菜園便り

 

菜園便り一二一
四月三〇日 

 さあ、今日にでもと父が思い立った日からぼくの外出が続いて、父はやきもき苛々していたけれど、やっと今日苗を買いに行って夏野菜の植えつけができた。初めていっしょに苗を買いに行った。いつも父が買ってきてくれるのだけれど、いっしょに来いというのは、たぶんいろんなことがはっきり把握できなくなっているのと、お金の支払いが絡むことには自信がなくなりつつあるからだろうか。買いに行く先は自転車で五分くらい、小さい時すぐ近所だった花田種物店。今は息子さんのセイジちゃんが切り盛りしていて、新しい大きな、花や苗のお店になっている。
 毎年もめることだけれど、ぼくは少なめに、父は多めに買いたがる。今年は事前に菜園にいっしょに行って略図も書いてこれくらいが混みあわなくていいのでは、と説得した。父も納得したようで、今までもこうやればよかったと思ったら、何のことはない、去年も同じようにしたことを思いだした。たぶん後で、小さな苗がパラッとあるように見える菜園を寂しく思って、それと、もっといっぱい植えないと畝がもったいないというような気持で、父は買い足しに行くのだろう、去年のように。
 とにかく、夏日になりそうな陽射しの下、胡瓜二種四本、トマト三種六本、ゴーヤ四本、茄子二種四本、ピーマン二種四本、唐辛子二本、青じそ三本、ズッキーニ一本、ブロッコリー一本を植えた。穴を掘って基肥を入れ、苗を植えてたっぷりの水撒き。父が早速竹の支柱を立てている。ズッキーニは山本さんからも頂く予定だし、できればセロリをどこかで調達してきたい。もう二、三本植える余裕はあるし、ラディッシュが終わればそこも使える。プランターには残っていた大根やなんかの種を蒔いているので、サラダ用などに使えるとうれしい。
 菜園の種まきや苗植は、いつからか必ず父とふたりでやることになって、年中行事というより一種の儀式みたいになっている。それまでも手伝ってはいたのが、母が亡くなってから、必ずいっしょにやるようになったのは、やっぱりどこかで互いを必要としていることを感じていて、でもうっとうしさも当然にあって、だから何かの折りに、形としても共同でやる作業をつくることで関係をうまくしたい、続けたいという思いもあったのだろう。ふたりでやれば簡単だし、はかどるし、楽しさもある。
 このまましっかりついてくれて、水撒きを欠かさず続け、初夏の台風がなければ、7月初めには収穫が始まるだろう。実っていくこと自体も楽しみだし、なんたってほんとにおいしい野菜が食べられる喜びは大きい。
 ゴーヤを植えるので、キヌザヤを少し抜いた。同じ時期に植えたグリンピースとの境がはっきりしなくなったのと、いっせいに結実し始めて追いつかず、ずいぶん筋張ったものも食べた。それで今年はキヌザヤへの感激や感謝が薄くなって、あまりまめに収穫しなくなり、少し申し訳ない気持があったので、抜いたものからも丁寧に実をちぎった。昼の久しぶりの、去年の夏の終わり以来の素麺に添えた。1年がまわったことになる。夏野菜の苗、素麺、そんなささやかなものが告げる、小さなでもとても重たくもある、季節の巡り、もう、そうして、やっと。次、を考えるのはせんないことだ。「次」は今をたちまちに消費することと、次々にその「次」を求める飢渇感だけを煽る。

 

菜園便り122
5月20日 『夏豆』

 夏豆ということばを教えてくれたのは、田村さんだった。その年初めて庭で採れた、初物の空豆を塩茹でしただけでだすと、ああ、夏豆なんて何年ぶりだろうと、こんなものが今時あるなんてといったような言い方で言って、つまみ上げてそのままガシッと噛んで懐かしそうに味わっている。
 夏豆って言うの、いいことばだねときくと、なに言ってるんだと怪訝な顔で、ああうまいと言ったっきりになった。
 いや、空豆ということばしか知らなかったからと口ごもりながらつまんでみる。翡翠色の豆はそのたっぷりとした大きさや脆いほどの柔らかさで、食べるたびに喜びが生まれるほど好きだったから、庭の菜園に必ず種まきするのをこの数年欠かさずに続けていた。十月の終わりに蒔けば、年を越して紫の花をつけ五月の半ばから収穫できる。今年はうまく発芽せずに四本しか育たなかったけれど、それでもかなりの喜びがもたらされた。
 田村さんが久しぶりだと言う時はほんとに久しくて、二十年ぶりだったりする。だから当時の年齢も環境も天と地ほどちがう時のことを思いだし、苦しくなったりするようだった。ほんとに火をつけてやりてえと思ったさ、と言ったのは退職に追い込まれた時の所長の家のことだった。
 皮をむいていると、皮、食わねえのかと聞かれて、食べられることを知らなかったからねと答えると、そんなもんかねとあきれたように驚いている。
「皮、固くない」
「いいやまだ若くて柔らかいさ、これで年取るとちょっと固くなるよな、そしたらちょっと固てぇなあってみんなで言って、それでもそのまま食っちまうだけさ」。それはまだやんちゃな子供時代、強い父親のもとで殴られたりしながらも家族揃って大きな農家を営んでいた頃のことだろう。七人もの兄弟姉妹が卓を囲んでいる姿が見える。
「こんな、茹でただけって初めてさ、うめえもんだな」
「どうやって食べてたの」
「煮たさ、丸ごと、甘がらく、砂糖と醤油で、それだけでうまいさ」、あたりまえだろ、知らねえのかといったふうに田村さんは言う。
「なんだっけあのビールと食うやつ」
「枝豆」
「そう、あれなんか食えるなんて知らなかったさ、この十年くらいさ、知ったのは、うめえな。田圃の畦にずっと植えて、どこにでもあったっけが、固くなって食うもんだとしか知らねかった」
「うん・・・」
 田村さんがもごもごと話すたびに、口のなかで咀嚼しきれない豆の皮が動いているのが時々のぞく、半部も歯がないからかみ切るのがたいへんそうだ。
 二十数年前に家を出て、それからの体を酷使した労働と不規則な生活ですっかり駄目になった体のあちこち。いちばん壊れてしまったのは、心、かもしれない。でも壊れたことで生まれたやさしさみたいなものもある。
 懐かしいさ、でも帰れるわけないっぺ、競輪で大がね借金して、下の娘は障害があって体もよく動けねえのに放っぽりだして逃げてきたんだからな。一度兄貴を見かけたことがあるさ、借金返してくれた上の兄貴のほうだ、北鉄の駅でよ、なんか聞いたことある声だなってみると、兄貴さ、年とっちゃってなぁ、仕事の出張らしくて、周りからへいこらされてて、えばってなかったけんども、俺はさ逃げるみたく離れたさ、ああ、なんも変わってねえな、すぐわかったな。一度そんなことを胸かきむしるように言ったのも聞いたことがある。
 家を捨ててすぐ見つかったタクシーの仕事はすぐ駄目になったらしい。お決まりさ、寝不足の、人身事故でな。それで、人夫出し、なんてことばも知らねえからおっかなかったさ、最初は、おそるおそるさ、来てみて、いい人ばっかで助けられたけんど、でもさ、ああ、落ちるとこまで落ちたんだって、もう人間じゃないって、そう思ったもんだ。今思うと、バカみたいだけんど、そん時はそう思ったさ、同じことさ。
 なにが同じなのと聞こうとして、ことばをのみこんだこともあった。人なんて、生きることなんて同じさ、ということなんだろうか。
 そんな話が出たのは少しのビールで珍しく酔ってしまって半分眠りながらの時だったかもしれない。話しかけることも、電車がなくなるよと起こすこともできなくて、黙ったままかなりのんで寝てしまって、その日初めて田村さんは泊まっていった。あれから冬を超して、春が終わろうとしている。
 夏豆って言わねえんか、ぼんやり思いだしているとふいに田村さんが聞く。
「いい名前だね、夏豆、初夏の味だね」
「言わねぇっけか」
「知らなかったけど」
「じゃあなんて言うだ」
「ふつうは空豆とか」
「ソラマメ、ってか」
「うん」
「ふーーん、いろいろあるんだな」
「そうだね、でも、夏豆っていいね」
「そうかい」とおかしくもないといったふうで田村さんはビールを飲み干した。
 さっき試しに口に入れてみて、吐き出すに出せなくなってのみこんだ、厚くて弾力があり、妙に生々しい皮の感触がまだ舌に残っていて、どうにもやるせなかった。しがしがする感触と後味が続いてしまう。

 

菜園便り一二三
六月一二日 塚本邦雄

 塚本邦雄が亡くなった。訃報は新聞から届いた。八四歳。もう一世代若いとばかり思っていたから、その年齢に驚かされた。ほとんど父といっしょだったとは。
 それはあの膨大な量の短歌を歌い続けた膂力や、「前衛短歌」と呼ばれ続けることに怯むことなく、永遠に、方法としても「若さ」を保ち続けていたからだろうか。でももう20年近く、彼の近作を読んだことはなかった。時々手に取るのはかつての作品ばかりだった。最後まで、ことばだけで全てを創りあげることに賭けていく、過剰な美意識に彩られた愚直なまでの邁進が、眩しくも痛々しくも、時としては淋しくもうつっていたからだろうか。あのペダンティズムや美学を正面から見られなくなると、つきあっていくのが難しくなってしまう。
 二十歳になるかならないかでの最初の出会いは、とにもかくにも、完全にノックアウトされるといった感じだった。ただただかっこよくて、知的で、ヨーロッパの匂いに満ちて、残酷で、エロスに充ち満ちていて圧倒された。社会的なラディカリズムさえも取り込まれていたし。短詩形のなかにとにかくびっしりと物語や悪意が詰め込まれ、感傷や通俗さえおそれずに歌い上げられていて、若いぼくは感嘆するしかなかった。
 一〇年以上も前に小さな冊子に投稿した愛唱する現代短歌についてのエッセイは、寺山修二から春日井健まで六、七人の歌人の歌をいくつかずつ引きながら、それぞれの歌人のぼくにとっての「愛唱歌」というか、好きな作品をひとつ選んでみたものだったけれど、塚本邦雄から取りだしてみたのはこんな歌だった。
  蕗煮つめたましいの贄つくる妻、婚姻ののち千一夜経つ
  革命歌作詞家に凭りかかられすこしづづ液化してゆくピアノ
  シェパードと駈けつつわれに微笑みし青年に爽やけき凶事あれ
  硬きカラーのあつき喉輪の紅のさらばとは永遠に男のことば
  日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係も
  赤裸の塩田夫迫りてわが煙草より炎天へ火を奪い去る
  馬を洗わば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
 そうして、こんなことを書き添えて最後にひとつ選んでいる。「・・・・しかし初めて彼の歌を教えられた時のもので、本人が自選から外してしまった、あまり秀作とはいえない「ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春」をまさに、青春の思い出として。*(アステリスク)を、おう、笑うなら笑えという気持ちだ。」
 ちょっとごつい書き方は、ぼく自身がペンネームで、いかにも別の人らしく書くといった稚拙な方法を採ってみたりしていたからで、それはやっぱり現代短歌について語ろうとすると、当然そこには寺山や春日井も含まれるから、それへの含羞みたいなものをもてあましてもいたからだろう。ほんとにリリカルで生々しくもある「若さの文学」だった。そういう形でしか捉えられない世界の、人のリアルがそこには掴まれていて、でもそれはあまりにも時代限定的に過ぎて、賞味期限はたちまちに切れてしまったのだろうか。

 

菜園便り124 ???????
6月15日 塚本邦雄

 塚本の訃報をきいて、あれこれ引っ張り出して読んで、いろいろに思わされる。
 当然のように追悼記事もでて、やっぱり岡井隆朝日新聞)で、それにも「『感幻
楽』(1969年)までは全てがすばらしい」というようなことがでてくる。業界内
の、例えば「美術」業界の「1965年以降の池田満寿夫はどうしようもない」、と
いった言い方に似て、「塚本は60年代だけだね」、なんて言い方も意味のない符丁
みたいなものとしてある。空気としてと伝わってきて染められていくだけのことを、
まるで自分ひとりの発見ででもあるかのように大仰に論いあうことにはうんざりだっ
たけれど、でもそれなりにきちんと対応し続けた中井英夫も、『緑色研究』まではす
ばらしい、絶品だ、でもそれ以降はまるでダメだと語っていて、あの人らしい大仰な
断定と否定の豪語を差し引いても、説得力があったのも確かだろう(中井英夫は、先
岡井隆の記事では「三島由紀夫中井英夫といったパトロン風の理解者はいたけれ
ど」と書かれていて、それはそれで淋しくもなる)。
 何を「作品」とみるのか、「文学」とか「芸術」とはそもそも何なのか、そんなの
は限定されたある時代を超えて普遍的なものなのか、そうして、じゃあ「表現」とは
なんだろうといった問いをとおして考えるしかないことだけれど、それ以前の、現在
流通している概念のなかで狭く考えた時にも、アンチ既成歌壇みたいな怒りや「業界
政治」も厳としてあったのだろうし、今も続く<前衛>という切り捨て方や、「詩
壇」からの傲岸な無視にもたしかに苛立ちはあるだろうけれど。
 でもそんなことは、「彼の地のことは彼の地の人に」、であって、新しい解釈や定
義などでない、根源的な表現そのものへの問いを自身に繰り返し問いつつ、「作品」
をつくるのならそこにこめられるものの全てで、世界に、つまり人に向けて語ればい
いことだろう、それが社会や既成文壇にどのように響くかなんてことに煩わわれず
に。
 なんかぼくのことばも怒りっぽく仰々しくなってしまう。
 ぼくが語りたいのは、塚本の古い本を開いて、そこに閉じこめられたぼく自身の痕
跡を見るしかない、といったようなことだ。比喩としてでなく、そこに差し挟まれて
いたいくつかの切り抜きやメモは、よくもまあと驚かされるようなものもあった。あ
れだけ引っ越しを重ね、一度などは全部の本をなくしたのに、これはどこをどう巡っ
て残ったのだろうと訝しくさえなる。
 最初に塚本を教えてくれたのは詩人の沖野隆一で、彼自身の塚本との出会いのエピ
ソードも、なんというか、いかにもそれらしいものだった。小説を書いている先輩が
沖野の所に遊びに来て、当時は誰も電話なんて持ってないし、アポイントメントを
とって会いに行くなんてことはなくて、「おい、いるか」といったふうだったから、
あいにく留守で、彼は塚本の「ロミオ洋裁店春服のトルソ下半身なし* * * さら
ば青春」の切り抜きを安アパートのドアに貼りつけて帰っていったとのことだった。
ぼくの本に挟んであった黄ばんだ切り抜きは、その時のものか、後で沖野か自分自身
で見つけた別のものだったのか。この雑誌からの切り抜きは、裏面の印刷に残ってい
た文字が「きしか死顔をもてり」で、これは春日井の「火祭りの輪を抜けきたる青年
は霊を吐きしか死顔をもてり」(1960年刊『未成年』収録)だろうから、当時の
「短歌」とか「短歌研究」とかだったのかもしれない。
 塚本はそれなりに有名人だったし、熱烈に支援する編集者も多く(関西人だし)、
ときおり文藝春秋なんかにも小さな囲みの、゛今月の詩゛とかに出たりもしていて
(そういう扱いはかわいそうではあるけれど)、そういったものの切り抜きも1枚挿
まれていた。「鬱金香」。このタイトルを読める人はいないだろうけれど、チュー
リップというルビが着けてある。やれやれ、なんていう気はないけれどでも正直ちい
さなため息がでたりするのも事実だ。対・・・・という対象を意識しすぎたり、アン
チの姿勢で書かれることが多すぎて、なんだかもう、「あなたのすばらしさも賢さも
世間の愚かさもわかったから、あなたの思いのたけを、スタイルに無駄なネルギーを
費やさずに、ストレートに語ってほしい」と思ったりもした。こんなふうに書くと、
リアリズムか写生か生活詠嘆か、なんてまた言われそうだけれど。
 「蕗煮つめ魂の贄(ニエ)つくる妻婚姻の後千一夜経つ」は贄なんてことばに負けそう
だけれど、ずっと好きだった歌のひとつで、自分でおさんどんをやるようになって、
実際に蕗を煮つめたりするといっそうわかる気がする。あの匂い、立ちのぼる湿気(ウ
ンキ)、子どもはけして好きになれない味、香り。どんなに台所が簡潔に明るくなって
も、そこだけに奇妙に黒ずんで見えてしまうような。この歌は昔は、生け贄といった
ことばの連想もあって深く隠された妻の底知れぬ悪意や憎悪だと思っていたけれど
(塚本の作品だし、三島ばりのやさしく平然とした殺意だとか)、今は、魂の捧げも
のであり、祈りにもみえてくる。でも、蕗も、煮つめるも、リアルに感じる人なんて
今もいるのだろうか。

 

菜園便り125 ????????
6月17日

 気ばかり焦るのに、なかなかやる気になれなかった梅の塩漬けがやっとできた。
買ったのがかなりひどい梅だったので、もう一回、ちゃんとしたので少し、せめて2
キロぐらいは漬けたい。
 これで黴も出ずにうまく梅酢があがってくれれば2週間後ぐらいに赤紫蘇で本漬け
(今年は紫蘇なしも少しやってみよう)、そうして間をおいて土用に干せば、梅干し
のできあがり。秋には食べられる。
 作業は、最初に黴が出ないように器具を全部洗って熱湯消毒したりすろのがめんど
くさいし、すごく神経質になるので、とりかかるまでつい億劫になってしまう。塩を
10パーセントくらいに押さえるからだろうけれど、とにかく丁寧に、ご機嫌伺いつ
つやるしかない。無精するとてきめん黴に襲われて、大わらわの後処理になる。
 送ってほしいという要望もあって、今年はいつもよりたくさんやっつけた。3キロ
と5キロぐらいだったから、8キロにもなる。残った、というより使えなかった梅の
まあまあので梅酒をつくり、残りの3キロくらいは廃棄、ひどいけれど仕方がない。
梅酒はいつもはつくらないけれど、そういう事情だし、新聞にワインでつくるのがで
ててやってみたくなったこともある。これは砂糖が通常の五分の一くらいで、だから
冷蔵庫保存、1週間目くらいからのめる、とあった。興味津々だけれど、でもどうせ
飲むのは味見の一っぱいだけだろう。
 漬け込むために必要な35度くらいの甲種焼酎(ホワイトリカー)を買いにでる
と、一面田植えのすんだ稲田だった。そのあたりは毎年早稲(ワセ)で4月には田植え
だったから、6月というのは久しぶりだ。広々と張られた水にまだ小さな苗が涼しげ
に映っている。水や作業手順の関係もあるのだろう、一帯全部がこの時期の田植えに
なっている、そういうのもちょっとすごい。なんというか、一丸の共同体、無言の強
制、外れるものは村八分、そんな不謹慎なことをちょっと思ったりもする。田圃のな
かだけでなく、畦や側溝の草刈りなんかも放っておくと、以前はかなりきつくあれこ
れ言われたと聞いたこともある。集団でやっていくしかないことがら、生きていくた
めの知恵でもあるのだろうか。
 我が家の菜園の野菜も順調で、胡瓜が採れ始めた。ずっと続いているレタス、パセ
リ、ルッコライタリアンパセリ、バジルを追って、本格的夏野菜が始まったことに
なる。トマトも色づきはじめ、ズッキーニも2日おきくらいに採れる。楽しみなゴー
ヤも小さいのがなっているのが見つかったから、もうじきだ。青じそも毎日食べられ
るし、残っていた冬野菜の種を試しに蒔いた蕪やラディッシュも順調で、サラダだけ
でなくあれこれ使える、おひたしや吸い物や。
 一気に伸びたバジルは先日どっさり収穫してバジルソース(ジェノベーゼ)にして
半分は冷凍保存したし、ついでに伸びすぎて困っていたパセリもソースにした。台風
と潮の害がなければ、夏の間に後2回くらいはつくれそうだ。もう花の咲き始めた
ルッコラは次のがプランターで伸び始めたから、端境期はなくてすみそうだ。
 頂いたディルもいつものようにいい香りを楽しんでいたら、これももう無限放射
状、とでもいった花が咲き始めたし、アーティチョークは開花に向かって固い松ぼっ
くり状の頂上を開き始めた。
 数十年に一回と昂奮して父の言う、竜舌蘭の花、も花茎を3メートルほどにも伸ば
して準備に入っている。この花茎はほとんど1日でこんなに伸びて驚かされた。父も
初めて見るもので、だからここに来て50年経ったんだと断言している。そういうふ
うに言う時、父は50年前を思いだしているのだろうか。そうしてそれはいい想い出
なのだろうか、ぼくも問うことはなく、父も黙って空を見ているだけだけれど。

 

菜園便り一二六
六月二〇日

 知人たちと集まり、プロジェクターで拡大して通常の家庭用よりは少し大きめに映画を見る機会がある。前回はフェデリコ・フェリーニ監督の「アマルコルド」。久しぶりのフェリーニは、やっぱりわくわくと楽しく、しみじみとして、そうしていつもそうなように少し哀しい。こんなにもたくさんのことを、戯画化された(それは抽象化のひとつだろうけれど)、でもやさしい視線で描き続ける2時間。彼自身のそうしてあらゆる人の郷愁や憧れがぎっしりと詰め込まれていて、それはこの極東のわたしたちにも地続きで伝わってくる。
 冬の終わりを告げる、その年初めての綿毛を掴もうと街頭に溢れてくる人々の喜びから始まり、翌年の広々とした北イタリアの野に舞う、再びの綿毛で締めくくられる。季節は移っていき、かけがえのないものが喪われ、哀しみに覆われ、それでも世界は巡っていく、それはまた生の喜びでもあり、最後には全てが祝福されてまた続いていく。
 そういったことがひとりの少年を中心に彼の家族をとおして、街をとおして描かれていく。重ねられる様々なエピソードが羅列に終わらず、重層化されて積み重なり、世界を人を浮きあがらせるのは、それぞれの挿話の質にもよるけれど、その長さの的確さにもよるのだろう。冗長にならずに、でもみるものにきちんと届くだけの長さを持って、そうして少し引いて劇的になるのを押さえつつ、といったこと。だからそれはもう特定の時代ではなく、イタリアだけのできごとではなく、わたしたち全ての過去を照らし、今につながるものになっていく。
 それぞれのできごとが一度ずつ描かれる、政治やファシズム、戦争も含めて。1年という区切られた枠のなかだからというだけでなく、あらゆることは永遠に新しくそして古い、つまりくり返され続けつつ、かつそのひとつひとつがけして同じでないということだろう。あっけないほどに単純でそうして限りなく深い、人であり生であり。
 馴染みのある人たちといっしょにみると、今までとちがう見方も生まれる。女性とか性の扱い方に少し驚かされ、改めて考えさせられもする。フェリーニの超えられなかった枠組みをわたしたちはすでに易々と超えているのかもしれない。そうして、そういうことを考えずにイタリアのおおらかな女性像、母親像を前提にできた世代が持っていたもの、今は喪なわれているものを、感傷としてでなく思ったりもする。
 でもとにかく楽しくて、映画と共に巡っていく。少年時代を終えつつある腕白坊主が、母の死、憧れの人との雪の日のすれ違いを経て、大人へと近づいていくのをみながら、成長を喜びつつも、その永遠に喪われてしまうアドレッセンスを、かなわないものへの憧憬として、遠くから手を振るように懐かしんだりもする。
 永遠に還らないもの。花嫁の去った綿毛の舞う野を三々五々帰っていく、アンチクライマックスのように拡散していく人々、映画、感傷、思いで。わたしたちも自分の世界へ、かけがえのない、退屈ででもあたたかい世界へ戻っていく。少しだけ心豊かに、賢くなって。

 

菜園便り一二七
七月八日

 菜園は空梅雨にもめげずに元気。胡瓜やゴーヤが去年ほど勢いがないのは、まあしかたないだろう。でもトマトは実が割れることも少なく、今年の方がいい。やっぱり乾燥地帯の野菜だからだろうか。例年通り、茄子は不調。四本とも枯れることはなかったけれど、小さい実を時たまつけるくらい。ピーマンは小柄な体のまませっせと大きな実をつけてくれている。青じそは生育も悪く葉が固いけれど、その香りを素麺などで楽しめる。唐辛子が赤いほっそりした実をつけ始めた。
 ズッキーニはすごい、歯も実も勢いをもって続いている。父はそのせいで横に植えた茄子が弱ったと思っているようだ。何度言ってもズッキーニを食べてない、まだ実がならないと思いこんでいる。レタスとパセリはほぼ終わり、ルッコラも次の代へ移行中、イタリアンパセリとバジルは今が盛り。ディルもそろそろ終わりそう。何となく植えてみたピーナツは少しずつ葉を広げてはいるけれど、どうなることやら。やっぱり収穫は秋だろうか。
 竜舌蘭は五〇年に一度という花茎を一晩で二メートルもの伸ばした後はのんびりで、少しづつ伸び続け今や四メートル近い。花のためだろう短い枝をいくつも伸ばし、そこに上向きに蕾らしいものがたくさん着いている。そのうち開くのだろうけれど、なんか時間が経ちすぎて、感動は薄れる一方。父も最近は無関心だ。
 ずっと気になっていた梅のほん漬けがやっとできた。赤紫蘇がなくなる前にと焦りつつも気力がでなくて延び延びだったのでうれしい。ひどい梅で漬けたから、幸い黴はでなかったけれど、梅酢が褐色がかっていて残念。紫蘇でうまく紅く染まってくれたらいいけれど。後は土用の丑の日あたりをめどに干して終わり。秋が楽しみになる。今年は梅酒もどっさりつくることになったから、それも誰かにあげよう。
 台湾大震災のドキュメンタリー映画「生命」をアジア映画祭でみたけれど、悲惨さよりも移ろっていくということが前面に現れていて、人の心のしなやかさや勁さが浮かびあがってくる。菜園や庭の樹木を見ていてもそういうふうに移ろうことで、次々に新しい命やつながりを生んでいるのがわかる(変化が正しいとか、新しいものがいいとかいうことでなく)。生のなかに死があり、死のなかに生が育まれる。あたりまえのことを、そのままに受け止められる。

 

菜園便り128 ???????????
7月25日 映画祭①

 セクシュアリティに関する映画祭をみに、東京まで出かけていった。今年で2度
目。1週間もいて、しっかりみることができたのは旧い友人たちが、歓待してくれ心
やすく泊めてくれたからで、ほんとに感謝。毎日ご飯もつくってもらい、こんな贅沢
はちょっとないから、癖になってしまいそうで困る。家に帰りたくなくなってしま
う。
 正式名称は「第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」で、例年のようにセク
シュアリティをテーマにした作品がボランティアの力で5日間に渡って上映された。
取材ということでプレス用のパスを発行してくれた。旅費も自前だったからほんとに助
かった。「文さんの映画をみた日」のせめて2回分の記事にはしたい。
 会場は青山のスパイラルホール。今回は別に1日だけ、近くの東京ウイメンズプラ
ザでドキュメンタリー3作品の上映とティーチインも行われた。小さい多目的会場は
かための内容にも関わらず2階まで埋まる盛況で、驚かされた。誰もが切実に具体的
な問題についても知りたいし考えなくてはと必死でもあるのだろう。
 映画祭は、そういったふだん接する機会の少ない表現を公開し共に考えようという
だけでなく、お祭り的な楽しさも持っていて、日頃はバラバラで孤立している、同じ
ような立場にいる人たちとの出会いやつながりを確認する場にもなっている。作品に
よってはロビーが人でぎっしり埋め尽くされて、熱気に溢れることもある。でも意外
なほど静かで、仲間と来て極端にキャンピーな態度をとっている子たちもどこか落ち
着いていて、まれな機会に舞い上がってしまうこともない。そういうことでも、やっ
ぱり誰もがふだんはひっそりと、大げさにいえば息を殺すようにして生きているのが
伝わってくるようで、ちょっと身につまされ寂しく感じたりもする。  
 映画の内容は、最近いたるところでつくられている、カミングアウトする<ゲイ>
の男性とその友人の女性とのコメディや、若者をフィーチャーしたハリウッド系的な
映画、生真面目な歴史物、それにドキュメンタリー、公募作品などなど多様。
 公募の4作品はバラバラな内容で、直接セクシュアリティに関わることのない、な
かに「同性愛」的なもの、<ゲイ>的なものが出てくるだけのものもある。何故こう
いったテーマを撮るのかが全くみえてこないものもあるなか、大阪のコジ監督を中心
にした、ヘテロ薬制作実行委員会の『ヘテロ薬』(2005年)はオムニバス形式
で、多様な視点からセクシュアリティに関わる困難や疎外感、カミングアウトのこと
などが語られている。とにかく自分のことばで今のことを語りたいという切迫感に満
ちている。と同時に、ユーモアも含まれていて、今の状況は正直しんどいけれどなん
とか距離を取って、当事者として息をつきながら、開かれた問題として話せたらいい
なという思いもある。監督などの挨拶が上映後にあり、そこでもセクシュアリティ
問題を当事者として社会に向かって積極的に語りつつも、閉じずに相対化していきた
いといったものが感じられた。誰もが、「みんなも「社会問題」としてもきちっと考
えてほしい、でも当事者はそこに留まらないで、閉じないで」と願っているのが伝
わってくる。
 マイノリティー問題とか差別問題のなかで終始せずに、当事者というあり方そのも
のを開いていく、あらゆることがらについてまわる当事者性ということそのものの相
対化を可能にする視点を探らなくてはならないのだろう、誰もが。

 

菜園便り130 ????????
8月3日

 とうとう、8月。7月に較べ天候が不安定になり不意の夕立や雷雨もたまにあるけれど、くっきりと晴れたほんとに「大気が熱い!」の日々。猛暑も最高潮。でもどこかで、この傲岸な夏もその底が見えた、とちらと思えたりもする、微かな安堵と残念さも含めて。じきお盆がくる、それを過ぎると土用波がたつ、クラゲも出る、海水浴は終わりだ。でも暑さは続く、特に近年は9月の残暑の厳しさはかなりのものだ。9月初めに必ず涼しい日があるから、易きに流れる体があっという間にそれに馴染んでしまって、その後の暑さが、季節感との違和も手伝って、異様にまで感じられてしまう、といったようなことがくり返される。でも、やっぱり夏の終わりの翳りがこの突き抜けた空の真っ白な湧き雲の彼方にそこはかとなくかぎ分けられたりする、気がする。  
 夕焼けが少しずつ色を増してくる。草木の増長や黒々とした濃い緑も、圧倒される程の勢いは止まった。かわらず勢力を誇示し、占拠した地面は一歩たりとも譲らない面構えは同じだけれど、もう勢いに任せてでたらめなまでにどこまでも広がっていく気迫は希薄だ。
 すでに6月には夏至を超して、陽射しはどんどん短くなっているのだから、やっと温まった大気の暑さと、傾いた陽射し、日照時間のもたらす落差はすでに視覚的にも隠しようもない。深夜のひっそりと抜けていく風の思わず身震いするような涼やかさも説得力がある、なんというかつまり突然の場違いではなく、受け止められる、感じられるということ。
 かろうじて菜園だけを残して庭を覆い尽くした向日葵が伸び上がり、生きいそぐように次々に花を開き黄色い花粉を撒き散らしている。やっと土用干しした梅の上にも黄色い、鉱物の結晶のような細かな粉が舞い落ちる。頭も心もたがが緩んでしまって、書くものも短くなる、一息とちょっとぐらいで終わり。読む方も楽だろう、とぼんやり思いつつ。

 

菜園便り一三二
八月二四日

 3週間ぶりの雨が潤いと涼しさをもたらし、ああ、こういう雨がせめて4、5日おきにでもあったら、8月もどんなにしのぎやすかっただろうと、どうにかくぐり抜けた時間を今からなじったりするのも、やっと終わった、先は見えた、後はどんなにひどくったってもうどうにかやりこなせるという安堵があるからだろうか。湿った空気に少しべたつく足裏にも嫌悪生まれず、それが生む水のイメジが体のなかを静かに涼しく流れる。
父が好きで1日おきくらいにくり返した素麺の昼食も、さあつくろうという気合いが薄れるのは、その淡泊な味を飽きさせないほどだった舌や喉への滑やかな爽やかさを疎んじ始めているからだろうか、暑さの微かな翳りにそれと意識しないままに敏感に反応した傲慢な気持が。でもほんとによく食べた。生姜、紫蘇、茗荷、胡麻、時には錦糸玉子やおかかも薬味にして、出汁はつくってみたり、市販のだったり。島原素麺とか播州素麺とかのいただき物以外はだいたいは揖保の糸が我が家の定番だった。残ったら寒くなってにゅう麺に、おいしくないのは椎茸の出汁で煮素麺に、そんなことももうどこかで考えている。
 菜園の水撒きは続けたけれど、炎天のきつい陽射しとそれが熱する大地や大気の暑さには勝てず、胡瓜の全部とゴーヤの半分は枯れてしまい、父がとうとう引き抜いてしまった。乾きに強かったトマトも4日前の小さな3個で途絶えたままだ。枯れた枝が切り落とされて、畝の周りはずいぶんとすっきりしている。茄子は実はつけないけれど不思議と今年は持ちこたえていて、これなら秋になってまたなり始めるのかもしれないと期待が生まれたりする。ピーマンはお休み中。青じそは縮こまった硬い小さな葉をちらほらとつけているだけで、それもショウジョウバッタにすっかり食べ散らされている。パセリは花茎を伸ばして開花し、ルッコラプランターのだけがかろうじて葉を広げている。我関せずといったふうに変わらない姿でひっそりと片隅にあるのは落花生。初めて植えてみたけれど、暑さや水不足に強いのだろうか、砂地がいいとは聞くけれど。
 菜園を取り囲む一面の向日葵だけが権勢を誇って、傲岸に頭を上げている。潮にはからっきし弱いけれど、でも鮮やかな色とくっきりとした形は、うつむきがちで固くなった気持をすっと上向きにしてくれる。そうしてそこにはまだ積乱雲も混じる青い青い空。

 

菜園便り一三三
八月二九日

 先日買い物に出ると、すでに稲刈りのすんだ田圃に鳥が集まっていた。渡鴉が覆い尽くすほどに群れをなして、というのではなく、幾種もの近隣の鳥がいる。四羽の鵲(カササギ)に先ず驚かされた。この町に一つがいしかいないだろうと思ってたこともあるけれど、こんなふうに二羽以上揃って見るのは初めてだった。近づくとつがい毎に別々の方向に飛びたつ。鳶は八羽もいて、このあたりの全部が勢揃いか。順々に飛びたち上空でゆっくり舞い始めた。白鷺も何羽か点在している。遠くのは五位鷺とか灰色鷺だろうか。すぐそばの家の、本格的な畑を持つ庭先には、雀や椋鳥などの小さな鳥が群れている。
 冬の、というか夏以降の野菜のためだろう、堆肥の山が突き崩され撒かれたからで、そこにいた虫を目当てに集まっているのだろう。黒々としてにおいも強い堆肥だから、微生物だけでなく、ミミズとかカブトムシの幼虫だとかもどっさりいるはずだ。このにおいは、これ以上、例えば倍になれば耐え難いだろうけれど、十分の一くらいに希釈されたら、かなり濃厚なうっとりする香り、麝香とかムスクプラント系のものになるんじゃないだろうか。どちらかというと身体的な、懊悩をかき乱すかなりきわどい匂いだ。こういった堆肥は珍しくなった。面倒でつくられなくなったこともあるけれど、臭いの苦情がでたりするから、目につく(鼻につく)場所にはなくなったこともある。
 最近話題の有機肥料を売り物にするところはもっと徹底して手を入れていて、だから臭いもない、手で触ってもほろほろとほぐれていくようなものらしい。そういうのはつくるのもずいぶんとたいへんそうだし、「清浄有機肥料」なんてことばで呼ばれたりするんだろうかと思ったりもする。ちょっと近寄りがたい。
 ぼくが不躾にじろじろ視るのを止めて立ち去れば、すぐに鵲のつがいが揃って戻ってくるだろうし、鳶もまた順番に仲間内で決められた定位置に降り立つのだろう。まるでタルコフスキーアンゲロプロスの映画に頻繁にでてくる配置、「タルコフスキー・アングル」ばりの位置関係で。
 暑さはまだ収まりそうもないけれど、雨や陰った日も多くなりしのぎやすくなった。太陽光が遮られるだけで、こんなにもちがうのかと、そんなことにも驚かされる。毎年の繰り返しなのに、すぐに忘れてしまうことけして蓄積されていかないことも多い。どこかに蓄えたくない、新鮮な驚きにでも出くわさないとやってられないなんていう傲慢や、考えると耐えられなくなるなんて大げさな拒否反応があるのだろうか。こんなに穏やかな気候の土地と思っても、夏と冬はやっぱり荒々しくて厳しく、耐え難く酷たらしいとさえ思ったりするのは、自分でもあまりとは思うけれど、でも温帯地域が温暖でのんびり生きるのに最適で、この極東の日本列島が快適だとはなかなか納得できない、と真夏の今は思う、そして真冬にはもっと。
 酷薄な陽射しが落ち着けば、また散歩の楽しみが復活する。空も野も、その隅から徐々に色合いを変え始めている。そうしてある日、ふいに季節はかわる。

 

菜園便り一三四
九月三日 夏の日の想いで

 夏の想いでなんてとうに色褪せてしまったけれど、八月の終わりにはメディアが必ず言及することもあって、子供がいなくても夏休みの終わりということが頭をかすめる。想い出のなかで夏休みがうっとりと蘇り、蝉の声と西瓜と海水浴と蝉とりとバタンと倒れ込むような昼寝と素麺に満ちていて、それだけでもう十分だった。夏休みの友、幾種類ものドリル、絵日記、観察研究、図画工作、そうして早朝のラジオ体操がのしかかっていたし、書道の清書に泣かされたことは今も苦く残っているけれど、でもそれでも待ち遠しく、ただただ走りまわるだけの生き生きとした日々だった。
 休み中に必ず一回だけ連れて行ってもらえる映画も大きな行事であり喜びだった。ディズニーの長編アニメーションや記録映画が多かったけれど、きちんとよそ行きの服を着て家族連れだって出かける時のあのワクワクとしてじっとしてられないような浮き立つ気持。母の化粧や着替えの長かったこと、揃って文句まで言って。でも今思うと、家を空ける準備、子供たちの着替え、あれやこれややった後、大急ぎで自分の顔を叩いていたのだろうに。夏の間だけの、氷の入った川端ぜんざいを食べさせてもらえるのも楽しみだった。そんな些細なことがあんなにもうれしかった時代があったなんて、今では信じられない気もする。
 夏は映画もかきいれどきでだから今年も大作、有名監督、人気俳優が並んでいる。大きな声では言えないけれど、映画について書いているのに、どれもみていない。とりあえずみなくてはと思いつつ時間は経っていく。予告編で何度もみた、テレビでもやっているし、メディアが書きたてるから、細部までわかってしまった気になる、まずい、でも腰は重たい。才能ある監督や出演者だし、巨大な予算を使い、CGを駆使し、流行りのテーマもしっかり取り込まれて厚みもある。大型スクリーンでしか堪能できない動きやシーン、映画館でみるならこういうのこそみなくてはという声も聞こえる。でもその全てが、結局はひとつの目的、ただ消費するためだけにつくられていると答えている。激しい動きや好ましい俳優にみとれ、愛やヒューマニズム歓喜と苦悩と涙、暴力や戦争さえも堪能し、そしてそれだけ、に思える。
 何かをほんのわずかでもいい、今までと違って感じたり考えたりするきっかけにはならない。ましてそこで改めて生きることなどおぼつかない。映画はいろんな楽しみや思いに彩られているし、それでいいけれど、消費させることだけが目的になった時、映画自体が自分を消費しはじめて未来を喪ってしまうだろう。たかだか表現のひとつでしかない、でもそれがすごいことだと、人や生を突き動かす力があり、見も知らぬ世界を開く力を持っていることを、つくる側もみる側も改めて信じることから全ては始まるのだろう。

 

菜園便り135 ??????
9月22日

 イランの、というよりクルドバフマン・ゴバディ監督「亀も空を飛ぶ」をみた。「文さんの映画をみた日」に書こうとしていた別の映画に好意的になれなくて、大急ぎでみにいったのだけれど、うちのめされるようだった。どことはそれと名ざせない人や社会の深い部分を、静かにでも思いがけないほど強くうつ映画だ。
 子供たちをとおして世界が描かれるから、いろいろのことが辛いほどにも剥き出しになる。裸の皮膚に火があてられるようで叫び出しそうになる。錯綜する中東、長く続いている絡まり合った民族や国家の軋轢、そこに介入し侵攻する米国。翻弄され痛めつけられて暮らさなければならない子供たちの、人々の、それでも生きていく現在が描かれていく。 今の社会に流通している常識や自己正当化や諦めといった、ことばによる合理化をできないから、子供たちは世界と直に接触してしまう。絶望は底なしであり、徹底して救いがない。同国人であるイラク兵に親を殺され、強姦されて産んだ憎しみの子供と共に難民キャンプで生きるクルド族の少女の絶望の深さは、ことばでは追えない。石の錘をつけてその子を池に投げ込み、自分もまた崖から飛び降りるまでの絶望。身を投げる直前に映される汚れた足の小ささが、みる者の心臓を鷲掴みにする。
 エネルギッシュに、はしっこく立ち回っては村々にアンテナをつけ、おおぜいの子供たちを使って掘り出した地雷を売り、機関銃まで手に入れるリーダー格の少年は、頻りに米語を使い、アメリカを憧がれ続けていたが、侵攻してきた米軍にくるりと背を向ける。好きになった難民の少女は死に、命がけで地雷原から救った幼児もすでにいない。走り続け怒鳴り続け、かろうじて持ちこたえていた生きる意味や目的が喪われ、現実はバラバラに崩壊して掴めない。低くたれ込める暗うつな雲の下、茫々たる虚ろさがあたりを覆っていく。瞬時も油断できない、ただ走り続けるしかない異様な世界のなかに放り込まれ、必死で駆け抜けてきて、今、呆然として立ち竦むしかない。でも救いのなさではなく、なんと呼べばいいのか、人としての生の勁さみたいなものが映画の底を流れていて途切れることがない。
 イラク、イラン、トルコなどにまたがる、長い抑圧の下にあるクルド族と呼ばれている人々に、イラン-イラク戦争が新たに加わえた痛み。そうしてイラク戦争では侵攻する米軍が、解放に来たというビラを撒く。衛星放送受信のアンテナを立てるところから映画が始まるのは象徴的だ。戦争が開始されるかもしれないと、外国のニュースを必死で聞こうとする大人たち。早く知りたい、ほんとのことを知りたいという素朴な願いが、一元化された世界へ、特定の「真実」や標準へと人々を巻き込んでいき、それはたちまち、人より早く知りたい、人に勝てる情報を得たい、へと変質するしかない。そうして一度取り込まれたら抜けることのできない網のなかにますますはまり込んでいく。
 戦争や悲惨といった素材やエピソードによってではなく、表現の地鳴りのようなものでみている者を大きな力で揺するから、そこにことばでない共振が生まれる。ドキュメンタリーという形を取らずにこんなにも直截に人々を描けるのは、登場する人々が当事者であり、その眼差しや身体、しぐさにも深く染みついた哀しみと怒りがあるからだろう。もちろんそれを引き出し結実させる監督や製作する側の力も大きい。でもそれはけして技術や才能などの問題でなく、世界をどう捉えるかといった根源的な、考え方や生きる態度の問題であり、ドキュメンタリーとフィクションの違いというようなことが様式や<現実>の違いでないことも知らされる。既成のことばや考えをなぞる限り、どんな形の表現であろうとたどり着く先は決まりきっていているし、同じことにしかならない。
 具体的な抑圧や戦争を前提にし、個々のことがらも語りつつ、映画は事象を超えた場へといつの間にかわたくしたちを連れて行く。世界をまるで初めてのように、直に見ているかのように。自由というのはそういうことなのかもしれない。
 映画のなかで悲劇的な結末を迎える少女の底なしの絶望を前に誰もがことばを失うしかないけれど、不思議なことにこんなにも深い絶望と共に、それを受け止める力も映画はそっと差し出していて、わたくしたちは知らないまにそれを受けとっている。終わった後に、勁さや明るさの印象さえ持つのはそういう力ゆえだろう。世界はこんなにもでたらめで酷たらしいけれど、そこにはわずかであれ喜びも美しさもある、その両方で成り立っている以上、今は両方を取るしかないんだと穏やかに諭すかのように。
 亀も空を飛ぶ、わたくしたちも冷たい水をくぐっていく。希望とか未来とかいう期限切れのことばでなく、まだ見えぬ知らぬ、でも誰もが持っている新鮮であたたかなものに支えられて。世界は生きるに値するんだよと何かがそっと囁く。

 

菜園便り一三六
一一月八日

 立冬はいつの間にか来る。立春のように、あんなに見つめられてカレンダーに穴が開くんじゃないかと思ったりもするほどに、指折り数えて待たれたりしない。新聞紙面のとってつけたような写真と見出しで、ああもうかと小さななため息がでるだけだ。今年はすごく暖かくて、一〇月の気温だったりするからよけいにそんなふうに思える。でも夜の冷え込みと暖房の入った電車で、寒さが近づいて来ているのを嫌でも思い知らされる。爽やかで楽しい秋はいったいどこにあったのかと、つい詰問したくなる。貧しい心根だとわかりつつも。
 菜園の冬野菜の種まきはずっと前にとりあえずすんだけれど、発芽がよくなくて、特に大根、二十日大根(ラディッシュ)、人参はほぼ全滅で、もう一度蒔いたら、それはうまくいって順調に芽が出て伸び始めた、うれしい。すっかり忘れていたいちばんだいじな蕪も一昨昨日に蒔いたから、期待しよう。冬の野菜でいちばん好きなのが蕪で、あの独特の香りや味は、軽く塩しての酢の物でも、薄味の煮物でもおいしい。鍋やみそ汁に入れたりもできるし、小さいとりたてはサラダにぴったり。他のもので代替えできない味覚だ。葉っぱももちろん同じようにして食べられる、生でも。
 大根ももちろんおいしいし同じようにあれこれ食べ方もあるし、おでんにはなくてはならないし、おろしは大根でしかできないけれど、季節限定ということもあって、冬野菜の軍配は蕪にあがってしまう。間引きした小さな大根を葉ごと軽い塩で漬けたものは、色といい瑞々しさといい、あの緑みどりした野草の草液が一面に飛び散るような青くささもすばらしいけれど。
 春菊は畝全体に発芽して伸びているけれど、同時に蒔いたほうれん草はぼちぼちといった感じ。毎年こうなのでここの土地にあわないのだろうと半分諦めているから、がっかりもしないですむ。青梗菜もまあまあだし、空豆は九割方は芽を出して、来年春への期待がつのる。
 夏から続いているピーマンや茄子もまだ収穫があるし、先日両手いっぱいに抱えるほども刈り取ったバジルもまた葉を広げて元気。再度植えたルッコラも雨が続いて生き生き繁り、イタリアンパセリも食べ尽くす蝶がいなくなってまた葉を伸ばしだした。苗で植えたレタスももうサラダには欠かせない。それから今年初めて植えてみたピーナッツがいくつか実をつけていて楽しくなる。落花生とか地豆(ジーマミ)とか言われるように、ほんとに枝が地に着いた浅い所にあの殻ごとの実が埋まっている。
 分葱も残っているし、カツオ菜もまたどこからか出てくるだろうし、まだあたたかいうちにと何度か蒔いたコリアンダーやディルの期待は消えつつあるけれど、まだまだ菜園の楽しみは続く。
 細々と映画のことを書く以外には、この菜園便りを書き継ぐだけだったような気もするけれど、そうやってまた季節が閉じて、今年も終わっていこうとしている。冬は、なんといっていいか、傲慢で無愛想な隣人というか、仕方のない、その他の喜びのために我慢しなければならない時、といった感じだ。そんなことを言うと、せっかく頑張ってくれている冬野菜には申し訳ないけれど、正直なところを言えば。

 

菜園便り137 ??????
12月17日

 ジョウビタキが窓の直ぐそばで羽ばたいて行き惑っている。何だろうと近づくとさっと飛び去った。鮮やかなオレンジに大きな白い紋だからすごくめだつが、派手なのは雄に決まっている。まだ目白がやってこないのは、アロエのあの不気味な熱帯植物みたいな花がまだ咲かないからだろうか。筒状の花に嘴を差し込んで、ちゅんちゅんと移り歩く様はかわいい。おまけにあの色と顔だ、憎める人はいないだろう。
 窓のそばの薄い桃色八重椿は今年はたくさんつぼみをつけていて、こんもりした木の形そのままに花で覆われるのが待ち遠しい。庭の入り口付近の山茶花が数年ぶりに花をつけてた。滲んだような紅色で八重で時期も遅くて、と勝手な理由で嫌ってほったらかしにしていたら、毛虫に葉を完膚無きまでに食べ尽くされて弱ってしまい、ずっと花をつけなかった。嫌われてまま子いじめされたので、虫に身を委ねてこの庭から姿を消そうと、自死を試みたのだろうか、可哀想に。久しぶりのせいか花も大ぶりでたくさん咲いている。感心するし偉いと思うけれど、そのあれこれ全部がちょと疎ましく思えたりもする、ひどい言い方だけれど。
 菜園の茄子は苗植えの時から、どうせうまくいかないと冷たくあしらわれ、そのとおりにあまり実をつけなかったのが、秋口に他の苗を植えた時に余った肥料をやったら急に元気になって花をつけ実をならし始めた。薄紫の花はなかなかのものだし、小さな実もせっせと摘んでは食卓にあげた。12月になってもまだ花は続いていたけれど、もう実にはなれない。先週まとめて引き抜いて、最後の花は花瓶に挿して楽しんだ、指ほどの実も着いていてなかなかの結構だ。健気というか、ちょっとずれてるというか。でも採れたての茄子は、他の野菜もそうだけれどほんとにおいしくてうっとりする。味も香りもふんだんで、歯ごたえがよくて
 レタスやルッコライタリアンパセリはまだ続いているし、大根や春菊も少しずつ間引きしながら若々しい柔らかさと青くさい香気を味わえる。そろそろ青梗菜を収穫して、定番の干しエビ炒めにしなくては。塩なしで爽やかな野菜の味と甘みが楽しめる。期待していた蕪は発芽した後足踏み状態だし、ほうれん草は完全にアウト、残念。
 庭のすぐ向こうの海には秋の始めに戻ってきた鴎が群れている。海岸には千鳥や鷺もいる。もちろん鴉や鳶も。時々小さな群れで騒いでいるのは、渚の漂着物の争奪戦。覗いてみても何だかわからないことも多い。彼らなりの理由や食性があるのだろう、もしかしたらただ縄張りや自尊のためだけなのかもしれない。
 11月からもう波打ち際に打ちあげられ始めた、時には1メートルを超すソデ烏賊も恰好のターゲットだ。鴎、鴉、鳶の三すくみで争う。そうしてそこにもう一派、ひとり闘いに割り込んでくるのは、人間。何人も海岸を獲物を求めて歩いているけれど、誰もがひとり、孤独に寒風に吹きさらされている。烏賊を引っかける鈎の着いた長い竿を背中に負い、長靴、防寒具で鎧い、ひとりいい目にあおうと、抜け駆けしようと、たき火を焚き、爛々と目を光らせる。せめて冷たい夜明けにと思っても、暖かい車のなかで夜を明かし、薄暗いなかにもう飛び出してくる。鳥たちに勝ち目はない。

 

菜園便り一三八
一二月三一日

 久しぶりに風邪を引いた。悪寒が走り、腰や関節が痛むのは熱があるせいだろう。こんなのは二〇年来無かったことだ。胸の奥が時々ごほごほいっているけれど、まだ喉から咳として飛び出すまでになってないし、鼻の奥がつんと痛くて、目の奥がじんじんする。典型的な初期症状。これから咳が出る、体が重くなる、寝込んでしまう、になるのか、それとも意外や意外、一気に鼻水がほとばしって回復へと向かうか(ありえないだろうけれど)。
 正月の準備の真っ最中だから、このまま寝てしまうわけにもいかないし、それほどしんどくもないし、雑煮とおせち、玄関と仏壇の花は、這ってでもこなしておくしかない。残っていた洗面所の掃除は、あれこれの備品を取り替えてごまかしておこう。
 でも首筋もすごく凝っているし、お屠蘇の道具を拭いていると腕が小さく震えていた。自分の体やその症状を丁寧にみていくのは、けっこう楽しい。身体的な痛みや激しい不快感(例えば吐き気や頭痛・・・・おお、おぞましい)が無い時は、熱は頭全体をぼんやりさせ、体も浮いているようで、ふわふわした気分だ、わるくない(今のとこは・・・だけど)。
 今年もいつものように父が雑煮の出汁(鶏ガラ)、がめ煮それに鰤の下づくりをやってくれた。ぼくもかわらずに黒豆、栗きんとん(大成功とは言い難い)、野菜の下づくり(大根、人参、カツオ菜、里芋)をこなし、後は夕食とその後の早めの年越し蕎麦が残るだけ。
 お鏡はもう昨日餅が届いた時に六箇所に備えたし、各部屋のだいたいの掃除はすんでいる。兄一家が三が日には来ないことになったので、そのへんもいつもより手抜きですむ。おいしいお菓子をどっさり頂いたのが、しっかり冷凍庫にしまってある。準備万端、と言わずになんと言おう。
 今年も暮れていく。体調のせいかすごく感傷的な気持になる。目が霞むのは熱のせいだけではないかもしれない。いろなことがあって、胸かきむしるようなこともなくはなくて、でも喜びも大きかったし、遠く離れた、長いつきあいの友人たちと何度かじっくり話す機会にも恵まれた。映画のコラム「文さんの映画をみた日」も続けることができて、丸二年が経った。ほんとにうれしい。この「菜園便り」も書き継ぐことができた。これ以上望むことなどあろうか。そう自問しつつでもそういう自問自体がすでに満足のなかにいない幸福に包まれてないことの証左だという思いがよぎり、そういう発想自体が個に取り憑かれた貧しく、果てのない飢渇でしかないと、改めて思ったりもする。
 何度も書いたけれど映画『亀も空を飛ぶ』のなかでなんとか語られようとしていること、かろうじて伝わってくることを思いだすと、喉の奥に苦いものがこみ上げてくる。でもそれが世界なんだ、あまり気にせずに、さあまた生きていこうと、あんな悲惨にもかかわらずあの映画が届けてくる穏やかな勁さや深さにはただただ驚嘆するしかない。
 今年もやっぱりセンティメンタルに、パセティクに暮れていく。それもうれしい。明日にはまた山のような事ごとに押しつぶされて、ため息さえつけないにしても。


菜園便り一三九
二〇〇六年一月一一日 

『、愛。』
 新聞の日曜版に、最近は土曜に出るので土曜版というのだろうか、「愛の物語」とでもいった連載の記事があって、そこに、前の夫や妻を捨てていっしょに暮らし始め、長く連れ添ったふたりのことがでていた。そういうのを目にすると、いつものことだけれど、「ああ羨ましい」と思ってしまう。
 以前はそこには、何故自分にはそういう人が現れないのか、誰も自分のことをわかっていないというような、過剰な自負というか何の根拠も背景もない思いこみや願望があったりしたけれど、今は、自分には残念ながらそれを受け入れる度量みたいなものがなかっただけだということもわかる。若い時も、「自分にみあってしか交通関係はつくれない」なんて知ったような口をきいていたけれど、そういうことがほんとにわかるのはずっと後になってからだ。それにほんとに望んでいたことなら何らかの形で実現していただろうといったことも。
 最近もうひとつ思うようになったのは、「たいへんだったろうな」ということ。何十年も好きで通すのは当然にもたいへんなことで、そこには、最初はふたりを追い込み燃え上がらせるあれこれの、特に外側からの難しい条件があったのだろうし、その上にそれぞれが自分で創りあげ思いこむ物語が、意識下であれ必要だろう。互いの、期待されている役割をやりぬく力も、忍耐もいる、まさに相手への愛ゆえだ。だからぼくには、周りのみんなに泥をかけて駆け落ちする大恋愛や全てを捨ててどこかの国へ、といった歌謡曲さえ真っ青になるようなことは起こらなかったし、とてつもない成功や名声を得ることもなかった。
 まかり間違ってそんなことに遭遇していたら、あっという間に吹き飛んでバラバラになってしまっていただろう。もちろんそれならそれでいいけれど、やっぱり人は自分の背負える荷物しか背負えないんだ、背負わないんだとわかる。そんなことも昔書いたりしてたけれど、それもまた当時はひどく観念的でしかなかった、今思えば。
 そう思いつつわかりつつも、でもいつだってこんなに心が騒ぐのは何故だろう。やっぱり誰もがどこかでそういうことに憧れていて、しかも実現しっこないからこそ心込めて思いを馳せるのだろうか。「ここより他の場所」というのはいつもいつも人を妖しく誘っていく、夢のなかだけで。けれど、そういうロマンティシズムは思いもかけないところでたぎる岩漿を露呈したりもしていて、自分でも驚かされるし、足を掬われることもある、怖い。性愛の暗がりや澱んだ深みは一気に人を引きずり込んでしまう、自分から進んで身を投じるという形を取りながら。
 年を重ねることは感受の深まりと鈍磨とが手を取り合ってゆっくりと進み、行き着く先は穏やかな達観、と思いきやとんでもない落とし穴があったりして、油断も隙もない。身体が衰えていくことや、性的な好奇心が鎮まっていくことにはずいぶんと個人差があって、死ぬまできりきり舞いさせられる人もいるんだろう。たいへんそうだけれど、どっか悦楽的で嫉妬してしまいそうだ、本人はただただぎりぎりと締めつけられ引き裂かれる苦しみの連続にしても。

 

菜園便り一四〇 ??????
1月15日 塩田倉庫
 先日、知人の写真家が津屋崎にみえた。街並み、旧い家屋、時の沈殿した壁、時間がつくりあげた不思議、仕事でなく自分の作品のためのそういったものを探す一環。つきあって、久しぶりにぼくも自分の町を歩いてみる。
 1994年に開催した、街並み保存-津屋崎現代美術展<場の夢・地の声>の準備で、町をあちこちまわったことが思いだされる。ぼくにも、ほとんど初めてといってもいいような新鮮さでいろんなものが目に入ってきた時だった。喪われていく旧い街並みの保存、建て壊しの危機にある旧い紺屋(染物屋)の建物を残そうという、具体的な目的をもった美術展でもあった。企画された柴田さん(残念なことに先年亡くなられた)が行政との交渉や地域との関わりを担当してくれたので、ぼくは美術展そのものに集中できたし、こういう場所でやることをずっと考えていたので、楽しく充実した三ヶ月だった。その間、ほとんど自分の仕事もできずたいへんだったけれど、驚くほど話題になり、保存の確認とその為の予算を行政から取りつけることもできた。
 新聞、雑誌、テレビと取材も多かったし、訪ねてきてくれる人を案内してはしゃべり続け、珈琲を淹れ続けていた気もする。ポスターや案内状のハガキの他に、パンフもつくったので、事前に4人の参加美術作家に作品を一部持ち込んでもらったり、写真を撮ったり大騒ぎだった。予算が少ないから、デザイン、文章、翻訳も自分でやった(美術に関して書いたのはそれが最初だったことも思いだす)。シンポジウムも開催し、いろんな方に参加協力してもらって盛況だったけれど、多くの人が関われば関わるほど、準備も進行もたいへんになる。
 その時は紺屋(上妻-コウヅマ-邸)の他に、農業倉庫や塩田-エンデン-煉瓦倉庫を会場に使った(津屋崎には以前塩田があったのはぼくもかすかに覚えていた)。他にも幾つもの魅力的な場所や建物があったけれど、貸してもらえなかったり、作家との相性がうまくいかなかったりして使わないままに終わった。もう使われてない病院、大きな雑貨店、造り酒屋などは今みてもやっぱり興味が湧く。銭湯はもう建物もなくなっていた。
 会期直後に映画の石井相互監督が、夢野久作展用のヴィデオ撮影にみえ、そういった会場や玉乃井旅館などを撮影されたのも思いだす。彼の『夢の銀河』(夢野の『殺人リレー』が原作)は津屋崎で撮りたいということでその後ロケハンにもみえたけれど、結局、予算などの都合もあって実現しなかった、それも残念だった。夢野の『犬神博士』をここで撮ったらいいねえと、玉乃井で言ってもくれたりしたけれど。
 久しぶりに歩くとこんな静かで動きのない町も、あちこちに更地が出現し新築の家が並んでいたりして驚かされる。撮影する人の視線を辿って、今まで気づかなかった視角や風景に出会ったりもできた。それにつけても、また、老朽した我が家、玉乃井のことが頭にのしかかってくる。好きだし、どうにかしたいけれど、自分でどうこうできる大きさじゃなく、屋根ひとつ直すにもとんでもない費用がかかるだろうし、いっそ思い切って全部建て壊そうと蛮勇をふるおうにも、それにもまた膨大なものが必要になる。ひどい雨漏り、吹きすさぶすきま風、剥落していく壁、動かなくなった窓や戸口・・・・きりがない。もう掃除さえしなくなった2階の広間のガラス戸を全部開け放ってすぐ前に広がる穏やかな海を見る喜びは何にも代え難いけれど、それを支える情熱は枯渇し続ける一方だ。

 

菜園便り一四一
一月二二日 干し柿

 父が干し柿を下ろしてきた。このあたりではつるし柿というけれど、ちょっと生々しすぎることばでなかなかすっとはでてこない。今はもう使ってない別館の、どこか陽当たりのいい軒先に下げていたようだ。毎年寒風に吹きされされてカチカチになってしまうので、早めに取り込んでくれといいつつぼくもつい忘れてしまう。今年はまだそんなに硬くはなってないし、オレンジ色も残っている。
 干し柿は、まるで宝石といった輝くオレンジ色のとろけるような柔らかさのものもあるし、びっくりするくらいの値段で店先に並べてあったりする。父のは、庭の手入れもしない小さな渋柿をひとつひとつ手で剥いて、シュロの葉を細く裂いてつくった紐で二つずつつないでかけただけのもの。シュロの紐は二ヶ月以上経ってもまだ緑の色を残しているし、丈夫でしっかりしていて驚かされる。そのシュロ紐をみた時は、大げさにではなく「ああこれが「文化」だ」と思わされた。こういうものを、父は親兄姉から地域の生活のなかでごく自然に見覚えて身につけ、いつのまにか自分でできるようになっていたのだろうし、たぶん自分がやっていることを意識してもいないのだろう。この紐とそれにまつわる様々なものは、だからここで途絶えてしまう。父と共に喪われるのだろうと小さな感傷が起こる。使い残して捨ててあった紐の束を拾ってきて部屋に置いているけれど、でも継承しようという気にはならない。あらたまって聞いたり教わったりするのが照れくさく、めんどくさいというのはあるけれど、それ以上に、そういったものがもう自分の生活からもリアルからも遠いし、それをあたかもそうであるかのように身につけてみるのは、どうしても嘘に思えてしまう。
 誰かが自家製の干し柿を、「乾燥して硬くなって全部が皮みたいなあの干し柿」と形容しているのを聞いて、なかなか的確な表現だと耳に残った。もちろん最初に皮は剥いてあるのだけれど、手入れせずに吹きっさらしておくと種を取り巻く厚ぼったい一枚皮といった感じになってしまう。それはそれで歯ごたえもあって、独特の黒ずんだ色合いをしっかり噛みしめれば、砂糖っぽくない甘さがあり、おいしいものだ。ほんとに歯が立たないくらい硬くなってしまうこともあって、そういう時はスライスして果実酒やラムを振ってもいいし、砂糖漬けにする人もいる。柑橘系の味をちょっと加えるとよさそうな気もする。
 膾やサラダにも使えるし、刻んでパンや菓子に焼き込んでもいい。生の柿がチーズによく合うように、干して甘みが増した柿は、チーズと相性もぴったりで、デザートにもなる。
 こういったちょっと癖のある独特の甘み、味わいは、蜂蜜やレーズン、プルーンなどの乾燥果実もそうだろうけれど、精製された砂糖的な単純さでない濃厚さがあり、また香りも特異で好き嫌いが大きく別れる。果実そのものも最近は甘みの尺度ばかりが喧伝され、酸味や苦みくさみの消し去られた単純さに一元化されていて、寂しい。今は人も、あたりがよくてつきあいやすくいつも適度で、ケータイのメールの距離がベスト、過剰さや不細工さは丁寧に削られ、ことばも選ばれつるんと口あたりがよく、規格外の哀しみや喜びは場違いなものとしてそっと外される、そんな関係が多いけれど。


菜園便り一四二
一月三一日

 庭の隅に蝋梅が咲いていて驚かされた。六〇センチくらいの何度も枯れかかった小さな木。父が正月の宮地獄神社の植木市で買ってきて植えたまま放って置いたのがすっかり枯れたと思っていたら、二年目にまばらに葉をつけたので、なにかもわからないまま時おり気がつくと水をやっていたけれど、伸び悩んでもう四、五年目だ。
 確かに蝋のような厚みと艶のある作り物めいた黄色い花弁。顔を近づけると梅に似た香りがある。葉っぱは梅とは似つかない大ぶりな楢か椚みたいだった気もするけれど、近頃の自分の記憶なんてあてにはできない。
 ちょうどみえた山本さんに見せると、花を見たのか見ないのかその直ぐ側に七、八〇センチにすっと伸びている月桂樹を見つけて教えてくれた。隣には最近頻繁に切り花にしている山茶花水仙があるのに、この蝋梅ともども全然気づかなかった。
 以前山本家から数本もらってきて植えた月桂樹の苗木のひとつだろうか、もうすっかり忘れていてわからない。はっきりと植えたのを覚えている三箇所のはとうに消えたから、もしその時のだとすると奇跡的だ。たちまち忘れられたから、水ももらえず、でもこの蝋梅の余禄の水で余命をつないだのだろうか。ここまで伸びていれば後は大丈夫だと、それほどの根拠もなしに山本さんが断言する。それもまた心強かったりする。
 糸島からのクリスマスローズ、ジンジャー、鳥栖からの三つ葉、川口さんから沖縄月見草のお返しにと頂いた、不如帰だったか、鳥の斑紋のある花、米倉さんからの夏萩、そういった頂いて植えたけれどいつの間にか消えてしまったと思っているものも、藪に紛れてひそかに生き延びているのかもしれない。頂いた当初は、土を掘り返し、肥料や水をやり、頻繁に見に行っては触りながら話しかけたりもしたけれど。
 菜園の始まりにもつながる余田さんからのイタリア土産のルッコラとチコリ系の野菜は潮で全滅したけれど、数年間おいしい野菜と花を楽しませてくれた。元気な頃は毎年庭のそこかしこに勝手に生えてきては一メートルを超して伸びるチコリの儚げな薄紫の花は懐かしい。1昨年、駅の近くの庭に一本咲いているのを見つけたので、秋口に種をもらおうか、盗もうかと行ってみると、とっくに根本から刈り取られていた。
 ここのやせた塩気の強い砂地にあうものあわないもの、気候の偶然や幸運が作用して根づいてくれるものたちまちに消えていくもの、なによりも先ず、愛情だろう。それが肥料や水やといった最低限の条件を満たさせ、幾ばくかの世話につながり、生き延びさせ、成長や収穫に結びつくのだろうから。そうしてやっぱり込められる心、思いが、相手にも伝わって、思いがけない反応や生きる力を創りだしたり引き出したりしてくるのだろう。どこにもある、何にも着いてまわる喜びとか哀しみが、この手入れの行き届かない寂しげな庭にもまた溢れている。

 

菜園便り143 ??????????
2月1日
『夏豆 2』

 田村さんは念願の引っ越しを済ませた。いくら都市の中央部とはいえあんなひどい所にそこそこの部屋代を取られながらも20年も住み続けたのは、それなりの事情があったのだろう。
 家を捨てて働き始めた人足置き場人夫出しのそばの食堂で、新参者でまだまだ娑婆の匂いをたてていたからだろう、あれこれ話しかけられ女将に気にいられ、2階の1室を借りることになったらしい。気安いつきあいができたその女将と手伝っていた嫁とがたて続けに亡くなった後も住み続けたのは、仕事に近かった他にも、その雑ぱくな環境に安心できたからだろうか。もちろん行く当てなんてない。
「解体屋の親方も親切でな、その下請けやってる人に気にいられてな、いい仕事回してくれっけが。何千円か割り増ししてくれてよ、そん人も、雇われだけんど喧嘩っ早いって言うか、強気でな、結局大げんかして抜けて、自分で始めたけんど、無理だよな、ダメになって消えちまったさ。あん頃は日銭がぼんぼん入って、住む部屋なんてないさ、サウナにつまり続けてそこから解体にいって、金もらって飲んで食って。飲まんとおさまらんていうより、金使わんとおさまらんってなそんな気分さ。あの頃に少しでも蓄えておけばな」とあまり残念そうにではなく田村さんは言う。「あいだけ体をむちゃくちゃに使うてよう壊れんかったもんだ、酒飲んで脂もんばっか食ってパッパと金使ってよ。」
 どうにかしのいで生き延び、そこからさらに下流には流されずに踏みとどまり、でもかなりの額の借金を抱え、今になって引っ越す気になったのは、掃除もしない大家の父息子に嫌気がさしたのだろうし、何年経っても気が抜けない訳ありばかりの近所のつきあいに疲れたのだろうか。なにより60半ばになって心身のはりが喪われ、気弱になったのかもしれない。年金という最後の頼みの綱もある。地震の被害がかなりでた古いその建物が急に心配になったのかもしれないし、大家がこれを機会に建て替えるとまたぞろ言いだして出ていってくれとくり返すのにも、いつもと同じ繰り言だとは思いつつ、嫌になったのだろう。今が最後のチャンスだと、ギャンブルで鍛えたそいうカンが冴えたのかもしれない。
 地震被害者ということや年齢で優先権が生まれたのか、県営住宅の呆れるような倍率のなか第1番優先となり、集合住宅の単身者向けに当選した。団地のなかだけれど郊外の川の側で落ち着いている。並木や少しばかりの花壇もある。2階の陽当たりのよい部屋は6畳二間と広いダイニングキッチン、奇妙な作りの納戸まである。湯船があまりにも小さいことを除けば、贅沢すぎるほどだ。
 「これからはようきちんと生活して、借金もちょとずつ返してよ、いつか兄貴たちや娘たちとも会えたらなんてつい思うべ。エラソーな兄嫁はいらんけんどもな。」とことば弾む。今までの同じように博打と金欠の仲間とは離れてやっていく決意も述べる。そんなにうまくいくわけはないだろうけど、あれこれの助成も出たし、少しまとまった額も行政から借りることができた、ほんとに実現するかもしれない新しい生まれ変わった生活が。「もう名乗り出たりあおうなんて思ってないさ、ほんとんとこは、できねえだろう、な、そうだろ、俺だってわかってるさ、そんくらい。兄貴は生きてっかなあ、下の方のさ。上のは年も離れんで、あんましちかくなかったっけが、口が達者で面倒見もなんかよくって、議員になってたっけがもう止めたんだろう、新聞に勲章もらったとかなんとか出たって、あれあんたの親戚じゃねえのかって教えてくれた人がいたけんどな。娘は国立の大学に入ったまでは知ってるが、そん時も兄貴が世間じゃ借金しても子供をいい学校に入れるに、お前は自分で金借りて使いまくって」って畳を拳でどんどん叩いて泣いて切ながってくれたけんど、俺の方はシラーとしててなんじゃこんくらいの金なんて思ってけが、バカだね、バカは死ぬまでなおらねえんか。じゃあだめだな、なあ、そうだっぺ」。
 そうそううまくいかないのが世の中、人生。腐れ縁の妙な関係に引きずられ、持ち慣れない金に舞い上がり、ええかっこしいが「親分肌」とおだてられ「兄貴」と呼ばれていい気になって、たちまちわずかな金は消えていく。小賢しく物の援助を金に換えようとあれこれやってろくでもない物を掴まされて挙げ句の果てに残った金も巻き上げられ、それでも懲りずに困った困ったと泣きつく男に  ローンのカードを貸したり、常軌を逸した利子の借金を「普通の」利子のサラ金からで代行してやって、かえって安んじられ、蔭で笑われたりと、まるで戦前の浪花節か  喜劇か。悲喜劇とはよくいったもの。
 かろうじて始めた病院の検査だけはどうにか終えて、新しい入れ歯、C型肝炎と診断された肝臓のスキャン、爪に食い込む水虫の治療は始まった。それだけできたかけでも御の字というべきなのか。
 しかしこれから、サラ金に較べ利子は驚異的に低いとはいえかなりの額の借金をかかえ、年金だけでやっていくことは可能なんだろうか。保証人になった年若い長崎の友人はどう思っているのだろう、不安で夜も眠れないのではないのだろうか。それとも始めっからそんなもんだろうと達観していて、諦めているんだろうか。でもそうはいかないだろうことは遠目に見ててもわかる。

 

菜園便り143 ???????
2月2日 『夏豆3』

 「もう名乗り出たり子供たちに会おうなんて思ってないさ、ほんとんとこは、できねえだろう、な、そうだろ、だろ、俺だってわかってるさ、そんくらい。兄貴は生きてっかなあ、下の方のさ。上のは年も離れてっけし、あんましちかくなかったっけが、口が達者で面倒見もなんかよくって、市会議員になってたっけがもう止めたんだろう、新聞に勲章もらったとかなんとか出たって、あれあんたの親戚じゃねえのかって教えてくれた人がいたけんどな。でもどっからそんなことがわかったんかな、考えてみるとおとろしいこった。
 娘は地元の国立の大学に入ったまでは知ってたけんど、そん時も下の兄貴が世間じゃ借金しても子供をいい学校に入れるに、お前は自分で金借りて使いまくって」って畳を拳でどんどん叩いて泣いて切ながってくれたけんど、俺の方はシラーとしてて、なんじゃこんくらいの金なんて思ってけが、バカだね、バカは死ぬまでなおらねえんかね、ほんとに。そんなことじゃあだめだよな、なあ、そうだっぺ、だろ」。
 そうそううまくいかないのが世の中、人生。腐れ縁の妙な関係に引きずられ、持ち慣れない金に舞い上がり、ええかっこしいが「親分肌」とおだてられ「兄貴」と呼ばれていい気になって、たちまちわずかな金は消えていく。地震で壊れた家財道具などの援助を、小賢しく金に換えようとあれこれやってろくでもない物を掴まされて挙げ句の果てに残った金も巻き上げられ、それでも懲りずに困った困ったと泣きつく男にサラ金ローンのカードを貸したり、常軌を逸した利子の借金を「普通の」利子のサラ金で代行してやって、かえって軽んじられ蔭で笑われたりと、ようするになめられて、まるで戦前の浪花節か場末のヤクザものの芝居か。これはいったい喜劇か悲劇か。
 かろうじて始めた病院の検査だけはどうにか終えて、新しい入れ歯、C型肝炎と診断された肝臓のスキャン、爪に食い込む水虫の治療は始まった。それだけできただけでも御の字というべきなのだろう。
 しかしこれから、サラ金に較べ利子は驚異的に低いとはいえかなりの額の借金をかかえ、年金だけでやっていくことは可能なんだろうか。保証人になった年若い長崎の友人はどう思っているのだろう、不安で夜も眠れないのではないのだろうか。それとも始めっからそんなもんだろうと達観していて、諦めているんだろうか。でもそうは簡単にはいかないだろうことは遠目に見ててもわかる。人が生きていくのは、ひとりつましくであってさえもなかなかに難しく好事魔多し、なのだから。

 

菜園便り一四四
二月二日

 海一面に靄がかかり、今年は暖かい旧正月だった。乳白色の海と空がきれめなく続く。風もなくゆったりとうち寄せる波はどこか重たげで、まるで春だ。そんな波打ち際には鴎が群れ、上空には鳶。打ちあげられた貝殻が光る。コートも脱いで、濡れた砂に足をとられながら歩く。光がまっすぐに体に入ってくる。
 大気の冷たさはまだまだで、しばらくはいちばんの寒さが続くのだろうけれど、硬くて透明な光の強さは勢いを増し眩しいほどに輝き、艶のある硬い椿の葉の上でも乱反射している。菜園の野菜もまわりの雑草も青々と伸びる。
 玄関の蔭の沈丁花も蕾がだんだんと色づき膨らんでくる。切り花にして暖かい部屋におけば開くかもしれない。今年は寒さで遅れたせいか一斉に開いた水仙はどこの家の庭でも元気に伸びて開いている。ふだんは目立たない場所もそうやって1年に一度だけ視線を集める。数本で部屋のなかが香りに満たされ豊かな気持になれる。
 今年は出かける予定があって旧正月には家にいられないからどうしようかと心配していたが、父も何も言いださない。新正月の準備がうまくいかなかったから、懲りて諦めたのかもしれない、当日になって、日めくりを捲って気づいて声をあげたかもしれないけれど。雑煮はもちろん、黒豆もがめ煮もつくらなかった。とりあえず餅だけは正月のを冷凍したのがまだ少し残してあるし、知人が送ってくれた小餅が一袋あるから、ぜんざいぐらいはいつでもつくれる。鏡開きの日には前日から煮込んでこしらえたけれど、硬くなった餅はあれこれレンジでやってみてもなかなか柔らかくはなってくれない。適当なところで焼き目をつけて後は食らいつくだけだ。幸い父は県の大会で表彰されるほど歯は丈夫で、まだほとんどが自前だから硬いものも平気だ。
 日めくりには月初めにあれこれの雑記と共に様々な薬効湯の紹介があって、父は必ず控えている。柚子、菖蒲、蜜柑の皮といった定番の他にも、酒や焼酎、ワインから牛乳、梅や桜の花びら、松の葉もある。柑橘類のばんぺいゆ(どう書くのだろう、漢字表記で見た記憶もあるけれど)の皮などはうっとりするくらい香りがたつ。林檎も果肉が硬いし、いいかもしれない、産地あたりでは売れないものでやっているのだろうか。山椒やローズマリー、乾燥させたハーブ類も適量なら楽しいだろうし、ああいった類は油があるから温まるのにもいい。
 正月の湯には何があうだろう。飾り物とあわせるなら松や梅、竹だって香りがあって悪くない。南天も実が美しいだけでなく何か薬効がありそうだ。あの強烈なお屠蘇は残りを混ぜるだけでも匂いたつだろう。花は湯に浮かべるより浴室に飾る方が香りもよく効果もあると言う人もいるから、この季節多くはない庭の花をかき集めてきてもいいかもしれない。
 何かしら新鮮で清々しいものがいいと思ってしまうのは、新年というきっかけを少しでも大げさにしたい重々しく思いたいという切実な願いだろうか。きりりとした冷たさのなかに射し込む新しい陽光、その下の清浄な湯からたち昇るま白き湯気と渦巻く香りに包まれるなら、新しく生まれ変わった産湯のなか、今、何も怖くはなく、さあ何でもできるという壮大な思いになれるのだろうか。立ちのぼる永遠を湯気の向こうにありありと見る、と豪語するまでに。たちまちにぺちゃんこになる肌の湯玉、たてつづけに出る湯冷めのくしゃみ、せいぜいそんなことのくり返しになるのがおちだとしても。

 

菜園便り一四五
二月一七日 馬医者

 時々海岸を馬が散歩している。残念なことに馬がひとりでのんびり歩いているわけじゃなくて、人が乗ったり手綱を引いたりしている。どこかの乗馬クラブのものだから、サラブレッドに近いすらりと美しい脚だ。折れたりしたらどうするんだろう。あちこちでみかけるペットの病院なんかの獣医じゃ馬なんてさわれもしないだろうし、もしかしたら一度も見たことがないのかもしれない。蹄(ヒズメ)の蹄鉄はどうするんだろう。
 祖父が獣医をしてた頃は農耕の牛馬や家畜がほとんどだったようで、農家のお祖母さんなどに「馬医者どん」と呼ばれていたと聞いたこともあるから、マルチーズとかチワワなんかとは無縁の世界だったはずだ。獣医をやめてからも器具や薬品類が家や倉庫に残っていて、勝手に持ち出して遊んだりしていた。今思うと怖いことだ。注射器、鉗子、色つきの広口薬瓶などは形としても奇妙で美しい。「豚コレラ」の血清なんてアンプルもあった、あのハート形の口金切りと共に。
 ある時ひとりであれこれいじっていて、金属の箱に、なんとモルヒネと阿片が茶色い小瓶に入っているのが見つかった。小さな活版印刷のラベルが着いていて、塩酸なんとかかんとかいった難しい薬品名だった。もちろん劇薬表示もあったけれど、思春期以前なんて世界とうまくつながってないし、まだぼんやりしたままだから、それほどリアルには響かない。括弧のなかにカタカナの通称名が入っていたのでそれとわかった気がするけれど、祖父の手書きのメモが入っていたのも覚えてるから、それに書いてあったのかもしれない。馬には何ミリグラムとか、殺す場合はどのくらいとか、そういったメモだった。なんだか体がふわっと浮いたような感じのまま、もとどおりにしようとして箱の表に祖父の硬い楷書で麻薬と書いてあったのに気がついた。
 あんなに優秀で几帳面だった祖父らしくない管理や保存の仕方に違和感も残った。ブリキの箱は蹄鉄用の釘の保管にも使われているものだった気がするし、機密性の高いぴったりした箱ではなかったから、保存状態はよくはなかったはずだ。あれからどこへ消えたのだろう、ずっと後に心当たりを探してみたけれどどこにも見あたらなかった。馬一頭が麻痺して、ショックでということなんだろうけれど、死ぬというのは、とてつもない気もする。あんなに大きくて張りのある体が。

 

菜園便り一四六①
二月一八日 馬蹄

 当時住んでいた家の庭の一角に、馬の蹄鉄交換の為の鍛冶場を備えた建物があった。蹄に着ける金属の蹄鉄はすり減ると付け替えなければならないし、時々は釘がとれて外れたりもする、そういった装蹄や修理をするところだった。蹄鉄とか馬蹄とか呼ばれているそれは、バテイ形ということばそのままに一方が開いた楕円に近い平たい金属の輪で、米国なんかでは幸運をよぶと納屋の入り口に打ちつけてあったりする。先端に小さな突起があり左右に数個の釘のための穴がついている。
 入り口が大きく開いた納屋のような建物には左右の柱から太いロープの轡(クツワ)架けが下がっていた。飼い主に引かれて馬が来るとそこに馬の轡をつなぐのだけれど、気性の荒い馬は嫌がって暴れたりするから、飼い主がなだめたりどなったりひと騒動ある。つながれてしまうと、そういう馬は奇妙な方向にぎょろりと目を剥いたりしてずいぶんと気味悪かった、大きな動物や獣への畏怖や怯えだけでなく、なにかしらぞくっとさせられるものがあって。
 馬は苛だって前足で床板を掻くように削るように踏みならし、敷き詰めただけの板は時々小さく跳ね上がって細かな埃が舞い上がる。ほとんどの馬はお百姓さんらしい飼い主に手綱を引かれてやって来ていたけれど、乗ったりはできなかったのだろうか。鞍をみた記憶もあるけれどあれはどこか他の場所だった気もする。
 荒い皮の前掛けをかけた装蹄士-国家試験の免許だったようだ-が間あいを計って馬の脚をひょいと持ち上げ二の腕と体でぐっと挿み屈めた股でしっかり受ける、これが基本姿勢で、全部の作業に共通していた。先ずペンチみたいな専用の道具で釘を抜いて蹄鉄を外し、これも独特の鈎型のナイフで爪を削る。馬は時おり嘶(イナナ)いたり大きく動いたりもするから、よおし、よおしと声を掛けてなだめたり、どなったり鼻を引いて鎮めたりしつつ、いつでもさっと体を引ける、身をかわせるような姿勢と間あいを保ちつつやっていく。後ろ脚を持ち上げている姿ばかりしか浮かんでこないけれどどうしてだろうか。
 外した蹄鉄はちびてしまっていたら取り替えるし、癖がついて不均衡になっているだけでまだ使えるようなら、打ち直して平にする。コークスの鞴(フイゴ)と鞍型の金敷や水の樽の置いてある場所での作業になる。よく手伝わさせられたけれど、けっこう楽しい手で押し引きして火を熾す鞴。真っ赤になったコークスに蹄鉄を突っ込んで焼いて、火の色と同じ透明感のある朱色になると掴みだす、もちろん素手で。それくらいできなくては一人前ではないし、実技試験で真っ先に試されるのがそれだ。というのはもちろん嘘で、掴むために先を平たくした手製のはさみでつまみ上げ、金敷の上や首の部分に掛けたりしてとんとんと叩く、もちろん拳骨で。何種類かの金槌を平たい方やとがった方を使い分けながら叩いて、形が整うとつまみ上げてジュッと水の中へ。湯玉があがり、つんとする金属の匂いが立ち上がる。水面にさっと油の皮膜が浮く、濁った水のなかの虹色の輝きで。

 

菜園便り一四六②
二月一八日 馬轡

 できあがった馬蹄を馬の爪にあわせて細かく直して仕上げる。その後、もう一度焼いて今度は冷やさずにそのまま馬の爪裏に押し着ける。爪が焦げる臭いがまき上がる。きっと小さい頃はわざと大声を上げて、鼻をつまんでくさいくさいとか言ったかもしれない。近所の子供たちといっしょだったら、きっとやっただろう。装蹄士もそれにあわせて、なんか子供をバカにすることばを吐いては楽しんだろうか。それともいつものようにむすっと押し黙ったまま、後で飲む酒のことを考えてただろうか。
 馬は突然に排泄する、予告なんてない。それもまた子供たちを喜ばせた。突然小便がどっと走り出て、作業中の装蹄士の足下に激しいしぶきを上げると、本気で怒って馬をどつく人もいた。糞もする。バフンは丸まって乾いているしあまり臭いもなくて、ぽろぽろという感じだった。その時は「おいおい、しょうがないなあ」といった苦笑いですんでた気もする。それを手製の木のちりとりでかき集めて外の一角に積み上げておくのは子供たちの役割だったか。
 最後に爪裏に押しつけた蹄鉄を釘で打ちつけていく。その釘を祖父の小さな工場でつくっていた。特別な、厚みのある長方形の頭で、釘先は平たく潰してある。その釘をとんとんと打ち込んでいく。馬の爪の部分は長いし、神経はないのだろうから痛くはないとわかっていても、見る度に体のどこかがぎくしゃくする。もちろんそういう作業の途中に、爪裏とぴったりしないことがわかるともう一度やり直しだ。爪を削るか、蹄鉄に手を入れるか。そうやって終わった後は轡かけから外され、外の柵につながれる。筋肉が浮き出て、筋が張り、皮膚が滲む汗で光るような殺気だった雰囲気が馬から消え、人もざぶざぶと顔を洗って一段落する。のんびりと馬は草を噛み、人は薬缶の冷めた茶をゆっくりと啜る。

 

菜園便り一四六③
二月一八日 装蹄士

 蹄鉄の仕事をやる小屋の片方の壁際には、作りつけの木のベンチがあって子供たちはそこに腰掛けて見ていた。もちろん子供のためにつくられたものでなくて、馬を連れてきた人だとか、何かの頼み事できた人が座るところだったのだろう。子供以外が座っているのをみた記憶がないのは、大人がいる時は近づいちゃいけないといった不文律があったのだろうか。きっとお客や大人の周りをうろうろしていると怒られていたのだろう。
 心細い気持で夜遅くまでそこにいた思い出もある。誰かいっしょだったような気もする。親に叱られたか子供の方が親の理不尽に怒ったのか。たぶんお腹がすいていたんじゃないかと、今になって気になったりもする。でもきっとそのうち半分眠りながら、半分泣きながら、家に帰ったのだろう、姉が迎えに来たりして。
 作業場には奇妙なものがいろいろあった。それも子供たちを惹きつけた理由のひとつだった。馬の骨格標本もあった。太い針金状の金属でつながれ、支柱をつけて立ててあったのが、小屋の外でもあり半分壊れかかっていた。隣の大きな倉庫の壁で薄暗く子供にはずいぶんと怖かった。そばにもう一体、バラバラのまま木枠に詰めてあるのもあった。獣医の祖父が三体つくった見本で、もう一体は近くの、ぼくもいった高校に寄贈されていたらしい。
 他にも何個かの駝鳥の卵。型どりした石膏だったけれど、その大きさ不思議さにどこか圧倒されて、触ってはいけない気がしていた。だからよけい触らずにはいられないのだろう、ほとんどが壊れていた。怖いものは他にもいろいろあったし、作業場のそばのコークスも入れる小屋は真っ暗で不気味だった。それでも、というかだから頻繁に子供たちの侵入を受けた。奥には小さな明かり取りの窓があったし、それなりの広さがあって、ただの物置にしては仰々しい作りだった気もする。子供の秘密基地になり、ちょっとした悪戯の場になり。
 いろんな道具類も、その金属や木や油のにおいと共に思いだされる。金床の横、厚い棚板の上には道具や木ぎれ金属の塊、破片が散乱し、そこに大量の黒い金属の削りかすが積もっていた。その端に油が染みて真っ黒に光った万力が、がっちりと止められ、その大きな口を回して締めつけるための長い棒がついていた。半径を長くとるために、最長の長さで上まで回すと、ストンと落としてまた下から回し上げる、そんなふうになっていた。端は手に治まる小さな球場になっていたし、油で黒光りしてちょっと湿って感じられたし、触るのが好きだたのだろうか、怖いのに惹きつけられる道具だった。

 

菜園便り一四六④
二月一八日 馬糞と薔薇

 厚い板を敷き詰めただけで固定してない作業場の床は馬が前足をかくと小さくはねて、細かい埃が日向くさい馬糞の臭いと共に舞い上がった。
 馬糞は小屋の外の一角に積み上げられていた。小学校五年生の時、担任の眼鏡をかけた怖い長島先生が突然やってきて馬糞をくれというので驚かされたことがあった。馬糞は彼が丹精する薔薇にとてもいいということだったけれど。
 その家屋と不釣りあいに広い、手入れの行き届いた庭のあるお宅には一度だけ行ったことがある。奥さんが留守で、先生は不器用に紅茶を入れてくれて珍しい外国のもののビスケットをだしてくれた。柔らかい長いすに並んで腰掛けて、先生がすごくやさしくて、そうしてちょっとぎこちないのがわかって不思議な気がした。こんな怖い人が緊張したりするのだろうかと。もっと食べなさいと進められる声がちょっと震え、それを本人も気づいていっそう意識してしまって、だからぼくにも緊張がうつって紅茶をこぼしてしまったのかもしれない。それとも図書室で読んだ外国の本の中にあったように、まるでおびかれるようにおびくようにそんなふううに失敗するように振る舞ったのかもしれない。子供はあまりにも素直でだからとてつもなく傲慢にもなるのだろうから。
 驚く先生、でもそんな失敗が生むおかしさで緊張が解け、ごく自然に服を乾かす為にと脱がされたのだったろうか。もちろん自分で脱いだのだろうけれど。それから、それからのことは覚えていない。

 

菜園便り一四七
二月一九日 丹部さん

 隣町には戦後しばらく競馬場があったからその頃は競馬馬も来ていたらしい。一度サーカスの馬を頼まれてやった時に、極端に偏った擦れかたをしていて驚かされたという話を父から聞いたことがある。小屋の中をいつも一方向にだけ走るためにそんなふうになるらしい。脚の形や左右の大きさもずいぶんとちがっていたのだろう。胸の底に残ってしまいそうな淋しい話だ。 
 蹄鉄を打つ人はふたりいて、ひとりは父で、もうひとりは丹部さんだった。酒が好きで、そのせいもあったのか最後まで装蹄士の試験には受からなかったそうだ。もちろんそんなこともずっと後になってから何かのおりに知ったことだけれど。腕はよくて何でもこなしていたから、筆記の試験が苦手だったのだろう。そんな辛気くさいことをぐだぐだ覚えてびくびくしながら試験に臨むぐらいなら、はなっから酒でもくらって楽しくやった方がいいに決まっている、もちろんそんなことはおくびにも出さなかったろうけれども。
 奥さんと息子さんと三人で駅そばの小さな町営住宅に住んでいた。当時日本中に溢れていた引き揚げ者のひとりで、そんな大勢の帰郷者のための簡素な作りの住宅が建ち並んでいた。馬が来たからと呼びに行って、軋むガラス戸の玄関から声をかけると、むっつりと奥から顔を出したり、のっそりと庭の方からまわってきたりして、ほとんどしゃべらなかったけれど、時にはぐてんぐてんに酔っていて、家の前の小さな側溝のどぶに片足だけ突っ込んで倒れたりしていた。もちろん昼間のことで、どんな事情だったのか、子供にはわかるわけもない。そんな時に小さな肩を貸して、酒の臭いを凌駕するむっとする体の匂いといったものを初めて知ったのかもしれない。でも痩せた小学生では何の役にもたたず、少し立ち上がってはふたりしてどうと倒れ、かえって深みに嵌っていったのだろう。
 ずっと後、大学時代に帰郷したおりに母に頼まれて入院中のベッドにお見舞いを届けにいって、奥さんにはまた会った。丹部さんはとうに亡くなっていた。お見舞いがお金だと途中で気づいてすごく困ったけれど、もちろんその方がずっと助かるからだろうし、互いの了解があるから母も持たせたのだろう。奥さんもさらっと受けとられてほっとしたことも思いだす。再会を喜んでくれたけれど、ぼくが誰かほんとのとこはわかってなかったと思う。そんなに何度もあった記憶はないし、あの当時はどこにも子供が多かったし、年の近い兄もいたから。とにかく玉乃井関係の誰かだろうというぐらいのことだったのだろう。
 あたたかい陽射しの穏やかな日なのに平屋の木造の病室はずいぶんと冷え込んでいた。何度も断ったのに、強いるようにして奥さんは廊下の端まで送ってきてくれた。薄い柔らかい部屋着を着て、やはり薄い色の大きなスリッパを履いて。

 

菜園便り148-② ???????


 その小さな蹄鉄用の釘工場の裏に借りていた畑でのことを楽しく思い出すのは、まだ幼くて何の仕事も強制されず、したいことだけをして遊んでいたからだろう。働くどころか、ほとんど邪魔扱いされるだけだった。姉は今でも、仕事はたいへんだったし、嫌なことも多かったと何かの折りに言うこともある。我慢強くてしっかりした、長女の見本のような姉が言うことには説得力があるし、確かにそうだったんだろうと思う。でも大根を引いたり、時たまつくっていた落花生を収穫したり、ほとんど失敗したとうもろこしから数えるように粒を採ったりする収穫の喜びはしっかり覚えている。
 さらさらと手から落ちる砂の多い土には小さな貝殻や巻き貝も混じっていた。土や野菜や肥料のにおい、そうしてそれら全部の上に、もちろんぼくの上にも降り注ぐ陽の光の匂いも。

 


菜園便り149 ?????????
3月20日 
北九州市美術館別館で加納光於展、福岡市のギャラリーmapで李禹煥展をやっています。それに刺激されて、我が家でも「李禹煥加納光於展」を開催することにしました。たまには虫干しもしないといけないし。ずっと興味を持ってみてきた作家で、一時期は作品を集めたりもした人たちですが、あれこれの、主には生活の事情で手放したものも少なくなく、今後ももう減ることはあっても増えることはないので、もう一度みておこうかというような気持もあります。
我が家をご存知の方には馴染みの、海側の玄関から入った廊下が会場です。ぼくの部屋や書庫にも置く予定です。中心は版画。油彩(アクリル)がそれぞれ1点ずつ。亡くなった難波田龍起のタブローも1点参加します。ついでに、現在残っている作品のリストもつくったので、添付しておきます(希望される方には譲ります)。
絵画が好きで展覧会などはよく行ってましたが、意識的に画廊を訪れたのは新聞で知った田中恭吉展が最初でした。それからずっと、ただで見せてくれる場所だとばかり思って楽しく通ってましたから、そこが売り買いのための場だと知った時はかなり驚きました。
エルンスト作品集をきっかけに、オリジナル作品つきの画集などを買い始めていましたが、弥生画廊の有本利夫展の会場で彼の画集のことを教えてもらって行ったのが、今はあまり思いだしたくない並木通りのギャラリー77という画廊でした。そこで有本利夫と吉田勝彦の版画を入手したのが最初です。それからはきっと作品をみる目つきがちがっていたと思います。よくも悪くも必死にみるようになったのでしょう。
佐谷画廊、しろた、ユマニテなどで、李と加納、それに山田正亮、若林奮や野田裕二などを手に入れたりしてました。売った値段では引き取るという不文律をバブルの狂騒後も維持したきちんとした画廊は、生き残るのはなかなかたいへんだったようです。ギャラリー77が生き延びたのはなりふりかまわなくなったからでしょうか。そういったわけで、80年代までの作品だけです。
帰郷後は現代美術と出会い作家たちとのつながりもできて、企画に始まり展評を書くこともやるようになりました。もう購入するようなゆとりはなく、作品もお礼に頂いたりするものがほとんどで、そういったものをまた今度まとめてみたいと思っています。
海にも樹々にもそして菜園にも、もう春はまぎれようもありません。事前に連絡いただければ珈琲なりワインなり準備しておきます。たまには穏やかな津屋崎にもおいで下さい。

李禹煥加納光於展 リスト(入り口から順に)
李禹煥    日仏シルクスクリーンポスター
      点より ドローイング 1977
     風より タブロー 3号 1988
都市の記憶 リトグラフ(イタリア制作版) 1989 

加納光於  まなざし  油彩(紙)1990
      塩の柱あるいは舞踏衣装のためのCODEX 1978  銅版   
      翼・予感  銅版 1960    
      葡萄弾(リト3点サイン・画集)美術出版 1973   
      加納光於版画集(リト「オーロラとの交信」1点)筑摩書房 1970
      葡萄弾(リト1点・画集)美術出版 1973

その他 難波田龍起:生き物 油彩3号 1971/山田正亮パステル 1980
菅井汲:版画(和紙刷り)1958/若林奮 日仏ポスター/吉田カツ:デッサン/
宇佐美圭二:リトグラフ 1981 /横尾忠則画集 筑摩書房(リトグラフ1点)1970
野田裕示:引算のフロッタージュNo.18アクリル/WORK 542 油彩 60X50cm
菊池玲二:クロコダイル等2点 銅版/吉田勝彦:煙草(志賀直也) 銅版
横山貞二:父の肖像 木版 1987/女の習作 1989/室内風景 木版 1990
有本利夫:アルルカン 銅版(弥生画廊展ポスター)

菜園便り一五〇 
三月二八日

 やっと桜も開花したとほっとした途端、突然の霰、雷、春の嵐。花の時期はけっこう冷えるねと、花冷えなんて一年に一回しか使えないことばをせっせと使って話してはいても、もう大丈夫だろうとたかをくくっているところはあって、だからこんな急な冷え込みにあたふたしてしまう。
 それでももう春はこの庭にもその向こうの海にも紛れようもなく訪れていて、もう気まぐれに顔を隠したりすることもない。菜園は続く雨のおかげもあって、緑に深まっていく、まだまだいかにも柔らかい黄色がちな緑。ずっと元気だったルッコラも次々に花茎を伸ばし開き始めた。いかにもアブラナ科といった十字の花だけれど、白くて根本が臙脂の少し異国的な雰囲気も残している。地中海からこんな遠くまできて、鄙の海辺でどんな気持でいるのだろうか。おいしいおいしいと菜園のなかでいちばんの人気者でもらわれていくことも多いけれど。
 大根は薄い藤色の花をつけ、すっかりかたくなった。今年は葉っぱとして食べた分が多かったけれど、それに気を悪くしたのか肝心の根菜部分はうまくいってくれなかった。短いのは土地のせいでいつものことだけれど、細いままで水気も少なかった。途中の追肥もあげなかったし、悪いのはひとえに育てる側だけれど。
 春菊が今になってぐんぐん伸びて頻繁に脇目を摘んで楽しんでいるし余所にもあげたりしているけれど、でももう鍋じまいの時期、我が家も今日が最後になるという時期だ。もうちょっと寒さのなかでも頑張って鍋に協力してほしかった。種まきも遅すぎたわけでないのに何故だろう。同じ日に蒔いたほうれん草が文字どおり全滅で一株も出なかったことに比べればはるかにすばらしいのだろうけれど。
 「薔薇のような」と友人にいわれて、薄くて透明感のあるうす桃色の花びらの色だけでなくその開く形が薔薇のようだからこんなにも好きだったのかと改めて眺めている八重椿ももう花の盛りは過ぎていく。父が今年初めての石蕗を摘んできてくれ、皮のまま単純な味で初物を楽しんだ。兄のふたりの男の子が揃って高校と大学に進学した。蕪も終わり、水菜も菜の花をつけ、三つ葉やパセリ、コリアンダーはひろがり始めた。空豆はひしめきあっている。先日蒔いたルッコラと残っていた大根などの冬野菜の種も芽をだし始めた。菜園も庭も、そうして世界もまた動き始める。芽をだし、成長し、開花し、そうして・・・・そうして、なんだろう。いずれはまた種をつけて空に放ち、ひっそりと土のなかに塵に帰っていくにしても。

 

菜園便り一五一
四月二六日

 ずっと気がかりだった菜園の夏野菜を、やっと植えることができた。実は胡瓜の苗を買い忘れたので、全部は終わってないけれど、気分はもうたわわな収穫にとんでいる。今年は場所を大きくかえ、新しい場所も開拓。以前、家庭内での生ゴミ処理を行った箇所が、ほくほくした赤い土になっていたのでそこにゴーヤ(苦瓜)を四本植えた。いつもの畝にはトマトは三種五本、ピーマンと茄子は四本ずつ、青じそが三本、ズッキーニが二本。レタスもあったので二株。胡瓜と、もう少し余裕があるので別種のトマトをもう二、三本植えようか。
 草取りと石灰蒔きをすませ一日。昨日は汗ばむくらいの上天気で、それぞれの位置に穴を開けて有機肥料を入れ、水を注ぎ、子供の頃よく遊んだセイジちゃんのやっている花田種物店から買ってきた苗を植えつける。たっぷりの水を撒いて、後は跪いての敬虔な祈り、というわけはないけれど、でも気持は同じだ。
 風に吹き折られず、強い雨にうち倒されず、乾きにも負けず、虫や病気をしのいで、照りつける太陽の下での色鮮やかな収穫をもたらしてほしい。及ばずながら、少しくらいは手助けできる。なるべく忘れずに水をやり、途中での追肥も思いだせばできる、風通しやひどい虫には怒りつつなんとか対策をこうじるつもりだし、運悪く枯れてしまったらしっかり泣くぞ・・・・。しかしすでにして苗の保護の囲いを端折っているし、苗たちの不安はもうつのりはじめているだろうか。ルッコラの間引きも放ったままだし、ほうれん草や蕪もせっかく芽を出したのに、後は知らん顔。倒れていたサヤエンドウや空豆も父に手伝ってもらってやっと起こしたけれど、収穫も後手後手。
 でもとにもかくにももう春も半ば、陽射しも時折の雨も、ただただ菜園を祝福している。コリアンダーが種をそこらに蒔いといたのが6本も、ほとんどが畝でない片隅でだけれど順調に育っているし、冬を越したイタリアンパセリ三つ葉もまだ葉を伸ばし、少し残した春菊は2色の黄色い花をみごとにつけている。ルッコラ、大根、水菜といった野菜の花だけでなく、ポピー、ジャーマンアイリス、鈴蘭水仙タンポポ、かたばみ等などの花があちこちで開いている。どれもが毎年顔を出す花々。蝋梅や月桂樹もしっかり葉をつけている。
 父が採ってきた若布を庭に干しているけれど、取り入れるのを忘れているから、また風に散り散りになってしまうのかもしれない。だんだんと記憶力や判断力が衰えていく。ぼくにも同じようなことが少しずつ起こっているから、相似形の緩やかに右に下がっていく2本のグラフ曲線が目に浮かぶ。忘れっぽいというより、些細なことはもう記憶の表層にも書き込まれない、ひっかき傷も残さないというほうがいいかもしれない。
 食事をしたことを(もしかしたら、していないことを)忘れることはまだないけれど、判でついたように二杯食べていたご飯が、ときおり三杯になる。立ち上がって自分でよそるのだけれど、それはいつも2杯目だと思っている。以前は「もう二杯食べたよ」と声をかけたりしていたけれど、茶碗に軽くだし、あれこれ言って気持を萎縮させる方がかえってよくないだろうと、今はないも言わないことにしている。間食は少なく、酒も飲まないから、目に見えて太るということもない。
 そんなふうに誰もがゆっくりと傾いていき、静かにばらばらにほどけていくのだろう。大きな樹がどさりと倒れるのは本人も周りも苦しいしひどく辛いだろうけれど、そんな人はそうそうはいない。だんだん薄暗がりになって、でもまだ微かな幽玄の闇のなかにひっそりととけ込んで消えてゆく、そんなふうなのだろう。突然の真っ暗闇とか、いつまでもギラギラ煌々とした光、といったことも凡人にはない。
 家族は、親子と言うことだけれど、やっぱりそんなふうにどこか相似の、滲んでずれた失敗した写し絵のように重なっているのだろうか。

 

菜園便り一五三
六月三〇日

「文さんの映画をみた日」から(掲載したのはもっと短いものです)
「ホワイト・プラネット(二〇〇六年)」
凍える大地の果てしない旅
 果てなく白い氷に覆われた大地、深々とした暗く凍える海、そこに群れる様々な動物たち。北極熊、ザトウクジラ、イッカク、海豹、海象、ジャコウウシ、狐、海ガラス、蛸や蚊までいる。多くは母子が中心で、誰もが擬人化して家族としてみるだろうから、愛やかわいさにも満ちている。時間をかけて撮られつなぎあわされた象徴的なシーンが続き、メッセージも添えられている。
 巡っていく季節、それにあわせたカリブーの百日を超す長い長い旅や鳥たちの渡り、その行程の力強さに感嘆し、不思議さにうたれる。でも次第に茫漠としたとりとめのなさに取り残されていく。大きな交差点に立ち、きりなく走り抜ける車や人の流れを見ているときの、気の遠くなるような思い「いったいわたくしたちは何をしてるんだろう、どこへ行こうとしているのだろう」という怯えにも似た思いに、どこかでつながっているのだろうか。
 文字どおり北の果てまでぼろぼろになりながら旅してきた動物や鳥の巨大な群れ、南の海からこの海までやっとたどり着いた鯨。それは豊富な餌を求めてであり、繁殖のためでもある。個体の保存と種の保存。でも彼らが元の場所に戻っていくのを知り、また来年も同じ旅をくり返すことを考えるとき、崇高とさえ感じると同時に、それが苦役への忍従にもみえてしまい、暗澹たる思いに包まれてしまうのも事実だ。霊長類ヒト科ヒトは自身も含めて<自然>を対象化し、働きかけることでその苦役から逃れようとしたのだろうか。
 村上春樹の短編「タイランド」のなかに、北の果てのラップランドから、南のタイにやってきた宝石商の男のエピソードがある。彼がする、北極熊の雄は放浪を続け1年に一回だけ偶然であった雌と交尾してはさっと逃げるように去っていく、という話に、じゃあ何のために生きているかわからない、と評するタイ人の運転手。それ対し「それでは私たちは何のために生きているんだい?」と微笑んで問い返す男。作品のなかで、宝石商は故郷を恋いつつも一度として帰ろうとしないまま、すでに亡くなっているという設定だった。
 異様なまでの長い移動をくり返す群れに問いかけたくなる、「君たちはいったい何をしようとしてるんだい」と。もちろん答はない、わたくしたちへの同じ問いに答がないように。

 

菜園便り一五四
七月二九日

 裏庭に出ると、不意打ちのように目の前に夏が広がる。濃い緑の向こうに海と空がある。強い陽光に輝く、微かに白を混ぜた明るく青い空を映して、海も明るい。水平線近くに並ぶ積雲が夏だ、夏だと叫ぶようだ。水も澄んでいるけれど青緑が混じって深さも伝えてくる。そんな色の海をちょっと怖く感じてしまうのは、もう思いだしもしない子供の頃の苦い経験がどこかにあるからだろうか。
 しばらく留守にしていた間、梅雨なのにあまり雨がなくて、菜園はちょっと辛い状況。胡瓜が二本枯れて、ゴーヤも青息吐息。茄子とトマト、それにピーマンは元気だけれどさすが実りは少ない。また復活して花をつけ、結実してほしい。意外な強さで驚かされたのがパセリ。一気に伸びてこんもりしている。定石通り、揚羽系の蝶の幼虫が見え隠れてしている。でも二匹もいたら、いくらなんでも食べ尽くしても足りなくて死んでしまうだろうに。鳥や蜂に狙われるだろうし、彼らの前途も多難なようだ。
 レタスは半分枯れて、半分は息を吹き返し、獅子唐辛子はもう赤い実を着け始めた。極悪な環境を憂えて、大急ぎで次世代をつくっているのだろう。世知辛いというか、いじましいというか。種まきから二、三日でいっせいに芽吹いていたルッコラも、日照りに負けて伸び悩んでいる。この五日間の豪雨も助けにはならなかったようだ。あまりにも幼い時期に試練を受けて萎縮してしまい、この世界に飛び出し伸びていくことを躊躇っているのだろう。
 それでもトマトはミニトマトを中心に少しは採れるし、ピーマン茄子もときおり手に入る。ズッキーニは花をつけてはいるけれども、もう結実はしないだろう。いつも早々と実をつけはじめ、喜んでいるうちにあっというまに終わってしまう。おいしいものほど、期待を一身に集めるものほど、さよならも早い。

 

菜園便り一五六
八月九日 

「文さんの映画をみた日」から
S/N(ダムタイプ公演記録制作 二〇〇五年)
願うということの深さと翳り
 「S/N」はエイズで亡くなった古橋悌二を中心としたパフォーマンス集団ダムタイプの一九九五年公演をもとに映像化されている。性や身体、それに感覚や心も時代や社会のなかで創りあげられるものだということを、HIVウイルスを比喩の核としながら、新しい考え方の枠組みも援用しつつ語っていく。簡潔でシルエットを多用したクールなシーンを重ねながらも、生身の、生の切迫感に溢れユーモアや抒情にも満ちている。上映後、この作品やダムタイプに影響を受けた人たちによるパネルディスカッションも行われた。
 障害といったことと結びつけて語られる、話すとか聞くといった身体的能力や、生物学的とされる性別、社会的文化的な性の区分け(性差)、さらには人種や民族や国籍や身分や仕事やといった様々な属性を突き抜けた場で人と出逢いたい、さらには、そこで<あなた>と交わりたいという願いが感傷を排しつつも切々と演じられる。生のただなかでいく度も倒れ、廃棄され続けても、自身がまたは誰かが立ち上がり、そうしてまた走り始めるといったどこか寂しくでも凛々しさもある姿も繰り返される。響かない声をあげ届かない腕を伸ばし、ここより他のどこかや遠い未来でではなく、今ここで、生きるこの体としてあたたかいものをかよわせたい、熱い思いを届けたいという望みが充満する。
 差別や偏見もある現在の世界のあり方を冷静にみつめ、時代や社会の枠組みにどうしようもなく囚われている自分たちを確認しつつも、それは絶望でなく希望なのだと、そこからこそ全ては始まるのだという思いを持ち抱えて捨てず、そのささやかな夢にすがるようにしてでもやっていくんだと意志するかのように。
 生きていくのにちょっと辛い負の条件を背負わされた者だからこそ見えることも掴めるものもあるのだ、だから他への想像力や思いやりも膨らむのだと信じること。確かにそういう場でだけ深まるものもあったのだし、だからこそここまで来れたのだ、そういった世界の果実の受け取り方がありそれを選びとったのだと。そうしてそういうあり方を祝福し他へも手渡していくんだといった、シンプルで切実な思いもまた語られる。とてもたいせつな、柔らかで「弱い」勁さとして。(二〇〇六年八月一六日)

 

菜園便り一五七
八月一〇日

 どこかで心地よい音がするなと思っていたら風鈴だった。父が一日中座ってテレビを見ている、夏はいちばん涼しい北向きの応接室の窓際に掛かっている。以前はもっと早くから鳴っていたけれど、かけられるのが年々遅くなる気がする。冬のストーブが片づけられるのがだんだん遅くなるように。
 父は、体というより気持が過敏なまでに暑さに反応してしまい、散歩から帰ると裸になって団扇をつかっていたのが、気がつくと長袖シャツを着て、なんとストーブをつけているといったことが七月になってもあったりした。まだ春のつもりだったのが、異様な暑さに呆然としてしまい耐え難くて裸になると、涼風のひと吹きで急に我に返って寒気を感じ、今度は慌ててストーブをつけてみる、そんなことだろうか。
 記憶力が薄れるから、日々の積み重ねで感じ取る季節感が薄れて白紙状態になり、一方判断力も衰えるから、身体の感覚とその反応を判断、自覚するのに時間がかかり、タイムラグができて対応がずれてしまう、そんなふうだろうか。
 そういうことならよくわかる、小さな幅で自分にも起こっているから。たしかに夏や冬や、季節の変化への対応が少しずつ遅れていく。反応が感覚的皮膚的になるから、全体としては鈍っているのに局所的には過敏になり、慌ててしまうけれど、それへの適切な判断と対応がうまくできなくなる。予断も含め早めに判断して、というのができなくなる。だから短期間に終わることとか小さな変化やの場合は気づいたときにはもう終わっていて、かえってほっとしてしまうなんてこともまれには起きる。それがいいのか悪いのか、楽なのかどうかは別にして。
 雨のないまま3週間以上続いた猛暑は台風で一息ついた。暴風雨がなかったから、被害もわずかで、世界全体が少し冷やされて息継ぎできた感じだ。菜園にも恵みの雨だったが、暑さと乾きに痛めつけられた今年は、もう豊かな実りは望むべくもない。風で倒れた茄子を起こしてももう枯れていくだけだろうと、手も着けずにいる。ピーマンや唐辛子の赤が寂しさを際だたせている。胡瓜も初めの数本だけだったし、ほんとに残念だった。庭の蛇口が使えなくなって、室内の浴室から長々とホースを引いて水を撒くめんどくささを厭わない元気も、もう生まれてきそうにない。しばらくはこのまま放っておいて、暑さがおさまったらルッコラの種を蒔いたりレタスの苗を植えたり、それに冬野菜のことも考えたりできるようになるだろうか。ちょっとしたことがうまくいかないのが、とても応える。これも心身の堪え性のなさが強まっていくことの現れのひとつだろうけれど。

 

菜園便り一五九
一〇月一三日

 秋は朝夕に深まっていくのに、昼間は夏日が続いてその落差にくらくらしたりもする。 札幌に住む姉が誕生日割引の航空券を利用して、今年も一週間ほど来てくれた。父に会いに来てくれるのだけれど、こちらにいる間中ずっと家事や片づけをやってくれた。せっかくの休暇なのにともうしわけない気持になるのだけれど、ついついあれこれ頼んでしまう。
 玉乃井の修理を続けている最中で、ちょうど小屋の屋根の張り替えの日にも重なった。中村さんに手伝ってもらいつつ、古いトタンの波板を剥がして新しいガリバリウムの波板を張る作業。夏が戻ったような暑い日で、蚊も最後のチャンスと襲ってくる。取り外しと、傷んだ下板を何枚か取り替えて午前中の仕事を終えて降りると、素麺の昼食が用意されていた。挽肉と南瓜もある。
 午後は二枚の半透明ポリカーボネイトを明かり取りに加えた一二枚ほどの波板を端から張っていく。飛び出した庇は削って、最後はくるむように折り曲げてと、屋根の上でちょっと滑稽な姿勢で、どこかおそるおそるやっていく。こういうのをへっぴり腰というのだなと、ことばの描写力の正確さに感心したりしつつ。屋根などでの仕事は、体のふだん使わないところを使うのと、高さでの緊張もあって、けっこうあちこち強張る。
 下からは見えないし、たいそうなところでもないからと適当にすまそうとすると、中村さんからやんわり批判されて、やっぱり最低限の見栄え、最後のつめもきちんとやる。そんなふうにどうにかやっつけて薄暗くなって降りてくると、あたたかい夕食ができていた。なにか奇跡のようにさえ思える。絵に描いたような、テレビドラマのような、そんなありきたりのことばでしか語れない、生活の、日常の時間の繰り返しのなかでつくられた比喩そのままの、誰かには当たり前すぎて何の感慨もないことだろうけれど。
 ふだんなら、ここから自分で夕食を準備してワインをあけて労をねぎらって、お礼を言って、ということになる。それはそれで特に嫌というわけではない。仕事だって、慣れないからきついけれど、でも打ちのめされて、腕も上がらないと言うようなものではないし、もちろん。昼間とはちがう筋肉や頭を使う仕事である家事は、特に料理は、気持に小さな閃きや刺激を与えつつ、落ち着かせてくれるところがある。
 でもこんなふうな、一仕事終えての心のこもった夕食、というのはとにかくうれしいし、有無を言わさない生活の力というか厚みに納得させられ包み込まれる。だから当然のように、定番にのっとってビールをあけて、陽射しで火照った顔をまた紅くする。仕事のできや失敗をさも重大そうに面白おかしく誰にともなく語って、意味のない相づちを打って、そうしてお腹も気持も満たされて、少しぽーとなってごろりと横になる。誰かが「牛になりますよ」というのが、聞こえる。

 

菜園便り一六一
一一月二〇日

強くなった風に鴎がくるくるとまわり、山茶花も開いて、季節がおおいそぎで移っていく。この建物を巡って、人も家族もかわっていく。関係が途絶え、そして生まれる。

 

菜園便り一六四
一二月半ば 杉野さんのこと

 玉乃井の片づけを進めながら、そこから出てきたものを手に取ったり、並べて展示したりしていると思いもかけないものに出会う。祖父は活動的でつながりも多く、しかも何でもとっておく人だったから、実にいろんなものが残っていた。以前はまとめてそのまま処分していたけれど、玉乃井プロジェクトを始めてから、とにかく一度は開いてみる、一呼吸置いてどうするか決めることにしたので、手紙類の間から帝国ホテル旧館のパンフがでてきたり、破れた封筒に祖母の死亡診断書が入っていたりして驚かされた。
 先日もちょっと不思議なことがあった。玉乃井の集まりでも語ったけれど、人がみえると必ず話題になるものに、2階の広間の大きな座敷テーブルがある。日田杉(実は松だと後でわかった)の一枚板で、幅一メートル、長さ四メートル近くあるのに足も四本だけでしっかりしている、といったことをいつも説明したりしていた。作ってくれたのは以前祖父の所にいて、日田に戻られた杉野さん、もう一台の短いテーブルも同じ杉(松)からのもの。祖父のもとで書生さんみたいにして装蹄士の免許(当時は国家試験だった)を取るために勉強していた人だけれど、今回の片づけのなかで、彼の結婚写真が出てきてびっくりした(身内でない人の結婚写真などもけっこうあるのは配ったりしていたからだろうか)。たぶん祖父に恩義を感じておられ、律儀な方だったようだから、結婚の報告に来られたのかもしれない。
 一二月半ば、その杉野さんの息子さんが突然、近所に来たからお仏壇を拝ませてほしいとみえた。ぼくは初めて会う人で、ちょっとポカンとする感じだったけれど、片づけのなかで少し意識化されていたこともあって、すぐに対応はできた。息子さんもぼくの「日田の杉野さんですか」という問いに驚かれて、互いに感無量とでも言った雰囲気だった。
 父に引き合わせ仏間に通し、お茶を出して挨拶をくり返しながら、写真のことやテーブルのことを話すとびっくりされつつ喜ばれ、すぐにも席を立って見に行きたいといったふうだった。バザー会場のままの雑然とした2階に案内し、その結婚写真や玉乃井や祖父の資料を見せたり、テーブルを見てもらったりしながらまた話す。「結婚写真、それは再婚の時のでしょう」と即座に言われたとおり、それは杉野さんの再婚の時のものだった。自分たちの母親ではないということをはっきりと言われる息子さんに、どこにもあるのだろう家庭のあれこれも思ってしまう。杉野さんが家庭をもたれていたことすら、子供のぼくには知るよしもなかったし。
 彼はテーブルを見るのは初めてだったようで、「話には聞いていたけれどもっと小さい細長いものだろう」と思っていたとのことで、すごいすごいを連発される。建築関係の仕事を続けられていて、そういった話にもつなげながら、父親の仕事をしっかりと評価し、そのすばらしさをぼくらにももう一度伝えたいと言ったように。これだけの大きさと厚さなのになんのそりも歪みもない、屋久杉ならともかく、日田杉でこの大きさはすごい、と。
 1階の海側入り口に展示している装蹄の道具や、獣医の器具なども案内しつつ、話しも広がっていく。蹄鉄の釘を家の工場でつくっていたこともご存知だった。祖父が獣医として、南公園と呼ばれていた福岡市の動物園にも時々行っていたということは初めて知った。虎やライオンは板に挿むようにして診るからいいが、象はそういうわけにないかず怖かったと親父から聞いたととのこと。おそらく祖父の助手としていっしょに行かれたのだろう。
 杉野さんは装蹄士になった後も長い時間かけて勉強し、獣医の資格をとられたということも、この日知った。ぼくは、祖父のもとにおられた頃は、生まれてもいなくて知るよしもなかったけれど、その後時々見えた時に会ったのはかすかに覚えている。とにかく大柄で声も大きく、子供にはなじみやすい楽しい人という印象だった。最後にお会いしたのは、祖母のお通夜の時で、「誰も添い寝しないのか」といったようなことを言われて、祖母の棺の前に横になられたのを覚えている。おそらく彼にはぼくのことは、何人もいた子供たち(従姉妹も当時はいた)のひとりととしてしか記憶にはなかったと思うけれど。
 「旧玉乃井旅館<解体と再生>プロジェクト」を立ち上げ、片づけと展示を始めたことで、様々なひろがりが生まれつながり、いろんなことが現れてくる。でも杉野さんまでたどり着くとは思わなかった。かつての仲居さんにはどこかでつながっていくんじゃないかと、ちょっと期待しつつ、できれば避けたいと思ったりもしていたけれど。もうひとりの装蹄士の丹部さんにつながるのは、とうに亡くなられているし、もう不可能なのだろうけれど、以前「菜園便り」に書いたこともあってどこかで息子さんになりと関われたらと思ったりもする。ぼくの子供の頃の思い出にかなり色濃く残っている人だ。会ったところで話すことも何もないのだけれど、でも顔を見てみたい、そこに丹部さんの面影を見つけてみたいと思ったりもする。杉野さんの息子さんは全くと言っていいほどお父さんには似ておられなかった。

 

菜園便り一六三 ???????
一二月二三日

気がつくと冬至、そんな追いまくられるような日々です。年が早く巡ってくる気がす
るのは、年齢的には、たぶんいろんなことが痕跡さえ残さずに過ぎていくからであ
り、記憶の鈍化がそれに拍車をかけるのだろうし、季節や暑さ寒さの体感さえしっか
りした印象を与えなくなっているから、つまり受けとめる感受が鈍磨しているから、
でしょうか。それにしても、もう大晦日が目の前とは。
どこかですっぽり記憶が抜かれたのか、時間がまるごと切り取られてしまったのか、
ちょと寝てる間に季節が早送りされたのかと、本気で思ってしまいます。
「旧玉乃井旅館「解体と再生」プロジェクト」でももちろんですが、「九月の会」で
も「記憶」がテーマになって、あれこれ考えたりもしますが、なかなかに曲者でとら
えどころがないのは時間を考えることとと重なっているし、おまけに身体や心性とも
抜きがたく絡み合っているからでしょうか。あの、思い出を語ることの、淫するほど
の快感はなんだろうかと考えこんでしまったりもします。またぞろ、六〇年代が語ら
れたりもしているようですが。なぞるだけでなく、どこかできちんと掴みたいと足掻
くように思ったりもします。
「文さんの映画をみた日」も今年は終了、次の締め切りも来年に入ってからなので一
段落です。隔週といっても、追いまくられる時も多く、なにより書きたい映画(とい
うより書ける映画)を追いかけて1年が終わった気もします。今年は最後の最後に蔡
明亮を2本みることができたのがいちばんでした。
「菜園便り」もなかなか落ち着いて書けなくて残念です。来年は・・・・という常套
句でことしてもしょうがないですが、もう少しなんとかとは思わずにはいられませ
ん。書く喜びが、つかみ取る対象への感動がそのまま受けとられる喜びにつながって
いくような。
そんなことを願いつつ、今年最後の「菜園便り」を送ります。
よいお年を!

 

菜園便り一六五
二〇〇七年一月一七日

 冬至が過ぎて三週間、日が長くなってくるのがかすかに感じられる。寒さのほうがいよいよつのってくるから陽射しの現実感はうすいけれど、夕暮れの心づもりが少しかわってくる。夕飯の準備への心づもり、といってもいいだろうけれど。
 先日、札幌からのお客さんがあった。学校時代の友人だから、三五年ぶりぐらいになる。「ほんとに?」とつい思ってしまう。そんなに時が経ったことが、自分のことで三〇数年なんてことばが使えることが。会った途端、以前とかわらずにさらさらとことばはでることに。
 でもあたりまえのことだけれど互いのその間の生活が影を落としていて、基本的な部分はほとんど同じに感じられるのに、ときおりの相手への思いやりなどに、毎日の暮らしの丁寧さなんかがのぞく。年を重ね、人への、世界へのやさしさが厚みを増すと共に、もうこれ以上はけして受け入れないという見切りみたいなものもできあがって、固い口調での反発や抗議としてでなく、生のなかの穏やかででもきっぱりとした拒絶が育ってくる、そんなふうにも思える。人は寛容になるのか、偏狭になるのか。それは同じことの裏表なんだろうけれど。
 進行中の「旧玉乃井プロジェクト」で記憶や思い出、記録なんてことをあれこれ弄りまわしているせいか、あまり昔のこと、楽しかった思いで、つらいことば、なんてことは話題にあがってこない。そんなふうに自分で制御しているのかもしれない。感傷や甘苦さを避けようとしていたのだろうか。
 でも不思議だ。「やあ、元気」みたいに始まって、「またおいでよ」で終わるまで、二、三年ぶりに会った、そんなふうだった。生活やその現場を見られることへのためらいがないのは、取り繕うための体力や「美学」も、やっとしぼんだということだろうか。今回のプロジェクトで、生活の場で表現することを選んだ以上、しかも歴史や家族をテーマにした以上、それはそうするしかないし、それをやり抜けたら少しは何かが拡がり、太くなる気もする、ささやかな期待として。
 少し無理しながらも、さらさらと父と一緒に台所で鍋を囲んでしゃべり、洗い物をしてくれる姿にいろいろなことを感じ、感謝し、そうして少し淋しくもなる。そういうことができるようになるのに三〇年を費やしたということであり、でもそうしてやっと手に入れることができたたいせつなものでもある。スタイリッシュな「反日常」的美学や傲岸な生活軽視、つまり生きるための家事やごたごたを軽んじることからも少し自由になれたということだろうか。
 小さなバッグひとつ、といった旅慣れた軽装の友が手を振る。あたたかい陽の射す海岸通りをバスはたちまち走り抜けていく。北海道、ほんとに遠いところだ。

 

菜園便り166 ???????
2月12日

もう10センチほどにも伸びた麦がゆっくりと風に揺れている。ほんとに柔らかで濃い緑の葉。収穫の始まったカリフラワーの間に、そうやって麦や秋以降放置されているひこばえの稲が続く。休耕田には雑草が短くびっしりと生えている。そろそろ稲作のための田圃の準備が始まるだろう。黒々と耕された畝に白い鷺が虫を求めて降りてくるだろうし、鳶も群れながら上空で舞うだろう。暖冬だから寒さの実感がうすいけれど、今がいちばん寒い季節。でも光がこんなにも真っ直ぐで強いから、もう春と思う気持ちは堰き止められない。


 1月の集まりの時、大半が帰られた後、残った数人で珈琲を飲みながらあれこれ話していても、やっぱり記憶や思い出なんかが中心になった。音楽に関しての、どんな作品が自分に焼きついているか、「数曲をあげて、そのなかでいちばんのものをひとつ。できれば理由も」といった問いには、誰もがなかなか答えられない。すぐに数曲あげたり、たった1曲を選ぶことの難しさもあるけれど、ひとつには自分のずいぶんと深い部分をさらけ出すようでためらいがあったのだろう。
 以前、映画について同じようなことをやったけれど、その時はわりと楽に答えられた。距離がとりやすく、視覚的なものはどこか抽象的というか理性的、なのだろうか。音楽は生理に深く絡みつき、情動や感傷、性的なものにも結びつき、一瞬にして人を連れ去ってしまうところがあるから、なかなかに難しい。底なし、みたいなところがある。そんなに大げさにでなく、と思っても、やっぱりうまくことばにもできないから、説明したり観念的にしたりして、曖昧にできづらいからだろう。
 年齢が近いと好みも嫌でも似てくるから、世代を暴かれたり、世代との関係をみられる(と思ってしまう)ことを避けようとする気持もあるのだろうか。なかなか正直に、すっとはできない。その時もちょっとでたけれど、「カーペンターズを唾棄するほど嫌悪した」とかいうのももろに世代的なことなんだろう。つまりどこか学習したこと。あれだけ流行ったからつい口をついたりするから、よけい片腹痛いというか苛立つのだろう。あの甘ったるさと徹底したノーテンキな軽さ。清潔な澄みきった声!?
 ぼくは中学、高校時代は怒濤のグループサウンズだから、嫌でもそこからは抜けられない。ずいぶんたくさんの歌を空で歌える、しかも3コーラスまで。そういうことはやっぱり言いづらい。世代的にずれるから、山口百恵は全部歌えるなんてことは、平気で言える。どこまで本気だか、と思わせられるし、自分でもそう思ってしまえる。でもタイガースやテンプターズ、カーナビーツ、ビレッジシンガーズ、スパイダース、ジャガーズなんてなってくると、自分でもおいおいと言いたくなる。
 思い出を語るあの甘さはどこからくるのだろうか。<青春>を回想する感傷の甘さ、それに乳幼児期の家族、集中母とのつながりの記憶、甘さ、あたたかさなのだろうか。ほんとはもっと濃く熱いどろりとしてくるまれるものか。そうして苦いもの痛いものは、巧みに無意識のフィルターで濾過され不透過にされて表面に浮上しないようになっているからだろうか。
 60年代は政治や文学、ポップカルチャーとしての音楽、美術、演劇等などの--ビートルズサイケデリックアンダーグラウンド、ミニスカートの全盛であり(ほとんど全てが外国からだ)、愛や貧乏すらもが社会的で具体的で語りやすいし、身体的でもあったから、思い出にされるには最適だった。直後に「根暗な」70年代がはいり、「豊かな」狂騒のバブルが後に続いたから、80年代の初めにはもう60年代は回顧され、ある「郷愁}(ノスタルジー)を誘うものとして、もちろん商品として、語られ歌われ始めた。例えば、「苺白書をもう一度」といったような作品。だから当時は吐き気がするほどにも嫌悪していたし、酒場で「インターナショナル」を歌うような傲慢な感傷と共に、心底うんざりさせられていた(本気で聴くと泣かずにはいられなかったのかもしれない)。しっかりと口を閉じ身を屈めて、ただじっとうずくまってやり過ごそうとしていたのだろうか。でも何を? 時の過ぎゆくのに身を任せて? それこそ歌謡曲だったろうに。
 喪われたもの、どんなに足掻いても二度と手に入らないもの、一過性でしかありえないもの、痛くて辛くてしんどくて2度とやりたくはないけど、もうやらなくていいから思い出せる甘苦いもの。人に、世界に語ってみたいもの、ある評価の軸がありなんらかの「価値」(マイナスの無価値も含めて)ができているもの、身をもって贖ったものだから「売っても」いい自身のものとして、と思うもの、そんなこともあるのだろうか。
 語れるから、つまり誰かに聞いてもらえるから、誰かに読んでもらえるから、人は語り書き続けるのだろうか。語るとか書くとかは、直接の対象が無くてもなりたつ、つまり先ず「わたくし」に語りかけられているのだから。それがほんとうはいちばん大きな理由かもしれない。自分で再現し解釈し、どうにか否定的であれ確認しできれば納得し受け入れるために。
 記憶というのはその人自身と等価なほどにも大きくて大切なものだ。だからたいせつにして、宴会の座興などで雑ぱくな感傷と共に流し去ったり放りだして捨てたりしてはいけないものだ。そうしてそういった切実なものならば誰もが聞き捨ててしまったりはしない、どんなささやかなことであれ、うまく語ったり表現できないものであれ。

 

菜園便り一六七
二月二四日

 吹き荒れた春の嵐もおさまり、暖冬のまま春になりそうです。海の色も心もち緑が濃くなり、少し温んでたゆたっています。真っ直ぐな陽射しは顔にいたいほどで、海岸の散歩では、波打ち際の透明な水に思わず手をつけたくなります。そうして慌てて手を引きます。やっぱり水はまだまだ冷たく、濡れた手に風はしっかりと吹きつけて痺れさせます。それでももう春の訪れはまぎれようもなく、光はあらゆる所に満ちて溢れ、次々に花が開き麦が伸び、そこここの目につく鳥もかわっていきます。
 冬の酷寒がなかったから、冬を越して春になったという合図がうまくいかないのではないか、植物はが春を感知しないで、桜もうまく咲かないかもしれないという予想もでたりしています。冬に、特にクリスマスや正月に苺を結実させるために、夏の終わりに苗を冷蔵し、冬を越したと錯覚させて育てるのと逆のことが起こっているわけです。年末の苺も以前はとても不思議に感じていましたが、他の夏野菜と同じで、もうすっかり馴染んでしまいました。そうやっていろんなことのリアルさや切実さがうすれていくのでしょうか、味気なくなった野菜のように。
 「旧玉乃井プロジェクト」(第一期)もいよいよ会場での設置も始まり、参加者のプランもかたまってきました。楽しみですが、かなりたいへんになりそうで心身共にちょっと心配でもあります。やっぱり一〇年前とはまるでちがいます。自覚すらないまま、いろんなことをむざむざと振り捨ててきたのか、惜しげもなく、そうしていつのまにかひっそりと全ては忘れ去られてしまった、といった芝居の台詞が聞こえてきそうです。片づけなどの現場のことだけでなく、ハガキDM作成や広報の準備も遅れていてあたふたしている状態です。
 「文さんの映画をみた日」に「蟲師」(大友克洋監督)を書くので、彼の以前のマンガを資料として読み始めたら止められなくなり、六巻の「AKIRA」も読んで、まだ持っていなかった「気分はもう戦争」と「Memories」も買ってきて、といったことになってしまいました。この映画の監督は仕事としてやったんだろうけれど、でもやっぱり自分の作品を書いてほしいと思います。九六年の「SOS東京大探検」以来、単行本は出ていない!のだから。「文さんの・・」はこんなふうです。

 ・・・・・・「大友克洋の新作」というコピーに、ついに新作マンガが出たかと思う人も多いだろうけれど、そうではなくて監督映画作品、しかもアニメーションでなく実際の場や人を使って撮った「実写」。そうして原作自体も自分のではなく、漆原友紀の「蟲師」。待ち望まれている大友のマンガ作品は、初期の傑作の「ハイウェイスター」「ショートピース」・・・・・・・大友自身が、マンガが表現の重要な媒体のひとつになっていくのを体験しつつ体現してきた世代でもある。大友やつげ義春だけでなく、高野文子諸星大二郎などがいなかったら、世界はずいぶんと淋しいものになっていただろう。・・・・・」

 

菜園便り一六九 ?????
四月一三日

桜も散り、黄砂がまい、春も深まってきました。菜園は今になってルッコラや春菊が
芽を出し始めましたが、手前の小さい方は芳しくないまま撤去し、庭の奥に新しく作
り始めました。砂地の上の貴重な土はそこに移したので、いってみれば<解体と再
生>でしょうか。青梗菜の菜の花がみごとです。たった一株だったのずいぶんとはっ
て黄色い花を満開にしています。蕾は摘んでおひたしやみそ汁にも。玉乃井プロジェ
クトの慌ただしさのなか、それでも季節はゆっくりと移りながら、しっかりとたくさ
んの楽しみを贈ってくれます。

 

菜園便り一七〇
五月一四日

 なにもかもが美しい。庭の木々も風景も海も、時には人も美しい。心は、どうだろう。こんなにも爽やかで輝くようには、風は吹き抜けていかない。裏返り、躓き、澱み、それでも季節の巡りのなかで、なにかしらを拠り所にこの茫漠とした世界を漂っている。なんて速い流れなんだろうと呟きながら。
 「旧玉乃井プロジェクト」第一期の終わりに予定した「美術展」の準備で忙殺され諦めかけていた夏野菜を、中村さんの手助けで会期直前に植えることができた。胡瓜、トマト、ゴーヤ、茄子、ピーマン、青紫蘇、ズッキーニ。少し前に植えておいた蔓なしエンドウも芽をだし、ルッコラもまだ伸びている。何ヶ月もかかって芽吹いた春菊もやっと食べられる。カツオ菜の菜の花や若葉、最後のレタス、どっさりのパセリ、みずぼらしい眺めにもかかわらずけっこういろんなものが採れる。コリアンダーも花をつけつつまだ広がっているし、春になって蒔いた蕪もときおり収穫できる。柔らかくて葉も食べられる。
 苗はいつもの花田種物店。胡瓜は直後に潮がかかったり、強風で揺さぶられて二本が潰えたけれど、他はどうにか伸びてくれ、昨日姉にも手伝ってもらって三畝に支柱を立てた。ズッキーニはあの大きな花を幾つもつけ、トマトやピーマンにもちょっと早すぎる花がつき始めた。青紫蘇にもう花がついたのはがっかりだったけれど。
 終わった大根も何本かはそのままにしているので、満開になっている。すごく薄い藤色。人参も青々と伸ばした葉がみごとで硝子の花瓶に根ごといけてある。珍しさもあるのだろう、いろんな人がなんですかと聞いてくる。
 庭の一角のジャーマンアイリスは咲きに咲いて終わった。大きいし派手な色だし、求められて何人もに切り花で渡した。ハランを求めにみえた人もあったし、石蕗を根付きで持っていかれた人もある。何も手入れしてないようなこんな庭が懐かしいとか、昔風の草木が植わってますねと言われる方も多い。いい加減さの結果の不思議な混淆と調和。ぼくも好きだ。整然としたものが一方で持つ威圧もない。あれこれの、勝手に飛んできた野の花も大げさにでなく咲き乱れている。沖縄月見草、ポピー、かたばみ。他にも君子蘭、アイリス、フリージア等など。切り花でいただいていた何種かの百合も元気だ。カーネーションやかすみ草、アザミもまだまだ。
 四月は心身共に全くゆとりがなかったから、五月は少しゆっくりと庭や菜園を味わいたい。別館の解体やあれこれ憂鬱なことがらは山積みしているけれど、蔡明亮の映画「黒い眼のオペラ」をもうみることもできたし、楽しいこともまた少しずつ増えていくだろう。心穏やかに、美しい季節にしばしたゆたってみよう。

 

菜園便り一七一
五月二七日

 新聞のテレビ欄に菊池怜次の名前を見つけて驚いた。何年ぶりだろう、その名前を目にするのは。美術番組の特集で、版画家として紹介されていた。
 彼の銅版画にあったのは一九八〇年代半ば、ギャラリー・ユマニテでだった。二枚の版画を、無名だけれどいいものがありますというような紹介で見せられた。美大出身ではないということも強調されていて、それはそういったマイナスにもかかわらず、珍しくいい作品を創るというような言い方だった。既に亡くなっていることも、もうその時に知らされていたけれど、早稲田の理工系ということだった(ほんとは上智の経済だった)。
 その二枚は「オブザーバー1」(「observer1」と欄外に手書きで入れてある)と「クロコダイル・メッセージ」。後で刷った三〇枚の内の一枚だから、サインはない。ぼくにはなによりも先ず、加納光於が思い起こされた。細胞や微生物といったミクロ的なイメージと宇宙的な無限なものの混淆。そうして生物的で生理的ななかに文字や図形がクールに多用された不思議なバランス。でもとうぜんだけれど加納の持つ臓器的な生々しさや病的なまでの繊細さ、不可解さはなく、線も固く、無駄なイメジも散乱し、イラストレーションそのままに説明的思わせぶりなしぐさや大仰な身振りを隠しきれない。でもそういった緻密になりきれない大雑把さやずさんさが、大らかさや勁さででもあり、若々しい潔さとか、ふりしぼられる蛮勇といったものもでもあることも感じさせられた。今思うと、そんなことだったんじゃないだろうか。加納の「星反芻学」と比べても意味がない。ちがう位相にあるものなのだから。
 銅版画が好きなのはその線の持ち抱える深み、雑ぱくさも含めた奥行きや複雑さがあるのだろう。儚いほど細くて頼りなげなのに、パセティクな荒々しさや、線そのものの肉感とでもいったものさえ含み込んでいる。メゾチントをだすまでもなく、その黒、暗さの深みはとてつもない。腺病質で、誠実で、生真面目で、一方にヒステリックなまでの破壊や大胆さがあり、そうして穏やかな暖かさや弱さ、不気味な底知れなさまで。加納やリ・ウーハン、ヴォルス、有元利夫、吉田勝彦、そうして長谷川潔や初期の池田満寿夫等など。
 特集は、町田版画美術館での没後四〇年展にあわせてのものだった。会場で、かなり高齢のお母さんへのインタビューがあったけれど、今後のことを考えて作品を一括して寄贈されたのかもしれない。版も作品も全点収蔵されているとのことだった。周りにいた人たちが功なり名を遂げ、思い出を懐かしめる年齢となり、こういった企画を何らかの形で実現できる立場になったということでもあるのだろうか。夭折した異才の友人であるわたくし。
 紹介されたのは、初期の自画像や受賞作品などの具象的なもの以外は、テーマが確定した後の同じ傾向のものだった。インタビューの背景に写っていた、色つきのものなんかもさっとでいいから見てみたかった。もっと、直截に甘い部分、柔らかくやさしいものもあったのだろうに。
 小さい時からの病、二〇代前半での死、その直前の短い、異様なまでに充実した制作。そういったありふれた神話やエピソードにまとめられてしまって可哀想にも思えたけれど、でもそういったまとめ方ができるからメディアにも登場し、回顧展も開かれるということでもあるのだろう。
 しまいこんでいた版画二点を久しぶりに出してきた。かろうじて黴の襲撃を免れていたけれど、額の裏板まで白い黴が浸透していた。たまには出して見ていたつもりだったけれど、ついこの前が10年前だったりする今日この頃だから、前回出したのはいったいいつのことだったか。こんなふうに、忘れ去っているわけではないのに、いつのまにか遠ざかり、黴や汚れに覆われ、いつしか嫌悪され見捨てられるのだろうか。ましてや関心のない人には「美しく」さえない奇妙なものでしかないのだろうから。


菜園便り一七三
六月三日

 いんげんが採れた、今年の初物だ。わずかだけれど、唯一の豆類だからうれしい。空豆やキヌザヤ、豌豆の種まき時期だった去年の一〇月頃は気持に全くゆとりがなくて種まきができなかった。最初さえきちんとやっておけば、後はあまり手をかけなくても毎年楽しめた空豆がない初夏はさびしい。ほんとはもっと大きな感情だけれど、そこにはどこかしら損したなあ、といったなにやら効率的な判断からくる吝嗇の気持もあるようで惨めになるから言うのは控えるけれど。
 今日採れたいんげんは、蔓なしいんげん。延びないから巻きつく柵を作ったりしなくていいし、蒔き時が春の初めでもよくて、夏野菜と同時期に手当てできたからだった。豆類はだいたいそうだけれど種子の豆そのものを2個ずつ蒔いていく。発芽したのは4本、潮に負けて2本だけが育ってくれた。新しい菜園は以前より潮がかかりやすい場所でもあるから心配していたけれど、この春は風の強い日が多くてはらはらさせられた。
 さっと茹でてそのまま食べてもその野菜唯一の独特の味とほのかな甘みがある。若いし取り立てだから筋もない。しっかりした歯ごたえと瑞々しい柔らかさがある。これは採れたてのどの野菜にも言えることだ。パリッとして、じわりと柔らかい。
 胡瓜は茎も葉も色濃くしっかりとしていて重く、今日もずり落ちたのを柵の上に引き上げたり軽く縛ったりした。ずいぶん低い位置から枝が伸びてしまい、地面に実がついてしまうのも多い。早めに収穫し、おやつ代わりに、朝夕のサラダに、パリパリと食べていく。
 晴天が続き、暑さもつのってきた。冬物のセーターやコートを洗ってしまいこむ。またひとつ季節を跨ぐ。


菜園便り一七四
八月一五日

 もうお盆だ。毎年のことだけれど、仏壇の飾りつけや精進料理の準備などに忙殺される。墓(近所のお寺の納骨堂)に参ってのお迎えをすませ、お供えの料理と素麺、団子をだすとほんとにほっとする。どうにか間にあったし、きちんとだすことができた、しみじみそう思ったりする。正月に次ぐだいじな年中行事、ということになるのだろう。
 いつのまにか立秋が過ぎたけれど、暑さはこれからが本番、九月いっぱいは暑さの覚悟がいる。陽が傾き始めたから、軒を潜って強い陽射しが家の中へ射し込んでくる、夕方以降はちょっとつらい。
 ずっと書けなかった「菜園便り」だけれど、ファイルにはメモが残っていて、 「梅干し/解体/植木」 となっていた。従兄弟の奥さんが千葉から送ってくれた自宅の梅で、今年も梅干しを漬けることができたこと、その間も続いていた解体の作業のこと、船の部屋の前を中心とした植木が根こそぎされたこと、などを書く予定だったのだろうか。
 建物の解体の後遺症がひどいし、その後の壁や屋根の修理が進まず、台風が2度も来て、胃に穴があきそうだった。今もそれは続いていて、とうとう蕁麻疹がでた、何十年ぶりかだ。こういうことはほんとに難しい。交渉が苦手というだけでなく、現場作業がたいへんだから、どうしても気後れしてしまう。一方で、彼らが(法人としてであれ)引き受けた仕事なんだからちゃんとやってくれ、という気持の間で右往左往してしまう。極端に言えばもうしわけなさと怒りとの間をうろうろしてしまう。
 そんななか、今年の菜園はほんとに元気でどっさりのものを届けてくれた。新しい場所になったからだろうか、胡瓜が早い時期からどんどんなり、トマトといんげんが続き、今はゴーヤの収穫。茄子やピーマンも採れた。水道の蛇口がなくなり、バケツや如雨露で運んでの水やりはたいへんだったけれど、収穫の悦びはそれに数倍する。
 繁茂しているゴーヤからギラギラするほどのアクの強さみたいなものがなくなったら、夏は終わる。強烈な陽射し、渇水、でもそんな悪条件を逆手にとって繁り実をつける植物のすさまじいほどのエネルギー。追肥が二度で途絶えても次々に実をつけていく力。ここでパタンと何かが、例えばヒトが倒れても、そこから栄養を吸い上げ芽吹き、次々に花が開くのだろう。白熱しきった地平にどこまでも続く花、そうして奇怪な形の莢で護りながら遠くへ遠くへと種子を飛ばし続ける。瞬く間に世界は一色に染められ、その端からまた別の色が急速にひろがり始め、取って代わっていく。

 

菜園便り一七五
九月八日

 佐藤真が亡くなった。四九歳。自死。とても残念だ。ぼくにとっては今の日本の映像作家で最高の人だった。だからつい「早く『阿賀に生きる』を超える作品を撮ってくれ」と、勝手な大きすぎる願いをかけていたけれど、周りからのそういった無言の「善意」の圧力が過剰だったのかもしれない。『阿賀に生きる』のように、人を、つまり世界を、生活の場のなかで風景も取りこみながらあたたかいままでまるごとすくい上げた人は他にはいない。
 そういったことができたのは新潟の阿賀野川流域に住みこみ、そこで暮らしながら時間をかけて関係を築きながら撮っていったからだろうし、そこでの生活や人々にとけ込める生来のものを持っていたのだろう。初めての自分の映画、弱冠三五歳、恐れや限界なんて思いもつかない蛮勇と共にとてつもない不安。優秀さや明晰さだけでなく、鷹揚さや鈍重さも含めた生の力や勁さを持ち得ていたからだろう。
 一九九五年に当時出ていた小冊子に書いていた「映画を生きる」にも佐藤真について少し触れたことがあって、それはやっぱり『阿賀に生きる』のことだった。「・・・・阿賀は新潟水俣病が起こった現場で、だから当然のように昭和電工はひどいということはでてくるし、それに対してきちんと対応しつつも、映画はたちまちもっと辛辣で深い、生きることそのもの、世界そのものへと入っていく。積み重なる暗い、難しいことがらは、でも結局生きる肯定へとつながっていく。その奥に重なる長い時間の上に(端に)今があるのではなくそれと一体となって重層的に混じり合って現在もあるということをリアルにわからせてくれる。だからそれはぼくらの物語でもあり、今そのものでもある・・・・」。
 『阿賀に生きる』は世界を瑞々しく柔らかなまま全体として取りだしている希有な作品だった。自由でやさしくおかしくそうしてせつせつと哀しくて、でもどこまでも元気で明るい映画だった。生きることの、世界の、畏怖するほどの底深さ、人の慈しむ力の大きさ、そういったものを無造作なまでにどさりと手渡してくる。こういうことができるんだと、あっけにとられるほどだったことも思いだす。
 とにもかくにも早くいい映画を撮ってほしい、みせてほしいと一方的に願ってきた。もちろん生活もあるのだろうけれど、本を書いたり、講演したりすることよりも映画を、と。そうしてその映画も、自分の企画でないといいわけしたり(『まひるのほし』)、カメラマン田村正毅の撮影の美しさに負うところが大きかった(『Self and Others』)ものではない、自身のことばで語ったものを、と。遠い高い存在として全部相手に押しつけてのずいぶんと勝手な思いこみだったけれど、それくらいつい期待してしまった、もうしわけないと少しは思いつつ。遺作になってしまうのかもしれない、サイードを撮った『エドワード・サイード Out of Place』は敬遠してみそびれてしまっているけれど。
 ドキュメンタリーということに関しての考え方がすごく近いところにあって、それもうれしかった。ぼくなんかとちがって生真面目にきちんと映画を引用しながら丁寧に書かれた彼のドキュメンタリー論からの引用を最後に。「ドキュメンタリーとは、映像でとらえられた事実の断片を集積し、その事実がもともともっていた意味を再構成することによって別の意味が派生し、その結果産みだされる一つの<虚構=フィクション>である」。そうして映像の不思議さと力をこんなふうに書いている、「映像には常に、撮影者の意図を超えた、得体の知れなぬ何かが映り込んでくる。撮影中には気づかなかった、ザラリとした何ものかである」(出典は、たぶん上下巻に分かれていた『ドキュメンタリー映画の地平』だと思う)。

 

菜園便り一七六
九月二七日

 春からこっち、「玉乃井旅館「解体と再生」プロジェクト」とその美術展、父の入院、別館の解体とことの多い日々だったけれど、とうとうぼく自身の入院にまでなってしまった。悲喜劇というか、久しぶりのドタバタ劇だ。
 アジアフォーカス福岡国際映画祭が始まり、気合いをいれてみに行った初日。「陸に上がった軍艦」「風と砂の女」(不思議な文体、すごくいい)をみて、七時からの三本目の「ここに陽はのぼる-東ティモール独立への道」をみている最中に急に体がだるくなり吐き気や頭痛が始まり、姿勢を変えたり、額のマッサージをしたりしていたけれど、どうしようもなくなっていったんお手洗いに行き、顔も洗い、ちょっと落ち着いてまた戻り、どうにか最後までみて出てきたけれど、全然力が出なくて、それが大丸のエルガーラだったので、福岡を知ってる人にはわかるだろうけれど、あの広場のカバの彫刻の横に座って、いざとなればこの石の台座に横になれば涼しいか、などと思いつつ吐き気や悪寒に堪えていたけれど、でもとにかく帰らなくてはとタクシーで博多駅に・・・・といった感じで、這うようにして帰宅したけれど、熱帯夜の暑さと気分の悪さで眠れないし、妄想は膨らむしでバタンバタン寝返りだけで、でも朝になってもっと暑くなると、とろとろして汗みどろになり・・・といった感じで、昨晩から何も食べてないのに昼過ぎから嘔吐が始まり、苦しいし、腹部や胸部の不快さは耐え難くて、とうとう近所の医院に往診を頼み、すぐに来てくれた小島医師が救急車と病院を手配してくれ、担ぎ込まれ、ということになった。
 四月に父が急におかしくなった時とほとんど同じ状況で、ただあの時はぼくは介添えでついて行って、救急車に乗るのは初めてでちょっと興奮してしっかり観察しなければと思ったりしたけれど、今回はとにかくあれこれ聞かれるのに答えるのが精一杯だった。目をつぶると、どうしたんですか目を開けてくださいといわれるし。すぐにも痛み止めとか、楽になる処置をしてくれると思っていたけれど、小島医師も、救急車も(結局病院でも)そういう処置はされないままだった。病院に着くと、小島医師からの電話がいった妹が、ちょうど父のお見舞いに来ていたので(ややこしいけれど、父がその病院に入院している)、彼女の立ち会いで緊急手術が決定された。ヘルニアで腸閉塞を起こしているからすぐにしないと命の危険もある、なんて脅されて、「明日ですか」と、とぼけた返事をしていると、すぐです、という当然の返事で、手術になった。
 あれこれ、事前に煩雑なことがあって(その時は苦しくて半分くらいしか意識がないからたちまち手術だった気がするけれど)、腰に注射しての半身麻酔で、これはつらかった。痛みやだるさや吐き気はそのままなのに手術台に文字どおり縛りつけられるから、その気分の悪さと不快感はつのって、しかも二時間も我慢しなければと思うともうヒステリーを起こしそうだった。彼らからみたら、すでに起こしていたのだろう。眠らせてくれ、とか、足がだるいとか頻りに言っていたし、急にカッと暑くなったり、悪寒で震えたりをくり返していた。「麻酔でだるいんです、小学生でも我慢しますよ」と仕切の向こうの執刀医のひとりに言われたのは覚えている。ほんとにやれやれだが、いちばんの苦しみは鼻から胃に突っ込まれた管で、それが喉を刺激してえずく(例のオエッてやつ)ことになったから。
 だから終わった時はほっとするよりなにより疲れ果てて、執刀医たちは覆いの向こうだし、ろくにお礼も言わないままだった。さすがにすぐそばであれこれ気を使って暖房を入れたり切ったり、温め器を脇の下や首筋にあたたり外したりしてくれた看護士たちにはお礼を言う気力も残っていたけれど。
 そんなこんなで、全身麻酔の恍惚と、半身麻酔(頭は覚醒状態)の苦役は天地以上の開きがあることがわかった。今後は絶対全身麻酔しかしない。これで、彼らが脅したみたいに腸に穴があいていたり壊死したりして、数時間かかっていたらどうなっていただろうとかと思うと、それだけで気が変になりそうになる。
 とにかく終われば先ず管を外してもらえるとそれだけが頼みだったのに、看護士がもうしわけなさそうに、今晩一晩は外せないんです、腸からの逆流があるのでそれを出さないといけないんですという恐ろしい宣告だった。全くなんてことだ。
 でも結局は何もかも終わった、ということになるんだけれど、それはあらゆることがそうであって、例えば死に至る苦痛とか、戦争とかいったことでも同じなんだろうけれど、時間の流れの感覚が歪んで、奇妙な速さ遅さのなかにあるから(心や身体が拘禁状態とかいう時にそうなりやすいのだろうけれど)だろうし、あまりにもリアルな心身の苦痛と、全体としての曖昧さ、というかとりとめのなさもあるのだろうし、きっと心理的な、直視したくないとか、表層だけを触ってできるだけ記憶に刻まれないようにしたいといった思いもあったのだろう。
 四日目の院長回診の時に「もう退院できそうだね」なんていわれて、つい「一日も早く出たいです」なんて口走ったので、一週間くらいの予定が、五日で抜糸もせずに放免というか、帰されてしまった。
 そんなこんなで、後日、暑いなかを抜糸にいって、その時は駅から病院までずっと歩いてみて、大丈夫だと確認もでき、いよいよ父も退院することになり、とにかく三度の食事の準備だけはどうにかこなせそうだ。
 入院にした直後はちょうど「文さんの映画をみた日」の締め切りにひっかかっていて慌てたけれど、妹にパソコンや資料を届けてもらったり、病棟から電話をかけまくったりしてどうにか間にあわせることもできた。体調がおかしくなった日にみた「風と砂の女」が中心だったのもなんかおかしい。予定していた荷物運びを兼ねた糸島行きもできなくて残念だった(その件でもあちこち迷惑をかけたけれど)。
 病院の食事がまずい、というのはいわなければならないクリシェ、みたいなもので、実際はきちんと考えてあって、なかなかおいしかった。もちろん大量につくるから、どれも味が同じに近づいたり、口当たりよく甘くしてあったり、全て柔らかすぎたりするけれど、触感や刺激のある味にも充分気を使ってあった。キャベツとシメジのマスタード味のサラダとか、納豆と大根おろしを和えたものとかは初めてでもありおいしかった。温かいもの冷たいものもはっきりしている。長くいると均一化した同じ味に感じられてしまうのかもしれないけれど。後日見舞いにいった父の昼食はカツカレーとフルーツサラダで、いかにも家庭の夕食といったちまちました感じもあって、ああいうのはよさそうだったし。
 短い入院にもかかわらず、いろんな人が気遣って様子を見に来てくれたり、お見舞いを送ってくれたりして、ほんとにありがたかった。心身共に弱っているし、ついあれこれ考えてそれなりにつらい気分の時だから、そういったやさしさは身に染みる。
 ヘルニアというのは、ことば自体にもあまりなじみがなかったけれど、問題を抱えている人はけっこう多いようで、わかっただけでも同じ病棟に、手術後の人(ぼくの直前)がひとり、同じ病室にこれから手術の人がひとりいた。でもみんなぼくのように単純なことでなく、他にシビアな問題、例えば肝硬変とかいろいろ抱えたうえでのヘルニア手術で、だから落ち着くまで待たされているといったふうだった。その他のことでもやっぱり病院はすごいところで、詳しく知るのが恐い劇的なことばかりだと、改めて思わされた。


菜園便り一七七 ??????
一一月一日

 もう2度と口にできない、というのはあまりに残念で寂しすぎるけれど、もうしばらく、例えば5、6年間は食べられないぐらいなら我慢できる、そういったものは、季節の食べ物なんかに多くて、ぼくにとってのあけびなんかはそうだろう。
 子供の頃そんなになじんだわけではないから、焦がれるほど恋しかったりはしないけれど、文字どおり故郷の味そのもの、幼い時代そのもののように感じている人も少なくなく、だから時折、極上の笑顔で、自慢そうに届けてくれたりする。そういう時はこちらも満点の笑顔になれる。今年は大阪から帰省していた中学時代からの友人が、実家の野菜や柿と共に届けてくれた。
 淡い紫の彩りがみごとだし、蔓になった風情、それに熟して割れた形が愛でられて、絵画の題材にもよくみかける。さらりとした水彩や簡潔なスケッチが多いのは、どこか粘液質の果肉をやり過ごそうとする気持が無意識にも働いているのかもしれない。実物を見たことがなくても、そういった作品で知っている人も多いだろう。生け花の材料にもときおり見かける。
 もうこれで一生食べられない、聴けない、見られない、といったものについても、つい暇に任せて考えたりする。モーツァルトが今後一生聴けないというのは耐えられないだろうけれど、チャイコフスキードビュッシーが聴けなくても、だいじょうぶだと思う。ずいぶん手前勝手ないい方だけれど、そういったものは誰にもあると思う。
 モーツァルトということで言えば、先日「魔笛」という映画をみて、英語版になっていて驚嘆したけれど、でも大きな音でほぼ全曲をじっくり聴けて堪能できたから、後10年くらいは聴けなくなっても我慢できるなんて思ったりもしたけれど、実際は、帰宅してすぐに、自分の盤を聴いて比較したりしたから、なんというか・・・。
 沖縄の料理で、スクガラスとかいったと思うけれど、豆腐の上に塩漬けの小魚が乗っているのは、もう一生食べられなくていい、と思ったりする。でもソーキブニやラフテージーマミドーフ、それにトウフヨウなんかは少なくとも何年かに一回は口にしたいし、ゴーヤチャンプルーはもちろんそれでは足りない。自分でもよくつくる。
 両手で抱えるほどもあった、ヒラマツの桃のコンポートは、もう二度と食べる機会はないだろうけれど、でもそう思うとすごく淋しい。
 あれこれあって、なんか元気もなくなって、菜園は放ったままだ。新しい区画に土を入れてなんてことも春から考えていたけれど手つかずのまま。冬野菜も豆もまだ蒔いていない。せめてルッコラと春菊だけは寒くなる前に、今年出来なかった空豆は是非に、と思いは募るけれど。

 

菜園便り178 ????????
11月22日

 もうじき12月と思うと、ついあれこれふり返る気持になる。今年もたくさん映画をみることができたけれど、映画館で腸閉塞を起こしたなんてこともあって、なんかバタバタした年になった。つらい残念なこともあった。
 今年最初に見たのは黒沢清監督の「叫び」。みた人は少ないと思う、ぼくも試写会でみただけだ。2本目は、なくなったアルトマンの最後の作品「今宵、フィツジェラルド劇場で」だった。今年最後にみるのはなんだろうか。12月に、溝口健二特集があるから総合図書館のホールあたりが最終場所かもしれない。来年は、日本名作特集が1月にあるから、年始めもこのホールになるのだろうか。ここでもすいぶんみたし、「文さんの映画をみた日」に書いたものも多い。3月に新藤兼人「裸の島」、6月にイメージフォーラムフェスティバルの「セブン・イージー・ピーセス」、10月のインド映画特集、サタジット・レイの「大地のうた」、11月のぴあフィルムフェスティバルでの、森田芳光の「劇的ドキュメンタリー'78~'79」。
 今年すばらしかったのは、やっぱり蔡明亮の「黒い眼のオペラ」で、これは大ファンだからということもあるけれど、でも切々としてすごくいい映画だった。映像としても美しく、そうしていつものように深々としていて、心に染みいってくる。とても哀しいんだけれど、でも世界や生に対してすごく肯定的で、あたたかいものが残る。静かに激しい、不思議な作品だ、いつものように。こういう人と同時代に生きられてほんとにうれしいし、自分の僥倖を寿ぎたくなる、大げさにではなく。そうしてそういうことをこうやって語れることもうれしい。
 ぼくよりずっと若い中国のジャ・ジャンクー賈樟柯)監督の「長江哀歌(エレジー)」もよかった。彼の「プラットフォーム」をずっと前にみたけれど、そのなかに、僻地の極貧の炭鉱で働く兄が、ない金をかき集め、せめてお前だけはここから出て行け、二度と戻ってくるなと妹を送り出す、もっとも美しく哀しいシーンに出てきていた人(ジャクー監督の従兄弟になるらしい)が、この「長江哀歌」の主人公の一人で、だから内容も、その男を膨らませたようなつらい内容になっている。でも、勁い。これは今の中国の映画全般に言えることかもしれない。第6世代と呼ばれる監督たちはどこまでもしっかりと自分たちの小さな現実に立ち、そこから出発していく。現在の中国も、世界も、激変し、混乱し、どうしようもないけれど、でもそこをきちんと見つめつつ、そこから始めるしかないというあたりまえのことをやり抜こうとする。だから厳しい否定を並べつつも、一方にはいつも生そのものを肯定する勁さがある。それにこの「長江哀歌」はなんといっても美しい。長江(以前は揚子江といっていたけれど)上流、遠くまで重なる山並み、小雨や靄に霞んだ三狭の大河の風景はすばらしいし、映画の語ろうとするものとぴったりと重なって、哀切きわまりない。
 内容が多岐にわたりすぎていて「文さんの映画をみた日」には書けなかったけれど、台湾の先住民の歌を描いたドキュメンタリー「草出の歌」も登場する人たちと彼らの音楽、歌、声はすばらしかったし、その勁さとはにかみが混じった、人々の表情にもうっとりさせられた。サウンドトラックではないけれど会場で売られていたCDを買ったから、映画のなかのいくつかの歌は聴くことができる、でもそれは映画のなかのとはかなりちがっていて、残念だった。
 今年も東京での映画祭に行けたし、そこでお世話になった友人がいつも送ってくれるたくさんのDVDのなかの「シネマニア」という映画についても書くことができたけれど、これは、ニューヨークのシネマフリークの4人を描いたドキュメンタリーで、滑稽で哀しくて、身につまされる。同じようなことをずっと小さい規模でぼくもくり返している。とにかく、父のことで家を簡単に空けられなくなったので、しっかり予定を立てる。情報誌やチラシをかき集め、目配りし、準備する。チラシは友人が東京からまとめて送ってくれるのでそれもしっかり確認しつつ(福岡に来ない映画にがっかりしたりもする)。上映会場に国鉄や地下鉄、バスを乗り継いで走っていき、事前の食事やトイレに神経質になり、急ぐ時はマクドナルドも厭わない。
 つらいこともあった。この6月に、30年間FMF(フィルム・メーカーズ・フィールド)を運営し、今年で20回目になる3分間の8㎜フィルム作品上映「パーソナルフォーカス」を続けてきた、映像作家の福間さんが亡くなられた。突然のことでただ呆然としてしまったけれど、やはり中心人物のひとりで映像作家でもある奥さんの宮田さんがしっかりと山形国際ドキュメンタリー映画祭での回顧上映やパーソナルフォーカス8㎜フィルム上映をやり、さらに8㎜フィルムに関するシンポジウムにもパネラーとして出席もされた。悲痛でたいへんな時期の、努力と活動に頭が下がる。ほんとに残念だし思いだすことは少なくないけれど、語れることばはみつからない。
 赤坂に開いてあったスペース、「リールアウト」で上映された映画のいくつかは「文さんの映画をみた日」で書くことができたし、なにより福間さんの薦めで図書館ホールの特集「カメラマン田村正毅」(2001年)のパンフレットに文章を寄せることができたのは、企画にも関わった彼の推薦があったからだった。ぼくの公の場での初めての映画評でもあって、原稿として送った段階ですぐに福間さんが電話をくれ、出だしの「木の葉が震え、枝がたわみ、樹々は大きくしなる、森が揺れ、山全体が動き出す、世界が異様な相貌で現れる」がいいねと、いつものようにことば少なくでもしっかりと誉めてくれたのが忘れられない。
 最後に会ったのも図書館ホールでの上映の合間だった。みたばかりの映画がひどかったと怒っていたのも、いかにも福間さんらしかったけれど、でもそれでぷいとどこかへ行ってしまい、ゆっくり話すことができなくて心残りのままになってしまった。その時は、また今度と思ったのだけれど。「阿賀に生きる」をふたりして絶讃したことも忘れがたいけれど、もっと聞いておきたかったこと、話しておきたかったことは、どっかに引っかかったままになってしまった。いつもそんなふうに人は、特に大切な人はふいに姿を消してしまう。


菜園便り一七九
一二月五日

 「文さんの映画をみた日」では新聞編集部の事情とかで掲載できなかったり、ぼくの方が下ろしたのもあって、そのなかにカウリスマキの「街のあかり(二〇〇六年)」もあります。彼の映画について書いたのは初めてだったからちょっと残念で、それでここで改めて書きます。

おかしさと哀しみと
 ユーモアの感覚というのは時代や地域によってずいぶんとちがってくるし、宗教や民族がちがえば激変する。この映画の監督、カウリスマキの表すおかしみは時々すごく不思議に感じられる。そうしてその対極にある哀しみも、馴染みのない姿をしている。
 おかしさの受け止め方は人や状況によってもずいぶんと異なる。あまりにつらくてやりきれなくて笑ってやり過ごすしかないことも、生きていくなかにはあるし、極度の緊張が生んでしまう笑いを、母親の死の際に笑ってしまう息子と尼僧たちとして描いたローレンスの小説もあった。
 この「街のあかり」のなかにロシア文学についての短い会話が出てくるけれど、そこで語られていたチェーホフゴーゴリのユーモアも、おそらくわたくしたちにはぴったりとは伝わってきてはいないのだろう。地理的歴史的にロシアと抜きがたい関係にあるフィンランドでは、チェーホフが「桜の園」などの戯曲にコメディーと但し書きしたことが当然のこととして納得できているのかもしれない。
 映画では北欧の寂しげな都市にひとり暮らす警備員の切々とした日常と、彼が美女に惑って強盗団に利用されるという突拍子もないできごとが、戯画化された無表情のなかで描かれる。とげとげしさや悪意にばかり曝され、わずかなりとも心を通わせあえたのは動物と子供だけだった不幸続きの男は、暴力的にも徹底して痛めつけられる。そうして最後の最後に、いつも彼を見守っていたソーセージ売りの女が助けに駆けつけ、手を握りあうシーンで終わる。哀切で美しいけれど、やっぱりどこかおかしくて、奇妙で、感動したらいいのか、笑っていいのか、とにもかくにもほっとさせられるけれど、淡い哀しみが残り続ける。誰も、楽しいとも哀しいとも明解には答えられない、この世界、人生そのものだ。皮膜を通してのリアリティしか持てず、全てを鈍くしかも少し遅れてしか感じられない今のわたくしたちのあり方が、こういった独特の形ですくい上げられているのだろうか。
 アジア映画祭の、モンゴルを舞台にした映画「風と砂の女」の舞台挨拶でチャン・リュル監督(「キムチを売る女」を撮った人で韓国籍)が「自分の作品は風景がよくでてくるけれど、青空は哀しいですね」と言って会場を微笑ませていたけれど、好きな監督として小津安二郎と成瀬美喜男の名前をあげていたけれど、カウリスマキもなにかのインタビューのなかで小津と成瀬について語っていた。特に愛の葛藤や滑稽を取り上げた成瀬に牽かれるのはみていてわかる気もする。
 でもカウリスマキの映画では、いつもこれはなんだろう?ユーモアなんだろうか?それともくそまじめな倫理なのか?と困惑させられる。すごく生真面目な人だろうから、斜に構えたシニシズムでないのはわかるけれど。
 ユーモアということでいえば、バスターキートンを含め多々ある無表情なスラプスティックなドタバタをほんとに面白いと思う人はいるのだろうか。どこかに、笑わなくてはいけないものだ、という強制があるだけだという気もしてしまう。もちろん時代や地域のなかで共有される感受や考えはいつも自覚されない強制を持って血肉化しているのだろうけれど、もう少し柔らかな私的な部分のなかではどうなのだろう。日常のリズムの破綻が生む笑いが奇妙な捻れを生んで、思いもかけない場所に連れて行かれる気もする、ちょっと大げさにいえば。誰かにいわせれば、性に似ている、ということだろうか。


菜園便り一八〇
一二月八日 トスカの接吻

 ダニエル・シュミットの名前を最近はあまり聞かない。八〇年代始めに、アテネフランセユーロスペースの企画で初めて知って熱心なファンになった人も少なくなかったろうし、「ラ・パロマ」(制作は74年)に衝撃を受けた人も多かったはずだ。なかでも八四年のドキュメンタリー「トスカの接吻」がぼくにはいちばん忘れられない好きな作品だった。森さんがシュミット特集を録画してまとめて送ってくれたので、ほんとに久しぶりにみることができた。やっぱりすばらしかったけれど、ほぼ二〇年ぶりだから以前とはちがったように見えているのだろうか。
 ずいぶんと細かく、それぞれの人たちの生活や生のディテイルが描いてあることに気づかされる。以前は各自の表情やことばに関心がゆき過ぎていたのだろうし、当然、年齢的に受けとめる力もなかったのだろう。辛辣さとか哀しみ、そういったことを凌駕してしまうまでの圧倒的な自負というか、それがあたりまえだからそういうことに関しての思いわずらいはないというような、傲慢にも似た、自己中心性にも感嘆する。国や世代の特徴だけでなく、身体を使い大勢を対象にした表現を行う人に共通の、ある種の人工性、芸を(芸術と言ってもいいけれど)提供する者としての役割分担でもあるのだろう特異さも感じる。高みに立つ人を、受けとる側が求めることからディーバは生まれる(あらゆる対のものがそうであるように)。
 イタリア、ミラノにある、音楽界から引退した人のための「ヴェルディの家」を舞台に撮ったもので、往年のオペラ歌手、演奏家、教授等などが住んでいる。ヴェルディ、その人が一九〇二年に建てた、老人ホームというようなものだろうけれど、ヴェルディ著作権で運営されていたのが、それも切れて、運営はたいへんだという事務局の話もでてくる。
 老いて自由にならない体、鈍い足、指は震え、手はぎくしゃくし、唇は勝手にモゴモゴする。杖に縋り、でも、意固地な、尊大なほどのプライドの屈折があるかと思うと、人を人とも思わないでいられる開けっぴろげなおおらかさで自由闊達に振る舞う。建物のなかに、まるで昔の名声に準じたランクづけがあるかのように、見えない階梯や順番があるあるようにも思える。かつて大喝采を受け、それを当然の環境と感じた感受が残り、また今もその役割を受け入れる度量を維持してもいる、ということかもしれない。  
 食事中の、九〇歳にならんとする強い視線の女性への、「パートは?」という問いへの「コーラスよ。オペラは合唱よ、合唱の上になりたっているのよ」という答えも卑屈には響かないけれど、どことなく遠い空砲に聞こえる。
 でも、なんであれ、歌う喜び、音楽する喜びに満ちているのに驚かされる。彼らはしょっちゅう歌い、奏で、そうしてしゃべり続ける。誰もが、人を押しのけても出てこようとし、歌おうとし、でも一方ではピアノの伴奏に気づかず、歌うことにすら気づかずにざわめいて、戸惑いながら笑ってもいる。でもまたすぐに誰かがはっしと歌い出し、みんなが唱和していく。独り言のような、聞こえるような聞こえないような伴奏家の辛辣なことばもマイクは拾っていく。
 踊り場ホールの電話室から家族との寂しげな通話の後出てきたバリトン歌手が、通りかかったかつてのディーバに「トスカ、トスカ」と襲いかかる。すぐさま巧みに受け答えて彼を短剣で刺すトスカ。横たわった男の横で続く台詞、アリア。場面が変わるとふたりでリゴレットを歌っている。この曲は映画のなかでも、思い入れの深いいろいろのエピソードがからみついている。だからこの唐突でおかしみもあるふたりの歌も、不思議な色合いを帯びる、たぶんみているぼくらの視線の色合いに応じて。
 ディーバは自身のレコードを聴き涙ぐみ、医者に止められているのもなんのその、アリアを歌い終える。みんなで集まって「サンタルチア」を合唱する。声を張り上げるバリトンを手を振って制しつつ、でもおかしそうにみんなが楽しんでいる。気がつくと、歌われるどの曲も人口に敷延したものばかり。ポピュラリティということの秘密を解き明かす鍵のひとつだと思ったりもする。自分たちがなじんできた、求められてきた、というだけでなく、心身にとって歌いやすく、唇や口にも乗せやすく、無理がなく、楽しく、人ともあわせやすいし、喜びが生まれるといったようなことがあるのだろう、曲としても詞としても。
 歌声は続く、微かなハミングも、どこへと向けられるわけでもなく大空へ空虚へ投げ出される朗唱も続く、悩みや嘆き、諫める声も続く、笑いが、そうしてまた歌が響く。


菜園便り181 ????????
12月19日 「文さんの映画をみた日」

映画の現在、映像の未来   
 すでに12月半ば、21世紀も7年が過ぎようとしています。この「文さんの映画をみた日」もソクーロフから書き始めて4年、これが最後になります。
 今年もたくさんの映像、映画に、様々な場所や媒体で接することができました。賈樟柯監督「長江哀歌」の感銘もありましたが、なんといっても蔡明亮監督作品を昨年暮れに2本、6月に「黒い眼のオペラ」とたてつづけにみることができ、大げさにでなく、こういう表現者と同時代にいられる僥倖を噛みしめています。人と人とのつながりのなかでだけ生みだされる名づけられない波動が、人のなかの深いひっそりとした場所を強く揺すります。厳しくて哀しみもに溢れているけれど、いつもあたたかさが残ります。人や世界が肯定され穏やかな勁さが信じられているからでしょう。
 様々な特集も組まれましたが、そのなかにセクシュアリティを考えるものもありました。生物学的にも絶対的と言われる性別すらひとつの社会的な約束ごとでしかないと問い返す視点は、<生死>といった根源的な概念をも再考する動きにつながっていきます。その他の特集で、中東の複雑さを内から描いた作品や、現代の錯綜の源に常に見え隠れする偏見や差別への問いに触れることもできました。小津安二郎タルコフスキーの作品にも。「名画座」がない今、旧作をスクリーンでみれる喜びは小さくありません。
 残念なこともありました。福岡で「パーソナルフォーカス」という3分間の8㎜フィルム作品無審査コンペを20年間続けてきた福間良夫の突然の死は無念ですが、その遺志は引き継がれ、山形国際ドキュメンタリー映画祭、各地での上映として継続されています。あの名作「阿賀に生きる」(1992年)を撮った佐藤真も亡くなりました。ファンとしても辛いけれど、ドキュメンタリーと呼ばれている分野での埋めようのない喪失です。
 映像の力は枯渇してないし、簡便な映像機器で制作を始める人の数も増えています。暗がりでひっそり抱きしめられる映画もあれば、場所や技術を選ばない、噴きだす思いだけで撮られた作品の持つ切迫感や激しさもあります。愛や性の恍惚も、世界の苦渋に満ちた痛みも、未来を拓く新鮮な試みもあります。人を包みこみ心に身体に直に雪崩れ込んでくる光の像の力にこれからもふれ続けていきましょう。


菜園便り182 ??????
12月20日

 誰もそうだろうけれど、いちばん好きな映画は? とか、いちばん感動した映画は? というような問いに答えるのは難しい。映画でのそういう問いには、つい「3つ言ってもいいかな?」なんて気弱に応えてしまう。「『文さんの映画をみた日』に書いたもののなかでは?」という問いにもやっぱり、3つ・・・と応えて、でもしばらく考えなくてはならない。すぐに蔡明亮(ツァイミンリャン)は上がってくる、もちろん。どの映画かとなると・・・難しい・・・でも今年で選ぶなら、1本しか公開されなかったから『黒い眼のオペラ』になるけれど、『楽日』も去年の年末だから、そうむげにもできない・・・。<*注1>
 忘れられないのはバフマン・ゴバディ監督の『亀も空を飛ぶ』(2004年)で、終わった後ちょっと動けなかった。苦しくてつらい、でもなんというかズンとのしかかった圧倒的な哀しいものに温められてもいるというような不思議な感じだった。あの時は2度書いたし、いろんな所でしゃべったから覚えている人もあると思う。
 基本的に映画館やホールの大型スクリーンでみたものを書く対象にしたけれど、DVDやヴィデオでみた作品で驚かされたものもあって、森さんにもらったアニエス・ヴェルダ『落ち穂拾い』や、宮田さんに借りた『略称 連続射殺魔』足立正生監督、はそうだった。滑稽ででも愛おしい人たちが右往左往する『シネマニア』とかダニエル・シュミットの『トスカの接吻』(これは掲載にはまにあわなくて番外-つまりこの「菜園便り」-になった)もそう。それと誤解を招きそうだけれどやれたらいいなと思っていた大島渚『絞死刑』(1968年)も(写真は手に入らず、唯一の写真無しの掲載になった)DVDだった。
 作品がよいと、そうして好きだと、思いもかけずいい文章ができて、うれしくなることも多い。侯孝賢(ホウシャオシェン)は好きな作家だし、頑張って書いたから、『珈琲時光』は特に好きな文章だけれど、映画自体はほんとのことを言うとあまりうまくいってなかったし、好きにはなれなかった。ただ神保町が出てきてお茶の水駅が出てきて、聖橋も見えて、おまけに、天ぷらの「いもや」と喫茶店「エリカ」と古本の「誠志堂」が舞台の一つにもなっていて驚倒してしまい、半ば呆然というか、映画と関係ないことで興奮して、その印象ばかりが残った。出前される珈琲や出前する人の白い服なんてことにもいちいち気をとられてしまう。
 セクシュアリティに関してはかなり意識的になって、積極的に書こうと思っていたけれど、そういうことにきちんと関わる映画は多くはなかった。そんななか、1週間以上も滞在させてくれた友人たちの好意に助けられて「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」に毎年行くことができたのは個人的にも大きな成果だった。この映画祭について最初に書いたのが『オール・アバウト・マイ・ファーザー』。ダムタイプの公演記録の『S/N』(2005年)は映像であれだけの感動があるから、オリジナルの舞台ではすごかったろうなと思わせられたし、とてもいいものができてうれしかった。
 「差別」とか「偏見」といったことを丁寧に考えたいとも願っていたから、特にドキュメンタリーは積極的にみに行った。社会学的な解析や、感情的な応答でなく、もっと内在的な、あらゆる人に関わることとして、徹底して個人的で深いけれど、同時にありふれてシンプルなこととして捉えられないかと探ってもみた。差別というのは、される側とする側とが(その発生がそうであるように)両方で創りあげているものであり、それが社会的に共有された集団の思いこみになっていく。それに同じ社会に育ち生きている以上、差別される人のなかにも、その差別的な発想、感覚は教え込まれ、染みついているから、被差別の側にも差別のことがらそのものへの、つまり自分自身への嫌悪や憎しみが育ってしまっている。そこをきちんとみていかないと、差別の中身はそのままでただ「差別してはいけない」という倫理の問題にすりかわっていき、差別を生みだしている発想そのものは残り続ける。そうしてそういう発想が別の差別を生み、別の差別に関しては、あることがらの被差別者がたやすく差別者にかわっていく、といったことにも自覚的にならないといけないだろう。
 「性同一性障害」と名づけられたことがらを扱う映画は多くなった(エイズが死の病でなくなり、悲劇性や話題性を喪った後、もっとトレンディーなもの、というわけだろう)。恋愛や結婚を扱うものでは、現在の社会の、異性愛という枠組みをそのままなぞって焼き替えただけの、同性カップルによる恋愛、結婚が描かれる。出自の家族との葛藤、カミングアウトのドタバタ悲喜劇、みんなに祝福されて結婚式・指輪、新しい家庭、といった内容(同性婚精子提供や養子縁組といったテーマもある)。そこには恋愛も性も、さらには性別も社会の性の制度である、という視点はいっさいみえてこない。中心にある、絶対的と思える生物学的性別が問い返されていることなど、想像もできない。まるで今の社会の家族制度が壊れかかっているから、別の角度から、新しい「血」を導入して制度を維持しよう、といったようにさえみえる。新しい「家族」やつながりの形はいろんな所で様々な形で現れてきているはずだろうし、すでに見えない部分で大きく変わっていっているのだろう。
 いちばん最初に「文さんの映画をみた日」に書いたのはソクーロフの『孤独な声』(1978年)。これは初めてみた作品だったし、彼の最初期のまだ混沌とした部分の残るものだったから印象深い。ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の厳しも哀しい『息子のまなざし』のことはいろんな人に話しもした。圧倒的なドキュメンタリー、王兵監督『鉄西区』はなにしろ9時間だからかなり気あいをいれておそるおそるみにいったけれど、9時間なくてはならないことがよくわかり、説得され、最後は終わるのが残念なほどだった。『白百合クラブ』(2003年)も最後にはなんだか懐かしささえあって、消えてゆく画面に手を振るような気持だった。芝居仕立てのドキュメンタリー『らくだの涙』。久しぶりに『三里塚 辺田部落』(1973年)小川伸介監督をみて、ぼくの「青春」と重なった時代だしやっぱりあれこれ考えさせられた。この作品については以前、総合図書館の特集「カメラマン田村正毅』の時にもしっかり書いていたので、いっそうそうだった。『東京物語』(1953年)小津安二郎、『小原庄助さん』(1949年)清水宏監督といった旧作名作も、主に福岡市総合図書館ホール(シネラ)やパヴェリア(閉館してしまった、残念だけれど)でみることができた。タルコフスキーの『惑星ソラリス』や成瀬巳喜男特集もみた。何だかなんだいってもこのホールでの上映にはずいぶん通ったし、いい映画にも会え、楽しめたし、書くこともでき、助かった。
 『ぼくの好きな先生』(2002年)ニコラ・フィリベール監督はずっと気にかかっていたのをDVDをもらったのを機に書いた。全く知らなかった韓国のキム・ドンウォン監督『送還日記』(2003年)は衝撃的で、「菜園便り」にも長いのを書いたから覚えている人もあると思う。10月の北九州ビエンナーレで行われた映画上映の一つになっていて驚ろかされつつうれしかった(『略称 連続射殺魔』もそのうちのひとつでこれは足立監督の新作『テロリスト』にあわせたもの)。他にも、映画祭での関連上映などとして田壮壮監督の『盗馬賦』(1985年)、第28回ぴあフィルムフェスティバルでの森田芳光『水蒸気急行』(1976年)、インドのサタジット・レイ監督『大地のうた』(1955年)、イランのアッバス・キアロスタミ監督の『そして人生は続く』も改めてしみじみみつめた。このあたりは、その監督を取り上げたくて、ずっと待っていたからどの作品にするかはあまり拘らなかった。フェリーニは最愛の『アマルコルド』(1974年)で、これは「あまねやシアター」での上映を機に書いたものだけれど、添える写真がなくて(なんとDVDがないどころか、ヴィデオもすでに生産中止だった)特別に有料で借りてもらった。なんか理不尽な気がしてしまう。
 現在の日本人監督で最もすばらしいと思う佐藤真の『阿賀に生きる』(1992年)は、とうとう書けないままに終わった。あれだけの名作さえほとんど上映機会がないということでショックだ。最後の回に自死した佐藤監督へのわずかな追悼文を書き加えることしかできなかった。同じ回に少しだけ触れた、福間さんのことも、「文さんの映画をみた日」では赤坂の上映室リールアウトの企画をいくつか取り上げることぐらいしかできなかった。
 中国で第6世代といわれる賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の『世界』(2004年)』は感嘆させられたけれど「長江哀歌』(2006年)はもっとすばらしかった。映画そのものも視覚的にも美しいし、がっちりとした構造を持っているけれど、いちばん牽かれるのはやっぱりでてくる具体的な人々だ。実際にその街にいる人、働いている人が登場するし、以前の『プラットフォーム』にちょっとだけでてきてものすごく強い印象を残した炭鉱労働者役の人(実際にそこの労働者)が今回は中心人物だった。そいった人たちや表情をみているだけでも豊かな気持になれる。
 こういうことは書き続けるときりがないので、ここらで止めます。新聞に掲載した映画のリストもつけておきます。正直言うと、2週に一回掲載というルーティーンを護りたくて、仕事を落としたくなくて、気の進まない映画についても書いたこともあったけれど、少なくとも嫌いな映画のことは書かなかったし、書こうと思っても無理だった。最初の頃は大型話題映画にもせっせと足を運んだけれど、でもすぐダメになった。とにかく心も体もぜんぜん反応してくれなくて自分でもちょっと驚いた。そんなふうだからうち切られちゃうんだという声が聞こえてきそうですが。

<*注1>  これはぼくのヘルニア手術騒動の際の執刀医、桜井医師が、術後、日を経ずに、ベッドでパソコンを使って締め切りに遅れていた「文さんの映画をみた日」の原稿を焦って書いていた時の会話に実際出てきたもので、たぶん彼は術後5日で、抜糸も済まないまま退院させるのを恐縮に思って話しかけてきたのだろうと思う。通常はルーティーンの超短縮会話以外に患者と医師との間に会話は全くないから。


2004年
1月16日(金) ソクーロフ『孤独な声』(1978年)
1月30日(金)『テン・ミニッツ・オールダー』エリセ、ヘルツゥーク、ジャームッシュカウリスマキ
2月13日(金)映写室「リールアウト」『815』中国正一監督
2月27日(金)『ラブストーリー』(クァク・ジョエン監督韓国)『ムアンとリット』(チュート・ソンスィー監督タイ)
3月12日(金)『飛ぶ教室エーリッヒ・ケストナー原作 トミー・ヴィガント監督
3月26日(金)『息子のまなざし』ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督
4月14日(水)『チュンと家族』(1996年)チャン・ツォチー監督、台湾
4月28日(水)『絞死刑』大島渚(1968年)
5月19日(水)『エレファント』
6月2日(水)『ヒノサト』飯岡幸子 映画美学校卒業作品特集
6月16日(水)ドキュメンタリーの現在 『ふつうの家』写真
6月30日『白いカラス
7月14日王兵監督『鉄西区
7月28日東京国際レズビアン&ゲイ映画祭 『オール・アバウト・マイ・ファーザー』
8月11日東京国際レズビアン&ゲイ映画祭 『ロードムービー
8月25日『自転車でいこう』杉本信昭監督
9月8日『誰も知らない』是枝裕和監督
9月22日アジアフォーカス福岡映画祭2004『ビッグ・ドリアン』アミール・ムハマド監督
10月6日第49回アジア太平洋映画祭 『私は子供の頃に死んだ』
10月20日第26回ぴあフィルムフェスティバル『さよなら さよなら』『ある朝スウプは』
11月10日『珈琲時光侯孝賢
11月24日『らくだの涙
12月8日『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国国防長官の告白』
12月22日『東京物語』(1953年)小津安二郎

2005年
1月26日(水)『ベルリンフィルと子どもたち』
2月9日(水)『スーパーサイズ・ミーモーガン・スパーロック
2月23日『三里塚 辺田部落』(1973年)小川伸介監督
3月9日『落穂拾い』アニエス・ヴェルダ監督
3月24日『カナリア
4月6日『白百合クラブ東京へ行く』(2003年)
4月20日『トニー滝谷
5月11日『海を飛ぶ夢アレハンドロ・アメナーバル監督
5月25日『小原庄助さん』(1949年)清水宏監督
6月8日『エレニの旅』(2004年)テオ・アンゲロプロス監督
6月22日『牛皮』(2005年)リュウ・ジャイン監督
7月6日『アマルコルド』(1974年)フェディリコ・フェリーニ監督
7月20日『生命-希望の贈り物』(2003年)呉乙峰監督
8月3日第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭<上>
                    『誓いますか/誓います』(2004年)
8月17日     〃    <下>『マイファーストカミングアウト』8月31日
『ウィスキー』(2004年)フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・フトール監督
9月14日アジアフォーカス福岡映画祭『ジャンプ!ボーイズ』(2004年)
9月28日   〃   『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)熊谷博子監督
10月22日アジア美術館トリエンナーレ『Riau2003』ザイ・クーニン監督
10月26日『亀も空を飛ぶバフマン・ゴバディ監督
11月9日『輝ける青春』(2003年)
11月30日『モンドヴィーノ』(2004年)
12月14日『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)ヴィム・ヴェンダース監督
12月28日 「2005年 クルドという視点が開くもの」


2006年
1月11日成瀬巳喜男特集『流れる』など
1月25日『ぼくの好きな先生』(2002年)ニコラ・フィリベール監督
2月8日『炭鉱に生きる』(2004年)
2月22日『世界』(2004年)賈樟柯監督
3月8日『ある子供』(2005年)ダルデンヌ兄弟監督
3月22日「名画座」『王将』
4月5日『略称 連続射殺魔』(1969年)足立正生監督
4月19日『アメリカ 家族のいる風景』(2005年)ヴィム・ヴェンダース監督
5月10日『送還日記』(2003年)キム・ドンウォン監督
5月24日『荷馬車』(1961年)
6月7日『レフトアローン』(2004年)井上紀州
6月21日『マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して』(2003年)
7月5日『ホワイト・プラネット』(2006年)
7月19日第20回福岡アジア映画祭『中国之夜』(2006年)
8月2日第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(上)『LuLuLu』他
8月16日第15回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(下)『S/N』(2005年)
8月30日『夜よ、こんにちわ』(2003年)
9月13日アジアフォーカス福岡映画祭2006『胡同の理髪師』(2006年)
9月27日     〃    『4:30』(2005年)ロイストン・タン監督
10月1日『盗馬賦』(1985年)田壮壮監督
10月25日『カポーティ』(2005年)
11月8日第28回ぴあフィルムフェスティバル『水蒸気急行』(1976年)森田芳光
11月22日『ファーザー、サン』(2003年)アレクサンドル・ソクーロフ監督
12月6日蔡明亮特集『西瓜』(2005年)『迷子』(2003年)
12月20日『楽日』(2003年)


2007年
1月10日『百年恋歌』(2005年)侯孝賢
1月24日『蟻の兵隊』(2005年)
2月7日「タルコフスキー特集」『惑星ソラリス』(1972年)他
2月21日『蟲師』(2006年)大友克洋監督
3月7日『明日へのチケット』(2005年)エルマンノ・オルミ監督他
3月28日『裸の島』(1960年)新藤兼人
4月11日『バベル』(2006年)
4月25日『MORIYAMA』(2007年)宮川敬一監督
5月9日『そして人生は続く』(1992年)アッバス・キアロスタミ監督
5月23日『歌謡曲だよ、人生は』(2007年)
6月6日『黒い眼のオペラ』(2006年)蔡明亮
6月20日『マリナ・アブラモビッチのセブンイージーピーセズ』(2007年)
7月4日『  (モガリ)の森』(2007年)河瀬直美監督
7月18日『それでも生きる子供たちへ』(2005年)
8月1日『ブリッジ』(2006年)
8月15日第19回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭『ロージーと行くレインボー・クルーズ』(2006年)
8月29日『シネマニア』(2002年)アンジェラ・クリストリープ、スティーブン・キャク監督
9月12日アジアン・クイア・フィルム&ヴィデオ・フェスティバル
                           『女たち』(2004年)
9月26日アジアフォーカス福岡国際2007『風と砂の女』(2006年)
                       『トゥーヤの結婚』(2007年)
10月10日『ショートバス』(2006年)
10月24日『大地のうた』(1955年)サタジット・レイ監督
11月7日『長江哀歌』2006年)賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督
11月21日第29回ぴあフィルムフェスティバル
       『劇的ドキュメントレポート’78~’79』(1979年)森田芳光
12月5日『忘却のバグダッド』(2002年)『ミリキタニの猫』(2006年)
12月19日「2007年 混沌のなかから 映画の現在、映像の未来」 福間良夫他

 

菜園便り183 ??????

 「混沌のなかの萌芽」。ちょっと大げさなタイトルですが、最後の「文さんの映画をみた日」に使おうとしたものです。通常は映画のタイトル名が入る箇所に、今回は特定の映画でなく回顧的なものなので、こういったタイトルを入れたのですが、しごくあっさりと削除されてしまいました。
 でも、かすかな期待とささやかな実感として、何かの萌芽の予感を感じ続けているのはぼくだけではないと思います。そうして今、それがひどく苦いものにしか感じられないのは、変化というものはいつだって馴染みのない辛いものを伴ってくるからと言うだけでなく、このちょっと得体の知れない、不安を呼び起こすものが、けして喜びのための小さな苦役ではないからでしょう。もちろん幸不幸も悲惨も相対的なものですが、嫌な世の中になるのはやっぱりつらいことです。
 小津安二郎の映画『彼岸花』に、「(戦争中は)嫌な時代だった、つまらん奴がいばっていて・・・」という会話が出てきます。しゃべっているのは佐分利信、今は重役で家父長そのものみたいな人物になっていて、彼の方がよっぽど嫌な奴だという人もいるかもしれませんが(実際、ある米国人はこの映画をみて、平凡ででも温かいといった印象は全く持たず、佐分利信扮する男が列車の一等車のなかで「おい、君」と車掌に呼びかける箇所に耐えられないほどの怒りを感じたようです。同じ箇所でぼくは暢気に「そうだ、昔は車掌さんに頼めば電報だって打ってもらえたし、あれこれの変更や次の列車の予約もできたんだ」と思ったりしていたけれど)。でも威張るとか-威張られる、差別する-されるとかいったことは、誤解を恐れずに言えば双方で創りあげるものです。「戦争中は酒屋や八百屋まで配給で威張っていて、ヘイコラさせられた」というような台詞がテレビドラマなどにでてきますが、それはヘイコラする人と、威張る奴の両方で創りだし支えあう関係田と言えます。
 世の中の雰囲気が少しでもある傾向を見せ始め、メディアを初めとしてそういった言説が流布し始めるとたちまち雪崩を打ったように誰もがそのなかに巻き込まれて、自ら飛びこんでいきます。偏見や差別も同じです。はっきりした根拠や確信など欠片もないまま、漠とした、好悪を核に据えたようなムードのなかで、そういう世相に浸って誰もが当然のことのように、差別される側が悪い、当然の欠陥を持っているという暗黙の了解を抱え込み、自分が何かを信じ込んでいきつつあるとさえ思うこと無しに、まったきに受け入れていくわけです。難しいのは、被差別の側も同じ社会のなかで生きているから、そういう感受が染みついていて、被差別にはそれなりの理由がある、自分が悪いのだ、欠陥があるんだなどと思ってしまい、自身が、自分も含めた被差別者を無意識にも差別してしまうことです。
このこみいった難しさをきちんとみつめ丁寧にほぐしていかないと、差別はぐるぐると回っていく、次の差別へと形を変えていくだけになります。今日の被差別者が明日の差別者になるといった、つらい在り方になります。だから差別を考える時いちばんだいじなのは、倫理や道徳で(正義で)差別はいけないとか、かわいそうだとかいった、外からの視線で捉える、つまり差別と被差別の二項対立があるかのように考え、受け入れ、差別それ自体を実体としてとらえてしまわないようにすることです。
 丁寧に考えると差別を支える「ちがい」は成立しなくなります。どこからが偏見の対象になるか、その境界は曖昧です(異常にくっきりしているかのように思えますが)。人種や民族はまずそうです。肌の色も境は曖昧だし、「色」という概念自体が時代や地域で変わります。たんに自分たちとちがうように感じられる、見えるだけです。

 

菜園便り一八四
二〇〇八年一月六日

 「文さんの映画をみた日」が打ち切りになったこともあって、映画の話ばかりしていますが、もちろん本もたくさん読みました。すぐに浮かんでくるのは内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』です。いつもそうですが、彼の書くものはどこかハイ・プラグマティズムといった感じがつきまとって、掴み出される真摯な思想や的確なことばが軽く思われてしまうけれど、レヴィナスを、ちゃんと読める日本語にできるほどの思索の結果であるんですよね。軽さを戦略にした反「団塊」的なところが残ってしまっているのでしょうか。本人の冗談が機能してないというか、受けとる側の屈折の度合いによっては、すごく嫌みにしか響かないこともあるのでしょう。いずれにしろ中身をきちんと受けとることがだいじですね。ただ、すごく平静な対応を心がけているなかにまだロマンティシズムの残照みたいなものがあり、「文学」への特別な対応、というか甘さというか遠慮には少し驚かされます。好きな作家だったらしいけれど、矢作俊彦が心をん込めて語られるのも不思議な気がします。
 映画のように記録をとらないし、最近は図書館で借りるばかりだから手元にも残ってないし、しばらく考えないと誰を、どんな作品を読んだか出てこないのは、つらい。「あれだよ、あれ」(ほんとはしばらく考えてもぜんぜん出てこない。みんなどこへ消えてしまったのだろうか、微かな痕跡さえ残さず)。
 一昨年は奥田英雄をずいぶん読みましたが、去年は姉がおいていった『地下鉄に乗って』から始まって浅田次郎をたくさん読みました。最初の『鉄道員』の印象が悪くてほとんど読んだことがなかった人ですが、幻想文学そうして青春文学でもあったんですね。感傷とロマンティシズムとに満ち満ちて、わりと俗っぽいというか常識的な世代論、時代論が背景にあります。幼年時代というか思春期を描いたものは初めて読んだ時には驚かされましたが、とにかく上手ですね。どこか悪っぽく見せようというのもあって、ハードも売りになっています、それから東京性も。だから麻布や浅草が頻繁にでてきます。東京でも今時の東京じゃないよ、というところでしょうか。旧い地名も、もちろん。『深夜の刺客』というのが好きです、想像どおりヤクザもので人がたくさん殺されるし、しかも『沙高楼奇譚』という際物を集めたシリーズのなかのひとつであまり誰にも薦められるものではないけれど。「鉄道員(ポッポヤ)」などのようにかなり私的な思い入れのあるルビがタイトルなどに振ってあるのもちょっとしんどいところです。
 仕事で金井美恵子の昔の作品『単語集』を読んでますが苦痛です。ぼくは金井は『兎』あたりから読み始め、目白三部作も含めて『文章教室』『軽いめまい』までは熱心に読みました、正直すごいなと思いもしました。でもその肉声にはうんざりしていましたから、エッセイは全く手を触れませんでした。この『単語集』は初期のペダンティズムや饒舌さ、ヌーボーロマン的な無機質さが意図されていて、どうして海外向けの公的な翻訳・紹介の一冊に選ばれたのか、作家もこの作品に賛成したのかわかりかねるほどです。
 村上春樹中沢新一高橋源一郎吉田修一、小川国夫、古井由吉は去年もしっかり読みました。出版されるとすぐに買って読む作家はほとんどなくなりましたが(経済的な逼迫もあって)、ひとりだけはかわらずに手に取り続けています。高橋源一郎が続ける、柔軟に見えて硬派の果敢な実験と試みには頭が下がります。こんなことをいうといけないでしょうが、でもこういった文体も含めた真摯な実験に未来はないと思います。天才的な彼だからやっと成立しているし、今の時代のわずかな特定の層をどうにかあてにして、という気がします。でも文体としても作品としてもすぐれていて読んで楽しいし、いつまでも頑張ってほしいと、個人的には思います。『官能小説家』や『日本文学盛衰記』はすごいですよ。
 少年少女文学と呼ばれるものもけっこう読みました。『秘密の花園』とか『真夜中にトムは』なども。ミステリーやSFは新訳の『ロング・グッド・バイ』くらいしか思い出せないからあまり読まなかったのかもしれない。
 今年こそは、というような気持で向かうものは特にないし、誰かをまとまって読んでみようという気合いもないけれど、また活字に、書籍に大いに関わっていくことはたしかでしょう。三月二〇日からアジア美術館内の交流ギャラリーで個展を開かれる斎藤秀三郎さんにも、「ことば」での協力を約束しました。
 しみじみしんどいというか、なんかがっくりしてしまうような寒々しい時代ですが、でもそういう思いそのものが時代に色づけられているんでしょう。「たしかに僕はいろんなものを失ってきたけれど、失ってきたものの記憶が、今となっては逆に僕という人間を底から温めていてくれるからだと思う。」そいう声も聞こえます。


菜園便り一八五
二月一九日

雪の月、底冷えの月、かじかむ月、真っ直ぐな光の月、蕗薹の月、酢漿草(カタバミ)の月、銀に凍る月の月、鱸(スズキ)の月、ぜんざいの月、泉鏡花の月、水仙月、海獺(ラッコ)の月、海月(クラゲ)の月、縞栗鼠の月、水炊きの月、布刈りの月、チョコレート月・・・・
寒いから人は縮こまり動くのも億劫になり視線さえ動かさず口も閉じて黙ってやり過ごそうとしているけれど、透明で澄んだ空気のなかを光はなにものにも遮られずに真っ直ぐに突き刺さってきて庭の常葉樹の厚い葉に反射し芽吹いたばかりのほっそりと柔らかな新芽で輝きそんなもの全ての反映がぼくらの瞳にも映ってだからじっとしていられなくなる、雪国では雪の上を何かを嗅ぎ取るように転がり、南の乾いた寒風の中では、耳を押さえて海へと走って何かを聴き取ろうとする。
菜園の黒い土の上からかつお菜が消えていき、菜の花やルッコラが広がり、去年蒔いたえんどう豆、空豆が伸び始め、地面に貼りつくようだったパセリが体を起こし、春菊も伸び伸びと葉を広げ、大根や蕪も最後の力をふりしぼる。
陽光の下で水仙は群がって咲き、ひとつ残っていた山茶花が花びらを落とし、遅れがちだったピンクの薔薇椿がやっと固い蕾を膨らませ始め、指ほどになって生き延びたミントが一気に伸び上がる機会を待っている。
人も光の力に翻弄され、眠っていた情動が爆発しそうになってくる、木の芽時とは今なんだと、4月はその残照でしかないとわかる。抑えて抑えて、少しずつ放電していかないと取り返しのないことになる、それもまたよしとするにはもう若い暴力はない、なんとか手のなかのものでやり繰りしていくしかない、少なくともこれだけは残ったんだ、創ったんだ、やっとの思いでそういい聞かせて、そっと開いてみる手のひらの乾いて細かな皺に覆われた淋しさ、でも微かな潤いと温かみは感じられる、どこかに。そうして遠くからの響きが、聾する音にはならない地鳴りと、小さな声が、歌声とはもう言えなくても、でも聴こえてくる。
愛の月、水瓶座の月、ぼくの誕生月。


菜園便り一八六 ??????
三月七日

 図書館の新刊本紹介の棚に、北原白秋の「フレップ・トリップ」という文庫本が載っていた。黄色い表紙に、恩地孝四郎らしい版画が刷ってある。読みとおせないだろうなと思いつつも、散文で、紀行文らしいし、と借りてきた。忙しさにかまけて何日も手を触れないままだったのをやっと開いてみたのは、あきれるほどの雷雨が続いた後の、3月にしてはずいぶんと寒い朝だった。
 樺太への船旅から書きはじめられたそれは、するすると帆船がすべるように始まったけれど、でもその旅のために贖った物が、「洋杖蝙蝠傘、藤色皮の紙幣入、銀鎖製の蟇口、毛糸の腹巻き、魔法瓶、白の運動帽、鼠色のバンド、爽やかな麦藁帽、ソフトカラーにハンカチーフに絹の靴下、白麻のシャツに青玉まがいのカフス釦」などと書き連ねてあって、そこに2、3のネクタイというのもあった。はっきりと何本書いてないのは自分で買ったからでないというわけでなく、三越高島屋あたりで適当に見繕って買ったからだろうか、これとあれ、それからそれもあのジャケットにあいそうだから買っとくかな、どうだろう、そうなさいよ、そうだね、といったふうに。
 この20年間、ネクタイ1本買えなかった身としては、いちいち値段や本数を意識することもなく買い物のついでにいくつかまとめて、といったぐあいに買えるそんなありかたに、小さく動揺してしまう。ネクタイはプレゼントや土産にもらうことも多いもので、ぼくも自分で選んだ物は気に入ったためしがなかったり、すごく好きでそればかり使って飽きてしまうといったことが多くて、なんとなく買えなくなってしまったこともある。
 勤めていた頃は毎日使う制服のようなものだからあまり考えずにこのスーツにはこのネクタイ、みたいに決めていて機械的にあわせていた。3組もあれば充分だった。締めつけられることや体の前にぶら下げていることへの嫌悪や悲哀、抑圧の比喩と考えたりすることもなかったし、これ1本でずいぶんと気分がシャキッとするものだと感心したこともある。特別な日、例えば葬儀には黒いネクタイをすれば、それでお通夜は十分で、少し派手なものにすれば、会社帰りのスーツのままでちょっとしたパーティにも気後れせずに出かけられた。便利で楽しかった。
 使わなくなったから買わないのはあたりまえで、でもそういう無駄な買い物、身につける虚栄といえばいえるそういったものを贖うことを思いつきもしない日々は、歪なほど堅実で逼塞しているとつい大仰に思ったりもする。
 先日、友人の個展のオープニングパーティでの「コスプレ」で久しぶりにボウタイ(蝶ネクタイ)をしたけれど、このタイを締めること自体が10数年ぶりだと思い当たって唖然としてしまう。ずっと前に遊び半分に聖愛幼稚園のバザーで100円!で買った旧いモーニングを着るので、祖父のボウタイをつけてみようかとひっぱり出してみると、ちょうどぴったりの長さで、ぼくよりかなり太っていたのに、首のサイズが同じだとわかって驚かされた。当時のボウタイは調節が着いてなくて、それぞれ自分にあった長さを最初から選ぶもので、祖父の場合は29/74というサイズの数字が着いていた。丁寧につくってあったけれど、シルクだし、やっぱり弱くなっていたらしい。少し慌てて結んでいて、久しぶりでうまくいかなかったこともあり、苛立ってついぎゅっと引っぱったらちょうど羽の根本からちぎれてしまった。びっくりするよりおかしくなったけれど、祖父が亡くなってからでももう30年以上、使っていたころからすれば50年が経っているのだから、きちんと残っていたことの方が驚きなのだろう。今回の解体のさいの片づけで出てきたもので、どこからだったか、もう細かな経緯は思い出せないけれどたぶん母が整理してとってのだろう。
 そのパーティには紳士服の仕立てを長く続けてこられた方もみえていて、ぼくのモーニングを見ながら、それはおそらく戦前のですね、ボタンがふたつ付いていますから、戦後はほとんどひとつボタンでした、という話がでた。以前は、つまり仕立てで活躍されていた頃は、結婚する時に1着(もちろん黒で)、それなりの地位について体型も変わった時にまた1枚、そんなふうにふうにつくったものです、とも。小津の映画なんかみると、葬儀も結婚式も、佐分利信も中村伸夫も笠智衆もみんなモーニングだ。校長先生が着てたのを覚えていますと話していると、今はもう政治家ぐらいですねえ、結婚式の花婿も赤いタキシードなんか着てますから、貸衣装でと、淋しげな返事がきた。
 出かける前に贖ったもののリストを読むだけで、当時の旅行への気構えや出発前の高揚感がわかるし、子供のように弾む白秋の気持ちも伝わってくる。着ていったのはアルパカの黒背広、とも書いてある。私生活でもずいぶんいろいろあった白秋も時々にモーニングを着たりしていたのだろうか。

 

菜園便り一八七
三月二八日

 いつも通っていた散髪屋さんで、三月いっぱいで閉めることになったと告げられた。
 偶然入った天神のビルの理髪店で働いていた若い人が上手で、サバサバしていて気楽だったのでいつも頼んでいたら、結婚されることになった。仕事は続けますからということで、住所を教えてもらった。嫁ぎ先は友丘の散髪屋さんで、旦那さんも義母さんも理髪師。髪を切りに行ってあれこれ説明するのはとても苦手なので、そこに通うようになった。六本松からそう離れてないけれど、そういうことでもない限り、きっと知らない町だったろう。
 「もう二〇年近くなりますね、遠くからありがとうございました」としんみりと言われて、びっくりした。彼女が結婚し、一時危篤状態になり、回復して出産、その子ももう六年生なのだから、たしかにそうなるのだろう。何も知らずに行った最後の日に偶然その子にあって挨拶されたのも不思議な気がする。「ずっと野球をやっていて、チームがけっこう厳しいから、挨拶だけはよくしますね」とは聞いていたけれど。
 天神からでも三〇分はかかる所に、十数年通ったことになる。つくづく変化が苦手なのだとわかる。保身的、ということだろうか、いやなことばだけれど(その反動で極端になって全部を一息に振り捨てたりするのだろうか)。人と人の関係も、何かのきっかけで知りあったらできるだけ続けたいと思ってしまうことが多い。せっかくであったのにそれっきりではもったいないなあ、みたいなちょっとおかしな心根もある。それは自分も丁寧に扱われたいという願望の裏返しかもしれない。もちろん、長く続く関係はそうそうは生まれないし、年齢と共にだんだん難しくなる。
 誰もそうだろうけれど、仕事や利害関係以外の、表層だけでないつながりはいったいどれくらいあるのだろうか。あたたかく厳しく、穏やかででも真摯な、時間が経てば経つほど成熟し発酵するような関係、そういったものを求めているのかもしれないけれど、それは無理というものだ。自分を全きに開き外へ曝し、表面を傷つけ溶かしてから、外液で腐敗させつつ発酵させる、とでもいったようにしないとできっこない。おまけにその時と場所によってまったくちがった変化が現れてしまうのだろうし。漬け物やチーズ、酒造りといっしょだ。
 ざっくばらんできつい冗談も言いあっている人たちが、ちょっと急を要することがらで、互いに電話でなく、メールで連絡を取りあっているのを見て驚かされた。今は誰もがそういうことなのだろう。そうしてそれをごくあたりまえのこととして受けとめてもいる。たしかにぼくもメールですませられる所は限りなくメールになっている。でも、そういったそれなりの年齢で、例外的だと思っていた人たちもすでにしてそうなのかと、小さなショックは続いている。手紙の丁寧さと(堅苦しさも)、電話の直接性(暴力的だ)の中間にあり、その利便性と直に(声ででも)対面しない安心が、この媒体に人を惹きつけそうして同時に疎ましく、胡散臭く感じさせるのだろうか。
 今もごくたまにもらう手紙やハガキの喜びはますます大きくなる。そうしてそれに比例するように自分で書く回数は減っていく。なにかを伝えるのに、語るのに、心を込めて心血を注いで、といったことを大仰で格好良くないことだと薄く笑っているうちに、あっという間にぼくらはここまで押し流されてきてしまったのだろうか。


菜園便り188 ??????
3月29日

 もう3月も終わり。「えええええっ!」と叫ぶ人もいるかも知れない。でもほんとに速いし、早い。4月はあれこれあるからもっとバタバタするのだろうか。
 楽しみに待ちつつ気がかりでもあった、斎藤秀三郎さんの大がかりな個展も無事、成功裏に終了。会期中毎日会場に詰められ、来る人ごとに丁寧に話される姿は作品以上に感動的でしたが、持病の腰痛がひどいようで、ちょっと痛々しくもかんじられました。
 この個展のことは「玉乃井通信」では何度か知らせましたが、この「菜園便り」にもそれを転用する形で、紹介します。リーフレットやハガキと共に送られた紹介文を書いたのですが、その後、会場に貼る文章も頼まれて書きました。これは斎藤さんと直接関わらない、ぼくが今いちばん語りたいことを書いてくれという要請で、「自分の作品や表現と「対話する」もの、もしかしたら響きあったり、対立したりするものがほしい」とのことで、書きました。森崎茂さんも書かれています。
 個展や会期中の企画のことを、先ずは「お知らせ」の再録から。

*     *     *
「玉乃井通信」お知らせ
前回のお知らせにも入れましたが、斎藤秀三郎さんの個展はすごいですよ。アジア美術館の交流ギャラリー3室を使っての、大がかりな充実した展示。85歳、今も矍鑠とされ、制作を持続されてきた結果の規模と力です。
昨日の、会場内での斎藤さんのギャラリートークも大成功でした。予定の40人を大きく上回って立ち見の人もおられたようです。「玉乃井プロジェクト」の面々をも多数駆けつけてくれました。ぼくもうれしかったです。
進行役をやりましたが、斎藤さんとは長いつきあいですから互いによくわかっているし、斎藤さんは穏やかな人ですから、無理も言えるし、ほとんど準備も無しでなりましたが、とても真摯に詳しく語ってもらえ、みんな驚いて感動してました。
映像関係はぼくは自分でできないので、原田君に無理を言って編集してもらい、当日もプロジェクター持参で上映してもらいました。大感謝です。やっぱり映像があったので、興味がつなげてだれなくてすむし、わかりやすかったし、大助かりでした。
ぼくも知らなかったことや、今までちょっともの足りなく思っていたことをずいぶんと斎藤さん自身の口から聞いて、その場でぼくも驚き楽しみながらできました。あとのお茶や呑み会でもすごい評判でした。やっぱり斎藤さんはすごい。
もちろん今回の力のこもった展示があり、その作品の前での会だったことも、大きかったと思います。それに長年きちんといろいろのつきあいを大事にされてきた人柄も、集まった人の多様さに現れていました。
会期もいよいよ25日(火)まで。見逃したら、きっと後悔しますよ!
今晩は6時半から松岡涼子さんが会場内で舞踏を行われます。安部


旧玉乃井旅館<解体と再生>プロジェクト <家>-最後の家族の物語
玉乃井通信31
──────────────────────────────────
    4月 19、20カフェ/27上映会
  
4月19(土)、20(日)は前にも知らせましたが、玉乃井の建物の開放(見学など)とカフェをやります(玉乃井で何かやりたい人が出てきたら、その会期は延長します)。
それでカフェのお手伝いを、時間のある方にお願いしたいのですが・・・・。珈琲、紅茶とお菓子です。
今回は前とちがって大がかりな美術展ではなく、町の行事も小さめなので、そんなに人はみえないと思います。受けつけも、玄関に貼りついている必要はないと思っています。ちなみに、今回は入り口を表側(海側でなく)にします。
手伝ってもらえる方は、日にちとだいたいの時間を知らせて下さい。

それから、27日(日)は、玉乃井プロジェクトの4月の集まりです。以前から言っていた、戦前の福岡を撮した家庭フィルム(16㎜フィルム)の上映会を行います。宮田靖子さんの友人で、パーソナルフォーカスにも関わってある、香月さんが5本のフィルムに手を入れ、上映可能な状態にしてくれました(1本は傷みがひどくて不可能)。福岡市のある一家の家庭フィルムで、古美術商の西藤さんの手に入ったのを、しばらく借りているものです。興味深い当時の風俗(服や髪型も含め)や建物の様子が撮されています。なんと津屋崎もでてきます。そこには・・・・!見てのお楽しみ。
開始はいつものように2時から。珈琲とおかしですが、夕方からは持ち寄ったものなどで春の宴になります。会費は千円。

前にもお知らせしましたが、斎藤秀三郎さんの大がかりで力の入った個展は成功裏に終了しました。聞くところによると、6日間の会期で、800人を超す入場者があったようです。それもまた斎藤さんの人がらのたまものだと思います。見れなかった人のために会場写真を添付します。4168が作品写真。4155は会場内でのギャラリートーク
紹介文以外に頼まれたぼくの<私的な>文章も、会場に貼られていました。その文章は手元にあるのでここに転載します。
    *      *      *
「語りたいことなんてないですよ」と言うことすらが、そらぞらしく無意味にしか響かないほどにも、今、ことばは力を失ってしまっている。日々の生活は滞りなくくり返され、味蕾や性器末端の快感すらあるけれど、それらは瞬時に消費されて、全てがぼんやりとして厚ぼったい重なりのなかに遠ざかり、生きることのリアルは指の間から抜け落ちてしまう。決定なこととしてのしかかり、人を、世界を圧倒していたはずの自他の死も、重みを失って久しい。それでもわずかに残っている、この、生きているということの不思議な生々しさはなんだろう。清々しい風に吹かれたような新鮮さ、いつもどこかに感じられるあたたかみ、そういった小さな、でも溢れるように尽きない、この瑞々しさを持った感覚。身体を含みこんだ深い深い根を持つ感情。慈しみとしか呼べないような、単純ででも限りなく深い、愛とも呼ばれたことのあるものにも満たされている。「手を伸ばす、もう自分にも届かない」そんな哀しいことばをもう一度のみこんで、再びおずおずとではあれさしだされる指が触れるもの、つかみ取ろうとするもの、希望とか未来とかいった虚ろなことばでなく、まだ名づけられない、ことば以前の、ことば以後のなにか。誰ものなかに確かに存在し、でも気づかれないまま忘れられているものの響きが、遠くにかすかに聴こえる。

ホームページアドレス:http://g-soap.jp/TAMANOI/
発 行:現・在の会
発行日:2008年3月27日
連絡先:現・在の会(安部) 811-3304 福岡県福津市津屋崎1023-1
              phone & fax:0940-52-4608
              e-mail:fumiferd@mta.biglobe.ne.jp

 

菜園便り一八九  ??????
四月一日

 菜園は草ぼうぼうで、その隙間に春菊がひしめき、大根が花茎を伸ばしている。レタスやパセリのある方はかろうじて雑草と半々くらいに拮抗している。父が草取りをやってくれたからで、それはありがたかったのだけれど、冬を越して楽しませてくれ、やっと広がりだしたルッコラの大半が抜かれてしまった。間引きしなくては、とぼくでも思ってたぐらいだから、ただ雑草がかたまっていると思われてしまったのだろう。かろうじて、3、4本は残ったので、それをだいじにして、少しずつ大きな葉から掻き取って食べている。
 ルッコラのあの独特の味と香りに馴染んでしまうと、入ってないサラダはもの足りなくなる。冬にはいる直前に種まきするとちゃんと発芽してくれ、しかも急速に伸びて花をつけたりせずに(まだ暖かいと次世代をつくろうと寒くなる前に開花し種まで作ってしまう)ゆっくりと成長し、寒い間も少しずつ葉を広げ、食卓にその恵みを与えてくれる。今年はうまくいった、きちんと計画したからでなく、ただ思いだしてあわてて種を蒔いた時期が幸運にもちょうどよかっただけだけれど。
 レタスも、苦みのある紫キャベツの子どもみたいなのも、パセリも、雪もなかったし、冬中続いた。一〇月に蒔いた空豆(夏豆)もいんげんも、もう三〇センチくらいに伸びて花をつけ始めている。支柱を、と思いつつ・・・・・塊のまま自分たちで支えあって、雨に打たれている。なんとかしなくては・・・・・と、レタスやルッコラを摘むたびに思うのだけれど・・・・。解体で、支柱の竹やなんかはなくなったし、道具類もどこに押し込んだかわからないし・・・・。どうして全部を支柱のいらない、花も独特できれいというか魅力のある空豆にしなかったんだろうと悔やんだりしつつ・・・・今日の穏やかな春の雨を眺めている。
 四月の後半には、何が何でも夏野菜の苗を植えなくてはいけない。菜園の勝負の時期、いちばんの稼ぎ時、最も賑やかな季節。いつもの花田種物店にはしって、胡瓜、トマト、ゴーヤ(苦瓜)、茄子、ズッキーニ、それにまたレタスも苗を買ってこなくては、ルッコラも種がまだ取れないようだから、買ってきて蒔いておいた方が途切れなくていいだろう、今年は去年より多めに、それからあまりすし詰めにならないように、でも気持がなんだか弾むようにたっぷり豊かに見えるように畝をつくりたい、支柱や棚も早めにしっかりとつくってやろう、そうして大いなる実りを期待しよう、そうだ有機肥料も準備しておかないと、いや肥料より、肥沃な土を入れた方がいいだろう、残っている油かすを植える時に添えよう、期待は膨らむ、そうして、やることさえやって、そこそこの愛情を示せば(たっぷりの愛はできないことを自覚して)、しっかりとそれ以上のものを返してくれる(ちょっと心苦しいけれど)、きっと、豊かな実り、夏中の楽しみとして。
 胡瓜はほぼ一月間に集中するから、また人にあげたりと大騒ぎになるだろうか、トマトもまた3種類ほど買ってきても、どれもが同じような大きさになってしまうだろうか、「なりすぎて困る」ことが一度もなかったゴーヤも、今年は次々に結実するだろうか「困ったなああ」と哄笑させられるように、そうだ、ピーマンを忘れていた、この優等生を植えておけば、秋まで次々に実をつけてくれるし、忘れて放っておいても赤くなって知らせてくれる、茄子は期待しない、五、六個も採れたら御の字だと思おう。
 あのかりかりの胡瓜、青臭いでもしっかり甘いトマト、飽きずにチャンプルーにできるゴーヤ、ズッキーニはたぶん最初の3週間であまり大きくないままに終わってもしっかりあの苦うまさの喜びを味わえる、花もきれいだ、オクラの花はもっときれいだけれど、この土にあわないようでうまくいった試しがないから、諦めている、南瓜とか西瓜もだめなようで、もう試みない、一度、薩摩芋をやってみたい、砂地だからきっとうまくいくと思うのだけれど・・・・思いは尽きない、そうして野菜たちはいつもその思い以上に、大きすぎる期待をさらに上回って喜びを具体的な形で与えてくれる。
 そんなことを思いつつ、花冷えでひいた春の風邪で鼻をぐずぐずさせつつ、あたたかみのある静かな春の雨の音を聞いている。

 

菜園便り一九二
四月二九日

 やっと、夏野菜の苗を植えることができた。早く早くと思いつつずるずると先延ばしになってしまうのは心身にもほんとによくない。
 菜園は今やトマト(二種六本)、胡瓜(三種六本)、ゴーヤ(二種六本)、茄子(二種三本)、ピーマン(二種三本)、ズッキーニ二本がしっかと立っているし、薄緑色のレタスとバジルも加わった。ルッコラの種まきもすんだ、すごい。強い日射しの下での作業で汗をかいたのも久しぶり、ついにこの暗く寒々しいあばら屋にも初夏の光が届いたのだろうかと、うれしくなる。
 昨年夏の離れの解体にあわせて場所をかえたから、この冬の野菜は順調だったし、秋の終わりに植えた豆類がみごとに繁っている。絹ざやは毎日どっさりと言えるほど採れるし、ピースも膨らみつつある。いちばんの楽しみの空豆(夏豆)も来週には収穫できそうな大きさでぐいっと空を向いている。バタバタしつつもどうにか種まきをした返礼がここに来てこんなにもどっさりとある。
 「返礼」なんて言うのはおこがましいのだろう。場所を作り肥料を入れ、種をまく、それだけのことだったのだから。時々の水やりも、そこそこに大きくなったらもう空まかせ。吹きつのる強い風や飛んでくる潮にもめげず、みぞれの冷たさにも耐えて、花を咲かせ、そうしていい加減な植え方だったから込み合って団子状の悪環境にもめげずに次々と実をつけて、我が家の友人宅の食卓にその柔らかくみずみずしい青い甘さを届けてくれている。こちらが、ただただ平身低頭でお礼を述べるしかない。
 という舌の根も乾かないうちに絹ざやの収穫を忘れ、少し固くなっただけでもう無視して捨ておいたり、込み合った枝葉を美しくないなあ、ちょっとうっとうしいなあと傲然とみていたりする。ほんとにどこまでも凡人は救いがない。
 でも、救いはある。そんなこちらの愚かしさなど歯牙にもかけず野菜たちは無限とも思える愛を振りまく。冬から続いている片隅の赤いサニーレタスと苦キャベツはまだまだ花茎もつけずに開き続けているし、思いもかけない所からこぼれ種のパセリが伸びてきている。父に抜かれてしまったルッコラも隠れるように残った一本がわずかだけれど貴著な薫り高い葉をつけている。
 採れたての若い絹ざやは筋をとる必要もない柔らかさで、さっと茹でてサラダにもいいし、みそ汁やお吸い物にもぴったりだ。ちょっと大きくなったのは筋をとってさっと煮つけて、竹の子に添えると彩りもいい。竹の子ご飯に乗せてもきれいだ。
 今年のどっさりいただいた竹の子のおいしさも、冷凍庫という利器のおかげでまだまだ楽しめる。いただいた粕につけてみた野菜もうまくいっている。夏野菜の準備に抜いた雑草に紛れていた大根は、まだとうが立っていなかったから大根下ろしや煮物にできたし、最後のかつお菜の葉は茹でて冷凍にしてある。姉が3月の滞在中に作ってくれた大根葉と同じように手軽に使えるだろう。春菊はどっさりの花を大きな花瓶に押し込んで飾ってある。庭で採れたり、誰かにいただいたりした野菜は、むげに捨てる気になれなくて、あれこれない知恵を絞って使う。それもまた楽しい。思いがけないときに届く、庭で採れた夏みかんや草花、そういったものの単純で見飽きない形や色の美しさへの喜びもふくらむ。
 松も盛大に花粉を散らして花を終え、菜園の奥のジャーマンアイリスの群生がいっせいに開き始めた。一日ごとにぐいぐいっと季節が移っていく。

 

菜園便り一九三
五月二二日

 三月に開催された斎藤秀三郎展は、その規模にも入場者数にも驚かされたけれど、なんといっても斎藤さんの八五歳という年齢に感嘆させられる。こんなにも大がかりな作品展を、その作品制作だけでなく全部、会場の申し込みややりとりから、パンフのデザイン、注文、校正、はがきや案内状を書いて発送、搬入や搬出の手配と作業、会期中の挨拶や対応、細々とした雑務、とにかくいろいろの交渉や実労働を時間をかけて全部一人でこなされて、ほんとにすごいなあと思う。もっといろんなことを手伝わなければならなかったけれど、父のこともありわずかなことしかできなかった。斎藤さん自身にも、「今回は全部自分でやる」、ということにかなりの比重があったようだ。
 それでぼくには案内状に載せる文章と、作品やコンセプトと「対話」するべく会場内にはられる文章の依頼があって、それだけはなんとかこなすことができた(両方とも森崎茂さんと共に)。多くの人の眼に触れたこともあって、珍しくいろんな反応があった。うれしいことだし、あれこれ考えさせられもする。ここに採録しておきます。
*  *  *  *  *

「案内状」       
斎藤秀三郎-静かにうねる日々
 その表現としての作品も、斎藤秀三郎さんという具体的な人と、頑ななまでに重なりあっている。その表情しぐさから、頑固さとあっけにとられるほどの柔軟さまで、独自の一体感を持ちつつぎくしゃくとつながっていく。それが人が長く生き、何かを考え続け求め続け、そうして形として表現しようと試み続けた痕跡なのだろう。憧憬のように求められ、求道のようにつきつめられ、蛮勇をふるって叩き拓かれた、ささやかなでも貴重な沃野。そこに何を種蒔くかは、平板に続く日常の、退屈で貧相にさえみえる細々とした連鎖のなかにしか見えてこない。ロマンティシズムから遠く離れた、時の蓄積によってのみ生みだされる叡智だろうか。  
 時代のままに、絵画、公募展と励み、二科展の入選を含め貧しき人々を描くなかから、「思想」への共鳴を軸に九州派に加わり、そこでの「何を表現するのか?お前の立場は?」という、それも時代の強いる問いを全身で受けとめる。そうしてグループ西日本などでの、再度の絵画という枠組みの中での葛藤の後、新しい場であるメゾチント版画へと突入、圧倒的なまでの巨大なメゾチントに込められた深々とした闇とどろどろと滾る血や漿液。さらに現代美術の自由さへと、なんであれ徹底してしまう性癖で、立体へ、インスタレーションへ、変わらぬモチーフであるキャベツをしっかと掴んで、斎藤さんの終わりのない旅は続く。八五歳、達観や諦念から遙かに遠い地平で、その底を奔る過剰と共に透明な光が微かに射し込んでくるのが見える。乾ききって荒んだ皮膚にほのかに感じられるあたたかみ。あくなき歩みと人としてのやさしさ、いつも共にあったユーモアがここにきて生の核としての姿を現しているのだろうか。まだまだ先は長く、たどり着く先は見えないけれど。
 求めることを求める、という空回りからほんのわずか、でも決定的にちがう位相へと踏み出したなかで、斎藤さんは足掻くように求める。どこでその決定的な飛躍がなされたのだろう。ことばに、社会性に、時代の要請に、世界の騒ぐ声に容易く感応してしまう己を自覚しつつ、振り払えない自身の赤い野心やにこごって暗い欲望を意識し、だからこそ、潔癖なまでに、律儀なまでにそこから出立しようとするその姿勢の傾きのなかに唯一の可能を信じて、無音の悲鳴をあげながら、真っ逆様に墜落するようにして、閾を超える。傍目にはいつもの日常が淡々とくり返され、稚拙な冗談と肯きが積み重ねられるだけにしか見えないなかで。ヒロイズムを避け、でもニヒリズムへと落ち込まないために、斎藤さんは穏やかであたたかい冷笑を自身へも世界へも均しく投げかけていく。
 祈ることのわずかな高みで何かが成就する、捨てることの痛みの向こうでだけ探りだされるものがある、そんなふうにしてしか日をつないでいけない生き方。通俗とぴったり重なっただけでしかない反通俗の克服であり、時代のイデーを抜け出る、曖昧にさえ見える柔軟さであり、生活に結びついた存在の根に残る、当事者としての慈しみであり痛みの共有でもあるのだろう。
 哀しみを我がこととして受けとめる勁さ。強い人は弱い。弱さを受けとめうる人だけが勁くなれる。哀しみは無色だからその色を知ることはできない。不幸があまりにも極彩色だから、哀しみは時として幸福の穏やかな平凡さにも似てしまう、斎藤さんの静かな日々のように。

「会場の文章」
「語りたいことなんてないですよ」と言うことすらが、そらぞらしく無意味にしか響かないほどにも、今、ことばは力を失ってしまっている。日々の生活は滞りなくくり返され、味蕾や性器末端の快感すらあるけれど、それらは瞬時に消費されて、全てがぼんやりとして厚ぼったい重なりのなかに遠ざかり、生きることのリアルは指の間から抜け落ちてしまう。決定なこととしてのしかかり、人を、世界を圧倒していたはずの自他の死も、重みを失って久しい。それでもわずかに残っている、この、生きているということの不思議な生々しさはなんだろう。清々しい風に吹かれたような新鮮さ、いつもどこかに感じられるあたたかみ、そういった小さな、でも溢れるように尽きない、この瑞々しさを持った感覚。身体を含みこんだ深い深い根を持つ感情。慈しみとしか呼べないような、単純ででも限りなく深い、愛とも呼ばれたことのあるものにも満たされている。「手を伸ばす、もう自分にも届かない」そんな哀しいことばをもう一度のみこんで、再びおずおずとではあれさしだされる指が触れるもの、つかみ取ろうとするもの、希望とか未来とかいった虚ろなことばでなく、まだ名づけられない、ことば以前の、ことば以後のなにか。誰ものなかに確かに存在し、でも気づかれないまま忘れられているものの響きが、遠くにかすかに聴こえる。
        *  *  *  *  *

 斎藤さんの年齢のこともあり、「集大成」というように言われる方も多かったけれど、彼自身は「いえいえ、これからです」と今後のことだけを語られる。油彩やアクリルの平面作品や版画で2年に一回くらいは個展を、と積極的だ。人との丁寧なつながり、表現への大胆さもこれからもまだまだ続いていくようで、すごい。

 

菜園便り一九四
五月二二日

 昨日、今年初めてのアオスジアゲハを見た。庭の松と椿の間を例によってせわしなくパタパタと羽を動かして上下しながら海の方へ飛んでいった。大きな蝶なのに優雅とかおっとりとかいったことばとまるでかけ離れている蝶だ。せっかくの透きとおって蛍光しているようにさえ見える水色のすじ、輝く羽なのに、いつもなんだかピョンピョン跳ねている感じがする。子供の頃から、見るたびにはっとさせられる、それくらい印象的な美しさとはちぐはぐに思える動き。
 庭もすっかり初夏のようす。野生の、といったらいいのかしぜんに生えてきた小さなオレンジ色のポピーが群がって咲いた後には、薄桃色の沖縄月見草があちこちに開いている。まとまると霞んだ淡い色の固まりになって、夕暮れ時などはぼんやりと浮かび上がりちょっと誘われるようだ。
 菜園も今年初めての胡瓜が採れた、みずみずしくカリカリとおいしい。ズッキーニにいくつもカボチャのようなオレンジの花がついているし、小さな実をつけ始めた。トマトも丈が低いままに花が咲き始め、青い実をつけていて、早すぎないかとちょっと心配させられる。豆類は、絹ざやとグリンピースが終わり、空豆が全盛を誇っていてうれしくなる。明日あたりにはかなりまとまって摘まないとかたくなりそうだ。茎も四方に広がって、辺りかまわず倒れそうなのをかろうじて紐でしばってまとめているけれど、それでも茄子やパセリの上に覆い被さっていく。
 ぐんぐん伸びているルッコラの上にはズッキーニの大きな葉が広がり始めて、こういったのをなんとかしないと他の野菜が日陰の身になってしまって、かわいそうだ、とも思ってしまうけれど、葉を切り取るわけにはいかないだろうし・・・・・。
 レタスや苦キャベツはびっくりするくらい勢いがあるし、そのそばの1本だけのバジルも、彼らの勢いに引きずられるように元気だ。夏の先駆けとして、モッツァレラチーズを買ってきて、トマトといっしょに食べよう。ゴーヤは葉っぱが黄色っぽくなってなにやらひ弱に見える。栄養が足りないのか、まだ暑さがきてないからか、ちょっと心配になる。
 でも、だいじょうぶ。お隣の畝のキュウリは順調で、早々と今年初めての収穫もあったし、来月には全体への追肥の予定もある(忘れないようにしないと)。獲るだけ獲って、何もしないなんてことはいけない、心して、おいしい野菜を食べるたびに思いだそう。
 どこも緑が広がり深まる。でも昨年、離れと風呂を解体した後はむき出しの土のままだ。雑草がすぐにはびこるだろうと思っていたけれど、車の駐車があるのと、父がまめに抜いてしまうのとで寒々としている。少し土地が傾いていて、雨の度に流されるのも理由の一つかもしれない。
 海側の道路に面した低い塀沿いに目隠しの低い木々を移植しようと思い始めてからあっという間に数年がたってしまった。母屋が素通しになった今年こそは梅雨の晴れ間に必ずやってしまわないと、と何度目かの決意をかためる。さあ、あまりひどくない梅雨と、少ない台風でこの夏が終わってくれることを祈ろう。野菜のためにも、なにより、この百年近い老いた、でも毅然として暖かみさえある、でもあちこちの痛みで青息吐息のこの旅館建築の無事のために。

 

菜園便り一九六
六月八日

 一昨日、ざぼん、無花果、柿、サツキの苗を買ってきて庭のあちこちに植えたけれど、柿は場所を決めかねて、まだポットに入ったままでつったっている。桜もほしいと思うけれど、そういうのはこの時期には売ってないようで、誰かに教えてもらってどこかいいところで探してこなくてはいけない。
 以前は父がいろいろ買ったり植えたりしていたけれど、どこでだったかとあれこれ考えていて思い出したのは、「タキイの種」だった。父のお気に入りは、種や苗の専門店のタキイから取り寄せることで、そういえば二、三年前まではカタログが季節ごとに届いていて、眺めるだけでも楽しかったのを思いだした。どうしてこなくなったんだろう。しばらく買わないと送らなくなるのだろうか?どうしようもない通販のカタログにうんざりして、取り消しの連絡を送りまくった時に、いっしょに通知してしまったんだろうか。野菜や果実は特に楽しく見ていたけれど。
 子供の頃すんでいた蔵屋敷の家で、父がそうやって取り寄せたポポーは、植えたばかりで引っ越しになり、それだけは今の家に持ってきた。数年してぼくが家を出る頃まで、かわいそうなくらい小さかったけれど、いつのまにか大きく伸びて驚かされた。一本ではなかなか実をつけないようで、一度二個ほど実をつけ、でも熟さないままで終わったようだ。栄養価の高い南国的な果実らしいけれど、誰も味わうことはなかった。大きくなりすぎたのか、自滅するようにしていつの間にか潰えてしまった。倒れて腐ったのだろう、放りっぱなしで、めったにはいらない庭だったからその経過もほとんど知られないままに終わった。そうやって枇杷もなくなり、でも渋柿はひさしより高くのびてしぶとく葉を茂らせている。狭い庭にも栄華盛衰というか、淘汰がある。
 そういったことはみんな前の家の裏庭でのできごとで、通りからも見えないし、すっとは入っていけないのでそんなことになってしまう。気がつくと一年以上足も踏み入れてないなんてことはざらだ。さすが海側の庭はそんなわけにはいかず、解体後の空き地のことも考えないといけないし、というわけで、雑木の移動を機にあれこれやってみることになった。道路側の入り口に桜を、というのが理想だけれどそこは海風が強く潮も直接かかるところですぐにだめになるだろうから、もっと内側の木の陰で窓からも見えるあたりに落ち着きそうだ。柿はぼくの部屋のすぐ外にスペースを造って植えるのがいちばんかもしれない。
 妙な入り組み方をしていて、樹木も軒を接している隣家との境界もなんとかしないといけないし、がらんとした別館の跡地はバラスを敷いてかためてあるから雑草も生えない。ここに小さな果樹園も悪くはないだろう。砂地だから、芋畑にしよう、と思ったりもしていたけれど、どうなることやら。こういった悩みはなんというか、身体的というか、具体的だし、自由のきかないぶん、精密さも求められないから、どこか穏やかになれて、時間をかけてのんびりつきあえる。心のどこかがゆっくりとストレッチされていく、そんな気もする。

 

菜園便り197 ????
6月19日

 珍しく関東より遅く梅雨入りしたけれど、入梅直前に千葉の従兄弟の奥さんから庭の梅をいただいた。事前にわざわざ電話で、使いますか、使うなら送るけれど、と問い合わせてくれた。今年はいまいち元気が出なくて、梅干しを漬けるのはパスしようと思っていたけれど、これを断るなんてと気合いを入れて、お願いした。「無農薬のいい梅ですよね」というと「無農薬、無肥料よ」と笑って、送ってくれた。
 昨年ももらって漬けたけれど、その時に「できたら送りますよ」なんて、軽々しく言っていた気がして、つまり今回もそういったので思いだしたというか、言ったような気がするのだけれど、昨年はあまりうまくできなかったこともあって誰にもあげなかったから、もちろん送ってもいない。それでもまた梅を届けてくれて、頭が下がる。
 今年は簡単にできる小梅漬けだけのつもりだったから、それはもう漬けてあって、だから頂いた4キロ近い梅は全くのおまけということになる。それもすごい。
 ここ数年やっているフリーザーパックでの簡易漬けでやるから、簡単で黴の心配もない。塩が14%と少し多めだが、はらはらしたり、いらいらとやり直したりしなくてすむ。小梅があったから今年は早々と赤紫蘇も買って漬けていたから、再度多めに買って準備する。来週あたりに本漬け、梅雨明けの晴れの日々に干せば秋にはおいしい梅干しができる。今年は忘れずに送らないと。
 季節のものというのはほんとにうれしい。先日もSmallValleyから父の誕生日にと、杏のタルトをいただいた。毎年、その年の杏を文字どおり山のようにシロップ漬けとジャムにしながらつくられるタルトは思わず声がでるほど酸っぱみがあって、いかにも果実のお菓子の本道。時々聞く、杏を手に入れるまでのあれこれも楽しい、大げさに言えば悲喜劇も。今年はとにかくどっさり手に入ったとのこと、人ごとながらうれしい。
 我が家にも実は梅があるのだけれど、ほったらかしでかろうじて花を2、3個つけるくらいで、もう長いこと実はならない。ずっと昔は父が魚の臓物なんかを埋め込んでいたことを思いだす。ああいった、生の、動物系のものも時間がたてば栄養になるのだろうし、必須だという人もいる。とにもかくにも、愛情、手間暇かける気持ちと、具体的なふれあいがほんとにだいじだとわかる。対象がなんであれ、触ること、手で、息で、体温で、ことばで、ふれることの、つながることの大きさを、ぼくらがすっかり忘れ去ってからでも、もうずいぶんとたってしまった。

 

菜園便り一九八
六月二五日

 バイクに乗るようになって行動範囲が広がった。「バイク」なんていうと驚かれたりするけれど、もちろん五〇cc原付。カブと同じタイプのスズキ・バーディー、色は深緑。鳥のイラストがついている。もらってすぐは、買い物の途中でカーブを曲がりきれずに田んぼにつっこんだり、夜中にパンクしたりとドタバタしたけれど、それ以後は不思議なほど順調。買い物と図書館を行き来するだけみたいなものだけれど、とにかく楽になった。どっさりの重い野菜や酒瓶を抱えてのバスはちょっとつらい。
 そんなふうに、少し遠い産直(産地(人)直搬入販売所)にも行ったりしている時に道路沿いの新しいお店を見つけた、「カレーとビートルズの店」。後でわかったけれど、お店の名前は「アップル」、ふんふん、そうか。素人っぽくつくったのか、予算のつごうか、ざっくばらんなつくり、あり合わせの家具。メニューはカレーと飲み物だけという潔さ。もちろんビートルズがかかっている。壁にはLPレコードのアルバム。ただしオリジナルではなく後でまとめて発売されたセットもののようだ。東芝が売り上げが不調になるとだすといわれた、ボール箱だったり、木箱だったりの、あれこれおまけがついた、復刻した゛オリジナル゛アルバム。ぼくも濃紺の"Rarities"というアルバムがおまけについた紙箱詰めを持っている。七〇年代の終わりに買ったから、もう三〇年近い。そう思うとなんというか、隔世の感というか、唖然として立ち竦んでしまう。
 いったいいつ時間がたったのか、どこで不意に今に移ったのか、「さあこれから」なんて、何の根拠もなく、仕事もしないままずっと思いこんでいた間に。「むざむざとどぶに捨てるように若さと時間を費やし」なんて、しょっちゅう小説のなかで読んで、滑稽にさえ思っていたけれど、まるっきりそのまま自分が思うことになったわけだ。笑いも生まれない。あっけにとられ、呆然とした後、いったいどうなってんだろうといぶかしんでいる、とでもいうのが偽りのない気持ちだろうか。それなりにいろいろあって、しのいできて、ちっとは成熟して、やっと今だ、そんなふうにはすなおに肯えないことで、また小さな棘が生まれてくる。
 とにもかくにもそういうことであり、そうして菜園には夏野菜が猛々しいまでにも繁っている。そうして次々に花を開き実をつけている。「これからも」といったような中途なことばがまたどこかから聞こえてくる。かくてありなん。

 

菜園便り一九九
七月七日  声

 昔、ブルチュラーゼという人の歌唱を聴いたことがある。男性低音部、バスだった。もうずっと昔だ。今も元気なのかどうかも全く知らない。演奏会には行かなくなったし、音楽家のことを知る手だてもほとんどない。あの頃、たぶん二度聴いたと思う。一度目は、つまり最初の時は、彼の独唱会で人見記念講堂だった。前から十列目くらいの、通路側だった。当時は音楽関係の仕事をもらっていたこともあって、とてもいい招待席だった。
 生まれて初めて、音が波動だと、空気の動きだと知らされた。彼が声を張り上げた時、どんと衝撃が来た。もちろん心理的なことでなく、具体的に。ほんとにびっくりした。人の声の大きさというか、物理量に、その塊の強さに。
 バスの独唱曲は多くはない。ロシア人だし、日本でのロシアの歌の人気もあってだろう、ボルガの舟歌とかも唱った。バリトンのアリアも唱った。もしかしたら、「魔笛」のザラストロのアリアもあったかもしれない。だからいっそう身にしみたのだろうか。
 声というか響きというか、身体や生理といったことがとてもリアルだった。何かが、生命力とでもいうか生の本質がむき出しで密集してそこにある。存在が、実態としてでさえないエネルギーの塊りがマグマのようなあり方で、ある、そんなふうだった。
 演奏会というのは、だいたいいくつか唱ったり演奏したりして、インターミッションがあって、ちょっと歩いて知り合いと挨拶やおしゃべりをしたりお酒や珈琲をのんでまた聴いて、お終いになるものだけれど、彼はずっと大音量で唱って、素人のぼくにもだいじょうぶなのだろうか、と不安にさせるほどだった。そんな当時の心持ちも思いだした。
 最後にアンコールがあって、きっとあったと思う、バスの独唱会に来る人はすごく好きな人か、なんらかの形での業界の関係者だろうから、しっかり拍手したはずだ。おそらくロシア民謡を歌ったのだろう。そうして花束贈呈。ひどく驚かされたのは、中年過ぎたやせた男性がひとりだけ、大きな花束を抱えて演台の下から差しだしたことだった。長い白い花だけの束を演劇的なまでにゆっくりと振り上げるように高く差し上げ、そうして端まで出てきたブルチュラーゼに手渡した。あの時、異様な印象は持たなかったから、会場の多くがありふれた光景としてみていたのだろう。バスには男性ファンの方が多いと、後で聞かされた。
 声、なんだろう、どんな現象なのだろう、どこで生まれ、どこに届こうとするのだろう、何のために、または誰のために。


菜園便り二〇〇
二〇〇八年九月三十一日
始まりと終わり、そしてまた始まり

古いフロッピーディスクで探してみると、菜園便りの一回目は二〇〇一年の六月二〇日だった。もっと以前からだと思っていた。母が亡くなって三年も後だ。母の死の直後から書いていたような気がしていたから、少し驚いた。
「菜園便り」のきっかけになったのは、セカンドプラネットのプロジェクトのひとつ、「お昼の一二時に何をしてましたか?」といったeメールでの問いだった。北九州美術館ビエンナーレでの一環。その問いにいくつか返信を書いたのが始まりだ。気負わずに書けて、とても楽しかった。今読み返すと、ずいぶん明るいし、文体も生き生きしていて、しかも若ぶっているふうもない。のむ機会が多かった頃だから、酔った勢いで書いていたからじゃないだろうか、と思ったりもする。
酔って書いたものは百パーセントだめだとはよく言われるけれど、ちょっとハイになっている時の小さな高揚や開かれ方は、捨てたものではないかもしれない。もちろん、「酔い加減」によるのだろうけれど。
とにかく、そうやって日常のことを、庭の菜園に託して書くことの喜びが始まった。当時はほとんど父がやっていた菜園も、半分ぼくがやるようになり、場所も変わり、今は父はトマトを時たま摘むくらいしかできなくなった。退院して一年、体力も気力も、もう元に戻ることはなく、ゆっくりと時を送っていくだけになった。いっしょにやっている頃は面積も広くびっしりと繁るほどで、新聞紙上の「我が家の料理」というページに、菜園の野菜を使った料理として紹介され、父とふたりの胡瓜や茄子に囲まれた写真が載った。
その菜園で、あまりいいできとは言えないまでも何種類もの夏野菜が今年も育ってどっっさりと食卓にのった。
「菜園便り」も今回で二〇〇回。一度全部きちんと縦書きの形で一回ずつまとめてみようと思いつつ実現していない。初めの頃は勢いに任せて長くなったり、感情の爆発があったりもしたけれど、一〇〇回を過ぎてからは一枚(一六〇〇字)以内のまとまったものを基本にするようになった。よくも悪くもおさまりがいいというか、終わりがあるもの、作品っぽいものになっている。仕事以外で書くものは、もうこれだけになってしまっていてそれもふがいないけれど、でも少なくともこれだけはあるということだろうか。自分でも気に入っているのはフィクションとして書いた「夏豆」で、それなりに書けたのだろうか、いくつかの返信があった。

きっかけになった返信と、「菜園便り」の最初の回を添付します。


  『 「セカンド・プラネットがお昼をお知らせします。
  北九州ビエンナーレ展で、メールネットワークを使ったプロジェクトを開始致します。
  このメールでテストを行いたいので、メッセージを返信してください。
  「今、あなたはどこにいますか?」
                           second planet 』
元気ですか?
メール受け取りました。
メッセージを返信して下さい、というのがどのことかよくわかりませんが、とりあえ
ず、「今、あなたはどこにいますか?」への返信だと考えて、答えます。
今、日本の福岡県の津屋崎町にある海のそばの自宅の、自室の机についているところ
です。ちなみにこの部屋から海が見えます。今日は日射しも強く暖かい一日で、海も
穏やかに、見える限り光を反射して輝いています。もう陽光は春です。

初めて、映画について書く仕事が来たので、ヴィデオをあれこれ見ているし、あまり
うまくいってなくて、ちょっと疲れていらいらしています。でも、映画について語れ
るのはうれしいことです。

「お昼をおしらせします」という時点での「どこにいますか?」だと返事は変わるは
ずでしょうが、実はぼくは同じです。12時の時点でも、この机について、あれこれ
書いたり削ったりしていました。ちなみに昼食はいつも2時半ころです。今日はも
らったまま忘れていて熟成しすぎたカマンベールチーズと胡瓜(これは熟成していま
せん、あたりまえですが)のサンドイッチと牛乳でした。あとポンカンを食べまし
た。今日はがまんしてコーヒーをのんでいません、胃の具合が悪いので。ちょっとつ
らい。

さてもう2本ヴィデオを見て最後の仕上げをします。うまくいってほしい!
セカンドプラネットもうまくいって下さい。楽しみにしています。

じゃあ、また。           2月20日


セカンド・プラネットが2001年2月23日のお昼をお知らせします。
-------------今、あなたが聞いている音は???---------

今日は珍しく仕事で外に出ていたので、12時は電車の中だった。西鉄宮地嶽線だか
らのんびり走っていたし、乗った時間から推し量って、新宮か三苫あたりじゃないだ
ろうか。いずれにしろ、聞こえていたのは電車のがたごという音が中心だったと思
う。あれこれ打ち合わせの準備のメモを取ったりしていて、やけに揺れるなと思った
から、ふだんよりその音は大きかった気もする。人もほとんど乗ってないし、3両編
成だったから、がらんとしていて、人の声もなかったように思う。遠くで汽笛が、とい
うほど牧歌的でもないし。でもふと見上げて正面を見ると運転席をとおして、緑に
覆われた切り通しが見えたり、さっと風景が広がったりすると、もう宮沢賢治も負けそ
うになるような、それくらいのとこもある。
この電車は、以前は福岡市の市内電車(路面電車)の延長というかんじで、同じよう
な車両が走っていて、もっとよかった。床も壁も木の内装で、木の日よけまであっ
た。今も江ノ電みたいで、松林や家々の間を抜けていくようで、とてもいい。津屋崎
からちょうど45分で貝塚に着く。本を読んだり、仕事の準備をしたりにちょうどい
い。終着駅だから、帰りは飲んで帰っても、心配はない。ただ最終が貝塚を11時1
2,3分(天神の地下鉄が11時4分)なのはちょっと早すぎる。と思う。貝塚駅
(昔は競輪場前といった。もちろん競輪場があったからだ。玉ノ井旅館のタコの絵の
広告があった)から地下鉄に乗り換えて天神まで12分。
静かで美しい町に住んでいて、1時間くらいでだいたい何でも揃う、映画もいろいろ
見れる博多まで行けるのはほんとにうれしい。
ちなみに昼食は久しぶりに川端うどんを食べにいった。いつもとちがってすぐにでて
きたのでちょっと胡散臭い気がしたが、隣の常連客にもすぐでたので、昼食時の手抜
きかもしれない。待つことがいやな人は多いし。そういえば、2分まつ因幡うどん
遅すぎると、30秒で出るミヤケうどんに走る人もいる。世の中はすごい。
余談がいっぱいだったけれど。

じゃあ、また。                2月23日


『セカンド・プラネットが2001年3月2日のお昼をお知らせします。
----------あなたのお昼の風景をお知らせください。---------』

ずっと以前、ベルイマンの映画に「ある結婚の情景」というのがあった。甘やかさと
いっさい無縁の、しかも身体的にも(演技的にも)ごつごつしたしんどい映画だっ
た。
昼の風景というと、お昼ご飯の風景だろうか、それもふくんだ穏やかであたたかい午
後の情景だろうか、いずれにしろ、そこには生活の単純な力や匂い、喜び、平凡な
くりかえしであることの退屈と安心とがあるのだろう。ありふれたでもかけがえの
ないもの、つまり人そのもの、人生そのもの。遠い子どもの声、開封されない手紙、
開いたままの本のページ、畳の上をするすると伸びる日射し、めっきり口数が減った
家族への不安。
そういう風景の中に自分もいると、なかなか思えない。特別疎外されているとか、貧
しいとか、苦しんでいるとかではないけれど、幸福とか満足とかの定義が自分のなか
で壊れてしまった以上、なにもかも幸せでも不幸せでもないということだろう。もち
ろんささやかな喜びや苦々しさは溢れるようにある。
昼食もそうだけれど午後はなんかうっすらと貧相だ。一人での手早い昼食。ひとりぶ
んの珈琲は豆を挽いていれてもどこかおいしさが薄い。香りが部屋を満たすことがな
いからかもしれない。仕事も、夕食のことなど考えてしまうから、そんなに集中でき
ないし、集金や勧誘がやってきたりもする。電話も鳴る。無限に続くように思われる
なにもなさ。
ふいに、昨年の秋のできごとが怒りと共に思い返され、どうしようもないほどドンと
戻ってきて、どうにかおさめようと手紙を書いたけれど、結局それは投函されること
はないだろうし、怒りや屈折や哀しみは、いっそう深まってしまう。ことばにするこ
と、具体的に書いたりしゃべったりすることで何かが整理されたり、解消されたりす
るというようなオプティミズムはないつもりだけれど、でもじゃあ、どうやってこう
いう自分のいらだちと折り合いをつけていけばいいのか、思いあぐねてしまう。
久しぶりに晴れたうららかな早春の午後、鬱々と日はめぐっていく。静かななにもな
い情景、透明で突き抜けしまう風景。           3月2日


-------あなた以外の誰かが見た風景 [fri, 2 march 2001]------』

風が吹き荒れ、雨が横殴り。でも風のなかにも、もう鋭さがない。雨も冷たさより、
柔らかさが先に感じれる。そんななかでの新鮮な風景。
人を憎むことは哀しい。でも憎むという激しい情熱のエネルギーが世界を豊に深くし
ている、そういうこともある。その不思議、おもしろさ。でも人を憎むことは寂し
い。人を憎むことは、自分を憎んでいることの裏返しでしかないから。どんなに不毛
に思えても、どんなに貧しく陳腐に思えても、「愛」ということばに、こめられるも
のを手に取りたい。そのことばの前にひれ伏すことさえいとわない、勇気と力をもち
たい。
お昼には、そんな過激で、しんとした、世界そのもののような、絶対値の深度がふい
に現れることもある。
喪われたことを喪われたものをして葬りさせよ。傲慢にでも卑屈にでもなく、今、そ
ういうことばを交わした、あなたとの間で。        3月3日

追伸 いろんなことは喪われる、ぼくも喪った、もっと喪った人もたくさんいた。そうしてそういう人ほど、黙ってほほえんでいた。

 

菜園便り二〇一
一〇月七日
パヴェーゼ久生十蘭

新聞に岩波の『パヴェーゼ全集』の案内広告が出ていた。ついに、というか、今さら、というか。長生きはするもんだね、と長屋の大家さんが縁側で眼鏡を上げつつ言いそうな気もする。
晶文社の全集が出始めたのはたしか70年代だった。最初の2、3冊が出て、「月とかがり火」や「丘の上の家」だったか、そうして刊行が滞るようになり、待ち人をやきもきさせて、結局、うやむやなままになってしまったんじゃないだろうか。それともずっと後に予定のぶんだけは出たのだろうか。
はっきりと覚えてないのは、ぼくはやきもきして待ったほうでなかったからだろう。パヴェーゼに夢中の友人がひとりいて、ゴールデン街で始めた酒場の名前も、彼の作品のなかの娘の名前にしていたほどだった。たしか、コンチア、だったと思う。そのお店ももうとっくにない。
戦後のイタリアを代表する作家だったのはたしかだけれど、大作家で有名で、というのではなかった。「青春文学」なんて切って捨てる人もいて、あまり丁寧な扱いは受けてなかった。ファシズムの時代で、自殺して、といったことが伝説をつくるより、煙たがられる方へ動いたのかもしれない。ぼくにとっては哀しみと焦燥感だけがくっきり浮き上がり、時代や地域がひどく限定的な印象が強かった。
そんなことをあれこれ思いだしていると、今度は、久生十蘭全集刊行の広告が新聞に載った。国書刊行会だ。思わず、ワーオ、と声がでる。そうして、うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん、と。うれしくなくはない、もちろん。でも買うかというと、たぶん買わないと思う(じっさい、すごく高い)。一時期は、何より好きな十蘭、だった。当時すでに出ていた三一書房の全集を買い、いくつかの小出版社、出帆社薔薇十字社とかからでていた単行本、「紀ノ上一族」とか「美国横断鉄道(?)」とかを集め、教養文庫になった作品集(5巻)をもとめ、予告だけで刊行されなかった戯曲集以外はかなり揃っていたのではないだろうか。もちろん「いろんな事情」から今は手元にはほとんど残ってない。ハワイの古本屋で見つけた「平賀源内捕物帖」や「だいこん」もない。
とにかく巧みで、物語の奔流に翻弄される恍惚と、でも底をずっと流れる諦念というかうっすらとした虚ろさに引きこまれたのだろう。乾いていて、おかしみもしっかり用意されていたけれど、全ては、基本的に悲劇、だったはずだ。チェーホフが自分の作品を喜劇と呼んだような意味で。
やはり巧緻な短編が好きだったけれど、長編のどうしようもなく全てが無駄に終わっていくような結末をよく覚えていたりもする。今はもう、きついというかつらすぎて読めないかもしれない。
橋本治の「桃尻娘」は久生の作品からとったタイトルだと知って(タイトルは思いだせないけれど、麻布のお屋敷が進駐軍に接収されて、広尾の雑ぱくな貸家に間借りしている時に、七輪をおこして・・・・という箇所からきていた)、複雑な気持ちになったりもしたけれど、でも、中井英夫以降、久生を語る人はいなかったから、うれしかったのはたしかだ(吉行淳之介が否定的な形で言及したことはある)。橋本は後に作品論も書いていて、そこには「奥の海」もあって、あの作品ををこんなふうに読む人もいるのかとびっくりさせられたりもした。ぼくも大好きな作品で、そのなかの、やさしさが人を傷つけることもある、そんな、単純な世の理すらわからなくなるほど世間から切れてしまっていた、といった箇所は、その理そのものへの感嘆と、そうなってしまうことへの哀切とがずっと残っていた。作品のなかでは、当然のように最後まで失敗は繰り返され、不運が重なり、あっけない、無意味な死で終わる。それはほとんど爽やかなほどで、だからとても、つらい。


菜園便り202
12月30日

 かろうじて大晦日前、ぎりぎりセーフの今年です。菜園便り201が10月だったから、もう2ヶ月以上になります。時が速い、というか、ぼくが遅いというか。
 たしかに玉乃井のこと(個展など)や父のことがあって慌ただしかったのは事実だけれど、でも分刻みで何かをしたり、締め切りに終われたりしていたわけでもない。借りてきたDVDを2度立て続けにみたりしてもいたから、そこそこの時間はあったし、机に向かってあれこれ、主には仕事をやる時間もそれなりにあったし、その流れで、いつものように誰かに向かって語るように書き始めればいいのだろうけれど。とにかく菜園のことだけでも最後に書いておかないと。後のことは、なんとかそれなりにでもできなくもないのではなかろうか、と、思う、希望的に。
 11月半ばに2月の寒さになり雪まで降って震えあがったけれど、また落ち着いて穏やかになり、日射しの強いあたたかな日が続きました。そうして柔らかな、まだ冷たくない雨が降った翌日、菜園にやっと空豆と絹ざや、グリンピースを蒔きました。十月からずっと気になっていたので、ひと安心しました。かなり遅すぎた気もするけれど(暖地でも11月末までにと、どの種の袋にも明記してある)、でもあたたかい日が続いたから、と期待しよう。他には蕪だけ。大根やラディッシュ、人参もほうれん草も今年は無し。少し前に苗で植えた、春菊、レタス、ネギ、パセリ、カツオ菜は順調(といっても2、3株だけだけれど)。
 空豆のかすかに青いあの得難い味だけでなく、春の藤色の花、初夏の収穫の喜びもなんとか味わいたいと願っています。蒔くのが遅かっただけでなく、種自体も花田種物店の一粒ずつ買ういいものでなかったから、発芽もよくて3分の2くらいかもしれない。芽が出てしまえば、強いし、この土地にあってるようだから、きっとどっさりと実をつけてくれるだろう。
 旅館の解体で離れと浴場がなくなり、1階の仏間廊下のガラス戸をとおして海が見渡せるようになった。ときどきふっと見入ってしまうくらい、ほんとに美しいと思う。解体はいろいろたいへんだったし、いまも修理は続いているけれど、こういう風景が生活のまにまに直に飛び込んでくるようになったことは、ただただうれしい。2年以上かかった屋根の緊急修理も終わった。しばらくはもう何もできないので、これで十年はもってもらわなくてはと、祈るような気持ちになります。
 雨も止んだ、さあ、出かけよう。
だれにも、あなたにも新しいあたたかな年を。


菜園便り203
2009年1月5日 

 去年最後にみた映画は(なんかいつもいつもこういうことばかりをいってる気がするけれど、でもまあ、そういうことが好きなんだからしょうがない)、大画面でみた、つまりシネマコンプレックスとかいうことだけれど、マーティン・スコセッシ監督の「ローリングストーンズShine the light(?)」。これは彼らのヒットソングのタイトルで、たしかビートルズの何かの曲名にひっかけてつくられたものだったと思う。久しぶりのスコセッシだし、ザ・バンドの解散コンサートを撮ったあの名作「ラストワルツ」を思いうかべて期待したけれど、正直あまりうまくいってなかった。スコセッシ本人が出てきて、そこは楽しかったけれど、なんというか、大会社のエグゼクティブ・プロデューサーみたいだった。悪印象はローリングストーンズの面々に度肝を抜かれたからかもしれない。60を超して異様に元気で、ちょっとすごい雰囲気だった。口では言えないけれど、ついゾンビということばが浮かんできてしまった。やばいやばい。
 そのひとつ前は、やはり大画面でのスティーブン・キング原作「1408」。大仰なこけおどしで驚かすタイプのもので、あまり心理的に怖いというのでなかったから、大半は忘れてしまった。「キャリー」とか「シャイニング」みたいにずっと語られるものにはならないだろう。「ペットセマタリー」のラストにちょっと似ていて、永遠に循環するともとれるところがあって、そこはやはり怖いというか惹きつけられるところだろうけれど、でもそれも深読みしての好意的すぎる解釈でしかないという気もする。
小さめのスクリーンでしみじみとみた映画は、なんだったろう?そもそも昨年、そういう映画があっただろうか?2月に図書館ホールのドキュメンタリー特集で佐藤真の「阿賀に生きる」をみて、2月にソラリアの再映でジャ・ジャンックーの「長江哀歌」をみたのがいちばんだった、というのは少し淋しい。どちらも去年の映画でも、去年封切られた映画でもなかった。
 今年はまだ映画館で1本もみていない。去年はたくさんDVDをもらったし、あまり家を空けられないので、年末年始にまとめてみ続けている。佐藤真ボックス(!)とか「小さなツグミがおりました」とか「トスカの接吻」、「草原の輝き」、「アメリカン・グラフィティ」、「中国の小さなお針子」などなど。
 この「中国の小さなお針子」は原作を読んでいたので気になってみたけれど、とにかく最近の中国辺境ものの定石通り極めつけに美しい、珍しい風景のなかで撮られている。たぶんフランス映画だと思うけれど、ちゃんと中国語だ。こういうのはあたりまえに思えるけれど、米国映画だと、平気で中国なまりの米語になっている、信じられないけれど。最後の部分が原作とちがっていて(たぶん。読んでから時間がたって正確には断言できないけれど)、舞台になった村が長江の山峡ダムに沈む設定になっていた。だから「長江哀歌」で繰りかえしみた風景も出てきたし、フランス香水の瓶や、印象深い思いでの場面が水の底に沈んだなかで二重写しになって終わった。過剰に美しくて感傷過多でちょっとやりきれない気もする。
 そんなふうにあれこれみていて、小津安二郎の「お茶漬けの味」もまたみた。佐分利信が弱気な夫を演じるちょっとコミカルな軽い映画だと思っていたし、こういう佐分利信はやめてほしい、なんていったりもしていたけれど、あらためてきちんとみて、というか、こういう年齢になってみて、やっぱりいろいろに考えさせられる。夫婦のすれ違いと諍いの後の明るい再出発、みたいなことではすまない映画になっている。画面がどこもがっちり構成されているから、軽みや滑稽感はなかなか浮き上がってこない。小津の笑いがしばしば上っ滑りしたりシニカルになるのはそういう理由もあるのだろう。小津が子供たちから引き出す笑いは天才的ですごいけれど。
 何度も、ひとりじっと座っている男や女たちが描かれる。映画内の明かりとして(街のネオンとか、部屋の明かりとか)照明が多様されていて、わざとらしいほど、光がある無いのメリハリがあり、池の水や窓ガラスの反映があったり、影のなかへ入っていく、明るさの方へ出てくるといった、象徴的とさえ思える画面も少なくない。
 この映画は1952年の制作で、「晩春」「麦秋」の後、53年の「東京物語」の前に撮られている。小津のあまりにも有名な不動の3部作の間に挟まってあまり顧みられることのない作品だけれど、不思議な甘い余韻も残していく。笠智衆三宅邦子も出ているけれど、鶴田浩二佐分利信の戦死した親友の弟として貧乏就職浪人(もしかして学生!?)ででていて、最初みたときは大げさにでなく驚倒してしまったけれど、でももちろん彼も初めからやくざの親分ではなかったのだ。

 

菜園便り204
1月26日

 今年は1月26日が旧正月だった。いつもよりずいぶんと早い気がする。そのせいもあったのか、すっかり忘れていたけれど、友人が「Chinese New Year's」に招待されたとメールをくれてわかった。慌てて昼食に雑煮をつくり、残っていた数の子干し柿するめでお祝いした。買い置きの大根、人参、鶏肉、それに冷凍してあった餅とカツオ菜、なんとかなるものだ。去年までは少なくとも黒豆をつくったりはしていたけれど、当日わかったんじゃできるわけもない。
 暦の上で、というときに、旧暦だとぴったりする。特に立春なんかは2月のはじめにいわれても、ぴんとこない。北海道と沖縄のちがいをもちだすまでもなく、関西や関東の基準とちがう所のほうが多いだろう。お向かいの庭にはもう梅が八分咲きになっている。手入れのいい枝振りもみごとな梅が、玄関を開けるたびに垣根越しにみえる。我が家の梅が咲かなくなってからでも、もう何年もたつ。
 12月にシルバーセンターに申し込んでいた、玄関周りの剪定もやっと先週すんだ。雨風のたびに一面に散っていた松の落ち葉も減った。寒くてもいろんなことは起こるし続く。菜園の小さな野菜もかじかみつつ生き延びて、ときおりの陽射しや雨を取り込んで少しずつ広がっている。木々の新芽も着実に伸び、椿ももうじきと思えるまでにつぼみもふくらんだ。梅が咲かなくなった今、蝋梅が低い背丈のままいくつも花をつけ、細工物のような花から、香りが立つ。
 珍しく雪まで積もったこの時期、寒さで萎縮するのは人も同じで、心も体もとんと動かなくなる。自分でも哀しくなるほどに何も頭に浮かんでこないし、回転してくれない。でも植物と同じようにもう春の、活動の準備は進んでいるようで、奇妙な情動の顫動がかすかに感じられる。木の芽時は今なんだと、また今年も思い至る。父の心身の動揺もそれと無縁ではないのだろう。トイレがまにあわないことや箸が自在に操れないこと、混濁しはじめ混乱している記憶や判断力に自分で苛立ち怒り、でも直視して認めることはがんとしてしようとしない。その意固地さもまた人の力なのだろうか。強さは弱さでしかないと、改めて思ってしまう。
 新年も迎えた、雪も消えた、さあまた出かけよう。
 


菜園便り205
3月13日

 庭の一角にカタバミが群生している。従来のに比べてかなり大きな黄色い花で、栽培種が野生化したものだろうとにらんでいる。美しいしつよい。どこに行っても群れていて、先日訪れた星野村でも群生していた。今や日本中を席巻したのだろう。我が家の庭も例外でなく、こうやって咲き乱れている。小ぶりの花が集まっているのは好きだからいいのだけれど、そこが菜園と重なっているとやっぱりまずいかなあと思ってしまう。それなりに元肥をおき、追肥もするから他よりは肥沃だろうし、掘り起こした土は軟らかくて空気も多く含んでいるだろう。とうぜん「雑草」にもいい環境だ。もうちょっと庭全体に広がっていればいいのだけれど、いかにもといった形で、つまり菜園の四角い形そのままに咲くのはやめてほしい、と思ったりもする。
 もちろんまめに抜いていけば問題ないのだけれど、ついついなおざりになってしまった結果を見せつけられるようだ。最後に草取りしたのは空豆を蒔いたときだから、去年の11月だ。ほんとにあっというまに冬が来て、もう終わろうとしている。カタバミも次世代を残すのにおおいそぎだったのだろう。しかたないか。
 そんななかに埋もれるようにしつつもでもしっかりと空豆とエンドウが芽を出して伸びている。ほんとにえらいなあと思う。親はなくても子は育つ、だ。もっと言えば親ぐらいあったって子は育つんだ、ともいえる。初夏のあの薄緑の美しさとほのかに青くさいおいしさがよみがえる。海岸のやせた土地て潮風も直接かかる悪条件のなか、空豆はいつもきっちりと育ってたくさんの豆を届けてくれる。あの臙脂や紫の花の色や形はいまいちだなあ、なんて思ってはいけない。
 あれだけ蒔いたのに時期が悪くてとうとう1本も収穫できなかったラディッシュや蕪を思いだそう。その反対に驚くほどうまくいったのがルッコラ。ちょうど寒くなる直前に芽が出たようで、しっかり茂って冬を越した。これが少し早すぎると冬前に大急ぎで花を咲かせて終わってしまうし、遅すぎると、寒くて芽を出すのを春まで待ってしまう。さすがに3月に入ると花茎を伸ばし花をつけ始めたけれど、まだまだ食べられるしおいしい。
空豆を夏豆と呼ぶと教わってから、もう4年はたつ。くっきりとしていてとても美しいことばだと、今も思う。


菜園便り206
3月28日
 「ハリーとトント」。ほんとに久しぶりだ。これで4度目だろうか。でもたいはんは忘れていた。たぶん2度は映画館でみたはずだ。最初に公開された時にみて、それからずいぶんとたって、友人に「ハリーとマウザーさんが似ている」と言われて、それでまたみたんじゃなかっただろうか。まだヴィデオは簡単に手に入らない頃で、どこかの名画座、たぶんパール座とか銀嶺ホールあたりでみた気がする。
 マウザーさんというのは当時いっしょに住んでいた人で、シカゴ生まれのドイツ系米国人で日本と米国の大学で教えていた。もちろん映画スターじゃないからハリーのようにはいかない。体重もずっと重いし、年齢も上だった。愛と好奇心に満ちていて率直で賢明、ではなく、思いこみが激しくて気むずかしいところもあった。でもちょっと離れたところから撮られた画面だとか、屈むシーンだとかははっとするほど似ていた。年をとると誰もが同じようなしぐさをするのだろうし、シルエットは重なってくるのだろうけれど。それになにより当時はまだ米国人的なおおらかさ、といったものが誰にも残っていた。
 もう少し暗くて辛辣な映画だった気がしていたけれど、あらためてみると、勁い明るい映画だった。年老いて頑固な父親、ハリーがニューヨークから猫といっしょに子供たちを訪ねながらカリフォルニアに向かい、そこに住むようになるというストーリー。もちろん途中でいろんなことがある。ニューヨークでは住んでいたアパートメントが強制立ち退きにあい反対して引っ越さない彼は警官に放り出される。いつも会っていた友人の死亡確認は滑稽で哀切だ。家族でなくてはだめだとか、細かいデータをチェックしようとする係官に「ただ友人を葬りたいだけなんだよ」と言うときは、つらくて涙がでる。映画のなかのハリーもさすがに壁にすがって泣く。身寄りのない友。過ぎていった時代。いつの間にか、あっという間に消えていく何もかもが。もちろんハリーは「いい人生だった」と断言する。そういう人だ。
 時代が時代だから-制作は74年-ヒッピーとかドラッグとか、コミューンとかいうことばがでてくる。そういったことばが今はどんなふうに響くのか、うまく想像もできない。教師だったハリーの、コミューンと聞いたときの最初の反応は、「ドラッグ、セックス、乱交」だった。この「乱交」はなじみのないことばだったから、聞き取れなかった。瞑想、自然、協力、なんてことばを思いうかべた人もいたかもしれない。コミューンということばは、もっと思想的というか政治的でもある、歴史的な重みを持った、自由と解放の究極の理想の形態と考えられた時もあった。それも遠い。
 マウザーさんももう10年以上前に亡くなった。第2の故郷だったデトロイトで死んで、火葬された。お骨の一部は運んできて、今もそばにある。アッシュと彼らは呼ぶけれど、そのとおりに粉にちかい灰色のかけらを蝋梅の根元に蒔いた。薔薇の根元に、と思っていたけれど、庭に薔薇はなかった。
 カリフォルニアでトントは死に、映画のなかのハリーは高校で時々教えつつ、たまに子供たちや孫に会ったりしながら、明るい街で暮らしている。自足を知りながらも時々どこか遠いところを眺めたりする。ハリーに痛みのないおだやかな死を、と思ったりする。

 

菜園便り207
4月26日

 いつもだと五月に入ってから、「ずっと気になっていたけれどやっと夏野菜の植えつけができた」というところだけれど、今年はあたたかかったせいか(というかすごく不順だった)、気持ちに余裕があったのか、早めに苗を買ってきてすませることができた。やっぱりいつものように近所の花田種物店から。
 植えつける場所も含めてかなりきっちりした予定をたてるのだけれど、毎年買いに行ったその場で、たくさんの種類の苗につい目移りしてしまい、あれこれかわってしまう。今年はほぼ予定どおりにすんだ。冷静さを保って迷わなくなった、というのでなく、考える力が失せているとでもいったほうがいいのだろう、簡単な計画をたててつくったメモを手に、機械的に選んでいった。最低限のことへの最小の意欲、そういった生活態度の毎日とでもいうしかない日々、ということか。
 胡瓜五本、トマト七本、ゴーヤ四本、ズッキーニ二本、別の場所用のピーマン三本、バジル二本、レタス一株。ついに今年から茄子は放棄。毎年数本買ってうまくいかないまま何度も場所もかえ挑戦してみたけれど、どうもこの土地にはあわないようだ。オクラはもっと早く二度の挑戦で挫折したし、南瓜や西瓜もうまくいかなかった。そういえばハヤトウリも三度ほどで終わった。
 菜園便りを読んでくれていた人が我が家に来た時、「えーーーーだまされていた!」と言ったことがあって、それはあまりの小ささに驚いたということで、メールで読んでいるといかにも広々とした、緑茂った菜園を思うらしい。たしかに父とやっていた頃はそうんなふうなかんじもあった、少し。植えすぎて、混みあいすぎて、でもそうだから収穫も多くてもてあますことも多かったけれど。でも庭の片隅の菜園、ということだからこんなもんだろう。わあー、とその大きさに驚く人もいる、たまに。たしかにベランダよりは広い・・・・・・というか、まあ・・・・。
 この時期は風が強いから、振りまわされて苗の茎が弱ったり倒れたりしないように囲いをつけるのがいいのだけれど、めんどくさくてなかなかできない。ちょっと半端じゃない風が二、三日も吹いたりすると、収穫時に露骨なほど結果が表れる。今年はすんなりとその作業にも入れて、呆気ないくらいすいすいできた。竹や覆いのビニールといった材料が少なくて全部はできないまま終わったら、途端に翌日から強い風が吹き始め、慌てて材料を調達してきて囲ったけれど、これでうまく育ってみごとに実ってほしい。
 時には困るほど次々とできるキヌザヤも採れはじめ、空豆もふくらんできている。ルッコラは終わったけれどまだレタスとパセリはひとりには多すぎるほど採れる。昨年植えた無花果や柿、ざぼんも成長は遅いけれど、しっかりと新しい芽が出、葉を広げている。もうちょっと肥料をあげたり、手をかけなくてはと思いつつ、日々は流れていく。
 この砂地で、瓦礫まで放り込まれている土地にこつこつと何年もかけて根を伸ばし、潮や強い風にあらがいながら葉を広げ枝を伸ばしていくのは並大抵のことではないだろう。そうやって少しでも大きくなった樹木の陰に、隠れるように守られるように小さな草木が伸び始める。人が植えたものより、どこからか飛んできた種から伸びる木が強いのはここに適応できているわけだから当然だろうけれど、それはつまり芽吹くことさえなかった数限りない種子や片鱗があるということでもある。
 まるで無理難題を押しつけられるように、強引に植えつけられた果樹はその瞬間からたわわな実りを、誇る花々を期待されている。理不尽だといっても聞き入れられないだろう。不熱心で不器用な手入れはかえって迷惑かもしれない。それでもめげずに木々は育ち、次はキンコウジ、枇杷、桃、そうして桜だといった人の思いも際限なく広がっていく。

 

菜園便り208
4月28日

 先日また忘れ物、というか落とし物をした。最近多い、困ったもんだ。記憶力などが劣ってきているのは当然だけれど、注意力も散漫になってきていてぼんやりしている。なくすのは、そういうことが起こるのを想像し予測する半分無意識の潜在的な注意力がないということでもあるのだろう。
 いくつかのことが重なるとたちまち小さなパニックを起こして、混乱してしまうという理由もある。父の入院や転院のさいに煩雑な手続きや多い荷物に焦って汗をかいて大わらわだったときのことを思いだす。どうしても気後れせざるをえない場所でもある。ずっと使っていて気に入りのマフラーがなくなり、大事な書類や印鑑が見つからなくなった。
 カードとか鍵を落としてしまうのに、財布を落としたことがないのはえらいといってくれる友人もいたけれど、実は財布は使ってないからで、お金を落としたことがない、とはいいきれない。そうしてこうやってまたカード入れを落とした。その時のジャケットはポケットが大きくて蓋もついてるわりに落ちやすく、何度か椅子の上や床に落として、気をつけなければとひとりごちしたこともあるのに、またやってしまった。
 博多駅紀伊国屋村上春樹橋本治をかなり長く立ち読みしていたのが祟ったのかもしれない、くわばらくわばら。改札口まで来てないのに気づき、でもすぐに真っ青になるというわけでもなく、なんかぼんやりしたままあれこれ考えるふうで、バスを降りた時に新しいバスカードを買ったから、その時はあったのだから、その後の紀伊国屋だろうといちおうししょうに足元など見ながら戻る。よく考えると、免許証、銀行カード3枚、バスや地下鉄のカード2枚、テレフォンカード、図書館カード3枚、デパートや電気店や本屋のカード、それに映画館のカード5枚(シネテリエのは満願で映画が1本みられる)もあるし、お守りと名刺も入っている、見つからないとあれこれ手続きが面倒だなあとわかってくる。透明な安物で古くなって端がめくれているようなカード入れにこんなにあれこれ入れているのはやっぱりまずいかなあと、思ってはいるんだけれど、簡便なのは軽いし、ひとまとめだと、それさえ持って出れば全てすむからついついそのままになる。ふだんの近所用と出かける時用とせめてふたつくらいにはわけてと考えないわけではないのだけれど。
 周りを見回しても財布や指輪をかけまわって必死に探している人なんていない。みんなスマートにすいすいと歩いて用事をこなしている、すごいというか不思議な気もしてしまう、こんな時は。昔は時おり人の輪ができて、そのなかで泣きそうになってはいずりながらコンタクトレンズを探している人があったものだけれど。
 紀伊国屋ではとりあえず立ち寄ったコーナーを一周し、やさしそうな店員に声をかけてきいてみた。問いあわせてくれた結果は「ない」ということで、でもさすがにプロというかきちんと会社の方針があるのか「後で出てきた場合に供え連絡先を書いて欲しい」ということで、書きこんで渡して、でもあまりがっくりというか焦る気持ちがまだ出てこなくて、エレベーターの方に歩いているとアナウンスがあって、別のカウンターで預かっているとのこと。先ほど担当してくれた人とそちらに行って受け取った。うれしいしきちんとお礼も言ったけれど、なんというかあまり、ワオ!すごい!!でてきた!!!というふうでもなかった。
 なににつけ感受が薄れていて、そのぶん矛盾するようだけれど、些細なことに涙ぐんだりする。これは感情が豊になり深まったからでなく、逆に浅くなって麻痺しているからだと思う。最近世の中で泣くことがえらく目だっているのは、そういう心の脆弱さの現れでもあるのかと、自分をみながら思ったりもする。

 

菜園便り二〇九
六月三〇日

 ほんとに久しぶりに石川不二子の名前を目にした。新聞のコラムで、迢空賞、前川佐美雄賞の受賞に関しての記事だったけれど、驚かされるような、かなりつらい内容でもあった。
 「睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗うなり」「未だ熟さぬ無花果を割った色感が脳裏にありて昨日けふ過ぐ」「暗青色の鉄かぶと並べる下の顔我は見ざりき憎むを怖れて」と歌った少女の今ということ。
 ぼくにとっては「君の薔薇甦り大き花つけしことをも告げずーーただ遙かなれ」であり「あはれ冷たき声するなかれかかるとき党員きみらをもっとも憎む」であり「恃めなくゆらるる夕べ父のごと背(ソビラ)をだきてくるるものほし」の人だった。
 一九七三年に出た三一書房の「短歌体系」で初めて知った歌人だけれど、彼女自身はすでに一九五八年に最初の歌集をまとめている。その出発から関わりのあった中井英夫の所で彼女の名前が出たことがあった。八〇年代半ばのことで、中上健次も石川不二子も好きだというぼくを異星人でも見るようにみながら、でもそう言う人がでてきたということだといって、酔いに任せて石川不二子に電話しようとして、それだけは止めてもらった。中井さんももう亡くなられて久しい。
 ぼくにとっては遠きにありて思う人だった。開拓とか農業ということばに、そして荒々しく酷いけれど感嘆や喜びにも満ちているだろう環境や、さらには自給自足といったことばもぼくのなかでは膨らんでいた。そういう人の存在をおぼろにであれ知ることで、大げさに言えば生きていける、そいうことを信じさせる人だった。
 その長く困難に満ちた開拓農業のなかで、彼女自身は七人の子を育て今も短歌を続けているけれど、短いコラムのなかに点在する「子供たちは誰も農業を継がなかった」「『生きているのがしんどい』と酒におぼれる夫は見るにしのびなかった」といったことばは痛々しくさえあった。彼女にして、やっぱりこんなにもつらいことがあり、世界は理不尽であり、生きていくことの難しさと不思議がつまっているのだろうか。もちろん彼女自身はそういうふうには語らない。子供のことも、過酷な労働も、夫のことも、そのままに受け止め、見つめる人である。
 受賞した歌集は「ゆきあひの空」と題されていて、そのなかの一首が載せられていた。「ゆきあひの空の白雲 のど太く鳴く鶯もいつか絶えたり」。

 

菜園便り二一〇
七月一一日

 菜園がうまくいかないと冬野菜の時から愚痴っていたのが聞こえて拗ねたのか、夏野菜も不調。春の豆類もよくなかったし、夏野菜は苗を植えた直後からダンゴムシの猛襲で、と思う、かなりやられて再度植えた後も順調には育ってくれず、六月のズッキーニはろくに葉ものばせないまま全滅し、胡瓜もかろうじて三本が育ったけれど茎も葉も何やら不吉な色と形で、今までに小さいのが二本採れただけだ。ゴーヤも二本だけは枯れなかったけれどやっと一個実をつけただけで先行きも怪しい。
 でもトマトは小ぶりのとミニトマトにしぼったこともあってか、ぐんぐんのびてしっかり実をつけてくれている。小さめのざるにどっさり採れる日もあって、うれしい。もちろん赤くなって採るからみずみずしくておいしい。皮はかたい。慣れない人は吐きだすかもしれない。実際父があちこちに吐きだした皮が干からびて貼りついているのは汚い。でもそのオレンジ色は、子供の頃のセロファンの色のようでなかなか美しい。
 レタスも終わったし、バジルも一気に葉をのばしたちまち花をつけて終わりつつある。結局一度も使わないままだった。モッツァレラチーズ+トマト+バジル以外には、パスタとかトマトソースぐらしか思いつかないからだろう。そのままサラダで食べる蛮勇はない。ルッコラはしっかり水をやって急いで芽を出してもらったけれど、雨が続いたせいか伸び悩んで、いくつかは黄色く枯れかかっている。八月二日の花火大会の菜園サラダに間にあわないかもしれない。
 ここまで書いたら雨が小降りになったのでいそいで買っておいたレタスを2株植えに走る。売れ残って店頭にしばらくあったようだから、すぐに伸びて花をつけてしまうかもしれないけれど、これもとにかく花火大会には役にたってほしい。パセリも終わりそうだけれど、ピーマンはまだまだ続くだろうし、どうにかサラダはできそうだ。
 遠い友人からレシピでの参加があった、「遠くに感じる花火大会」。炒めた茄子にニンニクしょうが胡麻醤油をたっぷりかけたのもでおいしそうだ。是非つくってみよう。先日新聞に載ったピータン豆腐も長芋やトマトなどあれこれ加えたものだったので、それも試してみよう、と気持ちだけは積極的になる。意外にバジルもあうかもしれない。さっぱりで栄養価の高いもの、そんな夏休みによく聞かされた「暑さに負けない食事」を思いだす。冷たいものはひかえて、飲み物は食事1時間前には止めるとか、そういったことも思いだす。とにかくご飯を(口から摂取する食事ということだろうけれど)食べないと元気になれない、と具合の悪いときにはいつも聞かされたから、無理しても(というのは吐き気をおさえてもといったようなかなり強引なことで、でもそうやって少しずつ食べることができるようになっていく、ちょっとずつ)きちんきちんと「三度食べる」ことは強迫観念みたいになっている。こういうのはダイエットにいいのか悪いのか・・・・・。

 

菜園便り二一一
七月二九日

 八日に退院してきた父は、移動は基本的に車椅子、食事は腎臓病食(糖尿病食も兼ねる)という状態で、退院後の審査で介護保険は要介護度4になった。週に四回デイサービスに通い、訪問看護が週一回。隔週で近所の病院に検診に行っている。
 介護についてたずねる人がよくする質問に、「トイレはご自分でされるんですか」というのがある。こういう問いはぼく自身も以前はまっ先に思いうかべていたし、しもの始末が自分でできるかどうかは決定的な分水嶺だとも思いこんでいた。でも実際にはそういったくっきりした区切りは当然のようにあるわけはなく、寝たきりといってもさまざまな形があるように、トイレができるできないにも千の階梯がある、おおげさにいえば。先ず、他の全てのこともそうだけれど「できる」時と「できない」時がある。父の場合「できる」といっても、そこまでは連れて行くなり、そのための準備なりを前もってしていないと「できる」のは難しいだろう。車椅子を押すなり、付き添うなりして連れて行き、トイレの便座を下ろし、座ってするように頼み・・・・といったこと、また夜間はポータブルトイレをベッド脇にだし、蓋を開け、やっぱり座ってするように頼み・・・・となって、そういった一連のことを手伝わないと「できない」ことになる。
 質問の後に「トイレが自分でできるなんてすごくいいじゃない、もっとたいへんな、こんな人あんな人がいる、よかったわね」というようなことばが往々にして返ってくる。最初は違和感を持ちつつも、たしかにそうだろうなくらいに思っていたけれど、回が重なるとだんだんいらだちが生まれ不快感がつのる。おそらくそこにある無意識の軽視=否定を感じるからだろう。たしかに「できる」父は「助かる」。毎回毎回永遠に続くそういった世話がある人のことを思うともうしわけない気になったりもする。でもそれはそういう介護をしている人や疲れ果てている人にたいしてだ。
 介護であれなんであれ当事者に該当してしまう人が持つたいへんさを、他のものを対置して無化し、そんなことはたいしたことじゃないんだよ、もっとたいへんなことが世界にはあるんだ、もっと苦しい人が世界に入るんだと突き放し、結果として目の前の困難や当事者の苦しみを軽侮し、そうやって、当事者でもなく、また何もしていない自分への自責や倫理的な後ろめたさみたいなものを吹き飛ばしてしまう無意識の心理操作、そんなものを相手に感じてしまうからだろう。「なにもしない」ことが悪いのではなく(じっさい誰もなにもできないのだから)、「ほんとはできるし、しなくてはならないけれど、今はしていない」、と屈折した傲慢さで思うその心理に自分で気づかない鈍感さが厭わしいのだろう、きっと。そうしてそれはいつも誰にも、ぼくにももちろんついてまわる自戒すべきことだ。
 ついでにいうと、介護申請の審査ほどうんざりさせられるものもそうそうないけれど、前後のことはまるっきり問いもなくて、「トイレの後自分で拭けますか?」だけでいろんな判断を下すようになっていたりする。「拭く」ことができても、ひとりでその段階までたどりつけない人も多いだろうし、段取りを自分でとれない人はもっと多いだろう。それにしてもこういった直截なというかえげつない問いには辟易させられる。もうちょっとちがう言い方はないのだろうか、そもそも介護の内実や詳細を知らない人が審査することができるのだろうか。
 わたしたちは、対象のことを想像力ではきちんとわかれないときには謙虚でいるしかない。差別や嫌悪のことを考えるとわかりやすいだろう。差別されることの痛みもなにもわからない、なにもできないということを大前提に、ただことばを失い、たいへんだったねえというささやかなねぎらいのことばを小さく呟くぐらいしかできないのだろうから。そもそも自分や、自分たちが日々、平然と差別していることさえ気づかない毎日なのだから。
 でも全ての人が、ことの「大小」は別にして、何らかの形で何かの当事者であり、そのことの困難を抱えているのだから、その自分の苦しみの場からはじめる想像力なら、おそらくかなり遠くまで、対象の当事者性の奥にある哀しみ、苦しみみたいなものの近くにまで届くのではないだろうか(具体的な問題や苦しみをわかるというのは欺瞞になるしかないが)。そこではその事象の社会的な大きさ軽重などは、そもそも時代的地域的でしかないし、些事になり、その複雑さつらさの絶対値とでもいったものを感じとることができるようになれるかもしれない。
 話がとんでしまったけれど、介護というのは、溢れる「愛」はないけれどなんとか困っている人を助けたいとか、いろんななりゆきからそうする立場になってしまったからやるというものだろう。愛があればそれはもう「介護」でなく、喜びさえある日常、美しい人生の一部となるにちがいない。そうなれないから、非日常としてあり続ける終わりのない繰り返しに思えてしまい、常に負担感や嫌悪感を抱えつつやっていてつらくなってしまうのだろう。
 じゃあぼくは「愛」ある日常か、苦行の非日常かというと、父と息子に<愛>はおよそなりたつわけがないじゃないかと、エディプスコンプレックスも持ち出しつつ、後者だと答えるしかないけれど、でもその幅も、まあそう悪くないさからどうしようもない辛酸苛酷まであるのだろうから、目の前のことがらひとつひとつにその場その場で対応していくしかない、あまり遠くを見ないで。

 

菜園便り二一二
八月一八日

 お盆も終わった。もうじき寒くなる、なんて愚痴は止めて、今のこの暑さや熱夜をうんざりしつつ享受しよう。
 今年のお盆の精進料理はもうしわけないほどの手抜きだった。あれこれ手間暇かけてつくったりすることはなくなっていたけれど、一三日と一五日の団子以外で多少とも時間をかけてつくったのはがめ煮ぐらい、というありさまだ。せめて練り胡麻を買っての胡麻豆腐や夏の定番だったトルティーヤ玉乃井ふうぐらいはと思っても身体が動かない。その前に、気持ちが動かない。まったくもって・・・・。
 たった三日間だし、いつも精進だけは続けていたのに、一五日に外ですませた昼食のスープにベーコンの切れっ端が入っていて、食べ始めてから気づいて後の祭りだった。トマトソースのパスタは、ニンニクが入っているとしてもまあいいとして、やっぱりベーコンは肉食になる。玉子までは「許す」精進としても、失格だろう。お盆の間くらい肉食を止め、穀物や実のなる野菜ですませたい。(こういうのは若いときには、偽善だとか、地域共同体の強制へのへつらいとか、俗物儀礼伝統主義だとか思っていたかもしれない。自分のなかにある、形や儀式的なものに強く惹きつけられる性向を過剰に疎んでのことはあるにしても、こういう過剰さが若さというのだろうか、なんというか・・・・・食べずにすませられるのならそれにこしたことはない。)必要以上のカロリーやタンパク質などの摂取が、人を何かに駆りたてていくのはたしかなことだろう。
 ヴェジタリアンということばはおそらく七〇年代の後半に知ったと思う、Tofuなんてことばと同じ頃だ。それまでは「菜食主義者」みたいな古典的で本のなかだけのことばだった。宮沢賢治にもそんな作品がある。ダイエットということばもその頃だ。「ドクターアトキンスズレボリューショナリーダイエットブック」というのを教えられて、その本の中に、太るためのダイエット、という項目があって、ダイエットということばがやせるためのあれこれ、という意味でないこともその時知った。
 米国のクックブックを手に取ったのはもう少し後になる。デトロイトかどこかのこじんまりしたパーティでとりとめのないおしゃべりを半分緊張しつつニコニコして聞いたり、雰囲気を壊さないためだけに相づちをうったりしていたときに、ゆで卵の作り方のレシピがあると聞かされ冗談だろうと言ってると、ほんとだった。そのしっかりしたハードカバーの本には、ゆで玉子のさらに前に、お湯の沸かし方があって驚いたことを思いだす。さすがにそれがその本でも最初のレシピで、「水のくみかた」「水の見つけ方」まではなかった。結局その同じ本を、分厚いペーパーバック版で買って自分でもあれこれするようになったけれど。
 小さいときはお盆が終わるともう海に入っていけないと言われていた。土用波が立つし、クラゲも出てくる、と。学校でもしつこく言われていたから、きまじめな生徒は九月の海のあたたかさを知らないままに終わった。温泉みたいなあの生ぬるさも悪くない、と思う。

 

菜園便り二一三
一一月一一日

 なにかと慌ただしい日々で落ち着きがないのだろうか、気がつくと菜園便りも三ヶ月のご無沙汰。一度、竹内敏晴が亡くなったときに書きかけて、でもきちんともう一度手元にあるものだけでも読んで、と思っているうちに時間はたってしまった。「ことばが劈(ヒラ)かれるとき」と「声が生まれる」に改めて感動しページを捲っているうちにまたまた時間がたってしまい、しかもそれもまた中途に終わってしまった。
 細切れになりがちな時間を映像、主にはDVDやヴィデオで埋めてしまうから、長いものや集中力のいるものに目が向かないのだろうか。本もやわらかいものがほとんどになっている。困ったことだ。昨日は友人の送ってくれた成瀬巳喜男監督、田中絹代「銀座化粧」やブックオフで見つけたクーブリックの「シャイニング」をみた。田中絹代やニコルソンはさすがにすごい。
 先日、北九州ビエンナーレの企画としてSOAPで「中国ドキュメンタリー映画の現在」が開催され(ゲスト・麻生晴一郎氏)、「自由城囚徒(自由都市の囚人)」、「女人五〇分鐘(女五〇分間)」それに「排骨(パイグー)」の三本が上映された。中国の政治犯セクシュアリティに関しての資料としても貴重なフィルムだ。いちばんみたかった、「排骨」は山形ドキュメンタリー映画祭でも上映されたもので、内陸の貧しい農村出身の青年(排骨)がシンセンで海賊版DVD販売をしている姿を撮ったもので、監督は劉高明(リュウガオミン)。このいちばん興味のあった「排骨」は帰宅時間に追われて一五分くらいしかみれなかった、とっても残念。
 それでも映画の最初に、彼が自分の仕事について語るときに映画のタイトルが次々に出てきて驚かされた。「芸術映画」には自分は興味がないし、みててもすぐ寝てしまうけれど、二〇年も三〇年も探していたという人に見つけてあげられた時はうれしいといいながら、ベルイマンの「第七の封印」、「クーリンチエ殺人事件」、今村昌平の「うなぎ」「楢山節考」、パラジャーノフや「ザクロの色」といった名前を次々に挙げていく。中国でベルイマン! 敵地台湾のもの!! 予想もしなかったパラジャーノフ!!! これならきっと敵国のタルコフスキーもでてくるのではと思わされた。「クーリンチエ・・」は画面には出てこなかったけれど、台湾のデイビット・ヤン監督の九一年の作品。それなら同じ台湾でもっと活躍している侯孝賢もきっとあるだろうし、その全部をみたい、集めたいというファンも必ずやいるだろう。
 正直言って中国でこういった映画がみられているとか、求められているとか考えたこともなかった。海賊版の横行は知っていたけれどそれは「ハリーポッター」なんかのことだとしか思っていなかった。でもジャ・ジャンクー監督が生まれる所だ、いろんな人が、当然にもゴダールに熱狂する人もいてあたりまえだ。「ああここにも、「共産圏」で、「発展途上」の地にも、映画フリークがいる!!」という驚きおかしみうれしさも起こってくる。それは朴訥で率直な、排骨という青年の人がらが引き起こすものでもあるのだろう。映画のタイトルや監督名、ときには俳優の名前を聞くことがどうしてこんなにもうれしい驚きやシンパシーを生むのだろう。長く会ってなかった幼な友だち、同じ郷里や学校の出身とわかった人、そんなことだろうか。ずっと長くつきあってはいけるかどうかはわからないがその場では心を込めて握手できる相手、ということかもしれない。
 後日、最後まで全部みた人に聞いたら、やっぱりタルコフスキーの名前は出てきて、でもソクーロフはでなくて、意外なソ連系の人の名前が出てきたらしい。小津や侯のことはわからなかった。「古典」としてビスコンティフェリーニの名前もきっとあがったろうし、DVDの棚にはジャームッシュとかタランティーノ、タケシなんかも並んでいるのだろう。性的なことに関してはかなり厳しい状況だろうから、蔡明亮なんかはひどい画像とんでもない値段で取引されているかもしれない。
 些細なことで一気に想像が広がり、共感が生まれ、なんだかもう友だちみたいに思えてくるし、今の中国にも関心が湧いてくる、そういうことにも単純というか不思議というか、自分でもおかしくなる。中国の映画、中国の監督でなく、中国という地にいる名も知れないおかしな映画ファンに、フリークに遠くから呼びかける、わかるよ、でもお前もバカだねえ・・・・・、目をつり上げて並んだDVDをすごい速さで捲っていく、店の人と声高に話しながら知識の全部を振りまき思いのありったけをぶちまけながら。それがけして高慢な知ったかぶりやペダンテズムに聞こえないのはやっぱりバランスを欠いてのめり込んでしまう人の思い入れの深さや滑稽さ、映画への愛ゆえだろうか。

 

菜園便り二一四
一一月二五日

 「三秒だけ待って下さい履けるのです飛んできて靴を履かせないで」田中喜久子(加古市)。
 これは朝日歌壇(新聞)に載った投稿歌。素直な詠だから本人の現実ととっていいのだろうし、それでこそ力を持つのだろう。介護される側の、あまりシビアにならないように、ユーモアのゆとりを持たし、愛されていることの確認もしつつ、でもやっぱり残る不満やいらだち、小さな怒りもあるかすかな絶叫、といったら大げさすぎるだろうか。それは言うまでもなく先ず自分への歯がゆさであり、それを自他共に認め受け入れなければならいことへの堂々巡りするしかない、終わりのない悔しさかもしれない。
 必死の力で自分でトイレまで行って、その前で失敗してしまって泣く老婦人を大声で怒鳴り続ける介護人・・・といった情景は今はもう表だってはないのだろうが、でも気持ちとしてまったく同じひんやりとしたものがあるのはまぎれもない事実だ。そういった「現実」そのもののリアルさを遠景に、誰もが微笑んで受け入れられる形にしての本心であり、ゆるやかな角度の屈曲。
 この短歌を月曜日の朝に読んだら頭にこびりついてしまったけれど、でも初めの五文字を「五秒待って・・・」と思いこんでいて、五秒というのはたしかに短くて長い時間だと、いろんなおりにカウントしてみたりもしていた。本人にとっては三秒、飛んでくる者からすると五秒、なのだろうか。(自分で何かやっているときと、外から見ているときの時間やたいへんさの落差の大きさは誰もが日常に経験していることだ。)実際の生活の場ではおそらく九秒くらいの攻防になるのだろう、なんて考えたりもしていた。着がえるときの着脱、特にボタンをかけるとき、ズボンを穿くとき、ベルトをしめるとき。靴を穿くときももちろんそうだけれど、屈むとか立ち上がるとかの時に、手伝う側は不必要なときにもついつい力づくで支えたり、引っ張り上げたりになる。それはおそらく介護される側に圧迫や痛みをわずかずつであれ残していくのだろう。見守る側が、飛んでいくほどに神経を張りつめ、先へ先へと気を配り、「愛」を溢れさせれば溢させるほど、どこかで齟齬も膨らんでいく。
 ーーーー「フツーの人」だってこぼしたり汚したり失敗したりするでしょう、あなたも、ね、するでしょう、それだけのことなのよ、大げさにすっ飛んできて拭いたり片づけたりしないで、ちょこちょこっとわたしが自分でやるわよ、隠しちゃうわよ、できる範囲で、今までだってそうやってきたんだから。
 紙パンツでもかまわないのよ、でもこれは「パンツ」なの(ほんとは「ショーツ」って言いたいけれど)、たまたま紙でできていて、形もごわごわして大きすぎてみっともないけれど、でも「パンツ」なの。紙パンツなんてわざわざ呼ばなくていいの、こっそり穿いて、こっそり始末すればいいだけのこと、ね、こっそりやって、静かに。靴下だって、歯ブラシだって、いい加減にすますこともあるでしょう、誰だって、そんなに引っ張られたら痛いし窮屈なの、いつもいつも丁寧に完璧になんてしなくていいの、仕事だと、人のことだと、「愛」していると、いっそう丁寧にしたくなるのかもしれないけれど、でも、ほどほどでしょうあなただって、いつもは。
 箸がうまく使えなくて、ぽろっと落としたり、妙な具合に握ったりもあるわよ、でもこれはわたしのだいじな食事の道具のひとつなの、スプーンなんかの金属を唇に当てるのは嫌なの。銅のジョッキが嫌だってダダをこねて、わざわざガラスに移し替えてビールをのむ男の我がままを、うっとうしく思いつつもどこかうれしそうにそそくさとやってあげるような、行きつけのスナックのママのような、そういうこともあるでしょ。ーーーー

 病院で看護士が上向いた口に、片手で放り込むように巧みに粉薬をのませるのをみて、家畜とか餌とかいうようなことばをつい思いうかべた人は少なくはないだろう。自分が、ああいうふうにあしらわれると思うと、やっぱり耐え難い。尊厳、なんていうほど人は立派な生きものじゃないし、まして自分なんかと思いつつも、でもごくしぜんに人をああいうふうに扱えてしまうことに、いつのまにか鈍磨して伸びきってしまう感受に対して、嫌悪がそして小さな怒りが生まれてしまうのも事実だ。そういう些細なことが、専門職への感謝を拒絶へとかえ、広がるはずの安心を伸びあがってくる不安が打ち消し、濁った諦めのようなどんよりした空気の底に沈み込むこませることになるのだろうか、病棟全体がそうであったように。
 人への、誰かへのささやかな思いやりは、意外にもそういう不安や怒りから育まれてくることもあるのかもしれない。そういうねじれた屈折のような始まりはどこかへ行き着けるのだろうか、新しい感受やつながりへと結実することはないだろうにしても。

 

菜園便り215
12月12日

 キネマ旬報が「映画史上のベストテン」を発表した(と新聞に出ていた)。邦画ということばが見出しに使われていたけれど、今もそういうことばはまだ有効なのだろうか。最近は制作と監督と出演者と公開の場(国や地域)とずいぶん錯綜しているから、そういうことも簡単にはいえないのだろう。
 とにかく、「日本映画」では「東京物語」が堂々の第1位。小津安二郎だ。うーーーーーーん、そうか、驚き、というか、あたりまえというか。40年前では考えられないことだった(その頃は小津の映画はこっそりみにいかなければならない感じだった)。第2位が黒澤明「7人の侍」。ひと昔前ならもちろんこっちがダントツの1位だろう。正義と民主主義とエンターテイメントの奇跡的な合体。
 外国映画は(さすがにもう洋画ということばはない)「ゴッドファーザー」。あのフランシス・コッポラだ。へえーーー!?とも思うし、そうかやっぱりとも思う(そういうふうになっているのだろうから)。これが「スターウォーズ」とか「E.T.」またはベルイマンゴダールならわかりやすい。
 こういう統計的というか投票型は、いつも平均化されて、表層的になるしかない。キネ旬という雑誌のありかたも示している、のだろうか。
 でもこういう<ベストワン!>みたいな記事はついじっくり読んでしまう。何かがすっきりとまとめられ、単純な形に切りそろえられ、優劣がはっきりすること、順位がつけられることをどこかで楽しみ、小さく納得させられてしまう。近代の大きな病理のひとつである「批評」とその媚薬である序列化の魔力だろう。
 ともあれ順位はこういうふうに続いている。「浮き雲」「幕末太陽伝」「仁義なき戦い」「二十四の瞳」「羅生門」「丹下佐膳余話 百万両の壺」「太陽を盗んだ男」「家族ゲーム」「野良犬」「台風クラブ」。えーーーーー!と叫んだ人もいるだろう。戦後から70年代までが中心だが、山中貞夫はしっかり入っている(でもふつうだと「人情紙風船」や「河内山宗俊」じゃないのだろうか?個人的には大河内伝次郎は好きだし、その主演映画が入ってくれてうれしいけれど)。重要な監督を羅列し、その上でその作品をひとつずつ並べていく、そういったかんじだけど、人ごとながら今村昌平をいれなくて石を投げられないのと心配したり、それよりなにより溝口が入ってないって、そりゃ好き嫌いとか、ちょっとした間違いですまされない、と思った人もいるだろう。
 「外国映画」にはタルコフスキーヴィスコンティもない、ベルトリッチはある、ベルイマンやエイジェンシュテインもない、アメリカ中心だけれどスピルバーグやルーカスは入ってこない、エル・スールがあってうれしいけれど、いったいどのくらいの人がみているだろうかと気になる、ある世代を席捲したアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」もない。
 映画ほどみる人それぞれが違った受け止め方をし、それを声にだして語れるメディアは他にない。開かれていていい加減でかつ真摯であり繊細で、ことばに映像に音楽にしっかり凭りかかりつつでもシラッと勝手な方へ突き抜けていく、そういう傲慢なまでの自由さをどこかに持っている。


菜園便り216

 

菜園便り二一七
二月一二日

 立春を過ぎて、さあ酷寒の日々だと気合いを入れていたらなんと五月の下旬のあたたかさになり、とまどうよりも嫌になってしまう。こういう急激な変化は、その前も後も心身によくない、なんてつい思ってしまう。
 耳に残る風の音と共に少しずつ寒さが深まり、そうして厚い曇りガラスの底のような冷たさのなかにじっと閉じこもっていると遠くに微かな光が射し始め瞬く間に広がって、まるで夜明けのように、気がつくと雪は消え河は溶け、わずかずつであれ地面のあたたかさが伝わってきて、あれっと思う日が来る。春は気がつくと、つまりそうあってほしいときにすでにそこにある、そんな季節の変化が、いいと思う。
 なんていってもしょうがない。あたたかさに引きずられるように菜種梅雨もやってきてしばらくはずっと雨。さみしかった菜園の野菜も一気に伸びるだろう。冬を越したルッコラ、パセリ、薹がたったレタス、伸びないままだったセロリ。年を越しながら芽を出した空豆グリーンピースも倍くらいになるかもしれない。ブロッコリーも時たま収穫していたけれど、一気に菜の花になってしまうかもしれない。それくらいあたたかくてたっぷりの雨だ。
 初めて植えてみたキャベツはこぶし大の玉をつくっている。うまくいったらキャベツ畑をつくって斎藤秀三郎さんにここでやりたい放題やってもらおうなんて思っていたけれど、そうそううまくはいかない。
 鉢植えの枇杷は順調に伸びて厚く緑濃い葉を広げている。遠くから見てもすぐにわかるあの独特の葉は、小さいときがいちばん美しいとわかる。無花果はみごとなほど葉を落としきっているけれど、気づかない新しい芽はすでに伸び始めているのだろう。柑橘系の病気っぽい黄色い葉も光のなかでは輝いてみえる。
 板塀を新しくするための基礎のブロック二段は中村さんのおかげでとうにできあがっているのに、寒くて手をつけられなかった本体の板塀にもそろそろ取りかからないと、荒れた庭が曝されたままだ(人目も怖い)。海側に面したひさしがひどい状態だったのを、やっと大工さんに頼んで直してもらった。光をとおすポリカーボネイトだから明るくなったし、その下をバルコニーにする予定だからちょっとしたパーティくらいならできるだろう。庭での集まりは最近すっかりご無沙汰なので、そこを使ってまた始めたい。テーブルや椅子も庭に運んで、食器も運んで準備して・・・・というのはもうできそうにないから、バルコニーなら日よけもでき、雨でもだいじょうぶだし、準備や片づけも楽だろう。しんどかったらそのまま置いたままにしておける。テーブルクロスに使っていた広い布をいそいで探さなければ。
 いったいどこにいったのだろう、解体後にみつからないものは少なくない。しまい込んだ場所がわからないものもあるだろうし、残す方へ移すのを忘れてなくなったものもある。妙なものが丁寧に残されていたりする。こういうのは引っ越しと同じだ。以前は荷物のなかから捨てたはずのアイロン台がでてきて驚いたけれど、今は役に立ってくれている。そんなものかもしれない。
 やっと今年の初映画もみることができた。「第9地区」。近未来映画で、スペースシップで、エイリアンで、戦闘で、ガンダムで、家族の愛で、友情で、あいもかわらずのグッド・ガイvsバッド・ガイで、でも違和感は小さい。たぶんエイリアンが恐竜っぽいこともあるのだろう。醜くて弱いと公然と語られるエイリアンだからかもしれない(映画のなかではプロン(海老)という蔑称になっていた)。社会的弱者のメタファーというよりそのままの姿にみえる。大企業(組織)と軍人は悪、というのが前提になっているが、これは最近の定番で、絶対悪の役割は今はそういったものに割り当てられているのだろう。マイケル・ムーアの「キャピタリズム」がそうだったように(マスメディアからも嘲笑されてムーアもちょっとかわいそうに思える、そこが自分を曝すねらい目だろうけれど)。
 今年も、なんて言い方もおかしいほどの二月も半ばだけれど、そういうふうに言えば、今年も菜園と映画とで心を高揚させつつ鎮めつつ、ここでまたいろんなことをしのぎつつ父との生活は続いていく。四月には美術展もある、母の一三回忌もある、同窓会もある。心あたたまることも、胸つぶれることもきっとあるだろう、そうやってまた世界はまわっていく、ぼくのささやかな人生も、また。

 

菜園便り二一八
二月二五日 春の庭

 春一番が吹いたとニュースが告げている。そうだろう、ほんとにあたたかかった。こうやって季節はいつもふいにかわる。心づもりをする余裕もあらばこそ、だ。でもとにかくうれしい。あたたかさはどうしてこうも人を喜ばせ甘やかな気持ちにさせるのだろう。体温が一度上がると免疫力が二〇〇%アップと叫ぶ人もいるらしい。そういう気もする。
 あたたかさに誘われ、庭の肥料を買いに出ると、ずらりと苗木が並んでいた。冬も終わりを迎え、売れ残った落ちこぼれたちがバーゲンにまわされたのだろうか。柑橘系が多い気がするのはそういうものをぼくが求めているからだろう。
 甘夏柑、柚子、それに山椒を買った。一昨年のザボンもうまく育たず、よれよれの黄色い葉をつけているけれど、ついついまた果樹を選んでしまう。食べられるものの魅力には抗しがたい。どこに植えよう、それも大いなる問題になる。桜を二本植える位置はもうとっくに決めているけれど、なかなか苗に巡りあわない。早くしないと生きているうちにベランダから桜を愛でる、なんてことができないままになってしまう。急がなくては。
 いただいた枇杷は順調に伸びている。柿は不調。土や日当たりや潮風や、植える場所によるのだろうか。一年はもって一度花をつけたツツジも完全に枯れてしまった。もらわれてきた楠と月桂樹はうまく育っている。父が一〇年ほど前に鉢植えで買った金柑は毎年わずかな実をつけていたのが、地に下ろしたら途端にうまくいかなくなった。困ったことだ。植物にさわる親指がグリーンでなく、もしかしたら金色なのかもしれない。さわる対象をかえれば、すごいものが生まれるかもしれない、例えば・・・・・。欲張って失敗するのはおとぎ話のなかだけでないのは身にしみてわかっている。さわるもの全てを金にかえた結果は、もちろん悲惨でしかない。雨が小粒の真珠なら、なんとなくパールカラーの終末かもしれないから、全ての水の分子が氷って凍てついた世界の終わりよりはちょっとだけいいのだろうか。空から異様なものが降ってくるのだけは願い下げにしたい、できれば。
 果樹に比べて野菜はやさしい。すなおに水を吸って、肥料をかじってすくすくと育ってくれる。買ってきた二種のレタスは一週間でもうすっかり菜園に馴染んでいる。隣のルッコラと比べても遜色ない。こぶし大の小さな実りをつけたキャベツはおいしかった。もったいなくて外側のかたい葉もしっかり料理した。筋っぽくなくて甘みが多い。全体にしわしわも多い。
 いつも野菜の話ばかりで、花の苗を買ってくることはないのかとのおしかりもある。でも花は食べられないからついつい選択肢から落ちていく。サラダにしてもなあ。20年も前から鉢のなかで咲き続けている花は今年もしっかり茎を伸ばしてきた。思いだしたときに油かすをやるぐらいで、鉢もかえないのに、健気なことだ。名前を調べなくてはと思ってからでも、もう一〇年がたった。
 ついこないだ、は五年前。ちょっと前だと一〇年前、しばらくたつなあ、は二〇年、そんな時間感覚。だから中学の同窓会の先生方への案内状もなにやら大時代的で感傷的になる。「教えを受けた我々も、六〇を目の前にするに至りました。あれから四五年です。まことに光陰矢のごとしとでもいうしかなく、しばし茫然としております。・・・・輝く朝日を浴びて学んだ我々も、今や後ろに長い影をひいて、行く末を見はるかす場所に立っております。云々・・・・」
 そうか、とっくに峠は過ぎていたんだな。そういう気づきかたは、なにもなしえなかった無念や残念であり、でももう峠はないんだという、登りのきつさは終わったんだという安堵でもある。まだまだ幾度も小さな起伏はあるのだろうけれど、でももう君の時は過ぎたんだよと静かに諭す声がする。頷いて小さく口ごもる、否定なのか肯定なのか。それは哀しみであり歓びでもある。ピークということばはなにかしらリアルに山頂や際だった稜線を思わせる。たどり着くのはたいへんだけれど、若い無謀さがいつのまにか人をそんな場所へと誘い込み追い立てたのだ。気がつくと足が竦むほどの絶壁をすでに過ぎて、なにかしらの安定や衰退に入っている、またはそこで倒れて横たわっている、絶命したのか、象徴的なしぐさを若さに任せて見せびらかしているのか、いずれにしろ、後から振り返ることの淫するほどの甘さをすでにして覚えているということは、すでにして下りにあり、ゲームの規則のある中心と呼ばれるものから遙かに遠いということだろう。
 甘夏柑、柚子、山椒、それにレタス2種。新しいなにかがこの地に一粒の種として蒔かれたのだろうか、塵から塵へと移ろっていくそのあっという間の流れのなかであっても。そんな大仰な思いも、見渡すと食べられる物ばかりという散文的な滑稽さのなかに吹き飛んでいく、おかしくてそしておいしい。


菜園便り二一九
四月五日

 子供の頃「三月は去る」というような言い方を聞かされていた。たしか「1月は行く」「2月は逃げる」だったと思う。学校生活を表してのことだったのだろう。
 今年の3月はまさに逃げ去ってあっという間もなかった。12月から放りっぱなしだった海側の板塀にやっと取りかかり、材料の買いだしや事前の塗料塗りを始め、また母の13回忌の準備であれこれ連絡を取ったり、お寺さんに頼んだりしていたら、父が早朝に廊下で転倒し、救急車での緊急入院になった。「定番」の大腿骨つけ根骨折だった。周りに連絡したり父の身の回りを届けて行ったり来たり、担当の先生に会って現状や手術の予定を聞いてと2、3日バタバタしていたら、今度は中村さんから虫の息の電話。駆けつけるとひどい痛みようで、また救急車。いくつかの要因が重なって、即入院。
 毎日病院をハシゴするような毎日で、でも17日から始まる津屋崎現代美術展のための10日の搬入に間にあわなくなるので塀の作業も続けないといけない。実は、遅くとも3月中に塀はできあがるからそこも展示に使えるよ、なんて安請け合いしていて・・・・・。
 そんななか30日に中村さんはひとまず退院になったけれど、ひとりで暮らせる状態でなく、玉乃井に来てもらうことになった。やっぱり病人の介護は今までとは違うものがあってすいすいとはいかない。ペイショント(patient)ということばがなんども頭のなかを過ぎる。米国ではこのことばをインペイショント(impatient)との組み合わせで頻繁に聞いた気がするけれど、それはやっぱり人生の要のことばでもあるからだろう。どの社会でも、いつの時代でも。
 そうやって3月は去ったけれど、山本さんの尽力で塀は完成。まだまだベランダ、台所の壁と屋根、ひどくなった8番の窓際の雨漏り、それに中村さんの引っ越し、その前に自室の引っ越しといろんなことは山積みになっているけれど、美術展に向けてすでに原田俊宏君の展示はほぼできあがったし、野村さんも何度もみえて展示の確認を終え、いよいよ10日に搬入だし、原田さんも4日間の予定がとってあり、諏訪さんの友人の松本さんからも展示に関してのメールが入って・・・・・・と着々と進んでいて心強いというか、万端整いつつある。町の企画のポスターも届き、17日には4時からの玉乃井でのオープニングパーティ、夜には煉瓦造りの塩倉庫でのコンサートもあり楽しみも尽きない。
 忘れていた菜園にもしっかり春は来て、空豆が5本ほど伸びているし、サヤエンドウは7、8本も育って花をつけている。ルッコラはそろそろ終わりで十字の白い花をつけ、レタス、パセリは健在、セロリも小さいながら時々摘める。
 とにもかくにも春はゆき(いつのまにか桜も散ってしまった)、季節は足早に移っていく。カタバミの黄色い花が一面に咲き、柔らかい新緑が木々を縁取っている。その上で光が乱反射してまぶしい。

 

菜園便り二二〇
四月二一日

 そうしていつのまにか桜も散ってしまった。季節は足早に移っていく。カタバミの黄色い花が一面に咲き、柔らかい新緑が木々を縁取っている。その上で光が乱反射してまぶしい。』と締めくくったけれど、それももうすでに遠いというか、季節は大きく移って、今は毎日キヌザヤがどっさり採れる。
 三月の「去る」をなぞると、じゃあ四月はどうなるのだろう。四月は「知らぬ」でもいいかもしれない。瞬時にあっという間もなく過ぎるから、気づきさえしない、と。それともエリオットをまねて「四月は死」と言ってみようとして、でもやっぱり気恥ずかしい。暴力的なまでの、爆発的な生の噴出、輝きの横溢を、光と影になぞらえて、強ければ強いほど、激しければ激しいほど、その裏の影も濃くなり深まるのだと語っても、どこか空々しかったりする。もっと単直に生を、その裏の死も含めて丸ごとつかみって抱きしめてしまえないものだろうかと思ったりする。
 植えたばかりの山椒もいっぱいの新芽をつけ、葉を広げ、食卓に筍と並んでいる。柚子と夏みかんもどうにか育っている。遅咲きの水仙も終わり、いよいよ、とジャーマンアイリスが出番を待っている。黄色いカタバミはまだまだ続いていて、そこかしこに黄色い群れをつくっている。
 玉乃井も大きく変わり始めた。気がつけば二〇年も住んでいだ部屋を出て、今は仏間に仮住まいの身になった。荒れ果てた向かいの家も美術展に使われて開かれ、借りたいという人も現れた。これからも何が起きるか、どうなるか、予測もできない。父が戻ってくれば、また大きくかわるだろう。以前のようにはいかないだろうけれど、よきこともあしきこともそんなこともみんな含みこんで大きな流れは続いていくのだろう。

 

菜園便り二二一
五月一四日

 いつもいつも同じことを言っているようだけれど、今回も「やっと野菜を植えることができた」になった。今年はことのほか忙しく、特に心理的に余裕をなくしていたので5月に入っても気ばかり焦って何もできないといった状態だった。それでも玉乃井での「津屋崎現代美術展」が無事に終了し、思いの外大勢の人が来てくれ、新聞のコラムや展評でも取りあげられたのはうれしかった。「ブログを見て来ました」という人も少なくなく、検索すると驚くような数がかえってきて、世界は変化し続けているんだなあと思わせられる。
 気持ちも少しは落ちつき、花田種物店でまだまだこれからですよといったように並んだ苗と買いに来る人を見て安心しながら苗を買った。トマト三株、胡瓜三本、ゴーヤもピーマンも、同じく三本。後でナフコで見かけて買ったズッキーニ二本と、少し前に産直で買ったセロリとバジルそれぞれ一本ずつを加えても今年はいつもよりずっと少なめになった。無事に育ってくれるとうれしい。
 四月後半から強風が吹き続けて落ち着かなかったけれどそれも終わった後だったようで、でも風よけの覆いはしっかり張り、支柱やネットの準備も早めに進めている。苗の段階で虫にやられて全滅してまた買い足すなんてことにならないのを願おう。
 収穫が続いていたキヌザヤは二、三日採らなかったら、みんなグリンピースのように膨らんで硬くなっていて、豆として食べるか、しっかり筋をとって軟らかく煮るか、といった状態になる。空豆も採れ始めた。今年は五本しか伸びなかったけれどそこそこに実をつけて喜ばしてくれる。取れたては柔らかくて皮ごと食べられる。若緑そのもの、初夏そのものが口のなかに広がり穏やかな甘みがゆっくりと浮き上がってくる、恍惚となるほど。
 季節は豆で溢れていて、友人が届けてくれたどっさりのグリンピースやサヤエンドウも残ったのは下茹でして冷凍したからいつでもまた楽しめる。ピースご飯も出汁で下茹でしたものをできあがったご飯にいれると色がいいし、においも強くなり過ぎず時間がたってもだいじょうぶだとやっていたけれど、「ためしてがってん」では生のピースをミキサーで砕いて炊きあがったご飯に混ぜて蒸す、という食べ方も紹介していた。是非試さなくては。
 入院中の父も来月初めには退院の予定だし、この柔らかい緑と吹き抜ける穏やかな風の季節を肌に直に感じながら静かに楽しみたい。

 

「玉乃井の2階から花火を遠目に見る会」のお知らせ
六月半ば

連絡が遅れましたが、今年は残念ながらみんなで集まって楽しむことはできなくなりました。
父が6月11日になくなりました。
「菜園便り」を読んでくれている人から時おり父についてのメールもいただいたりしてましたが、「重要な登場人物」でした。
いろいろ思うことは少なくないですが、せめてこういう機会にわずかでも父のことを伝えておきたいと思います。改まって書く気力はないので、御会葬御礼に書いたことを添えておきます。
短くはない一生を終えた父をみていて、とうぜんにも自分のことをあれこれ思わせられるわけですが、哀しみも含めて全てが透明でやけに重さがないように感じられます。
恒例の行事がないのはさみしいですね。秋にでも集まる機会を設けましょう。
梅雨もそろそろ明けそうです、暑くなりますご自愛を。

御会葬御礼
 亡父、安部信次の葬儀に際しましてお忙しいなかご会葬いただきましてありがとうございます。
 父は三月に骨折で入院、手術、その後はリハビリに励んでいましたが、退院予定直前に亡くなりました。九十一歳の誕生日が目の前でした。自宅への再々度の帰還が果たせなかったのは本人にとっても残念だったでしょうが、精一杯生き抜き充実した人生を全うしたと思います。
 大正八年六月二十二日、今の宗像市の東郷に生まれ、旧制宗像中学、小倉工廠などを経て津屋崎で蹄鉄士、釘工場、調理師、旅館経営をやりつつ四人の子を育てあげ、消防団長や区長も努めて地域にも貢献してきました。繰り返し聞かされた思いでの多くは旧制中学時代のことであり、それが父の最良の時期だったのかもしれません。
 宗像大社往復をする健脚で、旅行や「歩け歩け」、毎日の長い散歩を続けていましたが、晩年は腎臓の病などで入退院を繰り返し、ご近所、介護の方々など、皆様に助けられながらの自宅生活でした。改めてお礼申し上げます。
 サツキや椿を育て、庭の菜園での野菜作りも楽しんでいました。簡単な電気工事や大工仕事もお手の物で、身軽に屋根に上っての修理もこなしてくれていました。世代的にもいやなことの多かっただろう世の中を、しのぎしのぎくぐり抜けてきた智恵であったのかもしれません。八十歳の時に宗像地区で一等賞になった自慢の歯も、衰弱には勝てませんでしたが、最後まで残ったがっちりとした前歯で全てをかみ砕いていました。
 あっという間にも感じられる人の生ですが、そこに積み重なっているものは、その前で誰もがことばをなくし立ち竦んでしまうほどの深さを持っています。全ての生に込められたその人自身の、そしてその人への周りからの思いは、喜びも哀しみも超え、慈しみとしかいいようのないあたたかく勁いものを育んでいくと思わせられます。
 これからも誰もがまた長い時間をおくっていくわけですが、父のように、多くの市井の人のように、忍耐強くでも楽観的に生きていければと思います。
 再度のお礼と共に皆様方のご健勝をお祈りいたします。
                          二〇一〇年六月十五日


菜園便り二二二
八月一一日

 「入院中の父も来月初めには退院の予定だし、この柔らかい緑と吹き抜ける穏やかな風の季節を肌に直に感じながら静かに楽しみたい」と菜園便りに書いたのは五月半ばだったけれど、結局父は再度の帰還を果たせないまま集中治療室のベッドの上で亡くなった。
 そういったことも、今年の玉乃井での花火大会をやれないという通知と共に、会葬御礼などを添付する形でおおぜいの人に知らせた。ぼくの勝手な思いこみであれこれ送りつけるようで、しかも病気や死にまつわることで気も咎めたけれど、自分からは何も話さない父に代わって、最後にもう一度だけ父のことを伝えておきたかった。代理するというのは傲慢と効率主義の、近代の諸悪の一つ、それも根源的な大悪のひとつだと常々いっておきながら、今回はなんだか止むにやまれぬ、といった気持ちだった。死という大きなできごとにのまれて動揺し、パセティクになっていたこともあるけれど、そこにはおそらく自分のこともせめて最後にはわずかでも何かが残ってほしい、伝わってほしいというような未練な気持ちや感傷もあったのだろう。でも思いがけずいろんな方から心のこもった返信もいただいた、そういうことはとてもうれしい。
 父が亡くなった日の朝、偶然病室で兄姉四人が揃った。医師からの話もみんなで聞き、いっしょに昼食をとった。その後、ぼくはひとりで病室に戻った。思うことは少なくない、語れないことばかりだ、嘘をつきたくないが、ほんとうのこともいえない。
 葬儀やその後のあれこれの法事や儀式、事務手続きに忙殺されることで、たしかに衝撃は薄れ、痛みは和らげられるし、共同体の一員としてその掟に従ってこれからも生きていくことを否応なしに確認させられる。そういうことを経て人は新たな生活の形態をいつの間にかつくりあげていくのだろう。母の時のようにさっきまでいっしょにいた人が突然喪われるというようなことは滅多に起こらない極端なできごとだったんだとわかる。父も3ヶ月入院していたから、頻繁に見舞うとはいえ、いっしょに暮らしているときとはまるでちがうし、最後は医者からの宣告もあって、受けいれる気持ちも形づくられていたのだろう。
 下宿人の中村さんが入退院を繰り返されていて、その介護に追われることで父のことを生々しく感じなくてすんでいるということもある。中村さんも三月の父とほぼ同じ頃、やはり緊急入院になった後、一気に容態が悪くなり認知症もでて難しい状態が続いている。釣瓶落としのように人が心身共に弱っていくのを眼前にみさせられるのは誰にとってもつらいことだ。本人はとまどい怒り泣いて、そうして何もかも放棄した無感覚のなかへ半分入りかけている。肩をつかんで揺すってでも、なんとかして引き戻したい。
 強健だった身体から筋肉が失われ、背骨がわかるようになる。黄色く濁り始めた眼にはまだ世界は写っているのだろうか。どういう形で、どういう音でそれは存り、そこにぼくはいるのだろうか。入歯を外してげっそりとこけた頬、声もことばもあやふやになり、それさえ押しだしてくる力を失って届かないことが多い。問いが肯定でも否定疑問でも答はいつも「うん」だ。
 続いている猛暑で菜園はひどいありさまになっている。一本だけ育った胡瓜は早々と実って驚かされたが、それっきり蔓も満足に伸びずに潰えた。これも1本残ったゴーヤはかろうじて生き延びているといったようす。せっせと実をつけて喜ばせてくれた三本のトマトも暑さと寿命だろうか、ぱたりと収穫が止まった。ピーマンは一本も枯れずに育ち、次々になり続けている。葉が垂れてしょぼんとしても、水をたっぷりやると勢いを盛り返す。おそらく秋口までこうやって続いてくれるだろう、いつものように。
 菜園の周り一帯は雑草に覆い尽くされている。雨がないことなんか彼らにとってはどこ吹く風だ。あの頑強な向日葵でさえ下の方の葉を枯らしつつかろうじて花を開かせているのに、こういった強い草木はますます枝葉を広げている。相手の衰弱につけ込んで一気に陣地広げ、敵方も乗っ取ろうということなのだろう、なんというか、すごいというか。
 花も飾らなければ。

 

菜園便り223
2011年1月10日 雪

 諦めていた空豆が、次々と芽をふいて伸び始めた、すでに5株。発芽しそうにないなあ、だめかなあと思って買ってきた2本の苗も順調だから、初夏にはどっさり実ってくれだろう。菜園の端に植えた2株のレタスも酷寒のもとゆっくりと葉を広げている。植物はほんとにすごい。
 先日は台風以上の暴風雨で、「窓も吹き飛ぶほどの大風」に怯えていたら、ほんとに2階のはめ殺し窓が吹き落とされて割れてしまった。ぽっかりと開いた穴はそのままだから、風が吹きこみ時には雨や雪も降りこんでいる。でもなかなかすぐには修復できない。気持ちが萎えてしまって、体も動かない。
 冬の海は荒れていることが多いから、いつも濁って灰色。晴れていても、どんよりと鈍い光を受けてかすかに暗い緑をのぞかせるくらいで、白い波をたて続けている。打ち寄せる音もどろどろと響く。まるで世界の底が揺すられてでもいるようだ。満潮と重なると防波堤に打ちつけて飛沫を高くあげては道路に降りかかる。
 そんな日には砂浜を歩く人影はもちろんない。走り抜ける車と風をきる鴎だけだ。手前の道をフードをしっかり下ろして駆け抜けていくのは勤勉なジョッガーかダイエットを命じられた糖尿患者か。でもこんな日にも走ろうとする過激さは、過激故にすぐに潰えて、明後日にはもう炬燵のなかだろう。
 命よりだいじなものを守るために、が、いつのまにか数値としての健康を取り戻すために人は果敢に命さえも捨てようとする。奇怪な逆説であり転倒だけれど、それが今のわたくしたちを取りまく現実なのだろう。失って久しい穏やかな冷静さ、つまりあたりまえさ、平凡な常識といったものは、ついに再び人を護ることはないのだろうか、身体といった基礎部さえも。
 新年早々なにやら悲観的な話になってしまったけれど、そうやることで人は、世界は生き延びていっているのかもしれない、計り知れない巧妙な智恵の結晶。人口を半分に減らしても生き延びるといった選択は、映画のように殺しあったり籤で決めたりすることなく、まるでそれが摂理であるかのような形をとってスムーズに行われるのだろう。人は生きることそれ自体が目的化されることに倦んで、幸福とか欲望とかいうことばを使い始め、そうしてまた、類としての存在の維持を最優先させる方へと向かうのだろうか。
 外は雪、奇妙に明るい空から絶え間なく落ちてくる。シンとしたなかに静かに降り積もっていく。そうやってゆっくりと世界も終わり始める、か。


菜園便り224
1月16日

 寒さは続いている。12月は例年の倍以上の降雨量だったけれど、1月もそれは続いていて、雨や雪が多い。冷え込みも厳しくて、買い物に行く道にも氷が張っていた。田んぼの水が凍りつき、刈り取られたまま放置されていた稲株が氷にびっしりと覆われて、ひどく荒んでみえる。こんな光景は初めてみる気もする。とびとびのカリフラワーの植えられた田は、くろぐろした厚くて硬い葉をびっしりと広げている。
 北風も強いそんななかをカラスや鵯、ツグミは勢いよく飛びまわっている。人影はなく、遠くで山の端がかすかに色づいている。重い大根や白菜、シメジ、豆腐を抱えて戻りながら、だれがみたって今夜は鍋だと思うだろうなと呟いてみて、でも一昨日、山本さんが来たときにやったばかりだから今晩はちがいますよと、まるでだれかに返事するように思っている。じゃあ、夕飯はなんだろうと、人ごとのように問いかけてみたりもして。
 家に戻ると玄関脇に置いてある雨水をためる瓶にも厚い氷が張っているのに気づかされた。ゆっくりと引きだすと厚い氷の板で、低くなった光線が差し込んできて輝く。ずっと昔の、ベランダに置いた火鉢型の水槽から引きあげた氷を抱えていた写真を思いだす。もう写真もないし、記憶のなかの映像はきっとつごうよく改変されているのだろうけれど、着ていたフードつきのコートのことはよく覚えている。誕生祝いにもらったそれをどこで買ったか、そのときどんなふうに店員と話したか、そんなことも。
 そんなふうに想いでというか過去は奇妙な部分がくっきりと浮かびあがってくるのだけれど、写真やことばに一度定着されたものがより鮮やかに長く残っていくのはちょっとさみしい気もする。そうやって静止し限定的な映像として整理され単純になったもの、つまりいろんなものが、雑多なもの不必要なものとして削りとられた後の人為的に整合されたものが記憶として定着しやすいのだろう。語られ書かれてことばとして描写され説明されたものも、その単純化や虚構化によって対象の輪郭線がくっきりと記憶に残っていくのかもしれない。
 明快で澄んで聴こえるけれど、CDの音が細かな聞きとれない音も含めた雑多なものがつくり広げる世界をそぎ落とすことで成りたっていることに似ている。まったく改変され創りあげられた手前勝手なものだけが記憶として残るとまでは思わないし思いたくないけれど、でもおおかたはそうなのだろう。
 そうして写真の場合、それを撮った人、そこに、すぐそばにいてじっとみつめカメラを抱え、慈しむように対象を、全体をすくい上げた人のことはきれいに消去されている。だれがだれのためにどんな思いで撮ったのかかすんでしまう。
 円形の厚い氷を得意げにかざし、朝の光を受け笑っている遠い遠いかつてのぼくを、レンズの向こうからにこにこしてみていただろう人のことはもう遙かすぎて思いだせない。


菜園便り225
1月31日

 珍しく雪が降りしきった翌日は晴天。庭のそこかしこに残った雪も消えた。それでも底冷えのする冷たい空気のなかを歩いていくと、風景がくっきりと感じられる。とくに遠い山や丘が異様なほどその輪郭を浮きあがらせている。なんだか特別なレンズをとおしたようで、雨上がりのように鮮やかでみずみずしい。春を思わせる空の青さと、そこからの透明でまっすぐな光の力だろうか。円盤形のふわりとした雲が重なって続いている空。
 冬至を過ぎ、立春も近づいた今、光はもう新しい季節のなかにある。かっきりとした陽光が隅々まで届き、道ばたの小さな草の葉すら際だたせている。けれども夕方にはたちまち厚く暗い雲に遮られ、海の色もあっという間に陰りの下、鈍く冷たい色へとかわる。
 古い食べられなくなった米を庭に蒔いていることもあって鳥がにぎやかだ。でも思ったほどたくさんは来ない。隣の猫が時折やってくるから警戒しているのだろうし、鳥なりの縄張りもあるのかもしれない。雀、鵯、キジバト、それにセキレイくらいでごくたまにジョウビタキが一瞬姿を見せ、目白が木の枝に現れたりする。春の鳥はまだということだろうか。
 雀は鳴き声もかわいいし、小さな体を寒風の下で大きく膨らませころころと太ってみえる姿は愛くるしい。ときおりひどく細いやせこけたのが混じっていて、思わず声をかけたくなる。おい、少しは容姿も考えろ、無理してでももうちょっと食べて羽に艶と力をつけて、時には膨らませ広げて愛嬌を振りまくことも大切だぞ、とかなんとか。まるで自分に言っているようだ。でも弱い痩せた雛が餌をもらい損ねてますます痩せてさらに弱って潰えてしまうのも掟のひとつなのだろう。それを憎んで人は<文化>をつくりあげたのだったか。
 隣家の猫はみごとな白黒の毛なみで顔もかわいく、プイと顔を背ける高慢な仕草も猫好きの眼にはたまらないらしいけれど、やっぱり家猫の性か、食べ過ぎで太りかけていて、危うい。それでもその体で地面を音をたてずに這って鳥を狙ったりしている。幸い野生の鳥は敏捷だし警戒も怠らないからそんな手にかかったりはしない。
 一度暴れる鳩を足で押さえつけ、羽に歯をかけているのをみたときは驚かされた。ぐったりしてもうこときれたかと思わせられた直後に必死の抵抗、片方の羽で猫の顔面を撃ち、一瞬の隙をついて飛びたった。跳ねて手を振り上げてももうおそい。かくべつ悔しそうにでもなく去っていく後ろ姿が、生活のためでも生きるぎりぎりでもなく、ただ手慰みにもてあそんだとでも言うふうでそら恐ろしくなる。そういったことは互いの了解のなかの、<自然>の摂理なのだろうけれど、襲うものと奪われるものとのそのあまりの落差は理不尽にみえる。
 食住満たされ愛される容姿も持つものが、まるでジムでの運動のように、必死で生き抜くためにわずかの餌をつつく貧しく痩せたものを気まぐれに襲う。時には命を奪われ、それすら誰かの食や生を満たすわけでもなく散らばった羽の残骸のなかに放置されてしまう。または家人の恐怖や嫌悪の声に怒られてすごすごと手入れの行き届いた庭にぽいと吐き捨てられて、また悲鳴と怒鳴り声をあげさせるだけでしかない骸になりはてる、ああつらい。

菜園便り226
2月2日

 例年より平均気温がずっと低い、つまりとても寒かった1月が終わったとたん、あたたかさが戻ってきた。玄関脇の水瓶の氷が消え、道ばたの草花がいっせいに頭を上げる。くすんだ空の下の縮こまった眼には見えなかっただけかもしれない。おおいぬのふぐりが仏の座がシロツメクサがしっかり開いている、それもそこかしこに。黄色い花も混じる。タンポポでもおかしくないけれど、そうではなくて茎を伸ばし四方に広がっている。かすかにえんじ色が茎の一部に線状にある、なんだろう。
 収穫が終わったのか、くろぐろとしたカリフラワーが取り払われ鋤が入っている。もちろん小型トラクターでの耕作だ。牛馬や人が力を込めて踏ん張っているようなことはない。でも先日見た山間の段々畑なんかは、やっぱり人の力と技でやるのだろう。その時もずいぶんたいへんだなあと、思わず手を握ってしまったりするほど身体的にも感じたけれど。人が後ろから押していく耕耘機(黒沢の「天国と地獄」で三船敏郎が練習していたようなタイプ)も昔はあったから、ああいったのが改良された形であるのだろうか。いずれにしろ田植えも小型の手押し機械でやったとしても、隅々の変形部分は手で植えていかなければならない。なんであれあの高さまで持っていくのが先ず大仕事だ。たいへんだろうなあとまた思って思わず溜息もつきそうになるけれど、でもどこかに自分がやらなくてすむ今に安堵している。そうしてこんなんじゃ自給自足なんて夢のまた夢、ついにしらじらしいことばだけで終わるんだろうとあらためて思い知らされる。
 昨日誕生日がやってきた。こんなふうにほっと感じるのは40歳になったとき以来だ。きてほしくないような、でもなんか安堵するような、妙なそわそわする気分。先日の出版記念の会は誕生日の祝いも重なって、赤い苺の大きなケーキもあった。それはつまり60の還暦の祝いということで、赤いちゃんちゃんこの代わりの、赤いハートの入ったTシャツももらった。その場でセーターの上から着たけれど、Mサイズのそれがそれなりにおさまってしまい、あいかわらずのやせこけた体だと知れ渡ってしまった。「着やせするタイプです」なんてことばがもうねじれた冗談にもならなくなった。
 最近、率直な人たちが言っていることだけれど、老いることは、老成したり衰頽したりして「老人」になるだけのことでなく、幼児期の自分も少年期、青年期の自分も、そうして壮年、老年の今の自分も全部、無意識の部分も含めて全部が混在して現在ここにあるということらしい。身体にしても一律にガタがくるわけでもなく、さらに高まる機能や部位もあるようだ、その扱いに習熟するということも含めて。30代の頃には漠然とだけれど、年をとることは恍惚化し、痴呆化し、身体的にはよぼよぼになることだと、不安や嫌悪と共に思ったりもしていたわけだけれど、そういうことでもないのだとわかる。あれこれ読んだり聴いたりしてきたけれどやっぱりその時になるまで気づけないまま今にいたり、ああそうかと思いいたる。そういう理解を諦念といえばいえるのだろうか。年齢に追いついていかないというか、そのあまりのギャップに唖然と惚けたようになったりもしていたし、それは今最も大きく開いている気もするけれど、それがふつうであたりまえなのだというようなこともやっとわかる。
 社会も人もいろんな要素や部分からなりたっているから、そういうことはとうぜんなんだけれど、それよりもう少し広がりのある深さももった意味あいとして、幼年から老年までの具体性と深い根を持ったリアルな部分から、ぼくという個もそして人もつくられている、そういうことだろう。
 それぞれの生の現場で人はあれこれ悩み、喜び生きていくわけだけれど、そのひとつひとつが、それぞれの瞬間瞬間が、身体に心にきちんと全部残っているのだろう。自身で気づかなくても、すっかり喪われてしまったように思えても、それはちゃんとある。不意に思いもかけないときに遠くから伝令が着く、自分自身からの時を超えた伝言。そうか50年前のあの時のことはそういうことだったのかと、愕然としつつでもうれしくなる。死んでしまう前に全てが消え失せる前にやっとわかった、そのことは大いなる救いでもあり、そうして再びの懊悩でもある。

菜園便り227
2月6日  笠智衆の林檎<再>

 最近の「続・文さんの映画をみた日」(註:行橋のギャラリーYANYAからだしている小誌「YANYA’」に連載中)は映画のことなんかこれっぽっちもでてこないじゃないか、前回の「笠智衆の林檎」なんていったい何のことだ、という糾弾の声も聞こえる。そうだなあと自分でも思う。でも、いいわけではないけれど、あれくらい「笠智衆の林檎」のことをうまく語れたのは初めてだとも思う。
 いつもは、小津のさあ、あの「晩春」でさあ、笠智衆三宅邦子と再婚するとかなんとかいう嘘までついて原節子を嫁にやろうとして、結局そうなって、そうして結婚式から帰ってきて、もちろん原節子がいないからガランとした暗くさみしい家で、古い日本家屋だから真っ暗な隅々があって、誰もいなくて声もしなくて、だからどうしていいかわからずに笠智衆は礼服の上着を脱いだだけで着がえもしないまま、着がえさせてくれて後かたづけしてくれる人もいないこともあるんだろうけれど、どうしても落ち着かなくてわけもなく林檎を持ってきて、椅子に座って剥こうとするんだけれど、とうぜんにもそんなものはほしくもないことに気づいて、自分が何やってるかもわからなくなって、愕然として、いっそうさみしさはつのってついにがっくりと肩を落としてさめざめと泣き始める、あれだよ、あれ、と言ったりするのだけれど、でもそういう映画内のできごとの説明をしてみても、笠智衆の悲しみや孤絶感は、了解済みのことばでしか語れないし、それは了解済みのある概念を再度ことばにして単純化し納得する、させるだけのものでしかない。
 笠智衆はなにかのインタビューで、「ある映画評で「最後にがくっと眠りこける主人公」と書かれて、激怒しました」と言っていたけれど、そうだろうなあ、そういうふうにとってしまう鈍感な人もきっといると思う、ひどい奴だ、小津に失礼だ、とも思うし、あの映画の文脈ではありえないことだろう。でもそれはそんなに的はずれでひどい侮辱ではなく、原節子との長かった心理戦争の疲れやその日の式そのものの疲れから、また現実を見たくないという逃避から、眠りへと逃げ込んだという解釈もありうるだろうし、それがひどく下世話で滑稽だということはないはずだ。きっとその評自体に悪意があってひどい揚げ足取りだったから、彼は怒ったのだろう。
 つまり、ぼくが言いたいのは、見終わってすぐに誰かと、電話ででもいいから話したくなるような、それはその映画のことでなくてもいいんだけれど、そういう高揚感が生まれ、机に向かってなにか書き始めたくなるような映画を最近みてなかったし、古い映画をしみじみとみる気力はなく、でも生活や何やらはそこそここなして、あれこれ動き回っていても、やっぱり今のこのがらんどうでメランコリックな憂愁は隠しようもなく、だからそういう気持ちが笠智衆の林檎を呼び寄せるのだろうし、それを解説でなく、そこで描かれようとしただろうものこそを語ってみようと試みていたのです。
 と、書いてきて、そうだろうかとまた問い返すのは、「感傷だ、自己憐憫だ」といった外からの悪罵すら省みずに、ぼくはつらいんだ、涙がでるんだと叫んでいることのリアルが、説得力を持って語れていたのか、そもそもそのリアルがほんとうなのかというやっかいな心理の袋小路に、弱った心が半分迷い込んでいるからでもある。ああまた泣きたくなる。


続・文さんの映画をみた日⑧
ハーブ&ドロシー

 ニューヨークで美術作品を収集している夫婦を撮ったドキュメンタリー。とにかくこのふたりが独特で魅力的で好きにならずにはいられない。特別変わっているとか極端な生活をしているとかいうことでないから、つまりふつうの生活人だから、というのがいちばん大きい理由かもしれない。夫、ハーバートは20年以上前にリタイアしたこの映画の時点で86才のもと郵便局員、学校が大嫌いだったようで、自分で決めたことだけやっていくといった頑固さの片鱗を今も残している。彼をハービーと呼ぶ妻ドロシーは彼より一回りほど若くブルックリン図書館の司書を定年退職している。彼女は1950年代にすでに大学院まで行ってきちんと勉強した人で、そんな雰囲気を今も残している。そういうふつうの人が、とっつきにくそうなミニマルアートとかコンセプチュアルアートとかいった当時バリバリの現代美術を積極的に集めてきたことにも驚かされる。時代のなかの自分たちの世代的な感覚に忠実に、そのもっとも鋭い部分に関わり続け収集し続けてきたのだろう。それは自分自身を、世代を、時代を見続けることでもあったはずだ。米国民やニューヨーク市民にとって、そういった抽象的でアバンギャルドな表現が、生活や感受性とどこかで地続きになっていて素直に受け止められ、快感をもたらすものとして身体的にも受け止められるものでもあったからだろう。
 収集した作家としてソル・ルイット、ドナルド・ジャッド、チャック・クロース、クリスト、リチャード・タトルといった名前が次々に出てくる。彼らへのインタビューも挿まれている。まだ彼らが若く無名である頃に、ハーバートとドロシーは関心を持ちアトリエに行き作品を見て(ふたりはいつも全部見せてもらいたがったようで、それくらい興味があって、そういうことにはどう猛なほど積極的だ)、お金のことも細かに直接交渉する。次々にほしくなり買うから、分割や後払いになり、その額も貯まっていく。美術作家たちが次第に有名になると、スポンサーとしてつく画廊が全部をとり仕切ろうとするからとうぜんもめはじめる。それでも特別な関係を築いてつきあい続け、買い続ける。どこかに世間の常識を無視する楽天的な鈍感さも備えてもいるんだろう。一部の米国人特有のアグレッシブネスだけではない、と思う。でもどうしてこうも登場してくる人々がいわゆる「白人」ばかりなのだろう。ファインアートのなかのさらに「ハイエンド」ということだろうか。
 奥さんの給料で暮らし、旦那の金は全部収集にまわす。彼ら自身もかつては描いていたから、見ることにも真剣で、大小にかかわらずいい作品や意味のある作品を集めていく。つまりその作品自体の完成度もあるけれど、その作家の流れのなかで重要なもの、ノートやプロトタイプ、例えばチャック・クロースの、グリッドの描きこまれているマスキングテープが貼られたままの下書写真なども集めている。それは当時制作中の彼のアトリエの床に落ちていたものにサインしてもらって買ったらしい。そうやって手に入れたものをマンハッタンの一間のアパートメントに飾り、しまい込む。信じられない数の、量の作品が壁を覆い、箱詰めにされて積み重ねられ、ベッドの下に、あらゆる隙間に押し込まれている。
 集め、積み重なった4千点を超す厖大な作品をナショナルギャラリーに寄贈してほっとしつつ、寄贈者として自分たちの名前が彫られた美術館の壁を誇らしく眺めながら寄り添うふたりの後ろ姿、クリストの作品を並んで見る姿で映画は終わる。監督はニューヨーク在住の日本人女性。監督が女性だとか日本人だとかほとんど感じなかったのは、撮影が別人で「プロ」だったからだろうか。テレビ的に整理して説明し、対象との距離をとり整然としているから、はみ出したり接近しすぎたりの映像も、切迫感や激しさもない。どこかしら彼らが収集したミニマルアートのようにクールでもあり、安心してみられるような、もの足りないような。でもとにかくあたたかさはしっかり伝わってくる。ふたりがそういう人だからだろう。高齢で、まだまだ好奇心に溢れ情熱的だけれど、対象に対しての冷静さや穏やかさも生まれている。脂ぎった荒々しさみたいなものが小さくなるのだろう。彼らの、作品や作家への愛より、飼っている猫や亀や熱帯魚、それに人やできごとへの尽きない興味がより大きいのが見えてくる。ハーバートの老いて子供じみてみえる体型や言動もそれを倍加する。
 ぼくがみたのは平日の午後だったけれど30人を超す人がみに来ていて驚かされた。ふだんはドキュメンタリーなんかだと、水曜日(レディースデイ)でもないとぱらぱらとさみしいほどしか人影はないのに。美術や収集という内容としてでなく、優しい人たちの物語、夫婦の愛情の映画として見られているようだ。
 映画のなかの美術家や評論家のなかには彼らを美術界の「マスコット」とよぶ人もいて、たしかにそういう面もあるのだろう(そうやって、彼らを美術家、評論家、画廊主、ジャーナリストとはちがう範疇に押し込めて、自分たちをより価値あるもの、高みに置くための底上げの意図もあるかもしれない、無意識にであれ)。一方には、ことばを使わないつまり論理化したり解説したりしないふたりのアートへの無償の愛を、とても大切に思い感嘆する作家もいる。ハーバートたちの美術作品や作家への愛、美術家たちのふたりへの関心の両方が、ペットへの愛(どちらか一方が全面的に心配りしてあげないといけない関係とでもいうか)といったものに似ているのにも気づかされる。たしかに両者とも、とくに美術家たちは独善も無垢も含めてどこか子供じみてもいる。 
 米国では高齢者つまり老人は、シニアシチズンなどとたいそうな呼び方をされつつも実際はみごとなほど排斥され関心の対象から外されるけれど(だからいっそう高齢の政治家や力を持ったものの意固地さがはびこるのだろうけれど)、おそらく他の文化圏ではハーバートとドロシーを尊敬もし、「かわいい」とも感じ、そのあり方や表情やさらにはしぐさをも愛でるのだろう。


菜園便り229
2月16日 晴天

 時には雪も降ったりする日々だけれど、気温が零下になることもほとんどなく、野には春の花がじわじわと広がっていく。いちばんめだつのはやっぱりオオイヌノフグリ。名前からしてずいぶん特異だけれど、こんなふうに大がつくのは、大がつかないのもあるのだろうか。オオムラサキツツジというのがあって、あれにはたしかコムラサキもあったはずだ、どういう関係だったのかは知らないけれど。
 オオイヌノフグリがめだつのは緑や花の少ない季節だからだけど、鮮やかな色とくっきりとした形、なによりあの小さくて群れて咲く姿の愛らしさに誰もがつい目をやってしまう。青い花、といえるけれど、カップ状に開いた花の濃い空色が中心へとグラデーションで薄まっていく、細く濃い筋が先端から内へとすっと伸びている。どことなく頭が大きすぎる幼児の体型を思わせる形だからいっそうかわいいと、好かれるのだろうか。
 春の野の花、といったような本を開いてみると、タチイヌノフグリというのもでてくる。どちらも明治期の外来種で、在来種のイヌノフグリを追いやっていったようだ。ふーーん、そうかと、いろいろのことを思わされる。そうしてその在来種にしても、もっとずっと前にどこかからやってきて、その当時の在来のなにかを駆逐して広がったのだろう。
 鳥たちの移動の季節も始まったようで、あちこちで群れをなしてバタバタしている。鵯も群れて鳴きたてている。彼らも、もともとは山と里の間を渡る漂鳥だ。今では都市部では年中いるようになったけれど、律儀に移動をくり返す群れもある。生き延びていくために、だろうか。津軽海峡の荒波悪天候のなかを本州へと渡っていく鵯はテレビの番組でみたこともある。北海道から長野まで、ずいぶんな距離だ。もしかしたらこのあたりの鵯も、その辺の山でなく一気に関門海峡を越えて、または、もしかしたら、玄界灘を超えて彼の地まで飛ぶのかもしれない。そんなことを思うとぼくもなんだかパセティクな気持ちになって手を握りしめ、立ちあがったりする(まるで唐十郎の紅テント芝居のエンディングだ)。
 途中、鷹に襲われたり、カラスとの群闘があったりもするだろう。おおかたは弱いものから順に死んでいくのだろうけれど、こればかりは運も大きいだろう、きっと。群れをなす意味のひとつもそこにあるのだろうし、いくつかの個体の「犠牲」の上に群れの、種の保存と永続が約束される。誰もが本能として冷静に闘って必死に逃げて、ヒロイックな犠牲なんてことでなく、ただ死んで、生きて、そうしてまた半年後には同じ危険を顧みずに営巣のために出発する(帰っていく、というのがいいのだろうか)。
 子供の頃見た動物映画を思いだしたりもする。鳥だけでなく鯨もカリブーも、信じられない距離をほとんど飲まず食わずで文字どおりボロボロになって移動していく、つまり渡っていく。毎年毎年くり返しくり返し。「何故」「なんてつらいことを」「わざわざ」と率直に感じたことを覚えている。「愚かだ」とか「かわいそう」と思ったことも。レミングなんて、死ぬために集団移動するように描かれていて、ことばさえ失ってただ呆然とするしかなかった。
 蝶も渡っていく。恐竜も渡る、「ジュラシック・パーク」では。あれはなんだか心うたれる挿話だった。もしかしたら作者はあれを書きたいから、あんなに長い小説をせっせと書いたのかもしれない、そんなことも思ったりする。「人は?」と誰もが思う問いへの返答が最後に置かれていた。ことばはもう忘れたけれど、せつない、というか辛辣な答だったことと、それが生んだ情感が小さくはなかったことははっきりと覚えている。


菜園便り230
2月20日 

 昨日は庭に隣の猫が居坐っていて鳥が来なかった。やっぱりちょっとさみしい。
 「60才になってはじめてみた映画は「ハーブ&ドロシー」だった。満願のKBCシネマのカードをよりちゃんにもらっていたから無料だった。だから「シニア」と言って千円しか払わない快感はまだ味わってはいない。」と書いたけれど、それからあまり日をおかずにまた映画に行ってついに「シニア」といったら、「身分証明書を」なんて無粋なことも言われずに千円ですんで、なんだかあっけなかった。それは同じくKBCシネマでの「ようこそアムステルダム美術館へ」というドキュメンタリーで、いろいろ評判になっていたし、予告編もみて楽しみにしていたのだけれど、出てくるほとんどの人間が嫌な奴ばかりでうんざりしてしまった。つくりも羅列的説明的で、もしかしたらそういう嫌な面を見せつけるための巧妙なレトリックを駆使しているのかと思ったりする。政治家、行政人、企業人、学芸員、建築家、活動家・・・、20世紀美術が1点しかないなんて言われるからさすがに「芸術家」は出てこないけれど。
 ちょっと憂鬱になって夜に「たま」という、1日に1回だけやっていたドキュメンタリーをみにいったら、なんと最終日はゲストが来るから特別興行でシニア料金はない、席も全部売り切れているから補助椅子しかないということだった。シニア料金で映画をみるのも前途多難である。
 「たま」というのは覚えている人もいるだろうけれど、90年代初めに活動したバンドで「さよなら人類」という曲はヒットチャートのトップになるくらい流行った。今思うと不思議だけれど、そういう時代だったのだろうか。「イカ天」ででてきたバンドというと思いだす人もいるかもしれない。そう、あの奇妙な「たま」。「らんちゅう」とか「まちあわせ」とか「学校にまにあわない」とか今でもそこそこ歌えたりする。
 映画は現在の「たま」を描くということで、2003年に解散してからでも7年たっているメンバーを追ったものだけれど、最初にぬけた柳原くんはでてこない。ランニングの石川くん、おかっぱの知久くん、低音楽器の滝本くん。この滝本晃司がこの日監督といっしょに舞台挨拶に来て、2曲歌って、それが特別興行だった。映画のなかでもさんざん聴かされていたから違和感はないし、ライブを続けている人のどこでもさっとやれる器用さでまとめられていた。映画のなかの石川浩司は「ホルモン鉄道」というパフォーマンスというかショーというか、身体を駆使したすごい演奏活動をやっていてあっけにとられたし、感動させられもした。でもライブとして目の前で展開されたら、最前列で見るのはこわい、ひとりおいてその後ろから見るだろう。映画のなかでも、ああいうのはやだ、とはっきり言う人もいる。でもすごい迫力だ。ふたりでやっていて、その相方の大谷シロヒトリという演奏家のことも気になる。
 知久寿焼は悠々自適というか独特の勁さでやりたいことだけをやり抜こうとする。音楽も演奏も日常の延長で歌って踊るというようにやりたいと、お酒を飲みつつやっている。それを「プロじゃない」と批判されて、ああ、そうですか、じゃあ素人ですと、さして気負うこともなく応えている。声も曲も昔のまんまに響く。柳原くんが抜けてあの声とのハーモニーができなくなったのはつらかったし、今も残念だと語る。「さよなら人類」にもあった、あの「さるーーー」といった高音のコーラスのことでもあるのだろう。賢しらに、これはビートルズだね、なんて言ったことが思いだされて赤面する。石川、知久は「パスカルズ」という小規模オーケストラのメンバーでもあって、そのライブ演奏もでてくる。
 つい最近、ある映画のパンフで「侯孝賢は懐古でなく回顧だ」というようなことを読んだばかりだけれど(もちろんそうだ)、ぼく自身はおおむね懐古、ということになる、淫するほどではないにしろ。想いでの甘さ深さは今の時代尋常ではないし、それを個人の感傷だ自己憐微だと騒ぎ立ててもしょうがない。そうなのだから、そこから冷静にはじめてみるしかない、そういう自分や時代として。
 今日は庭にツグミも来ていた。


菜園便り231
3月13日

 庭には光が溢れている。雀やジョウビタキが芝生の上でなにか啄んでいる。
 今も向かっている机にクマガイモリカズ(熊谷守一)の絵はがきが貼りつけてある。ずいぶん前の森さんからのはがき。黒いお盆に4個の真っ白な玉子が載っている。これは鶏の玉子。写実として描いてあるのではないのに、というか、だから、古びたあまり上等でないお盆のリアルな質感が複製になってもしっかり伝わってくる。
 そういえばこういうお盆を見たなあ。丁寧に扱ってないから隅にはほこりやらなにやらがもう特別な道具でも使わないととれないようにこびりつき、小さな染みもある。ちょっとにおいさえするように見える。でも汚いとかいうことではなく、古びるということは、日常に使うということはこういうことだと教えてくれるような古び方だ。とにかく長い長い時間使われて初めて生まれるもの、見えてくるもの。
 我が家にはなかったなあとつらつら考えていて思いあたった。父の実家、大きな古い家だ。そうかな。もしかしたら同じようなどこかの農家の畳の上か、黒光りする台所の床の上だったんじゃないか、そうかもしれない。
 ちょっと縁が欠けていたり小さいわりには持ち重りがするのは、上等の木でないし、丁寧に薄く削ったりもしてないからだろうか。ふだん使いだから特に大切には扱かわれない、どこか少し欠けてもそのことが意識されないくらい、そこらへんにいつもあるのがあたりまえになるまでの長い時間。だからなくなる時もいつのまにか使われなくなり、どこかに紛れ込んで他のものに挿まれたまま処分されてしまう、または倉の隅や納戸の上の棚の奥に押し込まれたまま永劫というくらい置き去りにされる。
 もういらないから新聞紙にくるんでしまっておきましょうとか、さあ捨てましょうとかいったことすらない。使うとか使わないとかいるとかいらないとかいう意識すら生まないままいつのまにか消えていく。だからやっぱり大家族の大きな家でのできごとだろう。富裕でもなくかといってお盆もないほどの貧しさでもなく、おおぜいの人が暮らし出入りしいつも動きがある家、空間。
 この熊谷のお盆ももうお客にお茶をだしたりする時に使われることはなかったのだろう。最初の頃だけはそういうこともあったかもしれない。それから気安い近所のおばさんが縁側にけてとか、奥に続く三和土の土間に農作業の姿のままちょっと腰掛けて喋っていく時とかに、お茶請けの漬け物や小さな花林糖を載せてでてたのかもしれない。漆塗りでないから艶はなく、顔料を下地と上塗りだけ一回ずつざっとやって終わり、そんなふうだ。
 その艶のないくすんだ黒い表面はきっと細かな傷で覆われ、形も少し歪んでいて、ここではみえないけれどどこかがわずかに欠けてそうだ。黒というより、とにかく濃い灰色といった炭色、そのお盆に目の覚めるような白い玉子が4個、片方に寄り添うように載っている。小ぶりでほっそりとしているけれど命の塊として、内側からの光でかがやいているかのようにして。


菜園便り232
3月14日

 熊谷守一のはがきのことをあれこれ語ったけれど、この机には他にもずいぶんいろいろあるのに気がついた。でも気がついた、という言い方はへんだろう、だってずっとそこにあって毎日毎日見ていたのだから。だからまああらためて気がついたというべきか。
 ロシアのニキフォルという人の水彩画のはがき(もちろん印刷物)。これは板橋さんがくれたもの。郵便としてきたのでないから何も書いてなくて少し残念だ。その左横にはベトナムのお土産の、なんというのだろう、マグネットがついていて冷蔵庫なんかのドアにつけるやつ。一昨年カンボジアに行った時、トランジットで寄ったハノイ空港で買ったものだ。自分への土産とえも言えばいいのだろうか。格安のパッケージ・ツアーだったからか、ずいぶんと長い乗り換えの待ち時間だった。かつての宗主国ということでか、フランス人が多くて旅行中の婦人と少し話をしたりした。お互いに英語だし、シャイな人だったからフランス人とは思えなかった。つまり傲岸なパリの人でないということだ、きっと。それは最初で最後になってしまった中村さんの唯一の海外旅行でもあって、だから思いだすことは少なくない。
 ジャ・ジャンクー監督の映画「長江哀歌」のはがきもある。これはもちろん大好きですばらしい映画だから飾っているのだけれど、どうやって手に入れたか忘れてしまった。「すごいすごい」と大騒ぎしていたから、誰かがくれたのかもしれない。もしかしたら前売り券を買ったらついていたとかいうことだろうか。奥には蔡明亮の「黒い眼のオペラ」のB5判チラシも下がっている。今のところ最後に見た彼の映画ということになる。冒頭にモーツァルトのオペラがラジオから流れているので、日本ではこういうタイトルにしたのだろうか。原題(「黒眼圏」)とはずいぶんちがう気がするし、国際版のタイトルもまたまるでちがうし、くらくらと眩暈さえする。でもすばらしい映画で、特に最後の、眠りの舟といったシーンは恍惚としてしまうくらい美しかった。
 小津安二郎のお墓のはがきもある、「無」とだけ書いてある。1993年の写真を元にしたはがきで、墓前に日本酒がいくつも並べてある。ビールもある。花もたっぷり供えてある。参拝者が絶えないのだろうか、それもうれしいような不思議なような。ファンとしては墓前で何を言えばいいかとまどってしまう。「麦秋」がいちばん好きですと告白されても、小津も困るだけだろうなあと思ったりする。
 森さんが我が家にあった古い写真を取りこんでつくってくれたクリスマスカードもある。2階の広間に資料として箱にまとめて放り込んでいたもののなかから見つけてくれたもので祖父と子どもたち(つまり母や叔父叔母)が写っている。写真館で撮られたもので、だから描き割りの背景の前に立ったり座ったりしている。この写真にはまったく覚えがなかったからうれしくて、複写して兄姉や従兄弟なんかにもあげて喜ばれた。
 ポール・マッカーシから送ってきたシャガールの絵はがきもある。「現代」とつく美術も音楽も好きでないといっている彼のぎりぎりの現代なのだろう。裏に走り書きで仕事のことが書いてある。その難しかった「現代詩」の仕事もどうにか終わった。
 DVDが手作りのケースに入っているのは、これも森さんがつくってくれた「小原庄助さん」。清水宏監督のモノクロの映画で大河内伝次郎が主演している。清水の映画のなかでも、大河内の映画のなかでもいちばん好きなもので、数年前に「文さんの映画をみた日」に、シネラでの特集上映にかこつけて書くことができてうしかった。同じ監督の映画「ありがとうさん」にもちょっとふれることができた。もちろんこのDVDはちゃんとみれるし、なかの2シーンがカバーに取りこまれた丁寧なつくりでうれしいし、ちょっとせつなくもなる。清水も大河内もとうに亡くなった。
 いちばん後ろには大きめのアクリル板に挿んだ佐藤文玄さんのがある。はがき大に切られた自身の作品で裏に便りがしたためてある。年に何度かそうやって作品を、便りをパリから寄せてくれる。その時々の季節と心象が綴ってある。
 古い日光土産の「煙草挿み」もある。ほんとはなんと呼ぶのだろう、華厳の滝と神橋の写真を焼き付けた金属の薄い板が煙草の箱の形に折り曲げてある。マッチのサイズのとでセットになっている。たぶん客間のテーブルの上に煙草屋マッチをこうやって立てたのか、それとも携帯する時につぶれないためのカバーなのか。頻繁に見た記憶はあるけれど、使われているのは見た覚えがない。お土産とはえてしてそういうものだろうけれど。高野山福智院というところのお札が隠れるように置いてある。ぼくの名が手書きでいれてあって驚かされた。父と母がお参りしてからずっと志を送っていたのを引き継いだかたち。お札類はいつも神棚においているのに、これは自分の名前があったからだろうか、それともほんとに護ってほしいからだろうか。
 アフリカの小鳥の木彫や相島で拾った陶器の網の重りがあり、物入れに使っている古い金杯には山本さんが彫ってくれた印鑑なんかがいれてある。他にもぼくの交友関係全てが入っている住所録や名刺ファイル、辞書や筆立てやなにやかやごたごたとしたなかに、昔勤めていた事務所からもらってきたペーパーウェイトを兼ねた拡大鏡なんかもあったりする。
 様々な時と場所から、大げさに言えば遙かな旅をしてこの小さな岸辺に打ち寄せられたたものや思い。気がつけば全てのものがそういうものなのだともわかる。

菜園便り233
4月19日

 見渡す限りに水が広がっているようで一瞬茫としてしまう。洪水で水が溢れたのかという馬鹿な思いもよぎったけれど、もちろんそんなわけはなく、知らない間に山つきのため池の堤が決壊してなんてことが仮にあったとしても、そばを流れているのは小さな水路のような川だから溢れても田んぼ1枚も覆えないだろう。もう4月も下旬、早稲の田植えの時期でどの田にも水が張られ黒い土を覆っているだけのことだ。でもいつもより水量が多く鋤起こした土が完全に水の下にあって、だからシンとした平らな水の広がりが空を映して続いているのだろう。広がりを矩形に区切っていく細い畦も農道もあるのに、なんだかどこまでも続く、遙かな、といったかんじがしてしまう。
 玉乃井での美術展などでバタバタしていて、裏作の野菜を取り払ったり、放置されていた稲刈り後の田を鋤込んだりする準備に気づかなかったから、いつのまにと驚かされてしまう。少し離れた麦畑はまだまだ柔らかい緑をのばしつつ、結実し始めた穂を揺らしている。だんだんあたたかさと共に濃く色づき硬くなり、でも黒々と猛々しくなる直前に金色にかわっていかにも軽そうでとがった穂や葉を揺らしてかすかな音をたてるのだろうか。そうしてまたいつものように小津安二郎の「麦秋」の麦の穂の手紙を思いだして、そうして「エリカ」の珈琲とテーブルを思いだして、ついでに侯孝賢の映画「珈琲時候」も思いだすのだろうか。
 「麦秋」ではエリカに似た喫茶店原節子(紀子)と彼女の兄の親友だった二本柳寛(謙吉)が送別会の待ちあわせで会って、その時、戦地からの兄の手紙に麦の穂が入っていたという話を謙吉がして、紀子がそのお手紙いただけないかしらと言って、あげようと思ってたんだということになって、それはおそらく戦死したのだろう、帰還しない兄へのせつない思いに対する妹自身のひとつの決着でもあるのであり、母はまだ長兄に非難されつつも「尋ね人の時間」をラジオで聞き続けて息子を待っているのであり、それは戦病死して帰還できなかった山中貞雄が戦地から小津にあてた手紙に麦の穂が入っていたということからきていて、だから誰もが、ぼくもあれこれ感じ考えてしまい、遠くを見やるふうをして溢れてくる涙を隠さなくてはならなくなる。もうひとりの待ちあわせ人の、今や家長たる長兄が遅れてやってくるのはそんな話が全部終わった後であり、それは新しい時代に彼が引き受けなくてはならない役割でもある。
 ほんとに多くの人が喪われたし、これからもそうだろう。理不尽な、耐え難い死、さみしくつらい死に囲まれ、でもわたくしたちは生きている。それが本能や掟であるからではなく、とうに生きる意味なんてないことは自明になっていても、生きている意味は溢れるほどに輝いてあると思うからだろうし、渡された約束として喪われた人を記憶し続けるためでもあるだろう。でも記憶するというのは個々の人や具体的なことがらをということでなく、生そのものの豊かさ不思議さつながりをということであって、だから執着することも縛られることもなく、そうして不断の義務ということでもないのだということだろう。 


菜園便り234
4月27日

 「日が沈み、夕焼けの残照も群青色の空の下に消えた。庭の隅に縮こまっていた暗がりがじわじわとその触手をのばし、黄色く枯れた芝生も闇のなかにとりこまれていく。宵の明星がくっきりと姿を現し、波が思いもかけない場所で白くくだけて光る。
 今日は誰からも便りはなかった。ぼくも誰にも便りを送らなかった。」

 パソコンのなかにそんな書きかけの「菜園便り」が残っていた。やっと寒さに震えることもなくなり、海にも空にもどこかしら穏やかさが感じられ、静かに見つめたりできるようになった時期だろう。まるでなにかを初めてみるような、好奇に満ちた視線があちこちにふり向けられる頃だったろうか。
 今では芝も半分緑が戻った。今年どこでも異常繁茂したカラスノエンドウが我が家にもいつの間にか広がって、可愛くきれいな花だとたかをくくっていたのが、慌てて刈り始めた時にはもう庭の半分をびっしりと覆っていて、1日仕事ではすまなかった。
 せっせと鎌をふるったその勢いで、茅に覆われた去年は手つかずだった海側の菜園の草取りもやる。茅だから根っこからとらないと意味がないのでスコップで起こしては手で抜いていく。一坪にも満たない場所なのに息がきれて足もがくがくになる。それでやっと半分だけ。翌日残りをやって、さらに深く掘りおこし、もらったままだった馬糞をいれていく。動物系の肥料をこういった形でもらったのも、使うのも初めてだけれど、なんとなく効果がありそうに思える。
 たいへんな、もちろんぼくにとってということだけれど、おたおたするほどの仕事の後はなんだか全てがうまくいくようで、夏にはすばらしい収穫があるとつい思いこみそうになる。実際は胡瓜もゴーヤも最近はうまくいかないからせいぜい2本くらいにしようとか、茄子はきっぱりと諦め、ズッキーニも最後の挑戦にして、今年だめならもう止めようとか、でもトマトはいつもより多く、ミニトマトと、ゴルフボール大のとで4種くらい植えよう10本くらいは、とあれこれ思ったりしてはいるのだけれど。
 すっかり気力をなくした去年でも、10月の末にこれだけはといった大決意でのぞんで植えた空豆は途中の追肥も足りず、周りの木の枝を払わなくて陽が当たらなかったせいか、愛の不足を形に示すようにしょんぼりしている。えんじ色の花はそこそこに咲いているけれど、早い時は5月にはいったらふくらみ始める莢のかすかな気配さえみえない。どんな時もそれだけは勢いのあった豆類、キヌザヤや空豆がこんなふうでは今が菜園の最悪の時期と思うしかない。後にはもう、なにもやらない放棄だけしか残っていないのだろうから。こういうのを背水の陣というのだろうか、たしかにすぐ裏には海が迫っている。でも「菜園」と「まなじり決して」なんてのはつながらない、あたりまえだけれど。
 花冷えの後、「若葉冷え」などと呼ばれているらしい肌寒さが続き、やっとツツジにあわせるように例年並みのあたたかさが戻ってきた。八重桜も藤も終わり、庭にはジャーマンアイリスがふくらみ始めた。小さなオレンジ色のポピーもちらほら見える。すみには鈴蘭形の小さな水仙の一群が最後の花をつけている。道路に面したネズミモチや樫の木が盛んに病葉を散らし、毎日掃かないと近所の視線が痛くなる。昨年の不順な気候で彼らも弱っているのだろうか、こんなにも、秋の落ち葉より多く散らすのは初めてだ。病んだ心にもそろそろ落とし前をつけて新たな成長というか新しい葉を広げて日常のなかに入っていこうとしている。光が惜しみなく注がれ、鳥が枝をつたって跳ぶ。なにかが静かに満たされていく。


菜園便り235
4月30日

 強い風が続いている。海はしけ続きで漁は休み。テレビ局から依頼のあった玉乃井での<復活タコ料理>の取材も、港の船が蛸漁に出れず撮影ができなくて中止になった。先日のその会食は2階の広間で23人を一度に、だったので、器や配膳もたいへんだったけれど、料理そのものは兄ひとりしかできないのでもうしわけないほどてんてこ舞いしていた。だから取材でひとり分とはいえほぼ同じことをやらなくてはならないから、中止になってちょっとほっとしてもいる。
 そんな風が吹きつのる日々で、夏野菜の植えつけも伸ばし伸ばしにしていたけれど、そろそろ5月、今夜あたり雨になるということで、例年どおり花田種物店であれこれ見繕ってきた。肝心の中玉のトマトが見あたらないのできいてみると、とっくに売り切れているとのこと、「みなさん早いんですよ、ほんとは今ぐらいの方がいいんですけどね」ということだった。もう入荷はないし、ミニトマトを2種、4本だけにする。止めようと思っていたゴーヤと胡瓜も1本だけ買ってくる。他にはズッキーニ、パセリ、青じそ、レタス、バジルをそれぞれ1本ずつ。
 少ないから、肥料を入れたり水をやったりしても植えつけはすぐに終わるし、風よけの低い覆いをかけるのもバタバタとすんでしまう。なんだかあっけない。茅の除去と整地がたいへんだったから、よけいにそう思うのだろうか。どこかでゴルフボール大の中玉のトマトの苗を探してくるにしても、すでにほぼ全部が終わったことになる。この2、3年の菜園の状況を思うと、収穫に大きすぎる期待をせず、分に応じてひっそりとトマトを摘むことくらいを理想としよう。と殊勝な顔で言ってみたりする。
 そうやってトマトを探しに行った店には植木もずらっと揃えてあって、つい果樹のあたりをのぞきこんでいると隅に小さな桜の苗がまとまって置いてあった。いつかは庭に2本の桜、と思いこんでからでもずいぶんたつ。今が植えるのにいい時期かとか、しっかりしたいい苗かとか丁寧に考える前に、どこから見るのがいちばんかとか、お花見はどこでするか、そんなことばかりが頭のなかを渦巻いて、気がつけばもう勘定も済ませ、荷台に縛りつけている。
 これまでの柿やザボン、柚子や金柑や無花果の悲惨にめげず(少なくとも枯れてはいない)、ひ弱でもとにかく生き延びさせて花1輪でも咲かせよう。とまた殊勝な思いを巡らせたりする。庭を南北に吹き抜ける風の道を避けて、でも将来にできるだろう(と思いたい)ベランダのそばで、仕事机からも見渡せて、大きな木の陰にならないようにでも強風の盾にはなってもらって、とあれこれない知恵を絞って決める。大きめの穴を深く掘り、どっさりの肥料を入れ、水を満たしてしばし。そのくらいの穴でももうさらさらの砂地になる。砂浜だったところだからとうぜんといえばとうぜんで、そんな厳しい条件をおしつけられる植物もかわいそうだ、しかも過剰な成果を期待されて。でも、まあ、こういうあれこれすったもんだが楽しいのだろうし、なんだかんだ彼らと気持ちを交し、宥めたりすかしたり懇願したり、安請けあいされたり突き放されたりでもまあやってみようと慰めあったり、そんなふうな。でも正直なところ、樹齢数十年というような立派な咲き誇ったみごとな桜、というようなことは思わないし、たぶん桜はだめだろうなあ、梅くらいかなあ、という気弱な、というか冷静な気持ちもある。
 ついでに庭のあちこちに勝手に生えてくる常緑樹の若木を道路側の垣根にと移植する。ここも数年前に何本か植えたけれど、枯れはしないが・・・といったようす。そこにまた2本、まさに枯れ木も垣根のにぎわいと新たな2本が心細そうに突っ立つことになった。善き未来を誰かに言祝いでもらいたい。


菜園便り236  あるいは  続・文さんの映画をみた日⑨
6月1日
ブンミおじさんの森を抜けて

 久しぶりの映画、そんなふうに思える映画、「ブンミおじさんの森」。監督はタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン。耳慣れないし長い名前だから2度も綴り間違えた。でも実は昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭特集で、彼の「真昼の不思議な物体」(2000年)をみていた。不思議な作品で、奇妙でやさしく、でもどこかザラッとした不穏な感触を残すモノクロの映画だった。今回のはふつうに追っていける物語があり、会話があり、カラーで、人物も同一性を持たせてある、つまりブンミさんは最後までブンミさんだ、たぶん。
 でも、とあらためて思うけれど、やっぱり奇妙で不思議な、怖いものも残る映画だ。そうしてやっぱり全編に流れるやさしさ、おだやかさ。そういうのを「アジアの」と修飾するのはあまりにも常套的で、正確でないけれど、でも原初的で、奥深い生の根源のような、どろりとした、どこかにいつも湿度と熱がこもった、つまりアジアの森のような、といってしまいたくなる。
 ドキュメンタリーではないけれど、登場する人たちもおおかたはふつうの人だったり、地味な映画の人だったりするから、身体的にも、特に表情なんかに拒否反応がおきたりしない。穏やかな日常的な身振りと途方もない飛躍がある、そういった、ふつうの生活にありふれているものがある。
 神話的、といってしまうとまたアジア的と同じでなにも言ったことにならないけれど、やっぱり始原の、ことば以前のものが語られようとようとする。映画のなかにも、古代の水牛や王女の挿話が挿まれ、森の猿の精霊、河の鯰の精霊、人の霊、そういったものがそっとでも唐突に過激に現れては消えていく。怖くて、でもどこかおかしい。
 ブンミさんはタイ東北部の、ラオスにも近い森で果樹園や養蜂を営んでいる、という設定になっている。自力で腎臓透析を続けていて、死期が近いのを識っている、そういう智をまだ保っている人であり共同体だ。そこはラオス人、中国人といった外国人も行き交う。違法越境者なの?、と遠い街から会いに来た義理の妹が訊ねたりもする。国境ができたのは森の歴史に比べればつい最近のことだ、そもそも森に、大地のどこに線があるのだろう、と誰もが首をかしげている。境界が引かれて、人は急にその向こうをちがうものとしてみるように強制される。
 ずっと前に森に消えて行方不明になった息子、亡くなった妻、その妻の妹、甥らしい若い男、そんな人たちがいつのまにか集まり、ブンミさんを囲み、最後には彼を彼方へと送る旅に出る。色彩に、音に、うごめきに溢れた森を彼を支えて歩く人たちが行き着く深い洞窟。そういったことがあざといものとして浮いてしまわずに、あるリアリティを保ち続けるのは、映画の構成の堅固さ故でなく、ある種の自由さ、混沌としてでもあらゆるものが存ると思わせられる森や海のような、論理化されない、自由な発想と発露があるからだろう。その自由さは60年代に語られた、傲岸な欲望とはずいぶんとちがう。
 再びこの世界に現れて透析の手当をやってくれる妻を、起きあがったブンミさんが腕を回してゆっくりと抱きしめるとき、それは愛といった言語化されたものでない、その向こうにある、慈しみみたいなもの、そうしてさらにその奥にある郷愁のようなものをスクリーンに産みだす。生が抱え込む穏やかな哀しみ、静かな喜び、なにかの震え。愛とか性とかでない、でも単純で勁く深いつながり、互いに完全に食い込みあって没入してしまう、そういう関係のようなもの、個と全体がひとつに重なりあっている、そういったものが黒々とした森のなかに、向こうに、見えてくる。美しい、うれしい、怖い。


* 先日はYANYA’に「続・文さんの映画をみた日⑧ あるいは 菜園便り228」というのを載せました。特集が「菜園便り」だったからです(でも「特集」だなんてすごい!)。それで今回は、「菜園便り236 あるいは 続・文さんの映画をみた日⑨」にしました。おあいこ、です、なにに対してだかよくわからないけれど。


菜園便り237
6月21日 雨

 梅雨のほっそりとしてでもきれめない雨の下、庭は柔らかで鮮やかな黄緑色に覆われそこかしこには黒々と丈高な草もつきだしている。咲き残った琉球月見草がしおれた桃色の花弁を垂らしている他は紫陽花のくすんだ色が見えるばかりで、花らしい花もない。
 菜園は小さなトマトが色づきはじめぽつりぽつりと収穫があり食卓にあがる。色は薄くてもしっかりと甘みがあり皮も固くない。胡瓜とズッキーニは苗の段階で潰えてしまったけれど、1本残ったゴーヤはどうにか生き延びてトマトよりずっと高く蔓を伸ばしている。黄色い花もわずかだが咲いているから、実りを期待できそうだ。久しぶりの菜園のゴーヤ、になってくれるだろうか。
 青紫蘇、パセリはかわらずに元気だし、ルッコラも数株が雨の後ぐんぐん伸びている。種をお土産に頂いた韓国のチシャはプランターのなかでひしめきあうほどに成長した。間引いても間引いてもすぐにまたぎっしりになる、菜園に移した数株はあっという間にだんご虫に食べ尽くされてしまったけれど。同じ時に頂いた胡麻の葉もそこそこには育った。あれこれを巻いて食べるほかにはやり方を知らないけれど、強い香りが口腔を撃つ。
 父の一周忌が終わった。こういう時の儀礼のように、誰もが「はやいですねえ」という。ほんとにそうだ、もう1年なんて。と思いつつもでもなんだかもうずっと前のことのようにも感じている。そうだね「いろんなことがあったからね」というのも常套句だけれど、でもいろんなことなんて何もなかった、という気もする。
 あの頃毎日大わらわだった日常的な雑事、おおかたは家事だったけれど、をやらなくなった。カロリーを計算し、タンパク質をミリ単位で計るような献立や、丁寧につくる食事といったことは光年の彼方へ去った。菜園もほとんど形だけ、みたいになってしまった。
 死より重いものはない、ということだろうか、誰もが言うように。他のことは全部どこかに飛んでしまって、生の側のなにもかもを軽んじてしまっているのだろうか。たしかに死は、心にも身体にものしかかる巨大でずっしりと密度のある大きな塊で、その下で人は息もできない。とてもたいせつなものが瞬時にして丸ごと奪われたことに納得がいかないし、あらためてそう思う度にまたうちのめされる。どうしても慣れることができない。死の前から始まりくり返される喪の儀礼が、身体を前へと押しやるし、日常的なしぐさは滞りなく、明るい表情さえつくれる。でもつらさはいや増しに増していつもそこかしこにじっとうずくまっている、のしかかってくる。そういうことなのだろうか。
 同じ町に住む知人が「菜園便り」を求めにわざわざ来てくれた。その時に持ってきてくれた月桂樹の束は廊下に下げてある。青いままでも煮込み料理などにも使えるけれど、そのまま置いておけば黄色くなっていっそう香りも高くなる。カレーには欠かせない。使うたびにこの日のことを思いだすのだろうか、それとも他のことと同じように瞬く間におし流されて彼方に消え去ってしまうのだろうか。


菜園便り238
7月25日

 たっぷりの雨で伸びすぎて青々としていた庭の芝に黄色い陰りが見え始めた。これから続くだろう暑さと日照りですっかり色を失うのだろう、いつものように。菜園の周りどころか内にさえ居丈高な硬い草がはびこってきている。紫蘇やトマトが背を伸ばして腕を広げてこれ以上は入ってこさせまいと必死に防ぎながら、毎日実をつけて食卓へ喜びを届けてくれる。梅雨が終わって皮が固くなったけれど、そのぶん甘みは増して、奥歯でガリッと噛むと青くさく甘い果汁が溢れる。
 玉乃井の海側の庭で開かれた「津屋崎納涼映画会」も終わった。これは津屋崎ブランチの主催だったけれど映画の選択は任されて、山中貞雄監督、大河内伝次郎主演の「丹下左膳余話 百万両の壺」を16ミリフィルムで上映できた。彼らの知りあいの上映技師の吉田さんが日活と交渉してとてもいい状態のものを借りてくれたので、白黒のコントラストも鮮やかな強い構図がくっきりと浮きあがった。正面からまっすぐ撮る場面が多いから奥行きも深い。山中の別の映画「河内山宗俊」の最後のシーンなんかも思いださせられる。
 お話も、強くて情け深いちょっと滑稽な丹下左膳、情のある艶っぽい射的屋の女将、美人の奥さんに頭の上がらない養子の馬鹿殿、陰険なやくざ、そうして身寄りを亡くした健気な子供と勢揃いしての展開でおもしろくないわけがない。ほのぼのとした家庭喜劇みたいな面もある。生きていたらそういう映画もつくったんじゃなかっただろうかと29歳の若さで戦病死した山中貞雄のことをあらためて残念に思ったりする。
 夏の夜はチャンバラだとこの映画を選んだけれど、戦後の占領軍の検閲でカットされていて、肝心のチャンバラシーンがほとんどなかったから、左膳本人は不満足だったろう、「俺はもっと強くてかっこいいんだぞ」と。でもはらはらしなくてすんだし、殺陣にまといつくゾクリとするような恐怖や嫌悪が生まれなくてそれもうれしい。
 今回初めて気づいたのはこれは音楽劇(ミュージカル)でもあって、ムソルグスキーの作品や童謡の変奏がオーケストラでふんだんに流れ、女将が三味線で歌う端唄や小唄(なのだろう、たぶん)は劇中の話とからんだことばにできない思いだったり、状況の説明だったりする。もちろんその唄を巡ってのドタバタもくり返されておかしい。
 台風の影響でいつもより気温も低く、ここちよい風も吹くなかでゴザに座ってみるモノクロ映画は、映画館の暗闇の集中を強制しないし、そこここに座った人たちの気配はあたかも隣人のそれといったふうにも感じられ、飲み物やピーナツを売る声が夏の夜の行事を盛り上げていく。運営する側にいたから反応は気になるしちょっとフィルムがぶれるとドキリとするけれど、浜木綿も香って、ひいき目のせいか蚊も少ない。途中でブレーカーが落ちてもうしわけなかったけれど、なにやら昔の映画館のフィルムが切れた雰囲気さえ醸しだされて実のところちょっとうれしかった。

 フィルムがずれてガガガという音と共に映像がスピードを失っていくつかのシーンが中途に重なりあい、あああという溜息と共にぷつりと映像は途絶えて、たちまち揶揄の口笛や罵声が飛ぶが、それも大向こうを狙ってのかけ声のようでどっと席が湧き明るくなった館内でよっこらしょと立ちあがって売店やトイレに行く人でしばしざわついた後、そっけないアナウンスと共に暗くなったなかでカタカタと映写機が回り始める。「おおい、はよ帰ってこな始まったぞ」とのんびりした声も飛び交う、「トシちゃん、はよし」、にまた周りがどっとわき、でもたちまち誰もが映画のなかへとさらわれていく、とぎれた分いっそう想像でふくれあがった恍惚のなかへ、一足飛びに。

 そんなふうなことも思いださせる屋外上映のざわついた雰囲気だったけれど、でも意外なほどじっくり映画をみることもでき、今まで気づかなかったシーンや語られようとするせつなさもすっと届いてくる。語りぐさになった大河内伝次郎の台詞「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」というのはカットされた部分なのか出てこなかった。
 すばらしいけれどちょっと救いがなさ過ぎてつらい「人情紙風船」が山中貞雄の遺作になってしまったのは、本人が言ったように「ちとさびしい」。3本しか現存してないのも残念だけれど、でも少なくともそれだけはあるという喜びだと思うしかない。


菜園便り239
9月24日

 夏野菜が終わった。猛暑のなかでも小さな実をせっせと届け続けてくれたトマトが終わた、一度もならなかったゴーヤも捨てられ、異様に繁茂してパセリを駆逐してしまった青紫蘇だけが畝のなかに突っ立っている。
 来年は、まだ菜園が残っていたら、数本のトマトと2本以上のゴーヤとピーマンだけにしよう。紫蘇とパセリ、ルッコラ、バジルは1本ずつプランターででも育てよう。ひとりにはそれで充分な収穫を届けてくれるし、苗で潰える胡瓜やズッキーニ、けして実らない茄子はもう止めにしよう。
 そんなことを9月のはじめに書きかけていたら、きゅうに忙しくなって、台風も来て、いつの間にか菜園も茅の海のなかに没しつつある。救援隊は来るのだろうかと案じる間もないほど、かの雑草は強くて勢いがある。今年は何処もがそうなようで、<雑草>や<害虫>にもあるトレンドのひとつなのだろう。しばらくは、おそらく数年はこの状態が続きある日ふっと消えてしまう、つまり次の何かが世界を覆うということになる。
 猛暑から一気に初冬になったようにさえ感じられた冷え冷えとした数日が台風と共に終わり、また強い日射しが蚊と共に戻ってきてうれしくなり、晴天の下、茅の原に踏み込んでみると小さな赤い粒が3個あった。トマトが健気にも暑さも乾きも乗り越えて次世代への種を育んでいる。ああ、と感動しつつ摘んで食べた。彼らからすれば、「きみは殺人者」だ。いや、そうでなくてほんとうはレスラー、ではなく、レスキューなのかもしれない。この3粒の喜びが、また来年もやろうという勇気を与えてくれたのだろうから。ほんとに?でもそういった大げさなひとり芝居も生まれるほどに、菜園も庭も植物もすばらしい。
 忘れずに来る台風と共に今年もアジアフォーカス映画祭が始まり毎日3本くらいみる慌ただしい日が続いた。腹部に急な痛みがでて、数年前の悪夢を思いだしてぞっとしたけれど、1本諦めて早めに帰って一晩養生したらけろりと直ってしまった、よかったというか、気のせいだったというか。事前の試写や特別上映にもにもまめに出かけたし、もしかしたら今年は全作品をみるという「暴挙」が達成できるかもしれないと思いこんだりして予定を組んでせっせと通ったけれど、やっぱりそれは無理なようで、いくら「どんな映画でもみてると何かしら惹きつけられるものがある」にしても、やっぱり日に3本も4本も見るのは心身共に酷なようで、映画にもよくない。
 だいたいどの映画祭でもそうだけれど複数会場での同時進行になる。ここでも2会場で5本ずつ、つまり日に10本上映している。マニアックな人や遠方からのファンは週末プラス祝日の3日間に集中し、そうしてまた生活に戻っていく、というかまた次の映画へと帰っていくのだろう。それもまたすごい。
 ぼくは結局2日残して、6日間で21本のうち7割ほどみた時点でリタイアになった。あいかわらず最後の詰めが甘いこともあるけれど、あまり酷いものはもうみないでもいいかという気持ちもあるし、期待したものにガッカリさせられて腰砕け、みたいなこともある。さあ気分をなおしてもう一度、にはなれなかったようだ。心や身体の力やマニアックな粘着力がこうやって薄れていくのだろうけれど、同時にこれで充分という、諦めではない納得の仕方もまた身についていく。


菜園便り240
10月吉日  地名がよぶもの

 地名はいつも気になる。だから片づけものをしていて古い地図なんかがでてきたりするとそれっきり仕事は止まってしまう。
 この町も今は福津市と呼ばれているけれど、それは宗像郡の福間町津屋崎町が合併してその頭文字をくっつけただけのものだ。そういったことは日本中で行われ、たくさんの地の名前が喪われた。そのままどちらかの町名を残した方がまだよかったと思うけれど、住民感情を鑑み、ということなのだろう。宮地獄市(ミヤジダケ)という候補もあったようで、それはそれでなかなかいいし、いっそのこと宮地嶽神社市というのがユニークで、話題になったかもしれない。
 ずっと以前の合併で勝浦村が消えたことが住民には深い傷として、怒りとして残ったと聞くこともある。勝浦という名称は地図上にも残っているし、あいかわらず多くの人がかつての村全体を勝浦と呼んでいる。それくらい地名は強い。それはとうぜんのことで長い長い時間をかけて創りあげられた、地形や状況にも即した名前だからぴったりしていて、だれもがすぐになじめるしなんとなく安心もするのだろう。
 津というのは先端といった意味のようであちこちにある地名だし、浦や古賀、天神も全国的に多い。鐘崎(カネザキ)は源氏物語にも出てくる地名だし、印象も美しい。神湊(コウノミナト)はすごい、神の港だ。でもカミサイゴウは神でなく上の上西郷。他に東郷、南郷というのはあるが北郷は聞かない。音のつながりとして使いづらいからだろうか。それともどこか歴史の荒波のなかで潰えたのだろうか。北は禁忌のことことばである、という説もあるかもしれない。京泊、小泊もあれこれ思わせられる。
 近隣でいちばん好きなのは舎利蔵(シャリクラ)だろう。音の響きもどこかエキゾティックだし舎利が意味するものについてもつい考えたりする。自分が生まれた地ということもあるのか、蔵屋敷というのもなかなか風情があると思う。新屋敷もそばにあった。畦町(アゼマチ)とか米多比(ネタビ)というのも漢字と意味とで惹きつけられる。練原(ネリワラ)、須多田(スダタ)、生家(ユクエ)、奴山(ヌヤマ)、梅津(ウメズ)、内殿(ウチドノ)もいい。在自(アラジ)を初見で読める人は少ないだろう。
 坂や峠の名前はどこか強い響きがある。おおかたは境界になっていて重要な場所だったのだろうし、険しく奥深いところが多く、分水嶺があったり気候ががらっと変わったりする。旅立つ人には大げさにではなく生死の分かれ目でもあったのだろう。「行くも帰るも逢坂の関」だ。泣きながら見えなくなるまで手を振って、そうしてそれっきりになるしかなかった。
 川は残念ながらというか、このあたりにはあまり大きなものがなく、なじみも薄い。自分の生活に関わりがないと遠くに感じてしまうのだろうし、海のそばだからついそちらに目がいってしまうのかもしれない。国鉄で多々良川の河口近くを横切る時はいつも感嘆してしまうけれど、ああいった大きさの川はない。渡橋のある入り江を大きな川だと思っていた人がいたけれどたしかにあれが川だったらなんと呼ばれただろう。よほど大きな山がないとそんな川はできない。
 大根川というのも想像をかきたてる名だ。子供の頃遊んだ中川という小さな川があったような気がするけれど、思い違いだろうか。都市部だと蓋がされて暗渠になり、川自体が隠されて消えることも少なくない。ちまちました細長い、公園ふうのものになったりしている。地の神が喪われて久しい。
 新しく名づけられる場所は団地や開発地がほとんどだから、××ヶ丘、△△の里とか、○○タウン、☆☆シティといったおそろしく空疎なものになっている。歴史や地勢にもほとんど関係なく、耳ざわりがいいと思われてだろうか、昨今流行りの底の浅い現状分析が届くだけの、十数年先には賞味期限が切れてしまうような名前ばかりだ。あちこちで問題になっている、世代がかわってゴーストタウンになってしまうような開発の結果だろう。
 岡があり浜がある。海と山と空があり、そこに川と池と大木をいれればそれで全部説明がつくのかもしれない。そういう単純で深い世界に今だれもが憧れを持っている。全てをひとつの皮相な基準で単純化してしまい、その上でほんのわずかなちがいをあげつらうような硬直して干からびた現在に疲れているのだろう。
 地の力は蘇るか。


*市の文化協会がだしている「福津文化」という雑誌に載せたもので、これは「菜園便り240」として書いたので、誌に掲載後に送る予定だったものです。同誌には祖父のことをが書かれた「東郷公園を拓いた男 安部正弘」や、出版した「菜園便り」の紹介も載りました。

 

菜園便り256
6月22日 スティル写真プロジェクト②

             無限循環のなかの少年
 曠野のなか、白塗りの少年が木綿の着物を着てハンチングを被り、唐草模様の大きな風呂敷包みを手にしている。うつむいた目はじっと耐えているようにみえる。なにかを決めてしまったのだ、關を超えてしまったのだ。そうだろうか。
 寺山修司の短歌がたてつづけに浮かんでくる。
「間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
 格子状の扉が舞台装置のように前後に置かれて遠近を強調している。少年のさみしさも、つまり孤独も焦点化される。どこから来てどこへ抜けていこうとしているのか。そうしてその道の途中で彼は全てを放りだしてしまったのだろうか。でももうそういったおとぎ話が終わってしまっていることも彼はよくわかっている。アドレッセンスがとうに過ぎてしまったことはすでに告げられている。残っているのはなんだろう。意外に大きくて強い手の指が、世界をしっかりと掴んでいるかも知れないことを思わせる。性、もかいま見える。
 お決まりのように彼は都会へ、東京へでていくことになるのだろう、まだ上野駅に全ての北の列車が集まって来ていた時代に。そうしてその輝く黄金の夢は一夜にして鉛の重石となり、つらい軛になったのだろう。「故郷の訛りなくせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し」というような内省さえ始まる。「たばこ臭き国語教師が言う時に明日とゆう語は最も悲し」と呟くしかない。もう一度、濁ってしまった哀しい目でなにもない空っぽの地面を見つめるのだろうか。
 遠くまで行くんだと幼い決意を胸に叫んだ少年の一瞬の夢が覚める、そこは果てなく暗い田園、または合わせ鏡のなかの曠野。
         寺山修司監督「田園に死す」1974年 ATG

 

      共同幻想を巡って
 刑が執行され絞首されたのに死ななかった、死刑囚の青年が床に座っている。その向こうに椅子に腰掛けた所長や検事、執行官、医務官、教誨師などがみえる。青年に寄り添ってかき口説いているのは渡辺文雄が熱演していた、看守長だったか。おぞましいほどのドタバタ喜劇が演じられ続ける、心神喪失状態にある青年にもう一度罪を自覚させ、処刑につまり死に臨ませるために。場所は当時小菅刑務所の一角にあった死刑場を再現したセットの内だ。死刑囚が履いている官品のゴム草履まで忠実に再現されている。
 大半の出演者たちがすでに亡くなっている、佐藤慶小松方正戸浦六宏、石堂淑郎。足立正生松田政男、それに監督した大島渚はまだ存命だ。
 ついに刑場から出ていくことができなかったRと呼ばれた青年は、今もそこに閉じこめられたままだ。
          大島渚監督「絞死刑」1968年 ATG

菜園便り258
7月13日

 昔ふうな梅雨時の田植えが終わったばかりだというのに、一方では早稲はもう白い花をつけ受粉を始めている。こま切れになった糸のような白い花が梅雨の終わりの強い風に大きく揺れている。8月の炎天下での収穫に間にあうにはこの40センチくらいの丈での受精と胚胎が必要なのだろう。なんだか強引に早熟な性を迫られ懐胎し形だけは熟成し実を結び、最後は青いまま老いていく、そんなふうにもみえる。それもこれもわたくしたちが食べるためだ。そんなにまでしてなにが望みなんだろう。
 先日学校そばの田なかの細い道をたどっていると、先の方で小学生たちが群れていた。傘を振りまわしなにやら大声でしゃべっている。中心にいるのは声の大きい少し太った子で、背は高くなかった。「背が高くない」をわざわざことばにして思ったのは何故だろう、なんでそのことがひっかかったんだろと妙なことを気にしながら歩いていると、「昨日はミミズと蛙で今日は・・・」と一段と声が高くなった。見ると下校途中の女の子がひとり彼らに近づいているところだった。それで過剰な反応がでているのかと立ち止まって見ていると、どうもみんなで蛇を取り囲んでいるらしいとわかってきた。やれやれ、だ。もう逃げる力も失って、彼らの傘の先でつつかれた時だけ小さく反応するしかないのだろう。子どもたちもとっくに興味を失って、このまま知らん顔して捨てていきたいのだけれど、先に離れると弱虫だといわれるし、傘の先に引っかけたのを後から投げつけられた日にはたまったもんじゃないし、近づいてくるのはどうも3組のかわいい祐香のようだし、だったらみんなもまたヒステリックになるだろうし・・・・・そんなところだろう。
 こういう時、全く無関係の第三者にきゅうに矛先が向くのはよくあることで、そういうのを引き受けてあげるのも大人の役割かと思いつつも、とにもかくにも蛇を、それも傷ついた爬虫類を見たりさわったりなんてとんでもないと、きびすを返して戻ってくると、ガキ大将くんがひときわ大きな声で、「ちぇっ、あのおじさんも怖がって戻っていっちゃったよ」と言うのが聞こえた。彼もどうやってこの場を収集するか困っているのだろう。君たち、まだまだ永遠といっていいほど長く続いていく人生が待っているんだからね、そのくらい自分で考えて自分で引き受けなさい、引き受けないというオプションも含めて、とかなんとか呟きつつわたくしは知らん顔だ。彼にとってほとんどおじいさんといっていい初老の男に向かっておじさんという時に少しの媚びもあって、たぶんなにかひとことくらいは期待したのだろうし、「背が高くない」とわたくしがふいに思ったようなことを彼もどこかで感じて、シンパシーを求めたのかも知れない。人と人の気持ちの伝わり方というのはほんとに不思議で、同時性というかシンクロニシティが支配してもいるようだから。
 別の道に向かってすぐに他のことに気を取られて子どもたちのことは忘れてしまったけれど、さすがに蛇のことはしっかりと焼きついていたようで家に着いてからずいぶん生々しく浮きあがってきた。困ったことだ。こうやって書くことで開かれ解かれて消えていく、ということがないのはわかっている。また新しい形をとってどこかに固着していくのだろうけれど、それを解いていく鍵は、何故「背が高くない」とふいに思ったりしたかを丁寧にたどってみることかも知れない。もちろんそんなことはしないけれど。


菜園便り260
7月23日

 いつの間にかこっそりと梅雨が明けたのだろうか、烈しい陽射しが続いている。洗濯したり、湿気った衣類を干したりとばたばたしていると、ときおり目に入ってくる庭の木々や草の色に圧倒されそうだ。特にあの嫌な憎むべき茅の、黄緑色の美しさ!スッと湾曲してかすかに風に揺れたりしている。こんもりと盛り上がった場所に群れているから微妙に変わる色彩が諧調をなして続き、その向こうの板塀の焦げ茶との対比もなかなかで、おまけに塀の向こうには海と空が広がっている。これでもうちょっとまばらで儚さでもかすかに感じられたら琳派も真っ青だ。
 灌木はもうすっかり繁り、色も真夏の黒々とした硬い緑に変わっていてちょっと近寄りがたい。剪定もままならないから勝手放題に枝を伸ばし下枝も生いしげりびっしりと隙間もなく風も通らず、低い木なのにその周りにはどろりと何かが溜まりまとわりつているような暗さがある。こういう場所があるのが荒れた庭や空き地のよさだろう、と嘯いてみるしかないけれど、でもほんとうのところこういうところが嫌いではないからちょっとやっかいだ。きちんと隅々まで手入れされ草もすっかり抜き取られた庭はなんだか一枚皮を剥いだようで表面がツルンとしてみえる。
 菜園はトマトだけは元気に次々に実をつけている。丸いのと細長いのと2種のミニトマトがオレンジがかった鮮やかな朱。少し大きめのピンポン大のはかすかに色づいてきたくらいで収穫しておかないとぐずぐずになってしまう。色はかすかな赤とうす緑が混じってとても美しいとはいい難いが、果肉は少し柔らかめだけどおいしい。ミニトマトは皮も固めで歯ごたえがある。さっと口のなかに広がる甘さや青くささに瞬時に笑顔も生まれる
 今年の菜園はほとんどそれだけだ。ゴーヤも潰えたし残っているピーマンも小さな実のまま落ちてしまう。ベランダ側のプランターにはイタリアンパセリと青紫蘇が繁茂し、バジルも白い花をつけつつまだ伸びつづけている。今年はジェノベーゼソースをつくろうと大胆にも思いこんだりしないし、モッツァレラチーズを頂くこともないし、ほとんど使うことがないので摘んできてはコップに挿して食卓に飾っている。さわったとたんあの香りが鼻をうつくらいにたつ。その度にこういったハーブ系の植物の勁さを再認識させられる、「空き地」から勝手に摘み取ってくるペパーミントもそうだけれど。
  庭のあちこちで大きな白い花を開いている浜木綿も夕方には特に香る。玄関に1本挿しているだけであたりの色までかわる、大げさに言うとそんなふうだ。

 

菜園便り261
7月28日

 最初に行った映画の試写会は姉が応募して連れていってくれた「シャレード」だった。まだ中学生、遙か昔のことだ。渡辺通りの電気ビル上階にあった電気ホールだったと思う。最近ビルが新しくなったようだけれど、ホールはまだあるのだろうか。キース・ジャレットや武満を聴きにいったこともあるホールだ。
 当時はオードリー・ヘプバーンというのはすごい人気の女優だったから大勢が詰めかけてみたんじゃないだろうか。晩年のケーリー・グラントもでていた。今も好きな映画だけれど、謎の鍵である切手のエピソードがなんとなく腑に落ちなくてちょっとガッカリした記憶がある。未使用の切手を封筒に貼ったら、裏の糊が喪われる、もしかしたらスタンプを押されてしまう、使用済みなら別のスタンプがついてしまう、いずれにしろコンディションは致命的に悪くなり、価値がなくなる・・・そんなんことを思ったりした。当時は切手収集が流行っていたから、誰もがそんなことを気にしたんじゃないだろうか。
 どの街でもそうだけれど、試写会は○○生命ホールとかいった場所で行われることが多い。賃貸料と利便性と設備(35ミリが映写できる)、そこそこの規模・・・もちろん映画館を使ってのもあるけれど、そういうのは観客を含んだ大規模なものでよほど期待度の高い映画の場合だ。「キル・ビル2」のときはシネマコンプレックスの大会場がびっしり埋まっていた。その頃はシネテリエ天神といった極小映画館でみることが多かったからそのスクリーンの大きさだけにもびっくりさせられた。   
 仕事でお知らせがまわってくる試写は、だいたい映画会社関係の小さな試写室で行われる。小さいといっても4、50人くらいは入るだろうから極小の映画館より大きかったりするし、椅子もゆったりしている。スクリーンが小さめなことをのぞけば(それも極小映画館よりは大きい)いいことづくめだったけれど、最近はそういった試写は全部デジタルでくるらしくピクセルのめが気になってしょうがない。
 久しぶりに行った試写会は「The Grey(グレイ)」というのだった。リドリー・スコットが制作に関わっているので行ったのだけれど、試写はほんとはあれこれ選択したりしてはいけないとは思っている。仕事でもあるし、案内がきたらなんでも全部みにいって頭からバリバリとかみ砕かなくてはいけないのだろう。映画評を新聞に書きはじめた当初は大型ハリウッド映画なんかもせっせとみにいっていた。でもそのせいで、あれもこれもみるということが嫌になってしまったのかもしれないから、元気がありすぎるのも考えものだ。
 ともあれこの映画はアラスカの曠野のなかに飛行機が不時着し、生き残った男たちが狼と戦いながら生き延びようとするという、サバイバル系マッチョものだった。墜落で生き残ったのは8人、生還を期し、先ずは遠くにみえる森をめざして歩き始める。狼に襲われ、ひとり、そしてひとりと死んでいく。
 丁寧につくってあって、パンフの解説にもあったけれどカナダの北部、実際の寒冷地で撮影されていてリアルだけれど、ちょうどジャック・ロンドンの「火を熾す(焚き火)」を読んだ直後だったので、うーーーーん、これでは生きられないだろう、低気温と風で指どころか身体が動かなくなるだろう、いくら狼に襲われ必死になったとしても無理だろう、などととつい思ってしまった。
 そういう状況で「濡れる」ということがどれぐらい苛酷なことかというのは素人にも体感的にわかるし、焚き火があるだけで安全ということではないし、その焚き火にしても簡単に熾せるものではないことも少ない経験から推しはかれる。小さい時の七輪を熾こした記憶とかキャンプで食事の準備に泣かされたことだとかから。
 真夏に公開されるのは恐怖で心身共に凍りついて涼しくなることを期待して、だろうか。

 

菜園便り262
7月28日

映画祭で上映する「玄界灘の子どもたち」(16ミリフィルム)は吉田さんが奔走してくれ、制作元の東映で見つかったが、オリジナルはなく、フィルムの状態も悪く、映写機にはかけられないことがわかった
デジタルに変換して、上映権と共に買うことになったようだが、もしかしてどこかにフィルムが残っているのではないかと
まだ映画が大きな力を持っていた時期に撮影や上映が行われたのだから
吉田さんの「玄界灘の子どもたち」を探しての丁寧で時間のかかる問いあわせが続いていて、頭が下がる。彼もまた歩哨的な人だ
撮影場所だった津屋崎、福間、福岡県、福岡市、佐賀県の一部、大分、東京
行政、視聴覚教育、生涯教育、NPO、公民館
行政的対応、親切な人、つっけんどんな人、自分で判断して遠くまで尋ねてくれる人、


菜園便り263
8月17日

 お盆も終わった。民族大移動などと呼ばれて大騒ぎになるけれど、自分が動かなくなるとそういうこともなんだか遠い昔のことのようにしか感じられない。そうかい、うん、そうだったね、おやそうかい・・・。
 我が家のお盆は正月と共に父が采配をふるっていたから、父の実家の宗像、東郷の様式、というかそこの内田家の形を踏襲している。でもまあだいたいどこでも似たようなものだろうとは思う。関東だけが7月のお盆というのが最大のちがいだろう。迎え火を焚くのは迎えに行けないくらい遠いとか、お墓もないというようなことだろうか。今は歩いていける距離に墓地があるということの方が稀だろう。お盆は20日までといっていた父に従ってそれまでは提灯やお供えを残しておく。
 13日にお供えの料理の準備をしてからお迎えに行く。線香を持っていて墓地で火を点け、その煙に乗ってもらっていっしょに帰ってくる。初盆の時以外は仏壇前には下げ提灯と行灯型の置くタイプが1対ずつ。なかの灯りは電球で、コードをあれこれ配線して一箇所で全部を操作できるようにするのも父のやり方だった。
 もちろん前日までにお墓の掃除や草取りもしておかなくてはいけない。我が家のお墓は町により墓地一帯が強制的な区画整理で撤去させられたので、今は近所のお寺の納骨堂に入っている。40センチ幅くらいの同じスペースがずっと続いていて初めてみた時はちょっと度肝を抜かれた。掃除も草取りもない。楽だけれど、なんだかさみしい、あじけないというか。蔡明亮の映画「愛情万歳」では主人公(いつものシャオカンだ)が台北で納骨堂のセールスをやっているという設定だったのには驚かされた。
 とにかくお墓から帰ってきてもらう、というか来てもらう。「迎えは早く、送りは遅く」というのも父のモットーだった。だから夕方早く4時にはお迎えに行くし、帰ってみえたらすぐにお膳をだせるようにしておく。お迎えの日のお団子には白糖をのせてだす。他には素麺と5品のお膳。ご飯、汁物、精進料理3品。父言うところの「ガキンチョさん」への団子と素麺は別に小皿でだす。その他のお供え物は定番の野菜と果実、茹でてない素麺の他はお菓子とお盆用の落雁など。花は行事ごとに姉が花屋をとおして送ってくれるものや兄一家が持ってきてくれたものが両脇に飾ってある。
 家族が亡くなって初めてのお盆は「初盆(ハツボン)」とよんでお葬式に次ぐ大きな行事になる。特別な戒名の入った大型提灯を1対下げ、親族などから送られた行灯や提灯を仏間中に置いたり下げたりする。門や玄関にも提灯を下げる。祖父の時はずいぶんとたくさん寄せられたようだけれど、今はもうそういうことはない。葬儀と同じで、現在の家長の勢力の強さに比例しているのだろう。
 2日目は御膳を上げるだけだし、あまりお参りにみえる人もなく小休止といったふうだ。初盆のお家など、行かなければならない所へのお参りにまわる。
 3日目は送りの日だからまたバタバタする。ゆっくりしていただく、が理念だから早めに最後のお膳をだし、6時過ぎくらいにまた線香に乗せてお墓まで送っていく。送りの日のお団子にはあんこをのせる。砂糖は長い間貴重品だったのだろうから、甘いものというのは特別な贅沢品で、そういうものを感謝を込めて無理してでも供えたのだろう。今のように嫌われると砂糖もちょっとかわいそうな気がする。自分ではほとんど使わないし食べないからあれこれ言えないけれど。
 無事に送った後は、供え物をこもにくるんで盆踊りもある港のそばの会場に持っていく。お坊さんによる読経もあるなか、事前に買った供え物を流してもらうための木のお札と共に渡す。今はどこもそうだろうけれど精霊流しによる川や海の環境悪化が問題になっていて、形だけ流してまとめて処分するということになっている。川なんかでも少し下流で回収しているのだろう。
 初盆の大型提灯もここに運んで盆踊り会場に飾ってもらいそのあと処分してもらう。夜店も少しでていて夏祭りの雰囲気もある。中央の櫓の上にはお囃子と歌の人が座っている。PA(音響)は使うけれど、ライブでの演奏で、そのことは毎年あらためていいなあと思わせられる。港から橋をを渡った半島にはかなり古い形の盆歌が残っているとのことだった。
 そんなふうにして夜も更け、3日間の精進でなんだか軽くなったような身体と心で眠りにつく。久しぶりの静かで穏やかな眠りがある。

 

菜園便り264
8月29日  月の上に月 二重の水平線

 厳しい残暑も、6時を過ぎると陽も遠く傾き、遮る物のない浜辺の熱気も動き流れはじめる。50年ぶりという砂浜での上映会に三々五々みんなが集まってくる。騒ぐ子どもたちを連れて楽しげに、退職後の時間を連れだって、真夏の海岸を裸で闊歩する若者たちも物珍しげに。屋外での上映会は風も吹き抜け砂浜に座り込んだ人たちはのんびりと楽しそうだ。
 青い海と空を前に、波打ち際に立ちはだかるように組まれたイントレ、そこに張られた大型スクリーンが伸びあがる、まるで睥睨しているといったふうだ。
 上映されるのは夏の沖縄が舞台になった「ナビィの恋」。穏やかで滑稽にさえみえた南の島のお話は、いつのまにか佳境へと突っ走り、真摯な愛のことばが飛び交いはじめている。ナビィはもう心を決めている、遠くまで行くんだと、とぎれることなく隠し持ちこたえてきた愛を最後の最後に貫くんだと、そのためには家族も裏切り親族共同体を捨てても、と。
 もちろん映画のなかのナビィはやさしいお祖母さんであり、酸いも甘いも噛み分けた智恵者である。でもそういう人がある日、二度と開くことがないようにと幾重にも閉じてきた扉を瞬時にして開け放ってしまう。世界は黒々と豊で、目の前にはただ白熱する光が、南国の砂浜のように横溢しているだけだ。ニライカナイへ、竜宮へ、桃源郷へ。もう誰も止めることはできない。
 そうしてナビィと長年連れ添い子をなし慕い続けてきた年下の夫もそのことはすでにわかっている。最愛の人ナビィはやっぱり最後の最後には自分の人ではなかったと、いっしょに暮らしてきたけれどやっぱりそうだったとつらい思いで確認する。月の下でそれぞれの人がそれぞれの人生を、喜び哀しみをそうしてこれからを思う。
 「月がこんなに明るいとは思わなかった」という都市からやって来た青年の台詞がスクリーンに流れ、思わず見上げる空にはほんものの月が明るく光っている。海を背にしたスクリーンはときおり風にふくらみ、映画の展開とは違いつつも微妙にシンクロした動きを映像に与えている。群青の海と空に点在する粒々の光がときおり映画の文脈を突き破って目に入ってくる。遠い対岸の町灯り、星々、そしてゆっくりと旋回して着陸しようとする航空機の点滅する機灯・・・。
 スクリーンのこちら側も映画とさほど違わない暑さに包まれ、散らばった人たちが思い思いの姿勢で座り込み見上げている。子どもたちが蛍光色の腕輪や足輪を光らせながらさかんに動きまわっている。スクリーンに暗い海と水平線が映しだされるとそれは実際の海や水平線と完全に二重になって、みる人を惑乱する。時空が跳んで一瞬自分が失われる、ここではないどこかへの儚いあくがれが噴きだす、ナビィが向かった先、ニライカナイが垣間見えたのかもしれない。
 愛、は消えない、生、も続く。そうして夜更けた砂浜をみんなは帰っていく、もう一度自分のあたたかい家庭へ、淋しい部屋へ、ちょっとやさしい心持ちになって。


菜園便り265
9月25日 彼岸、此岸

 陽がずっと低くなって思いがけないところから射し込んでくる。古い炊事場が朝は光に満ちる。今は使ってないからひどい状態だけど、どこもかもが明るい光に輝いていて驚かされる。鮫でもさばけそうなまな板、タイルの洗い場、放棄されたかまども、あちこちの窓からの光を反射してなんだか厳かだ。
 残暑が厳しいとことあるごとに人は口にしているけれど、もうじきお彼岸だ。居丈高な庭の雑草をみているとどこに秋の気配がとも思ってしまうけれど、でも夜も更けるとひんやりとした空気が部屋にも流れ込んできて、あけはなった窓を閉じたりする季節になった。 彼岸の対岸は此岸で、でもそういういいかたは逆転している、ということになるのだろう。此処がわたくしたちの生きている場所であり、そこではない彼方に浄土があるのだろうか、そこが彼岸なのだろうか。生はなにものにも代え難いものであるけれど、死もその後に来るものとこみで怖れることのないもの、求められるものということだろうか。

 そんなことをあれこれ思っていたら台風がきて屋根を壊し、お彼岸も過ぎてしまった。なんだか呆然としてしまう。こんなふうに様々なことが訪れてき、降りかかってき、そうして過ぎていってしまう、そういうことが彼岸へと続く無常ということなのだろうか。絶えず動き続けかわり続けていて、でも全体というか総体としてはいつも同じであるということなのだろう。打ちつけられた潮で茶色く枯れた庭を見ながらあれこれ思ったりする。これも秋の兆しだろう。 

北の町からは初雪の便りも届きました。この津屋崎も徐々に寒気に包まれていきます。海は寒々とした空を映し澄んだ翡翠色です。風のある日は白波をたてて打ち寄せます。どおんどおんという鈍い響きが体にも伝わってきます。でも光はまっすぐで痛いほどです。それが南の地方の冬なのでしょう。
久しぶりの菜園便りです。この夏からいろいろあったし、音楽散歩、手作り市、そうして11月の映画祭と慌ただしい日が続いたからかもしれません。12月からは毎週末の土日に玉乃井を開放しカフェもやるようになりました。モーツァルト全集を2年かけて聴く企画や音楽とつながった谷尾勇滋さんの写真展「soundgraphy」も開催しています。


菜園便り266
12月4日

 表の道を覆い尽くすほどの柿の落ち葉が終わったと思ったら、今度は玄関横の松がどっと散り始めた。掃き集めると二抱えほどもある。常緑樹だしあの細い葉からは想像しにくいけれど、この季節、強い雨や風の後は驚かされるほど散る。
 落葉樹はもちろん、常緑樹と呼ばれる緑濃い樹々もそれぞれ季節ごとに葉を落とす。冬の前、冬の後が落ち葉や病葉の定番だけれど、このあたりのかんじだと晩秋、初春がそれにあたるのだろう。まるで小津の映画みたいでおかしくなる。小津を中心に世界が回っているような気もするけれど、それは彼がこの東アジアの季節の巡りに丁寧に感応していたからだ。食べ物も着るものも総じて生きること全部に季節はぬきさしならぬたいせつなものとして関わっていたのだろうから。
 松を掃くのは、なんというのか細い笹竹の先を束ねた箒で、これは慣れないこともありちょっと掃きづらいけれど松葉にはぴったりだ。以前は松葉箒とよんでいる竹でつくった熊手みたいなのを使っていたけれど、アスファルトの上を掃くには不向きで、おまけに削られてすぐにちびてしまう。この形はやっぱり松林に行ってどっさりの落ち葉をかき集めるのなんかに向いているのだろう。子どもの頃は海岸の防風林に行って松葉をかき集めてきては風呂の焚き物にしていた。
 当時は五右衛門風呂で、子どもが入れるくらいの大きな焚き口だったからなんでも燃せたのだろう。近所の大工さんや建具屋さんから木ぎれや鉋屑をもらってきたりもしていた。鉋からしゅるしゅると薄くつややかでちょっと生々しくもある鉋屑が生みだされてくるのをみるのは楽しかった。大げさに言うとかすかな恍惚感もあった。電動の鉋になったらあじもそっけもない小さな屑状になってしまってなかなか燃えなかったのを覚えている。大きめの鋸屑、みたいだった。鋸屑とか籾殻とか積みあげて火を点けても黒くくすぶり続けるだけで燃え上がらせるのは難しかった。今思うとあんなものでよく風呂が沸いたものだ。燃すものが山積みにされて置いてあった記憶もないから、そのつどあちこちから集めてきていたのだろうか。すぐにぱっと燃えてしまう松葉だけれど油もあってか熱量は高かったのだろう。直接窯をあたためる仕組みだから効率もよかったはずだ。
 熱くてさわれない鉄の釜の風呂で、沈めた丸い踏み板の上で周りにさわらないようにじっとしゃがみ込んではいっていた。小さな子どもでは浮力に負けて板を沈められないだろうし、うっかりバランスを壊すと板が浮きあがってひっくり返ったりしたこともあったかもしれない。そんなできごとをあまり覚えていないのは、いつも家族と一緒に入っていたからだろうか。騒ぎながら母や兄姉と入っていたのを覚えている。タイルの貼られてない剥きだしのコンクリートの洗い場は子供心にもずいぶんと寒々と感じられた。なんだか生活の象徴みたいでもあった。


菜園便り267
1月16日 ジュピターの行方

 カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニーのモーツァルト交響曲35番、39番、41番。CDケースを手にとって開けると空っぽだった。久しぶりにジュピターを聴こうという気になってしまっていたから、最初はなんのことだかよくわからなかった。ああ、CDが入ってないのかとわかった後も、ちょっとぼんやりしていた。
 友人のお父さんの遺品、衣類などを頂いたなかに入っていたCDだった。
 亡くなられる前に聴いておられたのがモーツァルトだったのだろうか。
 最後に聴きたい曲とか、葬儀の時にかけてほしい曲とか、人はあれこれ語ったりするけれど、そういうことは実現されてもされなくてもなんだか寂しい。実際にお焼香のさいにベートーヴェンが朗々と流れてきたりすると気後れする。なんだか気恥ずかしいし、故人よりも生きている者のために葬儀はあるんだなあとあらためて思ったりしてしまう。
 ぼくは、どうなんだろう。音楽をかけてほしいのだろうか、そもそも葬儀をしてほしいのだろうか。わざとらしい形式はほんとに嫌だけれど、悼まれたいというささやかな望みはどこかにあるから、友人たちにはおくってもらいたいのだろう。今も小さな執着がいくつも残ってしまっているように。
 最後に聴きたい曲、というのはよくわかる。死ぬというのはとてもたいへんで、力をふりしぼらなければならないし、心身共にすごくしんどいことだから、特に病院のベッドの上だったりしたら、穏やかな心休まるものを聴いていたいだろう。モーツァルトならぴったりだけれど、でもシンフォニーではなくて、ピアノ協奏曲でもなく、クラリネット協奏曲とかホルン協奏曲がいい、その1番の、澄んで明るいホルンには静かに元気づけられそうだ、ディベルティメントもいい、特にあの1番だったらうれしい、なんだか軽やかに楽しくなれるし、ちょっとせつなくもある。
 プレイヤーに残されたままのCD、というのはミステリアスでもあり、また日常のなごりみたいでもあって、いろいろに思わせられる。そのモーツァルト交響曲のケースにはうっすらと埃が残っていたからプレイヤーの傍にずっと置いてあったのかも知れない。あれこれ勝手な想像が広がってしまいそうだ。目を閉じたいかめしい顔のカラヤンが少し下を向いて腕を上げ、わずかに指を開いている。右手のタクトは何を指し示しているのだろう。口元が少し緩やかだから、表情は厳しくはない。冥想しているというより、眉根にしわよせて真剣になにかを思いだそうとしているみたいだ、なにげないでも人をあたたかくするもの、例えば今朝すれ違った老婦人のうつむき加減の表情とか、食卓の白い厚手のリネンに射していた明るい光だとかを。
 妹が入院した時に、落ちつけるんじゃないかと持っていったCDは静かな曲で、病室に取りつけてあるプレイヤーにセットして流したけれど、「また後で」となんだか疲れたふうにいったからきっとその後も聴かなかったのだろう。返してもらった時にケースにはCDは入っていなかった。お節介が過ぎたようで寂しくなる。葬儀場で聴かされるバッハやビートルズを思いだしてしまった。
 でも置き忘れられたCDといったことへの興味はつのる。ゴミとして捨てられる可能性もあるけれど、でも掃除の人もそんなところまで気を使う余裕はないだろうし、誰も気づかずにいて、次に入院した人が退屈まぎれに何気なく開いてみて、またはなにかかけようとして開けてみて、そこにCDがあるのに気づくかも知れない。聴いてみる人もいるだろう。「ほう、なかなかいい曲だ、うるさくないし、安らかでちょっと華やかな気持ちにもなれる」、と思うかもしれない。「J.S.BACHというのが作曲家かな、曲名はなんだろう、ANDRASSCHIFFはなんのことかなあ・・・。誰が置いていったんだろう、何度も聴かれていたのだろうか。だいじなものだったのかも知れない。でも亡くなられて、誰も気づかずに忘れられたのだろうか。めでたく退院になってその喜びで忘れられたのだろうか・・・」
 バッハを聴きながら人はなにを思うのだろう。耐え難い心身の乾きや痛みを、音楽がわずかでもまぎらわせ忘れさせてくれるだろうか。とうになくなった意識の底にかすかに旋律が届いてなにかが一瞬蘇るかもしれない。それは遠い日に街角の喫茶店で二人して聴いたときの、まっ黒な珈琲の、カップからこぼれる苦いまでの香りかもしれない。そんなことを埒もなく思ったりする。
 忘れられ喪われたものがどこかへ、なにかへつながっていくこともあるかもしれない。あのジュピターはどこで鳴り響き誰になにを喚起させるのだろう。思いもかけない流れのなかで不思議な回路を抜けて、かつての持ち主へもまたつながっていく。生きていくこと、つまり死んでいくこととはそういうことなんじゃないだろうか。

菜園便り268
1月28日 そして 2月15日

 昨日、1月27日はモーツァルトの誕生日だった。玉乃井にスモールバレーのお菓子を食べに来てくれた人が教えてくれた。座られてからしばらくして、ちょっと顔を傾けて、モーツァルトは流れてないんですかと聞かれて、すいません、すいませんとあわててスイッチを入れた。
 表の看板には、モーツァルトをいっぱい流します、全部(全集)聴きます、と書いていたので恥ずかしい。ひとりでぼんやりしている時は何度もかけていたのに、肝心の時には気がまわらなくなっている、困ったもんだ。
 誕生日の前日は第7巻・CD37の舞曲、主にセレナードやディベルティメントだった。
 そうかモーツァルトは1月に生まれたのか、やっぱり水瓶座なんだ、とうれしいようなこわいような。午前中に来てくれた人も2月生まれの水瓶座だと知ったばかりだった。

 そんなことを書きかけていたのに、ぼく自身の誕生日もとうに過ぎてもう2月もなかば、なんだかあれよあれよという間だ。でもそれは時間が速く過ぎていくという感覚ではないようで、なんというか、一昨日と今日がぴったりとくっついてしまっているという感じだ。ほとんどなにもとっかかりになるようなできごとがないから、振り返ってみてもそこにはわずかに動きのあった1週間前のことだけが突っ立っていて、その間の時間がいつの間にか過ぎたことが不思議で、まるごとすっと抜きとられたようで、なんだか狐につままれたような気がして、怪訝な面持ちでじっとあたりを見てしまう、そんなふうだ。
 この冬のはじめにちょっと困ったのが、寒さに震えだした後なにかを思いだそうとして、寒かったからああしたこうしたと記憶を順に引っ張り出しているとなんとそれは春を迎える前の、年の初めの冬のことで、秋を過ぎての今の冬ではなかったりしてびっくりする。でもその記憶が異様なほど生々しいからどうしてもつい最近のことだと思えてしまうからやっかいだ。あの酷暑の夏さえあった8ヶ月はいったいどこへいったのだろう。
 おまけにそういうことは長いスパンでなくても、1日のことでも起こる。アレーと頭をふってもいろんなことがなかなかつながらない。デジャブというかすでに全く同じことをやった気がしたり、やっているはずなのに全く記憶になくてすっぽり抜け落ちていたりする。忘れたとか思いだせないとかでなく、まるっきりない。記憶や時間が歪む感覚というより、電車などでの方向感覚、特に進行方向の感覚が、頭のなかの地図と身体感覚とでずれてしまって反対向きに走っているという思いからなかなか抜けられない、そういった感じだ。
 拘禁時や入院中はあまりにも変化がなく身体の動きさえ少なく、その間のできごと全てが希薄で印象が薄いから後から振り返るとなにもなくて、だからその日その時間は異様に長く感じるのに、ひと月はあっという間に思えてしまうと説明されたりもするけれど、そういうことなのだろうか。じゃあ今の生活は穏やかで閉じられた半分死んだ庭つきの座敷牢なのだろうか。それにしては請求書がきれめなく送られてくるのはいぶかしい。

 

2分50秒というのが指定の時間だった。ヴェンダースだとか   、  、などが参加している。映像それ自体は


とても長く感じたり、えっと思うくらい短かったりする映像をみながら自分だったらどんな映像にするだろう、どんな対象を選ぶだろうとついおもってしまう。おそらくみているほとんどの人がそう思い、それはみている間にだんだんと切迫した問いになってきてしまうんじゃないだろうか。
固定して海をずっと撮ったものや、川の流れを写したもの、空を見上げたままのものなどは誰もが思いつくものかもしれない。実際にそういった映像はよく目にするし嫌な気持ちにはならない。
「ルミエールの仲間たち」では撮ることそのものが描かれるのが多くてちょっとびっくりした。撮影そのものをこちらから撮るとか、映像に関わる機械そのものを撮るとか

撮ること、写すこと、映すことそれ自体を考えようとするものもあるけれど、映像でそれを考える、語ることの難しさは  

 

福間さん、宮田さんが中心になってやっていた福岡フィルムメーカーズフィールド(FMF)が開催していたアンデパンダンと(無審査)の8ミリフィルムコンペ「パーソナルフォーカス」も3分だった。

直接写ってしまうから

 

菜園便り270
5月13日

 玉乃井で毎年やっている「津屋崎現代美術展」も終わった。会期中に映画の会も開催できて、ビクトル・エリセの「エルスール」を上映してもらった。ほんとに久しぶりにみたけれどやっぱり静かで勁い、いい映画だった。昨年の12月にやった「ミツバチのささやき」の流れとしてだったけれど、その後に知りあった人たちも来てくれ、2階の広間で共にスクリーンをみつめた。いっしょみることでいろんなことを共有しつつも、あの家族のだれを中心にみていくかで全体の印象もずいぶんちがってくるのだろう。ぼくはやっぱり悲劇の人に惹きつけられていく。
 5月になって、ひと息に季節が進む。慌ただしく冬物の片づけを進め、夏野菜にもやっと手をつけることができた。今年は全部をプランターと鉢でやることにした。菜園では胡瓜とゴーヤが地中のだんご虫なんかで全部だめになるし、鉢だと風や虫の害にも簡単に移動させて対応できる。支柱などをつけるのが難しそうだけれど、その辺の木に巻きついてもらってもいいか、と思う。とにかく菜園は撤退に継ぐ撤退で、ここまできてしまった。でもひとりだからこれでじゅうぶんといえばいえる。今もプランターでレタスやパセリは採れるし、鉢のなかの山椒の木の芽や芹は、今年もまた芽をふいて元気がいい。
 植えたのはトマト、胡瓜、ゴーヤ、バジル、青紫蘇。苗でいただいたアイスプラント、種でもらったチコリ(ミックス)、花オクラそれにアーティチョーク。これは以前にもいちどだけ苗でもらってみごとな花が咲いたことがある、実はならなかったけれど。
 野菜そのものにも流行りすたりがあるようで、今年はズッキーニやルッコラをほとんど見かけなかった。スイート・バジルというのがでていたけれど、どんなのだろう。米語ではスイート・バジルというのがぼくらがいっているバジルの名称だったけれど、これはちがう種なのだろう。スイートというと甘いものを思ってしまうけれど、スイート・バターと同じで、塩が入ってないとか苦くないという意味も少なくない。
 あたたかさも一気に進み初夏の様相。庭で採れた大きな空豆、夏豆もいただいた。うすい翡翠色の莢から平たく甘い豆がツルンと飛びだしてくる。すべすべしていてそうしてほくほくとおいしい。いっしょに大ぶりの芍薬もいただいた。豪奢でしかも香りたつ花。愛があればそうしてじっくり待つ力があれば、こういったものにも手が届くのだろうか。受けいれる勁さとそこから積みあげる力と、だろう。
 いろんな人の協力で草が刈られ、枝が落とされ、庭は爽やかな広がりをみせている。どこにも茅もカラスノエンドウも見えない。こんなに広かったのかとただただ感嘆しながら、ごろごろと転がりチクチクと芝を感じ、光のあたたかみを吸いこんだ植物の匂いに顔を押しつけたくなる。


菜園便り271
7月2日

 早々と4月に田植えされた早稲はすっかり伸びてもう開花せんばかりの勢いで、ふつうの品種は、といっても今ではこちらの方がずっと少ないのだけれど、6月の梅雨時の田植えがやっと終わり、稲田は緑あふれて静かに広がっている。
 でも、麦秋を経ての麦刈りも早い田植えも、ああ終わったか、といったようにしか覚えていない。そういうことが視覚としてもできごととしても新鮮な驚きにならなくなったのだろうか。それは少しさみしい。毎年毎年同じことに驚き感動しがっかりしたって60回もないのだから、同じことをくり返していてもいいのに。なんだか自分で制御してしまうような、どこかで飽きてしまったかのようなふるまいになってしまった。
 くり返すことで、ありふれた日々のできごとが重い力になっていくように、書き続けられることで深度がうまれ、わずかずつではあれ世界が近づくのかもしれない。楽天的にすぎるだろうか。でもくり返すこと続けることぐらいしか人にはできない。
 毎年記録が更新されるような豪雨にも耐え、プランターの野菜は健気にたっている。3、4種植えたトマトがそれぞれ朱や黄色やオレンジ、丸いのや細長い実をつけるし、キュウリも時々収穫できる。ルッコラも急にのびはじめた。終わり近くなってもレタスや青紫蘇は助かる。後はバジルや芹を時々摘むくらい。それでも十分に食卓をにぎわしてくれる。アーティチョークも3本ほどのび、花オクラも小さい鉢でがんばっている。諦めていたゴーヤも小さいのが見つかった。順調に太ってくれれば少なくとも1本は採れる。ここ数年全くだめだったからうれしい。
 3月の終わりに花瓶に挿した山ツツジがずっと枯れずに続いて小さな葉までだしたので、植木鉢にさして水をやり続けていたけれどそんな挿し木がうまくいくわけもなく、かすかな緑も費えてしまった。でもすごい生命力だ。早春の草木に流れる生の息吹は底知れない。細胞の始まりの力も同じことなのだろう。
 みごとに刈ってもらった茅も、あやうく感嘆してしまうほどまたすっかり繁って優雅に揺れている、なんだか前より勢いもいいみたいだ。柔らかい緑が先端ですっと細くなりかすかに光をとおして輝く。憎っくき敵だが、この季節の草木はどれもが最後の新緑の美しさを放っている。もう2週間もすれば居丈だかな黒々と堅いだけの雑草になるのだろう。
 美術展や映画の会も終わった。あたふたしたひどい雨漏りも、過ぎてしまうと後かたづけがやけにのんびり感じられたりする。誰かがシジフォスの神話に喩えたように、家事はやり続けないとたちまち何もかもが滞ってしまう。河原に石を積み上げ続けるように、黙々と、しかも陰の仕事としてあいまをぬって終わらせなくてはならない。抜けるだけ手を抜いても、最低限の線がある。それよりほんの少しバーをあげるだけで途端にしんどくなるけれど、でもどこかがすがすがしく光るのが目に見える。どこかに小さな喜びがある。


菜園便り272
7月6日 「梅雨のあとさき・・・写真つき」

 絶句するとはこういうことかと、なんだかそんなことに感心してしまった。
 でもショックは大きく、驚愕といってもよく、それをなんとか受けいれるために、心理的な操作を自分であれこれさみしくやっているのだろうと思ったりもする。呆然として自失して、とにもかくにも憂鬱になる。
 2階1号室の天井が崩落した。
 屋根瓦の下の土が風化し粉状になって徐々に天井板の上に降り積もり、なんだか懐妊したような形にふっくらとたわんでいたのだけれど、何とかしなければと思いつつ、意外なほど何も起こらないのでついつい「こんど」と自分にも思いこませていたら、梅雨の豪雨が続いた今朝、ついに崩落となった。それも不思議なほどきっかり半分だけ。
 落ちてたわんだ梁、折れた天井板、雨受けのスティロールの箱はみごとに砕け、泥の下に埋まってしまった。信じられないほどの泥が畳の上にどさりと積まれている。いったいどこからこんなにも、としか思えない。
 明け方にベッドのなかで、西側の駐車場の方でどさりというような音がしたな、なんだか軽い衝撃みたいなものもあったなと感じてはいたけれど、まさか2階の東側の部屋だとは思ってもみなかったし、こんな惨状だとは予想もしてなかったから、驚嘆、驚倒というような大げさな表現でもたりないほどだった。荒唐無稽、みたいなことばも浮かぶ。いったいなんなんだこれは、というような。
 天井は、渡してある梁もほっそりとしたのが軽く止めてあるくらいで、天井板はその上にふわりと乗せてあるだけだからそんなに頑強なものではないけれど、でも上から落ちてくる埃や、時によっては雨を受け止めてくれるたいせつなものだ。なにより屋根裏のあれこれや暗さを隠してくれる。むきだしの梁の太さや美しさを愛でるだけではすまされない。
 これからこの天井や部屋を、さらには玉乃井をどうすればいいかと考えるその前に、先ずどうやって片づけたらいいのだろう、この信じられないほどの土の山。雨をすって泥濘と化し、いかにも重たげだ。乾くと褪せた芥子色でパウダー状にまき散らされる。年月のなかであらゆる要素が風化しているような土。黴も生えようがないように枯れきっている。目に飛びこみ、鼻の粘膜に張りついて、ダストアレルギーを起こさせる微粉末。まったくやれやれだ。
 翌々日の晴れた空の下、少し乾いた空気のなかであらためて見ても、その塊り感、重さ感は揺らがない。いい加減にしろ、と思うし、なんだかバカバカしくもある。いったいぜんたい・・・・。 この2ヶ月ほど妙な痛みが続いているから、「さて」と気軽に上げられるような重い腰もない。困ったことだ。

 

菜園便り273
7月10日   CDの謎、ふたたび

 CDがケースに入っていなかったこと、なくなったりしたことを書いたら、こんどは、見知らぬCDがいつのまにかモーツァルトのCDケースに入っていた。不思議だ・・・
 週末に玉乃井を開放し、モーツァルト全集を連続で聴いていて(今は弦楽四重奏曲の最後あたり)、演奏中のアルバムケースをカウンターに飾るように置いているのだけれど、その3枚組のケースのなかに、見知らぬCDが1枚入っていた。不思議だ・・・
 濃いオレンジ色の地に女の子の半身が黒く印刷してある。ちょっと振り乱した髪が、もしかしたらそういうファッショナブルな髪型なのかもしれないけれど、子どもの顔にそぐわない気がしてなんだか落ち着かない。首からつった小太鼓を叩いているので映画「ブラジルからきた少年」を思いだしたりする。
 6ポイントくらいの小さな文字が周りをぐるりと取り囲んでいて、目をこらすとBOLEROとかmr.childrenとかいう文字が読める(正確にはMRと大文字だ)。そうかこれはミスターチルドレンのアルバムなのか。でもそういうことがわかって、かえって不思議はつのる。
 そういえばずっと以前に、ぼくにとってのそういうもの(「よく聴きますよ」と見栄はっていうようなもの)はショスタコービッチコルトレーンミスターチルドレンかもしれない、どれも胃が痛くなるような気がするけれど、と書いていたけれど、最近ショスタコービッチコルトレーンをたて続けに聴いていたので、その流れに当然のように現れたのだろうか。我が家にはミスターチルドレンのCDは1枚もなかった。
 よく聴かれていたようでいくつか小さな傷もついている。
 ショスタコービッチはチェロ協奏曲の、あのでだしを確認するために聴こうとして、リン・ハレルとロンドン響だったと思うけれど見つからず、弦楽四重奏のなかにも同じ旋律が使われているのでそちらで聴こうと、これはフィッツウイリアム弦楽四重奏団演奏の全曲盤で、このカバーデザインは自分でやったCDデザインのなかでも一番のお気に入りで、それを何枚か聴いたりしていたし、コルトレーンは、近所の図書館にジャズのCDがかなり揃っていてコルトレーンもバラードが中心だけれど「至上の愛」や「ブルー・トレイン」「ソウルトレーン」なんかもあって、時々借りてきては聴いていた(ほんとは彼のLPをどっさりもらっているのだけれど)。
 そういうのを誰かがどこかで聴いていて知ったのだろうか、なんて妄想が広がったりする。でも不思議だ・・・・
 突如稲妻と共に出現したとか、なにかの深く錯綜したつながりのなかから静かに産みだされたとかいうのは、まあありえないから、誰かがおもしろがって置いていったのかもしれない。辛辣なモーツァルト評、この企画への批評だろうか。まさかと思うけれどありえなくはない。丁寧に聴く人にとっては、同じ曲を1日じゅう聴かされるのはたまったものではない。ぼくは台所で珈琲を入れたり、ケーキを切ったりしてバタバタしていて、ときおりリモコンの再生スイッチをあれこれ考えずにピッといれるだけだ。
 ひとりでいてもそんなにゆっくり聴けないし、あんまりよくないのもあるなあなんて時には不謹慎に思ったりもする全集踏破だけれど、ピアノ協奏曲21番にしみじみできたりもするから、また気をとりなおしてリモコンを構える。
 けっきょくまだチルドレン氏のCDは全部を通して聴くには至っていない、それも不思議だ。


菜園便り274
7月19日

 海側の庭はけっこう広い。以前は離れや風呂があったところだからとうぜんといえばとうぜんだけれど、建て壊した後がそのままになっていて、自然にはびこった芝生や雑草がひろがり緑に覆われている。気持ちがすっとほぐれるような空間。
 そこに猫が3匹くる。白と黒の斑はお隣の猫で、彼は野良だったのを飼われるようになって、はす向かいのお宅でも可愛がられてご飯を食べている。そのせいかすっかり太って、動きも鈍くなってきている、年齢もあるのだろうか。
 時々ふらっと家のなかに入ってきて驚かされる。応接室でのんびりテレビを見ていると奥の小さな引き戸の影から不意に出てきて、互いにぎょっとしてすくみあったりする。ここにだれかが住んでいるとは気づかないのだろうか。同じことを何度もやっているのに学習能力に欠けている、なんて思ったりもする。彼なりのエンターテイメント、だろうか。だれを喜ばせるための? 玄関が開いてないときは台所のどこかから、またはカイヅカイブキをよじ登った2階の隙間、時には食器庫のとなりの空き部屋の床下あたりから出入りするようだ。
 今朝は配膳室で珈琲を入れているとふいに廊下側の入り口からゆっくりと入ってきた。互いに顔を見あわせてちょっと驚きあって、いつもだとぱっと走り抜けるのに、そのままゆっくりと歩み去った。なんだか元気がないし、毛並みにつやがあまりない。小さかった頃の「おお」とつい声が出るような真っ白な輝きはない。年齢のせいだろうか、でもそんなに年なのかとも思ってしまう。あの輝きはつい最近のことだった気もする。
 以前、目の前で高く跳び上がって鳩を襲うのをみてひどくびっくりさせられたし、なんだか怖くもあった、見てはいけないものを見たような。餓えや死がかかった猟ではない気まぐれな遊びみたいなもの、でも確実に喪われていくものがある。
 チャコールグレイの長い毛の猫と、あれこれ混じりあった焦げ茶の毛並みのこれも太った猫はたまに姿をみせる。もちろんどれもがいっしょに顔をあわせることはない。それなりに領分があるのだろうから、気を遣うというか侵犯には心しているのだろう。とうぜん争いになるだろうから。
 そういうふうにいうならこの庭は、頻繁に来て散歩したり寝そべったり、木陰にじっと這いつくばって雀を凝視したりしている隣の斑猫の領分なのだろう。小説のなかに、誰それさんちの猫が垣根の下から入ってきて庭を横切ってどこそこの家に入っていく、黒いしっぽの短い猫は松の向こうの奥の方から出てきてそっちの生け垣の隙間からでていく、といった会話が出てきたことがある。なんでもないいつものできごとを話しているんだけれど、どこか変でなにかが決定的にずれてしまったという感じを持たされてしまう。猫はなにかしら不安をかきたてる。全く知らん顔で歩き去るのに、消える直前にうつむき加減の目の端ぎりぎりでちらとこちらを見たような気がしてしまう。
 庭に面した縁側の隅が今の仕事場なので、庭も海もすぐ目の前でついついそちらに目がいく。草木のさまざまな階調の緑と海のとらえどころのない青。庭には錆色の刈られて放置された枝や草の山もあるけれど、姑息な心理操作でそこは見えなくなっているから、視界はどこも涼やかだ。灌木が密集しているあたりは黒々と、夏の植物の居丈だかで暗い塊もある。風が吹くと、軽やかに茅が揺れる、頭を葉先を垂らして風の形そのままに揺れる、そこにはかそけささえある。


菜園便り275
8月1日 『酔っぱらった馬の時間

 前期最後、7月の「玉乃井映画鑑賞会」での「酔っぱらった馬の時間」(2000年)上映も終わった。バフマン・ゴバディ監督の最初の長編であり、初めてクルド語でつくられた映画だったけれど、最初に監督自身の「これがクルド民族の現在であり、現実です」という悲痛にも聞こえるコメントの後は、差別や抑圧の対象にされてしまう当事者がどうしても陥ってしまう、告発とその立場の絶対化に傾くことなく、みごとに生を、世界をすくい上げていく。受けいれる、というもっとも難しい勁さを持つ人たち、の存在を示していく。理不尽さも不公平も受けいれ、とうてい肯えないような強制にも耐えて、そうして先へと歩を進める勁さを持つあり方がさりげないまでにしぜんに示される。諧謔にならない静かなユーモアさえある、奇跡みたいだ。
 絶望を選ぶにしろ希望を選ぶにしろ、自身で引き受けるという率直な姿勢が、威圧的な形でなく貫かれる。整然とした論理、説得力のある文脈のなかでというのでなく、与えられた条件に身ひとつで向きあいそれらを引き受けることとして。それが今の時代の、その地域の正義であるからということでなく、押しつけられたものであっても、それを受けいれ、今の生に、あり方のなかに取り込んでいくしかないと。正しいとかまちがっているとかいうことではなく、生のあり方の根幹がそうなのだと静かに語るように。こういう人たちの存在が、個の欲望が全開にされた今の世界の唯一の希望かもしれないと思う。
 同じことは、彼の2004年の映画、「亀も空を飛ぶ」にもみることができる。けして皮肉や冷笑に陥らずに、滑稽でさえある世界が、厳しい現実が、描かれる。全てが喪われても誰も大声を上げない、愁嘆に溺れず、すでに次へと体は向いている。現象をしっかりと引き受け、身ひとつで対応していく、そうして結果をあれこれ斟酌しない。こういった勁さをどうやったら人は身につけることができるのだろう。個人や家族が単独でつかむことはできない。なんらかの共同体が時間をかけてつくりあげたもののなかで静かに発酵し成熟するものだろう。かつては宗教的とも呼ばれたものに近いのかもしれない。
 常に世界のあり方を見つめ、隣人の顔とも柔軟に対応し続けながら、一方ではけしてかわらない同じ声をどこまでも低くつなげていく。だからいつの時代でもどこででも、最後の最後の世界の崩壊を食い止め、そういうことばでいうなら小さな希望の種子を産みだしていく、自身の身体や死と引き替えに。もちろんそんなことをことばにすることも声にすることもなく。
 一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんむずかしい、とかなり突き放した場からいう人もいる。そういう呪縛の強さ、こわさをどう抜けていけるのかは、わたくしたちがすぐにでも答えなければならないほどの緊急課題だろうし、それはますます重大になっている。
 誰もが、つまり自分自身もなにかの抑圧の対象でしかないという理を丁寧に見つめる力、知る力を持つこともひとつの答えだろう。そこから人は人と「弱さ」の奥で出あいふれあっていく。自分を「底辺」に置くことは人にとってそんなに難しいことではない。
 受けいれる勁さを生活のなかで持ち抱え続けるのはつらく難しい。「成人」することで、年月のなかで、喪わざるをえないものも少なくはない。だからこの映画や「亀も空を飛ぶ」が子どもや思春期を表現の中心に据えるのもとうぜんなのだろう。
 そこを抜けてどこかへ、輝かしい未来へゆくといった通過儀礼ではない受容の形を、改めて紡ぎだしかつての神話に重ねあわせていく、そういう作業を人は、共同体はどこかで始めているのだろうか、いつも<誰か>が連綿とやり継いできたように。たぶん絶望と希望というのは、全く相容れない正反対のものではないのだろう。雪を被った遠い山稜を仰ぎ見るように、未明のでも懐かしいものへ静かに手を振る。

菜園便り223
2011年1月10日 雪

 諦めていた空豆が、次々と芽をふいて伸び始めた、すでに5株。発芽しそうにないなあ、だめかなあと思って買ってきた2本の苗も順調だから、初夏にはどっさり実ってくれだろう。菜園の端に植えた2株のレタスも酷寒のもとゆっくりと葉を広げている。植物はほんとにすごい。
 先日は台風以上の暴風雨で、「窓も吹き飛ぶほどの大風」に怯えていたら、ほんとに2階のはめ殺し窓が吹き落とされて割れてしまった。ぽっかりと開いた穴はそのままだから、風が吹きこみ時には雨や雪も降りこんでいる。でもなかなかすぐには修復できない。気持ちが萎えてしまって、体も動かない。
 冬の海は荒れていることが多いから、いつも濁って灰色。晴れていても、どんよりと鈍い光を受けてかすかに暗い緑をのぞかせるくらいで、白い波をたて続けている。打ち寄せる音もどろどろと響く。まるで世界の底が揺すられてでもいるようだ。満潮と重なると防波堤に打ちつけて飛沫を高くあげては道路に降りかかる。
 そんな日には砂浜を歩く人影はもちろんない。走り抜ける車と風をきる鴎だけだ。手前の道をフードをしっかり下ろして駆け抜けていくのは勤勉なジョッガーかダイエットを命じられた糖尿患者か。でもこんな日にも走ろうとする過激さは、過激故にすぐに潰えて、明後日にはもう炬燵のなかだろう。
 命よりだいじなものを守るために、が、いつのまにか数値としての健康を取り戻すために人は果敢に命さえも捨てようとする。奇怪な逆説であり転倒だけれど、それが今のわたくしたちを取りまく現実なのだろう。失って久しい穏やかな冷静さ、つまりあたりまえさ、平凡な常識といったものは、ついに再び人を護ることはないのだろうか、身体といった基礎部さえも。
 新年早々なにやら悲観的な話になってしまったけれど、そうやることで人は、世界は生き延びていっているのかもしれない、計り知れない巧妙な智恵の結晶。人口を半分に減らしても生き延びるといった選択は、映画のように殺しあったり籤で決めたりすることなく、まるでそれが摂理であるかのような形をとってスムーズに行われるのだろう。人は生きることそれ自体が目的化されることに倦んで、幸福とか欲望とかいうことばを使い始め、そうしてまた、類としての存在の維持を最優先させる方へと向かうのだろうか。
 外は雪、奇妙に明るい空から絶え間なく落ちてくる。シンとしたなかに静かに降り積もっていく。そうやってゆっくりと世界も終わり始める、か。


菜園便り224
1月16日

 寒さは続いている。12月は例年の倍以上の降雨量だったけれど、1月もそれは続いていて、雨や雪が多い。冷え込みも厳しくて、買い物に行く道にも氷が張っていた。田んぼの水が凍りつき、刈り取られたまま放置されていた稲株が氷にびっしりと覆われて、ひどく荒んでみえる。こんな光景は初めてみる気もする。とびとびのカリフラワーの植えられた田は、くろぐろした厚くて硬い葉をびっしりと広げている。
 北風も強いそんななかをカラスや鵯、ツグミは勢いよく飛びまわっている。人影はなく、遠くで山の端がかすかに色づいている。重い大根や白菜、シメジ、豆腐を抱えて戻りながら、だれがみたって今夜は鍋だと思うだろうなと呟いてみて、でも一昨日、山本さんが来たときにやったばかりだから今晩はちがいますよと、まるでだれかに返事するように思っている。じゃあ、夕飯はなんだろうと、人ごとのように問いかけてみたりもして。
 家に戻ると玄関脇に置いてある雨水をためる瓶にも厚い氷が張っているのに気づかされた。ゆっくりと引きだすと厚い氷の板で、低くなった光線が差し込んできて輝く。ずっと昔の、ベランダに置いた火鉢型の水槽から引きあげた氷を抱えていた写真を思いだす。もう写真もないし、記憶のなかの映像はきっとつごうよく改変されているのだろうけれど、着ていたフードつきのコートのことはよく覚えている。誕生祝いにもらったそれをどこで買ったか、そのときどんなふうに店員と話したか、そんなことも。
 そんなふうに想いでというか過去は奇妙な部分がくっきりと浮かびあがってくるのだけれど、写真やことばに一度定着されたものがより鮮やかに長く残っていくのはちょっとさみしい気もする。そうやって静止し限定的な映像として整理され単純になったもの、つまりいろんなものが、雑多なもの不必要なものとして削りとられた後の人為的に整合されたものが記憶として定着しやすいのだろう。語られ書かれてことばとして描写され説明されたものも、その単純化や虚構化によって対象の輪郭線がくっきりと記憶に残っていくのかもしれない。
 明快で澄んで聴こえるけれど、CDの音が細かな聞きとれない音も含めた雑多なものがつくり広げる世界をそぎ落とすことで成りたっていることに似ている。まったく改変され創りあげられた手前勝手なものだけが記憶として残るとまでは思わないし思いたくないけれど、でもおおかたはそうなのだろう。
 そうして写真の場合、それを撮った人、そこに、すぐそばにいてじっとみつめカメラを抱え、慈しむように対象を、全体をすくい上げた人のことはきれいに消去されている。だれがだれのためにどんな思いで撮ったのかかすんでしまう。
 円形の厚い氷を得意げにかざし、朝の光を受け笑っている遠い遠いかつてのぼくを、レンズの向こうからにこにこしてみていただろう人のことはもう遙かすぎて思いだせない。


菜園便り225
1月31日

 珍しく雪が降りしきった翌日は晴天。庭のそこかしこに残った雪も消えた。それでも底冷えのする冷たい空気のなかを歩いていくと、風景がくっきりと感じられる。とくに遠い山や丘が異様なほどその輪郭を浮きあがらせている。なんだか特別なレンズをとおしたようで、雨上がりのように鮮やかでみずみずしい。春を思わせる空の青さと、そこからの透明でまっすぐな光の力だろうか。円盤形のふわりとした雲が重なって続いている空。
 冬至を過ぎ、立春も近づいた今、光はもう新しい季節のなかにある。かっきりとした陽光が隅々まで届き、道ばたの小さな草の葉すら際だたせている。けれども夕方にはたちまち厚く暗い雲に遮られ、海の色もあっという間に陰りの下、鈍く冷たい色へとかわる。
 古い食べられなくなった米を庭に蒔いていることもあって鳥がにぎやかだ。でも思ったほどたくさんは来ない。隣の猫が時折やってくるから警戒しているのだろうし、鳥なりの縄張りもあるのかもしれない。雀、鵯、キジバト、それにセキレイくらいでごくたまにジョウビタキが一瞬姿を見せ、目白が木の枝に現れたりする。春の鳥はまだということだろうか。
 雀は鳴き声もかわいいし、小さな体を寒風の下で大きく膨らませころころと太ってみえる姿は愛くるしい。ときおりひどく細いやせこけたのが混じっていて、思わず声をかけたくなる。おい、少しは容姿も考えろ、無理してでももうちょっと食べて羽に艶と力をつけて、時には膨らませ広げて愛嬌を振りまくことも大切だぞ、とかなんとか。まるで自分に言っているようだ。でも弱い痩せた雛が餌をもらい損ねてますます痩せてさらに弱って潰えてしまうのも掟のひとつなのだろう。それを憎んで人は<文化>をつくりあげたのだったか。
 隣家の猫はみごとな白黒の毛なみで顔もかわいく、プイと顔を背ける高慢な仕草も猫好きの眼にはたまらないらしいけれど、やっぱり家猫の性か、食べ過ぎで太りかけていて、危うい。それでもその体で地面を音をたてずに這って鳥を狙ったりしている。幸い野生の鳥は敏捷だし警戒も怠らないからそんな手にかかったりはしない。
 一度暴れる鳩を足で押さえつけ、羽に歯をかけているのをみたときは驚かされた。ぐったりしてもうこときれたかと思わせられた直後に必死の抵抗、片方の羽で猫の顔面を撃ち、一瞬の隙をついて飛びたった。跳ねて手を振り上げてももうおそい。かくべつ悔しそうにでもなく去っていく後ろ姿が、生活のためでも生きるぎりぎりでもなく、ただ手慰みにもてあそんだとでも言うふうでそら恐ろしくなる。そういったことは互いの了解のなかの、<自然>の摂理なのだろうけれど、襲うものと奪われるものとのそのあまりの落差は理不尽にみえる。
 食住満たされ愛される容姿も持つものが、まるでジムでの運動のように、必死で生き抜くためにわずかの餌をつつく貧しく痩せたものを気まぐれに襲う。時には命を奪われ、それすら誰かの食や生を満たすわけでもなく散らばった羽の残骸のなかに放置されてしまう。または家人の恐怖や嫌悪の声に怒られてすごすごと手入れの行き届いた庭にぽいと吐き捨てられて、また悲鳴と怒鳴り声をあげさせるだけでしかない骸になりはてる、ああつらい。

菜園便り226
2月2日

 例年より平均気温がずっと低い、つまりとても寒かった1月が終わったとたん、あたたかさが戻ってきた。玄関脇の水瓶の氷が消え、道ばたの草花がいっせいに頭を上げる。くすんだ空の下の縮こまった眼には見えなかっただけかもしれない。おおいぬのふぐりが仏の座がシロツメクサがしっかり開いている、それもそこかしこに。黄色い花も混じる。タンポポでもおかしくないけれど、そうではなくて茎を伸ばし四方に広がっている。かすかにえんじ色が茎の一部に線状にある、なんだろう。
 収穫が終わったのか、くろぐろとしたカリフラワーが取り払われ鋤が入っている。もちろん小型トラクターでの耕作だ。牛馬や人が力を込めて踏ん張っているようなことはない。でも先日見た山間の段々畑なんかは、やっぱり人の力と技でやるのだろう。その時もずいぶんたいへんだなあと、思わず手を握ってしまったりするほど身体的にも感じたけれど。人が後ろから押していく耕耘機(黒沢の「天国と地獄」で三船敏郎が練習していたようなタイプ)も昔はあったから、ああいったのが改良された形であるのだろうか。いずれにしろ田植えも小型の手押し機械でやったとしても、隅々の変形部分は手で植えていかなければならない。なんであれあの高さまで持っていくのが先ず大仕事だ。たいへんだろうなあとまた思って思わず溜息もつきそうになるけれど、でもどこかに自分がやらなくてすむ今に安堵している。そうしてこんなんじゃ自給自足なんて夢のまた夢、ついにしらじらしいことばだけで終わるんだろうとあらためて思い知らされる。
 昨日誕生日がやってきた。こんなふうにほっと感じるのは40歳になったとき以来だ。きてほしくないような、でもなんか安堵するような、妙なそわそわする気分。先日の出版記念の会は誕生日の祝いも重なって、赤い苺の大きなケーキもあった。それはつまり60の還暦の祝いということで、赤いちゃんちゃんこの代わりの、赤いハートの入ったTシャツももらった。その場でセーターの上から着たけれど、Mサイズのそれがそれなりにおさまってしまい、あいかわらずのやせこけた体だと知れ渡ってしまった。「着やせするタイプです」なんてことばがもうねじれた冗談にもならなくなった。
 最近、率直な人たちが言っていることだけれど、老いることは、老成したり衰頽したりして「老人」になるだけのことでなく、幼児期の自分も少年期、青年期の自分も、そうして壮年、老年の今の自分も全部、無意識の部分も含めて全部が混在して現在ここにあるということらしい。身体にしても一律にガタがくるわけでもなく、さらに高まる機能や部位もあるようだ、その扱いに習熟するということも含めて。30代の頃には漠然とだけれど、年をとることは恍惚化し、痴呆化し、身体的にはよぼよぼになることだと、不安や嫌悪と共に思ったりもしていたわけだけれど、そういうことでもないのだとわかる。あれこれ読んだり聴いたりしてきたけれどやっぱりその時になるまで気づけないまま今にいたり、ああそうかと思いいたる。そういう理解を諦念といえばいえるのだろうか。年齢に追いついていかないというか、そのあまりのギャップに唖然と惚けたようになったりもしていたし、それは今最も大きく開いている気もするけれど、それがふつうであたりまえなのだというようなこともやっとわかる。
 社会も人もいろんな要素や部分からなりたっているから、そういうことはとうぜんなんだけれど、それよりもう少し広がりのある深さももった意味あいとして、幼年から老年までの具体性と深い根を持ったリアルな部分から、ぼくという個もそして人もつくられている、そういうことだろう。
 それぞれの生の現場で人はあれこれ悩み、喜び生きていくわけだけれど、そのひとつひとつが、それぞれの瞬間瞬間が、身体に心にきちんと全部残っているのだろう。自身で気づかなくても、すっかり喪われてしまったように思えても、それはちゃんとある。不意に思いもかけないときに遠くから伝令が着く、自分自身からの時を超えた伝言。そうか50年前のあの時のことはそういうことだったのかと、愕然としつつでもうれしくなる。死んでしまう前に全てが消え失せる前にやっとわかった、そのことは大いなる救いでもあり、そうして再びの懊悩でもある。

菜園便り227
2月6日  笠智衆の林檎<再>

 最近の「続・文さんの映画をみた日」(註:行橋のギャラリーYANYAからだしている小誌「YANYA’」に連載中)は映画のことなんかこれっぽっちもでてこないじゃないか、前回の「笠智衆の林檎」なんていったい何のことだ、という糾弾の声も聞こえる。そうだなあと自分でも思う。でも、いいわけではないけれど、あれくらい「笠智衆の林檎」のことをうまく語れたのは初めてだとも思う。
 いつもは、小津のさあ、あの「晩春」でさあ、笠智衆三宅邦子と再婚するとかなんとかいう嘘までついて原節子を嫁にやろうとして、結局そうなって、そうして結婚式から帰ってきて、もちろん原節子がいないからガランとした暗くさみしい家で、古い日本家屋だから真っ暗な隅々があって、誰もいなくて声もしなくて、だからどうしていいかわからずに笠智衆は礼服の上着を脱いだだけで着がえもしないまま、着がえさせてくれて後かたづけしてくれる人もいないこともあるんだろうけれど、どうしても落ち着かなくてわけもなく林檎を持ってきて、椅子に座って剥こうとするんだけれど、とうぜんにもそんなものはほしくもないことに気づいて、自分が何やってるかもわからなくなって、愕然として、いっそうさみしさはつのってついにがっくりと肩を落としてさめざめと泣き始める、あれだよ、あれ、と言ったりするのだけれど、でもそういう映画内のできごとの説明をしてみても、笠智衆の悲しみや孤絶感は、了解済みのことばでしか語れないし、それは了解済みのある概念を再度ことばにして単純化し納得する、させるだけのものでしかない。
 笠智衆はなにかのインタビューで、「ある映画評で「最後にがくっと眠りこける主人公」と書かれて、激怒しました」と言っていたけれど、そうだろうなあ、そういうふうにとってしまう鈍感な人もきっといると思う、ひどい奴だ、小津に失礼だ、とも思うし、あの映画の文脈ではありえないことだろう。でもそれはそんなに的はずれでひどい侮辱ではなく、原節子との長かった心理戦争の疲れやその日の式そのものの疲れから、また現実を見たくないという逃避から、眠りへと逃げ込んだという解釈もありうるだろうし、それがひどく下世話で滑稽だということはないはずだ。きっとその評自体に悪意があってひどい揚げ足取りだったから、彼は怒ったのだろう。
 つまり、ぼくが言いたいのは、見終わってすぐに誰かと、電話ででもいいから話したくなるような、それはその映画のことでなくてもいいんだけれど、そういう高揚感が生まれ、机に向かってなにか書き始めたくなるような映画を最近みてなかったし、古い映画をしみじみとみる気力はなく、でも生活や何やらはそこそここなして、あれこれ動き回っていても、やっぱり今のこのがらんどうでメランコリックな憂愁は隠しようもなく、だからそういう気持ちが笠智衆の林檎を呼び寄せるのだろうし、それを解説でなく、そこで描かれようとしただろうものこそを語ってみようと試みていたのです。
 と、書いてきて、そうだろうかとまた問い返すのは、「感傷だ、自己憐憫だ」といった外からの悪罵すら省みずに、ぼくはつらいんだ、涙がでるんだと叫んでいることのリアルが、説得力を持って語れていたのか、そもそもそのリアルがほんとうなのかというやっかいな心理の袋小路に、弱った心が半分迷い込んでいるからでもある。ああまた泣きたくなる。


続・文さんの映画をみた日⑧
ハーブ&ドロシー

 ニューヨークで美術作品を収集している夫婦を撮ったドキュメンタリー。とにかくこのふたりが独特で魅力的で好きにならずにはいられない。特別変わっているとか極端な生活をしているとかいうことでないから、つまりふつうの生活人だから、というのがいちばん大きい理由かもしれない。夫、ハーバートは20年以上前にリタイアしたこの映画の時点で86才のもと郵便局員、学校が大嫌いだったようで、自分で決めたことだけやっていくといった頑固さの片鱗を今も残している。彼をハービーと呼ぶ妻ドロシーは彼より一回りほど若くブルックリン図書館の司書を定年退職している。彼女は1950年代にすでに大学院まで行ってきちんと勉強した人で、そんな雰囲気を今も残している。そういうふつうの人が、とっつきにくそうなミニマルアートとかコンセプチュアルアートとかいった当時バリバリの現代美術を積極的に集めてきたことにも驚かされる。時代のなかの自分たちの世代的な感覚に忠実に、そのもっとも鋭い部分に関わり続け収集し続けてきたのだろう。それは自分自身を、世代を、時代を見続けることでもあったはずだ。米国民やニューヨーク市民にとって、そういった抽象的でアバンギャルドな表現が、生活や感受性とどこかで地続きになっていて素直に受け止められ、快感をもたらすものとして身体的にも受け止められるものでもあったからだろう。
 収集した作家としてソル・ルイット、ドナルド・ジャッド、チャック・クロース、クリスト、リチャード・タトルといった名前が次々に出てくる。彼らへのインタビューも挿まれている。まだ彼らが若く無名である頃に、ハーバートとドロシーは関心を持ちアトリエに行き作品を見て(ふたりはいつも全部見せてもらいたがったようで、それくらい興味があって、そういうことにはどう猛なほど積極的だ)、お金のことも細かに直接交渉する。次々にほしくなり買うから、分割や後払いになり、その額も貯まっていく。美術作家たちが次第に有名になると、スポンサーとしてつく画廊が全部をとり仕切ろうとするからとうぜんもめはじめる。それでも特別な関係を築いてつきあい続け、買い続ける。どこかに世間の常識を無視する楽天的な鈍感さも備えてもいるんだろう。一部の米国人特有のアグレッシブネスだけではない、と思う。でもどうしてこうも登場してくる人々がいわゆる「白人」ばかりなのだろう。ファインアートのなかのさらに「ハイエンド」ということだろうか。
 奥さんの給料で暮らし、旦那の金は全部収集にまわす。彼ら自身もかつては描いていたから、見ることにも真剣で、大小にかかわらずいい作品や意味のある作品を集めていく。つまりその作品自体の完成度もあるけれど、その作家の流れのなかで重要なもの、ノートやプロトタイプ、例えばチャック・クロースの、グリッドの描きこまれているマスキングテープが貼られたままの下書写真なども集めている。それは当時制作中の彼のアトリエの床に落ちていたものにサインしてもらって買ったらしい。そうやって手に入れたものをマンハッタンの一間のアパートメントに飾り、しまい込む。信じられない数の、量の作品が壁を覆い、箱詰めにされて積み重ねられ、ベッドの下に、あらゆる隙間に押し込まれている。
 集め、積み重なった4千点を超す厖大な作品をナショナルギャラリーに寄贈してほっとしつつ、寄贈者として自分たちの名前が彫られた美術館の壁を誇らしく眺めながら寄り添うふたりの後ろ姿、クリストの作品を並んで見る姿で映画は終わる。監督はニューヨーク在住の日本人女性。監督が女性だとか日本人だとかほとんど感じなかったのは、撮影が別人で「プロ」だったからだろうか。テレビ的に整理して説明し、対象との距離をとり整然としているから、はみ出したり接近しすぎたりの映像も、切迫感や激しさもない。どこかしら彼らが収集したミニマルアートのようにクールでもあり、安心してみられるような、もの足りないような。でもとにかくあたたかさはしっかり伝わってくる。ふたりがそういう人だからだろう。高齢で、まだまだ好奇心に溢れ情熱的だけれど、対象に対しての冷静さや穏やかさも生まれている。脂ぎった荒々しさみたいなものが小さくなるのだろう。彼らの、作品や作家への愛より、飼っている猫や亀や熱帯魚、それに人やできごとへの尽きない興味がより大きいのが見えてくる。ハーバートの老いて子供じみてみえる体型や言動もそれを倍加する。
 ぼくがみたのは平日の午後だったけれど30人を超す人がみに来ていて驚かされた。ふだんはドキュメンタリーなんかだと、水曜日(レディースデイ)でもないとぱらぱらとさみしいほどしか人影はないのに。美術や収集という内容としてでなく、優しい人たちの物語、夫婦の愛情の映画として見られているようだ。
 映画のなかの美術家や評論家のなかには彼らを美術界の「マスコット」とよぶ人もいて、たしかにそういう面もあるのだろう(そうやって、彼らを美術家、評論家、画廊主、ジャーナリストとはちがう範疇に押し込めて、自分たちをより価値あるもの、高みに置くための底上げの意図もあるかもしれない、無意識にであれ)。一方には、ことばを使わないつまり論理化したり解説したりしないふたりのアートへの無償の愛を、とても大切に思い感嘆する作家もいる。ハーバートたちの美術作品や作家への愛、美術家たちのふたりへの関心の両方が、ペットへの愛(どちらか一方が全面的に心配りしてあげないといけない関係とでもいうか)といったものに似ているのにも気づかされる。たしかに両者とも、とくに美術家たちは独善も無垢も含めてどこか子供じみてもいる。 
 米国では高齢者つまり老人は、シニアシチズンなどとたいそうな呼び方をされつつも実際はみごとなほど排斥され関心の対象から外されるけれど(だからいっそう高齢の政治家や力を持ったものの意固地さがはびこるのだろうけれど)、おそらく他の文化圏ではハーバートとドロシーを尊敬もし、「かわいい」とも感じ、そのあり方や表情やさらにはしぐさをも愛でるのだろう。


菜園便り229
2月16日 晴天

 時には雪も降ったりする日々だけれど、気温が零下になることもほとんどなく、野には春の花がじわじわと広がっていく。いちばんめだつのはやっぱりオオイヌノフグリ。名前からしてずいぶん特異だけれど、こんなふうに大がつくのは、大がつかないのもあるのだろうか。オオムラサキツツジというのがあって、あれにはたしかコムラサキもあったはずだ、どういう関係だったのかは知らないけれど。
 オオイヌノフグリがめだつのは緑や花の少ない季節だからだけど、鮮やかな色とくっきりとした形、なによりあの小さくて群れて咲く姿の愛らしさに誰もがつい目をやってしまう。青い花、といえるけれど、カップ状に開いた花の濃い空色が中心へとグラデーションで薄まっていく、細く濃い筋が先端から内へとすっと伸びている。どことなく頭が大きすぎる幼児の体型を思わせる形だからいっそうかわいいと、好かれるのだろうか。
 春の野の花、といったような本を開いてみると、タチイヌノフグリというのもでてくる。どちらも明治期の外来種で、在来種のイヌノフグリを追いやっていったようだ。ふーーん、そうかと、いろいろのことを思わされる。そうしてその在来種にしても、もっとずっと前にどこかからやってきて、その当時の在来のなにかを駆逐して広がったのだろう。
 鳥たちの移動の季節も始まったようで、あちこちで群れをなしてバタバタしている。鵯も群れて鳴きたてている。彼らも、もともとは山と里の間を渡る漂鳥だ。今では都市部では年中いるようになったけれど、律儀に移動をくり返す群れもある。生き延びていくために、だろうか。津軽海峡の荒波悪天候のなかを本州へと渡っていく鵯はテレビの番組でみたこともある。北海道から長野まで、ずいぶんな距離だ。もしかしたらこのあたりの鵯も、その辺の山でなく一気に関門海峡を越えて、または、もしかしたら、玄界灘を超えて彼の地まで飛ぶのかもしれない。そんなことを思うとぼくもなんだかパセティクな気持ちになって手を握りしめ、立ちあがったりする(まるで唐十郎の紅テント芝居のエンディングだ)。
 途中、鷹に襲われたり、カラスとの群闘があったりもするだろう。おおかたは弱いものから順に死んでいくのだろうけれど、こればかりは運も大きいだろう、きっと。群れをなす意味のひとつもそこにあるのだろうし、いくつかの個体の「犠牲」の上に群れの、種の保存と永続が約束される。誰もが本能として冷静に闘って必死に逃げて、ヒロイックな犠牲なんてことでなく、ただ死んで、生きて、そうしてまた半年後には同じ危険を顧みずに営巣のために出発する(帰っていく、というのがいいのだろうか)。
 子供の頃見た動物映画を思いだしたりもする。鳥だけでなく鯨もカリブーも、信じられない距離をほとんど飲まず食わずで文字どおりボロボロになって移動していく、つまり渡っていく。毎年毎年くり返しくり返し。「何故」「なんてつらいことを」「わざわざ」と率直に感じたことを覚えている。「愚かだ」とか「かわいそう」と思ったことも。レミングなんて、死ぬために集団移動するように描かれていて、ことばさえ失ってただ呆然とするしかなかった。
 蝶も渡っていく。恐竜も渡る、「ジュラシック・パーク」では。あれはなんだか心うたれる挿話だった。もしかしたら作者はあれを書きたいから、あんなに長い小説をせっせと書いたのかもしれない、そんなことも思ったりする。「人は?」と誰もが思う問いへの返答が最後に置かれていた。ことばはもう忘れたけれど、せつない、というか辛辣な答だったことと、それが生んだ情感が小さくはなかったことははっきりと覚えている。


菜園便り230
2月20日 

 昨日は庭に隣の猫が居坐っていて鳥が来なかった。やっぱりちょっとさみしい。
 「60才になってはじめてみた映画は「ハーブ&ドロシー」だった。満願のKBCシネマのカードをよりちゃんにもらっていたから無料だった。だから「シニア」と言って千円しか払わない快感はまだ味わってはいない。」と書いたけれど、それからあまり日をおかずにまた映画に行ってついに「シニア」といったら、「身分証明書を」なんて無粋なことも言われずに千円ですんで、なんだかあっけなかった。それは同じくKBCシネマでの「ようこそアムステルダム美術館へ」というドキュメンタリーで、いろいろ評判になっていたし、予告編もみて楽しみにしていたのだけれど、出てくるほとんどの人間が嫌な奴ばかりでうんざりしてしまった。つくりも羅列的説明的で、もしかしたらそういう嫌な面を見せつけるための巧妙なレトリックを駆使しているのかと思ったりする。政治家、行政人、企業人、学芸員、建築家、活動家・・・、20世紀美術が1点しかないなんて言われるからさすがに「芸術家」は出てこないけれど。
 ちょっと憂鬱になって夜に「たま」という、1日に1回だけやっていたドキュメンタリーをみにいったら、なんと最終日はゲストが来るから特別興行でシニア料金はない、席も全部売り切れているから補助椅子しかないということだった。シニア料金で映画をみるのも前途多難である。
 「たま」というのは覚えている人もいるだろうけれど、90年代初めに活動したバンドで「さよなら人類」という曲はヒットチャートのトップになるくらい流行った。今思うと不思議だけれど、そういう時代だったのだろうか。「イカ天」ででてきたバンドというと思いだす人もいるかもしれない。そう、あの奇妙な「たま」。「らんちゅう」とか「まちあわせ」とか「学校にまにあわない」とか今でもそこそこ歌えたりする。
 映画は現在の「たま」を描くということで、2003年に解散してからでも7年たっているメンバーを追ったものだけれど、最初にぬけた柳原くんはでてこない。ランニングの石川くん、おかっぱの知久くん、低音楽器の滝本くん。この滝本晃司がこの日監督といっしょに舞台挨拶に来て、2曲歌って、それが特別興行だった。映画のなかでもさんざん聴かされていたから違和感はないし、ライブを続けている人のどこでもさっとやれる器用さでまとめられていた。映画のなかの石川浩司は「ホルモン鉄道」というパフォーマンスというかショーというか、身体を駆使したすごい演奏活動をやっていてあっけにとられたし、感動させられもした。でもライブとして目の前で展開されたら、最前列で見るのはこわい、ひとりおいてその後ろから見るだろう。映画のなかでも、ああいうのはやだ、とはっきり言う人もいる。でもすごい迫力だ。ふたりでやっていて、その相方の大谷シロヒトリという演奏家のことも気になる。
 知久寿焼は悠々自適というか独特の勁さでやりたいことだけをやり抜こうとする。音楽も演奏も日常の延長で歌って踊るというようにやりたいと、お酒を飲みつつやっている。それを「プロじゃない」と批判されて、ああ、そうですか、じゃあ素人ですと、さして気負うこともなく応えている。声も曲も昔のまんまに響く。柳原くんが抜けてあの声とのハーモニーができなくなったのはつらかったし、今も残念だと語る。「さよなら人類」にもあった、あの「さるーーー」といった高音のコーラスのことでもあるのだろう。賢しらに、これはビートルズだね、なんて言ったことが思いだされて赤面する。石川、知久は「パスカルズ」という小規模オーケストラのメンバーでもあって、そのライブ演奏もでてくる。
 つい最近、ある映画のパンフで「侯孝賢は懐古でなく回顧だ」というようなことを読んだばかりだけれど(もちろんそうだ)、ぼく自身はおおむね懐古、ということになる、淫するほどではないにしろ。想いでの甘さ深さは今の時代尋常ではないし、それを個人の感傷だ自己憐微だと騒ぎ立ててもしょうがない。そうなのだから、そこから冷静にはじめてみるしかない、そういう自分や時代として。
 今日は庭にツグミも来ていた。


菜園便り231
3月13日

 庭には光が溢れている。雀やジョウビタキが芝生の上でなにか啄んでいる。
 今も向かっている机にクマガイモリカズ(熊谷守一)の絵はがきが貼りつけてある。ずいぶん前の森さんからのはがき。黒いお盆に4個の真っ白な玉子が載っている。これは鶏の玉子。写実として描いてあるのではないのに、というか、だから、古びたあまり上等でないお盆のリアルな質感が複製になってもしっかり伝わってくる。
 そういえばこういうお盆を見たなあ。丁寧に扱ってないから隅にはほこりやらなにやらがもう特別な道具でも使わないととれないようにこびりつき、小さな染みもある。ちょっとにおいさえするように見える。でも汚いとかいうことではなく、古びるということは、日常に使うということはこういうことだと教えてくれるような古び方だ。とにかく長い長い時間使われて初めて生まれるもの、見えてくるもの。
 我が家にはなかったなあとつらつら考えていて思いあたった。父の実家、大きな古い家だ。そうかな。もしかしたら同じようなどこかの農家の畳の上か、黒光りする台所の床の上だったんじゃないか、そうかもしれない。
 ちょっと縁が欠けていたり小さいわりには持ち重りがするのは、上等の木でないし、丁寧に薄く削ったりもしてないからだろうか。ふだん使いだから特に大切には扱かわれない、どこか少し欠けてもそのことが意識されないくらい、そこらへんにいつもあるのがあたりまえになるまでの長い時間。だからなくなる時もいつのまにか使われなくなり、どこかに紛れ込んで他のものに挿まれたまま処分されてしまう、または倉の隅や納戸の上の棚の奥に押し込まれたまま永劫というくらい置き去りにされる。
 もういらないから新聞紙にくるんでしまっておきましょうとか、さあ捨てましょうとかいったことすらない。使うとか使わないとかいるとかいらないとかいう意識すら生まないままいつのまにか消えていく。だからやっぱり大家族の大きな家でのできごとだろう。富裕でもなくかといってお盆もないほどの貧しさでもなく、おおぜいの人が暮らし出入りしいつも動きがある家、空間。
 この熊谷のお盆ももうお客にお茶をだしたりする時に使われることはなかったのだろう。最初の頃だけはそういうこともあったかもしれない。それから気安い近所のおばさんが縁側にけてとか、奥に続く三和土の土間に農作業の姿のままちょっと腰掛けて喋っていく時とかに、お茶請けの漬け物や小さな花林糖を載せてでてたのかもしれない。漆塗りでないから艶はなく、顔料を下地と上塗りだけ一回ずつざっとやって終わり、そんなふうだ。
 その艶のないくすんだ黒い表面はきっと細かな傷で覆われ、形も少し歪んでいて、ここではみえないけれどどこかがわずかに欠けてそうだ。黒というより、とにかく濃い灰色といった炭色、そのお盆に目の覚めるような白い玉子が4個、片方に寄り添うように載っている。小ぶりでほっそりとしているけれど命の塊として、内側からの光でかがやいているかのようにして。


菜園便り232
3月14日

 熊谷守一のはがきのことをあれこれ語ったけれど、この机には他にもずいぶんいろいろあるのに気がついた。でも気がついた、という言い方はへんだろう、だってずっとそこにあって毎日毎日見ていたのだから。だからまああらためて気がついたというべきか。
 ロシアのニキフォルという人の水彩画のはがき(もちろん印刷物)。これは板橋さんがくれたもの。郵便としてきたのでないから何も書いてなくて少し残念だ。その左横にはベトナムのお土産の、なんというのだろう、マグネットがついていて冷蔵庫なんかのドアにつけるやつ。一昨年カンボジアに行った時、トランジットで寄ったハノイ空港で買ったものだ。自分への土産とえも言えばいいのだろうか。格安のパッケージ・ツアーだったからか、ずいぶんと長い乗り換えの待ち時間だった。かつての宗主国ということでか、フランス人が多くて旅行中の婦人と少し話をしたりした。お互いに英語だし、シャイな人だったからフランス人とは思えなかった。つまり傲岸なパリの人でないということだ、きっと。それは最初で最後になってしまった中村さんの唯一の海外旅行でもあって、だから思いだすことは少なくない。
 ジャ・ジャンクー監督の映画「長江哀歌」のはがきもある。これはもちろん大好きですばらしい映画だから飾っているのだけれど、どうやって手に入れたか忘れてしまった。「すごいすごい」と大騒ぎしていたから、誰かがくれたのかもしれない。もしかしたら前売り券を買ったらついていたとかいうことだろうか。奥には蔡明亮の「黒い眼のオペラ」のB5判チラシも下がっている。今のところ最後に見た彼の映画ということになる。冒頭にモーツァルトのオペラがラジオから流れているので、日本ではこういうタイトルにしたのだろうか。原題(「黒眼圏」)とはずいぶんちがう気がするし、国際版のタイトルもまたまるでちがうし、くらくらと眩暈さえする。でもすばらしい映画で、特に最後の、眠りの舟といったシーンは恍惚としてしまうくらい美しかった。
 小津安二郎のお墓のはがきもある、「無」とだけ書いてある。1993年の写真を元にしたはがきで、墓前に日本酒がいくつも並べてある。ビールもある。花もたっぷり供えてある。参拝者が絶えないのだろうか、それもうれしいような不思議なような。ファンとしては墓前で何を言えばいいかとまどってしまう。「麦秋」がいちばん好きですと告白されても、小津も困るだけだろうなあと思ったりする。
 森さんが我が家にあった古い写真を取りこんでつくってくれたクリスマスカードもある。2階の広間に資料として箱にまとめて放り込んでいたもののなかから見つけてくれたもので祖父と子どもたち(つまり母や叔父叔母)が写っている。写真館で撮られたもので、だから描き割りの背景の前に立ったり座ったりしている。この写真にはまったく覚えがなかったからうれしくて、複写して兄姉や従兄弟なんかにもあげて喜ばれた。
 ポール・マッカーシから送ってきたシャガールの絵はがきもある。「現代」とつく美術も音楽も好きでないといっている彼のぎりぎりの現代なのだろう。裏に走り書きで仕事のことが書いてある。その難しかった「現代詩」の仕事もどうにか終わった。
 DVDが手作りのケースに入っているのは、これも森さんがつくってくれた「小原庄助さん」。清水宏監督のモノクロの映画で大河内伝次郎が主演している。清水の映画のなかでも、大河内の映画のなかでもいちばん好きなもので、数年前に「文さんの映画をみた日」に、シネラでの特集上映にかこつけて書くことができてうしかった。同じ監督の映画「ありがとうさん」にもちょっとふれることができた。もちろんこのDVDはちゃんとみれるし、なかの2シーンがカバーに取りこまれた丁寧なつくりでうれしいし、ちょっとせつなくもなる。清水も大河内もとうに亡くなった。
 いちばん後ろには大きめのアクリル板に挿んだ佐藤文玄さんのがある。はがき大に切られた自身の作品で裏に便りがしたためてある。年に何度かそうやって作品を、便りをパリから寄せてくれる。その時々の季節と心象が綴ってある。
 古い日光土産の「煙草挿み」もある。ほんとはなんと呼ぶのだろう、華厳の滝と神橋の写真を焼き付けた金属の薄い板が煙草の箱の形に折り曲げてある。マッチのサイズのとでセットになっている。たぶん客間のテーブルの上に煙草屋マッチをこうやって立てたのか、それとも携帯する時につぶれないためのカバーなのか。頻繁に見た記憶はあるけれど、使われているのは見た覚えがない。お土産とはえてしてそういうものだろうけれど。高野山福智院というところのお札が隠れるように置いてある。ぼくの名が手書きでいれてあって驚かされた。父と母がお参りしてからずっと志を送っていたのを引き継いだかたち。お札類はいつも神棚においているのに、これは自分の名前があったからだろうか、それともほんとに護ってほしいからだろうか。
 アフリカの小鳥の木彫や相島で拾った陶器の網の重りがあり、物入れに使っている古い金杯には山本さんが彫ってくれた印鑑なんかがいれてある。他にもぼくの交友関係全てが入っている住所録や名刺ファイル、辞書や筆立てやなにやかやごたごたとしたなかに、昔勤めていた事務所からもらってきたペーパーウェイトを兼ねた拡大鏡なんかもあったりする。
 様々な時と場所から、大げさに言えば遙かな旅をしてこの小さな岸辺に打ち寄せられたたものや思い。気がつけば全てのものがそういうものなのだともわかる。

菜園便り233
4月19日

 見渡す限りに水が広がっているようで一瞬茫としてしまう。洪水で水が溢れたのかという馬鹿な思いもよぎったけれど、もちろんそんなわけはなく、知らない間に山つきのため池の堤が決壊してなんてことが仮にあったとしても、そばを流れているのは小さな水路のような川だから溢れても田んぼ1枚も覆えないだろう。もう4月も下旬、早稲の田植えの時期でどの田にも水が張られ黒い土を覆っているだけのことだ。でもいつもより水量が多く鋤起こした土が完全に水の下にあって、だからシンとした平らな水の広がりが空を映して続いているのだろう。広がりを矩形に区切っていく細い畦も農道もあるのに、なんだかどこまでも続く、遙かな、といったかんじがしてしまう。
 玉乃井での美術展などでバタバタしていて、裏作の野菜を取り払ったり、放置されていた稲刈り後の田を鋤込んだりする準備に気づかなかったから、いつのまにと驚かされてしまう。少し離れた麦畑はまだまだ柔らかい緑をのばしつつ、結実し始めた穂を揺らしている。だんだんあたたかさと共に濃く色づき硬くなり、でも黒々と猛々しくなる直前に金色にかわっていかにも軽そうでとがった穂や葉を揺らしてかすかな音をたてるのだろうか。そうしてまたいつものように小津安二郎の「麦秋」の麦の穂の手紙を思いだして、そうして「エリカ」の珈琲とテーブルを思いだして、ついでに侯孝賢の映画「珈琲時候」も思いだすのだろうか。
 「麦秋」ではエリカに似た喫茶店原節子(紀子)と彼女の兄の親友だった二本柳寛(謙吉)が送別会の待ちあわせで会って、その時、戦地からの兄の手紙に麦の穂が入っていたという話を謙吉がして、紀子がそのお手紙いただけないかしらと言って、あげようと思ってたんだということになって、それはおそらく戦死したのだろう、帰還しない兄へのせつない思いに対する妹自身のひとつの決着でもあるのであり、母はまだ長兄に非難されつつも「尋ね人の時間」をラジオで聞き続けて息子を待っているのであり、それは戦病死して帰還できなかった山中貞雄が戦地から小津にあてた手紙に麦の穂が入っていたということからきていて、だから誰もが、ぼくもあれこれ感じ考えてしまい、遠くを見やるふうをして溢れてくる涙を隠さなくてはならなくなる。もうひとりの待ちあわせ人の、今や家長たる長兄が遅れてやってくるのはそんな話が全部終わった後であり、それは新しい時代に彼が引き受けなくてはならない役割でもある。
 ほんとに多くの人が喪われたし、これからもそうだろう。理不尽な、耐え難い死、さみしくつらい死に囲まれ、でもわたくしたちは生きている。それが本能や掟であるからではなく、とうに生きる意味なんてないことは自明になっていても、生きている意味は溢れるほどに輝いてあると思うからだろうし、渡された約束として喪われた人を記憶し続けるためでもあるだろう。でも記憶するというのは個々の人や具体的なことがらをということでなく、生そのものの豊かさ不思議さつながりをということであって、だから執着することも縛られることもなく、そうして不断の義務ということでもないのだということだろう。 


菜園便り234
4月27日

 「日が沈み、夕焼けの残照も群青色の空の下に消えた。庭の隅に縮こまっていた暗がりがじわじわとその触手をのばし、黄色く枯れた芝生も闇のなかにとりこまれていく。宵の明星がくっきりと姿を現し、波が思いもかけない場所で白くくだけて光る。
 今日は誰からも便りはなかった。ぼくも誰にも便りを送らなかった。」

 パソコンのなかにそんな書きかけの「菜園便り」が残っていた。やっと寒さに震えることもなくなり、海にも空にもどこかしら穏やかさが感じられ、静かに見つめたりできるようになった時期だろう。まるでなにかを初めてみるような、好奇に満ちた視線があちこちにふり向けられる頃だったろうか。
 今では芝も半分緑が戻った。今年どこでも異常繁茂したカラスノエンドウが我が家にもいつの間にか広がって、可愛くきれいな花だとたかをくくっていたのが、慌てて刈り始めた時にはもう庭の半分をびっしりと覆っていて、1日仕事ではすまなかった。
 せっせと鎌をふるったその勢いで、茅に覆われた去年は手つかずだった海側の菜園の草取りもやる。茅だから根っこからとらないと意味がないのでスコップで起こしては手で抜いていく。一坪にも満たない場所なのに息がきれて足もがくがくになる。それでやっと半分だけ。翌日残りをやって、さらに深く掘りおこし、もらったままだった馬糞をいれていく。動物系の肥料をこういった形でもらったのも、使うのも初めてだけれど、なんとなく効果がありそうに思える。
 たいへんな、もちろんぼくにとってということだけれど、おたおたするほどの仕事の後はなんだか全てがうまくいくようで、夏にはすばらしい収穫があるとつい思いこみそうになる。実際は胡瓜もゴーヤも最近はうまくいかないからせいぜい2本くらいにしようとか、茄子はきっぱりと諦め、ズッキーニも最後の挑戦にして、今年だめならもう止めようとか、でもトマトはいつもより多く、ミニトマトと、ゴルフボール大のとで4種くらい植えよう10本くらいは、とあれこれ思ったりしてはいるのだけれど。
 すっかり気力をなくした去年でも、10月の末にこれだけはといった大決意でのぞんで植えた空豆は途中の追肥も足りず、周りの木の枝を払わなくて陽が当たらなかったせいか、愛の不足を形に示すようにしょんぼりしている。えんじ色の花はそこそこに咲いているけれど、早い時は5月にはいったらふくらみ始める莢のかすかな気配さえみえない。どんな時もそれだけは勢いのあった豆類、キヌザヤや空豆がこんなふうでは今が菜園の最悪の時期と思うしかない。後にはもう、なにもやらない放棄だけしか残っていないのだろうから。こういうのを背水の陣というのだろうか、たしかにすぐ裏には海が迫っている。でも「菜園」と「まなじり決して」なんてのはつながらない、あたりまえだけれど。
 花冷えの後、「若葉冷え」などと呼ばれているらしい肌寒さが続き、やっとツツジにあわせるように例年並みのあたたかさが戻ってきた。八重桜も藤も終わり、庭にはジャーマンアイリスがふくらみ始めた。小さなオレンジ色のポピーもちらほら見える。すみには鈴蘭形の小さな水仙の一群が最後の花をつけている。道路に面したネズミモチや樫の木が盛んに病葉を散らし、毎日掃かないと近所の視線が痛くなる。昨年の不順な気候で彼らも弱っているのだろうか、こんなにも、秋の落ち葉より多く散らすのは初めてだ。病んだ心にもそろそろ落とし前をつけて新たな成長というか新しい葉を広げて日常のなかに入っていこうとしている。光が惜しみなく注がれ、鳥が枝をつたって跳ぶ。なにかが静かに満たされていく。


菜園便り235
4月30日

 強い風が続いている。海はしけ続きで漁は休み。テレビ局から依頼のあった玉乃井での<復活タコ料理>の取材も、港の船が蛸漁に出れず撮影ができなくて中止になった。先日のその会食は2階の広間で23人を一度に、だったので、器や配膳もたいへんだったけれど、料理そのものは兄ひとりしかできないのでもうしわけないほどてんてこ舞いしていた。だから取材でひとり分とはいえほぼ同じことをやらなくてはならないから、中止になってちょっとほっとしてもいる。
 そんな風が吹きつのる日々で、夏野菜の植えつけも伸ばし伸ばしにしていたけれど、そろそろ5月、今夜あたり雨になるということで、例年どおり花田種物店であれこれ見繕ってきた。肝心の中玉のトマトが見あたらないのできいてみると、とっくに売り切れているとのこと、「みなさん早いんですよ、ほんとは今ぐらいの方がいいんですけどね」ということだった。もう入荷はないし、ミニトマトを2種、4本だけにする。止めようと思っていたゴーヤと胡瓜も1本だけ買ってくる。他にはズッキーニ、パセリ、青じそ、レタス、バジルをそれぞれ1本ずつ。
 少ないから、肥料を入れたり水をやったりしても植えつけはすぐに終わるし、風よけの低い覆いをかけるのもバタバタとすんでしまう。なんだかあっけない。茅の除去と整地がたいへんだったから、よけいにそう思うのだろうか。どこかでゴルフボール大の中玉のトマトの苗を探してくるにしても、すでにほぼ全部が終わったことになる。この2、3年の菜園の状況を思うと、収穫に大きすぎる期待をせず、分に応じてひっそりとトマトを摘むことくらいを理想としよう。と殊勝な顔で言ってみたりする。
 そうやってトマトを探しに行った店には植木もずらっと揃えてあって、つい果樹のあたりをのぞきこんでいると隅に小さな桜の苗がまとまって置いてあった。いつかは庭に2本の桜、と思いこんでからでもずいぶんたつ。今が植えるのにいい時期かとか、しっかりしたいい苗かとか丁寧に考える前に、どこから見るのがいちばんかとか、お花見はどこでするか、そんなことばかりが頭のなかを渦巻いて、気がつけばもう勘定も済ませ、荷台に縛りつけている。
 これまでの柿やザボン、柚子や金柑や無花果の悲惨にめげず(少なくとも枯れてはいない)、ひ弱でもとにかく生き延びさせて花1輪でも咲かせよう。とまた殊勝な思いを巡らせたりする。庭を南北に吹き抜ける風の道を避けて、でも将来にできるだろう(と思いたい)ベランダのそばで、仕事机からも見渡せて、大きな木の陰にならないようにでも強風の盾にはなってもらって、とあれこれない知恵を絞って決める。大きめの穴を深く掘り、どっさりの肥料を入れ、水を満たしてしばし。そのくらいの穴でももうさらさらの砂地になる。砂浜だったところだからとうぜんといえばとうぜんで、そんな厳しい条件をおしつけられる植物もかわいそうだ、しかも過剰な成果を期待されて。でも、まあ、こういうあれこれすったもんだが楽しいのだろうし、なんだかんだ彼らと気持ちを交し、宥めたりすかしたり懇願したり、安請けあいされたり突き放されたりでもまあやってみようと慰めあったり、そんなふうな。でも正直なところ、樹齢数十年というような立派な咲き誇ったみごとな桜、というようなことは思わないし、たぶん桜はだめだろうなあ、梅くらいかなあ、という気弱な、というか冷静な気持ちもある。
 ついでに庭のあちこちに勝手に生えてくる常緑樹の若木を道路側の垣根にと移植する。ここも数年前に何本か植えたけれど、枯れはしないが・・・といったようす。そこにまた2本、まさに枯れ木も垣根のにぎわいと新たな2本が心細そうに突っ立つことになった。善き未来を誰かに言祝いでもらいたい。


菜園便り236  あるいは  続・文さんの映画をみた日⑨
6月1日
ブンミおじさんの森を抜けて

 久しぶりの映画、そんなふうに思える映画、「ブンミおじさんの森」。監督はタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン。耳慣れないし長い名前だから2度も綴り間違えた。でも実は昨年の山形国際ドキュメンタリー映画祭特集で、彼の「真昼の不思議な物体」(2000年)をみていた。不思議な作品で、奇妙でやさしく、でもどこかザラッとした不穏な感触を残すモノクロの映画だった。今回のはふつうに追っていける物語があり、会話があり、カラーで、人物も同一性を持たせてある、つまりブンミさんは最後までブンミさんだ、たぶん。
 でも、とあらためて思うけれど、やっぱり奇妙で不思議な、怖いものも残る映画だ。そうしてやっぱり全編に流れるやさしさ、おだやかさ。そういうのを「アジアの」と修飾するのはあまりにも常套的で、正確でないけれど、でも原初的で、奥深い生の根源のような、どろりとした、どこかにいつも湿度と熱がこもった、つまりアジアの森のような、といってしまいたくなる。
 ドキュメンタリーではないけれど、登場する人たちもおおかたはふつうの人だったり、地味な映画の人だったりするから、身体的にも、特に表情なんかに拒否反応がおきたりしない。穏やかな日常的な身振りと途方もない飛躍がある、そういった、ふつうの生活にありふれているものがある。
 神話的、といってしまうとまたアジア的と同じでなにも言ったことにならないけれど、やっぱり始原の、ことば以前のものが語られようとようとする。映画のなかにも、古代の水牛や王女の挿話が挿まれ、森の猿の精霊、河の鯰の精霊、人の霊、そういったものがそっとでも唐突に過激に現れては消えていく。怖くて、でもどこかおかしい。
 ブンミさんはタイ東北部の、ラオスにも近い森で果樹園や養蜂を営んでいる、という設定になっている。自力で腎臓透析を続けていて、死期が近いのを識っている、そういう智をまだ保っている人であり共同体だ。そこはラオス人、中国人といった外国人も行き交う。違法越境者なの?、と遠い街から会いに来た義理の妹が訊ねたりもする。国境ができたのは森の歴史に比べればつい最近のことだ、そもそも森に、大地のどこに線があるのだろう、と誰もが首をかしげている。境界が引かれて、人は急にその向こうをちがうものとしてみるように強制される。
 ずっと前に森に消えて行方不明になった息子、亡くなった妻、その妻の妹、甥らしい若い男、そんな人たちがいつのまにか集まり、ブンミさんを囲み、最後には彼を彼方へと送る旅に出る。色彩に、音に、うごめきに溢れた森を彼を支えて歩く人たちが行き着く深い洞窟。そういったことがあざといものとして浮いてしまわずに、あるリアリティを保ち続けるのは、映画の構成の堅固さ故でなく、ある種の自由さ、混沌としてでもあらゆるものが存ると思わせられる森や海のような、論理化されない、自由な発想と発露があるからだろう。その自由さは60年代に語られた、傲岸な欲望とはずいぶんとちがう。
 再びこの世界に現れて透析の手当をやってくれる妻を、起きあがったブンミさんが腕を回してゆっくりと抱きしめるとき、それは愛といった言語化されたものでない、その向こうにある、慈しみみたいなもの、そうしてさらにその奥にある郷愁のようなものをスクリーンに産みだす。生が抱え込む穏やかな哀しみ、静かな喜び、なにかの震え。愛とか性とかでない、でも単純で勁く深いつながり、互いに完全に食い込みあって没入してしまう、そういう関係のようなもの、個と全体がひとつに重なりあっている、そういったものが黒々とした森のなかに、向こうに、見えてくる。美しい、うれしい、怖い。


* 先日はYANYA’に「続・文さんの映画をみた日⑧ あるいは 菜園便り228」というのを載せました。特集が「菜園便り」だったからです(でも「特集」だなんてすごい!)。それで今回は、「菜園便り236 あるいは 続・文さんの映画をみた日⑨」にしました。おあいこ、です、なにに対してだかよくわからないけれど。


菜園便り237
6月21日 雨

 梅雨のほっそりとしてでもきれめない雨の下、庭は柔らかで鮮やかな黄緑色に覆われそこかしこには黒々と丈高な草もつきだしている。咲き残った琉球月見草がしおれた桃色の花弁を垂らしている他は紫陽花のくすんだ色が見えるばかりで、花らしい花もない。
 菜園は小さなトマトが色づきはじめぽつりぽつりと収穫があり食卓にあがる。色は薄くてもしっかりと甘みがあり皮も固くない。胡瓜とズッキーニは苗の段階で潰えてしまったけれど、1本残ったゴーヤはどうにか生き延びてトマトよりずっと高く蔓を伸ばしている。黄色い花もわずかだが咲いているから、実りを期待できそうだ。久しぶりの菜園のゴーヤ、になってくれるだろうか。
 青紫蘇、パセリはかわらずに元気だし、ルッコラも数株が雨の後ぐんぐん伸びている。種をお土産に頂いた韓国のチシャはプランターのなかでひしめきあうほどに成長した。間引いても間引いてもすぐにまたぎっしりになる、菜園に移した数株はあっという間にだんご虫に食べ尽くされてしまったけれど。同じ時に頂いた胡麻の葉もそこそこには育った。あれこれを巻いて食べるほかにはやり方を知らないけれど、強い香りが口腔を撃つ。
 父の一周忌が終わった。こういう時の儀礼のように、誰もが「はやいですねえ」という。ほんとにそうだ、もう1年なんて。と思いつつもでもなんだかもうずっと前のことのようにも感じている。そうだね「いろんなことがあったからね」というのも常套句だけれど、でもいろんなことなんて何もなかった、という気もする。
 あの頃毎日大わらわだった日常的な雑事、おおかたは家事だったけれど、をやらなくなった。カロリーを計算し、タンパク質をミリ単位で計るような献立や、丁寧につくる食事といったことは光年の彼方へ去った。菜園もほとんど形だけ、みたいになってしまった。
 死より重いものはない、ということだろうか、誰もが言うように。他のことは全部どこかに飛んでしまって、生の側のなにもかもを軽んじてしまっているのだろうか。たしかに死は、心にも身体にものしかかる巨大でずっしりと密度のある大きな塊で、その下で人は息もできない。とてもたいせつなものが瞬時にして丸ごと奪われたことに納得がいかないし、あらためてそう思う度にまたうちのめされる。どうしても慣れることができない。死の前から始まりくり返される喪の儀礼が、身体を前へと押しやるし、日常的なしぐさは滞りなく、明るい表情さえつくれる。でもつらさはいや増しに増していつもそこかしこにじっとうずくまっている、のしかかってくる。そういうことなのだろうか。
 同じ町に住む知人が「菜園便り」を求めにわざわざ来てくれた。その時に持ってきてくれた月桂樹の束は廊下に下げてある。青いままでも煮込み料理などにも使えるけれど、そのまま置いておけば黄色くなっていっそう香りも高くなる。カレーには欠かせない。使うたびにこの日のことを思いだすのだろうか、それとも他のことと同じように瞬く間におし流されて彼方に消え去ってしまうのだろうか。


菜園便り238
7月25日

 たっぷりの雨で伸びすぎて青々としていた庭の芝に黄色い陰りが見え始めた。これから続くだろう暑さと日照りですっかり色を失うのだろう、いつものように。菜園の周りどころか内にさえ居丈高な硬い草がはびこってきている。紫蘇やトマトが背を伸ばして腕を広げてこれ以上は入ってこさせまいと必死に防ぎながら、毎日実をつけて食卓へ喜びを届けてくれる。梅雨が終わって皮が固くなったけれど、そのぶん甘みは増して、奥歯でガリッと噛むと青くさく甘い果汁が溢れる。
 玉乃井の海側の庭で開かれた「津屋崎納涼映画会」も終わった。これは津屋崎ブランチの主催だったけれど映画の選択は任されて、山中貞雄監督、大河内伝次郎主演の「丹下左膳余話 百万両の壺」を16ミリフィルムで上映できた。彼らの知りあいの上映技師の吉田さんが日活と交渉してとてもいい状態のものを借りてくれたので、白黒のコントラストも鮮やかな強い構図がくっきりと浮きあがった。正面からまっすぐ撮る場面が多いから奥行きも深い。山中の別の映画「河内山宗俊」の最後のシーンなんかも思いださせられる。
 お話も、強くて情け深いちょっと滑稽な丹下左膳、情のある艶っぽい射的屋の女将、美人の奥さんに頭の上がらない養子の馬鹿殿、陰険なやくざ、そうして身寄りを亡くした健気な子供と勢揃いしての展開でおもしろくないわけがない。ほのぼのとした家庭喜劇みたいな面もある。生きていたらそういう映画もつくったんじゃなかっただろうかと29歳の若さで戦病死した山中貞雄のことをあらためて残念に思ったりする。
 夏の夜はチャンバラだとこの映画を選んだけれど、戦後の占領軍の検閲でカットされていて、肝心のチャンバラシーンがほとんどなかったから、左膳本人は不満足だったろう、「俺はもっと強くてかっこいいんだぞ」と。でもはらはらしなくてすんだし、殺陣にまといつくゾクリとするような恐怖や嫌悪が生まれなくてそれもうれしい。
 今回初めて気づいたのはこれは音楽劇(ミュージカル)でもあって、ムソルグスキーの作品や童謡の変奏がオーケストラでふんだんに流れ、女将が三味線で歌う端唄や小唄(なのだろう、たぶん)は劇中の話とからんだことばにできない思いだったり、状況の説明だったりする。もちろんその唄を巡ってのドタバタもくり返されておかしい。
 台風の影響でいつもより気温も低く、ここちよい風も吹くなかでゴザに座ってみるモノクロ映画は、映画館の暗闇の集中を強制しないし、そこここに座った人たちの気配はあたかも隣人のそれといったふうにも感じられ、飲み物やピーナツを売る声が夏の夜の行事を盛り上げていく。運営する側にいたから反応は気になるしちょっとフィルムがぶれるとドキリとするけれど、浜木綿も香って、ひいき目のせいか蚊も少ない。途中でブレーカーが落ちてもうしわけなかったけれど、なにやら昔の映画館のフィルムが切れた雰囲気さえ醸しだされて実のところちょっとうれしかった。

 フィルムがずれてガガガという音と共に映像がスピードを失っていくつかのシーンが中途に重なりあい、あああという溜息と共にぷつりと映像は途絶えて、たちまち揶揄の口笛や罵声が飛ぶが、それも大向こうを狙ってのかけ声のようでどっと席が湧き明るくなった館内でよっこらしょと立ちあがって売店やトイレに行く人でしばしざわついた後、そっけないアナウンスと共に暗くなったなかでカタカタと映写機が回り始める。「おおい、はよ帰ってこな始まったぞ」とのんびりした声も飛び交う、「トシちゃん、はよし」、にまた周りがどっとわき、でもたちまち誰もが映画のなかへとさらわれていく、とぎれた分いっそう想像でふくれあがった恍惚のなかへ、一足飛びに。

 そんなふうなことも思いださせる屋外上映のざわついた雰囲気だったけれど、でも意外なほどじっくり映画をみることもでき、今まで気づかなかったシーンや語られようとするせつなさもすっと届いてくる。語りぐさになった大河内伝次郎の台詞「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」というのはカットされた部分なのか出てこなかった。
 すばらしいけれどちょっと救いがなさ過ぎてつらい「人情紙風船」が山中貞雄の遺作になってしまったのは、本人が言ったように「ちとさびしい」。3本しか現存してないのも残念だけれど、でも少なくともそれだけはあるという喜びだと思うしかない。


菜園便り239
9月24日

 夏野菜が終わった。猛暑のなかでも小さな実をせっせと届け続けてくれたトマトが終わた、一度もならなかったゴーヤも捨てられ、異様に繁茂してパセリを駆逐してしまった青紫蘇だけが畝のなかに突っ立っている。
 来年は、まだ菜園が残っていたら、数本のトマトと2本以上のゴーヤとピーマンだけにしよう。紫蘇とパセリ、ルッコラ、バジルは1本ずつプランターででも育てよう。ひとりにはそれで充分な収穫を届けてくれるし、苗で潰える胡瓜やズッキーニ、けして実らない茄子はもう止めにしよう。
 そんなことを9月のはじめに書きかけていたら、きゅうに忙しくなって、台風も来て、いつの間にか菜園も茅の海のなかに没しつつある。救援隊は来るのだろうかと案じる間もないほど、かの雑草は強くて勢いがある。今年は何処もがそうなようで、<雑草>や<害虫>にもあるトレンドのひとつなのだろう。しばらくは、おそらく数年はこの状態が続きある日ふっと消えてしまう、つまり次の何かが世界を覆うということになる。
 猛暑から一気に初冬になったようにさえ感じられた冷え冷えとした数日が台風と共に終わり、また強い日射しが蚊と共に戻ってきてうれしくなり、晴天の下、茅の原に踏み込んでみると小さな赤い粒が3個あった。トマトが健気にも暑さも乾きも乗り越えて次世代への種を育んでいる。ああ、と感動しつつ摘んで食べた。彼らからすれば、「きみは殺人者」だ。いや、そうでなくてほんとうはレスラー、ではなく、レスキューなのかもしれない。この3粒の喜びが、また来年もやろうという勇気を与えてくれたのだろうから。ほんとに?でもそういった大げさなひとり芝居も生まれるほどに、菜園も庭も植物もすばらしい。
 忘れずに来る台風と共に今年もアジアフォーカス映画祭が始まり毎日3本くらいみる慌ただしい日が続いた。腹部に急な痛みがでて、数年前の悪夢を思いだしてぞっとしたけれど、1本諦めて早めに帰って一晩養生したらけろりと直ってしまった、よかったというか、気のせいだったというか。事前の試写や特別上映にもにもまめに出かけたし、もしかしたら今年は全作品をみるという「暴挙」が達成できるかもしれないと思いこんだりして予定を組んでせっせと通ったけれど、やっぱりそれは無理なようで、いくら「どんな映画でもみてると何かしら惹きつけられるものがある」にしても、やっぱり日に3本も4本も見るのは心身共に酷なようで、映画にもよくない。
 だいたいどの映画祭でもそうだけれど複数会場での同時進行になる。ここでも2会場で5本ずつ、つまり日に10本上映している。マニアックな人や遠方からのファンは週末プラス祝日の3日間に集中し、そうしてまた生活に戻っていく、というかまた次の映画へと帰っていくのだろう。それもまたすごい。
 ぼくは結局2日残して、6日間で21本のうち7割ほどみた時点でリタイアになった。あいかわらず最後の詰めが甘いこともあるけれど、あまり酷いものはもうみないでもいいかという気持ちもあるし、期待したものにガッカリさせられて腰砕け、みたいなこともある。さあ気分をなおしてもう一度、にはなれなかったようだ。心や身体の力やマニアックな粘着力がこうやって薄れていくのだろうけれど、同時にこれで充分という、諦めではない納得の仕方もまた身についていく。


菜園便り240
10月吉日  地名がよぶもの

 地名はいつも気になる。だから片づけものをしていて古い地図なんかがでてきたりするとそれっきり仕事は止まってしまう。
 この町も今は福津市と呼ばれているけれど、それは宗像郡の福間町津屋崎町が合併してその頭文字をくっつけただけのものだ。そういったことは日本中で行われ、たくさんの地の名前が喪われた。そのままどちらかの町名を残した方がまだよかったと思うけれど、住民感情を鑑み、ということなのだろう。宮地獄市(ミヤジダケ)という候補もあったようで、それはそれでなかなかいいし、いっそのこと宮地嶽神社市というのがユニークで、話題になったかもしれない。
 ずっと以前の合併で勝浦村が消えたことが住民には深い傷として、怒りとして残ったと聞くこともある。勝浦という名称は地図上にも残っているし、あいかわらず多くの人がかつての村全体を勝浦と呼んでいる。それくらい地名は強い。それはとうぜんのことで長い長い時間をかけて創りあげられた、地形や状況にも即した名前だからぴったりしていて、だれもがすぐになじめるしなんとなく安心もするのだろう。
 津というのは先端といった意味のようであちこちにある地名だし、浦や古賀、天神も全国的に多い。鐘崎(カネザキ)は源氏物語にも出てくる地名だし、印象も美しい。神湊(コウノミナト)はすごい、神の港だ。でもカミサイゴウは神でなく上の上西郷。他に東郷、南郷というのはあるが北郷は聞かない。音のつながりとして使いづらいからだろうか。それともどこか歴史の荒波のなかで潰えたのだろうか。北は禁忌のことことばである、という説もあるかもしれない。京泊、小泊もあれこれ思わせられる。
 近隣でいちばん好きなのは舎利蔵(シャリクラ)だろう。音の響きもどこかエキゾティックだし舎利が意味するものについてもつい考えたりする。自分が生まれた地ということもあるのか、蔵屋敷というのもなかなか風情があると思う。新屋敷もそばにあった。畦町(アゼマチ)とか米多比(ネタビ)というのも漢字と意味とで惹きつけられる。練原(ネリワラ)、須多田(スダタ)、生家(ユクエ)、奴山(ヌヤマ)、梅津(ウメズ)、内殿(ウチドノ)もいい。在自(アラジ)を初見で読める人は少ないだろう。
 坂や峠の名前はどこか強い響きがある。おおかたは境界になっていて重要な場所だったのだろうし、険しく奥深いところが多く、分水嶺があったり気候ががらっと変わったりする。旅立つ人には大げさにではなく生死の分かれ目でもあったのだろう。「行くも帰るも逢坂の関」だ。泣きながら見えなくなるまで手を振って、そうしてそれっきりになるしかなかった。
 川は残念ながらというか、このあたりにはあまり大きなものがなく、なじみも薄い。自分の生活に関わりがないと遠くに感じてしまうのだろうし、海のそばだからついそちらに目がいってしまうのかもしれない。国鉄で多々良川の河口近くを横切る時はいつも感嘆してしまうけれど、ああいった大きさの川はない。渡橋のある入り江を大きな川だと思っていた人がいたけれどたしかにあれが川だったらなんと呼ばれただろう。よほど大きな山がないとそんな川はできない。
 大根川というのも想像をかきたてる名だ。子供の頃遊んだ中川という小さな川があったような気がするけれど、思い違いだろうか。都市部だと蓋がされて暗渠になり、川自体が隠されて消えることも少なくない。ちまちました細長い、公園ふうのものになったりしている。地の神が喪われて久しい。
 新しく名づけられる場所は団地や開発地がほとんどだから、××ヶ丘、△△の里とか、○○タウン、☆☆シティといったおそろしく空疎なものになっている。歴史や地勢にもほとんど関係なく、耳ざわりがいいと思われてだろうか、昨今流行りの底の浅い現状分析が届くだけの、十数年先には賞味期限が切れてしまうような名前ばかりだ。あちこちで問題になっている、世代がかわってゴーストタウンになってしまうような開発の結果だろう。
 岡があり浜がある。海と山と空があり、そこに川と池と大木をいれればそれで全部説明がつくのかもしれない。そういう単純で深い世界に今だれもが憧れを持っている。全てをひとつの皮相な基準で単純化してしまい、その上でほんのわずかなちがいをあげつらうような硬直して干からびた現在に疲れているのだろう。
 地の力は蘇るか。


*市の文化協会がだしている「福津文化」という雑誌に載せたもので、これは「菜園便り240」として書いたので、誌に掲載後に送る予定だったものです。同誌には祖父のことをが書かれた「東郷公園を拓いた男 安部正弘」や、出版した「菜園便り」の紹介も載りました。

 

菜園便り256
6月22日 スティル写真プロジェクト②

             無限循環のなかの少年
 曠野のなか、白塗りの少年が木綿の着物を着てハンチングを被り、唐草模様の大きな風呂敷包みを手にしている。うつむいた目はじっと耐えているようにみえる。なにかを決めてしまったのだ、關を超えてしまったのだ。そうだろうか。
 寺山修司の短歌がたてつづけに浮かんでくる。
「間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
「売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
 格子状の扉が舞台装置のように前後に置かれて遠近を強調している。少年のさみしさも、つまり孤独も焦点化される。どこから来てどこへ抜けていこうとしているのか。そうしてその道の途中で彼は全てを放りだしてしまったのだろうか。でももうそういったおとぎ話が終わってしまっていることも彼はよくわかっている。アドレッセンスがとうに過ぎてしまったことはすでに告げられている。残っているのはなんだろう。意外に大きくて強い手の指が、世界をしっかりと掴んでいるかも知れないことを思わせる。性、もかいま見える。
 お決まりのように彼は都会へ、東京へでていくことになるのだろう、まだ上野駅に全ての北の列車が集まって来ていた時代に。そうしてその輝く黄金の夢は一夜にして鉛の重石となり、つらい軛になったのだろう。「故郷の訛りなくせし友といてモカコーヒーはかくまで苦し」というような内省さえ始まる。「たばこ臭き国語教師が言う時に明日とゆう語は最も悲し」と呟くしかない。もう一度、濁ってしまった哀しい目でなにもない空っぽの地面を見つめるのだろうか。
 遠くまで行くんだと幼い決意を胸に叫んだ少年の一瞬の夢が覚める、そこは果てなく暗い田園、または合わせ鏡のなかの曠野。
         寺山修司監督「田園に死す」1974年 ATG

 

      共同幻想を巡って
 刑が執行され絞首されたのに死ななかった、死刑囚の青年が床に座っている。その向こうに椅子に腰掛けた所長や検事、執行官、医務官、教誨師などがみえる。青年に寄り添ってかき口説いているのは渡辺文雄が熱演していた、看守長だったか。おぞましいほどのドタバタ喜劇が演じられ続ける、心神喪失状態にある青年にもう一度罪を自覚させ、処刑につまり死に臨ませるために。場所は当時小菅刑務所の一角にあった死刑場を再現したセットの内だ。死刑囚が履いている官品のゴム草履まで忠実に再現されている。
 大半の出演者たちがすでに亡くなっている、佐藤慶小松方正戸浦六宏、石堂淑郎。足立正生松田政男、それに監督した大島渚はまだ存命だ。
 ついに刑場から出ていくことができなかったRと呼ばれた青年は、今もそこに閉じこめられたままだ。
          大島渚監督「絞死刑」1968年 ATG

菜園便り258
7月13日

 昔ふうな梅雨時の田植えが終わったばかりだというのに、一方では早稲はもう白い花をつけ受粉を始めている。こま切れになった糸のような白い花が梅雨の終わりの強い風に大きく揺れている。8月の炎天下での収穫に間にあうにはこの40センチくらいの丈での受精と胚胎が必要なのだろう。なんだか強引に早熟な性を迫られ懐胎し形だけは熟成し実を結び、最後は青いまま老いていく、そんなふうにもみえる。それもこれもわたくしたちが食べるためだ。そんなにまでしてなにが望みなんだろう。
 先日学校そばの田なかの細い道をたどっていると、先の方で小学生たちが群れていた。傘を振りまわしなにやら大声でしゃべっている。中心にいるのは声の大きい少し太った子で、背は高くなかった。「背が高くない」をわざわざことばにして思ったのは何故だろう、なんでそのことがひっかかったんだろと妙なことを気にしながら歩いていると、「昨日はミミズと蛙で今日は・・・」と一段と声が高くなった。見ると下校途中の女の子がひとり彼らに近づいているところだった。それで過剰な反応がでているのかと立ち止まって見ていると、どうもみんなで蛇を取り囲んでいるらしいとわかってきた。やれやれ、だ。もう逃げる力も失って、彼らの傘の先でつつかれた時だけ小さく反応するしかないのだろう。子どもたちもとっくに興味を失って、このまま知らん顔して捨てていきたいのだけれど、先に離れると弱虫だといわれるし、傘の先に引っかけたのを後から投げつけられた日にはたまったもんじゃないし、近づいてくるのはどうも3組のかわいい祐香のようだし、だったらみんなもまたヒステリックになるだろうし・・・・・そんなところだろう。
 こういう時、全く無関係の第三者にきゅうに矛先が向くのはよくあることで、そういうのを引き受けてあげるのも大人の役割かと思いつつも、とにもかくにも蛇を、それも傷ついた爬虫類を見たりさわったりなんてとんでもないと、きびすを返して戻ってくると、ガキ大将くんがひときわ大きな声で、「ちぇっ、あのおじさんも怖がって戻っていっちゃったよ」と言うのが聞こえた。彼もどうやってこの場を収集するか困っているのだろう。君たち、まだまだ永遠といっていいほど長く続いていく人生が待っているんだからね、そのくらい自分で考えて自分で引き受けなさい、引き受けないというオプションも含めて、とかなんとか呟きつつわたくしは知らん顔だ。彼にとってほとんどおじいさんといっていい初老の男に向かっておじさんという時に少しの媚びもあって、たぶんなにかひとことくらいは期待したのだろうし、「背が高くない」とわたくしがふいに思ったようなことを彼もどこかで感じて、シンパシーを求めたのかも知れない。人と人の気持ちの伝わり方というのはほんとに不思議で、同時性というかシンクロニシティが支配してもいるようだから。
 別の道に向かってすぐに他のことに気を取られて子どもたちのことは忘れてしまったけれど、さすがに蛇のことはしっかりと焼きついていたようで家に着いてからずいぶん生々しく浮きあがってきた。困ったことだ。こうやって書くことで開かれ解かれて消えていく、ということがないのはわかっている。また新しい形をとってどこかに固着していくのだろうけれど、それを解いていく鍵は、何故「背が高くない」とふいに思ったりしたかを丁寧にたどってみることかも知れない。もちろんそんなことはしないけれど。


菜園便り260
7月23日

 いつの間にかこっそりと梅雨が明けたのだろうか、烈しい陽射しが続いている。洗濯したり、湿気った衣類を干したりとばたばたしていると、ときおり目に入ってくる庭の木々や草の色に圧倒されそうだ。特にあの嫌な憎むべき茅の、黄緑色の美しさ!スッと湾曲してかすかに風に揺れたりしている。こんもりと盛り上がった場所に群れているから微妙に変わる色彩が諧調をなして続き、その向こうの板塀の焦げ茶との対比もなかなかで、おまけに塀の向こうには海と空が広がっている。これでもうちょっとまばらで儚さでもかすかに感じられたら琳派も真っ青だ。
 灌木はもうすっかり繁り、色も真夏の黒々とした硬い緑に変わっていてちょっと近寄りがたい。剪定もままならないから勝手放題に枝を伸ばし下枝も生いしげりびっしりと隙間もなく風も通らず、低い木なのにその周りにはどろりと何かが溜まりまとわりつているような暗さがある。こういう場所があるのが荒れた庭や空き地のよさだろう、と嘯いてみるしかないけれど、でもほんとうのところこういうところが嫌いではないからちょっとやっかいだ。きちんと隅々まで手入れされ草もすっかり抜き取られた庭はなんだか一枚皮を剥いだようで表面がツルンとしてみえる。
 菜園はトマトだけは元気に次々に実をつけている。丸いのと細長いのと2種のミニトマトがオレンジがかった鮮やかな朱。少し大きめのピンポン大のはかすかに色づいてきたくらいで収穫しておかないとぐずぐずになってしまう。色はかすかな赤とうす緑が混じってとても美しいとはいい難いが、果肉は少し柔らかめだけどおいしい。ミニトマトは皮も固めで歯ごたえがある。さっと口のなかに広がる甘さや青くささに瞬時に笑顔も生まれる
 今年の菜園はほとんどそれだけだ。ゴーヤも潰えたし残っているピーマンも小さな実のまま落ちてしまう。ベランダ側のプランターにはイタリアンパセリと青紫蘇が繁茂し、バジルも白い花をつけつつまだ伸びつづけている。今年はジェノベーゼソースをつくろうと大胆にも思いこんだりしないし、モッツァレラチーズを頂くこともないし、ほとんど使うことがないので摘んできてはコップに挿して食卓に飾っている。さわったとたんあの香りが鼻をうつくらいにたつ。その度にこういったハーブ系の植物の勁さを再認識させられる、「空き地」から勝手に摘み取ってくるペパーミントもそうだけれど。
  庭のあちこちで大きな白い花を開いている浜木綿も夕方には特に香る。玄関に1本挿しているだけであたりの色までかわる、大げさに言うとそんなふうだ。

 

菜園便り261
7月28日

 最初に行った映画の試写会は姉が応募して連れていってくれた「シャレード」だった。まだ中学生、遙か昔のことだ。渡辺通りの電気ビル上階にあった電気ホールだったと思う。最近ビルが新しくなったようだけれど、ホールはまだあるのだろうか。キース・ジャレットや武満を聴きにいったこともあるホールだ。
 当時はオードリー・ヘプバーンというのはすごい人気の女優だったから大勢が詰めかけてみたんじゃないだろうか。晩年のケーリー・グラントもでていた。今も好きな映画だけれど、謎の鍵である切手のエピソードがなんとなく腑に落ちなくてちょっとガッカリした記憶がある。未使用の切手を封筒に貼ったら、裏の糊が喪われる、もしかしたらスタンプを押されてしまう、使用済みなら別のスタンプがついてしまう、いずれにしろコンディションは致命的に悪くなり、価値がなくなる・・・そんなんことを思ったりした。当時は切手収集が流行っていたから、誰もがそんなことを気にしたんじゃないだろうか。
 どの街でもそうだけれど、試写会は○○生命ホールとかいった場所で行われることが多い。賃貸料と利便性と設備(35ミリが映写できる)、そこそこの規模・・・もちろん映画館を使ってのもあるけれど、そういうのは観客を含んだ大規模なものでよほど期待度の高い映画の場合だ。「キル・ビル2」のときはシネマコンプレックスの大会場がびっしり埋まっていた。その頃はシネテリエ天神といった極小映画館でみることが多かったからそのスクリーンの大きさだけにもびっくりさせられた。   
 仕事でお知らせがまわってくる試写は、だいたい映画会社関係の小さな試写室で行われる。小さいといっても4、50人くらいは入るだろうから極小の映画館より大きかったりするし、椅子もゆったりしている。スクリーンが小さめなことをのぞけば(それも極小映画館よりは大きい)いいことづくめだったけれど、最近はそういった試写は全部デジタルでくるらしくピクセルのめが気になってしょうがない。
 久しぶりに行った試写会は「The Grey(グレイ)」というのだった。リドリー・スコットが制作に関わっているので行ったのだけれど、試写はほんとはあれこれ選択したりしてはいけないとは思っている。仕事でもあるし、案内がきたらなんでも全部みにいって頭からバリバリとかみ砕かなくてはいけないのだろう。映画評を新聞に書きはじめた当初は大型ハリウッド映画なんかもせっせとみにいっていた。でもそのせいで、あれもこれもみるということが嫌になってしまったのかもしれないから、元気がありすぎるのも考えものだ。
 ともあれこの映画はアラスカの曠野のなかに飛行機が不時着し、生き残った男たちが狼と戦いながら生き延びようとするという、サバイバル系マッチョものだった。墜落で生き残ったのは8人、生還を期し、先ずは遠くにみえる森をめざして歩き始める。狼に襲われ、ひとり、そしてひとりと死んでいく。
 丁寧につくってあって、パンフの解説にもあったけれどカナダの北部、実際の寒冷地で撮影されていてリアルだけれど、ちょうどジャック・ロンドンの「火を熾す(焚き火)」を読んだ直後だったので、うーーーーん、これでは生きられないだろう、低気温と風で指どころか身体が動かなくなるだろう、いくら狼に襲われ必死になったとしても無理だろう、などととつい思ってしまった。
 そういう状況で「濡れる」ということがどれぐらい苛酷なことかというのは素人にも体感的にわかるし、焚き火があるだけで安全ということではないし、その焚き火にしても簡単に熾せるものではないことも少ない経験から推しはかれる。小さい時の七輪を熾こした記憶とかキャンプで食事の準備に泣かされたことだとかから。
 真夏に公開されるのは恐怖で心身共に凍りついて涼しくなることを期待して、だろうか。

 

菜園便り262
7月28日

映画祭で上映する「玄界灘の子どもたち」(16ミリフィルム)は吉田さんが奔走してくれ、制作元の東映で見つかったが、オリジナルはなく、フィルムの状態も悪く、映写機にはかけられないことがわかった
デジタルに変換して、上映権と共に買うことになったようだが、もしかしてどこかにフィルムが残っているのではないかと
まだ映画が大きな力を持っていた時期に撮影や上映が行われたのだから
吉田さんの「玄界灘の子どもたち」を探しての丁寧で時間のかかる問いあわせが続いていて、頭が下がる。彼もまた歩哨的な人だ
撮影場所だった津屋崎、福間、福岡県、福岡市、佐賀県の一部、大分、東京
行政、視聴覚教育、生涯教育、NPO、公民館
行政的対応、親切な人、つっけんどんな人、自分で判断して遠くまで尋ねてくれる人、


菜園便り263
8月17日

 お盆も終わった。民族大移動などと呼ばれて大騒ぎになるけれど、自分が動かなくなるとそういうこともなんだか遠い昔のことのようにしか感じられない。そうかい、うん、そうだったね、おやそうかい・・・。
 我が家のお盆は正月と共に父が采配をふるっていたから、父の実家の宗像、東郷の様式、というかそこの内田家の形を踏襲している。でもまあだいたいどこでも似たようなものだろうとは思う。関東だけが7月のお盆というのが最大のちがいだろう。迎え火を焚くのは迎えに行けないくらい遠いとか、お墓もないというようなことだろうか。今は歩いていける距離に墓地があるということの方が稀だろう。お盆は20日までといっていた父に従ってそれまでは提灯やお供えを残しておく。
 13日にお供えの料理の準備をしてからお迎えに行く。線香を持っていて墓地で火を点け、その煙に乗ってもらっていっしょに帰ってくる。初盆の時以外は仏壇前には下げ提灯と行灯型の置くタイプが1対ずつ。なかの灯りは電球で、コードをあれこれ配線して一箇所で全部を操作できるようにするのも父のやり方だった。
 もちろん前日までにお墓の掃除や草取りもしておかなくてはいけない。我が家のお墓は町により墓地一帯が強制的な区画整理で撤去させられたので、今は近所のお寺の納骨堂に入っている。40センチ幅くらいの同じスペースがずっと続いていて初めてみた時はちょっと度肝を抜かれた。掃除も草取りもない。楽だけれど、なんだかさみしい、あじけないというか。蔡明亮の映画「愛情万歳」では主人公(いつものシャオカンだ)が台北で納骨堂のセールスをやっているという設定だったのには驚かされた。
 とにかくお墓から帰ってきてもらう、というか来てもらう。「迎えは早く、送りは遅く」というのも父のモットーだった。だから夕方早く4時にはお迎えに行くし、帰ってみえたらすぐにお膳をだせるようにしておく。お迎えの日のお団子には白糖をのせてだす。他には素麺と5品のお膳。ご飯、汁物、精進料理3品。父言うところの「ガキンチョさん」への団子と素麺は別に小皿でだす。その他のお供え物は定番の野菜と果実、茹でてない素麺の他はお菓子とお盆用の落雁など。花は行事ごとに姉が花屋をとおして送ってくれるものや兄一家が持ってきてくれたものが両脇に飾ってある。
 家族が亡くなって初めてのお盆は「初盆(ハツボン)」とよんでお葬式に次ぐ大きな行事になる。特別な戒名の入った大型提灯を1対下げ、親族などから送られた行灯や提灯を仏間中に置いたり下げたりする。門や玄関にも提灯を下げる。祖父の時はずいぶんとたくさん寄せられたようだけれど、今はもうそういうことはない。葬儀と同じで、現在の家長の勢力の強さに比例しているのだろう。
 2日目は御膳を上げるだけだし、あまりお参りにみえる人もなく小休止といったふうだ。初盆のお家など、行かなければならない所へのお参りにまわる。
 3日目は送りの日だからまたバタバタする。ゆっくりしていただく、が理念だから早めに最後のお膳をだし、6時過ぎくらいにまた線香に乗せてお墓まで送っていく。送りの日のお団子にはあんこをのせる。砂糖は長い間貴重品だったのだろうから、甘いものというのは特別な贅沢品で、そういうものを感謝を込めて無理してでも供えたのだろう。今のように嫌われると砂糖もちょっとかわいそうな気がする。自分ではほとんど使わないし食べないからあれこれ言えないけれど。
 無事に送った後は、供え物をこもにくるんで盆踊りもある港のそばの会場に持っていく。お坊さんによる読経もあるなか、事前に買った供え物を流してもらうための木のお札と共に渡す。今はどこもそうだろうけれど精霊流しによる川や海の環境悪化が問題になっていて、形だけ流してまとめて処分するということになっている。川なんかでも少し下流で回収しているのだろう。
 初盆の大型提灯もここに運んで盆踊り会場に飾ってもらいそのあと処分してもらう。夜店も少しでていて夏祭りの雰囲気もある。中央の櫓の上にはお囃子と歌の人が座っている。PA(音響)は使うけれど、ライブでの演奏で、そのことは毎年あらためていいなあと思わせられる。港から橋をを渡った半島にはかなり古い形の盆歌が残っているとのことだった。
 そんなふうにして夜も更け、3日間の精進でなんだか軽くなったような身体と心で眠りにつく。久しぶりの静かで穏やかな眠りがある。

 

菜園便り264
8月29日  月の上に月 二重の水平線

 厳しい残暑も、6時を過ぎると陽も遠く傾き、遮る物のない浜辺の熱気も動き流れはじめる。50年ぶりという砂浜での上映会に三々五々みんなが集まってくる。騒ぐ子どもたちを連れて楽しげに、退職後の時間を連れだって、真夏の海岸を裸で闊歩する若者たちも物珍しげに。屋外での上映会は風も吹き抜け砂浜に座り込んだ人たちはのんびりと楽しそうだ。
 青い海と空を前に、波打ち際に立ちはだかるように組まれたイントレ、そこに張られた大型スクリーンが伸びあがる、まるで睥睨しているといったふうだ。
 上映されるのは夏の沖縄が舞台になった「ナビィの恋」。穏やかで滑稽にさえみえた南の島のお話は、いつのまにか佳境へと突っ走り、真摯な愛のことばが飛び交いはじめている。ナビィはもう心を決めている、遠くまで行くんだと、とぎれることなく隠し持ちこたえてきた愛を最後の最後に貫くんだと、そのためには家族も裏切り親族共同体を捨てても、と。
 もちろん映画のなかのナビィはやさしいお祖母さんであり、酸いも甘いも噛み分けた智恵者である。でもそういう人がある日、二度と開くことがないようにと幾重にも閉じてきた扉を瞬時にして開け放ってしまう。世界は黒々と豊で、目の前にはただ白熱する光が、南国の砂浜のように横溢しているだけだ。ニライカナイへ、竜宮へ、桃源郷へ。もう誰も止めることはできない。
 そうしてナビィと長年連れ添い子をなし慕い続けてきた年下の夫もそのことはすでにわかっている。最愛の人ナビィはやっぱり最後の最後には自分の人ではなかったと、いっしょに暮らしてきたけれどやっぱりそうだったとつらい思いで確認する。月の下でそれぞれの人がそれぞれの人生を、喜び哀しみをそうしてこれからを思う。
 「月がこんなに明るいとは思わなかった」という都市からやって来た青年の台詞がスクリーンに流れ、思わず見上げる空にはほんものの月が明るく光っている。海を背にしたスクリーンはときおり風にふくらみ、映画の展開とは違いつつも微妙にシンクロした動きを映像に与えている。群青の海と空に点在する粒々の光がときおり映画の文脈を突き破って目に入ってくる。遠い対岸の町灯り、星々、そしてゆっくりと旋回して着陸しようとする航空機の点滅する機灯・・・。
 スクリーンのこちら側も映画とさほど違わない暑さに包まれ、散らばった人たちが思い思いの姿勢で座り込み見上げている。子どもたちが蛍光色の腕輪や足輪を光らせながらさかんに動きまわっている。スクリーンに暗い海と水平線が映しだされるとそれは実際の海や水平線と完全に二重になって、みる人を惑乱する。時空が跳んで一瞬自分が失われる、ここではないどこかへの儚いあくがれが噴きだす、ナビィが向かった先、ニライカナイが垣間見えたのかもしれない。
 愛、は消えない、生、も続く。そうして夜更けた砂浜をみんなは帰っていく、もう一度自分のあたたかい家庭へ、淋しい部屋へ、ちょっとやさしい心持ちになって。


菜園便り265
9月25日 彼岸、此岸

 陽がずっと低くなって思いがけないところから射し込んでくる。古い炊事場が朝は光に満ちる。今は使ってないからひどい状態だけど、どこもかもが明るい光に輝いていて驚かされる。鮫でもさばけそうなまな板、タイルの洗い場、放棄されたかまども、あちこちの窓からの光を反射してなんだか厳かだ。
 残暑が厳しいとことあるごとに人は口にしているけれど、もうじきお彼岸だ。居丈高な庭の雑草をみているとどこに秋の気配がとも思ってしまうけれど、でも夜も更けるとひんやりとした空気が部屋にも流れ込んできて、あけはなった窓を閉じたりする季節になった。 彼岸の対岸は此岸で、でもそういういいかたは逆転している、ということになるのだろう。此処がわたくしたちの生きている場所であり、そこではない彼方に浄土があるのだろうか、そこが彼岸なのだろうか。生はなにものにも代え難いものであるけれど、死もその後に来るものとこみで怖れることのないもの、求められるものということだろうか。

 そんなことをあれこれ思っていたら台風がきて屋根を壊し、お彼岸も過ぎてしまった。なんだか呆然としてしまう。こんなふうに様々なことが訪れてき、降りかかってき、そうして過ぎていってしまう、そういうことが彼岸へと続く無常ということなのだろうか。絶えず動き続けかわり続けていて、でも全体というか総体としてはいつも同じであるということなのだろう。打ちつけられた潮で茶色く枯れた庭を見ながらあれこれ思ったりする。これも秋の兆しだろう。 

北の町からは初雪の便りも届きました。この津屋崎も徐々に寒気に包まれていきます。海は寒々とした空を映し澄んだ翡翠色です。風のある日は白波をたてて打ち寄せます。どおんどおんという鈍い響きが体にも伝わってきます。でも光はまっすぐで痛いほどです。それが南の地方の冬なのでしょう。
久しぶりの菜園便りです。この夏からいろいろあったし、音楽散歩、手作り市、そうして11月の映画祭と慌ただしい日が続いたからかもしれません。12月からは毎週末の土日に玉乃井を開放しカフェもやるようになりました。モーツァルト全集を2年かけて聴く企画や音楽とつながった谷尾勇滋さんの写真展「soundgraphy」も開催しています。


菜園便り266
12月4日

 表の道を覆い尽くすほどの柿の落ち葉が終わったと思ったら、今度は玄関横の松がどっと散り始めた。掃き集めると二抱えほどもある。常緑樹だしあの細い葉からは想像しにくいけれど、この季節、強い雨や風の後は驚かされるほど散る。
 落葉樹はもちろん、常緑樹と呼ばれる緑濃い樹々もそれぞれ季節ごとに葉を落とす。冬の前、冬の後が落ち葉や病葉の定番だけれど、このあたりのかんじだと晩秋、初春がそれにあたるのだろう。まるで小津の映画みたいでおかしくなる。小津を中心に世界が回っているような気もするけれど、それは彼がこの東アジアの季節の巡りに丁寧に感応していたからだ。食べ物も着るものも総じて生きること全部に季節はぬきさしならぬたいせつなものとして関わっていたのだろうから。
 松を掃くのは、なんというのか細い笹竹の先を束ねた箒で、これは慣れないこともありちょっと掃きづらいけれど松葉にはぴったりだ。以前は松葉箒とよんでいる竹でつくった熊手みたいなのを使っていたけれど、アスファルトの上を掃くには不向きで、おまけに削られてすぐにちびてしまう。この形はやっぱり松林に行ってどっさりの落ち葉をかき集めるのなんかに向いているのだろう。子どもの頃は海岸の防風林に行って松葉をかき集めてきては風呂の焚き物にしていた。
 当時は五右衛門風呂で、子どもが入れるくらいの大きな焚き口だったからなんでも燃せたのだろう。近所の大工さんや建具屋さんから木ぎれや鉋屑をもらってきたりもしていた。鉋からしゅるしゅると薄くつややかでちょっと生々しくもある鉋屑が生みだされてくるのをみるのは楽しかった。大げさに言うとかすかな恍惚感もあった。電動の鉋になったらあじもそっけもない小さな屑状になってしまってなかなか燃えなかったのを覚えている。大きめの鋸屑、みたいだった。鋸屑とか籾殻とか積みあげて火を点けても黒くくすぶり続けるだけで燃え上がらせるのは難しかった。今思うとあんなものでよく風呂が沸いたものだ。燃すものが山積みにされて置いてあった記憶もないから、そのつどあちこちから集めてきていたのだろうか。すぐにぱっと燃えてしまう松葉だけれど油もあってか熱量は高かったのだろう。直接窯をあたためる仕組みだから効率もよかったはずだ。
 熱くてさわれない鉄の釜の風呂で、沈めた丸い踏み板の上で周りにさわらないようにじっとしゃがみ込んではいっていた。小さな子どもでは浮力に負けて板を沈められないだろうし、うっかりバランスを壊すと板が浮きあがってひっくり返ったりしたこともあったかもしれない。そんなできごとをあまり覚えていないのは、いつも家族と一緒に入っていたからだろうか。騒ぎながら母や兄姉と入っていたのを覚えている。タイルの貼られてない剥きだしのコンクリートの洗い場は子供心にもずいぶんと寒々と感じられた。なんだか生活の象徴みたいでもあった。


菜園便り267
1月16日 ジュピターの行方

 カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニーのモーツァルト交響曲35番、39番、41番。CDケースを手にとって開けると空っぽだった。久しぶりにジュピターを聴こうという気になってしまっていたから、最初はなんのことだかよくわからなかった。ああ、CDが入ってないのかとわかった後も、ちょっとぼんやりしていた。
 友人のお父さんの遺品、衣類などを頂いたなかに入っていたCDだった。
 亡くなられる前に聴いておられたのがモーツァルトだったのだろうか。
 最後に聴きたい曲とか、葬儀の時にかけてほしい曲とか、人はあれこれ語ったりするけれど、そういうことは実現されてもされなくてもなんだか寂しい。実際にお焼香のさいにベートーヴェンが朗々と流れてきたりすると気後れする。なんだか気恥ずかしいし、故人よりも生きている者のために葬儀はあるんだなあとあらためて思ったりしてしまう。
 ぼくは、どうなんだろう。音楽をかけてほしいのだろうか、そもそも葬儀をしてほしいのだろうか。わざとらしい形式はほんとに嫌だけれど、悼まれたいというささやかな望みはどこかにあるから、友人たちにはおくってもらいたいのだろう。今も小さな執着がいくつも残ってしまっているように。
 最後に聴きたい曲、というのはよくわかる。死ぬというのはとてもたいへんで、力をふりしぼらなければならないし、心身共にすごくしんどいことだから、特に病院のベッドの上だったりしたら、穏やかな心休まるものを聴いていたいだろう。モーツァルトならぴったりだけれど、でもシンフォニーではなくて、ピアノ協奏曲でもなく、クラリネット協奏曲とかホルン協奏曲がいい、その1番の、澄んで明るいホルンには静かに元気づけられそうだ、ディベルティメントもいい、特にあの1番だったらうれしい、なんだか軽やかに楽しくなれるし、ちょっとせつなくもある。
 プレイヤーに残されたままのCD、というのはミステリアスでもあり、また日常のなごりみたいでもあって、いろいろに思わせられる。そのモーツァルト交響曲のケースにはうっすらと埃が残っていたからプレイヤーの傍にずっと置いてあったのかも知れない。あれこれ勝手な想像が広がってしまいそうだ。目を閉じたいかめしい顔のカラヤンが少し下を向いて腕を上げ、わずかに指を開いている。右手のタクトは何を指し示しているのだろう。口元が少し緩やかだから、表情は厳しくはない。冥想しているというより、眉根にしわよせて真剣になにかを思いだそうとしているみたいだ、なにげないでも人をあたたかくするもの、例えば今朝すれ違った老婦人のうつむき加減の表情とか、食卓の白い厚手のリネンに射していた明るい光だとかを。
 妹が入院した時に、落ちつけるんじゃないかと持っていったCDは静かな曲で、病室に取りつけてあるプレイヤーにセットして流したけれど、「また後で」となんだか疲れたふうにいったからきっとその後も聴かなかったのだろう。返してもらった時にケースにはCDは入っていなかった。お節介が過ぎたようで寂しくなる。葬儀場で聴かされるバッハやビートルズを思いだしてしまった。
 でも置き忘れられたCDといったことへの興味はつのる。ゴミとして捨てられる可能性もあるけれど、でも掃除の人もそんなところまで気を使う余裕はないだろうし、誰も気づかずにいて、次に入院した人が退屈まぎれに何気なく開いてみて、またはなにかかけようとして開けてみて、そこにCDがあるのに気づくかも知れない。聴いてみる人もいるだろう。「ほう、なかなかいい曲だ、うるさくないし、安らかでちょっと華やかな気持ちにもなれる」、と思うかもしれない。「J.S.BACHというのが作曲家かな、曲名はなんだろう、ANDRASSCHIFFはなんのことかなあ・・・。誰が置いていったんだろう、何度も聴かれていたのだろうか。だいじなものだったのかも知れない。でも亡くなられて、誰も気づかずに忘れられたのだろうか。めでたく退院になってその喜びで忘れられたのだろうか・・・」
 バッハを聴きながら人はなにを思うのだろう。耐え難い心身の乾きや痛みを、音楽がわずかでもまぎらわせ忘れさせてくれるだろうか。とうになくなった意識の底にかすかに旋律が届いてなにかが一瞬蘇るかもしれない。それは遠い日に街角の喫茶店で二人して聴いたときの、まっ黒な珈琲の、カップからこぼれる苦いまでの香りかもしれない。そんなことを埒もなく思ったりする。
 忘れられ喪われたものがどこかへ、なにかへつながっていくこともあるかもしれない。あのジュピターはどこで鳴り響き誰になにを喚起させるのだろう。思いもかけない流れのなかで不思議な回路を抜けて、かつての持ち主へもまたつながっていく。生きていくこと、つまり死んでいくこととはそういうことなんじゃないだろうか。

菜園便り268
1月28日 そして 2月15日

 昨日、1月27日はモーツァルトの誕生日だった。玉乃井にスモールバレーのお菓子を食べに来てくれた人が教えてくれた。座られてからしばらくして、ちょっと顔を傾けて、モーツァルトは流れてないんですかと聞かれて、すいません、すいませんとあわててスイッチを入れた。
 表の看板には、モーツァルトをいっぱい流します、全部(全集)聴きます、と書いていたので恥ずかしい。ひとりでぼんやりしている時は何度もかけていたのに、肝心の時には気がまわらなくなっている、困ったもんだ。
 誕生日の前日は第7巻・CD37の舞曲、主にセレナードやディベルティメントだった。
 そうかモーツァルトは1月に生まれたのか、やっぱり水瓶座なんだ、とうれしいようなこわいような。午前中に来てくれた人も2月生まれの水瓶座だと知ったばかりだった。

 そんなことを書きかけていたのに、ぼく自身の誕生日もとうに過ぎてもう2月もなかば、なんだかあれよあれよという間だ。でもそれは時間が速く過ぎていくという感覚ではないようで、なんというか、一昨日と今日がぴったりとくっついてしまっているという感じだ。ほとんどなにもとっかかりになるようなできごとがないから、振り返ってみてもそこにはわずかに動きのあった1週間前のことだけが突っ立っていて、その間の時間がいつの間にか過ぎたことが不思議で、まるごとすっと抜きとられたようで、なんだか狐につままれたような気がして、怪訝な面持ちでじっとあたりを見てしまう、そんなふうだ。
 この冬のはじめにちょっと困ったのが、寒さに震えだした後なにかを思いだそうとして、寒かったからああしたこうしたと記憶を順に引っ張り出しているとなんとそれは春を迎える前の、年の初めの冬のことで、秋を過ぎての今の冬ではなかったりしてびっくりする。でもその記憶が異様なほど生々しいからどうしてもつい最近のことだと思えてしまうからやっかいだ。あの酷暑の夏さえあった8ヶ月はいったいどこへいったのだろう。
 おまけにそういうことは長いスパンでなくても、1日のことでも起こる。アレーと頭をふってもいろんなことがなかなかつながらない。デジャブというかすでに全く同じことをやった気がしたり、やっているはずなのに全く記憶になくてすっぽり抜け落ちていたりする。忘れたとか思いだせないとかでなく、まるっきりない。記憶や時間が歪む感覚というより、電車などでの方向感覚、特に進行方向の感覚が、頭のなかの地図と身体感覚とでずれてしまって反対向きに走っているという思いからなかなか抜けられない、そういった感じだ。
 拘禁時や入院中はあまりにも変化がなく身体の動きさえ少なく、その間のできごと全てが希薄で印象が薄いから後から振り返るとなにもなくて、だからその日その時間は異様に長く感じるのに、ひと月はあっという間に思えてしまうと説明されたりもするけれど、そういうことなのだろうか。じゃあ今の生活は穏やかで閉じられた半分死んだ庭つきの座敷牢なのだろうか。それにしては請求書がきれめなく送られてくるのはいぶかしい。

 

2分50秒というのが指定の時間だった。ヴェンダースだとか   、  、などが参加している。映像それ自体は


とても長く感じたり、えっと思うくらい短かったりする映像をみながら自分だったらどんな映像にするだろう、どんな対象を選ぶだろうとついおもってしまう。おそらくみているほとんどの人がそう思い、それはみている間にだんだんと切迫した問いになってきてしまうんじゃないだろうか。
固定して海をずっと撮ったものや、川の流れを写したもの、空を見上げたままのものなどは誰もが思いつくものかもしれない。実際にそういった映像はよく目にするし嫌な気持ちにはならない。
「ルミエールの仲間たち」では撮ることそのものが描かれるのが多くてちょっとびっくりした。撮影そのものをこちらから撮るとか、映像に関わる機械そのものを撮るとか

撮ること、写すこと、映すことそれ自体を考えようとするものもあるけれど、映像でそれを考える、語ることの難しさは  

 

福間さん、宮田さんが中心になってやっていた福岡フィルムメーカーズフィールド(FMF)が開催していたアンデパンダンと(無審査)の8ミリフィルムコンペ「パーソナルフォーカス」も3分だった。

直接写ってしまうから

 

菜園便り270
5月13日

 玉乃井で毎年やっている「津屋崎現代美術展」も終わった。会期中に映画の会も開催できて、ビクトル・エリセの「エルスール」を上映してもらった。ほんとに久しぶりにみたけれどやっぱり静かで勁い、いい映画だった。昨年の12月にやった「ミツバチのささやき」の流れとしてだったけれど、その後に知りあった人たちも来てくれ、2階の広間で共にスクリーンをみつめた。いっしょみることでいろんなことを共有しつつも、あの家族のだれを中心にみていくかで全体の印象もずいぶんちがってくるのだろう。ぼくはやっぱり悲劇の人に惹きつけられていく。
 5月になって、ひと息に季節が進む。慌ただしく冬物の片づけを進め、夏野菜にもやっと手をつけることができた。今年は全部をプランターと鉢でやることにした。菜園では胡瓜とゴーヤが地中のだんご虫なんかで全部だめになるし、鉢だと風や虫の害にも簡単に移動させて対応できる。支柱などをつけるのが難しそうだけれど、その辺の木に巻きついてもらってもいいか、と思う。とにかく菜園は撤退に継ぐ撤退で、ここまできてしまった。でもひとりだからこれでじゅうぶんといえばいえる。今もプランターでレタスやパセリは採れるし、鉢のなかの山椒の木の芽や芹は、今年もまた芽をふいて元気がいい。
 植えたのはトマト、胡瓜、ゴーヤ、バジル、青紫蘇。苗でいただいたアイスプラント、種でもらったチコリ(ミックス)、花オクラそれにアーティチョーク。これは以前にもいちどだけ苗でもらってみごとな花が咲いたことがある、実はならなかったけれど。
 野菜そのものにも流行りすたりがあるようで、今年はズッキーニやルッコラをほとんど見かけなかった。スイート・バジルというのがでていたけれど、どんなのだろう。米語ではスイート・バジルというのがぼくらがいっているバジルの名称だったけれど、これはちがう種なのだろう。スイートというと甘いものを思ってしまうけれど、スイート・バターと同じで、塩が入ってないとか苦くないという意味も少なくない。
 あたたかさも一気に進み初夏の様相。庭で採れた大きな空豆、夏豆もいただいた。うすい翡翠色の莢から平たく甘い豆がツルンと飛びだしてくる。すべすべしていてそうしてほくほくとおいしい。いっしょに大ぶりの芍薬もいただいた。豪奢でしかも香りたつ花。愛があればそうしてじっくり待つ力があれば、こういったものにも手が届くのだろうか。受けいれる勁さとそこから積みあげる力と、だろう。
 いろんな人の協力で草が刈られ、枝が落とされ、庭は爽やかな広がりをみせている。どこにも茅もカラスノエンドウも見えない。こんなに広かったのかとただただ感嘆しながら、ごろごろと転がりチクチクと芝を感じ、光のあたたかみを吸いこんだ植物の匂いに顔を押しつけたくなる。


菜園便り271
7月2日

 早々と4月に田植えされた早稲はすっかり伸びてもう開花せんばかりの勢いで、ふつうの品種は、といっても今ではこちらの方がずっと少ないのだけれど、6月の梅雨時の田植えがやっと終わり、稲田は緑あふれて静かに広がっている。
 でも、麦秋を経ての麦刈りも早い田植えも、ああ終わったか、といったようにしか覚えていない。そういうことが視覚としてもできごととしても新鮮な驚きにならなくなったのだろうか。それは少しさみしい。毎年毎年同じことに驚き感動しがっかりしたって60回もないのだから、同じことをくり返していてもいいのに。なんだか自分で制御してしまうような、どこかで飽きてしまったかのようなふるまいになってしまった。
 くり返すことで、ありふれた日々のできごとが重い力になっていくように、書き続けられることで深度がうまれ、わずかずつではあれ世界が近づくのかもしれない。楽天的にすぎるだろうか。でもくり返すこと続けることぐらいしか人にはできない。
 毎年記録が更新されるような豪雨にも耐え、プランターの野菜は健気にたっている。3、4種植えたトマトがそれぞれ朱や黄色やオレンジ、丸いのや細長い実をつけるし、キュウリも時々収穫できる。ルッコラも急にのびはじめた。終わり近くなってもレタスや青紫蘇は助かる。後はバジルや芹を時々摘むくらい。それでも十分に食卓をにぎわしてくれる。アーティチョークも3本ほどのび、花オクラも小さい鉢でがんばっている。諦めていたゴーヤも小さいのが見つかった。順調に太ってくれれば少なくとも1本は採れる。ここ数年全くだめだったからうれしい。
 3月の終わりに花瓶に挿した山ツツジがずっと枯れずに続いて小さな葉までだしたので、植木鉢にさして水をやり続けていたけれどそんな挿し木がうまくいくわけもなく、かすかな緑も費えてしまった。でもすごい生命力だ。早春の草木に流れる生の息吹は底知れない。細胞の始まりの力も同じことなのだろう。
 みごとに刈ってもらった茅も、あやうく感嘆してしまうほどまたすっかり繁って優雅に揺れている、なんだか前より勢いもいいみたいだ。柔らかい緑が先端ですっと細くなりかすかに光をとおして輝く。憎っくき敵だが、この季節の草木はどれもが最後の新緑の美しさを放っている。もう2週間もすれば居丈だかな黒々と堅いだけの雑草になるのだろう。
 美術展や映画の会も終わった。あたふたしたひどい雨漏りも、過ぎてしまうと後かたづけがやけにのんびり感じられたりする。誰かがシジフォスの神話に喩えたように、家事はやり続けないとたちまち何もかもが滞ってしまう。河原に石を積み上げ続けるように、黙々と、しかも陰の仕事としてあいまをぬって終わらせなくてはならない。抜けるだけ手を抜いても、最低限の線がある。それよりほんの少しバーをあげるだけで途端にしんどくなるけれど、でもどこかがすがすがしく光るのが目に見える。どこかに小さな喜びがある。


菜園便り272
7月6日 「梅雨のあとさき・・・写真つき」

 絶句するとはこういうことかと、なんだかそんなことに感心してしまった。
 でもショックは大きく、驚愕といってもよく、それをなんとか受けいれるために、心理的な操作を自分であれこれさみしくやっているのだろうと思ったりもする。呆然として自失して、とにもかくにも憂鬱になる。
 2階1号室の天井が崩落した。
 屋根瓦の下の土が風化し粉状になって徐々に天井板の上に降り積もり、なんだか懐妊したような形にふっくらとたわんでいたのだけれど、何とかしなければと思いつつ、意外なほど何も起こらないのでついつい「こんど」と自分にも思いこませていたら、梅雨の豪雨が続いた今朝、ついに崩落となった。それも不思議なほどきっかり半分だけ。
 落ちてたわんだ梁、折れた天井板、雨受けのスティロールの箱はみごとに砕け、泥の下に埋まってしまった。信じられないほどの泥が畳の上にどさりと積まれている。いったいどこからこんなにも、としか思えない。
 明け方にベッドのなかで、西側の駐車場の方でどさりというような音がしたな、なんだか軽い衝撃みたいなものもあったなと感じてはいたけれど、まさか2階の東側の部屋だとは思ってもみなかったし、こんな惨状だとは予想もしてなかったから、驚嘆、驚倒というような大げさな表現でもたりないほどだった。荒唐無稽、みたいなことばも浮かぶ。いったいなんなんだこれは、というような。
 天井は、渡してある梁もほっそりとしたのが軽く止めてあるくらいで、天井板はその上にふわりと乗せてあるだけだからそんなに頑強なものではないけれど、でも上から落ちてくる埃や、時によっては雨を受け止めてくれるたいせつなものだ。なにより屋根裏のあれこれや暗さを隠してくれる。むきだしの梁の太さや美しさを愛でるだけではすまされない。
 これからこの天井や部屋を、さらには玉乃井をどうすればいいかと考えるその前に、先ずどうやって片づけたらいいのだろう、この信じられないほどの土の山。雨をすって泥濘と化し、いかにも重たげだ。乾くと褪せた芥子色でパウダー状にまき散らされる。年月のなかであらゆる要素が風化しているような土。黴も生えようがないように枯れきっている。目に飛びこみ、鼻の粘膜に張りついて、ダストアレルギーを起こさせる微粉末。まったくやれやれだ。
 翌々日の晴れた空の下、少し乾いた空気のなかであらためて見ても、その塊り感、重さ感は揺らがない。いい加減にしろ、と思うし、なんだかバカバカしくもある。いったいぜんたい・・・・。 この2ヶ月ほど妙な痛みが続いているから、「さて」と気軽に上げられるような重い腰もない。困ったことだ。

 

菜園便り273
7月10日   CDの謎、ふたたび

 CDがケースに入っていなかったこと、なくなったりしたことを書いたら、こんどは、見知らぬCDがいつのまにかモーツァルトのCDケースに入っていた。不思議だ・・・
 週末に玉乃井を開放し、モーツァルト全集を連続で聴いていて(今は弦楽四重奏曲の最後あたり)、演奏中のアルバムケースをカウンターに飾るように置いているのだけれど、その3枚組のケースのなかに、見知らぬCDが1枚入っていた。不思議だ・・・
 濃いオレンジ色の地に女の子の半身が黒く印刷してある。ちょっと振り乱した髪が、もしかしたらそういうファッショナブルな髪型なのかもしれないけれど、子どもの顔にそぐわない気がしてなんだか落ち着かない。首からつった小太鼓を叩いているので映画「ブラジルからきた少年」を思いだしたりする。
 6ポイントくらいの小さな文字が周りをぐるりと取り囲んでいて、目をこらすとBOLEROとかmr.childrenとかいう文字が読める(正確にはMRと大文字だ)。そうかこれはミスターチルドレンのアルバムなのか。でもそういうことがわかって、かえって不思議はつのる。
 そういえばずっと以前に、ぼくにとってのそういうもの(「よく聴きますよ」と見栄はっていうようなもの)はショスタコービッチコルトレーンミスターチルドレンかもしれない、どれも胃が痛くなるような気がするけれど、と書いていたけれど、最近ショスタコービッチコルトレーンをたて続けに聴いていたので、その流れに当然のように現れたのだろうか。我が家にはミスターチルドレンのCDは1枚もなかった。
 よく聴かれていたようでいくつか小さな傷もついている。
 ショスタコービッチはチェロ協奏曲の、あのでだしを確認するために聴こうとして、リン・ハレルとロンドン響だったと思うけれど見つからず、弦楽四重奏のなかにも同じ旋律が使われているのでそちらで聴こうと、これはフィッツウイリアム弦楽四重奏団演奏の全曲盤で、このカバーデザインは自分でやったCDデザインのなかでも一番のお気に入りで、それを何枚か聴いたりしていたし、コルトレーンは、近所の図書館にジャズのCDがかなり揃っていてコルトレーンもバラードが中心だけれど「至上の愛」や「ブルー・トレイン」「ソウルトレーン」なんかもあって、時々借りてきては聴いていた(ほんとは彼のLPをどっさりもらっているのだけれど)。
 そういうのを誰かがどこかで聴いていて知ったのだろうか、なんて妄想が広がったりする。でも不思議だ・・・・
 突如稲妻と共に出現したとか、なにかの深く錯綜したつながりのなかから静かに産みだされたとかいうのは、まあありえないから、誰かがおもしろがって置いていったのかもしれない。辛辣なモーツァルト評、この企画への批評だろうか。まさかと思うけれどありえなくはない。丁寧に聴く人にとっては、同じ曲を1日じゅう聴かされるのはたまったものではない。ぼくは台所で珈琲を入れたり、ケーキを切ったりしてバタバタしていて、ときおりリモコンの再生スイッチをあれこれ考えずにピッといれるだけだ。
 ひとりでいてもそんなにゆっくり聴けないし、あんまりよくないのもあるなあなんて時には不謹慎に思ったりもする全集踏破だけれど、ピアノ協奏曲21番にしみじみできたりもするから、また気をとりなおしてリモコンを構える。
 けっきょくまだチルドレン氏のCDは全部を通して聴くには至っていない、それも不思議だ。


菜園便り274
7月19日

 海側の庭はけっこう広い。以前は離れや風呂があったところだからとうぜんといえばとうぜんだけれど、建て壊した後がそのままになっていて、自然にはびこった芝生や雑草がひろがり緑に覆われている。気持ちがすっとほぐれるような空間。
 そこに猫が3匹くる。白と黒の斑はお隣の猫で、彼は野良だったのを飼われるようになって、はす向かいのお宅でも可愛がられてご飯を食べている。そのせいかすっかり太って、動きも鈍くなってきている、年齢もあるのだろうか。
 時々ふらっと家のなかに入ってきて驚かされる。応接室でのんびりテレビを見ていると奥の小さな引き戸の影から不意に出てきて、互いにぎょっとしてすくみあったりする。ここにだれかが住んでいるとは気づかないのだろうか。同じことを何度もやっているのに学習能力に欠けている、なんて思ったりもする。彼なりのエンターテイメント、だろうか。だれを喜ばせるための? 玄関が開いてないときは台所のどこかから、またはカイヅカイブキをよじ登った2階の隙間、時には食器庫のとなりの空き部屋の床下あたりから出入りするようだ。
 今朝は配膳室で珈琲を入れているとふいに廊下側の入り口からゆっくりと入ってきた。互いに顔を見あわせてちょっと驚きあって、いつもだとぱっと走り抜けるのに、そのままゆっくりと歩み去った。なんだか元気がないし、毛並みにつやがあまりない。小さかった頃の「おお」とつい声が出るような真っ白な輝きはない。年齢のせいだろうか、でもそんなに年なのかとも思ってしまう。あの輝きはつい最近のことだった気もする。
 以前、目の前で高く跳び上がって鳩を襲うのをみてひどくびっくりさせられたし、なんだか怖くもあった、見てはいけないものを見たような。餓えや死がかかった猟ではない気まぐれな遊びみたいなもの、でも確実に喪われていくものがある。
 チャコールグレイの長い毛の猫と、あれこれ混じりあった焦げ茶の毛並みのこれも太った猫はたまに姿をみせる。もちろんどれもがいっしょに顔をあわせることはない。それなりに領分があるのだろうから、気を遣うというか侵犯には心しているのだろう。とうぜん争いになるだろうから。
 そういうふうにいうならこの庭は、頻繁に来て散歩したり寝そべったり、木陰にじっと這いつくばって雀を凝視したりしている隣の斑猫の領分なのだろう。小説のなかに、誰それさんちの猫が垣根の下から入ってきて庭を横切ってどこそこの家に入っていく、黒いしっぽの短い猫は松の向こうの奥の方から出てきてそっちの生け垣の隙間からでていく、といった会話が出てきたことがある。なんでもないいつものできごとを話しているんだけれど、どこか変でなにかが決定的にずれてしまったという感じを持たされてしまう。猫はなにかしら不安をかきたてる。全く知らん顔で歩き去るのに、消える直前にうつむき加減の目の端ぎりぎりでちらとこちらを見たような気がしてしまう。
 庭に面した縁側の隅が今の仕事場なので、庭も海もすぐ目の前でついついそちらに目がいく。草木のさまざまな階調の緑と海のとらえどころのない青。庭には錆色の刈られて放置された枝や草の山もあるけれど、姑息な心理操作でそこは見えなくなっているから、視界はどこも涼やかだ。灌木が密集しているあたりは黒々と、夏の植物の居丈だかで暗い塊もある。風が吹くと、軽やかに茅が揺れる、頭を葉先を垂らして風の形そのままに揺れる、そこにはかそけささえある。


菜園便り275
8月1日 『酔っぱらった馬の時間

 前期最後、7月の「玉乃井映画鑑賞会」での「酔っぱらった馬の時間」(2000年)上映も終わった。バフマン・ゴバディ監督の最初の長編であり、初めてクルド語でつくられた映画だったけれど、最初に監督自身の「これがクルド民族の現在であり、現実です」という悲痛にも聞こえるコメントの後は、差別や抑圧の対象にされてしまう当事者がどうしても陥ってしまう、告発とその立場の絶対化に傾くことなく、みごとに生を、世界をすくい上げていく。受けいれる、というもっとも難しい勁さを持つ人たち、の存在を示していく。理不尽さも不公平も受けいれ、とうてい肯えないような強制にも耐えて、そうして先へと歩を進める勁さを持つあり方がさりげないまでにしぜんに示される。諧謔にならない静かなユーモアさえある、奇跡みたいだ。
 絶望を選ぶにしろ希望を選ぶにしろ、自身で引き受けるという率直な姿勢が、威圧的な形でなく貫かれる。整然とした論理、説得力のある文脈のなかでというのでなく、与えられた条件に身ひとつで向きあいそれらを引き受けることとして。それが今の時代の、その地域の正義であるからということでなく、押しつけられたものであっても、それを受けいれ、今の生に、あり方のなかに取り込んでいくしかないと。正しいとかまちがっているとかいうことではなく、生のあり方の根幹がそうなのだと静かに語るように。こういう人たちの存在が、個の欲望が全開にされた今の世界の唯一の希望かもしれないと思う。
 同じことは、彼の2004年の映画、「亀も空を飛ぶ」にもみることができる。けして皮肉や冷笑に陥らずに、滑稽でさえある世界が、厳しい現実が、描かれる。全てが喪われても誰も大声を上げない、愁嘆に溺れず、すでに次へと体は向いている。現象をしっかりと引き受け、身ひとつで対応していく、そうして結果をあれこれ斟酌しない。こういった勁さをどうやったら人は身につけることができるのだろう。個人や家族が単独でつかむことはできない。なんらかの共同体が時間をかけてつくりあげたもののなかで静かに発酵し成熟するものだろう。かつては宗教的とも呼ばれたものに近いのかもしれない。
 常に世界のあり方を見つめ、隣人の顔とも柔軟に対応し続けながら、一方ではけしてかわらない同じ声をどこまでも低くつなげていく。だからいつの時代でもどこででも、最後の最後の世界の崩壊を食い止め、そういうことばでいうなら小さな希望の種子を産みだしていく、自身の身体や死と引き替えに。もちろんそんなことをことばにすることも声にすることもなく。
 一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんむずかしい、とかなり突き放した場からいう人もいる。そういう呪縛の強さ、こわさをどう抜けていけるのかは、わたくしたちがすぐにでも答えなければならないほどの緊急課題だろうし、それはますます重大になっている。
 誰もが、つまり自分自身もなにかの抑圧の対象でしかないという理を丁寧に見つめる力、知る力を持つこともひとつの答えだろう。そこから人は人と「弱さ」の奥で出あいふれあっていく。自分を「底辺」に置くことは人にとってそんなに難しいことではない。
 受けいれる勁さを生活のなかで持ち抱え続けるのはつらく難しい。「成人」することで、年月のなかで、喪わざるをえないものも少なくはない。だからこの映画や「亀も空を飛ぶ」が子どもや思春期を表現の中心に据えるのもとうぜんなのだろう。
 そこを抜けてどこかへ、輝かしい未来へゆくといった通過儀礼ではない受容の形を、改めて紡ぎだしかつての神話に重ねあわせていく、そういう作業を人は、共同体はどこかで始めているのだろうか、いつも<誰か>が連綿とやり継いできたように。たぶん絶望と希望というのは、全く相容れない正反対のものではないのだろう。雪を被った遠い山稜を仰ぎ見るように、未明のでも懐かしいものへ静かに手を振る。

菜園便り276
9月11日

 朝食の準備をしているとちょっと奇妙な気がしてでもなんだかわからずに手を止めると、しんとしたなかにつくつくほうしが鳴いているのが聴こえてきた。半袖のTシャツに短い綿のズボンの、まだまだ夏の気分そのままだったから驚かされた。でも空気はべとつかないし、バタバタしているのに汗ばんでもいない。いつの間にか床の隙間から、秋はひっそりと入り込んでいたのだろう、夜はひんやりとして「風の音にぞ驚ろかれぬる」だ。そういえば降りそそぐようようだった蝉の声も聞こえない。耳のなかでなっているのはいつもの耳鳴りだから、あらためて毎朝の「クラリネット協奏曲」に耳を向ける。
 ぼんやりしているうちに、いつものことだけれど、2曲目の「オーボエ協奏曲」にかわっている。こういうのはちょっと困る。何かやりながら聴くぼくみたいなものには、2つの作品がまちがって、というかまぜこぜになって残ってしまう。正直に言うと「オーボエ協奏曲」はそんなに好きじゃない。「クラリネット協奏曲」を2度続けて聴きたい。そうすればもっとしっかり耳に残ってくれるだろうしつい口をついてでてきてくれたりするかもしれない。中途半端にあれこれ聴きなぐってもしょうがない、そうでなくても集中して聴けないのに。
 季節を選ぶ作品はたしかにあるのだろう。「クラリネット協奏曲」は朝という時は選ぶけれど、季節には関係なくいつも穏やかで甘くてそうしてきちんとしている、もちろんどこか哀しい。だからまだ心身共にぼんやりしている時にも、いろんな世界の困難を受けいれる準備のできていない朝にも静かに聴ける。軽やかで、さあさあと促されるところさえある。
 夏に聴きづらいのはシンフォニーだ。暑っくるしい、頭がますますついていけない、大きな構造がのしかかってきそうでうっとうしい、耳も心も閉じて拒んでしまう、大げさにいえばだけれど。
 今年も「音楽散歩」が10月の14日に開催される。玉乃井も会場提供していて、アイリッシュハープ(だったと思う)の演奏が予定されている。玄関横のホールと呼んでいる応接室(今はリ・ウーハンがかかっているから、「リ・ウーハンの間」とよんでもいいけれど)。今回は新しい試みで有料・限定数になるらしい。昨年は深町さんのリュート演奏だった。午前・午後と2回あって、午後の部は60人を超す人がみえて大慌てだった。無理して20人が限度、できれば10人くらいでゆったり聴けるといちばんいいのだろう。ぼくひとりで深町さんのリュートを聴くという贅沢をさせてもらったこともある。珈琲をのみながらしみじみと高雅な音を体のなかに巡らしていくのは心身の健康にもすごくいい。
 夕方になって枯れた夏野菜を片づけていると、頭と片方の羽1枚だけ残ったくまぜみが落ちていた。周りに蟻の姿はないから、頭は大きすぎると放棄されたのだろうか。そろそろぼくも冬眠の準備にかからなくては。

 

菜園便り277
10月30日 「大いなる幻影

 10月の玉乃井映画鑑賞会はルノアール監督の「大いなる幻影」だった。第1次大戦中、ドイツ軍の捕虜になったフランス人将校(ジャン・ギャバンやピエール・フレネー)の収容所脱出劇。戦争なのにそんなに悲惨でないし、甘いなあとかんじたり、牧歌的な雰囲気だと言われたりすることが多い。でもそれはこの映画が時代や状況、人を丁寧に描いてないからではなくて、ぼくらの生きているこの時代こそがあまりにも過酷で、戦いと享楽に明け暮れているせいかもしれない。
 子供の頃、応仁の乱とかいった時代の歴史を聞かされて、なんて悲惨な時代だろう、そんなにも戦さが続いて、どうやってみんなしのいでいったのだろう、とても生きていけないなあ、と思ったりもした。でも今のこの時代の方がもっと戦争ばかりの、それも大型兵器を使っての徹底した殺戮戦といった、異様な世界なのだろう。後世の人は「歴史」としてきかされてその酷さに震えあがるかもしれない。
 映画の後半、収容された奥深い城砦から脱走するふたりを逃がすために、貴族のフランス人将校が塔のなかを逃げ回って追っ手を引きつける。
 「ボルデュー!ボルデュー!」
 城砦の主である隊長のラウフェンシュタインが追いつめて2度くり返す叫びは哀しい。収容されている敵国人捕虜への威嚇のことばは、でも親しい友へのせっぱ詰まった呼びかけにも似て、胸を打つ。それはまるで家族への呼びかけであり、幼気なものへの声であり、愛のことばである。そうしてあたかも彼こそが助けを求めているように、すがりつくかのように切々と冷たい大気のなかへ吐きだされて消える。
 くっきりとことばが浮きあがるのは、それがかすかな訛りのあるフランス語であり、つまりふたりだけの符丁を使っているという思いのなかにあるからであり、今までの収容所内での会話がそうであったように、おそらく誰にも聞き取れないだろう英語に切り替わっていく。ほとんど無防備なまでにさらけだされた思いは隠しようもなくあふれて、むきだしになり吐きだされる。お願いだから、頼むから戻ってくれ、わたしは君を傷つけたくない、喪いたくない、残された唯一の貴顕の友なのだから。貴族としての矜恃があるから、国の、王のための存在であるから、こうやって騎士として軍務に着いているけれど、それは限られた一部でしかないのだと。
 取り出されるピストル、右腕に構えて、再度の哀願が放たれる、どうか戻ってくれ、まるで跪きひれ伏して乞うように。しかしフランス人将校は自己犠牲を、騎士道をこそ選んで、奇妙な友愛を退けていく。今はただ国のために、そうして脱出した平民の将校たちのためにと、それが自分を疎外することなのかもしれないけれども。 
 放たれる1発、ボルデューは倒れ、死の床で詫びるラウフェンシュタインに応えて、あなたこそたいへんだ、生き甲斐もなく永らえていくしかないと、フランス人らしい皮肉も交えつつでも真摯に哀れみ、そうして果てていく。自分のなかへ滑り込み、沈んでいく。時代の流れのなかであがくことも、白いセーヌの手袋をいつも手入れすることも、常に姿勢を崩さずに超然としていることももう必要ない場へ。
 隊長の叫びがもつ身体性や肉感がさまざまなことを引きだすように、ジャン・ギャバンが冒頭でなじみの女の子との逢瀬に思いをはせながらレコードにあわせて口ずさむフルフルということばも同じように身体としての声を浮きあがらせる。
 唇の丸みの形や頬の厚さ、舌の長さが音をつくるのだと理解させられる。鼻腔や口腔、そういった体の部分が響きをつくり歌を放つのだと知らされる。唾でしめった空気がのどを通過するかすれた乾いた風と混じりあって、フルフル、フルフルという声として発せられる。そこにまるで誰かいるかのようにレコード盤を見つめ微笑みながら、知らず知らずにでている自分の声にも気づかないままに唇は動き、歌が流れる。
 RやL系の音だから極東のぼくらの耳にはいっそう新鮮に響いたのだろうか。

 

菜園便り278
11月27日
音楽に誘われてたどり着く場所
 玉乃井でのはじめての試み、「LP・CDを聴こう会」は楽しかった。会期中の「Y氏の雑誌、展。」とも呼応する静かな力も持っていた。それを可能にしたのはやっぱりゲストの古川氏そのもの。語る人の世界が浮きあがり、その向こうに時代も姿を現す。これからは「LP・CDを聴こう、語ろう、会」とよびたい。
 音楽とのであいが簡潔に語られて、会ははじまった。映画のなかの音楽を中心にまとめられた今回は、モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番 第2楽章」(「短くも美しく燃え」)とブラームスの「交響曲第3番 第3楽章」(「さよならをもう一度」)が一楽章ずつかけられた。「事前の打ちあわせでは、こういう美しい曲を聴きながら死にたい、というような話しもでましたね」という、なんだかおかしいような哀しいような逸話も披露された。
 それからジャズ。これも映画で使われた「マイ・フーリッシュ・ハート」がヴォーカルと少し崩した楽器演奏とで2度かけられ、ジャズとはどういったものかが丁寧に説明された。「ああ、そういうことなんですね」と素直な反応があちこちで起こる。わかったつもりになっていたり、説明することに照れたりでずっと避けてきたことが別の角度からすっと解かれていく。それからビル・エヴァンスなどへと続いていき、最後は誰もがびっくりする曲で締めくくられた。
 実は前日の「Y氏の雑誌、展。」のオープニング・パーティででた「歌謡曲の女性歌手もジャスをよく歌っているけれど誰がいちばんいいか?」への返答でもあった。所有されている青江美奈のジャズアルバムのなかから「ラヴレターズ」(他に「バーボン・ストリート・ブルース」と翻訳された「伊勢佐木町ブルース」等もはいっていた)。
 大学で大阪へ行き、よしジャズを聴いてやろうと意気込んでジャズ喫茶に通った。はじめはなんてうるさいんだと耳をふさぐほどだったけれど、我慢して通っているうちにだんだんここちよくなったし、わかってきた。当時はお金もなく、レコードを買ったりコンサートに行くような余裕がなくて、週に2回ほど珈琲代だけを握って通うのが精一杯だった。
 小さな憧れや挫折、重なる屈折を静かに畳みこんで、その時もそしてその後も生は続いてきたんだということが淡々としたことばで語られる。あっけないくらい単純でそうして目のくらむほどの深さがある、誰もの人生がそうであるように。
 冷静に踏み外すことなく、そつなく仕事もこなしてしのぎつつ暮らしてきた、まっとうな社会人の鏡みたいにも見える人の生の向こうにあるものが、逆立したネガのようにみえてくる。もしかしたらそちらがポジで、こちらがネガなのかもしれない。
 話はマーラーにもおよび、ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」が語られ、予定外だった「交響曲5番 第4楽章」にも耳を傾ける。一区切りした後は集まった人たちからの話や持ち寄られたレコード、CDへ。スモールバレーのおいしい紅玉のタルトを頂きながら話もはずむ。
 端正なものばかりが続いた後に全く異質な、状況劇場(紅テント)、唐十郎の後楽園ボクシングジム・リサイタル「四角いジャングルで唄う」のレコードかけられた。ぼくがずっと前に森さんからもらったレコードだ。唐の戯曲である「ジョン・シルバー」からの、海賊たちが歌う「ジョン・シルバーの合唱」。いかにも当時のアンダーグラウンド芝居の(時代のといってもいいだろうけれど)劇中歌。「七十五人で船出をしたが 帰ってきたのはただ一人」に思わずこみあげるものがある。そういった悲壮な感傷に彩られて、でも「真実」といった大仰なものが一瞬かいま見えたこともあったのだと、幼いヒロイズムだけがたどり着ける場所もあったのだと。

 

菜園便り279
1月3日

 年があらたまり庭の枯れた芝も輝いている。その向こうの海は陽を反射してどこまでも光が続いている。まぶしくて眼を向けられない。まるでなにかの比喩のようだ。
 なんの比喩だろうと思い返そうとして、そのときはもうことばは消えている。生まれる前に事切れたのだろうか。たぶん年の初めに思うようなことでないと、小さな自制が働いたのだ。海を、果てしなく続く輝く波を一言でみごとにいい抜くことも、思いがけない比喩で掬いあげることも、共に虚しいのだと、あいかわらずそんなことを瞬時に思ったのだろう。なにもかもがすっかりのろくなって、動くのも考えるのも、それなのにそんなときだけは素早く反応しているということか。困ったことだ。
 でもまぶしい。横向きにうつむいていているのにそれでも光は眼を射る、思わず手を翳してしまいそうになる。なんだか滑稽だ、部屋のなかで暗い方を向いてまぶしがっているなんて。
 庭には鵯がいる、しばらくじっと海の方をみている。ここ、ガラス戸の内に人がいることは知っている。背後に気を配りながら、でも一瞬、彼も海の輝きに眼を焼かれている、虜になっている。
 だいじょうぶ、正月の特別料理がでたのだろう、隣の飽食した猫はまだうちの庭にはでてこない。どこかなまあたたかい場所で寝転がっている。去年今年に思いをはせつつ、猫は猫の生きがたさをかみしめている。
 そうだろうか、きっとそうだ。

 

菜園便り280
1月30日

 中学時代の同級生から苺が届いた。大きくてりっぱな苺だ。しっかりした果肉、したたる甘い果汁、そうしてなによりもその鮮やかな色、苺色。
 恩師の喜寿を祝うクラス会への伝言と共に送られてきたものだった。残念ながら行けないけれどお祝いを伝えて下さいという手紙に添えて。嫁いで農業を続けているのはたぶん彼女ひとりだろう。地域での活動にも積極的でまわりからも慕われている。大きな房の葡萄を頂いたこともある、どっしりとしてみごとだった。
 同じ学校に通っていたのはもう50年も前のことだ。半世紀か、なんだかくらくらしそうで思わずキーボードにしがみついてしまうっとっとっと。先生は体育担当で、日体大ではラグビーをやり全日本選手権にも出場した人。数年で教師を辞め、スポーツ関係の仕事を続け、今は自宅で菜園をやりながら悠々自適、のはずだったのだけれど、最近急に弱られてしまった。
 クラス会は温泉に食事処も併設されている施設で、それで先生も入りたいということになり、ふたりいれば大丈夫だろうと向かう。熱いのやら深いのやらあれこれ並んだひとつに入り、先生は一時間近く動かない。うまく伝わらないままの話も尽き、ぼんやりと湯船につかっているとあれこれ思いだされる。高校卒業直後に数人が集まって先生の店を訪ね、いっしょにボーリングをやって、ロシータというメキシコ料理店に連れて行ってもらったことなんかも。メキシコ料理なんてもちろん生まれて初めてだった。酢漬けのタマネギがどっさりとテーブルにのっていたことを覚えている。お前は天ぷら学生になるな、と言われたことも。
 それからは誰もがそうだったように、忙しくすることに忙しく、再会したのは41の厄年の同窓会で、先生も変わらずに元気だった。そのときからでも、もう20年がたった。誰れもが老いる、弱る、我慢がきかなくなる、嫌なことは忘れたことにできる、そうしてしみじみと懐かしかったりする。なにが、と問うのは野暮というものだ。もうけしてくり返すことのない、ふれることすらできない、純粋な過去形の物語に浸って、その甘酸っぱいエキスだけを受けとればいいのだ。痛みや苦ささえいつの間にか発酵して芳醇な香りを放っている。静かに噛みしめるしかない、過ぎた時代の歌のように、形を喪ってただ明るい色彩だけを残す子供の頃の夢のように。
 温泉に入った翌々日、先生を挟んであれこれしゃべった同級生が自分で飼っているという鶏の玉子を届けてくれた。畑で採れた南瓜と野菜だけを食べさせているから1個800円にはなるんだぞ、といっていた玉子。はかないほどのレモン色の黄身を抱えた大ぶりの玉子だった。

 


雨が続いて冷たさも極まります。心もなんだかやせ細っていくような日々ですね。日が射したときの喜びも大きく、そういうときは思いがけない訪問があったりします。うれしいですね。
2月の映画の会も終わりました。侯孝賢の「冬冬の夏休み」。卓抜なタイトルだけでも興味をそそられますが、あたたかくすばらしい映画でした。「菜園便り」にも書いたので添えておきます。
3月はヴィム・ヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」です。ヴェンダースの最高傑作ですばらしい映画です(まだ存命ですから新しい映画も期待はしてますが)。
3月9日(日) 14:00 18:00 
スモールバレーのケーキと珈琲付き。カンパ制

菜園便り281
2月13日  「夏休みの子どもたち」

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の名作「冬冬の夏休み」上映も終わった。玉乃井にみに来られた方のほとんどにとってはじめての侯孝賢であり、なじみうすい台湾映画だったのだろうけれど、2階の広間にはあたたかいものがあふれ、そのままずっと座っていたい気持ちになった。
 いろんな世界があり、映画がある。時代は移り、知らないことには果てがなく、みていない映画も数限りない。でも全部をみる必要なんてないこともにも気づかされる。大切なことは結局同じなんだ、今ここにあるもの、それが他の場所で別のことばで語られ、描かれているんだということもわかる。もっといえばことばも形もいらないのかもしれない。柔らかい葉の上で揺れる光に、ふいにぬけていく風に、なにもかもがいいつくされていると頷く人もいるだろう。
 映画のなかの夏は神々しいほどにも輝いてみえた。かつてもそして今も、そういったものが確かに存在していることへの畏怖にも似た喜びが生まれひろがる。足をくすぐる川の水の爽やかさ、うつぶせに倒れ込んでそのまま眠ってしまった昼下がり、起きぬけの額の汗、窓から入ってくる風の強さにも驚かされる。揺れる庭の木の向こうに広がる野原、畑、遠い山。
 <海岸の砂の熱さ、ぴょんぴょん跳ねながら走って飛び込む海、その生温さと不意の冷たさ。水からあがり異様なほど重い手足を引きずって熱い砂に横たわる。紫色の唇に注がれるあたたかい生姜湯、こぼれた甘さを指ですくって笑いあう。>
 映画のなかの樹々を揺らす風が、遠い作物をぬける風が、こわいほどヴィヴィッドに伝わってくる、まるでたった今風がさっと肌をなでていったように。子どもたちは、台北から来た少年も、地元の牛を連れた少年も、みんなが一夏の、永遠に続くように思われた時間のなかにいる。無尽蔵の光が惜しげもなく降りそそがれている。そうして誰れもそんなことには気づかないし思ってもみない。ただそこに自分も世界もそのままにあるだけだ。
 思いがけない体験と小さな躓き、死、そこでいつのまにか成長していく、共同体の掟を学ばされる、人のやさしさと怖さも、そうやって誰れもがいつか幼年期を過ぎ思春期の過酷な激動を経て、粗暴で貧相なお愛想笑いを貼りつけたさみしいでも穏やかで深みのある大人へと移っていく、誰れもが。
 何もかもが単純で滑稽でただ喜びや驚きに満ちていた時は終わる。終わるなんて大仰なことをいう必要もなくそれはひっそりと姿を消す。後に残る郷愁のような匂いだけの残像。だから人はいつでも安心してそれを手にとり懐かしむしぐさをくり返す。もうそこにはなにもないことは了解されていてでも誰れもそんなことはおくびにもださずに静かに微笑みあう。視線を交わすのは相手の目のなかにだけ一瞬浮かびあがるかつてのなにか、例えばぼんやりと川のなかにたちすくんでわけもなく見あげた空がのぞくかもしれないから。どうしてこんなにも果てなく高いんだろう、なんだか奇妙な声が聞こえた気もしたけれど、と。
 枝が揺れて翻った葉裏の銀色が一瞬見えたりするように、不意に死が姿を見せる。永遠に続くことなんてなにもないこともすでにわかっている。でも知らぬふりで通りすぎていく、誰もがそうするように。
 あの高い高い果てのない空、どこまでもどこまでも続いていた海。

 

菜園便り282
3月31日

 この時期には樫が葉を散らす。玄関横でめだつから毎日掃かなくてはならない、ちょっとめんどうだなあとも思うけれど、季節の仕事だからと、なんとなくいそいそしてやる気持ちもある。松はもっと早くて、2月の終わりにさかんに葉を落とす。我が家は道路に散ってかたづけなくてはならない秋の落ち葉は多くはない、銀杏と柿くらいだ。その柿ももう切り倒されて記憶のなかだけになってしまった。
 春や初夏の落ち葉をワクラバというようだけれど、病葉と書くとなんだか病気の樹みたいに思える。やっと冬をのりきって、これからの爆発的な成長に向けて体勢を整えているのだろう。たいせいと打とうとしたら体制という文字が最初にでてきたけれど、ひとつのまとまった組織体、統一体の制度ということでいえばそうなのだろう。
 秋に葉を落とし冬の寒さの間じっと身を閉じて耐え、春のいっせいの芽吹きに備えるのが落葉樹の体制、つまりその樹木の制度なのだろう。野菜や草も光を敏感に感じ取って花を開きおおいそぎで実を結ぶ。人は冬の前になにを捨て、なにを閉じているのだろう。そもそも季節の移ろいを感じ取る力をまだ残しているのだろうか。暑さ寒さは今も日常の挨拶にでてくるからそれくらいは感じとれるのだろうと思うけれど、「日が長うなりましたなあ」というようなことばはもう小津の映画のなかだけに生息しているのかもしれない。
 「春は名のみ」のまだ寒いなかでも、日が長くなる、つまり陽光が増すにつれて心が極端に動きはじめるのはわかる。体はまだうずくまったままなのにそのなかで心は出口もないままに周囲の壁に激突しながら跳びはねる、傷んで病むのはしょうがないのだろう。
 雨も上がった、ジョウビタキがつがいで庭に来ている。

 

菜園便り283
4月1日 

 郵便料金があがる前にみんなに郵便をだそう、切手をはって葉書を、何通かは封書で、せめて一通は手書きでと思っていたけれど、いつものように気がつくともうついたち、4月バカに呆然とするしかない。いったいいつのまに桜が咲いて散り、海の色がかわり、4月になったのだろう。エイプリル フールズ デイが4月バカと訳されたのだろうけれど、だまされる愚者より、めくらますおかしさ、楽しさを思いたい。それにしても変換でゾロッとでてきたダマスの漢字はなんだか怖い。騙す、欺す、瞞す。
 郵便切手はいつも買い置きがある。我が家では珍しいことだ。ぴったりちょうどがいい、ちょっと足りないぐらいが快適と感じているようで、だからなんでもきれてから買いたすことが多いのに、切手だけはついつい買ってしまう、必ず必要になるから、といいわけしつつ。ほとんどは昔ふうにいう記念切手、特別にデザインされて発行される色鮮やかで形もちがっていて大型が多い。
 通常の値段より高い、つまり50円とか80円の使用価値しかないのに、購買には120円かかるとかいった切手もある。例えば地域限定でだされた山本作兵衛切手とかだ。こういうのはまず使えない。コレクションしてるわけではないけれど、やっぱりなんだかもったいない、完全なシートのままでもっていたいと思ってしまう。使えないものは他にもあって、映画監督シリーズの小津安二郎切手もそのひとつ。友人が贈ってくれたこともあるけれど、シートの余白に「東京物語」や「秋刀魚の味」のシーンが入っているせいだろう。もちろん笠智衆原節子笠智衆岩下志麻
 最近のは何組かがつながってひとつの図柄になっていたり、余白もデザインされていたりする。そういうのはつながりのままで、また余白も含めて使いたくなる。そうなると通常より高額の郵便になってしまうから、そうそううまはくいかない。こういう楽しみもなかなかやっかいだ。
 いま手もとにあるのは、使いたくないものを除いて、国際文通週間の90円切手(広重の東海道53次小田原図)、こういった文通週間、趣味週間の切手に子供の頃驚喜した人も少なくないだろう、誰れもの憧れの的だった。他には名山シリーズ、消防団120年、各県シリーズの長崎グラバー邸等など。方形の日本の民芸品切手は白い余白が多くて美しい。昨年夏の文の日切手もよかった。西瓜や子供がパステル色のイラストレーションになっていた。もちろんぞっとするようなものも数限りない、ディズニーやキティのシールものだとかは「かわいい」とすら思えない。
 お年玉の商品、130円の切手シートもできれば丸ごと使いたいと思うと、封筒などの面が大きくて、50グラムまではだいじょうぶだからということになって、なかなかうまくあうものがない。もちろん80円の封書に貼ってもいいのだけれどそういうのはなんとなくおもしろくない。ぴったりだと気持ちまでなんだかすっきりする。
 絵はがきはだすのももらうのもうれしいし、書くことも少なくてすんで助かる。時候の挨拶、いかがですかと書くともうほとんど余白はない。あわててご自愛下さいと締めくくる。それでもなんだかうきうきする。それもあって美術館系の絵はがきはどっさりある。独自につくられ館の名前や展覧会のタイトルも入っているはがき用の袋が楽しいこともあるのだろう。
 以前たくさん頂いた10円、15円、7円といった切手もまだとってある。子供の頃一時期蒐集していたこともあって未使用切手への偏愛は捨てきれない。旧いデザインや色も美しい。趣味週間切手はまだ10円だ。万国博のは1970年で、もう40年以上前になる。だからぼくがだす郵便は小包を除いて(時には小包も切手を持っていってカウンターで貼るけれど)、全部が「記念」切手になっている。
 ギャラリー貘からの案内状の封書もいつも特別切手になっている。小田さんが角の中央郵便局まではしって丁寧に選んで買うのだろうなあとなんだかうれしくなる。

 

菜園便り286
6月1日

 常緑樹は春から夏にかけて落ち葉を散らし続ける。我が家でも松が古い葉を落とした後、山桃や樫などが続いている。小さいけれどびっくりするほど散った松の雄花も終わりに近づいたようでほっとする。
 今はネズミモチの花が降りつもっている。小さな白い花だけれどかなりの量になる。昔、小学校の校舎横にあった生け垣の甘い香りにモンシロチョウがたくさん集まっていたのを覚えている。強い木のようであちこちから芽吹いて瞬く間に大きくなり、ある日突然庭のすみから香りが漂ってきて驚かされることもある。
 一方ではジャーマンアイリスのように群生していたのが一気になくなったりもする。消えていくいちばんの理由は台風などで直接降りかかる潮だろうと思っているけれど、でもほんとのところはやっぱり愛情、だろう。丁寧に見守り時々の手入れを怠らず生長や開花、結実をきちんと愛でてやらないと植物は潰えていく。人もそうだけれど、極端に悪い条件や強い外圧はかえってがんばるきっかけになったりもするから不思議だ。組織は外からの圧力ではつぶれない、内部の混乱や争いで崩壊すると聞いたこともあるけれど、たしかにそういうものだろう。
 だめだと思ったときが終わりなんだ、誰かがそういっている。
 太い花茎を伸ばしたリュウゼツランは節ごとについていたアスパラのようなあま皮が枯れ始めた。これから細い枝が伸びてきて小さな花をつけるのだろう。50年に一度だけ花が咲くと父が何度もいっていたけれど、一株は数年前父の存命中に花をつけて枯れていった。日本では30年くらいで花をつけるらしいけれど、それでも続けて2度も自宅の庭で見るとは思わなかった。棘のある1メートルを超す肉厚の葉は迫力があるし、伸ばされる花茎が木のようで驚かされるから、花の小ささというか地味さにあっけにとられたりもする。もちろん花には花の効率的な事情があるのだろうし、あれこれいうのは大きなお世話だろうけれど、でも前仕掛けの派手さに力を使い果たして尻すぼみ、そんなふうにも思える。ラムの原料にもなるラテン系の植物だから、そういった顛末になるのはわからないでもない。
 プランターのトマトも色づきはじめ最初の収穫もあった、ズッキーニは小さいままでしおれていく、レタスは丸まって根本から腐り始めた。空豆はどっさりの収穫が終わって黒ずんで枯れている。取りはらってレタスでも植えようか。トマトの支柱もきちんとしなければ、バジルの花芽も摘まなくては、群れて芽吹いたルッコラを間引きしなくては・・・・。
 荒れた庭にも傷んだ家にも、すぐにでもやらなくてはいけないことが重なっていく。そういう時期なのだろうか、いろんな変化が迫ってくる。前の家、横の空き地、次々に売られていく。たいせつにしてきた李禹煥も手放さなくてはいけないのだろうか。

 

菜園便り287
7月24日

 東京から戻って両親や姉の夢を頻繁にみる。どうしてだろう。
 長いつきあいの友人がわざわざ「仕事」をつくって新居によんでくれ、2週間も滞在することができた。数年ぶりの東京だったから、いろんな所を訪れ、懐かしい人たちにも会えた。ついあれもこれもと思ってしまうし、映画もふたつもある特集を全部みようとしてしまう。もちろん予定どおりにはいかないけれど、それでもずいぶんといろんなことができた。
 今回は年齢もあって、まさにセンティメンタル・ジャーニーで、懐かしい場所を訪れると、気恥ずかしさよりどっとよみがえる記憶に圧倒される。でもどこか距離があって静かに眺められたりもする。阿佐ヶ谷、神保町、三鷹、新宿、上野・・・・。麻布や恵比寿は行けなかった。有栖川公園と新しくなった十番は見たかったけれど、そうそうあれもこれもできるわけはなく、映画もみれなかったものも少なくない。なにしろとんでもない数の映画が上映されている。後で気づくと、ファスビンダーの特集もやっていたことがわかった。知らなくて幸いだったかもしれない。そこでは次にダニエル・シュミットの特集が組まれているようだった。それもすごい。
 とにかくあれもこれも充実の日々だった。
 東京には十代の終わり、18歳から住んだ。多感なときだったし、時代もずいぶんと慌ただしかったからいろんなことが、意識下も含めてしっかりどこかに残っているのだろう。親や姉にも、直接的な負担もいろいろかけた。そういうことが今度の東京再訪で一気に噴きだし、よみがえったのだろうか。この年になってもうあれこれ構えなくなり、すなおにむきだしのまま、無防備に向きあっていたのかもしれない。
 友人宅には猫やインコ、亀などがいて、ベランダには鉢植えの植木が並んでいたから、そういうものに馴染むことで、旅行者としての緊張や違和がうすれ、生活のなかに落ち着けたのかもしれない。それで普段は閉じられている回路が開いたのだろう。
 もちろん夢はかつてにつながる直接的なものでなく、父が料理コンテストに出ている、といった荒唐無稽なものだ。全員が天ぷらの準備をすませて、「スタート」の合図を待つことになっているのだけれど、父は気持ちも舞い上がっているようで、何故だか白衣でなく紺のスーツにネクタイという格好で、衣をつけた野菜かなにかをもう天ぷら鍋に入れて揚げ始めようとしている。気づいた係の人があわてて止めに近づいてみると、油はまだ火もつけられていなくて、だから衣が冷たい油のなかにどろりと流れこみ沈んでいっている。
 ぼくはどこにいたのだろう。全部を見渡しているようでもあり、半分父の気持ちで動揺してもいて、一方ではひどく辛辣に父を、その失敗を見ているところもある。助けようとか手伝おうとかいう気持ちは全くなくて、でもなんだかつらい思いはあって、全てが、つまり夢の全体がもの悲しいものに感じられる。
 誰もそうだろうけれど、くっきりと覚えている夢というのは少ない。思いだせないまま、その時の感情や苦しさだけは異様なほどはっきりとあって、恐怖に駆られたり胸がつまったりしたことだけが鮮明に残っていく。
 母や姉が出てくるときはいつも大勢の人がいて大半は女性で、だからついあれこれ、子どもの頃のことを思って解釈したりしそうになる。でもそういうことをやることはもうなくて、そこで感じた自分の気持ちが大きすぎたり小さすぎたりして取り扱いかねることだけがその日1日残っていたりする。どんな夢も、つらい気持ちも、でも夕方になれば薄れて、消えていく。今は浜木綿が高く匂うから、そのなかに紛れていくのだろう。
 かつて濃密に関わった、今はもう全く関係が切れている場所は、そこを目にし、入り込んだ時に巻き起こる記憶や当時の感情と、現在が重なりあい混ざりあい一瞬狂気じみた、自分がどの時にいるのかわからなくなる瞬間がある。でもそれはほんとに瞬時のことで、全てはもとの世界に覆われ、おだやかな感傷に包まれ、少しだけ複雑になった思いのなかにしばらくの間放り込まれるだけだ。
 そういうこともあってか、神保町には出かけたけれど駿河台には上っていかなかったし、池袋で降りることもなかった。中野は巨大な再開発が進んでいるようで、中央線から見えるだけでもまるでかわっていた。
 先日の「LP・CDを聴こう、語ろう会」で<我が青春の音楽>なんてことをやったから、いろんなことが徐々にしみ出してきていたのかもしれない。音楽の喚起力はすごい、なんていいながら、自分がそれに巻き込まれている。
 帰宅して「ああ、我が家がいちばん」というのが旅の定番であり、真の目的だという人もいるけれど、帰り着いたら、よほどぼんやりしていたのだろう、家の鍵を後送の荷物に入れてしまったことに気づいて真っ青になった。幸か不幸か閉め忘れていたガラス戸がひとつあり、そこからこっそりはい上って入ることができたけれど、家の中は梅雨の豪雨で2階に並べたタライや箱からあふれた雨で1階までびしょ濡れ、がっくりと泣いてしまった。でもつらいことも滑稽さの隣にあっては力をなくすようで、とにかく雨の始末をと泣き笑いしながらかたづけているうちに、もう住み慣れたもとの生活の内にすっぽりと入っていた。

 戻ってからの友人へのお礼状に「ぼくはなにかを激しく求められることが少なかったから(避けてきたから)・・・慣れていないのでしょう。」と書いたけれどそれは自分でも意外なほど率直なことばだ。18歳の時に情熱や憧れの全てを使い果たしたのかもしれない。その後はその場その場のなりゆきにまかせ、積極的になにかを求めるということもなく、いきあたりばったりだけでやってきた。
 どんなふうに生きても、住む場所や周りにいる人といった小さな状況はちがうだろうけれど、けっきょく同じ所にたどり着いているだろう。ぼくはぼくであり、それ以上でも以下でもないと口にしつつ、ぼくはぼくでさえもないのだろうと思ったりもして。そんなふうに感じ考えながら、こんなふうに生きているだろう。

 

菜園便り288
7月28日 東京映画日記

 東京ではずいぶんたくさんの映画をみた。
 メールに「暗い、きついものばかりだった気がします。これも時代のせいでしょうか」と書いたりしたけれど、そういうことも気になった。リストをつくってみたらなにかが浮きあがってくるかもしれない。今の世相を反映するような大型米国映画を社会学的に分析するようなことでなく。必死で撮られた真摯な映画がどうして暗くつらいものに感じられてしまうのか、それはぼくのありかたのせいでもあるのだろう。
 出発前、インターネットで何でも調べがついてしまう今だけれど、活字が好きでページとして全体が見渡せる方がわかりやすい世代としては、ここはとうぜん「ぴあ」の出番だと、久しぶりに雑誌売り場に出かけても見あたらず、係の若い人に問いあわせるとかなり怪訝な顔をされて、そうか今の人は「ぴあ」を知らないのかとわかったつもりで待っていると、なんと数年前に廃刊になっていると聞かされ、びっくりだった。
 ほんとに世界は動き全てはかわっていく。
 けっきょく、またいつものようにグーグルで検索、先ずはユーロスペースから、そこでもう大当たりが出てしまった。なんと小川紳助特集、正確には「小川プロダクション全作品特集上映」、すごい。まるでぼくにあわせてくれたような企画だ。それに同じユーロスペースカンボジアリティ・パニュ監督特集もやっている。今回もまたユーロスペース通いになりそうな予感、前回はちょうど山形映画祭特集で、すごい数のドキュメンタリー作品を上映していて、そこで初めてアピチャッポン・ウィーラセタクン監督を「真昼の不思議な物体」をとおして知ることができた。
 イメージフォーラムではなんと王兵(ワン・ビン)監督の「収容病棟」や、みそびれた「アクト・オブ・キリング」もやっている。まだ行ったことのない「東中野ポレポレ」も近いようだし、いっそのこと賈 樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の新作「罪の手ざわり」もBunkamuraでみようか、あれこれ思い悩む。
 予定を組みつつ、友人たちにも連絡をとって空いている日時をきく。もちろんお世話になる友人宅の予定が最優先。そうやって始まったけれど、もちろんいろんなことが起こったり、起こらなかったり、例えば久しぶりにのみ過ぎ、はしゃぎすぎて体調を壊すとか、友人の予定が変わるとかで、全部を予定どうりにはみれない。疲れてもう諦めよう、ということもある。
 「小川プロダクション全作品特集上映」では、三里塚は時系列に沿ってみなくてはいけないと思うから、最初はどうしてもずらせなくて、頭とお腹がぐるぐるするなかを這うようにして出かけた。「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968年)。続けてみる予定の「日本解放戦線・三里塚」(70年)はあまりの体調の悪さに諦める。翌日は「三里塚・第二砦の人々」(71年)と「三里塚に鉄塔が出来た」(72年)。
 翌日はパニュ監督特集の「S21 クメールルージュの虐殺者たち」(2002年)。翌日は「牧野物語」(1977年)はパスして「三里塚・五月の空 里のかよい路」(1977年)だけ。翌日はパミュ監督「アンコールの人々」(2003年)と「紙は余燼を包めない」(2006年)。翌日は「どっこい!人間節-寿・自由労働者の街」(1975年)。 その翌日はイメージフォーラム王兵監督の「収容病棟」(2013年)前編、後編。そこまできて、彼の映画がすごく重かったこともあり、友人たちとの関わりももっと親密にしたいから、映画はお終いになった。「収容病棟」のことはもう1回落ち着いてきちんとみてからゆっくり語りたい。そこには尽きないものがあるし映像的にもすごい、でもあまりにも酷くてみつめられない。濡れたコンクリートの床、裸足、尿、雪、布団、鉄格子、暴力・・・。
 蔡明亮の「郊遊 ピクニック」の予告もある。なんと引退すると表明したとのことで、彼の最後の映画になるかもしれない。やめてくれと叫びたくなる。とにもかくにも8月からのこの映画はなんとしてもみなくては、このひとつ前の映画もみることができなかったし。
 パミュ監督の新作、「消えた画 クメールルージュの真実」や「Act of killling」、「狭山事件」石川被告の現在を撮った「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」は諦めることに。福岡にも来てくれることを願うしかない。
 小川プロの他の作品、例えば「三里塚・第3次強制測量阻止闘争」(1970年)はDVDで持ってるし、名作「三里塚・辺田部落」は何度もみたけれど、69年の「パルチザン前史」や「クリーンセンター訪問記」(75年)、「京都鬼市場・千年シアター」(87年)「映画の都・山形国際ドキュメンタリー映画祭89」(91年)はまだみたことがない。参考上映のひとつ「青年の海-四人の通信教育生たち」はみたような気もするけれど、といった状態だからほんとはそういったものも全部をみたかったし、バーバラ・ハマー監督の「Devotion 小川紳助と生きた人々」はいつか必ずみたいもののひとつだ。
 「三里塚・第2砦の人々」は今回初めてみることができた。すごい映画だ。こういう映像が撮れたこと自体信じられない。農民と機動隊が混じりあい動き回っているその間に文字通り挟まれもみくちゃになりながら、それでもカメラは両方をそして場を撮っていく。
 そういうことももちろんすごいのだけれど、でもなんといってもこの映画が映しだすもの、ことがらそのものに圧倒される。農民、学生、機動隊、公団、雇われ暴力団。驚嘆し恐怖し憎悪しそうして哀しみに覆われていく。砦の外の荒れ地でデモンストレーションするあまりにも華奢で弱々しい学生、黙して表情も動かすまいとする若い機動隊員、泣きじゃくる子ども、ただぽかんと見ている幼児、「洞窟」のなかで車座になって待つ老人たち。
 極限的な激しさの後に残る寂寞感、それはもうこの戦いが、ある意味ではすでに終わっていること、もう自分たちの夢見たような結果にはけしてたどり着かないことを誰もが心の底で知り、でも互いのつながりや限りない選択があるはずの未来への希望として、ことばにしないことを黙約し、でも、だからいっそうそれはせつせつと人の胸をうつ。
 こういうふうに人は生きそして死んでいくんだと、遠い声が告げていく。
 三里塚で最後に撮られた「5月の空」が映像としても短く、中途半端に遠くから撮られてしまったのは偶然ではないだろう。もう遠くから眺めることしか、できることはないのだ。まるっきり離れてしまう前に、もう一度、でも現場には近づけないままで。
 本編の上映前に三里塚の今を撮った映画の予告編が何度も流れる。昨日の映画のなかで激しく言いつのっていたおばさんが、老いた静かな口調で諭すように語っている。友人を亡くした青年行動隊の元若者は彼の地で今も農業を営んでいる。だれもが「そういうことだっぺ」と小さく頷く。

 

「菜園便り」追伸
 撮し、撮されることを巡って始まり、家族や世代へと思いをはせたわけですが、この「菜園便り」というのはぼくが二〇〇一年から不定期にだしているメール通信です。いつもは、知人たちへ届けと、インターネットの海に送り出しますが、今回はこの芳名録限定。
 撮影にみえた飯田さんとは不思議なつながりで、最初にお会いしたのは一九九四年の「津屋崎現代美術展 場の夢・地の声」(亡くなられた柴田治さんや原田活男さんが主催)で、参加作家のひとりである山本隆明さんの作品を撮りにみえていました。その美術展のコーディネーターをやっていたので、関わった方やみえた方を片端からコンパクトカメラで撮していて、その時に撮った、撮影中の飯田さんの写真が今もあります。最初はぼくが「撮った」わけです。
 「撮った」時から二〇年ほどたって、また津屋崎に撮影にみえた際に、飯田さんの実家が百年を超す古い家だと聞いて、我が家(玉乃井)のことも話題になり、その流れで親のこと、出自のことなどもあれこれ話し、いろいろに思わせられました。
 撮される、カメラを向けられるというのは、普通の人にとってはとても緊張することであり、シャッター音ひとつにもぎくりとしてしまいます。そういうなかで、こうやって下さい、ああやって下さい、顔はそのタンスの角のあたりに向けて視線はカメラに、もうちょっと上向きに、そうですそうです、といわれてもただおたおたするばかりで、求められていることができないことに恐縮し、もうしわけなさが募ります。
 撮られる時、身ぐるみ剥がされるような、身の置き所のない心持ちで困ってしまうのですが、しばらく続けていると、いつの間にか撮る人をじっと視ていたりします。視線はこちらにといわれるままに、カメラのレンズそのものをじっとのぞき込んでいて、どちらを見ておられましたか、という柔らかい叱責で我に返ります。
 撮られている時、被写体の側も必然的にカメラを、撮る人を視ます。その奇妙な撮影の姿勢を見、対象を「撮る」けれど「みて」はいないという逆説を、みています。どんなにしっかり相手を視つめても視線はけしてあうことがなく、はぐらかされたような気持ちのなかに放りだされて途惑い、ただレンズという物体へ視線を集中させ、そこに焦点をあわせるしかありません。痛いほどの緊張のなか、ぼんやりした夢のような浮遊感も生まれます。
 撮られるということは(それは、撮るということはといっても同じでしょうが)、そんなこんなの不思議な体験です。

 

菜園便り290
8月27日

 玄海黒松、ということばを聞いたとき、あらためてあらゆるものには固有の名前があるんだと感心しつつ、でもこれはなんだかヨーロッパ的な整理・分類の文脈のなかで、ラベル的に貼りつけられた名前だという気もしてしまう。それは全てのものがそうだからといういつもの嫌悪や諦念からくるものでもあるし、またこのことばが盆栽(というよりBonsai)の話の流れででてきたからかもしれない。今や盆栽の愛好家や収集家の中心はヨーロッパや米国にあるようで、頻繁に日本にツアーが組まれ、著名な盆栽職人のお弟子さんは全員外国人だったりするとのことだった。
 黒松というのは、文字どおり表皮が黒くてざっくりと割れたタイプだと聞かされ、ああそうだった、子供の頃から知っていた松はそうだった、蔵屋敷の松もそうだったと思いだした。最近の松は虫が入りにくいように表皮が緻密で割れておらず、色も薄いらしい。たしかに植林された防風林の松などはそうだ。玉乃井の玄関脇の松がその玄海黒松だというのも、その時はじめて知った。おそらく海側の庭の松もきっとそうだろう、ずいぶん前の松だから。
 手のひらくらいの大きさの割れた厚い表皮をどうにかして剥がして宝物にしていた時期があったことも思いだした。蔵屋敷というのは十歳くらいまで住んでいた同じ津屋崎町の一画で、古いわらぶきの屋根にトタンを被せた、大きな家だった。庭も広く松の他にもヒマラヤ杉、樫、梅、銀木犀、南天、何本もの無花果があったし、後から植えた夏みかん、きんこうじ(金柑子)、枇杷、桃、グミ、柿もあった。紅い蔓薔薇と夏には白の朝顔が板塀に絡まっていた。小さな花庭もあってりんどうと百合ははっきり覚えている、芍薬や菊や松葉牡丹も。ガーベラが表の塀沿いに植えられたこともあった。とても珍しくおしゃれな花だと感じたけれど、きっと父がわざわざタキイから取り寄せたのだろう。近所に畑を借りて野菜をつくっていたから、庭には菜園はなかった。
 そういえば松のそばの暗いすみにクチナシがあった。八重の花で、実はできないと父が何度も言っていたのを聞いたとき、なんだかすごく残念に思えた記憶がある。父がそう思っていたからだろうか。クチナシの実は食材を黄色に染めるときに使ったりするものだけれど、漢方薬の材料にもなるのかもしれない。
 英語ではガーディニアといって、それにもいろんな思いでがある。サンフランシスコの安ホテルの受付の男性だとか、麻布十番だとか、キャサリン・ヘプバーンの「旅愁」のシーンだとか。あのクチナシはけっきょく彼女の手には届かなかった。大きな駅、動き始めた列車、窓から精いっぱいさしのべられる手、走って追う男、通俗的で感傷的で美しい。ああいう「定番」のシーンが旧い映画には必ずあった。そうでないと観客が満足しなかったのだろう。誰もが胸の内でほっと安心する、残念に思いつつも。一夏の、旅先の思いでは持ち帰れないし、持ち帰ってはいけないのだ、と。
 少しくたびれて端が黄色くなった花からの強烈な香りはちょっと喩えようがない。


菜園便り291
9月24日

 夏がなかった今年の、夏野菜ももう終わり。トマトはまだ小さな実をつけているけれど、これが赤くなったら摘んでお終い。とうに花も終わりかろうじて地面に張りついていたパセリもお終い。ショウジョウバッタに食べつくされて終わったかにみえたレタスやルッコラは、バッタがいなくなれば息ふきかえして伸びはじめるかもしれない。同じように襲われていた青紫蘇は、よみがえったにしても小さな葉を数枚つけてるだけで、もう伸びる力はないままに白い花をいくつかつけて終わるだろう。
 長雨で弱ってしまったペパーミントがここにきて小さな芽をどっと出してきたから、また元気を取りもどして来年まで続くだろう。雨にも暑さにも負けなかったのはバジルで、これにはちょっと驚かされた。いつもはまっ先に食べられたり潰えたりするのが、今も薫り高い葉を拡げている。水まきの時ちょっとふれただけでぱっと香りがたちあがる。
 空豆の後ほうっておいたプランターに8月になってから瓜科の芽が出た。元気そうだったので水をやっていたら、小さな実をつけた。だんだん大きくなって淡い黄色になった、真桑瓜だ。今年は買ってきて何度か食べたから、その時の種が台所からの撒き水に混じっていたのだろうか。それともどこからか飛んできたのだろうか、鳥に乗って。
 色はみごとだけれどかなり硬くて香りもないから、まだ台所のテーブルの上に置いたまま眺めている。ちょっとでも固さがとれたらおおいそぎでサラダにしなくてはと、げんきんなことを思ったりする。サラダのことを思ってしまうのはこの夏はサラダの野菜がほんとに手に入りづらかったせいもある。だから南瓜や大根、タマネギといったふだんはあまり登場しない材料もよく使った。梨や林檎、桃、メロンなど果実もいろいろ使った、バナナをいれたこともある。バジルをサラダにしたのも初めてだった。あれこれ思いつくまま、目の前にあるものを入れていく、オリーブオイルと酢の力でなんとか形になる。ぼんやり食べているといつの間にか終わっている。強烈な味がなかったかから、バジルは入ってなかったんだろう、自分でつくっておいてそんなことをぼんやり思ったりする。
 なかった夏のつけは今も続いていて、胡瓜やトマト、レタスなどがびっくりするような値段のままだ。そもそもお店に置いてないことが多い。ちょっとした気候の変動で大騒ぎになる、人はそんな不安定ななかに生きている。台風や豪雨、雨が多すぎても少なすぎてもおたおたする。そもそも霊長目ヒト科ヒトは脆弱な、ほんとにフラジャイルな生き物なのだろう。ひとりでは生きていけないし、生きていられない。異様に未熟な状態で誕生する、生まれて十ヶ月も歩けない、数年間は保護者がいないと生き延びれない。こうやって続いているのが不思議なくらいだ。だから文字通り壁が必要なのだろう。雨風や外敵の侵入を防ぎ、そうして「他者」拒絶するために。
 長い強い雨ですっかり傷んだ玉乃井の修理が、ほんの一部だけど始まる。それ以上は大がかりすぎて手のつけようがない。その場しのぎでやっていくしかない、いつものように。そういうことにも慣れてしまった、慣れてはいけないのだろうけれど。

 

菜園便り292
10月2日

 「アジアフォーカス福岡国際映画祭」も終わった。今回は1日に3本なんてことはなくて、1日1本だけの日ばかりになった。
 今年はなんといっても蔡明亮の「郊遊 ピクニック」。前作(「ヴィザージュ」)をみれなかったので、ぼくとしては数年ぶりの作品になる。引退すると宣言したらしく、だからこれが最後の映画になるとのこと、ほんとうだとしたらあんまりだ。うれしい驚きだったのは舞台挨拶に本人と主演のリー・カンションが来ていたことで、終了後の質疑応答も行われた。最後の映画だからか、映画祭ということなのか、ずいぶんと饒舌で自分の映画に対する誤解が多く、なかなかすなおにみてもらえないとくり返していた。
 彼の最初の劇映画「青春神話」の日本公開時に、初日だったのだろうか監督とリー・カンションが舞台挨拶に来ていてうれしかったけれど、あのときは全く初めてみる蔡明亮の作品だったから、監督を実際にみ、声を聞き、その気さくな人柄などを知ることができたのは映画を丁寧に受けとるのに大きかった。
 蔡明亮の「黒い眼のオペラ」(2006年)には、廃墟のビルのなかにできた巨大な水たまりの海をマットレスの舟がゆっくりと流れてくる息をのむほど美しいシーンがあり、大げさにではなく恍惚としてしまった。今回もやっぱり画面は暗めのトーンで美しく、雨と水に覆われている。それぞれのシーンがとても長くて動きもほとんどなくてただじっとみつめるしかない。映画のなかでなにかをじっとみつめている人をこちらからじっとみている、というような。
 静止したままのシーンや見続けるのに忍耐がいるほどの動きの少ない長いシーンでしか語れないことがあるのはたしかだ。でも饒舌に傾きすぎるにせよ、物語ることでしか表現できないこともある、そんなことを思ったりする。受けとる人を、みる人を信じるしかない。真摯なものだけがもつ、どこかでふいに溢れだすもの、ことばや映像では表わせないものが生みだされる瞬間をほとんど祈るようにして待つことだろうか。
 この映画も、今までの作品のように生きることの難しさ、耐え難さに満ちている。でもいつものようにそれでも存る、生きることの悦びがみえてこない。あの蔡明亮の傑作「河」の終盤、混乱と絶望の後、穏やかな陽光のなかにシャオカンがふだんの顔で戻ってきたときのような、最後の最後にいっきにあふれだす、静かで圧倒的なまでの底深さ、単純で限りなく深い生の喜びがみえない、そんなふうにさみしく思えてしまう。「楽日」で、終わってしまった映画の後に、破顔して全てを受けいれ肯定の表情をみせる南天のようなおおらかで奥深い楽天性はみえない(南天の死が蔡明亮に与えた影響ははかりしれないだろう)。
 ものに対してであれ、心に対してであれ、世界をあるがままを受けいれたちまち順応していく子どもたちのなかに、希望をみなくてはいけないのかもしれない。でもそこにただ酷い諦めだけしかみえなかったりもする。
 そうなのだろうか。


追記:以前「文さんの映画をみた日」に書いたものを添えます。蔡明亮はほんとに深いところで人をうち、そうして支える映画をつくる監督です。


「楽日」「西瓜」(2003年 蔡明亮監督)
過剰さと哀しみに浸されて
 蔡明亮映画祭がシネテリエ天神で開催された。力をふりしぼった表現が、みる者に衝撃を与えながら静かに深くなにかを届けてくる。それを性急にことばにすることなく、微かに浮きあがってくるものに目を凝らす。
 「西瓜」(2005年)ではアダルト・ヴィデオの世界が、渇水の大都市を舞台に描かれる。身体や性を軸に、せつせつと求めあう心を掴みだそうという試み。滑稽であざとくて、どこまでも真摯でせつなく。
 そうして「楽日」(03年)。土砂降りの台北の外れ、時代からずり落ちた映画館の最後の日。スクリーンをみつめているのは、かつてのカンフーの大スター、苗天と石□(それぞれが俳優の自分を演じている)、彼らの最初の記念すべき出発となったキン・フー監督の「龍門客棧」。映画に涙し、出口で立ち去りかねている石□が苗天に話しかける。「もうみんな映画をみなくなった、誰も私たちを覚えていない」と。それに応えて苗天が破顔一笑といった笑顔を返す。まるでこの映画の、そして彼自身の映画史を締めくくるように。ファンのひとりとしてその表情がフィルムに残され、いつでも出会えることに安堵し、まるでその現場に立ち会ったかのような喜びに満たされる。でももう彼が亡くなっており、次の映画はないこともまた痛みとともに思い知らされる。こうやって苗天を重要な登場人物として描いてきた、蔡明亮のひとつの時代が閉じられた。
 「楽日」には苗天が苗天という俳優の役を演じるし、少なくない割合で実人物としての彼も重なるといった多重性もある。蔡明亮は全ての映画をあたかも連作であるかのように撮っていて、自身の過去の映画を引用し続ける、同じ俳優として、仕草として、シーンとして、台詞として。そのいくつもが重なり層になり、つながり、みている者のなかで膨れあがり、予測できないひろがりを生み、人を世界や時間に直につなげていく。
 登場する人々が、できごとが、いつも<哀しみ>に浸されている。人々は都市は乾ききって餓えている。そうしてどこも水が溢れ、なにもかもを覆っていく。澄んでいても濁っていても、水は全てを濡らし、湿ったぬくもりや生気を放つ。生をその根底で支えるものとして、光に寄り添うようにして。


黒い眼のオペラ(2006年 蔡明亮監督)
眠りの船は巡り
 なんの躊躇いもなく真っ直ぐに人の深みへと降りていく蔡明亮、その新しい作品がいよいよ公開になる。東南アジアの湿りと熱気のなか、終わりのない仕事、民族間の葛藤、貧富の差に翻弄され疲弊した人々のよるべなさと、でもそこでこそ掴みとられる愛や誠意が描かれていく。流れる汗や澱んだ空気に満ちているにもかかわらず、どこかに夜明け前のうす藍色に染まった透明でひんやりとした一角が残っている。人を孤立させ途方に暮れさせる一方で、静かで微かなつながりを産みだす母胎でもあるような、夜と朝の間、闇と光のあわい。
 心と体、男と女、母と息子、男と男、生と死、そういったことが具体的な身体をとおして語られる。手で洗われ、指でなぞられ、突き放され、重ねあわされる体。交わされることばはほとんどない。眼や唇、指が伝えるわずかなもの、そうしてその限りなさ。
 大型マットレスをまるで寓意的な象徴のように扱いながら、ふたりで眠る、抱きあうといった、とても親密なのにどこかで身体の個別性を意識させられてしまう場のリアリティを掬い上げていく。滑稽なしぐさやおかしみさえも含み込みつつ。
 人は哀しい、生きることはつらいという思いが、いつものように蔡明亮映画の底を流れていくけれど、でも、だから、人は愛おしいし、生は大きな喜びなんだとも伝えてくる。ことばとしてでない思いの重なりが厚い層をなし、その内からにじみ出されてくる漿液がいつのまにか世界を潤していくようにして。
 都市のビルの廃墟に産みだされた海を、ゆったりと滑っていくマットレスの眠りの船。緩やかな温かさに包まれて眠る人を乗せて、まるで桃源郷へとたゆたっていくかのように、終わってしまった生が永遠の向こう側に漂い出すかのように。もしかしたらそれは眠り続ける人の硬い頭蓋の内に無限の一瞬として閃いた輝きかもしれない。
 生活の細部も丁寧に描かれているから、その夢のような恍惚とした終幕が、初まりの苦さや痛みにつながっていくのも了解される。でもそれは疲弊しきっての諦念や放棄でなく、そういうことも含みこんだ、生の力であり、思いの勁さである。そうしてそれはどこにも誰のなかにもあるということも映画のなかで教えられ、深々とした慈しみをさり気なく渡されていることにも気づかされる。7月下旬から福岡市のシネテリエ天神で上映。

 

菜園便り293
10月15日

 竜舌蘭が倒れた。なんだか悲壮感に溢れ、悲しみに包まれてしまうようないい方だけれど、じっさいはもっと散文的であっけらかんとしていた。台風で倒されたのだ。茎はまだまだ太く頑丈だけれど、根本の巨大サボテン部分が変色しもう腐りはじめていて支えきれなかったのだろう。地面から2メートルほどの所からボキリと折れている。海側、つまり道路側に倒れたのを、誰かが外にはみ出た部分を折って庭に放り込んでくれていた。太いしけっこう重いから、折るのも運ぶのもたいへんだっただろうと見知らぬ誰かに感謝している。
 小さな黄色い花はとうに終わって黒く変色していて、その下に実というか種というか、細長い袋状のものががびっしりと並んでいる。ちょっとみると小さなバナナのようだ。
 台風の潮のかかった車を洗っているお隣も気づいていて残念そうだ。父がいたときは大喜びでみんなにふれてまわって、花も配ったらしいから、あれこれ知ってある方も多い。30年に1回なんだそうですね、ええ50年に1回ともいわれてます、私なんかはもう2度と見れないでしょうね、そうですねえでも庭の隅にもう1本大きなのがあるのでまた近いうちに咲くかもしれません、そんなことを立ち話する。
 もしまた咲いたら3度も見ることになる。50年に1回と聞くと、自分にとっては最後、と思うだろうし、一生に一度と当然思うのだろうけれど、竜舌蘭からしたら、群生する場所ではいつでもそこら辺で咲き続けているのだろう。
 そういった、一生に一度といったようなことは人を惹きつける。ましてそれを最後に喪われてしまうと思うととてもロマン的に感じるし感傷的になる。どこかヒロイックな響きも生まれる。映画「会議は踊る」(1931年)の主題歌は「ただ一度だけ(Das gibt's nur einmal)」だった。あの歌は感傷より強さが前面に出ていた。そういう歌詞が喚起するものと、あのちょっとパセティクな映像、メロディがぼくをどこかへ連れて行ったこともあった。ダス ギプス ヌァ アィンマル、ダス コム ニヒト ヴィーダー、ダス イスト ツー シェーン ウム ヴァール ツー ザイン ・・・・
 ウイリアムホールデンジェニファー・ジョーンズの「慕情」の原題は「Love is a Many-splendored thing」。そういう、愛はすばらしい悦びに満ちているといったことばが、慕情という、遙かに偲ぶ、哀しい色あいを帯びたことばに置き換えられるのも、日本的なことなのかもしれない。まっただなかの燃え上がるときでなく、過ぎていった、喪われていったときを主題的に取りだしてしまう心性。
 当時の花形職業、海外特派員とアジア系の美女(という設定)のロマンスはやはり成就することなく戦場での死、が待っている。香港という奇形の植民地、アジア内の戦争、そこに関わる正義の米国人、寄りそうアジア系の娘。以前、米国人からジェニファー・ジョーンズは彼らには異国的な顔に見えると聞かされて少し納得がいった。まだアジア系の女優が主演をするなどということは想像もできない時代、システムだったのだろう。主題歌はどこか甘く感傷的で哀愁を帯びているから、慕情というタイトルがいっそう身にしみるのかもしれない。
 成就しないもの、挫折し倒れるもの、中途で喪われるもの、そういったものへの偏愛はくり返しくり返し描かれ続ける。  

 

菜園便り295
12月7日

 友だちに渡すのに、出がけに庭の花をおおいそぎで摘んだけれど、たちまち7種ほどが手に入った。少し寒くなった後だから、花なんて石蕗ぐらいじゃないかと思っていたのでちょっと驚いた。その時は気づかなかった小菊も表玄関そばにでてきたから、今だともう少し多くなるだろう。荒れた庭にもいろんな喜びが潜んでいる。
 そんなことを書きかけていたらもう12月、いつのまにか真冬になっていて、庭の花を愛でるどころでなくなった。昨日は寒さで体が動かなくなって、応接室のストーブの前で石像化していた。心もこわばって動かなくなる、困ったことだ。
 先日、2階のひさしで見つかった鵯ほどの鳥の死骸のことを書いたら、まるでそれにあわせたようにまた鳥の死。今度は下の台所の排水口近くに横たわった、オレンジと青の小さな鳥だった。たぶんジョウビタキだろう。こんな妙なところにあるのは、頻繁に玉乃井に入ってくる隣の猫の仕業だろう。庭で鳥をねらって潜んでいることもあるし、襲っているところを見てしまったこともある。どこかで捕らえて、自分の家にではなく、秘密の隠れ家に隠したのだろうか。
 乾いていて、重みが感じられないほど軽い。でも羽の色は鮮やかなままだ。そのまま乾燥させて採っておきたいほどだけれど、そうもいかない。木立のなか、前の鳥を埋めた近くに小さな穴を掘ってうずめた。近くにはこの夏花をつけた竜舌蘭がある。根本の本体部分は黒ずんでもう半分枯れている。このまま潰えていくのだろう。50年がんばって伸び続け、力を蓄え、そうして開花し種子をふくらませ散らして終わる。異様なまでに肉厚で鋭い棘を持つごつごつしたサボテンも、次世代へと、種の保存のために生きぬいて、そうして朽ちていく。
 表の玄関前では、まだ松の落ち葉が続いている。落ち葉だけれど、油色とでも言うしかないような薄茶色でつややかな葉だ。形もくっきり、きりりとしている。たった1本の松だけれど、強い風の後など、掃き集めるとふた抱えほどになる日もある。花を存分に散らせた後だから、心おきなく自身の体調を考え整えているのだろうか。
 プランターのレタスはまだ葉を拡げているし、バッタの攻撃を生き延びた春菊も伸びている。空豆も半分土に埋もれて、日照時間が長くなるのを待っている。ルッコラが小さいなりに群れていて、時々サラダに彩りを添えてくれる。アーティチョークはほとんど伸びなかったけれど、そのとげとげの形よい葉を緑色に保っている。刈り払われた交差点から持ってきたペパーミントは本家が全てなくなった後、健気に鉢のなかで増え続けている。元気のあるうちに地植えしておかなくてはと、何度も思ったことをまた思っている。残念ながら、友人が持ってきて植えてくれた夏みかんは夏を乗りれなかったようだ。
 続いた死を気にもせず、鵯や雉鳩がかわらずに庭にやってくる。すぐ向こうの海では鴎が群れをなして低く飛んでいる。さざ波がどこまでも光って海はもうすっかり冬の色。


菜園便り296
12月12日

 今年もそろそろおしまい。来し方行く末とまでいかなくても、少なくとも映画のことは書いておかなければと思いつつ、でも雨ばかりの夏のない年だったといったことだけがすぐに浮かんできてしまう。なにはともあれちかい人の死がなかった、それだけは言祝がなければ。
 「映画・今年の3本」を載せていたYANYA’がでなくなって久しい。いろんな人があれこれ思いがけない視点から語りあうのは楽しかった。知らないことを教えられたりもしたから、読めないのは残念だ。
 みにいった映画の数は少ない年だったけれど、夏にいくつかの特集上映でまとまってみることができたし、すごくヘビーなものも少なくなかったから、受容感はかなり大きい。小川紳介三里塚シリーズ、特に「三里塚 第2砦の人たち」については今も大きな塊が処理できずにどんとどこかに乗っかったままで、なんだか食べられないものを大急ぎで詰めこんだように重苦しい。ついあれこれ思ってしまう。この映画を、例えば「玉乃井映画の会」でやれる日は来るのだろうか、といったようなことまで。それはもちろんぼくのこととしてだけれど。
 王兵ワン・ビン)監督の「収容病棟」はなにをどう語るにしても、もう一度ゆっくりみなくてはと思うけれど、あの5時間近くをもう一度たどるにはかなりの勇気がいる。心身の体調を整え、冷静にかつ柔軟に、姿勢正しく毅然と、でも心開いて感情にも蓋をせずに、恐怖や嫌悪、痛みや憎しみも隠さず、そうして喜びも哀しみも手のひらにすくい取って静かに見つめ、力あればのみほして・・・・そういうふうに対応できるだろうか。
 大げさなことばはおいて、今年の3本。6月にKBCシネマでジャ・ジャンクーもやったし(「罪の手ざわり」)、アジア映画祭では蔡明亮の新しい映画だけでなく本人も登場したし(「郊遊 ピクニック」)、成瀬の「浮雲」をまたみたりもした。でも、小川紳介王兵のものを除いたら、やっぱり「玉乃井映画の会」の作品がすぐに浮かんでくる。
 ジャ・ジャンクー監督「一瞬の夢」はぼくには初めてだった。玉乃井の暗く閉めきった2階で初めての映画をみるというのはとてもうれしい。みんなと同じ期待を抱いてスクリーンに向きあえる。賢しらな「解説」をしようと思ってもできないから、あれこれ予断を押しつけずにすむ。彼の長編第1作、実質的なデビュー作で、出世作でもある。青春の屈折、いらだち、悦び、怒りや欲望がむきだしで語られる。ことばにしてしまうとそういうありきたりのクリシェになってしまうけれど、とにかく率直におそれずに、きちんと語れることだけを自分のことばで語る、しかもそういうことを自分への枷とせずに、結果として等身大になるような、細かな齟齬を踏み抜いていくような、たいせつなことは伝わるんだと信じて、遠くまで届く静かな声を発し続ける、そういう姿勢というか気概に先ずうたれる。
 これまで何度もみてきた小津安二郎監督の「麦秋」は秋にやった。揺るぎないしっかりとした構造があり、どこまでもシンプルで限りなく深いから、野放図に細部にこだわれる、まるで淫するように。家族が解体していくということそのものへの哀悼、消えていった時代への郷愁は、みるぼくにも深い。いつもそうだけれど、今回も、東山千栄子と嫁の三宅邦子が縁側でやる、打ち直した綿を、洗った布団がわに入れていく仕事なんかをじっとみつめてしまう。廊下の隅に、打ち直してきた綿が、四角い包みで重ねて置いてあるのもちらと確認できる。子どもの頃の我が家ではだるま綿がだるまの絵が入った梱包紙に包まれていたけれど、ここのはどんな梱包紙なのだろう。綿全部を包むのでなく、外側だけをぐるっと四角く囲むように包まれている。廊下の隅の壁の前なんて積み上げるのにぴったりだ。そんなことも思う。
 母は手伝いに来てくれたセリノさんと二人で両端からひっぱったり、軽く叩いたりして平らにならしながら、所々に緑色の幅広のかたいとじ糸でしつけていた。針も独特だった。リズミカルに刺しては抜いてくるりと結んでぷつんと切る、そのくり返しを何故だかとてもよく覚えている。なんであれ縁側の作業は楽しげで、ましてやセリノおばちゃんが来ているし、あたたかい綿や布団が広がっている。はしゃいでしまうのはとうぜんだったのかもしれない。
というわけで今年の3本はあれもこれもと悩むことがなくて、「三里塚 第2砦の人々」「収容病棟」「一瞬の夢」「麦秋」ということになった。


菜園便り297
12月15日

死はあまりにも劇的だから誰もが引きつけられてしまう。惹きつけられて、が正しいのかもしれない。


死、そのものより、それにまつわる事々、例えば、自分のなかに巻き起こる決まりきったとしかいえない激しい感情とそれの誇示、自分への?、そうしてくり返される儀式への参加とのめり込み。でもそれでも


ぼくは誰かに「発見」されるのを待っている。誰もがそうだろう。
ほんとに?

菜園便り298
2015年1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。


菜園便り298
1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。最後にお見舞にいったのは虎ノ門病院で、だから昼時に病院を抜け出してオークラに行ってクラブハウスサンドイッチをいっしょに食べた、「病院の飯はほんとにまずいし、かさかさなんだ」と。ガーデンレストランには今もそのメニューは残っている。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。

菜園だより***
 看病で、病院で見せつけられる、死にいたるたいへんさへの恐怖も消えないのだ、きっと。徐々に死にとりこまれていくとき、身体的な痛みや苦痛が、もじどおり息のできない苦しみが、人を襲うことを間近に見てしまうと、もう誰もそれへの怯えから逃れられなくなってしまう。
 死の床の全体を貫く耐え難い不快にびっしりと覆われ、それを拒むことどころかそれを口にすることさえできずに、あちこちをいじられ、こづき回され、喉の焼けるような渇きの一瞬の解消さえなく、何日もうめきながら血を流しながら叫びつづけて無能な医者や傲慢で不器用な看護士たちへの怒りが爆発し、側にいながらなにひとつ解決できずにお追従だけしている家族への怒りが生まれ、でもその全てがけしてことばにも態度にも表せないその二重三重の怒り苦痛悲しみ。結局はただ諦めて、でもそれによる苦痛の減少がわずかにでもついてくるのだろうか。
からからの口のなかを妙な臭いのガーゼで力づくでかき回し、粘膜を引き剥ぎ、病人にいっそうの痛みと不快と渇きをつのらせていることに気づこうともせずに自慢げに<きれいに>してやったと誇られて、それを新たな怒りでなく、ただ黙って受けいれるほどにも衰弱は深くなれるのだろうか。心臓が動いているだけで、痛みも不快も怒りも感じなくてよいほどにもうろうとなれているのだろうか。きっとそうではないだろう。では最後の最後の瞬間、それは劇的に「今」というような瞬間でなく、短い時間内であれ徐々に心臓が脳が働きを停止していき呼吸が止まり、血圧が一気に下がり、どこかで「生命」が消えていくときその時に恐怖や苦悩はないのだろうか。痛みはもうない気がするけれど、それも脳天気な外にいるものの楽観にすぎないのだろうか。
様々な喪の行事を行うために人は集まり、あれこれを片づけていく。段取りを決め、お寺に連絡し、親族に知らせ、お土産やお菓子や果実、それに花も手配し、座布団を干して、仏壇を掃除して、写真をだす。道路側に飛び出している庭木を大きく刈り込み、隣との境界の蔦や灌木を取り除き、家のなかもあれこれ片づける。遺品の整理も続ける。
いろんなことをてきぱきとすませていくと、かえって鬱々としてしまい気力も失われる。なんだかほんとにひとりになってしまったと、そんなふうに思えてしまう。久しぶりに眠れなくて夜が長くなる。人は自分でも気づかないところでいろんなことを思い煩っているのだろうか。自分のことばかりにかまけていると、自分のことさえわからなくなっていく。
お盆も近づいてきた


菜園便り
1月13日

菜園便りは時々番号が飛ぶ。抜け落ちた数はけっこうある。気にして問いあわせてくれる人もいるけれど、だいたい誰にも気づかれないままひっそりとどこかのすみに紛れ込み沈んでいく。
ぼく自身が忘れてしまったのもあるだろう、きっと。書いたのだけど送らなかったとか、書きかけて止めたけれど、抹消するのがなんとなくはばかられたとか。
「撞木鮫のでてきた日」のように個人を宛先にしたものにそういうのが多い。その人だけに当てて書いたのだったからだが、しばらくしてまとめる時に載せたりしたから、まったく消え去ったわけではない。
今回の「菜園便り   」は1部限定で、宛先は写真家の飯田さん。夏の写真展に出すためということで、「作家」のポートレートとして撮りにみえた。いつもは美術作家を中心に撮ってあるし、ぼくごときがと、なんだかおこがましい。でも玉乃井の雰囲気を撮りたいということだろうと引き受ける。そうやって簡単に引き受けたけれど、とにかく気恥ずかしいというのが最初にあって、それは最後まで続いたし、緊張もずっととれなかったけれど、なんだかふっと気が抜ける時があった。
撮られることの不思議や快感も知ることになった。 

 

菜園便り299
1月20日

 海側の庭に面したガラス戸のすぐ下、小さな藪椿に初めてのつぼみがひとつついた。緑のなかの紅、でやっと気づいたけれど、丈も低くひっそりとつけたつぼみだから気づくのもおそかった。
 もう7年ほども前に近所の人が、鉢植えではかわいそうだし、自分のとこは植える場所がないので、ということで持ってみえた苗の1本。潮や風の当たらないところと思いつつ3カ所に植えて、当座は水やりも続けてどうにか2カ所は着くのは着いた。砂地だしあまり手入れもしないままだったのに、健気に少しずつ伸びてとうとう花をつけるまでになった。1メートルにも満たない茎に大ぶりなつぼみがついている。
 少し離れているし特に親しいお宅でもなかったから、植木を持って見えた時は少し奇異な感じもしたけれど、もちろん子どもの頃から知っている人だし、喜んで受けとった。しばらくは様子なども伝えていたけれど、いつの間にかまた遠くなって、会えば黙礼するくらいの関係に戻ってしまって今に至っている。花のことも伝えられないままに終わるのだろうか。
 植木は頂いても着かないものが多い。自分で買ってきた苗もほぼ全滅だけれど、思いがけないものがぐんぐん伸びたりして驚かされる。楠とか月桂樹とか、大きくなる樹が意外にすっと着いたりして、なんだか不思議な気もする。
 そうやってたちまち3メートルにもなった楠のそばで水仙が開いていた。この冬初めての花だ。小さな一群れがかろうじて、といった感じで続いている。たて壊した離れや大浴場があった頃のしおり戸のあたりになるのだろうか。そこはちょうど建物が風よけになっていて、海からの潮もまだひどくない頃だから毎年たくさんの花が開いていた。
 そういえばあの頃は茅はなかったなと、冬枯れしても勢いを失わない茅をついつい恨みがましく見てしまう。


菜園便り300
3月23日(2015)

 「菜園便り」が300回になった。第1回が2001年だから、14年ほどたったことになる。途中で一度、抜粋を『菜園便り』という本の形にまとめたけれど、それからでも5年はたった。その本のはじめには200回目は2003年だとある。100回めはいつだったのだろう。
 いろんなことがある、そういうあたりまえのことを知るために、人は長々と生きているのかもしれない。若さは愚かしさだったけれど、いつまでたっても愚かなままだという内省も今になってあらためて生まれる。
 そこからさらに進んで、「でくのぼう」とよばれることをめざし、指さされることに負けない生き方をしようとする人もいる。でもどういう隘路を伝ったらそういう場へと抜け出られるのだろう。昔だったら、長く困難な旅とヒロイックな行為の後にやっと遠くに見えてくるのだ、なんて思ったかもしれない。ここより他にしか、戦いの荒野も安住の桃源郷もないのだと思いこんでいた。賢しらに「青い鳥はここにいる」なんて口にする者には、そもそも青い鳥なんていう発想そのものが、ここにないものを指しているんだと冷笑して。
 でもそういうことではなくて、こことか、他とかといったことばそのものに意味がないということ、意味をなさなくなるといっても同じだけれど。そういういい方をするなら、全ての場所がここであり他であるということだろう。
 「でくのぼう」になるには、そういう場に立ちたいと真摯に考え、ほんとうに思い願うこと、そういうありふれた、でもとても難しい方法しかないだろう。でもほんとにそういう場にたちたいのか、ほんとにそういうふうに名指されて生きていけるのか、つらくはないのか、屈辱や痛みにたやすく打ち負かされるしかないんじゃないか、そんな躊躇が一瞬でもある間はなにも見えてこないのだろう。
 誰もそういう場は怖い、でもそこしかないんだと、そうしてそこはまったきに開かれて明るく勁い場だ、と、そここそがほんとうなんだ、そこしか生きる場はないんだとしっかり掴む人もいる。感傷的に憧れるのでなく念ずるほどに強く思うこと、信じること。単純でそうして限りなく深く遠い場。
 菜園は緑濃くどこまでも広がる、重なりあったやわらかな葉が辺り一面を埋めている、赤い実がそこかしこにのぞく、黄色いのはなんだろう、陽光は根もとの黒々とした土にも明るく降り注ぎ輝いている、頑丈な竹の支柱に絡まり伸びてきた蔓が空へと触手を伸ばし、その先端のほとんど白いまでの青い色素にも白金色の透明な光がまとわりつく、土のなか地下へと向かう毛根が蓄えるごつごつした塊、さらさらと葉を鳴らす風が季節の流れを攪拌し掻き乱し、ここは今なにもかもが実り溢れる豊穣な沃土。
 現実のプランターのなかでは、くすんだ色のレタスがやせ細った髭根を広げ、小さな苦みのある葉をときおり届けるだけになっているとしても。すべては愛です、野菜も愛です、どこででもなんでも育つのです、どうにかしのいで冬を越してきた春菊やルッコラがひっそりとそう告げる。誰に向かってだろう。愛、慈しみ、それは求めるものではなく、与えることしかできないものなのだろうか。

菜園便り301
4月3日

 モーツァルトの全曲聴破も、2年を超してオペラまで終わった。残るのはアリアとか宗教音楽とか。かのレクイエムが残っているとはいえ、もうあとわずかだ。今月は無理だとしても、この春のうちには終わるだろう。でもその後はどうすればいいのだろうか。今でも時々はリクエストもあってジャズやリュートやバッハをかけているけれど、そうやって気の向いた曲をかけていくというのはかえって難しそうだなあとも思う。いつの間にか同じ曲になってしまいそうだ。CDだけでなくレコードやテープもかけるように気持ちや体をもっていかなければ。
 聴破記念には「ひとりリクエスト大会」でもやろうか。先ず何からはじめよう、つい先だって話題になったピアノ協奏曲23番でもいいし、毎朝聴いているクラリネット協奏曲でもいいし、明るくホルン協奏曲1番で幕開けしてもいい。夜の女王のアリアで騒がしくはじめるのも一興かもしれない、それともやっぱり静かにピアノ曲だろうか。聴くといつもシンとしてしまうピアノ協奏曲21番の第2楽章か、それとも・・・あれこれ空想は尽きないけれど、シンフォニーがぜんぜん挙がってこないのは訝しい。継子いじめだと思う人もいるかもしれない。でも大きなものや堅牢なものが苦手だし、仰々しいものは敬遠してしまうので、どうしようもない。でも42番くらいはかけなくては、といったひとり冗談はさておき、「魔笛」や「レクイエム」はかけるだろうなあと思う。最後をどうするかも問題だ。アンコールになったらどうしよう、小さくて心にしみるものだと、やっぱりピアノソナタになるのだろうか、などどらちもないことを考えてしまう。どうしてこうやってすぐに形に置き換えてしまうのだろう、貧しい心性だ。
 「菜園便り」300回について返信をくれた人もあった。そういうのはうれしい。ああ、誰かがぼくの声を聴いてくれたんだと思うし、なにかがむこうに届いているんだ、そうしてそこからのなにかがぼくにもまた届いたんだと。
 300回はすごく直接的な書き方だったから、頂いたメールには宮澤賢治に触れたものもあった。直接的である間はなにも生まれない、ともいわれたりするけれど、そうだろうか。「でくのぼうになる」の対極には、若い時に誰もが足を取られる<上昇志向>や<野心>や<正義>があるのだろうか、そういうことも、書かれている。そうしてそこからやっと自由になったと思いこもうとしても、そうは問屋が卸してくれない、あたりまえだけれど。
 今もふつふつとたぎるものを抱えている人も少なくないだろう。御しがたい熱、内で荒れ狂う風、凍りつかせる外からの雨、そういったものに振りまわされず、でも切り捨ててしまうことなく抱え続けていくのはとても難しい。
 それはぼくにとっては書くことを止めない、止められないことになるのだろうか。「表現とはついには他者のものでしかない」、そうだともそうでないともいえなくなる。
 成功や名声にあがくように憧れる人もいる、誰にもそういう時期がある。もちろんぼくもそうだった。でもそういうことに付随するめんどうや嫌なことも丸ごと引き受ける力がないと、押しつぶされてしまうだけだろう。
 プラスでもマイナスでも「有名」にもならずにすんでほっとしている人も多いだろう。近隣でのちょっとしたいざこざに巻きこまれたり、友人たちの間でちょっと持ちあげられたり、それでもう十分だと。もう「若く」はないけれど、未だに「貧しく」「無名」であることの安堵と小さなさみしさもある。そういうことを市井に生きるというのだろうけれど、そこにある勁さや深さに気づかされるのには、それはそれでまた時間がかかるものだ。自分を過大評価することから離れようとして過小評価することは、世界を、人々を過小に見てしまうことととつながってしまう、そういうややこしさもある。
 身についてしまった、近代の悪癖のひとつである、批評してしまう因習から逃れ、ただみる、聴く、直に向きあおうとすること。そんなことは誰にもできないんだと突き放さずに、虚心にただむきあって、溢れてきそうになることばを押し返して、ただ黙ってむきあって、そうしてそこに浮きあがってくるものを静かにすくいとって。そういうふうにわたくしは生きていきたい。


菜園便り302
5月6日

 3月の「絞死刑」上映の後、「犯罪」や「罪と罰」ということについて考えた人は少なくないだろう。松井さんが中心になってやっている「9月の会」も、3月は李珍宇のことも含めて「犯罪・内部・記号」というテーマで語られたし、昨年11月はオウム真理教のことがテーマだった。
 他にも、Rについて、李珍宇について、心について、犯罪について、現在起こっている事件について語った人もいる。憎悪するにしろ、同情するにしろ、自分を重ねるにしろ、誰もがいやでもいろいろに考えさせられることがらだろう。
 以前、「チチカット・フォーリーズ」というドキュメンタリー映画についてについて書くなかで「犯罪」についても考えたことがあった。それを再度「YANYA’」に載せるために手を加えてまとめたのだけれど、あらためて「菜園便り」に取り込むことにした。なんだか焼き直しばかりしているようだけれど、今もこういうふうに考えているし、これ以上には考えられないとも思う。

続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。下記に再録した当時書いたものは、ずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もあるけれど。

 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。


菜園便り303
4月5日

 一昨昨日、2階の改修部分、山本さんや壮平君に床張りをやってもらった松の間の障子張りをやった。2枚だけだったから、ついでに下の応接室の一部も張り替えた。なんだか「菜園便り」には障子張りのことばかりを書いているような気もするけれど、ぼくにとっては特別な家事なのだろう、きっと。<家族>や<家>をとても強く感じさせる作業。
 季節を感じさせる労働であり、ふたりで協力しあってやるし、すでに過去のものとなった行事みたいでもあり、終わった後の白い爽やかさは格別だ。光が和紙をとおして柔らかくなり、乱反射して明るさがますようにも思えたりする。
 父が元気をなくした後、札幌の姉が頻繁に来てくれた。父も喜んだし、ぼくもとても助かった。その頃、姉とやった障子張りのことを菜園便りに書いたのを覚えている。母とやった時のことも思いだす。母は1枚張りできる大型の障子紙のことをはじめて知ったようで驚いていた。これだと障子1枚貼るのもあっという間に終わる。友池さんに手伝ってもらって何枚も2階の障子を張り替えたこともあった。10年以上やっていなかった部屋もあって、掃除からはじめてたいへんだったけれど、ずっとつきあってくれた。1階の応接室の障子の助っ人は壮平君だった。「音楽散歩」に会場を提供した時のことだと思う。あの時はたしか深町さんのリュートの演奏会だった。松尾家の手伝いに、障子張りの「出前」に出かけたこともある。
 母が亡くなった後は父とのふたり暮らしだったから、父とふたりで障子張りをやったこともあったはずだけれど、それは覚えていない。父との作業では、菜園の野菜づくりのことをいろいろ覚えている。その父が亡くなってからでももう5年がたつ。来年は7回忌だ。
 ビリーホリデイを聴きながら障子張りしたと書いたこともあるけれど、先日のは2階だったし、なんの音もないまま、ひっそりとひとりでやった。誰かひとり紙を押さえてくれる人がいると貼る時にほんとに楽だしうまく貼れるのだけれど、そうもいかない。メンディングテープで端を止めて静かに引っ張り押さえていく。「ゆっくりゆっくりでもでもすばやく」「ていねいにていねいにでもだいたんに」なんておまじないをいつのまにか唱えている。少しくらいずれてもしらっと続ける、かなりずれた時は、4文字ことばを声には出さずにくり返しながらやり直す。少々汚れたりねじれても平気平気と安心させつつ。霧吹きでぱっと吹けば一晩でピッとなる、だいじょうぶだいじょうぶと。
 たぶん障子の建具そのもの繊細さ軽さ、紙の軽さ、光を透過させるものだということが、張り替えを厭わない理由かもしれない。襖にはなかなか手がでない。すぐにも張り替えをやらなくてはならない襖は山のようにあるのに、試してみようかとも思えない。重い、力がいる、難しい、張り替えた後の衝撃度が低い、つまりあまり見栄えしない・・・。まさに「かわいそうな襖さん」、だ。
 でも障子張りに感じるようなささいなちょっとした楽しみこそが、無限に続く果てのない「家事」をやり抜かせる力なのだろう、かすかな期待、達成の喜び、とりあえずの終わりがある安堵。


菜園便り304
5月8日

 田植えを終えた水田が広がっている。4月の終わりに機械で植えられた時は、思わずだいじょうぶかと声をかけたくなるほど小さく細い苗だったけれど、10日ほどでしっかりとした濃い緑に伸びた。一面の水鏡に映える爽やかな緑は誰をも魅了するだろう、鳶や鼬や小学生をも。かすかな風が水面を揺らすと光も陰も大きく揺れて割れて拡がる。心のなかにじかになにかが入ってくる。
 庭のプランター空豆は今年初めての収穫、柔らかくて青くさくてとにかくおいしい。「一寸空豆」と種袋にあるのを買ったのは、添え木や支柱を厭う怠けごころからで、でもやっぱり一寸を支えきれずに緑の塊全体が傾いている、揃って同じ方向へ倒れかかりもたれあっている。ちょっと見苦しい、1本でいいから縄をぐるっと回して支えてあげればいいのだ。何度も思ったことをまた思う。
 この時期に病葉を落とす木々の落ち葉も盛りは過ぎた。毎朝みごとに散った葉を履き集めるのはちょっと残念な気もする。周りの冷たい視線がなかったら、落ちたままの風情を楽しむだろう。朽ちて踏みしだかれて、そうなったらささっと掃き寄せる、そんなふうにはなかなかできない。共同体が無言で強いるものを拒むのは難しい。昔だったら、闘わなくてはいけないとか因習を合理的な科学で打ち壊さなくては、なんて本気で思っただろう。今は、永い時間をかけて培われた集団の智恵、掟といってもいいだろうけれど、を引き受けていきたい、そういう穏やかな常識こそが今切実に必要とされているのだろうから。
 美術展の前に刈った茅はもうしっかり20センチほども伸びている。青々とした尖った葉が真っ直ぐに立っていてそれはそれで美しいけれど、またびっしりとはびこると思うと憂鬱になる。今年こそは草刈り機を手にいれてまめに刈り続け、徐々に潰えていくのを待つしかない。でもカラスノエンドウを打ち負かしたほど強い茅が弱まるとなると、次は何が我が世の春を謳歌するのだろうか、この庭で。それを思うとちょっとこわくなる。
 春菊もいくつも花をつけている。ガーベラのような淡い2色。ルッコラも白い十字状の花を次々に開く。開いたそばから摘みとられサラダにされてしまうので、また次々に開く。レタスも葉を広げ、山椒は溢れんばかりに木の芽をつきだしている。ミントとアーティチョークも冬を生き延びてそれぞれの葉を伸ばしている。パスルテルミント色なのはアーティチョークで、ペパーミントは少し黒みの混じった濁った厚ぼったい緑だ。
 夏野菜の植えつけをやっと終えることができた。胡瓜もゴーヤもズッキーニも諦めて、トマトだけに絞った。他はバジルと紫蘇だけ。これだと嫌でもうまくいくだろう。もちろんベランダそばのプランターと鉢だけ、元気なレタスのそばだ。
 庭の木々は今がいちばん美しい。すみの小さな茂みも、ぐんぐん伸びている楠も、様々な色の階調でなりたっている。思わず口に入れたくなる柔らかい黄緑色の一群の横には真夏のような濃い緑が黒々とあり、少し薄紫がかった明るい一画と強いコントラストを描いている。オレンジというよりは赤といった方がいいような透きとおったと細長い葉ものぞいている。白い小さな花がびっしりとついていても、葉叢の印象は消えない。白い花という葉。棘の多いむやみやたら枝を伸ばした醜い木もほっそりと端正に見える。花が終わった椿の葉は暗く輝いて厚く、光をぎらりとするほど反射する。
 折々の花もある。週末のカフェの日には小さな花を摘んでテーブルに挿す。月桂樹、ユズリハといった生命力のある樹の枝は花瓶のなかで何ヶ月もじっと命を繋ぎ、みる人に緑の光線でやすらぎを与え続ける。お正月に切りとった枝が、まだそのままの姿でしっかりたっている、すごい。

 

菜園便り305
6月8日

 夏野菜が背丈ほどにも伸びて繁るほどだった菜園も、父がいろいろできなくなり小さくなっていった。亡くなった後もどうにか続けていたけれど、それもプランターや鉢植えにまで小さくなり、もう季節を映せなくなっている。ルッコラもレタスもなんとなくできてそうしていつのまにか終わっていく。冬の蕪、大根、春菊、初夏の空豆、ズッキーニ、真夏のトマト、胡瓜、苦瓜、そんなくっきりとした鮮やかな季節は今はない。ぴたりぴたりと狙ったように時期を定めてはいっせいに花開いてたわわに実って、ということはない。
 そのかわりというのもへんだけれど、落ち葉はしっかりと季節を映す。決められた時期にいっせいに落ちて道路や玄関にはでに散るから隠しようもないし、気づかないふりもできない。せっせと掃き寄せる。
 梅雨入り前後の今は、山桃の小さな青い実が降るように落ちるし、ネズミモチの白い小さな花がどっさりとばらまかれる。山桃は小さな実を振り落として確実に大きな実を結ぼうとしているのだろうけれど、こんなに落としてだいじょうぶかとつい思ってしまうほど、毎日毎日、うす黄緑色の固い実を落とし続けている。つぶつぶがくっきりとした青い実、人や車に踏みつぶされた実から、青臭さと共に熟した時のあの濃厚な甘い匂いの予感が立ちあがってくる。
 以前は熟した実を丁寧にもいで果実酒にしたりしていた。味よりもとにかくその色の美しさにうっとりしていたけれど、甘い果実酒は自分ではのまないし、どうかすると色が抜けたりもするのでいつのまにかつくらなくなった。もちろん面倒くさくなったのだ。それでも熟した後は時たま手のひらに転がしてそのベリー状の形を眺め口に入れてたち上ってくる香りと甘さ酸っぱさを楽しんだりする。紅臙脂色の実が一面に散った道は美しいし、踏みつぶされて路上に残された紅い染みはなかなかなものだ、ちょっと異様でもあってすごい。見た瞬間に口のなかに甘酸っぱさと固い核の感触が拡がるし、もっと想像が飛んでしまうこともある。
 ネズミモチはこの季節、あちこちで見かける。とにかくどっさりの花をつけて匂いを撒き散らして蝶や蜂を呼び寄せている。幼い頃もたくさんあったのだろう、いろんなおもいでと結びついている。冬の金木犀、春の沈丁花、そうしてこの花、香りが辻つじに塊のようにどんと立っていて、通りかかるとごつんとぶつかる、そんなふうだ。
 先週から白百合も前庭と裏庭とで開いている。いくつかは切り花にして飾っている。夕方になると強い香りを家中に放つ。百合は日持ちするからね、といったのを覚えている。誰にだったのだろう。なんだかとてもインティメイトな、親密な気持ちが甦る。


菜園便り306
7月4日

 梅雨だ雨漏りだといっているうちに、もう7月にはいってしまった。
 以前は月初めの日に、ハッピー・ファースト・オブ・ジュライとかいったりしていた。いっぱいの楽しさを期待するというより、言祝ぐこと、祈ることに近かった気もする。お正月のあけましておめでとうございます、というのと同じかもしれない。
 くしゃみをするとグッスンタイトとかブレス・ユーとかいって厄よけしたことも思いだす。そうやってささやかな生活を少しでも護ろうしたのだろう。くしゃみやおならに対して極端なほどの反応を見せる文化もある。体から、なにかがでてしまうとか、よくないものがでてくるとか、そういう考え方があるのかもしれない。
 庭のミニサイズのトマトが次々になる。赤いの、黄色いの、丸いの、細長いの、いろいろだ。レタスは終わる前に次のを植えなくてはと思っていたけれど、ぐずぐずしているうちに消えかかっている。紫蘇やバジルは元気だけれど、そうそう使うものでもないし、ピーマンは教科書どおり最初のひとつを小さい時にとったのに次がなかなかできない、うまくいかないものだ。
 お隣の花田さんの菜園は大きくてりっぱだ。元気にいろんな野菜が伸びている。時々おすそわけもいただく。果肉は粘りがあるのにカリカリしたおいしい胡瓜とか、ぱりっとして苦みもあるレタスの葉などを。
 雨漏りの修理もやったので、漏る箇所も大きく減ったし漏り方も穏やかになった。海側の玄関の上など、あんなにひどく漏っていたのがぴたりと治まって、なんだか奇跡のようにさえ思える。こんなことならもっと早く、とつい思ってしまうけれど、いろんな条件がよい方に集中してやっと今できたということだ。もしかしたらまだまだ機が熟さなくて、いろんな人の手助けが得られなくて、もっとひどいことになっていたかもしれない。
 とにかくうれしいしほっとできた。こうなると他も全部、一気に直してしまおう、といった気持ちが生まれるのは当然かもしれないけれど、今までの長い過程があるし、なにより経済的な事情が許すのはここまでだともわかっている。焦ってはいけない、ゆっくりやっていくしかない。400キロもの布団を一気に処分するようなこともほんとは家にも人にもあまりいいことじゃない。ものごとをひといきに変えたり新しくしたりする急激な変化は刺激的でもあり、一見すばらしく思えるけれど、その裏ではほとんど全てのものが無理な動きや変化、ねじれ、さらには消滅を強いられているのだろう。機械的な力が無限と思えるほど強くなった現在、やろうと思えば、全世界の改変、消滅もありえないことではない。
 今を丁寧にじっとみつめること、動かない変わらないことに耐えること、いろんな不満足を受けいれる勁さを探ること、自他への批評を押さえること、弱さと思えるものを何度もとらえ返してみること。やわらかい虚無がにこやかに世界を包みこんで、静かにつもっていくことに抗うこと。否定や対抗ということでなく、根源的な生や死といったことすらも手にすくいとってあらためてしっかりみようとすること、問い返そうとすることとして。

菜園便り276
9月11日

 朝食の準備をしているとちょっと奇妙な気がしてでもなんだかわからずに手を止めると、しんとしたなかにつくつくほうしが鳴いているのが聴こえてきた。半袖のTシャツに短い綿のズボンの、まだまだ夏の気分そのままだったから驚かされた。でも空気はべとつかないし、バタバタしているのに汗ばんでもいない。いつの間にか床の隙間から、秋はひっそりと入り込んでいたのだろう、夜はひんやりとして「風の音にぞ驚ろかれぬる」だ。そういえば降りそそぐようようだった蝉の声も聞こえない。耳のなかでなっているのはいつもの耳鳴りだから、あらためて毎朝の「クラリネット協奏曲」に耳を向ける。
 ぼんやりしているうちに、いつものことだけれど、2曲目の「オーボエ協奏曲」にかわっている。こういうのはちょっと困る。何かやりながら聴くぼくみたいなものには、2つの作品がまちがって、というかまぜこぜになって残ってしまう。正直に言うと「オーボエ協奏曲」はそんなに好きじゃない。「クラリネット協奏曲」を2度続けて聴きたい。そうすればもっとしっかり耳に残ってくれるだろうしつい口をついてでてきてくれたりするかもしれない。中途半端にあれこれ聴きなぐってもしょうがない、そうでなくても集中して聴けないのに。
 季節を選ぶ作品はたしかにあるのだろう。「クラリネット協奏曲」は朝という時は選ぶけれど、季節には関係なくいつも穏やかで甘くてそうしてきちんとしている、もちろんどこか哀しい。だからまだ心身共にぼんやりしている時にも、いろんな世界の困難を受けいれる準備のできていない朝にも静かに聴ける。軽やかで、さあさあと促されるところさえある。
 夏に聴きづらいのはシンフォニーだ。暑っくるしい、頭がますますついていけない、大きな構造がのしかかってきそうでうっとうしい、耳も心も閉じて拒んでしまう、大げさにいえばだけれど。
 今年も「音楽散歩」が10月の14日に開催される。玉乃井も会場提供していて、アイリッシュハープ(だったと思う)の演奏が予定されている。玄関横のホールと呼んでいる応接室(今はリ・ウーハンがかかっているから、「リ・ウーハンの間」とよんでもいいけれど)。今回は新しい試みで有料・限定数になるらしい。昨年は深町さんのリュート演奏だった。午前・午後と2回あって、午後の部は60人を超す人がみえて大慌てだった。無理して20人が限度、できれば10人くらいでゆったり聴けるといちばんいいのだろう。ぼくひとりで深町さんのリュートを聴くという贅沢をさせてもらったこともある。珈琲をのみながらしみじみと高雅な音を体のなかに巡らしていくのは心身の健康にもすごくいい。
 夕方になって枯れた夏野菜を片づけていると、頭と片方の羽1枚だけ残ったくまぜみが落ちていた。周りに蟻の姿はないから、頭は大きすぎると放棄されたのだろうか。そろそろぼくも冬眠の準備にかからなくては。

 

菜園便り277
10月30日 「大いなる幻影

 10月の玉乃井映画鑑賞会はルノアール監督の「大いなる幻影」だった。第1次大戦中、ドイツ軍の捕虜になったフランス人将校(ジャン・ギャバンやピエール・フレネー)の収容所脱出劇。戦争なのにそんなに悲惨でないし、甘いなあとかんじたり、牧歌的な雰囲気だと言われたりすることが多い。でもそれはこの映画が時代や状況、人を丁寧に描いてないからではなくて、ぼくらの生きているこの時代こそがあまりにも過酷で、戦いと享楽に明け暮れているせいかもしれない。
 子供の頃、応仁の乱とかいった時代の歴史を聞かされて、なんて悲惨な時代だろう、そんなにも戦さが続いて、どうやってみんなしのいでいったのだろう、とても生きていけないなあ、と思ったりもした。でも今のこの時代の方がもっと戦争ばかりの、それも大型兵器を使っての徹底した殺戮戦といった、異様な世界なのだろう。後世の人は「歴史」としてきかされてその酷さに震えあがるかもしれない。
 映画の後半、収容された奥深い城砦から脱走するふたりを逃がすために、貴族のフランス人将校が塔のなかを逃げ回って追っ手を引きつける。
 「ボルデュー!ボルデュー!」
 城砦の主である隊長のラウフェンシュタインが追いつめて2度くり返す叫びは哀しい。収容されている敵国人捕虜への威嚇のことばは、でも親しい友へのせっぱ詰まった呼びかけにも似て、胸を打つ。それはまるで家族への呼びかけであり、幼気なものへの声であり、愛のことばである。そうしてあたかも彼こそが助けを求めているように、すがりつくかのように切々と冷たい大気のなかへ吐きだされて消える。
 くっきりとことばが浮きあがるのは、それがかすかな訛りのあるフランス語であり、つまりふたりだけの符丁を使っているという思いのなかにあるからであり、今までの収容所内での会話がそうであったように、おそらく誰にも聞き取れないだろう英語に切り替わっていく。ほとんど無防備なまでにさらけだされた思いは隠しようもなくあふれて、むきだしになり吐きだされる。お願いだから、頼むから戻ってくれ、わたしは君を傷つけたくない、喪いたくない、残された唯一の貴顕の友なのだから。貴族としての矜恃があるから、国の、王のための存在であるから、こうやって騎士として軍務に着いているけれど、それは限られた一部でしかないのだと。
 取り出されるピストル、右腕に構えて、再度の哀願が放たれる、どうか戻ってくれ、まるで跪きひれ伏して乞うように。しかしフランス人将校は自己犠牲を、騎士道をこそ選んで、奇妙な友愛を退けていく。今はただ国のために、そうして脱出した平民の将校たちのためにと、それが自分を疎外することなのかもしれないけれども。 
 放たれる1発、ボルデューは倒れ、死の床で詫びるラウフェンシュタインに応えて、あなたこそたいへんだ、生き甲斐もなく永らえていくしかないと、フランス人らしい皮肉も交えつつでも真摯に哀れみ、そうして果てていく。自分のなかへ滑り込み、沈んでいく。時代の流れのなかであがくことも、白いセーヌの手袋をいつも手入れすることも、常に姿勢を崩さずに超然としていることももう必要ない場へ。
 隊長の叫びがもつ身体性や肉感がさまざまなことを引きだすように、ジャン・ギャバンが冒頭でなじみの女の子との逢瀬に思いをはせながらレコードにあわせて口ずさむフルフルということばも同じように身体としての声を浮きあがらせる。
 唇の丸みの形や頬の厚さ、舌の長さが音をつくるのだと理解させられる。鼻腔や口腔、そういった体の部分が響きをつくり歌を放つのだと知らされる。唾でしめった空気がのどを通過するかすれた乾いた風と混じりあって、フルフル、フルフルという声として発せられる。そこにまるで誰かいるかのようにレコード盤を見つめ微笑みながら、知らず知らずにでている自分の声にも気づかないままに唇は動き、歌が流れる。
 RやL系の音だから極東のぼくらの耳にはいっそう新鮮に響いたのだろうか。

 

菜園便り278
11月27日
音楽に誘われてたどり着く場所
 玉乃井でのはじめての試み、「LP・CDを聴こう会」は楽しかった。会期中の「Y氏の雑誌、展。」とも呼応する静かな力も持っていた。それを可能にしたのはやっぱりゲストの古川氏そのもの。語る人の世界が浮きあがり、その向こうに時代も姿を現す。これからは「LP・CDを聴こう、語ろう、会」とよびたい。
 音楽とのであいが簡潔に語られて、会ははじまった。映画のなかの音楽を中心にまとめられた今回は、モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番 第2楽章」(「短くも美しく燃え」)とブラームスの「交響曲第3番 第3楽章」(「さよならをもう一度」)が一楽章ずつかけられた。「事前の打ちあわせでは、こういう美しい曲を聴きながら死にたい、というような話しもでましたね」という、なんだかおかしいような哀しいような逸話も披露された。
 それからジャズ。これも映画で使われた「マイ・フーリッシュ・ハート」がヴォーカルと少し崩した楽器演奏とで2度かけられ、ジャズとはどういったものかが丁寧に説明された。「ああ、そういうことなんですね」と素直な反応があちこちで起こる。わかったつもりになっていたり、説明することに照れたりでずっと避けてきたことが別の角度からすっと解かれていく。それからビル・エヴァンスなどへと続いていき、最後は誰もがびっくりする曲で締めくくられた。
 実は前日の「Y氏の雑誌、展。」のオープニング・パーティででた「歌謡曲の女性歌手もジャスをよく歌っているけれど誰がいちばんいいか?」への返答でもあった。所有されている青江美奈のジャズアルバムのなかから「ラヴレターズ」(他に「バーボン・ストリート・ブルース」と翻訳された「伊勢佐木町ブルース」等もはいっていた)。
 大学で大阪へ行き、よしジャズを聴いてやろうと意気込んでジャズ喫茶に通った。はじめはなんてうるさいんだと耳をふさぐほどだったけれど、我慢して通っているうちにだんだんここちよくなったし、わかってきた。当時はお金もなく、レコードを買ったりコンサートに行くような余裕がなくて、週に2回ほど珈琲代だけを握って通うのが精一杯だった。
 小さな憧れや挫折、重なる屈折を静かに畳みこんで、その時もそしてその後も生は続いてきたんだということが淡々としたことばで語られる。あっけないくらい単純でそうして目のくらむほどの深さがある、誰もの人生がそうであるように。
 冷静に踏み外すことなく、そつなく仕事もこなしてしのぎつつ暮らしてきた、まっとうな社会人の鏡みたいにも見える人の生の向こうにあるものが、逆立したネガのようにみえてくる。もしかしたらそちらがポジで、こちらがネガなのかもしれない。
 話はマーラーにもおよび、ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」が語られ、予定外だった「交響曲5番 第4楽章」にも耳を傾ける。一区切りした後は集まった人たちからの話や持ち寄られたレコード、CDへ。スモールバレーのおいしい紅玉のタルトを頂きながら話もはずむ。
 端正なものばかりが続いた後に全く異質な、状況劇場(紅テント)、唐十郎の後楽園ボクシングジム・リサイタル「四角いジャングルで唄う」のレコードかけられた。ぼくがずっと前に森さんからもらったレコードだ。唐の戯曲である「ジョン・シルバー」からの、海賊たちが歌う「ジョン・シルバーの合唱」。いかにも当時のアンダーグラウンド芝居の(時代のといってもいいだろうけれど)劇中歌。「七十五人で船出をしたが 帰ってきたのはただ一人」に思わずこみあげるものがある。そういった悲壮な感傷に彩られて、でも「真実」といった大仰なものが一瞬かいま見えたこともあったのだと、幼いヒロイズムだけがたどり着ける場所もあったのだと。

 

菜園便り279
1月3日

 年があらたまり庭の枯れた芝も輝いている。その向こうの海は陽を反射してどこまでも光が続いている。まぶしくて眼を向けられない。まるでなにかの比喩のようだ。
 なんの比喩だろうと思い返そうとして、そのときはもうことばは消えている。生まれる前に事切れたのだろうか。たぶん年の初めに思うようなことでないと、小さな自制が働いたのだ。海を、果てしなく続く輝く波を一言でみごとにいい抜くことも、思いがけない比喩で掬いあげることも、共に虚しいのだと、あいかわらずそんなことを瞬時に思ったのだろう。なにもかもがすっかりのろくなって、動くのも考えるのも、それなのにそんなときだけは素早く反応しているということか。困ったことだ。
 でもまぶしい。横向きにうつむいていているのにそれでも光は眼を射る、思わず手を翳してしまいそうになる。なんだか滑稽だ、部屋のなかで暗い方を向いてまぶしがっているなんて。
 庭には鵯がいる、しばらくじっと海の方をみている。ここ、ガラス戸の内に人がいることは知っている。背後に気を配りながら、でも一瞬、彼も海の輝きに眼を焼かれている、虜になっている。
 だいじょうぶ、正月の特別料理がでたのだろう、隣の飽食した猫はまだうちの庭にはでてこない。どこかなまあたたかい場所で寝転がっている。去年今年に思いをはせつつ、猫は猫の生きがたさをかみしめている。
 そうだろうか、きっとそうだ。

 

菜園便り280
1月30日

 中学時代の同級生から苺が届いた。大きくてりっぱな苺だ。しっかりした果肉、したたる甘い果汁、そうしてなによりもその鮮やかな色、苺色。
 恩師の喜寿を祝うクラス会への伝言と共に送られてきたものだった。残念ながら行けないけれどお祝いを伝えて下さいという手紙に添えて。嫁いで農業を続けているのはたぶん彼女ひとりだろう。地域での活動にも積極的でまわりからも慕われている。大きな房の葡萄を頂いたこともある、どっしりとしてみごとだった。
 同じ学校に通っていたのはもう50年も前のことだ。半世紀か、なんだかくらくらしそうで思わずキーボードにしがみついてしまうっとっとっと。先生は体育担当で、日体大ではラグビーをやり全日本選手権にも出場した人。数年で教師を辞め、スポーツ関係の仕事を続け、今は自宅で菜園をやりながら悠々自適、のはずだったのだけれど、最近急に弱られてしまった。
 クラス会は温泉に食事処も併設されている施設で、それで先生も入りたいということになり、ふたりいれば大丈夫だろうと向かう。熱いのやら深いのやらあれこれ並んだひとつに入り、先生は一時間近く動かない。うまく伝わらないままの話も尽き、ぼんやりと湯船につかっているとあれこれ思いだされる。高校卒業直後に数人が集まって先生の店を訪ね、いっしょにボーリングをやって、ロシータというメキシコ料理店に連れて行ってもらったことなんかも。メキシコ料理なんてもちろん生まれて初めてだった。酢漬けのタマネギがどっさりとテーブルにのっていたことを覚えている。お前は天ぷら学生になるな、と言われたことも。
 それからは誰もがそうだったように、忙しくすることに忙しく、再会したのは41の厄年の同窓会で、先生も変わらずに元気だった。そのときからでも、もう20年がたった。誰れもが老いる、弱る、我慢がきかなくなる、嫌なことは忘れたことにできる、そうしてしみじみと懐かしかったりする。なにが、と問うのは野暮というものだ。もうけしてくり返すことのない、ふれることすらできない、純粋な過去形の物語に浸って、その甘酸っぱいエキスだけを受けとればいいのだ。痛みや苦ささえいつの間にか発酵して芳醇な香りを放っている。静かに噛みしめるしかない、過ぎた時代の歌のように、形を喪ってただ明るい色彩だけを残す子供の頃の夢のように。
 温泉に入った翌々日、先生を挟んであれこれしゃべった同級生が自分で飼っているという鶏の玉子を届けてくれた。畑で採れた南瓜と野菜だけを食べさせているから1個800円にはなるんだぞ、といっていた玉子。はかないほどのレモン色の黄身を抱えた大ぶりの玉子だった。

 


雨が続いて冷たさも極まります。心もなんだかやせ細っていくような日々ですね。日が射したときの喜びも大きく、そういうときは思いがけない訪問があったりします。うれしいですね。
2月の映画の会も終わりました。侯孝賢の「冬冬の夏休み」。卓抜なタイトルだけでも興味をそそられますが、あたたかくすばらしい映画でした。「菜園便り」にも書いたので添えておきます。
3月はヴィム・ヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」です。ヴェンダースの最高傑作ですばらしい映画です(まだ存命ですから新しい映画も期待はしてますが)。
3月9日(日) 14:00 18:00 
スモールバレーのケーキと珈琲付き。カンパ制

菜園便り281
2月13日  「夏休みの子どもたち」

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の名作「冬冬の夏休み」上映も終わった。玉乃井にみに来られた方のほとんどにとってはじめての侯孝賢であり、なじみうすい台湾映画だったのだろうけれど、2階の広間にはあたたかいものがあふれ、そのままずっと座っていたい気持ちになった。
 いろんな世界があり、映画がある。時代は移り、知らないことには果てがなく、みていない映画も数限りない。でも全部をみる必要なんてないこともにも気づかされる。大切なことは結局同じなんだ、今ここにあるもの、それが他の場所で別のことばで語られ、描かれているんだということもわかる。もっといえばことばも形もいらないのかもしれない。柔らかい葉の上で揺れる光に、ふいにぬけていく風に、なにもかもがいいつくされていると頷く人もいるだろう。
 映画のなかの夏は神々しいほどにも輝いてみえた。かつてもそして今も、そういったものが確かに存在していることへの畏怖にも似た喜びが生まれひろがる。足をくすぐる川の水の爽やかさ、うつぶせに倒れ込んでそのまま眠ってしまった昼下がり、起きぬけの額の汗、窓から入ってくる風の強さにも驚かされる。揺れる庭の木の向こうに広がる野原、畑、遠い山。
 <海岸の砂の熱さ、ぴょんぴょん跳ねながら走って飛び込む海、その生温さと不意の冷たさ。水からあがり異様なほど重い手足を引きずって熱い砂に横たわる。紫色の唇に注がれるあたたかい生姜湯、こぼれた甘さを指ですくって笑いあう。>
 映画のなかの樹々を揺らす風が、遠い作物をぬける風が、こわいほどヴィヴィッドに伝わってくる、まるでたった今風がさっと肌をなでていったように。子どもたちは、台北から来た少年も、地元の牛を連れた少年も、みんなが一夏の、永遠に続くように思われた時間のなかにいる。無尽蔵の光が惜しげもなく降りそそがれている。そうして誰れもそんなことには気づかないし思ってもみない。ただそこに自分も世界もそのままにあるだけだ。
 思いがけない体験と小さな躓き、死、そこでいつのまにか成長していく、共同体の掟を学ばされる、人のやさしさと怖さも、そうやって誰れもがいつか幼年期を過ぎ思春期の過酷な激動を経て、粗暴で貧相なお愛想笑いを貼りつけたさみしいでも穏やかで深みのある大人へと移っていく、誰れもが。
 何もかもが単純で滑稽でただ喜びや驚きに満ちていた時は終わる。終わるなんて大仰なことをいう必要もなくそれはひっそりと姿を消す。後に残る郷愁のような匂いだけの残像。だから人はいつでも安心してそれを手にとり懐かしむしぐさをくり返す。もうそこにはなにもないことは了解されていてでも誰れもそんなことはおくびにもださずに静かに微笑みあう。視線を交わすのは相手の目のなかにだけ一瞬浮かびあがるかつてのなにか、例えばぼんやりと川のなかにたちすくんでわけもなく見あげた空がのぞくかもしれないから。どうしてこんなにも果てなく高いんだろう、なんだか奇妙な声が聞こえた気もしたけれど、と。
 枝が揺れて翻った葉裏の銀色が一瞬見えたりするように、不意に死が姿を見せる。永遠に続くことなんてなにもないこともすでにわかっている。でも知らぬふりで通りすぎていく、誰もがそうするように。
 あの高い高い果てのない空、どこまでもどこまでも続いていた海。

 

菜園便り282
3月31日

 この時期には樫が葉を散らす。玄関横でめだつから毎日掃かなくてはならない、ちょっとめんどうだなあとも思うけれど、季節の仕事だからと、なんとなくいそいそしてやる気持ちもある。松はもっと早くて、2月の終わりにさかんに葉を落とす。我が家は道路に散ってかたづけなくてはならない秋の落ち葉は多くはない、銀杏と柿くらいだ。その柿ももう切り倒されて記憶のなかだけになってしまった。
 春や初夏の落ち葉をワクラバというようだけれど、病葉と書くとなんだか病気の樹みたいに思える。やっと冬をのりきって、これからの爆発的な成長に向けて体勢を整えているのだろう。たいせいと打とうとしたら体制という文字が最初にでてきたけれど、ひとつのまとまった組織体、統一体の制度ということでいえばそうなのだろう。
 秋に葉を落とし冬の寒さの間じっと身を閉じて耐え、春のいっせいの芽吹きに備えるのが落葉樹の体制、つまりその樹木の制度なのだろう。野菜や草も光を敏感に感じ取って花を開きおおいそぎで実を結ぶ。人は冬の前になにを捨て、なにを閉じているのだろう。そもそも季節の移ろいを感じ取る力をまだ残しているのだろうか。暑さ寒さは今も日常の挨拶にでてくるからそれくらいは感じとれるのだろうと思うけれど、「日が長うなりましたなあ」というようなことばはもう小津の映画のなかだけに生息しているのかもしれない。
 「春は名のみ」のまだ寒いなかでも、日が長くなる、つまり陽光が増すにつれて心が極端に動きはじめるのはわかる。体はまだうずくまったままなのにそのなかで心は出口もないままに周囲の壁に激突しながら跳びはねる、傷んで病むのはしょうがないのだろう。
 雨も上がった、ジョウビタキがつがいで庭に来ている。

 

菜園便り283
4月1日 

 郵便料金があがる前にみんなに郵便をだそう、切手をはって葉書を、何通かは封書で、せめて一通は手書きでと思っていたけれど、いつものように気がつくともうついたち、4月バカに呆然とするしかない。いったいいつのまに桜が咲いて散り、海の色がかわり、4月になったのだろう。エイプリル フールズ デイが4月バカと訳されたのだろうけれど、だまされる愚者より、めくらますおかしさ、楽しさを思いたい。それにしても変換でゾロッとでてきたダマスの漢字はなんだか怖い。騙す、欺す、瞞す。
 郵便切手はいつも買い置きがある。我が家では珍しいことだ。ぴったりちょうどがいい、ちょっと足りないぐらいが快適と感じているようで、だからなんでもきれてから買いたすことが多いのに、切手だけはついつい買ってしまう、必ず必要になるから、といいわけしつつ。ほとんどは昔ふうにいう記念切手、特別にデザインされて発行される色鮮やかで形もちがっていて大型が多い。
 通常の値段より高い、つまり50円とか80円の使用価値しかないのに、購買には120円かかるとかいった切手もある。例えば地域限定でだされた山本作兵衛切手とかだ。こういうのはまず使えない。コレクションしてるわけではないけれど、やっぱりなんだかもったいない、完全なシートのままでもっていたいと思ってしまう。使えないものは他にもあって、映画監督シリーズの小津安二郎切手もそのひとつ。友人が贈ってくれたこともあるけれど、シートの余白に「東京物語」や「秋刀魚の味」のシーンが入っているせいだろう。もちろん笠智衆原節子笠智衆岩下志麻
 最近のは何組かがつながってひとつの図柄になっていたり、余白もデザインされていたりする。そういうのはつながりのままで、また余白も含めて使いたくなる。そうなると通常より高額の郵便になってしまうから、そうそううまはくいかない。こういう楽しみもなかなかやっかいだ。
 いま手もとにあるのは、使いたくないものを除いて、国際文通週間の90円切手(広重の東海道53次小田原図)、こういった文通週間、趣味週間の切手に子供の頃驚喜した人も少なくないだろう、誰れもの憧れの的だった。他には名山シリーズ、消防団120年、各県シリーズの長崎グラバー邸等など。方形の日本の民芸品切手は白い余白が多くて美しい。昨年夏の文の日切手もよかった。西瓜や子供がパステル色のイラストレーションになっていた。もちろんぞっとするようなものも数限りない、ディズニーやキティのシールものだとかは「かわいい」とすら思えない。
 お年玉の商品、130円の切手シートもできれば丸ごと使いたいと思うと、封筒などの面が大きくて、50グラムまではだいじょうぶだからということになって、なかなかうまくあうものがない。もちろん80円の封書に貼ってもいいのだけれどそういうのはなんとなくおもしろくない。ぴったりだと気持ちまでなんだかすっきりする。
 絵はがきはだすのももらうのもうれしいし、書くことも少なくてすんで助かる。時候の挨拶、いかがですかと書くともうほとんど余白はない。あわててご自愛下さいと締めくくる。それでもなんだかうきうきする。それもあって美術館系の絵はがきはどっさりある。独自につくられ館の名前や展覧会のタイトルも入っているはがき用の袋が楽しいこともあるのだろう。
 以前たくさん頂いた10円、15円、7円といった切手もまだとってある。子供の頃一時期蒐集していたこともあって未使用切手への偏愛は捨てきれない。旧いデザインや色も美しい。趣味週間切手はまだ10円だ。万国博のは1970年で、もう40年以上前になる。だからぼくがだす郵便は小包を除いて(時には小包も切手を持っていってカウンターで貼るけれど)、全部が「記念」切手になっている。
 ギャラリー貘からの案内状の封書もいつも特別切手になっている。小田さんが角の中央郵便局まではしって丁寧に選んで買うのだろうなあとなんだかうれしくなる。

 

菜園便り286
6月1日

 常緑樹は春から夏にかけて落ち葉を散らし続ける。我が家でも松が古い葉を落とした後、山桃や樫などが続いている。小さいけれどびっくりするほど散った松の雄花も終わりに近づいたようでほっとする。
 今はネズミモチの花が降りつもっている。小さな白い花だけれどかなりの量になる。昔、小学校の校舎横にあった生け垣の甘い香りにモンシロチョウがたくさん集まっていたのを覚えている。強い木のようであちこちから芽吹いて瞬く間に大きくなり、ある日突然庭のすみから香りが漂ってきて驚かされることもある。
 一方ではジャーマンアイリスのように群生していたのが一気になくなったりもする。消えていくいちばんの理由は台風などで直接降りかかる潮だろうと思っているけれど、でもほんとのところはやっぱり愛情、だろう。丁寧に見守り時々の手入れを怠らず生長や開花、結実をきちんと愛でてやらないと植物は潰えていく。人もそうだけれど、極端に悪い条件や強い外圧はかえってがんばるきっかけになったりもするから不思議だ。組織は外からの圧力ではつぶれない、内部の混乱や争いで崩壊すると聞いたこともあるけれど、たしかにそういうものだろう。
 だめだと思ったときが終わりなんだ、誰かがそういっている。
 太い花茎を伸ばしたリュウゼツランは節ごとについていたアスパラのようなあま皮が枯れ始めた。これから細い枝が伸びてきて小さな花をつけるのだろう。50年に一度だけ花が咲くと父が何度もいっていたけれど、一株は数年前父の存命中に花をつけて枯れていった。日本では30年くらいで花をつけるらしいけれど、それでも続けて2度も自宅の庭で見るとは思わなかった。棘のある1メートルを超す肉厚の葉は迫力があるし、伸ばされる花茎が木のようで驚かされるから、花の小ささというか地味さにあっけにとられたりもする。もちろん花には花の効率的な事情があるのだろうし、あれこれいうのは大きなお世話だろうけれど、でも前仕掛けの派手さに力を使い果たして尻すぼみ、そんなふうにも思える。ラムの原料にもなるラテン系の植物だから、そういった顛末になるのはわからないでもない。
 プランターのトマトも色づきはじめ最初の収穫もあった、ズッキーニは小さいままでしおれていく、レタスは丸まって根本から腐り始めた。空豆はどっさりの収穫が終わって黒ずんで枯れている。取りはらってレタスでも植えようか。トマトの支柱もきちんとしなければ、バジルの花芽も摘まなくては、群れて芽吹いたルッコラを間引きしなくては・・・・。
 荒れた庭にも傷んだ家にも、すぐにでもやらなくてはいけないことが重なっていく。そういう時期なのだろうか、いろんな変化が迫ってくる。前の家、横の空き地、次々に売られていく。たいせつにしてきた李禹煥も手放さなくてはいけないのだろうか。

 

菜園便り287
7月24日

 東京から戻って両親や姉の夢を頻繁にみる。どうしてだろう。
 長いつきあいの友人がわざわざ「仕事」をつくって新居によんでくれ、2週間も滞在することができた。数年ぶりの東京だったから、いろんな所を訪れ、懐かしい人たちにも会えた。ついあれもこれもと思ってしまうし、映画もふたつもある特集を全部みようとしてしまう。もちろん予定どおりにはいかないけれど、それでもずいぶんといろんなことができた。
 今回は年齢もあって、まさにセンティメンタル・ジャーニーで、懐かしい場所を訪れると、気恥ずかしさよりどっとよみがえる記憶に圧倒される。でもどこか距離があって静かに眺められたりもする。阿佐ヶ谷、神保町、三鷹、新宿、上野・・・・。麻布や恵比寿は行けなかった。有栖川公園と新しくなった十番は見たかったけれど、そうそうあれもこれもできるわけはなく、映画もみれなかったものも少なくない。なにしろとんでもない数の映画が上映されている。後で気づくと、ファスビンダーの特集もやっていたことがわかった。知らなくて幸いだったかもしれない。そこでは次にダニエル・シュミットの特集が組まれているようだった。それもすごい。
 とにかくあれもこれも充実の日々だった。
 東京には十代の終わり、18歳から住んだ。多感なときだったし、時代もずいぶんと慌ただしかったからいろんなことが、意識下も含めてしっかりどこかに残っているのだろう。親や姉にも、直接的な負担もいろいろかけた。そういうことが今度の東京再訪で一気に噴きだし、よみがえったのだろうか。この年になってもうあれこれ構えなくなり、すなおにむきだしのまま、無防備に向きあっていたのかもしれない。
 友人宅には猫やインコ、亀などがいて、ベランダには鉢植えの植木が並んでいたから、そういうものに馴染むことで、旅行者としての緊張や違和がうすれ、生活のなかに落ち着けたのかもしれない。それで普段は閉じられている回路が開いたのだろう。
 もちろん夢はかつてにつながる直接的なものでなく、父が料理コンテストに出ている、といった荒唐無稽なものだ。全員が天ぷらの準備をすませて、「スタート」の合図を待つことになっているのだけれど、父は気持ちも舞い上がっているようで、何故だか白衣でなく紺のスーツにネクタイという格好で、衣をつけた野菜かなにかをもう天ぷら鍋に入れて揚げ始めようとしている。気づいた係の人があわてて止めに近づいてみると、油はまだ火もつけられていなくて、だから衣が冷たい油のなかにどろりと流れこみ沈んでいっている。
 ぼくはどこにいたのだろう。全部を見渡しているようでもあり、半分父の気持ちで動揺してもいて、一方ではひどく辛辣に父を、その失敗を見ているところもある。助けようとか手伝おうとかいう気持ちは全くなくて、でもなんだかつらい思いはあって、全てが、つまり夢の全体がもの悲しいものに感じられる。
 誰もそうだろうけれど、くっきりと覚えている夢というのは少ない。思いだせないまま、その時の感情や苦しさだけは異様なほどはっきりとあって、恐怖に駆られたり胸がつまったりしたことだけが鮮明に残っていく。
 母や姉が出てくるときはいつも大勢の人がいて大半は女性で、だからついあれこれ、子どもの頃のことを思って解釈したりしそうになる。でもそういうことをやることはもうなくて、そこで感じた自分の気持ちが大きすぎたり小さすぎたりして取り扱いかねることだけがその日1日残っていたりする。どんな夢も、つらい気持ちも、でも夕方になれば薄れて、消えていく。今は浜木綿が高く匂うから、そのなかに紛れていくのだろう。
 かつて濃密に関わった、今はもう全く関係が切れている場所は、そこを目にし、入り込んだ時に巻き起こる記憶や当時の感情と、現在が重なりあい混ざりあい一瞬狂気じみた、自分がどの時にいるのかわからなくなる瞬間がある。でもそれはほんとに瞬時のことで、全てはもとの世界に覆われ、おだやかな感傷に包まれ、少しだけ複雑になった思いのなかにしばらくの間放り込まれるだけだ。
 そういうこともあってか、神保町には出かけたけれど駿河台には上っていかなかったし、池袋で降りることもなかった。中野は巨大な再開発が進んでいるようで、中央線から見えるだけでもまるでかわっていた。
 先日の「LP・CDを聴こう、語ろう会」で<我が青春の音楽>なんてことをやったから、いろんなことが徐々にしみ出してきていたのかもしれない。音楽の喚起力はすごい、なんていいながら、自分がそれに巻き込まれている。
 帰宅して「ああ、我が家がいちばん」というのが旅の定番であり、真の目的だという人もいるけれど、帰り着いたら、よほどぼんやりしていたのだろう、家の鍵を後送の荷物に入れてしまったことに気づいて真っ青になった。幸か不幸か閉め忘れていたガラス戸がひとつあり、そこからこっそりはい上って入ることができたけれど、家の中は梅雨の豪雨で2階に並べたタライや箱からあふれた雨で1階までびしょ濡れ、がっくりと泣いてしまった。でもつらいことも滑稽さの隣にあっては力をなくすようで、とにかく雨の始末をと泣き笑いしながらかたづけているうちに、もう住み慣れたもとの生活の内にすっぽりと入っていた。

 戻ってからの友人へのお礼状に「ぼくはなにかを激しく求められることが少なかったから(避けてきたから)・・・慣れていないのでしょう。」と書いたけれどそれは自分でも意外なほど率直なことばだ。18歳の時に情熱や憧れの全てを使い果たしたのかもしれない。その後はその場その場のなりゆきにまかせ、積極的になにかを求めるということもなく、いきあたりばったりだけでやってきた。
 どんなふうに生きても、住む場所や周りにいる人といった小さな状況はちがうだろうけれど、けっきょく同じ所にたどり着いているだろう。ぼくはぼくであり、それ以上でも以下でもないと口にしつつ、ぼくはぼくでさえもないのだろうと思ったりもして。そんなふうに感じ考えながら、こんなふうに生きているだろう。

 

菜園便り288
7月28日 東京映画日記

 東京ではずいぶんたくさんの映画をみた。
 メールに「暗い、きついものばかりだった気がします。これも時代のせいでしょうか」と書いたりしたけれど、そういうことも気になった。リストをつくってみたらなにかが浮きあがってくるかもしれない。今の世相を反映するような大型米国映画を社会学的に分析するようなことでなく。必死で撮られた真摯な映画がどうして暗くつらいものに感じられてしまうのか、それはぼくのありかたのせいでもあるのだろう。
 出発前、インターネットで何でも調べがついてしまう今だけれど、活字が好きでページとして全体が見渡せる方がわかりやすい世代としては、ここはとうぜん「ぴあ」の出番だと、久しぶりに雑誌売り場に出かけても見あたらず、係の若い人に問いあわせるとかなり怪訝な顔をされて、そうか今の人は「ぴあ」を知らないのかとわかったつもりで待っていると、なんと数年前に廃刊になっていると聞かされ、びっくりだった。
 ほんとに世界は動き全てはかわっていく。
 けっきょく、またいつものようにグーグルで検索、先ずはユーロスペースから、そこでもう大当たりが出てしまった。なんと小川紳助特集、正確には「小川プロダクション全作品特集上映」、すごい。まるでぼくにあわせてくれたような企画だ。それに同じユーロスペースカンボジアリティ・パニュ監督特集もやっている。今回もまたユーロスペース通いになりそうな予感、前回はちょうど山形映画祭特集で、すごい数のドキュメンタリー作品を上映していて、そこで初めてアピチャッポン・ウィーラセタクン監督を「真昼の不思議な物体」をとおして知ることができた。
 イメージフォーラムではなんと王兵(ワン・ビン)監督の「収容病棟」や、みそびれた「アクト・オブ・キリング」もやっている。まだ行ったことのない「東中野ポレポレ」も近いようだし、いっそのこと賈 樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の新作「罪の手ざわり」もBunkamuraでみようか、あれこれ思い悩む。
 予定を組みつつ、友人たちにも連絡をとって空いている日時をきく。もちろんお世話になる友人宅の予定が最優先。そうやって始まったけれど、もちろんいろんなことが起こったり、起こらなかったり、例えば久しぶりにのみ過ぎ、はしゃぎすぎて体調を壊すとか、友人の予定が変わるとかで、全部を予定どうりにはみれない。疲れてもう諦めよう、ということもある。
 「小川プロダクション全作品特集上映」では、三里塚は時系列に沿ってみなくてはいけないと思うから、最初はどうしてもずらせなくて、頭とお腹がぐるぐるするなかを這うようにして出かけた。「日本解放戦線・三里塚の夏」(1968年)。続けてみる予定の「日本解放戦線・三里塚」(70年)はあまりの体調の悪さに諦める。翌日は「三里塚・第二砦の人々」(71年)と「三里塚に鉄塔が出来た」(72年)。
 翌日はパニュ監督特集の「S21 クメールルージュの虐殺者たち」(2002年)。翌日は「牧野物語」(1977年)はパスして「三里塚・五月の空 里のかよい路」(1977年)だけ。翌日はパミュ監督「アンコールの人々」(2003年)と「紙は余燼を包めない」(2006年)。翌日は「どっこい!人間節-寿・自由労働者の街」(1975年)。 その翌日はイメージフォーラム王兵監督の「収容病棟」(2013年)前編、後編。そこまできて、彼の映画がすごく重かったこともあり、友人たちとの関わりももっと親密にしたいから、映画はお終いになった。「収容病棟」のことはもう1回落ち着いてきちんとみてからゆっくり語りたい。そこには尽きないものがあるし映像的にもすごい、でもあまりにも酷くてみつめられない。濡れたコンクリートの床、裸足、尿、雪、布団、鉄格子、暴力・・・。
 蔡明亮の「郊遊 ピクニック」の予告もある。なんと引退すると表明したとのことで、彼の最後の映画になるかもしれない。やめてくれと叫びたくなる。とにもかくにも8月からのこの映画はなんとしてもみなくては、このひとつ前の映画もみることができなかったし。
 パミュ監督の新作、「消えた画 クメールルージュの真実」や「Act of killling」、「狭山事件」石川被告の現在を撮った「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」は諦めることに。福岡にも来てくれることを願うしかない。
 小川プロの他の作品、例えば「三里塚・第3次強制測量阻止闘争」(1970年)はDVDで持ってるし、名作「三里塚・辺田部落」は何度もみたけれど、69年の「パルチザン前史」や「クリーンセンター訪問記」(75年)、「京都鬼市場・千年シアター」(87年)「映画の都・山形国際ドキュメンタリー映画祭89」(91年)はまだみたことがない。参考上映のひとつ「青年の海-四人の通信教育生たち」はみたような気もするけれど、といった状態だからほんとはそういったものも全部をみたかったし、バーバラ・ハマー監督の「Devotion 小川紳助と生きた人々」はいつか必ずみたいもののひとつだ。
 「三里塚・第2砦の人々」は今回初めてみることができた。すごい映画だ。こういう映像が撮れたこと自体信じられない。農民と機動隊が混じりあい動き回っているその間に文字通り挟まれもみくちゃになりながら、それでもカメラは両方をそして場を撮っていく。
 そういうことももちろんすごいのだけれど、でもなんといってもこの映画が映しだすもの、ことがらそのものに圧倒される。農民、学生、機動隊、公団、雇われ暴力団。驚嘆し恐怖し憎悪しそうして哀しみに覆われていく。砦の外の荒れ地でデモンストレーションするあまりにも華奢で弱々しい学生、黙して表情も動かすまいとする若い機動隊員、泣きじゃくる子ども、ただぽかんと見ている幼児、「洞窟」のなかで車座になって待つ老人たち。
 極限的な激しさの後に残る寂寞感、それはもうこの戦いが、ある意味ではすでに終わっていること、もう自分たちの夢見たような結果にはけしてたどり着かないことを誰もが心の底で知り、でも互いのつながりや限りない選択があるはずの未来への希望として、ことばにしないことを黙約し、でも、だからいっそうそれはせつせつと人の胸をうつ。
 こういうふうに人は生きそして死んでいくんだと、遠い声が告げていく。
 三里塚で最後に撮られた「5月の空」が映像としても短く、中途半端に遠くから撮られてしまったのは偶然ではないだろう。もう遠くから眺めることしか、できることはないのだ。まるっきり離れてしまう前に、もう一度、でも現場には近づけないままで。
 本編の上映前に三里塚の今を撮った映画の予告編が何度も流れる。昨日の映画のなかで激しく言いつのっていたおばさんが、老いた静かな口調で諭すように語っている。友人を亡くした青年行動隊の元若者は彼の地で今も農業を営んでいる。だれもが「そういうことだっぺ」と小さく頷く。

 

「菜園便り」追伸
 撮し、撮されることを巡って始まり、家族や世代へと思いをはせたわけですが、この「菜園便り」というのはぼくが二〇〇一年から不定期にだしているメール通信です。いつもは、知人たちへ届けと、インターネットの海に送り出しますが、今回はこの芳名録限定。
 撮影にみえた飯田さんとは不思議なつながりで、最初にお会いしたのは一九九四年の「津屋崎現代美術展 場の夢・地の声」(亡くなられた柴田治さんや原田活男さんが主催)で、参加作家のひとりである山本隆明さんの作品を撮りにみえていました。その美術展のコーディネーターをやっていたので、関わった方やみえた方を片端からコンパクトカメラで撮していて、その時に撮った、撮影中の飯田さんの写真が今もあります。最初はぼくが「撮った」わけです。
 「撮った」時から二〇年ほどたって、また津屋崎に撮影にみえた際に、飯田さんの実家が百年を超す古い家だと聞いて、我が家(玉乃井)のことも話題になり、その流れで親のこと、出自のことなどもあれこれ話し、いろいろに思わせられました。
 撮される、カメラを向けられるというのは、普通の人にとってはとても緊張することであり、シャッター音ひとつにもぎくりとしてしまいます。そういうなかで、こうやって下さい、ああやって下さい、顔はそのタンスの角のあたりに向けて視線はカメラに、もうちょっと上向きに、そうですそうです、といわれてもただおたおたするばかりで、求められていることができないことに恐縮し、もうしわけなさが募ります。
 撮られる時、身ぐるみ剥がされるような、身の置き所のない心持ちで困ってしまうのですが、しばらく続けていると、いつの間にか撮る人をじっと視ていたりします。視線はこちらにといわれるままに、カメラのレンズそのものをじっとのぞき込んでいて、どちらを見ておられましたか、という柔らかい叱責で我に返ります。
 撮られている時、被写体の側も必然的にカメラを、撮る人を視ます。その奇妙な撮影の姿勢を見、対象を「撮る」けれど「みて」はいないという逆説を、みています。どんなにしっかり相手を視つめても視線はけしてあうことがなく、はぐらかされたような気持ちのなかに放りだされて途惑い、ただレンズという物体へ視線を集中させ、そこに焦点をあわせるしかありません。痛いほどの緊張のなか、ぼんやりした夢のような浮遊感も生まれます。
 撮られるということは(それは、撮るということはといっても同じでしょうが)、そんなこんなの不思議な体験です。

 

菜園便り290
8月27日

 玄海黒松、ということばを聞いたとき、あらためてあらゆるものには固有の名前があるんだと感心しつつ、でもこれはなんだかヨーロッパ的な整理・分類の文脈のなかで、ラベル的に貼りつけられた名前だという気もしてしまう。それは全てのものがそうだからといういつもの嫌悪や諦念からくるものでもあるし、またこのことばが盆栽(というよりBonsai)の話の流れででてきたからかもしれない。今や盆栽の愛好家や収集家の中心はヨーロッパや米国にあるようで、頻繁に日本にツアーが組まれ、著名な盆栽職人のお弟子さんは全員外国人だったりするとのことだった。
 黒松というのは、文字どおり表皮が黒くてざっくりと割れたタイプだと聞かされ、ああそうだった、子供の頃から知っていた松はそうだった、蔵屋敷の松もそうだったと思いだした。最近の松は虫が入りにくいように表皮が緻密で割れておらず、色も薄いらしい。たしかに植林された防風林の松などはそうだ。玉乃井の玄関脇の松がその玄海黒松だというのも、その時はじめて知った。おそらく海側の庭の松もきっとそうだろう、ずいぶん前の松だから。
 手のひらくらいの大きさの割れた厚い表皮をどうにかして剥がして宝物にしていた時期があったことも思いだした。蔵屋敷というのは十歳くらいまで住んでいた同じ津屋崎町の一画で、古いわらぶきの屋根にトタンを被せた、大きな家だった。庭も広く松の他にもヒマラヤ杉、樫、梅、銀木犀、南天、何本もの無花果があったし、後から植えた夏みかん、きんこうじ(金柑子)、枇杷、桃、グミ、柿もあった。紅い蔓薔薇と夏には白の朝顔が板塀に絡まっていた。小さな花庭もあってりんどうと百合ははっきり覚えている、芍薬や菊や松葉牡丹も。ガーベラが表の塀沿いに植えられたこともあった。とても珍しくおしゃれな花だと感じたけれど、きっと父がわざわざタキイから取り寄せたのだろう。近所に畑を借りて野菜をつくっていたから、庭には菜園はなかった。
 そういえば松のそばの暗いすみにクチナシがあった。八重の花で、実はできないと父が何度も言っていたのを聞いたとき、なんだかすごく残念に思えた記憶がある。父がそう思っていたからだろうか。クチナシの実は食材を黄色に染めるときに使ったりするものだけれど、漢方薬の材料にもなるのかもしれない。
 英語ではガーディニアといって、それにもいろんな思いでがある。サンフランシスコの安ホテルの受付の男性だとか、麻布十番だとか、キャサリン・ヘプバーンの「旅愁」のシーンだとか。あのクチナシはけっきょく彼女の手には届かなかった。大きな駅、動き始めた列車、窓から精いっぱいさしのべられる手、走って追う男、通俗的で感傷的で美しい。ああいう「定番」のシーンが旧い映画には必ずあった。そうでないと観客が満足しなかったのだろう。誰もが胸の内でほっと安心する、残念に思いつつも。一夏の、旅先の思いでは持ち帰れないし、持ち帰ってはいけないのだ、と。
 少しくたびれて端が黄色くなった花からの強烈な香りはちょっと喩えようがない。


菜園便り291
9月24日

 夏がなかった今年の、夏野菜ももう終わり。トマトはまだ小さな実をつけているけれど、これが赤くなったら摘んでお終い。とうに花も終わりかろうじて地面に張りついていたパセリもお終い。ショウジョウバッタに食べつくされて終わったかにみえたレタスやルッコラは、バッタがいなくなれば息ふきかえして伸びはじめるかもしれない。同じように襲われていた青紫蘇は、よみがえったにしても小さな葉を数枚つけてるだけで、もう伸びる力はないままに白い花をいくつかつけて終わるだろう。
 長雨で弱ってしまったペパーミントがここにきて小さな芽をどっと出してきたから、また元気を取りもどして来年まで続くだろう。雨にも暑さにも負けなかったのはバジルで、これにはちょっと驚かされた。いつもはまっ先に食べられたり潰えたりするのが、今も薫り高い葉を拡げている。水まきの時ちょっとふれただけでぱっと香りがたちあがる。
 空豆の後ほうっておいたプランターに8月になってから瓜科の芽が出た。元気そうだったので水をやっていたら、小さな実をつけた。だんだん大きくなって淡い黄色になった、真桑瓜だ。今年は買ってきて何度か食べたから、その時の種が台所からの撒き水に混じっていたのだろうか。それともどこからか飛んできたのだろうか、鳥に乗って。
 色はみごとだけれどかなり硬くて香りもないから、まだ台所のテーブルの上に置いたまま眺めている。ちょっとでも固さがとれたらおおいそぎでサラダにしなくてはと、げんきんなことを思ったりする。サラダのことを思ってしまうのはこの夏はサラダの野菜がほんとに手に入りづらかったせいもある。だから南瓜や大根、タマネギといったふだんはあまり登場しない材料もよく使った。梨や林檎、桃、メロンなど果実もいろいろ使った、バナナをいれたこともある。バジルをサラダにしたのも初めてだった。あれこれ思いつくまま、目の前にあるものを入れていく、オリーブオイルと酢の力でなんとか形になる。ぼんやり食べているといつの間にか終わっている。強烈な味がなかったかから、バジルは入ってなかったんだろう、自分でつくっておいてそんなことをぼんやり思ったりする。
 なかった夏のつけは今も続いていて、胡瓜やトマト、レタスなどがびっくりするような値段のままだ。そもそもお店に置いてないことが多い。ちょっとした気候の変動で大騒ぎになる、人はそんな不安定ななかに生きている。台風や豪雨、雨が多すぎても少なすぎてもおたおたする。そもそも霊長目ヒト科ヒトは脆弱な、ほんとにフラジャイルな生き物なのだろう。ひとりでは生きていけないし、生きていられない。異様に未熟な状態で誕生する、生まれて十ヶ月も歩けない、数年間は保護者がいないと生き延びれない。こうやって続いているのが不思議なくらいだ。だから文字通り壁が必要なのだろう。雨風や外敵の侵入を防ぎ、そうして「他者」拒絶するために。
 長い強い雨ですっかり傷んだ玉乃井の修理が、ほんの一部だけど始まる。それ以上は大がかりすぎて手のつけようがない。その場しのぎでやっていくしかない、いつものように。そういうことにも慣れてしまった、慣れてはいけないのだろうけれど。

 

菜園便り292
10月2日

 「アジアフォーカス福岡国際映画祭」も終わった。今回は1日に3本なんてことはなくて、1日1本だけの日ばかりになった。
 今年はなんといっても蔡明亮の「郊遊 ピクニック」。前作(「ヴィザージュ」)をみれなかったので、ぼくとしては数年ぶりの作品になる。引退すると宣言したらしく、だからこれが最後の映画になるとのこと、ほんとうだとしたらあんまりだ。うれしい驚きだったのは舞台挨拶に本人と主演のリー・カンションが来ていたことで、終了後の質疑応答も行われた。最後の映画だからか、映画祭ということなのか、ずいぶんと饒舌で自分の映画に対する誤解が多く、なかなかすなおにみてもらえないとくり返していた。
 彼の最初の劇映画「青春神話」の日本公開時に、初日だったのだろうか監督とリー・カンションが舞台挨拶に来ていてうれしかったけれど、あのときは全く初めてみる蔡明亮の作品だったから、監督を実際にみ、声を聞き、その気さくな人柄などを知ることができたのは映画を丁寧に受けとるのに大きかった。
 蔡明亮の「黒い眼のオペラ」(2006年)には、廃墟のビルのなかにできた巨大な水たまりの海をマットレスの舟がゆっくりと流れてくる息をのむほど美しいシーンがあり、大げさにではなく恍惚としてしまった。今回もやっぱり画面は暗めのトーンで美しく、雨と水に覆われている。それぞれのシーンがとても長くて動きもほとんどなくてただじっとみつめるしかない。映画のなかでなにかをじっとみつめている人をこちらからじっとみている、というような。
 静止したままのシーンや見続けるのに忍耐がいるほどの動きの少ない長いシーンでしか語れないことがあるのはたしかだ。でも饒舌に傾きすぎるにせよ、物語ることでしか表現できないこともある、そんなことを思ったりする。受けとる人を、みる人を信じるしかない。真摯なものだけがもつ、どこかでふいに溢れだすもの、ことばや映像では表わせないものが生みだされる瞬間をほとんど祈るようにして待つことだろうか。
 この映画も、今までの作品のように生きることの難しさ、耐え難さに満ちている。でもいつものようにそれでも存る、生きることの悦びがみえてこない。あの蔡明亮の傑作「河」の終盤、混乱と絶望の後、穏やかな陽光のなかにシャオカンがふだんの顔で戻ってきたときのような、最後の最後にいっきにあふれだす、静かで圧倒的なまでの底深さ、単純で限りなく深い生の喜びがみえない、そんなふうにさみしく思えてしまう。「楽日」で、終わってしまった映画の後に、破顔して全てを受けいれ肯定の表情をみせる南天のようなおおらかで奥深い楽天性はみえない(南天の死が蔡明亮に与えた影響ははかりしれないだろう)。
 ものに対してであれ、心に対してであれ、世界をあるがままを受けいれたちまち順応していく子どもたちのなかに、希望をみなくてはいけないのかもしれない。でもそこにただ酷い諦めだけしかみえなかったりもする。
 そうなのだろうか。


追記:以前「文さんの映画をみた日」に書いたものを添えます。蔡明亮はほんとに深いところで人をうち、そうして支える映画をつくる監督です。


「楽日」「西瓜」(2003年 蔡明亮監督)
過剰さと哀しみに浸されて
 蔡明亮映画祭がシネテリエ天神で開催された。力をふりしぼった表現が、みる者に衝撃を与えながら静かに深くなにかを届けてくる。それを性急にことばにすることなく、微かに浮きあがってくるものに目を凝らす。
 「西瓜」(2005年)ではアダルト・ヴィデオの世界が、渇水の大都市を舞台に描かれる。身体や性を軸に、せつせつと求めあう心を掴みだそうという試み。滑稽であざとくて、どこまでも真摯でせつなく。
 そうして「楽日」(03年)。土砂降りの台北の外れ、時代からずり落ちた映画館の最後の日。スクリーンをみつめているのは、かつてのカンフーの大スター、苗天と石□(それぞれが俳優の自分を演じている)、彼らの最初の記念すべき出発となったキン・フー監督の「龍門客棧」。映画に涙し、出口で立ち去りかねている石□が苗天に話しかける。「もうみんな映画をみなくなった、誰も私たちを覚えていない」と。それに応えて苗天が破顔一笑といった笑顔を返す。まるでこの映画の、そして彼自身の映画史を締めくくるように。ファンのひとりとしてその表情がフィルムに残され、いつでも出会えることに安堵し、まるでその現場に立ち会ったかのような喜びに満たされる。でももう彼が亡くなっており、次の映画はないこともまた痛みとともに思い知らされる。こうやって苗天を重要な登場人物として描いてきた、蔡明亮のひとつの時代が閉じられた。
 「楽日」には苗天が苗天という俳優の役を演じるし、少なくない割合で実人物としての彼も重なるといった多重性もある。蔡明亮は全ての映画をあたかも連作であるかのように撮っていて、自身の過去の映画を引用し続ける、同じ俳優として、仕草として、シーンとして、台詞として。そのいくつもが重なり層になり、つながり、みている者のなかで膨れあがり、予測できないひろがりを生み、人を世界や時間に直につなげていく。
 登場する人々が、できごとが、いつも<哀しみ>に浸されている。人々は都市は乾ききって餓えている。そうしてどこも水が溢れ、なにもかもを覆っていく。澄んでいても濁っていても、水は全てを濡らし、湿ったぬくもりや生気を放つ。生をその根底で支えるものとして、光に寄り添うようにして。


黒い眼のオペラ(2006年 蔡明亮監督)
眠りの船は巡り
 なんの躊躇いもなく真っ直ぐに人の深みへと降りていく蔡明亮、その新しい作品がいよいよ公開になる。東南アジアの湿りと熱気のなか、終わりのない仕事、民族間の葛藤、貧富の差に翻弄され疲弊した人々のよるべなさと、でもそこでこそ掴みとられる愛や誠意が描かれていく。流れる汗や澱んだ空気に満ちているにもかかわらず、どこかに夜明け前のうす藍色に染まった透明でひんやりとした一角が残っている。人を孤立させ途方に暮れさせる一方で、静かで微かなつながりを産みだす母胎でもあるような、夜と朝の間、闇と光のあわい。
 心と体、男と女、母と息子、男と男、生と死、そういったことが具体的な身体をとおして語られる。手で洗われ、指でなぞられ、突き放され、重ねあわされる体。交わされることばはほとんどない。眼や唇、指が伝えるわずかなもの、そうしてその限りなさ。
 大型マットレスをまるで寓意的な象徴のように扱いながら、ふたりで眠る、抱きあうといった、とても親密なのにどこかで身体の個別性を意識させられてしまう場のリアリティを掬い上げていく。滑稽なしぐさやおかしみさえも含み込みつつ。
 人は哀しい、生きることはつらいという思いが、いつものように蔡明亮映画の底を流れていくけれど、でも、だから、人は愛おしいし、生は大きな喜びなんだとも伝えてくる。ことばとしてでない思いの重なりが厚い層をなし、その内からにじみ出されてくる漿液がいつのまにか世界を潤していくようにして。
 都市のビルの廃墟に産みだされた海を、ゆったりと滑っていくマットレスの眠りの船。緩やかな温かさに包まれて眠る人を乗せて、まるで桃源郷へとたゆたっていくかのように、終わってしまった生が永遠の向こう側に漂い出すかのように。もしかしたらそれは眠り続ける人の硬い頭蓋の内に無限の一瞬として閃いた輝きかもしれない。
 生活の細部も丁寧に描かれているから、その夢のような恍惚とした終幕が、初まりの苦さや痛みにつながっていくのも了解される。でもそれは疲弊しきっての諦念や放棄でなく、そういうことも含みこんだ、生の力であり、思いの勁さである。そうしてそれはどこにも誰のなかにもあるということも映画のなかで教えられ、深々とした慈しみをさり気なく渡されていることにも気づかされる。7月下旬から福岡市のシネテリエ天神で上映。

 

菜園便り293
10月15日

 竜舌蘭が倒れた。なんだか悲壮感に溢れ、悲しみに包まれてしまうようないい方だけれど、じっさいはもっと散文的であっけらかんとしていた。台風で倒されたのだ。茎はまだまだ太く頑丈だけれど、根本の巨大サボテン部分が変色しもう腐りはじめていて支えきれなかったのだろう。地面から2メートルほどの所からボキリと折れている。海側、つまり道路側に倒れたのを、誰かが外にはみ出た部分を折って庭に放り込んでくれていた。太いしけっこう重いから、折るのも運ぶのもたいへんだっただろうと見知らぬ誰かに感謝している。
 小さな黄色い花はとうに終わって黒く変色していて、その下に実というか種というか、細長い袋状のものががびっしりと並んでいる。ちょっとみると小さなバナナのようだ。
 台風の潮のかかった車を洗っているお隣も気づいていて残念そうだ。父がいたときは大喜びでみんなにふれてまわって、花も配ったらしいから、あれこれ知ってある方も多い。30年に1回なんだそうですね、ええ50年に1回ともいわれてます、私なんかはもう2度と見れないでしょうね、そうですねえでも庭の隅にもう1本大きなのがあるのでまた近いうちに咲くかもしれません、そんなことを立ち話する。
 もしまた咲いたら3度も見ることになる。50年に1回と聞くと、自分にとっては最後、と思うだろうし、一生に一度と当然思うのだろうけれど、竜舌蘭からしたら、群生する場所ではいつでもそこら辺で咲き続けているのだろう。
 そういった、一生に一度といったようなことは人を惹きつける。ましてそれを最後に喪われてしまうと思うととてもロマン的に感じるし感傷的になる。どこかヒロイックな響きも生まれる。映画「会議は踊る」(1931年)の主題歌は「ただ一度だけ(Das gibt's nur einmal)」だった。あの歌は感傷より強さが前面に出ていた。そういう歌詞が喚起するものと、あのちょっとパセティクな映像、メロディがぼくをどこかへ連れて行ったこともあった。ダス ギプス ヌァ アィンマル、ダス コム ニヒト ヴィーダー、ダス イスト ツー シェーン ウム ヴァール ツー ザイン ・・・・
 ウイリアムホールデンジェニファー・ジョーンズの「慕情」の原題は「Love is a Many-splendored thing」。そういう、愛はすばらしい悦びに満ちているといったことばが、慕情という、遙かに偲ぶ、哀しい色あいを帯びたことばに置き換えられるのも、日本的なことなのかもしれない。まっただなかの燃え上がるときでなく、過ぎていった、喪われていったときを主題的に取りだしてしまう心性。
 当時の花形職業、海外特派員とアジア系の美女(という設定)のロマンスはやはり成就することなく戦場での死、が待っている。香港という奇形の植民地、アジア内の戦争、そこに関わる正義の米国人、寄りそうアジア系の娘。以前、米国人からジェニファー・ジョーンズは彼らには異国的な顔に見えると聞かされて少し納得がいった。まだアジア系の女優が主演をするなどということは想像もできない時代、システムだったのだろう。主題歌はどこか甘く感傷的で哀愁を帯びているから、慕情というタイトルがいっそう身にしみるのかもしれない。
 成就しないもの、挫折し倒れるもの、中途で喪われるもの、そういったものへの偏愛はくり返しくり返し描かれ続ける。  

 

菜園便り295
12月7日

 友だちに渡すのに、出がけに庭の花をおおいそぎで摘んだけれど、たちまち7種ほどが手に入った。少し寒くなった後だから、花なんて石蕗ぐらいじゃないかと思っていたのでちょっと驚いた。その時は気づかなかった小菊も表玄関そばにでてきたから、今だともう少し多くなるだろう。荒れた庭にもいろんな喜びが潜んでいる。
 そんなことを書きかけていたらもう12月、いつのまにか真冬になっていて、庭の花を愛でるどころでなくなった。昨日は寒さで体が動かなくなって、応接室のストーブの前で石像化していた。心もこわばって動かなくなる、困ったことだ。
 先日、2階のひさしで見つかった鵯ほどの鳥の死骸のことを書いたら、まるでそれにあわせたようにまた鳥の死。今度は下の台所の排水口近くに横たわった、オレンジと青の小さな鳥だった。たぶんジョウビタキだろう。こんな妙なところにあるのは、頻繁に玉乃井に入ってくる隣の猫の仕業だろう。庭で鳥をねらって潜んでいることもあるし、襲っているところを見てしまったこともある。どこかで捕らえて、自分の家にではなく、秘密の隠れ家に隠したのだろうか。
 乾いていて、重みが感じられないほど軽い。でも羽の色は鮮やかなままだ。そのまま乾燥させて採っておきたいほどだけれど、そうもいかない。木立のなか、前の鳥を埋めた近くに小さな穴を掘ってうずめた。近くにはこの夏花をつけた竜舌蘭がある。根本の本体部分は黒ずんでもう半分枯れている。このまま潰えていくのだろう。50年がんばって伸び続け、力を蓄え、そうして開花し種子をふくらませ散らして終わる。異様なまでに肉厚で鋭い棘を持つごつごつしたサボテンも、次世代へと、種の保存のために生きぬいて、そうして朽ちていく。
 表の玄関前では、まだ松の落ち葉が続いている。落ち葉だけれど、油色とでも言うしかないような薄茶色でつややかな葉だ。形もくっきり、きりりとしている。たった1本の松だけれど、強い風の後など、掃き集めるとふた抱えほどになる日もある。花を存分に散らせた後だから、心おきなく自身の体調を考え整えているのだろうか。
 プランターのレタスはまだ葉を拡げているし、バッタの攻撃を生き延びた春菊も伸びている。空豆も半分土に埋もれて、日照時間が長くなるのを待っている。ルッコラが小さいなりに群れていて、時々サラダに彩りを添えてくれる。アーティチョークはほとんど伸びなかったけれど、そのとげとげの形よい葉を緑色に保っている。刈り払われた交差点から持ってきたペパーミントは本家が全てなくなった後、健気に鉢のなかで増え続けている。元気のあるうちに地植えしておかなくてはと、何度も思ったことをまた思っている。残念ながら、友人が持ってきて植えてくれた夏みかんは夏を乗りれなかったようだ。
 続いた死を気にもせず、鵯や雉鳩がかわらずに庭にやってくる。すぐ向こうの海では鴎が群れをなして低く飛んでいる。さざ波がどこまでも光って海はもうすっかり冬の色。


菜園便り296
12月12日

 今年もそろそろおしまい。来し方行く末とまでいかなくても、少なくとも映画のことは書いておかなければと思いつつ、でも雨ばかりの夏のない年だったといったことだけがすぐに浮かんできてしまう。なにはともあれちかい人の死がなかった、それだけは言祝がなければ。
 「映画・今年の3本」を載せていたYANYA’がでなくなって久しい。いろんな人があれこれ思いがけない視点から語りあうのは楽しかった。知らないことを教えられたりもしたから、読めないのは残念だ。
 みにいった映画の数は少ない年だったけれど、夏にいくつかの特集上映でまとまってみることができたし、すごくヘビーなものも少なくなかったから、受容感はかなり大きい。小川紳介三里塚シリーズ、特に「三里塚 第2砦の人たち」については今も大きな塊が処理できずにどんとどこかに乗っかったままで、なんだか食べられないものを大急ぎで詰めこんだように重苦しい。ついあれこれ思ってしまう。この映画を、例えば「玉乃井映画の会」でやれる日は来るのだろうか、といったようなことまで。それはもちろんぼくのこととしてだけれど。
 王兵ワン・ビン)監督の「収容病棟」はなにをどう語るにしても、もう一度ゆっくりみなくてはと思うけれど、あの5時間近くをもう一度たどるにはかなりの勇気がいる。心身の体調を整え、冷静にかつ柔軟に、姿勢正しく毅然と、でも心開いて感情にも蓋をせずに、恐怖や嫌悪、痛みや憎しみも隠さず、そうして喜びも哀しみも手のひらにすくい取って静かに見つめ、力あればのみほして・・・・そういうふうに対応できるだろうか。
 大げさなことばはおいて、今年の3本。6月にKBCシネマでジャ・ジャンクーもやったし(「罪の手ざわり」)、アジア映画祭では蔡明亮の新しい映画だけでなく本人も登場したし(「郊遊 ピクニック」)、成瀬の「浮雲」をまたみたりもした。でも、小川紳介王兵のものを除いたら、やっぱり「玉乃井映画の会」の作品がすぐに浮かんでくる。
 ジャ・ジャンクー監督「一瞬の夢」はぼくには初めてだった。玉乃井の暗く閉めきった2階で初めての映画をみるというのはとてもうれしい。みんなと同じ期待を抱いてスクリーンに向きあえる。賢しらな「解説」をしようと思ってもできないから、あれこれ予断を押しつけずにすむ。彼の長編第1作、実質的なデビュー作で、出世作でもある。青春の屈折、いらだち、悦び、怒りや欲望がむきだしで語られる。ことばにしてしまうとそういうありきたりのクリシェになってしまうけれど、とにかく率直におそれずに、きちんと語れることだけを自分のことばで語る、しかもそういうことを自分への枷とせずに、結果として等身大になるような、細かな齟齬を踏み抜いていくような、たいせつなことは伝わるんだと信じて、遠くまで届く静かな声を発し続ける、そういう姿勢というか気概に先ずうたれる。
 これまで何度もみてきた小津安二郎監督の「麦秋」は秋にやった。揺るぎないしっかりとした構造があり、どこまでもシンプルで限りなく深いから、野放図に細部にこだわれる、まるで淫するように。家族が解体していくということそのものへの哀悼、消えていった時代への郷愁は、みるぼくにも深い。いつもそうだけれど、今回も、東山千栄子と嫁の三宅邦子が縁側でやる、打ち直した綿を、洗った布団がわに入れていく仕事なんかをじっとみつめてしまう。廊下の隅に、打ち直してきた綿が、四角い包みで重ねて置いてあるのもちらと確認できる。子どもの頃の我が家ではだるま綿がだるまの絵が入った梱包紙に包まれていたけれど、ここのはどんな梱包紙なのだろう。綿全部を包むのでなく、外側だけをぐるっと四角く囲むように包まれている。廊下の隅の壁の前なんて積み上げるのにぴったりだ。そんなことも思う。
 母は手伝いに来てくれたセリノさんと二人で両端からひっぱったり、軽く叩いたりして平らにならしながら、所々に緑色の幅広のかたいとじ糸でしつけていた。針も独特だった。リズミカルに刺しては抜いてくるりと結んでぷつんと切る、そのくり返しを何故だかとてもよく覚えている。なんであれ縁側の作業は楽しげで、ましてやセリノおばちゃんが来ているし、あたたかい綿や布団が広がっている。はしゃいでしまうのはとうぜんだったのかもしれない。
というわけで今年の3本はあれもこれもと悩むことがなくて、「三里塚 第2砦の人々」「収容病棟」「一瞬の夢」「麦秋」ということになった。


菜園便り297
12月15日

死はあまりにも劇的だから誰もが引きつけられてしまう。惹きつけられて、が正しいのかもしれない。


死、そのものより、それにまつわる事々、例えば、自分のなかに巻き起こる決まりきったとしかいえない激しい感情とそれの誇示、自分への?、そうしてくり返される儀式への参加とのめり込み。でもそれでも


ぼくは誰かに「発見」されるのを待っている。誰もがそうだろう。
ほんとに?

菜園便り298
2015年1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。


菜園便り298
1月11日

 年末に薔薇をいただいた。香りもある薔薇を抱えて、なんだか呆然としてしまう。以前薔薇をもらった時のことがまたよみがえる。それは薔薇をいただくたびに、もらった時のことを思いだし口にしてきたからだろう。こういうことがあったんですよ、そういえばあの時はああだったんだ、と。
 最初にもらったのは歳の数だけの薔薇だった。そういうことを通俗だとも思わずにうっとりしていた。でももらったのが酒場だったから、1本だけ手にして残りはそこに置いてきた。そのことをあちこちでしゃべった。あまりにうれしくて舞い上がっていたのだろうし、そういうことはたぶん最初で最後だと思っていたふしもある。
 それから10年ほど後に、だから30をとうに過ぎてからまた歳の数だけ頂いた。小ぶりな紅い薔薇だった。自分の住まいでひらいた誕生パーティだったから薔薇はそのまま壺にさして飾った。くれた人はそれからしばらくして亡くなってしまった。最後にお見舞にいったのは虎ノ門病院で、だから昼時に病院を抜け出してオークラに行ってクラブハウスサンドイッチをいっしょに食べた、「病院の飯はほんとにまずいし、かさかさなんだ」と。ガーデンレストランには今もそのメニューは残っている。
 3度目は歳の数ではなかった、もう歳の数だと両手でも抱えられないほどになっていた。青ざめた真っ白な薔薇だった。かすかに翡翠色が混ざっているのかと思えるほどで蒼白で、ふれるのもためらわれた。怜悧でほの暗かった。
 暮れにもらったのは4種の明るい色をとり混ぜた大輪で、豪華だった。年が終わるまでは生きていようと思った、というようなことはさすがにもう口にできる歳でないから、ただただ感嘆し感謝し、水を換え、時々切り縮め、霧吹きし、陽に当て、と慣れないながらもだいじにあれこれやっている。つまりまだ卓上に飾られているというわけだ。
 今年もいい年になりますように。

菜園だより***
 看病で、病院で見せつけられる、死にいたるたいへんさへの恐怖も消えないのだ、きっと。徐々に死にとりこまれていくとき、身体的な痛みや苦痛が、もじどおり息のできない苦しみが、人を襲うことを間近に見てしまうと、もう誰もそれへの怯えから逃れられなくなってしまう。
 死の床の全体を貫く耐え難い不快にびっしりと覆われ、それを拒むことどころかそれを口にすることさえできずに、あちこちをいじられ、こづき回され、喉の焼けるような渇きの一瞬の解消さえなく、何日もうめきながら血を流しながら叫びつづけて無能な医者や傲慢で不器用な看護士たちへの怒りが爆発し、側にいながらなにひとつ解決できずにお追従だけしている家族への怒りが生まれ、でもその全てがけしてことばにも態度にも表せないその二重三重の怒り苦痛悲しみ。結局はただ諦めて、でもそれによる苦痛の減少がわずかにでもついてくるのだろうか。
からからの口のなかを妙な臭いのガーゼで力づくでかき回し、粘膜を引き剥ぎ、病人にいっそうの痛みと不快と渇きをつのらせていることに気づこうともせずに自慢げに<きれいに>してやったと誇られて、それを新たな怒りでなく、ただ黙って受けいれるほどにも衰弱は深くなれるのだろうか。心臓が動いているだけで、痛みも不快も怒りも感じなくてよいほどにもうろうとなれているのだろうか。きっとそうではないだろう。では最後の最後の瞬間、それは劇的に「今」というような瞬間でなく、短い時間内であれ徐々に心臓が脳が働きを停止していき呼吸が止まり、血圧が一気に下がり、どこかで「生命」が消えていくときその時に恐怖や苦悩はないのだろうか。痛みはもうない気がするけれど、それも脳天気な外にいるものの楽観にすぎないのだろうか。
様々な喪の行事を行うために人は集まり、あれこれを片づけていく。段取りを決め、お寺に連絡し、親族に知らせ、お土産やお菓子や果実、それに花も手配し、座布団を干して、仏壇を掃除して、写真をだす。道路側に飛び出している庭木を大きく刈り込み、隣との境界の蔦や灌木を取り除き、家のなかもあれこれ片づける。遺品の整理も続ける。
いろんなことをてきぱきとすませていくと、かえって鬱々としてしまい気力も失われる。なんだかほんとにひとりになってしまったと、そんなふうに思えてしまう。久しぶりに眠れなくて夜が長くなる。人は自分でも気づかないところでいろんなことを思い煩っているのだろうか。自分のことばかりにかまけていると、自分のことさえわからなくなっていく。
お盆も近づいてきた


菜園便り
1月13日

菜園便りは時々番号が飛ぶ。抜け落ちた数はけっこうある。気にして問いあわせてくれる人もいるけれど、だいたい誰にも気づかれないままひっそりとどこかのすみに紛れ込み沈んでいく。
ぼく自身が忘れてしまったのもあるだろう、きっと。書いたのだけど送らなかったとか、書きかけて止めたけれど、抹消するのがなんとなくはばかられたとか。
「撞木鮫のでてきた日」のように個人を宛先にしたものにそういうのが多い。その人だけに当てて書いたのだったからだが、しばらくしてまとめる時に載せたりしたから、まったく消え去ったわけではない。
今回の「菜園便り   」は1部限定で、宛先は写真家の飯田さん。夏の写真展に出すためということで、「作家」のポートレートとして撮りにみえた。いつもは美術作家を中心に撮ってあるし、ぼくごときがと、なんだかおこがましい。でも玉乃井の雰囲気を撮りたいということだろうと引き受ける。そうやって簡単に引き受けたけれど、とにかく気恥ずかしいというのが最初にあって、それは最後まで続いたし、緊張もずっととれなかったけれど、なんだかふっと気が抜ける時があった。
撮られることの不思議や快感も知ることになった。 

 

菜園便り299
1月20日

 海側の庭に面したガラス戸のすぐ下、小さな藪椿に初めてのつぼみがひとつついた。緑のなかの紅、でやっと気づいたけれど、丈も低くひっそりとつけたつぼみだから気づくのもおそかった。
 もう7年ほども前に近所の人が、鉢植えではかわいそうだし、自分のとこは植える場所がないので、ということで持ってみえた苗の1本。潮や風の当たらないところと思いつつ3カ所に植えて、当座は水やりも続けてどうにか2カ所は着くのは着いた。砂地だしあまり手入れもしないままだったのに、健気に少しずつ伸びてとうとう花をつけるまでになった。1メートルにも満たない茎に大ぶりなつぼみがついている。
 少し離れているし特に親しいお宅でもなかったから、植木を持って見えた時は少し奇異な感じもしたけれど、もちろん子どもの頃から知っている人だし、喜んで受けとった。しばらくは様子なども伝えていたけれど、いつの間にかまた遠くなって、会えば黙礼するくらいの関係に戻ってしまって今に至っている。花のことも伝えられないままに終わるのだろうか。
 植木は頂いても着かないものが多い。自分で買ってきた苗もほぼ全滅だけれど、思いがけないものがぐんぐん伸びたりして驚かされる。楠とか月桂樹とか、大きくなる樹が意外にすっと着いたりして、なんだか不思議な気もする。
 そうやってたちまち3メートルにもなった楠のそばで水仙が開いていた。この冬初めての花だ。小さな一群れがかろうじて、といった感じで続いている。たて壊した離れや大浴場があった頃のしおり戸のあたりになるのだろうか。そこはちょうど建物が風よけになっていて、海からの潮もまだひどくない頃だから毎年たくさんの花が開いていた。
 そういえばあの頃は茅はなかったなと、冬枯れしても勢いを失わない茅をついつい恨みがましく見てしまう。


菜園便り300
3月23日(2015)

 「菜園便り」が300回になった。第1回が2001年だから、14年ほどたったことになる。途中で一度、抜粋を『菜園便り』という本の形にまとめたけれど、それからでも5年はたった。その本のはじめには200回目は2003年だとある。100回めはいつだったのだろう。
 いろんなことがある、そういうあたりまえのことを知るために、人は長々と生きているのかもしれない。若さは愚かしさだったけれど、いつまでたっても愚かなままだという内省も今になってあらためて生まれる。
 そこからさらに進んで、「でくのぼう」とよばれることをめざし、指さされることに負けない生き方をしようとする人もいる。でもどういう隘路を伝ったらそういう場へと抜け出られるのだろう。昔だったら、長く困難な旅とヒロイックな行為の後にやっと遠くに見えてくるのだ、なんて思ったかもしれない。ここより他にしか、戦いの荒野も安住の桃源郷もないのだと思いこんでいた。賢しらに「青い鳥はここにいる」なんて口にする者には、そもそも青い鳥なんていう発想そのものが、ここにないものを指しているんだと冷笑して。
 でもそういうことではなくて、こことか、他とかといったことばそのものに意味がないということ、意味をなさなくなるといっても同じだけれど。そういういい方をするなら、全ての場所がここであり他であるということだろう。
 「でくのぼう」になるには、そういう場に立ちたいと真摯に考え、ほんとうに思い願うこと、そういうありふれた、でもとても難しい方法しかないだろう。でもほんとにそういう場にたちたいのか、ほんとにそういうふうに名指されて生きていけるのか、つらくはないのか、屈辱や痛みにたやすく打ち負かされるしかないんじゃないか、そんな躊躇が一瞬でもある間はなにも見えてこないのだろう。
 誰もそういう場は怖い、でもそこしかないんだと、そうしてそこはまったきに開かれて明るく勁い場だ、と、そここそがほんとうなんだ、そこしか生きる場はないんだとしっかり掴む人もいる。感傷的に憧れるのでなく念ずるほどに強く思うこと、信じること。単純でそうして限りなく深く遠い場。
 菜園は緑濃くどこまでも広がる、重なりあったやわらかな葉が辺り一面を埋めている、赤い実がそこかしこにのぞく、黄色いのはなんだろう、陽光は根もとの黒々とした土にも明るく降り注ぎ輝いている、頑丈な竹の支柱に絡まり伸びてきた蔓が空へと触手を伸ばし、その先端のほとんど白いまでの青い色素にも白金色の透明な光がまとわりつく、土のなか地下へと向かう毛根が蓄えるごつごつした塊、さらさらと葉を鳴らす風が季節の流れを攪拌し掻き乱し、ここは今なにもかもが実り溢れる豊穣な沃土。
 現実のプランターのなかでは、くすんだ色のレタスがやせ細った髭根を広げ、小さな苦みのある葉をときおり届けるだけになっているとしても。すべては愛です、野菜も愛です、どこででもなんでも育つのです、どうにかしのいで冬を越してきた春菊やルッコラがひっそりとそう告げる。誰に向かってだろう。愛、慈しみ、それは求めるものではなく、与えることしかできないものなのだろうか。

菜園便り301
4月3日

 モーツァルトの全曲聴破も、2年を超してオペラまで終わった。残るのはアリアとか宗教音楽とか。かのレクイエムが残っているとはいえ、もうあとわずかだ。今月は無理だとしても、この春のうちには終わるだろう。でもその後はどうすればいいのだろうか。今でも時々はリクエストもあってジャズやリュートやバッハをかけているけれど、そうやって気の向いた曲をかけていくというのはかえって難しそうだなあとも思う。いつの間にか同じ曲になってしまいそうだ。CDだけでなくレコードやテープもかけるように気持ちや体をもっていかなければ。
 聴破記念には「ひとりリクエスト大会」でもやろうか。先ず何からはじめよう、つい先だって話題になったピアノ協奏曲23番でもいいし、毎朝聴いているクラリネット協奏曲でもいいし、明るくホルン協奏曲1番で幕開けしてもいい。夜の女王のアリアで騒がしくはじめるのも一興かもしれない、それともやっぱり静かにピアノ曲だろうか。聴くといつもシンとしてしまうピアノ協奏曲21番の第2楽章か、それとも・・・あれこれ空想は尽きないけれど、シンフォニーがぜんぜん挙がってこないのは訝しい。継子いじめだと思う人もいるかもしれない。でも大きなものや堅牢なものが苦手だし、仰々しいものは敬遠してしまうので、どうしようもない。でも42番くらいはかけなくては、といったひとり冗談はさておき、「魔笛」や「レクイエム」はかけるだろうなあと思う。最後をどうするかも問題だ。アンコールになったらどうしよう、小さくて心にしみるものだと、やっぱりピアノソナタになるのだろうか、などどらちもないことを考えてしまう。どうしてこうやってすぐに形に置き換えてしまうのだろう、貧しい心性だ。
 「菜園便り」300回について返信をくれた人もあった。そういうのはうれしい。ああ、誰かがぼくの声を聴いてくれたんだと思うし、なにかがむこうに届いているんだ、そうしてそこからのなにかがぼくにもまた届いたんだと。
 300回はすごく直接的な書き方だったから、頂いたメールには宮澤賢治に触れたものもあった。直接的である間はなにも生まれない、ともいわれたりするけれど、そうだろうか。「でくのぼうになる」の対極には、若い時に誰もが足を取られる<上昇志向>や<野心>や<正義>があるのだろうか、そういうことも、書かれている。そうしてそこからやっと自由になったと思いこもうとしても、そうは問屋が卸してくれない、あたりまえだけれど。
 今もふつふつとたぎるものを抱えている人も少なくないだろう。御しがたい熱、内で荒れ狂う風、凍りつかせる外からの雨、そういったものに振りまわされず、でも切り捨ててしまうことなく抱え続けていくのはとても難しい。
 それはぼくにとっては書くことを止めない、止められないことになるのだろうか。「表現とはついには他者のものでしかない」、そうだともそうでないともいえなくなる。
 成功や名声にあがくように憧れる人もいる、誰にもそういう時期がある。もちろんぼくもそうだった。でもそういうことに付随するめんどうや嫌なことも丸ごと引き受ける力がないと、押しつぶされてしまうだけだろう。
 プラスでもマイナスでも「有名」にもならずにすんでほっとしている人も多いだろう。近隣でのちょっとしたいざこざに巻きこまれたり、友人たちの間でちょっと持ちあげられたり、それでもう十分だと。もう「若く」はないけれど、未だに「貧しく」「無名」であることの安堵と小さなさみしさもある。そういうことを市井に生きるというのだろうけれど、そこにある勁さや深さに気づかされるのには、それはそれでまた時間がかかるものだ。自分を過大評価することから離れようとして過小評価することは、世界を、人々を過小に見てしまうことととつながってしまう、そういうややこしさもある。
 身についてしまった、近代の悪癖のひとつである、批評してしまう因習から逃れ、ただみる、聴く、直に向きあおうとすること。そんなことは誰にもできないんだと突き放さずに、虚心にただむきあって、溢れてきそうになることばを押し返して、ただ黙ってむきあって、そうしてそこに浮きあがってくるものを静かにすくいとって。そういうふうにわたくしは生きていきたい。


菜園便り302
5月6日

 3月の「絞死刑」上映の後、「犯罪」や「罪と罰」ということについて考えた人は少なくないだろう。松井さんが中心になってやっている「9月の会」も、3月は李珍宇のことも含めて「犯罪・内部・記号」というテーマで語られたし、昨年11月はオウム真理教のことがテーマだった。
 他にも、Rについて、李珍宇について、心について、犯罪について、現在起こっている事件について語った人もいる。憎悪するにしろ、同情するにしろ、自分を重ねるにしろ、誰もがいやでもいろいろに考えさせられることがらだろう。
 以前、「チチカット・フォーリーズ」というドキュメンタリー映画についてについて書くなかで「犯罪」についても考えたことがあった。それを再度「YANYA’」に載せるために手を加えてまとめたのだけれど、あらためて「菜園便り」に取り込むことにした。なんだか焼き直しばかりしているようだけれど、今もこういうふうに考えているし、これ以上には考えられないとも思う。

続・文さんの映画をみた日⑮
ワイズマンの問い、ワイズマンへの問い
 米国のドキュメンタリー映画監督、フレデリック・ワイズマンの特集がシネラ(福岡市総合図書館ホール)で開催された。1月と4月の二度に分けて20作品が上映されたが、残念なことにあの傑作「チチカット・フォーリーズ」(1967年)は入ってなかった。
 やっぱり初期の「法と秩序」(69年)、「病院」(69年)がすばらしかった。3時間の「メイン州ベルファスト」(99年)も別格ですごい。
 写し撮られていることがらそのものが緊張を強いるものだから誰もが眼を離せなくなるけれど、それだけでなく画面それ自体の密度や構成の堅固さも視線を惹きつけてやまない要素だろう。「犯罪者」や「病人」といった極限の対象を撮しとりながらのあの自在さ、自由さはなにから生まれるのだろう。対象との間に瞬時に回路がつながるような不思議ななめらさかはなんなのだろう。写し撮られ映されていく人々が、怒りながら泣きながらカメラではなく自分自身をのぞき込み視つめているかのようだ。初期の作品は対象をまるごとすくい上げる、そういった奇跡のような映像に溢れている。
 80年代以降の「競馬場」や「動物園」では、カメラが<動物>へ直に入りこんでいく視線に誘われて、わたくしたちも薄暗がりへと引きこまれていく。生きものが生きものを食べて生きていくということ、人が<動物>を食べながら愛玩しながら憎み殺すおぞましさを、悲哀でなく腑分けするような手さばきで開いてみせる。もちろん血を滴らせ内蔵や腐肉のにおいを立ちのぼらせながら。
 今回上映されなかった「チチカット・フォーリーズ」は、2001年12月にシネラの「共に生きる社会のために」という特集のなかで上映された。初めてみるワイズマンだったから衝撃も大きく、だからかなり社会的な言語に引きつけ、どうにか距離をとろうとしてみていた気がする。でもほんとのところは人や社会の、酷たらしさも含めた深さに声もでないといったことだった。それに映像のなかの人物への、わたくしの強い思いいれも溢れてしまっていたのだろう。下記に再録した当時書いたものは、ずいぶんと直截なことばも使っているし、なんだか<正義の使者>みたいな雰囲気もあるけれど。

 「チチカット・フォリーズ」(モノクロ、1967年)。
 制作・監督のフレデリック・ワイズマンの情熱や正義感やその他のいろんな条件がうまく重なりあってこれは撮影できたのだろうけれど、そのことに先ず驚かされてしまう。刑務所とほぼ同じ施設の内部を、時間をかけて、大胆に踏み込んで撮られた映像。でもそれが米国の自由さとか開かれてあることの証しでないことは、はっきりしている。管理する側が、自分たちのやっていることや施設自体の異様さに気づきもしないということだ。結局この映画は州の「患者のプライバシーを護る」という提訴により裁判所で上映禁止命令がでて、91年まで封印されてしまう。
 「患者」(精神障害を持つとされた犯罪者)の全てのプライバシーも権利も剥奪しておいて、「護る」もなにもないだろうと思うけれど、それとは別に、個々人の撮される=撮させない権利や、その個的な生活、痛みについてはだれもが真摯に考えなければならないことだ、この映画の監督も、みるわたくしたちも。視ること、撮ること、対象を語ること、代理すること、それらは簒奪するということであり、たいせつなものを一瞬にして消費してしまうことでもあるのを、はっきりと自覚、確認するべきだろう。それでもなお、わたくしとして語ること、伝えたいこと、それが「表現」への出発点なのだろう。
 映画は、毎年恒例の演芸会の始まり、舞台上の男性コーラスから始まる。ここは楽しい場所、これから楽しいことが始まる、と。映像がかわり、広い部屋に集合させられ、全裸にされ服装検査を受けている人々になる。のろのろとした動き、衰えた体、対照的に太って元気な看守たち。裸になり、服を検査され、体を調べられ、全裸のまま腕を上げたり廻ってみせたりさせられる。裸にさせられることそうして検査の視線に曝されることで、人は何段階にも突き落とされる。尊厳などとうに奪われた場所で、絶えずその上下関係の確認を有言無言に強制され、威圧を受け続ける。管理する側は、惨めったらしくて汚くて愚鈍でそのくせ意固地でいうことを聞かない「家畜」を扱う感覚になっていく。彼らが「犯罪者」だから、「異常者」だから当然だというように。
 少女への性的暴力で逮捕、拘禁された男性への、医者の執拗なインタビュー。彼は自分のしたことをはっきりと認識しているし、少女の年齢も知っているし、自分の娘に性的な暴力をふるったこともよどみなく静かに語っていく、生のリアリティや感情自体を喪ってしまったかのように。医者は聞き続ける、「マスタベーションはするか? 奥さんがいるのに? 大きな胸と小さな胸はどっちがいいか? 成熟した女性へが恐いのか? 同性愛の経験があるだろう?・・・・」。彼は質問の意図を推し量ることもなく、事実だけを淡々と語る。そうして彼が自殺しようとしたことが浮きあがってくる。その懲罰と「防止」との目的でだろう、独房へ移されることになる。全裸にされ、格子のはまった窓と、シ-ツもないマットだけが床に置かれた部屋に入れられる。動物のはらわたを裸足で踏んでしまったような、酷たらしさ怖さが物理的な衝撃のようにみているものに伝わってくる。「安全」な、掃除しやすい、懲らしめための場、理性も感情もない者には適切な場、ということなのか。
 拘禁の恐怖や苦痛をわたくしたちはいったいどれだけ知っているのだろう、想像力のなかででも。冤罪が起こると、決まってでてくる、「何故認める嘘の証言をしたのか」、「どうして闘い続けなかったのか」といったお気楽な問い。警察留置所という最低の条件の場所に長期間閉じこめての尋問、隠された拷問下での恐怖や孤絶感が、「ここで死んでもだれにもわからない。裁判では絶対にお前が負ける、今調書に署名捺印すれば、数年ででてこられる、後は自由だ」といった取調官の甘いことばの罠に人を引きずり込むのだろう。茫々とした孤独のなか、警察官や看守すらもが体温を持った唯一の隣人にみえてしまい、弱りきった心がすり寄っていくのかもしれない。
 映画のなかでは、当然だけれど、直接的な暴力はみえない。でも看守の声にびくりと反応してすくむ体や、「正しい答え」を大声で言うまで続く執拗な質問の繰り返しのなかに、いやでも様々なものがみえてくる。房内で催涙ガスを使ったエピソードが看守たちの茶飲み話にでてくる。2日後に部屋に入っただけで涙がざーと流れだして止まらなかった、家に帰って制服をそのままクローゼットにいれといたら、全部に臭いが移ってたいへんだったといったような。そうして催涙の威力の強さや持続の話は、それを受けた者の苦痛や影響にはけして向かわない。法や規則を犯した者への処罰として使うのだから、正しく合理的であり、しかも抵抗できない弱い立場の相手に対しては思う存分に力をふるうことができる。いつもいつも繰り返される米国の、治者の、論理。
 食事を拒否する老いた「患者」に鼻から管を入れて水や栄養物を押し込む。抵抗もせずにただ黙って受け入れる老人。その「治療」に重なりながら、彼の死の様子が映される。臨終のベッドでの牧師の悔悟、時間をかけた丁寧なひげ剃り、きちんと着せられた背広、死体置き場。おおぜいによって施行される、墓地の一角に独立して埋められる驚くほど丁寧な埋葬は、この異常な管理と環境のなかでも、死の尊厳が、というより彼ら自身の神がということなのだろうけれど、当時まだ生きていたことを映しだす。みている側は気持ちが複雑に捻られて引きちぎられていく。
 犯罪やそれを犯す犯罪者というのは、独立してあるわけではないだろう。犯罪者は、このわたしたちのたちあげている社会が析出した悪とでもいうしかないものを、ある個体として体現している=させられている。個の内には社会が100パーセント反映されている。その社会は個が共同で立ち上げていて、だから個のなかの全てが社会に投影されている。その二つは無限に反映しあいつづける。犯罪は、全ての人の<思い>の結節点でもある。人のなかにわずかずつある欲望や悪意、憎悪、さらには善意すらもが、様々な条件のなかで特定の個人や集団に集約されていき、時代や環境や家庭や計れない因子がつながりあってひとつの<悪>に焦点を絞る。
 わたくしたちは今、どこに存るのだろう。


菜園便り303
4月5日

 一昨昨日、2階の改修部分、山本さんや壮平君に床張りをやってもらった松の間の障子張りをやった。2枚だけだったから、ついでに下の応接室の一部も張り替えた。なんだか「菜園便り」には障子張りのことばかりを書いているような気もするけれど、ぼくにとっては特別な家事なのだろう、きっと。<家族>や<家>をとても強く感じさせる作業。
 季節を感じさせる労働であり、ふたりで協力しあってやるし、すでに過去のものとなった行事みたいでもあり、終わった後の白い爽やかさは格別だ。光が和紙をとおして柔らかくなり、乱反射して明るさがますようにも思えたりする。
 父が元気をなくした後、札幌の姉が頻繁に来てくれた。父も喜んだし、ぼくもとても助かった。その頃、姉とやった障子張りのことを菜園便りに書いたのを覚えている。母とやった時のことも思いだす。母は1枚張りできる大型の障子紙のことをはじめて知ったようで驚いていた。これだと障子1枚貼るのもあっという間に終わる。友池さんに手伝ってもらって何枚も2階の障子を張り替えたこともあった。10年以上やっていなかった部屋もあって、掃除からはじめてたいへんだったけれど、ずっとつきあってくれた。1階の応接室の障子の助っ人は壮平君だった。「音楽散歩」に会場を提供した時のことだと思う。あの時はたしか深町さんのリュートの演奏会だった。松尾家の手伝いに、障子張りの「出前」に出かけたこともある。
 母が亡くなった後は父とのふたり暮らしだったから、父とふたりで障子張りをやったこともあったはずだけれど、それは覚えていない。父との作業では、菜園の野菜づくりのことをいろいろ覚えている。その父が亡くなってからでももう5年がたつ。来年は7回忌だ。
 ビリーホリデイを聴きながら障子張りしたと書いたこともあるけれど、先日のは2階だったし、なんの音もないまま、ひっそりとひとりでやった。誰かひとり紙を押さえてくれる人がいると貼る時にほんとに楽だしうまく貼れるのだけれど、そうもいかない。メンディングテープで端を止めて静かに引っ張り押さえていく。「ゆっくりゆっくりでもでもすばやく」「ていねいにていねいにでもだいたんに」なんておまじないをいつのまにか唱えている。少しくらいずれてもしらっと続ける、かなりずれた時は、4文字ことばを声には出さずにくり返しながらやり直す。少々汚れたりねじれても平気平気と安心させつつ。霧吹きでぱっと吹けば一晩でピッとなる、だいじょうぶだいじょうぶと。
 たぶん障子の建具そのもの繊細さ軽さ、紙の軽さ、光を透過させるものだということが、張り替えを厭わない理由かもしれない。襖にはなかなか手がでない。すぐにも張り替えをやらなくてはならない襖は山のようにあるのに、試してみようかとも思えない。重い、力がいる、難しい、張り替えた後の衝撃度が低い、つまりあまり見栄えしない・・・。まさに「かわいそうな襖さん」、だ。
 でも障子張りに感じるようなささいなちょっとした楽しみこそが、無限に続く果てのない「家事」をやり抜かせる力なのだろう、かすかな期待、達成の喜び、とりあえずの終わりがある安堵。


菜園便り304
5月8日

 田植えを終えた水田が広がっている。4月の終わりに機械で植えられた時は、思わずだいじょうぶかと声をかけたくなるほど小さく細い苗だったけれど、10日ほどでしっかりとした濃い緑に伸びた。一面の水鏡に映える爽やかな緑は誰をも魅了するだろう、鳶や鼬や小学生をも。かすかな風が水面を揺らすと光も陰も大きく揺れて割れて拡がる。心のなかにじかになにかが入ってくる。
 庭のプランター空豆は今年初めての収穫、柔らかくて青くさくてとにかくおいしい。「一寸空豆」と種袋にあるのを買ったのは、添え木や支柱を厭う怠けごころからで、でもやっぱり一寸を支えきれずに緑の塊全体が傾いている、揃って同じ方向へ倒れかかりもたれあっている。ちょっと見苦しい、1本でいいから縄をぐるっと回して支えてあげればいいのだ。何度も思ったことをまた思う。
 この時期に病葉を落とす木々の落ち葉も盛りは過ぎた。毎朝みごとに散った葉を履き集めるのはちょっと残念な気もする。周りの冷たい視線がなかったら、落ちたままの風情を楽しむだろう。朽ちて踏みしだかれて、そうなったらささっと掃き寄せる、そんなふうにはなかなかできない。共同体が無言で強いるものを拒むのは難しい。昔だったら、闘わなくてはいけないとか因習を合理的な科学で打ち壊さなくては、なんて本気で思っただろう。今は、永い時間をかけて培われた集団の智恵、掟といってもいいだろうけれど、を引き受けていきたい、そういう穏やかな常識こそが今切実に必要とされているのだろうから。
 美術展の前に刈った茅はもうしっかり20センチほども伸びている。青々とした尖った葉が真っ直ぐに立っていてそれはそれで美しいけれど、またびっしりとはびこると思うと憂鬱になる。今年こそは草刈り機を手にいれてまめに刈り続け、徐々に潰えていくのを待つしかない。でもカラスノエンドウを打ち負かしたほど強い茅が弱まるとなると、次は何が我が世の春を謳歌するのだろうか、この庭で。それを思うとちょっとこわくなる。
 春菊もいくつも花をつけている。ガーベラのような淡い2色。ルッコラも白い十字状の花を次々に開く。開いたそばから摘みとられサラダにされてしまうので、また次々に開く。レタスも葉を広げ、山椒は溢れんばかりに木の芽をつきだしている。ミントとアーティチョークも冬を生き延びてそれぞれの葉を伸ばしている。パスルテルミント色なのはアーティチョークで、ペパーミントは少し黒みの混じった濁った厚ぼったい緑だ。
 夏野菜の植えつけをやっと終えることができた。胡瓜もゴーヤもズッキーニも諦めて、トマトだけに絞った。他はバジルと紫蘇だけ。これだと嫌でもうまくいくだろう。もちろんベランダそばのプランターと鉢だけ、元気なレタスのそばだ。
 庭の木々は今がいちばん美しい。すみの小さな茂みも、ぐんぐん伸びている楠も、様々な色の階調でなりたっている。思わず口に入れたくなる柔らかい黄緑色の一群の横には真夏のような濃い緑が黒々とあり、少し薄紫がかった明るい一画と強いコントラストを描いている。オレンジというよりは赤といった方がいいような透きとおったと細長い葉ものぞいている。白い小さな花がびっしりとついていても、葉叢の印象は消えない。白い花という葉。棘の多いむやみやたら枝を伸ばした醜い木もほっそりと端正に見える。花が終わった椿の葉は暗く輝いて厚く、光をぎらりとするほど反射する。
 折々の花もある。週末のカフェの日には小さな花を摘んでテーブルに挿す。月桂樹、ユズリハといった生命力のある樹の枝は花瓶のなかで何ヶ月もじっと命を繋ぎ、みる人に緑の光線でやすらぎを与え続ける。お正月に切りとった枝が、まだそのままの姿でしっかりたっている、すごい。

 

菜園便り305
6月8日

 夏野菜が背丈ほどにも伸びて繁るほどだった菜園も、父がいろいろできなくなり小さくなっていった。亡くなった後もどうにか続けていたけれど、それもプランターや鉢植えにまで小さくなり、もう季節を映せなくなっている。ルッコラもレタスもなんとなくできてそうしていつのまにか終わっていく。冬の蕪、大根、春菊、初夏の空豆、ズッキーニ、真夏のトマト、胡瓜、苦瓜、そんなくっきりとした鮮やかな季節は今はない。ぴたりぴたりと狙ったように時期を定めてはいっせいに花開いてたわわに実って、ということはない。
 そのかわりというのもへんだけれど、落ち葉はしっかりと季節を映す。決められた時期にいっせいに落ちて道路や玄関にはでに散るから隠しようもないし、気づかないふりもできない。せっせと掃き寄せる。
 梅雨入り前後の今は、山桃の小さな青い実が降るように落ちるし、ネズミモチの白い小さな花がどっさりとばらまかれる。山桃は小さな実を振り落として確実に大きな実を結ぼうとしているのだろうけれど、こんなに落としてだいじょうぶかとつい思ってしまうほど、毎日毎日、うす黄緑色の固い実を落とし続けている。つぶつぶがくっきりとした青い実、人や車に踏みつぶされた実から、青臭さと共に熟した時のあの濃厚な甘い匂いの予感が立ちあがってくる。
 以前は熟した実を丁寧にもいで果実酒にしたりしていた。味よりもとにかくその色の美しさにうっとりしていたけれど、甘い果実酒は自分ではのまないし、どうかすると色が抜けたりもするのでいつのまにかつくらなくなった。もちろん面倒くさくなったのだ。それでも熟した後は時たま手のひらに転がしてそのベリー状の形を眺め口に入れてたち上ってくる香りと甘さ酸っぱさを楽しんだりする。紅臙脂色の実が一面に散った道は美しいし、踏みつぶされて路上に残された紅い染みはなかなかなものだ、ちょっと異様でもあってすごい。見た瞬間に口のなかに甘酸っぱさと固い核の感触が拡がるし、もっと想像が飛んでしまうこともある。
 ネズミモチはこの季節、あちこちで見かける。とにかくどっさりの花をつけて匂いを撒き散らして蝶や蜂を呼び寄せている。幼い頃もたくさんあったのだろう、いろんなおもいでと結びついている。冬の金木犀、春の沈丁花、そうしてこの花、香りが辻つじに塊のようにどんと立っていて、通りかかるとごつんとぶつかる、そんなふうだ。
 先週から白百合も前庭と裏庭とで開いている。いくつかは切り花にして飾っている。夕方になると強い香りを家中に放つ。百合は日持ちするからね、といったのを覚えている。誰にだったのだろう。なんだかとてもインティメイトな、親密な気持ちが甦る。


菜園便り306
7月4日

 梅雨だ雨漏りだといっているうちに、もう7月にはいってしまった。
 以前は月初めの日に、ハッピー・ファースト・オブ・ジュライとかいったりしていた。いっぱいの楽しさを期待するというより、言祝ぐこと、祈ることに近かった気もする。お正月のあけましておめでとうございます、というのと同じかもしれない。
 くしゃみをするとグッスンタイトとかブレス・ユーとかいって厄よけしたことも思いだす。そうやってささやかな生活を少しでも護ろうしたのだろう。くしゃみやおならに対して極端なほどの反応を見せる文化もある。体から、なにかがでてしまうとか、よくないものがでてくるとか、そういう考え方があるのかもしれない。
 庭のミニサイズのトマトが次々になる。赤いの、黄色いの、丸いの、細長いの、いろいろだ。レタスは終わる前に次のを植えなくてはと思っていたけれど、ぐずぐずしているうちに消えかかっている。紫蘇やバジルは元気だけれど、そうそう使うものでもないし、ピーマンは教科書どおり最初のひとつを小さい時にとったのに次がなかなかできない、うまくいかないものだ。
 お隣の花田さんの菜園は大きくてりっぱだ。元気にいろんな野菜が伸びている。時々おすそわけもいただく。果肉は粘りがあるのにカリカリしたおいしい胡瓜とか、ぱりっとして苦みもあるレタスの葉などを。
 雨漏りの修理もやったので、漏る箇所も大きく減ったし漏り方も穏やかになった。海側の玄関の上など、あんなにひどく漏っていたのがぴたりと治まって、なんだか奇跡のようにさえ思える。こんなことならもっと早く、とつい思ってしまうけれど、いろんな条件がよい方に集中してやっと今できたということだ。もしかしたらまだまだ機が熟さなくて、いろんな人の手助けが得られなくて、もっとひどいことになっていたかもしれない。
 とにかくうれしいしほっとできた。こうなると他も全部、一気に直してしまおう、といった気持ちが生まれるのは当然かもしれないけれど、今までの長い過程があるし、なにより経済的な事情が許すのはここまでだともわかっている。焦ってはいけない、ゆっくりやっていくしかない。400キロもの布団を一気に処分するようなこともほんとは家にも人にもあまりいいことじゃない。ものごとをひといきに変えたり新しくしたりする急激な変化は刺激的でもあり、一見すばらしく思えるけれど、その裏ではほとんど全てのものが無理な動きや変化、ねじれ、さらには消滅を強いられているのだろう。機械的な力が無限と思えるほど強くなった現在、やろうと思えば、全世界の改変、消滅もありえないことではない。
 今を丁寧にじっとみつめること、動かない変わらないことに耐えること、いろんな不満足を受けいれる勁さを探ること、自他への批評を押さえること、弱さと思えるものを何度もとらえ返してみること。やわらかい虚無がにこやかに世界を包みこんで、静かにつもっていくことに抗うこと。否定や対抗ということでなく、根源的な生や死といったことすらも手にすくいとってあらためてしっかりみようとすること、問い返そうとすることとして。

 

2016年-2919年
菜園便り327 
2016年10月4日

 お彼岸も過ぎ、月の光の冴え冴えとした冷たさも伝わってくる季節だというのに、日中は肌を焼く強烈な陽射し、長雨の湿気が一気に蒸発してのひどい湿度だ。この温気のなか、さすがに歌は生まれない、と思ったりもする。「歌」?
 小さな蚊が最後の使命とブンブン飛び交っている。二酸化炭素が目標になるらしくしゃにむに顔に向かってくるから五月蠅いし、そんなことをしたらたちまち叩きつぶされてしまうだろうにと老婆心も生まれる。そういう危険を学習する間もなく、生まれたらすぐに正面から飛びかかるように洗脳されているのだろうか、哀れだなあ、と思ったりもするけれど、煩わしさから反射的に手は動き、幼い蚊はもう潰えている。
 台風前夜でなんだかしんとしている。気圧の変化を感じるからだろうか、奇妙な夢ばかり見る。旧い公団アパートのようなビル、でもエレベーターはあるらしい。外に面したとても狭い通路、部屋のなかの床が濡れているのは、どこからかこの建物に水がなだれ込んできていて、それが少しずつその部屋にもきているかららしい。監禁されているのか、たてこもっているのか、どちらにしろ静かで冷たい。たくさんいた女性が全部消えているのは、先日みた映画の影響だろうか。戦いのなかであっけなく失われていく命。
 海側の庭にある銀杏はまだ緑色のまま、半分ほど変色した葉を散らしている。もうおおかたは散ってしまった、「金色の小さな鳥」になる前に。毎年のことだからこの夏の猛暑のせいでなく、木の樹精が弱いのだろう。海からの潮に曝され、枝を切りつめられ、肥料どころかかまってももらえず、さみしいのだ。その脇で松が1本枯れて倒れたけれど、新しく2本が生えてきた。摂理、だろう。そうやってこの庭が覆われていくのかもしれない。強いものが残っていくのだろうけれど、強さは、ということは弱さはということだけれど相対的なものだから、なにが残るのかはだれにもわからない。
 プランターの植物が潰えた責任ははっきりしている。肥料だとかなんだとかいう前に、水がなければ生きていけないのだから。人は外部からタンパク質を摂らないと存在し続けられないというけれど、タンパク質、つまりアミノ酸の大半を動物も体内でつくっていると、昨晩からのテレビが声高にいっている。
 そうなのだろうか。
 晩年の父の食事はタンパク質をかなり減らさなければいけなかったので、あれこれ調べていると、お米にもずいぶん含まれていることがわかって驚かされた。それで市販されていた、表面の蛋白の部分を大きく削って芯だけになった米にかえたのだけれど、つらくなるほどまずいものだった。ああいったものを目くじらたてて計量して食べさせる必要なんかなかったんだと、昨日の夢を反芻していてあらためて思わされた。今さらせんないことだけれど。

 

菜園便り328
11月1日

 先日、幼稚園横のなだらかな坂を日陰をぬってゆっくり歩いているとふいに強い香りにぶつかった。今年最初の金木犀、<初香>だ。晩秋、初冬の香りだという思いこみがあるから、こんな夏日の強い陽の下じゃなければもっとよかったとちょっと残念な気もした。一度気づくとその後は原付きで走っていてもはっとするときが何度もある。
 金木犀は昔はこんなにあちこちになかった気がする。マスメディアというかテレビドラマの影響だろうし、少し前の新築造園の流行りだったのかもしれない。我が家の庭にはない。子どもの頃は庭にぶら下がれるほど大きな銀木犀があったけれど、香りはなかった。実のなる木や香りの強い灌木は敬遠されていた時代なのだろう。
 母は最後まで、ハーブの香りは酔ったような気持ち悪さになると避けていたし、ジャスミンティーも含めてハーブティーを文字どおり遠ざけていた。たしかに体調のよくないときには香草の強い香りは避けたくなる。病気の時は頭や胃に響いて吐き気を誘う。生まれたときから周りにあって馴染んだものでないし、強い嗜好性がある香りや味だからだろうか。母は山椒の葉も使いたがらなかったから、伝統的なものでもだめだったのだろう。それに山椒が若竹煮に必ずのっているなんてことは、以前は普通の家庭ではなかったことだ。でもぬか漬けは古くなっても平気だったし、漬かりすぎた高菜もいろいろ工夫して食べていた。
 青臭くてかすかな甘みがある香りのハーブや野菜がだめだったのだろう。香水はもちろんつけてなくて、匂い袋の移り香を着物に染みこませていた。なんだか源氏物語のような大昔にきこえるけれど、そういうことが20年前にはふつうの生活として残っていた。

 

菜園便り329
12月5日

 真っ白でモコモコした雲が浮いていることもあってか今日の空はやけに青く見える。頂きはさすがに日本海的に少し濁っているけれど、全体はちょっと突き抜けた感じさえある。それもあってか低く続く遠い山の連なりはくっきりと緑に縁取られて、近景の冬枯れの田んぼともわかたっている。空と山と田が一度に目に入ってくるから、遠近がなりたたずに奇妙な空間感が生まれる。不思議な浮遊感。
 田は冬枯れといっても、8月に刈られた稲からのひこばえが短いながら濃い黄色の穂をつけてたれているし、植えられたカリフラワーも濃い緑の苗をのばしている。やっぱり暖地の初冬の光景だ。
 海もおだやかで空を映して澄んだ水色。表面は強い陽射しに輝いて銀色に光り、戻ってきた鴎をあちこちに浮かべている。
 落ち葉は樫も山桃も終わって、今は松葉が毎日どっさり散ってくる、種も小さな1枚プロペラをつけて落ちてくる。透きとおるように薄い、光によっては桃色にも見える羽根。
 さみしくひっそりとした庭にも、プランターの野菜はまだ元気でいる。レタス、イタリアンパセリ、セロリ、エンダイブは今も葉を広げて食卓へとその香りを届けてくる。どうにかあたたかいうちに発芽に間にあったルッコラもわずかずつだけれど伸びている。間引きした柔らかい葉のかすかなナッツの味は今朝のサラダで楽しんだ。空豆も順調に芽を出し、来年の初夏の喜びを予感させる。
 静かにでも確実に時は移っていき、季節は巡る。今まで厭でもくり返しやってくるものだとばかり思っていたけれど、もうそういう時期は終わった。同級生の訃報も届く。   

 

菜園便り330 12月25日

 鵲(カササギ)が庭に来た、初めてのことかもしれない。
仕事机から海の方を見ていたら、庭をゆっくり横切っていった。白い部分と黒い部分がくっきりとわかたっていて美しい。常につがいでいるはずだからと目をこらすけれどもう一羽は見えない。もしかしてどこかに営巣するつもりだろうかと、そんな期待も生まれれたりする。
 いつ見てもハッとさせられる。わりに大型だし、その色合いのコントラストの鮮やかさもあるし、「天然記念物」の希少種といった思い入れも加わっているだろうし、古くから歌にも詠まれていることへの憧憬といったものもあるかもしれない。「鵲の渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける」、少々間違っているかもしれないけれどすらすら書ける。優美だ、といつも思う。
 でも声はひどい。「かちがらす」という別名がすんなりくるような、ああいった鴉声系だ。白鷺ほどではないけれど、優美な姿とおそろしいまでの悪声との落差にもそのつど驚かされる。大げさにいうと気がふさぐ。韓国には掃いて捨てるほどいますよ、といわれたりすると、ちょっとむっとしつつも、そうだねこの国では少ないというだけなんだね、とも思う。ブリューゲルの絵にもでてきたような気がする、たしか不吉な鳥だった。
 庭は今は目白とジョウビタキ、時々鵯(ヒヨドリ)も混じる。雉鳩(キジバト)や雀もおなじみだ。鴉や鳩はぼくに嫌われているのを知ってか、目につくときには来ない。近所の猫もしょっちゅう来るなかでこれだけのラインアップはうれしい。椋鳥(ムクドリ)、鶺鴒(セキレイ)、百舌(モズ)なども来ているのだろうけれど、住人からシカトとされている。なぜだろう。
 鶫ももっと寒くなると頻繁に来るだろう、赤い実を食べる、まるで童謡そのままだ。鳶はすぐそばの電柱が止まり木になっている、鴎は道路際の岸壁に等間隔でずらっと並ぶ。
 さみしいけれど部屋のなかまで入ってくるのはいない。昔住んでた集合住宅ではベランダに餌を置いていたから鳥が集まり、雉鳩は部屋に入ってくるようにもなった。最初に見つけたときのマウザーさんの喜びようは、まるで50年代のアメリカンホームドラマそのものだった。ああ、ほんとにこういうしぐさや表情をするんだ、米国人なんだなあ、と、雉鳩に感動しつつそう思ったことを覚えている。ベランダに面したりリビングのなかをひょこひょこといった感じでのんびり歩いて出ていった。それからは硝子戸を開けていると時々入ってくるようになった。けして粗相しなかったから、部屋のなかに水や餌も置いたりして愛していたけれど、さすがにそれだと水が飛び散ってカーペットが染みになったので、水は外だけになった。
 ベランダの斜め下に有栖川公園という大きな公園があったので鳥も多かったのだろう。冬を越して生き延びるようになったインコたちがその派手な色合いで群れて飛ぶのを見たときもほんとに驚いた、なんでもあるんだなあと。
 公園は3千坪もあり高低もあって水も流れ鬱蒼としていたけれど、女子高校生相手の露出おじさんがでるくらいで怖い事件などもなかったから、夜も散歩できた。珍しく雪の積もった夜おそく、南部坂を登って帰ってくると、公園横の公衆電話ボックスの電話が鳴っていた。しんとしたなか妙にドキドキしてしまって、取ろうか取るまいかと本気で悩んだりもした。あの時雪のなかで受話器を取っていたら、人生がまるっきりかわっていたかもしれない、そういうことはペーパーバックの探偵小説のなかだけだとはいえない。
 公園には捨てられた鶏が池の中島の木に止まって生き延びていた、木の上までのちょとした距離を飛んでいた。必要に迫られると、鶏だって飛ぶ、亀も空を飛ぶ

 

菜園便り331
2017年1月14日

 先日、ある集まりで話す機会があって、「<風景>としてみえてくるもの 美しさや抒情を巡って」というタイトルで1時間半ほどしゃべった。女性だけ50人ほど。これは外から与えられた機会で、仕事といえば仕事といえるのかもしれない。テーマも先方からの提案で、そこに今の自分の関心事を流し込んでいくといったふうだった。以前は人前にでるのは厭だったし、対面してしゃべるのは苦痛だったけれど、この仕事を頂いて一昨年に初めてやったときにはずいぶんちがって感じた。テーマが小津安二郎と彼の映画だったこともあってか、喋るのが楽しかったし、あれもこれも語りたいみたいな気持になって、自分でもびっくりした。
 今の時代の慌ただしさに巻き込まれ引きずられて終わらないよう、時としてしっかり目をつむって外界を遠ざけ、自分のなかに目を向けることもたいせつではないだろうか、また、現在世界に流通していて自分のなかにもできあがっている価値観は相対的なものでしかないと、たえずとらえ返すことがだいじだろうということを前提に置いて進めた。
 外界、対象から受ける刺激が、自分のなかのなにかを撃ち、膨らんで美しさとして抒情としてたちあがり詩を生み残っていく、そういうささやかなものをだいじにしたいといったようなことを話していく、具体的な例として自分のことをひき、子どもの頃教科書でであって今も残っている短歌、詩、散文、音楽や映像などの断片を資料としてプリントしたもので紹介しながら。
 釈超空の「葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」から始まり、宮内卿「思うことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ」等の古典もいれ、啄木にちょっと触れて(いまだに苦手な人だ)、後は現代。いつもどこかで気にかかっている石川不二子の「ただ淡くとりとめもなき曇り日に何処ゆきても木犀匂ふ」、「茴香のみどりの如く柔きもの忘れてながき月日過ぎゐし」、そして寺山修司「すでに亡き父への葉書1枚もち冬田を超えて来し郵便夫」、そこから郷里ということに広がって「故郷の訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し」も。岡井隆、春日井健をその場で名前だけは挙げ、塚本邦雄は口頭で「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋わば人あやむるこころ」「カクメイカサクシカニヨリカカラレテスコシヅツエキカシテユクピアノ(革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ)」をあげたけれど、文字でならもう少し伝わるものだったろう。
 一時期は難解の代名詞みたいにいわれていた現代詩からも、荒川洋治のあの「キルギス錐情」の「方法の午後 ひとは、視えるものを視ることはできない」や「キルギスの平原に立つひとよ/君のありかは美しくとも/再び ひとよ/単に/君の死は高低だ」といった友人に教えられた詩句を、ただただ格好いいすごいと感嘆させられ惹きつけられたと話して。他には三橋聡の「木の肖像」の冒頭「木のなかでめざめる木 その単純な家系/港で溺死している船 その水浸しの生涯」を。準備しているときパッと浮かんだものを中心に集めたのだけれど、「時代は感受性に運命をもたらす」(堀川正美)や「きみの物語はおわった」「あなたひとりが死んだって/譬えばなしにもなりはしない」(富岡多恵子)はすぐに浮かんでこなかったのだろうか。
 散文、主には小説からは、風景に引きつけやすい川端康成黒島伝治、どさくさに紛れて自分の作品(「道北にて」)、文体を真似たりもした小川国夫の「エリコへ下る道」など。少し長く引用したのは村上春樹の「めくらやなぎと、眠る女」の「目を閉じると、風の匂いがした。果実のようなふくらみを持った五月の風だ。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子の粒だちがあった。果肉が空中で砕けると、種子は柔らかな散弾となって、ぼくの裸の腕にのめりこんだ。微かな痛みだけがあとに残った。」と「わたしたちは氷砂糖をほしいくらゐもたないでも・・」で始まる宮澤賢治の「注文の多い料理店・序」。
 会場のほとんどの人が知っているだろう唱歌として「故郷」を聴き、歌詞を追いながらその内容が自分たちの世代にはまだリアルなものとしてあったことや、田園を遠く離れてふり返っての詠嘆であり、家族や友といった必要なことが少ないことばで過不足なく描かれていることにもふれる。引用の最後は歌謡曲で、その正統的な嫡子である桑田佳祐の「真夏の果実」の「砂に書いた名前消して 波はどこへ帰るのか」。その感傷や甘さや普遍性、つけ加え得られたほんのわずかだけれど大切な新しい視点をあげながら。      
 こういったことばをあげながら、今も自分のなかに巻き起こされるものが小さくないことに驚かされたし、当時の子どもらしい賞賛や具体性を伴った憧れ、淡い諦めなどもくっきりと甦ってくる。
 人はほんとに様々な思いもかけないことを経験しながら、でもいつのまにか最初の場で、ありふれたことばの重みを量りかねて呆然と佇んでいるのだろう。手のなかにあるのはなんだろう。世界への認識としての諦めみたいなものだったこともあるけれど、そういう幼いロマンティシズムも消えて今はただ静かな無があるだけだ、と小津なら言うだろうか。そうして「無」なんて気恥ずかしいしなんだかわざとらしいと思ってしまえば、もう表現などということは意味をなくしてしまうのだろうか。
 ながびいた話の最後は小津安二郎の「晩春」から抜きだしてきた風景を短くまとめたものを流した。エンディングシーンもはいっていたから、寄せる波の光景の後「終」マークで終わった。


菜園便り332
2017年1月16日

 硬いまっすぐな陽射し、空はくっきりと青く、塊になった雲がエッジを白金に輝かせて浮かんでいる。空は高価な顔料を惜しみなく掃いたような薄い水色、これほどの色彩はもうこの世のものではないのかもしれない。山並みはこの季節にも緑濃く、鮮やかに空とわかたっている。点在する褐色は立ち枯れ屹立する大木だろうか、百年をかけて枝を広げ、今、百年をかけてゆっくりと傾いていこうとし、頂きから順次茶褐色へと変わっていき灰色になり崩れるように倒れ潰えていくのだろうか。
 この寒さのなか道ばたにはもうオオイヌノフグリの鮮やかな青と白のカップが散らばっている。その周りにはいつも目にする仏の座の薄い臙脂色の花があるし、先日高山君が教えてくれたミゾソバの白い花もある。薄汚れて貧相に見えるのはもうずっと咲いたままのぺんぺん草の白い花。
 不意打ちのように空が翳り降りだした冷たい雨に打たれながら、これが霙になり雪にかわるのかと悲壮観に拳を握るけれど、黒雲は低く薄くかかっているだけだから、じきにまた陽が射すのだろうと身をかがめて歩く。そういえば落ち穂拾いはこうやって地面を見ながら腰を低くし、卑屈なほど周りの目を気にしながらのことになるのだろうかと、そんなことも思ってしまう。膝を折ってなにかを哀願することもついになかったとあらためて思ったりもする。夏の稲刈りの後放置された切り株から伸びたひこばえの稲が穂をつけ実り、そのまま枯れて風にふかれ雨にうたれているのが視界にはいっているからだろう。
 家まで戻ってくると、空を映して灰色にくすんだ海も沖では陽光を反射して輝き、深みの緑色と混ざりあったやさしい青さをみせている。庭を半分以上覆っている茅は枯れて微かに揺れているけれど、彼らに追われる低い草々は緑を保って健気に肩を張り境界を死守しようとしている。ラベンダーはとっくに植木鉢からはみだして地面に深く根を張り香りを放っている、山椒も小さな葉をびっしりとつけて一気に伸びる機会をうかがっている。冬の初めまで伸び続けたパセリやセロリは縮こまりつつも青さを保ち、レタスとルッコラは陽射しやあたたかさをしっかりと拾い集め身にまといわずかずつでもと葉を広げている。なんというか、すごい。

 

 

菜園便り???
2月22日

 時間が早く流れる、週から週へまたたくまに移っている、え、このテレビ番組は2、3日前にみたはずではと信じかねたりもする。日々は週で区切られているから、その間にポツンポツンと置かれる記憶の標識は、先日のおはなし会のような自分も関わる行事だったり、テレビの番組だったり、思いがけない懐かしい人の訪れだったり・・・はないか・・・、ふいの強い雨での雨漏りだったりと、特別なことのないありふれた日々のささやかなできごとだ。1週間がほとんどなにもないままに過ぎるのもよくあることで、だからすがりつく記憶の飛び石もないまま気がつけばすでに週末、カレーを仕込みカフェの準備にあたふたしているともう翌週のとりとめのない時間のなかにいる。今週は土曜も日曜もお客さんがあって、カレーもお菓子も楽しんでくれたのではなかったろうか、丁寧に挨拶しあれこれことばも交わしたのではなかったろうか・・・不思議なほど全ては平板でそそくさと過ぎていき、小さな記憶のよりどころさえおぼつかない。
 正直にいうと、65を過ぎて生きているとは思っていなかった。若い時は、「30過ぎた自分なんて想像もできない」なんて誰もが口にはしていても、なんの現実味もないただのことばでしかなかった。そうやって、とうとう超えがたかった40の急峻を超えてしまうと、後はもうなるようにしかならないとわかって、そうやってどうにか生きてきたのだろう。
 年金の手続きなどでも、65以上のことなど生活設計も含めてまったく頭に浮かばなかったし、そういうふうになるものだと信じ込んでいた、しぜんな流れでうまくなるようになるだろうと。それが今や66だ、びっくりしてしまう。こんなことだといつのまにか70になるのだろうか、まったく生きていくというのは怖いことだ、なにが起きるかわかりゃあしない。

 

菜園便り333
2月18日

 一度開きかけながら戻った寒さでしっかり閉じたせいか、沈丁花がなかなか咲きださなかったけれど、このあたたかさでゆっくり開き始めた。もう二部咲きほどになって、辺りに微かな香りをただよわせている。お客さん用にと切り花にして応接室に置くとゆっくりと部屋いっぱいに香りが広がっていく。ちょうどカレーの仕込みもやっていたから台所からの強い匂いに玄関の廊下のあたりでぶつかってたちまちに呑みこまれていく。香辛料の匂いはすごい。カレーは何もかもを覆い尽くしてしまい珈琲の香りさえもとんでしまう。玉乃井でもできるだけ距離を取って分けておくようにしているけれど、皿によそっているだけで世界は制覇されてしまう。
 朝は体もまだまっさらなままなのかいろんな香りが鼻をついてくる。朝起き抜けの竈の薪の匂い、そこに屈んで朝の一服を楽しむ父の煙草の香り、というのはとうに消えたことだけれど、東向きでしっかり日が射しこむ板場(炊事場)は朝をしっかり保っている。泊まったお客さんが、美術系の人が多いからか、ここをすごく気にいってしきりに写真を撮ったりしている。荒れてひどい状態で窓もよごれたままだけれど、広い硝子から射し込む低い陽光は床の砂粒さえ際だたせ、全てにくっきりと陰影をつけ、全体をオレンジがかったバラ色に染める、大げさにいうと、というかトーマス・マンふうに言うと、だけど。
 そんな光のなかで朝の最初のお湯を沸かす、やかんは水道水だから微かにカルキの臭いがしたりもするけれどそういうことも気づかないふりで沸かせば、じきに湿り気のあるあたたかなお湯の匂いがただよってくる。
 すすいだ急須に緑茶をいれ湯冷ましからのお湯を注いでしばらく待つと鼻に届くほどの茶の香りもたつ。ゆっくりと仏壇用の湯のみと、その朝の人数分の湯のみに注ぎ分けながら香りだけを味わってから急いでお供えする。蝋燭をつけ線香を立て鈴をならし、いつものように感謝とこの建物への加護を祈念する。毎朝のルーティーンでしかないのだけれど、そのつどことばにすると気持もあらたまる。この祈ることばはだれにどんなふうに届いているのだろうと、仏壇周りのいくつもの写真に目をやったりもする。両親、家族、中村さん、鴨居には祖父母、もちろん仏壇のなかには重なりあって戒名が並んでいる。ことばを交わしたこともない曾祖父母、さらに遡る人たち。
 生々しいほどの交歓、または澄みきった了解、祈念とはそういうものだろうか。その線香の香りはしばらくは仏間にこもり家いっぱいに広がって、思いがけない場所でまた出会ったりぶつかったりもする。どこか香料的な甘さが含まれているのは今の時代のものだからだろう。
 そうして朝食。あたためた牛乳や焼いたパンの香り、割られた林檎、厚い皮の柑橘類、そういったものがまき起こす匂いが充満し味覚や食欲が前面に押しだされでて、他にはなにも感じられなくなる。だから口のなかでだけふいに鋭く香りがたちあがったりもする。焦げすぎたトーストの表面、少し早すぎたみかんのきつい酸味、やけに気になる牛乳の獣臭さ、今朝はオリーブオイルをいれすぎて、野菜はなにもかも油まみれだ。
 どこからか流れ込んでくる焼けた油の臭いは近所の食卓の目玉焼きかもしれない、焼きすぎて白身は縁が黒くカリカリになり、黄身も厚ぼったい白い皮膜に覆われすっかりかたくなってご主人を小さく嘆息させているかもしれない、ことばにはださないだろうけれど。
 その頃には外ではもう車の行き交う音が響き、みんなは急ぎ足になり、鼻腔をよぎる微かな香りや味蕾をかすめる味わいに気を止めるゆとりは捨てられ吹き飛び、生きるための生活の糧を求めて誰もが世界に飛び込んでいく。
 香りはひとまず台所の高い棚の上、庭の隅のひっそりした暗がりに取り残される。忘れられたわけでない、また次の朝に取りだされだいじそうに手のひらに乗せられ吟味され、生きる喜びとしてふくらみ輝く。そのまた次の日も。


菜園便り335

 ときおり古典に思いをはせたりすることは誰にもあることだろうけれど、なかなかひもといてみるところまではいかない。今年の新年の講演に、古典も含めあれこれ短歌を取りこんだ流れで、図書館から新古今集を借りだしてきたけれど、あまりの作品数の多さにぱたんと閉じたままになってしまった。藤原定家や式士内親王のをいくつか確認しただけでもよしとするか、なんてことになってしまう。そんなことに自分でもあきれたのか、新刊紹介の棚にあった古事記に関する本を手に取ってみた。著者名には馴染みがなかったけれど、なかみはとてもおもしろくて、その繋がりで同じ著者の「口語訳 古事記」にたどり着いた。
 おそらく去年読んだ長谷川宏の「日本精神史」のことも気になっていたのだろう。そこにも万葉集古事記から始まる流れがあり、宗教や思想だけでなく詩(長歌、短歌)や仏教彫刻、絵画といったものの美意識の繋がりも取りこまれていた。人柄を思わせるとても好感のもてる平易な語り口だし、上手にまとめられていてすらすら読んでいけるのだけれど、例えば仏像などは、高度な技術的成熟で洗練の極みにあり高い精神性を表しているというような表現がくり返されるのは気になってしまった。この著者の世代に顕著な、根源まで、徹底して問い返すラディカルさは「美術」のまえで影を潜めているようにも思える。
 同時代者に顕著だった、歯に衣着せぬ攻撃や罵倒としか思えない対応からすると牧歌的にさえみえるような穏やかさで、それはエッセイなどに顕著な著者の一面、時代や「業界」の流れからも自由な面が見えてほっとさせられるものだった。「精神性」ということばそれ自体の検証や「美」や「美術」そのものへの終わりのない問い、語ると同時に問うている構造がないままに、決定的ともいえる評価の軸を据えてしまうことの危うさを感じつつ、でもそういうことばでしかうまく語れないものも、文章の向こうに見える。観念の袋小路に迷い込まずに、抽象的な空回りでない、全体を動的なまま丸ごと捉えたいという、かなわない願いでもあるのだろう。
 古事記に記されている名前の連なりそれ自体が詩だと思ったりもする。オオヤマトタラシヒコクニオシヒト、ハタノヤシロノスクネ、ソガノイシカワノスクネ、ヘグリノツクノスクネ、カヅラキノナガエノソツビコ、サホノオクラヒトメなんて名前がずらずらとでてくる。最初は面くらう。それぞれのことばにはもちろん意味があって、地名や出自、性別、父親の名、姉弟のなかでの順位などなどを表してはいる。でもひとつひとつ声にだすような感じで読んでいると音の響きや連なりが歌のようにも祝詞のようにも聞こえてくる。
 子どもの頃、教科書で知ったものもでてくる。
やくも立つ いづもやへがき
妻ごみに やへがきつくる
そのやへがきを
 そういう歌の前で立ち止まる。授業の記憶だけではないもの、喚起させられるものがたしかにある。 
 なにもできなくてただ遠い山並みに手を振る、そういう詩をふいに思いだす。

 

菜園便り336
5月19日

 遅れに遅れた夏野菜の植えつけを、といってもほとんどトマトの苗だけだけれど、5月も半ばを過ぎてやっていると、鉢の土のなかなから玉虫がでてきた。輝きのある部分だけの、甲冑の形そのままの抜け殻といった姿だった。背の側は突端の頭の部分をのぞいた胸と、腹を覆う羽根の全体が暗緑の深い翡翠色と微かに紅の混じる柿茶色のストライプで彩られ金色に輝いている。腹側は胸の部分の甲冑状の部分だけが1本の足と共に残っている。足も暗緑色で輝きがある。
 腹はすっかりなくなっているので、硬い羽根の内側に腹の外皮だけが中身をくりぬいたようにきれいに半分だけ残り、暗くくすんでいるのがみえる。金属的な輝きがないから、この部分はもうじき腐食が進んでぼろぼろと壊れて消えていくのかもしれない。
 それにしても土のなかに埋もれていっそう腐敗が進んだろうに、こんな形できちんと残っていることに驚かされる。玉虫厨子などのレプリカは見ていたけれど、特別な処理をせずともこの甲虫の外殻は長く残っていくもののようだ。蝉の抜け殻も乾燥させてさえおけばずっと同じ状態を保っている。こういった薄いもの壊れそうなものがと、不思議や驚きにうたれる。
 玉虫は子どもの頃はこの辺にもたくさんいたからよく採っていた。それは日常的でおもしろみがない蝉ほどではないけれど、カミキリムシと同じくらいの、ちょっと好奇心をそそられる珍しい色や輝きといったていどだった。蝶のようにうっとりとみつめ、緊張して震える指で展翅して長くとどめておくほどの気持にはなれなかった。甲虫類は防腐処理がめんどくさかったし、捕らえている箱のなかが臭くなるのも厭だったのだろう。
 今は蝶の大型で鱗粉に覆われた、優雅というよりデコラティブな派手さをどこかで忌避する気持もある。甲虫の硬質感や輝きや金属的ゆえの脆さみたいなものに惹かれるのかもしれない。カブトムシなどの大型の甲虫の持つ厚ぼったさや威圧的でどこか鈍重な感じも、今は厭になっている。あまりにもありふれていて、光にすぐに集まってきてうるさいだけだった黄金虫は、あの銀緑色の輝きに惹きつけられるようになった。こういう嗜好も時代の変化や流れなのか、長く生きてあれこれ見てきた結果なのだろうか。
 他に夏野菜で植えたのは紫蘇とバジルだけ。胡瓜もゴーヤも茄子もオクラもない。今も伸びているルッコラやレタスを加えても、今年の夏野菜はさみしいかぎりだ。

 

菜園便り337 6月6日
鳥の骸、雀の死

 裏玄関の横にある、雨水をためる水瓶のなかに雀が浮かんでいた。濡れて黒ずんで縞模様もはっきりとはわからない。下を向いていたので顔は見ないですんだ。水をのみに来て落ちたのかとも思ったけれど、いくらなんでも飛ぶ鳥がそんな滑稽な失敗は犯さないだろうから、屋根か庇に死んで横たわっていたのが強かった雨で流され樋を伝ってきたのだろう。小さな死。
 荒れ放題の庭だし、毎日猫もくるけれど、訪れる鳥の数は少なくない。敬遠している鴉や鳩は別にして、いろんな小さな鳥がやってきて楽しませてくれる。ルリビタキや鵯が死んでいたのはこの季節だったかと記憶をたどっていて、あれらの骸を庭の隅に埋めたことを思いだした。それで、ちょっと気味悪く感じていた水に浮かぶ小鳥も、おだやかに見つめ、取りだして埋める気持になれた。
 古代エジプトの墓に花が飾ってあったことがメディアに大きく取りあげられたことも思いだしたので、盛りあがった土の上に庭の花を3つほど置いた。「人類」の形成と共に先ず死を、つまり死骸を遠ざけること、そして埋葬すること、その後に悼むことがでてくる、とその記事にはあった気がする。なにを悼むのだろうか。消えた生、だろうか。死そのものを哀れに思うのだろうか。なくなったこと、つまり喪失を悲しむのだろうか。
 季節毎にきちんと木々は葉を散らす。落葉樹は秋の終わり、常緑樹は晩春に大量の葉を散らし新しい芽吹きに備え、次の世代へと託していく。動物にも死の季節はあるのだろうか。種の保存の為の、産卵、出産という生の再生産の後に死ぬことは多い。鮭は産卵とともに力尽きて川を流されていく、カマキリは産卵のための蛋白源として食べられる、といわれる。いつ死ぬのか、どこで死ぬのか、そいう問いは神話的なまでの物語をうみ、象の墓場を巡るおとぎ話も少なくなかった。
 雀を埋葬して悼んだあと、あれこれをすませて買い物にでると、すでに青々と30センチほどにも伸びた稲が続く田んぼの端、幾棟もの家が新しく建った角に雀の死骸が横たわっていた。もう数日は経っているようで、半分ひからびていた。なんだかうっかり間違った時期に死んでしまってほうっておかれている、そんな気配さえある。雀の死の季節なのだろうかと、たったふたつの骸でそう思ったりもする。
 梅雨ももうすぐだ。


菜園便り338 
8月8日

 季節の移りかわりをよく伝えてくるのは風だけれど、植物、特に稲はぐいと突きつけるほどにも存在を主張して時が動いていくのを押しつけてくる。水田は見渡すほどに広がって視覚を占領しているし、ぼくらくらいの世代までは、お米は貴重な民族の主食、という思いもあるからなのだろう。あれこれ思うことも少なくないし、そういう水田や畑の広がる場では、なにかしら敬虔な気持ちにもなったりする。厳しい労働、という思いも世代的に抜きがたくある。
 そばを通るたびに驚かされるのは、その変化が早い、つまり成長の勢いがすごいということだ。2寸にも満たないような小さくひょろりとした、色もうす黄緑色の華奢な苗が箱詰めされ小型のトラクターに斜めに差し込まれてカチャンカチャンと植えられていくさまはなんだか滑稽でもある。おいおいだいじょうぶか、なんて声をかけてしまいそうになる。極早稲種なのだろう4月半ばにはもう田植えが終わっている。そうしてまたたくまに伸びて濃い緑の堅くたくましい茎となり、穂をつけ小さな白い花を一瞬だけ開いて受粉し一気に実りへと向かっていく。
 昔のままの種の田植えは6月も後半だったりするから植えられたばかりのほっそりとした苗の隣に猛々しいまでの、開花した穂が茂っていたりする。そんな不思議な光景も今ではありきたりのものになった。なにもかもがかわっていく。生の根幹を支えるのだろう食の生産もその現場もたちまちに移っていく。いろいろなものをその場の効率や損得だけでないがしろにし切り捨ててなにが残るのだろう。食べること、つまり生体の代謝を行わない個体という単純な細胞という生の形を再び選ぶのだろうか。
 散歩の途中でつらつらと思うそういうことを書きかけて、でも一昨年にも全く同じことを書いていたんじゃなかったろうかと、そのままパソコンの納戸の棚に放置され・・・書きかけの菜園便りはそういうものが多い。
 だから田植えのもっと前の、冬の作物が終わった時のこと、つまり二毛作で植えられていた麦の収穫のこともメモが残っていたりする。このあたりで菜種の栽培をみることはもう完全になくなった。麦もごく一部でだけ続けられている。農政のことや農協のことなどの生々しい「経済」はあずかり知らぬことだからみえないままに通り過ぎるとしても、たった4、50年での激変のつけはいつどのような形で襲ってくるのだろうかと怖くなる。
 稲は4月に田植えの極早稲が主流になっているから、5、6月の麦秋、収穫をのんびり待つ麦の栽培はごく少数派になっている。すでに青々と育った稲の横で、乾いた音を立てて風に揺れている麦の黄金色は強いコントラストを描く。
収穫用のトラクターは稲作のと違ってなんだか甲虫を、それもぎくしゃくした不器用な動きしかできない甲虫を思わせる。ちょっと滑稽な奇妙なかわいさもある、いびつ小形装甲車みたいでもある。黄金色の麦畑の、そういう甲虫みたいなトラクターということになればいやでも「風の谷のナウシカ」が浮かんだりもする。
 ぎくしゃくとでもかなりのスピードで強引に狭い畑を走り回るトラクターは中途半端な長さで麦を刈り取り、取り込み、でも実だけを選別収穫し、道路に止まっているトラックにクレーンのようなパイプを通して流し込んでいく。切り刻まれた茎や葉は畑にまき散らされていく。紛れ込んだ長いままの穂をぶるんぶるんと振り払ったりもする、まるで犬が水を振り払うような仕草で。道に吹き飛ばされてきたそういう穂を何本か拾う。
 かつての、根本から刈られ一握りほどの束にされて整然と並んで横たえられていた稲穂が思いおこされる。なめらかな一連の動作、どこにもある稲わらを使ってくるくるっと巻いて折り込むだけ、それでもうしっかり縛られている。後の作業を楽にし、材料も同じものだから処理も簡単、なんという創意、長い時間のなかで培われた文化、そうしてそういったものが瞬く間に姿を消していく。そもそもの田んぼ自体が売り払われ宅地になっていく。長い時間のなかで一握りでも多い収穫を、強い米をと改良されて培われてきた土壌の構造が、土そのものが圃場整備やトラクターの使用で徐々に劣化していく。もうもとには戻れんなあ、と誰もが口にしているのだろう。「落ち穂拾い」という映画がまた思いだされる、膝を折って落ち穂拾いをさせてくれと乞おうにも、もう作物が、場そのものが消えてしまっているのだ。


菜園だより339
8月31日

 日が短くなり季節が移ってゆく。昼間の渦巻いているような熱気の底に、かすかなひんやりとした塊が感じられる。もうじきそこから静かに風が吹き始めるのだろう。
 植物も動物も寒さへの準備を始めている。
 生き延びるのはたいへんなことだとあらためて思わせられる
 羽が短く、細くて小さな蚊がぶんぶん飛び回る、真正面から一直線に顔に飛びかかってくるからすばしこいのに一瞬で払われてしまう。最も二酸化炭素の濃度が高い方にと闇雲に向かっているのだろうか。羽音も高音で耳障りだからたちまち警戒され、身構えられてしまう。とにかく吸血、産卵、次世代を残す、という植え込まれたプログラムで焦っているのだろう。日照時間も暑さも獲物もたっぷりとあってのんびりしていた先行世代から、静かに足下から人を襲う、といった技術を受け取る間もなかったのかもしれない。それとも「大人」を鬱陶しく思って、貴重な忠告を聞き捨ててきたのだろうか。嫌でも季節の、時間のつけが回ってくる。大きな水源ではもう孵化するまでに水温が上がらなくなってきた、草のなかの小さな水たまりに産卵してがんばるしかない。でも熱がこもりすぎると蒸発してしまって元も子もなくなる、悩ましい。
 あちらもこちらもどこにでも張られる蜘蛛の巣、それも季節を告げる。今までは一度か二度破られるとそこは避けて張っていたのが、なりふり構わず張り続ける。通り道だからその度に払うしかない。それでも張っている。人が通る道筋はそれなりに開けているから、虫たちもより多く飛び交うのだろう。蚊よりはずっと長い命を持つ彼らも、次世代のこと、短くなる日射しのこと、気温のこと、越冬のことを考えているのだろう。ここは大きなぼろ屋だから様々な隠れる隅っこはあるけれど、九州とはいえ、冬はつらいだろう。
 蟻もどこにでも現れて人を驚かす。思いもかけない、たとえば食べ物などかけらもないパソコンまわりにも出没したりする。今年はいったいに蟻を見かけることが少なかった。何匹もが台所のテーブルの上を右往左往している、なんてことはなかった。強い雨で巣が水浸しになり、流されのかもしれない。あまりにも古くなり動きのなくなった家は魅力がないのかもしれない。それとも強い外来種に押されてテリトリーを失いつつあるのだろうか。世界はいずれカラスとカモメの最終決戦になるいわれてるけれど、どちらが勝っても小さな生き物には関係のないことだろう。
 水田ではもう稲刈りが終わっていた。しばらくぶりに歩いていて最初は気づかなかった。刈り取られた後の株から生えたひこばえがもう20センチほども伸びて青々と一面に広がっているから、なんだか妙な気はしつつも、すでに刈り取られているのがわからなかった。極早稲種は、稲穂はそれなりに黄色くなるけれど、茎や葉は最後までかなり緑の色を残しているから、素人には収穫時期だと気づけなかったのだろう。おまけに隣りあった田んぼにはかつてと同じ種が植えられていて、そこはやっと開花した青い稲穂が揺れているから、まだまだどこも稲が青々と広がっているように見えてしまったのだろう。
 庭のテイカカヅラが咲き始めた。短く切ってコップにさすと盛り上がり溢れこぼれるような形におさまって美しい。名前の「テイカ」は定家、つまり藤原定家からきているのだろうか。先日の前崎さんの話にもでてきた名前なので、ついそう思ったりもする。東アジア原産らしいから、定家の小倉山荘のまわりに静かに咲いていたこともありえなくはない。まさか「定価」ではないだろうし、「低花」だろうか。
 海も沖の方は深い群青色を見せている。時々しんとする空がある。

 

菜園便り340
11月7日

 夕暮れになり陽が落ちていくとたちまちひんやりとした空気に足首を捕まれてちょっと立ちすくんでしまう。空も澄み海も濃く、季節が確実に移っていくのがみえる。これからなにもかもが冷たさに覆われていくのかと思うと、荒れた庭に生い茂って枯れ始めた茅にさえ親しみがわく。乾いて色をかえたものは軽くそうしてあたたかく見える。ずっと昔、青函連絡船で北海道に渡ったとき、そこから急に雪に覆われ凍りついた地面が始まったように感じられ、直前の青森が雪もあり寒いけれどなんだか乾いて湿っていない地表として意識されたことを思いだしたりした。
 この季節、樫が毎日どっさりと青い葉を散らし、もう茶色に色づいた堅いどんぐりを落とす。松もつやつやと光る黄色い葉をまき散らし、プロペラのついたはかなげなベージュ色の種を風に乗せている。玄関前にも勝手口横の海へ抜ける路地にも落ち葉が吹きたまる。
 毎年同じことを書いているようだけれど、季節をとてもリアルに感じるいちばんのできごとだからだろう。寒いといっても九州の冬だから、そこかしこに常緑樹の緑が溢れていて、枯れるもの散っていくものが際だつのかもしれない。
 雪も積もらない庭の芝生はどこかに緑色の反映を残したまま冬を越しいつの間にかまたもと青々とした広がりに戻っていくのだろうし、その芝に置かれたプランターのレタスやパセリは冬の間も少しずつでも葉を伸ばし続ける。ラベンダーも生い茂って香りを放ちつつまた春を迎えるだろう。
 庭を占拠しつつある茅に唯一拮抗しながら陣地を死守しているマツバギクは、地表を這うようなその厚い葉肉の広がりのそこかしこに濃いピンクの花をつけている。冬の間もずっと続いて応接間のカフェのテーブルを飾ってくれるだろう。陽の当たる側では石蕗が鮮やかな黄色の花を開き、その側には白いミゾソバが連なっている。春にいただいた鉢植えのオリーブも少しくすんだ銀色の葉裏をみせている。
 冷たさは痛い、寒さは恐い、心も体もちぢこまりこわばって動けなくなる、自由をうしなう。

 

菜園便り341
11月22日

 数年ぶりに玄関脇の庭木の枝落としをやってもらった。シルバー人材センターというところにやってもらったのだけれど、以前依頼した時に、「剪定はできません、あくまで枝落としです」といわれて、そういうものかと納得していたので、今回は最初から枝落としお願いしますと頼んだ。伸びすぎて電線にも触れそうになっている枝々を落としてもらいたいと見積もりにみえた人に頼む。注文が多くて忙しいらしく、申し込みからふた月ほどたった先週、6人の大所帯でみえた。切る人、片づける人、トラックに積み込む人と、てきぱきあっという間に2時間たらずで終わった。12尺と呼ばれている高い脚立も使われていて、みているだけでも怖くなる。「枝落とし」でなく「枝払い」ということばを使う人もあった。切り落とした枝はもちろん廃棄してくれる。
 始める前に、玄関わきに小さな恵比須様を祀った祠があるのをみて、周りの木々を刈るので、さわりがあるといけないのでオシオイをお願いしますといわれ、酒や塩を振ったり供えたりしたけれど、彼らとしては玄関わきに下げてある御潮斎(オシオイ)をぱっと振りたいだけのことだったのかもしれない。御潮斎のことはすっかり失念していた。父がいるときは毎年箱崎宮の浜まで御潮斎を取りに行って玄関わきの竹で編んタボに入れて下げ、出かけるときには必ず自分に振りかけていた。そういうちょっとした厄払いの祈りももう大方の人がやらなくなって久しい。
 たまたま県の文化財調査の時期に重なったので、少しは見栄えよくしようと荒れた庭の茅の草刈りもやった。物置にしまいっぱなしの草刈り機も引っ張り出しての作業。玉乃井保存プロジェクトの面々も手伝いに来てくれた。思いきってもう一歩踏み込む、もっと深く切り込むといった意気込みで進め、枯草や落とした枝の山がいくつもできた。庭はちょっと寒々しいほどまで刈りこまれ、見違えるようだ。
 やったことのある人はわかるけれど、ちょっと枝落とししただけでも驚くほどの枝の山ができ、「ええこんなんに!」ということになる。それと同じことでもあるけれど「こんなに山ができたのに、どの木の枝が切られたの?庭のどこがすっきりしたの?」ということにもなる。そうして後片づけでそれらを市の指定場所に捨てに行かなくてはならず、それにはトラックが必要で、とうぜん手伝ってくれ人が必要で・・・悩ましいことばかりだ。ちょっと草を刈る、枝を落とすということも簡単にはすまない。父のころはそこらに放置して枯れたころを見計らって庭で盛大に燃していたけれど。
 7年前に亡くなられた中村さんが玉乃井に下宿されている頃は草刈りやちょっとした修理をやってくれた。農家の出身だから鎌は使い慣れてあったし、当時の仕事柄地面を扱うのにも慣れてあっていろんなことをやってもらった。海側の板塀は山本さんが作ってくれたけれど、しっかりした基礎は中村さんが工事して設えてくれた。
 それもこれも遠いことだ。

 

菜園便り342
11月25日

 黄昏時はなにもかもがシンとして美しい。
 大きな椅子に埋まるようにして座っていた図書館のカフェもいつのまにかどこか遠い果てに流されている。大きな窓の向こうには芝生をはさんで広い駐車場がみえる。建物のファサードハザードランプを点滅している灰色のセダンは、永遠になにかを待ち続けて蹲っているかのようだ。真正面からヘッドライトを一瞬投じて方向をかえ、ゆっくりとカーブしながら現れたのは深い群青色の旧いフォルクスワーゲン。名残惜しげにテールランプを光らせて出ていき濃くなった夕闇にたちまちとけこんでその姿を消していく。通りには車の姿もなく歩く人もひとりとして見えない。誰もが遠くへと去ったのだ。
 桜の季節の図書館のロビーはいつのまにか次元がずれてしまう。天井までの大きなガラス窓がゆったりとスクリーンのように湾曲しているから、その向こうの桜の重なりが窓いっぱいに溢れる。開口部が多いつくりだから、どこからも桜と空がのぞいてロビー全体が浮かんでいるようだ。ちょっとした高所恐怖で足もすくんでしまう。
 空に浮かび桜色に包まれる恍惚。
 どこにも黄昏時があり逢魔ヶ辻があるように、ふいに建物も人も浮遊し、どこかへ流されてそうして消えていく。  

 

菜園だより343
2018年2月1日

 障子張りは家事のひとつだけれど、どこか季節の行事めいていて、作業じたいもなにかしら儀式的な仕草にも思えたりする。どこでも年の暮れにやるのがいちばん多いのだろう。我が家では、新しい紙をとおした白い光のなかで新年をということがなくなってからは、必要に迫られてという、散文的な事情での張替えになってしまった。でもどこかに少し特別な気持ちも残っていて、なにかがあらたまる、そういう思いにもなる。
 いつも思うけれど、ふたりでやるとすごくやりやすいだろう。誰れかが向こうで紙を押さえてくれれば一回でぴっと障子面に乗せられ、すっきり張れる、と。ないものねだりであれこれいってもしょうがない、とにかくやらなくては、年末に一気に紙をはいで洗うまでいったのにそのあと止まったまで1月も過ぎようとしている、こんなことでは冬も終わってしまう。
 気持ちに余裕もなにもないせいで、今回も音楽はなかった。頭のなかで勝手に鳴っていたのはプラターズの「煙が目にしみる」で、これは出典もわかっていて、「さざなみ」のシャーロット・ランプリングだ。でもほんとに耳に響いていたのはは「Only you」のほうだった(こういう屈折だか抑圧だかはいつだって奇妙で滑稽だけれど)。同じプラターズの、すごくシンプルで直接的なフレーズ、子供にもわかりやすい英語だったから、昔からずっと頭に貼りついて離れない、ほとんど歌謡曲だ、でも嫌じゃない。誰れのなかにも一度はあふれ、惜しげもなく解き放たれ投げられ注がれたことばだろう。
 ばたばたと2枚を午前中にはって、糊がきれて買いだしの後、午後に2枚。やり始めるとあっという間だけれど、取りかかってからはひと月以上。今までになくひどい仕上がりだけれど、それもまた味だと思って、やり直そうなんて無謀な気持ちは抑え込む。ビリー・ホリデイモーツァルトを聴きながらやったらもう少しうまくいっただろうか。
 誰れかが、家事とか地域の「誰かがやらなくてはならないこと」をやってくれている。そういった人がいるから日常は保たれ、美しさや秩序(制度ではなく)が再び生みだされ、生活や世界が混とんのなかに落ち込んでしまうのをぎりぎりで防いでくれている。そういうことにも思いを馳せる。自分にはとうていできないことだけれど、せめてはそうい人たへの尊敬と感謝だけは持ち続けたいと念じる。日常のなかで、あるいは突然の大凶事の前でたちまちに失われてしまいそうになることだけれど。


菜園だより344
2月12日

 廊下の温度計が零下2度を指している。家のなかが零下、あまりのことに、他の寒暖計も見てまわると応接室のがちょうど零度、台所のが2度だった。温度計がいくつもあることもなんだかおかしいけれど、それぞれがバラバラなのも滑稽だ。でもそれほど気にならない。デジタルな数字でないからというわけでもない。家のなかあちこちに置いている時計もけっこうバラバラな時間をさしている。一度はどれも同じ時刻、つまり実時間より5分早めた時刻に設定したのだけれど、時の流れは静かにでも確実にそれぞれの時計事情を映しだし、かすかに遅れ大幅に進みとさまざまだ。


 そんなことを書き始めたら大寒波、指も心も、ついでに庭の水がめも凍って固まってしまった。
 底冷えの日は続いているけれど、なにがなんでも洗濯をしなくてはと曇り日に決死の思いで始めると雪、かなり舞っているから外には干せないなあと庭を眺めていると、そんななか爽やかに空をきって飛ぶ鳥もいる。鋭い鳴き声から鵯と知れたけれど、冬はどこもこの騒がしい鳥ばかりだ。あきれてヤックヤックバードと名づけた人もいたけれど、どう綴るのかも聞かないままに終わった。人懐こくてかわいかったあのオレンジのジョウビタキはもう春の故郷へ帰ってしまったのだろうか。
 返却が大幅に遅れている本を抱えて図書館への道、小さな川に沿って歩いていると鮮やかなコバルト色、なんとカワセミだ。水面すれすれにスッと抜けていく。慌てて追いかけると、少し先の護岸に止まっている、近づくとまたスッと先へと飛び去る。まるで誘かれているようだ、なんて思う。今度は対岸に止まってじっとこっちを見て動かない。正面から見つめると、体の大きさの割に頭が大きいし、そしてなによりくちばしが長すぎる、なんて思ってしまう。色もサファイアにもたとえられるあのまばゆいほどの輝きはなく全体にくすんで見える。彼らも冬はつらいのだろうか。飛んでいるときのあの惜しげもなく放たれる豪奢はない。あの澄みきった空色の光だけでつくられて乱反射する輝きはない。キッチュなまでの蛍光色系の、どこか鱗粉を思わせるギラリとした光、はみえない。
 河口も近く海水が上がってくるあたりだから餌も多いのか、いろんな鳥がいる。どこにもいるセキレイ、雀、もちろん鵯もいる、そうしてなんとカササギも来ていた。お決まりどうりすぐそばに対のもう一羽がいる。川沿いのみごとにつくられたイギリス風の庭にはジョウビタキがいた。
 レモンが実り、まだ茎葉だけの猛々しいバードインパラダイスもある。極楽鳥花とよぶのだろうか、いかにも、熱帯の鳥を模した熱帯の花といった姿と色だ。でもヒクイドリという名前がふいに立ちあがってきたのはなぜだろう、初めて見た時らしいがっかりした思いまでよみがえってくる。でもその瞬間だけの記憶しかないから、いつのことかも自分でもよくはわからないけれど。
 いく羽もの鳥を見てなんだかあたたかい気持ちになって図書館で本を返し、お茶をのんでまた帰ってくると、薄暗くなりかけた川のなかを白鷺が一羽ゆっくりと歩いていた。


菜園便り345
3月20日

 久しぶりの奥泉光、しかも久しぶりの純粋推理小説、「雪の階」。とってもおもしろい。厚い本だけれどずんずん進んで、たちまちにページが減っていくのが残念だった。得意とする戦中もので、まあ思わせぶりに引きつけてはぐいぐい引っ張っていく、あれよあれよというまに読者は昭和11年の雪の東京まで行きついてしまう、さあ、何が起こるのか、起こったのか、謎は謎をよんで・・・堂上華族の娘を中心に陸軍の将校や近衛兵、有象無象の政治家、国士、財界人、葛藤、滑稽、渾沌、諧謔、諦念・・・。
 一方ではひどく平板な日常の細部の穏やかさも描かれる、平凡がいちばん輝いているのだ、凡庸こそが力だと。あっけらかんとした健康さ、ほどほどの幸せ、生きることの喜びと苦しさもひろげられている。
 どうなろうと(どうなったかは歴史の今にいる読者は知っているのだけれど)、そこにはいつもふてぶてしいまでに傲岸な父も、虚弱で気鬱の息子も、怠惰で美しい娘も、勤勉で辛辣な伯母もいるし、やさしく支えてくれる叔父も必ずいる、神話そのままに。母は、でもここには現れない。娘がすでにして母なのかもしれない・・・かなあ・・・。
 創られる虚構のあまりのみごとさに、これからどうなるんだろうと、「歴史」小説にもかかわらずあらぬ期待も起こる。どこかでこれこそがほんとは起こったことなんだとも思う、というか、これも起こったことなんだと思う。描かれる事件、「実際に」起こったことよりもその産みだされた時代の空気に取り込まれ呑みこまれていく、あってほしかった、あるべき世界。
 そうだろうか。
 時間軸の揺れ、行きつ戻りつが全くないのは残念だ。ふいに現在と過去が暗がりでスルリとつながって、かつてのまたは逆に今の誰かが闇の向こうに見え隠れするといった、奥泉作品定番の時間ループが起こらない。ああ、あの時自分が見た不思議な影は今のこの自分だったのだと、驚愕しながらもどこか既読の事実としてわかっていたと感じる、あの不思議ででも安穏に包まれていくような設定がなかったのは少し淋しかったけれど、でもそれでも十分にミステリアスというか猟奇的というか不安ゾクゾクわくわくの世界が展開されていて、いつのまにか終わっていたことにも気づかずにぼんやりと夕暮れの中にたたずんでいる自分をどこかの自分が見ていて、夕焼けに染まる影はここでありそうしてそこでもあるのだと自身で説得しながらも、でもそうではないのだろうと確信しているのもまた自分である。


菜園便り346 2018年3月31日
「受けいれる勁さ」①

 「受けいれる勁さ」というものがあることを、映画「亀も空を飛ぶ」でまるで初めてのように知らされた。その時はどういうことなのかよくわからなかったし、なんと呼んでいいのかもわからなかった。今までも、いろんな人がいろんなことばで呼んできたのだろう。<でくのぼう>と名づけた人もいる、ホロコーストを受けいれよう、と呼びかける人もいる。
 そのときは映画のことをこんな風に書いている。
亀も空を飛ぶ - 深みへと届く力」
 どことは名ざせない自分の内の深みを、静かにでも思いがけないほど強く強くうつ映画だ。子供たちをとおして世界が描かれるから、いろんなことが痛いほど剥きだしになる。・・・
 戦争や悲惨といった素材やエピソードによってではなく、表現の地鳴りのようなものでみている者を大きな力で揺するから、そこにことばでない共振が生まれる。・・・
 映画のなかで悲劇的な結末を迎える少女の底なしの絶望を前に誰もがことばを失うしかない。けれども不思議なことに、こんなにも深い絶望と共に、それを受け止める力も映画はそっと差し出していて、わたくしたちは知らないままにそれを受けとっている。終わった後に、勁さや明るさの印象さえ持つのはそういう力ゆえだろう。世界はこんなにもでたらめで酷たらしいけれど、そこにはわずかであれ喜びも美しさもある、その両方で成り立っている以上、今は両方を取るしかないんだと穏やかに諭すかのように。
 亀も空を飛ぶ、わたくしたちも冷たい水をくぐっていく。希望とか未来とかいう期限切れのことばでなく、まだ見えぬ知らぬ、でも誰もが持っている新鮮であたたかなものに支えられて。世界は生きるに値するんだよとなにかがそっと囁く。
                       映画評(「文さんの映画をみた日」より)
 ここでは「受け止める力」ということばを使っている。「誰かがやらなくてはならない仕事があるとき、じゃあ誰かがやるだろうと思う人と、じゃあやりましょうと始める人といる」と書いた人もいる。ぼくはそういうあり方に驚き、まるでそういうことを初めて知ったように感じて畏敬の念を持ったのかもしれない。
 「受けいれる」ということばは受け身的な表現に聞こえるけれど、もっと無意識的で生きる姿勢そのもののことだろう。例えば地域での溝掃除といった、やらないと溝が溢れて生活ができなくなってしまうというようなときに、すでにしてやり始めているような人のことだ。論理的に考えた結果や、奉仕の精神でやらねばならないからやるのでなく、いつの間にか自然にそういうことを始めている人、そのありかた。まわりからは特別な尊敬もうけず、時にはいいように使われて、でもそういうことすらも気にすることなくまた次の「誰かがやらなければならない仕事」を手に取っている、体がそんなふうに動いている。つまり今でなく先を感じている、自然にそういう方を向いている、前を、そういう人。
 ぼく自身が権利意識の強い世代に属しているから、そういことがいっそう新鮮に映ったのだろう。若いころは「地獄への道は善意でうずめられている」が金科玉条だった。貧しいヒロイズムとその裏の世界や人へのもたれかかるまでの依存と期待があった。
 霊長目ヒト科ヒトはどうしようもない種だ。膨れあがる欲望を押さえられず、争いは絶えない。自分たちがそういう存在だと感じて危機感を持った者たちが道徳や倫理を思い宗教をつくり掟や法や制度を築きながら、でも一方では善き「受けいれる人」を待ち望み、それでかろうじて社会は維持されてきたのだろうか。制度は回り道でしかない。
 「うけいれる勁さ」は生来のものだろうけれど、でも家族や近隣に丁寧にかかわり、日常をこそだいじにし、家事を継続してきちんとこなしていくことで少しずつ培われるものかもしれない。家事は地域での溝掃除と同じで、誰かがいつもやらないと家のなかが混乱し住めなくなってしまう。外での、<都市>の仕事に力を使い果たすのではなく、生きることに生活にきちんと向きあって、慈しむことをめざしていくことだろう。

 

暑中お見舞い!
気がつけばもう一部地域ではお盆も終わっていますが、暑さはこれから本番です。玉乃井も台風や豪雨の修理はこれから、心身ともにアツイ日が続きそうです。
みなさんも無理のないように、しのぎしのぎこの夏を過ごしてください。
プランターだけの菜園にもトマトは実り、ひとりの食卓に毎日彩りと喜びを届けてくれます。なにかに、おおいなるものにではなく、ささやかなでもたいせつなものに感謝をささげたくなります。単純でそうして限りなく深いものの前に、ひざを折り頭をたれて。


菜園便り347

  なぜ考えるのだろう、なぜことばにして語ったり書いたりするのだろう。
 「受けいれる勁さ」とでもよぶしかないことを、最初で最後の一回限りの「玉乃井塾」で松井さんと語ろうとしてみたけれど、なかなかに難しい。世界には論理化したり整合的に語ったりできないことが当然のようにあるのだと、あらためて思わせられる。松井さんとは水平塾からの長いつきあいで、「9月の会」という研鑽会も松井さんが続けてくれていて、もう60回ほどになるし、関心の傾向も似ているけれど、それでも難しいということは、もう不可能だということかもしれない。
 例えば生死といったこと。脳死などの判断に顕著な、どこからが死なのかという境界の曖昧さへの疑問から、そもそも生きているとはどんな状態なのか、生命とはなんなのか、そうして人の生死そのものを問い返しても答えはない。その都度の、時代ごとの仮の定義があるだけだ。
 個体識別を含めた「自・他」の認識への疑問も同じだろう。どこからが他者なのか、そもそも自分とはなんなのか。もちろん答えはないし、そういう問い自体が過剰に「概念」に傾いた今の時代の異様な思考の型なのだろう、とも思う。
 「雌雄という性別」も生物学的で絶対的に思えるけれど、それらも現在流通している認識かのなかで同時的に組み立てらえた考え方でしかない。そういう枠組みの世界のなかにいる以上、そうとしか思えないだけであるという発想は、ものごとを相対化し、差別などへの対抗にもなりうるけれど、そういう「根源的」に考えようとする発想そのものが、特定の時代のなかのひとつの極端な整合化でもあるのだろう。
 直感的にとでもいうしかない感受で、そういった「現実」への強い異和を持ちつつも、でも先ず、「現状」を「事実」を冷静に受け止めることが先決なのだろうけど、一気に発想を突き詰めて<生の常識>からも大きく逸脱してしまうのは、結局、世界がこんなふうになってしまっていることの要因と同根の、同じ発想の裏表でしかないのだろう。「批評」は近代の業病でしかない。
 でもそういう極端さ、つまり根源主義みたいなことにどうしても惹きつけられてしまうのはなぜだろう。60年代世代(シクスティーズ)、団塊世代全共闘世代などと呼ばれた世代はラディカリズムを標榜し、それは当時は、議会主義への反発としての<暴力的>という発想が強かったのが、少し冷静な場では<徹底的>、つまり根源的という意味にとらえられ、だから考えるということも徹底する、現在の思考の前提や枠組みも完全に取っ払うという極端さ、不可能さへ突き進んでしまう。この時代では考え得ないことを、思考のなかで現在の枠組みを乗り越えられると過信してしまう。例えばセクシュアリティのことを考えるとき、どうしても立ちはだかる最大の壁が「性別」であり、そこからすべての問題が発している以上、そこまで捉え返し、取り払ってしまうといったこと。もちろん考えの方向は正しいし、試みとしては必要なことだけれど、でも一気に極端へと傾いてしまう。
 なにかに囚われてしまうのは、時代や場所を限定した狭い考えでしかないからだ、といった、たとえ正解であっても無意味にしかなりえない発想で、現在を全否定しようとするような「徹底性」には、おそらくたどりつける場はない。そういう超観念的なものこそが、束縛されない、自由で根源的で徹底した思考だと思いこむことも、この世代に過剰な権利意識の故なのかもしれない。その厄介な権利意識もまた、根源的な「平等でなくてはいけない」という人への慈しみの現れでもあるから、いっそう絡まりあってしまうのだろう。


菜園便り348

 先日、友人から絵画作品を落札したというメールが届いた。うーーーんまあまあだね、といった抑えたニュアンスだったからいっそうその喜びや興奮が伝わってくる。ぼく自身はオークションで手に入れたことはないけれど、好きな作家のいい作品を手に入れることができた時の喜びはよくわかる。見つけた時の興奮がもしかしたらいちばん大きいのかもしれない。
 気にいった作品を手に入れたい間近でみたい、そんな夢が高じて「空想美術館」なんてことを語る人もいる。あの名作とこの傑作と、それとこれを集めまとめて、そうしてそれだけを展示して親しい人に紹介する、またはひっそりと自分だけで鑑賞する、そんなことを。
 そういう豪華主義はないけれど、昔、主には1970、80年代に購入した作品をその後手放したものも含めて、全部まとめて飾ってみたい、時には興味のある人とあれこれ語ってみたい、そういう気持ちにはなったりする。そういう時は、グラス片手に話すのは、作品や表現としてのあれこれでなく、いつどこでどんなふうに出あったか、そうしてどんな苦労をして手に入れたか・・・・などなど虚実交えての話になるのだろう。
 当時は貧しいサラリーマンだったから買うのは版画が多かった。そもそも画廊に行くようになったのは無料で個展が見れるからだった。だから今思うと噴飯ものだけれど、画廊が絵の商いをやっているところだとも気づかなかった。ちょっと信じがたいけれど「ただで見れてラッキー」でしかなかった。そのうち、有元利夫の版画作品集を欲しいと思って、当時から有元の画廊だった弥生画廊に行ったら、その画集はあのギャラリーにあるだろうと教えてもらって、そこに行くと、それはもうないけれど別の有本の版画がある、ということでそれを買うことになり、それが購入の最初になった。
 画廊が商品を売り買いしているところだとわかってきて、残念ながら見る目がかわったのは事実だ、しょうがない。欲しいと思うときはすごくシビアになる。もちろん値段は気になるし作品もただ「好き」とはいってられなくて、「客観的な評価」を考えたりしてしまう。とても好きになるものは、一瞬で好きになるというのが多いから迷わないけれど、わりと好き・・・どうしようか・・・といったときが困る。そういう時に限って画廊や人はあれこれいって惑わせるし、押しつけてくる、見栄、みたいなこともでてくる、やれやれだ。でもぼくが行っていたところは有名高額作家的なものを扱う画廊じゃないから、値段も含めフランクでのんびりしていた。お茶をいただきながらあれこれしゃべって、分割にした作品の代金を1万くらい払って、そのうち自分の手元に来るだろう作品をながめたりしていた。
 今も残っているのはそう多くはない。お決まりどうり生活に困って少しずつ手放してきた。そういう作品のことを、死んだ子の年を数えるみたいに思い続けたり、後悔が膨れあがって夜寝れなくなる・・・なんてことは幸いにもなかった、それほどの大傑作は当然だけれどお金がなくて手に入れられなかった。貧しさが助けになることもある。


菜園便り349 2018年9月7日
フルニエと海辺のカフカ

 十年以上、毎日毎日聴いていたモーツァルトクラリネット協奏曲』をいつのまにか聴かなくなっていた。そのことに気づくのにもずいぶん時間がかかった。こんなに毎日聴いていて嫌にならないんだろうかなんて思いながら、毎朝毎朝、新鮮な気持ちで口ずさんだりしながら聴いていた。聴いてないことに気がついたときはびっくりしたけれど、いろんなことがおっくうになってしまった時だったから、ああそんなもんかと納得したような、諦めたような。不思議なのはまた聴き始めなかったことだ。飽きたとか嫌になったとかいうことはまったくなかったのに。
 それから特に決まって朝に聴く曲というのはなくなった。プレイヤーに入ったままのをそのままスイッチを入れて聴く、といったことになっている。よく入っているのはバッハ『無伴奏チェロ』で、これは去年の古本市の後にもらったもの。「フルニエですが」といわれて渡された。フルニエですが、知ってますか?フルニエですが、いいですか?そういったニュアンスだったのだろうか。無伴奏はこの演奏家、と決めている人は少なくない。「『海辺のカフカ』を読んだ人はみんなフルニエを知っています」と答えたような、答えなかったような。とにかくその時そう思ったから記憶に残ったのだろう。あの小説のなか、喫茶店でかかっている曲、「ハイドンの協奏曲、1番。ピエール・フルニエのチェロです」としてでてくる。
 『海辺のカフカ』のなかで、音楽を聴いて、また音楽の喜びや力を語る店主の話を聞いて、青年が(星野くんだ)、後にCDを買ってじっくり聴く展開になるのは『ピアノ・トリオ(大公トリオ)』。演奏はルービンシュタインハイフェッツ=フォイアマン。店主は国家公務員を退職してから80年代以降に喫茶店を開いたという設定らしく、どこか時代からも世界からも降りている人で、店も古風な純喫茶然として商店街の奥にひっそりと開いている。
 音やそれを連ねた音楽は、人をどこかへ連れていく。そんな大げさなことをいわなくても、喜びや感傷が、時には感動や哀しみが突き刺さるほどにも迫ってくるのを誰もが知っている。嫋々としてとか、惑溺するとか、そんなどこか怪しげな気配も漂う、ひとりで深夜に聴いている、そんなときに。大きなホールでとか、まして野外でマーチやシンフォニーを聴いて勇気凛々、さあ敵を倒すぞ、なんてことではなくて。
 星野くんに問われて、もうひとり答える人がいる、図書館の大島さんだ。音楽は人をがらっとかえてしまう、まるで組成がかえられてしまうように、と断言する。喫茶店の店長よりずっと若い人として、まだまだ様々な問題のまんなかに放り込まれて振り回されている人として。
 あれから高松を脱出して(脱出できたのだろうか)星野くんはどこへいったのだろう、それよりなによりあのナカタさんはどうしているのだろう。猫と話せなくなった老人に未来はあるのだろうか。そもそも未来ということばは、どこを指しているのだろう。

 

菜園便り349特番 9月7日
フルニエと海辺のカフカ

 十年以上、毎日毎日聴いていたモーツァルトクラリネット協奏曲』をいつのまにか聴かなくなっていた。そのことに気づくのにもずいぶん時間がかかった。こんなに毎日聴いていて嫌にならないんだろうかなんて思いながら、毎朝毎朝、新鮮な気持ちで口ずさんだりしながら聴いていた。聴いてないことに気がついたときはびっくりしたけれど、いろんなことがおっくうになってしまった時だったから、ああそんなもんかと納得したような、諦めたような。不思議なのはまた聴き始めなかったことだ。飽きたとか嫌になったとかいうことはまったくなかったのに。
 それから特に決まって朝に聴く曲というのはなくなった。プレイヤーに入ったままのをそのままスイッチを入れて聴く、といったことになっている。よく入っているのはバッハ『無伴奏チェロ』で、これは去年の古本市の後にもらったもの。「フルニエですが」といわれて渡された。フルニエですが、知ってますか?フルニエですが、いいですか?そういったニュアンスだったのだろうか。無伴奏はこの演奏家、と決めている人は少なくない。「『海辺のカフカ』を読んだ人はみんなフルニエを知っています」と答えたような、答えなかったような。とにかくその時そう思ったから記憶に残ったのだろう。あの小説のなか、喫茶店でかかっている曲、「ハイドンの協奏曲、1番。ピエール・フルニエのチェロです」としてでてくる。
 『海辺のカフカ』のなかで、音楽を聴いて、また音楽の喜びや力を語る店主の話を聞いて、青年が(星野くんだ)、後にCDを買ってじっくり聴く展開になるのはベートーヴェン『ピアノ・トリオ(大公トリオ)』。演奏はルービンシュタインハイフェッツ=フォイアマン。店主は国家公務員を退職してから80年代以降に喫茶店を開いたという設定らしく、どこか時代からも世界からも降りている人で、店も古風な純喫茶然として商店街の奥にひっそりと開いている。
 音やそれを連ねた音楽は、人をどこかへ連れていく。そんな大げさなことをいわなくても、喜びや感傷が、時には感動や哀しみが突き刺さるほどにも迫ってくるのを誰もが知っている。嫋々としてとか、惑溺するとか、そんなどこか怪しげな気配も漂う、ひとりで深夜に聴いている、そんなときに。大きなホールでとか、まして野外でマーチやシンフォニーを聴いて勇気凛々、さあ敵を倒すぞ、なんてことではなくて。
 星野くんに問われて、もうひとり答える人がいる、図書館の大島さんだ。音楽は人をがらっとかえてしまう、まるで組成がかえられてしまうように、と断言する。喫茶店の店長よりずっと若い人として、まだまだ様々な問題のまんなかに放り込まれて振り回されている人として。
 あれから高松を脱出して(脱出できたのだろうか)星野くんはどこへいったのだろう、それよりなによりあのナカタさんはどうしているのだろう。猫と話せなくなった老人に未来はあるのだろうか。ふたりは名古屋近郊で祖父と孫として暮らしながら、時々は映画館や水族館にも行っているのかもしれない。


2018年
菜園便り350 
10月1日

 先月号の「芸術新潮」の特集が「新しい三十六歌仙」だったので、気になって開いてみると、額田王から始まった36人の最後がなんと塚本邦雄だった。そうか、彼の人ももう歴史上の人物なのかと驚きつつ、「超前衛」も半世紀たって誰もの愛唱歌になったのかとも思ったりする。
 そうだろうか。
 最初に出会ったのは1971年、それは友人の部屋のドアに貼りつけて残されていたという
ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春 <日本人霊歌>だった。
 とにかくかっこよかった。伝統的定型詩つまり保守的で画一的としか思っていなかった短歌に***(アステリスク)が入っているし、通俗の極みみたいな「さらば青春」なんてことばを平気で使い、しかもきちんと抒情を成立させ、どこかしら強く惹きつける力もあって驚かされた。なんというか哀しみとでもいうものすらにじんでいた。小さな店頭、明るい色の軽やかな生地、まだまだきちんとした服は仕立てる時代であり、夏物冬物間物と揃えていた時代だったのだ。
 それから折にふれ読んでいった。
革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ  <水葬物語>
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋わば人あやむるこころ <感幻楽> 
固きカラーに擦れし咽喉輪のくれないのさらばとは永久に男のことば  <感幻楽>
シェパードと駆けつつわれに微笑みし青年に爽やけき凶事あれ  <水銀伝説>
蕗煮詰めたましいの贄つくる妻、婚姻の後千一夜経つ <緑色研究>
あれこれ愛唱するようになった。読み解くようになった、というほうがあたっているかもしれないけれど。
 久しぶりに引っ張り出してきた歌集などをめくっていると、こんな歌にぶつかった。ああ、塚本もこういうことも歌っていたのかと納得させられる。
屠殺者の皮の上着に春の雪にじめり重き慈愛のごとく  <装飾楽句>
 特集にとりあげられて載っていたのは、<日本人霊歌>のなかの    
日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも   
 短歌には調べがあり、歌謡曲にはメロディーと感傷的な歌詞があるから、人の心にくいこんでくるのだろうか。


菜園便り351
2019年2月15日
 今年は旧の正月が2月5日だった。父が必ず祝っていたので、ぼくも旧正月の元旦だけはお雑煮をつくる。父が正月や盆のあれこれにうるさかったのは、自分の出自である東郷の実家が季節の行事をきちんと祝っていたからだろう。それを引き継ぐ気持ちがあり、それは養子に来た安部家に新しい伝統をつなぐことであり、どこかに対抗意識もあったのかもしれない。それはずいぶんと父の手が入れられた、父の様式になっているものなのだろう。ぼくは儀式や家庭内の行事にどこかでうっとりするところがあって、それで正月や盆は父の流れを受け継いだのかもしれない。
 餅が好きなこともあって正月3が日は必ずみんなで雑煮を食べるという習慣は、先ず、父だけは3ヶ日食べる、になり、父なき後はぼくは元旦だけいただく、になった。おせち料理の数もだんだん少なくなり、今年は黒豆といただいた数の子だけになった。雑煮も、当日に出汁をとり、具材も鶏肉と大根、人参だけだった。
 1月に、認知症の妻とそれを看る95歳の夫を撮ったドキュメンタリー映画に感動しせつなくなったせいか、いろいろに父のこと、介護のことなどが思いだされてしまう。ほんとはどこかにしまい込まれたままだんだん消えていってほしいことだけれど、やっぱり大きなできごとだったのだろう、いつもどこかに見え隠れしていて、こういう時にどっと溢れてくる。
 なにをどうやっていいのかもわからず、行政のやる講座などにも通ったけれど、先ずいわれたのは「完璧な介護などはないし、そういったことを目指さないでください、介護する側が倒れてしまいます」というものだった。それはストンと納得できた、ああ、そういうふうに考え対応するのか、と。でも結局どうやっても後悔は残ってしまう。愛が深すぎても足りなくても、十分な介護をしなかった、できなかった、と。もっとやさしくできただろうに、もっとなんでもやらせてあげればよかった、と。1グラム単位でタンパク質を計量して食事を作るより、好きなものをだせばよかった、と。まるで懺悔するように悔い、罪の意識に囚われる、そういうことは介護だけでなく人が生のあらゆる場面ででくわすことだ。愛にも死にも、人が心から納得できることはないのだろう。
 いつのまにか沈丁花が開いて、縁側に甘い香を送ってきている。一瞬も止まらずに時は動き、季節は巡っていく。


菜園便り352
2019年3月27日 

海側の庭に次々と小さな松が芽を出して伸びている。中心にあったいちばん大きな松が1昨年に倒れたこともあるのだろうか。残り2本の50年をこす松も元気とはいえない状態だ。以前は海だったこんな砂地に芽吹き育っていくと思うと、感動すら生まれる。数センチの小さなものからひょろりと人の背丈くらいのものまでが古い松の周りに伸びている。
 直接降りかかる海からの潮に赤茶けながらも、葉を落としてはまた少しずつ大きくなっていく。駐車場のすぐそばでもあり、以前、人の出入りの多い時に赤いリボンをそれぞれの松に結び付けて注意を促した。気をつけてくださいね、踏んだり折ったりしないようにお願いしますよ、そんな気持ちだった。そういうのはなんだか過剰な愛情にもみえるようで、友人たちの微苦笑を誘ったようだ。
 古い松が松くい虫にやられているようだから、次の世代への交代が始まっているのかもしれない。蝕まれ枯れていく世代の真下、新しい世代も不安定な弱々しさのなかに放りだされつつ、でも今後を担っていく力もみせている、健気さや小さなエネルギーの放射も感じられる。
 松林などでも小さな芽が一面に出ているから、ここでも今まで気づかなかっただけなのかもしれない。長かった3本松体制の安定が壊れ、慌てて次が発芽しているのだろうし、1本が欠けて陽あたりがよくなり伸び始めたのだろう。
 陽が陰ったり、陽が当たるようになったりで、がらりと植生はかわっていく。海側の大屋根と接するくらい近くにあるカイヅカイブキは、離れが解体されると一気に伸びて幹も太くなり、すぐ横の楓を陰に追んでとうとう殺してしまった。根元の沈丁花は1メートル以上も海側に枝を伸ばして光を受け止め、どうにか生き残ろうとしている。
 強風や台風の時に舞い上がり吹きつける潮に柔らか野菜や花、木々の葉ははたちまちに黒ずんで朽ちていく。新しい植木は風や潮を避けるよう大きめの木々の陰に植えるのだけれど、そうすると陽があまりあたらなくなる。そのせいか、試みた数種の柑橘系も?梅も育たなかった。かろうじて生きている柿は植えてからもう十年以上同じ大きさのままだ。建物ぎりぎりに植えて潮に対処した桜やビワも、結局は3年ほどで大きな台風の時の潮で潰えてしまった。
 大きめの雑木の陰に植えた楠はびっくりするほどぐんぐん伸び続けたけれど風よけになっていた木々の高さに達するとぴたりと伸びが止まって驚かされた。みんな必死に周りの環境を感知し、対応しながら生き続けている。荒れたままの庭にもささやかな栄華盛衰があり、諸行無常がくり広げられている。

 

 

 

2018年
菜園便り350 
10月1日

 先月号の「芸術新潮」の特集が「新しい三十六歌仙」だったので、気になって開いてみると、額田王から始まった36人の最後がなんと塚本邦雄だった。そうか、彼の人ももう歴史上の人物なのかと驚きつつ、「超前衛」も半世紀たって誰もの愛唱歌になったのかとも思ったりする。
 そうだろうか。
 最初に出会ったのは1971年、それは友人の部屋のドアに貼りつけて残されていたという
ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春 <日本人霊歌>だった。
 とにかくかっこよかった。伝統的定型詩つまり保守的で画一的としか思っていなかった短歌に***(アステリスク)が入っているし、通俗の極みみたいな「さらば青春」なんてことばを平気で使い、しかもきちんと抒情を成立させ、どこかしら強く惹きつける力もあって驚かされた。なんというか哀しみとでもいうものすらにじんでいた。小さな店頭、明るい色の軽やかな生地、まだまだきちんとした服は仕立てる時代であり、夏物冬物間物と揃えていた時代だったのだ。
 それから折にふれ読んでいった。
革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ    <水葬物語>
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋わば人あやむるこころ     <感幻楽> 
固きカラーに擦れし咽喉輪のくれないのさらばとは永久に男のことば  <感幻楽>
シェパードと駆けつつわれに微笑みし青年に爽やけき凶事あれ  <水銀伝説>
蕗煮詰めたましいの贄つくる妻、婚姻の後千一夜経つ     <緑色研究>
あれこれ愛唱するようになった。読み解くようになった、というほうがあたっているかもしれないけれど。
 久しぶりに引っ張り出してきた歌集などをめくっていると、こんな歌にぶつかった。ああ、塚本もこういうことも歌っていたのかと納得させられる。
屠殺者の皮の上着に春の雪にじめり重き慈愛のごとく  <装飾楽句>
 特集にとりあげられて載っていたのは、<日本人霊歌>のなかの    
日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも   
 短歌には調べがあり、歌謡曲にはメロディーと感傷的な歌詞があるから、人の心にくいこんでくるのだろうか。