け、その友人の台湾と行き来している女性は身ごもった子どもを自分一人で育てようと決め、退職した夫婦は、そんな娘を前に黙ったまま視線を交わしている。それぞれが持つ時や場所のサイクル、そのずれと重なり。
  生活している馴染んだ場所で、穏やかなつながりのなかをそれぞれがいろいろなことを抱えて生きている。繰り返される日常、それを誰もがさり気なく淡々とこなしているのに、ときおり、そうやることでやっと生き延びているのだともみえたりする。どこにもあるような街並み、いつもの電車、でもそれはどれひとつとして同じでないこと、刻々とかわり続けているものだということが、通奏低音のように響き続ける。
 時々に流れは澱み、渦巻いてはまたほぐれ、早瀬を駆け、再び同じ季節の下をくぐり抜ける、河のように、電車のように。そうして人は折々の岸辺に佇み、たゆたい、ひとときの安らぎのなかで本を開き、遠い声に耳を澄ませ、伝わってくる音楽や珈琲の香りに身を委ねる。
 ことばにならない思いが、人と人のつながりの喜びや哀しみが、浮き上がってくる。スクリーンは、自然光を溢れるほどにも取り込んで輝き、影さえもが彩りを孕んで流れ続ける。福岡市天神のシネテリエで上映中。

 

「第26回ぴあフィルムフェスティバル
『さよなら さようなら』『ある朝スウプは』

他者への回路
 今年も福岡市総合図書館ホールで「第26回ぴあフィルムフェスティバル」が開催され、アニメーションも含めた多彩な作品が上映された。デジタル機器の浸透による、編集や上映方法の変化にも伴い、制作スタイルも変わりつつある。女性4人による共同監督といった形や、『ある朝スウプは』(高橋泉監督・脚本・出演、廣末哲万出演)と『さよなら さようなら』(廣末哲万監督・出演、高橋泉脚本・出演)のようなユニットを組んでの制作などもある。そういう新しい形態自体も表現の一部であり、そのインパクトもあったのだろうか、この二つがグランプリ、準グランプリを受賞し、バンクーバー国際映画祭での受賞も果たしている。
 『さよなら・・』は「自殺志願者」や彼らを取りまく者たちのサイト上でのやりとりや行為が、ハードコアポルノの文体に添ったように劇化されて展開される。自死そのものより、それに繋がるコミュニケーションの不毛に目は向けられ、過剰な暴力や性が、吐瀉物や精液、血といったものとして噴きだすように描かれ、そこにネット上の無機的なキーボード文字が重ねられる。彼らは閉じてしまうことで追いつめられ、自虐と自愛の(それは極端な加虐と自棄に通じるのだけれど)異様な捻れに呑みこまれていくかのようにみえる。
 社会性の最小単位とも言われる愛に基づいた一対の関係を築けば、社会に居場所が確保でき息がつけるのかといえば、そうではないだろう。『ある朝・・』では、男のパニック障害での引きこもり、宗教的団体への加入によってふたりの生活が崩壊していく過程がゆっくりと描かれる。
 どちらの映画も他者への回路が見失われるということでは同じだろうが、前者の暴力や性による関わりのなかで一瞬であれ他者と何らかの形で繋がりが生まれるようにみえることと、後者の静かに継続していたはずの関係の虚ろさが徹底して剥き出しになっていくこととは何を語るのだろうか。女の「私たちは結局は他人だったの」という無惨なまでに通俗的なことばでしか表現することができない空虚に替わるものが、男が選んだ宗教団体の疑似家族のなかに見つかることはないだろう。しかしそこに一時的にであれ安らぎを求めてしまう男の行為がこのふたつの映画のなかで最も説得力を持つように思えてしまうなかに、現在のわたしたちの、そしてそれを描くことの難しさがあるのだろう。

 

『私は子どもの頃に死んだ』

生き延びるもの、潰えるもの
 「第四十九回アジア太平洋映画祭」は今年は福岡で開催された。グルジアの世界的映像作家でありながら、なかなかその作品をみる機会が無いセルゲイ・パラジャーノフに関するドキュメンタリー、『私は子どもの頃に死んだ』も上映。アルメニア人の両親の下にグルジアで生まれたキリスト教徒であり、一九六十、七十年代、厳しい官僚体制下のソ連邦で映画を制作するという複雑で困難な人生が、彼の残した書簡やシナリオをもとに語られている。
 六十四年の映画『火の馬』で名声を博した後、当局よりロシア語を使用しないことも含めて社会主義リアリズムにそぐわない頽廃とされ、七十四年に投獄、四年以上の拘禁、労働。膨大な量のシナリオを書きつつも、作品化できたのは数本だけしかない。
 映画はナレーションをバックにした故郷の街や晩年の撮影風景で始まる。そうして異様なほど生々しい監獄のモノクロ記録映像が挿入され、それとの究極の対比であるかのような、彼が完成させることのできた『ざくろの色』『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』などの、神話的豊饒さや自由さに溢れた圧倒的な作品群が置かれている。
 みる人誰もが異国的、異教的に感じるようなめくるめく色彩や形態を生みだし、奔放な映像や音楽として成立させ、不思議な時間軸の上で展開させていく、<詩>としかいいようのない作品を創りだした源のひとつは、民俗や宗教の混淆のなかに生まれ育ったことだろうか。
 厳寒のなかでの拘禁や労働といった過酷さを生き延びるのはとてつもなく困難なことだったろうが、自由になった時の方が恐いと、手紙に書いたりもしている。これからも映画をつくれるのか、表現への力は枯渇してないか・・・・全ては否定的で暗うつな黒雲の下に閉ざされたままだったのだろう。結果として、彼はわたしたちを魅了して止まない表現を生みだすことができたけれど。国家規模、世界規模での巨大で過酷なできごとに押し潰され、生の核を奪われ、かろうじて生き延びたとしても、喪われたものはあまりにも大きく、錯綜した関係のなかで責任の所在さえも漠とした状況。それは今も続いている。
 あたためてきたシナリオ『告白』の葬儀のシーンだけを撮り終えてパラジャーノフは一九九十年に亡くなる、66歳。

 

ソクーロフ『孤独な声』
呼び起こされるもの、生まれるもの

 だれもがいろんな形で映画と出会い、喜びを、興味を育てていくのだろうけれど、それは途切れることなく続いていて今もわたしたちを誘い楽しませ、豊かにしてくれる。年の終わりに一年を振り返り、最も心に残った映画といったことに思いを馳せた人もいただろうか。ぼくにとってはフランスの奥まった村落と小さな学校を描いた『ぼくの好きな先生』(ニコラ・フィリベール監督)だなとひとりごちていたけれど、12月の終わりに福岡市図書館ホールで、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の『孤独な声』(1978年)を観て、その深さにもうたれた。  
 99年に奄美島尾ミホを撮った作品『ドルチェ-優しく』もあるソクーロフの20代の卒業制作作品であり、長編第1作。同じロシアの故タルコフスキー監督に捧げられていて、圧倒的なその影響下にある。繰り返し挟まれるモノクローム映像、スローモーション、鏡、流れの下で揺れる植物、火、風、それが揺らす木々、草原。でもどこまでいってもそれはソクーロフの映像そのものだ。どこか厳しさを含んだ映像には一瞬一瞬を凝視させるような力があり、その流れとふいの中断にも引きつけられ魅了される。
 戦場から戻った若者とその恋人、父親、僧侶が描かれていて、下敷きになった小説があるのだろうけれど、その内容は詳しくは語られず、時間的にも飛躍し、複雑な歴史の流れ(17年の革命後の混乱期)や宗教もからんでいて、観ているわたしたちは小説的な物語の文脈からは振り落とされていく。でも最後まで映像・映画の内側に留まり続け、その暗さや激しさにもかかわらず全編に溢れる初々しさにも助けられ連れられ、愛や生の再生と復活にたどり着く、映画のなかでたどり着いた人々や、映画をつくることでたどり着いた人たちと同じように。たぶん物語を語る映像の力というのはそういうことなのだろう。
 そうしてまた不思議さはつのる。時代も民族もまったくちがい、歴史も重ねようもないほどに遠いのに、あまりにも人は人であり、やすやすとわたしたちのなかに忍び込み重なりあっていくことに。一瞬の映像が、ひとつのことばが呼び覚ますものの広さ深さ。今年もまたいくつもの喜びに出会えることを。

 

愛、季節、時代 - 移ろっていくもの、残り続けるもの

 大気はまだまだその底に冷たさを抱えたままだけれど、透明な陽光は真っ直ぐに落ちてきてあたりを満たし、小さく波立つ海の上を輝きながらずっと続いている。こうやって季節は、後戻りできない堰をひとつひとつ越すように移っていく。そんな光の溢れる津屋崎の海辺に立つと、がらにもなく愛とか時代とか移ろっていくもののことを考えたりしてしまう。そんななか、愛を巡るアジアの映画を2本みることができた。
 ひとつは2003年の韓国映画『ラブストーリー』。若い女性の現在進行中の愛と、彼女の母親の1970年前後の悲恋とが交互に語られる。朴独裁政権そしてヴェトナム戦争の時代。強圧的社会、絶対者の父、階層のちがいという背景、親友との三角関係、自殺未遂や雨のなかの逢い引きや列車での別れ、失明という悲劇もある。ヴェトナムの戦闘シーンが挿まれ、それを当事者として描く国だったことを改めて思いださせられるけれど、その戦争も独裁も、抗議のデモンストレーションも、ささいなエピソードのひとつになっていることに驚愕してしまう。30年が経ち、飛躍的な発展と変化があったということだろうか。そうして過去の悲恋が子供たちの世代の愛としてあっけらかんと成就することも、今という時代の要請なのだろうか。
 もう一本はタイの『ムアンとリット』。94年の映画だけれど、描かれた時代は1860年代。豊かな水と緑のなか、僧侶へのかない難い思い、女性が虐げられた時代の理不尽さと抵抗、その全てを超えて成就する愛の物語。
 過去が描かれるとき、往々にして現在の感じ方考え方でかつてのことをみていくから、単純な過去の批判や称讃になってしまい、愛や人の持っている深みみたいなものはなかなか浮かび上がってこない。個と個の近代の恋愛も、結婚や家族ということと同様、歴史のなかの性の制度のひとつにすぎないことも巧みに隠れてしまう。
 時代や屈折した関係のなかで、やっとの思いで手に入れたもの、そして喪ったもの。その流れのたどり着いた波打ち際に今わたしたちは佇んでいる。愛、はあるか?

 

息子のまなざし」- 求めること拒むこと
                 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 ドキュメンタリーのようなカメラの動きのなか、じっと何かを視続けている職業訓練校の木工教師の後ろ姿から映画は始まる(それをわたしたちはスクリーンのこちら側からみている。視つめるということは対象を愛することであり、また何かを奪いとってしまうことかもしれない)。視られているのはその日受け入れたばかりの少年院を出た生徒で、彼は家族ともうまくいかず木工を習いに来たのだが、実は少年が5年前、11歳の時に絞殺したのはその先生の幼い息子だった。もちろん少年はそれを知らないまま、映画は進む。
 事件の後離婚した先生は教えることに熱心で、厳しいが面倒見もよく、生徒たちの信頼も厚いけれど、事件や犯人のことをどう考え対処していいのか動揺してもいる。でも人は、そういったできごと自体を、相手を、じっと視つめることができるのだろうか、考えぬくことは可能なのだろうか。そうして、例えば相手を殺すとか赦すとかできるのだろうか。現実の様々な事件を思い起こしつつ、誰れもが目をそらすしかない気持になる。
 終盤近く、先生の詰問に応えて、徐々に自分の行った殺人と5年間の院生活を少年が材木置き場で語り始めたとき、不意に殺されたのは自分たちの息子だったと先生に告げられて少年は逃げだす。「何もしない、責めてるんじゃない」と叫びつつ追う先生が、屋外に追いつめた少年の首に手をかけ、そうして手を離して作業に戻った後、少年がもう一度作業場に姿を現す。凍えるほど孤絶して立ち竦み、混乱し、でも必死に何かを求め、震える体を押さえ、祈るように先生を視つめるとき、わたしたち誰もが少年であり、先生である。
 映画はぎくしゃくとしてゆっくり進み、ふたりの表情もしぐさも明確に何かを示さなくなる。拒絶と憎しみと愛と希求と受容とが一瞬毎に交錯しつつ、微かに揺れ、唐突に暗くなって映画は終わる。そういう曖昧で不安定な関係のなかにいること、そうしてそこから始めるしかないことを痛みのように告げながら。ひたひたと満ちてくるある思い、しかとは名指せない、何かへの慈しみ(愛といってもいいのだろうけれど)を予感しつつ。

 

エレファント
人が人を殺すこととは

 コロンバイン高校乱射事件を題材にとった映画。米国地方都市郊外の裕福な高校、校舎も生徒も荒んでなくてクリーンな、そういう意味では今でもまだ「アメリカ的な」という神話の残る場所。家族や地域、学校といった共同性もまだ形を保ち、だから制度や管理も弱くはないだろう。
 高校の日常が様々な生徒を通して描かれていく。悪意のあることば、虐め、おもいやり、食事、愛や性、ありふれたでも各自にとっては切実なことだ。時間が戻ったり、同じシーンが繰り返されて奇妙な揺れが生まれ、不安が影をさす。不意に人影の消えた体育館、長い廊下、誰もが経験のある、学校の思いもかけない暗がりを、意識すらせずに抜けていく生徒たち。明るい屋外でもカメラは距離を置いて対象を写しとる。距離は冷静さややさしさであり、また突き放す冷たさでもある。それが静かなトーンを生みだし、また冷え冷えとした皮膜をつくりだす。レンズが追う生徒たちの無防備な背中。
 殺戮シーンが手足が痺れるまでの恐怖をよぶのは何故だろう。静かに時間をかけてつくられた、緻密で説得力のあるものだからだろうか。撃つこと、弾が真直ぐに空気を引き裂いて具体的な誰かに突き刺さり、傷つけ、殺すことのリアルがわたしたちのなかのどこかに一息に繋がってくるからか。あまりの単純さへの深い恐怖もあるのだろう。
 それほど遠くない時代、圧倒的な銃器で先住民を殺戮することで始まった社会に残るけして癒えることのない傷。その傷は社会の無意識にも現れないほど深く隠されてしまっているからこそ、消えようもなく在り続けてしまう。武器や力へのさらなる傾倒と過信、それ故の力への過剰な怯えと反発が今も絶え間なく繰り返され続ける。
 異様さを察して動揺しつつも校舎に入らない方がいいとみんなを押し止どめる少年や、死んだ友人を捨てたまま離れられない少女を描き始めつつも、映画は家族の物語に収束していこうとする、銃声も炎も遙かに遠い場所へと。でも人の持つ慈しむ力が、家族という形ではもうすくい取れない時代にわたしたちは入ってしまっているのだろう。

 

鉄西区王兵監督
働くこと生きること、ただ巡り続けるように

 第18回福岡アジア映画祭で『鉄西区』が上映された。9時間に及ぶドキュメンタリー作品だけれど、三部構成で休憩もあるから休み休みみることができた。確かにとんでもなく長い、でも人生に比べたらあっという間もない、でも、世界そのものがずっしりと詰まっている。
 一九三〇年代から続いてきた中国東北部瀋陽鉄西区と呼ばれる工業地帯の崩壊と、その混乱のなかで働き生きる人々が、3年間に渡ってデジタルヴィデオに収められている。撮影もひとりでこなした王兵(ワン・ピン)監督との関係を反映しているのだろう、人々はカメラに全く動じないし、過剰な反応もない。カメラも過酷な現実にたじろぐことも媚びることもなく、とにかく前へ前へと力の限り走り続ける、爆発現場へ、立ったまますまされる食事のお椀の中へ、濁った風呂のなかへも突き進む。でもけして居丈高な暴力的な威圧や侵犯、高みからの解析はない。だから世界が、正視するのが辛いほどにもあるがままに取り出される、そうしてそれは人をうつ。
 官僚主義の無策、文化革命の影響、現在吹き荒れている世界経済と直結した嵐の下で、人々はしゃべり、働き、食べてのんで、喧嘩し、唾を吐き、風呂に入り、歌い、手鼻をかみ、反抗し、煙草を吸い続ける。映画のなかに繰り返し現れる、工場地域内の貨物車が走る軌道のように、人々は世界はただ同じ回路を巡り続けるだけだ、それが人生だというように。
 多くの工場が倒産し閉鎖し、鉛中毒さえ抱えた労働者たちは失業し、家族ごと居住区を強制的に立ち退かされる。雑然とした休憩室で繰り返される賭け事、そこかしこに暗く重い澱みがあり、それは労働者自身の皮膚にも目にも薄い皮膜として、投げやりな諦めや疲れとして貼りつき染みこんでいる。そうしてあっけらかんと勁い。
 職も家もなく、線路域での不法なこともやりつつ男手ひとつで息子ふたりを育ててきた老人は「人生は厳しい、食べていくのはたいへんだ」と嘆息しながらこうつけ加える。「結婚すらできないと諦めていたのに、ふたりもの息子に恵まれたんだ」と。7日間拘置されて出てきた父の前で酔っぱらって泣きつぶれた息子を背負い、凍った暗い夜道を老父はふらつきながら帰っていく。そんなふうに、そんなふうにして人は生きていく、そうして死んでいく。わたしたち一人ひとりに長い長い余韻を残して、人々はスクリーンから消えていく、溶暗して映画は終わる、そうしてまた巡り始める。

 

セクシュアリティを巡って ①
「オール・アバウト・マイ・ファーザー」エーヴェン・ベーネスター監督

 「第十三回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」が開催され、公募で選ばれた三作品を含む国内外の二十九作品が上映された。唯一のドキュメンタリーである『オール・アバウト・マイ・ファーザー』はノルウェーの小さな町に住む医者でトランス・ヴェスタイト(異性装)の父親を息子がインタビューしたもの。性同一性障害等と名づけられている、自己の性別に強い違和を持ち、他の性別に変わりたいという欲求を抱えている人たちの、家族や社会との軋轢は大きい。
 八歳の頃から始まった異性装への興味、結婚、ふたりの子供、異性装を否定する妻との離婚、理解してくれた現在の妻との再婚などを振り返り、「女性」でありたいと願う自分を分析し、社会的な意味での女性といったことも丁寧に考え、カメラの前でも異性装する父親。その説明に頷きつつも、どうしても家族として見てしまう息子は、「女性であり、お前の父親だ」ということばに動揺し、感情的には受け入れられない。父親は自分の内の欲求を冷静に認め、対社会的にもカミングアウトし、偏見と闘い、本を書き、積極的に行動しており、整然とした論旨は真摯だけれど、どこかで空回りし始める。たぶんそれは、現在の社会で流通している「性別」を大前提とした性に関する見方に則り、今ある家族という形を前提にして考えるかぎり行き着いてしまう地点なのだろう。彼に、変わりたいというほど激しい違和を起こさせる「性別」という発想そのものを変えない限り、「男性」「女性」という閉じられた二元論の間を揺れ続けるしかなくなる。
 何かを「非正常」と規定し、異性装や同性愛、性同一性障害と名づけて隔離する現在の社会の考え方は、異性愛を「本質」であると規定しての発想であり、その根本には雌雄(男性-女性)という性別概念が、生物学的な本質として置かれている。そうである以上、概念そのものを問わない限り、性にまつわることがらは開かれていかない。どんなに非現実的な観念論に響くとしても、「性別」というものが絶対的なものではなく、ある時代の、限定された地域(地球規模に見えるとしても)で流通している、共同体として選ばれた観念、見方であると考えてみることから、改めて始めるしかないのだろう。
 インタビューの最後に父親は、それまでの冷静さや強さを放棄するように、「いつ死ぬかわからないけれど、自分が父親を覚えているように、お前にずっと父親として記憶されたい」と涙ぐむ。ユーモアも交えた父親のことばやふるまいに笑わされつつも、息を殺すようにしてじっとみてきたわたしたちも、そこで立ち止まるしかない。残念で寂しくもあるけれど、それが現在であり、今の限界なのだろう。 

 

『自転車でいこう』 杉本信昭監督
世界の速度をすり抜け

 路地をすいすい抜けていく自転車、それを追うカメラ。このドキュメンタリーが始まると、少年のしゃべり続ける声と不思議なことばに先ず耳がいく。映像の軽快さとその自在な撮影にも興味がわく。
 自転車に乗っているのが、プーミョンと呼ばれている「自閉症」の二十歳の少年であり、李復明という名だとわかってくる。大阪生野区の福祉作業所「ちっぷり作業所」に勤め、仕事帰りに近所の「障害者」も混じる学童保育所「じゃがいもこどもの家」に寄り、あれこれもめごとを起こしつつも、愛されていることも。
 生野区にはいくつもの作業所があり、保育所があり、韓国語の教会がある。つまりそういう人たちがたくさん住んでいるということ、そういう生き方が可能だということ。そんなことを見聞きしつつ、わたしたちも考え始める。
 『「障害」とは何か』という問い、「障害」を再定義するのではなく、「障害」というものがそもそも存在するのかという根源的な問いに、わたしたちが向き合えないのは、様々な「障害」と呼ばれていることがらの「具体性」「現実」に圧倒されてしまうからだろうか。「病気」や「障害」として名づけられることで社会的な了解を受け、本人も一時的安定を得るとしても、それはあくまで隔離されることだ。
 本人自身が、名づけられることを拒み、自身の<ことば>で語り始めるしかない。それが可能かどうかは、ことばでないことばを、声にすらならない声を聴き取る力をわたしたちが持てるかどうか、取り戻すことができるかどうかにかかっているのだろう。
 それはとても難しいが、ご飯をよそえない子にやってあげるのでなく、本人にやらせようと繰り返し手伝う子のおおらかさに、すり寄るプーミョンの笑顔に応える赤ん坊の微笑みに、その可能性を信じることができる。そうでない限り、「障害者」は「知」や「身体」や「能力」の威圧の前で立ち竦まされ、そういう彼らの前で「非障害者」も立ち竦むという関係のなかに閉じられてしまい、「障害」とか「できない」とかの前提をとらえ返し、考えることができなくなる。
 撮影も自転車でだった。異様な速さで動いていく今の世界へのささやかなでもしぶとい異議申し立てでもあるだろう。(福岡市天神、シネテリエ天神で26日まで上映中。)

 

アジアフォーカス・福岡映画祭

みえない<事実>、曖昧な<真実>
 「アジアフォーカス・福岡映画祭2004」が福岡市で開催されアジアの14ヶ国27作品と、関連企画の27本が集中して上映された。低予算で制作でき、リアルな今を感じ取れるドキュメンタリーが少ないのは意外な気もするけれど、それでもマレーシア、アミール・ムハマド監督『ビッグ・ドリアン』、今田哲史監督『熊笹の遺言』などをみることができた。
 『ビッグ・ドリアン』は1987年にクアラルンプールで起こった、軍人によるライフル乱射事件を現在から語ってもらうという構成になっている。この事件は、マレーシアの民族や宗教の複雑さを反映して、極端に政治的な色合いを帯びさせられ、都市での異様だけれど突発的な個人的な事件で終わらず、一気に政府による国家統制へと繋がるきっかけにもなっていった。
 アジアの現状が語られるとき、植民地化されたことの影響が必ず語られる。圧倒的なヨーロッパ的近代の侵入の中で翻弄され、さらには国家自体が植民地にされていった歴史は、その後のほとんど全てと言っていいことがらに大きな影響を与えているのだろう。それらをリアルに感じ取ることはできないけれど、アジアの日本以外の大半の国では、オペラ『蝶々夫人』が嫌われているということすら知らずに育つわたしたちの日常と大きく隔たっていることはわかる。
 歴史を語るときの「真実」の問題や、映画にもでてくる「マレーシアでは全てが曖昧にされてしまう」といった「マレーシア(国民)性」とでもいえる地域性の問題、それに記録や映像の「事実性」への問いかけとして、インタビューのなかにプロの俳優による演技を紛れ込ませてある。それはこの映画自体とも距離をとることであり、ドキュメンタリーという概念そのものを相対化させようとする方法でもあるだろう。劇化され戯画化され、速度感やおかしみも増す。
 「籠の中の自由」ということばが何度かでてくるけれど、近代とか、国家や民族、宗教といった大きな枠組みや、政党政治や法律、さらには映画やことば、メディアといった籠にしっかりと閉じこめられてしまっているわたしたちを冷静に見つめ、解き放つ道を探る試みのひとつでもある。

 

ヴァイブレータ」/「赤目四十八瀧心中未遂
既視感、未視感の間で

 福岡市天神の同じ映画館で、主演女優が同じ寺島しのぶで、主演男優も両方に出ている映画をたてつづけにみ、しかも両方とも話題になった小説を原作にしていたこともあり、不思議な既視感や未視感に包まれた。「ヴァイブレータ」(廣木隆一監督、赤坂真理原作)と「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督、車谷長吉原作)。
 数年前に読んだ小説世界が創りだし、自分のなかに映像化し記憶として蓄えていたものとまるで同じ路地が出てくることに驚かされ、そうしてその見知った場所が、ひとつ角を曲がると見も知らぬ世界にずれ込んでしまう、すでに映像として目の当たりに見せられているにもかかわらず、まだ一度も見ていないものに思えてしまう、とでもいうような。
 小説がことばで表現しようと試みたもの(それはもちろんことばとしても明確にそれと名指せないからこそことばを積み重ねるのだけれど)、それを映像として表現しようとする映画、そのふたつの重なりと落差。すでにことばとして、概念としても成立しきっているものを、改めて視覚的な形に焼き直す、解説するといったことでなく、映像としてしか現せないものとして、新しく開いてみせる試み。
 どちらの映画も原作が紡ぎ出す物語を変奏しながら追っていく。「ヴァイブレータ」ではことばが文字としてもスクリーンの上に映しだされる。ちがう様式の表現、その間のたどり着けない距離を、ことばを直截に共有することで一息に埋めていこうとし、そのことでそれぞれの固有の力を立ち上がらせようとする。心象風景を超えて世界そのものの変容を出現させようとする映像や無化される時間軸の出現の予感が生まれ、でも映画はまるでそれ自体の生理に従うように上映時間のなかに巻き取られてしまい、結語を持つ表現として円環のなかに閉じられる。明るくなる映画館のなかに残されるわたしたちは、既視感も未視感もないこの<現実>に再び滑り落ち取り込まれていく。そこからまた始まる。

天神シネテリエで「ヴァイブレータ」は 日まで、「赤目四十八瀧心中未遂」は 日までの予定。

 

終わりと始まりと--映画との遭遇

 4月、いろんなことが終わり、始まる季節。そんな様々な出会いや別れのように、誰にも映画との遭遇や決別がある。わたしにとっての始まりの映画のひとつは「絞死刑」(大島渚監督、1968年)で、映画というのは表現なんだ(当時は「芸術」ということばだったが)と知らされた。
 小松川高校事件と呼ばれた実在の事件で逮捕され処刑された青年を題材に、彼が絞首刑後も死なず、記憶もなくしたという卓抜な設定の下、彼(映画のなかではRと呼ばれる)を再度処刑するために、教務官、所長、牧師、検事などが一体となって彼に事件を思いださせ、罪を認めさせ、死刑を受け入れさせようとする。酷いほどのドタバタ喜劇のなかでこづき回され、国家の概念を吹き込まれ、民族、宗教や性(愛)を押しつけられるが、<現実>と想像との乖離にも落ち込んでいるRには自分自身も罪もリアルには感じれない。
 終盤、「国家をほんとに感じられないなら、君は自由だ、この処刑場から出ていっていい」といった検事のことばにRはドアを開けるが、強い外光が雪崩れかかり彼は出ていけない。君は今国家を感じた、感じた以上(国家の決定した)罪は存在する、という検事のことばを受けて、Rは全てを否定しつつも再度の処刑を受け入れる。
 国家や民族や宗教はつきつめると実体のない、ある時代や地域のなかでつくられる観念的な仕組みでしかないのに、徹底して人を縛り、心にも食い入って支配することが、恐いほどリアルに映像化されていた。しかし当時はそれへの否定も対抗的な、同じ土台で反対するというようにしか考えられず、だから国家を幻想だと言いきろうとしても、そう断言する立場をどこにおくか(おけないか)は映画としても見えてこなかった。自分の足場を突き崩しては対抗はできないだろうから。
 それから40年ちかく、悲惨なことがらが積み重なるなか、ささやかであっても生きるなかで考えることを進めてきた人も少なくはないが、Rは今も処刑台のなかに閉じられたままだろうか。国家や民族の軛はますます強まるようにみえるけれど、それは外的な強圧的な力で枠組みが維持されているということでもある。バラバラになることや孤絶することも恐れず、人々はこれまでとまったく違うように「歴史」や他者(つまり世界)を引き受ける方へと抜け出ていこうとしている。長く苦い時間のなかでだけやっと掴めるもの、体に染みこみことばさえ超えるもの。

 

『チュンと家族』

 福岡市総合図書館映像ホールで、収蔵フィルムによる現代台湾映画特集が行われ、チャン・ツォチー監督の『チュンと家族』(一九九六年)が上映された。
 台湾の小さな町、別居した両親、複雑で荒んでいるが、まだ家族としての繋がりを祖父を中心にかろうじて残している一家。その長男で、まさに青年期へと入っていこうとするチュンを中心に映画は進む。大道芸の舞台に立つ母に強いられての、刀による自傷も含む宗教儀式的な集団「八家将」への参加。そこで繰り返されるもめ事や、ヤクザの義理の兄との関係のなかで、チュンは体の内にじりじりと積もっていく鬱屈、噴きだしてくる粗暴さをもてあまし振り回され、怒鳴り喧嘩し、暴力や殺傷に否応なく引き込まれていく。
 静かな川や山、祖父や弟と過ごす無垢な時間も、距離をおいた落ち着いた映像で挿まれる。観念(ことば)でなく、体として生きていた時代や年代だろうから、痛みや死も含んだ暴力があたりまえのこととして受け入れられていく。血や死は、聖や生の対極にあるのではなく、そのなかに含み込まれて在るのだということが、掴み出され剥き出しにされる。そういうなかで人は生きて死んでいったのだろう、今は「近代」に席巻され、「都市」での平板で安定した生が全ての表面を覆っているようにしか見えないとしても。
 個が抱え続ける思い出とか、世代や社会の郷愁としてだけでなく、若さの持つ世界への畏れや身体的なまでの違和と、急激に変貌した台湾の現在への怯えや底深い違和が、若者の滲みでるような鬱屈と共同体の底の澱みとの重なりとして描かれる。全編に溢れる生々しいまでの身体性や、生活そのままの息づかいといったリアリティは、職業俳優を使わないことがもたらしたものでもあるのだろう。
 人は鬱々と這いずるように、そうして実に暢気に楽々と生きていくのだろうし、誰もが休むことなく力をふりしぼりつつも、何もかもいつのまにか過ぎていってしまうものでもある。痛みとか感動とかいうことばからずっと遠いところで、わたしたちはつましい人の生に、ありふれていてそうして底抜けに深いものに揺り動かされる。


息子のまなざし」- 求めること拒むこと
                 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督

 ドキュメンタリーのようなカメラの動きのなか、じっと何かを視続けている職業訓練校の木工教師の後ろ姿から映画は始まる(それをわたしたちはスクリーンのこちら側からみている。視つめるということは対象を愛することであり、また何かを奪いとってしまうことかもしれない)。視られているのはその日受け入れたばかりの少年院を出た生徒で、彼は家族ともうまくいかず木工を習いに来たのだが、実は少年が5年前、11歳の時に絞殺したのはその先生の幼い息子だった。もちろん少年はそれを知らないまま、映画は進む。
 事件の後離婚した先生は教えることに熱心で、厳しいが面倒見もよく、生徒たちの信頼も厚いけれど、事件や犯人のことをどう考え対処していいのか動揺してもいる。でも人は、そういったできごと自体を、相手を、じっと視つめることができるのだろうか、考えぬくことは可能なのだろうか。そうして、例えば相手を殺すとか赦すとかできるのだろうか。現実の様々な事件を思い起こしつつ、誰れもが目をそらすしかない気持になる。
 終盤近く、先生の詰問に応えて、徐々に自分の行った殺人と5年間の院生活を少年が材木置き場で語り始めたとき、不意に殺されたのは自分たちの息子だったと先生に告げられて少年は逃げだす。「何もしない、責めてるんじゃない」と叫びつつ追う先生が、屋外に追いつめた少年の首に手をかけ、そうして手を離して作業に戻った後、少年がもう一度作業場に姿を現す。凍えるほど孤絶して立ち竦み、混乱し、でも必死に何かを求め、震える体を押さえ、祈るように先生を視つめるとき、わたしたち誰もが少年であり、先生である。
 映画はぎくしゃくとしてゆっくり進み、ふたりの表情もしぐさも明確に何かを示さなくなる。拒絶と憎しみと愛と希求と受容とが一瞬毎に交錯しつつ、微かに揺れ、唐突に暗くなって映画は終わる。そういう曖昧で不安定な関係のなかにいること、そうしてそこから始めるしかないことを痛みのように告げながら。ひたひたと満ちてくるある思い、しかとは名指せない、何かへの慈しみ(愛といってもいいのだろうけれど)を予感しつつ。


エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室

 あのケストナーの、あの『飛ぶ教室』が映画化された。トミー・ヴィガント監督。東西への分割と再統一というドイツの戦後史を取り込んだ卓抜な設定で、舞台は現代のライプチヒに移してある(ドイツの戦後の混乱と今もまだ続く深い傷は、映画『グッバイ、レーニン』=ヴォルフガング・ベッカー監督=でも家族の悲喜劇として描かれている)。正義先生も禁煙先生もいるけれど、生徒たちの劇はラップ・ミュージカル仕立て。懐かしさが先だつオールドファンにはちょっとつらい。
 たぶんケストナーを子供の頃に読んで、エミールや点子ちゃんやロッテを好きになり、『飛ぶ教室』に泣いた人は少なくはないだろう。もちろんわたしも何度も読んで何度も泣いたくちだ。まだ、泣くことは恥ずかしいことではなく、またうっとりと浸ることでもなかった。ただそうあるだけだった。だから十代半ばからは読まなくなった。感傷を憎み、社会と対峙することが正義だと思っていたのかもしれない(そういう意味では正統的なケストナー派だったのだろうか)。年つきが流れ、誰もがそうであるようにそれなりにいろいろあって、生き延びて、読み返してやっぱり同じ所で泣いていた。こんなにつらいことが12才くらいで起こるなんて、そしてそれに耐えているなんて。でも今はわかる、誰もが12才の頃に同じように寂しさをつらさをくぐっていたのだと。そうしてそれに気づくことさえできないほどにそのことの渦巻きのなかに囚われていたのだと。
 「どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう? そして、子どもは時にはずいぶん悲しくて不幸になるものだということが、どうして全然わからなくなってしまうのでしょう?・・・・みなさんの子どものころをけっして忘れないように!・・・(岩波書店高橋健二訳)」とケストナーは語る。映画の冒頭にも同じことばがでてくる。
 人は、わたしたちは、いったいどこへ向かっているのだろう。自分たちのあんなにも寂しくてつらかった心さえ、まるでなかったもののようにすっかり振り捨てて。


愛、季節、時代 - 移ろっていくもの、残り続けるもの


 大気はまだまだその底に冷たさを抱えたままだけれど、透明な陽光は真っ直ぐに落ちてきてあたりを満たし、小さく波立つ海の上を輝きながらずっと続いている。こうやって季節は、後戻りできない堰をひとつひとつ越すように移っていく。そんな光の溢れる津屋崎の海辺に立つと、がらにもなく愛とか時代とか移ろっていくもののことを考えたりしてしまう。そんななか、愛を巡るアジアの映画を2本みることができた。
 ひとつは2003年の韓国映画『ラブストーリー』。若い女性の現在進行中の愛と、彼女の母親の1970年前後の悲恋とが交互に語られる。朴独裁政権そしてヴェトナム戦争の時代。強圧的社会、絶対者の父、階層のちがいという背景、親友との三角関係、自殺未遂や雨のなかの逢い引きや列車での別れ、失明という悲劇もある。ヴェトナムの戦闘シーンが挿まれ、それを当事者として描く国だったことを改めて思いださせられるけれど、その戦争も独裁も、抗議のデモンストレーションも、ささいなエピソードのひとつになっていることに驚愕してしまう。30年が経ち、飛躍的な発展と変化があったということだろうか。そうして過去の悲恋が子供たちの世代の愛としてあっけらかんと成就することも、今という時代の要請なのだろうか。
 もう一本はタイの『ムアンとリット』。94年の映画だけれど、描かれた時代は1860年代。豊かな水と緑のなか、僧侶へのかない難い思い、女性が虐げられた時代の理不尽さと抵抗、その全てを超えて成就する愛の物語。
 過去が描かれるとき、往々にして現在の感じ方考え方でかつてのことをみていくから、単純な過去の批判や称讃になってしまい、愛や人の持っている深みみたいなものはなかなか浮かび上がってこない。個と個の近代の恋愛も、結婚や家族ということと同様、歴史のなかの性の制度のひとつにすぎないことも巧みに隠れてしまう。
 時代や屈折した関係のなかで、やっとの思いで手に入れたもの、そして喪ったもの。その流れのたどり着いた波打ち際に今わたしたちは佇んでいる。愛、はあるか?


文さんの映画をみた日・3

自分のことを省みて「若さは愚かさだ」などと傲慢に嘯いていたけれど、もちろんそんなことはなく、若さは、というより人は、あれこれありながらしのぎながら勁くそして穏やかに生きている。映画をみた日はそういうこともつい生真面目に思ってしまう。
 福岡市赤坂にREEL OUT(リールアウト)という定員30名の自主上映の場があり、商業施設ではみることのできない映像などの企画上映が熱心に行われていて、清水宏やブラッケージなどの特集も行われた。昨年の12月には、佐賀の映像グループ「東風」の中国正一監督が北部九州を舞台に撮った『815』の上映があり、監督の挨拶も聞けた。バンクーバー映画祭で受賞し、ロンドン映画祭や東京フィルメックスなど各地の映画祭にも出品された作品で、スクリーンから飛び散ってくる汗や唾を思わず手で払いのけようとするほどのエネルギーの噴出。馴染みのあることばや抑揚、風景にも溢れている。タイトルからも察っせられるように時代の避けがたい荒波と悲劇と、でも膂力で乗り切っていく人々とが、神話や歴史に寄せて過剰なことばや身ぶりで語られていた。
 1月には、中心を担う一人である明石アキラ氏企画の浜松の映像集団「ヴァリエテ」の特集、浜松から袴田浩之氏など映像作家たちも駆けつけた。実験映画とか自主制作とかいった社会的区分けから抜けてみていくと、当然のように世界や生の多様さが開けてくる。常套的なまでに、反抗し暴発し黙し歌い引きこもり、そうやって誰もが家族を含めた共同体との距離を測り、様々の形で自他を慈しんできたのだろう、それぞれの今のなかで。
 映画をつくる人も、それを上映する人も、そうして観る人も、誰もがその現場で表現者だろう。映像であれことばであれ、制作することだけが特権的に表現なのではなく、だからある種のスケープゴートとして矢面に立たされる<責任>もない。また受け取るものが自身を特権化すると、表現者であることを放棄し受動的なものに自分を貶めてしまい、受け取る楽しみだけを強要し消費するだけになってしまうのだろう。(REEL OUTでは2月21、22日にF.ムルナウ、R.フラハティ作品上映。連絡先:843-7864(夜間))


文さんの映画をみた日・2
流れ去る時間、残り続ける映像

 珍しく雪になり、一月二二日の旧正月は一面の雪景色の元旦。新鮮で光のみなぎる新年、街の喧噪もいつもとちがって響くなか、博多駅近くの映画館へと急ぐ。
 『テン・ミニッツ・オールダー』、すてきなタイトルだ。生まれたての赤ん坊は一〇分間で体もきっと成長しているだろうし、若者にとってはがらりと世界観が変わるのに十分な時間だ、ましてや恋愛では。成熟した世代はどうだろう。さらに賢者になり晴朗になり、確実に一〇分だけ死へ近づく、のだろうか。時間を線的で不可逆な一方向のものと確信していればそうだろう。そうしてそんなふうに平板に時間をとらえるとき、この空間も世界もかたい閉ざされたものとして現われてくるしかない。「時」は姿をみせるだろうか。
 一五人の監督による一〇分間ずつの映画、その第一部『人生のメビウス』。久しぶりのヴィクトル・エリセ監督(『ミツバチのささやき』)の名前もあってうれしい。彼の『ライフライン』ではモノクロームの画面のなかにまどろむ赤ん坊と母親の、蜜のような甘い眠りに直に触れ、引き込まれていく、背景の時代は危機に満ちているのだけれど。カウリスマキの『結婚は一〇分で決める』にはいつものカティ・オウティネンの姿がある。ジャームッシュは撮影中の女優の一〇分間の休憩をバッハを流しながら切り取り、ヘルツォークはドキュメンタリーとして、アマゾンの奥地で「発見」された「石器時代」のままだったウルイウ族の今を硬質な画面に納めていく、『失われた一万年』というタイトルの下に。ヴェンダースはお手本のような短編『トローナからの一二マイル』。広大な米国中西部を舞台に、速度のなかに恐怖、幻覚、感動、おまけに涙まであり、音楽や効果音も溢れる。
 そんなふうに七人がそれぞれの様式でつくる一〇分の映画。時計や古い写真、記憶が駆使されて時間的な奥行きが取り込もうとされ、音楽も多用されて広がりを生もうとする。でもこの長さはやっぱり難しそうだ。時間はその片鱗も見せずに、それぞれの映画をつなぐ水の流れの映像やトランペットの響きのように、掴む手の先からするりとどこかへ消え去ってしまう。蠱惑的なまでに鮮やかな印象だけがくっきりと刻まれて残る。(第二部『イデアの森』も共にシネ・リーブル博多駅で上映中)


文さんの映画を観た日 2

自分のことを省みて「若さはバカさだ」などと傲慢に嘯いていたけれど、もちろんそんなことはなく、若さは、というより人は、あれこれありながらどこまでも勁くそして穏やかに輝いている。映画を観た日はそういうことをつい生真面目に思ってしまう。
 福岡市赤坂にREEL OUT(リールアウト)という定員30名の自主上映の場があり、商業施設では観ることのできない映像などの企画上映を行っていて、  清水宏や  ブラッケージなどの特集も行われた。昨年の12月には、佐賀在住の映像グループ   の中国正一監督が北部九州を舞台に撮った『815』の上映があり、監督の挨拶も聞けた。バンクーバー映画祭・ドラゴン&タイガー賞審査員特別賞受賞、ロンドン映画祭や東京フィルメックスにも出品された作品で、スクリーンから飛び散ってくる汗や唾を思わず手で払いのけようとするほどのエネルギーの噴出。馴染みのあることばや抑揚、風景にも溢れている。タイトルからも察っせられるように歴史(時代)の避けがたい荒波と悲劇、でも膂力で乗り切っていく人々とが、神話に寄せて過剰なことばや身ぶりで語られていた。
 1月には、中心を担っている一人である明石  氏の企画になる浜松の映像集団「ヴァリエテ」の特集、浜松から袴田浩之氏など映像作家たちも駆けつけた。実験映画とか自主制作とかいった社会的区分けから抜けて観ていくと、当然のように世界や生の多様さが開けてくる。反抗し暴発し黙し歌い引きこもり、そうやって誰もが家族を含めた共同体との距離を測り、様々の形で自他を慈しんできたのだろう、それぞれの時代のなかで。それもまた切実でリアルなひとつの今である。
 映画をつくる人も、それを上映する人も、そうして観る人も、それぞれがその現場で表現者なのだ。映像であれことばであれ、制作することだけが特権的に表現なのではない(だからある種のスケープゴートとして矢面に立たされる<責任>もない)。また受け取るものが自身を特権化すると、表現者であることを放棄し、受動的なものに自分を貶めてしまい、受ける楽しみだけを強要し、消費するだけになってしまうのだろう。表現とは、今まで続いてきたこれからも続く人の営為のつながりのリレーみたいなものだろうし、どこか一部が特権化されるとき、表現の奥行きはみごとに喪われ平板で硬直した虚弱なものへと変質するしかない。

 

呼び起こされるもの、生まれるもの -- ソクーロフ『孤独な声』

 だれもがいろんな形で映画と出会い、喜びを、興味を育てていくのだろうけれど、それは途切れることなく続いていて今もわたしたちを誘い楽しませ、豊かにしてくれる。年の終わりに一年を振り返り、最も心に残った映画といったことに思いを馳せた人もいただろうか。ぼくにとってはフランスの奥まった村落と小さな学校を描いた『ぼくの好きな先生』(ニコラ・フィリベール監督)だなとひとりごちていたけれど、12月の終わりに福岡市図書館ホールで、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の『孤独な声』(1978年)を観て、その深さにもうたれた。  
 99年に奄美島尾ミホを撮った作品『ドルチェ-優しく』もあるソクーロフの20代の卒業制作作品であり、長編第1作。同じロシアの故タルコフスキー監督に捧げられていて、圧倒的なその影響下にある。繰り返し挟まれるモノクローム映像、スローモーション、鏡、流れの下で揺れる植物、火、風、それが揺らす木々、草原。でもどこまでいってもそれはソクーロフの映像そのものだ。どこか厳しさを含んだ映像には一瞬一瞬を凝視させるような力があり、その流れとふいの中断にも引きつけられ魅了される。
 戦場から戻った若者とその恋人、父親、僧侶が描かれていて、下敷きになった小説があるのだろうけれど、その内容は詳しくは語られず、時間的にも飛躍し、複雑な歴史の流れ(17年の革命後の混乱期)や宗教もからんでいて、観ているぼくらは小説的な物語の文脈からは振り落とされていく。でも最後まで映像・映画の内側に留まり続け、その暗さや激しさにもかかわらず全編に溢れる初々しさにも助けられ連れられ、愛や生の再生と復活にたどり着く、映画のなかでたどり着いた人々や、映画をつくることでたどり着いた人たちと同じように。たぶん物語を語る映像の力というのはそういうことなのだろう。
 そうしてまた不思議さはつのる。時代も民族もまったくちがい、歴史も重ねようもないほどに遠いのに、あまりにも人は人であり、やすやすとわたしたちのなかに忍び込み重なりあっていくことに。一瞬の映像が、ひとつのことばが呼び覚ますものの広さ深さ。今年もまたいくつもの喜びに出会えることを。


読売新聞社・文化部  田口淳一様

コラムの原稿送ります。
コラム自体のタイトルはいいものが思いつけません。とりあえず、「海辺の街の鑑賞記」としていますが。
内容は昨年暮れのソクーロフの映画を中心にして、映画一般について語る形になっています。いかがでしょうか?
それからデータとしてメールで送ることもできますし、今後の連絡もあるので、メールアドレスを教えていただけると助かります。こちらのは、e-mail:fumiferd@mta.biglobe.ne.jp です。
今週は土曜日に天神に出る予定ですが、田口さんは休みですか?
何か不都合や問題などありましたらご連絡下さい。
よろしくお願いいたします。

海辺の街の鑑賞記・1
呼び起こされるもの、生まれるもの -- ソクーロフ『孤独な声』

 いろいろな形で始まり育っていく映画への興味。それは途切れることなく続いて今も多くの人をぼくを喜ばせてくれている。年の終わりにその一年を振り返り、最も心に残った映画といったことに思いを馳せた人もいただろうか。ぼくにはやっぱり、あのフランスの奥まった村落と小さな学校を描いた『ぼくの好きな先生』(ニコラ・フィリベール監督)だと決まっていたけれど、12月の終わりに福岡市図書館ホールで、ロシアのソクーロフ監督の『孤独な声』(1978年)を見て、その深さにもうたれた。  
 99年に奄美島尾ミホを撮った作品『ドルチェ-優しく』もあるソクーロフの20代の卒業制作作品であり、長編第1作。同じロシアの故タルコフスキー監督に捧げられていて、圧倒的なその影響下にある。繰り返し挟まれるモノクローム映像、スローモーション、鏡、流れの下で揺れる植物、火、風、それが揺らす木々、草原。でもどこまでいってもそれはソクーロフの映像そのものだ。どこか厳しさを含んだ映像には一瞬一瞬を凝視させるような力があり、その流れとふいの中断にも引きつけられ魅惑される。
 戦場から戻った若者とその恋人、父親、僧侶が描かれていて、下敷きになった小説作品があるのだろうけれど、その内容は詳しくは語られず、時間的にも飛躍し、複雑な歴史の流れ(17年の革命直後の混乱期)や宗教もからんでいて、見る者は小説的な物語の脈絡からは振り落とされていく。でも最後まで映像・映画の内側に留まり続け、その暗さや激しさにもかかわらず全編に溢れる初々しさにも助けられ連れられて、愛や生の再生と復活にたどり着く、映画のなかでたどり着いた人々や、映画をつくることでたどり着いた人たちと同じように。たぶん物語を語る映像の力というのはそういうことなのだろう。
 そうしてまた不思議さはつのる。時代も民族もまったくちがい、歴史も重ねようもないほどに遠いのに、あまりにも人は人であり、やすやすとわたしたちのなかに忍び込み重なりあっていくことに。一瞬の映像が、ひとつのことばが呼び覚ますものの広さ深さ。今年もまたいくつもの喜びに出会えることを。


鉄西区王兵監督
働くこと生きること、巡り続けるように

 第一八回福岡アジア映画祭で『鉄西区』が上映された。九時間に及ぶドキュメンタリー作品だけれど、三部構成で休憩もあるから休み休みみることができる。確かにとんでもなく長い、でも人生に比べたらあっという間、そして世界そのものがずっしりと詰まっている。
 一九三〇年代から続いてきた中国東北部瀋陽鉄西区と呼ばれる工業地帯の崩壊と、その混乱のなかで働き生きる人々が、三年間に渡ってデジタルヴィデオに収められている。撮影もひとりでこなした王兵ワン・ビン)監督との関係を反映して、人々はカメラに全く動じないし、過剰な反応もない。カメラも過酷な現実にたじろがず媚びず、とにかく前へ前へと力の限り走り続ける。爆発現場へ、立ったままの食事の皿の中へ、濁った風呂のなかへも突き進む。撮ることの暴力的な威圧や侵犯、高みからの解析はない。だから世界が、正視するのが辛いほどにもあるがままに取り出される、そうしてそれは人をうつ。
 官僚主義の無策、文化革命の影響、現在吹き荒れている世界経済と直結した嵐、その下で人々はしゃべり、働き、食べてのんで、喧嘩し、唾を吐き、風呂に入り、歌い、手鼻をかみ、煙草を吸い続ける。画面に繰り返し現れる工場地域内貨物車の軌道のように、人々は同じ回路を巡り続ける、まるでそれが人生だというかのように。
 多くの工場が倒産し閉鎖し、鉛中毒さえ抱えた労働者たちは失業し、家族ごと居住区を強制的に立ち退かされる。乱雑な休憩室で繰り返される賭け事、そこかしこに暗く重い澱みがあり、それは労働者自身の皮膚にも目にも薄い皮膜として、投げやりな諦めや疲れとして貼りつき染みこんでいる。その一方でのあっけらかんとした勁さ。
 職も家もなく、線路域で不法なこともやりつつ男手ひとつで息子ふたりを育ててきた老人は「人生は厳しい、食べていくのはたいへんだ」と嘆息しつつこうつけ加える。「結婚すらできないと諦めていたのに、ふたりもの息子に恵まれたんだ」と。七日間拘置されて出てきた父の前で酔って泣きつぶれた息子を慰め背負い、凍った暗い夜道を老父はふらつきながら帰っていく。そんなふうに、そんなふうにして人は生き、死んでいく。わたしたち一人ひとりに長い長い余韻を残して、人々はスクリーンから去っていく、溶暗して映画は終わる、そうしてまた巡り始める。


アジアフォーカス福岡映画祭

この季節になると、九州や福岡でもいろんなお祭りがある。「神」に纏わる伝統的なもの、地域の交流の祭り、いろんな芸術祭やスポーツの祭り。美術や映画も例外ではなく、「アジアフォーカス福岡映画祭2004」も始まった。アジアの14ヶ国27作品と、関連企画の27本が集中して上映される。
低予算でリアルな今を感じ取れるドキュメンタリーが少ないのは意外な気もするけれど、それでもマレーシア、アミール・ムハマド監督『ビッグ・ドリアン』、今田哲史監督『熊笹の遺言』などをみることができた。
『ビッグドリアン』は1987年にクアラルンプールで起こった、軍人によるライフル乱射事件を現在から語ってもらうという構成になっている。この事件は、マレーシアの民族や宗教の複雑さを反映し、極端に政治的な色合いを帯びさせられ、都市での異様だけれど、でも突発的な個人的な事件でなくなり、国家による統制へと繋がるきっかけにもなった。アジアの現状が語られるとき、必ず出てくるのが、植民地化されたことの影響だ。圧倒的なヨーロッパ文明の侵入の中で翻弄され、国家自体が存立できなくなる、植民地にされていく歴史は、ほとんど全てと言っていいほどのことがらに大きな影響を与えているのだろう。アジアの日本以外の大半の国ではオペラ『蝶々夫人』が嫌われているということすら知らずに育つわたしたちの日常とは大きく隔たっている。
ドキュメンタリーという概念も変化していること、さらに歴史的事件を語るときの「事実性」やマレーシアでは全てが曖昧にされてしまうといったことも含みつつ、映画は  インタビューのなかにプロの俳優による演技も紛れ込ませてることで、自身の映像への距離を取ろうともしている。現在、政府や議会政治、司法も曖昧であり、それを語る人々のことばも曖昧であり、その全体を捉えよう向き合う映像も曖昧にならざるを得ないことが
徹底しないから曖昧というのでなく、そもそもそういう在り方なのだと、そこから始めるべきなのだと


『誰もしらない』是枝裕和監督


存るのにみえない  
 光り溢れる柔らかい空気をとおしてきりとられる街、子どもたち。距離がとられ穏やかに描かれているので、子どもたちの気持のぶれや深さも静かに伝わってくる。
 過去に実際に起こり、今もどこかで起こっているだろうできごと。母親に遺棄された、たぶん戸籍もないだろう4人の子どもたちの、かろうじて続けられる生活。比較する軸がないから、彼らのなかでは貧しさや不自由さ、不潔さすら相対化される。電気も水道も止められての、公園での水浴びや洗濯は楽しげにさえ見える。子どもの脆さと勁さが重なりあう。
 家族が夫婦を基盤とした次世代育成のための共同体でもある、という考えやあり方からは嫌でもずれてしまう現在、どういう生活の形が可能なのかにも思いがいく。扶養してくれる親がなく、社会的な存在証明の戸籍や近隣の認知もなく、次世代としての役割分担を学ぶ(強いられる)学校や教育にも関わらす、でもほんとにいっしょにいたい人たちと離れずに生きていく方法を子どもの場から必死に探す物語でもある。
 公としての「社会性」からは抹殺され(それは一面では自由ということ)、ある閉じられた関係のなかでだけ生存できるあり方、例えば、無国籍、無戸籍を選択したとしたら、わたしたちはそういう世界に放りだされるのだろうか。その時、「存る」とか「生きている」といった生の意味はどうみえてくるのだろう。
 「学校に行きたい」が象徴的なことばとして何度か繰り返される。学校があがくほどにも求められるもの、ここより他の憧れの場所として語られる。そうしてその学校が苦痛でしかない、抗うことすらも諦めた少女とのせつなくアイロニカルな出会いもある。
 侵入してくる外部、自壊し始める内部、そういうきわどさのなかを、彼らは、映画は、結論を急がずゆっくりと歩いていく。たどり着ける先はあるのだろうか。(福岡市、「シネ・リーブル博多駅」などで上映中)

 

 小説や歌謡曲、それにもちろん映画でも若者や若さが頻繁に主題になるし、直截に青春といったことばさえでてくる。先日、知られざる名作     で、「姿三四郎」が上映された。監督は若干  歳の黒澤明、彼の処女作でもある。明治という若き時代の若者の物語。三四郎の取り組むのはもちろん柔道、それもまた始まったばかりの若き柔術だ。三四郎は九州の出身らしい設定で、和尚や他の出演者も九州のことばやイントネーションが頻発し、すぐにそうと聞き取れる自分が、なんか得をしている気になったりもする。
 若いということはどういうことだろう。その渦中では、苦しいことばかりで、後から、あれこれ甘く懐かしく思うだけだ、という言い方もあるように、渦中にない者から、離れた場所から語られるものなのだろう。いつのまにかそのまっただ中でもがいていて、そしてふと我に返るともうとうに終わっている、といった。
状態としては、心身共の惜しげのない、放埒なまでの放出、というようなことかもしれない。三四郎も苦しむことすら特権であり、悩みすらが真っ直ぐで、世界はたちまちに晴れて澄み、何の技巧もないから微笑みは相手の(もちろん観客の)心臓を射抜き、愛はあくまで控えめな率直さに彩られ、謙譲さがけして卑屈にならず、得意さが傲慢と結びつくこともない
闊達
でも時代は193  年、急激な近代化のなかの矛盾が、世界的な帝国主義の覇権のなかでさらに増幅され、初々しさや倫理のかけらも失って利権争いに走る時代 時、夏目漱石の小説の同じ名前の青年、三四郎でさえ、近代や日本や家族や愛やで屈折したのだから、昭和の三四郎だけが、いくら体育会系とはいえ、ノーテンキではいられないだろう。
それにしてもスクリーンの上の俳優たちは若々しく凛々しく、初々しく、楚々としてでも気丈で、その後の黒沢映画の主人公たちを思わせる
「民主主義」というか「おもんばかる心」や「生真面目さ」青臭さも充満していてそれは黒沢の生涯続いた、若さなのだろう。


『自転車でいこう』 杉本信昭監督


世界の速度をすり抜け

 路地をすいすい抜けていく自転車、それを追うカメラ。このドキュメンタリーが始まると、少年のしゃべり続ける声と不思議なことばに先ず耳がいく。映像の軽快さとその自在な撮影にも興味がわく。
 自転車に乗っているのが、プーミョンと呼ばれている「自閉症」の二十歳の少年であり、李復明という名だとわかってくる。大阪生野区の福祉作業所「ちっぷり作業所」に勤め、仕事帰りに近所の「障害者」も混じる学童保育所「じゃがいもこどもの家」に寄り、あれこれもめごとを起こしつつも、愛されていることも。
 生野区にはいくつもの作業所があり、保育所があり、韓国語の教会がある。つまりそういう人たちがたくさん住んでいるということ、そういう生き方が可能だということ。そんなことを見聞きしつつ、わたしたちも考え始める。
 『「障害」とは何か』という問い、「障害」を再定義するのではなく、「障害」というものがそもそも存在するのかという根源的な問いに、わたしたちが向き合えないのは、様々な「障害」と呼ばれていることがらの「具体性」「現実」に圧倒されてしまうからだろうか。「病気」や「障害」として名づけられることで社会的な了解を受け、本人も一時的安定を得るとしても、それはあくまで隔離されることだ。
 本人自身が、名づけられることを拒み、自身の<ことば>で語り始めるしかない。それが可能かどうかは、ことばでないことばを、声にすらならない声を聴き取る力をわたしたちが持てるかどうか、取り戻すことができるかどうかにかかっているのだろう。
 それはとても難しいが、ご飯をよそえない子にやってあげるのでなく、本人にやらせようと繰り返し手伝う子のおおらかさに、すり寄るプーミョンの笑顔に応える赤ん坊の微笑みに、その可能性を信じることができる。そうでない限り、「障害者」は「知」や「身体」や「能力」の威圧の前で立ち竦まされ、そういう彼らの前で「非障害者」も立ち竦むという関係のなかに閉じられてしまい、「障害」とか「できない」とかの前提をとらえ返し、考えることができなくなる。
 撮影も自転車でだった。異様な速さで動いていく今の世界へのささやかなでもしぶとい異議申し立てでもあるだろう。(福岡市天神、シネテリエ天神で26日まで上映中。)
文化部 小林様

お手数をかけます。ファックスだと落ち着いて考えられて助かります。
問い合わせの件ですが、下記のように改めてみました。
今日は出かける予定ですので、11時半までに終われると助かります。
校了になれば、原稿をデータとしてメールで送ります。
よろしくお願いします。

安部


セクシュアリティを巡って②『ロードムービー

貫かれる愛と死
 「第13回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」で上映された唯一のアジアからの作品は、韓国の『ロードムービー』。韓国の映画には、やみくもなまでに激しく徹底していく傾向が一部にある。この映画では、「同性愛」と呼ばれていることがらに関して、それに囚われ、アイデンティティーを探り確認するといった堂々巡りでなく、愛や自分自身の思いを貫くといった直截な方向で突き進む。性別としてではなく、誰かが誰かを愛するというだけだ、といった単純な勁さ。
 元登山家のデシクは家族と離れソウルでホームレスになっている。株の暴落で失敗したブローカーのソグォンは妻からも見放され、自死を試みてデシクに助けられる。新しい場所をめざしてふたりはソウルを出、途中で出会った若い女性、イルジュとともに南へ向かう。デシクからの愛を否定し拒絶するソグォン、セシクを求めるイルジュ、絡み合った関係のなか、たどり着いた街で再生をかけてデシクは肉体労働を続ける。
 経済の激変、都市の変質、ネット網やバーチャルな取引といった実体を持たないものが席巻していく社会での愚直な身体の没落といったことも重なる。自身の気持ちに忠実であろうとして息子も妻も捨てた男、デシクの頑なな一途さは、そういう不器用な生しか選べないということでもある。
 性行為の描写がずいぶんと激しく、彫刻的な硬さや強さで劇化されているのは、男性性への傾きや美学だけでなく、過剰すぎる思いと、ぎりぎりと絞られた緊張の比喩だろう。永遠、つまり死の形象化。だから物語はひたすら破局へと突き進む、まるでそれが目的であるかのように。悲劇や悲恋が官能的でもあるのは、その皮膜の下に、いつも不可能性(その究極の死)をぴったりと貼りつけているからだろう。
 幾人もが死んでいき、そうして最後に、酷いことばを残して去ったソグォンを思いつつ、デシクが死をけっして石切場の発破作業のなかに入っていく。もちろんそこで映画は終わらず、彼は死なず、引き返してきたソグォンの裸の腕のなかで息絶える。
 HIV感染症エイズ)が、治療が進んで「死の病」でなくなったとたんに芸術のテーマから振り落とされ、純愛が不可能性のメタファーとしてもまた現れてくる。けれどもそ
セクシュアリティについて ①
「オール・アバウト・マイ・ファーザー」エーヴェン・ベーネスター監督

 「第十三回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」が開催され、公募で選ばれた三作品を含む国内外の二十九作品が上映された。唯一のドキュメンタリーである『オール・アバウト・マイ・ファーザー』はノルウェーの小さな町に住む医者でトランス・ヴェスタイト(異性装)の父親を息子がインタビューしたもの。性同一性障害等と名づけられている、自己の性別に強い違和を持ち、他の性別に変わりたいという欲求を抱えている人たちの、家族や社会との軋轢は大きい。
 八歳の頃から始まった異性装への興味、結婚、ふたりの子供、異性装を否定する妻との離婚、理解してくれた現在の妻との再婚などを振り返り、「女性」でありたいと願う自分を分析し、社会的な意味での女性といったことも丁寧に考え、カメラの前でも異性装する父親。その説明に頷きつつも、どうしても家族として見てしまう息子は、「女性であり、お前の父親だ」ということばに動揺し、感情的には受け入れられない。父親は自分の内の欲求を冷静に認め、対社会的にもカミングアウトし、偏見と闘い、本を書き、積極的に行動しており、整然とした論旨は真摯だけれど、どこかで空回りし始める。たぶんそれは、現在の社会で流通している「性別」を大前提とした性に関する見方に則り、今ある家族という形を前提にして考えるかぎり行き着いてしまう地点なのだろう。彼に変わりたいというほど激しい違和を起こさせる、「性別」という発想そのものを変えない限り、「男性」「女性」という閉じられた二元論の間を揺れ続けるしかなくなる。
 何かを「非正常」と規定し、異性装や同性愛、性同一性障害と名づけて隔離する現在の社会の考え方は、異性愛を「本質」であると規定しての発想であり、その根本には雌雄(男性-女性)という性別概念が、生物学的な本質として置かれている。そうである以上、概念そのものを問わない限り、性にまつわることがらは開かれていかない。どんなに非現実的な観念論に響くとしても、「性別」というものが絶対的なものではなく、ある時代の、限定された地域(地球規模に見えるとしても)で流通している、共同体として選ばれた観念、見方であると考えてみることから、改めて始めるしかないのだろう。
 インタビューの最後に父親は、それまでの冷静さや強さを放棄するように、「いつ死ぬかわからないけれど、自分が父親を覚えているように、お前にずっと父親として記憶されたい」と涙ぐむ。ユーモアも交えた父親のことばやふるまいに笑わされつつも、息を殺すようにしてじっとみてきたわたしたちも、そこで立ち止まるしかない。残念で寂しくもあるけれど、それが現在であり、今の限界なのだろう。 
んなことと遠いところで、人や愛はどこかへ突き抜けていこうとあがいている。


東京国際レズビアン&ゲイ映画祭運営委員会 様

映画祭、たいへん興味深く、期待しております。
現在、フリーで新聞などに書いている者ですが、読売新聞夕刊(西部版)の映画評コラム(「文さんの映画をみた日」というタイトル)にこの映画祭のことを何度かに渡って書こうと予定にしています。
つきましては、少しお聞きしたいことがあります。
・問い合わせや、写真を借りるお願い(データがベストですが)なども、上記委員会でいいのでしょうか?
・プレスパスなどの発行はあるのでしょうか?
・プレスリリースなどが、パンフの他にあるのでしょうか?

今後もあれこれお聞きするかと思いますが、よろしくお願いします。

安部文範
811-3304 福岡県宗像郡津屋崎町1023-1
phone & fax:0940-52-4608
e-mail:fumiferd@mta.biglobe.ne.jp

追伸:以前のコラムを参考までに添付しておきます。


名画座゙ とよばれた場所があった


 以前は名画座と呼ばれる映画館が大きめの街には必ずあった。福岡にも中洲の東宝会館、天神のセンターシネマ、  天神映劇  、博多駅のステーションシネマなどなど。封切り(ロードショー)の後、期間をおいての再上映(二番館)や古今の名画を取り上げる場所だった。もちろん安かったし、入れ替えなんかないから何度でもみることができた。情報誌が出てくる前は誰もが新聞で探しては出かけていたのだろう。
 貧乏性のせいだろうか、そういう場所でみると落ち着く。美術業界には「目垢が着く」というようなすごい言い方があるけれど、映画はより多くの食い入るような視線に曝されることでいっそう豊になっていくんじゃないだろうか。複数の人に同時に共有される表現であり、そういうことを受け入れる力のある場なのだろう。時間が余ったからなんとなく映画でもみようか、という人もいる気配がして懐かしい。そういう時間のつぶし方は今はなかなか思いつけない。古典を勉強しようという若者や、見逃した映画を確実に押さえておこうというようなマニアックな真摯さもいいけれど。
 過ぎた日々やかつての時代が瞬時に蘇るのにも映画は力がある。生理と重なるくらいのかなり深い部分に、映像と音が焼きつき、それが時間のなかで発酵し変形し、その時受けた強い印象が、その人にぴったりとあう形として保存されるのだろう。新しい芸術の形式には新しい果実が惜しげもなく盛られ、その実を食べ尽くすのもまた若く柔らかい感受性だった。往年の心ときめかした俳優に、心ざわつかせた任侠映画に、人は今また同じように感応してしまう。
 福岡市総合図書館ホールでは多様な日本映画の上映も多く、3月の勝新太郎映画祭の『悪名』(田中徳三監督、1961年)や『座頭市物語』(三隅研次監督、1962年)などでは珍しく座席が埋まった。都心から離れた場所だし、馴染みがないし、初めて訪れた人も多かったのだろう。映画が始まってからも厚いドアをバンと開けて入ってくる人をみていると、そうだった、映画はそんなふうにみられ、愛されていたんだと、キャラメルの味も甘苦く舌に蘇ってくる。


白いカラス

 現代の、そしてアメリカ合衆国の様々な問題が取り込まれている。人種・民族、肌の色、性的虐待、D.V.、ヴェトナム戦争後遺症、ポリティカル・コレクトネス、差別発言糾弾、そして当然のこととして家族、結婚、仕事、誇り、愛、性などなどの問題。
 人種差別発言問題で退職に追い込まれた老教授と彼の若い恋人、それを端で見ている作家との関係を軸に映画は進む。教授の抱える人種に関する秘密、恋人の混乱した過去がだんだん明らかになり、ふたりの親密さは増し、それに伴って精神的に壊れた彼女の前夫がからんできて危機は増していく。愛、そして悲劇。フィリップ・ロスの小説が原作だけれど、辛辣さやユーモアは影を潜めている。
 差別とそれ故の矜持を生む「人種」とか「肌の色」という概念の曖昧さは映画のなかでも少しは見えてくるけれど、それが人や社会を縛っている計りがたい強さもまた浮き上がってくる。
 歴史的に、ある中心になる側(例えば「白人」)を成立させるために、別の中心でない周辺的な側(「黒人」など)が創りだされてきた。「異常」という概念を創りだすことで初めて「正常」という概念が成立し存在し始めるように。こういった、差別や偏見を伴う概念は、創りだす側の特権に関わっているから、一方の側はマイナーで負のイメージとして生みだされることになる。人種という考え方(区分け)を創りだすことで、優れた側としてその優位性の下に一方の隷属化を推し進める(植民化とか、社会内での隔離として)。そのために肌の色という概念も創られ持ち込まれるから、そこには優位の色とそうでない色とが生みだされることになる。そもそも色ということ自体も普遍的なものとしてあるのではなく、それぞれの時代や社会で全くちがうものとして現れてくるものだろう。そうしてこの映画のなかで顕著になるけれど、どこからが黒い肌の色でどこからが白いか境界線を引くことは不可能だ。
 人種という概念にも重なる、「血」ということでも同じだろう。五十、一%ならA種であり、それ以下なら非A種であるというような区分けは滑稽なだけでなく意味すらなさない。辿っていけば全ては繋がりあうし、ただ無限の中間部分だけがあるだけだ。でもこの社会では、当事者本人もまわりの人々も、つまりわたしたち自身もそういう考え方に身動きできないほど絡め取られ、囚われてしまっている。
福岡市天神のソラリアプラザで上映中。

 

人生はそんなにも苦難に満ちているのか、それともそんな生やさしいものでないもっと困難なものなのだろうか。


 悲劇へと真っ逆様に落ちていくある揺るがせない絶対的な前提の道具立てとしても使われる

人種も、優位性を創りだそうとするサイドの意図に基づいて、優れていない人種を生みだ

どうしようもなく囚われてしまう人々と。

 


 常設の自主上映施設だったREEL OUT(リールアウト)がその最後に上映したのは、今いちばん上映場所を持てないでいる日本映画、しかもドキュメンタリーだった。大阪の知的障害者、李復明(リ・ブーミョン)さんを撮った『自転車で行こう』が福岡市天神のシネテリエで7月に公開されることになった杉本信昭監督の『蝶が飛ぶ・森』一九八七年と『蜃気楼劇場』一九九二年。
蜃気楼劇場』は「維新派」という大阪の演劇集団が東京で行った「ジャンジャンオペラ-少年街-」の公演記録という形をとっている。旧国鉄の汐留跡地、二〇〇〇平米もの敷地に高さ25メートルを超す巨大な舞台を出現させ、公演し、そして解体し終えるまでを、主に建築スタッフに添いながら撮っている。
六〇年代半ばに形を取り始めた新しい演劇の形は、四〇年経って様々な変奏を生みつつも、テント公演、仮設野外劇場という、膨大なエネルギーを必要とする形式を手放さずにいる。既成の予定調和空間を出て、仮設の一回性に賭ける、時代や空気を丸ごと抱え込む

東京に空き地を借り、そこに二ヶ月住み込んでセットや装置(ほとんで街そのもの)をつくりあげ、上演会場に運んで、コンクリート基礎を敷きつつ組み上げていく、二〇数メートルも及ぶセット。過酷な条件のなか、ほとんど職人的な作業を進めつつ彼らはてきぱきと楽しげに進めていく。
今ここといった現場性を手放さないことが


映画美学校in福岡
飯岡幸子『ヒノサト』他

 映画美学校出身者のドキュメンタリー作品の特集が、REEL OUT(リールアウト)で行われた。宗像市出身の飯岡幸子を含む六作品で、参考上映という形で是枝裕和監督の『彼のいない八月が』も上映。
 最近の若い作家のドキュメンタリーの多くと同じように、ここでも家族などの身近なものが対象に選ばれている。カメラを向けやすいというだけでなく、自分にとってリアルでありきちんと感じ取れる場でもあるからだろう。そうしてそこから入っていって、今という時代を掴みたい、世界を理解したいという切実な思いに貫かれている。
 『ヒノサト』は、画家であり教師であった祖父の作品が残されている場所を巡りながら、彼の暮らした町、見ていただろう山や田園を撮しとっていく。差し挟まれる日記の断片がその人と時代も浮き上がらせる。静止した絵画的な構図のなかにおさまる風景、でもそこを今を生きる人が横切っていき、光は差し込んでくる。親密さに満ち、緑の樹々なかを吹き抜ける風が皮膚に感じられるほどなのは、祖父の残したタブローのなかにいた少女もまたその風と光を抜けて今に至っていることが重なっているからだろう。
 長谷川多実『ふつうの家』は解放運動に邁進してきた両親、特に父親との、カメラをとおしてのシビアで愛情溢れる対話になっている。あまりにも違う時代や環境を生きてきた親子は、時には涙でことばにつまりながら、とまどい打ちひしがれながらも父と娘として会話を続ける。フツーなんてどこにもないこともみえてくる。
 「新しい教科書を作る会」会員の父親とのやりとりをコミカルに辛辣に描いた清水浩之の『GO!GO!fanta-G』も家族の窓を通して広がっていこうとする。
 積極的な自主上映活動を続けてきたREEL OUTは、残念ながら六月十二、十三日の杉本信昭特集が最後の上映となる。 


ドキュメンタリーの現在--ありふれたことがらのなかから

 先日の福岡市総合図書館ホールでのイメージフォーラム・フェスティバルの上映作品にも含まれていたし、映像教育機関の卒業制作などでもドキュメンタリー映像をみる機会は多く、その生々しいまでの力に引きつけられるけれど、いったどこからその力は生まれてくるのだろうか。これまでの、社会の現実を見据える、真実をニュートラルな視点で切り取る記録映画といったものとはかなりちがっている。
 ヴィデオやDVDの機材が簡単に手にはいるようになって、映像による表現のすそ野は急速に広がっている。フィルム映像と比較にならない低予算で、多様な試みができる。手軽だから自在に扱えるし、長々と撮り続けることができる、それが凝縮力を欠かせることがあるにしても。中国にもみられるように実に様々な人が、今まで考えられなかったような対象を撮り始めている。ドキュメンタリーという概念それ自体も変化していく。
 そういうなかで、自分を表現しようとする、「自分探し」とも言われた、自身のアイデンティティー確認に向かった若い表現者も少なくはなかった。『につつまれて』(河瀬直美)、『ファザーレス』(村上雅也・茂野良弥)、『アンニョンキムチ』(松江哲明)、『ふつうの家』(長谷川多実)=写真、などでも、身近な関係から出発し、肉親や出自を探り、それらを問い返す形で始められている。撮る側の甘えや怒りも含んだ激しい肉声をカメラの側から直に投げかけていくから、撮る側の存在も剥き出しになり、画面のなかに取り込まれていく。撮られている対象も、身近な場からの追求にあたふたしつつも、既成のことばでのおざなりな対応でなく、嫌でも真摯に受け止めて共に考える姿勢になっていき、驚くほど率直な表情や声が返ってくる。撮り始めた側が自分も振り回されながら、表現するという立場すら捨てて対象に迫りのしかかり抱きついていく、そんな噴きだすような切迫感によって掴み取られたものなのだろう。
 方法論がないとか、私的に過ぎ社会性を持たないといった批判もあるけれど、わたしたちがほんとに自分の抜き差しならないこととして感じ、持続して考え続けられることがらは限られている。そこから始めて手放さず、少しずつ進めていくしかない。
 七月二日から始まる第一八回アジア映画祭でも各国のドキュメンタリーが上映される。


偏見、差別、ことば

福岡市総合図書館ホールの「イメージフォーラム特集」、それに前回もふれたリールアウトでのドキュメンタリーでは、社会的な偏見や差別を扱ったものもある。またそれとも重なるけれど、監視台や監視カメラを使っての監視、管理ということをとおしての「権力」の発生と行使の問題もでてくる。
そういうときに、例えば「彼のいない八月が」ではエイズセクシュアリティの問題がでてくるけれど、そのことばと切り離せない
社会的な偏見や差別は、現在のわたしたちの社会が(共同体といってもいいのだろうけれど)創っているものであり、それは「歴史」的で、絶対的なようにみえても、結局はそういうあり方を生みだしているのはわたしたちの全体としての観念であって、つまりそういう考え方を全体で選んだということだろう。だから時代や地域が変われば消えてしまうし、まったくちがうものが生みだされてくるのだろう。
そういうふうに考えると、すでにわたしたちのまわりにあって、わたしたちを縛っている差別や偏見(それへの肯定否定は別として)は、その差別や偏見をさす、またはそれを現前させることばによって多くの部分は支えられているようにもみえる。民族や出自に関しては「歴史」性、セクシュアリティに関しては「生物学」的前提が絶対的な前提としてあるようにみえる。でもその「歴史」も「生物(科学)」も現在のわたしたちが選んでいる考え方の型で全てを(時間や空間も)みるなかで、常に創られ続けているものだともいえるかもしれない。そうであるならば、絶えず偏見や差別を具現化してしまう、そういうものを指し示すことばを捨てることで、偏見が再生産されることから少しでも離れることはできないだろうか。
根本的になくさなければいけないとか、表面を隠すだけだといわれ続けて、差別や偏見の事象ひとつひとつに対抗反対がなされてきたけれど、それはほんとになくすことに(つまり存在しない)ことへと繋がるものだったのだろうか。


三里塚 辺田部落』 小川紳介監督

新しい共同性へ
 ドキュメンタリー映画特集が福岡市総合図書館ホールで開催され、小川プロが撮り続けた一連の三里塚農民による成田空港建設反対闘争の映画のひとつ『三里塚 辺田部落』(一九七三年)も上映された。強制執行の後、闘争は長期化し、牧歌的な農村風景のなかに展開される非日常的なことがらの連続のなか、でも日々の農作業、西瓜の収穫、季節の催しごとや祭り、稲刈りなどは維持され、くり返される。
 激しい闘争と人々を追い続けていた映画は、ここでは村落内の会合の長い沈黙や気づかいも写し撮りながら、次第に地域の行事も含めた農村の生活そのもの、個々の人たちをみつめ始める。それは政治的なラディカリズムを映画としても担ってきた小川プロのまなざしが、温かい懐でもありまた厳しい軛でもありうる地域共同体そのものへと向けられていくことに重なっていて、後に小川プロが山形へと移り、「闘争」的でない作品を撮り始めることにもつながっていく。
 地域共同体や家族が崩壊し、<個>という概念が異様に肥大し、今や体(性)も命も個の可処分物だと言いつのるところまで来てしまったようにみえる。しかし人がバラバラの個として、他者を排しつつ生きえるわけはなく、<個>という概念も含めた近代の創りあげた考え方が大きく変わりつつあることの表れでしかないだろう。
 共同で生きていくしかない人が持ち続けてきた愛とか慈しみといったものが、今までの家族や共同体といった形としてでなく、ちがうものとして現われてこようとしている。この映画の人たちのように、わたくしたちも絶えずいろいろなことを選びとりつつ生きていくわけだけれど、その選択の幅は思っている以上にずっと自由で広く可能性に満ちていると思う。楽天的にすぎるのかもしれないけれど、フィルムに定着された人たちをみていると、この勁さや豊かさを人は生みだしてきたんだ、今もその力はどこかに保たれているはずだと思える。・・・・・・・・・・・・・・他にも『不知火海』、『旅するパオジャンフー』、『老いて生きるために』等を上映。


スーパーサイズ・ミー

巨悪に立ち向かう正義の騎士たち
 マイケル・ムーアジョージ・ブッシュを攻撃するように、この映画の監督モーガン・スパーロックはファーストフードの巨大カンパニー、マクドナルドに立ち向かう。彼らは命を賭け、体を張って、データや数字、インタビューや記録映像を駆使して闘い続ける。そういう率直で強い対抗が存在することが、アメリカ合衆国の健全さを示すとも言われてきたが、ついてまわるこの違和感はなんだろうか。
 肥満の原因としてマクドナルドを提訴して棄却された少女たちへの裁判所の文書内にある、食べ続けることの影響は証明されていないという部分に刺激され、監督は三十日間、毎日三食、マクドナルドで買えるものだけを食べ続ける実験を始める、実験台は彼自身。過食、極端な肥満、食べ物への敬意や愛を全く失った現代が剥き出しになる。
 三人の医者の監視の下、一日五〇〇〇カロリーにもなる高脂肪食によって、体重の急増、肝臓の異常、コレステロール値の高騰、精神的不安定などが起こるなか、果敢に挑戦し続ける監督。医師や教授、社会活動家による否定的インタビューが挿まれ、学校や給食にも進出して、子どもたちに圧倒的な影響を与えているファーストフードや甘い清涼ドリンクなどの巨大食品会社が攻撃される。
 音楽をつけ、ユーモアと真摯さを交互に繰り返して刺激し飽きさせない構成をとり、わかりやすい批判や攻撃、専門家による統計数値を使った解説、普通の人々の本音、無垢で無知な子どもたちなどが、編集によってひとつながりに効率よくまとめられていく。しかしその向こうにある生活、望ましい食事や栄養、ましてや良質のタンパク質や新鮮な野菜なんて考慮もできない貧しさや環境、テレビも含めた圧倒的なメディアの影響に曝された自立できようもない生活は取り出されない。
 巨悪に対抗し、抗議の声を上げ力を組織して攻撃し闘い続けることが、社会をよくしていくという信念が常に底にあり、それは正しくみえるし、それ以外の方法を誰も即答できない。しかし、緻密に分析し数値を掲げ効率よく、<正義>を掲げ、強さで押しとおそうとする発想そのものは、彼らが対抗している相手と全く同じであり、そういった考え方が米国や世界を今のような場所に連れてきたのではないだろうか。現在の在り方をほんとに考え直すのなら、わたくしたちは血肉化してしまっているそういった発想の型そのものを徹底して問い返し、そこから抜け出ていくおぼつかない闘いを、方向すら見えないまま自分ひとりで始めるしかない。福岡市、シネテリエ天神で上映中。


ベルリン・フィルと子どもたち

弱さへと集中する世界の歪み
 二〇〇三年に行われた、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による、音楽と二百人を超す子どもたちのダンスからなる教育プロジェクトのドキュメント。芸術監督サイモン・ラトル指揮によるストラヴィンスキーのバレー音楽『春の祭典』のリハーサルや、共演した8才から20才くらいまでの約240人もの年少者によるダンスの練習風景が続き、間にそれに関わった人々への長いインタビューが挿まれている。緊迫感やおかしみもある生き生きとした練習過程そのものや、成功した公演の力強さも刺激的だが、そこに浮きあがって見えてくるのは、この困難な時代をやっとの思いで生き延びていく子どもたちの、そしてそれをとりまく大人たちのささやかな、でも諦めることのない物語でもある。
 内戦で両親も親族もなくしアルジェリアから奨学金を頼りにひとりでドイツに来た聡明で孤独な少年、シニカルなことばやふざけた態度で自分をガードしつつ、すがるような目でまっすぐに見つめる少女、貧しく複雑な家庭に育ち今も劣悪な環境に放り込まれ、心身共に問題を抱え込んでいる子どもたち、なんとかしてそういった子どもたちの側に立とうとする教師、大人たち。映画のなかでも、誰もが傷ついたり挫折したりしながらも諦めずに何かを求め、でも多くは望まず、ささやかな自分と世界の幸せを夢想している。
 いつの社会でも最も脆い部分に重圧がかかっていく。世界の悪意や憎悪が柔らかい部分に向けられるというだけでなく、人々の無意識の圧力も、世界の構造の仕組みとしてどうしても弱い環へと集中してしまうからだろう。これまでもそういう在り方だったけれど、全体でバランスをとる力を内に持ち得てきた。今、多様な役割を持つはずの<弱さ>や<異質さ>が全くの負の要素として否定され、隔離・排除され、社会の構造それ自体が悪意に拮抗してバランスを取れないまでに歪んでしまっている。そういうなかで生きていかなければならない子どもたちのつらさだけでなく、その他の障害者、貧困層、女性、マイノリティ等々の難しい状況にある人々にも思いはつながっていく。

 


戦争反対では戦争はなくならない。それは無力だから、ことばでは何もできないからという意味では全くない。戦争をなくす戦争ということが、主観的な思いこみや欺瞞でしかないことを言いつのるのでもない。
現在戦争と呼ばれているものを考えようとする時、それを戦争そのものをすでに<在る>もの、<概念>として発想し始める限り、それは戦争を行うのと同じ発想の型のなかに入ってしまい、その範疇で出発し終わる
まったくちがう発想、観点はでてこない
同じ顔をしている


新たな映画との出会い2005

生きることを見つめて
 二〇〇四年は実験映像などの上映会場REEL OUT(残念ながら活動停止)でみた映画から始まり、『珈琲時光』、『息子のまなざし』などの作品と出会うことができたが、なんといっても、九時間のドキュメンタリー『鉄西区』(王兵監督)は圧倒的だった。中国の現在と人々が、きっちりとした細部とがっちりした全体として描き抜かれていて、小さなデジタルビデオカメラ一個で、世界が丸ごと掴めるのだと教えられた。
 映画学校の卒業制作や「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」等のフェスティバルでのドキュメンタリー作品の力にも惹きつけられた。家族や地域へのささやかな視点から出発することだけが、<弱さ>とか狭さこそが、世界を掴むための唯一の可能性ではないかとさえ思わせられた。わたしたちが持ってしまっている、よりよくしなければという発想や向上心そのものが、世界をこんなふうにしてしまったのではないか、<善>や<正しさ>の追求でなく、先ずそういった概念それ自体を問い直すことから始めなければならないのではないか。
 DVDなどでみたものも多く、アニエス・ヴァルダ監督『落穂拾い』(二〇〇〇年)もそのひとつ。フランスでの、田園の落ち穂拾いから、都市で生ゴミも含めた捨てられたものを拾い食べる人までが撮られ、人の勁さ・弱さ、頑なさ・柔軟さ、そしておかしさや哀しさが重層的に見えてくる。
 年の最後にみたのは、布団の打直し、下駄の鼻緒といった日常生活の描写に満ちた小津安二郎の『麦秋』(一九五一年)。『東京物語』と対をなしていて、バラバラになっていく家族を都市部の息子夫婦世代の視点から描いている。戦後六年、帰還しない息子・兄を慕う母と妹はラジオの帰国者情報゛尋ね人の時間゛をかすかな期待でまだ聞いている。
 戦争というものがその過酷で悲惨な現場だけでなく、何世代にもわたる深い傷を与えることも、もっと真摯に考えられるべきだろう。戦争や闘い、競うといったことそのものをもっとリアルに感じ考え、生きることを、人を、改めて丁寧に見つめ直すことから始め、そうしてその地点に繰り返し立ち戻らなければならないことを、映画も静かなことばで語り続けている。


東京物語小津安二郎監督


ありふれて深い生のかたち
 今年も暮れようとしている。人為的な区切りだけれど、人々の培ってきたこういう知恵に救われることもある。年を忘れるという形で、抱えていくにはあまりにも難しい辛いことがらを、力を再び取り戻せるまで、去年へとそっと押しやり折り畳み、巡ってくる新しい年へと思いを馳せる。二〇〇四年の師走、小津安二郎の常に新しい「旧い物語」のひとつ『東京物語』(一九五三年)が上映された。
 戦争が終わって8年、帰還しない息子を、夫を、思い続ける母と妻。それは強引に死者を忘れ今を生きることで突き進む戦後という時代への哀しみとささやかな抵抗でもあるのだろう。過酷な戦争のなか、生と死の分水嶺はどこにあったのか、今ここにいる自分と、喪われてしまった人とを分かつものはなんだったのか。そういう問いを繰り返しつつ、生き延びた自分が負わなければならない死者への責務を誰もがまだ考えようとした時。
 自分にとってもっとも切実であり、より明確に感じ考えられることだけを、愚直なまでに真摯に掴み描き続けた小津の、新しい時代への決意と諦めが正面からはっきりと語られた映画だろう。老夫婦が訪ねる、東京で「成功」した子どもたち、そこでの齟齬や寂しさ、喜び。帰郷直後に老妻は亡くなり、葬儀でもう一度家族は顔を会わせる。生きていくのはたいへんだから、丁寧に時間をかけてつながりをつくりあげることはしたくてもできないんだと、そそくさと席を立つ人々。穏やかな尾道の港の風景から始まった映画は、静かな光り溢れる港の情景で終わる。
 もう半世紀以上も前の映画であり、実に綿密に描かれている生活の細部のなか、例えば水枕や氷嚢とかのように消えていったものも多いけれど、でも生そのものは全く同じままにしか見えない。古き良き時代とか、自然への回帰といったことでなく、人の営みがありふれていてそしてかけがえのないこと、あたりまえでそうして恐いほど深いことが、平板なことばでさらさらと語られていて、呆然とさせられてしまう。


フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元国防長官の告白』

ことばの無力
 自分がいちばん強いとか、いちばん賢いとか、誰よりも成功しているとか思うことに、痺れるほどの快感を感じる人が確かにいる。そういった価値観は時代や状況、つまり考え方や見方によってまるで変わるものだという相対的な冷静な視点を持たないと、例えば国家予算に関わる人間が自分が国家をつくっていると錯覚してしまう滑稽さに落ち込んでいく。巨大であればあるほど、それを動かしている自分という思いこみも巨大化する。わたしたち誰もが、そういった思いこみに巻きこまれてもいる。
 アメリカ合衆国は異様に見えるけれど、今の世界を貫いている考え方のひとつの凝縮された形であり、現在の世界のシステムの原形となってしまっている。誰もがそこからうまく抜け出せなく感じてしまうのは、その強引なシステムの強制に抗うことの困難を思い、効率性や即効性の魔力に引きずられるからだろう。そういったこともまた相対的なこと、しかもかなり短いタームのことだと思いつつも、眼前に瞬く間に広がる富や力の進行に同調し取り込まれてしまう。とり残されることの不利益だけでなく、もっと根源的な、ひとりになる恐怖が人を駆り立てる、どこまでも際限なく。
 『フォッグ・オブ・・・』はケネディ、ジョンソン大統領の下、ヴェトナム戦争時の国防長官だった、ロバート・マクナマラへのインタビューを中心に構成されたドキュメンタリー映画。嫌になるぐらいあくの強い人間ばかりでてくるのに、社会的役割(役職)を剥ぎ取った後の顔が漠としていて、どこにも個としての、誰かが誰かに向かって発するほんとに切実な、生のなかで掴まれた唯一のことばや表情がみえない。
 頻発される理性(rationality)ということばは、人が歴史のなかで培った生きる知恵のことでなく、システムのなかでいかに的確に分析判断しいかに効率的に説得、獲得するかの能力のこととしか聞こえてこない。だから、人は何度も同じ過ちを犯し、過去からすらけして学ばない、人の本質は変えられない、好戦的で常軌も逸脱してしまう、戦争がなくなると信じるほどわたしはナイーブではない、といったことばも、何かの引用みたいにしか響かず、長い時と苦悩、諦念が生んだ、かろうじて個から個へとだけ届く声には聞こえない。


らくだの涙


平原を渡る風 喪われていくもの
 モンゴルが描かれた映画としては、広大な平原、ゆっくりと移っていく太陽、その下をひとり機材と共にらくだで巡回する、映画と観客を愛する移動上映技師を撮った『ゴビを渡るフィルム』が思い起こされる。
 今回の『らくだの涙』は平原でらくだを飼い羊を育て、パオに4世代で暮らす家族が中心になっている。あたたかで強いつながり、平原での厳しい生活が生む生気に満ちた表情。薪を集める曾お祖父さんがらくだにまつわる神話をひとつ語って映画は始まる。できごとをそのまま記録したフィルムと、本人たちに再度演技してもらったフィルムとで編集してある。
 かけがえのないものとしてどんなに残念に思っても、過ぎて去ってしまうしかない、永遠に懐かしいおとぎ話にも見えてしまう世界だけれど、そこにある動物やミルク、子どもの匂い、毛皮の感触、砂、日々の暮らしの細部、そうしてその重なりがつくりだす時間の厚みはくっきりと写しとられている。
 その年の最後に生まれたのは白いらくだで、難産だった母らくだは子どもを疎み、乳も与えなくなる。時として起こるらしいそのできごとに、一家は音楽による治療で対処しようとする。街までらくだを駆って馬頭琴の先生を呼びに行くのは子どもたち。無口でしっかりした兄、やんちゃで歌も歌う弟、まるで童話の世界そのままに。
 そこにも「新しい」時代の荒波は押し寄せ、牧歌的なきずなは消えつつある。最後に、弟に一家全員が押し切られたのだろう、とうとうテレビがパオにやってくる。体ほども大きなアンテナを調節している兄に、なかから「きれいに写ったよ」と弟が叫ぶシーンで映画は終わる。どうなるのだろう。喪われたら二度と手に入らないだろう、過不足のない完結したある生の形は消える。そうして「グローバル」に蔓延し続ける、人をけして満足させない飢渇感やさっと取り替えのきく表情、つまり無表情に、全てはたちまちに覆われていく、のだろうか。わたしたちはもう映らなくなった鏡にただ問いかけるしかない、「鏡よ鏡・・・・」。

 

 

 モンゴルの映画というと、乾いて広大な平原、ゆっくりと移っていく太陽、その下でたったひとりで機材も全て抱え、バイクで移動映画の巡回にまわる、映画を愛し映画を愛する人を愛する、上映技師を撮った『ゴビの砂漠』が思い起こされる。
 その時の乾いた空気、人なつっこい人々の表情は今回の『らくだの涙』にも溢れている。平原でらくだを飼い羊を育て、パオに4世代で暮らす家族。あたたかで強い家族のつながり、労働、長い長い平原での単直で厳しい生活が生む、穏やかで生気に満ちた表情。
 書き割りの舞台装置の前でおどけたしぐさで始められる芝居のように、曾お祖父さんがらくだにまつわる神話をひとつ語って映画は始まる。今までのドキュメンタリーとはちがやり方でつくられていて、実際に起こったことを記録したフィルムと、本人たちに再度演技してもらったフィルムとで編集してある。
 かけがえのないものとして、どんなに残念に思っても、もう過ぎて去ってしまうしかないこと、永遠に懐かしいおとぎ話にも見えてしまうけれど、そこにある動物やミルク、子どもの匂い、毛皮の感触、砂、日々の暮らしの細部、そうしてその連なりが創る厚い厚い時間の重なりはくっきりと写しとられている。
 その年の最後に生まれたのは白いらくだで、難産でもあり母親は、子どもを疎み、乳も与えなくなる。時として起こるらしいそのできごとに一家はらくだの治療で対処しようとする。街までらくだを駆って先生を呼びに行く子どもたち。無口で控えめな兄、やんちゃで歌も歌う弟、まるで童話の世界のままだ。街には目つきの悪い、冷たい大人もいるけれど、ふたりはぶじ用をはたし、親戚に泊まって翌日またらくだで駆け戻る。すごいなあ、そしてかわいいなあと思う。
 もちろん「新しい」時代の荒波は押し寄せ、牧歌的で平和な、あたたかいきずなは消えつつある。最後に、やんちゃな弟に押し切られたのだろう、とうとうテレビがパオにやってくる。体ほども大きなアンテナを調節している兄に、なかから「写ったよ」と弟が叫ぶシーンで映画は終わる。どうなるのだろう。喪われたら二度と手に入らないだろう過不足ない完結した表情が、つまり生が、消えることへの痛みがはしる。「グローバル」に蔓延し続ける、人をけして満足させない飢渇観やさっと取り替えのきく表情、つまり無表情に、全てはたちまちに覆われていくのだろうか。わたしたちはもう映らなくなった鏡に問いかける、「鏡よ鏡、世界でいちばん醜いのは誰れ?」。

 

 

 その年の最後に生まれたらくだは白いらくだでした。難産だった母らくだは、白い子らくだをかまおうとしなくなり、お乳もあげません。
や効率主義は  一家は乳を搾って与えたり、無理にのませたりします。腹の下に入って乳を探る子を、脚で子どもを押しのけてしまう母。みんな困ってしまいます。街まで治してくれる人を呼びに行かなくてはなりません。まだ小さな  と、少し年上のお兄さんが、らくだで駆けていきました。頼みに言った先は音楽の先生で、  の名手です。早速やってきてくれたのは、音楽の先生で  の名手です。先ず、一服。チャイをのんでから、らくだのこぶに  をかけ、風に弾かせます。それから若夫婦の奥さんが歌い、先生が弾きます。らくだをなぜながらゆっくりと歌います。らくだは落ち着き癒され、とうとう子らくだを受け入れます。喜んでぐいぐい乳を押してのむ子らくだ。酒を交わし喜ぶ一家。平原に風が抜け、陽がゆっくりと傾きます。羊の鳴き声も聞こえます。

 

 


『落穂拾い』(DVD) アニエス・ヴァルダ監督

身を屈めてつかむもの
 美術作品と図録の写真とのちがいほどではないにしても、映画とビデオやDVDもずいぶんとちがうし、映画としてつくられたものは当然にも大きなスクリーンでみられるべきだろう。でも時代や地域的な制約も小さくはないし、簡便さや繰り返しみることができるよさも捨てがたく、つい手に取ってしまう。
 ミレーの絵画『落穂拾い』から始まるこのドキュメンタリーは、畑での果実や野菜などの収穫物の摘み残し、規格外で山と捨てられた馬鈴薯、都市での家具や家電の廃棄物、さらに市場での野菜や魚肉、パンなどの食品までも拾う人たちを撮しとっていく。拾う理由や目的も様々で、生きていくためにゴミ箱を開いて拾う人、主義として、今の社会への抗議行動として拾ったものを食べて生活する人、楽しみで田園の果実を拾う人、仕事として拾って料理したり売ったりする人、海岸の養殖網から落ちた牡蠣を拾う人など多様だ。
 そうしてそういう人やできごとを丹念にカメラで拾い集める監督。彼女は老いた自分の生活や皺だらけの手のクローズアップを挟み込むことで、撮している側も映画のなかに取り込んでいく。その手に、衰退し疲弊しつつも、まだ生の勁さや喜びを抱えている今の世界の比喩を読みとる人もいるだろうか。
 カメラのぶしつけな視線にはたじろがない人たちが、でも隠しようもなくみせる、痛めつけられた者としてのつらい表情や仕草も多くを語る。この映画に、「人は狩猟動物なんだ、自分の食い扶持をそうやって手に入れているんだ」という感想を持った人もいたように、そのなかには強さや大胆さも確かにある。
 生きることはほんとにたいへんなことだけれど、でも同じくらい楽しさも喜びもある、そんなふうにもみえる。子どもの頃の「創意工夫しなさい」を思いださせられたりもする。それぞれが工夫し自助努力しつつ、大地そのものの恵み、収穫物を受けとり、都市を流動するものを拾って受け継ぎ、世界を画一化して覆い尽くすようにみえる大波に抗い弾かれ、助けあって生き延びていく、時にはほくそ笑みつつ。スクリーンに時として広がる痛々しさや怒りを覆すほどの、登場する人たちのみせるユーモアや皮肉、肯定的な姿勢や積極性、人なつっこさは、どこかで自由や希望ということばさえ思い起こさせる。だからまたみてしまう。


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サマリア

 疑うことなど思いもよらない、世界の根源的な前提条件だったはずのものがも問い返され始めた時代だからだろうか、<個>や<生>を考えさせられる映画が続いている。人はどうして死を求めたり、自分の体を売ったり傷つけたりするのだろう、といった問いが現れること自体が、すでに今までの死や体(個体)という考え方が揺らいでいることの表れなのだろう。映画のなかでは心理や性の問題として語られつつも、でもそれを超えて問いは膨らみ、そもそも生と死の境界はどこにあるのか、生(=死)とは何か、さらに個とは何かという問いがみるもののなかに広がっていく。
 スペインのアメナーバル監督の『海を飛ぶ夢』では尊厳死がテーマにあがり、韓国のキム・グンテク監督の『サマリア』では、高校生の買売春と死が描かれ、愛や性、人と人の関係、世界や生きることの意味が探られる。個と他、生と死、男性(雄)と女性(雌)などの境界が、今までの概念では捉えきれないことが浮きあがってきて、これまで世界をまとめていた、ことば=「理性的」論理による枠組みが破綻しつつある、つまりそういう考え方ではこの世界を理解できないことがはっきりしてきた、ということか。
 だから米国を中心とした、異様な個の拡大による権利の要求としての、死の自由(それは生の自由と同義だ)の追求という方向の問題とは対照的だ。そういった発想は、不十分な、未熟な生より充実の死といった、効率主義や規格主義を、自他共に求めさせることになる。障害がある生は可哀想だという代理主義や、そういう「欠陥」を認めない、完璧なものだけを求める優勢主義などに陥っていく。そうしてそれがあたかも個的な発想から出てきた、権利として抹消=消滅を要求する形にさえなっていく。


時代はそういった形で、まるで自然的な在り方のように社会的な軛を押しつけることに長けているのだから。
『海を』は実際に起こったことを題材にしていて、初めての尊厳死裁判が行われたことなども反映しており、対法律(国家)や対教会(宗教)という社会問題が前面に出てきていて、<個>や<死>そのものへの問いからは距離を取っている。
尊厳ということが、プライドや身体、脳、心の完璧でない状態を拒否する(させられる意識)をどう距離がとれるのか、考えられるのかはみえてこない。
サマリア』では少女売春そのものより、そこから派生する人と人の関係、「家族」という関係を考える方に傾いていき、過剰なまでに怒りや哀しみが爆発し続け、血と暴力が流れ、それを浄化するように水が溢れて覆っていく流れ続ける。

個が全く独立してあり、その心も体も完全に「本人」のものだと言う前提で、高校生の少女の援助交際や、尊厳死という選択がでてくるのだろうから。でも、現在わたくしたちが持っている考え方の文脈のなかでさえ、生と死の境界はあまりにも曖昧にみえる。どこからが死なのか明確な答えがないのは、脳死の論争の時にも出てきた問題だ。男性女性というのも細かく見ていくと定義は揺れ、境界は曖昧になっていくしかない。
個>というものも、身体的な個体性はおくとして、類としてみていく時、その境界は日常感じているほどにはクリアではない。

ソマリアは聖書にも出てくるあのソマリア人からとられている。
物語としての整合性や  強引なプロット  映画としての統一性みたいなものは振り捨てられている膠着しな
不思議な強い印象を残るのは何故だろう。過剰さ。
胸もひっそりしたまだ少女と呼んでもいいように見えるように映画のなかで現れるふたりの少女の強い魅力と後半の「苦悩する」父の激しさに
やり場のない怒り、どう対応していいのかわからない


ずっと水が流れ続けて、それは一方で流れ続ける血を洗い流し、人をできごとを、もしかしたら世界を浄化する願いが込められもいるのかもしれない

だからどことなく過剰で固くてでも透明な永遠性みたいな
夢のなかの風景のようなかもしれない

 

映画はときどき哀しい
2005年の映画

 今年も映画はかわらずに元気だったし、その与えてくれる喜びも尽きない。映像も(動きがなくても)、音楽も(鳴っていなくても)、ことばも(使われてなくても)、溢れている。総合芸術という意味は、どれもがあるということでなく、そのどれもの持つ力、それが表そうとするものを取り込んでいるということなのだろう。だから直接には表れなくても、それが背後にしっかりと存在しているのが伝わってくる。
 映画は具体的な人やものが出てくることが多いから印象も直接的で、でも演劇のようにその場には人はいないので、距離がとれてじっとみつめることができる(それが愛することであり奪うことでもあるのだろうか)。映画館やホールでみることが多いから、暗い空間で大勢の人と共有することで生まれ、増幅するものもある。
 単館上映館、例えば福岡市ではシネテリエ、パヴェリア、シネリーブル、KBCシネマ等での独自の選択による様々な作品の提供。アジア映画祭、アジアフォーカス福岡映画祭、イメージフォーラム・フェスティバル、PIAフィルム・フェスティバル等の映画祭やシネクラブ、実行委員会による上映。それに、フィルムの収集を行っておりアジア映画のコレクションがある福岡市総合図書館ホールの特集を中心にしたプログラム等、今年も盛況だった。
 なんといっても今年は、上映後立ち上がれないほどにも全身へズンとのしかかってきた『亀も空を飛ぶ』があったけれど、映画についてのコラム「文さんの映画をみた日」で紹介できなかったものにも強い印象を残す作品は多く、やっぱりドキュメンタリーに心惹かれる映像が多かった。また作家やテーマ別でのまとまった特集上映によっても、そ映像や作家への愛や理解は深まった。60年代のフィルムと現在の映像とで在日韓国人母を描いた『海女のリャンさん』、米国の性と家族の一断面を切り取る『ターネーション』。ギリシアの「アンゲロプロス監督特集」、生誕100年だった「清水宏監督特集」「成瀬巳喜男祭」等など。
 そんなふうに映像、ことば、音楽が重層化したものが二時間に凝縮され、緊張のなかで上映されるから、伝えられようとすることが、受けとる側の思いもかけない深みにまで届き、人を大きく揺すり、長い余韻を残していく。だから、語られる、世界の真実、みたなものに直に触れてしまうこともあって、生きることや人と人のつながりの哀しさが苦しいまでに浮きあがってくることもある。もちろん喜びや輝きに全身が包まれる時もあるけれど。

菜園便り1

 

菜園便り①
2001年6月20日

 元気ですか?
 梅雨の合間の、さわやかな晴天の後、昨日はまたとんでもない天気でした。強風と豪雨、しかも横殴りだったので、家中で雨漏りです。初めてぼくの部屋の窓際まで漏りはじめ、暗澹たる気持ちでした。文字どおりこの玉ノ井はゆっくりと傾いて崩壊しつつあります。それを為す術もなく茫然と、諦めて見ているだけです。なんとかしなきゃ、というのは外にでているときにいつも思うのですが、帰ってくると、この家の独特の雰囲気のなかでなにもかもぼんやりとしてしまいます。ひどいなあ、とつぶやくぐらいで。
 おまけに昨日は、珍しく3年ぶりに風邪で一日寝込んだ後、よくなったといって出歩いていた父が痛風をだして倒れてしまい、トイレに行くのがやっという状態で、大わらわでした。近所の医者に来てもらったり薬を取りに行ったり、食事やお茶を運んだり。その合間に、二階の雨漏りに走り回ったり、父がスリッパを履けないのでトイレの床を消毒液で掃除したり、干していた洗濯物を他に移動させたり、あれこれでした。
 今日はとにかく雨風が止んでくれてほっとしています。海側の玄関の天井が今にも落ちてきそうで、ああああああ、という気分ですが。雨漏りのたらいやなんかを片づけ、大量の雑巾を干して、トイレをまた掃除して(父は今日もまだ自由が利きません)、花の水を換えて、ご飯の片づけの後、ちょっと一息して紅茶をのんでいるところです。やっぱりちゃんと葉っぱで丁寧にいれると美味しい。友人の萩原幸枝さんにもらった紅茶は評判がいいのでお客にだすことにして、ぼくは自分の好きな単純な葉、ダージリンを濃くしてのむ。果実や花で甘く香るのは、ごくたまに部屋に香りを満たすようにしてのんでいます。
 今日、庭の父の菜園からは(今回おこった父の痛風は菜園つくりに精を出しすぎたせいじゃないかと思っていますが)、下の方から葉だけを摘んでいるレタスがどっさり(緑とサニーの二種類)、すっかり伸びた胡瓜6本、ミニトマト4個、伸び続けるルッコラ(ロケット)を30葉ほど、パセリ5,6枝、いんげん3個、イタリアン・パセリ少々、バジル5葉、大葉4枚が採れました。胡瓜は3日間も採らないととんでもなく長くなるし、レタスは茎まで伸び始めてるし、ルッコラも先端にもう花が咲き始めた。採るのや、食べるのや、配るのにあたふたしてしまいます。楽しいたいへんさ。それからピーマンもすごく大きくなっていますが、色づくまで待つことにします。大きくて重すぎて茎が傾いていて、ちょと心配ですが。緑の普通のピーマンはもう時々摘んで食べています。少し堅めで、青臭さも半端じゃありません。それぞれが野菜独自の香りと甘みをもっています。
 茄子、ゴーヤ(ニガウリ)、モロヘイヤはまだです。今年も秋にはハヤトウリが採れるといいのですが、父によると、今年はまだ蔓がでてきてないとのことです。
 父は以前からごくたまに痛風がでていたし、コレステロール値も高い(家族性)ので、肉類を控え、内臓はなし、動物性タンパク質は青魚を中心に、豆腐や野菜をたくさん、オイルは少な目で酢をどっさりの食事を心がけていたのですが、なかなか難しいですね。酒も一滴ものまない人なので、もちろんビールはないし、原因は推し量りかねます。この2、3日はほとんどピュア・ヴェジタリアン食でやっていたので、そろそろ献立も底をつきます。たっぷりの生野菜のサラダだけでなく、余田さんの教えてくれたレタスのスープとか(フレンチのレシピなのですがちょっと中国風でもあって、食事にもあいます)、オリーブオイルで炒めたトマト、ルッコラのおひたしもやってみようと考えています(これはやってみましたが、哀しいくらいちょっとの量になって、しかもあの香りも辛みもふっとんで、ルッコラでやる意味が全くありませんでした。とにかく大量に食べ尽くすだけの目的ならいいでしょうが)。
 そんなわけで、朝、昼、晩と食事をつくるのにはもう倦んでいますが、今日まではとにかくつくろう!(昼夜だけつくるのは楽しいくらいなのに、一回増えて、毎日必ず3回となると、とたんに苦痛になるのは何故だろう?とにかく朝あれこれするのは辛い。)昼は麺です。一昨日の温かい蕎麦、昨日の冷たい素麺の後、今日は冷パスタにしようかと思っています。素麺などの時は卵焼きをつくったり、胡瓜の塩もみに縮緬じゃこを混ぜて添えたりしていましたが、しばらくは野菜だけになりそうです(ぼくは動物性タンパク質をもっととります。だからメニューがふたついるのです、これも疲れる)。でもとれたての胡瓜はみずみずしくカリカリしてほんとに野菜の甘みがあっておいしいから、それだけでも十分にだいじょうぶ。
 嵐の後の静かな津屋崎の海と庭から。

 


菜園便り②

 梅雨は続いている。父の痛風も続いている。土曜日は友人の元村正信さんの小さな個展の最後の日だったし、ずっと家にいて3度3度食事をつくるのにも嫌になっていたし、父も少し歩けるようになって台所に出てこれるようになったし、それで博多に出た。
 千代町にある画廊、WALD(ヴァルト)に寄り坂井存の個展をみて、会場にいた本人と少し話し、画廊主の森さん夫妻ともしゃべってから天神の画廊、貘へ。画廊主で喫茶店の方もやっている小田さんに会う。待ち合わせた萩原幸枝さんももう来ている。元村さんのは、現在やっている仕事の流れのなかのドゥローイングの新作1点と、後はかつて創ったり、集めたり、拾ってきていつのまにか手元に残ったものなどを素っ気なく展示したもの。それは私的なものを、展示空間に持ち込むことで「作品」にしたり、その行為自体を表現にしようというのでなく、かつての自分や「作品」と呼ばれたものとの距離を考えよう、見ようとしていて、それが結果として見せることにもなるといったもの。でもそのさりげなさが上手すぎて、ほとんど今の「作品」として現前してしまいそうなところもある。それはそれで「作品」として見られてもかまわない、といった決意(=諦め)もあったりするのだろう。元村さんらしい。
 幸枝さんとは、先日ぼくが「水平塾のみんなへ」としてメンバーに渡した質問状的な手紙のことを話す。彼女は水平塾には参加してないひとだけれど、現在の水平塾の中心である原口さんとは30年来の友人であり、彼のことが主に話題となる。「部落」が共同の幻想であると語り、書いてきた原口さんの現在の在り方や、それとのぼくの対応、そういった問題への関わり方そのものについて、幸枝さんの結婚や旦那さんのことも含めた個人史やぼくの個的な問題にも及びつつ話したけれど、時間も十分でないし、結論が出ることがらでもないし、中途なままで別れる。
 そういう半端な気分だったこともあって、もう一回ヴァルトに戻り、小さなパーティに参加する。8、9人の集まりで悪い酔い方になり(いつものことか)、はしゃいで山口百恵や黛じゅんの歌を歌ったりする。もどしそうな状態でやっと最終で帰宅すると、家中にたらいなどの雨漏りの受け皿がだしてあって驚いた。翌日聞くと夜すごい雨になり、二階のたらいなどがいっぱいになってあふれ出し下に流れてきたとのことで、動かない足で父が二階にもはって上がって処理したとのことだった。それで少しよくなりかけていた痛風もまたひどくなりまたずっと寝込んでいる。
 日曜日は驚くような強い日射しになり、一気に蒸発がおこりすごい蒸し暑さ。でも雨がないこと、それに雑巾や何やかやを干せて大助かりだった。英語のレッスンも12時の千鶴子さん、14時の余田さんと二人で、その合間に昼食をつくって父に運んだりする。昼は素麺と胡瓜の塩もみ。ぼくのにはチリメンジャコをいれ、父のには梅干しのシソだけを。動物性のものはできるだけ減らす。この胡瓜は一昨日の菜園からの収穫。
 やっと菜園のこと。今日は千鶴子さんが帰るときに胡瓜を一本とレタス、それにパセリを摘んで渡したのと、午後レタスとルッコラ(ロケット)をどっさり、パセリ4枝、トマト5個(まだ赤身は薄いけれどもう割れ始めていた)を収穫。夜は近所の芹野さんの所で、余田さん持参の水牛のモッツァレラチーズを食べる集まりがあり、「菜園サラダ」と称して、採れたものだけのサラダ(レタス、ロケット、胡瓜、ピーマン、パセリ、ルッコラ、イタリアン・パセリ、トマト)と鳥の手羽料理を持っていく。残りのレタスとロケットのほとんどを余田さんにお土産に渡す。ロケットもレタスもずんずん伸びて、まだまだ摘み続けられそう。胡瓜も次のが控えているし、ピーマンもどんどんできている。茄子はまだまだで、少しおかしい。ゴーヤが全くなのはどうしてだろう。芹野さんからもらって植えたバジルがしょぼいのも、本家の繁茂状態を見ると、不思議に思える。梅雨はうっとうしいけれど、水をやらなくていいのはほんとに助かる。
 夕食は父には鯵の煮付けとサラダ、昆布のゴーヤ酢漬けとみそ汁で、ぼくは上記のモッツァレラチーズ手羽、サラダ、イカのマリネ、パエジャ、パンそれにレモンケーキとサクランボのデザート、エスプレッソ珈琲だった。ワインは辛口の白とスペインの赤を少し。歩いて帰れる距離でのあまり遅くならない、ワインもバカのみしない、いろんなもののある食事、親しい友人との会話は穏やかで落ち着けるし、冗談や軽い皮肉ももちろん言えてほんとに楽しい。 

 

 

菜園便り③
01年6月26日
 あいかわらず不安定な天候で、今日も大雨の注意報が出ていたけれど、午前中はかなり強い日射しだった。それでいさんで洗濯をしたら午後からはかげりがでてきて、今にも降りそうになった。それでもどうにかもってくれて、夕方郵便局と図書館を周り、海岸を散歩した後野菜を摘む。父はまだ痛風で寝たまま。でも少しずつ歩けるようになり食事には起き出してきている。
 今日の収穫は胡瓜3本(ずいぶん大きさにばらつきがあった)、トマト大小12個、ピーマン4個(待ちきれない色物も緑のまま摘む)、インゲン8個、レタスたくさん、ルッコラたくさん、パセリ4枝。インゲンとニガウリとトマトが絡み合っているのを少し刈り込む。後で父に聞くと、ゴーヤは高い蔓になるので目止めしない方がいいとのことで、少し心配になる。
 ルッコラはどんどん白い花が咲き始め、終わりが近い雰囲気。そのわりにはまだまだ葉がのび続けているけれど。芹野さんにレタスとルッコラをお裾分け。
 食事の準備や買い物や家事あれこれで時間が寸断されるので、書いたり考えたりがなかなかできない。図書館から借りてきた軽いもの、ミステリーとか短編集とかばかり読んでいる。かなりつめて考えないといけないこともあるのに、困ったことだ。これはでも父や家事のせいだけではないのだろう。梅雨で季節の変わり目で、心身共にだるさが続いているし。
 そういうわけで、収穫のことだけでした。

 

菜園便り④
6月30日

トマト12個、初めて黄色も6個採れた、胡瓜2本、ピーマン6個、茄子2個(まだ小さいけれど千鶴子さんの、苗が弱っているから採ったほうがいいという忠告に従う)、イタリアン・パセリ6枝、パセリ4枝、レタスたくさん、ルッコラたくさん。千鶴子さんにレッスンの帰りに胡瓜とレタス、トマトをあげる。ルッコラは苦いからいらないとのこと。好みは人によっていろいろだ。余田さんはこの菜園のは味が濃くてすごく美味しいと言っている。たしかに買ったものは形も小さな青梗菜のようでふわふわ柔らかくて、味も淡泊。芹野さんによると、去年の、余田さんがイタリアから直接もってきた種のルッコラのほうが、歯ごたえもあってもっと香りも味も強くて美味しかったとのこと。形も全然違っていて、30センチくらいの茎に6,7センチの細い葉がびっしりとついていた。今年のは東京の友人、森さんが送ってくれたもの。袋にはルッコラ(ロケット)と書いてあった。その時いっしょに送ってくれたのがイタリアン・パセリ。これは繁るというのからはほど遠いかんじ。あまりこの土にあわないのかもしれない。芹野さんにもらったバジルもうまく育たない。
余田さんのお土産のもう一つのイタリアの野菜は、ものすごく大きくなって藪のようななっている。若くて柔らかいとき(野菜らしく小さいとき)は摘んでサラダにしていたけれど、今はちょっと唖然として見ているしかない。小さな薄水色のデイジーみたいな美しい花をたくさんつける。水揚げしないので、切り花にできなくて残念。余田さんは時々もって帰って炒めたりしていたけれど、彼女ももう諦めたようだ。かなり苦みが強く、硬め。先の丸いスッと伸びた葉はなかなかいい形だけれど。ここの土地にあったのだろう、3年目ですでに庭の一角を占拠している。
ピーマンは以前摘んだインゲンといっしょにオリ-ブオイルでかために炒めて、青々とした色と味を楽しんだ。茄子は半分に割ってごま油で焼いて、昼の素麺の時に食べたけれど、やっぱりかなりかたいし、味もうすかった。他の野菜はとにかくせっせとサラダで食べている。ルッコラの味は癖になるらしく、これが入ってないとサラダらしく感じられない。パセリやバジルもとにかく混ぜてしまう。

父はずいぶんよくなってきた。食事にはもう台所に出てくるし、食欲も変わりなく旺盛。少しの魚、わずかな肉以外は、豆腐、納豆、若布そして野菜、野菜、野菜。津屋崎に窯を開いている陶芸家の岩田啓介さんが実家からもらってきてお裾分けに届けてくれた干し竹の子と椎茸の煮物、高菜の油炒め、鰯の糠漬け煮や、芹野さんが届けてくれたお父さんが獲ってこられた鯵(頭を落とし内臓も丁寧に抜いてあった)なども、そのやさしい気持ちと共においしくいただく。干し竹の子は初めて味わうもので、おいしいのにビックリした。偏見をもっては損する。
まだ天候が不安定な津屋崎海岸から。

 

菜園便り⑤
7月2日

 元気ですか?
 昨日は胡瓜1本、ピーマン3個、レタスたくさん、ルッコラたくさん、パセリ、イタリアン・パセリ少々。レッスンにみえた余田さんと、芹野さんにお裾分け。芹野さんには30日に続いてまた今日もお父さんが獲ってこられた小鯵をいただいた。塩焼き、煮付けのあと、今日はグレープシードオイルで焼く。新鮮なので生で食べれないのがもったいなく、とにかく美味しい。
 今日は胡瓜2本、トマトどっさりが採れた。胡瓜の一本は囲いのない菜園に植えてあった一本でこれがはじめて。同じ場所のレタスは茎が伸びきってもうお終い。茎をレタス・スープにしたらよさそうだ。毎食サラダで食べているけれども飽きない。
 父は昨日も入浴したし、今日は着替えて小島病院に行った。まだ本調子ではないらしく、帰ってきてまたパジャマになってホール(そう呼んでいる旅館時代の応接間、TVが置いてある)で一日寝たり起きたり過ごしていた。明日はぼくは出かけるので、このへんでひとりであれこれやり始めてくれそう。顔色がちょっとくすんでいるのが気になるけれど、本人は痛風の痛み以外は何もないと言っているし、小島先生の話もあいかわらず同じのようだ。
 昨日夜は、芹野さんへおじゃまし、いっしょにシシリアのワインをのんであれこれしゃべって楽しかったけれど、寝付かれなくてぼんやりずっと起きていたので、今日はだるくて眠くて、夕方買い物に行こうとしていて、ばたんと倒れるように寝てしまう。小一時間寝てがんがんする頭でまだ強い日射しのなかを買い物に。それでもひろびろと広がる田圃の道を行きながら、四,五日見ないだけでずんと伸びて、緑も濃くなった稲が風にさっと揺れていくのを見ていると、頭も心もすっと開けるようだった。
 今日は金曜日の夜に、ぼくのだした「水平塾のみなさんへ」という手紙のことをききたいと家へ来てくれ、一昨日もメールをくれた松井さんへ、返事を書く。送られてきた、<「他者とのかかわりは、他者との分離と同じように、われわれの存在の本質的な側面でありながら、しかもどのような特定の他者もわれわれの存在にとって不可欠な部分でないという逆説」を、「孤立者ではないし、かといって同一の身体に属する諸部分でもない」われわれの悲劇的な逆説である、とレインは語っていました。>という、レインの引用について少し、そしてちがう世代への違和感について。
 ブラッドベリの短編集を借りてきているので時々開いては読み続けている。「最後のサーカス」とか、とにかく上手くて、感傷的で、よい。永遠に戻らない至福の時、家族の絆、愛、酷薄でないだからいっそう深い孤独、そっとすくい上げてことばで微かな輪郭を描いて差し出す、そういったような。
 暑いけれどまださわやかな暑さと言える津屋崎の風のなかから。 

 

菜園便り⑥
7月5日 雨

7月3日は久しぶりに博多へ出た。父ももう歩けるし、昼は自分でパンを食べてもらって、夜の分だけ(鯵の煮物とサラダ)を用意して出かけた。散髪した後(以前天神で切ってくれていた人が友岡の理髪店に嫁いだので、そこまで通っている)、余田さんと会って博物館、画廊に。渡辺さんともずいぶん会ってないねということで、彼にも電話して会うことになり、貘で待ち合わせる。ほんとに久しぶりだったし、東京に行かれた後だったのでいろいろ聞く。3人で「満腹楼」で食事。ここのことは何度もきかされていたけれど、行ったのは初めて。すごく元気のいい中国人のオーナー・シェフがはりきって応対し、つくってくれる。おいしくて、やすい。
ちょっと紹興酒をのみすぎたので、渡辺さんの行きつけのカフェド・カッファで濃い珈琲をのんでから帰ってくる。いろいろ昔の話がでて、川奈ホテルまででてくる、懐かしい。「死ぬ前にもう一回だけ行きたい」なんて大仰なことばもでて。

そういうわけで3日はなにも収穫しなかったけれど、菜園もひとつの周期を終えたようで、胡瓜はまだ、茄子もとうぶんなしで、4日にはレタス、ルッコラ、トマトをどっさり摘んだだけ。ミニトマトが房になってどんどん大きくなり色づいている。完熟前に採らないと落ちてしまうので、少し青いのも摘む。2、3日で甘くなる。やっぱりサラダで食べる。こんなに毎日2度も3度もサラダにしているのに飽きない。ほとんどドレッシングもなく、酢だけでも美味しい。とくにルッコラは癖になってしまって、あの味がないともの足りなくかんじてしまう。父もそういった香菜を黙って食べている(食事に関してもうんともすんとも全く何も言わない人ではあるけれど)。

4日は珍しく電話や訪問者が多かった。亀井久美子さんが娘さんのまりちゃんが取材されたTVのヴィデオテープ(NHK「さよならぼくらの島」)と自分で漬けたらっきょうを持ってきてくれた。先日はがきもくれたし、いろんな話があったのかもしれないけれど、芹野さんからもらってきていたミントをいれたアイスティーを飲んだだけで、帰っていった。その後、坂井さんがディアン・ルグスビーさんといっしょに二日市から車で来てくれた。下げてきてくれたワインをのんで11時過ぎまでしゃべる。家族のこと、映画のこと、彼女の出身で、ぼくもしばらくいたオハイオ州のことなどなど。(クリーブランドとコロンバスが同じくらいの大きさの都市だとはじめてきいた。ほんとに!?)

5日現在、父の痛風ももうほとんどいいようだ。でも昼間でもパジャマを脱がず、布団も敷いたままなのは、まだ完治していないという、俺は病人だというサインなのだろう。それで今朝もお茶を部屋に届ける。昨晩、叔母が亡くなったという知らせがあり、今日とりあえずぼくだけお線香をあげに行く。千葉や佐世保にいる従兄弟もすでに来ていて、少し話す。だれもが儀式の準備のあれこれをこなしていくだけで精一杯で、哀しんでいる暇もなく、そうやって人はいろんなことを先送りし、なだめ、そっとしまい込むのだろうか。87才、母の姉だった人。ほんとならここに母がいるはずだったのにと、またせんないことを思ったりもする。母の交通事故死の時何度も口をついた「ひどい」ということばが歩いているときにふいに突き上がってきたりする。3年経っても慣れることができないことがたくさんある。

時折の雷雨と小雨の一日。夕食前に雨があがっていたらトマトだけは摘もうと思う。そうなれば7月5日は、トマトどっさり、ということになる。昨日は久しぶりに鶏のカレーだったので今日はまた魚に戻って鯵、それにゴーヤ(ニガウリ)と豆腐のチャンプルーにしよう。このゴーヤは残念ながら買ってきたもの。菜園のはまだまだのようだ。

薄明るい海から

追伸:そうやって締めくくって晴れ間をぬって菜園に行くと、なんとりっぱなゴーヤがなっていた。胡瓜もビックリするくらい大きいのが一本。さっそくゴーヤとトーフのチャンプルーにし、買ってきた細いゴーヤはカリカリ漬け(酢醤油漬け)にする。2週間待てばこれも美味しく食べられる。父の亡くなった級友の奥さんから大きな奈良漬けが届いた。父はお見舞いや、仏事に細かくまめだったから、当人が亡くなられてからもいろんなことがある。

 

菜園便り⑦
7月8日

久しぶりの快晴。強い光が溢れている。雨漏りの水をはけて、敷いていた雑巾を外して干す。洗濯までは手がまわらない。今日は萩原隆さん、松岡さんが12時頃みえることになっているし、余田さんが3時にはレッスンにみえる。ばたばた片づけものをして、ざっと掃除もする。

隆、松岡さんはどっさり昼食まで持ってきてくれて、恐縮する。ぼくは遅い昼食だと言い忘れていたし。ピッツァやポテトをいただきながら、先日の「松永さんを偲ぶ会」のことやぼくの「手紙」のことなども話す。こうやって丁寧にきちんと話すことがいまの水平塾ではできにくいということもでる。余田さんは仕事で使った花とレモンバームなどのハーブ(友池さんの家の本格的な菜園からのものですごく大きく青々している)の花束をもって来てくれる、うれしい。

昨日父とちょっとした口論になり、この間のストレスが溜まっていたこともあって、かなりきついことを言ってしまい、当然あとでうんざりしたし悪いなと思ったけれど、そう簡単に気持ちはおさまらないし、気まずいので今日は食事の時間をずらし、夕食もつくってテーブルに並べて芹野さんのところへ余田さんとうかがう(夕食は昨日芹野さんからいただいて葬儀でそのままになっていたお父さんが獲ってこられたアラカブを山椒の実と煮たものとサラダ、納豆、奈良漬け、みそ汁)。父は少し左足に痛みが残っているらしいけれど、もうすっかりいいようだし、あの痛みと寝たきりのなかでも結局キャンセルしなかった明日からの宮崎への旅行に気もそぞろ。

レッスンの後、夕食の準備をしている間に余田さんが自分の分も含めて菜園での野菜摘みをやってくれる。茄子1個、トマトはどっさり、レタスたくさん、ルッコラもたくさん、イタリアンパセリ少々。午後、久しぶりに庭に出た父が菜園の草取りの後、胡瓜2本、大きな色つきピーマン(パプリカ)2個も摘んでいたので、今日はあれこれたくさんの日だった。パプリカはもう少し我慢してすっかり色づくまで(甘くなるまで)置いておきたかったけれど、残念。黄色は八部、赤は五部の色づきで、かなり奇妙な色。しばらく置いておこう。ゴーヤももう次のがなっている。

7日の叔母の葬儀では、火葬場にも行き、その後の精進落としの食事にも加わったので、ずっと従兄弟やその子どもたちとも話した。奈良に住んでTVのディレクターをしている建は、叔母の次男の宏介さんの息子で、たまに会うと仕事や映画のことなどいろんな話をしてくれる。ちょうど河瀬直美のインタビューを終えたばかりで、彼女のことなども。「火垂」は見そびれたけれど、それがものすごく残念に感じられなくて、ちょっと寂しい。「につつまれて」はすばらしい映画だったけれど、「萌えの朱雀」は映像や風景の美しさばかりが印象に残った(後でわかったけれど、図書館ホ-ルが特集した、カメラマン田村正毅の撮影だった)。従兄弟に叔母のこと、つまり母の姉のことを少しきいたりする。母は死ぬまでファザーコンプレクスだったけれど、お姉さんは父親を、つまり従兄弟やぼくの祖父をどう思っていたのかとか。すごく若いときのきりっとした写真がでてきたと見せられて、そのなかに母や祖父の像を重ねようとして、でも当然だけれどうまくいかない。
叔父の方の親族や従兄弟もはじめてその名前や関係を教えられる。まだ中学生くらいの時、会ったことがあったのを思い出したりもする。彼女も覚えていて、あの時連想ゲームやセブンブリッジをやりましたねと。ありありと覚えていること、すっかり忘れてしまったこと、その不思議。従兄弟は年齢もちかいし、すごく小さいときから会うことが多いから、互いに愛憎が剥きだしになってしまうところがあって、そのねじれが尾を引いて関係がもう修復できないこともある。叔父叔母に対しては敬して遠ざけるというようなやり方もできるけれど。

余田さんが友池さんから預かって、萩尾望都の「マージナル」を持ってきてくれたので、夜はそれをずっと読み続ける。5巻だから今日中に読み終えられるだろう。

 

菜園便り⑧
7月14日

今年の梅雨は長く、この1週間も強い雨が続いて、野菜もなかなか摘めなかった。それでも時折の晴れ間をぬって9日には、ゴーヤ2本、胡瓜1本、インゲン少々、トマトどっさり、レタスたくさん、ルッコラたくさん、イタリアン・パセリ数枝、ピーマン2個、青紫蘇少々を収穫。13日には胡瓜2本、ゴーヤ1本、茄子1本、レタス少々、ルッコラ少々、青紫蘇少々を摘む。茄子は茎も60センチくらいの短いままで、2本は枯れたし、実もなかなか生らないし小さい。昨年の近所に借りていた畑でもあまりできなかったから、こういった塩気の多いやせた土地には向いてないのかもしれない。インゲン、ゴーヤ、トマトは同じ畝に2本ずつも植えてあって、完全に絡み合ってしまった。枝や葉の陰に隠れて、大きなゴーヤがぶら下がっていて驚かされたりもする。レタスは時期をそろそろ終えそうで、茎が伸び始めたし、葉も小さくなり少し硬くなった。ルッコラは株別れするような形でどんどん伸び始め、花もつき、これも終わりが近いのかもしれない。この二つはほんとによく食べている。菜園の外の庭の隅に植えてある南瓜(父によると、南瓜とは思えないがたぶん西洋南瓜だろう、ということ)は、雄花ばかりで実の生る花は今のところないらしい。
手のひらくらいになるまで待ったけれど、完全に色づく前に採った黄色ピーマンは、置いていたらすっかり色づき甘くておいしい。

雨が続いて、だからひどい雨漏りも続いて、玄関の天井もまた剥落して、うんざりだった(過去形でいうには、まだ剥落はそのままで進行形だけれど)。芹野さんが炎天下に屋根に登って修理してくれた玄関もどういうわけか、また漏った。雨漏りは難しく、不思議で、なかなか奥が深い。今日は快晴で暑くて、雑巾やバケツを干したり片づけたり。午後は千鶴子さんがレッスンにみえた。もう1年ちかい。下手くそな教え方に、つき合ってくれて感謝。

木曜日はあの豪雨のなかを、本村さんとアジア映画祭の試写会にいった。「千言万語」という香港の映画。監督は「望郷」のアン・ホイ(許鞍華)。いろんなことが詰め込まれ過ぎているし、固有名詞や香港・中国の事情、特に歴史がわからないと細部は掴みにくい。若き日の政治闘争への追憶、といった面もあって、ちょっとしんどい。インターナショナルがギターの演奏で何度も歌われる。歌詞が国によってずいぶんちがうのには驚いた。政治と愛はそんなにも人を縛りつけるテーマなのだろうか、今も。ほとんど感傷でしかないことばやシーンもある。台湾の蔡明亮の映画に必ずでてくる男優リー・カンショ(李康生)が中心人物の一人で、だからシンパシーはもてる。わりと単純な屈折と重ったるいパッション、エピソードの羅列、などと言うのはひどすぎるけど。でも久しぶりに本村さんや、受けつけにいた岩槻さんに会えてうれしかった。

昨日は芹野さんのご両親が行かれるはずだった、津屋崎の文化ホールでの能に誘ってもらう。「羽衣」。ステージのうえに能舞台がつくられていて、4隅の柱が2メートルくらいだけしつらえてある。つまり床から途中まで柱が伸びて、切れていて、だからもちろん屋根はないし、奥の松の絵もない。始めに挨拶や説明があって、能楽のみ(狂言はなし)。衣装をつける前の演者たち、謡い方、演奏者が舞台上で少し話をしてから、始まった。よくある高校生のための会といったような説明でなく(そういうのに行ったことがないのだけれど、たぶん)、上演にあたっての心構えのようなもの、きっかけの互いの確認などだった。でも「羽衣」というのはなんというかあまりに、あまりというか、このぼくでさえ2、3回は観ている。たしかに衣装の豪華な、能にしては派手で動きのある華やかな舞。引っ込む直前にはくるくると二度も回って驚かされた。でもいつもそう感じるけれど、ものすごい洗練と様式美の極地での、絶望的なまでの退屈もやはりある。有名な「疑いは人間にあり(ずっと、゛人にあり゛と思っていた)」のことばにはさすがに眠気がすっとんだけれど。
感情移入とかだけでない何か、たぶんひとつには観るぼくがあの速度(進行する時間と演劇ないの時間の)にもうどうしてもついていけないのかもしれない。そうして、演ずる人は、形の洗練を守るあまり、つまり修練で会得し続ける美の形式に囚われ続ける限り、様式の力の前になぎ倒されるのかもしれない。様式は、その極みで抜けるためにあるのだろうし、結局、伝えたいこと、表現したいことのためにある形であることをどこかでつかみ続けていないと、膨大な時間の重みや純粋な型の威圧にただ押しつぶされ、もたれかかり、それへの対応で終始してしまうのかもしれない。素顔の能役者を見れたのはうれしいような、残念なような。もちろん素顔といっても、紋付きに袴の正装でだけれども。鼓の音や謡はいつ聴いてもすごいと思うけれど、今回は夢野久作のことを思いだしたりした。ご存命の息子さんの三苫先生に知り合ったり、久作をきちんと読むようになった後、はじめての能だからだろう。彼はずいぶんと長くやっていたらしいし、「あやかしの鼓」という作品もあるし。

今日は坂井存さんの個展の最終日でパフォーマンスなんかもあるようだけれど、行けなかった。いっしょにやるらしいビアンさんから彼女の書いたものの翻訳を急遽頼まれ、汗だくだくでやっつける。タイプしてない読みづらい手書き文字で、送ってきたファックスも尻切れトンボで、計画性のない人はどこまでもとんでもない、と暑さへのうんざりをぶつけたりする。不思議なことばがたくさんでてきて、めんどくさいけれど興味深い。でも、いくらなんでも詩とはよべない。坂井さんがうまくいくといいけれど。「見えない形」というタイトルをかってにつけたから、これでぼくも「参加」だ。

東京の森さんから暑中見舞いのちょっとドキッとする葉書が届く。今日から本格的な暑さになった。夕食は鯵のオイル焼き野菜ソース載せ、ゴーヤの酢の物、菜園サラダ、南瓜のスープで、けっこうつくるのバタバタしたので、食べていると汗がどっとでてきて、「やーあ、夏だ!」といったかんじだった。食事中、千葉の福田から酔っぱらっての電話があった。懐かしい、これからもどうにか元気でいてほしい。
いつまでも続く関係、あんなに深かったのに切れてしまったつながり、なにもかもただ不思議のなかにある。

 

菜園便り⑨
7月16日

雨は続いている。雨漏りも続いている。気が滅入る。芹野さんがあれこれ心配してくれてまた屋根に登ってみましょうと言ってくれる。でも、この大きなあばら屋の屋根を思うとため息がでる。とにかく早く梅雨が明けてくれることを!

晴れたときにすかさず野菜を摘む。勢いが落ちたこともあって前みたいにいちどにはそんなにたくさん採れなくなり、レタスやルッコラの採りおきがきれるときがでてきた。一日にもう2度も3度も食べてもう飽きたからいいやなどと傲慢に思って朝食にサラダを用意しなかったけれど、なにかもの足りなくて、やっぱりルッコラを食べた。あのクレソンに似た辛みと緑くささ、それに胡麻やナッツのような味は、ほんとに癖になる。昨日は父が胡瓜とゴーヤを1本ずつ採って、法事の帰りに送ってくれた従兄弟の息子さんにあげた他は、初めてのオクラを2本採っただけ。ずいぶんと大きくて、12センチくらいあったけれど、水気が少なくてぱさぱさしていた(昼のソーメンに添えた冷や奴に刻んでのせた)。これもいただいた苗で、菜園の外に植えてあったもので、4本のうち2本は枯れてしまった。父によると、南瓜には雌花がやっと1個ついたとのこと、楽しみ。今日は小雨のなかをトマトどっさり、レタスとルッコラたくさんを摘んだ。父が夕方ゴーヤを摘んできてくれる。彼はレーシと呼んでいる。鹿児島とかはそういうふうに呼んでいるようだし、もしかしたら、このへんも以前はそうだったかもしれない。子どもの頃、食べたことも観たこともなかった。はじめて八百屋で見たときはかなり強い印象を受けて、お店の人にきいた記憶がある。買ったかどうかは忘れたけれど。最初に食べたのは、覚えているかぎりではセンター街を抜けたところにあった「沖縄」という沖縄料理店で、マウザーさんと行ったときだった。ゴーヤチャンプルーで、豆腐といっしょに炒めてあった。彼は苦くて一口で止めたけれど、ぼくはすっかり好きになった。子どもの時に食べていたら、一生二度と食べなかったかもしれない気もする。ハブ酒を初めてのんだり、沖縄ソバを初めて食べたりしたのもそこだった。「沖縄」は2階にあったけれど、上の方に風俗の店(当時のキャバレー)が入っていて、その強引な客引きとビルの入り口でいつもごたごたしたけれど、でもそれでもおいしくてよく通った。そのうち慣れて、わざと気を惹かれるふりをしたりもして。たしか「歌麻呂」という名前だった、なんというか・・・。

今はゴーヤはだいたいニンニク、豚肉と炒めて、しょうゆ味で食べる。たまに薄くスライスして、酢の物にもしたりする。父はどうもあまり好きでないようなので、茄子やなんかもいっしょに炒めて、彼のさらにはゴーヤは極力少なくいれる。プロの兄が薦めるのは、半分に割ってオリーブオイルをたらして、焼くもの(オーブンでなく、魚焼き器などで)。苦みが薄れて柔らかいらしい、まだやってみていない。ゴーヤが終わる季節には、まとめて「カリカリ(コリコリ)ゴーヤ」をつくる。酒、薄口しょう油、酢を1対1対1の酢醤油につけ込んで、冷蔵庫で2、3ヶ月もたせて、冬に食べようというもの。酒のつまみにすごくあうし、漬け酢はいろいろ使える。兄は味がきつすぎるといって、いちど出汁を煮きることを薦めていた。プロは洗練にはしって、それはたしかに美しくてデリケートだけれど、一面荒々しい強さが失われてもしまう、それも残念。

ぼくの「水平塾のみんなへ」の手紙に対して、北口さんが電話やファックスをくれる。ありがたいけれど、でも肝心の思いは届いていない気がする。ほんとに切実なこと、どうしてもやりたいこと、つまり生の核になてしまっているようなこと、それだけを考え、やればいいし、それぐらいしか人にできることはないとも思う。できないことをできないとした後に残るわずかなことに、大切なことにこだわることで、世界も他人もはじめて見えてくるのだろう。

 

しゅもく鮫の日
8月16日快晴
 あいかわらず暑い日が続いている。それでも、秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・で、風はもう秋です、と言いたいところだけど、なんのなんの風も熱風、日射しも傾いたぶん家の中にも、夕暮れちかくも横から射し込んで、どこまでも真夏。空も、鮫まででる海のうえに真っ白な入道雲や積雲が浮いたまま。
 友人が四国から久しぶりに会いにきてくれたので、今年は何年かぶりに家の前の海で泳いだ。沖をしゅもく鮫が集団で回遊し、このあたりはちょっとしたパニックになっていて、ちょうどその日から遊泳禁止がでたので他に泳ぐ人もいなくて気持ちのいい1時間だった。ちょっと泳いではぷかぷか浮いて、「海はぬるい温泉みたいだ」「しかもこんなに広い」などどらちもあかぬことをしゃべっては空をぼおっと見ていた。
 友遠方より来る、それも十年ぶりに、といったことがどういうことか、なかなか語るのは難しい。もちろん喜び、懐かしさ、と、でもどこかにどうしても生まれる齟齬。脳天気にかつての思いでだけを語り合えばいいのだろうけれど、でもそのかつてはもう遠すぎて、すでに記憶から抜け落ちてしまってもいて、残っているのはとても鮮やかに感じていたその印象だけ。だから互いに思うことはすれちがい続ける。<現在>は、もっと遠い。互いの生活や思索は光年の隔たりのなかにある。それでも互いのなかに残る口調や目尻の笑いをたどりながら、しばし旧交は温められる。心づくしの料理、下げてきてくれた酒。
 うまく思いが伝わらないことは哀しみではない。それを残念に思ってしまう自分のあいかわらずの希求する気持ちや湧いてくる問いが煩わしい。酒を酌み交わし、ことばを重ね、思いでの店へ繰り出し、自分たちの子どもの世代より若い子がやるスナックでカラオケを歌い(サイモンとガーファンクル吉田拓郎ときている)、静かに珈琲を啜り、また酒をのんで、酔った勢いで夜光虫の光る暗い海にはいって、肩を滑る黄緑色の光と共に泳いで、それでいいではないか、充分というにもお釣りがくる。
 でもどうしても残る舌の上のかすかな苦いもの、うっとどこかがうめいてしまう、手つかずの奥深い柔らかさへの痛み、それはどうやって流せばいいのか。センティメントにすら関わらないかのように、にこやかに笑って、現在の世界をるると語る友の語調は乱れもなく、全ては十全な球体の、確認済みの箱庭におさまっている。
 テーブルの上の食べ残しが、すでに朝の熱気の中で饐えた匂いを放ち、グラスに残る南の酒から立ち上る匠気が、うんざりする一日の長さを告げる。黙劇のような動作で、片づけては階下へ運ぶことをくり返しながら、短かった夜の、白々とした夢を反芻する。休暇を半日残して帰宅したい友へ、早い朝食をだして、あとはがらがらのバスが海岸通りを去っていくのを見送る。たぶん着いたという電話がお礼と共にはいるだろう。しっかりした奥さんもひとことを添えるだろう。それは喜びである。それは憎悪である。こんな静かな嘘をつくためにぼくらはあてもないまま、こんなにも遠くまではるばるやってきたのだろうか。そういう<生活>なら、生きることすらなくても、やすやすとわかっていたのだったろうに。手を伸ばしても掴めない、なにもかも、ただ自分の今をじっと凝視する。

 

菜園日記一一
七月二一日 晴れ

梅雨が明けて真夏、暑い日が続いていますが、お元気ですか?
雨がないのと、先日また芹野さんが屋根の修理に来てくれたので、海側の玄関の雨漏りは一段落。他の場所や、天井のことはしばし、忘却の彼方へ(そうやってこうなってしまったのだけれど)。
菜園はちょっとぐたっとしたかんじです。日照り、水不足と、レタス、胡瓜の終りが近いことで。それでもまだ、伸び始めたレタスの小さな葉は少し硬いくらいで、十分サラダにもあいます。ルッコラも株別れを続け、緑も濃くなり、花もつけ元気です。やせた乾燥した土地にあうのかもしれませんね。昨年のイタリアの種だったルッコラも一抱え以上に群れ、藪のように元気でした。そこから取りだして一冬根で生き延びた株は、鉢のままのせいか繁るといったかんじからはずいぶんとおいままですが。
18日はトマトどっさり、インゲンたくさん、オクラ一個。インゲンはもう終わりと思い、小さいのも全部摘みました。オクラはここにきて、急に伸び始め、隠れていた一本もでてきて、都合三本が伸びています。葉の根もとから枝みたいに直接にょきっと上に向けてでてくるとは知らなかった。かなり奇妙な姿ですね。
二〇日はレタスとルッコラ少々、イタリアン・パセリ数枝。ルッコラの陰でひょろっとしていたイタリアンパセリはいつのまにか色も濃く大きく繁っています。あまり使いでがないので採らないせいもあるのかもしれません。パスタや焼いた魚にかけたり、いろんな料理の彩りに添えたり。パセリほど味や香りも強くなくて、なんとなく中途半端。このへんは霜が降りないから、ほっといても越冬できるかもしれない。野菜やハーブにはそういう年越しの楽しみもあります。
二一日はゴーヤ二本、胡瓜一本、トマトどっさり。
このところ訪問者が多く、しかもかなりシビアなことがらが多かったので少し疲れた。自室が夏は暑いので(もちろん冷房はない)、廊下にテーブルと椅子をだして臨時の応接間にしている。慣れているのでぼくには心地よいけれど、ふつうに冷房のなかで生活している人にはちょっと辛そうで、それを見ると気の毒な気もするし。原口さんとは汗をかきかき、集中して三時間話した。伝わったこと、伝わらないこと。それが互いの思いだろう。それなりの時間をかけて語り、話し合い、了解しあってきたと思っていたことも、そうじゃなかったことが顕わになったり、改めて確認できたことに安心したり。自分で選ぶことのできない生まれてくる時代、場所のなかで、剥きだしの攻撃も含め、翻弄され屈折する生、でもそこでだけ人の深みや慈しみが生まれるのも事実だろう。「該当者」にさせられる、なってしまうことの痛みや哀しみを抜けたところで、該当者性を対象化できた後、「当事者」として人は初めて、人にも世界にも出会うことができるのだろう。互いの生活の、生の具体的な苦しみをそのままでは知ることもわかることもできないんだ、ということを肝に銘じることから始めるしかない。だからこそ、そこで自分の囚われからも自由になれる可能性が生まれるのだろう。そう思うし、思うしかない。

 

菜園便り一二
七月二三日

 久しぶり、たぶん二週間ぶりくらいに田圃の白い道を抜けて買い物に行った。稲はすでに穂をつけ頭をたれている。ほんとにびっくりした。梅雨のさなかにも、もうこんなに伸びたのかと驚いていたけれど、でもそれはたんに稲自体の成長のことだった。雨と太陽の力はすごい!もう稲穂とは! 以前きいた「早稲は、冷たい水で田植えして、暑さのまっただなかで刈る、辛い」というのを思いだした。八月に刈るには、こうでなくてはできないのだろう。なんかことばもなくなる。台風の前、ウンカの大発生の前に刈り取れるし、値段もいい、ということもあるのだろう。
 作業に来ていた三人の中年の男たちが、かなり車も走る舗装道に止めた軽トラックの後ろで雑談をしていた。旅行のことと奥さんのことらしい。「機械だけは扱わんもんな」と嘆いている。それはたぶん彼女たちの生活の知恵だろう。「あれもこれも、そのうえ機械作業までさせられてはたまったもんじゃない。しかも男たちは機械は自分にしかわからないと自慢してもいるし。もっけの幸い」と。その横を抜けて買い物を済ませて帰ってくると、車の日陰に座り込んで冷たいビールをのみつつの宴になっていた。そういうふうにいろんな場所に(ここでは自分の田のそばだからだろう)すっととけ込んで、自在に振る舞えるのは羨ましい。隣との関係すらうまくさばけず、゛家を出ると緊張の世界゛というのはほんとに寂しい。緊張せず自由になれる場で、人は積極的になれいろんな力を発揮し、ずんずんやっていける。それは家庭のなかだったり、学級、地域、会社、業界、マスメディア、都市、日本・・・と広がっていくのだろう。それが今の社会の才能であり、力ということになっている。そのきわどい境を、傲慢にならずにどう渡っていけるのか。そんなことは可能なのか。見ないようにしている、自分のなかにたしかに残っている野心や、嫉心はそれにどう答えるのだろう。
 田圃の周囲はいつもきれいに刈り込まれているのだけれど、舗装のない白い道の一角に、雑草が放置された部分があって(休耕田でなく)、その丈がぼくより高くてそれも驚かされた。ちょっとした細長い藪になっている。揺れてどこまでも続く緑の穂並み、といった文字どおりの田園風景も、管理され、労力がそそぎ込まれた結果なのだとわからせられる。管理と自在さ、強制と自由はするりとどこかで入れ替わり続け、境界は見定めがたい。それが同じことの両面だと、互いに補完しあってなりたっているのだと、緑濃く、水も豊かに広がる田園のなかで知らされる。
 南瓜がごろんところがっている。シオカラトンボがすいっと川面をかすめ、ひまわりが毅然と顔を上げ、そうしてススキの穂も立ち始める。秋桜も一輪ある。ぼくは何がなにやらわからなくなって、牛乳やら豆腐やらの重い荷物を抱えてとぼとぼ帰ってくる。
二二日レタス、ルッコラどっさり、イタリアンパセリ少々、トマトたくさん、ピーマン五個、ゴーヤ一本、茄子一本(レッスンの後余田さんが摘んでくれる)。二三日、ピーマン五個、胡瓜一本。夕食は南瓜と茄子とピーマンの素揚げ。

 

菜園便り一三
七月二五日

 昨日は宮地海岸の花火で、玉ノ井では「掃除と花火の会」を催した。恒例の「福間海岸の花火大会を遠見に見る会」(今年は八月二日)で使う二階の広間の掃除がたいへんだと愚痴を言っていたら、みんなでやれば、と言ってくれて、それなら前哨として宮地の花火にあわせようということになった。参加者7名。数名での掃除の後、宴会。遅れてきた人も交え花火を見つつ、のんで食べて。直子さんの茄子のトマトソース煮、鮭のおこわ、鴨の薫製サラダ、チェリー。余田さんの三種の珍しいチーズと数種のパン、ブルーベリー。ぼくの野菜の素揚げを出汁につけ込んだものとゴーヤ豚肉炒め、菜園サラダ。友池さん梅田さんのデザートもいただいた。宮地海岸は真横すぎて見えづらいと思っていたけれど二階からも十分に楽しめる。今年は白い大型花火が多く、感動。幸い風のよく入る日で、凌ぎやすかった。ハードロックに夢中だったことがある西田さんにささげて、真夜中にツェッペリンのファーストアルバム(もちろんCDで)を最大音量でかける。こういうこともこういう場所で、ちょっと酔っていたりするとできる。楽しい。
 この会に使うので二四日にゴーヤ一本、レタス、ルッコラたくさん。トマト少々を摘む。レタスはもう茎がどんどん伸びて、もうしばらくの命。ルッコラも茎が硬く伸びて、葉も小さくなってしまった。それでも炎天の下でしっかり実りを届けてくれる。ゴーヤがどんどんできている。
 朝食に桃を食べた。たぶん今年三度目の桃だ。最初のは父が買ってきてくれた大きな水蜜桃だった、かなり痛んでいたけれど甘くみずみずしかった。この季節になると、いやでも桃を思いだす。東京にいる大学の先輩が山梨の人で、いろいろあって毎年ビックリするくらい大きくて甘い水蜜桃を二箱も送ってくれていた。彼の友人が山梨の果樹園でつくっている桃。「そのまま皮ごとかじってもいいんだ」という桃だった。東京に行くときはいつもその人の所に泊めさせてもらって、一〇日も二週間も気ままに過ごしていた。気安くいろいろ言えたし、当時はまだ母がいてくれて家事をやってくれていたから、よそで掃除したり食事をつくったりするのは、新鮮で楽しかった。
 お土産に抱えていった獲れたての魚やサザエやエビを食べながら(冬は河豚の鍋だった)、積もる話をしたし、いっしょに近代美術館や写真美術館に行ったりもした。映画や芝居は誘ってもこなかった。たまにはのみにいったりも。でも、ある時ぼくが、傲慢にほんとに嫌なことを言ってしまって、それでもうそれっきりになった。手紙やファックスの返事もなく、ぼくも電話はかけづらい。一九六九年に会って、間にきっかり一〇年の空白があって、一九九八年に終わった。桃はとぎれた。あんなに大きくて甘やかな香りを放つ、淡い桃色にさっとひと刷毛の紅がのった、果汁の滴るりっぱな、手にずしりと重い桃は、それっきり見ない。

 

菜園便り一四
八月一日

 七月三一日の夜に書いているのだけれど、実際はもう八月一日で、今年も七ヶ月も終わったと、嫌でも考えずにはおられない。それは、この真夏に、あの二月の惨めな寒さを思うようで、もったいない気もするけれど。海辺のサナトリウムでのような生活を送っていると、時々、叫びたくなるような不安にかられたりする。それは暑さのせいであり、年齢のせいであり、崩壊しそうな建物のせいなどなどであり、総じて、語ってもせんないことだろう。
 建物といえば、ついにあの海側の玄関の天井が修復された。自分でも信じられないくらいだ。あれこれ言いつつも、ずっと表面をことするだけのままでぐずぐずいくのだろうと諦めていたら、先日芹野さんが夜の八時に様子を見に来てくれて、「もう今日やっちゃいましょう」と宣言して、あれよあれよとやってくれた。直子さんも手伝いに来てくれ、一二時まで、夜なべ仕事でやつけた。すごい!とにかくほっとしたし、うれしい。感謝!!たいへんだったけれどどこか子どもの頃父や兄とやった夜の作業を思い出して、しみじみしたりもした。それも主だったいちばんたいへんな仕事をやってくれる人がいたから、そんな郷愁も生まれる余地があったということだろう。ほんとにありがたい。
 菜園は雨がないせいもあって、ぐったりしている。いろんなものが終わりに近いこともある。胡瓜は終わった。レタス、茄子ももうじき、ルッコラもすっかり小さくなった葉を摘み続けてもそんなには長くないだろう。ゴーヤは今が盛り。明後日の、花火の会にはチャンプルーをつくるのでそれまで残しておこう。ピーマン、イタリアンパセリはまだ元気。青紫蘇もまだまだだし、オクラも成長途上。南瓜は諦めた。トマトは暑さや乾きに強いからまだ保つだろう。でも菜園サラダもじきできなくなる、それもちょっと寂しい。しかしこんなやせた土地でよくあれだけのものを産みだしてくれたと驚かされたし、感謝している。父の発案、計画、実作業にも、もちろん。収穫し、食卓にあがり、とても美味しく食べられることの喜び。お裾分けもずいぶんできた、それもなんか喜びを分かち合うようで(押し売りでも)うれしくなる。二六日、胡瓜一本、トマト少々。二七日、レタス、ルッコラ、イタリアン・パセリ、バジル、トマト少々。二九日、レタス、ルッコラ、トマト少々、ゴーヤ1本、ピーマン二個。三一日、レタス、ルッコラ、トマト少々。
 たしかに庭の花も楽しいけれど、でも喜びの質が全くちがう気がする。それは食べられることがいちばん大きいのだけれど、楽しみのバリエーションがすごく広いこともあると思う。形や色を鑑賞でき、実にいろんな方法で料理できてそれぞれに味わえ、保存して長く楽しむこともでき、あれこれ語ることさえできる。手のひらに抱えたときのずっしりした重みと瞬時に頭のなかで広がる香りや味、そういうことも決定的にちがうのだろうか。
 庭には向日葵が群生し、ゼラニウムも梅雨が明けてまた咲き始めた。浜木綿が夕方になると香り、夾竹桃がいつの間にか開いているし、沖縄月見草もあいかわらずある。それから例の藪になったイタリア野菜の薄紫の花も。最近は仏壇の花はずっと向日葵。
 昨日、美術作家の森山安英氏のお宅に伺って、この六年間の作品約二〇〇点をまとめて見せてもらい、その後ものんで話したので、かなり緊張や集中が続いて、今日はちょっとぐったりだった。すごく暑かったせいもあるし。戸畑のそのお宅は大正時代の牧師館だったいい建物。残念ながらかなり手が加わっているけれど、それでもドアや階段、踊り場の窓などはしっかりと面影を残していて、手で触ってみたくなる。全体の造りも当時の日本の住居との混合で、その間取りも懐かしい。外は蔦に覆われており、庭にはいろんな立木に混じって梅や芍薬などもみえる。その梅も使っての梅干しを見せてもらって驚く。奥には野菜畑もあるそうで、ニガウリやトマトをつくってあるとのことだった。それも驚き。駅まで車で迎えに来ていただいたときもかなり驚いた、運転されることも知らなかったし。あの「集団蜘蛛」の森山さんが、と、あれこれいろいろに感じる人もいるだろう。ぼくはずっと後になって知り合ったので、「伝説」よりずっと穏やかですごく率直な人だという印象が今のところいちばん強い。
 時代のなかで、具体的な場のなかで、だれかに何かに出会うこと、出会わないこと、その不思議の前にみんなが立っている。そういう時代や場の条件をしっかり考慮しつつ、でも最後にはその人が選んだんだということ、弱さや限界も含めた人の力をじっと見つめ、わかりたい。

 

菜園便り一五
八月九日

 一日、ゴーヤ一本、オクラ一本。二日、レタス、ルッコライタリアンパセリ、バジル、トマト、青紫蘇少々。胡瓜一本。ゴーヤ二本、ピーマン三個。六日、ルッコライタリアンパセリ、青紫蘇少々。トマトたくさん、ゴーヤ二本、茄子一個。すっかり茎が伸びたレタスを全部抜く。小さな葉がそれでも手にいっぱい採れる。ほんとにたくさん産みだし食べさせてくれた。九日、トマト少々、オクラ一個、ピーマン三個。
 ぼくには珍しくあれこれあった一週間だった。二日に花火の会。二〇人を越す人が集まって、海をはさんで遠目に福間海岸の花火を見、日田杉の一枚板の大きな卓を囲んで持ち寄った料理を楽しんだ。ワインがどんどん空いた。二人の子ども、長老的な存在の人などで、なんか大家族の集まりのようでもあって、ぼくはうっとりし、少し感傷的になる。玉ノ井旅館が活気に溢れている頃はこうやって夜も煌々と明かりがともり、人の声がうるさいほど続いていたことも思いだされる。ずっと小さい頃は、お盆に毎年父の実家に家族全員で行っては、叔父叔母、従兄弟はとこと大騒ぎだった。大きな農家だったそこも、もうとうに建て変わり、行き来もすっかり少なくなった。アチャラ漬けという食べ物を知ったのもそこだった。
 四日五日は「松永さんを偲ぶ会」実行委のメンバーで小浜温泉に行った。運転も、計画も当日のさい配も全てやってもらって、申し訳なく、でもほんとに楽しかった。泊まった所は、一時代前の旅館の雰囲気があって、料理も廃業する前の玉ノ井のようで、懐かしかった。小エビの煮付けは二〇年ぶりくらいに味わった(品数を増やすためのまずい小鉢、などど生意気なことを思っていたのも思いだした)。夜はシビアな「討議」にもなった、ちょうど花火大会にぶつかり部屋の窓から堪能した後に。十数人で話すことの難しさのなか、ぼくは場になじめないまま(ばかなことに火傷までして)、少し投げやりになってしまった。翌日は暑いなか、旅館の温泉だけでなく、岸壁に設えられた浴場や帰る途中の武雄温泉にも入った。戻ってから、メールをもらったり、また少し書いたものを送ったりする。時間をかけないといけないこと、かけすぎるとダメになってしまうこと、いろいろある。今までのことを切り捨てるような形でなく、その上にまた重ねていくようないろんな動きもでてき始めているようだ。
 不思議でおもしろい夢のことを宮田靖子さんが手紙に書いてきてくれたので、お裾分けします。「・・・・・・今朝、安部さんの夢を見ました。お庭で出来た野菜を紙袋につめ、リュックと背中の間にさし込み、東京のお友達の所へ出かけてゆかれる所でした。なぜか私の実家、熊本の駅からで、私は見送りをしていました。・・・・」賢しらに詮索しようとすると、あれこれどっさり言えそうな夢ですね。とにかく奇妙で滑稽で、でもなんかリアルです。リュックと背中の間に野菜を押し込むのは妙ですが、でも昔キャンプに行くときは膨れ上がって重いリュックの口と頭の間に確かに小さい荷物を押し込んでいた記憶があります。でも夢のなかでもガリガリのぼくに、リュックや野菜の包みは哀しいくらい滑稽に大きかったでしょうね。「おい、大丈夫か、しっかりしろ」と、思わずぼくはぼくに声をかけます。「黒猫ヤマトで先に送ればいいんだよ」と教えたくなります。学校に行ってた頃は、まだ荷物は国鉄のチッキで送る世界で、あれは駅まで持っていったり、受け取ってくるのがほんとにたいへんだった。自分より大きな布団袋を引きずっていったりもして。西武池袋線石神井駅の親切な駅員が、布団袋をひょいとかついで改札口へと線路を横切ってくれた姿は、高架橋を見上げてすくんでいたぼくには、神のごとくに見えた。でもあの頃はそういう感謝をうまく口にできず、今思っても、若さの無知や傲慢に身がすくむ思いがする。

 

菜園便り一六①
八月一八日

 お盆が終わった。父が張りきることもあって、今もお正月とお盆は大騒ぎになる。家庭内の儀式や行事めいたことは嫌いではないし、お盆は母のことも含めいろんなことを考えさせられるし、できるだけのことはしたいと思う。でも三日間精進料理を供えるのはけっこうたいへんだ。わあわあ言うだけで父はつくらないし、あれこれきつく指図するわりには、献立も、やり方もきちんと聞くとわからない。かつての自分の体験した実家のお盆の喜びや格式やを漠然と心に抱え持っていて、それを今のなかで再現させたがっていて、だから「そうじゃない」とだけははっきり言えても、じゃあどうするかは曖昧なままだ。それでも、父なりの新しい伝統がつくられ、それでぼくらは済ませていく。迎え団子、送り団子、それらにつける白砂糖、小豆あん。野菜や厚揚げの煮つけ、幾種類かの酢の物(アチャラ漬けというのに挑戦しようと思っていたけれど、難しいわりには見栄えしないし、だれも喜びそうにないので中止。だいたい精進料理はどれもそうだろうけれど)、胡麻葛豆腐(これは秋月の葛をいただいていたので、初めてつくってみた。かたすぎたようで、味はいいのだけれど、つるんとした感触はない、まあ、失敗ということだろう。でもしっかり自分にも人にも食べさせた)、野菜の素揚げ(例によって半分は出汁につけ込んで翌日、翌々日に)、おきゅうと、みそ汁、吸い物、ご飯、そうして素麺。そういったものをあれこれこしらえて毎日お供えし、一三日にはお寺に迎えにいき、一五日には送っていく。今年は叔母や、親戚の初盆があったし、友人が四国から会いに来てくれたので、それも重なって、大わらわだった。珍しく、兄たち一家も一三日に夕食に来た。
 その叔母の残した「思い出」を従兄弟がプリントして、お盆のお参りのお返しと共に配った。四二歳で亡くなった祖母のことや祖父のこと、戦争で亡くなった叔父のこともでてくる。母のことも少し。叔母が生まれた大正三年から始まり、祖母の亡くなった年、昭和七年までで中断している。家族のことや祖父の仕事や事業のことだけでなく、お菓子のこと映画のこともあってひろがりもある。叔母が後半を書かなかったのか、紛失したのか、残念だ。会うことのなかった祖母や叔父のこと、そして何より母のことをもっと聞きたかった。
 お盆のあれこれのための買い物は父と分担してやった。父は買い物にはちょっとマニアックなところがあって、近所のスーパーのチラシを必ず見ている。そうして特別価格の時に、買おうとする。そういうのはだいたい限定一個とか二個で、いつも食べる素麺「揖保の糸」は限定一個。そういうときは、わざわざ二度レジに行って、二個買ってくる。最近編み出した手は、「隣に頼まれた」といって別会計で二個買うというもの。一〇円安いとか、五円高いとか聞かされるのはたまったものではないけれど、こういう話はなんかおかしくて、聞いてても楽しい気持ちになれる。父のゲームだ。
 菜園は夏野菜の終わりと、炎天の水不足ですっかり干上がってしまった。それでも一三日にはトマト少々、オクラ一個、一五日にはトマト少々、ゴーヤ一本、ピーマン四個が採れた。さっそくお供えと夕食と、遠来の友人への馳走とに使う。野菜の素揚げ、ゴーヤと豚のチャンプルー(一五日の夜で、精進あけ)、ちょっと貧相な菜園サラダにかわる。四国からの和泉君に会うのはたぶん八年ぶりくらい、お互いすっかりかわっていて、だからお互いのなかに残る同じ口調や、ある種のやさしさがかえって異様に思えたりする。まじめで、でもあまりつきつめずに、じっくりと生活人している彼に、かつてのことへのセンティメントも今の現実もうまくは伝えられない。ぼくは自分で選んでそして掴んだ、それはそうせざるおえなかったといっても同じだろうけれど、今と自分のいる場を手放さずに、ぎりぎりと歩を進めるしかない。だれが正しいというようなことでなくて。

 

菜園便り一六②
八月一八日 快晴 「しゅもく鮫のでてきた日」

 あいかわらず暑い日が続いている。それでも、秋きぬと目にはさやかに見えねども・・・で、風はもう秋です、と言いたいところだけど、なんのなんの風も熱風、日射しも傾いたぶん家の中にも、夕暮れちかくも横から射し込んで、どこまでも真夏。空も、鮫まででる海のうえに真っ白な入道雲や積雲が浮いたまま。
 友人が四国から久しぶりに会いにきてくれたので、今年は何年かぶりに家の前の海で泳いだ。沖をしゅもく鮫が集団で回遊し、このあたりはちょっとしたパニックになっていて、ちょうどその日から遊泳禁止がでたので他に泳ぐ人もいなくて気持ちのいい一時間だった。ちょっと泳いではぷかぷか浮いて、「海はぬるい温泉みたいだ」「しかもこんなに広い」などどらちもあかぬことをしゃべっては空をぼおっと見ていた。
 友遠方より来る、それも十年ぶりに、といったことがどういうことか、なかなか語るのは難しい。もちろん喜び、懐かしさ、と、でもどこかにどうしても生まれる齟齬。脳天気にかつての思いでだけを語り合えばいいのだろうけれど、でもそのかつてはもう遠すぎて、すでに記憶から抜け落ちてしまってもいて、残っているのはとても鮮やかに感じていたその印象だけ。だから互いに思うことはすれちがい続ける。「現在」は、もっと遠い。互いの生活や思索は光年の隔たりのなかにある。それでも互いのなかに残る口調や目尻の笑いをたどりながら、しばし旧交は温められる。心づくしの料理、下げてきてくれた酒。
 うまく思いが伝わらないことは哀しみではない。それを残念に思ってしまう自分のあいかわらずの希求する気持ちや湧いてくる問いが煩わしい。酒を酌み交わし、ことばを重ね、思いでの店へ繰り出し、自分たちの子どもの世代より若い子がやるスナックでカラオケを歌い(サイモンとガーファンクル吉田拓郎ときている)、静かに珈琲を啜り、また酒をのんで、酔った勢いで夜光虫の光る暗い海にはいって、肩を滑る黄緑色の光と共に泳いで、それでいいではないか、充分というにもお釣りがくる。
 でもどうしても残る舌の上のかすかな苦いもの、うっとどこかがうめいてしまう、手つかずの奥深い柔らかさへの痛み、それはどうやって流せばいいのか。センティメントにすら関わらないかのように、にこやかに笑って、現在の世界をるると語る友の語調は乱れもなく、全ては十全な球体の、確認済みの箱庭におさまっている。
 テーブルの上の食べ残しが、すでに朝の熱気の中で饐えた匂いを放ち、グラスに残る南の酒から立ち上る匠気が、うんざりする一日の長さを告げる。黙劇のような動作で、片づけては階下へ運ぶことをくり返しながら、短かった夜の、白々とした夢を反芻する。休暇を半日残して帰宅したい友へ、早い朝食をだして、あとはがらがらのバスが海岸通りを去っていくのを見送る。たぶん着いたという電話がお礼と共にはいるだろう。しっかりした奥さんもひとことを添えるだろう。それは喜びである。それは憎悪である。こんな静かな嘘をつくためにぼくらはあてもないまま、こんなにも遠くまではるばるやってきたのだろうか。そういう「生活」なら、生きることすらなくても、やすやすとわかっていたのだったろうに。手を伸ばしても掴めない、なにもかも、ただ自分の今をじっと凝視する。

 

菜園便り一七
八月二一日

 今日、お盆の飾りつけの片づけを父とやった。父によると、お盆は二〇日まで。かつては各町内で順繰りに盆踊りが続けられ、二〇日に最後の盆踊りがあったそうだ。下げる提灯一対、畳に置くもの一対、仏壇の八方一対、菓子台一対を片づけて、箱にしまう。外の提灯と三日間の食べ物のお供えの器は一六日にすでにしまってある。お菓子や花や、供えてあるものの大半もおろす。食べれるものはいただき、捨てるものは処理する。
 「私設」ヴィデオ・ライブラリーの友人に借りていたヴィデ・オテープを送り返す。今回は先方で見繕ってくれたもので、「欲望の法則」「惜春鳥」「きらきら光る」など。ほとんどが初めてのもので、特に木下恵介の「惜春鳥」はその存在すら知らなかった。どれもすごく興味深い。包みを持って郵便局に行った帰り、買い物に行く。もう半分くらいの田圃は稲刈りがすんでいて、早く終わった稲の切り株からはもう新しい芽が伸び始めていて、一〇センチほどにもなっている。すごい生命力だ。これが伸びて十月頃には、短い茎にちゃんと稲穂が実る。うち捨てたまま立ち枯れてしまうそれを毎年見るたびに、あれこれ思ってもしまう。
 田圃のなかの白い道には秋の野の草が溢れていて、指や爪で摘めるものを摘んでくる。さすがに雑草はしぶとくて、なかなかのことでは折ったりちぎったりできない。マコモ、エノコロ(猫じゃらし)、オヒシバ、メヒシバ、イノコズチなどなど(知ったかぶりに書いているけれど、これは図書館から「道ばたの草花図鑑②」というのを借りてきたから)。コップにさして台所のテーブルに置いて眺める、形も色もほんとにみごとだと思う。たぶん、それが住んでいる地域の草であり、自分で摘んできたからであり、さらには子どもの頃の思いでがぴったり張りついているからでもあるのだろう。植物の色は、海や空の色のようになにかの反映でなく、取り込んだ光をその内側から色彩として、「緑」として放っているようで、だから特別に目に穏やかで、心にしむのかもしれない。水を見つけるのは匂い、植物を見つけるのは色、だろうか。
 マコモはちょうど新聞のコラムにでていて、ワイルドライスというものがマコモの実だったのだとやっとわかることができた。長年ずっと気になっていた疑問が、もう買うことも食べることもなくなった後ふいに解消する。初めて米国に行ったとき、すごくお世話になったバーベロ夫妻に連れていってもらって友人宅で、初めて食べて、そのおいしさや不思議さ、ライス(米)ということばへの違和感をもったのが始まりだった。そうして「とっても珍しくて、高いのよ」とバーベロ夫人にしっかり教えられて、心して食べたことも忘れられない。それは75年頃のことで、八〇年代に入っても、このワイルドライスとピーカンナッツだけは日本では手に入らなくて、米国からのお土産に頼んだりしていた。茹でて、さっとバターで炒めたりして食べるのだけれど、味は米よりは、茹でた蕎麦の実なんかにちかい。懐かしい名前、懐かしい味。日本のマコモ多年草でほとんど結実しないらしい。
 台風がそれ、ほんとにほっとしたけれど、期待していた雨もそれてしまった。乾ききった菜園からはそれでもまだしっかり収穫が届く。一八日、トマト、イタリアンパセリルッコラ、青紫蘇、バジル少々(水不足だろうどれも堅め)、ピーマン四個。ピーマンとトマトはまだもう少し続きそう。
    


菜園便り一八
八月三一日

 季節はいつも、ある日不意打ちのようにことりと移る。窓を開け放っていても暑苦しい夜の後に、ふいに秋の宵がくる。昼間の日射しはかっきりとまだ強いけれど、日が沈むとすっと寂しくなるような涼しさがはいってくる。風の抜ける部屋では、足下がうすざむくさえある。まだ虫は鳴かないけれど、九月の声をきく前に、季節はぐっと場所を移したようだ。Tシャツ一枚でいられるのはいつまでだろう。
 菜園は元気に葉だけ繁らせている茄子を除いて(たぶん実は生らないと思う)ほぼ終わりになったけれど、ここにきて小粒のピーマンがたくさんできている。オクラの花がひとつ咲いていたから、もう1個採れるかもしれない。友人から問われたハヤト瓜はまだ目につかない。今年あらためて苗を植えたわけではないので、実が生るかどうかはわからないと父は言っている。二二日、トマト少々、ピーマン二個、ゴーヤ一個、青紫蘇少々、ルッコラ少々。二七日、トマト少々、ピーマン四個、青紫蘇少々、ルッコラ少々。三一日、トマト少々、ピーマン四個、イタリアンパセリ少々。
 あまり集中して考えたり書いたりできなくて、本も手にするのが少々億劫で、だから映画やヴィデオを見る機会が多くなる。先週は図書館ホールでインドのサタジット・レイの「大地の歌」を見た。長い間ずっと気になっていたのを、やっと見ることができた。資料を読むと一九五五年の映画とあって、びっくりした、そんなに前の映画だったとは。こわいほどリアルに、どろっとした手触りも生々しいインドの森や風景が続き、そのなかを生きる姉弟の、生命の核そのものような自由さ柔軟さ、直截な屈折や輝きに圧倒される。姉の死をきっかけに一瞬にしてかげる弟の瞳、その奥行き、一晩で彼は大人の表情へと変貌する。とめどない歌、放埒なまでの笑顔、澄みきった喜び、大地そのものに抱きかかえられていた時は終わる。喪われた輝きはもう2度と戻らない。姉への、暖かさへの、勁さへの、甘やかさへの、具体を伴った憧憬は不意に中断されて、彼のなかに強引に深く閉ざされる、見えない巨きな石に封印される。そんなにも大きく重く苦いものを呑み込むことで、自身にすら届かない果てのない井戸を掘ってしまい、そうしてそれを封印するという転倒、逆説。
 どうしてこんなにも個のことがらが世界の(風景の)ことがらとしてぴったり重なって語れるのだろう。個と世界が通底しあう、そのままで地続きであることが、風景のまだ生きている共同体での在り方だからであり、それは掟であり同時に無限の自由、自由という概念のない自由でもあったのだろうから。
 同じ日にもう一本「ディスタンス」というのを見ようと計画していたけれど、さすがにそれは無理で、貘で写真展を見たあと珈琲を飲んで居座ってしまった。一度座ってしまうとお尻がほんとに重くなって困る。たぶんあちこちで長居して迷惑をかけているのだろう。
 久しぶりの遠来の友のこと、一〇数年ぶりに不意に電話がかかってきたかつての知り合いのこと、それやこれやをいろいろ考え思い煩ってしまう。そういうことが重なる時期であり、年齢なのかもしれない。思わず激しいことばが口をついたりもする。こういったことを知らされるために、受け入れるために、こんなにも遠くまで来たのだろうかと。それももちろんどこかに幼いヒロイズムの匂いを残した感傷のひとつであり、そうしてそれは、ここまでは来ることができた、ということと全く同じことなのだけれど。でもやはりどうしても譲れないものがどこまでも残ってしまう。

 

菜園便り一九
九月一二日

 しのぎやすい日が続いた後の暑さはまた格別で、この夏いちばんの暑さだと思ったりもする。たった二、三日で、人はすっかり体感も気構えもかえてしまう。それがこの移ろいやすい世界を生きていく術なのだろうけれど、それもまたすごい、と思ってしまう。
 そうしてその暑い日の後にはまた涼しい日がきて、とうとう夜にはTシャツだけでは過ごせなくなった。確実に季節は移り、虫が鳴きだし、ヒグラシも朝から騒ぎ、海には鴎の群が戻ってき、千鳥も見かけるようになった。波は荒くうねってどうとうち寄せ、波表のぎらつきは消え、海の色もくっきりとした水の透明感はうすれ、変わっていく空を映して淡く緑がかってくる。
 部屋のすぐ横の道路工事がまだ続いていて、コンクリートの土管に穴をあける作業の音は耐え難い。諦めて、洗濯や掃除やをするしかない。書いたり読んだりはやはり狭い自室の机の上がいちばん集中できる。よく、こんなに広くて部屋もあるのに四畳半に机もヴィデオもオーディオも本も置いて寝起きまでするんですか? と聞かれて、答えに窮することがある。たしかにそうだ。せめて寝室だけでも他にすればいい、と思うことはあるし、パソコン関係だけでもどこかに移そうかとも。でも、じっさい、きちんと使える部屋がないことやめんどくささやでそのままになり、何でもすぐ手の届くところで、気に入ったCDを聴きながら作業するのが、貧乏性にはあっているようだ。学生の頃最初に独りで住むようになった部屋は、なんと三畳半だった。それからすれば進歩だ。
 机は海に向いている。緑繁る庭の植木の向こう、海岸通りをはさんで広がっている。遠浅で穏やかな海だし、沖には島や砂嘴博多湾のさらに向こうの山並みも見えるから、茫漠とした海とか荒々しい玄界灘と言った趣はない。静かな湖のような海だ。それでも台風の時は道路の岸壁に波がすごい高さまで打ちつける。翌日、庭の植木はみごとに海側の半分を茶色に変色させられ、茂みや草花は潮で無惨に枯れてしまう。赤茶色の広がりはいかにも死に絶えたという様相でかなり酷たらしくあり、その度にふだんは寡黙な母があれこれ言うのもわかる気がした。そういう海を、窓の簾越しに見ている。もうじきこの簾も外せるようになる。緑がじかに目に入ってくる、低くなった光が部屋のなかまで入ってくる。それは喜び、そうして小さな哀しみ。
 菜園の夏は終了。プランターに別植えされたルッコラと、庭の隅のピーマンと唐辛子の収穫が残っているだけ。ほんとにどっさりの野菜と喜びをもたらしてくれた。何よりも父に感謝。そうしてあれこれの種や苗を分けてくれた友人や近所の人、もらってくれ、食べて楽しんでくれた人にも(野菜は集中してどっとできるものが多いので、必ず配れる相手を確保しておくことというのも、野菜作りのこつらしい。でないと採れすぎて腐らせたり食べ飽きたりで嫌になることもあるようだ)。幸い、余って困ったり、嫌になったりもせず、ゴーヤは少しは保存もできた。採れたての野菜は、何度も言っているようだけれど、ほんとにみずみずしくてかりかりっとしておいしい。野菜のあまみというのは改良された果実のような、刺激の強い甘みでなく、全体でやっと届くといったような、静かに遠くから伝わってくるといったかんじだ。新鮮だから、皮の固さもまだ中身と一体となっていて気にならない。トマトなんかは皮の独特の甘みも楽しみのひとつになる。
 父は近々大根を植えると言ってくれている。たぶん定番のほうれん草や春菊もだろう。寒さはほんとに嫌だけれど、庭の野菜を使った鍋は待ち遠しい。友人たちの、来年は是非ズッキーニを植えてねとか、ハヤト瓜もとかいう声もある。ぼくもまた期待にわくわくする。ピーマンは減らして、南瓜やオクラは止めて、ゴーヤを増やしてなどなど。いく枝か玄関脇にいい加減にさしていたハーブのうち、レモンバームが生き残った。あの暑さをのりきり、すごい生命力だ。鉢のローズマリー、イタリア種のルッコラも順調、来年は地面に植え替えようか。
 涼しくなり気候も穏やかな静かさをとりもどすと、澄んだ空気のなかであれこれの問題や悩みがスッと浮上してくる。つめて考えなければならないこと、集中してまとめなければならないこと、そういう先延ばしにしてきたことが、夏の宿題のようにばさりと目の前に広げられる。

 

菜園便り二〇
九月二〇日 晴れ

 我が家の菜園の終わりにかわるように、どっさり野菜をいただいた。千鶴子さんの実家、朝倉のお母さんがつくられたもので、茄子、ゴーヤ、韮、分葱、里芋、薩摩芋それに柿も。もう薩摩芋が採れるのにも驚いたし、どの野菜もいかにも自家用につくられたといったかんじで、手のひらになじみ、土もついて採れたばかりの柔らかさがあった。
 さっそく韮と玉子炒め、茄子と茗荷の即席和え、茄子のトマトソース煮(このためにバタバタとソースをつくったけれど、炒めたセロリやタマネギ、トマトを漉さないでミキサーで砕いてソースのなかにとかし込んだけど、悪くない)、ゴーヤと豚肉のチャンプルー、保存用のゴーヤのカリカリ漬け、みそ汁に分葱をいれ、薩摩芋は昼食として食べた(これは冬の昼食の定番のひとつ)。それでもまだまだあって、芹野さんにも少しお裾分けし、日持ちするものは東京の森さんにヴィデオのお礼もかねて送る。
 野菜は夏は生や即席漬けで食べることが多いけれど、そういう時に、つくり置いておいた梅醤油や梅酢が役にたってくれる。それだけをかけてもいいし、オリーブオイルやごま油、芥子を混ぜてドレッシングをつくってもいいし。酸味はさっぱりとして食欲を増してくれるし、食後も胃にもたれない。
 まだ菜園でもルッコラ、バジル、イタリアンパセリは少しずつ収穫できるし、ピーマンと唐辛子はまとめて採ってきた。乾燥させれば一年は保つだろう。父が胡瓜、ゴーヤ、トマトを全部抜いて灰や肥料を入れてくれ、四畝が冬の準備に入った。背丈ほども伸びて藪になっていたイタリア土産の野菜も新しく生えてきた小さい株だけを残して刈り取った。父はあちこちの畑などの状況を見てきて、どこそこではもう大根も芽が出てるとか、薩摩芋の茎と葉が異様に大きいのがあるとか知らせてくれる(ついでに茎を少々失敬してきている。これは明日のみそ汁にはいるのだろう)。中垣さんの娘さんの畑では薩摩芋ができ、白菜も芽を出したとのこと。冬へと向かっていろんなことがまっしぐらに進んでいく。振り捨てられるもの、だいじに抱え運ばれるもの、そっと土のなかにしまわれること、さりげなく通り過ぎられて喪われること、いつまでも剥きだしでとびだしているもの、まるで永遠にそこにあり続けたかのようにごろんところがっているもの。
 夜はもう完璧に秋になったけれど、日中はうす寒い日と三〇度になる暑い日が交互にあってめまぐるしい。芙蓉はまだ咲いていて切り花にできないのが残念だけれど、その下には水引草が咲き始め、いっぽうでは向日葵もまだまだ続いている。秋の百合は中途半端に終わり、菊はまだ姿を見せない。ローズマリーも薄水色の花をつけ、化粧花は夕方にはまだ匂っているし、ゼラニウムも気まぐれに咲いたり消えたりしている。それらの隙間に名前も知らないいろんな草花がおい茂っている。

 

菜園便り二一
九月二二日晴れ

 強い風の吹いた二一日アジア・フォーカス映画祭のモンゴル映画「ゴビを渡るフィルム」を見に行って、FMF(福岡フィルム・メーカーズ・フィールド)の宮田さんに会った。こういう偶然がしょっちゅうあるから、福岡という街の大きさのちょうどよさにいつもうれしくなる。おまけに映像作家のかわなかのぶひろ氏といっしょで、紹介された後、厚顔にもいっしょについて行って氏が発見した川端の川沿いの五〇年代的な喫茶店(ぽこ)、図書館ホール、そうして西新での福間さんとの呑み会にも参加。さらに最後は福間さんのお宅へお邪魔し、子供さんや、文字どおり生まれたばかりの子猫五匹にも会った。草木がいっぱいの、イチジクも採れるすてきなお宅だった。驚くほど大きなローズマリーもある。悪い癖でついちらっと本棚を覗いたりして、ポールニザンにニヤッとしたり。かわなか氏の仕事での来福にあわせて彼の「私小説」などの上映会も、福間さんたちの手で行われる。
 その強い風のなかを西鉄の最終電車で帰ってくると原口さんからの厚い郵便が届いていた。ぼくが「水平塾のみんなへ」という形でだした問いかけへの応えでもある。とにかく返事がもらえてうれしいし、これからまたいろいろ考え討論していくもとにもなってくれるだろう。当然のことだけれどいろんなことは互いに伝わらないことも多いし、感情的になってしまうこともある。そういうずれをかろうじて決定的な違いとしてしまわないでいけるのは、時間をかけて積み上げてきた関係であり、そこに込められたことばを越えた思いだろう。壊れるときはあっという間、ともいわれるけれど、でもそうそう簡単につながりは切れたり喪われたりはしないものでもある。自分を見ててもそう思うけれど、人はみんななかなかにしぶとい。喪われ消えてしまったように思える関係が、歌のように灰のなかから甦ることもある。憎悪というのも関係である、といったようなレトリックでなく、ほんとにたいせつなものはどこかでたいじに抱え続けられているものだろう、互いに。
 こんなにも遠くまできた、ただうちのめされるためだけに、といった感傷的なまでにパセティクな思いはないけれど、でもことばにはぜずとも、だれもができれば遠くまで行きたいと願っているのはたしかなのだし。

 

菜園便り二二
九月二六日 晴天

 軒下の簾を外した。庭の植木がぐっと伸び上がり、近く、大きく見える。整然としていた遠近が揺らいで、全部がどっとひとかたまりに飛び込んでくる。遠近、大小、緑の濃淡や色彩、そういったぼくらが習得し日頃馴染んでいる距離感が、突然開かれたドアから外を垣間見た瞬間のように一気に崩れ、そうして再度立ち上げられる直前に、餓えていた視線が一息に全てをまるごと取り込んでしまったためだろう、たぶん。見えるということはそういうことだと思う。もちろん樹木や植物それ自体の力、緑という色の力が、つまり光がぼくや世界の枠組みをちょっと揺すったのだろう。遠近、識別、色彩感覚、そういった肉体機能、「本能」と思われているようなものも、創られたものでしかないこと、それもかなり狭い時代や場所内での約束事でしかないと思い知らされる。
 見ること、見えること、知覚や認識の不思議さ曖昧さを、図書館ホールが開催した「カメラマン田村正毅特集」のパンフレットにもどうにか書こうとしたけれど、ほんとに難しい。ひとこと、観念を、つまりそういう見え方を共同で立ち上げて、その反映をいっしんに浴びているんだといってみても、誰もがそうだね、といった返答をすることぐらいしかできない。知覚がそうである以上、ましてや「知」やそれが生みだす「文化」はまさに観念そのものの組立でしかないし、その上にたつ民族や国家という概念が空疎なのはいうまでもない。そうしてそれは空疎であればあるほど、真空のようにその内へ人を引きずり込む異様なまでの力を持っている。そうして人は常に全体の(隣人の)動向を無意識のうちに伺いつつ、同調しつつ生きているから、素早く気分を察知して瞬時に自身を取り込ませてもいくのだろう、積極的に。だれにも身に覚えのある、目を開けていられないように底なしに恐くてでも放棄しきって麻痺した恍惚とする感覚だろう。

 

菜園便り二三
一〇月一日

 とうとう十月になった。今夜は十五夜、父が柴を刈りに行ったついでにススキを一群採ってきてくれた(でも「山に柴刈りに」なんておとぎ話のなかにしか生息しないことだと思っていた、つい最近まで。でもこの柴は薪でなく、神棚に供える常緑樹の柴)。月は冷たく澄んで、玄関の床にかたいくっきりした光を投げている。明るすぎて気持ちがざわざわする。
 昨日のまる一日続いた雨で、大根はもう芽を出した、すごい。ほうれん草は種が古かったらしく、芽を出さないと父はこぼしている。庭のピーマンは青も赤も黄色もみんな元気でまだ実り続けている。唐辛子は全部摘んだら、また青いのがでてきたし、茄子もここにきて、短い茎を生き生きさせている。ルッコライタリアンパセリ、バジルもかわらずに少しずつ摘め、青紫蘇も先の柔らかい部分はまだまだ食べられる。初めてレモンバームの葉を採って、アイスティーにいれてだす、すごく強い香りだった。喜びは続いている。
 本村さんに茗荷をどっさりいただいた。採りに行きますといっておきながら、結局、彼女の近所の千鶴子さんに持ってきてもらった、申し訳ないけれどでもおいしい、うれしい。西田さんや、ビールとカボスを届けてくれた妹にもお裾分けをする。是非もう一回採りに行って、冬のための酢漬けもつくりたい。菜園の秋茄子を初めて採って塩もみにしてお昼の素麺といっしょに食べた。皮がかためで、でもそこに甘みがあって噛むほどに味わい深く、美味。涼しくなってまたなり始めた秋の茄子は、細めで短く、触ったり切ったりしたときのあのスポンジのようなふわふわ感がなく、引き締まって詰まっていて、切るときもさりっさりっといったふう。気のせいか色も紺が深まったようだ。
 偶然にも同じ日に父が知り合いの畑から、茄子と分葱をもらってきてくれた。ほっそりとして、鮮やかな茄子と、きついほどの香りのたつぱりっとした分葱。葱はさっそく茹でてしばって、幸枝さんにいただいた梅味噌であえていただく、歯の間できしきしと鳴っておいしい。余田さんにも広島からわざわざ買ってきてくれたパンのお土産のお返しに少しお裾分け。
 野菜が周り廻っていくのはなんかうれしいし、すてきだ。収穫を楽しみ喜び、じっくり味わい、その気持ちをだれかにあげたり、またいただいたり、あれこれ調理したり、漬け込んだり、遠くに送ったり、送られてきたり。
 今日は珍しく人の訪れが多かった。美術展に使うために草野貴世さんが障子をとりにみえ(だからぼくの部屋に今障子はない)、石津まちこさんがお盆のお礼にみえ(久しぶりに珈琲をのんで話せた)、余田さんがレッスンにみえ(イタリア行きは中止になったとのこと)、電話も森山さん、西さんからあった(やっと森山さんの個展のパンフ原稿を送ることができてほっとする)。宮田さんと貘の小田さんから封書が届き、ユマニテから案内が届いた。こうやって静かに着実に秋は深まり、季節は移ろい、人は死んでいく・・・ではなく人は黙していく(ほんとに?)。

 

菜園便り二四
一〇月九日

 札幌にいる姉が父に会いに一週間ほど来てくれた。恒例の庭での月見・誕生会をその時期にあわせてくれたので、姉もいっしょに楽しむことができた(芹野さん、渡辺さん、それに飛び入り誕生の友池さんが、やさしく賢い天秤座だった)。かなり遅くなってあがってきた少し欠けた月は、さすがこの時期の冴えわったった光を放っていて、自分の後ろのくっきりした影を意識させられたりもする。
 姉が来てくれる度にいつも思うけれどほんとに家事の手際がいいし、すごい量をさっとこなしてしまう、特に洗濯や掃除。今回もあれこれやってくれたうえに、もう何年も気になっていた2階の部屋の障子の張り替えもやってくれた。手伝っていてもそのスピードに圧倒されて、おたおたしてしまう。「家事」は奥が深い、実に・・・・。
 そうしていつものことだけれど、姉が帰った後は気抜けしたようにがらんとした家になってしまう。秋の強い風が吹いて、いっそう寒々しい。でもそういうことはたぶん一日で慣れることができる。何かが決定的に喪われるということとは全くちがう、あたりまえだけれど。姉がいる間は、客も多い。兄や妹が家族連れで来るし、従兄弟も孫を連れて来てくれた。
 新しくなった真っ白い障子に、まだまだ強い日射しが反映して、体が包まれて浮き上がるようでうっとりする。家中全部の障子とカーテンを新しくしたらすごいだろうと一瞬考えたりするけれど、そういう過激なことは思わない方がいい。過剰な期待は現在への(現実への)憎悪をつのらせてしまう。強い風のなか高く揺れる咲き残った芙蓉の花やその細い枝、椿の光る葉を見ているだけで、充分というものだ。根本には水引草さえ群れている。
 父は散歩の帰りに野草を摘んできてくれる。見たことはあるが名前は知らないものばかり。ぼくも買い物の帰りに白爪草を摘んできた。春の花だと思っていたから、戸惑う。遅いのか早いのか。宮沢賢治の「ポラーノの広場」にも重要な役割ででてくるけれど、あれは季節はいつだったろう。彼の作品には動物も植物もたくさんでてくる。よく、いちばん好きな映画は?とか、いちばんいいと思う協奏曲は?とかいう質問があって、応えるのはほとんど不可能だけれど、賢治の作品で何がいちばん好きか?というのも難しい質問だ。好きなものが多すぎることもあるけれど、丁寧にうまく答えないと全くの誤解を生んでしまうような気がする。彼の作品は深読みしすぎても教科書的に読んでも、失敗する。宮沢賢治の表現は、すごく素直に、書かれたまま、ことばそのままに受け取ればいいのだろう(例えば「春と修羅」序文のあの有名な「わたしという現象は・・・・」というのは、わたしがかくとした不滅な現存でなく、「因果交流電燈のひとつの青い照明」でしかない、仮象の現れでしかないということ、「歴史」や関係の網の目のなかで、そういうふうにその時代の現在のなかに現前しているだけだというようなこととかも)。でもそれをどうとるか、どう考えるかは人によってかなりちがってしまう。
 二〇代の頃は「グスコーブドリの伝記」やその異稿「ペンペンペンネネムの伝記(ほんとは「ペンネンネンネン・ネネムの伝記」だった)」、「北守将軍と三人兄弟の医者」などが奇妙で不思議な異郷性があって好きだった。どこでもないどこか、でもノスタルジアに満ちた場。黒テントが小集団で(たしか、紅いキャベレーとかいった)上演していたことも影響していたと思う。
 今もすごく好きな作品のなかに「ひかりのすあし」がある。このことは人にはちょっと言いづらい。読めば泣くしかないので、あまり手にも取れない。あれにも同じような似た作品がある。たしか子どもが救われるもの(文庫版の賢治全集は揃えていたけれど、五巻、六巻が見あたらなくて、たしかめられない。たぶんデトロイトに置いてきてしまったのだろう)。彼にはいろんな草稿や異稿と呼ばれるものがあって、完成されないままとも思われているけれど、でも彼はどこかで、全体で表現だと考えているようなところもあり、ふつうの意味での作品の完成という概念をずらしてしまっているようにも思われる。だから文体としてもうまくてすごくまとまりのいい「セロ弾きのゴーシュ」より、曖昧な「銀河鉄道の夜」のほうが不可思議さやその奥の暗さがあって、細かい部分に躓きつつも、いつまでも気にかかってしまうのだろう。

 

菜園便り二五
一〇月一八日

 昨日の朝、水を冷たいと感じた。二日続いた雨のした、夜は冷え冷えとして、なにかたまらずフリースまで着て茫然としていた。もう、初冬か!? こんなだと一年の半分が冬だ、いくらなんでもそれはひどい。でも、確実に冷たさは押し寄せてきていて、昼間の暑いほどの日射しも、影になる背中には薄ら寒い空気の動きが感じられる。戻ってきた鴎が群れている海岸を、セーターを着てずっと歩いても汗ばみさえしない。夕日は巨大なオレンジ色で、見てる間にするすると沈んでいく。後に残る一捌けの雲にかすかな夕焼けが反映している。光線は低く長く、白っぽく透明になる。
 そんな冬の前兆のなか、秋植えの野菜がもう収穫できるようになった。月曜日にレタスをどっさり摘む。久しぶりに「どっさり」の文字。緑、紅、丸くなるタイプと三種あり、どれも勢いがいい。大根のはざびき(間引き)も始まった。朝のみそ汁に、柔らかくておいしい。ほうれん草以外は、葉ものも順調に伸びている。夏のピーマンと唐辛子、それに茄子もまだまだなり続けてくれている。緑のピーマンは炒め物や揚げ物、肉厚の黄色や赤はサラダに。ルッコライタリアンパセリ、バジルもまだ時々摘める。雨が多いせいか、二年越しのイタリア種の鉢植えのルッコラはぐんぐん葉を広げている。いろんな楽しみが続く。
 頂き物も多い。千鶴子さんから、また朝倉のお母さんの野菜をどっさりいただいた。茄子、分葱、薩摩芋、里芋、ゴーヤ、いんげん、柿。あれこれ料理していただく、定番のゴーヤ・チャンプルー、茄子味噌炒め、素揚げ。茹でただけのいんげんの少しあおくさい甘み、ぬるりとした里芋の感触。昼食に薩摩芋と馬鈴薯を焼いて食べる、ちょっと胸焼けするけれど、あつあつでおいしい。この馬鈴薯は姉が北海道から送ってきてくれたもの、たっぷりバターをのせていただく。
 庭の最後の向日葵を摘んできてコップにさす。カンナの大きいのが残っていて、それも切ってくる。菊はまだかたい蕾。雨が続くと、ゼラニウムは花をつけなくなり、かわりに植木の下の雑草がいっせいに小さな花をつけては慌ただしく散っていく。かろうじて孵化した最後の小さな蚊が狂ったようにキンキン羽根をならして顔の周りを飛び回る。刺したところで、もう繁殖には間に合わないだろうに。ゴキブリや小蠅もこの時期はうるさい、必死な様相をしている。
 宮沢賢治のことを少し書いたら、返事があった。作品集(彼の生前に出版した唯一の童話集だ)「注文の多い料理店」の序文を全文書き写して送ってくれた。その行為自体に、軽い目眩のような小さなショックを受けた。そういうゆっくりとした時間の取り方、リズム、そういうまどろこしさを厭わない落ち着き、それが賢治の作品を読むときに必要だともわかる。簡単なことばだし、短いから、さっさと読めばあっという間に終わる、意味も取れる、「なーんだ」ぐらいでもう次のページに移る、ぱっぱと捲って終わり、「それで?」。そういう読み方ではおそらくなにも伝わってこない。
 「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃色のうつくしい朝の日光をのむことができます。・・・・・」ぼくに書き写せるのはここまでだった。次の文章を素直に写せなかったり、メールの文章をコピーすれば一発でできると思ったり、書き写すことで自分を賢治を使って底上げしているような気になって、できなくなる。静かなゆったりとした気持ちで、ひとつひとつのことばを、音を、手のひらに載せてながめ、唇にのせるようなそんなゆとりがない。どこかあくせくと落ち着かなさに追いかけられる、こんなに暇にしているのに。
 「ひかりのすあし」と対になっている作品のことも教えてくれた、「水仙月の四日」。その最後はこうだ、「そして毛皮の人は一生けん命走ってきました。」これは赤い毛布(ケット)で雪に埋もれている子どものお父さんのこと、そうして男の子は雪の下だ、たぶん死んではいない。吹雪が終わり、雪の上のギラギラした日の光を浴びて、どこもかしこも輝き光り満ち、雪の下に横たわって細く小さく息しながら眠る子と、かんじきで必死に急ぐ父と。遠い小さな雪煙、低い風の音、微かな狼の声。

 

菜園便り二六
一〇月二六日

 朝、電話があったせいかもしれない。午前中元気がよくて、久しぶりにフリー・ジャズをかけた。コルトレーン。といっても「至上の愛」とかでなくて、もっとやわらかめのもの。それでもやっぱりフリーしていて、それを、もっとくずせ、がんがんやれ、みたいにちょっと興奮して聴いた。ふだんは最初の一音で、あ、だめだ、ときってしまうことも多いのだけれど。
 ジャズのレコードやCDは少ない、あわせて三〇枚あるかないか。キースジャレットやチック・コリアビル・エヴァンスそれにビリー・ホリデイだけが複数枚あるぐらいのさみしさ。そういったなか、ジョン・コルトレーンだけは、゛燦然と輝いて高みに君臨して゛いる。コルトレーンの隠れ熱狂的ファンの鈴木君が、テープに五本(エリック・ドルフィーも含め)もダビングしてくれたもの。ハードなものから(それがほとんどだけれど)静かでせつせつとしたバラードっぽいのを集めたものまである。ちょっとすごい。でもやっぱりそんなに頻繁には聴けない。ふだんはキース・ジャレットの「The melody at night with you」とかビル・エヴァンスの「自己との対話」、チック・コリアのソロとかを聴き流すばかりになってしまう。
 宮沢賢治のことを書いたらいくつも返事があった、さすがだ(ぼくの書いたものへの「反響」としては前代未聞だ)。「風の又三郎」が好きだと教えてくれたのは宮田さん。「下の娘が生まれたての頃、風がほほをなぜていった時、風の行った先へ目線を動かしたのが、私にはとても大きな発見でした。まるで風の女神の触手が見えたかのように。」
 不思議な気がするけれど、賢治の作品の゛学校の同級生もの(風の又三郎銀河鉄道の夜)゛はどこか暗くてさみしい。ふつうはこういう学校ものは元気だし、切ないくらい友情が濃く、甘やかな感傷と凛とした潔さがあり、結局だれもが成長して別れていく、過ぎ去っていく。でも彼のはどこまでもどこまでも、いなくなっても続いていき、でも現象としては死に、去り、決定的に喪われるものとしてある。その落差に読むものが引き裂かれる。どちらにもなれない、どちらもが両方同時にある、喪われることと永久につながっていることと。それは、人が現在の世界のなかで生きて生活していくなかでかかえていくには重たすぎ、辛すぎるものだ。永遠の歓喜や無限の闇に耐え得ないように。だから少し大人のさりげなくやさしくさみしい「ポラーノの広場」なんかが落ち着いて読めるのかもしれない。遠く去った時と場所をどこかで追憶するものとして。しかもあれには「姉」もでてくる。けして具象化しない、永遠の、しかも母のように巨大すぎたり圧倒したりすることのない、やさしさとして。健気ででも美しい陰りがあって、弟がいて。
 森さんからもメールがきた。彼はぼくのいうなればクラシック音楽のお師匠さんで、ほとんど全部を教わったし、仕事も山のようにくれたし、パバロッティ、キリテ・カナワ、ラド・ルプー、リン・ハレル、ギドン・クレーメル、ヨーヨーマ、スターン、アンドラーシュ・シフ、ラ・ローチャ、チョン・キョンファなどなどを聴かせてくれたし、ホグウッド、ショルティアシュケナージ、ドュトワ、ホルヘ・ボレットなどと仕事で食事できたりしたのも全部彼のおかげだし、あの三〇〇枚を越すCDも全部そうなんだけれど、やっぱりというかさすがというか、賢治とブラームスがつなげてあった。「(賢治は)とても個人的な、マイナーな人だったような気もします。宮沢賢治の事を思い出すとどういうわけだかブラームスの音楽が聴きたくなります。ブラームスもとても内向的でいて、あのようなほとばしるロマンを秘めていた人でした」。
 賢治のロマンティシズムはみんななかなか語らないし、たしかに扱いかねる。ぼくもときには視れなくなる、とくにどこかでふっと感じるエロティシズムやどこまでも暗い陰りに。作品のなかで、元気にどこまでもひとりでずんずん歩いていく姿の時などにそれはすっと現れたりする。初期短編に繰り返される、父との離反と抱擁にはさっと後ろを向いて逃げ出したくなる。もちろんそれはぼくのなかで増幅されてそうなるのだろうけれど。
 それから月の明るい夜に、亀井久美子さんがお皿を受け取りがてら、寄ってくれた。ちょうど部屋に賢治全集がでたままになっていて、あれこれ話した。彼女の好きな作品は「雪渡り」。兄妹が狐の学校の幻灯会に招かれる話しで、堅雪かんこ、凍み雪しんこという囃子ことばと、キック、キック、トントンというオノマトペというか擬音が繰り返される。「読むと泣けてしまうのよ」と言われて、ついいろいろ推測したり、フロイドしたりしてしまう。賢治の作品は、読む人それぞれの「心」の様々な部位に全くちがう形で度合いで触れてくるから、何故?と問うことからはほとんど何も見えてこない。でもふっと全部わかったりするという、奇跡のようなこともあったりする。「知」じゃないから、「全て」が含まれているからだろう。

 一九日に従兄弟が亡くなった。五三歳。年も育った場所も近かったし、親しい親族のひとりだったっから、あれこれ思わずにはいられない。ぼくよりも兄のほうがもっとずっと堪えているようだ。叔母が亡くなったのが七月だから、直接の家族はほんとにたいへんだと思う。まだあれこれのやらなければならないことも多いだろうし、その後もずっと続くものだし。
 別離や決定的な喪失である死に曝されるとき、やはり「存る(アル)」ということを考えてしまう。実在する、形がある、生きている、といったことの意味。ものも人も現前して存るように見えているものは、それは存ることを前提とするから、つまり存るとして今の世界像(世界観といってもいいのだろうけれど)を共同で立ちげているから、存るので、それは一種のトートロジー(同義反復)でしかない、存るから存るといった。絶対存在としての、先験的なものとしての具体・世界があるのかという問いでもあるだろう(例えば存るとしてみたとして、それをこういう形で認識しているということへの問いとしても問えるものだ)。そこを少しでもずらして感じ、考えられれば、当然のように世界像の全体が変化し、根源的にちがって感じられ、見えてくるだろうし、そこでは生と死や個、それに人や性別という概念も全くちがってくるのだろう。全ては現在の、今の世界観のなかで生起してその内で感じ、考えられていることでしかないのだし。
 臓器移植が進むなかでだされてきた脳死という概念は、人の生と死の境界の曖昧さを巧みに使いながら強引な一線を引いたけれど、もう少し踏み込めばそもそもどこからが死でどこまでが生か、だれも確として語れないのがはっきりしてくる。それに対して「決定的に喪われるじゃないか」という明解な答えが返ってくるけれど、でもそれは、人、個をどう考えるかで変わらざるをえないものでもある。肉体はもちろん精神も、その個体性は歴然としているし、その境界は絶対的に具現している、確実にあるというのも、ひとつの現在の世界の認識の形、概念でしかない。ほんとにそうなのだろうか?わたくしは、個は、決定的なまでに自立し独立し=疎外されているのだろうか?具体として、分離しているのだろうか?それは現在という世界のある現象をある面から見ているから、そう見えるだけではないのか?こういうときすぐ現れるのが実証主義的な反論で、その根拠には近代の自然科学が多いに援用されるけれど、それはもう反論するまでもなく、ひとつの超観念といってもいいくらいの異様に肥大したある発想の極端な徹底化でしかない。
 こういうことを語ろうとするとどうしても性急でことば足らずになる。今日の標語、「時間をかけてゆっくりと」
 菜園からは四、五日おきにどっさりのレタスが採れ、大根や蕪、ラディッシュが間引きされてくる。ルッコラ、イタリアン・パセリ、バジル、ピーマン、唐辛子それにふつうのパセリも少しずつ続いている。みずみずしいいろんな緑ばかりのかたまりを洗っていると水が色づき、手が染まっていくような気分になる。細くてつるっとした唐辛子の赤が際だつ。菜園のほうれん草は弱々しい葉がひょろりと少し伸びただけだけれど、その横の春菊はひしめき合って育っている。同じ畝の端が余ったからと後から父が蒔いた春菊はまだ芽も出さない、不思議だ。茄子はもう茎自体がくたっとして、全体が茶色っぽくて花はつけるけど実は育たないようだ。寒さが近づいているし、何より日照が短くなったからだろう。レタスも夏のものに較べると、その伸び方が速い。もう芯が立ち始めているのもある。間に合う内に大急ぎで花をつけ「子孫」を残そうとしているのだろうか。庭の半分を覆って広がり続ける菊はいっせいに小さな花を開き始め、香りをわきたたせている。

 

菜園便り二七
一一月三日

 今日は一一月三日。特異日と呼ばれる、必ず晴れになる日のはずだった。過去一〇年間はそうだった。何故はっきり言えるかというと、一一年前に帰郷してからずっと、近所にある(実はぼくも一年だけ通った)聖愛幼稚園のバザーに行っているからで、それはぼくが親しく頻繁に行き来していて、順家族とでもいったつながりのあった亀井家のみんなととだった。たしか亀井家の近所に幼稚園の母胎である日本キリスト教津屋崎教会の信者総代のような方がいて、そのすすめで彼らがバザーに行くようになりぼくも誘ってもらったのだった。最初はよくわからずにきちんとジャケットを着たりして出かけて、でも変に浮き上がったりもしなかった。おおらかで、のんびりして、でもどこかしらきちっとしていた。チケットを買ってカレーやうどんやコーヒーをいただき、古着の山をのぞいたり、熊本教会からのオレンジや紅茶のパウンドケーキを買ったりした。あのケーキは甘すぎなくてやさしく、でもしっかり濃くて、母が好きだった(一度は出しっぱなしにしていてネズミ!に持って行かれたこともあった。ネズミも好きなくらいおいしい)。
 とにかく、過去一〇年間は晴れだった。亀井家のみんなとも行かなくなり、雨の中ひとりでぽつんと仮設テントの下でコーヒーをのんでも、ただせつないだけだと言えばそれはそれでかっこうつくけれど、でもけっこう楽しい。子どもと身近に接することのないまま今に至ったので、幼稚園くらいの子どもやいっしょに来ているもっと下の子どもたち、その両親や大人たちを見ていると興味が尽きない。降りしきる冷たい雨の中をサンダルだけの裸足で水たまりも走りまわる子もいるし、「傘を持った兄ちゃんに着いて行け」という父親の声に飛び出していく弟は、遠い兄貴の傘なんて気にもしていない。母親たちはいつもと変わらず、といった風情で子どもたちにあれこれ口やかましく言いながらもほっぽっているし、父親たちもたまの家族との同行に戸惑うといったふうでなく、いつもやっているといった様子で子どもを抱きかかえたり、食べさせたり、まわりのみんなに冗談を言ったりしている。給仕したり、売り子しているのも同じ幼稚園の父姉たちや信者の会であり、時々の会合やこういった集まりで互いに見知った顔でもあり、日常的にも゛誰それちゃんのお母さん、お父さん゛の世界でもあるのだろう。目が合うとちょと照れたようにふっと笑って、でも後ろからしがみついている子どもに手をまわしつつ、映画に走る上の子に百円玉をいそいで渡している。「場所はわかってる?」母親から声が飛ぶ。「ホールよ、今年は、わかった?」返事もせず傘も持たずに彼は雨の中へ。
 今年は古本はほとんどでてなかった。古着も子どもと女性のばかり。どこのバザーでも見かける、だれも使いそうにない奇妙な色のタオル類や引き出物の食器が並べられている。オーストラリアのお土産らしい、アロハと言う名でインドネシア製という、今という時代そのままの複雑な出自の半袖シャツと麻の白いズボンを買う。六〇〇円。来年の夏の楽しみ、になるのかどうか。なかなか使いでがあり役に立つ乾燥こんにゃくと、みずみずしい蕪も買う。
 少し雨足の弱まったなかを荷物を提げて帰ってくる。二〇分ほどの道は、乗馬クラブの厩舎を過ぎると海へと曲がる。かすかな勾配の向こう、松をとおして薄明く光る海が見えてくると、わかっていても新鮮な驚きや喜びが湧いてくる。視界が思いもかけず開けたときの感動が、またはその記憶がさっと立ち上がってくる。伊豆、古賀、オハイオ、箱根、別府、グモンデン・・・・。その時々の喜び、しんどさ、そうしてだれといても必ずおこる、ひとりであるという、さみしさというには透明すぎる思い。

 

菜園便り二八
一一月一一日

 最近の菜園はすごい。三、四日おきにどっさり採れる。夏が終わってから父が植えてくれたレタスが最盛を迎えて繁っているし、ルッコラもここにきて夏のような勢い。伸び上がった茎の根本にも上にも葉を茂らせている。色も濃く、少し硬く、香りも辛みも強い。花が咲いているのもあるけれど、イタリアの種のルッコラと違い白い花(イタリアのは黄色)。どちらもアブラナ科のような花だ。辛みもあるしきっとそうだろう。ふつうのパセリ、イタリアン・パセリもしっかり葉を広げ続けてくれている。雨が元気のもとのように思える。
 ピーマンもまだまだで、緑と黄色が元気になり続けている。特に黄色は夏とちがって虫がつかずに大きくなるまでおいておける。肉厚の大ぶりのピーマン(パプリカ)は甘くておいしい。そのすぐ脇の唐辛子が一度終わった後また花が咲き毎日どんどん赤くなっていく。時々まとめて摘んで、干している。とにかくすべすべしていて朱に近い赤色がきれいだ。
 冬野菜の春菊も間引きをかねてもう収穫が進み、鍋にどんどん使える。豆腐と春菊だけの湯豆腐もおいしい。間引きの大根や蕪は毎朝のみそ汁にはいっている。それからラディッシュが採れ始めた。これは以前借りていた畑でもつくってなかったから、全くの初めてのもの。赤い玉が土から少しのぞいていて、可愛いと言うより、いかにも美味しいそう。コリコリッとしてぴりっと辛くて、ちょっとまだらに染め付けたような紅色も鮮やかで、菜園サラダがぐっとひきたつ。オリ-ブオイルと酢だけのシンプルなドレッシング。梅酢や梅しょう油だけでも美味。ひょろっと淋しいほうれん草の向こうに父はサヤエンドウを植えた。来年の春を待つ。
 新聞には苺の収穫が始まったとでていた。とにかくクリスマスにあわせるためにと早くなりはじめた苺が今や一一月初旬。以前仕事で農業試験場筑後の農家を見学に行き、冷蔵される苺の苗や乳牛に産ませる肉牛、一代雑種の地鶏のことを聞いて驚いたけれど、もうそんなことさえ牧歌的なことがらにしか響かないようになったのだろうか。
 一〇日は、父がよい歯のコンクール・シニア版とでもいうものの表彰式にでかけた。一昨年宗像地区の大会で一等賞になり、今回は県の表彰となった。きちんと背広を着て、勇んで出かけて行った。全部歯が揃っているからきっといい賞になると張りきった父の思惑に反して、優劣はつけずに全員が優秀賞をもらったらしい。父は拍子抜けしたようで、場所もわからんし、それで時間に遅れるし、言ってることは聞こえんし、と夕食では不平がが続く。せっかくのおめでたいことだからと、お赤飯と鯛の煮つけを用意していたから、それは少しはうれしかったようだけれど。土曜で並んでいる人が多くて、岩田屋蜂楽饅頭も買えなかったと、また怒っている。
 やっと水平塾が開かれた。五月の「松永さんを偲ぶ会」、六月の中垣さんのコンサートを別にすれば、八ヶ月ぶり。久しぶりに会う顔もある。ぼくがあれこれ言ったり書いたりしたことも長い中断の原因の一つだろうから、ほんとにほっとした。みんなにこにこしている。初めての顔もある。片山恭一さんの「過剰さのなかの文学」というタイトルでの話。事前の資料もあり、密度のある内容だったけれど、それに見合った充分な討議の時間がなく、来月もう一度やってもらうことになった。今の水平塾にちょうどあうテーマで、ぼくもあれこれ考えさせられた。いつものことだけれど、塾の後の食事会(のみ会)やコーヒーも楽しい。このときの方がかたくならずによく話せるし深まるし、こっちがメインだと言う人もいる。片山さんも、それから初めての斎藤秀三郎さん、キム・テヨンさんも最後まで参加され、あれこれ、音楽の話もできた。こういうところから人は人と少しずつつながっていけると思う。バッハとキース・ジャレットちあきなおみが好きな人、とかとして。ブルックナーのことを片山さんが書いていたのを読んだことがあるので、すごく好きなんですかと聞くと「見栄ですよ」と軽く言われてみんなで大笑いした。そういうふうに言えば、ぼくはショスタコービッチとドアーズとコルトレーンミスターチルドレンが好き、ということになる。胃の痛いときには聴けそうにない人たちばかりだ。
 また酔っぱらってひとりあれこれ勝手にしゃべって、翌日の苦い反省までのひととき、ちあきなおみをひとり歌って帰る、「・・・ああ死んでしまいたい雨の街角・・・好きで別れたあの人の胸でもう一度・・・」。歌謡曲って、やっぱりすごい。文字にすると気恥ずかしいどころじゃすまない。「あなたは気づくでしょいつかわたしの真心にだけど悲しい目をして探さないでもういいの・・・」。
 稲妻が走る、犬も吠える、海は暗く濁って繰り返し繰り返し打ちつけている。 

 

菜園便り二九
一一月二五日

 朝の電話で告げられて、あわててメールをあけると四通もきていた。うれしいし、なかみも静かであたたかいものだった。ちょっとしんとした気持ちになる。遠くに住む友人にいろんなお礼もあって、菜園の野菜をあれこれ、初めての試みとして送ってみた。熱や重みでぐちゃぐちゃになったりするかと心配していたけれど、葉ものも花も全部無事着いたという知らせも届いていた。
 友だちというのは、出会った時期や場所がとうぜんにもあって、それは世代論ではないけれど、七〇年代とか八〇年代とかでまとまるところがある。それはぼくの生活が、八〇年、九〇年でかなり劇的にかわったからでもある。一九八〇年に元麻布という所に越してそれまでと全くちがう形での新しい生活を始めたし、九〇年にそれまでの全部から切れてしまうように、郷里の津屋崎に戻ってきたとかいったような。それと一九五一年生まれだから、それぞれの一〇年(ディケイド)が二〇代、三〇代と重なることもあって語りやすいからかもしれない。
 七〇年代は学生生活とその延長だった。ちょっと米国の大学にいたりもしたから七五年まで「学生」だったし、その後も友人の所に居候してアルバイトをやった後、先輩の始めた印刷会社に勤めたから、周りには迷惑をかけつつ本人はずいぶんのん気にしていた。友人たちと「ピストル」という同人誌をだし、飛行商会という小さな出版社をでっち上げて、作品集をだしたりもして、「学生」気分は続いた。だから七〇年代は学生時代の友人とほぼ重なっている。残念ながら米国でのアジアからの留学生を交えた関係は全部切れてしまった。すごくお世話になったバーベロさんご家族とも、ぼくの不義理と、ご夫婦が亡くなられたことで、音信は絶えた。七〇年代の「学生」友人は、会えばそれだけでもうもとのままになれるけれど、日頃はほとんど音信不通がふつうになっている。
 八〇年代はぼくにとってもすごくバブリーだった。まるでだれも時代から逃れられない、を絵に描いたようだ。サラリーマン生活と新しい共同生活で生活は安定し、精神的にも落ち着いていた。先ず書くことをしなくなった。『フリーウェイの鹿』という小さな作品集をまとめることでなにか精算してしまったようなところもあったのだろう。
 会社勤めを止めフリーになってからは、時間にも余裕ができ、ハッピーで楽しむばかりの生活になった。時代もルンルンしていた。八〇年代はぼくの三〇代、心身共に過剰の時で、とにかくのんで食べて旅行してということになった。そういうとき人は内省的に考えたり書いたりなんてできないものだ。それに村上龍村上春樹もでてきて、いろんなことはすでに書かれてもいたし。だから八〇年代の友人とは、のんだり食べたり、旅行したりの思い出が多い。そうしてすぐにあっけなく切れてしまって夢の彼方、かというとそうでなく、まったく逆に今も頻繁に手紙やメールを交換し、電話でも話すし、あれこれ送ったり送られたりしている。年齢的にもちかく、かつ生活の形や生き方の基盤が似ているからだろうか。どこかに、支えあうといったような意識が小さくあるのかもしれない。時代のせいもあって「消費」的なこと、嫌なことばで言えば「趣味(テイストというような意味の)」が近いということもあるのだろう。いい音楽を聴くこと、美味なものへの関心、芝居や映画や絵画、新しい話題に添うこと、いいレストランとバーをしること、そういうものへの飽くなき興味と偏愛と、それを支えるエネルギーと経済的な裏打ち。子どものいない友人たちが多かった。たくさんいた外国人の知りあいとのつながりはほとんど消えてしまったけれど、ほんのわずかな人が残ってくれた。
 九〇年代は、福岡での新生。偶然、「現代美術」に仕事で関わったことから一気に美術作家を中心に友人ができ、いっしょにあれこれしているうちにいろんなことに加わるようになった。必要に迫られて企画やパンフのための文章を書くうちに、新聞などの展評なども頼まれたりし、再び自分の「作品」も書くようになった。両親との生活での新しい家族関係。経済的にはぎりぎりの質素で落ち着いた、時間と見渡せる空だけはあり余るほどの生活。完全に蓋を閉ざしていた「社会」的、「思想」的なことがらにも生きるということのなかで触れ、考えるといった形で出会うことになった。だからそういう「美術」と「思想」関連の友人が九〇年代の友人ということになるのだろう。
 ぼくも五〇歳になった。越えがたいと思っていた四〇の峠を越えた後は、五〇も六〇もなんてことはない気もする。少しずつずれながら重なりながら、友人とのつながりはこれからもそんなに大きな変化はなくて続いていくだろうと思うし、そうあってほしい。
 でも何度も書いてしまうけれど、人と人が出会うことの不思議とあっけなさには、いつもいつも茫然としてしまう。あの時あのひとことがなかったらそれっきりだった人と、それから何十年もつき合ったり、ほんのささいなひとことで、長い関係がぱあになったり。それはそのくらいの関係でしかなかったからだと言ってみても何の答えにもならないだろう。最初から゛本質゛に迫るような真摯さと厳しさで初めなければ、ほんとに真剣な関係は生まれない時間の無駄になると言われても、そんなことできるわけもないし、そうやって生まれた関係があったとして、大きなものを最初から抜け落としてしまっているとしか思えない。でも、そう言いたい気持ちは分かる気がする。そのくらいだれもが、出会うことのあまりの単純さと不可能とに立ちすくんでいるのだろう(それは「知る」ことの難しさにも似ている)。みんな、求めることと求められることの落差のなかに、ことばと情動とに振り回されつつかろうじて立っているのだろう。とうぜんにも、「愛」も「性」も繰り返し問い返され続けるしかない。

 

菜園便り三〇
一一月二六日

 今年は一〇月の終わりには、もう冬の恒例の大型烏賊があがったらしく、休日には海岸を歩く人の数も多くなった。波打ち際まできた烏賊をひっかける長い銛の変形のような道具を持っている人もいる。本職の漁師さんもいて、週日も歩いている。冬に産卵に来る烏賊が(ソデイカとも言われている)、強い風に煽られて浅瀬にまで来てしまい帰れなくなるというのが通説だけれど、ほんとのところはよくわからない。子どもの頃にはあまり聞かなかったから、ずっと昔からあったことでもないようだし。でも大きいのは一メートルにもなる大型の烏賊だから、けっこういい値がつくし、だいいちそんなのを捕まえるのはなんといっても楽しいだろうし、興奮することだろう。上がった後は、たちまち人が集まり、噂が飛び交い、我が家にも伝わってくる、又聞きの又聞きのそのまた次ぐらいにして。
 時にはナマコも海草に絡まって強い風にうち寄せられるけれど、それはたまたま出くわしたら拾うくらいの人気しかなくて、でもぼくには大きな喜びだ。烏賊はもちろん捕らえたことも捕らえるのを見たこともないけれど、そんなに美味しいものでないし、配ったり、食べたり、冷凍にしたりけっこうたいへんだろう(時にいただくことがあって処理に困ることもある)。それより1月からの若布が楽しみだ。たくさんうち寄せられるし、時には沖で刈ったのをもらえたりするし、しっかり貯蔵したり、配って喜んでもらえたりもできる。あの、茹でる瞬間、さっと透き通った若草色の緑に変色する美しさはすごい。おいしさはすごい、と言い換えてもいいくらい、歯や舌の触感も刺激される。
 そんな季節になったけれど、一一月初旬急に寒くなった後、また暖かさが戻って今は上天気で乾燥した日が続いている。最高の日々、と言ってもいいかもしれない。水もまだきれるような冷たさでなく、かじかんで痺れるようなこともない。採ってきた野菜をざぶざぶ洗える。いつものように三種のレタス(玉になるタイプは最後のひとつだった)とルッコラがどっさり採れた。唐辛子は満開。イタリアンパセリ、バジル、ピーマンも少しずつ続いている。春菊ももういつもある。父が間引きして、みそ汁にいれる蕪の玉も大きくなってきた。ラディッシュもまだ一〇個ほどは収穫できそうだ。ほうれん草も大きくなってきて、日曜日に初めておひたしにして食べた、柔らかくて、しっかり苦みもあって、おいしい。
 その時のメインディッシュは鰆(サワラ)の塩焼きだった。春の魚で知られる鰆がもう捕れる。四、五月の産卵前のが美味しいから、春の魚になったのだろう。それに基本的に日本の季節感は関東のものにされていて、だから教科書に違和感を持った子も多いと思う。田植えや収穫の時期や魚の名称や、祭りや遊びやあれやこれや。もちろんなによりことばに。それはともかく、さっぱりとした白身で皮や骨にはしっかり癖もある鰆は、芹野さんのお父さんが獲ってこられたものをいただいたもの。いっしょにエソもどっさりいただいた。これは蒲鉾やそぼろに最高の魚。やっぱり白身で、骨が硬く鋭くてしかもとても多い。芹野さんのお母さんがつくられた、そぼろをいただいたこともある。柔らかい甘さで、落ち着いた色だった。このエソも焼き魚で食べた。時間はかかるけれど、ゆっくり身をほぐしながら食べれば大丈夫だ。癖のある味で、骨のことがなくても、好き嫌いがはっきりする魚だろう、きっと。
 芹野さんは入院されていたお母さんが急に亡くなられ、心身共にたいへんななか仕事も続けられたし、直子さんは東京でのグループ展も、搬入搬出にもいって、無事終えられた。すごいと思う。でもお父さんも含め、みんなつらいのがわかるし、何とも言いようがない。母の時のことを思いだしてしまう。
 時間が押し流していくもの、繰り返し繰り返し寄せてきてしまうもの、遠くに、でもいつもあるもの、近すぎて視ることができないもの。目をそらせて静かに過ぎて行こうとして、目を閉じて自身の内に目を向けて、でもそこには全くちがう形で、いっそうリアルなものがありありと見えたりもする。無理にねじ伏せたり、あまりに丁寧になぞったりしても、どこかでバランスが壊れてしまう。自分の心の大きさが計られる。そうしてほんとに心を開くことができたら、だれもが底なしの広がりを持っているのだろう、とまでは思える。そう思いたい。

菜園便り

 

菜園便り30
11月26日

 今年は10月の終わりには、もう冬の恒例の大型烏賊があがったらしく、休日には海岸を歩く人の数も多くなった。波打ち際まできた烏賊をひっかける長い銛の変形のような道具を持っている人もいる。本職の漁師さんもいて、週日も歩いている。冬に産卵に来る烏賊が(ソデイカとも言われている)、強い風に煽られて浅瀬にまで来てしまい帰れなくなるというのが通説だけれど、ほんとのところはよくわからない。子どもの頃にはあまり聞かなかったから、ずっと昔からあったことでもないようだし。でも大きいのは1メートルにもなる大型の烏賊だから、けっこういい値がつくし、だいいちそんなのを捕まえるのはなんといっても楽しいだろうし、興奮することだろう。上がった後は、たちまち人が集まり、噂が飛び交い、我が家にも伝わってくる、又聞きの又聞きのそのまた次ぐらいにして。
 時にはナマコも海草に絡まって強い風にうち寄せられるけれど、それはたまたま出くわしたら拾うくらいの人気しかなくて、でもぼくには大きな喜びだ。烏賊はもちろん捕らえたことも捕らえるのを見たこともないけれど、そんなに美味しいものでないし、配ったり、食べたり、冷凍にしたりけっこうたいへんだろう(時にいただくことがあって処理に困ることもある)。それより1月からの若布が楽しみだ。たくさんうち寄せられるし、時には沖で刈ったのをもらえたりするし、しっかり貯蔵したり、配って喜んでもらえたりもできる。あの、茹でる瞬間、さっと透き通った若草色の緑に変色する美しさはすごい。おいしさはすごい、と言い換えてもいいくらい、歯や舌の触感も刺激される。
 そんな季節になったけれど、11月初旬急に寒くなった後、また暖かさが戻って今は上天気で乾燥した日が続いている。最高の日々、と言ってもいいかもしれない。水もまだきれるような冷たさでなく、かじかんで痺れるようなこともない。採ってきた野菜をざぶざぶ洗える。いつものように3種のレタス(玉になるタイプは最後のひとつだった)とルッコラがどっさり採れた。唐辛子は満開。イタリアンパセリ、バジル、ピーマンも少しずつ続いている。春菊ももういつもある。父が間引きして、みそ汁にいれる蕪の玉も大きくなってきた。ラディッシュもまだ10個ほどは収穫できそうだ。ほうれん草も大きくなってきて、日曜日に初めておひたしにして食べた、柔らかくて、しっかり苦みもあって、おいしい。
 その時のメインディッシュは鰆(サワラ)の塩焼きだった。春の魚で知られる鰆がもう捕れる。4、5月の産卵前のが美味しいから、春の魚になったのだろう。それに基本的に日本の季節感は関東のものにされていて、だから教科書に違和感を持った子も多いと思う。田植えや収穫の時期や魚の名称や、祭りや遊びやあれやこれや。もちろんなによりことばに。それはともかく、さっぱりとした白身で皮や骨にはしっかり癖もある鰆は、芹野さんのお父さんが獲ってこられたものをいただいたもの。いっしょにエソもどっさりいただいた。これは蒲鉾やそぼろに最高の魚。やっぱり白身で、骨が硬く鋭くてしかもとても多い。芹野さんのお母さんがつくられた、そぼろをいただいたこともある。柔らかい甘さで、落ち着いた色だった。このエソも焼き魚で食べた。時間はかかるけれど、ゆっくり身をほぐしながら食べれば大丈夫だ。癖のある味で、骨のことがなくても、好き嫌いがはっきりする魚だろう、きっと。
 芹野さんは入院されていたお母さんが急に亡くなられ、心身共にたいへんななか仕事も続けられたし、直子さんは東京でのグループ展も、搬入搬出にもいって、無事終えられた。すごいと思う。でもお父さんも含め、みんなつらいのがわかるし、何とも言いようがない。母の時のことを思いだしてしまう。
 時間が押し流していくもの、繰り返し繰り返し寄せてきてしまうもの、遠くに、でもいつもあるもの、近すぎて視ることができないもの。目をそらせて静かに過ぎて行こうとして、目を閉じて自身の内に目を向けて、でもそこには全くちがう形で、いっそうリアルなものがありありと見えたりもする。無理にねじ伏せたり、あまりに丁寧になぞったりしても、どこかでバランスが壊れてしまう。自分の心の大きさが計られる。そうしてほんとに心を開くことができたら、だれもが底なしの広がりを持っているのだろう、とまでは思える。そう思いたい。

 

菜園便り31
11月27日

 宮沢賢治のことを書いたら、いろんな返事が来た。それもあって、欠けていた賢治全集(筑摩文庫)の5と6を買って改めて読み始めた。すごくゆっくりになる。頭からガリガリ全部やっつけるといったふうにはならない。読みたかったもの、読みたいものから少しずつ。だから気になる作品にぶつかると、そこで止まって何度も読み返したりする。今は『土神ときつね』で止まっている。何度か読み、ひとつ戻って、読みづらい『ビジテリアン大祭』を読んでまた戻る。ひとことで、三角関係の話しやね、という人もいる、それはそうだけれど。愛と孤独と嫉妬と絶望の物語だとも、いえなくはない。でも、賢治と絶望は似合わない。
 煮えたぎる嫉妬、おさめることのできない自尊、それへの嫌悪、でもまたふつふつと沸き上がる執着、伸び上がる憎悪。そのなかをくぐり抜け、秋の光のなか、色づいた草々のなかでついに諦念の境地に達した土神の透明な穏やかさが一瞬にしてどす黒く濁った血の色に染め上げられるのは、あまりにもリアルであまりにもつらい。人は、神ですら、ついにはどこへもたどり着けないのだろうか。ぐったりと殺されて小さく笑っているようにみえる狐だけが、全てから抜け出して、今は閑かなしんとした場のなかに浮かんでいる。恐怖で震えるしかない樺の木、永遠に自分を呪い続けるしかない土神、もう平穏はどこにもない。ただ迫ってくる冬が、雪が全てを覆って、無言の巨大な力で何もかもを終わらせる、新生を準備する。でも、神も樺の木もまた春の圧倒的な輝ける光のなかで、喪われたものを思い起こさずにはいられないだろう。地に縛られ、動けない彼らは、死からも遠く、ただ自身がつくる蔭のなかにうなだれて、そうして発作のように痙攣的に叫び、泣くしかない。喪われたものよ、喪われたものよ。
 「春には・・・望遠鏡を見せますね」というかなわぬ嘘を、ついには秘めたまま死んでいった狐の、哀しみと喜び。たった一人の友だちの樺の木に、嘘をついて、そうしてそれが嘘だったと告げて再び傷つけることからも、ついには自由になれたのでもある。そうしてやっぱりたったひとりの友だちを、愛を、永遠に凍結するしかないいっそうの苦しみに落ち込む土神の悲哀狂気絶望。
 「この木に二人の友達がありました」と物語が始まるように、狐にも神にもそれぞれひとりでなく、実はふたりの友だちがあったのに。それに気づくのは喪われてからでしかない、物語の常道として、世界の掟として。神の狐への僻み、狐の神への嫉心、互いの相手への的はずれな劣心、屈折、怯え、軽蔑、怒り。それがどこで憎悪へとなり果てるのだろうか。生活を切りつめ、虚栄と愛から、おしゃれして赤いキットの靴で歩く狐は、ついに冬の帽子を買えないまま、買えない口実を見繕うことなく息絶える。轟く神の号泣が、ぐったりとしたその全身を濡らしても、濡らしても、再び甦ることはない。
 やすらぎ。

 

菜園便り32
12月8日

 庭の山茶花が先週から咲き始めた。よそのよりずいぶんと遅い。見事なくらい葉を虫に喰われて丸裸になっていたから、そのせいかもしれない。印刷のインクで言えば原色の紅をあせさせたような色で、正直、あまり美しくはない。でもさっそく一輪挿しににさして飾った。初物は、どんなものでも楽しく、心はずむ。次は水仙か椿か。
 庭の一部を覆い尽くしている小菊はまだまだ続いていて、香りを放ち、ミツバチを呼び寄せている。さすがに10月の勢いはないけれど、まだ新しい花を日毎にあちこちで開いている。日持ちする花だから、くすんでしおれても形を保っていて、うら寂しくもある。
 赤と白の千両がいつの間にか実をつけていて、正月の近さを思わせられる。手入れしてないので、ひょろっと長く、葉も黒ずんで虫食いもあるけれど、緑に埋もれるようにある赤い実には引き寄せられる。冬になってもほとんどが落葉しない庭木が多いから、水仙なんかもうっかりしていると見落としてしまう。
 ルッコラといっしょにもらったイタリアからの野菜が冬になっても透きとおる薄紫の花を付つけ、あちこちに新しい芽をだしてはぐんぐん伸びている。若くて柔らかいときは生でも食べられるけれど、だんだん野生に帰っていくのか苦みが強くて敬遠してしまう。今日どっさり野菜を摘んでいて、秋口に咲いた花からの種だろうか、ルッコラが目をだして柔らかい新芽を伸ばしているのに気づかされた。冬でも条件さえ整えば、いつでも芽をだしてくるのだろう、すごい。地中海性の気候のものは、海のそばで、太陽が昇り、そこそこにあたたかい所で水があれば、元気なのかもしれない。イタリアンパセリも冬を越しそうな勢いだし、バジルだけがひっそりと葉を落とし尽くそうとしている。残念。露地物の香草の香りはやはりすばらしくて、ほんの一枝バジルをいれるだけで、野菜箱が香りで満たされる。季節のせいか香りも強すぎることはなく、穏やかに甘い。
 買い物に行く田圃の道には今もいろんな草が咲いていて、その中には仏の座やナズナ、アカマンマ、野菊、白爪草、タンポポなどなどがあり、季節は区切られることなく曖昧な領域区分すらくぐり抜けて、境界のない重層した多様性のなか、つまりなんでもありで、さすがに背丈はもう高くないがセイタカアワダチ草も当然にある。種が落ちて、水分と光とあたたかさがあれば、どこででもいつでも草花は芽をだし、伸びて花をつけ、種をまき散らしてまた次の発芽に供えるのだろう。
 早稲が8月に刈り取られた後の株から短く伸びてちゃんと実をつけた稲がそのまま放置され、立ち枯れて、淡い金色にゆらゆらしているのはすごく淋しくみえる。隣に今伸び盛りのカリフラワーがその厚くて黒々とした青緑の大きな葉をひろげているからいっそうそうみえるのだろう。白菜、高菜、カツオ菜と葉ものが美味しい季節で、だから鍋物や漬け物も当然に美味しくて、多くなる。薬味に使う大根や葱ももちろんいいし。
 菜園の大根も大きくなった、もうじき収穫。蕪はもう取り始めた。生のまま菜園サラダに入れても柔らかいし、匂いや味もきつすぎずにおいしい。蕪は鍋に入れてもおいしい。まあ、なにをいれてもうまくいくのが鍋の神髄だろうけれど。きついものも下茹でしていれると大丈夫で、里芋もうまくいく。ほうれん草も取れたての若いのはそのままいれてもえぐみがそんなにでないし、ほんとに「野菜って美味い!」と思える
 昨晩は、父が買ってきてくれたカナトブクで鍋をやった。あたたまるし、お腹もいっぱいになるし、全然酒を飲まない父も珍しく饒舌になったりする。以前旅館をやっていた時代に買いつけに出ていた津屋崎漁港の仲買の競りや柳橋市場でのこと、旅行先の宿の魚のこと、最近の魚屋の店頭での若い店員との駆け引き、ようするにどれも自慢話で、いつものようにうなずくだけの対応でも父は気にせずにしゃべっている。思いではいつも強がりや自慢で、それは彼の人生を透かし見せるようで時には聞くのがつらい。
 寒さはつのっていく、でも陽光は輝いて強く、海の上で木々の葉の上で目にいたいほど乱反射している。

 

菜園便り33
12月13日

 昨日、図書館ホールで「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)というドキュメンタリー映画を見てきた。米国ペンシルベニア州の「犯罪を犯した精神障害者の矯正院」での日常を記録したドキュメント。Folliesというのは映画のなかにもでてくるけれど、そこで毎年行われているらしい、演芸発表会のようなもののタイトルそのものでもあるが、ちょっと艶っぽいレビューという意味もあるようだし、follyには狂気とか愚考とかいう意味もある。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なってこれは撮影できたのだろうけれど、先ずそのことに驚いてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけてかなり大胆な所まで踏み込んでの映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しには全くならないのは歴然としている。ひとつには管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに鈍感になって気づきもしなかったからだろう。だから結局この映画は州の提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年に法律が改正されるまで封印されてしまう。
 その時の禁止理由は「患者のプライバシーを護る」という常套で、それは行政や司法によるたんなる隠蔽でしかないのははっきりしている。すでに「患者」の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、なにがプライバシーかとも思うけれど、それとは別に、個人の撮される=撮させない権利や、その独特で個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ。この映画の監督も、見るわれわれも、もちろんこうやって今語っているぼくも。マスメディアの意味、撮るということの関係性、視ること、語ること、代理すること、それらは簒奪するということでもあり、大切なものを一瞬にして消費して捨て去ることでもあることを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろうから。
 映画は、恒例の演芸会の始まりの風景、そろいの服と帽子での男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。ビートルズの「サージャント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド」や映画「キャバレー」の開始を思いださせる。少し奇妙に見える振る舞いや顔つき、モノクロで陰影の濃い映像はドイツ表現主義的で、少しこわくもある。もっといいものが次にあるという管理者の司会の笑い、声のアップは不気味だ。「マルキド・サドの演出によりシャラントン精神病院の患者たちによって演じられたジャンポール・マーラーの迫害と暗殺」も思い起こさせる。
 不意に映像はかわり、広い部屋に集合させられ、裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係を有言無言に強制され、威圧を受け続け、再確認させられる。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地で言うことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」「精神障害者」だから当然だというように。
 11歳の少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか?奥さんがいるのに?大きな胸と小さな胸はどっちがいいか?成熟した女性へが恐いのか?同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことがわかってき、その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子の窓と、シ-ツもないマットが床に置かれただけのだけの部屋に入れられる。はらわたを裸足で踏んでしまったような、冷たさや酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のように伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をぼくらはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、何故認める嘘の証言をしたのか、どうして闘わなかったのかといったお気楽な問い。あの野合機関の国連でさえクレームをつけざるをえなかった日本の゛代用監獄゛の実態を知ってなされる発言は皆無だろう。拘置所よりさらに劣悪な警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての、現行法でも違法な尋問、隠された拷問の下での恐怖や孤立感が、取調官の「ここで死んでもだれにもわからない。調書に署名捺印すれば、長くても7年ででてこれる」といった甘いことばの罠へと人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、取調官や看守を体温を持った唯一の隣人とみなしてすり寄っていく気持ちもわかる。それくらい全てから隔絶され、繰り返される同じ問いの前に曝されるなかで、巧みな恫喝と懐柔のなかで、リアリティが喪われていく、当たり前の感覚が奪われていくのもわかる気がする。そうして文字どおり壁ひとつ隔てた外では、社会では、この代理監獄という制度の異常ささえ、ましてや留置所や刑務所の極端な悪条件や設備、管理を、当然とみなす感覚や意見が多勢を占めている。罪には罰を。真に無実の者には、まっとうな市民には永遠に関係ないはずの場所だからと。そういう思いは、孤絶した絶望のなか放り出された者に空気のように伝わっていく。
 映画のなかには、当然だけれど直接的な暴力はでてこない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言わせるまで続く看守の執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響には、もちろんのこと向かわない。悪いことをした者が悪い、それへの処罰として使うのだから。合理で、正義で、しかも抵抗できない弱い立場の相手に思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、西洋の、治者の論理。60年代末、日本各地の街頭での機動隊の催涙弾が与えた身体的な影響は当時もほとんど語られることすらなかったし、今も続くヴェトナムの枯れ葉剤その他の「兵器」の異常なまでの影響も、ついには全地球規模で被害が現れるまで放置される。もちろん、責任なんてことばはどこにも生まれない。はるか遠い水源にばらまいた危険を、それでもはしっこく察して、「安全」な水を自分のためにパッケージにして飲み、それから売り出しにかかる。
 かなり強い癖のあることばのハンガリー出身の治療医は質問し続け、命令し続け、煙草を吸い続ける。食事をとらない「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。ただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が移される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。大勢によって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映し出す。
 数人の医者たち、担当者たちの前での、「ふつうの刑務所へ戻してくれ、ここにきて悪くなった」と言い募る患者への聴聞。自分はパラノイアではない、分裂症でもないと主張する患者に、論理はとおっているけれど、前提が間違っていると切って捨て、おざなりに討議し、トランキライザーをもっと処方すると結論する医者。映画にもなった「郭公の巣の上で」にみられた、頭脳に直接メスを入れる外科手術、過剰な電気ショック治療、大量の薬物投与といったことが、まだ続いていたことが知らされる。
 「治療」のさいですら、ガレージで車の解体作業をしながら煙草を吸うように、だれもが競うように煙草を吸い続ける。管理者、医者、看守。絶え間ない煙草、止めどないおしゃべり。いらだっていること、不安に駆られていること、労働に倦んでいること、職場や立場や自身を卑下しながら、だからいっそう「患者」に傲慢になっていく。そうしてその底にある自信のなさ、無責任さを互いに卑屈な目で見合いながら、おうような態度で粉飾し続ける。外部の者(撮す側)への、付き添っているだろう担当者への媚びるような、やってられないよなとでもいった同意を求める視線が度々カメラの方へ向けられる。そういう愚劣さのなかで、法律や規則や慣習や、思いこみやなれ合いや、勝手や気まぐれで、いいようにあしらわれる「患者」たちは、ますます深みに、世界から遠くにはじかれていく。やみくもに怒鳴り、叫び、意味不明になるまでただしゃべり続けることで最後の自分を保とうとし、当然にも懲罰とますます悪辣な対応と蔑視を受け、ついには精神の、肉体の最後に至るしかない。それはもう平穏であり、平和であり、願いうる最上の至福とさえみえてしまう。こんなふうに人が扱われ、裁かれ、うち捨てられ、そうして尊厳も何もない場で、状況で生きること、死ぬこととはいったいなんなのだろう。今までもあらゆる場所で幾たびも繰り返されてきたように、愚劣でおぞましい頭脳の判断と、優秀で従順なテクノラートの腕とが、工芸のようにまた巧みに組み合わされるのだろうか。
 映画の最後に、フォリアーズ・ショーのエンディング男性コーラスがまたでてきて、歌う。みなさん楽しんでもらえたでしょうかと。出演者全員が舞台に出てくる、だれもが笑ってはしゃいで。簡単なクレジットがでて映画は終わる。会場の明かりがつく、茫然として、でもこの苦くて、痛くて、ほとんど怒りとしかいいようのない感情をどこに向けたらいいのだろうか。もちろんあの米国流の単純な傲慢と合理に憎悪は向くし、人が人を裁けると思うことへの奇矯さにも向くし、そういったことを支えている、人が持つ鈍感さ、卑屈さと傲岸さ、その底にある「善意」にも。そうして生理にも突き刺さってくる、あの汚さや臭いにへの嫌悪、恐怖、いたたまれなさ、全てへの底知れぬ怯え。
 人が犯罪を裁くとき、けして被害者には、その計りようのない痛みにはついに目を向けることはない。ただ、量に換算された「犯罪」への量としての「罰」を、共同体の代理、正義の執行として、機関として執り行う。だれも、責任を負わない。それは目には目をですらない。傷つけられた少女の痛みは救いのなさは、傷つけた男のなかにだけ何かの形でかろうじて残るだけだという異様な転倒。それを名づけることばすらない。少女は、犯罪によって、裁きによって、社会によって、人々によって二重三重に傷つけられ続ける。
 うまくことばにできないけれど、犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないと思う。犯罪者は、このわたしたちの立ち上げた社会が析出した「悪」とでも言うしかないものを、たまたまある「個体」として体現している=させられているのだろうから。個の内には社会が100%反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが投影されている。二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の思いの結節点でもあるだろう。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪が、様々な条件のなかで特定のだれかに、集団に集約されていく。時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつに焦点を絞る。
 わたしたちが全員で立ち上げているこの社会の犯罪とは、わたしたちの意識無意識の欲望の投影であり、その社会の反映を受けてそこにある全てのものを全員が自身のなかに映し出す抱え込むとうぜんにも。そうしてできあがったわたくしがまた全体として社会を再編つくりあげる。
 そうしてそういうことは、善についても、慈しみについても同じように言えるだろう。だから全ての人のなかに善があり、よきものがあり、慈しむ無限の力がある。特定の宗教としてでない「神」を、人が最初につくりあげたように。

 

菜園便り34
12月17日

 やっぱり大きいスクリーンはいい。タルコフスキーはすごい。「惑星ソラリス」はすばらしい。
 久しぶりのタルコフスキー。何年ぶりだろう。この10年間は見てないかもしれない。ヴィデオ・テープもかびが生えてほとんどがダメになったし、それにTVでは小さすぎるし。
 「ソラリス」というと、できたばかりの首都高速のシーンを思いだす人も多い。あれは確かにキッカイではある、特に文字も意味もわかってしまう日本人にとっては(フューチャーシティということなのだろうけれど、タクシーや運送トラックは、なんというか。でも今ではあの古い形や意匠が奇妙にも見えるから、SF的といえなくなくもない、か)。出てくる人たちがやたら苦悩に歪んだ表情を曝すのもわざとらしい、と思う人もいるだろう(そうだ!)。でも、語られようとすることの深さとそれを支える映画自体の骨格の強さが、有無を言わさずぼくを、見るものを引き込んでいく。
 忘れていたこと、まちがって思いこんでいたこと、いろんなことにも驚く。中心になる二人が美形なのにも改めて驚いた。だからじっと視続けれるのだろうか。もちろんそんなことはなくて、でも思い入れしやすくて、「愛」や関係への苦悩がアリティを持つ、見る人のなかで(ほんとに?)。
 やっぱり母と妻の葛藤は語られていた。でもそれよりも妻と夫の間の齟齬が彼女を発作的な自殺に走らせたいちばんの要因だったことがわかった。そうか、男が悪いのか、やっぱり。メロウドラマとしての愛のゆきちがい、互いの気持ちのずれ、共に美しい母と妻の間でも揺れる男。毅然とした知的な母、感情の均衡をとりかねる妻。
 その自殺に責任を感じ、今も愛を感じている男の前に、人の思念を実体化させる惑星ソラリスの海が「妻」を創りだす。驚愕、怯えでパニックになった男は一度は彼女を小型ロケットでステーションから宇宙に放り出してしまうが、再び生みだされた妻(つまり自分の思いが再度生みだした)を受け入れ愛し、暮らし始める。彼女は他の科学者から自分自身(ニュートリノから成り立っている゛お客さん=お化け゛だと)を知らされ、混乱し、疎まれたとかんじ、また自殺を図る。世界の残酷と感傷と。
 困憊していく男。うなされる夢のなかで、ステーションの「現実」のなかで、彼は妻を母を、思い出の品々を意識下で生みだし続ける。現在の自分として、かつての若く美しい母との出会い、彼女がゆっくりと男の腕を洗い、寄り添うその恍惚。
 そうしてやっぱりあのエンディングの衝撃。「故郷」に降り立った男の不安と喜びがないまぜになった視線の先の、池や水の中で揺れる藻、自分の育った、両親の住む家、走ってくる犬、窓から覗き込む室内に降る雨。振り返る厳格な父。少しだけ捻れた形、形象化された思い。
 やっぱり、タルコフスキーは見るしかない。食べなかったすごいごちそうのことをあれこれ聞かされてもしょうがない。食べ当たりしても、食わず嫌いでも、奇妙な成分に麻痺しても、酢に変質してしまっていてがっくりしても、まだまだ食べることからは遠ざかれない。


追伸:以前「IAF通信」という小誌に寄せた「映画を生きる」というエッセイの7に書いたタルコフスキーへの思いをおまけに付けておきます。 

映画を生きる 7
タルコフスキー衝撃
                
 「惑星ソラリス」のLPサイズのジャケットを本棚に飾っているので、サウンド・トラックのレコードかと驚かれたりする。でも残念ながらそうではなくてLD。レイザー・ディスク・プレイヤーを持ってないので当然だけど観ることはできない。そのことがひどく不思議に思えてしまう時があり、ジャケットを手に取ってじっと見たりする。本といっしょに置いてあるせいか、中身が全然分からないことが理不尽なことのような気がしたりする。せめて動かなくても、静止した写真としてでもいいから無性に見たくなる。でも、見れない。あの水のなかで不気味なまでに揺れる水草や藻や、すごくリアルに空中を浮遊する体、思い詰めて一種虚脱的になった表情、胸を締め付けるようなふいのことばも、奇妙な非未来的なメッシュのシャツも、おおぶりの白い水差しも見ることはできない。ソラリスと呼ばれる惑星そのものが、宇宙船のなかの地球人の意識下を実体化させていく過程の、過去として未来をみているような既視観、とでもいったスリリングな展開のなかで少しずつ増殖するように増えていく思い出や郷愁そのもの、は見れない。再生された、かつて自殺した妻と両親、特に母親との関係がどうだったか、僅かなことばで表されていたはずだけど、それを確かめることはできない。一度は拒否した(宇宙ステーションから小型ロケットで外へ放り出してしまう)彼女を受け入れてゆっくりと過ごす客室内に掛かっていたのはブリューゲルの作品だけれど、なぜブリューゲルなのかどこかでほのめかされていたかどうかも確かめられない。
 「惑星ソラリス」の最後、ゆっくりと歩きながら水のなかの植物や庭を眺めながら家へ近づいていく「わたし」はついに家のなかをのぞきこみ、そこに室内に降る雨、書棚、父親を見いだす。玄関で父の前に膝まづく「わたし」、それだけでもぞくぞくしているのに、だめ押しのようにぐんぐん退いていくカメラが俯瞰でとらえる惑星の海に浮かんだ小島(あまりのちゃちさには驚いたけれども)。強められた「わたし」の思いはついにはこの不思議な惑星の上に、故郷そのものを創りだしていたことを、つまり゛故郷゛なしには人が生きていけないことを語る。
 この映画にも顕著な、タルコフスキーの作品のもつ一種のあざとさみたいなことは、時々語られたりもする。そしてその、こけ脅しにも似た映像による驚かせかた、というか衝撃は、映画という表現のもつ力の大きな部分でもあることをいつもいつも、改めてのように思いださせる。
 「ストーカー」の最後では歩けない娘がじっと見つめると、テーブルの上のコップがカタカタと揺れ、すっと滑って落ちるし、「ぼくの村は戦場だった」の少年の指先からは樹液のように液体が滴る。「鏡」では合わせ鏡のように語られてきた現在と過去、いく層かの時間が、ひとつの画面にねじ合わされ閉じ込められて出現する。そして何より「ノスタルジア」の最後、ロシア(故郷)の風景のなかにうずくまるように座る男と犬、カメラが退いていくと、それがイタリアの遺跡のなかにしつらえられたものだとわからされる、あの衝撃。そしてさらにその上に降る雪、それはもうただただ涙を流して見つめるしかない。
 タルコフスキーの映画では人は覚めている時は、限りなく明晰にあろうとするが、そうでない時は激しく意識を放棄した状態をとろうとする。だから、眠りや夢、精神の歪みが頻繁に出現し、また語られる。人は必ず浮遊し、光と闇の強められたコントラストのなかに出入りし、ふいに目覚めたその瞳は遠い背後にしか焦点を結ばない。視覚や音の遠近は巧みに強められ弱められて、知覚を揺らし惑わせてどこかへ(どこでもない所へ)連れていく。当然のことなのだろうけれどそのふたつの状態、喪失と覚醒は入れ子のように組みあわさっており、どこまでがそれなのかは誰にも定め難い。詩とか信仰とかいうことばで呼ばれているものが、論理的なもの、「知」と侵食しあう、この現実の世界のありようのままに。そもそもそういったことを名づけたりことばに置き換えて、いくつかの概念にわけていくこと、整理していく現代が特殊で異様なのだろうけれど。そしていつもいつも、民族の故郷の時代の少年期の母へのノスタルジアを通して、未来の起源の宇宙の無の全のノスタルジアが探され求め続けられる。けして純粋な形ではどこにも存在せず、でもあらゆる所に形を変えて存り続ける、存らしめられてしまうものとしての。
 世界を対象化され、分解され分析されたものとしてでなく(それは先ず「自己」や生の固定化=対象化という異様さとしてあるのだし)、全体のまま動的なままで見ていく受け入れていく力。だから当然のように均一化と差異化の終わりのない繰り返しに陥ることのないあり方。そういったものへの視覚をとうしての直接的な働きかけ、というか提示がある。(少し話がかわるけれど、フィルム上の形や色の影である映画と光の記号であるヴィデオとでは映像の質だけでなく、大脳も含めて知覚に与える影響、というか刺激の与え方は質的にちがうんじゃないだろうか。)
 イタリアの遺跡のなかに作られたロシアの風景は互いに入れ子状であることさえ越えて、同時にそこに存在する、なんの注釈もなしに。それは空間的なことだけでなく、あらゆる時間的なものも存在するということで、私的なささやかな感覚と無限的に思える宇宙がひとつながりに存る、あらゆる細部は際だちながら、全体のなかに調和しているといった存りかた、だろう。
 映画のなかで作家自身が変貌をとげていく、つまり自分を固定せず開いていくことで、そこに大げさに言えばあらゆるものを、全ての人をひきこんでいく力をもつ、そういった希有な地点に『ノスタルジア』は立ち、ぼくらもまたその前にたつことで既成の「知」を一瞬にして抜けでていく視覚を通した力を感受できる。そしてそれが特にすばらしく感じられるのは、もう一度ことばや知に還元したりできない地点にまで至っていることが了解できるからだろう(ことばを越えたものを、ことば以前のものと言ってもいいだろうけれど、ことばにしてしまおうとしていつもぼくらは失敗し続けてきたのだろうから)。

 

菜園便り35
12月21日

 映画のことが3回も続いてしまうけれど、年の暮れが押し詰まってからいろいろ不思議で興味深い映画が続いているのでしょうがない。映画を上映する側というのは、年末とか大掃除とかの世俗から超越しているのだろうか?でも、今年中に収めなければならない仕事や正月の準備の合間に、しなければならない窓拭きから逃げて、奇妙でリアリスッティックな幻惑のなかへとはいっていく。
 パヴェリアで、ロシア映画特集というのをやっていて、かなり変わったプログラムになっているのだけれど、SFやファンタジーがあり、タルコフスキーがあり、無声映画がありで、ついつい気になってでかける。「ひまで暢気な奴にしかできないことだ」と石が飛んできそうだ。
 「アエリータ」というタイトルの映画で、印象を羅列するとこんなふうになる。革命後のソ連、混乱と建設と、戦艦ポチョムキンばりの群衆シーン、コントラストの強い顔(映像も演技も)、ビルの丸窓などの古典とモダンが混じり合う様式美、ロシア構成主義の作品群-特に装置や衣装、もちろんメロウドラマの筋立て、舞台のひとつはなんと「火星」!、もちろんロケットで行く、そういう荒唐無稽というか、全くリアリティを放棄したような、キッチュなまでのファンタジーの極みみたいなことと、一方での自然主義リアリズムのような、臭いまでわき上がるような実写的なもの(心理も映像も)での搾取、反乱、革命、混乱が地球と、そこから天体望遠鏡で覗かれる火星とで慌ただしく生起する。お目当ての構成主義は十二分に堪能できたけれど、でも・・・・というのは残ってしまう。

 

菜園便り36
12月末日

 世代やディケイド(10年)でくくることをよしとしないように、1年で区切ったり振り返ったりすることを鼻で笑う人もいるけれど、センティメントや季節の移りもふくめて、ぼくはやっぱりあれこれ思い、考えてしまう。「時間」の、せめてどこかに読点をうたないとあまりにも茫漠として、平板な浅い永遠が無限に広がってしまうようで不安で。そこが甘い、と言われるならそれは今は受け入れるしかない。せめても、この現在を来年へと渡っていくためのすがる糸にもしたい。でもほんとに、喜びのある深さのある世界へと生き延びていけるのだろうか。
 だれもがそうであるように、不安はいつもある。びっしりと覆われて、でも、ことばのいたけだかな威圧には耐えられる。そんなのは嘘なんだと。リアルでないと。ほんとに世界を人を考えるというのは、善さえ、愛さえ、疑うことなのだと。゛地獄への道は善意で埋められている゛ということばのリアルをもう一度くぐってしか、なにも見えてこない。それは愛や善を越えた、ある慈しみや痛みへの共感みたいなものをほんとに手にするための一歩だろう。眼前の見えている現在を相対化するために、現在にのみ向き合ってしまい、゛対現在゛になって、そこに囚われ、そこからアンチ現在とでもいうしかない発想で対抗しても何も生まれない。この現在を補完し続けるだけになるだろう。
 形になっている主観や希望を語るのではなく、見えないもの語られないもの、でもそこにこそあるものに視線を向ける、ほんの少し今の呪縛から逃れて。国家や巨大なメディアの御宣たくをふりきって。誰しもに完全に内面化されているかのように思える、今の感受や感覚、考え方の鋳型を擦り抜ける、そこから抜け落ちる、ストンと。
 見えるものはあるだろうか? もしかしたら見えないということが見えることの唯一のあり方かもしれない。たえず、一瞬一瞬、その度ごとに新たに見ようとすること、その力、それが見えるということかもしれない。見えているのは、見えると思わされている、今の世界の共同体の創りあげて配信された像でしかないのだろう。そういう見えるを抜けようとする、疑いとらえかえす。見る=見えるはもっとシンプルでそうして限りなく深いことなのだろう。形や色や遠近を識別できることでなく、ましてやそれが何であるか認識する能力でなく、さらにそれを解析してそれへの対処を即決し行動するための(人よりちょっと先に)手段ではけしてない。
 現在、見ることは、見て・判断することとしてセットになっている。これを見たら、こう理解する、そういう型に。だからだれもが先を争って見たものを定義し、叫び、押しつける。見えたことに足を取られる以前に、積極的にそういう見え方・判断や認識にすでに身をゆだねている。それなら見ることさえ、ほんとは必要ないのだろう。
 だれもが答えを求める。つまり正解があると考えてしまう。だから、明快な論旨へと、大きな声の方へとなびいていく。今のとりとめのなさや無惨に耐えられなくて、誠実ささえもが、怜悧で整然としたことばの方へ、顔を向けてしまう。そこでは全てが停止される。つまり、もう求めるということがなくなり、なにかが生まれるという可能性も喪われる。契機は閉じられた眼のうちの安定のなかに溶解する。自身の誠意が善意が、人を殺してしまう、世界を閉じさせてしまうかもしれないという怯えからさえ、ついに離陸してしまう。それは<自由>と呼ばれることの、ひとつの形でもある。平板で冷たい、でも安定した、閉じられた世界。
 生きることのしんどさと喜びとは等価であるのだろう。そういうふうにしか人は生きられない。それでいいじゃないか、なにをこれ以上求めることがいるだろう。光はどこにも、光のないところにもある、いつも、今も。その温かみと陰り、その波動が自分の真ん真んなかに届いてくることの、ことばにできない思いを、とりあえず手に取ること、そこからまた次の思いが、ことばへの力が湧いてくる、きっと。
 この年もまたあなたにとって、そう、あなたにとってのいい年でありますように。

 

菜園便り37
1月3日

 すっかり真冬だ。ガクン、ガクンと寒さがつのって、心はつんのめりそうだ。指も体も縮かんで動かない。背中を丸めているので腰も痛い。ほんとに冷え冷えとした大きなあばら屋のなかを、どこからくるのか風がごうごうと吹き抜けている。小さなすきま風が集まって台風になるのだろう。おまけに雪だ、救いの陽光さえない。海は暗い緑色でうねって濁っている。時折、白い波が岸壁に打ちつけて飛沫をあげる。横切って飛ぶ鴎が、不意に風の形に大きく揺れる。寒い、寒い、嫌だ。
 そんな子どもみたいなことを言いつのってもしかたない。落ち着いて菜園のことを。この急な冷え込みでやっぱり菜園は一気に勢いをなくし、縮んだようにみえる。レタスも葉を伸ばすことを諦めたようだし、イタリアンパセリはぴったりと口を閉ざした貝のように土に張りついたままだ。バジルは茎も枯れ果てた。ルッコラは小さな葉をたくさんつけたけれどもうそれ以上には広がれない。パセリはふわふわとした灰のように枯れている。残っていたいく株かのラディッシュは、もう地下茎を太らせる力はない。ピーマンも先日のが最後になったようだ。唐辛子は、最後の赤い実を枯れた葉の上から突き立てている。
 それに比べて冬野菜はさすがに元気だ。大根は根はあまり伸びないのに葉を生き生きと茂らせているし、蕪もみずみずしい。かつお菜やほうれん草、それに春菊は伸び続けている。正月の雑煮に入れたかつお菜は今年は庭のものだった。もうひとつ、青梗菜を大きく色濃くしたような野菜も勢いがある。これは父も名前を知らないけれど、たぶん中国系の野菜だと思う。鍋に入れたら、大きくなりすぎていたのか茎の部分はちょっと固すぎた。さっと炒めて食べてみよう。
 レタスは苦みが強くなり固くなる、ルッコラも辛みが強まり固くなる、でもやっぱりおいしい。バリバリと歯ごたえがあり、庭の緑がそのまま口のなかに広がる。ナマコを口にしたとき、一瞬にして口のなかに海が広がるように。
 この冬はとれないのか、ナマコは高くて、まだ味わうチャンスがない。鰆は芹野さんからいただいて何度も食べることができた。ヤズも正月の雑煮も含めてよく食べた。カワハギや馬頭はこれからだろうか。去年の冬はそのことばかり書いていたような気もする。最近の鍋はアラや赤魚、タラなどが多い。安くて、さっぱりとしているもの。
 斎藤秀三郎さん宅へお年始もかねて、鍋を担いでうかがった。卓上コンロと土鍋、それに材料の魚や野菜を亀井くんの車に乗せてもらって行く。ついでに、正月のがめ煮数の子、黒豆、漬け物なども持っていく。形ばかりのお屠蘇も。三人で鯛とカワハギ、牡蠣のチリ鍋を囲み、酒を酌み交わし、ついでにワインもあけて歓談する。正座した冗談、生真面目な内省、辛辣な批評、冷静な洞察。あれやこれや、他愛なく笑い、憤慨しながら、でもだれもが自身の現在を、見渡せる今後を確認してもいる。できることは多くはない、何かを諦めるということではなく、でもささやかさや無限ということの意味を改めて自分の生のことばとしてなぞってみる。
 「今、ほんとに楽しいんですよ」と繰り返される斎藤さんのことばに、亡くなられた松永さんの声が重なるような気さえする。長く真摯に生きてきた人たちの放つ、尊厳や軽やかさ、孤独、そうしてやっぱり達観でも清明でもない、思い悩み求め続ける生のあがきでも力でもあるもの。そういうもの感じ取りながら、でもどうしても「知」に傾きそうになることばを乱射し続けてしまう自分の饒舌と浮力のついてしまったことばに、心根の底の浅さに、小さく淋しくうつむき、新春の夜の少しの苦さにも酔って、でもそういうことへの既にしての了解の穏やかさももう嫌でもあるのであり、滑稽さえ漂わせながら、だれもが静かに、自分を全てを受け入れていく一瞬もあるのでした。 

 

菜園便り38
1月24日

 無性に木山捷平が読みたくなるときがある。そういう作家は多くはない。本棚に置いてある本で、ほぼ定期的に取り出して読む人はいる、特に詩はそうだ。それが何年おきかの周期になっている人もいる。でも、こんなふう矢も楯もなく読みたくなる作家は、木山以外にはほとんどいない。それはたぶん、作品への愛着や、書かれていることがらへの共感、時代や場所や作家のひとがらとぼくの生活やなにやかやが絡まり合ったものなどが混ざり合い徐々に発酵し続けていて、ある時点でぽんと破裂するからかもしれない。自家製造の葡萄酒のコルクが飛んだり瓶が破裂したりするように。ただもう、何でもいいから読むしかない、またそこに葡萄液を満たすように。
 そうして穏やかさがくる。木山の読後の穏やかさは深い。人生の哀歓、庶民の美しさとかいったキャッチコピーのずっと遠くで、弱さも浅さも全部、両手ですくい取れるだけの嵩として差し出される。さりげなく受けとろうとしてその重みにたじろぎだれもがとり落としてしまう。「苦いお茶」で正介が負ぶったナー公、今は大人になった布目邦子のように、軽くてそして重い。体の、何かの暖かみが丸ごと直接伝わってくる。人は大きい、世界は不思議だ、おかしくさえある、こんなにも苦しいこと、厭なことがあるのに。とうぜんのことだけれど、全てを見渡せるわけはない、感じとるのも難しい、そんなにも深い、でも、わかる、全部が一瞬に、そういったこと。
 1968年に亡くなっているから、彼のことを知っている人はもう多くはないだろう。「長春五馬路」や「大陸の細道」「茶の木」「耳学問」などが知られているし、旺文社文庫でも何冊かでている(ぼくが今読み返せるのはその文庫でだ)。とうぜんのようにとても貧乏をして、あまり有名にはならなかった人。それでも亡くなった翌年、ちゃんと全集がでた。その頃はそういう美しい伝統も残っていたのだろう。今は太宰や井伏鱒二の知人として名前がでることのほうが多い。それでも例の講談社文芸文庫にはきちんと入っている(しかし文庫が千円以上というのはなんというか・・・)。
 一月初めの猛烈な寒さの後、4月の陽気になって、今は「ふつうの」冬だ。諦めがついたのか、体もなじんだのか、気持ちも落ち着いて、寒さへのおびえや極端な嫌悪はうすれた。冬でもあまり弱まることのない海辺の光が、それでも少し強く、かっきりと感じられる。肉厚の椿の葉の上で光り、窓から入ってきて広げられた新聞紙に反射して、まぶしい。晴れた日には、見渡せる限りの海が幾重もの帯状にきらめいて、全体がゆっくり揺れている。春のように、どんよりとして底から鈍く光り揺り返すにはまだ間があるけれど、気温は下がっても、もう光の横溢は止めようもない。
 菜園の野菜も時折のみぞれや雪に耐え、雨と光を吸収しては外に放っている。鍋をする度に春菊とほうれん草を摘み、まだ残る子蕪やピーマンをサラダにする。レタスとルッコラも越冬する様相を見せている。ほんとにすごい。初夏に向けて父が蒔いたサヤインゲンは順調に伸びて、たてられた竹の添え木を上っている。思いの外時間がかかったネギも、もうじき第1回目の収穫ができそうだ。
 近所からもいろいろいただく。終わってしまって残念に思っていたら、まるで手品のようにサツマイモが届けられた。小ぶりの赤い芋。さっそく昼に焼いて食べ、夜にはレモン煮にする。大根や白菜は大きいので、あたふたする。鍋や煮物やとせっせと食べ、間に合わないときは、本をみながら漬け物に挑戦する。白菜の塩漬けも初めてやった。ちょうど柚子があり、昆布や唐辛子もいれて、ビギナーズラック(初心者の幸運)でおいしくできた。2、3日目のしゃりしゃりした浅漬けもサラダみたいでおいしい。それからやっぱり野菜そのものがおいしいと、できがまるでちがうのだともわかった。今回は千鶴子さんのお母さんの大きな白菜で、その甘さや独特の匂いがはっきりとわかる。大根は下漬けしてから、焼酎漬けに。甘めだけれど、酒好きな人には好まれるようだ。
 父が全く酒をのまないので、我が家は晩酌もないし、なにか特別の時にも酒はでない。ときをり自分だけちょっとのんでみるけれどたいしてうまくもないし、長引くし後かたづけがいやになるしで、止めてしまう。少し陽気になり、心広くなれ、話も弾むから、ちょっとの酒はほんとに心身にいいと思うけれど、ひとりでそんなことやってもただ浮き上がってさみしくなるだけで、結局、無粋な相手に怒りさえわいたりするから、やっぱり止めるしかない。

 

菜園便り38 未送信
1月18日

 昨年は初めて映画について書く仕事(図書館ホールの特集「カメラマン田村正毅の世界」パンフ)があってうれしかったし、そのためにヴィデオデッキも買ったし、日本映画もずいぶんたくさん見た。そう思っていたけれど、年末にメモを見ながら思い出してみると、田村特集で見たのが、昨年見た日本映画のほとんどで、ちょっと唖然としてしまった。
 よく映画の話をするし、もちろん大好きだし、同世代の平均値からすればずっと多い回数かもしれないけれど、実はそうでもなかった。でも、先日いっしょに見に行った友人が、映画館に行くのは20数年ぶりだ、というのを聞いてやっぱり驚かされた。それが「ふつう」なのかもしれない、淋しいけれど。
 そのときの、そんなに久しぶりの映画というのが、「アエリータ」というソ連のモノクロ・無声・SF映画で、ストーリーさえとうてい一言ではいえないもので、彼はかわいそうにほとんどずっと寝ていた。誘う方も誘う方だ、よりによって年末にロシア構成主義の装置や衣装に溢れた、革命の余韻の時代の無声映画に行くとは。でも、構成主義はさすがで、それを見るだけでも十分楽しかった、ぼくには。
 去年の暮れから映画のことばかり書いているようだけれど、また映画のことになってしまった。今年初めに書き始め、うまくいかなくて止めていたけど、表現を語るうえでもいつも気にかかっているところなので、乱暴でおおざっぱになってしまうけれど少しだけも書いておこうと思う。「またか」といわれそうだけれど。
 映画のことを語るのは難しい。もちろんあらゆる表現を語ることは難しいけれど、映画は具体的な人や物がでてくるし、しゃべるし、百人見れば百の反応が当然にもある。先日も中国映画「こころの湯」をみて、森さんにメールで少し書き送ったら「もう少し聞きたい」と問われ、改めて整理しようとしてみた。なぜわざわざ語るのか、批評というような形にみえてしまうのかというようなことも含め、丁寧にいくつかの前提をおかないと(語らないと)、あまりに唐突すぎ、すごく傲慢で自分勝手な言い分に聞こえ、やたら細かいことばかりにこだわっているようにみえてしまうのだろう。
 何かの表現について語るとき、できるだけ具体的な内容そのものには触れたくない、説明してしまいたくないという気持ちがいつもある(それがどう見えたかという要約はすでにひとつの批評だろうし、また説明、解説することで消費させてしまうことにもなる)。見た人、読んだ人に自分が思ったこと、考えさせられたことを伝えたい、語り合いたい、できればそうだそうだねと感動を共有したいからでもある。
 「こころの湯」という映画は、家族や隣人の愛、人情やユーモアといったことが(いわゆる「テーマ」が)、黒々と文字に書いて画面に貼りつられているようにつくられている。でてくる人々は類型的(つまりいかにもありそうで実はありえない人)に造形されているし、出演者(俳優)たちは、ある決まり切った約束事としての表情や仕草や声で(つまり生活の中では誰もほんとはやることのない仕草で)、決められ記号化された感情や思いの表現を繰り返す。だから見ている者は、スクリーンの表面だけを見ることを強いられ、それ以上のことを思うことも考えることも止められ、そのなかに踏み行っていけない。だから映画それ自体を丸ごと消費してすっきり終わることになる。だれもが安心して、満足して帰らざるを得ない。新鮮な発見も小さな驚きもない。ことばを使っての論理的思考としてでない、思いを広げることや、あれこれ考えることができないようになってしまっている。まるで、「こうです、こう受け止めなさい」、「そうです、それが正解です」と告げられてでもいるように。
 あの映画のなかで提示されていることは、ほんとに大切なことだと思うし、そこを突き詰めればいやでもいろんなことがらにぶつかるし、なにかに、もしかしたら世界や人に改めて会えるかもしれない可能性を秘めてもいる。家族とか愛とか障害とか、地域、水、人、男-女、進歩、関係、虚構、金、時代、経済・・・・限りなくあるだろうに、そのどれひとつも問い始めることなく、終始了解済みの(と思われている)結論を先回りにおいていってしまう(「滑稽さ」の表し方に典型的)。愛や人をいちばん信じてますよ、というような語り口で、のっけから信じるどころか、見もしない。世界や人をこういうものだと前提する傲慢と怠惰だけがある。だれもあんなふうに生きたり死んだり、愛したり憎んだりしない。あんなふうな底の浅い表情や仕草はしない。あんなふうには語らない、笑わない。人は、世界は、もっともっと単純でそうして限りなく底知れず深い。いつもいつも、どこにも、誰ものなかにそれはあるし、あり続けている。そこから改めて始めない限り、何も見えてこないし、どこにも向かえない、と思う。

 

菜園便り40
2月6日

 遅い、遅いといっていた庭の藪椿がいつの間にか咲いている。聞こえたのかもしれない。それにしてもどうして山茶花も、椿も、それに沈丁花も我が家のは遅いのだろう。海辺のやせた土地(かつては砂浜だった)だし、手入れを怠っているので虫や病気のせいかもしれない。それでも毎年、季節毎にきちんと開く、それはやっぱりすごい。
 よその花の方が早すぎなのかもしれない。いくら春の光が溢れるとはいえ、今がいちばん寒い時期だし、旧暦での立春まで一月以上ある。正月もたしか12日頃だ。沈丁花はいくらなんでも早すぎると思うけれど、でも風の当たらない、日当たりのいいところではもうほころび始めている。めだたなく、でもどこにも溢れている野草は、ほとんど一年中花をつけることもよくわかった。植物にとって時候というのは、気温と日照と繁殖の条件とが絡み合ったときに素早く取り込まれるものなのだろう。この季節だから何かが開くのではなく、開いたからこの季節ということだったのが、他の多くのことと同じく転倒していく、人の頭のなかで。でも、不思議だ、美しい。
 我が家でも今は正月は新暦だけれど、旧暦でも雑煮だけはつくって祝う。祝うというより、感謝するということなんだろうと、父を見ていて思う。家のなかの神棚や水神や外の恵比寿様などにお餅をあげ、1年の一族の無事を願いたてる。彼にとっての家族、彼の一族。父は下げてきたものも捨てずに食べている。以前旅館をやっていたこともあって、我が家の雑煮は鶏と鰹の出汁でつくる。それに鰤、かしわ、かつお菜、大根、人参、里芋、かまぼことあれこれいれる。餅も全部どんぶりにいっしょに入れ、出汁をはって、器ごと蒸す。餅を焼いたり、ゆでたりしながら食べるのでないので、できあがったら即、食べないとながれてしまう。あわただしいし、そういうときに采配をふるう父がかりかりしてちょっと鬱陶しい。どこにでもある光景だけれど、正月の最初の食からというのは落ち着かない。
 だれでもそうだったろうけれど、ぼくにも家庭幻想みたいなものがあって、勤め人の父(落ち着いていて、日曜が休みで、平均的な家庭の象徴ということ)、主婦の母、二人の子供(自分がそのひとりだ)というような家族構成で、二階と生け垣のあるこぢんまりした家に住むというのが、理想の家庭像だった。あれこれ感じたりするような年齢になった頃、つまり小学校の中頃から、すでに父は祖母のやっていた旅館を手伝うようになり家にほとんどいなかったし、母も手伝うようになり、そのうちぼくら全員が旅館に越してきた。だから家族の団らんというようなことが、その象徴が家族そろっての食事だと思うのだけれど、完全になくなった。旅館やそこでの暮らしは嫌いだったし、とにかく早く高校を終えて、どこでもいいから出ていきたいということばかり考えていた。そうして、そうなった。
 平均的なサラリーマン家庭も、食事なんてバラバラだったのだろうし、休日は父親は寝て休んで次の一週間を生き延びるのに精一杯なのだろうし、母親は年中安月給や子供の成績や近所の噂をすることしかないのだろう。でも単純で誰もが経験するような、つまりしなくていいことはしなくてすむような、そんな生活だったらと思わないでもなかった。どう転んでも、結局はこうなったのだし、それはどういうふに生きてきても、生活の形態は大きく違ってみえても、同じことだったろうとは、今はわかるけれど。やっぱり、どうであれ最後はぼくが自分で選択した=させられたのだから。
 水仙はまだ咲き続けている。遅く咲けばそのぶん遅くまで咲き続ける、あたりまえのことだ。それも悪くない。八重の椿はまだ堅いつぼみのままだ。父が丹精している鉢植えの山茶花や椿は別の庭にあるからほとんどだれの目にもふれない。彼らはかなり奇怪な名前をつけられている(園芸植物は往々にしてそうだけれど)。ひっそりと<侘び助>が散り、<マダム>がぽつんと過剰な華麗さで開く。そばには<レディ・バンシタート>と<港の曙>。なんというか・・・・・。

 

菜園便り41
2月10日

 一昨日、目白がやってきて、しきりにアロエの花に嘴を差し込んでいる。紅い異様な形の筒型の花に顔をつっこむようにして蜜をなめる。素早く抜いて、口を左右に振って嘴についた花粉や何かを葉っぱにこすりつけるようにして落とす。目白は色はシックで複雑な鶯色で美しいし(いかにも日本の古代色のカラーチャートに真っ先にでてきそうだ)、ほっそりと小型でかわいいし、それがそんな仕草をするので、ただただうっとりさせられる。おまけに窓のすぐ近くにやってくる。野生だから警戒心は強いのだけれど、ふだんあまり窓際に人がいないし、赤い服はかえって目立たないのかもしれないなどと思ったりもする。ピッピッといったふうに短くさっと飛び移る。しっかり足で枝をつかんでかなり無理な姿勢で首や胴をねじって花に挑戦する。先がすぼまった5センチくらいの花弁だけれど、つつかれた後は、ラッパのように先が広がっている。それで彼らがどこまで食べたかもわかる。
 その日は鶺鴒(セキレイ))もきた、すごい。どの野生の小型の鳥もそうだけれど、まるで今できあがったばかりといった鮮やかでくっきりとした色と艶を持っている。ふわりとした綿毛の下に驚くほど小さく細い、でもはりのある体をしているのが外側からもみえるようだ。よく映画や小説で子供の手のなかで握りつぶされて、それが少年期の終わりや、激情の思春期の始まりを告げたりするけれど、握りしめたときのあの温かさ、はじくような動きに思わずとまどった瞬間にいつも彼らは飛び去る、したたかに手のひらや頬を羽の一撃でうって。哀しみ、喜び。
 雀、雉鳩(キジバト)はいつもいる。鵯(ヒヨドリ)もこの季節はよくくるし(最近は夏場も里や都市部に降りたままらしい)、鴎も今は海岸に群れをなしている。庭の向こうの電柱は鳶(トビ)の止まり木になっている。時折複数で姿を見せる鴉に負けて追い払われるときがあり、しっかりしろと怒鳴りたくなる。ほんとに鴉は賢くてどう猛でいやになる。姿も、動きも醜いし、臭いし、怖いと思うときもある。雑食性で、本来のすみかの森からでてきて都市という餌場を見つけ、確保したからにはますます増えるだろうという予測で、それは鴎にも言えるらしく、将来この二つの集団の間で熾烈な、文字通り生き延びるための大戦争が始まるだろうと言われている。もちろん鴎にエールを送りたいけれど、そんなふうに鴉を憎む自分の気持ちも、かなり安易につくりだされたもののような気もする。最近、鴉が海岸にいるのをよく見かけるから、個体数に対する餌場の確保、占拠が緊急の課題になりつつあり、両者の間ですでにテリトリーがぶつかり始めているのかもしれない。
 鴉は嫌いだし怖くもあるけれど、でも大集団で上空をゆっくり旋回しながら山の方へ流されるように飛んでいるのはやっぱりすごい。黒島伝治の小説のタイトル「渦巻ける烏の群れ」を思いだしたりもする。その圧倒的な数、風に乗ったゆるやかな動き、渦、そういうものが喚起するものは小さくない。ここより他の場所、遠くまでいくんだ、といった感傷的でパセティクなことばがでそうになる。一心に渡りをする、目的地に向けてまっすぐに飛び続ける生真面目で一直線の渡り鳥の真剣さではない、ここで漂うしかない、でもどこかを求めている、そんなふうに見えてもしまう。
 鷺(サギ)も、白鷺でも五位鷺でも、河口周辺の海岸にやってきて何かつついているし、千鳥もチチチと走り回ってる。海岸は魚や海草やいろんなものが生息し流れ着き、ぼくらも烏賊やナマコ、若布を手に入れることもある。鳶が打ち上げられて死んだ魚をつついているのを見て、鴉なみだとがっかりしたこともある。ぼくらの勝手な思いこみにすぎないけれど、でも猛禽類には、生きたものを捕らえて食べる、けして人になつかないといった矜持をみていたい。でも、じっさい、あんな死んだ魚は不味いだろうに。だから鴉と奪いあったりすることになる。
 海岸には貝殻や海草や魚だけでなく、江戸時代に沈んだ船の陶器のかけらも長い時を経て打ち上げられたりする。海鳥の死がいも、流れ着く。猫や犬や狸も。時には人も。

 

菜園便り42
2月10日

 よく晴れた、しっかりと寒い朝、バリー・タックウェルがモーツァルトのホルン協奏曲を透きとおるような明るさで吹いている。ラーラーララララララーララが、「夢をみるのはあなた」というふうに響く。愛、いつもそんなことばばかり浮かんでくる。ジョン・レノンの「スターティング・オーヴァ」のあの部分は、゛愛について語ることば、そんなものはとうに捨てたけれど゛となってしまう。慈しむ気持ち、何かが喪われたことへの感傷、かけがえのないものがなくなることへの怯え、ささやかな思いさえ届かない哀しみ痛み。だから一息に全部切り捨ててしまおうとするような極端な反応もでてしまう。たぶん全ては、求めることへの渇きみたいなものからきているのだろう。
 愛することも愛されることも、喜びというには複雑すぎる、もっと強いしびれるような、痛みも含んだ快感、だからその強すぎる刺激にいつまでも耐えられなくなる。かすかな痛みの予感すら、人を怯えさせ弱気にさせる。愛されることは逃げれば避けられる、愛することは事前の予感のなかで封印する。そうすれば淋しいけれど、平穏な生活があるし、それはそれで人を賢くもする。愛や性に振り回され、やせ細り、みずみずしい感受さえ枯れ果てて、何が残るのか?遠くまで届く洞察や深い思索ではなく、せいぜい底の浅い仮構された諦念、または自分をぼきりとへし折って終わらせるような蛮勇。あらゆる感覚をゼロに閉じこめ、徹底した無反応を装った不毛な時間が続く、時には永遠に。それは、つらい、だれにとっても。
 結局どう転んでも・・・・といったふうに考えることは、どこかで生きることとの接点を失って表層を滑ってしまい、焦点を結べないまま虚しい空転が続いてしまう。自身の肉感や生理を素直に信じ切って積極的に身をゆだねた、愚かで大胆だった時代が、若さが懐かしい。体の柔軟さが、稚拙な思考が、傲慢な矜持が、すでに巻き込まれている巨大な雪崩にすら気づくことから遠ざからせていた、そんな時が。
 でもそんなことばかり言ってはいられない。久しぶりの晴れだ、明日は雪らしい、今のうちに洗濯をしなければ。掃除もして、昼食には、いただいた薩摩芋を焼いて食べ、夕食は予定どおりアラのちり鍋だ。野菜は庭からもカツオ菜、春菊、大根を採ってこれるし、白菜や根深ネギは買い置きがある。昨日いただいた牡蠣を殻からだして塩で洗って準備しておかなければならないけれど、他のものは、シラタキは乾燥こんにゃくを戻して使えるし、豆腐もある(最近は平気で2、3日もつようなものばかりだ)から、買い物には行かなくてもいい。でも久しぶりにこの空の下ゆっくり海岸を散歩したい。何もかも早くすませなくては。
 曲はいつの間にか桑田佳祐にかわっている(だれもいないのにそんなことがあるわけがない)。あの声で愛を歌っている、だからリアルだ。「忘れないと誓ったあの日のことばは遠く・・・・めぐり逢えた瞬間から魔法がとけない」。ささやかなことを大仰なことばにまぶし(その反対かもしれない)、でもいつもの馴染みあるメロディーに説得させられてしまう。彼の歌もいつも失恋やお別れだ。愛はいつも成就しないことが美しく、出会う前にして別れが希求された、ほんとに!?
 天気予報をいつものように裏切って、青空は続く。冷たい北西の風も続く。北北西に進路をとったのはだれだったのか。どこへもたどり着けなかったと淋しく叫んだのはだれだったのか。ぼくはかっきりとした真っすぐな光の下、180パーセント空、90パーセント海の視界のなかを、ふわふわ歩いていく。風に乗ってすごいスピードでウィンドサーフィンのボートが走る。波が寄せる、寄せる、寄せる。 

 

菜園便り43
2月12日

 1個だけ残っていた黄色のピーマン(パプリカ)を摘んできた。肉厚で柔らかくて甘みがあり、おいしい。かなり大きくなったし、まだ色は緑とのまだらのままだけれど、もう採らないと萎れてしまうだろう。最後のピーマンだ。夏の間ずっとなり続け、秋にから冬にかけても小さくなりながら続いて、もう2月、すごい。肉厚の黄色や赤はサラダやオリーブオイル炒めが多かったけれど、ふつうの緑のものはチンジャオロースー(ピーマンと牛肉の細切り炒め)。菜園の野菜は味も香りもかなり強いから、こういう料理によくあう。サラダには強すぎることもあるけれど、蕪なんかはあの癖のある苦みが、生だとかえって感じられない、生の人参のように。だから菜園サラダには何でもいれた。さすがに春菊は試さなかったけれど、そういうレシピもあるから、わりにあうのかもしれない。その春菊もさすがに最近は小さく硬くなってきている。
 何度も書いているけれど、ほんとに鍋料理には何でも合う、菜園のカツオ菜、ほうれん草、春菊、青菜(と呼んでいる中国系の青梗菜の親分みたいなもの)。大根はおろして薬味に使うし、箸休めに蕪の酢漬けやルッコラブロッコリーのサラダもちょっとピリッとして悪くない。いただいたり買ってきたりした白菜、根深、里芋、椎茸、エノキタケ、とにかく驚くほどどっさり食べられる。サラダの倍以上は食べる。
 菜園サラダもまだまだがんばってくれている。もうあと2回くらいで終わりそうな、茎が伸び始めて葉も小さくなったレタス、茂って勢いもあり芽も伸びているルッコララディッシュはもう一回くらい採れるかもしれないし、イタリアンパセリも健在。
 冬こそおいしい大根も、密集していたけれど順当に育ってくれ、最盛期。ぽつぽつと茎が伸び始めるものもでてきて、ちょっとあわただしくなった。あれこれの料理や貯蔵を考えなければ。昨日も大根と干し椎茸を薄味で煮て食べた、少しえぐいような甘みがあっておいしい。引き抜くまでどんな大きさか形か見当もつかない。ほっそり長かったり、ずんぐりと短かったり、ねじれて途中で曲がったものや、二股に分かれたり、葉っぱの勢いに比べてしょぼいものや、首を文字通り青々させているものもある。昨年の父が別の場所でやっていた菜園では大根だけはうまくいかず、小さいものしかできなかったから今年のが特に立派に見える。でも、よそからいただくのはあきれるほど大きかったり太かったりして、驚かされる。丸い聖護院大根もいただいたけれど、癖が少なすぎるのか煮てもさっぱりと淡泊にすぎる気がしてちょっともの足りない。別の料理が合うのかもしれない。
 野菜は形も色も華美なところがなく簡潔で美しい。食べられるということを除いても、人を惹きつけるし、楽しませてくれる。どこに置いても、ごろんといったかんじで存在を示している、誇示するというのとはまったく違って。勁いけれど見ためは柔らかで、あたりも穏やかだ、つまりほんとのやさしさがある。そういう人にはとうとうなれなかった。なりたいと思ってこなかったからでもあるだろう。宮沢賢治ではないけれど、そういう人はでくのぼうと呼ばれ、軽んじられ、いいように使われる、つまり損だ、というように思ってきたふしがある。少なくとも、負けたくないとかいやな思いをしたくないというのはあった(小さな野心や嫉心)。そこをほんの少し抜けるのにいったいどれだけの時間と強靱さと忍耐がいるのだろう。植物のようにゆっくりと時間をかけ、周りをきちんと見ながらも巻き込まれず、ほんとに大切なことだけを護って、結果をおそれず、自他への尊厳を保ち、何よりも受け入れる力を持ち続けること、といった生き方。ほんとはだれもがあたりまえのこととして持っている、でも今は「個」が前面に出てきて見えなくなっているもの。慈しむ気持ち、生の単純な深み、そういうもの。 

 

菜園便り44
2月15日

 新聞の日曜版のコラムに、16年間住んだ大正時代の長屋の生活を懐かしむエッセイが載っていた。今は新しい住居に移っていて、建付もいいしお湯も出るし、内風呂もある。快適になり、霜焼けもなくなった、ほんとにうれしくてほっとするけれど、喪ったものもあると、感傷や持てるものの余裕としてでなく、彼女は寂しく思っている。冷え切った手に持つ湯呑みのあたたかさ、かじりつくようにして暖をとった火鉢。静かに語られる、何かを得ることが何かを喪うことだという真実は、しんと人をうつ。
 ソクーロフ監督が奈良の奥でひとり住む婦人を撮った作品「穏やかな生活」を思いだす。子供が嫁ぎ、夫が亡くなり、広い大きな家をひとり護っている婦人。凍えるような真冬にも火の気は和裁の仕事部屋の小さな火鉢くらい。それも暖をとることよりも、仕事で使う鏝を灰に埋めて温めるのが主要な役割。裁縫台の上に広げられた、持ち重りしそうな厚い黒と白の礼装用絹生地を、時々火鉢にかざして温めた指で縫っていく。はあっと息を吹きかけて手を温めるときのような、かすかなぬくもりまで伝わってくるようだった。七輪で準備する食事も質素だ。食後の暖かいお茶を両手で抱えてゆっくりとのむとき、カメラの前の硬かった表情がすっと溶けていく。
 思わずつま先をあげて踵で歩きそうになる畳の冷たさも、湯呑みから立ちのぼる湯気の湿った温かみさえもがいとおしいようにさえ思えることもわかる。環境の厳しさに対応したような彼女の厳しさ。その世代ではきっと破格だったろう教育を受けた育ち、こちらも居住まいを正されるような威圧さえ感じてしまうけれど、それはけして独善の排除ではなく、ひとつにはひとりに慣れた人の周囲への関心のなさであり、生きていくなかで身についた、引き受けれるものだけを引き受ける、引き受けなければならないことはただ黙って引き受けるというような勁さであるのだろう。 不便さから便利さへと移った人と逆に、ぼくもはじめは激怒することさえあったこの大きいだけのあばら屋「玉ノ井」での不便な生活に、喜びを見いだすことがある。広いし、古いし、隙間だらけだから、夏は心地よい。ぼうとなりそうな暑い日も家のどこかにはひっそりとした涼しい塊が残っている。窓も戸も開け放って風を入れる。夜になると人心地する温度までは下がってくれて、一息つけるし眠れる。だからそのぶん冬はひどい。でも、一月上旬には寒さへの怯えや嫌悪が慣れて薄まるのか、平気になってきて、きつい寒さの日、台所で指がかじかんでも、なかなかだなと思えたりする。買い物の途中雪に吹きつけられても、季節もいよいよ気合いがはいってきたなとかんじる余裕もでてくる。食器をひとつひとつ温め、湯気を見ながら料理を盛る。蛇口の水がしばらくすると暖かくなる、冬の傾いた日差しが部屋のずっと置くまで差し込んできて背中を温める、そういったささやかな喜び。
 遠い記憶のなかには、ぼくにも、焼き物の火鉢の重さ、なめらかさ、そしてまだ火が回る前のあのぞっと手に張りつくような冷たさが残っている。入れ替えたばかりの黒々としてわらの形を残した灰の上にごとくを立て丸い焼き網をのせ、真ちゅうの火箸でかき餅を焼いたことも。病気で休んだのか、正座して生真面目にあられを火箸でひとつずつ摘んでは火にかざして焼いているぼくは、灰色のネルの寝間着姿だ。子供心にも貧相だと思っていたあの寝間着。父方の祖母がなんて器用な子だろうと言ったと母から聞かされていたから、後でつくりあげた記憶かもしれない。でも、学校を休んだ日に火鉢にかじりついてかき餅を焼いていたのはたしかな記憶だ。もう6つか7つだっただろうし。
 当時は誰もがやっていて、もちろん母もやっていたし、近所に和裁の先生もいて見ていたのだろう、いろんな裁縫の道具のことなども思いだされる。和裁のための低く長い木の台、マストのように棒が立った箱形の裁縫箱、その箱や大の端にひもで取り付けてある生地をぴんと張るためのピンチ。たしか長い台の上には折り畳める紙や布の厚い台紙が乗っていた。生地に印を付けていくイチョウ型のへら、折り返しを押さえる柄の長い鏝。しつけ針も、縫い針もたしか洋裁とは違っていた。針山の中身には糠が使われ、しつけ糸も、ほぐしたときの糸も捨てずにきちんと巻き取ってまた使っていた。中指に指貫をつけ、それがどう役立つかは、何度見てもついにわからないままだった。かえってめんどくさそうに思えたけれど。(ヨーロッパでは指貫は、指にかぶせる形になった金属のものだった。やっぱりコレクターがたくさんいて協会もある)
 着物の仕立て直しの際の洗い張りのことも、とぎれとぎれに覚えている。糸を抜いてバラバラにした濡れた細い絹生地をしゃっしゃっと音を立ててのばして洗い張りの板に張りつける。反のままの広い生地は、両端にさしてたわめた籤を連ね、ぴんと張ってひっくり返した蒲鉾のような形で干されて揺れていた。その時も張った生地を、やはりしゃっしゃっとのばしていく。そういうリズミカルな音やてきぱきとした動作、ぬれていく干し板、光に透ける生地の模様、連なった籤の形、風に奇妙な動きで揺れていたこと。
 もう耳たぶが霜焼けで腫れ上がることもなく、台所のバケツに氷が張ることもない。でも風呂から上がってのんびりできない、急いであれこれすませて床に入らないと、死語になっていた、湯冷めということばを震えながら冷たくなった足先で体感することになる。

(以前にこの映画についてコラムに書いたものがあるので、つけておきます。)

穏やかな人生

 暗ぐらと深く厳しい作品を撮り続けるロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の『穏やかな人生』(1997年)が、福岡市図書館ホールで上映された。奈良県の山奥にひとり住まいする老婦人をじっと見つめたドキュメンタリー。百数十年はたつ堅牢な家、柱や棟は揺るぎなく、濡れ縁の木目が柔らかく浮き上がり、上がり框は撫でさすったようにすべすべと光っている。自然や孤独の険しさに拮抗する勁さをもって、蝋燭やランプの揺れる火の下、七輪で煮炊きし、冬でも開けはなった住まいのなかに火鉢だけをおき、けしてうつむかず、かがみこまず、和裁で生計を立てながらの生活。床や畳のきしみ、時にごうごうと響く風の音、重なるソクーロフのナレーション、全てに満ちている静寂すらも聴こえてくる。 
 撮影の最後の夜、彼女は熱いお茶を両手でゆっくりと吹き冷まして飲み終え、氷解したような柔らかい表情でカメラに向かって語りはじめる。でも言葉は口からは発せられないまま、そっと折り畳まれる。そしてそこに言葉に形作られてしまう前の、深く豊かなものが溢れて満ち、伝わってくる。消費のための饒舌でもなく、切り刻まれ整然とした論旨の合理でもなく、また「言葉は嘘になります」という火急な否定でもないものとして。
 旅立つ人へのはなむけの宴として、正装した婦人が夜の座敷で自分の歌や句をぽつんぽつんと読み上げる。けして自分にも見せない孤独の痛みが、亡くなった夫への、嫁いだ娘への直接的な呼びかけとしてかいま見える。浸されるほどの生の豊かさや輝きと、その酷いほどの悲哀や苦しさが静かにさしだされる。(舞座)


菜園便り45
2月25日

 ナズナシロツメクサ、仏の座、オオイヌノフグリ、コスモス、タンポポ、買い物に行く田圃の道に散らばって咲いている花の一部。季節や場所はとうに越えられて、という気になる。稲刈りの後そのままにしてある田圃、年末に鋤を入れた田、勢いのあったカリフラワーもそろそろ終わりそうな畑、鋤いたばかりで黒々と粘りのある土が盛り上がっている一角、休耕地なのか手つかずの場所。住居から離れた田圃や畑だけのこの地域は、稲も含めた商品作物がほとんどだから、あれこれたくさんの種類はない。
 農家の庭の片隅や地続きの畑には自家用の様々な野菜が少しずつ植えられている。少しずつといってもさすがにプロだからどっさりなっている。ピーマンなんかは何本も立ち枯れのまま放ってある、ちょっと声を掛けてもらっていきたくなるほどしっかり色づいておいしそうだ。でも、そういうことはとうていできそうにない。地域共同体の気安さと気難しさの案配の微妙は、はかりがたい。隣近所の人の顔すら未だにきちんと覚えられないぼくにはとうてい、とうてい。父も親しい人の畑にたまたま当人がいたときだけ声を掛けて、そうなると当然の成りゆきで、帰りに持ってお行きなさい、ということになるらしい。そうしてもらってきてくれた取れたての野菜は、ネギをはじめとにかくみずみずしくて、驚くほど柔らかくてあまみがあっておいしい。きっちりした触感があることと、筋張らない柔らかさとがぴったりと同居している。光、土、水、肥料、そして何より手入れ、つまり愛情の結果なのだろう。
 2、3日暖かい日が続いて、しかも今日は4月の気温だとか、庭の陰の沈丁花もいっせいに開いてつよい香りを放っている。玄関脇の八重椿も咲き始めた。真っ直ぐにさしてくる光と共に、温かさがしっかりと隅々まで届けられる。雀と紋黄蝶が見える。
 一昨日、芹野さんから初物の若布をいただいた。さっとゆでられた後のあの緑の鮮やかさ。少し粘りのある葉と歯ごたえのある茎、口の中に春の海がそのまま広がるようだ。橙と醤油をふりかけただけの単純な味でいただく。濡れてつやつや光り、器の中でぴんとたっている。一口ごとに季節が体に入ってくる。
 初物はいつもうれしい。見るだけで美しく、季節や気温や光りがリアルに形になりきっている。うれしさで100パーセント底上げされて、香りも味もすごい。父が土筆を少し採ってきてくれた。旧暦だと、まだ立春前なのにと驚いている。でもしっかりのびていて、さっそく薄い出汁で煮て玉子とじにする。苦みとあの独特の食感がひろがる。ちょっとむっとするような伸び始めた野の植物の匂いと気迫が伝わってくる。おいしいし、うれしいし、でも袴をとるのはほんとに面倒だともつい思ってしまう。
 初物のことを考えるときとまどうのは、トマトや胡瓜や茄子は今は一年中出回っているし、食べているけれど、すごく季節を感じさせるもの、例えば茗荷が今の時期に出てくると、やっぱり驚かされる。初物の喜びでなく、なんか異様なものを見たような、胡散臭いものをかんじて、みそ汁に入れて味わいつつも、どっかで軽んじ疎んじてしまう。でも、こういうかなり特殊で、そんなにたくさん売れないだろうものをハウスで栽培して、採算がとれるのだろうか。値段も高いわけではないし。
 遠くの兄姉、友人たちからもときおり季節の小包が届く、北海道から鹿児島から。果実、漬け物、海産物、珈琲豆、お菓子、そういったものが特にあらたまってでなく、簡単なお返しとして、お裾分けとして送られてくる。もちろんうれしいけれど、それなりにあれこれと思うこともある。珈琲はぼくが好きだからいろんな方からいただけてうれしいし、知らないところのものは初めていれるときの楽しみも増すけれど、でも珈琲ひとつにもいろんな事情がある。今度の姉からのはよくもらういつものお店のや、姪がつとめているお店のものではなかった。それは姪がつとめを止めたらしいこと、義理の兄の会社にいた人がひとりで珈琲豆の焙煎販売をはじめて、その珈琲だということなどが、添えられた短い手紙からわかってくる。だれもが時代や場のなかのたいへんさとともに、やっと息をついて暮らしているのもみえてくる。そうしてそこにはそれとははっきり名指せないほどの、生活のなかの愛とか妬みとか疎ましさとかもとうぜんにも混じっているのだろう、だれもの生のなかに混じっているように。

 

菜園便り46
2月28日

 先日、久しぶりに田川に行った。田川市美術館の「描かれた筑豊」展にあわせての企画、「筑豊・その風土と美術」というパネルディスカッションに母里(ボリ)君がでるので、それを聞きに。母里君とはずっと会ってなくてどうしてるかとちょっと心配だったのだけれど、先月の森山さんの美術館とトワールとでの個展のオープニング・パーティでばったり会ったので、とりあえず安心はした。そのパーティはさすがに゛伝説の人゛森山さんの久しぶりの個展でもあり、そうそうたるメンバーで、九州派や伝習館高校関係の長老が大勢参加されていて、初めてお会いする方々も多く緊張したし、大きな声での論陣があちこちで張られて壮観だった。すごいなと思うけれど、でもやっぱり疲れる。
 田川のディスカッションはほのぼのとしていて、母里君の塾の先生でもあった(なんと仲人でもあったことも暴露された!)、もう80を越えられているだろう阿部平臣さんのきりっとしつつどこかおっとりといった風情が印象的だった。出品作家で現在も学校の先生をされている植木レ・オナルド藤田・好正さんにも紹介してもらった。後で同年とわかったけれど、元気に1万枚の似顔絵を描き続けている人で、ぼくも描いてもらった(その日はいろいろあって、母里君の奥さんの勤子さん(彼女も阿部塾の生徒だった・・・といえばいろんなことがわかる・・・・ふーん・・・・)には後でずいぶんひやかされた。ほんとに冷や汗ものだった)。
 レセプションにも参加してビールをどっさり飲んだ後、勤子さんが女将をつとめるすばらしい明治期の建物の「あおぎり」に寄って珈琲をごちそうになり、それから母里君のやるギャラリーでもありバーでもあるhacoに行った。ここは三井炭坑が機械のために造った防空施設で、とにかく不思議ですてきな場所。そこでもまたビールを飲んで、でも八幡から便乗させてくれた鈴木君がそれから友池さんたちのグループ展を見に行くのにつきあい、福岡の薬院まで行った(そのおかげで新しく知りあえた人もいる)。なんというか鈴木君の、現在続けている表現と同じようなその溢れるエネルギーには感心させられる。ぼくも酔ってなければここまではつきあえない。遅くなったのにしっかり待っていてくれた友池さんに、でも酔った饒舌でついあれこれ語ってしまう。八幡の旧130銀行(これは辰野金吾事務所の設計)跡のギャラリー130での個展や今までの活動にもおよび、辛辣なことばも混じってしまった。でもチョコレートをどっさり持っていったから甘さで多少はうち消された、と思うしかない。
 狭い定義での「表現する」ということ、現在一般的に語られる「芸術」や「作品」ということなのだろうが、それはたしかに心躍る、同時に責め苦でもあるような、美しくてうっとりしてしんどくて苛々するやっかいなことだ。だから始めると時間のたつのも忘れるし、ずっとやり続け関わり続けていたいし、すぐにでも逃げ出してしまいたくもなるのだろう。それは自分がやることでも、だれかのをみること(読むこと、聴くこと)でも同じだろう。でも、「表現」ということがもっと開かれ、とりあえず「芸術」や「作品」という概念だけでも抜け出ていければ、ずいぶんと広い所へでれる気がする。そうなれば、全てのことが表現だという地点、表現ということばが意味を失う場にもいつか出会えるのだろう、その単純で深い場に。

 

菜園便り47
3月15日

 先日、水平塾の面々と山口、萩への旅行へ出かけた。笠山という所の椿の群生を見るのが目的だけれど、それはあくまでひとつの理由で、とにかくみんなで楽しくやろうということだ。2台の車に便乗し、計画、会計、運転してくれる友人に感謝しつつ、門司での昼食(かつての繁栄の雰囲気を残す中国料理店で特大チャンポン!)、下関美術館(「殿敷侃」展と珈琲)、長府の功山寺を経て泊まりは湯田温泉。温泉に何度もつかり、訪ねてみえた古い友人、藤田さんも加わっての宴、歌もでて(なんと50年代の「桑畑」「グミの木」!)、最後は深夜の真摯な会話のおまけもついた。国家や民族が共同の幻想であり、時代と地域のなかでつくりあげられた観念でしかないように、「部落」や性別(セクシュアリティ)も幻想であり、個(個体)という概念、さらには生や死という意味さえも根源までさかのぼって問い返す、考え直せるはずだといった、もうずっと続けているけれどなかなか進んでいかないことがらについてなどの。
 晴天の翌日、椿の林を散策し、群青の海にうち寄せる荒い波しぶき、吹きつける風に晒され、そしてまた揃っての昼食(甘鯛の煮付けやさざえ飯)、そして珈琲。高台からの眺めは、荒い外海と、防波堤のなかの穏やかな様が、ふいの時雨や群れをなす鳶の下で様々に変化する。鳥羽を、行ったこともないのに思いだしたりする。萩はぼくには初めての地で、瑠璃光寺五重塔松陰神社(こういうものがあることも知らなかった)のなかの松下村塾、旧住居も見る。松蔭や高杉晋作の名前が語られる度に生まれるある親和感は、でもぼくには遠い。
 夜のなかを走る車のなかはどこかしんとして、会話もぷつんときれる。少しの疲れ、一度にたくさんのものがなだれ込んできた酩酊、楽しみが終わることと一日の終わりが重なって、だれもが宵闇に浸される。でも、元気にまたいっしょの夕食をすませて、そうして別れていく。飛び交うことば、感謝の挨拶、またね、またね。今度は松永さんを偲んで、桜を見ましょうね、必ずね。
 前夜の宴では「琵琶湖就航の歌」がでて、それは松永さんが好きだったからで、しかもそのなかの歌詞に琵琶湖に浮かぶ竹生島(チクブジマ)が出てくるのだけれど、彼が京都の交流会の後にぼくらを彦根から竹生島まで連れて行ってくれたことがあって、だからこの歌は幾重にも彼を思いださせ、おまけにその日湯田まで訪ねてみえた藤田さんのお宅に原口さんと伺った日に、松永さんは亡くなられたのだったし、あれやこれや記憶がどっと噴きだして酔った頭のなかを渦巻く。それはみんなのなかにも、いろんな形で膨れ、溢れ、流れだす。
 死や、喪失は、いつでも不意打ちのように、まるで曲がり角に待ち伏せしていたように、一息に姿を現す、けして逃げ場はない、答えはでないままだ、永遠に、自分にも喪われたものにも。さりげなくその場をかわす、尻をはしょって逃げだす、また次の不意打ちの予感に怯えつつ、でもそこだけが喪われたものとの再会の場だとも気づく、淋しいその時の間にだけ、瞬間の逢瀬があり、逢魔がある、怖い、狂おしい。そこでは何が語られるものとして、受け取られるものとして、差しだされるものとして、待っているのだろう。 

 

菜園便り48
3月19日

 菜園はもうすっかり春のなかだ。大根も終わりが近づき、父は花が咲かないように、地面に植えたまま葉だけを切り落としている。奇妙な、わびしげな風景。カツオ菜はまだしっかりと肉厚の葉をつけているけれどさすがにもう固くなってきた。ほうれん草は大人の手くらいの大きさに葉を広げていて、ちょとびっくりする。でも甘くて柔らかくておいしい。ルッコラは冬を越してまた伸び始め、白い花をたくさんつけた、いよいよこの代は終わりなのだろう。べつ植えになっていた枯れた鉢からはすでに新芽が出てきている。エンドウはスイートピーそのままの白い花をたくさんつけ、もう小さい実がなり始めた。絹ざやかグリンピースかまだ聞いてないけれど。
 青梗菜の親分のような青菜も終わり、茎をすっと伸ばして黄色い花をつけている。隣の蕪とそっくりの菜の花のような黄色い花。開く前のつぼみを鍋にしてみたら、かなり苦みが強いけれど、いかにも春の野菜といったかんじだ。さっと茹でて、芥子醤油で食べたらおいしいかもしれない。イタリアンパセリもぐんぐん伸び始めた。あいかわらず、癖の少ない楚々とした味。
 いただくものも多くて、ブロッコリーや菜の花、大根を友池さんにいただいた。しっかりとした野菜畑と上手なご両親からだから、りっぱなおいしい野菜だ。大根やネギもあちこちからいただいた。黒々とした、いかにも肥沃な土のついた里芋や人参は千鶴子さんのお母さんから。鹿児島の知人から馬鈴薯も届いた。父があまり好きでないので、あれこれやってみる。すり下ろしてお焼きのように焼くとか、蒸してマッシュポテトにするとか。マッシュはバターと牛乳をたっぷり入れてなかなかの味だったけれど、父にはいまひとつのようだ。先日は芹野さんのお父さんから、獲ってこられたばかりのボラとメバルの小魚をいただいた。さっそく父に刺身に引いてもらい、次の日は鍋に、そうして最後は残りを煮付けにしてしっかり食べ尽くした。さすがに満腹。
 昨日、庭で友人たちと「春の野菜を天ぷらで食べる集り」をやった。買ったものも多いけれど、土筆と雪の下、春菊、ノビル、菜の花は野や庭で採れたもの。まだ薄い緑色の際だった香りや独特の苦み、そしてじわりと下から浮き上がってくるような甘みが混じり合った野菜はそのえぐみまでもおいしい。蕗のとう、タラの芽、竹の子と次々に揚げては熱々をいただく、ただただおいしい。目の前には穏やかにたゆたう春の海が広がり、まだ少し冷たさを残した、生まれたての風が抜けていく。あおられて捲れるテーブルクロスの上には、他にも鰻巻きや鶏、芹のおひたしや空豆、桜ご飯、それにチーズもワインと共に並ぶ。至福、そんな大げさなことばも浮かぶ。
 余田さんがいただきものだと下げてきてくれたあさりを使ってのお吸い物も木の芽を浮かべていただいたし、お裾分けの鰤のあら煮もいただく。書家の前崎さんが点ててくれたお茶を、奈良のお土産の干菓子でいただき、最後には川内さんのバナナケーキにも及んだ。長い長い゛快楽゛の一日が終わったのはもう夜中の11時。
 水温み、野からも海からも新しい届けものの知らせが続く。

 

菜園便り49
4月13日

 お彼岸(春分)を過ぎて、陽射しもかなり高くなり、もう部屋の奥まで光を届けてこない。あついほどの陽を背中に受けながらまどろんでいたのも、ずいぶん遠いときのように思えてしまう。
 今年もまた竹の子をあちこちからいただいた。今年は不作の年のようで、いつもより少ないけれど、しっかりお裾分けもし、あれこれ料理していただく。何はさておいて、竹の子ご飯、これはかかせない。人参を彩りに入れるだけであとは出汁と調味料、できあがってから庭のエンドウをいれて、おしまい。簡単で素朴でおいしい。そうやって2、3回やった後は、鶏肉(かしわ)をいれてちょっと濃くしてもいい。他には、定番の若竹煮、酢の物、玉子とじ。どれも適当に味を変えられるし、飽きない。味付けしたものを天ぷらにしてもおいしいらしいので、一度挑戦したい。でも天ぷらは難しいし、うまくできないし、片づけも面倒だし、二の足を踏む。
 ツワブキも庭でたくさん採れる。庭にたくさんあるのは、ここが野山の状態だから野草が蔓延ったのだろうかなんて思っていたけれど、父に、観賞用として庭に植えられていたと聞いて納得がいった。それが、あまりあれこれ手入れせずに、育つに任せていたから野生に戻り、こうなったのだろう。父が採って皮もむいてくれるから、いろいろに料理できる。あの独特のえぐみがいいから、あまり濃い味で料理しない方がいいけれど、今年は教わったばかりのきんぴら風でもつくってみた。これはうまくいった。みりんの甘みと濃い口の味が油とまじりあって、酒にもよく合う。
 季節に季節のものを食べて、飽きるほどそればかり食べて、そうしてまた次の季節を待つ、そういうのはうれしい。ゴーヤ(ニガウリ)もそういうひとつであってほしい。今年も父が植えてくれそうだ。菜園は冬野菜の撤収が進み、夏野菜の準備が始まった。残った大根を抜き、青菜を抜き、畝を耕し、肥料を入れる。ほとんどは父がやってくれて、ぼくは整理の手伝いや、草取りや、残った野菜のしまつをやるぐらい。ルッコラも種がふくらみはじめていよいよ終わり。イタリアン・パセリも芯が伸び始め、花をつけそうだ。先日買ってきたズッキーニももう植えないといけないけれど、まだこういうカボチャ系の地を這う野菜の居場所は決まらない。去年の場所には分葱とニラが育ち、エンドウも実をつけ続けているし。春菊も花が開き始めた。採れるだけとっておひたしにし、残りは冷凍にしてみよう。花も美しい。ほうれん草も終わった。カツオ菜は相変わらず大きな葉を広げているけれど、かたくなったし、ぼくは正直飽きてしまった。二人家族には多すぎる。
 芹野さんのお父さんからの魚も続いていて、感動的においしい。獲れたての鰺、メバル、ゴウザなどなど(魚の名前は覚えられない。先日も一度聞いたら一生忘れられないような奇妙な名前を聞いて知らなかったので、モグリの津屋崎人だと言われたばかりなのに、もうその名前も思い出せない。すごくおかしみのあるユニークな名前だった)。刺身、焼き物、オリーブオイル焼き、煮ものなどなど。シンプルな醤油とみりんだけでも十分においしいし、ショウガや山椒、今は木の芽を加えてもいい。抵抗のあった、煮汁で炊く野菜もだいじょうぶになった、なんたってこんなに新鮮でおいしい魚の出汁なのだから。直接いただいたり、庭で収穫したものへの偏愛は、ますます強まる。実際、香りも味も、食感もまったく違うし、喜びや感謝する気持ちが生まれる。無駄にならないよう、隅から隅まで使う気にもなる。
 まだトマトやバジル、レモンバームの種まきもある。もうちょっと温かくなると、どっといろんな野菜の植え付けも始まる。小さな菜園から、また信じられないくらいの野菜が採れるようになるだろう、ほんとにすごい。

 

菜園便り50
4月15日

 先日庭でやったパーティの時、外まで聞こえるように部屋のステレオを大音響にしてパバロッティをながしていたらスピーカーが壊れてしまった。そのわりには、やっと聞こえるぐらいにしか音は届いていなかったのだけれど。
 がっかりして愚痴っていたら、森さんがよぶんなのがあると送ってくれた。うれしい。さっそく接続して3週間ぶりくらいに音楽に浸る。こういうオーディオセットなんかは、ひとつ替えるだけでがらっと音が変わって、いったい今まで自分が聴いていたのは何だったんだろうとか思わせられたといったようなことをよく聞くけれど、実際今度もそんな気がする。2年前のアンプの時ほどではないと思うけれど(いまさらもうわからない)、でもずいぶんとちがう。ふーーーーーーん。
 しょっちゅう聴いていた管楽器もののモーツァルトや歌もののアリア集をかけてみて、やっぱりちがう、と思う。聞こえる音それ自体がふくらみがあるし、ほとんど聞こえていなかった音もある。これまでのはもっと線が細くて、音も高めに感じられたような気がする。今のはすごく粘りがあって厚みがあり、艶がある、みたいな言い方しかできないけれど。
 でも3週間聴けないのは、思っていたほど苦痛ではなかった。他で聴くことが多かったせいもあるけれど、ぼくは、音楽が無ければ死ぬ、いたたまれないということはない。よく、「第一楽章派です」とか言ったりするけれど、CDを聴いていていつの間にか何か他のことを考えていて、聞こえなくなっている。何かしながら、ただ流していることも多い。だから、きちんと聴くと、第2、第3楽章などは。まるで初めて聴くような気がしたりする。これは何?と驚いたりする。
 以前仕事で関わっていたことがあって、CDはかなりある。でもふだん聴くのはほんとに限られている。たまに奥から引っ張り出してきて聴いて、ああいいなと思ったりしてもいつの間にかまた奥に戻ってしまっている。音であれ、音色であれ、テーマであれ、内容量の豊富すぎるものはつい敬遠してしまう。例えば交響曲印象派、ベートーベンといったような。
 オペラ(ダイジェスト版)やアリアをよく聴くのは、ことばがわからないから、声としてだけ聴いていられるからということもある。日本語のようにはっきり意味がとれると耳についてしまい、つい聞き込んだり、いらだったりしてしまう。あの奇怪な日本語のアリアや歌曲よりは、ポップソングや歌謡曲の方が、当然だけれどずっと聴きやすい。演歌になるとまた、異様でステレオタイプというとんでもない歌詞や節回しになったりする、どうしてだろう。あまりにも思いこみの前提をおきすぎる、決めてかかるからだろうか。
 先日、演歌歌手がどっとでてくる歌番組をみていたけれど、あの表情や髪型や化粧や仕草にはちょと耐えられなかった。どうしてあんなふうにするんだろう。それが求められているとしたら、ずいぶん奇妙な世界だ。ああいった傾向の歌が持つ力やリアリティ、情動や抒情はそのままストレートに人の胸にドンとぶつかり、一瞬にして掴んでしまうものを持っていると思うのだけれど、なかにいる人たちはそれを信じてないのかもしれない(ことばとしてはいかにもそういうふうに言われていそうだけれど)。通俗的なことばを重ね重ねたうえに、ふいに小さなでも永遠の一瞬があったりする、それを再び「愛」と叫ばなくてもいいのにと思ってしまう。
 


菜園便り51
4月16日

 先日、萩原幸枝さんに勧められ、またデジタル・ヴィデオ・カメラも貸してもらって、玉乃井を記録として撮影した。幸枝さんは当日も撮影助手みたいなことまで手伝ってくれた。感謝。
 彼女の子供の頃の8mmフィルム映像をずっと後になってVHSで1時間くらいにまとめたものがあって、以前に初めて伺ったときに見せてもらい印象深かったことと、やっぱり記録や「思いで」は大切よと言われて、そういうきっかけがないとなかなかとりかからないものだから、ことばに甘えて集中してみた。慣れないことだし(ほとんど初めてのようなものだ)、体も気持ちもそうとうむりな強張りがあったようで、ぐったり疲れた。
 現在ぼくが父と住んでいる玉乃井は、戦後、祖父母が買い取って始めた割烹旅館だった所で、7年ほど前に営業を止めた建物。崩壊しそうなあばらやだけれど広いし、全く使ってない部屋ばかりだし、雨戸ひとつとっても1年ぶりに開けるといった状態で(開けることのできない所の方が多い)、始めるまでもなかなかたいへんだった。それでも、励まされたり、自分でも「なかなかだ」なんて思いこみつつ2日かけて撮った。編集なんてできないから、コンテみたいなものをでっちあげて、それにそって頭から直に撮っていき、ナレーションも撮りながら入れていく。手元は震えるし、テキストを読んでると持ってるカメラの位置がずずずっと傾いていくし、ズームとワイドを間違え行ったりきたりして揺れる。
 全景、庭、各部屋、廊下や階段、風呂、以前住んでいた向いの家、津屋崎の港や街並みも撮る。厨房と、荒みきった竹の間は幸枝さんが撮影してくれた。あまりにひどい所は、当然の身びいきでぼくが外していたら、それもおもしろいしきっといい記録になる(「思いで」になる)ということで。
 母の古い写真も撮った。亡くなってからずっとアルバムを見ることさえ苦しくてできなかったのに、4年たっていつのまにかじっと眺められるまでになっていた。古いものだけでも5冊ものアルバムがある。母方の曾祖父、祖父、祖母、叔父、叔母。父のアルバムも撮る。結婚前のは1冊だけ。以前、父に聞きながらメモした、ぼくらのあまり知らない父方の家系図みたいなものもおさめる。
 準備したテキストは長すぎたし、うまく読めないし、削りながらナレーションに使ったけれど、ぼくの思いや好悪が露骨にでてきていて、自分でもちょっと驚いた(これじゃまるで、ぼくの映画になってしまいそうだ)。親族、家族への、子供時代への、愛憎は深い、と言うべきか。こんなに穏やかな環境のなかで、でも屈折や内向を抱え込んでしまうのも、また、生なのだろう。父や母が持った感情のねじれを、ほぐして開いていくのでなくそのまま受け継ごうとしているところもあるのだろうか。それが、彼らの思いを晴らす「復讐」であるとでも思っているのかもしれない。そうしてそこには当然のようにぼく自身の愛憎がさらに重なり織り畳まれて、幾重にも屈折は深まり、現在のことがらも取り込まれ切り刻まれ、どろどろと深まるばかりだ。せんないことを、と思ってはいるのだけれど。
 この「菜園便り」の主役である、海側の庭にある菜園も野菜も、もちろんでてくる。海も、そして空もでてくる。そこだけはかけねなしに美しいし、無垢だ。

 

菜園便り52
4月20日

 久しぶりに、田圃の道を歩いて買い物にいく。田には水が張られ、耕耘機が鋤きながら泥を攪拌している。いろんな地中の虫などがでてくるのだろう、白鷺が群れをなして降りてきている。もうじき田植えか、と思っていると、もうあちこちでは終わっていて、かすむようなうす緑色が光る水に反映って続いている。早い!
 今年は桜もそうだったけれどなんでも早い。先日も子供の頃住んでいた蔵屋敷というところを通りかかると、観音堂の藤棚が満開で、強い匂いを放っていた。下を歩くとくらくらしそうなほどだった。房の先をひとつちぎってポケットに入れると一日香りは続いた。昔、この下で子供会の集まりがあって楽しみにしていたけれど、それは5月のこどもの日のことだった。早い!
 お堂では、匂いだけでなく、今はない土塀の周りを飛び回っていた蜜蜂の羽音や、誰かが強引に引きちぎった蜂の体やなんかがリアルに蘇ってくる。トンボの頭、蝉の羽、カナブンの足、そんなものをむしる残酷と怯えとは、しっかりと焼きついて残っている。どうしてあんなことをしたのだろう、そんなにも激しい関心を、どこで育んだのだろう。そうしていったいいつその全部を喪ったのだろう。
 蝶の複雑で妖しげな美しさと、鱗粉が手につく気味悪さとから離れ、甲虫類の単純さや愚鈍な強さが、子供たちを惹きつけていた。かっきりとした輪郭、曖昧な所のないフォルム、すべやかな表面の輝き。あの惜しげなくまばゆさを散りばめた玉虫も、洗いたてた紺地に水玉のカミキリ虫だって、簡単に捕れていたのに。虫や魚への興味が失われ、野山や川での遊びがいつのまにかなくなり、仲間とぶらぶら意味もなく歩いてとりとめなくしゃべりながら、そのくせどこかぴりぴりしているようになって、ときおりじっと黙り込んで、そうして、あっという間に今だ。
 あちこちからいただいていた、トマトとバジル、それにレモンバームの種を父と鉢に蒔く。久しぶりにふたりしてあれこれやりながら、さしてきた陽射しの下、庭の芝生に座り込んで、名札に名前を書いたり、土を混ぜたりするのは楽しい。ずっと以前にもらってガラスの花瓶に飾っていたいろんなハーブ類を適当に鉢にさしてみたら、ミントはどうやら着いたようだ。ローズマリーは4本もあったのに、全部枯れてしまった。いちばん簡単なハーブだと言う人も多いけれど、なぜか我が家では失敗してばかり。やっとついたのも1年後ぐらいに、地植えする前になくなってしまった。風にとばされたのか、だれかが持っていってしまったのか。フェンネルも試しているけれど、うまくいくかどうか。とにかくぼくがやると九分九厘失敗する。
 ずっと前に余田さんからルッコラといっしょにお土産にもらたイタリアの種の野菜で、名前がずっとわからなかったのは、野菜やハーブの本なんかをみると、花や味がチコリにすごく近い。その透けるようなうす水色の花の写真や苦みの描写からして、チコリ、エンダイブ、そういった系統のもののようだ。花のために栽培する人がいるのもわかる。たしかにひっそりとして美しい。切り花にしても水あげしないからすぐ枯れてしまうと思っていたけれど、一日だけの花だとわかった。しかもこの花も食べられるらしい。つぼみで切り花にしたら、人にあげることもできる。「開いたらすぐに摘み取って引きちぎりむしゃむしゃと食べてください」、と詞書きを添えて。    

 

菜園便り53
4月25日

 春の野草や野菜も終わってしまったと残念に思っていたら、井上さんがどっさり届けてくれた。玄海町の実家で、市川さん母娘といっしょに掘って茹でてくれた竹の子。他にもわらび、蕗をいただいた。みずみずしく、匂いたつ。さっそく、竹の子を椎茸や高野豆腐との煮物、庭のエンドウとの酢の物に。はじめての蕗ご飯にも挑戦してみた。味をつけて煮込んだものを後で混ぜるので、失敗はないしおいしかったけれど、色が黒ずんで紹介記事の写真のような薄い翡翠色とはかけ離れていた。まだたくさん残っているので、今度は出汁にちょと味をつけたぐらいで煮含めてみよう。わらびもすぐに灰汁抜きして、一晩おく。
ちょうど父がえんどうを摘み、ツワブキの皮をむいて札幌の姉に送る準備をしていたので、いっしょに少しだけお裾分けする。こういうときはほんとに吝嗇になる。とにかく飽きるまで、気持ちもお腹いっぱいになるまで春を食べ尽くしたい、と餓鬼のように本気で思ってしまう。
 翌日は竹の子をごま油と唐辛子で炒めて味噌をからめたもの、わらびと春菊とエンドウの酢の物、蕗とわらびの煮浸し(他に津屋崎のおきゅうとなど)。翌々日は竹の子とわらびとエンドウの酢の物、ツワブキのきんぴら(他に芹野さんからいただいた鰺の刺身(背ごし)、鰺の塩焼き、庭のほうれん草のおしたし、酢人参)。その次の日は、竹の子と蓮根をすり下ろした団子を揚げてお吸い物にするのを初めて試み(なかなかおいしい、でも揚げただけで食べた方がいいと思う)、先日の竹の子の煮物を温め、わらびと蕗にエンドウを加えて温め、後は鰺の塩焼き。
 竹の子はもう一回ご飯にし、残りを酢の物にするのがやっとというところ。それで春もほんとに終わる。今年も若布が少なく、竹の子もいつもほどではなかったけれど、ほんとにおいしく、春の野菜を十分に堪能できた。届けてくれた人、つくってくれた人、教えてくれた人に、感謝。
 先日の玉乃井の記録撮影について菜園便りに書いたら、いくつもメールが届いた。やっぱりだれもが、時代や年齢からか、記録を取ること、とくにかつての生活や両親や家族や家(建物や親族や)のことを知っておきたい、残しておきたいという気持ちを持っているからだろう。喪われた、喪われていくものへの哀惜、生々しいリアルさから少し離れたゆえのセンティメント、自身を振り返り、残すにしろ消すにしろその痕跡についていやでも考えてしまうのだろうか。50年、区切りのいい響き。もう多くは望めないし期待もしない、でもこのまま穏やかに消え入っていくほどには、静かな落ち着きはまだない、そんな年齢、時代。いよいよこれからだ、とでもいいたいほどの体力やぎらぎらするまでの野心を持ち抱えている人もいる、実際、社会的な定年だってまだずっと先だ。でも何をやれるかでなく、何かをやること自体への、大げさに言えば懐疑がぼくらを浸しているのも事実だろう。やさしさとか、愛とか、正しさとかいった、根源的で本質的とさえ思えていたことすらが揺れている今という時には。  


菜園便り54
4月29日

 現在、たぶん世界でいちばん深い映画をつくる監督、蔡明亮の『ふたつの時、二人の時間』をみることができた。過激なまでにぐいぐいと世界の、人の深みに突き進んで息が止まるほどだった傑作『河』(1997年)の後、あまりうまくいかなかった前作『Hole』(1998年)の後だから、心配で見るのがこわくもあった。すばらしい作品の後、うまくいかなくなる監督も多い(そんなに抜きんでたものをつくり続けることはもちろん不可能だろうけれど)。でも今回の蔡明亮は、あざとささえもあって、あらためてすごい、すばらしい。ほんとうにさりげないユーモアもそこここに散在する。
 これまでの作品と同じように台北の喧噪のなか、人々は飢渇をかかえたままいつものように水を飲み続ける。食べることが慰安であるかのように、父親を喪った母と息子(いつものシャオカン)は、まるで初めて家族揃って食べるかのように、残されたふたりで食事を繰り返す。そうして、やはりだれもが孤立し、無援のままで放りだされている。閉ざされた外界、様々な難しさを抱えた生の現場のなかで人々はさらにばらばらになり、精神の安定を失い、急速に壊れていく。
 そうして、通りで時計を売るシャオカンとふれあった若い女性(シアンチー)は、旅だった先、異邦での完璧なまでの孤絶と緊張のなか、周りに溢れる見知らぬ人々の拒絶と攻撃とにさらされ続ける。わずかなことば、ささやかな思いやりは、それと気づく間もなく互いにすれ違うしかなく、またたくまに騒擾のなかにかき消される。都市の、ヨーロッパの、圧倒的な数の、巨大な前史の伽藍の前で、まるで存在さえしないように、痕跡すらなくて。凍りつくような、うそざむいまでの孤独、無感覚、亀裂、あがき、無。
 だれもが必死で叫びながら、でもだれともふれあえず、ふれあうことを恐れて立ちすくむ。そうしてそういう自分の在り方にさえ気づかないまま、大きく見開かれた目は、なにも見ないために、知ることを拒むために、瞬きさえできないかのようだ。どうしようもないほどの孤立と、どうしようもなくつながりあってしまう関係とは、人の生のなかでぴったり重なっている。ほんとうは人はもっと単純で深いはずなのだろうけれど。
 ぐっすり眠って(自失して)そうして目が覚めたら、たとえ何かが喪われていたとしても(よしんば自身の体や命であっても)、また始める力を人は持っている、大丈夫だよ、安心してゆだねなさい、そういうふに最後に映画は語る。
 だれひとり笑わない、微笑めない、でもだれもがもがきつつ、最後には穏やかな至上の優しさを浮かべる。吹きさらしの公園で眠り続けるシアンチーも、見まもって歩み去るかつての父親も、憔悴しきって眠る母親も、その母に穏やかに寄り添って横たわるシャオカンも。
 そうして、時、時間という概念がゆっくりと揺すられる、そうして当然にも、在る、存在するということの意味も在り方も揺れる。人はどこにいて、どこへ行こうとしているのか、何を求めて、何をしようとしているのか。伸ばした指はすでに何かにしっかりと触れているのだから、それに静かに気づくことだけが、ぼくらに、だれにもに残されていることなのだから。

 

菜園便り55
5月6日

 古本屋で文芸文春のだしている、年間ベストエッセイ集を見つけて買ってきた。このシリーズは当たりはずれが大きくて、最近はもう全然読んでなかったけれど、久しぶりに買ってみた、89年集だ。タイトルは『誕生日のアップルパイ』、当たりでも外れでもなく、でもよく知られた人が多い。全く知らない人が小さなメディアに書いたいいものがひとつあったりすると、それだけですごくうれしくなれるのだけれど。でも、さすがにタイトルにもなっていた庄野潤三のは懐かしかったし、よかった。
 庄野のことは沖野が学生時代に教えてくれた。文学好きの学生のほとんどが大江健三郎やクレジオを抱えていた時代に、第三の新人の庄野を語る、というだけでもなかなかだ。彼が「庄野大先生」と呼んでいたのは、照れの揶揄やそれなりの矜持や批評だったのだろうけれど、今じゃ文字通り最長老の大先生だ。
 エッセイは、長女からの「40になりました」という2枚続きのはがきのことだった。読み進めていくうちに、彼の「小説作品」ほどでないけれど徐々に人は庄野ワールドにはまりこむ。ありふれたできごと、でてくる人も限られている。映画では小津がずっとやり続けたようなことがら。ほんの少し焦点をぼかして(どちらかというと時間的なずれとして)、語られていることが読者にすぐにわからないようになっていて、徐々にいろんなことが見えてくる。そうして、最後にばさりと全体が、ではなく、なんとなくわかったようで・・・・で終わる。
 この長女のことは、他の子供たちにもまして、庄野を読んだ人には特別なものがある。今でもいちばん著名な彼の作品『静物』で、父親が(庄野だ)映画のなかの怖い場面になるとそっとその大きな手で彼女の目をふさぐところがある。この箇所にはたぶん多くの人がいろいろに反応しただろう。圧倒的な懐かしさや憧憬、喪われたものへの感傷、「父」なるものへの思い。父権(男)の威圧とやさしさが戦後の新しい世代、小市民といわれる世界にも形をかえてあり続けたことへの小さな驚き、などいろいろ。
 そうやって目隠しをしたから、この子はわたしたち夫婦のきわどい問題を見ずにすんだんだ、知らずにすんだといったような、さり気ないひとことがどこかにでてきて、それがどうやら妻の自殺未遂のことだったらしく、だからいっそう、手の意味はふくらんでくるし、広がって覆いかぶさってくる。(読んだ人は知ってると思うけれど実際は女の子は父親に買ってもらったばかりの絵本を使って自分で隠すし、父親も若くてクールで、なのだけれど。それから作品の人物、特に主格になっている人物と実際の作家や家族との関係は単純なようで複雑だけれど、でも自身の心理を追求する形での「個」や自己処罰の対象の「私」とはちがう、モダンの洗礼の後の、けっこう単純な<わたくし=自我>みたいなものが確とした基盤になっているようにみえる。)
 その長女は、エッセイからは、元気で、楽天的に考えることのできる、生活の雑務にもしっかりし、英語を教えたりもしている人になっているようで、それはそれであまりにも「庄野<家族>文学」という色合いにぴったりになっていて、不思議な気がする。
 とにかく、庄野はすごくうまい。その間合いやリズムのとり方、外し方、ほのめかし、庄野自身の風貌のような落ち着き、かすかなおかしみ、ふいに亀裂が覗くことでいっそう際だつ生活の、日常の重みいとおしさ。それもあざといことがらでなく、どこにでもあり得る、でも決定的でもあるできごととして。
 今再読すると、日常-非日常、夫-妻、親-子、私-他者といった二項や既存の家族という制度を確固とした前提にしてしか成り立たないつくりで(小説が)、だから、意味不明のくろぐろとした澱みとか、不可解な揺れやゆがみは現れない(現れないように書かれるといったほうがいいのだろうけれど)。そうしてそのことでよりいっそう、世界や生の(性の)真実が透けて見えてくる、より深く伝わってくる、といった神話を呼び込んだのかもしれない。戦後派という社会性、政治性を主軸に声高に力強かった世代への対抗としての、ありふれた生活、平穏に生き延びようとする市民への共感、穏やかででも柔軟に貫き通す、曲げない在り方、というようなまとめ方でくくられ、浮き上がらせられたのだろう、「文学界」の要請としても。至難な、「個」の追求、つまり「私」とは何かといった問いが内省の内の個の微分的解析や時代(状況)のなかの位置確認みたいなことに留まってしまったのだろうか。私なんてないんだ、個なんて近代の概念のひとつだという視点へ向けた、またそこからの捉え返しはみえてこない、時代の限界も含めて。

 

菜園便り56
5月10日

 一昨日、父が菜園に野菜の苗をどっさり植えてくれて、それを手伝った。茄子6本、胡瓜(2種類)8本、トマト(3種類)9本、ピーマン(3種類)6本、ゴーヤ4本、唐辛子2本、パセリ2本、レタス(2種類)12本。あまり広くない菜園にかなり詰め込んで植えていくので、ちょっと不安だけれど、去年も密集しつつしっかりなってくれたので、期待。それぞれの苗の周り四方に竹を立て、ビニールの被いで囲って風よけにする。この竹は父が大土手と呼ばれる内海の堤から切ってきたもの。今の時期の竹は虫が付つくからだめとのことで、以前に切ってきて準備していたものと、その頃切り倒されて放置されていたものを今度また持ってきてくれたもの。
 ズッキーニはかなり大きくなっていて、風よけの被いを外す。大きいし、茎も太いのだけれど、なんか水っぽくてぽっきり折れそうな茎だ。かぼちゃのように、蔓でどんどん伸びていくようにはちょっと見えない、だいじょうぶだろうか。うまくいってくれるとほんとにうれしいのだけれど。庭では初めてだし、あの淡泊なわりには印象深い味を楽しみたい。
 春菊は完全に撤去。三〇本ほどはすでに刈り取って花として花瓶にさしておいたけれど、残りもかなりあった。柔らかい葉や茎もまだあるけれど、苦みがかなりきつくて、もう潮時かもしれない。今まであったことが不思議なくらいだろう。種がたくさん散ったことも期待したい。
 畝の端に居座った浜木綿も移植する。父が好きであちこちに植えているのが飛んできたのだろう。たしかに夕方に漂う甘いむせるような香りはすばらしいけれど、大きな株になるし、葉も花も虫につかれやすくて、無惨な姿をさらすことも多い。ぼくには、すごく高くなる向日葵と同じで、庭の隅に2、3本あれば充分の花だ、そんなことを言うと父に怒られそうだが。野菜の日当たりもてきめんに悪くなる。
 でも、いつも思うことだけれど、こんな小さくてひ弱そうな苗があんなに伸びていくつもの大きな実をならせるとは、信じがたい気もする。茎がしっかりと伸び、緑の葉を広げ、枝に小さな堅い実をつけ、それが日ごとにふくらんで赤くなったり、紫になったり、ぶつぶつの奇妙な形でぶら下がったり。それを見、手にし、そうして味わう喜び。極端にひどい天候に見舞われなければ(豪雨、ひどい潮風、台風、異常気候とか)、水さえ欠かさなければそれなりにがんばって、実りをもたらしてくれるだろう。とにかく愛を持ってあたって、愛のお返しを期待して、けして焦らず怒らず。
 ベランダにびっくりするくらい充実した菜園をつくっている幸枝さんからトマトの苗をいただいたのでそれも後から植える。芹野さんから近々バジルの苗もいただけるし、ルッコラももう種が採れそうなので、急いで植え替えたい。一部は根を残して、そこからの新芽でもやってみよう。イタリアからの種で一株だけ鉢に残っていたものも畝に移す予定。
 あれこれやりつつ、潮でやられた後また実をつけ始めたエンドウを茹でて酢の物に(切り干し大根と胡瓜と茗荷)、イタリアン・パセリの花芽も摘んでサラダ(トマトと玉ネギと生ハム)にしたりもする。体や仕事や目や舌や愛や指先やことばで、菜園の喜びを深呼吸するようにとり込む。

 


菜園便り57
5月
 1970年代初め、つまり、60年代の最最後という頃、木造の静かな病院での父の死から映画は始まる。ひどく無口で、まじめな(だからちょっと鈍くさい)中学生の男の子は、山村のキリスト教系の学園に転校させられる。彼が吃音だったことがしばらくしてわかる。
学園での自己紹介で揶揄されことをはじめ、敵意と嘲笑にびっしりと取り囲まれているとしか思えなかった少年は、音楽室でひとりレコードを聴く少年に出会う。微笑みながら彼の手がすっと伸びて少年の耳たぶを触る、驚愕して思わず振り払う少年、でも友情はそこから始まる、もちろん。
少年の名はジョバンニ、ではなくミチオ、そうして当然にも出会うこととなったカンパネルラはヤスオ。このジョバンニはけっこう強そうで、あまちゃん、このカンパネルラは見事なボーイソプラノの、勉強はも好きでなさそうで、喧嘩には弱い、つまり優等生ではない。
当然、愛情あふるる、理解ある、でも時代の苦悩を背負った、アウト・ドア派(このへんが70年代というか、アメリカナイズというか)でちょっと屈折した先生がでてくる。彼はコーラス部(グリークラブ)の顧問で、廃材でこつこつ家を建てている。彼がもと過激派だったということがわりと早く語られて、その後の展開の伏線になっていく。お決まりのように、もと同士で後輩の女闘志が現れ、革命論議や絶望や「はらはら時計」や指名手配や刑事たちの追跡や、があって、彼女はダイナマイト自殺。
そういった過剰なできごとを一方に、緑溢れる山間の四季のなかで、少年たちは合唱コンクールを目指す。先生の指導の下、曲は『ポーリシカ・ポーレ』。うーーーーん、そうか!?どこまでも、西洋、キリスト教、近代で、だから゛旧態゛日本は否定の×、だから革命は○、コーラスも○、新しい村と信仰もとうぜん○。
最初の夜、ジョバンニは寮から逃げ出そうとする、カンパネルラが助ける、でも、結局、線路の横を歩き始めた足は止まる。何故だろう?ジョバンニは、この、まだ会ったばかりの少年に「でも、どこへ行くの」と問われて、「家がある」と答えて、その問いにも答えにもずいぶんと重い意味があることを、歩きながら気づいたのだろうか。ヤスオとの芽生えたばかりの友情には、すでに彼の痛ましい家族関係や今までの歴史が染みだしてきていたのだろうか。「ぼくのことは忘れないでね」と叫ぶ少年。歩みを止めた少年に、ヤスオは喜びとある種の責任をもって言う「ここもそんなに悪くないよ」。

 

菜園便り58
5月22日

 夏野菜に植え替えて初めての収穫。外側の葉がダンゴムシに襲われ始めたこともあって、まだ小さいけれどレタスの葉をかく。少しずつだけれど12株ほどあるのでけっこうな量になる。やや固くてかさかさし、あおいというか未熟というかんじ。我が家では初めての試みのズッキーニも同じ状態なので、一番下の地面に着いているのは小さいけれどちぎる。ほんとに初物。
 植え替えてそんなに経ってない気がするのに、もうトマトは小さな青い実をつけているし、胡瓜も伸び続け、茄子は花をつけた。なんかすごいなあと思わせられてしまう。芹野家からやってきたバジルもうまく着いたし、幸枝さんのルッコラも我が家のに混じって芽をどんどん出している、もう圧倒的というか。
 今頃になって、種から植えたトマトが芽吹いて伸び始めた。でももう畝にスペースはない、あまったバジルなんかといっしょに庭のそこここに植えて、育つのを願うしかない。なんかいろんな条件の子供たち、家族といっしょだったり、「孤児(みなし子)」だったり、子供だけの集団教育だったり、独立独歩だったり、引きこもってしまったり、をあれこれやりながら、なだめすかしながら、でも大筋では祝福しながら・・・ではなくいっしょに楽しみ喜びながらやっているというような(こういう時、比喩はどうしても婚姻とか家族とか、子供に傾いてしまう。それぐらい現在<家族>という形で現れている、関係や愛情(慈しみ)が深く染みついている、普遍的に見えてしまうということだろう)。
 札幌の姉から、毎年恒例のアスパラガスも届いた。たきかわの協同組合からの直送で、ずっしりと太くて先っぽがかすかに紫がかっている。さっそく茹でて昼のサンドイッチにする、野菜の甘みと独特のえぐみがあり、根本まで柔らかく食べられる。柔らかいけれど、しゃきっとしていて、食感がよくて。どこまでも広がる緑霞む春の野の匂いや風が、その添えられた写真やメモからも伝わってくる。我が家のレタスはひがむかもしれない、「まだまだ完成じゃないんだから、比較されたらたまらない」と。
 「自分ちのは徹底したひいき目で見るから、もちろん心配ない」と言ってやりたい。自分で収穫することの特別さ、喜びは、けしてうまくことばではいえない。父がしっかり管理して育ててくれて、ぼくはあまりあれこれできなくても、摘み取る感動は、ほんとに大きい。
 ツワブキもまだ採れる。父が選んで摘んできては皮もむいてくれるので、いつものように薄味で炊いたり、甘辛く煮込んだり。この季節でも充分柔らかく、味も香りもぎっしりと詰まっている。
 年ごとに逞しくなり、花も大きくなる琉球月見草が群生している。根っこから引き抜いて植えても着くぐらい丈夫で、でも花はピンクではかなげで細い茎は風に楚々と揺れる。表側の玄関近くに毎年顔をだすテッポウユリもまた帰ってきた。ネズミモチが垣になっているので、そこを抜けてつぼみをだすべく長い長い茎を伸ばしている、けなげと言うか逞しいというか。切り花にすると夕方から強い香りを放って部屋を満たす。
 夕食には北海道のアスパラと、庭のズッキーニをいっしょに軽く炒めた。不思議なほど食感や色合い、それに野の野菜のようなかすかな青くささや苦みが共通していて、晩春の献立になった。サクッ、シャキッと歯の間で跳ね、甘みと苦みが油に混じり合って舌の上で広がり、鼻孔の奥に青い終わりの春が消えていく。

 

菜園便り59
6月3日
 斎藤秀三郎さんが80歳になられた、すごい。
 小さなお祝いの集まりがあり、その案内状にあったように、「かわらずに好奇心と
積極性にあふれ、柔軟な感受と硬派の気概とをあわせもち、毅然とした姿勢を保ち、
凛とした生き方を貫かれています。そうしながら、いつも飄々とした軽やかさやユー
モアを失わず」だ。
 「大げさにでなく、ちょっと集まって、お祝いしたいと思います。励まし、励まさ
れ、この生きづらい時代を、混沌とした世界を、あれこれ悩みながら怒りながら泣き
ながら、いっしょにやっていけるように」という呼びかけだったけれど、斎藤さんは
人気者で、わたしもわたしもという人が続いて、十数人の集まりに広がった。
 他の会も重なり、珍しくネクタイをされての斎藤さんは主賓席ではなかなかに格好
もよく、静かににこにこされていた。忘れられないいちばんの思いではときかれて、
「それは12の頃、17歳くらいの少女のお尻を見たことです」と答えられる。身体
や妄想が、完全に性的なものになりきってしまう直前、思春期の始まりの、たぶん母
親や家族の肌への、柔らかさや、白さへの懐かしさも含まれていたのだろう、憧憬の
ような思いとして。そうしてそういう対象への憧れや執着だけでなく、そういったか
けがえのないものと自分とはどうしようもなくちがうのだ、そうはなれないんだ、ま
すます遠ざかるだけなんだという、決定的な思いもあったのだろうか。
 誰もが、母なるものを、ほんとに好きな人を、ずっといっしょにいたい友を、どこ
かで諦めて、他者として切り離すことで、<自分>を見いだすのだろうか。こんなに
も始終思い続けていて、すぐそばに感じ続けているのに(もっといえばぴったりと重
なりあっていると感じているのに)、その人と自分とは一体ではないんだと知る驚
愕。そうして、自他を切り離すその残酷なとさえ思えた世界の掟が、でも小さくまと
まった自己とそこから距離を測れる世界といったものを提供してくれるんだという発
見の予感。そこで、そのまとまりのなかで、整合の下で感じ考えなさいと。失われる
ことは喪失や死としてでなく、この世界内で<時間>と呼ばれているものの、ある生
真面目な(受け入れるしかない厳格な)一面に過ぎず、それは一方では、安定や成
熟、完成や、終わりを示してくれるものでもあるのだと。
 そうしてどんなに疑問や異議があろうと、今の無力で無能な自分としてはその掟を
とりあえず受け入れるしかないと、その後で知を力をつけて充分に抵抗するのだとい
楽天的な嘘を、それと自覚すらせずに(最初の自己欺瞞だ)平然とついたのだった
ろうか。それともただ強制されるままに、従順に世界のなかに(共同体の懐へ)抱き
取られる安堵に身をゆだねたのだろうか、世界の側から身をかわされ突き放されて絶
望的なまでに途方に暮れる、いく人かの隣人を遠くに見やりながら。
 そうだったのだろうか?そうやって誰もが生きのびてきたのだろうか。そうしてそ
のことへの厚顔な開き直りか、青ざめた倫理で、今、世界の前であらためて立ち竦ん
だり、立ち眩んだしぐさをしてみせているだけなのだろうか。そんなにも淋しい表情
しかぼくらは持ちあわせがないのだろうか。
悪い癖だ、すぐパセティクになって言いつのってしまう。お祝いの愉快であたたか
いことばをこそ探していたのに。でも斎藤さんのことだ、にやっと笑って「またです
か」と許してくれるだろう。

 

菜園便り60
6月5日
 この夏はじめての胡瓜の収穫。しゃきっとして、でも水っぽいのではなく、粘液質的なまでに密度のある柔らかさと瑞々しさが果肉のなかで一体となってつやつやと輝いている。こんなふにいうと、あまりにも大げさに響くのかもしれないけれど、でもあの色や香り食感、味を受け取ると、つい言ってしまう。それはなかなか大きくならず、小さいままで収穫するズッキーニにも言える。ヘチマもそうだろうけれど、瓜の類の果肉は、大きくなると密度が緩んで柔らかくなり、種が見え始めるともうぐずぐずに崩れ始めるようなところがある。調理すると茄子のような歯ごたえや味になってくる。それはそれでおいしいし、好きな人も多いだろうけれど、あの、硬さがとれてやっと食べられ始める頃の、緑緑した色そのままの青臭さと微かな甘さ、かりっとしていてねっとりと密な歯ごたえは何ものにも代え難い。
 苗から植えていた茄子が2本だめになり、その後に父が植えてくれたのは、馴染みのある香りや形なのにすぐには何かわからず、食べてみてやっとわかったけれど、セロリだった。葉を食べるタイプなのだろうか、それともまだ小さいからこんなに筋もなく柔らかくて香りも穏やかなのだろうか。いずれにしろ楽しみ。
 バジルやルッコラも間引きを続けてサラダにし、レタスも緑のを中心にどんどん掻き取っていく。一本だけ生えてきた青じそも昼のそーめんの時に使うし、最後に2つだけなったエンドウも久しぶりの破竹といっしょにいただく。胡瓜は次々に実を結んでいるし、トマトや茄子、ピーマンも収穫は近い。来月にはゴーヤがも採れるかもしれない。それも楽しみ。
 チコリのような苦みのあるイタリアの野菜も元気よく庭のあちこちから伸び出しているし、すでに大きな株には薄紫の花がびっしりと咲いていて、サラダの彩りにもなる。
 きゅうに暑くなり、もうTシャツ1枚でいられる。夜には窓を開けているといろんな虫が飛び込んで鬱陶しいけれど、昼間は蝶や蜂が元気に飛び交い、まるで叫んでいるかのように満開して誘い込む花々がある。そこここの草木は伸び続け日ごとに緑を濃くし、松も短く密集した新芽がつき立っている。蕾や柔らかい芽が終わったのだろう、鳥たちはもう木々にまとわりつかない。海はどんよりとした空を映し、水平線も霞んで、ひとつながりに淡く光っている。先ず中学生の男の子たちが、競うように粗暴なものをもてあますように、海に飛び込む。そうして小さな子供たちが下着のまま、波打ち際でばしゃばしゃと手足で水をはね、他愛なく転んでは声を上げる。梅雨前の最後のすがすがしい季節が過ぎていく。真っ直ぐに突っ立っていた、いかにも軽く硬い金色の麦も、水田に広がる稲の猛々しいまでの勢いに押しきられるように刈り取られていく。

 


菜園便り61
6月18日

 千鶴子さんに朝倉の梅をいただいたので、久しぶりに気合いを入れて梅干しに挑戦。最初に漬けたのは四年前で、ビギナーズ・ラックもあってうまくいったことはいったけれど、母が亡くなった直後のちょっと異様な精神状態のときだった。どこか目をつり上げて、家の行事や「家事」を完璧にやり抜くことが母を救う(悼む)ことだといったような奇妙に捻れた心持ちだった。今思うとなんであんなに無理して仕事にも家事にも必死になってしまったのだろうかと、淋しくなる。もっと静かに母も父も自分も、大切にすべきだったのに、泣いたり思いわずらったりすることにかまけていてよかったのにと思う。心ここにあらずのまま、展評に書くつもりで個展を見に出かけた帰り、博多駅で食事してお金を払わずにでてきてしまい、電車の中で気づいたこともあった。あのときはやはりショックだったけれど、そのショックさえどこか少しずれて遠くに感じられていた気がする。
 今はもう落ち着いていて、梅干しは楽しくもあるがでもめんどくさいなという、当たり前の気持ちだ。解説書を読みながらだから、神経質になりすぎる。最初の塩漬けでうまく白梅酢があがってきた後、液の表面に白い膜が所々にでたのが気になり、全部を取り出して陽に干し、酢は煮立てることにした。赤紫蘇も出始めたので、ついでに本漬けもやってしまおうと、あれこれ結局二日がかりになった。とにかく黴がこわいし、解説もそのことを強調するし、いちいち容器や道具を洗い、煮沸し、乾燥させなければならないので、ちょっとうんざりする。
 父の日だったこともあって週末にやってき兄や妹と話してみると、二人とも毎年梅干しを漬けているとのことでびっくりした。兄は勤め先の若宮のレストランでで、これは環境からいってもわかるけれど、あの妹が、今は高校生二児の母であるとはいえ、梅干しやラッキョウを毎年漬けているなんて信じがたい。人はいろいろだ、人は変わる。
 とにかく、今日は朝起きて昨日引き上げていた梅をまた陽に干して、その漬ける容器と使う道具を煮沸してから、父が夏みかんを札幌の姉に送るのに、庭の野菜も入れてもらおうと、胡瓜、ズッキーニ、レタス、バジル、ルッコラを摘んで洗って渡し、赤紫蘇を買いに行き、帰ってすぐに葉をちぎって洗ってざるにあげ、乾くまでの間にたまっていた洗濯をやって干し、昼食(簡単なサンドイッチ)と濃い紅茶の後、紫蘇を塩で揉んで絞ってを2度繰り返す(今年は梅の塩漬けも中国の岩塩を使った)。この時の絞り汁の美しさにはいつも感動する。最初は濁った赤紫、二度目は深い紺紫で、白い磁器のボールの中にたまった汁は捨てるに忍びなく暫くおいて眺めている。それから紫蘇に白梅酢を加えるのだけれど、このときの一気に赤変する梅酢の色のことはだれもが言うし、書いてあるけれど、やっぱり美しい。硬く硬く絞られ、美しさをだしきってしまった赤紫蘇は薄汚れた灰色の団子になっているのだけれど、そこに白い梅酢がかかると、一息に赤く、つまり梅干し色になる。ほんとにすごい。
 そこまでやれば、後はゆとりをもってその色や立ち上がってくる香りを楽しみながら梅を酢と共に容器に戻し、紫蘇をかぶせて、また重しを載せるだけ。二週間ほど待って、土用の天気のいい日に二、三日しっかり干せば、ほぼ完成。時々、黴やあれこれに注意して気を配り、手塩にかければ、きっと言い返答がもらえる、と思う。
 少し残った紫蘇は夕飯の胡瓜の塩もみに混ぜる、簡単な塩もみだけれど、別の拾ってきた梅を塩漬けにしてとって保存してある白梅酢をかけると、やっぱり最後には薄いピンクになった。夏の間、この梅酢はいろんな料理に使えるし、すごく体にもいいと書いてある。どの解説書にも「ものすごく貴重な梅酢」とでていて、すっかり感化されていて、最後の滴まできっちりとり、使っている(我が家には今、漬け物の本が二冊と、梅干し漬けの載っている冊子が一冊ある)。
 夕食の前に、大急ぎで掃除も(モップかけだけ)すませる。二階と、たまにしかやらない゛暗いコーナー゛拭きも。夕食はメインは鰺の塩焼き(トマトとブロッコリー添え)にトビウオのたたき、前述の胡瓜の酢の物と酢人参(父の要望)、大根おろしといただいた十穀米いりご飯とみそ汁。
 後かたづけの後、庭の一部の野菜に水をやり、珈琲を入れ、ちょっと「セント・エルモズ・ファイヤ」を見て、早めに入浴、髪も洗い、かくして「家事の日」は終わりに向かうのでした。最近あちこちから高橋源一郎を借りてきているけれど、今ある「ゴヂラ」も「退屈な読書」も読んでしまったので、今日は早く寝よう。そうして明日はまたしっかり働こう!

 

菜園便り六二
七月一二日

 あちこちから借りてきて高橋源一郎をたて続けに読んでいたら、まるでそれにあわせてくれたかのように岩波新書で彼の『小説教室』がでたので、さっそく買ってきた。丁寧に柔らかく(いつものように軟派で)書かれ、「小説の書き方(文章読本)」の形になっているけれど、かなりきちっとした彼の表現論でもある。小説作品と共に長く続けられてきた評論活動の、ひとつのまとめ、シンプルな結実になっている。固く難しく(精緻に、権威的に)語るのでなく、対象をありもしない領域に囲っての゛わかりやすい゛解説でもない、自分の切実な関心から出発し、誠実に向き合い、きちんとつめて考えられた結果の、そういうことばを使うなら「批評」。
 表現論といっても、もちろん、小説と呼ばれる形式に読者としても作家としてずっと関わってきた人だから、当然文学のこと(それは小説のこと)が中心になっている。
 語られようとすることはいたって簡潔で、その人なりの世界の見方がなければ、今まで教えられてきた見方・考え方(社会の見方・考え方そのままの)がかわらなければ、その人の表現というのは生まれない=できない、というようなこと。
 「世界をまったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったくちがうように見えるまで、待つ」「他の人とはちがった目で見る、ということです。そしてそれは、徹底してみる、ということでもあるのです。なぜなら、・・・(わたしたちは)ふだん、なにかを、ただぼんやりと見るだけで、ほんとうはなにか、とか、そこにはなにがつまってるのか、とか考えたりはしないからです」。
 そういう表現に到る道筋のひとつとを、例えばこういうふうに説明する。
 小説(文学)は過去に属しているから、過去から学び、まねることから出発するしかない。「まねすることによってその世界をよりいっそう知ること、そのようにしてたくさんのことばの世界を知ること、さらに そのことによって、それ以外のことばの世界の可能性を感じること」。「まねることは、その間、それを生きること、でもあるのです」から。何故そうなるかといえば、「好きになると、その、好きになったなにかになりたい、とひとは思うようになるからです」。
 そうやって過去から始まり、過去をなぞりつつ、でも、真摯な表現はどこかでそれを抜けてしまい、未来へとつながっていくんだ、と彼はいう。『人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ』というミラン・クンデラのことばを引用しつつ、「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。/小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている」のだからと。そしてそういった小説の書き方は、誰もがたった「ひとりで見つけるしかない」のだと、当然だけれども。
 そういう表現に向かう、向かってしまう人はだれも「みんな、少し哀しく、孤独で、かたくなで、近寄りがたく、ただ自分の前だけをじっと見つめている」ようにみえるし、『銀河鉄道の夜』のジョバンニのように、「他の人たちと同じように、世界を見ることができないから、「バカ」な(人間と見なされてしまう)のです」と。
 今いちばんすごいと思うのは、「精神のチューニングがずれている(と思える)人たちの作品」であり「精神のチューニングがほんの少しずれている、というのはどういう状態なのか」わからないけれど、「その世界が、わたしたちが「人間」と呼び習わしている世界のすぐそばにあること、そして、同時に無限に遠いように思えることは事実です」というようなことも率直に語っている。
 彼が思っているようなことは、現在、生きているあらゆる人によって様々な形で語られているけれど(多くはことばや形を持たずに)、村上春樹の作品のなかでもかなり具体的で直截なことばとしてもでてくる。例えばこんなふうに。
 「俺はべつに頭なんてよかねえよ。ただ俺には俺の考えがあるだけだ。だからみんなによくうっとうしがられる。あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ」。
 「差別されるのがどういうことなのか、それがどのくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公平さを求めるという点では、僕だって誰にも引けを取らないと思う。ただね、ぼくがそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う「うつろな人間たち」だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気がつかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ」「想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとに怖いのはそういうものだ。ぼくはそういものをこころから恐れ憎む。なにが正しいか正しくないかーーもちろんそれもとても重要な問題だ。しかし、そのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。」
 そうしてそういう人間は、様々な具体的な生の現場に現れ続ける。痛くもかゆくもないことに頭を突っ込み(自分の足元だけはけして見ずに)、過剰な思いこみでかってに代理して(多くは正義の社会派として)、拾ってきた空虚なことばを繰り返しまき散らし(誰かを仮想敵として)、闘い続ける人は今も掃いて捨てるほどいる。永遠に自分の抱えている問題すら気づかず(だから゛該当者性゛に徹底してこだわることができず)、自身の問題を直視続けることだけが連れて行く場、つながりの、関係性の広がりから無限に遠い(つまり゛当事者性゛にたどり着くことがけしてない)在り方。そうしてなによりそういうこと全部にいっさい気づかないまま(自分の正しさと善意を疑うことすらないから)、どこまで行っても(ほんとはどこにも向かってない、動いてないのだけれど)けして、社会とか善とか正義とかを、その概念そのものを問い返すことすらできない(気ぜわしく、そういったことばの反復と再定義の繰り返しで、自分を煙に巻き、相手を威嚇し続けるのに忙しくて)。
 自分が、人というものが小さくて弱くて愚かで、でもだからこそ限りない深さをもち慈しみを抱えてもいるんだ、と知ることになる道筋を自身で探すことから始めるしかない。このおぞましい、暴力に満ちた混乱の世界のなかで、でもそういうのが唯一絶対の在り方ではないんだ、というあたりまえの考えを見失わずに抱え持って生きていくこと。そういう単純ででも気の遠くなるように遙かに思えることを、いろんなことをしのぎつつ、ささやかな生活の喜びと共に探っていくこと、だろうか。


菜園便り六四 ???????
八月三日

 もう八月。クラクラしそうになる。あんなに寒さを呪っていて、やっと過ごしやすくなったこれからだと思っていたら、たちまち暑さにうだされるようになって、そうしてもうお盆の八月だ。ふーと息のひとつもつきたくなる。
 でも、寒さの、冬の悪口をあれだけ言っている以上、夏には口を閉ざすしかない。実際、Tシャツだけで過ごせる生活は楽しい。体や心がのびのびできる。頭はぼーとして、考え事にはむかないし、書くことも滞りがちになるけれど、水仕事は楽だし、水まきも気持ちいいし、やっぱりいいことが多い。でも、暑いね。
 夏野菜も結果がでてしまった。春の終わりからどんどんおいしい葉を届けてくれたレタスが先ず終わった。あれだけ食べて、配って、たぶん一枚も無駄にしなかった気がする。外から少しずつかきとるだけでも、どっさり収穫があって、洗って冷蔵庫に閉まって、毎日サラダ、ときにはスープにしてまとめて食べたり。配るときも、かさがあって他の野菜が少なくても見栄えした。努力家で博愛家で文字通り身を削って愛を配給してくれた、味も奥ゆかしくシンプルででも奥深くて。
 茄子は全部だめだった。後から植えた二本も入れて一〇本の苗から、小さいのが3つ採れただけ。三本ほどはまだ小さいまま茎が残っているから、秋なすが楽しみね、と言ってくれるやさしい人もいるけれど、ぼくは正直そんなことはないと思っている、きっとだ。
 胡瓜も先日の台風で新芽がやられて、ほとんど実をつけなくなってしまった。茎や葉は元気そうだけれど、花もつけないし、もう終わりかもしれない。すごく残念。胡瓜もほんとによくなってくれて、よく食べた。細めで棘のあるカリカリタイプと、ちょっとデブッとした棘のない濃い緑のタイプと、だった。ちょっと太めのタイプは、終わり頃にはかなり大きくなるまで待って、漬け物やなんかにしてみようかとも思っていたのだけれど。
 ズッキーニは茎も引き抜いて完全に終わった。あの大きくて圧倒的な葉にはびっくりしたし、次々に花を実をつけて楽しませてくれた。ダンゴムシの襲撃についにダウン、実よりも茎がどんどん囓られてしまったようだ。おいしいものは虫にもおいしい。ミントやバジル、青じそはショウジョウバッタが群がっている。大人と全く同じ体で極小のバッタは可愛くもあり、めんどくさくもあって、そのままにしてしまっていると、あっというまに柔らかくて香りがよくておいしい青葉は葉脈だけになってしまう。でも、それでも元気に、というか生きるために、次々に葉を伸ばし、新しい目を地面からもだしてくる、すごい。
 スッキーニは初めてだったけれど、うまくできて(と思う)ほんとにおいしく食べ続けられた。こういう少し青臭くて、独特の歯ごたえがあって、どんな調理にも身をゆだね、相方の食材にそっと寄り添って支え、でも自分の主張も、控えめであれきちんと通す姿勢はすばらしい。来年も是非つくろう!(と父に頼もう。)
 ルッコラはまだまだがんばってくれている。朝晩のサラダの定番。固くなり、辛みがきつくなったけれど、そういうものとしてまた楽しめる。まだまだ。
 バジルは直子さんが一度まとめてバジルソースにしてくれたので、冷凍してある。パスタや夏野菜にそのまま使えて、メインディッシュにもなる。彼女の烏賊や魚の、唐辛子でピリッとした、シーフード・バジルソースはとてもおいしいし、ワインによく合う。バジルも穴だらけになりつつまだまだ元気。今年はフレッシュの(生の)ミントだけのミントティーを飲んでたけれど、バジルも入れてのティーもおいしい。カップにどさっと入れて、熱湯を注ぐだけ、少し青臭くて、かすかな甘みがあり、さっぱりとしている。以外にあの香料のような香りは強くなくて、飲みやすい。珈琲や紅茶より胃に穏やかで、でも充分に食べ物や油の味を消し去るし、口や下にも刺激がある。ミントから発散される霧のような刺激は爽快感を鼻や体に与えてくれるし。
 トマトが全盛。三種類植えたほかに、芹野さん、幸枝さんからもらったのも実をつけ始めた。黄色ミニが二種、赤でミニの丸いのと細長いの、大きいタイプとある。どれもどんどん実が続いている。特に大きいタイプは今まであまりうまくいかなかったのに、今年は順調になりつづけてくれて、毎日収穫がある。
 とても残念なのが、ゴーヤ(苦瓜、レイシ)。三本採れたところで台風の潮風でやられてしまった。また花が咲き始めたけれど、元気にはみえない。去年のようにどんどんなって、あれだけ食べて、配って、カリカリゴーヤにも漬けて保存までしたのが嘘のようだ。せめてもうひとがんばりしてなってほしい。夏はゴーヤ・チャンプルー、これがなくては寂しすぎる。
 小田さんにいただいた生で食べられる春菊も、摘んでも摘んでも伸びてきて毎日の食卓を賑やかにしてくれる。特に、刻んでみそ汁に入れると、その苦みと食感で、暑いときでも汁物もおいしく食べられる。
 パセリも細々とつづいていて、ふたりだけの食事には充分の量。セロリもあまり大きくはならないけれど、サラダの味のアクセントや、カレーやソースのなかに葉を投げ込んで香りづけに使える。
 つい何度も言ってしまうけれど、あの小さな苗がこんなに大きくなってしかも実をつけ続けて、視覚を、収穫を、そして味覚を楽しませてくれることにほんとに驚かされるし、いやでも感謝の念が生まれる。おいしい!

 

菜園便り六五
八月四日

 菜園便りに映画のことを書いたら、いくつか映画のことと映画館のことと便りがあった。みんなやっぱり映画が好きだし、何か言わずにはいられないんだろうな。
 外田さんが、ロッドスタイガーにもふれて、「・・・安部さんもロッドスタイガーに愛着があるのですね。/ぼくも中学生の時、彼やペキンパーの映画に出てくる粗野でいつも、わきの下に汗をかき、首の後ろがやけている役者たちに強烈に惹かれていました。/それは、安部さんの仰る通り、映画のテーマだけでなく彼等のもつなにかしらであり、当時は、アメリカの本質的な孤独を見ているつもりだったのかもしれません。・・・」と書き送ってきてくれた。スタイリッシュでもある外田さんらしい、的確な分析とその裏側の肉感性もすくい取る感じ方=描き方はいつものようだ。「アメリカ」に嫌でもおうでも覆われざるを得なかった時代、世代。そういうなかで育った、育てた感受の形の美しさや限界、ささやかな喜びや、ある種の諦め(誰かは絶望と大仰に言うかもしれないような)。小説や戯曲より、もっと直裁に思える映像、映画でのインパクトは、ぼくらのなかにしかと自覚できていない、かすかなでも決定的な痕跡を残しているのだろう。
 映画館のことについて、宮田君や母里さんが送ってくれた。やっぱり福岡では、センターシネマとかステーションシネマとかが、いろんな人のなかに様々な形で残っているのだろう。どちらも今はない。
 天神の現在ソラリアのある場所が、以前は九電体育館で、スポーツセンターと呼ばれていて、相撲もそこでやっていたし、冬はスケートリンクになっていた。そのほんとに端っこに小さな、でもすっきりした雰囲気の映画館があってそれがセンターシネマだった。洋画(外国映画と言う意味だった)のみ、一本だけの上映。中学生の頃は五〇円とか、そんな今では信じられないような金額だったと思う。ずいぶんたくさんの映画を見た。とても驚かされた、印象深い映画もあって、そのことはIAF通信に書いたので、一部添付するとして、『獲物の分け前』とか『戦争と平和』(これは前編だけ3時間を立って見て、結局後編は見なかった)なども見た。プレスリーなんかも見たと思う。
 ステーションシネマは博多駅にあって、ちょっとくすんだ感じで、あまりよく覚えていない。時々は行ったとは思うのだけれど。ついでだけれど、津屋崎にも恵比寿座という映画館が昔はあって、そこで日活映画(裕次郎だ)、サザエさん(江利ちえみだ)、怪獣映画(モスラだ)、『明治天皇』、『きくといさむ』、『コタンの口笛』、『矢車健之介』、『路傍の石』そしてあの暗い『楢山節考(最初のやつで、田中絹代がでていた)』なんかを見た。
 せっせと映画に通ったのはやっぱり二〇代の頃で、すでに新宿の日活ビルの名画座はなく、そんなことを懐かしく語る人たちを横目に、新宿文化や蠍座、池袋文芸、文芸地下、銀座並木座なんかによく行った(この全部が今はない!)。安いし、「名作」を見ておきたいということもあったのだろうし。情報誌『ぴあ』ができて、簡単に見つけられるようになったこともある。
 宮田君はそんななかでも最後まで続いた、超ハードコアな映画館、新宿昭和館のことにもふれていたけれど、やくざ映画で有名なそこは、場所柄も含め、なんというか、あまりにもコアだったし、臭いも(実際の)きつくて、そう何度もは行けなかった所だ。
 アテネフランセユーロスペース、近代美術館などもいろんな特集があって、かなり通った。八〇年代にはいると小さな映画館ができはじめて、様々な映画がかかるようになったこともあって、その後も映画を見る情熱だけは続いた。あまり深くのぞき込みたくないけれど、そこにはそれなりの、誰にもある、浅くはない事情、というかあれこれの屈折や思いがあったのだろう、たぶん。暇だったと言えばもちろんそうなのだろうけれど。
 

(IAF Paper No.6 1996 02 08, 映画を生きる4 「エドワード・ヤンの観念「性」と具体「性」」より)
・・・・・・・・・・・・昔のはなしになったのでついでに、というのもへんだけれど、人が映画にどう出会うかとういのは、それはもう当然にも、「誰も自分の生まれる時代を選べない」、ということで、ぼくは一九五一年に福岡の津屋崎に生まれて育ったので、スポーツ・センターの゛センター・シネマ゛とか東宝会館にあった゛ATG゛とかがそういった出会いの場所で、とても強い印象を残した2本の映画ともそこで出会った。ぼんやりとブンガクっていいなあ、とか思っている高校生にとっては、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』はまさに晴天の霹靂、とでもいった感じであり、そのモッズ的な風俗、「不条理を語る」的な文学っぽいことへのスノッブなしたり顔のうなずきとかに始まって、でも最後の、見えないテニス・ボールを投げ返すシーンでは熱いものと、何か理不尽な怒りと、でも甘ーい安堵みたいなものが重なりあって、そうか、映画というのはショーン・コネリーだけでないのだと震えてしまった。
 そうしてもう一本は『絞死刑』で、これはもちろん、あの、大島渚監督で今は彼の名前をだすのはつらい(『太陽の墓場』も長くぼくのなかに残っていた映画で、最近、といっても5年ほど前にまた見て、クローズアップの多い、それまでの映画の文体によりかかった部分の多いものだったけれどやっぱりあの炎加世子はすごくて、具体的な人や体がでてくる映画のそれが魅力や強さの一つかと思わせられたけど)。
 こういった二本の名前をだすと、もうすっかり六〇年代的で、その観念性と、それにぴったり重なる直接的な肉体性とか暴力性、それにいわゆる作品としての完成度みたいなことを放棄することで自由さを得る、というか曖昧なゆえに遠くまで届く声やスタイルを取るといった方法、そういったものは今観みたらどう見えるのかは見当もつかないけれど、こういった二本にしびれる高校生というのはまさにというか、やっぱりというか絵にかいたようで、時代は六〇年代末期でもあり、彼は次の年に当然のように゛東京゛に出て行くのでした、ということになってしまう。映画のなかには「世界」の怖さと同時にその魅惑も(こういった「世界」ではいけないといった直さいな否定も含めて)あって、つまり、ヨシ、ボクモせかいニサンカスル、といった気持ちにさせられてしまったのは事実だ(当時はまだアンガージュマンとかいったことばも残っていて)。
 『絞死刑』というのは実際に起こった「小松川女子高生殺害事件」を直接題材にとっており、その犯人とされ処刑された在日二世の青年、李珍宇(映画のなかでは「R」となっている。アルファベットのイニシアルは文学で使われた時ほどではないにしても、やっぱり六〇年代的で気恥ずかしいが、でもこの時の、リ・チンウの記号化による抽象化、普遍化には説得力があった)が刑の執行後も死なないという卓抜な設定で始まり、生き返った、というか死なないRに、全員が事件をグロテスクに再演してみせて、再び罪を感じ罰を受ける決心をさせ、改めて処刑=殺害しようとする。国、民族、家族それに個としてのアイデンティティを総動員して、歴史を政治を愛を性を吹きつけて、彼に殺人と死刑を納得させようとする。観ているのがつらいほどの、酷いまでの喜劇と冷徹な展開のなかで、当然のように国家や法律や死刑や殺人といったことが何度も問い返される。神とか愛とか信じるとか生きるとかいったことも。映画の最後ちかく、「国家をほんとに感じないのなら、君は出ていける」ということばのままに、処刑場を出ていこうとドアを開けるRに外からどっと強い光が雪崩かかり、彼は出ていけないのだけれど、(「君はでていけない、なぜなら今、君は国家を感じたからだ」という検事役の小松方正のことばは耳に残っている)そこでウッとこみ上げたのは、怒りでなく鳴咽みたいなものだったのは、やっぱり今にして思えばぼくらしい反応だったのだろう(でも涙ぐんでなんかいられない忙しい時代だった)。
 そこで語られた国家とはレーニン的な意味の制度、つまり抑圧の装置としての国家だったのだろうし、自分や自分の行為のリアリティを感じられないといった、アイデンティティの喪失や想像力の問題(個が自身や社会とつながっていく)も問われていた。もう一歩で、国家も観念の、関係性の集中的な現れなのだというところまで近づいていたのだろうけれど、でもそう言いきってしまうと、自分たち自身の組織論が成り立たなくなることもあって、そのへんは六〇年代末の行動主義というか代理正義主義の大波に呑込まれていって見えなくなってしまう。
 それは別にして、映画というのが゛芸術゛なんだということの驚きと、なにかの物語や雰囲気を創りだすために用意されてでき上がっている台詞や仕草でないのだな、という漠然とした確認を自分なりにしたようだった。いわゆる顔面演技のようなことからは何も、それが示そうとしている決まりきった感情さえ伝えられないのだという確認。人というのはもっと単純で、だからこそ類型化できない一回限りの深い表情や仕草をする=しない、のだということも含めて。・・・・・・・・

 

菜園便り六六
八月五日

 いつもとちがう道を散歩していて、鵲(カササギ)にであった。天然記念物で、佐賀平野あたりにしか生息していないらしいけれど、このあたりでもたまに見かける。必ずと言っていいほど対でいるようで、この日も二羽だった。この町にも二組くらいいるのだろう。名前も魅力的だし(「鵲の渡せる橋におく霜の・・・」といった古典なんかをすぐに思いだす人もいるだろう)、遠めにはあでやかにも見えるけれど、実際はカチガラスという別名からもわかるように、鳴き声も鴉に近い。黒いなかにくっきり塗り分けられた白が入っているのだけれど、勝手な審美感で、頭が大きすぎるし羽が短すぎる、などと思ってしまう。もちろん鴉よりは千倍美しいし、好感も持てるけれど。
 買い物に行くいつもの田圃の道には、もう色づいて頭を垂れ始めた稲穂が続いている。先日は極早稲(ゴクワセ)の刈り取りのニュースが新聞紙面にあった、そういう季節。紙面には二期作(ニキサク)だからこれからまた田植えをして一〇月頃の刈り取りになるとでていた。たいへんだろう、暑さの盛りでの稲刈り、再びの田植え。でも二期作ということばは、ぼくには子供の頃からずいぶんとエキゾティックに響いていた。何か決定的にちがう気候や風土の象徴のようなものとして。そしてそれがここからそう遠くはない日本の農村で行われることに。たぶん、未知のことがらへの憧れと、自分の見知っている風景が、ちがう季節のなかに広がることの不思議に、めくるめく様な思いをしてみたいというようなものだったのかもしれない。総じて、少年の持つ、ここより他の場所への憧憬みたいなもの。そういった意味で、まったくネガティブなものとして、冷害ということばも長くぼくのなかに残っていた、教科書に載っていた打ちひしがれた人の写真と共に。そういう不思議、残酷さ、それは見たこともない、もちろん体感したこともない、とても遠いものに思われた。
 この近辺ではかつては二期作はできなかったし(たぶん極早稲なら今はできるだろう)、二毛作(ニモウサク)という稲が終わった後に別の作物を育てるやり方での裏作(ウラサク)には、主に菜種がつくられていた。それはそれで春は文字通り「一面の菜の花」だったし、収穫後の乾燥した茎を田圃に積み上げて焼く風景は子供にもみごとに映っていた。どんな所でも何かを育て収穫するのはたいへんなことだけれど、でもやっぱり干害や冷害なんてことが起こる地域のたいへんさは想像すら超えてしまう。すぐにインドとかアイルランドとか気持ちは飛ぶけれど、日本の真夏と真冬の気候も充分に酷だとも思う。
 そういった稲穂の続く一帯の所々にある休耕地に、見慣れない鳥がいるのでしばらく見ていたら、なんと鴎だった。海の鳥がこんなところにと驚いたけれど、もしかして海岸に進出してきた鴉に対抗して、内陸への偵察を始めたのかもしれない、全面戦争はもう目の前、鴎の勝利を願おう、というようなことはすぐには起きないだろう。それに鴎は大きな河ではかなり上流までやってくるらしい。この日は一羽だけで鳴きながらゆっくり旋回していて、少し離れて上になり下になり、白鷺がやっぱり鳴きながら旋回していた。縄張りを巡っての死活を賭けた戦いなのかもしれないけれど、遠めにはのんびりとした田園風景の一部にしか見えない。鷺が鳴いて高く旋回するのは初めて見た気もするから、やっぱり特別のことかもしれない。そうやって廻りながら2羽ともさらにさらに高くなって、いつの間にか、真夏のくすんだ青空の頂あたりに消えて見えなくなった。

 

菜園便り六七
八月一七日

 お盆も終わった。一年の半分が過ぎたという思い、夏が峠を越したという安堵と寂しさ、そうして何やかやと忙しい三日間がすんで、ほっと一息。
 いつものように提灯を二対仏前に組み立て、仏壇を拡張して(いろんな所に引き出しや飾り台がしまい込まれている)、供物皿を並べ、菓子や果物、そうめん、野菜などを供える。姉や兄からの花を飾り、いただいたお供えも積み上げる。
 そうして三日間精進料理をつくっては供え、自分たちも食べる。それがいちばんたいへんだ。手間と時間がかかる、見栄えしない、正直言ってあまりおいしくない(下手だということもある)から、つくるのも食べるのもいまいち気合いが入らない。でもとにかく3から5品をやっつけて、ご飯や団子も供える。精進の定番の、がめ煮、野菜の素揚げ、葛ごま豆腐、夏野菜のトマト煮など。今年挑戦してみようと予定していた、アチャラ漬けと空豆よせ、再挑戦の飛竜頭はできないままになった。
 白玉団子は一三日は白砂糖をかけ、一五日は餡をかけて(千鶴子さんにいただいた最後の小豆を使った)供える。一五日には兄たち一家も来て夕食をいっしょにした。賑やかになるし、楽しいことだけれど、それはそれで準備や面倒も多い。「愛」が十全に満ちてないとうまく廻らない。
 でもとにかく終わった。
 久しぶりに買い物にでるともうあちこちで稲刈りがすすんでいる。切断された植物の青い匂いがあたりに満ちている。青柳さんが言った、いちばん暑い時期の収穫。以前の早稲でない稲は、十月に近い時期だったと思う。稲刈りが終わって秋祭り、小学校での地域ぐるみの運動会と続いていたんじゃなかっただろうか。ほんとに猛暑のなか炎天の下での作業は想像しただけでもクラッとする。
 年ごとに客が減り静かになっていく海も、またいちだんと閑散としている。真っ青な空に真っ白な入道雲、といった天気は、ここでは真夏でも少ない。少し濁って霞んだ空を映して、海もぼんやりと広がり、昼を過ぎても残っている釣り人の小舟をぽつんと浮かべている。かすかな緑や藍色が混じって、穏やかな波が小さく陽光を反射している。小さく、小さく、列をなした波がきらめく。

 

菜園便り六八
八月一八日

 玉乃井の二階を使って行われていた原田俊宏さんの個展『氏名』が終了した。会期中、久しぶりに開け放ったガラス戸の向こうには海が広がり、岬や島が連なり、空から直接吹き込んでくるような風が畳の上を抜けていっていた。「原田俊宏」と書いた色紙が百数十枚、広間の鴨居の上にずらりと並べられていて、それぞれの字体がちがうのは、原田さんの所にきた手紙やはがきの、送り主が書いた宛名(原田俊宏)を、彼がまねたものだから。即座に、アイデンティティーとか、自他の境界や意味とかいうことが浮き上がってもくる。彼が続けている、「美術」と呼ばれる表現のなかで「美術」という概念そのものを(その他のことごとも)とらえ返す試みの流れのなかにあるのだろう。色紙とかサインとかいうことの不思議さや滑稽さも取り込まれているのだろうし、この日本間の空間に即してしっかりと゛視覚的な美゛も放たれている。
 美術作家には珍しく、ことばにも強い原田さんが自身で書いたコンセプトノートも添えられている、こんなふうに。

「   氏     名
 氏名とはそもそも、集団社会において固体どうしを区別するための識別情報であります。ゆえに、氏名には固体の個性に関るアイデンティティーがイメージとして付与されるものです。それで、氏名とは単なる区別のためとしての記号的な意味以上に、そのひとそのものをあらかた表してしまい、そのひとそのものの存在代用として流通していきます。
 しかし昔の人は、そんなふうに氏名が流通してしまうと、流通している氏名のほうを本人の存在代用として呪いに利用されたりすると困るので、氏名を秘密にしていました(これを諱といいます)。しかし氏名が秘密だと識別情報もなくなって困るので、仮のにせの氏名のようなものを通常はつかっていました(これを字といいます)。
 けれども近代の合理主義では呪いなどあまり重視しないせいか、現代では氏名が堂々と、ある意味で無防備に流通しています。我々は他人の氏名を知ることはもちろん、他人の氏名を自由に書いたりもできます。考えてみれば私の氏名も、実にたくさんのひとの手によって書かれてきました。
 他人が書いた私の氏名というものは、他人のアイデンティティーと私のアイデンティティーが拮抗したり融和したりしているようにみえて、興味深いものがあります。侵されているような、繋がっているような。
 そういうことから私は、他人が書いた私の名前を、郵便物の宛名などから採取し、模写したものをコレクションしていきました。私のアイデンティティーの痕跡をとらえた他人のアイデンティティーの痕跡を私のアイデンティティーでとらえかえすというか。要するに、侵しかえすような、繋がりかえすような。」

 「美術」表現について語ること、例えば「批評」は、印象の羅列や解説に落ち込むのではなく、その「美術」表現が試みようとしていたことを、あらためてことばとして文字としてやることが「批評」であると考える彼にとって、この文そのものも、自分自身や「作品」の解説ではなく、現在世界に流通していて共有されていると思われている概念や発想、その型そのものを、なんとか少しでもずらしてみようとする試みの一環なのだろう。
 「美術」とは何かと問うと、必ず出てきてしまう「美術」の゛再定義゛といった袋小路に迷い込まないよう、その「美術」という概念そのもの、立っていると思っている足場そのものを根元的に問うことだろう。それはそのまま、「芸術(嫌なことばだ)」とは?「文化」呼ばれているものとは?そもそもことばとは何なのか?人とはいったいどんな現象なのか? といった抜き差しならない問いへとひとつながりに続いていくしかない。今までのような答えを前提として立てられる問いでなく(近代の「自然科学」のように)、問いそのものとしてあるしかない問いとしての。

 

菜園便り七〇 ??????
八月二九日

 夏も終わりに近いせいか、思わず「懐かしい」と口するようなことが続いた。
 ひとつは、斎藤さん、それに斎藤さんの友だちと三人で見た『カンディンスキー展』で。見終わっての出口で、「いいですなあ」としみじみおっしゃる斎藤さんに「いいですね、なんかすごく懐かしかったですね」と答えて、共に「いかにもカンディンスキーの色と形でしたね」とこもごも頷いた。
 カンディンスキーはその歴史的語られ方(抽象絵画の出発)にも関わらず、教科書なんかでの取り上げ方はぼくらの頃は小さかった。名指しやすい゛代表作゛がないことや大画面でぎっしりつまっているから小さな写真版にはなじみにくいということもあったのだろうか。ぼくも初めてきちんと見たのは学校も終えた後になって、ニューヨーク近代美術館(いわゆるMoMAだ)でだった。その時の作品やかかっていた場所の力もあったのだろう、とにかく新鮮だったし、うっとりするように美しく、すっかり好きになった。でも今思うとその時点ですでに、新鮮に驚きつつもどこかに懐かしさを感じていたのは、彼を通して表現を始めたその後の作家や作品をすでに見ていたからかもしれないし、カンディンスキーがもつ本質的なもののひとつに、そういうことばにつながってしまうものがあるのかもしれない。
 あの滲んだようなでも曖昧でない形、きわめて独特な色。具体的な形そのものであるようででも抽象というある普遍化(単純化=根源化)を伴っていて。当時買ったごくごく小さい画集のなかの、縮小されて掴みやすくなった、でもきわどい曖昧な魅力はあらかた消えてしまう、ほとんど図像の記号になったもので繰り返しなぞったりしていたけれど、でも結局今まできちんとした画集は買わないままだったのは、最後の最後に、どっか中途半端だ、下手だ、などと傲慢にも思ったりしたからだったのかもしれない、不遜というさえ愚かしい反応だけれど。あり得ないものを後から望んで、批評する視線といったもの。
 そんなことを思っていると、たちまち当時のMoMA、そこで見たマティスピカソだけでなくポロックとベンシャーン、それに同じ頃グッゲンハイムでみたエルンストと゛思いで゛は懐かしさに薄められて無限に引き延ばされていきそうになる。誰かに、「旧懐の情とは、緊張を喪失した脆弱な心性がたどり着く、メランコリックな愁いが呼び寄せる感傷であり、淋しいノスタルジアであり、底なしの自己憐微の始まりなのだ」などと賢しらに言われそうだ。
 もうひとつは、これはほんとに懐かしの六〇年代、思いでのフリージャズの、セシル・テイラー。六〇年代後期にあんなに騒がれた人で、八〇年代にまだ生きていることを知った時はほんとに驚愕したけれど(フリージャスに関わった人たちは当然みんな死んだとばかり思っていた、アルバート・アイラーのように、だれだってそう思っただろう。抽象表現主義の、あっという間に死んだポロックと残骸として最後まで生きのびたデ・クーニンもつい思い起こさせられたりする)。
 情報誌の特集で知って、ジャズのレコード店(CD店と言った方がいいのか)゛キャットフィッシュ゛に初めて行ってみて、そこであまりの懐かしさについセシルテイラーのLPを買った、『CECIL TAYLOR Solo(七三年、東京での録音)』(すごく安かったし。思いでも生活の実相にあわせて矮小に切り縮められ、小心に選択される、か)。ほんとは昔唯一持っていたアイラーのLP『マイネーム・イズ・アルバート・アイラー』でも見れたらいいなぐらいの気分だったのだけれど。
 結局、アイラーのLPはなかった。彼のCDがけっこうたくさん出ていて驚かされたのと、お店の人が(当然すごく詳しい)『マイネーム・・・』は会社間の版権の問題で、CDが再版されてないということだった、どこまでも運のない人。
 帰宅して久しぶりにプレイヤーにのせてみると、以前のように極端な音や流れに過剰反応してしまうこともなくてじっと聴いていられた。ピアノソロということもあるけれど、わりにモノトーンで小さい幅のなかで上下を繰り返す、ヒステリックでもなく、とんでもなく遠くまでいくこともなくて、といったような。懐かしさにかられてほんの少しある他のフリー系のCDでドルフィーを聴いたり、コルトレーンを聴いたりして、でも夜中にはまたいつものように静かななじみのあるCDに戻った。
 自嘲や方向のない怒りがせり出してくるのは、中途な懐旧の罰なのか、こみ上げる苦い苦いものはまっとうに愚かしかった若さへのいたたまれなさと哀惜だろうか。そういう思いそのもの、発想の型そのものが、センティメントであり、若さや時代への定型化したおざなりの無意味なことばであり、現在として全体として受け止める力を欠いた、弱々しい拒絶とその裏の生々しい執着、なのだろうか。

 

菜園便り七二
九月二七日

 暑さが、ささっと刷毛でぬぐわれていくように消えていき、日照りで絶えていた雨がときおり落ちてくるようになり、戸外で太陽にくらくらすることもなくなった。いよいよ秋蒔きの野菜の季節。我が家の菜園は先日の台風の余波で絶えてしまっていたので、まさに、再出発といったかんじ。
 父が片づけと下ごしらえを続けてくれて、今日はいよいよ種まき。ぼくも手伝う。大根三種、春菊三種、ほうれん草三種、詳しく書くと、大根は青首宮重長太、理想大根、ビタミン大根、サンクストと次郎丸などがほうれん草、春菊は中葉しゅんぎくなど。他にはさやエンドウ、黒田五寸(人参)、レッドチャイムと赤丸二十日(ラディッシュ)、博多かぶ、紅心大根(中国菜)、べんり菜、四季どり小松菜、タイム、ルッコラ、ガーデンクレス(こしょうそう)。不思議な名前がいろいろあるし、袋を見ていると輸入された種子も多いことがわかる。去年の種が残っていた野菜も多く、こういった奇妙な取り合わせになる。すぐに食べれるようにとレタスとパセリはすでに昨日、苗で植えてあるから、食卓に上がるのもじきだ。
 畝を平たくならして湿らせ、穴やすじをつけて種を蒔き、そっとうすく土をかぶせ、じょうろでやさしく水まきしていると、おあつらえ向きに細かい雨が降り始めた。少しは種が流されるかもしれないけれど、まさに慈雨といったおもむきだ。
 潮の被害で終わってしまって、葉も根も枯れ果てたように見えたミントが思いもかけない所から小さな双葉を出している。水まきを止めなかったことへのささやかな返礼。ルッコラも、イタリアからの種から育った唯一の五年生が、太く深い根を残していてまた葉を広げ始めた、これもすごい。今回撒いたルッコラの種は今年はじめに採っていたもので、春に蒔いた種の残りだから、イタリアのと日本のが混じり合っていて、どちらのかはしかとはわからないけれど。
 立ち枯れた向日葵の太い茎があっけなくぽきりと折れる。黒ずみ乾涸らびた花芯からまたいくつもの種がこぼれ、来年の発芽と開花に向けて静かに地面に散らばったのだろう。風が運ぶ枯れ葉や土に隠れて静かに季節を送っていく。大半は腐敗したり、蟻に運ばれて消えていきながら、その果てていく種子たちの、その下の下の下にかろうじてひとつが生き延びて、また何十、何百という新たな種子を育み放って死んでいく。ぼくらはとりあえず自分たちの死生観で、生とか死とか呼んでいるわけだけれど、でも、どこからが死なのか、生はどこで始まるのか、それはだれにもしかとは名指せない。そもそも「個体」をどうとらえるのか、種とはなにか、だけを考えても、答えなどないのはわかりきっている。
 雨は少し強くなって続いている、大丈夫かなと気にはなるけれど、流れた種は思いもよらぬ所から忘れた頃に芽を吹いて、また驚きと喜びを与えてくれるのだろう。

 

菜園便り七三
一〇月五日

 川上弘美が書評のなかで、いい作品というのは読み終わったときまたすぐに読みたくなる作品だ、というようなことを言っていて、それはとてもよくわかるけれど、もっとはっきり言えば、読み終わったとたん息つく間もなくもう読み返し始めている作品だろう。好きな作品、といったほうがより正確だろうけれど。
 そういうときぼくの場合はだいたい二回半繰り返すことになる。読み終えてそのまままた読み始めて、読み終えて、また読み始めて、でも三回目はいつも半分くらいで立ち消えてしまう。心身の体力が尽きるのかもしれない。それは長い作品、重い内容だからということでもなく、例えば短い奥泉光の『石の来歴』でも、長い村上春樹の『海辺のカフカ』でも同じだ。
 手にした本を開くときのときめきとかすかな不安のあと、異様に明晰になるかのようにぴりぴりと神経がとがっていきつつ、どこかで呆となってしまってずんと引きずり込まれて、たちまち読み耽り始める。始まりの歓喜に幻惑され、ただただ読み進むことだけに引きずられ、がつがつと味さえ確かめえないまま食べ尽くそうとする。噛み砕く快感と口のなかを飛び回るひきちぎれたことばの刺激にかまけながら、ひたすら先へ先へと、後には嚥下することすらまどろこしく、だらだらと口から流れこぼし果ては食らいついた塊のまま皿へと吐き落としてやみくもに進ばかり、どこかに聞こえる後悔するぞするぞという声を押しつぶしつつ、でも悔やんでも、いつも後の祭り。
 どんなに落ち着け落ち着けと念じても、圧倒的な物語の誘惑にはけして勝てはしない、冷静さなどありもしないものとしてかなぐり捨てて、ことばを取り落としセンテンスを跳び越え、段落を横滑りし、章から章への過激な雪崩を繰り返し、握りしめてけして離してはならないいくつもの絡み合った細い糸を引きちぎり投げ捨て、ただただ圧倒的な物語の怒濤へと巨大な渦のなかに身を捨てるように投げ込み幻惑され、一息に魔の淵に歓喜の極みに、つまり物語の絶頂へと足掻くように駆けながら、一方では見え始めたその終わりの予兆に怯え足を止めようと虚しいあがきで爪を立て必死のひっかき傷をつけながら、でも当然にも轟き濁って泡立つ圧倒的な流れに棹さすことなどできるわけはなく、既視感のようにすでに知っている気すらする終わりへと後ろ向きに打ち上げられる。
 そうしてついにはおとずれてしまう最後の一行。いやでもわき起こる、読み終えるという生理的な喜びと、そして終わってしまうことへの無念と。物語の楽園からの追放。
 最後は、ぎらぎらと欲望でよだれさえ垂らしながら最後のセンテンスにむしゃぶりつきつつ、しかし半身は体をねじ切るように背けられて、終わりを見るまい、見る時間を遅らせようと、息せききって駆け抜けてきて見落とした全てをもう一度振り返り手にとり確認し懐かしみ、それから最後へと向かうべきだと、虚しく抗って、でもすでに全ては終えられているのであって、それがあまりにも理不尽で納得できなくて、あり得ないことにしか思えなくて、物語は続くのだと最後のセンテンスをそのまま始まりの一言へとつないでいくのだろうか。
 しかし、当然にも最後のセンテンスの後にくるあまりにも大きな愉悦と虚脱は、初まりのことばへと疾走していく半身に着いてていくことができなくて、死体よりも重くただひきづられていくのみで、それが二度目の読むスピードに落ち着きを与えるという、冗談のような理由でもあるのかもしれなくて、けれども、あれだけの長い、喜びではあったけれどたいへんだった旅をまた繰り返すことへのおののきもとうぜんにもあって、腰を半分引いたまま、でもたちまちにつかみかかってくる物語のいくつもの糸にからみつかれ溺れさせられ、それでも今度こそは握るべきは握り、見るべきは見てと呪文のように繰り返しながら、また遠く果てのない物語のことばの文字の海へと流れ出ていく泳ぎだす放りだされるしかない。
 振り返ればそれはいつも、少なくとも本という形でそこにあるのだし、いつもありつづけたのだけれど、でもそれは安堵よりなにかしらの不穏であるしかないものでもあるかのようだ。
 始まりのときめきと不安(うまくいってなかったらどうしよう、とか、これでこの作家との長かった蜜月が終わりになったら残念だとか、意味のない老婆心のような心配なんかも含めて)だけが、二度目にはないけれど、やはりどこか呆となっていくように引き込まれて読み耽る。大切なことばはひとつひとつ拾い集めゆっくりと眺め、何度か裏返してみてはちょっと囓ってみたりもしながら、同時に物語を押し進めているいくつもの重なり合い絡みあう小さな流れを確かめつつ、全体を貫く大きなうねりに乗って流されながら、でも作品を貫く作家の視線やその視線を生み出す彼らの考えや感じ方に思いをはせ、いやでも浮き上がってくるいろんな響きや変奏、意識的無意識的な、時代や地域や彼自身の、さまざまな木霊や影に耳を澄ませて。
 読み返す喜びが見いだす、味蕾にふいに襲いかかるおぞましい苦みや痛いまでの辛味といった小さな新しい発見も含みつつ、どこか安心してすべてを舌の上でもう一度繰り返し味わい尽くす放心のような恍惚に浸りつつも、でもあらゆる物語が原初にもつ、まだ手にしていないという、なによりも大きく深いのかもしれない、未知への不安と喜悦は再びは戻らない、あたりまえのことだけれど。自分のなかで世界のなかで百の千の手に指に触られいじられつくし、季節が、奇蹟の一瞬だけが生む鮮かな香りはかき消え、あんなにも芳醇だった味わいもどこか薄暗いかげりを産み始め、かすかな異臭が混じり始め、重く濁った澱みにと滑り落ちていく。精緻であざといまでに巧妙な切片も色合いも、清冽に初々しかった驚きもすでに遠く消えて。儚く消え失せてしまうものなのに、でも深々となじんでしまった粘つく空気はぴったりと肌にまとわりついて、くすんだその温かみすらが手放すにはあまりにも愛おしい。
 でもすでに全ては終えられているのであって、それがあまりにも理不尽で納得できなくて、あり得ないことにしか思えなくて、大きな物語は永遠に続くのだと最後のセンテンスをそのまま始まりの一言へとつないでいくのだろうか。しかしとうぜんにも最後のセンテンスの後にくるあまりにも大きな愉悦と虚脱は、初まりのことばへと疾走していく半身に着いていくことができなくて、死体よりも重くただひきづられていくのみで、それが二度目の読むスピードに落ち着きを与える、冗談のような理由でもあるのかもしれなくて、けれどもあれだけの長い、喜びではあったけれどたいへんな旅をまた繰り返すことへのおののきもとうぜんにもあって、腰を半分引いたまま、でもたちまちにつかみかかってくる物語のいくつもの糸にからみつかれ溺れさせられ、でも握るべきは握り、見るべきは見てと呪文のように繰り返しながら、また遠く果てのない物語のことばの文字の海へと流れ出ていく泳ぎだす放りだされる。
ああ、疲れる。

 

菜園便り七四
一〇月三一日

 先日、本村さんが運転してくれる車で黒川に行き、小国にも寄ることができた。小国ドームもまた見ることができたし(木魂館は残念ながら休み)、初めて北里記念館も訪れることができた。丁寧につくられた木造建築、とくに人が住んでいた建物は、ちょうどわたしたちの身体や呼吸のリズムにもあっているのだろう、じんとするくらい懐かしく馴染んだ気配に満ちている。毅然とした柱や梁や根太といった土台の強さもだけれど、建具の堅牢さにも驚かされる。だから今もそのまま残っていて、障子も少し重苦しいほどがっちとした線で垂直に立っている。我が家のような、敷居や桟に支えられてかろうじてふわりと立っているという華奢なかんじがなく、周りがなくなってもそのまま自立し続けるようにみえる。「繊細なやさしさがない、質実に過ぎる」といえばそう言えるかもしれないほどに。色も欅などの濃い色が多い。柱も建具も、その角は使い込まれて冷たい鋭さを隠し、すべすべとやさしいけれど、でもきりっとしたエッジは永遠に失われることがないとわかる。すべてにめりはりがありつつ互いに調和しあい、くっきりとした全体を、これ見よがしにでなく示して、生活の生の現場を支えきっている。
 豪壮で資財がつぎ込まれたからというのではなく、過剰なものを廃しながら、でもさり気ない贅が生活に使われるものとしてそこここに取り入れられている。それはとうぜんにも質素な苫屋にも通じることで、その目的と、つまりそこで生きることと、それを支えることがきちんと造るものと使うものの間で了解されているときに産みだされるのだろう。
 温泉にはいり、そばを食べ、帰りにはいろんな野菜や乾物をどっさりそろえた販売所であれこれを買っていく、明日の夕食のため、山の幸を海辺に届けるべく。
 そういうお店にみえているのはやっぱりそこそこの年輩の婦人客が多い。積み上げられた野菜、幾種類もの豆。乾燥物のなかには胡瓜や冬瓜や月桂樹の葉なんかもある。不思議なようすのものを手にとって眺めていると、それは乾燥させた茸で、水で戻して(すごくふくらむ)煮るといいと教えてくれ、下にある小ぶりの南瓜を取って、これは畑でないところで育てた昔からの品種でとてもおいしいと、近寄ってきたこれも買い物客の婦人が教えてくれる。干した栗を「カチグリ」と呼んでいて、そのまま口に含んで時間をかけて囓ってもいいし、戻して料理に使っても大丈夫とも。
 そういうことばに導かれて、あれこれ買い込む、具体的になにをつくるか、いつ食べるかもしっかり考えつつ。思いがけずゴーヤもでていてこれはもう今年最後だろうとしっかり手に入れる。幸枝さんに白い空豆を半分譲ってもらい、レシピも確認する。千鶴子さんはハヤトウリを分けてくれた。
 それらは、おおげさに言えば極上の(ちょっとぼくには甘すぎる)煮豆になったし、来年までもつゴーヤ・カリカリ漬けになり、今年最初で最後のハヤトウリは、昨年から残してあった付け汁に収まって焼酎漬けになった。一袋のカチグリは何度かの栗ご飯になって食卓に上り、それでもまだ残っている。椎茸はその都度都度、出汁や煮物や鍋とあれこれに活躍してくれている。
 小国では他にもあれこれあって、閉鎖された銀行の建物を通りがかりにのぞきに行くと、知り合いの彫刻家、新庄さんがいて驚かされた。いっしょにおられたのはやはり彫刻の豊福さん。集落の人がお金を出し合って伐採から守ってきた千年杉が倒れたので、それを作品にして残そうというプロジェクトが始まったとのこと。銀行跡が制作の現場になっていて、枝や皮落としがちょうどすんだ杉の大きな塊がごろんと横たわっていた。なにも知らずに行ったので、先方も突然の来訪者にびっくりしつつもあれこれ話を聞かせてくれた。千三百年たつという杉は緻密な材をさらにぎゅっと凝縮したかのようで、威圧でなくどこか枯淡のふうさえ漂わせている。でも説明を聞くまでもなくその重みと扱いづらさは伝わってくる。これからの格闘を想像するだけで身体が軋む、ため息がでる。こっそりいただいた小さな木片は、部屋のなかに今も強い香りを放ちながらひっそりと静まっている。

 

菜園便り七五
一一月四日

 今年初めてのラディッシュ(二十日大根)が採れた。間引きの時に、小指の先ほどの紅い玉がもうついているなと思っていたら、いつの間にかすっかり大きくなっている。慌ただしくまとめて収穫して、食べたり配ったり。少し毛羽立った緑みどりした葉と丸く紅い実のコントラストは愛らしくもありつい手に取りたくなる。
 冬野菜はどれもぐんぐん成長している。春菊やほうれん草はもうときどき摘んでは使っているし、べんり菜も初めて炒め物にした。大根や人参蕪は間引きしては父がみそ汁に入れている。どっさりした一山が全部みそ汁のなかに消える、魔法みたいだ。台風を生き延びたセロリは細いけれど何本も茎を広げている。炒めてもスープにしても強い香を放つ。三種のそれぞれ味も色も形も異なるレタス、それにルッコラも充分に収穫できる。毎日、朝と夜とサラダにしても飽きない。今はそのサラダにラディッシュも加わった。
 春に向けて植えられたエンドウも芽を出して、父が建てた支柱に向かおうとしている。空豆も暖かさの残るうちに、明日くらいには植えなければ。庭の忘れられたようなすみには、分葱やニラが少しひねこびながら育っている。土や日当たりの条件、それになにより肥料や愛情の多い少ないが、みごとなまでに野菜に、その生長に反映している。
 ほとんどプロといって父の技と力で(要点はしっかり押さえて、後は手をかけすぎずに放置するといったような基本姿勢を始め)野菜たちはそれぞれ微妙に色も形もちがう柔らかい緑を伸ばして広げている。
 海岸のここは冬でも太陽の陽射しは強い。晴れた日には真っ直ぐな光が射るように落ちてきて、むきだしの肌には痛いほどだ。常緑の椿の厚い葉の上に光は溢れ、空を映しこんだ海の上にもまぶしく乱反射している。風も強いから、真冬も霜はほとんど降りない。乾燥してそれなりに暖かさの残る気候があうのか、去年もルッコラやレタスは春近くまで続いていたし、きちんと種も取れて、それが今年につながっている。
 台風の潮で一度枯れ果てた菊が再び葉を広げ、小さな花も開き始めた。いただいていた鉢植えのホトトギス草は繰り返し花を咲かせた後ひっそりと植木の陰に引きこもり、夏萩や水引草、吾亦紅は生き生きした黄色の石蕗の花にとってかわられている。終わりの芙蓉と銀杏の陰でひとつだけ咲いた薔薇が、冷たくなってきた風に頭を揺らしている。

 

菜園便り七七
一一月八日

 一一月三日に友人たちといっしょに門司港にいろいろな建物を見に行った。「町屋を遊ぶ」と名づけられた企画で、岩田酒店や旭湯といったすでに営業を止めていて建て壊しも含めた危うい立場にある建物を再び活用させようといったことも、その目的には入っているようだった。この企画のことは千草ホテルの小嶋さんがパンフレットを送ってくれて詳細を知らせてくれたのだけれど、最初に知ったのは津屋崎で個人住宅を完成させた建築家の矢作さんのオープンハウスで小嶋さんにばったりあって、帰りに初めて玉乃井に寄ってもらったときだった。始まりから「建築」と「歴史」がついてまわっている。
 「ひろせ」という料亭での豪華昼食がついたツアーもあったけれど、あれこれの事情で参加できずに、自分たちだけで歩いてまわる。門司港駅前に集まって出発。朱塗りの階段もあるチャンポンで知られた萬龍で昼食を取ってから近くの三喜(宜)楼、と予定を立てたけれど、萬龍はお休み(入り口の金魚だけ見て)。三喜楼周辺の高台を歩いてあれこれ見た後、錦町公民館へ。ここはもと検番だった所で、往時は二百人を超す芸者さんをかかえていたらしい。それを戦後官庁関係のあれこれに分割して使った後現在の公民館に。改造修復が重ねられていて、その時代時代の残骸ともいえるような部分がつぎはぎに残り、痛ましいような、ふてぶてしいような、不思議な、少なくともある審美的で統一され守られてきたものではない、重厚さとはすっぱさが、キッチュや安っぽさも身にまといつつ生き延びてきた逞しさがあり、案内してくれた管理人さんその人のような魅力をもっている。でも、もう終わるしかない、といった潔い諦念もかんじられて哀しくもある。
 栄町商店街の「平民食堂」の名前に感嘆しつつ、路地裏に見つけたその裏口はうち捨てられぽっかりと黒くあいたちがう時、場のようでさえあって、表面を糊塗しつつ絶えず造り替えられてきた、いつも張りぼての表をもつ「商店街」の歴史のついにつじつま合わせができなかった結節点、結界でもあるのだろうか。
 「レトロ地区」と呼ばれる区画で食事したり、今は亡きアルドロッシ設計のホテルをのぞいたりした後、主たる目的である岩田酒店へ。以前に見学に来て話も聞いていた渡辺さんが、岩田さんに紹介してくれ、話をうかがう。堅牢な建築であり、細部には様々な嗜好が施され、贅が尽くされ、建具やガラス、灯りなども残されていて、その保存状態も異常なまでによくて驚かされる。黒檀の床の間縁、そこが傷つかないようにかけられた檜の覆い、花形の乳白色の電球の傘、欄間にも工夫が凝らされている。比較にもならないのについ玉乃井のことも思いだされるし、また維持管理のたいへんさがすごく切実に感じられ身につまされてしばらくぼんやり座り込んでしまった。おまけに見覚えのある東郷平八郎の額も掛かっていたりするし。
 まあ、だだっ広くて夏は快適で、2階から目の前にバッと広がる海が見えるすばらしさは何ものにもかえがたいとかぼんやり思って、でもそれじゃまるで嫉んでいるみたいじゃないか、貧しい対抗意識でもあるのかと、ちょっと淋しくもなる。とにかくはっきりしているのはどこも青息吐息で必死に建物や生活を護っていることで、そういった小さな愛着がかろうじて、「芸術」や歴史文化財でない、ありふれて多くの人に使われ晒されてきた建物を今に残しているということだろう。
 新しさが美であり、正しさであり、壊しては造ることで、虚妄な「富」が増殖していくといった幻想が広まり、すべては表層と単直なわかりやすさとに塗り込められていく。こういう思いはけして歴史へのセンティメントや特権ではなく、多様なものがあたりまえに混じり合ってあることの確認であり、なにか特定のものが絶対なのだと、ひとつの価値観に統一されてしまうことの異様さヘのささやかな反措定でもあるだろう。
 木造3階建ての待合い、路地裏の「バー」、ちょっと珈琲をのみに立ち寄ったそれほど古くはないかつての料亭でも、ついあれこれ見てしまい、感じ考えてしまい、ほんとにぐったりする。諦めた瞬間からたちまち木造建築は崩壊を始める、手入れが、雨戸や窓の開け閉てが間遠になり、空気の入れ換えが滞り、湿度や温度の偏りが全体の傾きを加速し、風や雨がたちまちに屋根から壁から、床から吹き込みはじめ、漆喰の表面がひび割れ滑り落ち、土壁がどさりと崩れ、屋根の瓦下の土が薄い天井板に落ちてつもり間をおかずに板を破って床の間に畳にさらさらと吹き積もる。人の歩かなくなった床は均衡を失ってゆっくりと奇妙にそり始め、耐えかねた部分からぴしりぴしりとはじけていく。柱にねじれが生まれ、根太が、梁が静かに発狂し始める。いちばん弱い部分に全ての悪意が集中する。羽虫が鼠が、鼬までもが跋扈し、屋根裏の主であった青大将も終の棲家を追われていく。行く宛などもうどこにもないことは、彼こそがいちばんよく知っている。

 

菜園便り七八
一二月二三日

 「水平塾ノート一六号」を発刊。発行日は〇二年一一月一一日、だから、〇〇年一二月一一日発行の一五号から、ちょうど二年ぶりということになる。それまでは年に一〇回くらいのペースででていたから、ほんとに長いお休みだった。どうしてだろうか。
 もちろんいくつかの理由や時の速さや、あれこれあるだろうけれど、結局、それですんでしまった、ということだろう。なんとか是非だそうという気持ちが、だれのなかにも、ぼくのなかにも生まれなかったということだろう。水平塾の現在をくっきりと現している。もちろんぼくの現在でもある。
 一一月一一日に発行された森崎さんの『Guan02』の「創刊にあたって」を紹介をかねて掲載させてもらっての全八ページ。1ページめのいつもの巻頭の文と八ページめのnote(後書きのような)だけをやっと書いて、形を整えたことになる。
 そうやってかなり頑張ってだしたノート一六号だったけれど、反応はいたってクールだった。唯一、水平塾で浴口さんが「すごくうれしかった」といってくれて、それでもう充分、また新たに、元気に始まると思いこみたかったけれど、でもやはり幾ばくかの寂しさも残る。
 ノートがでてうれしいと語り、これで一七号もでると口にしたけれど、でも、ふいにいろんなことが喪われる可能性は、とうぜんだけれどいつもどこにもあるのだということも、あらためて感じたりもする。それは、ぼくの感傷や屈折、いらだちや諦めといったことなのだろうけれど、でもぼくにもささやかな慈しみもある、と思いたい。
 そのnoteに書いたのは「該当者性」「当事者性」という、今いちばん気にかかっていることで、それはこういうことば自体も含めてうまく語るのが難しい。ようするに、自分のほんとに大切なこと、つまり嫌でも感じ考え続けてしまうことだけを、もし語る必要があるときには語りたいということ。「痛くもかゆくもない」ことや、「知識」として学んだことや考えたことを語るのは止めよう、そもそもそういうことが語れてしまうという事態は異様ではないのだろうか、ということ。
 書き始めると長くなるし、混乱が深まる気もするので、とりあえずnoteを読んでもらおうと思う。落ち着いてじっくりという、今いちばん必要なことができなくてつらい。

<水平塾ノート一六号より>

note:一五号からずいぶん時間が経ってしまいましたが、みなさんお元気でしょうか。
 季節は冬へとなだれ込んでいきます。暴力的なまでに激しかった夏が翳り始め、瞬く間に草木は花をつけ受粉し結実し色を変え葉を落とし、そして眠りに入っていきます。そうやってじっと冷たく荒んだ空の下でふるえながら寒さをしのいでやり過ごし、春の再生を期します。光がふくらみ波長を変えゆっくりと大気を温め雨を呼び発芽を誘う、そういう季節を。
 水平塾でも、いま考えなければならないのは「当事者性」ということではないでしょうか。なかなかにやっかいな問題で、これまでも考え討議してきたことですが、きちんとまとまるには到っていません。ぼくも「セクシュアリティ」を語るなかでそのことを痛感し、自分なりに<該当者>と<当事者>というふたつのことばを使うことで考えを進めてみました。
 「該当者」というのは、今まで使われてきた当事者に近いもので、この社会(共同体)で生きるなかである特別な、具体的なことがらに遭遇してしまった人、特に差別や偏見の対象に擬されている人などのことです。「在日」「部落」「女性」「障害」「性(セクシュアリティ)」といったことばがすぐに浮かんでくる人も多いと思います。観念的につくられたものでしかない民族、国家、宗教、「科学」など、つまり幻想に組み込まれ、受け入れることでその囚われとなり、差別したり差別されたりしてしまうこと。差別は、何かを他とちがうと感じ考えること、そうしてそれをある特定の価値観で比較し排除する結果として生まれ、つくられます。差別する者には当然ですが、差別される者にも、劣っているとか醜いとかいうことが実体としてあるかのように思いこまされています。差別が内面化されてしまい、自分を否定したり、やみくもに世界を憎悪したりすることにもなります。その時、人は差別をする社会(幻想をつくりあげた共同体)とその幻想自体を認めていて、結果として実体として肯定し受け入れているわけです。もちろんそこには共同体の強い強制があり、無意識の感覚や感受も含め、教育や「常識」や倫理といったものが人々を包み込み縛っていて、それにすっぽり取り込まれているからでもあります。そのなかにいる限り、そこから自由になる、つまり差別から抜けるのは不可能です。差別の現象は時代や国(地域)などでかわりますから、遠くへ去ったり、時が移ればなくなったように思えたりはします。でも結局そういう発想自体はいつも在り続けちがう形として再生され続けるでしょう。ですから、そういう発想の型、考え方の型そのもの(感じ方も)をかえていくしかありません。そういうものがつくられたものでしかなく、意識下をも縛ってまるで永遠の本質のように見えるけれど、ある時代の幻想でしかないと認識し相対化し、自身にさえも内面化されてしまっている差別や憎悪を開いていくこと。
 それには、今までのような差別の告発と闘い、不平等の是正、権利の獲得といった社会的活動では不可能です。差別そのものや差別を産みだすものを実体とし前提とした考え方、結果として差別を再生産させ続けさせるかたちでなく(現在の社会の在り方を丸ごと前提とした否定や改革でなく)、差別する者とされる者の両方が幻想の囚われから抜け出ていく、無化できる方向を探るという困難な方向にしか、もう何も生まれないのではないでしょうか。
 全ての人が何らかの該当者であるのだけれど、そういう「該当者性」から抜けていこうとし、自分も人も同じ幻想に囚われているが、でもそれは観念にすぎず、相対化が可能であると確認できれば、その人は「該当者」であることを超えて、自身の切実な問題の「当事者」としてのみ現れてくるはずです。自分にとって痛くも痒くもない問題を外から゛誠実に゛解析、批評したり、誰かを゛正義で゛代理、擁護したりすることなく、誰もが自身の該当者としての問題それだけを真摯に考えぬけば、ついには誰もが同じ場所に行き着くのではないでしょうか。そこが<当事者>の場です。個別の差別を考えるのでない、「差別」という概念それ自体を対象化し、無化する場。だからそこは該当者にとっても、痛みを叫ぶだけでない(それは差別の根源を実体化させ持続させます)もっと開かれた場となるはずです。(F)

 

菜園便り七九
二〇〇三年一月二三日

 二〇〇二年も終わった。恣意的に区切られた時間の単位だけれど、季節ということのリアルはまだこの身体にも残っていて、だから新年は、新鮮な冷たさ、きりりとした空気の肌触りに感応したりもする。
 そうやって始まった新しい年も、たちまちに生活の有象無象のなかにとうぜんのことだけれど融け込んでいく。父がまだ注連飾りを片づけないのは、今年は二月一日にやってくる旧正月のためだ。アジアの多くの地域が旧暦のお祝いを中心に据えているように、ここにも旧暦やひと月遅れのお祝いが多い。典型的なのはお盆で、これは関東以外は全国だろうし、七夕も、マスメディア、集中テレビが世界を席巻にしてしまうまでは八月だった。ひな祭り、お節句・・・旧暦だと立春立冬もぴったりくる、もちろんそれらも後から名づけられてきたものだ。
 旧正月にもあらためて、数の子や黒豆はつくるけれど、お雑煮を食べるのは一日だけになるだろう、つまり元旦だけ。父もそのへんの簡略化というか妥協を受け入れている、自身の労働の軽減も含めて。
 昨年も菜園便りを読んでくれてありがとう。ホームページを訪れてもらって読んでもらうより、手紙のようにこちらから送り届けて読んでもらうことに小さなこだわりもあって、この形はしばらく続けたいと思っています(ホームページがつくれないこともあるし)。ただ「菜園便り」そのものの予測がちょっとつかなくなってきているので、少しずつなかみややり方もかわっていくとは思いますが。
 何かに集中すること、そのなかには書くことも含まれるけれど、それがひどく衰えている気がするし、それにつれて、内容もやせ細っていっていく。年齢や季節や生活のリズムや何やかやが相乗しているのだろうけれど、ひどく落ち着かなくて、でも(だから)動くことも億劫になってしまってもいて、困ったことだ。たしかに一月、二月は、寒さと木の芽時の始まりとで心も身体も共に動揺しつつ非活動の時期だけれど。
 この季節、いつものように光は溢れている。低い太陽が部屋の奥まで深々と陽光を送り届けてくる。大気が乾燥しているから光は透明で白熱し、だから白い紙や布の上で鋭く反射して目を射る、まぶしくて顔を背けるほどに。用心しつつも少しずつ芽を伸ばし葉を広げ始めた草木の新しい緑の上にも光線は反射し横溢する。ときおり内の翡翠色をかいま見せながらも濁って暗い海も陽が射すとさっと白金色に染め上げられ、小さな波はどこまでもきらめいて輝き、鈍色の雲のそこかしこがうすくなり途切れて青い空がのぞき、光はそこにも溢れ、帯となってなだれ落ちてくる。
 ゆっくりと庭を横切っていく父が大根や蕪を抜き、草を取り、垣根の修理をする。そういた仕草のひとつひとつのうえにも光が溢れる。キジバトがとことこと歩き、鵯が一声ないて飛び立つ。菜園の野菜たちも、つぎに来る寒波をしっかりと目の端に据えつつも、光りに押されるようにまた少し伸び上がる。

 

菜園便り八〇
一月二五日

 突き刺さってくる光はもう夏だ、というのはおおげさにしても、この強くて鋭いエッジのある陽射し、澄んだ冬の大気のなか、すでに春分へと傾きつつある太陽の増大していく光量が、くすんだ日本海の空を真っ直ぐに割って落ちてくるから、その新鮮さがまぶしさがいっそう強く感受されるのだろう。吹き募る風に砂が飛ぶ、打ちつける波が砕けて舞い上がり、海岸道路を走り抜ける車へと降りかかる、それさえも何かの祝祭のように見える。悲鳴を上げながら、毒づきながら、でもドライバーたちは海辺の道を選んで走る、くそっ、またかかった!
 論(あげつら)うことでの否定は、論うことで否定されるだけだろう。「事実」の羅列、分析、これからの「方針」を述べ続けることがなりたつ場、つまりこの共同体内での約束事の共有を前提としての批評、否定。「ことば」それ自体はそういう場でしかなりたたないのだろう。「ことば」にすることで、語ることで、あげつらうことで、それは処理され、解決なりペンディングなりのラベルが貼られてしまい込まれる、意識的、無意識的な操作のなかで。
 先日、本村さん、萩原幸枝さん、近藤さんと、チョムスキーの講演とインタビューを撮ったドキュメントフィルムを見に行った。辺見庸のときのようにやっぱり動揺するだろうかと思っていたけれど、本人がそこにいないことや、会場の直接的な思いや声がないこともあるのだろうけれど、最後の「Can you hear me?」が文字どおりとってつけたとしかきこえなかった。
 現在、米国大統領をよく言うことより、辺見やチョムスキーに問いを投げかけることのほうが、難しい。すごく大切なことだけれど、誤解を招かずにきちんと語ることが困難なことがら、ほんのちょっとのでも決定的なちがい。しかしそこをこそ踏み抜きたいために、「現実はこうだから」と、「とりあえず今はその点は先延ばしに」したり、「できることから対処」したりしないためにこそ、回らない頭で、軟弱な手足でどうにかしのいできたのではなかったのだろうか。果てのないように続く戦争や暴力も、連合赤軍やオウムも、そうして自分のなかにある過剰さや冷酷さも、くり返し問い返し考えるしかないことだ。答えがないからこそ、答えをだすための問いとしてでなく、ただ問うための、相対化するための問いを絶やすことなく繰り返すことしかない。
 様々な、説得力のある、人を撃つ力のあることばが論旨が続く。でもそれらはチョムスキーにとってどうしようもなく切実で、もうことばにすらできないことがらだとは聞こえてこない。ヴェトナムも南米も、中東も、アフガンも、それらのおぞましく理不尽きわまりないことが、まるでひとつの素材でしかないように響いてしまう。彼自身の出自や民族の自認、「知識人」としての自覚、誠実さ、倫理や正義感、悪への憎悪、無知への怒り、底の浅さへの嫌悪、そういったものには溢れているけれど。
 「行動」する=しないことの是非や「知」の尺度への疑問ではなく(そんな問いはもう成り立たないことははっきりしている)、そもそもそういう分け方、そういう発想そのものが、否定したいおぞましさと表裏になっているのではないか、という抜きがたい思い。根元的で無限に遠そうで、でも実は生のなかにありふれてあること、そういう発想の型を取り出すこと、ただそれだけが、「悪」と「善」と二項にして呼ばれるものの終わりのない反復を無化するのではないだろうか。
 それなしには自分がもうなりたたないようなもの、それだけが語るべきことであり、ことばにならなくても確実に誰かへと伝わっていく。論理の、つまり知による批評、否定はそこにけしてたどり着けない。そもそもそういう方向を向いてないし、そういう方向があることを思ってもみない、それを切り捨てるから成り立つ場なのだろうから。瞬く間に答えがでること、現在の文脈ですらすらと語れてしまうこと、それが問題なのだろう。答えがあると思うから、それに見合った問いが出てくる。答えを、どこかに期待しているから、しかもことばとして。それは受け入れるための(「否定」も含めた)、問いと答えだろう、そして、とりあえずの現時点での終了。
 ほんとに自分にとって切実きわまりないこと(それはすごく多様だし、数え上げることも比較することもできない、そしてだれもにあること)、それなしには自分があれないこと、それは該当者性といってもいいのだろうけれど、それだけを考えること、語ることから始めるしかない。ささやかで、でもわたくしにとっては絶対的なまでに大きなそのことだけを。そうしてその先に、初めて他の該当者性と重なり合う場、当事者性が生まれてくるのだろう。

 

菜園便り八一
一月三一日

 ふいの雪さえ、そのきらきらビームで、地面に着く前に瞬時に溶かしてしまう陽光も溢れて、菜園の野菜たちはべたりと地面に放射状に張りついていた姿勢から、徐々に頭をもたげ、肩を上げ、半身を起こそうとしている。しばらく見に行かなかった庭のすみの春菊が群生したまま(間引きをきちんとやらなかったから)、並んで真っ直ぐ立ち上がって葉を伸ばしている。鍋の時だけでなく、みそ汁に、おひたしにとせっせと摘む。
 まだ残っているラディッシュを驚きつつ収穫し、それでもまだ幾本か残っていて、あの愛らしいおいしさへの喜びは尽きない、すごい。中央に赤い模様のはいる蕪くらいの大きさの丸い大根も続いている。輪切りにしてサラダに入れる度に、「不思議だ、不思議だ」と父が言う。間引きを途中で止めてしまった大根や人参は密生したまま押しくらしあって、葉っぱはこんもり山になっている。きっとすごく細いのや小さいのがひしめいているのだろう。今からでもと思いつつ、でもどこから手をつけたらいいのかとまどううちにも時はたつ。
 ルッコラ、セロリはあいかわらず繁茂し、パセリも立ち上がり始め組。すっかり縮こまったレタスのなかに父がまた新しい苗を二本植えてくれた、これで、塩梅しつつ摘めば(食べれば)春の初めまではなんとか持つだろう。五月に向けてエンドウはもう子供の背丈、空豆はじっと機会を待つように一〇センチほどで踏みとどまっている。今、雪が積もったら、たぶんエンドウはおしゃかだ、解説本にあったように早蒔きすぎると苗が伸びすぎて越冬ができません、の警告そのままに。ひねこびた分葱や韮も庭のすみで待機している、青梗菜や便利菜はどんどん伸びる繁る。もうじき花芽が出てくる、そうしたらそれも摘んでおひたしにできる(芥子醤油かなんかだ)。
 一本だけ遅く咲き始めた菊が菜園の端でまだ小さな黄色い花弁を開き続けている。あちこちで水仙が匂いを放つし、朱の奇怪なアロエの花も盛りで、目白につつかれていている。
 鉢のなかでかろうじて生き延びたミント、ローズマリー、夏萩も葉の色に瑞々しさが戻ってきた、じきに山茶花や藪椿や開くだろうし、ゼラニウムもまた花をつけ始め、賑やかさはまし、雑ぱくな草ぐさもいっせいに伸び始め、またすさまじい生命力に溢れる庭になるのだろう(だれかが、藪だ、と陰口をついていたけれど、ぼくはジャングル状態といいたい)。
 芝生も緑を取りかえしつつある。ふいに陰った空からの静かな柔らかい雨が全体をゆっくりと濡らしていく。

 

菜園便り八二
二月六日

 二〇年来の友人であり今も東京に住む森さんの心遣いの提案、助力で、彼と直江真砂さんと三人で岡山で会うことができた。雨模様の空の下、北と南から瀬戸内の街へ向かう。
 直江さんとは一〇年ぶりだったけれど、会った途端、以前のように「マーゴ」という呼び名が口をつく。互いの上に積もった少なくない時間や、軽くはない生活の重さを確認しつつも、その下からくっきりと現れる懐かしい姿を見つめる。
 森さんは、親族の集まりや同窓会も意味するreunionということばを使う、再会の時。思いでというのはうっとりとするほど甘くて、せつないほど懐かしく、それはそういうものだけを用心深く丁寧に取りだすからだろうし、今の生活のあれこれを、淡い光のなかに包んで隠してしまうからでもあるけれど、でもどうしてこうも、かつての日々、あの頃の人たちは、過剰にまで輝いて浮き上がってくるのだろう。そんなにも今がくすんで淋しいわけではない。「若さ」という愚かな、でもいっとさが生むかけがえのなさ、だろうか。もちろん、けして思いだしたくないこと、大声で叫びだしたくなること、恥ずかしさにいたたまれないこと、色あせない憎悪、死ぬまで抱えていくこと、掃いて捨てるほどのそんなことごとは「思いで」ではないのだろうし。
 直江さんとはその友人たちも含めて七〇年代の前半と、一〇年ほどの空白の後八〇年代の後半に(その時は森さんも交えて)会っていたけれど、その頃はまだご主人も健在だった。画家でもあった彼のことをムッシューと呼んでいたことも懐かしい(マーゴは今も描き続けている)。出会いのきっかけになったのは、要町にあったバラードというバーだった。それも今はない。
 そういう三人での集まりだったから、話は楽しかったかつての日々のことの後、少なくはないすでに亡い人たちにどうしても傾いていく。田中さん、ムッシュー・直江さん、原田さん、中井さん・・・・。会話は穏やかにゆっくりと進むから、ぼくはぼくの思いでのなかにも入り込んでいき、呼びかけられてはまた親密な空気のなかに戻っていく。相川先生、フェルディナンド・マウザーさん、檜垣先生・・・。
 二〇代だったのはほんの昨日のことさ、とはとても思えない遙か彼方なのに、いくつかのことがらはまるで今ここにあるようにヴィヴィッドに蘇り、胸は締めつけられ、漠とした不安が広がり始め、そうしてシンと身体を浸し甘苦くしみ渡っていく。圧倒的な喜びでも苦痛でもなく、足掻くような後悔でも冷たい諦念でもなく。そうであった、そうでしかなかった、そうしてどんなふうにやっても結局はこうなっただろう、自分の生とその軌跡を少し遠い目で穏やかに見送る。近いけれど、でもぴったり重なっていたのでない3人だから、こうやって静かにいられるのだろう。
 降りだした細かな雨の下、まるで二〇年前のように夜更けまでバーを巡り、肩寄せ合って、ふらつきながら路地を抜ける、再びは巡ってこない時を踏みしめる。

 

菜園便り八四
二月一〇日

 大分の二宮君が、亀井君に託して「小さな肖像」のヴィデオを届けてくれた。NHK大分で放送している、彼がインタビュアーの番組を四八回までまとめたもの。街で出会った人、偶然見いだした場所で、彼が訥々と質問し、その人の肖像画を描く。最後にだされる核になる質問は「あなたが今まででいちばんうれしかったことはなんですか?」。各回五分間の短いものだけれど、見ているときはもっとずっと長く感じてしまう。いろんな映像が差し挟まれるし、時間をかけてつくられているからだろう。それからインタビューする人とされる人の互いのぎくしゃくした、日常にはありふれた関係がそのままでていて、見ているぼくらもその場の人たちのように緊張したり、しどろもどろになって身の置き所がなかったり、目のやり場に迷ったり、あれこれ自分のことのように困ったしまうから、後で時間が塊としてどっと落ちてくるのかもしれない。そうして、最後は生のやさしさ、あたりまえさのなかで穏やかに閉じられていく。
 二宮君の人がらが表面の映像の下にしっかり見える。これはぼくが知りあいだからというのではなく、見る人誰もがストレートに感じとることだろう。彼自身のコメントは少なく、でも聞くことに徹して無理にことばを引き出すこともなく、「そうですか」「えー」「なるほど」といったおかしみもある返答。
慣れない取材でのすれ違いや滞りが、下手さがあり、それは、でもたちまちに習熟し、洗練されていくといったことを予感させない。ちょっと大げさに言えば、マスメディアとか、取材するとかいったことが必ず向かってしまうそういう方向を拒むことで、「制度」に取り込まれるの逸れるという、メディア論にもなっている。それはまた彼の「美術」論(文化論といっても同じだろうけれど)に関する持論にもつながっていく。ある時代や地域(地球規模としても)のなかでの約束ごとでしかない、「美術」や「絵画」といった創られた(今は近代のということだろうけれど)概念を前提にしないということ。そういった概念やことばのずっと以前(ずっと後で、といっても同じことだけれど)の、表現そのものを掬いだしたいということなのだろう。
 トレンディーな事象や、「地方」での成功、「実力者」といった相手はもちろんでてこないけれど、「苦労した」人や、話し上手(期待されたように上手に質問に答える人)、「絵になる」人もでてこない。もちろん彼が引きつけられやすい傾向はあって、だから静かな山間、豊かな棚田、海辺、町中のひっそりしたたたずまい、ちょっと不思議な場所が多く選ばれている。
 だれもが、とうぜんだけれど、短くはない時間いろんな生を抱えてきて、深い人間関係のただ中にいる、あたりまえの生活者として。「市井(しせい)の人」といった、藤沢修平の作品のコピーのようなことばがすぐに貼りつけられてしまいそうだ。でも、そういう「市井の人」なんてない、だからこそだれもが無名ですばらしいのだということも伝わってくる。そんななかでも、やっぱり長く生きてきた人の力(表現力)はすごい。表情、声、仕草だけでなく、語られる内容もさすがにすごい。戦争のこと、シベリアのこと、嫁いだ家のこと、仕事のこと。そういうなかでかろうじて生き延びてきたことは、でも特別な大仰なことばにはならないし、それへの過剰な否定もない。誰かが生き延びたように自分が生き延び、誰かが死んだように、自分が死んでもおなじだったのだ、と。もちろん生きてあることの喜びは大きく、でもそれはあらためて書き記す、具体としての「喜び」「楽しみ」とはちがって、穏やかでだから遠くまで届く、タイの奥深い農村にも、荒んだニューヨークの通りにも(生の謙虚と受け止める力があればどこにでも)届く「喜び」と呼ばれもする、自他への慈しみにまつわる何か、だろう。
 自力で、それは俺ひとりでやるという過剰な「独立独歩」ではなく、そういう過剰さもきちんと押さえつつ(それは自分がいちばんとか自分にしかできないとかにつながってしまうし)、生きることの単純さと難しさの両方を生活としてじっと見つめ、人々との抜きさしならない、とうぜんでもある関わりを続けながら、毎日はせっせと人生はゆっくりと生きる人たち。だから多くの人がその「いちばんうれしかったこと」に家族をあげることの、あたりまえさ、驚き。それは、路地の奥で四〇年続けてきたほんとに小さな八百屋の前で、ご主人と奥さんが、結婚できたこと、そうして今も仕事が続けられることを喜ぶ、拾ってきた犬と共に過ごす毎日に溢れているし、いちばんうれしかったことを「かあちゃんといっしょになったことだね」とぶっきらぼうに語る魚屋の大将のリアルさでもある。おばあちゃんのことを語り続ける高校生の女の子、お母さんのことしか頭になかったしお母さんを喜ばせたいとだけ思ってたと話す、今は自分が母の元乙女、子供が全てだったし、みんな結婚して幸せでうれしいけれど、今も長女の結婚式の時のことを思いだすだけで声が詰まる母、彼女は古い精米所をひとりで切り盛りしている、天井のいくつもの滑車が長い少したわんだ布のベルトでつながりあい唸りながら回されている、細かい粉と匂いに満ちたあの空間で。うっとりした蜜の時間だったと親族旅行を今も思い返す青年、防衛大学を出た後医大に入り直し、研修の時の感動を手放さず、産科医として病院勤めを続ける人の静かな勁さ・・・。それらは、目や声やことばのわずかな響きをとおして、こちらへゆっくりと伝わってくる、ぼく自身のまだわずかに残っている感受の柔らかさをとおして。
 作り置いてあるのだろう柚子の皮のお菓子がお茶請けにだされる、ふいの闖入者にもお茶や珈琲がふるまわれる、日常のしぐさとして、縁側で玄関の上がり口で、座布団一枚で応接間になる場で。そういう細部の尽きない魅惑に引き込まれながら、たぶん誰もが同じことを自問するのだろう、自分にとっていちばんうれしかったことはなんだったんだろう?と。ぼくもそうだ。「そんなものはなかったさ」なんて子供じみた反発をする気もないけれど、でも答えるのは難しい。すばらしかったこと、感動したこと、それはいつもその正反対のことがらに裏打ちされていて、だから喜びと苦痛はセットになってしまっている。手放しにうれしかったこと、それは無垢な、問うということのない時代にしかないことかもしれない。全てが自分を中心に廻っているようにあれた頃、家族の、集中母親の愛情のなかでことばさえなくてたゆたっていただろう時にしか。
 でもそんなに解析的なことばがでてくる方向で考えてしまうことが出発の躓きなのだろう。ただ静かに思い起こせば、ありふれて、溢れるまでのできごとのただなかに人は連れ出されていくはずだ。生きることの耐え難いまでの困難と、あまりのあっけないまでの単純さとのなかの。
 窓際の溢れる陽射しの下に座って、ぼくは本を読んでいた。光が、熱が衣服を通して全身を包みその温かさ穏やかさがしみ渡ってくる。ありふれた午後の、静かなその時、ぼくはただただ心地ちよくて、そうしてそれを誰かに伝えたくて、そばのソファで横になって書き物をしていたマウザーさんに「I'm so happy」とことばにしたのだけれど、もちろん相手は、何いってんだへんな奴だと思って、でもにこっと笑って書斎へタイプを打ちに行ってしまったけれど、あのときの幸福感が、いちばんうれしかったことかもしれない。少なくとも限りなく穏やかで幸せに感じられた時だった。
 初めて外国の地に下り立ったときや、ついに思いの人と愛しあえたときとか、何かを達成したときというのは、うれしいのは当然だけれど、のしかかっている不安も大きいし、よく語られるように、喜びや快感は大きすぎると刺激も強すぎて痛みに近くなってしまうから、うれしいとだけはいえなくなってしまう。そういった不安や刺激を、意識することさえなく捨象できたり、全部受け止めてのみ込んでしまえるような「度量の大きさ」みたいなものが無い人には。
 ささやかなでも底知れぬこと、人や生と同じように、単純ででも限りなく豊かなもの、それがだれものほんとうの、いちばんうれしかったことなのだろう。だからこそ「愛」とか「家族」とかいうことばでよばれている、慈しみ、みたいなものが、だれものなかに答えとしてすぐに浮かび上がってくるのだろう。

菜園便り 

 

菜園便り八七
三月一日

 買い物に行く途中の田や畑をぬっていく道は、続いている春の雨と強くなる陽射しで、日ごとにかわっていく。カリフラワーの硬くていけだかな暗緑色の葉、収穫が終わって黒い土に戻った畑。耕耘を待って昨秋から放置されている田は細かな柔らかい緑でびっしり覆われている。ベルベットのようなこけの絨毯がうっかり伸びすぎ、浮き上がってひび割れてしまったとでもいうような様子だ。
 畦の道の両側にも様々な草がこんもりと繁り始め、定番の仏の座、ナズナ、いぬのふぐり、シロツメクサがめだつ。仏の座やツメ草は晩秋から真冬にもときおり花をつけるのが異様にも思えていたけれど、通年草だとわかって納得がいく。水と光、温度の条件次第でいつでも成長、開花の準備を整えているのだろう。雪や氷に覆われることもなく、霜もほとんど無いこの一帯では、真冬の間も、どんなささやかな空き地にも、緑が消えることはない。
 温かい季節に子育てをするため、今はメイティングのシーズンたけなわ、誰も彼もが走り回って相手を探し、猫から始まり、雲雀もかますびしく鳴きたてている。麦畑や菜の花畑が少なくなった今、彼らはいったいどこで巣作りをやっているのだろう。市街地でも山林でもない、田園の鳥と思っているので、心配になる。竹藪や雑草地もほとんど無くなっているし、小さな畦にもトラクターが走り、電動の草刈り機がうなっているこの時代には。
 暗い空の下で波だって荒れていた海も薄い緑色のたゆたいになり、群れていた鴎もそろそろ消える頃だけれど、彼らはどこでメイティングや子育てを行うのだろう。大きな港や湾には一年中いるようだから、そのあたりの岸壁や廃船のなかだろうか(廃船なんて藤田敏八の映画のなかにしかもうないのだろうけれど)。アホウドリとか皇帝ペンギンとかいった、一生涯見ることもないだろう鳥のことは、ドキュメントフィルムで(父がかかざず見ているNHKの不思議発見とかで)事細かに記録され放映されて、なんだか知り尽くしているような気持ちにさせられるけれど、どこにでもいる鴎は、卵さえ映像でも見た記憶がない。雑食で雑ぱくだから、けっこう簡略な巣作りと子育てなのだろう、きっと(ようするに「絵」にならないとされているのだ)。同じ近くにいる鳥でも、鴉はその狡賢さや適応力の(特に都市部での)あざとさで映像にもなっている。洗濯ハンガーなどの金属素材での巣作りや他の鳥の巣の、つまり雛鳥の襲撃などでも。ツバメはだいたい誰もが知っているし、今も同じようなスタイルを続けている、協力的な家や人が減ってはいるけれど。雀の巣も屋根瓦の下や軒先の隙間などに今もある(街路樹を含めある特定の木に群がって夜を過ごしているのを見かけるけれど、あれは巣なのだろうか)。
 青や茶の斑入りの小さな卵を手にしたときの叫んで飛び跳ねたいまでの驚喜する思いと、何かとりとめのない不安や怖さ、つぶすまいと指や手に気を遣えば使うほど力が入ってしまう汗のにじみ出すような焦りとは、多くの子供が体験したことだろう。神秘そのものだったあの形、すべやかな表面、うっとり見とれてしまう模様、色、そして透かし見える光。
 チチチと走り回っていた千鳥はどこへ行ったのだろう。キジバトは人家の庭にも巣を作るらしいけれど、まだ見たことはないし、あんなに頻繁にやって来てかまずびしい鵯も、その住まいはたぶん山や林だろうというくらいしか知らない。卵には恍惚とさせられるけれど、雛の、特に生まれたての小鳥の醜さや危うさにはできれば関わりあいたくない。ときおり屋根や木から落ちてきて半分死んでいるのを見ると気が滅入る。拾い上げ、介抱したり、巣に帰しても絶対に死ぬ、としか思えないし、触れた指にあの気味悪い赤黒さとぐにゃっとした柔らかさが染みついてしまい、記憶からも消えていかない。鳥は奇妙な回路を通ってどこかで悪夢につながっていったりもする。


菜園便り八八
三月五日

 ひな祭りも終わった。今年は父が買ってきてくれたひと組の菱餅を仏壇に飾っただけだった。小さな雛人形をだしてくるのも何となくわざとらしくて、桃の花もない無愛想なお節句になった。母が生きていたとしても、たぶんこけしの内裏びな一組を飾るぐらいだっただろうけれど。三月は女の子の祭り、五月は男の子の節句、というような言いまわしに、どこかで囚われているのだろうか。
 子供の頃はひな祭りの餅も近所といっしょについて、色もつけ、各家に持ち帰ってもろぶたに広げ、菱形に切って飾ったりしていた。小学校の上級生になって、コンパスで菱形がかけるようになってからは型作りをやっていたことも覚えている。三つか四つの菱形のそれぞれがなかなかうまく相似形にならなくて何度も失敗し、いくつものずれた線が重なり合った、黒ずんだ型紙。そのボール紙の形にそってピンクや白、黄色や蓬の緑の三段や四段重ねを包丁で切り抜いていく。もちろん食べることにも熱心だった。甘い酢みそ(正直なところあまり好きでなかったけれど)をつけたりしてもいたけれど、ただこんがり焼いただけで、ぷっくりと膨れた色ちがいの菱餅は楽しくおいしかった。黒砂糖を砕いてつけて食べていた記憶もある、それから当然だけれど白い砂糖も。長方形に広げた餅から菱形を抜くから余分な所がたくさんでて、それは小さく刻んであられにしていた。これも色とりどりのあられが少し焦げついてふくらんで、カリッとおいしかった。お菓子屋で見るようなあんな上品に小さくはなくて、甘くもなかったけれど。
 そんな酷寒も過ぎた三月なのに、今年は珍しく人並みに風邪も引いて、今頃になってまたぐずぐずしたりもしている。風邪の症状はほんとに人さまざま。ぼくは子供の頃から大きな扁桃腺をかかえていて、しょっちゅう問題を起こしていたのに、どういうわけか熱はでなくて、だからあのぼうとしてうなされるような、でも何もかも白熱しきって乾燥しきって身体も心も動かない、極みの静けさといった感覚は、今までに一度しか味わったことがない。
 病気というといつも襲ってくる吐き気の不快感、嘔吐の苦しみ、頭痛やあれこれの痛み、無力さだった。だからあの一度だけ体験した、全身麻痺したような、不快感のない、でも確かに病気である状態にはちょっと心ときめいた。職場から早退しやっと帰ってきて(這うようにということばが大げさでなかった)、「寝る」といっただけでバタンと倒れ込んでしまった、その時点でさえ、なにか不思議な体験をしている気がした。着替えて、何か少し食べて、話して、と思ってもぜんぜん身体がいうことをきかなかった。かすかな意識の向こうに時間や人声や匂いが流れて、吐き気も頭痛も起こらず、でも全く自由の利かない身体を、特別に持ってきてくれた大きな枕のなかに沈み込ませて、その嗅ぎ慣れた匂いも快でも不快でもなく、でも十全な安心感で包み込まれて。二日ほどたって深みから浮き上がってくるときも、苦しみや痛み、体調が急に変化するときのひずみのような不快感もなくて、少しずつ意識が蘇ると共に明るさが広がっていくというような、夜明けのかすかな一筋の光が、それとわからぬうちにあらゆる場所に浸透していつの間にか朝がきているように、徐々に世界に復帰していった。身体のしびれが消えてゆき、心が動き始め唇が動き、声が出てくる。その初めてのことばがなんであったかは、残念だけどもう忘れたけれど、冷たいオレンジのジュースが唇を濡らし、舌を潤し、乾いて貼りついた口の粘膜をゆっくりと剥がし喉の奥に流しこんでいったことは覚えている。喉自体に意識があるように水気を液体を舐め回し味わいつつ、冷たさを、病んだ舌にはきつすぎる味を、餓えたように取り込んでいった。高熱で昇華されるような、そういった経験もその時のたった一度だけだったけれど。

 

菜園便り八九 ????????
三月七日

 萩原幸枝さんが録画してくれて(感謝!)、キアロスタミ監督の『オリーブの林をぬけて』をヴィデオで手に入れることができた(一八〇分テープの標準速度)。うれしい。たぶん多くの人が『友だちのうちはどこ』で初めて彼のことを知ったと思うけれど、ぼくはいつもの悪い癖で、゛ガキものかぁ゛と敬遠していて、最初に見たのがこの『オリーブの林をぬけて』だった。たぶんユーロスペースでだったと思うけれど、まとめて三部作を上映していて、『そして人生はつづく』もそのときに見たと思う(はっきりしないのはその後もチャンスがあるとあちこちで見たので、ごちゃごちゃになってしまっているから)。『友だちのうちはどこ』は福岡市図書館の映像ホールで見た。アジア映画祭でも上映されたし、ホールの収蔵品にもなっているらしく、時々上映していた。
 それから『クローズ・アップ』や、その後の『桜桃の季節(だったと思う)』『・・旅・・(といったタイトルだった)』『ABCアフリカ(たぶん)』と見て、でもちょっとがっかりもした。三部作と呼ばれる『友だちのうちはどこ』『そして人生はつづく』『オリーブの林をぬけて』を今もいちばん好きという人の気持ちはよくわかる。
 『オリーブの林をぬけて』は映画としてすばらしいのだけれど、でてくる人たちがとてもすてきで、それはとうぜん表情やしぐさや声やささいな戸惑いや喜び哀しみやおかしみとしても現れてきて、だからついつい見入ってしまうところもある。中心人物のひとりになる青年、ホセインには、特にいろいろに思わせられるし、感嘆してしまう。演ずるとか、表現とか、虚構とかいう概念がとっくにチャラにされている、最初からふっとんでしまっているようなところがある。身体を使う労働としての単なる仕事とか、ただそこにたまたま存在するといった、生活そのものといったような境界の曖昧さ(生のあたりまえさ)が、みごとに(偶然に=必然として)映像として掬いあげられる。
 ホセインは当然イスラム教徒だろうけれど、その強さと屈折は、若さの傲慢と卑屈とも重なって、痛々しいほどのリアルさで伝わってくる。だから、ぼくのなかで好感と嫌悪もめまぐるしく交錯する。ヨーロッパ文明の根幹にあると思える「契約」の根源。宗教であれ、ビジネスであれ、愛や関係であれ、全ては互いの契約の上に成り立っているとでもいうような社会の構造。だから、どんな理不尽なことがらであっても、互いが受け入れれば契約は成立しているのであり、それはもう完全に納得させうる(するしかない)正義なのだというような。例えば卑近な商売のやりとりで法外な値段や条件を押しつけても、相手が受け入れればそれは了解の上の契約の成立であり、悔いることも否定されることもあり得ないのであり、受け入れがたいなら当然にも交渉を続ける=戦いを続けるだけのこと、といった単直な、ゆえに強固な論理と倫理がそびえている。
 そういった見も知らなかった考え方、在り方に直接出会ったのはインドでだったけれど、あのうっとうしいくらい強引でしぶといヒンドゥーの人さえ一歩引く、イスラム系の人々の強さは(特にインドのなかではそうなるのだろうけれど)、ぼんくらな東アジアの人間には強大で巨大な氷の壁にさえ見えた、けして超えられるなんて夢想してはいけないものとしての。先ず相場の百倍くらいから始まる値段の交渉でも、けして通常の値なんてちらりとも考えずに、せめて十倍くらいに収まればもう御の字と思わなければいけないと。ただし、その値段でさえ「外国人」には安価だからかまわないというような傲慢で怠惰な気持ちでではなく、負ける諦めとして。
 負けることはつらい、悔しい、哀しい、だから自分が負け続けてしまうインドやイスラム社会への苦い思いがどこかに(隠されて)染みこみ、隠されているから残り続け、こうやってふいに映像の向こうから雪崩れてきたりする。強い者への率直な、そして屈折した魅惑や拒絶もとうぜんにもあって、それがいっそう思いを捻れさせる。そうしてそういっとこと全部を凌駕して、ホセインの、初々しい愛の、映画の力が見る者を覆い尽くしていく。
 ふいに、吉田修一の小説作品に惹かれるのは、ホセインにあるような強さと弱さの混交が、みごとに取り出されているからだろうし、描写される人物像が放つ熱やテクスチャーが、ごつごつしながらリアルだからだろうとわかったりもする。

 

菜園便り九一
四月一一日

 一昨日、今年初めてのサヤエンドが採れた。初物。種まきが早すぎ、暖かい日が続いて瞬く間に芽が出て、これは冬を越せないかと心配していたけれど、丈夫な茎にえんじの花がたくさん咲いて、そうして結実した。収穫が遅れるとたちまち大きく厚くなってしまうけれど、筋張った所もなくて全体が柔らかく、しっかりとした野菜の味とあまみがある。下ゆでして、ちょうど手に入った若布との酢の物にしたり、いただいた竹の子を煮たのに添えたり、余ったのはとっておいて、サンドイッチに挟んだり。サヤの筋をとるとき、必ず映画「悲情城市」を、そして子供の頃母にやり方を教えられて手伝わさせられたことを思いだす。
 春の初物はいろいろ続いて、石蕗は庭のを父が摘んで皮もむいてくれたのを(指が真っ黒になる)あの特有のあくや食感と共に食べたし、皮のままキャラブキにもした(ぼくはこのほうが好きだけれど)。土筆も父が採ってきてくれハカマまでとってくれたのを(これも指が真っ黒になる)玉子とじして野の香りを味わえたし、今も続いている竹の子は、最初は近所に住む又従兄弟が堀立を持ってきてくれたのをすぐに茹でて若竹煮や酢の物で食べれた。鹿児島からもどっさり届いた。やっと生き返って葉を延ばし始めたミントを二、三枚摘んで紅茶に入れたのも初物ともいえる(ダージリンは春摘みの新茶が入り始めたとかで、色も薄く香りも少な目でさっぱりしているけれど、味わいは深くけっこう濃いお茶になるのが手に入った。入れる温度も通常よりちょっと低めの指定があり、なんかいかにも緑々して生っぽく特別にも思われたりする)。
 冬野菜もそろそろ終わり、整理しないといけない時期が近づいている。畝の大根も種々の葉物も白や黄の花が咲きほこっていて、もう菜園とは思えない。ルッコラアブラナ科らしい、白に茶の十字の線が入ったなかなかにきれいな花をつけて、一面に咲いている。とうとう間引きしないままだった人参は混み合って育たないまま、ひしめいてひょろりと盛り上がり、周りの伸び上がった花々に挟まれて隠れている。やっとレタスが葉を広げ始めた。セロリは小さいながら自身で株別れしつつまだまだ続いていて、柔らかいし、葉も味や香りがうすいので食べられる。分葱がちょうど手頃な大きさになり、刻んでお吸い物などに浮かべると、むっとするほどの緑の香りがあるし、舌にも刺激が強い。庭のどこかにある雪の下、あけびの蔓先、ドクダミの葉なども食べられるはずだけれど、揚げ物や天ぷらが苦手なこともあって、なかなかに手を出しかねる。
 庭の花も水仙は終わり、海側の庭の八重の桃色の椿が満開。日陰に残っていた沈丁花を二輪、切り花にすると弱いけれどあの香りが立ち上がってくる。アイリスも伸び、父の自慢の椿はまだまだいく鉢も開き続けている。夜には冷える日もあるけれど、もう望んでも寒さは戻らない、それもうれしい。
 人も心も活動的になってくる。先延ばしにしてきたやらなければことのリストがあらためて引き出されてくる、でも結局、このうらうらと照れる春日にはただ茫然と光を浴びて立ちすくむことで終わるのだろう。石井辰彦の歌のように。
「花ざかりの畑にしあれば雲雀あがり水晶の降る喜びの降る」

 

菜園便り九三
五月二九日

 札幌にいる姉から、毎年送ってくれるアスパラガスが届いた。丁寧にチルド便で送られてきたそれは、ふっくらとして柔らかく、おいしい。かすかな苦みもあって、またいかにも伸びていくといった形や先端の紫に近い色からも、植物の芽を、成長点を食べてるという思いにさせられる。
 届いた日は三〇度を超す夏日になって、それで今年初めて昼食にそうめんをつくった。もちろんアスパラもいただく。茹でただけでレモンをかけ、緑の味を楽しむ。父もぼくも昼食は自分の都合のいい時間に簡単なものですませるから、冬の間はめったにいっしょにしないけれど、夏はそうめんが多くて、そういうときはいっしょに食べる。父が必ず一度はいうのが、「冷や麦はすかん、中途半端で、それならうどんの方がよか」。ぼくもそれを学んだのか、冷や麦は苦手だ。子供の頃は、一、二本入っているあのうす紅色や黄緑色の麺を奪いあったのを覚えているから、よく食べていたのかもしれない。細くてすべやかでつるつると唇や舌にここちよいそうめん。しっかり腰があって歯にも顎にも食感が伝わり、量としての充実感もあるうどん、そういうことだろうか。麺のなかでも特にそうめんを好きにみえる父は、とがらせた細い箸の先でちぎれた一本一本もつまみ上げている。
 恒例の父のことばを聞きつつ、でも、母はどうだったのかは思い出せない。蕎麦よりもうどんだった、ぐらいはわかる。けっこう麺には無頓着だったから、どれでもよかったのかもしれない。たしかにつくる側はあまりあれこれこだわっていては準備が進まないし、選択肢がせまくなりすぎてしまう。麺を茹でるのもわりとおおざっぱで、だからそうめんの時はうまくおだてられてぼくが茹でたりしていた。作る人にとっては、とにかくこなしていくこと、テーブルに毎回並べること、その永劫とも思えるルーティーンに耐え続けることが最重要課題だったのだろうか。
 「愛だ、つくるのも食べるのも愛だ」、なんて冗談をよく口にするけれど、つくる動機はなんなんだろう、と考えたりもする。四の五の言ってもとにかくつくらなければならないからだろうし(プロは仕事だ)、家族や好きな人や、だれかに食べさせてあげたいのだろうし、自慢したいとか、自分が食べたいということもあるだろうし、材料を消化しなくてはという強迫観念もあったりするのだろう。満杯の冷蔵庫は安心より不安がつのる。腐敗へとじょじょに傾いていく音が聞こえる気がする。ない知恵を絞ってあれこれのメニューを考え、とりあえず加工して冷凍に、いざとなれば人を呼んだり、あちこちに配ったり、気づかぬふりで奥に押し込んで、1週間後にあっと驚いたふうに捨てれば心も痛まずにすむ、か。
 梅雨直前。最後の爽やかな季節が過ぎていく。ああ残念。昼間三〇度を超しても日陰は涼しいし、湿りのない爽やかな風が抜ける。夜には気温はぐんと下がる。強い陽射しと不快感がまだ重ならない日々。木々は枝を葉を広げ、緑濃い深い影をつくり始める。草ぐさは暴力的なまでの勢いで伸び続ける。植えたばかりの野菜の蔓にもういくつもの花がつき、小さな堅い実がひっそりと葉に隠れてふくらみ続ける。ここが亜熱帯に近いアジアであることを確信させられる夏がくる、その直前の日々。

 

菜園便り九四
六月一日

 父が、奥の庭の枇杷を摘んできてくれた、今年初めての枇杷だ。「水産高校の横を歩いていて」そんなふうに父の話は始まる。門の脇に枇杷が落ちていて、生徒が持ってきたのだろうか、今時の子が食べるのだろうかと考えつつ、ふと見上げると、そこに大きな枇杷の木があって、たわわに実がなっていた、ということだった。今まで何百ぺんも通ったのに、気づかなかった、でも、それで奥の庭の枇杷を思い出して、行ってみたらもう色づいていた、高いところのがもっと熟れているけれど、脚立がないと無理だと、八三才の父は残念そうだ。でも結局、危ないから止めてくれなんてことばは無視して、父がその都度残りも摘んできてくれるのだろう、脚立や時には屋根に上ったりして。小さいけれど果実の甘さと酸味のあるおいしい枇杷がそうやって食卓に届く。
 メロンに典型だけれど、当たりはずれの多い果実は、失敗すればサラダにすればいいと、遠い昔マウザーさんに教わっていらい、あまり気にせずに買えるようになった。リンゴも、パパイヤも、キウイも、そして枇杷も、まずかったら、甘みが足りなかったら、サラダだ。オリーブオイルと酢が、果実をひき締め、適度な甘みを引き出してくれる。塩や酢の力と、混ぜたりあれこれしたりで柔らかくもなる。
 海側の庭のグミは一粒だけなった。赤くて大きい実だけれど、一粒だとさすが摘めなくて、ときおりあの銀色に光る葉裏の陰の鮮やかな色を見る。舌の上のざらっとした感覚、ウッとくるときもある、酸味、濃い甘さ、大きな種の筋々が唇をなぞりながらはき出される、舌の上のますます耐え難くなるざらつきを押さえるためにも、いっそう熟したどろりと柔らかく甘い一粒が探される、指に潰れそうなそれを啜るようにとりこむ、唾液で濡れた唇を滑り込み口腔にはじけ、喜びが広がる、かすかな渋みがいっそうの味わいを深める。こんな果実誰が見つけたのだろう、そうして改良するほどの情熱をどうして持ったのだろう、色だって周りがざらついているから、「ルビーのような滴り」からはちょっと遠いし、同じように粒々にざらついた葉のテキスチュアや銀にまぶした光は美しくて魅惑的だけれど、たぶんそういう葉裏に点在するから、激しく誰かの心を、関心を惹きつけたのだろう、そうだろうか。単に甘いものが少なくて、この甘みでも感動だったのかもしれないし、樹木だから野いちごより管理しやすくて、安定していて、それに、以前はなかったのだろうけれど、日本の果実は砂糖甘くなりすぎて、酸味や深みに欠けて調理には、つまりパイとかジャムやゼリーには向かないものが多くなったのに、この野生を残す果実はその条件を全部満たして、しかも煮詰めればざらりとした皮も消えて種ももちろん取り出されるし、完璧なものになって、しかも量が少ないから貴重感や珍味性もだせて・・・・となるのだろうか。
 梅は今年もならなかった。父が言うように梅は悪食だから、しっかり肥料を与えて手入れしないとだめなのだろう。実がならないということは、花も咲かなかったということで、あの香りも冬の枝に点在する輝きもないということ。でも父が散歩の途中で失敬してくる天満宮さんの梅で今年も醤油漬けはできた。もう3週間、そろそろ食べ頃になってくる、醤油はドレッシングとして長く使える。青い梅をそのまま置いておくとだんだん黄色くなり赤みがさし、甘い香りがたってくる、熟すとそのままでも食べられる。甘みのないアプリコットのようで、でも皮の歯ごたえや苦い酸味はそれなりに捨てがたい。こんなふうにも食べられるのを教えてくれたのは父だ。


菜園便り九六
六月一六日

 曇った日には不穏が見える・・・なんてつまらない冗談はよして、でも、薄曇りの日、空と海が同じ透んだ灰白色に覆われて、遠くの海岸や山も霞み、水平線もとけ込んでしまうと、ほんとに、奇妙な平たい輝く球体のなかに取り込まれているようで、でも、そこはすごく無限に広くも感じられて、たぶん全てのエッジや境界が曖昧なために包まれて閉じこめられて浮いているような感覚と、視界が曖昧に隠されることでどこまでも恐いほど果てしなく続くように感じられるからかもしれない。心に直に通底してしまうような不思議で美しい風影。
 湾のように取り囲まれた遠浅の海岸、波もない穏やかな海面が表面張力のようにわずかに膨らんで盛り上がり、波打ち際でふいに小さくくだけて光り、粉々になった水の透明な断面を見せて、またすっと吸い込まれるように消えていき、そしてまた小さなしぶき。海は雲に隠れた太陽をその深みの底でだけ正確に映すかのように、表層の真珠色の偏光のずっと下で様々に彩られて揺れる。見えない陽光は果てしない乱反射を繰り返して、白濁して柔らかい、でも微細な棘を隠し持った光となって大気に溢れ、眼の中に飛び込んでくる。思わず細めた眼に、風景の、世界の輝きは一瞬大きくゆがんで真っ暗に暗転し、次の瞬間にはもう何事もない凡庸な眺めのなかに収まっていく。
 続いた雨と暑さで、菜園の野菜は数時間単位でぐいと成長する。胡瓜やゴーヤの蔓は透きとおるような先端をくねらせて一気に伸び上がり、からみつく。ルッコラはいよいよその緑を濃くし、葉を厚くし、押し合って繁茂する。やっと芽を出したバジルもたちまち三葉、四葉。今年は茄子もうまくいっているようで、どの株も小さな実をいくつもつけ始めた。トマトはそろそろ色づき始め、胡瓜の黄色い花もあちこちに見える。
 そんな穏やかで静かに輝くような日にも、あれこれ考えることは少なくない。読んでいた本や、届いたメールが、生きることのしんどさや残酷、そして小さな喜びを語る。それは誰にもどこにもあることだけれど、それが真摯な、長い内省の果てに語られるものであるとき、ぼく自身のなかの異和や屈折とも反応しあって、かすかなでも長く続く共振となって震え続ける。例えばそれは誰かの痛みや苦しみであり、それらを呼び込む病や死や、偏見や疎外や、社会的な差別であったりもする。
 きちんと考えないと、この世界を覆っている考えや感じ方のなかにぴったりと収まって、世界そのものでしかありえない。もちろん世界の中での「否定」も同じことで、そうやって世界を補完し続ける。整合的な論旨に頼りすぎ、ある規定された方向で、その枠組みの中で考えを進めると、やはり、世界そのままの、「知」、もっといえば<知識>の内に取り込まれる。「近代」としての狭く、効率的な解析とその敷衍でしかない解釈のひとつが世界の普遍として全ての上を覆っていく。そのずっと向こう、またはずっと手前にあり続けることにたどり着く、改めてのように手に取ることはもう不可能かと思うくらい難しくて、でもほんとはあっけないくらい簡単なことなのだろう。そういう意味ではだれもがすでにして、今も、その中にいるのだろうから、世界を少しだけ相対化して押しやれば。

 

菜園便り九七 ??????
六月二二日

 六月中旬、入梅。かつてはこの頃が田植えの季節で、登下校の道のまわりも蛙の切れ目なく鳴く声に取り囲まれ、一面の同じ光景が続いていた。今は四月の田植えの稲がすでに三〇センチにもならんと濃い緑の太い茎を伸ばしている。そんななか、わずか二、三枚の田に水がはってあり、頼りなげな細く小さな苗のふわとした影を映している。どこか落ち着かない、奇妙な光景に見える、意識することさえなく納得していることと、突きつけられてもうまく収まりかねることが同時にあるような。そんななかに白や灰色の鷺が優雅に旋回しながら下りてくる、ときおりグエッとおぞましい声で鳴きながら。
珍しい六月の台風はしっかり跡を残していった。雨の少ない強い風台風で、だから全く何の影響もなかった所も多いけれど、満潮時の波が防波堤に打ちつけ、高くあがり道路にどうとうち寄せ、風に乗って庭へ、菜園へ降りかかった。雨がないので直接潮がかかって、野菜全部をうちのめした。風が収まってホースで水をかけて洗ったけれど、そんなことではやっぱり全然だめだった。その日はかろうじてまだ緑の色や青い実を見せていた野菜も、翌日には葉物のレタス、ルッコラ、パセリ、バジルが融けて消えてしまったように縮こまり消滅し、胡瓜、茄子、トマト、ゴーヤ、ピーマンと、全部が芽や蔓だけでなく葉も枝も潮垂れ枯れてしまった。もしかしてまだ幹や根は残っているかと、毎日水はかけ続けているけれど、おそらくはだめだろう。これから収穫というときだったからいっそう残念だ。ルッコラ、バジルはあらためて種を蒔いたから、またじき伸びてくれるだろうが、ディルやタイムはもう種もないから、今年はお終い。表側の庭の、直接潮がかからなかった紫蘇も全部消えたのには驚いた。風で飛んできた飛沫が柔らかい葉をひとつひとつつぶしていったのだろう、すごい、というか・・・。
 台風の直前に森さんから、近所からいただいたという梅が3キロ以上も送られてきていたので、台風をはさんで漬け込む込むことになった。黄色くなり始めた、ベストの状態をちょっと過ぎたかなといった梅で、なかなかおいしそう。水気を丁寧にきって、塩と35度の甲種焼酎で漬け込んでいく。最初の、梅酢があがるまでの段階がいちばん神経を使うところ。漬け込む樽や(プラスティックだ)道具類をよく洗い熱湯消毒し、しっかり気を配る。梅酢があがるまでのあいだは、解説書の言う「ご機嫌伺い」をくり返し、用心し、ことに備える(要するに、黴やなんかの兆候を素速く見つけて対処するということ)。昨年はそれで早めに処理して事なきを得た。すでに漬けていた一キロほどの梅は順調、透明な液(梅酢)がたっぷり溢れて梅全体を覆っているので、重しを減らす(こういう細かいあれこれもある、難しい)。このままうまくいけば今月末頃には両方いっしょに赤紫蘇を漬け込むことができるだろう。柔らかくなりすぎていた梅は砂糖と焼酎を加えて、梅酒にする。果実酒は手引き書を含めて多様でカラフルで興味をそそられるし、漬け込むのも楽で楽しいからついやりたくなるのだけれど、実際できあがってみると香りや色に小さな感動があるくらいで、たいしておいしくもなくて、人に勧めてもせいぜい一杯までで、だいたいは婉曲に断られることの方が多いし(ぼくだってそうだ)、いつまでも残ってしまう。それで「熟成七年もの」とか、「なんと一二年もの」とかあれこれ言ってみるけれど、あのやたら甘ったるい、香りを強制するような味わいにはちょとうんざりが正直な気持ちだろう(砂糖を半分くらいに減らしてみたり、全く加えずに漬けたりもするけれど、結果は、つまり飲まないということはほとんど同じだ)。でもやっぱり梅を捨てるには忍びないし、ジャムよりはいいかと梅酒になった(なんたって楽だ)。それで、つい(そうだろう!)、もうひとつ珈琲酒を漬けてしまった。あの手引き書がいけない、カルワとかベイリーズアイリッシュクリームとかまでつい思いだしてしまった。そもそもああいった食後酒をのむ習慣やパーティが失われて久しいし、もう帰ってくることもないのに。

 

菜園便り九八
六月三〇日

 今日で六月も終わり。六月二二日は父の誕生日で、いつものように赤飯と尾頭つきの鯛、と予定していたら、今年は航空会社のバースデイ割引での北海道旅行を札幌にいる姉から薦められ行くことになった。リストラで失業中の兄もいっしょに。出発は二〇日、それで定番の夕食は一九日の夜になった。いつからこういうお祝いの夕食の習慣になったのかは覚えがないけれど、母がつくりあげた新しい伝統だったのだろう。ぼくらも子供の頃、七五三などでは鯛のお頭つきの焼き物(子供には煮物が多かった)と赤飯がでていた。鯛は子供には淡泊すぎる魚で(ちょっと腹べの癖もあるし)、骨も鋭く硬くて人気はなかったけれど、大きいし豪華だし、とにかくありがたくいただかなくては、というものだった。あの頃は父が競りにでていたこともあって、とんでもない大きさの鯛がでることもあった。きっともてあまして、残りはまた火を入れてみんなでつついたのだったろうか。父と母のふたりだけになってから、母のそういう伝統が復活し、誕生日の鯛になったのかもしれない。
 とにかく、鯛だ。ぼくは刺身にひいたのは好きだけれど、未だに新鮮さやうまさの極みとも言える洗いは苦手だし、塩焼きがいいのはわかるけれど、あのちょっとした臭みや苦みはしんから好きとはいえない。でもとにかく手頃な大きさのがでていて色もいいし、塩焼きにする、蛤の吸い物をつけて。こういった行事ものの定番は基本的にそれほど面倒でないし、味そのものもよりも、形やことば、あるということが先行するから楽と言えば楽だ。おめでたい鯛、お祝い、おいしい、感謝、となる(と思う、たぶん)。まあ、世界のあらゆることがそういう思いこみとことばとで成り立っているのではあるだろうけれど。
 生ハムとパパイア、スモークサーモンとケッパーの前菜、ラムの香草焼きにつけ合わせとして花ズッキーニ揚げ、馬鈴薯のニョッキ、サラダはアンディーブと空豆、オレンジのパプリカでドレッシングはフレンチ、デザートは・・・・と考えるよりは(もちろんつくるよりは)ずっと楽だ、たしかに。
 ドレッシングにはイタリアンパセリを刻んで入れたほうがいいかななんて考えていて、萩原さんのベランダ・ガーデンの揚羽蝶を思いだした。我が家の菜園の伸びきって花が咲いたパセリを、香りと花の珍しさで、他の野菜といっしょに届けたら、それに小さな卵が着いているのを見つけたとのことだった。卵を見つけるだけでもすごいけれど、それを揚羽らしいと推測するのもすごい。ベランダの鉢のパセリに移したら孵化し、ぼくがお邪魔したときはみごとな幼虫になっていた。たしかに蝶系で、黒い縞もあり揚羽の系統みたいだった。鉢のパセリを食べ尽くしても足りなくて、またどっさり買ってきたと聞いたけれど、動きが鈍くなり、どことなく透明感がでてきて、先を少し傾けた、いかにも正しい起立の姿勢といった態勢のサナギになっただろうか。
 姿を変えるとき、特に成虫としてでてくるときに偶然で会えたときは、蝉や蝶、ほんとに撃たれたような気持ちになる。誕生、何かが生まれる、つまり新しいものになるんだ、これからはこの形で生きていくんだというマニフェスト(宣言)のようなことが、それは徹底してひとりになれる、個に閉じこめられるということでもあるのだろうけれど、そういうことがとてもリアルに届いてくる。大げさに言えば輝きと暗さ、こことどこか、生と死ということでもあるのだろうけれど。どちらが輝きで生なのかはもちろん意味のない問いだけれど。

 

菜園便り九九
七月九日

 梅雨の晴れ間、久しぶりの洗濯をしながらいつのまにか鼻歌を歌っている。母もいろんな家事をしながら口ずさんでいた。彼女のは、自慢なだけあって、高い細い声でのきちんとしたハミングとか歌唱とかいえたけれど、ぼくのはなんだろう。 
 唱歌「故郷」が口をつく。いかにいますちちはは、つつがなしやともがき、ここはぼくの生まれた地で、親族のつながりもあり、父もいる、嫌な従姉妹もいる、あめにかぜにつけても、おもいいずるふるさと、気がつかないうちにもごもごと始まっていた「故郷」は、でも思いもかけない情動を呼び寄せる。不意に動けなくなって、ぼくは干しかけていた洗濯物を手に立ちつくす。いつのひにかかえらん、もちろんすぐにぼくは解き放たれて単調なしぐさを続けていく、ハンカチを干し、Tシャツを干し、Yシャツやアロハを干し、パジャマを干し、ズボンを干し、最後に下着や靴下をまとめて干す、みずはきよきふるさと、やまはあおきふるさと、ゆめはいまもめぐりて、わすれがたきふるさと
 ここは海のそばのひなびた町で、少し歩けば田園が広がり、遠くには高くはないけれど山並みもある。ここがヒガシアジアのフルサトでなくてなんだろう、ましてや自分の出自の場だ、一七才まで暮らして、そうして今もまた暮らしている。それなのに、どうしてさらに故郷を思うのだろう。ここより他の場所、永遠に遠い、どこか、夢のなかの、または足掻くように希求された彼方。それは、ないからこそ求められたといったレトリックを遙かに超えて、いつもいつもどこか深いところで手探りされてきたのだろう。そうしてそのどこかがここであることもまた、すでに知られている。ここも他も、同じひとつのことの両面でしかない。そういう、こことか他のとかいう発想そのものが変わるしかない。今とかかつてのとかいう時間の概念が問い返されるしかないように。過去、現在、未来、あまりにも単直な線的な流れ、そのとってつけた整合性。まるでできるだけ皮相に整合するためにだけ選ばれたような区切り、そうしてそのとおりなのだろう。ささいなまとまりと合理、単純な始まりと終わり、安直な達成、裁断、そんなものものために準備された深みに欠けた発想と貧しい展開。こんなものに振り回され人は人を傷つけ殺戮し愛し産んできたのだったろうか、ほんとにそうなのか。
 世界に、ただ存ることで人を傷つけ、傷つけられてしまう。わからないこと、受け止めきれないことでの不安が怯えを呼び、それはたやすく怒り、憎悪へと転化し、そうしてそれらの行き着く先の殺意へと駆り立てられてしまう。そんな存り方への嫌悪と恐怖。そうして、そいう存り方に従わない限り生きていけないという掟のなかに誰もが自らを閉じこめ、閉じこめられているような存り方。
 そういった存り方から、関係から抜けて、存ることそのままで、さらには存ることそれ自体すらも受け入れられ、同じように他の存り方をやすやすと受け入れられる、そんな関係を、存り方を夢み、見えないままに手繰っていく。求められているのは、そういう関係と、そしてそれがなりたつ場。関係といったことばが意味を失うような「関係」の存り方。おそらく時間と場が同時にあるような、ごくあたりまえのはずの、でも今のぼくらにはずいぶんと遠く隔たって感じられる存り方、つまり場。ささやかな存在であることですでにして十分に全てであること、つまり何ものでもないこと、何かである必要などないことと同じこと。

 

菜園便り一〇〇
七月二二日

 台風で全滅して土がむきだしの菜園にも、新しく蒔いたルッコラが芽をだして伸び始め、バジルも少しずつ双葉を開き、うれしいことに春菊のこぼれ種が今になってあちこちに芽をだし始め、先日難しい用件で五年ぶりに出かけた東京の森さんや小林君の市民菜園にも同じように春菊があったのを思いだしたけれど、その時は帰郷する直前に沖野や小川さん、それにポール・マッカーシーにもどうにか会うことができ、いろんなこともあるていど落ち着いて家に戻ると、母の命日には誰もも来なかったと父が言いつのり、でもそんなに言うのなら生きてるときにこそだいじにすればよかったじゃないか、今を大切にすればいいんだと言いたくもなり、それでも父が姉の住む札幌にでかけて、義兄や姪の知美や智春とも楽しく過ごせたのはなによりで、そんなふうに時は流れていくのだろうし、半年以上なかった水平塾も久しぶりに開催されてうれしく、本村さんや千鶴子さん、それに珍しく山から戻っていた萩原隆さんには、先日幸枝さんの所でいっしょに手巻き寿司のご馳走をいただいたおりに会っていたけれど、原口さん、高倉さん、松井さん、浴口さん、それに中富さんは久しぶりで、片山さん、坂井さんも参加、大坪夫妻、森崎さんにも会え、斎藤秀三郎さんもいつものように生真面目に出席されていて、メゾチント銅版画の制作も進んでいると聞けて安心できたし、天神の貘にも時々は行っておられるとのことで、その画廊と茶店をきりもりする小田さんとは最近はゆっくり話す機会もなくて残念だけれど、そこには大勢の美術家だけでなく小林さんのようなジャーナリストもくるし、パーティなんかもあって以前は頻繁に出入りしていたのが最近めっきり減ったのは、「現代美術」やその作家たちと距離ができつつあるからなのかもしれず、じゃあこれまでは近かったのかい、というような声がニヤッと笑って坂井存さんあたりから聞こえてきそうだけれど、外側からあれこれ解析したり、何かのために解説したり代理したりするつもりはなく、新鮮な輝きがあり改めて生きることのできる場だったからいたのだろうし、今さら、狭い業界意識とそのなかでの上昇志向、「美術」さえ相対化しない充足なんていっても意味のないことで、この世界への異和を抱えどこか壊れているから表現に走るのは自分も同じなわけであり、元村正信も険しい隘路をきわどく渡っていっているのだろうし、結局そういうことはひとりでやるしかなく、そういう孤絶のなかででもやはり「他者」がいることの不思議にうたれるところから始めるしかないのであり、その「他者」は「社会」と同じく誰ものなかにすでにして含まれていて、それに気づき驚きと共に納得するのは、やはり「該当者性」という自身の抱えこんでいる抜き差しならないことがら、それに対しては往々にして侮蔑や憎悪が投げつけられるけれど、そこを切り捨てたり逆に怒りで覆い尽くしたりせずに受け止めつつ、それが実体のないものだ、観念としての「幻想」だと確認することで、内面化された屈折をも抜けていく方向は見えてくるし、世界はあらためてゆっくりと開かれ始め、そんなとき、この目の前に広がるただただ穏やかで光に満ちた津屋崎の海がどういうふうにその姿を見せるのかは誰も今は語ることはできなくて、そこの古びたかつての旅館、玉乃井でやる時おりの集まりには様々な人が来てくれ、「場の夢・地の声」というたいへんだったけれど充実した現代美術展をやったときに知り合った余田さんもみえるようになりそのつながりで、川内夫妻、渡辺さん、西田さん、その知りあいだった芹野夫妻と広がっていき、前崎さんもみえるようになり、でもいっしょに企画した柴田さんはもう亡くなられてしまったし、会場でとりとめのないことを話した従兄弟の和彦さんもなくなり、宏介さんももう退職間近で、そういうあれこれを含めてぼくの今を「菜園便り」としてメール通信で書き送ったりしていると、時として忘れがたい返信も届き、かわなかのぶひろさんの冷や麦の逸話は、人が一生抱えていくしかないものは誰にも率直に伝わるのだとわからせられるし、重たいことがらがおかしみにくるまれてさらりと語られる時には、端正な勁さと品格を持つのだろうし、生きてきたことの総和はどこにも積み重なっていて、隣町にすむ小林君が始めた焼肉店に顔を出すと、中学時代の武藤先生や旧友が集まってうれしい驚きであり、たまには外す羽目もそれはそれで楽しく苦く、ばったり図書館であった山本さんが借り出したヴィデオがすばらしかったと夜半にわざわざ持ってきてくれたそれは、台湾の侯孝賢製作、呉念眞監督の『多桑(トウサン)』で、地味で静かな、美しいけれどけしてスタティクにもスタイリッシュにならない映像のなかに、生きること死ぬことがあっけないほどの単純な文字でしかし岩に穿つようにくっきりと記され、こんなふうに映画は、生はありふれて存れるのだと感嘆しつつ、部屋の隅の積み重なったヴィデオの山がまた膨らんでいき、蔡明亮侯孝賢、小津、タルコフスキーヴェンダース、山中貞夫、キアロスタミなどなど好きな作家たちの作品の他にも、少しパセティクに語る『大阪ストーリー』もあり、ロッド・スタイガーやドレイファス、最近のはすごいなと思うポルノグラフィもあり、別な一角にはCDが層をなし、モーツァルトだけでなくバッハ、ハイドンシューベルトちあきなおみキース・ジャレットやチックコリアやコルトレーン桑田佳祐、パバロッティ、中島みゆき、それに亀井君がくれた沖縄の唄を聴いたりするのはそういった何もかが詰め込まれた、寝起きもする4畳半で、そこには以前集めた李禹煥加納光於、難波田龍起などの版画やタブローの他にも、90年以降知り合った母里君や大浦さん、草野さん、二宮君、伊藤マン太郎、江上さん、原田君といった作家たちの作品が並んでいるし、もう「作品」なんて概念はとうに過ぎてきた宮川君、外田さん、鈴木淳の表現もどこかに紛れているし、久利屋グラフィックで刷ってもらった九三年の元村展のシルクスクリーンの版画は今も壁にかかり、机の上のパソコンには近藤さんからの花火の会欠席の素っ気ないひとことを含めた、これまでのメールがぎっしり詰まっていて、そのせいもあって状差しの郵便は最近めっきり減って個展の案内状以外には久美子さんからの近況を知らせるハガキだけ、書棚には小川国夫や村上春樹高橋源一郎奥泉光それに大友克彦や岡崎京子と並んで荒川や平出隆塚本邦雄、春日井、石川不二子などの現代詩や短歌もあり、沖野隆一詩集『青空病』も数冊並んでいて、恥ずかしながらというかんじでぼくの『フリーウェイの鹿』もあり、「水平塾ノート」も一六号まで揃えてあるし、新しくだした「メモランダム」一号もあり、八〇年代の「麒麟」も揃っていたりするのはかつての名残りでもあって、その頃の友人とのつき合いからはいろんな影響を当然にも受けていて、当時沖野を中心に宮田や三島もいっしょにだしていた『ピストル』という飛行商会の同人誌も揃っているし、福田からもときおり電話があったりするけれど、でも引き出しのなかのパスポートはもう期限が切れていて、最後に使ったのはマウザーさんの告別式にデトロイトに行った時で、あれからもうずいぶんたつけれど、その後母も死に松永さんも亡くなられて、思いだすことは少なくはなく、時間と共に激昂は鎮まっても、でもほんとのところ全ては深い場所にそのまま手つかずにずっと残り続けているのだし、それは死や喪失への痛みだけでなく、死に続ける人が伝えてくる、生きることの意味であり、その豊饒と輝きをこうして日々浴びつつも、でもどこかでしらじらとうすく広がってくる嘘々しさや厭わしさに感応し染められていくのもまた人の真実だろう。

 

菜園のまわりで 1 ??????????

 小さいときから馴染んでいて、でも名前もわからないし、周りにきいても誰も知らないような植物は、特に野の草花に多いけれど、子供の頃に住んでいた家の庭にあって、今の家の庭の隅にもちょっとひねこびてある水仙大の朱色の花が群れて咲く花もそのひとつだった。新聞に゛花おりおり゛という写真付きのコラムが載るようになり、ある日、とうとうという感じでその花もでてきた。ああこれだと、この花にもこんな名前や来歴があったと懐かしくうれしくなる。全く聞き覚えのない「モントブレッチア」というのがその名で、でも「ヒメヒオウギスイセン」という名前も持っている。ひめ緋扇水仙、だろう、3分の1開いた扇。アヤメ科。グラジオラスのような葉と解説にもあるけれど、花の付き方も小さなグラジオラスといったふうだ。強健な球根植物、野生化、ということばどおり、とても強くて繁茂し、だから我が家ではあまり愛される花ではなかった。それに小さい頃は自分の庭でできるものというのは、なんとなく軽んじてしまってもいたし。今はどちらかというとその逆で、頂き物でも庭や菜園でできたと聞くと、即25点プラスくらいになる。
 小学生の時、何の事情だったのか、教室に飾る花を持って行かなくてはならなくなり、もちろん買ってはもらえず、庭のこの花を新聞紙にくるんで持たされたときの恥ずかしさや小さな怒りの重い気分は、探ってみれば今もどこかにきっと残っていると思う。友だちも誘わず、ほんとに陰鬱な重い足取りで学校に行く、何も見えず聞こえず、花と嘲笑のことだけでいっぱいの頭での道のりはさぞ長かっただろうと、自分のことながらなんかいじましくなる。今なら、「何でそういう気持になってしまうの?」と問いかけて、すごく可愛くてきれいな花だし、みんなんも先生も喜ぶよと。それに誰もそんな花のことや君のことをあれこれ考えてはいないんだよ、思いつきの気分であれこれ言ってるだけだよ、君にもそういうところがあるだろう、「フン」っていうぐらいの気分でいいんだよ、「いいだろう」って自慢げにいえばそれで、「バッカ」とか「きゃーきれい」とか返ってきて、それで終わりさ、そんなもんだよ、と、言ってあげたいし、そもそもそういう発想になんでなるのか、もっとフツーに楽にしてればいいジャン、子供の特権だよ、とかも言ってあげたい。
 もちろん、教室では先生が「きれいね」と言ってくれて、そうなるとこんどは逆に鼻高々で、みんなが褒めそやさないことが不満で、友だちが愚かに思えて、先生が一度しか言わなかったのがもの足りなくて、でもさすが自分で言うほどの厚顔はなくて、なんというか、気持ちが急上昇急降下し続けてそれに連れてきっと顔色や体温も上下するたいへんな一日だったのかもしれない。ほんとのところは、誰もがそうなようにぼくもたちまちに花のことなど忘れて、いつものようなはしゃいだり泣いたりの一日をまた送っただけだったのだろう。でも、子供があんな気持ちでいることは、親も先生も誰も、もちろん知らないままだろうというのは、微かにでもはっきりと感じられてもいた。
 思いだすと胸が痛むといった、どこか甘い苦さのあるようなことではなく、ほんとにどうしようもなく辛いこと、生きるか死ぬかといっことは、けして開かない心の奥の奥にぴったりと閉ざされ隠し込まれるから思いだしようもなく、思春期以降の愛や性にまつわることは、激しくおぞましいし、切り刻まれるくらい苦しくて辛いけれど、でもそれは同じ大きさの喜びが裏に貼りついていて、またはその予感があって(実現するとかどうかとは無関係に)、だからほんとに深く傷ついたことというのは、誰にも知られず、自分だけに小さく自覚されてでもそっとしまい込まれた、微かに記憶の影のように今も残る、そう少なくはない、静かでささやかだったできごとなのだろうか。

 

菜園のまわりで 2 ????????????

 庭にも山にもどこにもあって、繁茂しすぎて困ってしまうけれど、根が深くて取り除くのは難しいし、お正月には使うものだから、それにわりと形や色も好ましくて、ついそのまま茂にまかせてしまっている羊歯の類があって、その名前も新聞のコラムで見つかって、それは耳にも馴染みのある「ウラジロ(裏白)」だったけれど、別名で「モロムキ(諸向)」の名も出ていて、ああこれは正月の名だと思い至った。このあたりでは、モロブキと呼ばれていて、ムがブになるのは、寒い(サムイ)と寒い(サブイ)にもあって、同じ変化だろう。
緩いくさび形の基本形が3回繰り返されて全体を構成しているのも
正月にはこの諸向を2枚敷いた上に、さらにユズリハの葉を2枚敷いて重ねて鏡餅を乗せ飾る。玄関脇のカウンターにいちばん大きな重ねを八方に乗せて飾る。


菜園のまわりで 3 ????????
10月28日

 朝から強かった風が、昼に近づくにつれますます激しくなってガラス窓をガタンガタンとこわいほど揺すり、満潮近くなって潮がどうと岸壁に打ちつけてしぶきとなって道路に降りかかり、飛沫は煽られて菜園に降り注ぐ。
 また塩害で野菜が全滅かと危惧しながら眺める海の上、羽を止めたままの鴎が鋭角に切り込むようにさっと視界をよぎる。海にぶつかって跳ね上がる風に煽られ、下から抱え上げるようにぐいと押し上げられて、ふいに重力からも自由になったようにふわと羽ばたいて飛び去っていく。
 今年は台風の潮で2度も全滅し、3度目の種でまた伸びて繁り始めたルッコラやバジルにディル、それに3週間ほど前に種まきして順調に伸びている冬野菜の大根やラディッシュや春菊や空豆やが、また全滅しかねないほど風は激しくなり、波は荒々しく舞い上がり、潮はまだまだ引きそうにない。昼過ぎると空まで夕暮れのように暗くなった。1時間おきに2度ホースで水をかけて、潮を洗い落としてみたけれど、今までの経験ではあまり効果はなかったから、またかと半ば諦めかけていると、空が真っ暗になりぶちまけたような土砂降りになった。今度は慌てて家の中の2階の雨漏りの養生に走って、でもそうこうするうちに雨も風も収まり、潮位も下がり、2時をまわると陽射しが戻ってきた。
 ひとつだけ取り外した簾の後の空間に、まだ灰色に濁りながらも表面に陽光を反射して輝く海と、久しぶりの雨に洗われた緑の草木が見える。まだらに雲が重なりあってぼんやりとくすんだ空から、秋の傾いた陽射しが真っ直ぐな光を届けてくる。内側まで黒く濡れたガラス窓をつき抜け、畳の上に揺れる影を落としている。
 その光の揺れを受けて、漆喰の白い壁にも光がかすかに揺れる。鴨居にはグレーの霜降ツイードのジャケットが掛かっている。先日5日ほど寝込んだ時に、不意にやってきた友人が、自分はもう着ないからあげると置いていったものだ。パジャマのまま玄関口で二言三言、もちろんお茶も出せなかった。彼女の好みらしく、男仕立てで、ザックリとしてでもウエストの少し絞ってある英国風のジャケットだった。
 太宰が夏用の着物地をもらったから夏まで生きていようと思ったような大仰な気持ちの高揚はないけれど、もう夜には暖房のはいる列車もある季節だから、今晩から着てもおかしくはないのだろう。


12月4日

水仙が咲き始めた。我が家のはいつも遅いのに、今年はあたたかいせいか、例年より早いし、数も多い。青白くひょろりと伸びすぎて途中で折れるということもなく、すっくと立って花をつけ、匂いを放っている。建物のかげの目につかないすみにも咲いている。八重はまだのようで、一重で中心に黄色いカップが着いているふつうのもの。

今年は父が芙蓉を根本の50センチくらいだけを残して切り倒したこともあって、窓の外がすかすかで落ち着かない。グミの葉が潮で全部落ちているし、椿も虫が食べ尽くしてやっと新しい葉が出そろい始めたくらいだし、剥き出しになっているような気がしてしまう。すっかり低くなって、でもまだかなり強い陽射しが部屋に差し込むこともあって、うすいカーテンを半分ひくことも多い。


月見草の天ぷら ???????????
  庭の  をぷつんとちぎって、衣をつけてあげた天ぷらがその夜のメインディッシュで、それは火を使わない手間のかからない夕食が多いここではご馳走なのだったけれど、フェルディナンドはお義理でひとつつまんだだけで、それはあんまりだとつい思ってしまってそのお詫びも兼ねるような気持ちもすっこしあったし、その珍しさと形のよさに3つまで食べて、でも香料を飲み込んだようなげっぷに一晩悩まされることにもなった。それはドイツ南のマークブライトという村で、キッチンゲンの近くだったけれど、つくってくれたのはヒーブルさんで、彼女はフェルディナンドの従姉妹にあたり、結局4日間泊めてもらったのだけれど、フェルディナンドのお母さんの旧姓はブラウンで、だからちょっと不思議に思っていると、ヒーブルさんも嫁いで今の名前になっていて、そうして3人の子供たちもみな家を出て、夫もなくなった今、ヒーブルの名前でひとり暮らしているのだった。けれど、
 着いた日、広い菜園になった庭のある白い壁の家へと垣根の切れ目からゆっくりした坂を下りていったときに心を占めたのは、すぐ下の、後で農具類を入れた小屋だとわかった小さな煉瓦小屋の軒下にぴったりと計ったように正確な並びで積み上げられた薪でなく、子供の頃時々遊びに行った稲本の従兄弟の家のことだった。農家だったそこは広い前庭を土塀が囲みその切れ目の入り口から外へと、ゆっくりした傾斜の坂になっていて、すぐ前が川で、慣れない小型バイクを押しながら出ようとして弾みがつき、かろうじて土手のイチジクの木にぶつけてとめたこともあったりしたけれど、その入り口の坂の印象が似ていたからだったのだろう。ヒーブルさんの庭で採れ始めた苺は、小型の少し酸味のある古いタイプの苺で、それが夕食にもだされていて、その酸味やいびつな形が、稲本をあらためて思い起こさせたこともあって、あの場所の記憶や印象が後から強められたのかもしれない。

 


 小柄で黒い服を着て、大きめの黒い靴をカツカツと鳴らして歩くヒーブルさんは

 


菜園便り一〇一
二〇〇四年九月三〇日

 「菜園便り一〇〇」が二〇〇三年の七月だったから、一年以上たったことになる。一年でかわったこともあるけれど、まるで同じまま、といったことのほうが多い。去年の秋は個人的にはいろいろあって、ちょっとしんどかった。年を越してしまうと、今度は生活のあれこれがたいへんになって、だからそれに追われて、あまり考えこまずにすんだところもある。貧しさが人を助けることもある、か。
 「菜園便り一〇〇」は百回記念みたいな気持が混じって、面白半分で「現在の生活総集編」みたなことをやってしまい、一行に簡略にまとまる自分の現在に唖然としてしまって、書くことやメールを送ること、そういったこととの関わり方なんかも妙に考えこんだりしてしまって、以後中断してしまった。「菜園のまわりで」という形で書いたりもしたけれど、中途なままだった。以前のままではやれそうにもなく、でもスタイルも含め全く新しい形で始める情熱もなく、といったような。
 最近手紙のやりとりを始めた糸島の板橋さんからの便りが、住まいのある場所「SmallValley」についてや生活のあれこれを知らせてくれるもので、ああ、こういうのがいちばんうれしいし、自分が書きたいことなんだと改めて思って、だから以前と同じ形でもう一度始めようと決めたところもある。いつの間にかそういうことをまた書き始めていたということでもあるけれど。
 海に面した庭の菜園はまだ健在だけれど、何度も潮や台風で痛めつけられて、周りの竹の柵はすっかり潰えてしまったし、今年何度も来た台風で野菜は全部なくなってしまい、剥き出しの畝だけになっている。先日、もう一度ルッコラとバジルの種を蒔き、その芽が出始めたところで、レタスとパセリ、芽キャベツと白菜の苗を少し植えたら、最後の(そう期待したい)台風がきた。ついに柵がばったり倒れて死に絶えた他は、野菜にはあまり影響が無くて助かった、今のところ野菜は順調、と思っていたら、白菜がダンゴムシに完膚無きまでに食べ尽くされてしまった。
 今年の続いた台風は九州中部を横断することが多くて、そういうときは潮の被害は少ないけれど、風向きのせいで建物への被害は大きく、ちょっとたいへんだった。八月三〇日の台風では別館の使ってない玄関の四枚戸が吹き倒され、風と雨が雪崩れ込むのを父とどうにか立て直し、緊急のトタン板で塞いだけれど、ずぶ濡れになり戸ごとよろけたり倒されたりしながらだった。まるで映画だなとおかしいような、ちょっとヒロイックで、総じてうんざりするような(実はまだ仮の修理のままだけれど)。
 プランターに蒔いた種はしっかり発芽したけれど、畝に直かまきした種はほとんど芽を出さない。今日もう一度蒔いたから、今度はでてほしい。実はあまりあてにせずにコリアンダーとディルも蒔いているけれど、発芽まで時間がかかるし、どうなるか見当もつかない。上手く育てば、冬を越して来年の春まで続いて楽しめるし、海辺の霜のないあたたかさを感謝できる。父も冬野菜の準備にかかってくれたようで、新しい展開が始まった。

 

菜園便り一〇二
一〇月一日

 あまり変化の無かった一年間だったけれど、いちばん大きくかわったのは今年から映画について書く仕事ができるようになったことだろう。隔週で読売新聞の夕刊にコラムの形で映画評を書いている、水曜日。定期的な仕事があることだけでもすごい。映画はずっと好きで見続けてきたから、できればファンのままでいたかったけれど、背に腹は替えられず、まめに映画に通ってはあれこれ無い知恵を絞っている。コラムのタイトルは「文さんの映画をみた日(ブンさんと読みます)」というので、これは新聞社の方からの提案だった。「愛称や通称はありますか?」と聞かれたけれど、一部では小津安二郎のオズちゃんと呼ばれていますなんて、洒落にもならないし、結局、ごく稀にだけれど使われたこともあったブンちゃんで返事したら、こういうことになった。
 せっかくの個人名タイトルだし、エッセイ的な柔らかいもので、ユーモアもたっぷりで洒落ていて、しみじみするものなんて思っていたけれど、もちろんそんな芸当はできるわけはなく、いつものように、地味で暗めちょっとパセティク、になってしまった。まじめに書き始めると、そういう映画にしか興味が持てなくなっていることに気づかされた。それに当たり前といえば当たり前だけれど、ほんとにいい映画ってそういつもいつもあるものでもない。だからみるのはドキュメンタリーが多くなる。少なくとも、映像作家が前もって思いこみさえしていなければ、「ほんと」のことはやはり胸に響く、どこかがうたれる。それは技術とか様式とかとまったくちがうところにある、当然だけれど。ただカメラを構えて撮していても、表現したいことがあるとき人は無我夢中で何かに迫っていて、語っていて、思いは溢れ、それはぼくらに静かに流れ込んでくるし、深々と突き刺さってくる。個人的にはフツーの人の表情や体型が好きなこともあるのだろう。
 いちばん最近みたのもやっぱりドキュメンタリーで、グルジアの作家、あの、といいたくなるセルゲイ・パラジャーノフについての映画だった。彼が最後に取りかかり、葬儀のシーンだけを撮って亡くなった『告白』のシナリオや書簡をナレーションとして使った、伝記的なもので、その複雑で過酷だった人生が語られていた。監督名がゲオルギー・パラジャーノフだったから息子さんかなんかかなと思って問い合わせしたりしたけれどわからなかった。久しぶりにパラジャーノフの作品が断片的だけれど挿入されていてみることができてうれしかった(残念ながら引用部分の映像は色が褪せていたけれど)。
 とんでもなく奔放というか、物語を蹴飛ばして、原初的神話的で奇怪で、豪奢な色彩に溢れ、様式化された動き、細部まで重なりあった物々、映像の中と外の不思議な時間の流れ、そうしてそれらの間に絶えず挟まれる破調が、荘厳さと同時にそれと全く逆のおかしみさえ生みだしていく。とにかくそのめくるめく色彩の横溢に圧倒されるし、生々しい野生の力や誇張された情動に惹きつけられ、そうして静かで牧歌的だったりもするから、唖然とする。
 色彩美、様式とくると誰もがヴィスコンティや三島やを連想して悲劇を思うけれど、パラジャーノフの場合はそれが極彩色のおとぎ話のような、恐くておかしくてでも聖なるものになるから、いっそう不思議さは募る。
 彼の映画に初めて出会ったのはシネ・ヴィヴァンで、「パラジャーノフ祭」という形で上映された時だから、一挙に『ざくろの色』『アシク・ケリブ』『スラム砦の伝説』をみることができた。パンフレットをみると、一九九一年四月の発行になっていて、だから何かの用事で東京に行ったときだったらしい。運がいいというか・・・・。その時にレイトショーでやっていて見そびれた『火の馬』もバウシアターで後日みることができた。結局それ以後、彼の映画をみるチャンスはないけれど。

「文さんの映画をみた日」を添えておきます。

孤独な声(ニコライ・ソクーロフ監督 一九七八年)

呼び起こされるもの、生まれるもの
 だれもがいろんな形で映画と出会い、喜びを、興味を育てていくのだろうけれど、それは途切れることなく続いていて今もわたしたちを誘い楽しませ、豊かにしてくれる。年の終わりに一年を振り返り、最も心に残った映画といったことに思いを馳せた人もいただろうか。ぼくにとってはフランスの奥まった村落と小さな学校を描いた「ぼくの好きな先生」(ニコラ・フィリベール監督)だなとひとりごちていたけれど、一二月の終わりに福岡市図書館ホールで、ロシアのアレクサンドル・ソクーロフ監督の「孤独な声」(一九七八年)を観て、その深さにもうたれた。  
 九九年に奄美島尾ミホを撮った作品「ドルチェ-優しく」もあるソクーロフの二代の卒業制作作品であり、長編第一作。同じロシアの故タルコフスキー監督に捧げられていて、圧倒的なその影響下にある。繰り返し挟まれるモノクローム映像、スローモーション、鏡、流れの下で揺れる植物、火、風、それが揺らす木々、草原。でもどこまでいってもそれはソクーロフの映像そのものだ。どこか厳しさを含んだ映像には一瞬一瞬を凝視させるような力があり、その流れとふいの中断にも引きつけられ魅了される。
 戦場から戻った若者とその恋人、父親、僧侶が描かれていて、下敷きになった小説があるのだろうけれど、その内容は詳しくは語られず、時間的にも飛躍し、複雑な歴史の流れ(17年の革命後の混乱期)や宗教もからんでいて、観ているぼくらは小説的な物語の文脈からは振り落とされていく。でも最後まで映像・映画の内側に留まり続け、その暗さや激しさにもかかわらず全編に溢れる初々しさにも助けられ連れられ、愛や生の再生と復活にたどり着く、映画のなかでたどり着いた人々や、映画をつくることでたどり着いた人たちと同じように。たぶん物語を語る映像の力というのはそういうことなのだろう。
 そうしてまた不思議さはつのる。時代も民族もまったくちがい、歴史も重ねようもないほどに遠いのに、あまりにも人は人であり、やすやすとわたしたちのなかに忍び込み重なりあっていくことに。一瞬の映像が、ひとつのことばが呼び覚ますものの広さ深さ。今年もまたいくつもの喜びに出会えることを。(二〇〇四年一月一六日)

 

菜園便り一〇三 
一〇月二〇日

 買い物に行く道は、途中から田圃の間を抜けていく。舗装された農道を離れると、雑草の中に二本の轍がかろうじて続く小道か畦だ。夏の盛りには踏みいるのが恐い気さえする。蛇だとか、ぬかるみだとか、虫だとか、あれこれ思ってしまう。
 秋も進み、そういった雑草も種を散らしながら枯れていき、台風になぎ倒されている。そのあたりの田は概ね早稲だから、八月には収穫が終わり、その刈り跡からのひこ生えが四〇センチ近くにもなって、そこそこの稲穂をつけて揺れている。もちろん黄金色で、何枚か残るこれから収穫を待つ晩稲の田かと見まごうほどだ。暑い夏で、しかも長く続いたから、元来は熱帯の植物には伸びやすかったのだろう。それらは採る人もなく放置されたままだ。鶴の越冬地として知られる出水などでは、このひこ生えの稲を餌にすると聞いたこともある。食べ物に困るようになったら、ぼくらは持ち主に土下座してでもこういった落ち穂を拾うようになるのだろうか。
 途中に保育園がある。そばを通ると遊技の歌や、噛んで含めるように言う保母さんの声が聞こえたりする。でも姿はほとんど見かけない。通園には必ず送り迎えが決められているようで、夕方は引きもなく車が出入りしている。サングラスをかけて歩いていると、なんとなく胡散臭い目で見られる。つい最近広報に出た、サングラスをかけた露出魔の記事を思いださせられたりして、気弱く眼鏡を外したりする。
 たしかにそんなものはかけないほうが、草木の色や光がしっかりと飛びこんでくるし、目に染みる。色あせたあかまんま、いっせいに芽生えて蔓延るうまごやし、傾いたいく種もの稲科やまこも系の草々、点々と突き出たアワダチ草の花、まだ残る蝶や蜻蛉も原色でみえるし、少し遠くの白や青灰色の鷺、そういったものも鮮やかにみえるのだから。
 夕食の鯖でずっしりと重い袋を下げて、来た道を戻る。海に突き出た半島の山の端が薄く紅色に染まり始める。熟れずに取り残された南瓜がごろんと転がって、暗い影をつくっている。

 

菜園便り一〇四
一一月一五日 快晴

 人生の、なんていうと大げさだけれど、その後半に入ったとたん、いろんなことがたてつづけに起こる。どこにも誰にもあることなのだろう。
 母の七回忌も終わった。周りでも知りあいの親の死が続く、そういう年齢になったのだろう。友人そのものが亡くなることもぽつぽつとでてきた。まじめで精力的な、働き過ぎの死が多い。「いいやつほど早く死ぬ」と若い時から言い続けて、ぼくはまだしれっと生きてるけれど、死ぬやつはやっぱりいいやつからだ、と今もしみじみ思う。
 そんなに一生懸命にならなくてもいいじゃないか、よくも悪くもたかが社会(世間)、そこそこの生活なんだから、とつぶやいてみても、どんなことも本人にとってはとてつもない、世界全部にあたるほどの大きさなんだろうことはわかる。そういう人たちだから、つい真摯に生き急ぐのだろう。
 どうにかしのいでいく、「やっとかっつ」生き延びていく、ときおりのささやかな喜びを持ちつつ、ぼちぼちの生を後に送っていくことが、でもときには耐え難くて、体を折って呻くほどの時もある。そんなとき、人はそれぞれどうやってやり過ごしてきたのだろう。ぼくみたいに静かに片隅で生きていても、ぶつかる角かどはある。
 身も世もないような、そんなとき、友人や友情は何の力にもなれないのだろうか。お金や家族の問題、身体のことはどうしようもないと、はなから諦めて、また互いに迷惑はかけまいとして、口閉ざすのだろうか。保ち続けたささやかな美学に殉じて、潔い純情を友情にも愛にも貫くのだろうか。眠れない真夜、誰かに一杯の酒をつきあってほしいと、心底思うことのなかったものはいないだろう。でも誰にも電話せず、誰からの電話もなく、ぼくらはまた深い夜のそこに沈んでいく。閉じることもままならない目を、真の闇にすいこまさせながら。
 葬儀、お盆、お彼岸、命日、そんな月並みな行事を送ることで、人はことばにならない声を、叫びだしたい衝動をやり過ごし、生き続けていく。そういった形式にかまけて、噴きだしそうな黒ぐろとした思いを封印する。季節が巡り、いつの間にか心焼きつくす劇薬が、芳醇な酒にさえ変わるかもしれない奇跡を待つ。そんなことが起こることがないのはわかっている、でもそれを微笑んで受け入れる力を、季節の移ろいは確実にぼくらに届けてよこす。どんなことがあっても受け入れない、喪われたものをけしてひとかけらさえ手放さないと決めた閉ざされた硬い心にも、夏の陽が、春の開花が、冬の吹きすさぶ風が、しみこんでくる雨が、表面を焼き、亀裂を入れ、さらさらと風化させていく。そういう柔軟でしたたかな、強靱な心を、人は持ち続けている。個としてというより、たぶん類として、共同性として。
 逝ったものは帰らない、逝ったものをして、逝ったものを葬むらせよ、そんな、冷静な声も聞こえる。ああ、逝ったものよ、逝ったものよ、世界はそんなにも生きるに値しないのか。ほんとにそうなのだろうか、問いは繰り返され、今日の極上の晩秋の空に上っていく。うす水色の空にも、どこまでもきらめきがつづく海にも、庭の木々にも、菜園で草取りする父の顔にも、光は溢れ、全ておしなべてとけさせていく。

 

菜園便り105
11月25日

 鵲(カササギ)を写真に収めることができた。デジタルで望遠もないから、「かすかな点のような」と言う人もいるだろうけれど、電線に止まっている一羽が撮れた(漆黒のなかの白い翼が浮きあがる、飛んでいる状態のも撮ったつもりだったのに、うまくいってなかった)。必ずつがいでいるけれど、二羽いっしょにいるのを撮るのはなかなか難しい。この津屋崎でではなく、隣の古賀市で見かけたもの。佐賀平野以外の北部九州には、まるで一市町村ひとつがいずつとでもいったように、ぽつんぽつんと住んでいるみたいだ。
 海岸もすっかり冬もようで、鴎が戻り、千鳥やそれより少し大きめのしぎ、それに白や青灰の鷺が片足で佇んでいたりもする。
 恒例の大型烏賊(そで烏賊)も打ち上げられはじめ、プロも含めて男たちが海岸を徘徊し始めた(ここらでは「そうつく」と言うけれど)。双眼鏡を抱えて海岸や防波堤に立つ見物客も増える。自ら獲らなくても、現場はスリリングで興奮するらしい。浅瀬で戻れなくなった烏賊が赤く染まり、水しぶきを上げ、墨を吹くのはたしかに見物だろう。人々のどなり声、水辺を走る足音、紅く上気した顔も。早起きできないし、風の強い海岸にも出ていかないし、だからもちろんぼくは烏賊を獲ったことはなく、まだ現場を見たこともない。お裾分けで頂くことはけっこうあって、それくらい大きくてみんなもてあますということだろう。足まで入れると1メートルくらいになるのもある。
 父が剪定した庭の松に、メジロが数羽群れている。まっすぐな陽光を反射して眩しいほど輝いている松葉の根本をつついているのは、蜜でもあるからだろうか。毎年決まってやって来る。チュンチュン、ひょいと飛んでは次の枝に、また次へ。不意に鵯が割り込んできても意に介さず、といったふうにつついている。

 

菜園便り一〇六
一一月二九日

 何度も来た台風で荒れた菜園も、冬野菜のおかげで畝も緑に覆われ、生き生きと盛り上がっている。バジルは秋の初めに改めて植えたのが芽をだしたけれど、やっぱり夏のようにはいかず縮かんだまま、かろうじて数枚の葉を保っている。一一月の初めでもまだまだ繁るようだった米多比(ネタビ)の小松さんの畑からもらってきた二本だけが葉を重ねて、時々のサラダに香りを送ってくれる。ここにきてルッコラが伸び始め、隠れた場所からも芽を吹き、サラダの定番になってくれている。レタスは花茎を伸ばしきり、もう小さな葉だけを掻き取るしかない。すごく苦みが強くて、子どもは無理だろうなと思いつつ、そのあくの強さを楽しんでいる。念願だったコリアンダーも二本がうまく伸びはじめてくれて、これでビーフンは安泰。この独特の香菜があるのとないのでは天と地ほども味わいに差がでる。パセリも小さくこんもりとまとまり、寒さに背を向けるようにしながらもまだ続いている。
 冬野菜は順調そのもの。大根、蕪、紅芯大根は間引きが間に合わないくらいに伸びてひしめいている。みそ汁、吸い物、お浸しなどに使いつつ、まだ柔らかいものはサラダにも放り込める。ラディッシュも追いつかないくらいどんどん丸々と太って押し合って、土の上にはみ出している。割れる前に収穫しなければ。その赤々とした実だけでなく少し棘のある葉も茹でると少し癖のある甘みがでておいしい。捨てる所はなくなる。サラダに切り分ける時、指やまな板が薄紅に染まるのもうれしい。
 残念なのは、鍋の季節になったというのに、春菊がうまく芽がでず、でてきても順調に伸びてくれない。ほうれん草もコバルト色の種がきれいで買ったのに、発芽がおぼつかない。初めての芽キャベツは周りの葉が固く大きく広がっていはいるから、期待は持てる。豆類は好調、昨年は早く蒔きすぎて冬前に花が咲いてしまい、うまく収穫できなかったから、今年は一一月初めまで待って蒔いたエンドウがきれいに並んで芽を出し、すっと双葉も三葉も広げている。一週遅れで蒔いた空豆も、だからうまく芽吹くだろうとたかをくくっていたら、なかなか出てこない。土をかけすぎたか、水やりが悪いのか、下肥が足りないのか・・・・・。五月の空の下のあの色あい、手触り、おいしさを思うと、頑張ってくれ、と励ましたくなる。 
 台風の影響で、農家が種まきすらできなくて異常な値上がりをした葉野菜の類も落ち着きはじめ、山本さんが野菜畑の百円コーナーから小ぶりの青梗菜(チンゲンサイ)を買ってきてくれた。柔らかくて、何とでも相性がよくて、でも自分の味もしっかり残す優等生だから、さっそく姉に教わった、干しエビ炒めにする。干しエビを炒めて香りをだし、それに青梗菜を加えて炒めるだけ。味つけもほとんどなくてそのままでいい。今年は頂くことの多かった薩摩芋(一度は自分たちで堀りにも行った、健在だった亀井君もいっしょだった)も、昼食に焼いて、夕飯の天ぷら、冬の定番のレモン煮と活躍。今年はどっさり北からの贈り物も届き、初めて経験するナメコや味噌もあり、豊かな食卓になってうれしい。届けてくれる人々のあたたかさも加わった多彩で深い味わいをしみじみといただく。

 

菜園便り一〇七(限定版) ???????
一二月一日

 遠方より友来る。関東からの森さんと小林さん。もう二〇年来のつきあいだから、久しぶりに会っても、つい先週も会ったばかりのような気になる。メールや電話で頻繁にやりとりしているからかもしれない。でもテクノロジーと呼ばれるものは人と人の距離を近づけたのだろうか遠ざけたのだろうか。
 博多で会ってのみ、津屋崎にも寄ってもらい、糸島を訪れてのみ、門司にも行ってまたのみ、と盛りだくさんだった。津屋崎では我が家の前の静かな海だけでなく、岩場で波も荒い、いかにも玄界灘といった岬の外の海も案内した。漂着する塵は隠せないけれど、まだ白い砂浜も残り、松林とくっきりとわかたっている。陽射しが強いせいもあり、冷たい風も爽やかにすら感じられた。
 糸島は板橋家の感謝祭(サンクス・ギビング・デイ)のパーティで、亀井一家ともいっしょにお招きしていただいた(亀井君はいない)。谷間の樹木に囲まれたおとぎ話のような場所での、丸ごとの七面鳥をはじめどっさりのおいしいご馳走(ビーツやクランベリー、それにアーティチョークまでも)、楽しいひととき。工房としてお菓子を焼かれる日々、そのキッチンからも周りの木々や山、たっぷりの空が見える。居間も含めたどの部屋からも同じように周りが見わたせる、すばらしく贅沢な、雪崩れ込んでくる風景の流れのなかに浮かんでいるような家。工房には物語のなかの物見台のような、ぐるりとガラス張りの屋根裏展望室もあった。もちろん猫も犬もいる。
 お菓子にも使われる杏、レモン、数え切れないほどの種類の植物が、小さな流れもある敷地内に点在している。去年まで山羊がいたという白い楕円形の柵も残っていて、何かの作品のように見えたりもする、それもすごく観念的、抽象的な。そうしてその上にも、もちろん空が広がっている。招かれた誰もが心身を休め、つかの間心を開いて周りの樹々や空に解き放つかのようだった。
門司では関門海峡を渡る連絡船に乗り、流れの速い海峡を突っ切ったけれど、わずか数分の航海にも、出発の感傷や振られる手のひらがある。前回、もう一〇年以上前に初めて乗った時は亀井一家といっしょだったんだと、そんなことも思いだした。もちろん亀井君もいっしょだった。どこに行っても、何を見ても思いだすことはあり、そんなにもいろんなことをいっしょにやったんだと、改めて時間の長さ、つながりの強さを思い知らされる。
 森さんたちが泊まったのはアルドロッシ設計のホテルで、外装の色や内装のデザインをさんざっぱら批評しつつも、バーにも行ったし、メインダイニングで食事もした。窓からは海峡と長い橋が眺められ、遠いせいか車はゆっくりと走って見える。距離感や時間の流れが、奇妙に縮まったり伸びたりする、海流に乗ってでもいるかのように。流れ、流れ、そしてたどり着く先は、誰にも見えない。

 

菜園便り一〇八 ???????
一二月八日

 窓から見える海に光が溢れて目を開けられない。障子を少し閉めて、斜めに、遠めに見る。刻々と光は移るから、じきにどこまでも光りさざめいて続く穏やかな海が正面から見えるようになる。太陽もまた少し傾き、部屋の奥までするすると入り込んでくるだろう。いちばん隅に据えてあるヴィデオ・デッキが熱いほどの光に焼かれて、ぶつぶつ呟きはじめる、ジーッとかカチカチとかいう音で。熱せられた金属が膨張するのだろうか、他はすきま風で冷たいままの部屋の低い温度との落差に、歪んでいるのだろうか。ささいな不平や小さな悲鳴に聞こえなくもない。
 晩秋の豪奢な夕焼け、冬のこの溢れる光、そういったものに支えられて、この憂鬱な寒さも耐えていける。そんなことを言うと、ほんとに寒い所の人から、これが冬か? こんなの寒さじゃない! とか言われてしまいそうだけれど。でも、体や心が感じることはどうやったって相対的だから、これが耐え難く寒い人もいれば、なんぼのもんじゃと呆れる人もいてとうぜんだろう。それに、ほんとに寒い場所では、寒さへの対策や室内の暖かさの維持には心砕いてあるから、まるでちがう。この、夏向きのすきま風だらけの、それには床下からの隙間風さえもある、大雑把さとは雲泥の違いだ。
 でもやっぱりこの光の横溢と、乾いている感じ、ふわっとあたたかな空気は、どうしたって南の温帯のものだろうとは思う。日本海側に面しているから、あの冬の関東の突き抜けてしまった青い空はないけれど、のんびりした少しくすんだ晴天が続く。常緑樹、椿やまさきやネズミモチやの、その広葉の固い葉表にも陽光は乱反射し続ける。どうしてこんなにも惜しげもなく光は溢れ、飛びかい、そうして人を魅了するのだろうかと、訝しくさえなるほどにも。
 机の上の、近所の水産高校の学園祭で見つけた小さな文鎮は真鍮色に磨かれていて、その丸くつるりとしたつまみの上にも光は反射し、カシャカシャとキーボードを叩くぼくの小さな影をも映しこんでいる。米粒ほどのそれが笑うのが眼が光っているのでわかる・・・・・わけはないか。

 

菜園便り一〇九
師走なかば

 台風で破れて気になっていた障子を、師走になってやっと貼り替えた。かつての旅館の応接室、ぼくらはホールと呼んでいた部屋の、窓際の小形の障子。スプリングの壊れた古い型のソファが置いてあって、父がテレビを見たり書斎みたいにして使っている所だけれど、そこの天井の照明にはめ込んであったガラスが落ちて粉々になっていたので、そこも磨りガラスを入れるのを止めて障子紙にしようと、その張り替えもあった。両方とも同じ部屋だから、少し見栄えがちがってくるかもしれない、父は気づきもしないにしても。
 障子貼りは一人でもやれるけれど、広げて桟に貼りつける時だけは、もう一人いてくれると、天と地ほどの違いがある。結局ひとりでやったけれど、こんなささいな仕事にも思いだすことは少なくない。前にこの窓の障子を貼り替えたのは四年前の母の三回忌の時で、早く来て準備を手伝ってくれた札幌の姉といっしょにやった。帰郷してからなんとなく障子の張り替えはぼくがやるようになっていて、もちろん毎年なんてやらなかったけれど、やればけっこうの数の障子を貼り替えていた。大型の1枚で貼れる障子紙を知ってから、ほんとに簡単で楽になったから、のんびりひとりでやりつつ、紙を広げて貼りつける時だけ母に手伝ってもらっていた。
 そういうこともあって、姉に手伝ってもらうのは、どこかしら家族的な親密な感じを確認しているような思いもあったのだろう、楽しくてしょうがなかったし、家事とか作業を誰かと協力してやる喜びもあった。何度も小津の映画、特に『麦秋』で東山千栄子三宅邦子が布団に綿を詰め(打ち直してもらったのだろう綿が廊下に積んであるのもちらりと見える、かつてはそういうこともやった)、両端や隅をひっぱたり叩いたりして均等にならし、そうして大きな針で幅びろの緑色の糸なんかを所々に留めに刺しているシーンを思いだしたりもした。
 掃除機でざっと埃をとって壁に障子を立てかけ、古い紙の上から桟を刷毛で塗らし、間をおいてゆっくり剥がすとすっと全部が一枚で外れる。桟や縁をぬれ雑巾で拭いて、床に敷いた古い畳表の上で作業になる。薄めに溶いておいた糊を刷毛で桟に塗っていく。いそがないと乾いてしまうから、この作業もふたりだと楽だ。障子紙を貼る時も、ふたりだと上と左をはみ出させないで揃えて貼れる、そうすると後で切り落とす作業が、下と右だけですむ、そんなちょっとした利点もある。めんどくさそうにみえても、その最後の切り取りの作業は仕上げだから、どう転んでも楽しいのだけれど。
 こんな障子一枚も、自分で持ち抱えたり拭いたりしていると、その丁寧なつくり、長い時間のなかで人がつくりあげてきた知恵や細部に感嘆させられる。効率的で、購買目的のあっというまに進化する現代の物ものとちがって、時間をかけて少しずつ改良されてきた洗練。細い桟は丁寧に組み込みあって格子をつくり、外枠にはめ込んである。エッジはそれとわからないほどに、つまりしっかりと鋭角な面を保ちつつも微かに面取りされて、指に痛くない。無骨な膝でどんと乗ったりしたらたちまち砕けてしまうほど繊細なのに、全体としてはがっしりと安定している。外枠も桟の面、つまり室内に向かって角がかっきりと面とりしてある。軽い、そしてこの木と紙の一枚の持つ力の大きさは、冬になると唖然とするぐらいはっきりする。すきま風を塞ぎ、温かさを守り、眩しい陽光は遮りつつも、穏やかな光と熱は取り込む、もちろん外からの視線を遮り物音を低め。
 材料は何だろうか、こういったことは一目でわかる人もいれば、何度教わっても身につかないぼくのようなものもいる。檜はその木目模様で、杉は香りと使われる場所で、松は表面の色と節で、と言われればもちろんそうだと、はっきりしているのだけれど。楠や栂、朴なんていうのもわりと使われていたりもするし、柿や桜や南天が要所にアクセントをつけている家も多い。
 安普請だから、我が家には上等の材料や珍しい素材の床柱はないし、職人芸のような欄間なんかもないけれど、台所や風呂場のありきたりのガラス戸の飾り桟が、どれも軽くアールを描いていて、そんなささやかな意匠や技術に、つくっただろう人の慎ましい矜持を思ったりもする。
 何かCDでも聴きながらと思ってスイッチを入れると、入れっぱなしになっていたビリー・ホリデイがかかったので、そのまま聴きながらやったけれど、初期のだったこともあって、あたたかい陽射しを浴びながらひとりでやる障子貼りにもうまくあっていた。若い時のはりのある声、どこまでも軽やかで甘くて、「ソァリチュード」とか歌われても、そうかい、とかなんとか互いにニヤッと微笑みを交わすようなそんなふうに響く。
いろんなことがあったんだ、
でもいいじゃない障子もけっこううまく貼れたんだし、
そうさ、
それでいいのよ。

 

菜園便り一一一
二〇〇五年一月一二日

 一月も中旬になって、がくんと落ち込むように寒さに入り込んだ。冬至を過ぎて長くなり始めた陽光は、海辺ではもう春の輝きを持ちはじめているけれど、気温はこれからの寒さを告げている。だから光のエッジもまだまだ柔らかなふくらみにはなれないまま、凍えて大気のなかで鋭く乱反射している。
 雪さえ混じる空の下、菜園の冬野菜はかわらずに元気でほんとにすごい。ラディッシュもまだ続き、蕪はひしめき合うのを間引きしつつ摘み続けても、まだまだどっさりあるし、大根はそれなりの大きさになって抜く毎に、隣がぐっと太り始める。紅芯大根もその不思議な色合いがサラダのアクセントになる。ルッコラも葉を広げ続け、コリアンダーも生き生きしている。さすがにレタスは伸びきって終わったけれど、パセリはここにきて株も増えるし育っている。
 いただいて植えた小松菜や水菜は上手く伸びず、かろうじて潰えずにいるだけ、種を蒔いて二ヶ月を過ぎたほうれん草と春菊はまだ双葉くらいのまま地面に貼りついている。葉物はダメなのかなと思って諦めていると、少し離れたアイリスの群生する庭の隅に1本だけしっかりと伸びた春菊が見つかった。去年のこぼれ種か、どこからか飛んできたのか、葉をいっぱいに伸ばしていて、さっそく周りから掻き取って葉物の少ない鍋に使う。茎も葉も柔らかく瑞々しく、摘みたては鍋のなかでもしっかりと強い味と香りを放つ。
 それもあって、最近の鍋は、菜園鍋とでも呼びたくなるように、庭の野菜だけで賄える。春菊の他にわずかだけれどカツオ菜もあり、蕪や大根も茎や葉ごとどっさり入れる。分葱はまだ小さいから、二〇センチほどの長さのままに使うと、鮮やかにすっと伸びた葱の青さが、その爽やかさやぴりっとした匂いや辛さを目にも伝えてくる。
庭の野菜を食べるようになって、根菜などは皮を剥かなくなった。蕪も抜いてきたのを、ざぶざぶ洗ってがぶり、果実的な糖分でない甘みや微かな苦みが広がるし、そのがりがりした食感もご馳走になる、後には舌に爽快感。調理するとたしかに皮の部分は色が変わるし皺になるから美しさが削がれるけれど、新しい野菜は皮も固かったり筋張ったりしてないので、味も深まるし、それに皮を剥かないのはもちろん楽ちんでもある。
 じっと地面にへばりついていても、冬空の下の野菜は、鈍重な家畜がただただその頑固さで押しても引いても動かないのとちがって、どこか可愛さや微かなおかしみを秘めていて、ついじっと見入ったり、触ってみたくなったりする。華奢ですぐにちぎれたりつぶれたりするけれど、そこから思いもかけないほどの樹液や強い香りを放って指を濡らし手を染めあげ、たちまち記憶のなかにもしみこんでいつまでも残り続ける。

 

菜園便り115
3月2日

 初夏の陽射しになったり、雪が舞ったり、春はためらって、行きつ戻りつ、そうして結局、誰もが思っているように、そうなるように決まっているのに、どうせあたたかい腕に向こう向きにそっと倒れ込むのに、逡巡や思わせぶりや、時にはできもしない小賢しい計算さえやりつつ、でもついにはなにがなにかわからなくなり、なにもかも振り捨てて、最初よりもよほど条件の悪くなった底値の時にあっけなくどこかにおさまってしまうくせに、なんてことは思わないけれど。
 一月のひどい気候のなか、陽射しの明るさに惑わされてつい買ってきて植えた3本のレタスはたちまちしなえてしまったけれど、でもそのうちの二本は枯れた葉の下でしっかりと根を保ちあたたかさの増してきた土の上に葉を広げ始めた、すごい。他にも、ほうれん草が指ほどの大きさのままびっしりと生えている一角に、すっかり忘れていた春菊が一本伸び始めた、これも驚き。ほうれん草は、二ヶ月遅れで律儀に発芽はしたけれど、寒さの下で伸びられず、あまりに小さすぎて間引くに間引かれず、だから葉も広げられず、といったところでこれからいったいどうするつもりなのか、こちらからも聞いてみたい。もう冬も終わりだというのに。我が家の冬の鍋は、どこからか飛んできたのか、去年のこぼれ種か、隅にしぜんに生えてきたカツオ菜と春菊が、わずかながらも頑張って助けてくれたけれど。
 台風の影響ですっかりサイクルが狂ってしまい、不足、高値だった野菜類も落ち着き、いただくことも多い。ほうれん草、カツオ菜、葱、ブロッコリー、時には蕗の薹、蕪。葉物はどっさり来るから、気も焦る。先ずは鍋、おひたしや炒め物(最近の定番の干しエビ炒めや玉子とじ)で食べて、残りはとにかく茹でて半分は冷凍、半分はあれこれやりつつ食べ続ける。多いのは何種類かの茹でた葉野菜を切りそろえてポン酢や芥子醤油でいただくもの。さっぱりとして、酒にもよくあう。
 火をとおすとびっくりするくらい野菜はぺっちゃんこになる。そうなってもしっかりとした歯ごたえや独特の甘みや苦みが残って楽しませてくれるし、色合いもそうすぐには黄変しない。緑みどりして、きちっとした食感があり滑らかさもついてくる、筋張らない。庭の大根、蕪、ラディシュ、ルッコラ、パセリ、コリアンダー(香菜)は変わらずに続いていて、ラディッシュはもうじき次の種まきもできそうだ。そうなると、二十日大根の名のとおり、三週間待たずにまた新しいのが食べられる。プリンとしたあの鮮やかなツルンツルンの赤い玉が柔らかい緑の下に押し合って並ぶことになる。
 鵯に散々つつかれて無惨な芽キャベツもどうにか結実しそうなようす、その健気さ、したたかさに圧倒されつつ、それが収穫しようとする自分に向けられたものだと思うと、喜んで受け止めつつもなんだか照れくさいし、ちょっと鬱陶しくも怖くもあって、でもそんなふうに思うことじたいが何かしら後ろめたくもあるようで、なんてついあれこれ思ったりもしてしまう、誰もがそうであるように。たしかにすごく感謝しているけどでもそんなに思いを込められたり言いつのられたりすると、気持に少し秋風も吹く、まだ春になったばかりだというのに。

 

菜園便り一一六
三月一七日 父の旅行

 二拍三日の旅行で疲れたのか、四月の気温から一気に一晩で五月に戻って冷え込んだせいか、父は帰宅して寝込んでしまった。熱はなく、咳もひどくなく、でも寒気とだるさで動けない、といったようす。軽いインフルエンザだろうか。頼めば来てもらえる近所の小島医院からの往診も嫌がるので、とにかく暖かくして終日寝ている。食欲はそこそこにあって、今までの半分くらいは食べることができるから、心配も中途になる。
 珍しく仕事が重なり、それもかなり難しい内容で四苦八苦してるところに、四年ぶりに父の看病、世の中はそういうものだ、ヒステリーは起こすまいとできるだけ冷静に努め、あれこれじっと視たり考えたりしないようにしていると、なんと地震まで起こった。幸い家屋損壊といった大事には至らずにすんで、食器や欄間のガラスが落ちて割れたり、白壁がはげ落ちたりぐらいだった。実は忙しさもあって(恐くもあって)まだきちんと全部は見回っていないのだけれど。
 父は旅行は好きは好きなのだろうけれど、ほとんど団体旅行しかしたことがないようで、まだ旅館をやっていた頃は旅館組合や仲買組合といったグループでの旅行に必ず参加していた。まあ、半分強制的だし、費用を積み立てるからでもあったのだろう。仲買組合は地場の港にある魚市場の競りの組合で、仕事がら酒飲みや癖の強い人が多く、酒を飲まない父には鬱陶しいことも多かったのではないかとも思うけれど。
 まだ東京にいる頃、その仲買組合御一行がニューオータニに泊まったことがあって父に会いに行った。いくつかある部屋のドアを全部開けて、ステテコ姿でみんなが行き来していて、たまりかねてホテルの人が慇懃無礼に挨拶してドアを閉めていくのだけれど、誰も気づきもしないで、また開け放って廊下越しに夜の予定を大声で確認しあったりしている。なかなかの景観で、さすがというか、とにもかくにもそういうのが似合っているのはいいと思いながらも、珈琲をのみに降りていく。
 向こうでは、大声でおらびあい哄笑していたのが、酒も行き交いお決まりの喧嘩になって、誰が持ち込んだのか市場の手鈎まで振り回され、ドアは破れて吹っ飛び、スタンドや椅子まで放りだされ、その上に不気味にシャンプーやリンスがどろりと流れ、枕の羽は部屋に廊下に吹き荒れ、他のお客が遠巻きにおずおずとでもしっかり覗きこむなか、ホテルマンがすっ飛んできて仲裁し、半ば怒鳴り、掃除のおばさんはうんざり顔で・・・・というようなことまでは、もちろんなかったけれど。
 今では仲買組合どころか、港の競り自体がなくなり、朝市とか自家用加工とか以外は魚のほとんどは他の港、多くは博多の市場に水揚げされているし、地場の魚を扱っていた小売店も減ってしまい、旅館や料理屋も大半はまとめて安く仕入れる方へ流れるし、ごくたまに頂く季節の魚のおいしさをしみじみと味わいつつも、今年も甲烏賊はとうとう1回しか食べられなかったなあ、若布も自分で拾ってきた以外にはもらえなかったなあと、誰に言う宛もない愚痴をつぶやいてみる。

 

菜園便り一一七
四月一日 母の旅行

 そんな父も、ほんの一、二回だったけれど母とふたりで旅行したこともあって、その時のエピソードはとっておきというか、とてもチャーミングだ。もちろん、それは母から聞いたことだけれど。
 北海道に孫の顔を見に行った帰り、東京で東北新幹線から東海道新幹線に乗り換えるのに、上野で降りて東京まで行かなければならかった頃。慣れない乗り換えに手こずり、迫ってくる時間に追われてやっと着いた東京駅のホーム、焦って駆け上がり、今にも発車しようとしていた新幹線にとびこんだらしい。
 乗ってみるとガランとしていてへんだなと思っているとアナウンスがあって「これは回送車だけれど、もし間違って乗った方がいたらいちばん前の車両まできてほしい」とのこと。長い長い列車を先頭まで行くと、(「ほんと長いのよ、ほんとに」、と母)これは点検に新横浜まで回送していくこと、途中にはどこにも止まれないこと、新横浜から東京駅までは何かの便で送り返してあげるとの説明。
 母の話はどこかリアリティが希薄で、いろいろ聞き返しても、「そうなのよ」と自分でも笑っていて、この場合はその時の緊張しつつもなんだかおかしく不思議な空気感がよく伝わってきたけれど。新横浜では、老人ふたり旅であるし、北海道から九州へということだったからか(まるで小津の映画のようだし)、丁寧に対応してもらって、駅の事務所で待っている間も、「駅の帽子に線のある偉い人」と話したり、お茶まで出たとのことだった。
 旅館をやってる時はなかなか休めず、父は自分はあちこち行くのに、母が出かけることにはうるさかったから、滅多になかったけれど、それでも母もたまには姉の所などに行ったおりにひとりで旅することもあって、その途中に当時東京にいたぼくの所にも寄って、能や芝居を見たりもしていた。一度、鎌倉へのセンチメンタル・ジャーニーにつきあったこともある。
 そのほうが楽だといって、いつも着物を着ていて、でも都市の世知辛くひしめきあった空間にはなかなか馴染めず、ちょっと気取って出かけた西麻布のフレンチレストランでは、席と席の間が狭くて、立つ時に隣のテーブルのグラスを帯で倒してしまったこともあった(小さなバックパックを背負っているようなものだ)。ぼくはもちろん、お店の人も先方のカップルもびっくりしつつもおかしがって事なきを得たのだけけれど、母はなんというか、しれっとしてというか、何が起こったのかよくわからないふうで、謝ってはいるけれど心ここにあらずというか、たいしたことじゃないでしょうといった感じだった。東京は坂と階段の多いところで、着物で歩くのにはたしかに適してはいないし、地下鉄の階段の深さはもちろん、一段ずつの高さもかなりある。
 着物で困ったことは他にもいくつかあって、一度寝台車で帰ることになった時(もう今はないハヤブサとかサクラとかだ)、ウイークデイだからとたかをくくって当日東京駅に行くと、なんとほとんど売り切れで、二等車のいちばん上しかなかった(当時は上、中、下の三段)。着物であの梯子のような階段を上り下りできるわけもなく、とにかく車内で車掌さんにでも相談しようと乗り込んで座席に行くと勤め人ふうの人が座っていて、頼み込むと気さくに席を替わってくれた。母は恐縮しつつも、ここでもどこか平然としてもいて、せめてお礼や料金の差額だけは失礼にならない形で払った方がいいよと言ったことばも伝わっていたのかどうか。でもぼくがあれこれ気を使わなくても、着物の老婦人がいれば、誰だってそうせざるを得ないだろうとは思う。シベリア鉄道の八日間とかだと考えてしまうけれど、一〇時間に満たない夜の寝台車では、ぼくにもできない親切ではない。
 寝台列車の濃紺のコンパートメント型の車両や、リネンのテーブルクロスの食堂車、その上の銀色の一輪挿しにはカーネーションや薔薇の一輪、シーツをセットしていく客室乗務員のきびきびした動きやその制服、夜を徹して走り続ける列車、照明を落とした車内のひっそりとした空気、轟き疾駆する列車のなかの静かな揺れ、そんなことも思いだし始めるときりがなくなる。最後に乗ったのが、その東京駅での五分間になってしまったけれど。

 

菜園便り一一八
三月某日 地震の後で

 福岡は地震はないというのが通説だったから何の心づもりもなかったし、震度六というのも生まれて初めてだったから、揺れた時はもちろん驚いた。天井から下がった蛍光灯と鴨居のガラス、それに壁の版画の額が、バタンバタンと叩きつけられて、ああ、もう割れる、押さえようもないと観念したりもした。外に飛び出さなくては、ということを全然思わなかったのは、木造二階建てで開口部だらけの家だし、その時も窓の側にいたからだろう。集合住宅の時は、とにかく火を消し、ドアを開けて逃げる道を確保してくださいと散々言われていたけれど。
 古いあばら屋である我が家の状態を知っていて心配してくれたのだろう、びっくりするくらいたくさんの電話やメールをもらった。直後に先ず東京から電話があった。このあたりがニュースに流れたらしく、我が家も半壊しているんじゃないかと、おそるおそる。電話は携帯も含めてほとんどが不通になったけれど、つながっているのもあってあれはどういう加減だったのだろう。隣町の妹は「そっちにかけてたけど、ずっとつながらなかった」と、夕方来てくれた時に言っていたが、彼女の方が不通だったのだろうか。北海道の姉からも夕方こちらにかかってきた。
 近隣の友人知人からは、翌日の午後過ぎてから続々とかかってきた。みんな自分の所が一段落したのだろう。あまり大きな被害はなくて、お互いにほっとしつつ、あれこれ報告し合う。「我が家は、本が落ちて、食器がかなり割れて、鴨居のガラスが落ちて割れて、白壁が剥がれて落ちたけれど、屋根とか外壁とかの大きな損壊はなかった、まだ全部は見てないけれど」と伝えると、それはよかった、不幸中の幸いだと安心してくれる。こちらも相手の状況を聞いて安心する。互いに喜びつつ、でも、たったそれだけ? あの揺れで? あの玉乃井の状況で? 大変だったらすぐに片づけに駆けつけるのに・・・・といったニュアンスもかすかにあったりして、それもおかしい。
 自然災害で、かなり大きめで、でも決定的なほどでなく、ニュースは大仰で、話題性があって、ちょっとだけ参加するにはもってこいの規模。直接駆けつけられなくても、心遣いや物資でも励ませる。ぼくも電話無精でなければせっせとかけただろうし、近場なら駆けつけただろう。そこには無私のとにかく力になりたい気持もあれば、お祭り騒ぎへの参加もあるだろうし、倫理や義務に心底縛られてのほぼ自動的な反応や、共同体の暗黙の掟もあるだろう。でも結局、研ぐのもそこそこに大急ぎでご飯を炊いて、握り飯をつくり、梅干しを添え、そこらの日持ちする食べ物をかき集め、たっぷりのお茶といっしょに背負って、届けに走りだすことはなかった。
 ちょうど風邪で寝込んでいた父はそれとははっきり気づかなかったようで、枕元の仏壇が倒れなくてほんとによかったと思いつつも、「すごかったね、もう、びっくりしたね」と大声を張り上げての、緊張しすぎて笑ってしまうような会話ができなかったのはちょっと残念だった。

追伸:ほんとにこわくなったのは少し後に始まった余震からだ。今もたまにある。直後は震度三とか四のけっこう大きいのもあって、かなり揺れた。一度目の恐怖がその時にほんとう現れる、実感が固定される。揺れる予感だけでぎくりとする。体が揺すられると、心のかなり深い部分が突き動かされてしまうようだ。とても、こわい。

 

菜園便り一一九 ????????
四月七日

 仕事場兼応接間兼寝室兼・・・の四畳半の床の間が下がったのに気づいて始まった改修は、絶大な助っ人、山本さんの尽力で次の段階に進むことができた。長年の懸案だった本の整理のための改装が一段落して、りっぱな書庫ができた。我が家を知っている人も、海側の玄関から入って、ぼくの部屋から廊下を挟んだ左側の狭い部屋、といってもほとんどわからない。それくら目立たないし、何も使ってなくて放置してあった、かつての「女中部屋」(すごいことばだ)で、三畳を縦に二つ並べたような細長いつくり。
 山本さんが床張りから、作りつけの壁いっぱいの本棚までやってくれた。プロ並みの技術だし、道具も移動できる据え置き型の丸鋸まであって、すごい。新しく張った床材も、買い置きがあると提供してくれたものだ。足を向けては眠れない。照明は以前からあった電球と笠を利用し、ちょっと離れたところからコードを引いてきて2箇所に取りつけた。小さなテーブルと折り畳みの椅子もおき、CDだけは聴けるようになって、夜なんかひとりで座っているとシンとした気持になる。
 厚い棚板のその本棚に、とにかくありったけを詰め込んだ。今まで使っていた本棚もまた据えつけて、それにも詰め込む。おかげで四畳半がすっきりした。溢れていたCDやカセット・テープそれにヴィデオ・テープも収まった。余裕もできて、少しものを飾ったりもできる。
 本は引っ越しの度にかなり処分したし、今は極力買わないようにしているけれど、それでもかなりある。もちろん小説など文学系が中心だけれど、美術、映画関係、まんがも少なくはない。全集や選集といったまとまったものがないのは、好きな作家は単行本で買っているからだろうか。木山捷平久生十蘭の全集を最後の引っ越しで人にあげて以来、まとまったものを持つことはなくなったけれど、プルーストはもらってくれる人もいなかったのか、「失われた時を求めて」七冊が揃っている。これがいちばん長いものかもしれない。他には大友の「アキラ」六冊ぐらいだ。
 でも、なんていっぱいだろうと思う。もちろんこの十倍だって百倍だって持っている人はいるし、もっともっとと集めている人もいる。若い時は、初版以外は本でないみたいな気持さえあったし、ずらりと壁際に背文字が並ぶのは単純にうれしくもあったけれど。「初版」への興味がオリジナルつき画集へ、さらに版画、タブローへと移り、少しずつ集め始めた頃から、ほんとに必要な本だけ、それもなるべく文庫で買おう、となって、それでも増えていたのが、津屋崎に戻って、図書館を利用することが多くなってから、要するにお金に困って支出が切りつめられ、本を買うのはめっきり減って今に至っている。
 手元にあるなかでいちばんだいじなものは、友人たちと始めた飛行商会という出版企画からだした沖野隆一の2冊の詩集、と自分の作品集、それに五冊までだした「ピストル」という冊子だろう。因みにいちばん高かったのは八二年に出た塚本邦雄の作品集で、これはいちばん厚くもある(広辞苑より厚い!)。そんなふうに書いていけば、全ての本が何らかのいちばん・・・になるのかもしれない。繰り返し読み返すもの、もう二度と開くことはないだろうもの、何かの不思議なつながりでこの書棚に紛れ込んだもの、すっかり忘れていて驚かされるもの、形としての本と、そこにある活字と、そうして書かれていることがらとしての本。かつては手に取ることさえ耐え難いほどだったこともあったりしたけれど、正しく時は流れて、今では厚い本はたんに手首が痛く、小さな活字は目が痛いだけ、なのかもしれない。

 

菜園便り一二〇
四月一一日

 先日、処分されることになった亀井君の家から本や遺品を少し頂いてきたので、新しくできた部屋に亀井清コーナーをつくった。本を中心にした亀井君のものと、亀井君と親交のあった者のもの、とで構成していこうと思うから、ずっと未完成ということになる。今のところ、彼がまとめて買ったものの最後になった、岩波の「日本通史」全二四巻が中央にずらりと並んでいる。
 本は亀井君らしいもの、典型的なものを代表で二、三冊ずつ、といった感じでもらってきた。考古・地図・歴史・数学・沖縄関係、漱石中原中也宮澤賢治島尾敏雄ポール・オースター村上春樹などなど。亀井君自身が関心を持っていたもの、好きだったものの他に、彼は自分の親しい人の好きなものにも丁寧に目配りするところがあって、その時々の関係を反映したものも多く残っていた。そういうのを見るのはやっぱり少し辛い。小川国夫、荒川洋治があり、セクシュアリティに関する本があり、つげ義春ナンシー関がある。
 彼の使っていたアルミのコップやでっかい天眼鏡、元村正信のドローイング、佐々木氏の焼き締めの徳利。壁のボードと貼りつけてあった絵はがき、写真、メモ、さすがに「下の畑にいます」という走り書きはついていなかったけれど。現代美術にも積極的に関わり、プロデュースや支援を続けた彼らしく、美術展の案内のハガキも積み重なっている。「何もかもが懐かし」くて捨てられなかったのか、ただの無精だったのか(それにしては丁寧にまとめてある)、なんでもかんでもとってある。領収書、電話メモ、税金明細、役員をしていた児童館の案内状草稿、古い名刺、時々の写真、赤茶けたファックス紙、入場券の半券(多くは美術と博物館関係)、映画の前売り券、使ってないのは義理で買ったのだろうか、映画「デリカテッセン」の半券もあってまたいろいろ思いだしたりする。最後にいっしょにみたのは韓国の「ブラザーフッド」だった。「とんでもないひどい映画だ」と、珍しく批判をくり返す亀井君に、「それは自分の兄弟に引きつけすぎるからだよ」と半分からかったりもしたけれど。
 写真や手紙類も、遺族がまとめられた他にあちこちに挟み込まれていたのが出てきた。ぼくの出した手紙やハガキもある。若い時の、やせ細った傲慢と卑屈に揺れる自分をみるのはしんどいけれど、共に若かったとはいえこういったものを読まされた人への申し訳なさや、それでも続いた友情への感謝の念があらためて湧く。でも、もう一度読み返して笑いとばすことを、彼は、もう二度と、しない。